宋史

列傳第一百五十三 胡紘 何澹 林栗 高文虎 陳自強 鄭丙 京鏜 謝深甫 許及之 梁汝嘉

胡紘

胡紘、字は應期、處州遂昌の人なり。淳熙年中、進士に挙げらる。紹熙五年、京鏜の推薦により、都進奏院を監り、司農寺主簿・秘書郎に遷る。韓侂胄が権力を用い、朱熹・趙汝愚を逐う。意なお快からず、遂に胡紘を擢て監察御史とす。胡紘未だ達せざりし時、嘗て建安にて朱熹を謁す。朱熹は学を待つ者に惟だ脱粟飯のみ、胡紘に遇するも異ならざるを能わず。胡紘悦ばず、人に語りて曰く、「是れ人情に非ず。隻鶏尊酒、山中に乏しきと為さざるなり」と。遂に亡去す。是に及び、趙汝愚を劾し、且つ其の朱熹を引用して偽学の罪首と為すを詆る。汝愚遂に永州に謫せらる。

汝愚初め罪に抵り国を去るや、搢紳大夫と夫れ学校の士は、皆憤悒して平らかならず、疏論甚だ衆し。侂胄之を患え、汝愚の門及び朱熹の徒に知名の士多きを以て、己に便ならず、尽く之を去らんと欲し、一一罪を以て誣うべからずと謂いて、則ち偽学の目を設けて以て之を擯る。何澹・劉德秀を用いて言官と為し、専ら偽学を撃たしむ。然れども未だ熹を攻むるを誦言する者無し。独り胡紘疏を草して将に上らんとす。会に太常少卿に改まり、果たさず。沈繼祖、程頤を追論するを以て察官を得たり。胡紘遂に稿を以て之に授く。繼祖の熹を論ずるは、皆胡紘の筆なり。

寧宗、孝宗の嫡孫として三年の服を行わんとす。胡紘言う、止だ期服すべしと。詔して侍従・臺諫・給舎に集議して服を釈せしむ。是に於て胡紘を太常少卿に徙め、其の礼を草定せしむ。既にして親しく太廟を饗す。

胡紘言責を解かるるや、復た疏を入れて云く、「比年以来、偽学猖獗し、不軌を図り、上皇を動搖し、聖徳を詆誣し、幾くんぞ大乱に至らんとす。頼むに二三大臣・臺諫の死力を出だして之を排するに、故に元悪命を殞し、群邪跡を屏う。御筆に『偏を救い中を建つ』の説有りてより、或いは誤って天意を認め、奉承に急にして、調停の議を倡え、前日の偽学の姦党を取りて次第に之を用い、以て他日の相報復せざるを冀幸す。往者建中靖国の事、以て戒めと為すべし。陛下何ぞ未だ悟らざるや。漢の霍光、昌邑王賀を廃し、一日にして群臣一百余人を誅す。唐の五王、武三思を殺さざるに、旋踵せずして皆三思の手に斃る。今縦え古法を尽く用うる能わずと雖も、亦宜しく且つ退きて田里に伏し、愆咎を循省せしむべし」と。俄に胡紘を起居舎人に遷す。詔して偽学の党、宰執の進擬を権めて住ますは、胡紘の言を用うるなり。是より学禁益々急なり。起居郎に進み、権工部侍郎、礼部に移り、又吏部に移る。同知貢挙・宏詞を考ふるに当たらずして坐し罷む。未だ幾ばくもあらず、学禁漸く弛み、胡紘亦た廃棄せられ、家に卒す。

何澹

何澹、字は自然、處州龍泉の人なり。乾道二年進士、累官して国子司業に至り、祭酒に遷り、兵部侍郎を除す。光宗内禅す。右諫議大夫兼侍講を拝す。

澹は本より周必大に厚くせらる。始め学官と為り、二年遷らず。留正奏して之を遷す。澹必大を憾む。諫垣に長ずるに及び、即ち必大を劾す。必大遂に策免せらる。澹嘗て善くする所の劉光祖と之を言う。光祖曰く、「周丞相豈に論ずる可からざる無からんや。第だ其の門に佳士多し。並びに其の薦むる所の者に及ぶべからず」と。澹聴かず。

時に姜特立・譙熙載、春坊の旧恩を以て頗る用いらる。一日、光祖澹を過ぐ。因りて澹に語りて曰く、「曾・龍の事再ぶべからず」と。澹曰く、「姜・譙の謂いなるに非ずや」と。既にして澹光祖を引いて便坐に入る。則ち皆姜・譙の徒なり。光祖始めて澹の謾諾するを悟る。明年、澹同知貢挙と為る。光祖殿中侍御史を除せらる。首めて学術邪正の章を上る。奏名に及び、光祖旨を被り院に入り号を拆く。澹と席甫めて逼る。澹曰く、「近日風采一新せり」と。光祖曰く、「異を立つるに非ず。但だ嘗て大諫に言える者、今日之を言うのみ」と。既に出づ。同院光祖に謂いて曰く、「何自然、君の上る所の章を見て、数夕恍惚たり。定志丸を餌う。他は知るべし」と。御史中丞に進む。

澹に本生の継母の喪有り。有司に其の服する所を定めんことを乞う。礼寺言う、官を解くべしと。澹、不逮事の文を引き、給・諫に議せしめんことを乞う。太学生喬嚞・朱有成等、書を澹に移して謂う、「足下自ら臺諫を長ず。此れ綱常の係る所なり。四十余年、以て所生の継母として之に事う。其の終りに及び、反って生を逮ばずと為して心喪を持たず。可ならんや。奉常は礼の出づる所なり。顧みて臺諫・給舎を以て之を議せしむ。識者有りて以て之を窺うなり」と。澹乃ち去る。制を終え、煥章閣学士・知泉州を除し、明州に移す。

寧宗即位す。朱熹・彭龜年、韓侂胄を論ずるを以て俱に絀けらる。澹還りて中丞と為り、趙汝愚の援引せざるを怨む。汝愚時に已に相を免ぜらる。復た其の寿皇の良法美意を廃壊するを詆る。汝愚職を落とし祠を罷む。又言う、「専門の学、流れて偽と為る。願わくは風厲して学者に、専ら孔・孟に師い、自ら相標榜するを得ざらしめん」と。同知枢密院事・参知政事を除し、知枢密院に遷る。

呉曦、時宰に賄を通じ、帥しょくを図る。未だ澹に賄するに及ばず、韓侂胄已に之を許す。澹持して不可とす。侂胄怒りて曰く、「始め君の相就く肯うを以て、偽学を黜し、汲引して此に至る。今顧みて異を立つるか」と。資政殿大学士を以て洞霄宮を提挙す。起きて知福州と為る。澹外に居り、常に怏怏として失意し、書を以て侂胄に祈り、曰く有り、「跡は東冶に在りと雖も、心は南園に在り」と。南園は侂胄の家圃なり。侂胄之を憐む。観文殿学士に進み、尋いで隆興府を知るに移す。後、江淮制置大使兼知建康府を除し、湖北に使を移し、江陵を知るを兼ぬ。祠を奉じて卒す。少師を贈らる。

澹は姿容美くしく、談論を善くす。少年科名を取り、栄進に急にして、権姦に阿附し、善類を斥逐し、偽党の禁を主り、賢士之が為に一空と為る。其の後更化し、凶党俱に逐わる。澹は早退を以て倖免し、散地に優遊すること幾二十年なり。

林栗

林栗、字は黄中、福州福清の人なり。紹興十二年の進士に及第し、崇仁尉に調じ、南安軍の教授となる。宰相陳康伯が太学正に推薦し、太常博士を守る。孝宗即位し、屯田員外郎・皇子恭王府直講に遷る。

時に金人和を請い、叔姪の国と約し、且つ帰疆を以て請う。栗、封事を上りて言う。

「前日の和は、誠に計に非ざるなり。然れども徽宗の梓宮・慈寧行殿彼に在り、是の為に屈するは、猶名有り。今日の和は、臣其の説を知らず。宗廟の仇にして、之に事うるに弟姪を以てす、其れ祖宗をして之を聞かしむるを忍びんや。唐・鄧無くんば、則ち荊・襄に歯寒の憂い有り。泗・海無くんば、則ち淮東の備え真・楊に達し、海道の防ぎ明・越に遍からん。議者皆、和戎の幣は少なく、養兵の費は多しと言う。講和の後、朝廷能く兵を養わざることを知らざるか。今東南の民力は、陛下の知る所なり、朝廷安んぞ較えざるを得んや。且つ徒に益無きのみに非ず。之に歳幣を与うるは、是れ之を畏るるなり。三軍の情、安んぞ懈弛せざらん。帰正の心、安んぞ携貳せざらん。今日の計と為すに、使を停めて遣わさず、其の期を遷延すべし。来春に比するに、別に動息無く、徐かに境上に於いて書を移し、両国の誓言を以て諭すべし。之を敗るは彼より自り、信は衷より由らず、盟と雖も益無し。今より分界を守り、生霊を休息し、聘使の往来を煩わさず、各々疆場の無事を保つべし。焉んぞ疲弊の州県を用い、以て犬羊の使を奉ぜんや。」

孝宗、紹興の権臣の弊を懲創し、躬ら権綱を攬り、臣下に責任を以てせず。栗言う。「人主権に蒞り、大臣権を審にし、争臣権を議し、王侯・貴戚は善く権を撓ます者なり、左右近習は善く権を窃む者なり。権大臣に在れば、則ち大臣重し。権邇臣に在れば、則ち邇臣重し。権争臣に在れば、則ち争臣重し。是の故に人主常に権臣下に在るを患え、必ず収攬して独り之を持たんと欲す。然れども能く独り之を持つ者未だ有らず。大臣に之を持たしめざれば、則ち王侯・貴戚得て之を持ち、邇臣に之を審にせしめ、争臣に之を議せしめざれば、則ち左右近習得て之を議す。人主顧みて其の権を得て自ら之を執るを得たりと謂う、豈に誤らざらんや。是の故に明主は人に権を持たしめて以て権を之に与えず、其の権を収攬して肯て独り之を持たず。」「鹿を以て馬と為し、鶏を以て鸞と為す」の語有るに至る。方に奉対する時、「人主常に権臣下に在るを患え、必ず収攬して独り之を持たんと欲す」と読むに至り、孝宗善しと称す。栗徐かに曰く、「臣意なお下文に在り。」執政孝宗に訴うる者有りて曰く、「林栗臣等を指鹿為馬と謂う。臣実に之と朝を同じくするを願わず。」乃ち出でて江州を知る。

旨有りて江州屯駐の一軍を省併す。栗奏す。「辛巳・甲申、金再び両淮を犯す。江州一軍の分布防托に頼る、故に舒・蘄・黄の三州独り寇されず。本州上は鄂渚に至る七百里、下は池陽に至る五百里。平時の屯戍は、誠に益無きが若し、万一警有らば、鄂渚の戍は上りて荊・襄を越え、池陽の師は下流に備えを増し、中間千里の藩籬、誠に虚闕と為す。一夫の議を以てして、長江千里の防を廃すこと無かれ。」是れに由りて軍動かざるを得る。

吏部員外郎を以て召さる。冬至、南郊に事有り。前期十日、百執事誓戒を聴く。会に節を廃し、旨有りて上寿に楽を用いず。迨うて金使を宴すれば、乃ち権に楽を用うるの命有り。栗以て不可と為し、宰相に書を致す。聴かず。乃ち挙冊官を充つるを免ぜんことを乞い、状を以て朝廷に申して曰く。「若し楽を聴かば則ち斎を廃し、斎を廃せば則ち敢えて以て祭せず。祖宗二百年天に事うるの礼、今一介の行人に因りて之を廃す。天の畏るべきは、外夷よりも遠く過ぎたり。」聴かず。

皇子慶王府直講を兼ぬ。旨有りて二王に時を非ずして講読官を招延し、相与に時政を議論し、規益を尽くさんことを期せしむ。栗以て不可と為し、疏を上りて言う。「漢武帝、戾太子の為に博望苑を開き、卒に太子を敗る。唐太宗、魏王泰の為に文学館を立て、卒に魏王を敗る。古者世子を教うるは、吾が祖宗の太子・諸王を輔導する所以と、惟だ経を講じ史を読むを事と為すのみ。他は預からず。若し時政を議論せしめば、則ち是れ子をして父を議らしむ。古人之を無礼と謂う。聖意を留めざるべからず。」

右司員外郎を除き、太常少卿に遷る。太廟祫享の制、始祖東向、昭南向、穆北向、別廟の神主は祖姑の下に祔し、本室の南北向に随いて西向の位無し。紹興・乾道の間、懿節・安穆の二后升祔す。有司幄を設けて西向す。逮うて安恭皇后新たに祔す。有司前失を承け、其の西向の位、幾くんぞ僖祖と相対せんとす。栗之を辨正す。

直宝文閣を除き、湖州を知る。栗朝辞して曰く。

「臣聞く、漢人賈誼は国体に通達すと号す。其の上る所の書、痛哭流涕するに至るは、其の指帰を考うるに、大抵一身を以て天下の勢を諭す。其の言に曰く、『天下の勢方に大瘇に病めり。徒に瘇のみに非ず、又た𨁣盭を苦しむ。又た辟に類し、且つ痱に病めり。』と。臣每に見る、士大夫時事を論ずるを好むを。臣輒ち挙げて以て之に問う。『今日の国体、四百四病の中に於いて、名を何の病と為す。能く其の病を言う者は猶お未だ必ずしも能く其の方処せず。其の病を言う能わずして輒ち其の方処せば、其の人を誤りて死なしむる、必ずなり。』と。臣の言を聞く者は忿せざれば則ち黙す。間に反って以て臣を詰むる者有り。即ち之に対いて曰く、『今日の病、名を風虚と為す。其の状半身随わず是れなり。風は外に在り、虚は内に在り。真気内に耗す。故に風邪外より自りして之に乗ず。忽ち人中り、時に応じて僵仆す。則ち靖康の変是れなり。幸いに元気猶お存す。故に仆れて復た起つ。則ち建炎の興是れなり。然れども元気存すと雖も、邪気尚お盛なり。淮より北は皆吾が故壤にして、号令及ばず、正朔加うること能わず。半身随わざる者に異なること有らんや。但だ半身随わずのみに非ず。半身存する者は、凜凜乎として風邪の乗ずるを畏れて以て自ら安んずる能わざるなり。』今日の論者は、譬えば痿人の起つを忘れざるが如し。奚ぞ必ずしも賢智の士にして、然る後に国と其の願いを同じくせん。而して市道の庸流、口伝耳受し、苟も嘗試して以て其の方を售げんと欲すれば、則ち蕩熨針石、雑然として並び進む。体虚の人宜しく軽く受くべからざるなり。医に聞く、『中風偏廃は、年五十以下にして気盛んなる者は治し易し。蓋し真気と邪気相い敵い、真気盛んなれば則ち邪気衰え、真気行けば則ち邪気去る。然れども真気半存の身に充滿せざれば、則ち以て偏廃の体に及ぶ無し。故に此の疾を起さんと欲する者は、必ず其の嗜欲を禁じ、其の思慮を節し、其の気血を愛し、其の精神を養い、半存の身をして日以て充実せしむ。則ち陽気周流し、脈絡宜暢し、将に杖を捨てて行くを覚えざらん。若し疾を愈やすに急にして其の本を顧みざれば、百毒口に入り、五臓風を受く。風邪の盛んなる未だ卒去すべからず。而して真気の存する者は日以て耗亡す。故に中風再び至る者は多く救う能わず。』と。臣愚、斯の言に感有り。窃かに謂う、賈誼復た生まれ、陛下に言わば、此を易うる無からんと。」

興化軍の知軍となり、さらに南剣州に移り、夔路提点刑獄に任ぜられ、夔州知州に改められ、直敷文閣を加えられた。夔州に属する郡に施州があり、その羈縻郡に思州があった。施州の民である譚汝翼という者は、思州知州の田汝弼と仲が悪く、たまたま汝弼が死去すると、汝翼は兵二千を率いてその喪中を攻撃した。汝弼の子の祖周は深く入り込んで報復し、両軍は三州の境で戦い、施州・黔州は大いに震動した。汝翼はさらに甲兵を整え、壮丁を徴発し、重い財貨で諸洞から兵を借り、また帥府に援軍を求めた。高栗は言った、「汝翼こそ実に乱を招く者である」と。檄を移して兵をやめさせ、そこで属吏を選んで兵職を代行させ、次第に汝翼の権力を収めさせた。兵馬鈐轄に命じて諸州を巡閲させ、密かに檄を施州に届け、その場で州の事務を代行させた。汝翼はそれに気づかず、やがて慌てふためいて成都に逃げ込んだ。事が上聞され、孝宗は親筆の書簡を高栗および成都制置使の陳峴に賜り、「田氏はなお羈縻州郡であるが、譚氏は夔路の豪族であり、しかもまず事端を開いたのであり、帥閫がこれを弾圧できず、ここまで放縦させたのである。もしなお悔い改めなければ、兵を加えてその元凶を除くことを免れない」と言った。当時汝翼は成都におり、これを聞いて逃げ帰り、家丁と八砦の義軍を動員し、沱河橋に陣を並べて官軍と戦い、敗れて汝翼は逃げ去り、その徒党四十三人を捕虜とし、甲冑・武器三万一千を獲得した。栗はそのうちの大悪人九人を誅殺した。田祖周はこれにより恐れ、その母の冉氏と謀り、黔江の田産を献上し、銭九十万緡に相当するものを計らって罪を贖おうとし、蛮の辺境はこうして安定した。

やがて汝翼が都に入り、高栗が田氏から金を受け取ったと訴えたので、詔して汝翼を官吏に付属させ、省の書状が夔州に下った。栗は自ら奏状を書いてこれを返上し、併せてその事を弁明した。上は大いに怒った。たまたま近臣に救い解こうとする者がおり、まもなく栗が帥臣の身でありながら、みだりに上命を阻んだ罪に坐し、官職を削られ罷免されて帰郷した。やがて大理寺が追究し、事が明白となり、汝翼の死罪を許し、紹興府に幽閉した。

しばらくして、詔があり、栗は累ねて職務を歴任し、清廉で節操があり評判が高いとして、再び直宝文閣・広南西路転運判官に任ぜられ、そのまま提点刑獄に改められ、さらに潭州知州に改められた。秘閣修撰に任ぜられ、集英殿修撰・隆興府知府に進んだ。便殿に召し出されて対し、唐の制度にならって補闕・拾遺を左右に各一名ずつ置き、糾弾を責務としないことを奏上して乞うた。従われた。兵部侍郎に任ぜられた。朱熹が江西提刑から召されて兵部郎官となったが、熹はすでに都門に入ったものの、就職しなかった。栗と朱熹は相見え、『易』と『西銘』について論じ合って意見が合わなかった。この時、栗は吏部に命じて熹を催促させたが、熹は足の病気を理由に休暇を請うた。栗はそこで論じて言った、「朱熹は本来学術がなく、ただ張載・程頤の余緒を盗み、浮誕の宗主となり、これを道学と称し、妄りに自らを推し尊んでいる。赴くところ必ず門生十数人を引き連れ、春秋・戦国の態を習い、妄りに孔子・孟子が歴聘した風を望み、治世の法でこれを律すれば、乱人の首魁である。今その虚名を採り、彼に入奏させ、朝列に置き、順次に収用しようとしている。しかるに熹は命令を聞いた当初、道中で遷延し、高い代価を要求し、門生が代わる代わる遊説し、政府が風聞を許すと聞いて、その後やっと入門した。すでに陛対を経て、郎官に任ずる旨を得たのに、なお不満を抱き、幾日も傲然と眺め、供職しようとしない。これは果たして張載・程頤の学が教えたところなのか。朱熹がすでに兵部郎官に任ぜられた以上、臣の統轄するところにあり、もしこれを挙劾しなければ、その罪は同じである。朱熹を停職罷免し、しばらく反省させ、君に事えるのに礼を欠く者の戒めとされることを望む」。

上はその言葉が過当であるとしたが、大臣たちは高栗の強情を恐れ、深く論じる者はなかった。太常博士の葉適のみが単独で封事を上書してこれを弁明して言った。

「高栗の言辞を考察すると、始めから終わりまで参酌検証しても、一つとして事実に合うものはない。その中で『道学と謂う』という一語が、最も事実無根である。そもそも昔から小人が良善を残害するには、おおよそ指摘する名目があり、あるいは好名とし、あるいは立異とし、あるいは植党とした。近ごろ突然『道学』という名目を作り出し、鄭丙が唱え、陳賈がこれに和した。要路に居る者は密かに相伝授し、士大夫で少しでも潔白な修養を務め、粗く操守を持つ者を見ると、すぐに道学の名を帰する。まるで菜食の魔事(吃菜事魔)や、影跡が禁令に触れる(影跡犯敗)の類のようである。かつて王淮が台諫と表裏し、ひそかに正人を廃したのも、この術を用いたのである。高栗は侍従の身でありながら、陛下の意志と慮りを達する術がなく、かえって鄭丙・陳賈が密かに相伝授した説を襲い、道学を大罪とした。言葉を飾り立て、一人の朱熹を追放しただけでは、さほど害はないが、ただ恐れるのは、これより虚言が事実無根となり、讒言が横生し、善良な者が害を受け、あらゆることが起こらないことがないということである。願わくは陛下が紀綱の在るところを正し、すでに形となった欺瞞を絶ち、暴横を摧抑して善類を扶け、剛断を奮い起こして公言を慰められたし」。

そこで侍御史の胡晉臣が高栗を弾劾し、罷免させ、泉州知州に出し、さらに明州知州に改めた。祠官となって卒し、諡は「簡肅」とされた。

高栗は人となり強情で節操があり才能があったが、性急で狭量であり、私憤を快くしようとして、ついに名儒を攻撃誹謗し、師の教えを廃絶するに至り、ほとんど鄭丙・陳賈・何澹・劉德秀・劉三傑・胡紘の輩が邪に党して正を害する者と同じ類である。かつて事を論じたことは、雄弁で見るべきものがあったが、晩節の誤りを覆い隠すには足りない。

高文虎

高文虎、字は炳如、四明の人、礼部侍郎高閌の従子である。紹興庚辰の進士に及第し、平江府呉興県主簿に任ぜられた。

曾幾が呉に官を守っていた時、文虎は彼に従って交遊したので、見聞が広く博識で、多く典故を識っていた。国子正に任ぜられ、太学博士に遷った。孝宗が両学に臨幸した時、祭酒の林光朝が文虎に儀注の詳細を訪ねたので、文虎は国朝以来の臨幸故事を編集してこれを授けた。国史院編修官を兼ね、『四朝国史』の編修に参与した。建昌軍知軍に出て、将作丞兼実録院検討官に抜擢され、『高宗実録』を編修した。また玉牒所検討官を兼ね、『神宗玉牒』を編修した。熙寧以来、史書が混淆雑多で、人は取って信じるものがなかった。文虎は朱墨本をことごとく取り、謬妄を刊正し、一つ一つ研究校覈した。すでに奏上した後、さらに『徽宗玉牒』を編修し、宣和・崇寧・大観以来のことを考訂することは特に詳密であった。

寧宗が即位すると、軍器少監兼将作監に遷り、国子司業兼学士院権直に遷り、祭酒・中書舎人に遷り、直学士院兼祭酒を兼ね、実録院同修撰・同修国史に昇進した。

韓侂冑が権力を用い、趙汝愚・朱熹を追放した後、その門下に知名の士が多いため、偽学の名目を設けてこれを排斥し、ついに文虎に詔を起草させて言った。

「かつて権臣が朝廷を擅にし、偽邪の徒が朋党を結び付き、協力して姦宄をほしいままにし、禍心を包蔵していた。天の霊、宗廟の福を頼み、朕は慈訓を承け、内禅を受けることを得て、陰謀は壊散し、国勢は再び安んじた。士大夫とともに精神を励まして更始することを嘉し与え、および淫朋比徳と称する者は、ほとんど自新することを望んだが、数年を経てここに至っても、その教化に従わない。交わりを結び盟を合わし、隙間を窺い伺い、毀誉が食い違い、流言が間欠的に発せられ、国是を傾け衆心を惑わそうとしている。甚だしきは元祐の衆賢にひそかに附そうとし、実は紹聖の姦党に類することを思わない。国家は徳を秉りて康寧であり、汝らの瑕を殄滅することはないが、今みずから安んぜず、その意は流俗の失に漸って復た反すべからざるに至ったのか。あるいは国の寛恩に慣れて罰の及ばないことを恃むのか。どうしてまだ洗濯して朕の意に称することができないのか。朕はすでに二三大臣および侍従言議の官に深く詔し、ますます正論を維持して天下に明示させた。諭告の及ぶところ、宜しく各々視聴を改め回し、再び疑似の説を借りて世俗を惑乱することなかれ。もしその非を遂げて悔い改めず、終わりを恃んで悔い改めなければ、邦に常刑あり、必ず罰して赦すことなかれ」。

西掖(中書省)の詞命(詔勅起草)は、旧来は数人で一つの詞を共作するのが常であったが、文虎はこれでは訓戒を尊び、人材を賛えることにはならないと考え、乃ち各人ごとに別々に作らせた。兵部侍郎兼中書舍人に遷り、また祭酒を兼ね、翰林學士兼侍讀・實錄院修撰に拝され、國史を修めた。華文閣學士・知建寧府に除せられたが、力を尽くして祠官を乞い、太平興國宮提挙となった。台臣の上言により職を奪われ、卒した。

文虎は博覧強記を以て自ら任じ、胡紘と徒党を組み、共に道学を攻撃し、長く学校(国子監)を司り、専ら天下の士人を困窮させ阻遏し、凡そ性命・道徳を説く者は皆退け斥けた。

陳自強

陳自強は、福州閩県の人、字は勉之。淳熙五年の進士に及第した。慶元二年、都に入り選を待った。かつて韓侂冑の童子(幼少期)の師であったことを自覚し、彼に会おうとしたが、自ら通ずる道がなかった。丁度、借りていた家の主人が侂冑の家に出入りしていたので、その人に侂冑に取り次いでもらった。ある日、自強が召され、到着してみると、従官が皆集まっており、侂冑は堂に敷物を設け、自強に向かって再拝し、次いで従官を召して同席させた。侂冑は徐に言った、「陳先生は老儒であり、埋もれているのは気の毒である」。翌日、従官がこぞってその才能を推薦した。太学録に除せられ、博士に遷り、数ヶ月で国子博士に転じ、また秘書郎に遷った。館職に入って半年、右正言・諫議大夫・御史中丞に擢てられた。御史台に入って一月も経たないうちに、遂に枢府(枢密院)に登り、選人から両地(中書・枢密)の官に至るまで僅か四年であった。嘉泰三年、右丞相に拝され、祁国公・衛国公・秦国公に歴封された。

韓侂冑が朝権を専断し、賄賂が盛行する中、自強は特に貪婪で卑劣であった。四方から書状と贈り物が届くと、必ずその封緘に「某物並びに献ず」と題し、書題に「並」の字がないものは開封しなかった。子弟や親戚に賄賂の取り次ぎをさせ、官職昇進の依頼には必ず値段を決めてから与えた。毎日、空名の任命書(刺劄)に押印して侂冑の家に送り、必要に応じて記入するようにし、三省(中書・門下・尚書)は関与させなかった。都城が火災に遭い、自強の貯えは一夜にして灰燼かいじんに帰した。侂冑が真っ先に一万緡を贈ると、執政や諸郡の長がこれを聞き、助けなかった者はなかった。数ヶ月もせずに六十万緡を得て、遂に失った額の倍を手にした。国用司を創設し、自ら国用使となり、費士寅・張岩を同知国用事として、民財を掻き集め、州郡は騒然となった。

侂冑が平章(平章軍国事)になろうとした時、まだ衆議を畏れていたが、自強が真っ先に同列を率いて典故を引き合いに出して上奏した。詔して侂冑を平章軍国事とした。常々人に語って言った、「自強はただ一死を以て師王(韓侂冑)に報いるのみ」。毎度侂冑を恩王・恩父と呼び、堂吏の史達祖を兄と呼び、蘇師旦を叔父と呼んだ。

侂冑が兵を用いようとし、使者を北へ遣わして敵の虚実を探らせようとした時、自強は陳景俊を推薦して行かせた。金人に「好を敗るべからず」との言葉があったが、景俊が帰還すると、自強は使者に言うなと戒め、侂冑は乃ち恢復(北伐)の議を決した。呉曦に逆謀があり、蜀に帰ることを求めて、自強に多額の賄賂を贈った。自強は侂冑に言った、「曦に非ざれば坤維(四川)を鎮めることはできません」。乃ち彼を帰らせたが、曦はついに金人の命を受けて蜀王となった。侂冑の奸悪凶暴、長く国柄を盗みしこと、自強が実にその表裏を為したのである。

既に辺境に隙(戦端)が開かれると、朝野は洶洶として、三度使者を遣わして和を請うた。金人が首謀の賊臣を縛って送ることを要求すると、侂冑は憤慨し、再び兵を用いようとし、朝廷内外は大いに恐れた。史弥遠が侂冑誅殺を建議し、詔して自強を阿附して位を充たすのみで国事を顧みないとして、右丞相を罷免した。間もなく、詔して三官を追奪し、永州居住とし、また武泰軍節度副使に責められ、韶州に安置された。中書舎人倪思が奏状を封還して上奏し、遠方への配流と家財没収を乞うた。詔してこれに従った。再び復州団練副使に責められ、雷州に安置された。後に広州で死んだ。

鄭丙

鄭丙は、字を少融といい、福州長楽の人である。紹興十五年の進士。官を積んで吏部尚書・浙東提挙に至った。朱熹が行部して台州に至り、台州守唐仲友の不法事を奏上すると、宰相王淮が彼を庇った。朱熹は十度上章した。丙は平素より仲友と親しく、且つ宰相の意に迎合して奏上した、「近世の士大夫に所謂『道学』なる者あり、世を欺き名を盗み、信用すべからず」。これは朱熹を指したものである。ここにおいて監察御史陳賈が奏上した、「道学の徒は、名を仮りてその偽を助け、斥擯して用いざるを乞う」。道学という名目は、丙が提唱し賈が和し、その後慶元の学禁となり、善類が迫害を受けたのは、丙の罪が多い。

かつて泉州の知事を務め、政務が暴虐で急峻であった。或る者が寛容を尊ぶよう勧めると、丙は言った、「我は悪を憎むこと素よりあり、豈に晩節を以て守る所を変えようか」。聞いた者はこれを嗤った。丙の官は終に端明殿学士に至り、卒し、諡は「簡肅」であった。

京鏜

京鏜は、字を仲遠といい、章の人である。紹興二十七年の進士に及第した。龔茂良が江西を帥としていた時、彼を見て言った、「子は廟廓(朝廷)の器なり」。茂良が大政(宰相)に参ずると、遂に鏜を推薦して朝廷に入らせた。

孝宗が侍従に良き県令を挙げて台官とするよう詔すると、給事中王希呂が言った、「京鏜は早く儒級(科挙)に登り、二度県令を試み、名声あり。陛下が執法官を求められるなら、鏜こそその人なり」。上は鏜を引見し、政事の得失を問うた。当時、上は万機を統べ始めたばかりで、恢復に鋭意しており、群臣の進言は多く天子の意に迎合し、大功は旦夕の内に成るとしていた。鏜のみが言った、「天下の事は急に思い通りになるものではなく、ゆっくりと図るべきである」。上はその言を善しとした。鏜はここにおいて今日の民の貧しさ、兵の驕り、士気の頽靡を極論し、言葉は甚だ切実で痛切であった。上は喜び、監察御史に擢て、累遷して右司郎官となった。

金が賀生辰使を遣わして来たが、上は高宗の喪に服しており、引見したくないと考えた。鏜が接伴の任に当たり、上意を以てこれを拒んだ。使者が少し宮闕の下に留まることを請うと、鏜は言った、「信使の来たるは、誕節のためなり。誕節の礼が終われば、留まらんとする名目は何か」。使者が去ると、上はその職務に適うことを嘉した。中書門下省検正諸房公事に転じた。

金人が使者を派遣して来朝し、京鏜が報謝使となった。金人の故事によれば、南使が汴京に至れば賜宴を行う。鏜は宴の免除を請うたが、郊労使の康元弼らは従わず、鏜は必ず宴を免れぬならば、楽を撤去するよう請い、書を遺して言うには、「鏜聞く、隣に喪ある者は舂いてうたわず、里にひんある者は巷に歌わずと。今鏜命をふくみて来たり、北朝の恵みを吊するは、これ荷いこれ謝す。北朝その遠きを勤めその労を憫み、郊労の使を遣わし、式宴の儀をととのうるは、徳厚きことこれより大なるは莫し。外臣賜を受く、敢えて重ねて拝せざらんや。若し曰く而して必ず楽を聴かしむとせば、これは聖経に於いては理に悖り、臣節に於いては義に悖る。豈にただ本朝の羞を貽すのみならんや、また豈に北朝の懿を昭かにせんや」と。相持すること久し。鏜館に即き、相礼者席に就くをうながす。鏜曰く、「若し楽を徹せずんば、敢えて席に即かず」と。金人これを迫るも、鏜動かず、徐に曰く、「吾が頭は取る可し、楽は聞く可からず」と。乃ちその属を帥いて館門を出づ。甲士刃を露わして鏜に向かう。鏜これを叱して退く。金人鏜の奪う可からざるを知り、馳せてその主に白す。主歎じて曰く、「南朝の直臣なり」と。特命して楽を免ず。ここより恒に楽を去りて後に鏜に宴す。孝宗これを聞きて喜び、輔臣に謂いて曰く、「士大夫平居孰か節義を以て自ら許さざらん、能く危に臨みて変ぜざること鏜の如き者有らんや」と。

使より還り、入見す。上これを労して曰く、「卿能く礼を執りて国家の気を増す、朕将に何を以てか卿を賞せん」と。鏜頓首して曰く、「北人陛下の威徳を畏るるなり、臣を畏るるに非ず。正に臣をして北庭に死なしむるとも、亦た臣子の常分のみ。敢えて賞を言わんや」と。故事、使還れば秩を増すべし。右相周必大上に言いて曰く、「秩を増すは常典のみ。京鏜の奇節は、今の毛遂なり。惟うらくは陛下これを念わんことを」と。乃ち鏜に工部侍郎をせしむ。

四川に帥を闕く。鏜を以て安撫制置使兼知成都府とす。鏜官に到り、首に征斂を罷め、利を弛めて以て民に与う。瀘州の卒太守を殺す。鏜これをとらえて斬る。蜀大いに治まる。召されて刑部尚書と為る。

寧宗即位し、甚だ尊礼せらる。政府より累遷して左丞相と為る。是の時に当たり、韓侂冑権勢天下を震わす。その親幸する者は禁従より一二歳ならずして宰輔に至る。而して侂冑に附せざる者は、往々沈滞してわず。鏜位を得てより、一変してその素守を改め、国事に於いてみだりに可否する所無く、但だ侂冑の風旨を奉行するのみ。又劉徳秀を薦引して善類を排撃す。ここに於いて偽学の禁有り。

後、宦者王徳謙節度使を除かる。鏜乃ちその麻を裂くことを請う。上曰く、「徳謙一人を除くのみにして止むるは可ならんや」と。鏜曰く、「この門啓く可からず。節鉞已まずんば、必ず三孤に及ぶ。三孤已まずんば、必ず三公に及ぶ。願わくは陛下真宗の劉承規を与えざるを法とし、大観・宣・政の間童貫等の節鉞を冒するを戒めと為さんことを」と。上ここに於いて徳謙を謫し、詞臣呉宗旦を黜す。或いは曰く、亦た侂冑の意なりと。

居ること久しからず、老を以て相を免ぜんことを請い、薨ず。太保を贈られ、諡して「文忠」と曰う。後に監察御史倪千里の言に以て、諡を「荘定」と改む。

謝深甫

謝深甫、字は子粛、台州臨海の人。少にして穎悟、志を刻んで学を為し、数年寐ず、夕には則ち瓶に水を置き足をその上に加え、以て困怠を警めしむ。父景之遠器と識り、臨終その妻に語りて曰く、「是の児当に吾が門を大いにせん。善く訓迪せよ」と。母苦を攻めて志を守り、深甫を督めて力学せしむ。

乾道二年の進士第に中り、嵊県尉に調ず。歳饑え、道旁に死する者有り。一嫗哭訴して曰く、「吾が児なり。某家に傭わり、かすめられて斃る」と。深甫これを疑い、徐にたずねて嫗の子他の所に在るを得、嫗を召してこれを示す。嫗驚き伏して曰く、「某と某と隙有り、我を賂して誣告せしむるのみ」と。

越帥方滋・銭端礼皆深甫を薦めて廊廟の才有りとす。昆山丞に調じ、浙曹考官と為り、一時の士望皆選中に在り。司業鄭伯熊曰く、「文士世に乏しからず、具眼深甫の如き者を求むるは実に鮮し」と。深甫曰く、「文章気骨有り、泰山喬嶽の如く、望みて知る可し。是を以て之を得たり」と。

処州青田県を知る。侍御史葛邲・監察御史顔師魯・礼部侍郎王藺交わってこれを薦む。孝宗召見す。深甫言う、「今日の人才、中枵うつろにして外侈おごる者は多く妄誕、矯訐きょうけつ沽激する者は多く眩鬻げんいくす。激昂する者は披露に急なり、然れども或いは誇りを好むに隣る。剛介なる者は植立に果なり、而れども或いは太だ鋭きに隣る。静退簡黙なる者は寡くして合する所有り、或いは異を立つるに隣る。故に言未だこたえずして已に齟齬し、事未だ成らずして已に挫抑せらる。ここに於いて時を趣き利にしたがう人、専ら身謀に務め、軟熟なるを習い、畏避束手し、因循苟且、年除歳遷、亦た通顕に至る。一たび緩急有れば、倚仗に堪うる莫し。臣願わくは任用使役の際、必ずその実を察し、既にその実を悉くすれば、則ちこれを涵養して以てその才を蓄え、これを振作して以てその気をはげまし、栽培封殖し、沮傷せしむること無からんことを」と。上嘉納す。当世の人才を問う。対えて曰く、「士を薦むるは、大臣の職なり。小臣遠方より来る、明詔を奉ずるに足らず」と。上これを頷き、宰臣に諭して曰く、「謝深甫奏対雍容、古人の風有り」と。籍田令を除き、大理丞に遷る。

江東大いに旱す。てきされて提挙常平と為り、救荒条目の講行、全活すること一百六十余万人。光宗即位し、左曹郎官を以て礼部尚書を借り賀金国生辰使と為る。紹熙改元、右正言を除き、起居郎に遷り兼ねて権給事中を為す。知閤門事韓侂冑格を破りて遙郡刺史に転ず。深甫内降を封還して云く、「人主爵禄を以て天下の人才を磨厲す、固より重くす可くして軽くす可からず。法令を以て天下の僥倖を隄防す、尤も守る可くして易うる可からず。今侂冑驀越して五官を経ずして遙郡に転ず。僥倖一たび啓けば、攀援踵くびすを至らし、将に何を以てかこれを拒がん。請うその命を罷めん」と。

進士俞古詔に応じて事を言う。語詆訐に渉る。瑞州に送りて読を聴かしむ。深甫謂う、「天変を以て言を求む。未だ旌賞を聞かずして反ってこれを罪す、則ち是れ名は求めて実は拒むなり。俞古は以て道うるに足らず、惜しむ所は朝廷の事体のみ」と。右司諫鄧馹近習を論ず。左遷せらる。深甫馹を還すことを請い、謂う、「近習の故を以て諫官を変易す可からず、清朝の累と為る」と。

二年、臨安府を知る。三年、工部侍郎を除く。入謝す。光宗面諭して曰く、「京尹寛なれば則ち法を廃し、猛なれば則ち民を厲う。独り卿政を為すこと寛猛の中を得たり」と。進みて吏部侍郎を兼ね、兼ねて詳定敕令官と為る。四年、給事中を兼ぬ。陳源久しく罪を以て斥けらる。忽ち内祠を予う。深甫固執して不可とす。姜特立復た詔用せらる。深甫力争す。特立竟に入ることを得ず。張子仁節度使を除かる。深甫疏十一上す。命遂にむ。毎に禁庭燕私、左右恩沢を希う者有れば、上必ず曰く、「謝給事の不可とす有らんことを恐る」と。

寧宗が即位すると、煥章閣待制・建康府知事に任ぜられ、御史中丞兼侍讀に改めた。上奏して言うには、「近年以来、綱紀が確立されていない。台諫が弾劾を行っても、弾劾された者と同時に罷免されることもなく、却って外任に任命される。給事中・中書舎人が奏疏を却下しても、次官に書行を命じることもなく、却って他の官職に遷される。監司が巡察を行っても、両者を放置して問わないか、却って巡察された者が美職を得る。奔走競争によって志を得た者は、もはや廉恥を知らず、請託によって利益を得た者は、もはや常法を知らない。貪欲な行いが横行し、誰もこれを咎めることができず、罪悪が露見しても、何ら憚るところがない。綱紀を破壊すること、これほど甚だしいものはない。在位の者を風紀により厳しく戒め、心を改め考えを変えさせ、朝廷の秩序を粛正すべきである」。礼官が僖祖を祧遷することを議し、侍講の朱熹は不可と為した。深甫は言う、「宗廟は重大な事柄であり、軽々しく改革すべきではない。朱熹の考訂には根拠がある。朱熹の議に従うべきである」。

慶元元年、端明殿学士・簽書樞密院事に任ぜられ、参知政事に遷り、さらに知樞密院事兼参知政事に遷った。内侍の王德謙が節度使に任ぜられようとした時、深甫は三度上疏して大観の覆轍を踏むべきではないと力説し、徳謙はついに斥けられた。金紫光禄大夫に進み、右丞相に拝され、申国公に封ぜられ、岐国公に進封された。光宗の山陵(陵墓)造営に際し、総護使となった。帰還後、少保に拝されたが、固辞し、魯国公に改封された。

嘉泰元年、累次上疏して退位を請うたが、寧宗は言った、「卿は朕のために法度を守り、名器を惜しむことができる。去就を言うべきではない」。座を賜って茶を賜り、御筆で『説命』の中篇と金幣を書いて賜った。

余嚞という者がおり、上書して朱熹を斬り、偽学を絶つことを請い、かつ蔡元定を偽党と指弾した。深甫はその上書を投げ捨て、同僚に語って言った、「朱元晦(朱熹)・蔡季通(蔡元定)はただ互いにその学問を講明し合っているに過ぎない。果たして何の罪があろうか。余嚞は蟣蝨のような微臣に過ぎないのに、敢えてこのように狂妄である。共に上奏して処分を行い、他の者を戒めとすべきである」。

金の使者が入見の儀式に従わなかったので、寧宗は立ち上がって禁中に入ったが、深甫は端然として立ったまま動かず、金使を殿隅で待たせ、帝が再び殿に出御してから、使者を導いて国書を奉呈させ、終始旧儀の通りに行った。

少保に拝された。致仕を請い、醴泉観使を授けられた。翌年、少傅に拝され、致仕した。居宅に星が隕落し、そこで薨去した。後に孫娘が理宗の后となったため、信王に追封され、衛王・魯王と改封され、諡は「恵正」とされた。

許及之

許及之、字は深甫、温州永嘉の人である。隆興元年に進士に及第し、袁州分宜県知事となった。部使者の推薦により、諸軍審計に任ぜられ、宗正簿に遷った。乾道元年、林栗が諫官の増員を請うたので、唐の制度にならって拾遺・補闕を置き、及之を拾遺とし、班序を監察御史の上とした。

高宗が崩御すると、及之は言った、「皇帝が既に三年の喪に躬行されるのであれば、群臣は純吉の服に従うのは難しく、常服に黒帯とすべきである」。王淮が長く国政を執っていた時、及之は上奏した、「陛下が即位されて二十七年になるが、群臣が聖意のようになれないのは、苟且を以て安栄と為し、姑息を以て仁恕と為し、任事を肯んじないことを簡重と為し、任怨を敢えてしないことを老成と為すからである。敢えて直言する者を軽薄と指弾し、恥知らずの者を朴実と謂う。陛下がこのような人物を得て宰相とされても、何の治への補益がありましょうか」。王淮はついに職を罷められて宮観使とされた。

光宗が受禅すると、軍器監に任ぜられ、太常少卿に遷ったが、言官の弾劾により罷免された。紹熙元年、淮南運判兼淮東提刑に任ぜられたが、鉄銭の濫悪により職務を果たさず、位階を降格され、廬州知事となった。召還されて大理少卿に任ぜられた。寧宗が即位すると、吏部尚書兼給事中に任ぜられた。及之は早くに薛叔似と共に拾遺・補闕に抜擢され、共に当時評価されていた。党争が起こると、善類は一掃され、叔似は累次排斥・追放されたが、及之は韓侂冑に諂い事え、手段を選ばなかった。かつて侂冑の誕生日に、朝臣が祝賀に集まったが、及之は遅れて到着し、宦官が門を閉めて拒んだので、及之は腰をかがめて入った。尚書となって二年も昇進がなく、侂冑に会って涙を流し、その知遇の恩と衰え遅れた様子を述べ、知らず膝を屈した。侂冑は哀れに思い憐れんで言った、「尚書の才望は、簡(簡閲)されて上心に留まっている。行く行くは進んで拝されるであろう」。間もなく、同知樞密院事となった。当時「竇(穴)尚書・屈膝執政」という言葉があり、笑い話として伝えられた。

嘉泰二年、参知政事に拝され、知樞密院事兼参知政事に進んだ。兵端が開かれると、侂冑は及之に金陵を守らせようとしたが、及之は辞退した。侂冑が誅殺されると、中丞の雷孝友が上奏して、及之は実際に侂冑を助けて辺境を開き、金陵を守る件では初めて詭計を用いて行くのを免れたと述べた。二階降格され、泉州居住を命ぜられた。嘉定二年、卒去した。

梁汝嘉

梁汝嘉、字は仲謨、処州麗水の人である。外祖父の太宰何執中の任子(蔭補)により官に入り、中山府司議曹事に調任された。建炎初年、常州武進県知事となった。知事がその治績を推薦したので、通判州事に抜擢され、直秘閣を加えられ、転運副使まで歴任した。

臨安に知事が欠員となり、火災と盗賊が頻発したので、汝嘉にその職務を代行させた。汝嘉は消防制度を整え、巡邏を厳しくし、盗賊が発生すればすぐに捕らえ、火災も鎮静化した。そこで正式に任命し、直龍図閣を加えた。職務に適任であったので、徽猷閣待制に抜擢され、戸部侍郎を試任し兼ねて臨安府知事となった。累進して戸部侍郎となり、権尚書に進み兼ねて江・淮・荊・広経制使となった。

汝嘉は平素秦檜と親しくしていたが、殿中侍御史の周葵がこれを弾劾しようとした。汝嘉はこれを聞き、中書舎人の林待聘を欺いて言った、「副端(殿中侍御史)が君を論じようとしている」。待聘は急いで檜に告げ、周葵は起居郎に転任させられた。周葵が後省(中書省)に入り、上疏文を待聘に見せて言った、「梁仲謨はなんと幸運なことか」。待聘は初めて汝嘉に騙されたことを知り、士大夫はこれによって汝嘉を軽蔑した。汝嘉は去職を求め、宝文閣直学士・太平観提挙となった。間もなく、学士に昇進し、明州知事となり、兼ねて浙西沿海制置使となり、さらに温州・宣州・鼎州の三郡を歴任し、再び宮観使となって帰郷した。紹興二十三年、卒去した。汝嘉は吏治に長け、臨安での治績・名声は特に顕著であった。

論ずるに、君子が人を論ずるには、まずその大なるものを観るのみである。忠孝は人の大節なり、胡紘はその君を導きて短喪を行わしめ、忠と謂うべからず。何澹は生みの継母の喪服を疑い、士論紛紜として後に去る、孝と為すべからず。彼らはその大なるものに於いてすら忍んで為す、則ち権姦に協比し、善類を誣構するも、何を憚って為さざらんや。謝深甫の出処は、旧史その跡を泯して、議うべきもの無きが如し。然れども慶元の初め、韓侂胄偽学の禁を設け、善類を網羅して一空せしむ、深甫政を秉る、適に之と同時なり、知らずと諉るは、不可なり。況んや一たび陳傅良を劾し、再び趙汝愚を劾する、深甫の章に形る、掩うべからざる者有らんや。陳自強・鄭丙・許及之の輩は、狐媚苟合して、以て貴寵を窃む、斯れ亦論ずるに足らざるのみ。若し林栗の治才有り、事を論ずるに善く、高文虎の該洽を自負し、京鏜の義に仗ち礼を秉り、志を敵国に信ぜらるるは、抑も豈に称すべきもの無からんや。然れども栗は私忿を以て名儒を詆り、清議に与せられず、而して文虎は偽学の詔を草し、是を非と為し、正を邪と為し、白黒を変乱し、以て当世を欺く、その人知るべし。鏜は暮年政を得て、朋姦取容し、既にその初服に愧ず、況んや偽学の目は、識者鏜実に之を発せりと為すをや。士君子身を立て事を行う、一たびその正を失い、流れて返るを知らず、遂に千古の罪人と為る、懼れざるべけんや。懼れざるべけんや。