宋史

列傳第一百五十五 史浩 王淮 趙雄 權邦彦 程松 陳謙 張巖

史浩

史浩、字は直翁、明州鄞縣の人なり。紹興十四年進士に登第し、紹興餘姚縣尉に調じ、溫州教授を歴任し、郡守張九成これを器とした。任期満ちて、太學正に除され、國子博士に昇る。轉對に因りて言う、「普安・恩平の二王、宜しく其の一を擇び以て天下の望を係ぐべし」と。高宗之に頷く。翌日、大臣に語りて曰く、「浩は用ゆべき才なり」と。秘書省校書郎兼二王府教授を除す。三十年、普安郡王皇子と為り、建王に封建せられ、浩を權建王府教授と除す。詔して建王府に直講・贊讀各一員を置き、浩は司封郎官を守りて直講を兼ぬ。一日『周禮』を講じ、言う、「膳夫は膳羞の事を掌り、歳終れば則ち會す、惟だ王及び后・世子の膳羞は會せず。酒正に至りては飲酒の事を掌り、歳終れば則ち會す、惟だ王及び后の飲酒は會せず、世子は是に與からず。是を以て知る、世子の膳羞は會せざる可く、世子の飲酒は節無き可からざるを」と。王起ちて謝して曰く、「敢へて斯の訓を佩ばざらんや」と。

三十一年、宗正少卿に遷る。會に金主亮邊を犯し、親征を詔す。時に兩淮守を失ひ、廷臣退避の計を陳ぶるを爭ひ、建王疏を抗して師を率ひ前驅と為らんことを請ふ。浩、王の為に力めて言ふ、「太子は兵を將ふべからず、晉の申生・唐の肅宗靈武の事を以て戒とすべし」と。王大いに感悟し、直ちに浩に俾して奏を草せしめ、扈蹕して以て子職を供せんことを請ひ、辭意懇到なり。高宗方に怒り、奏を覽して意頓に釋け、奏の浩に出づるを知り、大臣に語りて曰く、「真の王府官なり」と。既にして殿中侍御史吳芾、皇子を以て元帥と為し、先づ師を視せんことを乞ふ。浩復た大臣に書を遺し、言ふ、「建王深宮の中に生れ、未だ嘗て諸將と接せず、安んぞ能く此を辦せんや」と。或は王をして居守せしむべしと謂ふも、浩復た以て不可と為す。上亦た王をして諸將を遍く識らしめんと欲し、遂に扈蹕して建康に如く。

三十二年、上臨安に還り、建王を立てて皇太子と為し、浩は起居郎兼太子右庶子を除す。孝宗禪を受く、遂に中書舍人を以て翰林學士・知制誥に遷る。張浚江・淮を宣撫し、將に恢復を圖らんとす、浩之と異議有り、瓜洲・采石を城せんと欲す。浚奏す、「兩淮を守らずして江を守るは、泗州を城するに若かず」と。參知政事を除す。詔有りて應敵定論を議せしむ、洪遵・金安節・唐文若等相繼いで論列す、宰執獨り奏無し。上以て浩に問ふ、浩奏す、「先づ備禦を為す、是を良規と謂ふ。儻し淺謀の士に聽き、教へざるの師を興さば、寇去れば則ち賞を論じて以て功を邀ひ、寇至れば則ち兵を斂めて遁跡す、之を恢復と謂ふこと得んや」と。樞密院編修官陸游・尹穡を薦め、召對し、並びに出身を賜ふ。隆興元年、尚書右僕射に拜し、首めて趙鼎・李光の無罪、岳飛の久冤を言ひ、宜しく其の官爵を復し、其の子孫に祿すべしとす。悉く之に從ふ。

李顯忠・邵宏淵、兵を引いて進取せんことを奏乞す、浩奏す、「二將輒ち戰を乞ふ、豈に督府の命令行はれざる有らんや」と。浚入覲を請ひ、即日詔を降して建康に幸せんことを乞ふ、上以て浩に問ふ、浩三説の不可を陳ぶ。退き、又も以て浚を詰めて曰く、「帝王の兵は、當に萬全を出すべし、豈に嘗試して以て僥倖を圖らんや」と。復た殿上に於て辨論す、浚曰く、「中原久しく陷ち、今取らざれば、豪傑必ず起りて之を収めん」と。浩曰く、「中原決して豪傑無し、若し之ありとせば、何ぞ起きて金を亡ぼさざる」と。浚曰く、「彼民間に寸鐵無く、自ら起つ能はず、我が兵の至るを待ちて内應と為らん」と。浩曰く、「勝・廣は鉏櫌棘矜を以て秦を亡ぼせり、必ず我が兵を待つは、豪傑に非ざるなり」と。浚因りて内引して奏す、「浩の意回らす可からず、幾會を失はんことを恐れ、英斷を出ださんことを乞ふ」と。省中忽ち宏淵の出兵狀を得、始めて三省に由らず、徑に諸將に檄するを知る。浩陳康伯に語りて曰く、「吾が屬俱に右府を兼ぬるに、出兵に與聞せず、焉んぞ相を用ゐんや。去らざれば尚何をか待たん」と。因りて又言ふ、「康伯は歸正人を納れんと欲す、臣恐らくは他日必ず陛下の子孫の憂ひと為らん。浚は銳意兵を用ゐんとす、若し一たび失へるの後は、恐らくは陛下終に復た中原を望むことを得ざらん」と。御史王十朋之を論ず、紹興を知らしめて出づ。

先づ、浩瓜洲を城するに因り、太府丞史正志を遣はして往きて之を視せしむるを白す、正志は浚と論辯す。十朋亦た史正志の朋比を疏し、並びに浩に及び、遂に祠とし、是より召されざること十三年。起きて紹興府・浙東安撫使を知る。母喪を持して歸り、服闋け、福州を知る。

淳熙初め、上執政に問ふ、「久しく史浩を見ず、他事無きか」と。遂に少保・觀文殿大學士・醴泉觀使兼侍讀を除す。五年、復た右丞相と為る。上曰く、「葉衡罷めてより、虛席を以て卿を待つこと久し」と。浩奏す、「恩を蒙り再び相と為り、唯だ公道を盡くし、庶くは朋黨の弊無からん」と。上曰く、「宰相豈に黨有るべけんや、人主亦た當に朋黨を以て臣下を名づくべからず。朕但だ賢者を取りて之を用ゐ、然らざれば則ち之を去らん」と。

樞密都承旨王抃、殿・步の二司の軍多く虛額有るを以て建議し、各三千人を募りて之を充てんことを請ふ。已にして殿前司輒ち市人を捕ふ、京城騷動し、掠めらるる者多く指を斷ち、用ふ可からざるを示す。軍人衆を怙り、因りて民財を奪ふ。浩奏す、「捕へし所を盡く釋し、而して軍民の首めて喧呶する者を禽へて獄に送れ」と。獄成りて罪を議し、兵民各一人を取りて梟首して以て徇らんと欲す。浩曰く、「諸軍人の掠め貨を奪ふこと哄くに至りては、則ち釁を始むる者は軍人なり、軍法に從事するは固より當なり。若し市人陸慶童は特だ抗鬥するに與るのみ、同じく罰す可けんや。陛下軍人の語有らんことを恐れ、故に其の罪を一にして以て之を安んず。夫れ民其の平を得ざれば、言も亦た畏る可し、『等しく死せん、國に死す可からんや』と、是れ豈に軍人の語ならんや」と。上怒りて曰く、「是れ朕を秦の二世に比するなり」と。浩徐ろに進みて曰く、「古より民其の上を怨む者多し、『時日曷くにか喪せん、予及び汝偕に亡ばん』と、豈に二世の事のみならんや」と。尋ねて去らんことを求む、少傅・保寧軍節度使に拜し、醴泉觀使兼侍讀を充つ。後に慶童の冤を言ふ者有り、上曰く、「史浩嘗て力爭し、此に坐して去らんことを求めしが、今に至るまで之を悔ゆ」と。

趙雄は嘗て劉光祖を推薦して館職を試みさせたところ、光祖が答策において科場の取士の道を論じ、これを進上すると、上(孝宗)自らその後に批を加え、大略に曰く、「用人之弊は、人君に知人の哲に乏しく、宰相は人を択ぶ能わざるに在り。国朝以来、過ぎに忠厚にして、宰相にして国を誤り、大将にして軍を敗れしも、未だ嘗て誅戮せず。要は人君必ず相を審かに択び、相は必ず官の為に人を択ぶべし。懋賞を前に立て、誅戮を後に設くれば、人才出でずと、吾信ぜず」と。手詔既に出で、中外大いに聳動す。議者、曾覿の草を視るは、光祖の甲科を発する為なりと謂えり。上、覿を遣わして浩に持示せしむ。浩奏して曰く、「唐虞の世、四凶極悪にして、止むるに流竄に在り。三考の法、過ぎずして黜陟す。未だ嘗て誅戮の科有らず。誅戮大臣は、秦漢の法なり。太祖は治を制するに仁を以てし、臣下を待つに礼を以てす。列聖心を伝え、仁宗に迨いて徳化隆く洽う。本朝の治、三代と風を同じくす。此れ祖宗の家法なり。聖訓には則ち曰く、過ぎて忠厚なりと。国を為して忠厚に底するは、豈に所謂過ぎ有らんや。臣恐らくは議者の陛下自ら刻薄の政を行わんと欲し、過ちを祖宗に帰せんとするを。審かにせざるべからず」と。

及び経筵より将に帰らんと告げし時、乃ち小官の中より江浙の士十五人を薦め、旨有りて升擢を令す。皆一時の選なり。薛叔似、楊簡、陸九淵、石宗昭、陳謙、葉適、袁燮、趙静之、張子智の如きは、後皆擢用せられ、通顕に至らざる者は六人のみ。

十年、老を請い、太保を除きて致仕し、魏国公に封ぜらる。晩年、第を鄞の西湖上に治め、閣を建てて両朝の賜書を奉り、又堂を作る。上、為に「明良慶会」と其の閣に名づけ、「旧学」と其の堂に名づくる書を賜う。光宗御極し、太師に進む。紹熙五年薨ず。年八十九。会稽郡王に封ぜらる。寧宗登極し、諡を「文恵」と賜い、御書「純誠厚徳元老之碑」を賜う。嘉定十四年、越王を追封し、諡を「忠定」と改め、孝宗廟庭に配享す。

浩は人才を薦むるを喜び、嘗て陳之茂の進職と郡を与うるを擬す。上、之茂の嘗て浩を毀りしを知りて曰く、「卿豈に徳を以て怨に報ぜんとするか」と。浩曰く、「臣怨有るを知らず。若し怨を以てと為し徳を以て之に報ずれば、是れ心有るなり」と。莫濟、王十朋の行事を状し、浩を詆むること尤も甚だし。浩、済を薦めて内制を掌らしむ。上曰く、「済は卿を議せし者に非ずや」と。浩曰く、「臣敢えて私を以て公を害せず」と。遂に中書舎人兼直学士院を除き、初めの如く之を待つ。蓋し其の寛厚、此の類なり。子に弥大、弥正、弥遠、弥堅有り。弥遠は嘉定初め右丞相と為り、伝有り。

王淮

王淮、字は季海、婺州金華の人。幼くして穎悟、力を学に属し文を属す。紹興十五年進士に登第し、台州臨海尉と為る。郡守蕭振一見して之を奇とし、公輔の器を以て許す。振しょくに帥す、幕府に辟置す。振出づるに、衆留めんと欲す。淮曰く、「万里母に将いんとす。豈に利禄の為に計らんや」と。皆其の器識に服し、校書郎に遷る。

高宗、中丞に命じて御史と為すべき者を挙げしむ。朱倬、淮を挙ぐ。監察御史を除き、尋いで右正言に遷る。首めて論ず、「大臣は尊を養い、小臣は祿を持つ。括囊を以て智と為し、引去を以て高と為す。願わくは陛下心を正して以て朝廷を正し、朝廷を正して以て百官を正さんことを」と。宰相湯思退物望無し。淮其の罪数十条を条す。於是策免せらる。吏部侍郎沈介の欺世盗名、都司方師尹の狡険、大将劉宝の掊克して権倖に結ぶに至るまで、皆劾して罷む。又奏す、「自治の策、内を治むるに三有り。心術を正し、慈儉を宝とし、壅蔽を去る。外を治むるに四有り。封守を固くし、将帥を選び、賞罰を明らかにし、財用を儲う」と。上深く嘉歎す。

秘書少監兼恭王府直講を除く。時恭王、子挺を生む。淮、丞相に白して曰く、「恭王夫人李氏、皇嫡長孫を生む。乞うらくは典礼を討論せんことを」と。錢端禮其の名称に怒り、奏して「淮に年鈞以て長の説有り」と。上曰く、「是れ何の言ぞ。豈に邪心を啓かざらんや」と。淮を出して建寧府を知らしめ、浙西提刑に改む。入見し、閩中の利病を陳ぶること甚だ悉し。帝之を褒嘉し、且つ一たび東宮に至らしむ。皇太子師儒を以て之を待ち、特ちに拝礼を施す。尋いで召し、太常少卿を除き、中書舎人兼直学士院を除く。龍大淵太師を贈り、仍いで儀同三司の恩数を畀え、張説太尉・在京宮観を除く。皆詔書を封還す。翰林学士・知制誥を除く。訓詞深厚、王言の体を得たり。上、文学行誼の士を択ぶを命ず。淮、鄭伯熊・李燾・程叔達を薦ぐ。皆擢用せらる。

淳熙二年、端明殿学士・簽書枢密院事を除く。辛棄疾、茶寇を平らぐ。功を上ぐる太だ濫なり。淮謂う、「真偽を核せずんば、何を以て有功を勧めん」と。文州蕃部辺を擾す。吳挺奏す、「庫彦威利を失う」と。靖州夷人辺を擾す。楊倓奏す、「田淇利を失う」と。淮謂う、「二将戦歿す。若し之を罪せば、何を以て来者を勧めん」と。上嘗て諭して曰く、「枢密事に臨みて公を尽くし、人に間言無し。差除よく法を守る甚だ善し」と。軍帥吳拱・郭田・張宣を薦ぐ。同知枢密院事・参知政事を除く。

時宰相久しく虚し。淮と李彥穎相の事を行う。淮謂う、「官を授くるは当に賢否を論ずべく、形跡を事とすべからず。誠に賢なれば、敢えて郷里故旧を以て之を廃せず。才に非ざれば、敢えて己の私を以て之を庇わず」と。上善しと称す。知院事・枢密使に擢でらる。上、武臣の嶽祠の員を省くべしと言う。淮曰く、「戦功有る者、壮にして其の力を用い、老いて之を棄つ。可ならんや」と。趙雄言う、「北人の帰附する者、員外置を以て之に畀う。宜しく吏部に詣らしむべし」と。上曰く、「姑く旧に仍れ」と。淮曰く、「上意即ち天意なり」と。雄又奏して言う、「宗室の嶽祠八百員、宜しく罷むべし」と。淮曰く、「堯は親しく九族を睦まじくす。平章百姓の先に在り。骨肉の恩疏ならば、可ならんや」と。時辛棄疾江西の寇を平らぎ、王佐湖南の寇を平らぎ、劉焞広西の寇を平らぐ。淮皆処置宜しきを得、功を論ずるに惟だ允なり。上深く之を嘉し、謂う、「陳康伯人望有りと雖も、事を処するは則ち卿に及ばず」と。

八年、右丞相兼枢密事に拝す。是に先立ち、夏より雨無くして秋に至る。是の日甘雨注ぐが如し。士大夫相賀し、上亦喜びて相を命じて雨ふる。乃ち口算諸郡の絹銭を尽く一年蠲免するを命じ、緡八十万と為す。

趙雄相を罷む。蜀士の朝に在る者皆去意有り。淮謂う、「此れ唐季党禍の胎なり。豈に聖世の宜しく有る所ならんや」と。皆以て次に進遷せしむ。蜀士乃ち安んず。枢密都承旨王抃寵に怙りて姦を為す。淮極めて其の罪を陳べ、謂う、「人主謗を受くるは、鮮しとせず此れより由る」と。上即ち之を斥け、且つ曰く、「丞相直諒して隠すこと無し。君臣の間正に宜しく此の如くすべし」と。章穎事を論ずるに狂直なり。上将に之を黜せんとす。淮曰く、「陛下直言を聞くを楽しまば、士大夫言を以て相高む。此の風賀すべし。之を黜するは適に其の名を成す」と。上悦び、穎復た留まる。

時に荒政を急務とし、淮は言う、「李椿は老成練達、長沙の帥に除するを擬し、朱熹は学行篤実、浙東提挙に除するを擬し、以て郡国を倡えん」と。その後推賞するに、上曰く、「朱熹は職事に留意す」と。淮言う、「荒政を修挙するは、是れ其の学ぶ所を行ふなり、民実恵を被る、進職を与へんと欲す」と。上曰く、「直徽猷閣に升すべし」と。成都帥を闕く、上訪問を加へ、淮は留正を以て対ふ。上曰く、「閩人に非ずや」と。淮曰く、「賢を立つるに方無し、是れ湯の執中なり。必ず曰く閩に章子厚・呂恵卿有りと、曾公亮・蘇頌・蔡襄有らざるや。必ず曰く江・浙に名臣多しと、丁謂・王欽若有らざるや」と。上善しと称す。左丞相を拝す。

天長水害七十余家、或は必ずしも聞こゆるに及ばずと謂ふ。淮曰く、「昔人謂ふ、人主一日も水旱盗賊を聞かざる可からずと。《記》に曰く、『四方に敗有らば、必ず先づ之を知る』と。豈に聞こえざるべけんや」と。鎮江饑民菽粟を強借し、執政痛く之を懲せんことを請ふ。淮曰く、「令甲に、饑民の罪は死に至らず」と。進士八人免挙の恩を以て升等せんことを求め、淮曰く、「八人之を得ば、則ち百人之を援らん」と。龔頤は執政の客を以て官を補し、詣銓曹せんことを求む。淮は此の門啓くべからずとし、其の請を絶つ。嘗て跅弛の士は、緩急に死力を出す能ふと言ひ、乃ち周極を以て安豊軍を知らしめ、辛棄疾に祠を与ふ。

上章し力を尽くして去らんことを求め、観文殿大学士を以て衢州を判す。淮力めて辞し、洞霄宮を提挙すと改む。光宗位を嗣ぎ、詔して初政を諮る。淮は孝を尽くし徳を進め、天に奉じ民を敬ひ、人を用ひ政を立つるは、初に在らざるは無しとす。母亡び、喪に居ること礼の如し。疾を得、忽ち家人に語りて曰く、「《易》卦六十四、吾が年亦然り」と。淳熙十六年薨ず。訃聞こゆ、上哀悼し、視朝を輟み、少師を贈り、諡して「文定」と曰ふ。

初め、朱熹浙東提挙と為り、台州を知る唐仲友を劾す。淮素より仲友に善くし、熹を喜ばず、乃ち陳賈を擢て監察御史と為し、俾くして上疏せしめ言はしむ、「近日道学名を仮りて偽を済すの弊、詔して痛く之を革せんことを請ふ」と。鄭丙吏部尚書と為り、相与に力を叶へて道学を攻む。熹此に由りて祠を得。其の後慶元偽学の禁此より始まる。

趙雄

趙雄、字は温叔、資州の人なり。隆興元年類省試の第一と為る。虞允文四蜀を宣撫し、幹辦公事を辟き、相に入り、朝に薦む。乾道五年、便殿に召見せられ、孝宗大いに之を奇とし、即日手詔して正字を除す。

范成大金に使し、将に行かんとす。雄当に登対すべし、允文招きて之と語る。既に進見し、雄極めて恢復を論ず。孝宗大いに喜びて曰く、「功名卿と之を共にせん」と。即ち右史を除し、両月にして舎人を除す。金使耶律子敬会慶節を賀す、雄館伴す。子敬事情を披露し隠さざるを敢へず、邏者以て聞こゆ。上夜に雄を召し、雄具に子敬の言ふ所を以て対ふ、上喜ぶ。金使入辞す、故事楽を用ふべし。雄奏す、「郊を卜するに日有り、天子方に斎す、楽用ふべからず」と。上之を難じ、中使を遣はして雄を諭す。雄奏す、「金使必ず敢へて順はざる無からん、即ち他有らば、臣得て引きて就館せしめん」と。上大いに喜ぶ。雄復た恢復局を置かんことを請ひ、日夜講磨し、条具して上意に合ひ、中書舎人を除す。選人館に入るより此に至る、未だ歳を満たさず。

時に金将に河南の役を起さんとし、議て尽く諸陵の梓宮を我に帰せんとす。上命じて雄を出使せしめて生辰を賀せしめ、仍へて奉遷陵寢及び受書儀を正すを止む。雄既に金主に見え、争弁すること数四。其の臣屡ひ喝して起たしむ、雄辞益々力あり、卒に請を得て乃ち已む。金人之を「龍闘」と謂ふ。嘗て疏を上りて恢復の計を論じ、大略謂く、「蜀を由りて陝西を取るに若くは莫し、陝西を得て以て中原に臨まば、是れ秦六国を制するの勢なり」と。八年、母憂に以て去る。

淳熙二年、召されて礼部侍郎と為り、端明殿学士を除し、枢密院事を簽書す。一日奏事す、上曰く、「今夏蚕麦甚だ熟し、絲米価平なり喜ぶべし」と。雄奏す、「孟子王道を論ずるは饑えず寒からずより始まる」と。上曰く、「近世士大夫高論を好み、農事を言ふを恥づ、微かに西晋の風有り。豈知らんや《周礼》と《易》理財を言ひ、周公・孔子曽て理財を務とせざらんや。且つ独り此に非ず、士夫恢復を言ふを諱む、其の家に田百畝有り、内五十畝人の据ふる所と為るも、亦牒を投じて理索せんや否や」と。雄曰く、「陛下志大に為す有り、敢へて堯言を布さずや、之を《時政記》に書かん」と。十一月、枢密院事を同知す。五年三月、参知政事と為る。十一月、右丞相を拝す。毎に進見するに、必ず曰く「二帝沙漠に在り」と、未だ嘗て諸口を離れず。

朱熹累召して出でず、雄外郡に処せんことを請ひ、命じて南康軍を知らしむ。熹極めて時事を論ず、上怒り、雄に諭して分析せしむ。雄奏す、「熹狂生、詞窮まり理短し、之を罪するは適ひ其の名を成す。若し天の涵む所地の育む所、置きて問はざる可し」と。会ふに周必大亦力めて之を言ふ、乃ち止む。紹興帥張津羨余四十万緡を献ず、雄旨を降して紹興に下し、其の錢を以て民の為に和買身丁折帛錢の半を代輸せしめんことを乞ふ。民に取る所を民復た之を得しめ、以て聖主の徳を見るに足らしむ。

雄独り相と為りしより、蜀人の朝に在る者僅かに十数。眷衰へに及び、其の里党に私す有りと言ふ者あり、上之を疑ふ。已にして陳峴四川制置と為り、王渥茶馬と為る、命中より出づ。雄去らんことを求め、詔して勉めて留め、曰く、「丞相事に任じて怨を避けず、才を選んで郷旧無し」と。蓋し激する所有り。祖宗の時蜀人未だ嘗て蜀帥を除せず、雄外を請ひ、観文殿大学士・四川制置使を除す。王藺御史と為り、故事以て不可とし、疏を上りて之を論ず。雄免ぜんことを乞ひ、瀘南安撫使を知ると改む。上雄を思ひ忘れず、江陵府を知ると改む。江陵険恃む可き無し、雄江陵に城せんことを請ふ。城成り、民告擾せず。

張栻再び召され、恢復固より当なれども、第に其の計是に非ずと論じ、即ち疏を奏す。孝宗大いに喜び、翌日疏を以て宣示し、且つ手詔して云く、「恢復栻の陳ぶ所の如くにして方に是なり」と。即ち侍講を除し、云く、「且つ直宿する時に卿と事を論ぜんことを得ん」と。虞允文と雄の徒楽しまず、遂に之を沮抑す。広西横山に馬を買ふ、諸蛮感悦し、争ひて善馬を以て至る。上栻の治行を知り、甚だ栻に向ふ、衆皆忌嫉す。栻荊南に復た出づるに及び、雄事毎に之を沮む。時に司天相星楚地に在ると奏す、上曰く、「張栻之に当るべし」と。人愈々之を忌む。

光宗将に禅を受けんとし、雄を召す。雄万言書を上り、修身斉家を以て朝廷を正すの道を陳ぶ、言甚だ剴切なり。詔して寧武軍節度使・開府儀同三司を授け、衛国公に進め、湖北を帥すると改む。疾甚だしければ、資州を判すると改め、又潼川府を除し、隆興府に改む。紹熙四年薨ず、年六十五、少師を贈る。嘉定二年、諡して「文定」と曰ふ。

権邦彦

権邦彦、字は朝美、河間の人なり。崇寧四年太学上舎に及第し、滄州教授に調じ、入って太学博士となり、宣教郎に改め、国子司業を除せらる。宣和二年、遼に使す。明年、表を抗して帝の雍に臨むを請う。学官として積むこと十余年、都官郎中・直秘閣・易州知事に改め、相州に移し、復た召されて都官郎中となる。王黼と議合わず、職を鐫られ、冀州知事となる。

金人再び入寇し、高宗大元帥府を開き、両河の兵を起こして汴京を衛わしむ。邦彦、提する所の兵二千五百人を率い、宗澤と澶淵より韋城に趨り、刀馬河を拠る。諸道の兵進む者莫し。会に敵兵大いに至り、南華に移り屯す。二帝北遷し、邦彦と澤、五表を以て進を勧む。

建炎元年五月、召還され、命じて荊南府を知らしむ。東平府に改む。時に東州半ば已に金に入る。是に至り囲み益々急なり。邦彦、死を誓いて守らんとす。数ヶ月居るに城破れ、猶力戦して已まず。民義として之に従い、囲みを突いて出で、遂に行在に奔る。有司、失守の罪を議し、将に重く之を坐せんとす。帝、其の父母妻子皆敵に没するを以て、才く二秩を貶す。俄に宝文閣直学士兼江州知事・本路制置使を除す。既に鎮に抵る。三年冬、父の死を聞き、乃ち官を解く。

四年、起復し、建康府を知らしむ。辞す。許さず。劇盗張琪、徽州を残す。邦彦、裨将を遣わして之を平らぐ。江淮等路制置発運使に改め、治辦を以て称せらる。言者論ず、「三年は天下の通喪なり。後世に権に従い服を奪う者有り、以て国家の急に徇う所以なり。比年、権邦彦・姜仲謙の如きは、幕職に至るも亦起復す。幾くんか宣・政の風を習わんとす。望むらくは其の弊を革め、以て人倫を明らかにし、風俗を厚くせん。」詔して邦彦は軍賦を任ず、宜しく旧の如くすべし。余は悉く之を罷む。

紹興元年、兵部尚書兼侍読として召さる。二年、端明殿学士・簽書枢密院事を除す。初め、邦彦、十議を献じて以て中興を図る。大略に謂う、

「宜しく天下を以て度と為し、洪業を進めて図り、士宇を恢復し、苟も東南に安んずる勿れ。諸将を駕御するは、当に法を以て之を威し、而して爵を以て之を限るべし。読講の臣を命じ、累朝の訓典及び三代・漢・唐の中興故事を取り、日々前に陳べて、以て聖学を裨すべし。又た傷善妨賢の讒、偷安苟容の佞、市恩立威の姦、懐諼罔上の欺を監観し、其の言を聴き、其の事を察すれば、則ち忠邪判然たり。民を愛するは先ず其の力を愛し、民を寛にするは先ず其の用を節すべし。己を朘ぎて国に奉ずるは、当に執政より始むべし。閫を分かちて大事を属するは、類ひて偏裨の能く為す所に非ず、必ず賢臣大将を得て然る後可なり。制置一官は省く可し。宜しく沿江州県をして各々境内を備えさせ、漕帥を以て総べ、上は荊・鄂・江・池より、下は采石・京口に至るまで、委任して人を得ば、乃ち防秋の上策なり。宗室の中に豈に傑然として人望有り、以て艱難を済し、密勿を賛し、宿衛に留まるべき者無からんや。願わくは其の人を求めて諸れを左右に置かん。人事尽くせば則ち天禍を悔い、独り之を数に帰す可からず。」

呂頤浩、素より邦彦を善くし、薦めて用いらる。給事中程瑀、邦彦の五罪を劾す。三疏報いず。邦彦、枢密に在り、又た言う、「宜しく機に乗ずる者三つ有り。譬えば奕の先を争うが如し。安んぞ随応随解し、人を制せずして人に制せられんや。」尋いで兼ねて権参知政事をす。帝嘗て輔臣に対し湖南の事を言う。頤浩言う、「李綱暴を縦す。恐らくは潭を治むるに善状無からん。」帝曰く、「綱、宣和間に在りて水災を論じ、以て時望を得たり。」邦彦曰く、「綱元より章疏無し。第に略に虚名のみ。」蓋し頤浩を助けて以て綱を排せんとす。三年、卒す。

邦彦、政に与ること幾一年、碌碌として建明する所無く、位を充つるのみ。子無し。以て侄の嗣衍を後と為す。遺稿十巻有り、号して『瀛海残編』と曰い、家に蔵す。

程松

程松、字は冬老、池州青陽の人なり。進士に登第し、湖州長興尉に調ず。章森・呉曦、北に使す。松、傔従と為る。慶元中、韓侂冑事を用う。曦、殿帥と為る。時に松、銭塘県を知る。曦に諂事して以て侂冑を結ぶ。侂冑、小故を以て愛姫を出だす。松聞き、百千を以て之を市う。至れば則ち盛んに供帳し、諸れを中堂に舎し、夫婦謹んで之を奉ず。居ること未だ幾ばくも無く、侂冑意解け、復た姫を召す。姫、具に松の謹んで待つ意を言う。侂冑大いに喜び、松を行在諸軍審計司幹辦・守太府寺丞に除す。未だ旬を閲せず、監察御史に遷り、右正言・諫議大夫に擢でらる。

呂祖泰上書し、乞う侂冑・蘇師旦を誅せんことを。松と陳讜、祖泰の誅すべきを劾す。祖泰、真決に坐し、嶺南に流さる。松、歳満つるも未だ遷らず、意殊に怏怏たり。乃ち一妾を侂冑に献じ、「松寿」と曰う。侂冑其の名に訝り、之を問う。答えて曰く、「疵賤の姓をして常に記憶に蒙らしめんと欲するのみ。」同知枢密院事を除す。宰邑より執政に至るまで財ね四年。

開禧元年、資政殿大学士を以て成都府知事・四川制置使と為る。侂冑、決議して辺を開く。期して二年四月を以て分道進兵せしむ。松を宣撫使と為し、興元都統制呉曦之を副う。尋いで曦を陝西招撫使に加え、便宜従事を許す。松、東軍三万を将いて興元に駐す。曦、西軍六万を将いて河池に駐す。松、益昌に至り、執政の礼を以て曦に庭参を責めんと欲す。曦之を聞き、境に及んで返る。松、東西軍一千八百人を用いて自衛す。曦多く抽摘して以て去る。松殊に悟らず。曦、其の客を遣わして款を金に納め、関外四州の地を献じ、蜀王たるを求む。曦の叛くを告ぐる者有り。松其の狂を哂う。金人の成州を取るに及び、守将関を棄てて遁る。呉曦、河池を焚きて興州に還る。松、書を以て曦に従い援兵を求む。曦答えて「鳳州は騎を用うるの地に非ず。漢中平衍、騎を以て駆馳す可し。当に三千騎を発して往かん。」と曰う。蓋し之を紿うなり。

未だ幾ばくも無く、金人曦を封じて蜀王と為す。曦、松に書を遺わし諷して去らしめんとす。松、為す所を知らず。興元帥劉甲・茶馬范仲任、松に見え、謀りて兵を起こし曦を誅せんとす。松、事泄れて禍を取るを恐れ、即ち二人を揖して起ち去らしむ。会に報う、金人将に至らんとす。百姓奔走して相蹂躪し、一城沸くが如し。松亟に米倉山を望んで遁れ去り、閬州より順流して重慶に至り、書を以て曦に抵り、贐礼を丐い舟を買い、曦を称して蜀王と為す。曦、使を遣わし匣を以て封じて饋りを致す。松望見して大いに恐れ、其の剣なるを疑い、亟に逃げ奔る。使者追い及ぶ。松已むを得ず啓して之を視れば、則ち金宝なり。松乃ち兼程して峡を出で、西に向かいて涙を掩いて曰く、「吾今頭顱を保つことを獲たり。」曦誅さる。詔して職を落とし、三官を降し、筠州に居住せしむ。再び順昌軍節度副使を降し、澧州に安置す。又た責めて果州団練副使・賓州安置と為す。賓州に死す。

陳謙

陳謙、字は益之、温州永嘉の人なり。乾道八年進士、福州戸曹・主管刑工部架閣文字を授かり、国子録・勅令所刪修官・枢密院編修官に遷る。中興の五事を陳ぶ。李綱の鎮を建つるを議するに至り、上曰く、「綱何ぞ道うるに足らん。」謙曰く、「陛下大臣を用うるに、審かに綱の上に出で、宜しく聖訓の如くすべし。今顧みるに綱の下に出でること遠く甚だし。奈何。」上蹙然たり。遂に極論すること数刻を逾ゆ。

孝宗が内禅すると、江州通判、常州知州、湖北常平提挙を歴任した。辰州の峒徭を平定し、直煥章閣を加えられ、戸部郎中に任じられ、湖・広の財賦を総領した。陳謙は丞相趙汝愚の客分であり、朋党論が起こると連座して斥けられた。数年後、成都府路刑獄提点として起用され、京西運判に移り、再び直煥章閣となった。

韓侂冑が金人を撹乱しようと謀り、馬を献ずる者に官を補することを命じたため、七州の民が相煽りあって盗賊となった。謙は侂冑に書を送り、「今もし群盗に依って掠奪の策を行わせるならば、どうして敗亡を戯れとすることができようか」と言った。その後、しばしば襄帥皇甫斌・李奕の罪を論じ、かつ罷免を求めた。上は薛叔似に旨を諭して協和させた。司農少卿・湖広総領に遷り、宣撫司参謀官に任じられた。

金兵が深く侵入し、応城を陥落させ、漢川を焼き、漢陽は空城となって逃走し、武昌は震懼した。謙は宝謨閣待制として宣撫副使となり、即日に司を北岸に置き、土豪趙観に命じて中流でこれを覆させ、士馬は溺死すること甚だ多く、残兵は皆返り走った。未幾、職を奪われ、罷免された。後に再び江州知州となった。侂冑が死に、和議が決すると、謙は再び罷免され、祠官となった。卒す。年七十三。

謙は俊声があったが、早くから善類に与せられた。晩年に偽学の禁に坐して廃され、初めて侂冑を「我が王」と称したため、士論はこれによって彼を軽んじた。

張巖

張巖は、字を肖翁といい、大梁の人で、家を揚州に移し、紹興末に江を渡り、湖州に居住した。人となりは機警で、柔軟で回りくどく、諧謔を善くした。乾道五年の進士に及第し、歴官して監察御史となり、張釜・陳自強・劉三傑・程松らとともに時相韓侂冑に阿附し、当時の賢者を誣いて追放し、道学の禁を厳しくした。

殿中侍御史に進み、累遷して給事中となり、参知政事に任じられた。言事者によって罷免され、資政殿学士・平江府知府となり、まもなく大学士に昇り、揚州知州となった。時に辺境の争いが始まろうとしており、詔により巖は程松と分かれて両淮を帥することとなり、やがて召還されて、参知政事兼同知国用事となった。開禧二年、知枢密院事に遷った。翌年、江・淮軍馬督視に任じられた。

時に方信孺が金に使いして和議を交わしていたが、呉曦が蜀で叛いたため、議は未決のまま、曦は誅殺された。金人は以前の議を尋ね、信孺が再び行った。侂冑は巖に急ぎ畢再遇・田琳を遣わして合兵して敵を剿滅させ、かつ偽帥を生け捕りにすることを募らせた。未幾、川・陝の戦いが屡々敗北し、大散関が陥落し、敵情が再び変化した。巖は督府を開いて九ヶ月、官銭三百七十余万緡を費消し、和議が反復するのを見て、兵を知らぬと言い、固より去ることを求めた。

侂冑が誅されると、御史章燮が巖と蘇師旦が朋党をなして姦を働き国を誤ったと論じ、両官を奪われた。寧宗は、兵端が開かれようとした時、巖がその不可を嘗て言っていたとして、自便を許し、元の官に復し、祠官となった。銀青光禄大夫をもって致仕し、薨じ、特進を贈られた。

論じて言う。史浩は心を平恕に宅するも、その君の恢復の謀りを相することができなかった。王淮は偽学の禁を行い、善類を毒害した。趙雄は虞允文と協謀して用兵したが、旧史が二人が張栻を沮抑したというのは、何故であろうか。許翰は城を守って力戦したが、惜しむらくは呂頤浩を助けて李綱を攻めたため、君子はこれを少なく見る。程松・陳謙・張巖は誣諛の徒であり、何ぞ算うるに足らんや。