樓鑰
宗正寺主簿に改め、太府・宗正寺丞を歴任し、出でて温州を知る。属県楽清、方臘の変また復た起こらんとすと倡言す。邑令数人を捕えて郡に帰す。鑰曰く、「これを罪すれば坐すべきなし、これを放てば民を惑わす。」その首なる者を編隷し、その徒を駆りて境外に出だす。民言遂に定まる。堂帖を以て故を問う。鑰曰く、「蘇洵に言有り、『乱の形有り、乱の実無きは、是れ将に乱せんとすと謂う。乱有るを以て急ぐべからず、乱無きを以て弛むべからず』と。」丞相周必大心にこれを善しとす。
光宗位を嗣ぐ。召し対し、奏して曰く、「人主初政は、当に先ずその大なる者を立つべし。大なること恢復に如くは莫し、然れども当に先ず主の志を強くし、君の徳を進むべし。」又曰く、「今の網は甚だ密なり。陛下の元元を軫念し、禁を設くるを已むを得ざるものと為し、凡そ創意して增益する者有らば、寝めて行うこと勿れ。以て元気を保養する所以なり。」
考功郎兼礼部を除す。吏銓並びに縁りて姦を為し、壅底すること多し。鑰曰く、「簡要清通、尚書郎の選なり。」尽くこれを革去す。国子司業に改め、起居郎兼中書舎人に擢でる。代言は坦明にして、制誥の体を得、奏を繳すること回避する所無し。禁中或いは私に請う。上曰く、「楼舎人は朕もまたこれを憚る、姑く已むに如かず。」刑部言う、天下の獄案多く奏裁する所あり、中書の務清からず、宜しく痛くこれを省すべしと。鑰曰く、「三宥して刑を制す、古に明訓有り。」力論して不可とす。会慶節上寿、扈従の班集まるも、乗輿出でず。已にして玉牒・聖政・会要の書成り、将に重華に進ぜんとす。又た屡々日を更う。鑰言う、「臣累歳班に随い、陛下の重華宮に上寿するを見るに、歓動宸極す。嘉王日趨して朝謁し、恪勤懈らず。窃かに料るに、寿皇の陛下の来たるを望むも、亦た此れに猶るべし。」又た奏す、「聖政の書は、全く寿皇一朝の事を載す。玉牒・会要は淳熙末年の書を足成す。幸いに速やかにその日を定め、再び展ぶること無くして、以て聖孝を全うせよ。」ここにおいて上感悟し、書を進する礼成る。
中書舎人を試み、俄かに直学士院を兼ぬ。光宗内禅の詔書は、鑰の草する所なり。云う有り、「喪紀は宮中に自ら行うと雖も、礼文は天下に示し難し。」と。薦紳これを伝誦す。給事中に遷る。太祖の東向の位を正し、別に僖祖の廟を立てて夾室に代え、順祖・翼祖・宣祖の主は皆その中に蔵め、祫祭は即ち廟にして饗うことを乞う。従う。
朱熹、事を論じて韓侂冑に忤る。職を除き郡とす。鑰言う、「熹は鴻儒碩学、陛下その耆老を閔み、この隆寒に当たり、立講不便なり。いかんぞこれをして内祠ならしめ、仍って史を修めしめ、少しく春和を俟ち、復た講筵に還らしむるに若かざらん。」報いず。趙汝愚人に謂いて曰く、「楼公は当今の人物なり。直ちに事に臨みて少しく剛決に欠くを恐るるのみ。」及びその持論堅正なるを見て、歎じて曰く、「吾はここにおいて大いに望む所に過ぐ。」
寧宗禅を受く。侂冑、知閤門事を以て伝命に与聞し、頗る権を弄ぶの漸有り。彭亀年力を尽くしてこれを攻む。侂冑一官を転じ、在京宮観とす。亀年は待制を除き、郡とす。鑰と林大中奏し、亀年を講筵に留め、或いは侂冑を外祠に命ずることを乞う。亀年竟に去る。鑰は吏部尚書に遷り、顕謨閣学士を以て江州太平興国宮を提挙す。尋いで婺州を知り、寧国府に移り、罷めらる。仍って職を奪わる。告老至って再びす。これを許す。
侂冑嘗て鑰に副いて館伴と為り、鑰の己に附かざるを以て、深くこれを嗛む。侂冑誅さる。詔して鑰を起して翰林学士と為し、吏部尚書兼翰林侍講に遷す。時に鑰年七十を過ぐ。精敏人に絶し、詞頭下れば、立ちまさに草を進む。院吏驚詫す。朝に入る。陛に循い旧班を諦視し、鑰に曰く、「久しくこの官を見ず。」時に和好未だ定まらず。金、韓侂冑の函首を求む。鑰曰く、「和好はこれに待ちて決す。姦凶已に斃れたるの首、又何ぞ恤うに足らん。」詔してこれに従う。
趙汝愚の子崇憲、父の冤を雪がんと奏す。鑰、趙師召の罪を正し、蔡璉の誅を重くし、龔頤正の『続稽古録』を毀ちて誣謗を白さんことを乞う。端明殿学士・簽書枢密院事を除し、同知に昇り、参知政事に進む。位両府に在ること五年、累疏して去らんことを求む。資政殿学士・太平州知州を除す。辞し、大学士に進み、万寿観を提挙す。嘉定六年薨ず。年七十七。少師を贈られ、諡して「宣献」と曰う。
鑰の文辞精博、自ら「攻媿主人」と号す。集一百二十巻有り。
李大性
李大性、字は伯和、端州四会の人。その先積中、嘗て御史と為り、直言を以て元祐党籍に入り、始めて豫章に家す。大性少しく力学し、尤も本朝の典故に習う。父の任に因り官に入り、選に参ずるに因り、『芸祖廟謨』百篇及び公私利害の疏百篇を進む。又た言う、「元豊の制、六察は事を言うことを許す。章惇相と為り始めてこれを禁ず。旧制を復し、以て言路を広むることを乞う。」従臣力を尽くしてこれを薦む。命じて都堂に赴き審察せしむ。僅かに一秩を遷し、湖北提刑司幹官と為る。未だ幾ばくもあらず、入りて主管吏部架閣文字と為る。母艱に丁す。服闋し、『典故辨疑』百篇を進む。皆本朝の故実なり。蓋し百氏の野史を網羅し、日暦・実録を以て訂し、その正舛を核す。率ね拠依有り。孝宗読みてこれを褒嘉す。
大理司直に抜擢され、勅令所刪定官に転じ、楚州通判を添差された。郡守の吳曦が都統の劉超と合議し、城壁を撤去して他所に移そうとしたが、大性は「楚城は実に晋の義烏の間(義熙年間)に築かれたもので、最も堅固である。どうして脆薄なものをもって堅厚なものと取り替えようとするのか」と言って、反対を押し通した。臺臣がその阻害を弾劾しようとしたが、果たせなかった。たまたま従官が北客(金使)を見送ることになり、朝廷の命令によって廉訪を兼ねることとなり、実情をことごとく上奏したので、ついに戎帥(劉超)を罷免し、大性を召して太府寺丞に任じ、大宗正丞兼倉部郎に転じ、まもなく工部に改めた。
陳傅良が言事によって国を去り、彭龜年・黄度・楊方が相次いで皆去った。大性は抗疏して言う、「朝廷が清明であるのに、言事者を故なくして去らせるとは、臣の甚だ惜しむところである。数人の心は、皆もとより君を愛するに本づく。その君を愛するを知りながら、その去るに任せて顧みないならば、恐らく端人正士の去る者はこれに止まらないであろう。孟子に曰く、『仁賢を信ぜざれば、則ち国空虚なり』と。臣がこれがために寒心する所以である」。
孝宗が崩御し、光宗は病気のため、喪に服することができなかった。大性は再び上疏して言う、「今日の事態は、顛倒錯乱しており、まして金使の祭奠には北宮の素帷で引見すべきであるのに、この時になってもなお出御できないことがあろうか(いや、あるはずがない)。『礼記・檀弓』に曰く、『成人に兄死して喪に服さざる者有り。子皐(孔子の弟子)が成の宰とならんとするを聞き、遂に衰(喪服)を為す。成人曰く、「兄は則ち死せり、而して子皐之が為に衰を為す」と』。これは成人が子皐の来ることを畏れて初めて制服したのであり、その服は子皐のためにしたのであって、兄のためではなかったというのである。もし陛下が必ず使節が来てから後に喪に服されるならば、恐らく中外に譏りを貽すこととなり、何ぞただ成人の如きのみならんや」。軍器少監に遷り、司封郎を権め、浙東常平を提挙し、浙東提刑兼慶元府知事に改めた。吏部郎中に召され、四転して司農卿となった。翌年、戸部侍郎を兼ねた。
紹興府知事として出向し、わずか一年で、戸部侍郎に召され、尚書に昇進した。朝廷で用兵の議論が起こると、大性は利害を条陳し、軽挙すべからざる説を主張したため、韓侂冑の意に逆らい、平江知府として出向し、福州知事に移り、さらに江陵知府に移り、荊湖制置使を充てられた。江陵は用兵の後で、荒廃飢饉し、さらに疫病が続いた。大性はまず救済貸付を議し、総計三十八万緡余りに及んだ。前任官の虚額(欠損)は総計十四万五千緡に上り、すべて免除して督責せず、流民で新たに復業した者は、すべて徴税専売を免除するよう奏上した。辺境の郡の武爵は本来士気を鼓舞するためのものであったが、濫受が増えていた。大性は両路の戎司が逃亡兵の官位証書(付身)を濫りに受けていることを弾劾し、総計三千四百九十七通に上り、すべて上納させて抹消し、左選(武選)が一清された。江陵では従来銅銭を用いていたが、銅銭は重く紙幣(楮幣)は軽く、民が財貨を持って市に入っても、終日しても一銭も得られないことがあった。大性は襄陽・郢州の例に倣い鉄銭を通用させるよう奏請し、これにより貨幣流通が円滑になり、民は初めて復業した。刑部尚書兼詳定勅令に任じられ、まもなく兵部に転じた。
当時金国が分裂し、自存できなくなったため、北伐を提議する者がいた。大性は和戦の説が未定であることを上疏し、朝臣を集めて議論するよう乞うた。これに従った。まもなく端明殿学士として平江府知事となり、病気を理由に祠官を乞い、家で卒した。享年七十七。開府儀同三司を追贈され、諡は「文恵」。
李氏は積中以来三代にわたり朝廷に官し、父子兄弟は師友の関係にあった。そして大性は弟の大異・大東とともに従列(従官の列)に並び、名臣と称された。
任希夷
開禧初年、太常寺主簿を務め、「紹熙以来、礼書が編次されておらず、歳月が経つにつれ、散逸する恐れがある。本寺に修纂を命じられたい」と奏上した。これに従った。礼部尚書兼給事中に遷った。「周惇頤・程顥・程頤は百代の絶学を提唱したので、議論を定めて諡を賜うべきである」と言った。その後、惇頤に「元」、顥に「純」、頤に「正」の諡が贈られたが、いずれも希夷が発案したものである。
端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事に進んだ。史弥遠が国政を執ること久しく、執政は皆名ばかりの員数であり、議論する者はその拱手黙座を頗る譏った。まもなく臨安洞霄宮の提挙となり、薨去した。少師を追贈され、諡は「宣献」。
徐応龍
位階を改め、瑞州高安県知事となった。呂祖儉が言事して韓侂冑に逆らい、高安に謫死した。応龍はその喪を経紀し、かつ文を為して誄した。禍を避けるよう勧める者がいたが、応龍は「呂君は我が敬する所である。これによって譴責を受くるとも、また願う所である」と言った。朱熹は応龍に書を送り、「高安の政は、義風凛然たり」と言った。淮西機宜文字を主管し、南恩州知事となった。
陳自強が国政を執ると、彼は旧く同舎(同窓)であったが、応龍は雷州を乞い去った。都進奏院監に召され、国子博士・守工部員外郎に遷り、戸部侍郎に進み、国子司業兼実録院検討官・崇政殿説書・守秘書少監兼権工部侍郎に転じた。
当時金主が汴京に遷都した。応龍は言う、「金人は窮して南奔し、やがて溢れ出て我が境を踏むであろう。金が滅びれば、新たな敵が生まれることが、特に憂慮すべきである」。侍講を兼ね、言う、「人主は天下の人材を尽く知ることはできないから、宰相に責を負わせるべきである。宰相は天下の人材を尽く知ることはできないから、公論によって採るべきである。李吉甫が宰相となった時、人材を得たと称されたが、三人の推薦は裴垍の上疏によって出たのである」。
吏部侍郎に遷り、刑部尚書に進み侍読を兼ねる。応龍は講筵において、多く時政を指陳した。一日、呉起が卒のために疽を吮う事を読みしに、応龍奏して曰く、「起が士卒を恤ふこと此の如く、故に能く其の死力を得たり。今軍将は賄に依りて遷るを得、専ら掊克を事とし、多く怨むるを免れず」と。上驚きて曰く、「債帥の風、今猶ほ未だ除かざるか」と。宰相史弥遠之を聞きて悪み、侍読を免ず。未だ幾ばくもせず、太子詹事を兼ぬ。会に景献太子薨じ、請ひて老ゆるを許さず、吏部尚書に徙り、煥章閣学士を以て嵩山崇福宮を提挙す。嘉定十七年に卒す。開府儀同三司を贈られ、諡して「文肅」と曰ふ。
子:栄叟、官は参知政事に至り、諡して「文靖」と曰ふ。深叟、官は終に将作監丞。清叟、枢密院事を知り参知政事を兼ぬ。各伝有り。
莊夏
莊夏、字は子禮、泉州の人なり。淳熙八年の進士。慶元六年、大旱あり、詔して言を求む。夏時に贛州興国県を知り、封事を上りて曰く、「君は陽なり、臣は君の陰なり。今威福下に移る、是れ陰勝つなり。積陰の極まり、陽気散乱して収まらず、其の弊は火災と為り、旱蝗と為る。願はくは陛下陽剛の徳を体し、後宮戚里・内省黄門をして、思ひ位に出でざらしめよ、是れ陰を抑へ陽を助くるの術なり」と。
召されて太学博士と為る。言ふ、「比年藩を分ち節を持するに、詔墨未だ乾かざるに改除し、坐席未だ温まらざるに地を易へ、一人にして歳に三たび節を易へ、一歳にして郡四たび守を易ふ、民力何に由りて裕ならん」と。国子博士に遷り、召されて吏部員外郎を除き、軍器監に遷り、太府少卿と為る。出でて漳州を知り、宗正少卿兼国史院編修官と為り、尋いで権に学士院を直し太子侍読を兼ぬ。時に流民来帰す、夏言ふ、「荊襄・両淮に耕さざるの田多く、口を計ひて地を授け、屋廬牛具を貸すべし。吾其の始めて至るに乗じ、以て其の欲を得べく、彼其の死せざるを幸ひ、以て其の労を忘るべし。兵民合す可く、屯田成る可し、是れ万世一時なり」と。
中書舎人兼太子右庶子・左諭徳を試み、言ふ、「今戦守成らずして規模定まらず、則ち和好の説、間を乗じて入るを得。今日の患ひ、兵冗より大なるは莫し。将帥に行下し、老弱をして自ら陳せしめ、子若しくは弟侄若しくは婿の強壮及び等しき者を以て之を収刺し、其の名糧に代へしむるを乞ふ」と。上曰く、「兵卒の子弟は召募の百姓と異なり、卿の言是れなり」と。兵部侍郎・煥章閣待制を除き、祠を与へられて帰る。嘉定十年に卒す。
王阮
時に孝宗初めて即位し、高宗の志を成さんと欲し、首に建業を經理して以て進取を図らんと詔す。而して大臣巽懦幸安し、計決せず。阮礼部を試み、策に対して曰く、
「臨安は幽に蟠り阻に宅り、湖に面し海を背き、膏腴沃野、以て休養生聚するに足れり、其の地利は休息に在り。建康は東南の重鎮、長江を控制すること呼吸の間に、上下千里、以て呉・楚を虎視し、梁・宋に応接するに足れり、其の地利は進取に在り。建炎・紹興の間、敵人は勝に乗じて長駆直搗し、而して我が師亦た甚だ憊たり。上皇は時晦を養ふに遵ひ、平らぐを得ず、乃ち臨安に駐まり、以て休息を計る所以なり。已に三十年、闕くる者は全くし、壊るる者は修め、弊する者は整へ、廃する者は復し、曩昔に較ぶれば、倍萬不侔なり。主上独り遠く覧み、挙げて諸を事業に措く、固より臨安を以て居るに足らざるに非ざるなり。戦守の形既に分かれ、動静進退の理異なるなり。
古者国を立つるは、必ず恃む所有り、国を謀るの要は、必ず其の恃む所の地を負ふ。秦には函谷有り、蜀には剣閣有り、魏には成皐有り、趙には井陘有り、燕には飛狐有り、而して呉には長江有り、皆其の恃み以て国と為す所なり。今東南の王気、建業に鍾り、長江千里、控扼の会する所、輟めて顧みず、退きて幽深の地を守り、将に終身せんとするが若し、是くの如くして国を謀ると曰ふ、果たして善謀と為すを得んや。且つ夫れ戦ふ者は地を以て本と為す、湖山回環するは、孰れか龍盤虎踞の雄と与にせん。胥潮奔猛なるは、孰れか長江の険と与にせん。今議者は徒らに呉・越の僻固に習ひて、秣陵の通達を知らず、是れ猶ほ富人の財、通都大邑に布せずして、金を匣して之を守るが若く、愚かしくは半夜の或は失はんことを恐る。儻し六飛順動せば、中原は跬歩の間に在り、況んや一建康をや。古人言有り、『千里の行も、足下より起こる』と。人の患ふるは為さざるのみ。」
知貢挙范成大之を得て読み、歎じて曰く、「是れ人傑なり」と。
南康都昌主簿に調じ、廉声を以て聞こえ、永州教授に移る。書を闕下に献じ、呉・楚の牧馬の政を罷め、而して馬を蜀茶馬司に積み、以て往来の綱驛の費・歳時の分牧の資を省かんことを請ふ。凡そ数千言。紹熙中、濠州を知り、曹瑋の方田を復し、种世衡の射法を修め、日ごとに守備を講じ、辺民と親しく北境の事宜を訪ふことを請ふ。終に阮の濠に在るまで、金敢へて南侵せず。撫州を知るに改む。
王質
王質、字は景文、その先祖は鄆州の人であったが、後に興国に移住した。質は経史に広く通じ、文章をよく綴った。太学に遊学し、九江の王阮と並び称された。阮はしばしば言った、「景文の古事を論ずるを聴くは、酈道元の『水経』を読むが如し、名川と支川とが貫穿周匝して、間断なく、咳唾皆珠璣を成す」と。
質は張孝祥父子と交遊し、深く器重された。孝祥が中書舎人となった時、質を挙げて制科に推薦しようとしたが、ちょうど国を去ったため果たせなかった。論五十篇を著し、歴代の君臣の治乱を論じ、これを『朴論』と称した。紹興三十年の進士に及第し、大臣の言により、館職に召し試みられたが、就任しなかった。翌年、金主完顔亮が南侵し、御史中丞汪澈が荊・襄を宣諭し、また翌年、枢密使張浚が江・淮を都督した時、皆質を属官として辟召した。入朝して太学正となった。
時に孝宗はたびたび宰相を替え、国論が定まらなかったので、質は上疏して言った。
「陛下が即位されて以来、慨然として時に乗じて有為の志を起こされたが、陳康伯・葉義問・汪澈が朝廷に在っても、陛下は皆これを才とされず、ここにおいて先ず義問を逐い、次いで澈を逐い、ただ康伯に対しては躊躇し、進退に難じられたが、陛下の意は終にこれを鄙しみ、遂に史浩を用いることを決意され、しかも浩もまた陛下の意に称せず、ここにおいて張浚を用いることを決し、しかも浚もまた成果なく、ここにおいて湯思退を用いることを決された。今、思退が国政を専任すること既に数ヶ月、臣はその終に陛下に益なきを量る。
宰相の任に一人不適任ならば、陛下の志は一度沮喪する。先日、康伯は陛下を持して和を執り、和は成らず。浚は陛下を持して戦を執り、戦は験せず。浚はまた陛下を持して守を執り、守は既に困窮し。思退はまた陛下を持して和を執る。陛下はまた嘗て和・戦・守の事を深く察せられたか。李牧は雁門に在りて、法は守を主とし、守にして乃ち戦有り。祖逖は河南に在りて、法は戦を主とし、戦にして乃ち和有り。羊祜は襄陽に在りて、法は和を主とし、和にして乃ち守有り。何ぞ分かちて相合せしめざるに至らんや。
今、陛下の心志は未だ定まらず、規模は未だ立たず。或いは陛下に告げて、金は弱く且つ亡ぶべく、而して吾が兵は甚だ振うと、陛下は則ち勃然として燕然に勒するの志有り。或いは陛下に告げて、吾が力は恃むに足らず、而して金人且つ来らんと、陛下は即ち委然として平涼に盟するの心有り。或いは陛下に告げて、吾は進むべからず、金は入るべからずと、陛下はまた蹇然として鴻溝を指すの意有り。臣をして陛下のために謀らしめば、三者を一つに会せしめて、天下何ぞ治まらざらんや。」
天子は質の忠なることを心に知りながらも、忌む者共が質が年少にして異論を好むと讒言したため、遂に罷免されて去った。ちょうど虞允文が川・陝を宣撫するに当たり、質を辟召して同行させた。一日、契丹への檄文を草することを命じると、筆を執り立ちどころに成し、文辞気勢は激壮であった。允文は起ちてその手を執り、「景文は天才なり」と言った。入朝して勅令所刪定官となり、枢密院編修官に遷った。允文が国政を執った時、孝宗は諫官を擬進するよう命じ、允文は質が鯁亮にして曲がらず、且つ文学が時に推重されることを以て、右正言に任ずべしとした。時に中貴人が権勢を振るい、多く質を畏憚し、密かにこれを沮んだため、出して荊南府通判とし、吉州に改めたが、皆赴任せず、祠官を奉じて山居し、禄仕の意を絶った。淳熙十五年卒。
陸游
時に楊存中が長く禁旅を掌ったが、游はその不便を力説し、上はその言を嘉し、遂に存中を罷免した。中貴人で北方の珍玩を買い求めて進上する者があったが、游は奏上して言った、「陛下は『損』を以て斎名とされ、経籍翰墨の外は、屏して用いられない。小臣が聖意を体せず、輒や私に珍玩を買い、聖徳を虧損す、厳しく禁絶せられんことを乞う」と。
詔に応じて言った、「宗室・外家でない者は、たとえ実に勲労有りとも、王爵を輒や加うるを得ず。近頃、師傅として殿前都指揮使を領する者有り、また太尉として閤門事を領する者有り、名器を瀆乱す、加えて訂正せられんことを乞う」と。大理寺司直兼宗正簿に遷った。
孝宗が即位すると、枢密院編修官兼編類聖政所検討官に遷った。史浩・黄祖舜が游が詞章に優れ、典故に詳しいと推薦したため、召し出されて対見し、上は言った、「游は力学して聞こえ有り、言論は剴切なり」と。遂に進士出身を賜った。入対して言った、「陛下が即位された初めは、詔令を信じて人に示す時であるのに、官吏将帥は一切玩習している。宜しくその特に沮格する者を取り、衆と共にこれを棄つべし」と。
和議が成らんとする時、游はまた書を以て二府に申し上げて言った、「江左は呉以来、建康を捨てて他の都とする者無し。駐蹕臨安は権宜より出で、形勢固からず、饋餉便ならず、海道近接し、意外の憂い凛然たり。一たび和した後は、盟誓既に立ち、動もすれば拘礙有り。今当に之と約すべく、建康・臨安は皆駐蹕の地に係り、北使の朝聘は、或いは建康に就き、或いは臨安に就く。然らば則ち我は暇時を得て都を建て国を立つることを得、彼は我を疑わず」と。
時に龍大淵・曾覿が権勢を振るい、游は枢臣の張燾に言った、「覿・大淵は権を招き党を植え、聖聴を熒惑す。公が今言わざれば、異日将に去ること得ざらん」と。燾は急ぎこれを聞こえさせ、上はその言葉の由来を詰問し、燾は游と答えた。上は怒り、出して建康府通判とし、まもなく隆興府に改めた。言事者が游が台諫と交結し、是非を鼓唱し、力を張浚に説いて兵を用いさせたと論じたため、免官されて帰った。久しくして、夔州通判となった。
王炎が川・陝を宣撫するに当たり、辟召して幹弁公事とした。游は炎のために進取の策を陳べ、中原を経略するには必ず長安より始め、長安を取るには必ず隴右より始むべしとした。当に粟を積み兵を練り、隙あれば則ち攻め、無ければ則ち守るべし。呉璘の子の挺が代わって兵権を掌ったが、頗る驕恣で、財を傾けて士を結び、屡々過誤により人を殺し、炎は誰何すること能わなかった。游は玠の子の拱を以て挺に代えるよう請うた。炎は言った、「拱は怯懦にして謀寡く、敵に遇えば必ず敗れん」と。游は言った、「挺をして敵に遇わしめば、その敗れざるを安んじて保せんや。仮令功有りとも、愈々駕馭すべからず」と。後に挺の子の曦が僭叛した時、游の言は初めて験された。
范成大が蜀を統帥した時、陸游は参議官となり、文字を以て交わり、礼法に拘らず、人々はその頽放を譏ったので、自ら放翁と号した。後に累遷して江西常平提挙となった。江西に水災が起こると、『義倉を撥して振済し、諸郡に檄を飛ばして粟を発し民に与えよ』と奏上した。召還されると、給事中趙汝愚がこれを駁したので、遂に祠官とされた。起用されて厳州知州となり、宮闕を過ぎて陛辞する時、上は諭して曰く、『厳陵は山水の勝地なり、職事の暇に、賦詠を以て自ら適うべし』と。再び召されて入見すると、上は曰く、『卿の筆力は回転すること甚だ善し、他人の及ぶところにあらず』と。軍器少監を除かれた。
方信孺
方信孺、字は孚若、興化軍の人なり。雋才有り、未だ冠せざるに能く文を為し、周必大・楊万里見て之を異とす。父崧卿の蔭を以て、番禺県尉を補す。盗賊海賈を劫う、信孺之を捕う。盗賊方に沙聚して鹵獲を分かつ、惶駭して舟に趨かんと欲す。信孺已に人をして盗賊の舟を負いて去らしむ。乃ち悉く盗賊を縛し、一人も失わず。
韓侂冑恢復の謀を挙ぐ。諸将軍に僨い、辺釁已まず。朝廷尋いで悔い、金人も亦兵を厭う。乃ち韓元靚を遣わして来使せしむ。而して都督府も亦再び壮士を遣わして敵に書を遺う。然れども皆其の要領を得ること能わず。近臣信孺の使うべきを薦む。蕭山丞より召し都に赴かしめ、命して使事を以てせしむ。信孺曰く、『釁を開くは我よりす、金人設い首謀を問わば、当に何を以て之に答うべきや』と。侂冑矍然たり。朝奉郎・枢密院検詳文字を仮し、枢密院参謀官を充て、督帥張岩の書を奉じて金国元帥府に通問す。
濠州に至る。金帥紇石烈子仁之を獄中に止め、露刃して環り守り、其の薪水を絶ち、五事を以て要す。信孺曰く、『俘虜を返し幣を帰すは可なり、首謀を縛送するは古に之無し、藩を称し地を割くは則ち臣子の忍びて言う所に非ず』と。子仁怒りて曰く、『若し生還を望まざるか』と。信孺曰く、『吾将命して国門を出づる時、已に生死を度外に置けり』と。
汴に至り、金左丞相・都元帥完顔宗浩に見え、出でて伝舎に就く。宗浩将命者をして来らしめ、五説を堅持し、且つ謂く、『藩を称し地を割くは、自ら故事有り』と。信孺曰く、『昔靖康倉卒に三鎮を割き、紹興は太母の故を以て暫く屈す、今日顧みて用うべて故事と為すべきや。此事独り小臣の敢えて言う所に非ず、行府も亦敢えて奏せざるなり。請う面を丞相に見えて之を決せん』と。将命者引きて前に進む。宗浩方に幄中に坐し、兵を陳べて之を見る。云く、『五事従わずんば、兵南下せん』と。信孺弁対少しも詘せず。宗浩之を叱して曰く、『前日兵を興し、今日和を求む、何ぞや』と。信孺曰く、『前日兵を興して復讐するは、社稷の為なり。今日己を屈して和を求むるは、生霊の為なり』と。宗浩詰むる能わず、報書を授けて曰く、『和と戦とは、再び至るを俟ちて之を決せん』と。
信孺還る。詔して侍従・両省・台諫官に議せしむ、以て復命すべき所以を。衆議、俘獲を還し、首謀を罪し、歳幣五万を増し、信孺を遣わして再び往かしむ。時吳曦已に誅せらる。金人の気頗る索く、然れども猶初議を執る。信孺曰く、『本朝は幣を増すを以て已に卑屈と為す、況んや名分地界をや。且つ曲直を以て之を校うるに、本朝兵を興すは去年四月に在り、若し書を貽って吳曦を誘わば、則ち去年三月なり、其の曲固より在り。強弱を以て之を言わば、若し滁・濠を得ば、我も亦泗・漣水を得たり。若し胥浦橋の勝を誇らば、我も亦鳳凰山の捷有り。若し我の宿・寿を下す能わざるを謂わば、若し廬・和・楚を囲めば果たして能く下すや。五事已に其三に従えり、而して猶我を聴かずんば、再び兵を交えるのみ』と。
金人信孺の忠懇なるを見て、乃ち曰く、『割地の議は姑く寝む。但だ藩を称するに従わずんば、当に叔を以て伯と為し、歳幣の外、別に師を犒う可し』と。信孺固執して許さず。宗浩計窮まり、遂に密かに約を定む。復命し、再び差して通謝国信所参謀官を充て、国書誓草及び許通謝百万緡を奉じて汴に抵る。宗浩前説を変じ、信孺の曲折建白せざるを怒り、遽に誓書を以て来る、『誅戮禁錮』の語有り。信孺動かず。将命者曰く、『此事は犒軍の銭を以て了うべからず』と。別に事目を出す。信孺曰く、『歳幣は再び増す可からず、故に通謝銭を以て之に代う。今此を得て彼を求む、吾が首を隕すのみ』と。将命者曰く、『然らずんば、丞相公を留めんと欲す』と。信孺曰く、『此に留まるは死、命を辱するも亦死す、此に死するに若かず』と。会す蜀兵散関を取る。金人益々疑う。
信孺還り、言う、『敵の欲する所の者は五事なり。両淮を割くは其一、歳幣を増すは其二、軍を犒うは其三、帰正人等を索むは其四、其の五は敢えて言わず』と。侂冑再三問う、厲声を以て之を詰むるに至る。信孺徐に曰く、『太師の頭を得んと欲するのみ』と。侂冑大いに怒り、三秩を奪い、臨江軍に居住せしむ。
信孺春より秋に至るまで、金に使いしこと三往復、口舌を以て強敵を折す。金人計屈し情見る。然れども其の屈せざるを憤り、議用うるも就かず。已にして王柟使いに出で、和議を定む。幣を増し首を函すること、皆前に信孺の持して不可とせし所なり。柟廟堂に白す、『信孺は敵酋を弁折す、強愎未だ易く告げ語るべからざるの時に当たり、信孺は其の難に当たり、柟は其の易に当たる。柟毎に見ゆるに、金人は必ず信孺の安在するやを問う。公論の推す所、敵と雖も掩うこと能わざるなり』と。乃ち詔して信孺に自便せしむ。
尋いで韶州を知り、累遷して淮東転運判官兼提刑となる。真州を知り、即ち北山に水匱を築き石堤を築く、袤二十里、人其の為す所を知る莫し。後金人儀真に迫る。守将水匱を決して以て敵を退く、城乃ち全きを得たり。山東初めて内附す。信孺言う、『豪傑は虚名を以て駕御すべからず、武夫は弱勢を以て弾圧すべからず。宜しく威望重臣を選び、精兵数万を将い、山東に幕を開き、主を以て客を制し、重を以て軽を馭すれば、則ち山東を包み江北を固くし、而して両河は吾が目中に在らん』と。坐して責め降され三秩、再び祠を奉じ、稍々官を復す。
信孺性豪爽、金を揮うこと糞土の如し。至る所賓客其の後車に満つ。北に使する時、年纔かに三十。既に齟齬して帰り、居室を岩竇に営み、自ら詩酒に放つ。後貲用竭き、賓客益々落つ。信孺尋いで亦死す。
王柟
王柟、字は汝良、大名の人なり。祖父の倫は、同簽書樞密院事たり。倫は北使となりて死す。孝宗、その孫の未だ祿を受けざる者三人を訪い求め、之に官を授く。柟はその一人なり。通州海門の尉に調ぜらる。軽舟に乗じて海濤に入り、劇賊小吳郎を捕え、その徒十七人とともにこれを獲る。獄成りて、賞を受けず。
韓侂胄、恢復を以て兵端を起こす。天子、継好して民を息まんことを思い、凡そ七たび使を遣わすも成らず。続いて方信孺を遣わし往かしむ。将に成説あらんとす。白事を坐して侂胄に忤い、罪を得たり。再び使を遣わさんと欲す。顧みるに廷に在りて可とする者なし。近臣、柟を以て薦む。監登聞鼓院に擢げ、右司郎中を仮し、書を持たしめて北行せしむ。柟帰りてその母に白す。母曰く、「汝が祖は忠を以て国に死す。故に恩、子孫に及ぶ。汝其れ勉めよ、吾が老いを念うことなかれ」と。乃ち命を拝し、疾駆して敵の所に抵る。
柟、金人の牒を持ち帰り、侂胄の首を函に入れることを求む。起居郎の許奕を通謝使と為し、柟を通謝所参謀官と為す。柟、軍前より再び還り、侂胄の首を以て淮・陝の侵地を易えんことを議し、之に従う。柟奏す、「和約の成るは、皆な方信孺の備嘗險阻し、再三将命するの功なり。臣、人に因りて事を成す。信孺の功を録し、その過を蠲くことを乞う」と。朝論、柟の人を掩わず己を揚げざるを以て之を多し。軍器少監を守り、楚州を知る。累官して太府卿に至る。告帰し、右文殿修撰を以て太平州を知り、集英殿修撰を加えられ、致仕す。卒す。宝章閣待制を贈らる。
論じて曰く、樓鑰は渾厚正大、李大性は直言して其の先に愧じず、任希夷は先儒に諡を請い、徐応龍は経筵に在りて裨益すること多し。莊夏・王阮・王質は皆な其の有為の才を負い、卒に祠を奉じて国を去る。陸遊は学広くして望隆く、晩年韓侂胄の為に堂記を著す。君子之を惜しむ。抑も『春秋』は賢者に責むること備わりなり。方信孺は年少にして使を奉じ、而して意気を以て金人を折す。王柟北より帰り、信孺の功を録するを請う。長者なるかな。