徐誼
徐誼、字は子宜、また一字は宏父、温州の人である。乾道八年の進士となり、累官して太常丞となった。孝宗の御宇が久しく、事はすべて上裁により決し、執政はただ旨を奉じて行うのみで、群下は多く恐懼して顧望した。誼は諫めて言うには、「もしこのようであれば、人主は日に聖となり、人臣は日に愚となりましょう。陛下は誰と功名を共にされましょうか」と。また楽制について論じたとき、誼は「宮が乱れれば荒れ、その君は驕る。商が乱れれば陂き、その臣は壊れる」と答えた。上はたちまち顔色を改めて言うには、「卿は官をもって自ら惰けずと言えよう」と。
徽州の知州となり、陛辞の際、光宗が初めて禅を受けたことに属して、誼は奏上した。「三代の聖王には、至誠はあっても権術はなく、至誠が止まなければ、天徳に達することができます」と。郡に至ると、歙県に妻が夫を殺して獄に繋がれ、五歳の女児を証拠とする事件があった。誼は疑って言うには、「婦人の一撃で人を死に至らしめることがあろうか」と。緩めて未だ覆さなかった。時に郡が実税を庭で究めることとなり、死者の父母と弟がそこにいた。彼らは言うには、「我が子は租を長く滞納して繋がれ、飢えて大声をあげたところ、役人が手を出し、水に落ちて死にました」と。こうして冤罪の者が釈放され、吏はみな罪に坐し、郡中これを神の如く思った。提挙浙西常平に移り、右司郎中を守り、左司に遷った。
孝宗の病が次第に重篤となり、上(光宗)は長く定省を怠っていた。誼は入って諫め、退いて宰相に告げて言うには、「上は慰めて受け入れ従容としておられますが、目は見開いたまま瞬きせず、意思は恍惚としておられます。真の病です。郊廟に祈り、皇子嘉王を進めて参決させられるべきです」と。丞相留正は用いることができなかった。
孝宗が崩御すると、上(光宗)は喪に服することができず、祭奠に祝文があっても、有司は敢えて代行せず、百官もみな喪服を着けなかった。誼は少保呉琚と議し、太皇太后の臨朝を請い、嘉王を扶けて代わりに祭らせることを求めた。禫祭(除服の祭)を将にしようとしたとき、留正は憂懼して、殿庭に仆れて去った。誼は書を以て趙汝愚を譙めて言うには、「昔より人臣は忠ならば忠、姦ならば姦であり、忠姦が雑って事を成す者は、未だこれあらざるなり。公は内には心惕れども、外には坐観せんと欲す。雑というに非ずや。国家の安危、この一举に在り」と。汝愚は策の出づる所を問うと、誼は言うには、「この大事は、憲聖太后の命なくしてはならぬ。而知閤門事韓侂胄は、憲聖の戚なり。同里の蔡必勝は侂胄とともに閤門に在り、必勝を因って彼を招くべし」と。侂胄が至ると、汝愚は内禅の議を以て侂胄を遣わし憲聖に請わせた。侂胄は内侍の張宗尹・関礼を通じて汝愚の意を伝え、憲聖はこれを許した。
寧宗が即位すると、誼は検正中書門下諸房公事兼権刑部侍郎に遷り、権工部侍郎・知臨安府に進んだ。侂胄は功を恃み、賞の薄いことを以て次第に不満を抱いた。誼は汝愚に告げて言うには、「後日必ず国の患いとならん。その欲を飽かせて遠ざけるべし」と。聞き入れられなかった。
汝愚は平素より誼を器とし、除授や建言の多くを諮問した。誼は事に随って補助し、形跡を避けず、怨む者が始めて多くなった。かつて汝愚に早く退くよう勧めた。汝愚もまた自ら請うて言うには、「名は属籍に在り、久しく揆事(宰相の職務)を司るべからず。願わくは阜陵(孝宗の山陵)の事が終わるを以て去らん」と。寧宗はすでにこれを許していた。侂胄が禁中に出入りするに度を失うと、誼は密かに汝愚に啓し、これを防ぐ計りなく、ついに侂胄を直に面して諷した。侂胄は己を排せんとするかと疑い、まず誼を謁し、退いて装いを整え、誼が返礼に来ることを期待し、留めて殷勤を通じようとしたが、誼は行かなかった。
吏部侍郎彭亀年が侂胄の罪状を論じると、侂胄は汝愚と誼がその内情を知っていると疑い、ますます怨恨した。御史劉徳秀・胡纮に誼を疏劾させ、惠州団練副使に責められ、南安軍に安置された。袁州に移り、また婺州に移った。久しくして、自便を許された。官を復し、提挙崇道観となり、起用されて江州を守り、集英殿修撰を加えられ、宝謨閣待制に昇り、建康府知事に移り、江淮制置使を兼ねた。初め、金が廬州・楚州を攻め落とせず、兵を留めて濠州を綴ぎ和を待ち、時々鈔掠し、宋軍と遭遇して殺傷相半ばした。淮人は大いに驚き、また迸流して江南に至り、建康に在る者は数十万を数えた。誼は昼夜撫循し、ますます備禦を厳しくし、専ら敵を捍ぐことを請い、中(朝廷)から御(統制)するに従うなと求めた。朝廷は事を生ずるを懼れ、隆興府知事に移して卒した。
誼はかつて紹興の老将と接し、行陣の法、分隊の数、奇正の術について、すべて指授するところがあり、自ら図式を作った。後に「忠文」と諡された。
呉獵
呉獵、字は徳夫、潭州醴陵の人である。進士に登第し、初め潯州平南の主簿となった。時に張栻が広西を経略し、檄を以て静江府教授を摂ねさせた。劉焞が栻の代わりとなると、栻は獵を推薦し、本司準備差遣に辟した。
賊の李接が起こり、容・雷・高・化・貴・鬱林などの州を陥れた。獵は賞労と誅罪とを請うた。焞はここにおいて鬱林の功を録し、南流県尉と鬱林巡検を誅した。人々は驚厲し、争って死闘し、時を過ぎずして、賊はことごとく擒えられた。県尉は宰相王淮の甥であったため、獵は坐して官を降とされた。久しくして、常州無錫県の知県となった。陳傅良の推薦により、召されて試され、正字を守った。
光宗が病により久しく重華宮に覲えずにいた。獵は上疏して言うには、「今、慈福宮には八十の大母(太皇太后)がおられ、重華宮には垂白の二親(太上皇・太上皇后)がおられます。陛下はこの時に当たり、安否を問い寿を上り、子の職を恪んで勤められるべきです」と。言葉は甚だ切であった。また宰相留正に白し、朱熹と楊万里を召すことを乞うた。時に陳傅良は過宮(重華宮行幸)の事を言って行われず、去らんと求めた。獵はこれを責めて言うには、「今、安危の機は判然として見える。未だ裾を牽き檻を折るの士あるを聞かず。公がこの時にあって奮発し、士大夫の先導となることなく、ただ潔身して去らば、国に何の益かあらん」と。傅良は顔色を改めてこれに謝した。
長い時が経ち、党禁が緩むと、広西転運判官として起用され、戸部員外郎・総領湖広江西京西財賦に除せられた。韓侂冑が辺境開拓を議論すると、羅點は当路(権力者)に書を送り、義士を召集して辺境を守らせ、子弟を徴募して軍備を補い、棗陽・信陽の守備を増強して衝突に備え、陽羅五関に分屯して武昌を防衛し、越境しての誘引や窃盗を杜絶して辺境の隙間を厳重にし、良家の子弟を選抜試験して府庫を守衛するよう請うた。かつて言った。「金人は紹興末年の敗北を懲りて、今その来寇は必ずや荊州・襄陽を出て湖を越えよう。」そこで湖南の米を襄陽に輸送し、凡そ五十万石に及んだ。また湖北漕司の和糴米三十万石を荊州・郢州・安州・信州の四郡に分輸した。銀帛を百万単位で蓄積して進討に備えた。董逵・孟宗政・柴發らを抜擢して要郡に配し、その後彼らは皆名将となった。
召されて秘書少監に除せられ、まず辺境の事を陳述し、光州・鄂州・江州・黄州の四郡の守備を増やすよう請うた。江陵が飢饉を告げたため、秘閣修撰・主管荊湖北路安撫司公事・知江陵府に除せられた。陛辞の際、大農(国庫)から十万緡を出して飢えた者を救済するよう請うた。武昌を通るとき、人を遣わして商人を招き分かち買いさせた。郡に着くと、価格を下げて売り出し、米価を平準にした。
羅點は、金が襄陽を攻めれば荊州が重鎮となると考え、かつての「高氏三海」を修復し、金鸞・内湖・通済・保安の四つの貯水池を築き、上海に通じて中海に注がせた。拱辰・長林・薬山・棗林の四つの貯水池は、下海に通じた。高沙・東獎の流れを分け、寸金堤の外を通って南紀・楚望などの門を経て、東は沙市に集まり南海となった。また赤湖城の西南で走馬湖・熨斗陂の水をせき止め、西北に李公匱を設け、水勢が四方から合流して、戎馬(敵軍)を阻むことができた。
金人が襄陽・徳安を包囲し、遊騎が竟陵に迫ると、朝廷は羅點に本路兵馬を節制するよう命じた。羅點は張栄に兵を率いさせて竟陵を救援させ、また神馬陂の潰走兵を招集して一万人を得て、襄陽と徳安を分かち救援させた。宝謨閣待制・京湖宣撫使を加えられた。
この時、金人が再び竟陵を犯し、張栄はこれに戦死し、襄陽・徳安ともに危急となった。呉曦が俄かに蜀で反逆し、警報が届くと、羅點は魏了翁に参議官を摂行させ、西の事情を諮問し、死士を募って竟陵に入らせ、その将王宗廉に死守を命じ、大軍および忠義軍・保捷軍を調発して分道から挟撃させたので、金人は遂に去った。また董逵らを督して徳安を救援させ、董世雄・孟宗政らは襄陽の包囲を解かせた。
西の事変が正に殷(盛ん)であったとき、羅點は反逆討伐の計を立て、朝廷に請うて、王大才・彭輅に西の事変を担当させ、なお兵を分けて均州・房州の諸険要を守らせ、糧秣を帰州・峡州に輸送して王師を待った。呉曦が誅殺されると、刑部侍郎に除せられ、四川宣諭使を充てた。朝廷は善悪を区別して表彰するよう命じた。敷文閣学士・四川安撫制置使兼知成都府に任ぜられた。嘉定六年に召還され、卒した。家に余財はなかった。蜀人はその政を思い、画像を描いて祠った。
羅點は初め張栻に学び、乾道初年、朱熹が潭州で張栻と会したとき、羅點はまた直接教えを受け、湖湘の学問が一貫して正統に出たのは、羅點が実にその表率となったのである。『畏斎文集』・奏議六十巻がある。諡は「文定」。
項安世
寧宗が即位し、詔して言を求めた。項安世は詔に応えて言上した。
「管夷吾が斉を治め、諸葛亮が蜀を治めたとき、立国の根本は、ただ『地を量って賦を制し、賦を量って用を制する』と言うに過ぎません。陛下、試みに輿地図を開いてご覧ください。今の郡県の数は、祖宗の時代に比べてどちらが多いか少ないか。秦・漢・隋・唐の時代に比べてどちらが多いか少ないか。陛下は必ずやその狭くかつ少ないことを自らご存知でしょう。試みに版曹(戸部)に命じて一年の賦税収入の数を具えさせてください。祖宗の盛時、東南の賦税収入はどれほどか。建炎・紹興以来から乾道・淳熙に至るまで、その増徴した分はどれほどか。陛下、試みに内外の群臣有司に命じて一年の費用を具えさせてください。人主の供奉・好賜の費用はどれほどか。御前の工役・器械の費用はどれほどか。嬪嬙・宦寺の俸給の費用はどれほどか。戸部・四総領の養兵の費用はどれほどか。州県の公使・迎送・請給の費用はどれほどか。陛下は必ずやその贅沢でかつ濫費であることを自らご存知でしょう!用が賦を量らずして贅沢濫費に至れば、内外上下の蓄積は空にならざるを得ず、天地山川の蔵(資源)は枯渇せざるを得ません。痛みを忍び誹謗に耐え、一挙してこれを更張しなければ、その終わり方を知る由もありません。
今、天下の費用で最も重く、省くべきは兵です。土着の兵を用いれば兵は省け、屯田を用いれば兵は省けます。次に省くべきは宮掖(宮中)に如くはありません。兵は敵国に備えるもので、常に畏れて省くことを敢えてしないので、兵を省くのは難しい。宮掖は一身の私のためであり、常に愛して省くに忍びないので、宮掖を省くのは難しい。敢えて省かないのは、事が他人にあるからです。忍んで省かないのは、陛下にあるからです。宮中の嬙嬪・宦寺は陛下の事であり、宮中の器械・工役は陛下の事です。陛下が省こうとされれば省かれるのです。宮中が既に省かれれば、外廷の官吏、四方の州県は風に従って省き、奔走して暇がなく、簡朴が風となり、民の志は堅固に定まり、民の生計は日に厚くなり、水旱蝗虫の災害があっても生き延びられます。国力は日に壮んになり、夷狄盗賊の変があっても対処できます。祖宗の業を復し、人神の憤りを雪ぐことは、ただ我が為すところ、不可能なことはありません。」
時に朱熹が召されて闕下に至ったが、間もなく祠官を授けられた。安世は館職を率いて上書し、彼を留めるよう言った。その言うところは、「御筆をもって朱熹に宮祠を除するにあたり、宰執を経ず、給舎を通さず、径かに快行を使い、直ちに朱熹の家に送った。窃かに聖意を推し量れば、必ずや朱熹の賢にして去らしむべからざるを知りながら、宰相これを見れば必ず執奏し、給舎これを見れば必ず繳駁すべしと知り、故にこの駭異変常の挙に出たのであろう。そもそも人主の患いは賢を知らざるにあり。明らかにその賢を知りながら明らかにこれを去らしむるは、天下に復た賢を用いざるを示すものである。人主の患いは公議を聞かざるにあり。明らかに公議の不可なるを知りながら明らかにこれを犯すは、天下に復た公議を顧みざるを示すものである。かつ朱熹はもと一庶官に過ぎず、二千里の外に在った。陛下即位より数日も経たず、すなわち召しを加え、従官を授け、経幄に侍らしめた。天下皆、初政の美事と為す。供職わずか四十日にして、すなわち内批をもってこれを逐う。挙朝驚愕し、措くところを知らず。臣願わくは、陛下に紀綱を謹守し、公議を忽せにせず、朱熹を復た留めて聖学を輔けしめられんことを。然らば則ち人主に失なく、公議尚ほ存せん」と。報いず。間もなく言事者に劾せられて去り、重慶府通判に任ぜられたが、拝命せず、偽党の罪に坐して罷免された。
安世は平素より呉獵と善くし、二人は学禁に坐して久しく廃されていた。開禧の用兵に際し、獵が起用されて荊渚を帥い、安世は丁内艱に服していた。起復して鄂州知州となった。間もなく淮・漢の師が潰え、薛叔似が怯懦を以て侂冑に憎まれると、安世は侂冑に書を送り、その末尾に「偶々客を送って江頭に至り、竹光酒を飲み、半酔いのため、字を成さず」と記した。侂冑は大いに喜んで「項平父はかくの如く閑暇なり」と言い、遂に戸部員外郎・湖広総領に除した。
ちょうど叔似が罷免されると、金が徳安を囲んでますます急となり、諸将は所属するところがなかった。安世は朝命を待たず、径かに兵を遣わして囲みを解かせた。高悦らは金人と力戦し、馬雄は万戸を、周勝は千戸を捕らえた。安世はその功を等級づけて上聞した。獵が叔似に代わって宣撫使となり、間もなく宣諭使として蜀に入った。朝命により安世は宣撫使を権め、さらに太府卿に昇った。
薛叔似
薛叔似、字は象先、その先祖は河東の人であったが、後に永嘉に移住した。太学に遊学し、解褐して国子録となった。初めて登対し、論じて言う、「祖宗が国を立てた初めは、二税の外、民から取ることは甚だ軽かった。熙寧以来、賦は日増しに増えて民の困窮はますます甚だしい」。孝宗は嘉納し、因って言った、「朕は宮中に在って一僧の如し」。叔似は言った、「これは陛下に望むところではありません。功業が如何なるかを論ずべきです。仮に海内が文景の如く富庶であっても、江左の文景に過ぎず、法度が明章の如く修明していても、江左の明章に過ぎません。陛下即位より二十余年、国勢未だ張らず、苟も安んじて事なきの説に牽かれるを免れません」。上は黙然とした。
数日を経て、宰執が朝士を擬進すると、上は寸紙を出して叔似及び応孟明の姓名を書き、その奏対を嘉した。太常博士に遷り、間もなく枢密院編修官に除された。時に唐制を倣い、補闕・拾遺を置き、宰臣が啓して、侍従・台諫に人を薦めさせようとしたが、上自ら叔似を左補闕に除した。叔似が事を論じ、遂に首相王淮を弾劾して去位させた。
時に金主が崩じ、太孫の景が立った。叔似は奏上した、「規模が果たして定まれば、則ち五単于が争って立つ機に乗ずべく、規模が存しなければ、則ち五胡が迭り起る勢いとなるを恐れます」。光宗が禅を受け、時に金使が入界するも使名が正しからずと伝えられた。叔似は奏上した、「寿皇が一たび匹敵の礼を正して以来、金人は常に南顧の憂いあり。使名正しからずして急にこれを受けるは、只その玩侮を重くするのみです」。翌日また奏上した、「国を謀る者は敵を畏れること過ぎます」。上は奮然として開き納れた。
将作監に除され、出て江東転運判官となった。間もなく諫臣の論奏により罷められ、沖佑観を主管し、尋いで湖北運判に除され、直秘閣を加えられ、福建に移り、召されて太常少卿兼実録院検討官・守秘書監・権戸部侍郎となった。初め、丞相周必大が侍従・台諫の忠直なる者を選んで太史局を提挙するよう請うた。これは神宗朝の司馬光と王安礼の故事を用い、躔度に少々の差あれば、予め図って銷弭せんとするためであった。遂に叔似を提挙に命じた。尋いで枢密都承旨を兼ね、劉徳秀の上疏により罷められ、興国宮提挙となった。起用されて贛州知州となり、隆興府・廬州に移り、召されて在京宮観兼侍読に除され、進んで権兵部侍郎兼同修国史兼国用司参議官となった。両浙の民に身丁銭あり、叔似は朝廷に請い、遂にこれを蠲免させた。
吏部侍郎兼侍読を試みられ、京・湖宣諭使を充てた。時に韓侂冑が辺境を開き、兵部尚書・宣撫使に除された。叔似が官会の給降を乞い、綱運を分撥し、兵を募り馬を売り、僚佐を辟致しようとしている間に、皇甫斌の唐州の師は既に敗れていた。遂に斌を弾劾し、南安軍に安置した。叔似は敵必ず光・黄を侵すと料り、総領陳謙に五関を巡行させ、鄂卒を発して三関を守らせた。金は果たして入寇し、謙は漢陽に駐屯して江左の節制とした。
尋いで叔似を端明殿学士兼侍読に除した。時に宣司の兵は襄陽に戍り、都統趙淳・副統制魏友諒と統制呂渭孫が互いに譲らず、渭孫はこれに死した。叔似は遂に自ら委任失当を劾した。叔似は夙に功業を以て自ら期していたが、事に臨むに及んで、絶えて称すべきところ無し。御史王益祥の論奏により、職を奪われ祠官を罷められた。侂冑が誅せられると、諫官葉時が再び論じ、両官を降格され、福州に謫せられた。兵端を開いたこと、叔似が迎合した故である。久しくして、自便を許された。嘉定十四年に卒し、銀青光禄大夫を贈られ、諡して「恭翼」とされた。
叔似は朱熹を雅に慕い、道德性命の旨を窮め、天文・地理・鐘律・象数の学を談じ、稿二十巻あり。
劉甲
金に使いし、燕山に至ると、伴宴の完顏某が、その名が仁廟の嫌諱に犯すため、甲は力辞し、完顏は名を修に改めた。紹興以後、凡そ疆を出でて忌日に遇えば、皆設宴を辞したが、免れることはできなかった。秦檜の定めたところである。九月三日、金が甲を宴するにあたり、宣仁聖烈后の忌日のため辞した。還って司農少卿に除され、太常に進み、権工部侍郎に擢てられ、同修撰に昇り、宝謨閣待制に除され、江陵府知府・湖北安撫使となった。甲は言う、「荊州は呉・蜀の脊なり。高保融が江流を分かち、これを瀦えて北海と為した。太祖は常にこれを決去せしめられた。蓋し江陵の要害を保つためなり」。即ち遺址に因りて浚築し、四十里に亘った。廬州知州に移った。
程松が四川宣撫使となり、呉曦がその副使となり、甲を興元府知事・利東安撫使に任じた。当時、蜀口からの出師は敗北し、金が西和・成州を陥落させ、曦は河池県を焼いた。先に、曦は既に姚淮源を遣わして四州を金に献じており、金は印を鋳造して曦を蜀王に立てた。甲は当時漢嘉におり、任地には至っていなかった。金人が大散関を破り、興元都統制の毋思が重兵をもって関を守ったが、曦は密かに驀関の守備を撤去し、金は板岔谷から回り出て関の背後に現れ、思は身一つで逃れた。
甲は朝廷に急を告げ、両宣撫司に協力して防禦するよう下命を請うた。松は逃亡を謀り、甲は固く引き留めて許さず、松はすぐに便宜により甲に沿辺制置を兼務させる檄を発した。曦は後軍統制の王鉞・準備将の趙観を遣わし、書状をもって甲に伝えさせたが、甲は大義を援用してこれを拒絶し、病に臥した。曦はまたその弟の文を遣わして甲に会見を求めたが、甲は叱りつけて追い返した。そこで顔真卿の河北における故事を援用し、自ら抜け出して朝廷に帰ろうとし、先に兵士二人を募り帛書を持たせ、参知政事の李壁に変事を告げさせ、かつ言った、「もし呉総を右職として四川に入らせれば、即日に瓦解させることができましょう」。
曦が王位を僭称すると、甲は遂に官を去った。朝廷は久しくしてようやく曦の反状を微かに聞き知ったが、韓侂冑はなおこれを信じず、甲の上奏が届くと、朝廷中が震駭した。壁が袖の中の帛書を進呈し、上はこれを見て、二度「忠臣」と称した。甲を行在に召し、呉総を雑学士として鄂州知事に任じ、多く告身・金銭を賜い、諸軍を招諭して入蜀の計をなさしめた。また帛書を賜って甲に命じた、「致仕を乞うたことは、実に允諾し難い。既に指揮を下し、行在に召すこととした。今、朝廷は既に使を遣わして金と通和し、襄・漢では近ごろ大捷し、北兵はことごとく既に江を渡って去った。蜀は遠くて知らないであろうことを恐れる。さらに事柄を審らかに計り、長い目で処置せよ」。二人の兵士は皆官に補された。
甲が船で重慶に至った時、安丙らが曦を誅殺したと聞き、再び漢中に戻り、上奏して罪を待った。詔して任に還ることを促した。甲は叛臣の子孫・族属および偽朝に附いた者の罪状を奏上し、公論はこれを快とした。時に宣撫副使の安丙は、楊巨源が自ら義挙の功を負うとして、密かにこれを除こうとし、その話は『巨源伝』にある。巨源が死んだ後、軍情は測り難く、甲を宣撫使に任じた。楊輔もまたこれを請うたが、国政を執る者は輔が事を避けていると疑い、李壁が言った、「昔、呉璘が病に罹った時、孝宗は密詔を以て汪応辰に宣撫司の事を代行させた。既にして璘は果たして死に、応辰は即日に印を領し、軍情は遂に安んじた。これが確かな先例である」。そこで密札を以て甲に命じ、甲はこれを鍵付きの箱に蔵めた。間もなく、金は鶻嶺関から金崖に駐屯し、進んで八里山に屯した。甲は兵を分けて諸関の守備を進め、潼川の戍兵を遮って饒風に駐屯させてこれを待った。金人は備え有るを知り、引き去った。
侂冑が誅殺されると、上は甲の精忠を思い、宝謨閣学士に任じ、衣帯・鞍馬を賜った。この年、和議が成り、朝廷は彭輅と丙が不和であると聞き、書を以て甲に問い、また丙に諭して諸軍の減汰を過度に行わぬようさせ、および蜀の人才で用いるべき者を訪ねさせた。楊輔が召し帰られて以来、西辺の諸事は、朝廷の議論は多く甲に決を取らせ、人知る者はなかった。
紹興年中、蜀軍に現存の糧食がなく、科糴を創始した。孝宗はその民を害することを聞き、総領の李蘩に命じて本所の銭で招糴させたが、不足を恐れ、またその半ばを勧糴せしめ、「勧糴」の名はここから始まった。久しくして、李昌図が総計となると、また奏して金・梁の守倅に責任を負わせて収糴させ、勧糴は遂に廃止された。この時、宣撫司・総領司は金・洋・興元の三郡に命じて小麥三十万石を勧糴させた。甲は総領所に下して李蘩の成法に照らして措置するよう請い、これに従った。
翌年、宣撫司を廃止し、利東・利西を合わせて一つの帥とし、治所を興元とし、甲を移して潼川府知事とした。安丙が同知枢密院事となった後、董居誼が制置使となり、甲は宝謨閣学士・興元府知事・利路安撫使に進み、本路の屯駐軍馬を節制した。朝廷は居誼がなお道中にあると計り、甲に権四川制置司事を命じた。
先に、蜀を撫する大臣に対して、諸将が仕えるに、いわゆる「互送礼」というものがあり、実は賄賂であった。甲は命を下してまずこれを罷め、丙の立てた茶塩柴邸を全て廃止した。また、皂郊の博易鋪場を沔戎司に還属させ、呉氏の荘園を通じさせて、歳に租四万斛余り、銭十三万を収め、総計を補うよう請うた。これに従った。丙が田税を増やしたので、甲は属吏に命じて討議させ、一府の言うところによれば、歳に凡そ百六十万緡・米麦一万七千石を減じ、辺民は感激して泣いた。嘉定七年、官において卒した。年七十三。
甲は幼くして孤となり多く難に遭い、母が病むと、股を切り取って進めた。平生常に言った、「我に他の長所はない。ただ足を実地に踏むのみである」。昼に行ったことは、夜必ずこれを書き記し、名付けて「自監」といった。文は平淡であり、奏議十巻がある。理宗は詔して「清恵」と諡した。
楊輔
呉挺が病むと、輔は呉氏が代々武興を帥いており、久しければ恐らく変が生じると、密かに二府に申し上げ、早く人望ある者を選んで方面を鎮めさせるよう言った。また四川制置の丘崈に書を送って言った、「統制官の李奭は呉氏の腹心であり、緩急の場合に軍権を委ねることはできません」。崈はこれを然りとした。挺が卒すると、崈は檄を発して輔に帥事を代行させようとしたが、輔は言った、「職は王の臣である。軽々しく赴けば、ただ軍心を疑わせるのみである」。遂に印を求め、即座に益昌で事務を領した。さらに数か月後、権興州事の楊虞仲に兼務させるよう奏上した。
秘書監・礼部侍郎として召され、顕謨閣待制として江陵府知事となり、襄陽に移り、また潼川に移った。召し還されて顕謨閣直学士に任じられ、外祠を奉じ、間もなく敷文閣直学士として成都府知事・兼本路安撫使となった。韓侂冑が決意して用兵し、呉曦を四川宣撫副使とし、財利を節制する権限を仮に与えた。輔は曦に異志有るを知り、大臣に書を送って言った、「昔から兵帥と計臣は互いに統轄せず、故に総領には発覚を報じ監察する権限があった。今、所在皆その節制を受けており、内憂軽からず」。因みに他事を託言し、人を遣わして礬書をもって朝廷に告げさせた。朔日には、官属を率いて東を望み、常の儀式の如く表を拝した。上は輔が曦を誅することができると考え、密詔を以て宝謨閣学士・四川制置使を授け、便宜従事を許した。当時、人々は輔が義挙を唱えることを望み、劉光祖・李道伝皆これを勧めた。輔は自ら兵事に習わず、かつ内郡に用いるべき兵が無いとして、二か月遷延し、ただ去る計らいのみをなした。曦は輔を移して遂寧府知事とし、輔は遂に印を通判の韓植に授けて去った。
安丙・楊巨源が密かに曦誅殺を謀り、輔に人望有るを以て、密詔は輔の所から来たと謂い、聞く者は皆信じた。曦が誅殺された後、丙は輔を促して成都に還らせ、四川宣撫使に任じた。奏上して言った、「臣は衰病軟懦でありながら、大功を建てた者の上に居るのは、ただ牽制して事を敗ることを恐れるのみです。安丙は才力強く事を成し、賞罰明らかで果断です。どうか事任を丙に付されるよう乞います」。また論じて言った、「蜀中の三帥のうち、武興のみ事権が特に重く、故に今日の変を招きました。どうか両帥を並置し、その営屯・隷属を分かつよう乞います」。
安丙が両宣撫司の分離を上奏し、朝廷は安丙と呉曦の間に不和があることを察知し、呉曦を召還して朝廷に赴かせた。議者は蜀の乱が平定されたばかりであり、呉曦を去らせるのは適切でないと論じ、再び制置使兼成都府知事に任じた。再び召還を受けたが、一年余りを経てようやく建康に到着し、再び過失を理由に進まなかった。上はますます強く呉曦を召喚し、呉曦は鎮江で命令を待った。著作佐郎の楊簡が、呉曦はかつて成都を放棄したことがあり召還すべきでないと上言したため、兵部尚書兼侍読に任じ、龍図閣学士として建康府知府兼江淮制置使とした。官任中に卒去し、諡号は「荘恵」とされた。
劉光祖
劉光祖、字は徳修、簡州陽安の人。幼くして外祖父の賈暉に養われ、後に賈暉の遺恩により官に補せられた。進士に及第し、殿試の対策において、「陛下の聡明な察知はあまりに精細であり、宸断はあまりに厳格であり、治世を求めるのはあまりに急進であり、功績を喜ぶのはあまりに甚だしい」と述べた。また、「陛下みずから甲冑を着け、時に乗馬や蹴鞠を楽しまれるが、一旦緊急の事態があれば、果たして自ら六軍を統率して督戦することができましょうか。人主が自ら将となるのは危険な道です。臣は恐れるが、乗馬蹴鞠のことは、敵国が聞けば、かえって笑いを招くだけで、武威を示すには足りません」と述べた。剣南東川節度推官に任じられ、潼川提刑司検法に招聘された。
淳熙五年、召されて応対し、国土回復の事について論じ、太祖の人物登用法を以て範とすべきことを請い、かつ、「人臣が献策するにあたり、考察せざるべからざるものがある。一つは、可否を量らずに陛下に軽率な出兵や急進を勧めることであり、これは即座に国を誤らせる。一つは、振興を考えず、一時しのぎで安逸を貪ることであり、これは長期的に国を誤らせる」と述べた。太学正に任じられた。召されて試験を受け、正字を守り、兼ねて呉・益両王府の教授を務め、校書郎に昇進し、右正言・果州知州に任じられた。趙汝愚の推薦により、召されて朝廷に入った。
光宗が即位すると、軍器少監兼権侍左郎官に任じられ、さらに礼部を兼務した。当時、殿中侍御史に欠員があり、上はその選任を厳重にし、宰相の留正に「卿監・郎官の中に適任者がいる」と言った。留正はしばらく沈思した後、「劉光祖のことではありますまいか」と言うと、上は「彼は久しく朕の心の中にいる者だ」と言った。
劉光祖は入朝して謝し、ついで論じて言った。
「近世は是非が明らかでなく、邪と正が互いに攻撃し合い、公論が確立せず、私情が交錯して起こる。これはまさに道の消長、時の否泰であるが、実に国家の禍福、社稷の存亡に関わり、甚だ畏るべきことである。本朝の士大夫の学術と議論は、最も古に近く、初めから強国をなす術があったわけではないが、国勢は尊厳安泰で、根本は深厚であった。咸平・景德の間には、道は皇極に至り、治世は太和を保ち、慶暦・嘉祐に至っては盛んであった。不幸にも熙寧・元豊の邪説によって損なわれ、正士は疎遠にされ、小人が招き入れられた。幸い元祐の君子が立ち上がってこれを救ったが、末流は大きく分裂し、事態は反覆した。紹聖・元符の際には、群凶が志を得て、綱常を絶滅させ、その議論が勝ち、その勢いが成った。崇寧・大観以降は、尚ほ何を言うべきことがあろうか。
臣が初めて朝廷に来た時は、道学を讒謗する説を聞いたが、実は朋党の分裂を見なかった。その後、父母の喪に服して国を去ること六年、すでに両派の議論がそれぞれ甚だしくなり、いつか互いに攻撃し合うことを憂えていた。臣が再び来朝した時、その事態は果たして現れた。道学を憎むことによって、朋党が生まれ、朋党が生まれることによって、忠諫が罪とされる。ああ、忠諫を罪とするのは、紹聖の時とどれほど違うというのか。陛下が即位された初め、端座して治められ、すべての人事の進退は、概ね人々の言を用いられ、初めから好悪の私心はなく、どうして党派的な偏りを主とすることがあろうか。しかし一年の内に、追放される者が相次ぎ、その中には確かに悪人も少なくなかったが、かえって人臣の私意によって、天日の清明をわずかに損なうこととなった。往々にして忠誠を推し進める言論は、名声を買うための挙動とされ、潔く身を退くことさえも、憤慨してそうするのだと言われる。至尊の怒りを煽ろうとすれば、必ずや攻撃と誹謗の罪を加えられる。事態がここまで至れば、沈黙を守るのが適当となり、沈黙が風潮となれば、国家は何に頼るというのか。
臣は将来の禍を消し止めたいと思うゆえ、繰り返し述べることを憚らない。伏して願わくば、聖心が豁然と開かれ、永く皇極の主となられ、これによって是非が定まり、邪正が区別され、公論が明らかになり、私情が消え、道学への讒謗が消滅し、朋党の跡が消え、平和の福が集まり、国家の政事が治まりますように。そうすれば、生民の幸い、社稷の福である。そうでなければ、互いに刺激し合い、勝ち負けを争い、展転反覆して、禍いは窮まりなく、臣は実に車を解く場所を知らない。」
上奏文が下されると、読んで涙を流す者もいた。劉光祖は戸部尚書の葉翥と太府卿兼中書舎人の沈揆が近習と結び、進用を図ったことを弾劾して罷免させ、「近年、士大夫は廉靖を慕わず奔競を慕い、名節を尊ばず爵位を尊び、公正を喜ばず軟美を喜び、君子を敬わず庸人を敬い、すでに慣れ習って風潮となり、苟も得ることを至上の計略としている。これはまさに先輩の老成した者がほとんど零落し尽くし、後生の新進が議論するに拠る所がなく、学術に宗主とすべき者がなく、正論がますます衰え、士風が振るわないからである。幸いにも大臣に詔して、人物を妙に求め、必ず朝野が共に属望し、賢愚が共に敬う者一二十人を、参錯して朝廷に立てれば、国勢は自ずから壮んになる。臣はたとえ一年中奏上や糾弾することがなくとも、固より官職を怠るには至らない。今日の患いは、人材を育成せず、台諫はただ摧残するのみで、廟堂には初めから養成する考えがないことにある。臣は言うべき地位にある者として、どうして排撃を能とすることができようか」と述べた。太府少卿に転じた。辞任を求めてやまず、直秘閣・潼川運判に任じられた。江西提刑に改め、さらに夔州に改めた。
当時、孝宗がご病気で、上(光宗)は長く宮中(重華宮)に赴かれなかった。劉光祖は留正と趙汝愚に書簡を送り、「群賢と心を一つにして力を合わせるべきであり、もし上(光宗)が宮中に赴かれないならば、宰執は安らかに私邸に帰ってはならない。林・陳二人の宦官は、重華宮(孝宗)に罪を得たことを自覚し、日夜その間で諜報活動をしている。韓魏公(韓琦)が任守忠を追放した故事を用いて、両宮の疑念と誹謗を解くべきである。大臣もまた兵権を収め、腹心を密かに配置し、緊急時に頼りにできる者を備えるべきである」と述べた。孝宗の崩御を聞くと、また趙汝愚に書簡を送り、国家を安定させ社稷を定めることをもって励ました。
寧宗が即位すると、侍御史に任じられ、司農少卿に改められた。入朝して応対し、『謹始』五箴を献上した。また論じて、「人主には六つの易きことがある。天命は恃み易く、天位は楽しみ易く、事なき時は安んじ易く、欲望は奢侈し易く、政令は怠り易く、歳月は侮り易い。また六つの難きことがある。君子は進め難く、小人は退け難く、苦言は受け入れ難く、巧佞は遠ざけ難く、是非は明らかにし難く、取捨は決断し難い。暗主の易きことは、明主の難きことであり、暗主の難きことは、明主の易きことである」と述べた。また、「陛下は隆慈(太皇太后呉氏)の命により、素幄において践祚された。これは甚だ已むを得ない事情があったからであり、みずからを貶損し、上皇(光宗)に対して礼を尽くし、聖意を歓然とさせて位を譲られた楽しみを知らしめ、それによって初めて陛下の大孝を明らかにすることができる」と述べた。上は悚然として嘉納した。
起居舎人に進んだ。論じて、「政令は中書より出すべきであり、陛下はこれを審査して実行される。人主が権柄を執るのに、これ以上重要なことはない」と述べた。知閤門事の韓侂冑が次第に威福を擅にし始めたので、まずこれに言及したのである。起居郎に遷った。孝宗の山陵の地を占う集議が行われ、朱熹とともに会稽の山陵は土が薄く水が浅いとし、改めて占うことを議するよう請願した。まもなく朱熹が宮観官に任じられると、劉光祖は言った。「漢武帝の汲黯に対する態度、唐太宗の魏徴に対する態度、仁宗の唐介に対する態度は、皆一時的に怒ってもすぐに悔いた。朱熹は先聖の道を明らかにし、当代の宿儒であり、またこの三臣とも比べものにならない。陛下は大宝を承けられた初め、耆儒を招き寄せられたことは、初期の政事の中で最も善いことであった。今、一旦理由もなくこれを去らせることは、よろしいでしょうか」と。かつ、「臣は朱熹を助けるのではなく、陛下をお助けする者です」と述べた。二度上疏したが、聞き入れられなかった。
劉德秀が光祖を弾劾し、湖南運判に左遷されたが、就任せず、玉局観を主管した。趙汝愚が既に宰相を罷免されると、韓侂冑が朝廷を専断し、遂に士大夫を偽学逆党と目し、禁錮した。光祖は『涪州学記』を撰し、「学の大なるものは、聖人の道を明らかにして以て其の身を修むるにあり、而るに世は方に道を以て偽となす。小なるものは文章を治めて以て其の志を達するにあり、而るに時は方に文を以て病となす。好悪は一時より出で、是非は万世に定まる」と謂う。諫官張釜がこれを謗訕と指弾し、楊惲に比し、職を奪い、房州に謫居させた。久しくして、自便を許された。眉州知事に起用され、職を復し、利路の漕事を将たんとしたが、辺事に習わざるを以て辞した。宝謨閣直学士に進み、沖佑観を主管した。
呉曦が叛くと、光祖は郡守に申し出て、その榜示を大通りで焼き、且つ馳せて告げて帥守・監司の素より知る所の者に、大義を仗し、連衡して以て賊に抗せしめた。俄かに曦の誅殺を聞くや、則ち書を以て宣撫使楊輔に属し、営田を行うを講じ、前日呉氏に帰せし利を、悉く公上に収め、以て軍費の糧餉を省き、名節を奨励し、死事を旌表して以て忠烈の心を激揚せしめた。潼川路提刑・権知瀘州を除された。侂冑誅殺の後、召されて右文殿修撰・知襄陽府に除され、宝謨閣待制・知遂寧府に進み、京湖制置使に改め、宝謨閣直学士を以て潼川府知府となった。
詔して旱魃に因り言を求むると、光祖は奏上して、「女真は乃ち吾が不倶戴天の仇なり、天この仇を亡ぼし、死を送るを汴にす。陛下は天の子たるに、之を図る所以を知らず、天与うるも取らず、是れ天を棄つと謂う。天を棄つて而して天我を怒らざるは未だあらざるなり。青・鄆・藺・会は通を求めんとして納れられず、陛下は中国衣冠の主たるに、人帰するも我之を絶つ、是れ人を棄つと謂う。人を棄つて而して人我を怨まざるは未だあらざるなり。且つ金人は其の巣穴を捨て、我が汴京を汚す、尚ほ吾が使人をして之を祖宗昔日朝会の廷に拝せしむべけんや」と。
顕謨閣直学士に昇進し、玉隆万寿宮を提挙した。引年致仕を請うも許されず、西京嵩山崇福宮を提挙した。嘉定十五年卒す。華文閣学士を追贈され、諡して「文節」と曰う。
趙汝愚は光祖を称して、論諫の激烈なること蘇軾に似、懇惻なること范祖禹に似たりとし、世以て名言と為す。著す所に『後溪集』十巻あり。子に端之・靖之・翊之・竑之。
論じて曰く、徐誼は小人の手に竄逐せられ、身の否なるも、道の亨るるなり。呉獵の学を以て政と為すこと、項安世の経に通じ古に博きこと、皆一時の英才なり、今旧史を更定し、公論其れ少しく伸ぶるか。薛叔似は通儒なり、不幸にも開辺の事を以て之に累す。劉甲・楊輔は蔚乎として有用の才なり。劉光祖の盛名は『涪州学記』と並び伝わって穹壤に満ち、世の人何を憚りて君子と為らざるや。