宋史

列傳第一百五十二 彭龜年 黃裳 羅點 黃度 周南 林大中 陳騤 黃黼 詹體仁

彭龜年

彭龜年、字は子壽、臨江軍清江の人。七歳で孤兒となり、母に仕えて孝を盡くす。性質穎異にして、書を讀みて大義を解す。長ずるに及び、程氏の『易』を得て讀み、寢食を忘るるに至り、朱熹・張栻に從ひ質疑し、學益々明らかなり。乾道五年の進士第に登り、袁州宜春尉・吉州安福丞を授かる。鄭僑・張枃同じく薦め、太學博士を除す。

殿中侍御史劉光祖、帶御器械吳端を論ずるを以て、太府少卿に徙る。龜年上疏して其の位を復すを乞ひ、宰相に書を貽ひて云く、「祖宗嘗て差除を改易して臺諫の氣を伸ぶ、臺諫を改易して幸臣の私を伸ぶを聞かず」と。魏王府教授を兼ね、國子監丞に遷る。侍御史林大中の薦に以て、御史臺主簿と爲る。司農寺丞に改め、秘書郎に進み嘉王府直講を兼ぬ。

光宗嘗て親しく郊祀し、暴風雨に值ひ疾を感ず。大臣進見を得ること稀なり。久しくして疾平らかなるも、猶ほ疑畏して重華宮に朝せず。龜年、書を以て趙汝愚を譙り、且つ上疏して言ふ、「壽皇の高宗に事ふる、子道を備へ極む、此れ陛下の親しく睹る所なり。況んや壽皇今日に止めて陛下一人のみ有り、聖心拳拳、言はざるも知るべし。特ち過宮の日分に遇ひ、陛下或は其の行を遲らせば、則ち壽皇容れずして宮に到るの旨を降して免せず、蓋し陛下の爲めに人に責を辭し、人をして竊に陛下を議するを得ざらしむ、其の心陛下の來るを願はざるに非ざるなり。古より人君骨肉の間に處する、多く外臣と謀らずして小人と之を謀る、是を以て交鬥日を逐ひて深く、疑隙日を逐ひて大なり。今日兩宮萬萬に此れ無し。然れども臣の憂ふる所は、外に韓琦・富弼・呂誨・司馬光の臣無く、小人の中に已に任守忠の在る者有り、惟ふらくは陛下裁察せよ」と。

又言ふ、「陛下をして過宮定省の禮を虧かしむるは、皆左右小人の間諜の罪なり。宰執侍從は但だ父子の愛を推し、重華を調停する能くし、臺諫は但だ父子の義を仗ひ、人主を責望する能くす。疑間の根に至りては、盤固して去らず、曾て一語も之に及ぶ無し。今内侍兩宮を間諜する者は固より一人に非ず、獨り陳源壽皇の朝に得罪して至りて重く、近く復た進用せらる、外人皆謂ふ、離間の機必ず源より始まると。宜しく亟に威斷を發し、首めて陳源を逐ひ、然る後に鑾輿に肅命し、罪を負ひ慝を引き、以て壽皇に謝し、父子歡然たらしめ、宗社永き有らしむるは、顧みて幸ひならずや」と。居ること亡き幾ばくもなく、光宗重華に朝し、都人歡悅す。尋ひて起居舍人を除し、入りて謝す。光宗曰く、「此の官學識有る人を待つ、卿に非ざれば可とする者無しと念ふ」と。

龜年祖宗の法を述べて『内治聖鑒』を爲し以て進む。光宗曰く、「祖宗の家法甚だ善し」と。龜年曰く、「臣が是の書は大抵宦官・女謁の防ぎ爲す、此の曹若し見ば、數たび經て御覽するを得ざる恐れ有り」と。光宗曰く、「是に至らず」と。他日、龜年奏す、「臣の居る所の官は、人君の言動を記注するを職とす。車駕宮を過ぎて安否を問はず、此の如き書者又數十なり、後世に示すに非ざるを恐る」と。旨有りて玉津園に幸す。龜年奏す、「三宮に奉ぜずして獨り出で宴遊するは、禮に非ず」と。又言ふ、「陛下誤て臣を以て嘉王府講讀官に充つ、正に臣等をして君臣父子の道を教へしめんと欲するなり。臣聞く、身教有り、言教有り。陛下は身を以て教へ、臣は言を以て教ふ。言豈に身の切なるに若かんや」と。

紹熙五年五月、壽皇せず、疾浸く革まる。龜年連ねて三疏を以て對請すも、命を獲ず。屬に上朝を視るに、龜年班位を離れず、伏地して額を扣き久しく已まず、血甃甓に漬く。光宗曰く、「素より卿の忠直を知る、何をか言はんと欲する」と。龜年奏す、「今日宮を過ぎざるより大なるは無し」と。光宗曰く、「用ふるに去るを須ふ」と。龜年言ふ、「陛下屢へ臣に許す、一たび宮に入れば則ち又然らず。内外通ぜず、臣實に痛心す」と。同知樞密院余端禮曰く、「龍墀に額を扣き、曲く忠懇を致す、臣子此に至る、已むを得ざるか」と。上云く、「之を知る」と。

孝宗崩ず。寧宗禪を受く。是の夕召して對す。寧宗額を蹙めて云く、「前に但だ建儲の議を聞くのみ、豈に大位に踐むこと遽かなるを知らんや、泣きて辭するも獲ず、今に至るまで震悸す」と。龜年奏す、「此れ乃ち宗祏の係る所、陛下安くんぞ辭するを得ん。今日但だ人子の親に事ふるの誠を盡すべきのみ」と。因りて起居劄子を擬し、日ごとに一通を進むるを乞ふ。又翊善黃裳と同く奏して南内に往朝し、因りて過宮の禮を定め、先づ一日入奏し、百官を率ひて恭謝するを乞ふ。寧宗泰安宮に朝す。至れば則ち寢門已に閉ざり、表を拜して退く。

時に議有りて別に泰安宮を建てんと欲す。而して光宗宮を徙るるの意無し。龜年言ふ、「古人荊棘を披きて朝廷を立つ、尚ほ政を布き令を出す可し。況んや重華一宮豈に足らざる爲めならんや。陛下狹き處に居り、太上寬き處に居らば、天下の人必ず陛下の心を諒る者有らん」と。是に於て宮果たして建たず。中書舍人に遷る。劉慶祖已に遙郡承宣使を帶ぶ。而して太上の隨龍人を以て階官を落す。龜年繳奏す。寧宗批して「書行す可しと與ふ」と。龜年奏す、「臣慶祖が此の一官を惜しむに非ず、朝廷が此の一門を惜しむなり。夫れ『可與書行』は近世の弊令なり。其れ行ふ可くば、臣即ち書す。使ひ行ふ可からざれば、豈に再令に因りて遂に書せんや」と。寧宗嘗て謂ふ、「退朝して事無くば、自ら怠惰するを恐る、多く書を讀むに非ざれば可からず」と。龜年奏す、「人君の學は書生と異なり、惟だ能く虛心して諫を受け、善に遷り過ちを改むるは、乃ち聖學中の第一事なり、豈に多きに在らんや」と。

一日、御筆を以て朱熹・黃裳・陳傅良・彭龜年・黃由・沈有開・李巘・京鏜・黃艾・鄧馹十人の姓名を書し龜年に示して云く、「十人講官に充つ可きや」と。龜年對へて曰く、「陛下若し一世の傑を招來し朱熹の輩の如くせば、方に人望に厭ふ。專ら潛邸の學官を以て之を爲す可からず」と。尋ひて侍講を除し、吏部侍郎に遷り、侍讀を兼ねて升る。龜年事勢將に變らんとするを知り、會ふ暴雨雷震る。因りて極めて小人の權を竊み、號令時ならざるの弊を陳ぶ。金國弔祭接送伴使に充つるを遣す。

初め、朱熹と龜年、韓侂胄の姦を論ずるを約す。會ふ龜年客を護る。熹上疏を以て絀けらる。龜年之を聞き、附奏して云く、「始め臣熹と此の事を同く論ずるを約す。今熹既に罷む、臣宜しく並びに斥かるべし」と。報ひず。迨ひて歸り、侂胄の用事するを見る。權勢宰相に重し。是に於て其の姦を條數し、謂ふ、「大臣を進退し、言官を更易するは、皆初政最も大體に関はる者なり。大臣或は知ること能はざるも、侂胄之を知り、聲勢を假託し、威福を竊み弄ぶ。去らざれば必ず後患と爲らん」と。上奏を覽みて甚だ駭き、曰く、「侂胄朕が肺腑、信じて疑はざるに、かくの如き謂はざるなり」と。中書に批下し、侂胄に祠を予ふ。已にして乃ち復た入る。

彭龜年が上疏して去職を求めたので、詔により韓侂冑は内祠を与えられ、龜年は郡に任ぜられ、煥章閣待制として江陵府知事・湖北安撫使となった。龜年は祠禄を乞い、慶元二年、呂棐の上言により落職した。やがて三官を追奪され、勒停となった。嘉泰元年、元の官に復した。贛州知事に起用されたが、病気を理由に辞退し、集英殿修撰・提挙沖佑観を授けられた。開禧二年、待制寶謨閣のまま致仕し、死去した。

龜年の学識は正大で、議論は簡直であり、善悪是非を弁別分析することは甚だ厳しく、その君を愛し国を憂うる誠意、先見の明、敢言の気概は、いずれも人の及ぶところではなかった。晚年は閑職に投ぜられてからは悠然として自得し、微かな感情も顔色に表れることはなかった。偽学の禁が行われて以来、士大夫で変節しない者は稀であったが、龜年は関学・洛学の書をますます熟読玩味し、住居に「止堂」と扁額を掲げ、『止堂訓蒙』を著した。まさに終始一貫して独立不羈の士であった。蘇師旦が節度使に任ぜられたと聞いて言うには、「これは韓氏にとっての陽虎である。必ずや韓氏に禍をもたらすであろう」と。また出兵の報を聞いては、「禍はここにあるのか」と言った。著書に『経解』、『祭儀』、『五致録』、奏議、外制がある。

韓侂冑が誅殺されると、林大中と樓鑰はいずれも彼の忠誠を訴え、寧宗は詔を下して寶謨閣直学士を追贈した。章穎らが諡号の追賜を請うと、「忠肅」の諡を賜った。上は章穎らに言われた、「彭龜年の忠鯁は嘉すべきである。諡を得るにふさわしい。もし人々が皆このようであれば、必ずや君を過ちなき地に導くことができるであろう」と。間もなく、龍圖閣学士を加贈し、その子の彭欽を抜擢して用いた。

黃裳

黃裳、字は文叔、隆慶府普成県の人である。幼少より聡明で異なり、文章を綴ることができた。乾道五年の進士に及第し、巴州通江県の尉に任ぜられた。ますます学問に励み、文詞は同輩をはるかに抜きん出て、人々は彼を見て「もはや以前の文叔ではない」と言った。

当時、しょくにおける軍糧の補給は、名目は和糴であったが、実態は民衆から徴収するものであった。裳は『漢中行』という詩を賦して、総領の李蘩を諷諫した。李蘩はこれにより和糴を止め、民衆は便利になった。興元府録事参軍に転じた。四川制置使留正の推薦により、召されて応対し、蜀の兵と民に関する大計について論じた。国子博士に昇進したが、母の喪に服して去職した。宰相が他の官を擬して進めた際、上は裳がどこにいるのかと問い、銭七十万を賜った。喪が明けると、再び召し出された。

ちょうど光宗が即位した時、裳は進み出て応対し、次のように述べた。「中興の規模は守成とは異なる。外に攻め出し内を守るには、利便の地勢に拠るべきであり、行都を定めないわけにはいかない。国を富ませ兵を強くするには、功利の実を求めるべきであり、吏治を考課しないわけにはいかない。内を守り外を防ぐには、緩急の備えを持つべきであり、重鎮を立てないわけにはいかない」。行都についての論では、便利の地勢に就くには建康に及ぶものはないとした。吏治についての論では、品式を立ててその功績を考課し、資考を計ってその任期を長くすべきだと述べた。重鎮についての論では、呉から蜀に至るまで万里に連なる地において、漢中、襄陽、江陵、鄂渚、京口の五箇所を鎮とし、将相大臣に守らせ、五鎮が強ければ国体も重んぜられるとした。太学博士に任ぜられ、秘書郎に進んだ。

嘉王府の翊善に転じ、『春秋』の「王正月」を講じて言った。「周の王は、今の帝である。王が諸侯に号令できなければ、王は王たるに足りない。帝が郡鎮を統御できなければ、帝は帝たるに足りない。今の郡県は、即ち古の諸侯である。周の王はただ諸侯に号令できなかったが故に、『春秋』は必ず『王正月』と書いて、諸侯の正朔を統一したのである。今天下の境土は、祖宗の時代の十分の四にも及ばないが、それでもなお呉・蜀・荊・広・閩・越の二百州に跨り、我が民を任ずる者は二百州の太守であり、我が兵を任ずる者は九都統である。もし統御できなければ、どうしてこれらを服従させられようか」。王が「九都統とは何か」と問うと、裳は言った。「唐の太宗は十八歳で義兵を起こし、禍乱を平定した。今、大王はその年齢を過ぎておられるのに、国家の九都統の説すらまだご存知でない。学問に汲々とすべきではないでしょうか」。

ある日、王が東宮の旧臣である呉端を抜擢して用いた。呉端が王に礼を述べに来ると、王は礼節にかなった対応をした。裳はそこで『左伝』の「礼には等衰あり」を講じ、王に問うた。「先般、呉端をお待ちするのに軽重の節度があったのではないでしょうか」。王が「あった」と答えると、裳は言った。「王者の学問は、まさに事に現れるべきものです。今、王が事に臨んで区別をお付けになったのは、等衰の義を得られたからです」。王はますます学問に心を向けるようになった。そこで裳は八つの図を作って献上した。太極、三才本性、皇帝王伯学術、九流学術、天文、地理、帝王紹運の図であり、百官の図をもって終わり、それぞれ大旨を述べて陳べた。進言するごとに言った。「学問の道は、心をもって体得すべきです。王は心を厳しい師とすべきであり、心に少しでも不安があってはなりません」と。また前代の危亡の事跡を引き合いに出して警戒させた。王は人に言った。「黃翊善の言葉は、人には堪えがたいものだが、ただ私だけが受け入れることができる」。ある日、王が重華宮に参内した時、寿皇(太上皇孝宗)が読んでいる書物を尋ねると、王は挙げて答えた。寿皇が「数が多すぎはしないか」と言うと、王は「講官の訓説が明白で、心から楽しんでおり、多いとは思いません」と答えた。寿皇は「黃翊善は至誠であり、その講義はよく聞くがよい」と言った。

裳は長く王邸に侍り、毎年の誕節には詩を陳べて諷諫の意を寓した。初め渾天儀と輿地図を作り、詩章を添えて献上し、王が天象を観て進学の志を知り、天運の如く止まぬことを悟り、地図を披いては祖宗の境土の半分が異域に陥ちて未だ帰らざるを思うようにさせた。その後また、王が講じた三経について詩三章を作って進呈した。王は喜び、酒宴を設け、自らその詩を書写して賜った。王がかつて宮中で宴に侍った時、ゆったりと光宗に『酒誥』を誦して言った。「これは黃翊善が教えてくれたものです」。光宗は裳を労う詔を下した。裳は言った。「臣は朱熹には及びません。朱熹は四十年学問を積んでおります。もし召して府の僚属とされれば、益するところがあるでしょう」。光宗は嘉納した。裳は講義のたびに、必ず古を引き今を証し、事に即して理を明らかにし、王の心を開導し得るものは、言わないことはなかった。

紹熙二年、起居舎人に転じた。上奏して言った。「古より人君が諫言に従えないのは、その蔽いが三つあるからである。第一は私心、第二は勝心、第三は忿心である。事がもし公に出ずして、己の見解に固執するのを私心という。私心が生ずれば、諫める者を疎ましく思い、これに勝とうと求める。勝心が生ずれば、諫める者を仇と見なし、これを追い出そうと求める。私によって勝が生じ、勝によって忿が生ずる。忿心が生ずれば、事は道理を得られないものとなる。例えば潘景珪は凡庸な人材である。陛下もまたもとより常人として遇しておられた。ただ台諫が攻撃してやまないために、陛下がますます力を入れて庇護なさり、事の勢いが相激して、ここに至ったのである。宜しく事に因って静かに観察し、心に係わるものなくさせ、そうすれば台諫の言を聞いて悦ばないことはなく、勝とうとする心もなくなり、台諫を待つ心に誠でないことはなく、忿りを加える意もなくなるであろう」。

三年、中書舎人を試みた。当時、武備は次第に弛緩していた。裳は上疏して言った。「寿皇(太上皇孝宗)は在位三十年、将兵を慰撫なさり、将士は常に効死して報いることができないことを恨んでおりました。陛下が誠に武事に留意なされれば、三軍の将士の誰が感激して陛下のために用いられようとしないでしょうか」。また論じて言った。「荊・襄の形勢は呉・蜀の中間に位置し、その地は四方に平らである。もし金人が襄陽を衝き、江陵を占拠し、兵を抑えて守れば、呉と蜀は中断される。これは今日の辺備において最も憂うべきことである。宜しく鄂渚の兵一二万人を分けて襄陽・漢中の間に駐屯させ、形勢を張り重地を壮んにすべきである」。当時、朝廷は安泰に耽っており、裳の言うところは多く省みられなかった。

間もなく、給事中に任ぜられる。趙汝愚が同知樞密院事に任ぜられると、監察御史汪義端が祖宗の法として、宗室は執政官とならずと上言し、再び上疏して汝愚を醜く誹謗したため、汝愚は官を免じられんことを請うた。裳が上奏して言うには、「汝愚は父に仕えて孝、君に仕えて忠、官にあっては廉である。国を憂い民を愛するは天性より出で、青天白日の如く、奴隷といえどもその清らか明らかなるを知る。義端の見るところは、皆奴隷にも及ばず、朝廷の列に居らしむべからず」。ここにおいて義端は外郡に転じた。

裳が門下省にあって一月足らずの間に、封駁することおおよそ十数回に及んだ。韓侂冑が階官を落とされ、鄭汝諧が吏部侍郎に任ぜられた際、裳はいずれもその任命を退けた。兵部侍郎に改められたが拝命せず、ついに顕謨閣待制を以て翊善に充てられた。先に、光宗は憂慮疑心より病を成し、重華宮に赴かず、裳は上疏して五日に一度の朝謁を請うたが、ここに至って再び苦言を呈した。上(光宗)が言うには、「内侍楊舜卿が朕に宮を過ぐるなかれと告げた」。裳は舜卿を斬るよう請う、かつ八事の項目を以て上奏した。曰く、恩を念い、怨みを解き、讒言を弁じ、疑いを去り、己を責め、天を畏れ、乱を防ぎ、過ちを改む、と。報いられず。

裳はかつてできものの病にかかり、ここに至って憂憤し、創が再発した。また上奏して言うには、

「陛下が寿皇(孝宗)に対して、未だ孝養の道を尽くさざるは、思うに必ず疑うところあるによるのでしょう。臣ひそかに疑いを致す原因を推すに、陛下は焚廩・浚井の故事を憂えているのではありませんか。そもそも焚廩・浚井は、当時あるいはあったことでしょう。寿皇の子は陛下ただお一人、寿皇の御心は、陛下に託すこと甚だ重く、陛下を愛すること甚だ甚だしく、故に陛下を憂うること甚だ切なる。御不例の折、香を焚き天を祝し、陛下のために祈祷なされた。子を愛することこの如きならば、焚廩・浚井の心は、臣は以て必ず無きを知る。陛下何ぞ疑わん。またあるいは粛宗の故事を憂えているのではありませんか。粛宗が霊武で即位したのは、明皇の意に非ず、故に疑い無きを得ず。寿皇は未だ倦勤ならざる時に、自ら神器を執りて陛下に授け、揖譲の風、堯・舜に符節を同じくす。明皇の事とは同日に論ずべからざること明らかなり。陛下何ぞ疑わん。またあるいは衛の輒の故事を憂えているのではありませんか。輒と蒯聵は、父子国を争う。寿皇は老いてかつ病み、北宮に神を養い以て康寧を保たれ、天下の事を陛下に付された。争う心あるに非ず。陛下何ぞ疑わん。またあるいは孟子の責善を疑っているのではありませんか。父子の責善は、本来愛より生ず。子たる者この理を知れば、何ぞ相い害するに至らん。寿皇は陛下が聖帝たらんことを願い、責善の心は忠愛より出で、恩を賊するに非ず。陛下何ぞ疑わん。

この四者は、あるいは疑いをなす所以のもの。臣が理を以て推すに、初め一つとして疑うべきもの無し。父子の間、小に猜疑あるより、この心一旦萌せば、方寸遂に乱る。故に天変あれば疑いて畏るるを知らず、民困すれば疑いて恤れむを知らず、宰執の権を専にするを疑えば大臣を礼せず、台諫の事を生ずを疑えば忠諫を受けず、嗜欲の害無きを疑えば酒色に近づき、君子の党あるを疑えば小人を庇う。疑うを須いざる事は、疑わざるもの無し。しかるに天子として貴くして、孝を以て聞こえず、敵国これを聞きて軽侮を肆にせんとするは、これ疑うべきなり。然るに陛下は則ち疑わず。小人将に起りて乱をなさんとするは、これ疑うべきなり。然るに陛下は則ち疑わず。中外の官軍、豈に他志無からんや、これ疑うべきなり。然るに陛下は則ち疑わず。事の疑うべきものは、反って疑わずと為す。顛倒錯乱、これより甚だしきは莫し。禍乱の萌し、旦夕に近し。今に及んで幡然として過ちを改め、聖駕を整え、両宮に謁し、以て父子の歓を交わすに宜しい。然らば則ち四夷風に向かい、天下義を慕わん」。

時に寿皇の御不例に会い、中外憂危す。裳は声を抗して諫めた。上(光宗)は起ちて宮中に入らんとし、裳はその裾を引き連れて宮門に至り、涕を揮って出でた。ここにおいて連章して外任を請い、言うには、「臣の職務に三あり。曰く待制、曰く侍講、曰く翊善。今、待制の職を供せしめんとするか。則ち日夕に対を求めて以て主の失を救うべし。今、宮を過ぎず、子道を虧く。前後三たび諫めて聴かざれば、是れ待制の職を廃すべし。将に侍講の職を供せしめんとするか。則ち経を引き古を援き、君を勧めて孝ならしむべし。今、安否を問わず、疾を視ず、大義已に喪われたり。復た何の書を講ぜん。是れ侍講の職を廃すべし。将に翊善の職を供せしめんとするか。義理を究め、皇子を教えて孝ならしむべし。陛下孝を以て寿皇に事うること能わず、臣将に何の説を以て皇子を勧めん。是れ翊善の職を廃すべし」。ここに関を出でて命を待つ。寿皇の遺詔を聞くに及んで、乃ち急ぎ入りて臨んだ。

寧宗即位す。裳は病みて朝す能わず。礼部尚書に改められ、尋いで侍読を兼ねる。力を病に押して入謝し、上奏して言うには、

「孔子曰く、『始め有り終わり有る者は、其れ惟れ聖人か』。また詩に曰く、『初め有らざるは靡し、克く終わり有るは鮮し』。『始め有り終わり有る』とは、其の心を一に持するによる。『克く終わり有るは鮮し』とは、其の心を一に持せざるによる。陛下今日の初政は固より善し。能く他日常に此の如くならんことを保たんや。請う、略挙げて已に行われし事を論ぜん。

陛下初めて万機を理め、大臣を委任せらる。此れ正に人君の要を持するの道を得たり。大臣を得人せしめ、常に今日の如くならば、則ち陛下終身之を守るも可なり。臣恐るらくは数年之後、亦た意を出だして作為し、躬親して聴断せんと欲し、左右迎合し、因って陛下に事は外庭に決し、権は上に帰せずと言わんことを。陛下能く心に咈然とせざらんや。臣恐るらくは是の時に至りては、大臣を委任すること、今日の如く専らならざらんことを。そもそも万機の衆は、一人の能く酬酢すべきに非ず。苟も大臣を委任せずんば、則ち必ず左右に借助す。小人志を得、陰に主権を窃み、邪党を引用せん。其の禍患を為す、何ぞ至らざる所あらん。臣の憂うる所、一なり。

陛下台諫を奨用し、言うところ聴かざる無し。此れ正に祖宗の官を設くるの意を得たり。台諫を得人せしめ、常に今日の如くならば、則ち陛下終身之を守るも亦た可なり。然れども臣恐るらくは今より以往、台諫の言日に聖聴に関わり、或いは小人の過ちを斥けて、陛下其を用いんと欲するも能わず、或いは近習の罪を暴きて、陛下其に親しまんと欲するも不可ならしめん。逆耳の言は、厭わざる無き能わず。左右迎合し、因って陛下が台諫を奨用し、讜論を聞かんと欲するも、其の流弊、人主をして自由たる能わざらしむに至ると言わんことを。陛下能く心に咈然とせざらんや。臣恐るらくは是の時に至りては、台諫を奨用すること、今日の如く重んぜざらんことを。そもそも朝廷の恃みて以て善悪を分別するは、専ら台諫に在り。陛下苟も其の多言を厭わば、則ち台諫たる者、将に舌を咋み口を閉ざし、論列すべき無からん。君子日々に退き、小人日々に進み、而して天下乱れん。臣の憂うる所、二なり。

二事は、朝廷の大なる者なり。また三事を以て、陛下の身に切なるものを言わば、曰く孝愛に篤く、学問に勤め、嗜好に薄し。陛下今皆之を行われたり。未だ数年之後、能く常に今日の如くなるを保たんやを知らず。

また魏徴の十漸を引きて以て戒めと為し、懇懇として数千言に及ぶ。また上奏して言うには、「陛下近日の為されしところ、頗る前日に異なり。除授の際、大臣多く知らざる者有り。臣之を聞きて憂い甚だしく病劇し」。蓋し是の時、韓侂冑已に潜かに威柄を弄び、而るに宰相趙汝愚未だ之を覚えざりし故に、裳先んじて事を言う。疾革まるに及び、時に時独り語りて曰く、「五年の功、一日にして之を壊すこと無からしめよ。吾已に為すべからざるを度る。後の君子必ず能く其の責を任ずる者有らん」。遂に口占して遺表し而して卒す。年四十九。上之を聞きて驚悼し、資政殿学士を贈る。

裳は人となり簡易にして端純、講読のたびに事に随い忠を納れ、上は古義を援け、下は人情を揆い、気平にして辞切、事該にして理尽くす。孝友に篤く、人と語るに底蘊を傾け尽くす。一書を読まず、一物を知らざるを恥じた。賢を推し善を楽しむは、天性に出づ。為すところの文は明白条達。『王府春秋講義』及び『兼山集』あり、天人の理、性命の源を論じ、皆以て伊・洛の旨を発明するに足る。嘗て其の郷人陳平父兄弟と講学す、平父は張栻の門人なり、師友の淵源、蓋し自ら来る有り。嘉定中、諡して「忠文」と為す。子:瑾、大宗正丞兼刑部郎官。孫:子敏、刑部郎官。

羅點

羅點、字は春伯、撫州崇仁の人。六歳にして文を作る能くす。淳熙三年の進士に登第し、定江節度推官を授かる。累遷して校書郎兼国史院編修官となる。歳旱、詔して言を求めしに、點は封事を上りて曰く、「今時姦諛日甚だしく、議論凡陋なり。可否無きは、則ち得体と曰い;世と浮沈するは、則ち有量と曰い;衆皆黙し、己独り言うは、則ち沽名と曰い;衆皆濁り、己独り清きは、則ち立異と曰う。此の風革めざれば、陛下天下に大いに為さんと欲すと雖も、其の可なるを見ざるなり。旱暵虐を為すより、陛下群祠に禱り、罪有るを赦すも、曾て感動するに足らず。朝に讜言を求めしに及び、夕に甘雨を得たり、天心の示す所、昭然として誣うる無し。独り知らず、陛下の言を求むるは、果たして之を用いんと欲するや否や。如し用いんと欲せば、則ち願わくは上る所の封事を以て、反覆詳熟し、当たる者は審にして後に行い、疑わしき者は諮りて後に決せよ。此くの如くすれば則ち治象日著しく、而して乱萌自ずから消えん」と。秘書郎兼皇太子宮小学教授に遷る。

寧宗の時、皇孫として英国公に封ぜられしに、點は教授を兼ね、入講して晡時に至るも輟まず、左右少しく憩わんことを請うと、點曰く、「国公学に務めて休まず、奈何ぞ之を止めん」と。又古事を摭りて勧戒と為し、『鑑古録』を作りて進む。

高宗崩じ、孝宗諒暗に在り、皇太子庶務を参決す。點時に戸部員外郎兼太子侍講として、浙右に使し出で、起居舎人に遷り、太常少卿兼侍立修注官に改め、命を受けて金に使いし、宝位に登るを告ぐ。会に金に国喪有り、點を迫りて金帯を易えしむ。點曰く、「位に登るは吉事なり、必ず吉服を以て事に従う。死有るのみ、帯は易うべからず」と。又點を詰して「宝位」と称するは当たらずとす。點曰く、「聖人大宝を位と曰う、『宝』の字を加えざれば、何を以て至尊を別たん」と。金人奪う能わず。

上嘗て點に謂いて曰く、「卿旧く宮僚たり、他人に比すべからず、言わんと欲する所有らば、啓告を憚ること毋かれ」と。點言う、「君子志を得るは常に少なく、小人志を得るは常に多し。蓋し君子の志は天下国家に在りて、一己に在らず、行いは必ず直道、言は必ず正論、往々にして人主に忤わざれば則ち貴近に忤い、当路に忤わざれば則ち時俗に忤う。小人の志は一己に在りて、天下国家に在らず、行い言う所は皆取悦の道なり。其の忤うを取る所以を用うれば、其の志を得ること鮮し;其の悦ばすを取る所以を用うれば、其の志を得ざること亦鮮し。若し昔の明主、君子の進み難きを念えば、則ち主張し覆護する所以を極め;小人の退き難きを念えば、則ち燭察し隄防する所以を尽くす」と。

皇子嘉王年弱冠に及びしに、點言う、「此れ正に師友に親しみ、徳業を進むべきの時、宜しく端良忠直の士を択び、燕間に参侍すべし」と。遂に黄裳を翊善と為すを除く。又言う、「人主憂勤すれば則ち臣下心を協わせ、人主安きを偸めば則ち臣下解体す。今道塗の言、皆陛下の毎旦朝を視し、勉強して聴断すと謂うも、意は事に在らず。宰執奏陳し、礼を備えて応答し、侍従庶僚、礼を備えて登対す。而して宮中燕游の楽、錫齎奢侈の費は、已に衆口に騰がる。強敵境に対す、此の声豈に出だすべけんや」と。

紹熙三年十一月日長至に、車駕将に重華宮に朝賀せんとし、既にして中輟す。點言う、「天子より庶人に達するまで、節序親に拝するに、闕くる者無し。三綱五常、係る所甚だ大なり、常事と為して之を忽にすべからず」と。上宮を過ぐる意未だ決せず、點奏す、「陛下已に日を涓てて宮を過ぐ、寿皇必ず領を引いて陛下を俟たん。常人朋友に於いてすら且つ信無きべからず、況んや人主の親に事うるをや。今陛下久しく温凊を闕く、寿皇見んと欲して得ず、万一憂思疾を感ぜば、陛下将に何を以て天下に自ら解せん」と。

嘗て便殿に召対せられしに、點言う、「近者中外相伝え、或いは陛下内に制する所有り、遽に出づる能わず、酒色に溺れ、政事を恤みざると謂う、果たして之れ有るか」と。上曰く、「是れ無し」と。點曰く、「臣固より之を知る。窃かに意う、宮禁間に或いは攖拂の事有り、姑く酒を以て自ら遣わすのみ。夫れ閭閻の匹夫、閨門の逆境に処り、容れらくは酒を縦にして自ら放つ者有り。人主天下を宰制す、此の心青天白日の如く、風雨雷電既に霽れたるの余に当たりて、湛然として虚明、豈に復た纖芥の停留を容るべけんや」と。上未だ宮を過ぎず。點又奏す、「窃かに聞く、嘉王生朝に、禁中に寿を称え、劬労の徳に報い、父子歓洽すと。寧くも心を動かさざらんや、上に両宮延望の意を念わしむ」と。十一月、點言の見聴かれざるを以て、去らんことを求め、許されず。十二月、兵部尚書を試みる。

五年四月、上将に玉津園に幸せんとし、點先ず重華を過ぐることを請う。又奏して曰く、「陛下寿皇の子たり、四十余年一も閑言無し。只だ初郊違豫に縁り、寿皇嘗て南内に至りて督過し、左右の之人此より讒間し、遂に憂疑を生ず。臣の観るに、寿皇天下と相忘るること久し。今大臣政を輔くるに同心し、百執事法に奉り理に循い、宗室・戚里・三軍・万姓皆貳志無し。設い離間有らば、之を誅して疑わず。乃ち若し深居して出でず、久しく子道を虧き、衆口謗讟し、禍患将に作らんとす、慮らざるべからず」と。上曰く、「卿等朕が為に之を調護すべし」と。黄裳対えて曰く、「父子の親、何ぞ調護を俟たん」と。點曰く、「陛下一出すれば、即ち当に釈然とすべし」と。上未だ行かず。點乃ち講官を率いて之を言う。上曰く、「朕心未だ嘗て寿皇を思わざる無し」と。対えて曰く、「陛下久しく定省を闕く、此の心有りと雖も、何を以て自ら白せん」と。寿皇豫せざるに及び、點又宰執の班に随いて諫を進む。閤門吏之を止む、點之を叱して入る。上衣を拂いて起つ、宰執上りの裾を引く。點亟に前に進み泣きて奏す、「寿皇疾勢已に危し、今に及ばずして一見せずんば、後悔何ぞ及ばん」と。群臣上に随いて福寧殿に入る、内侍門を闔す、衆慟哭して退く。三日を越え、點宰執の班に随いて起居す、詔して独り點を引き入る。點奏す、「前日迫切に忠を献げ、挙措礼を失う。陛下赦して誅せず、然れども裾を引くも亦故事なり」と。上曰く、「裾を引くは可なり、何ぞ輒く宮禁に入るを得ん」と。點辛毗の事を引きて以て謝し、且つ言う、「寿皇止に一子有り、既に神器を付し、惟だ之を見ることの速からざるを恐るるのみ」と。

寿皇(孝宗)が崩御すると、黄點は上(光宗)が喪に奔るよう請うたが、許されたのに出ず、重華宮において遺詔を拝した。前後して侍従とともに列奏して帝が宮(重華宮)に過ぎるよう諫請した上奏は合わせて三十五疏に及び、自ら上奏したものはさらに十六章あり、重華宮への奏疏、嘉王への上書および対面での口奏はこれに含まれない。寧宗が位を嗣ぐと、人心はようやく定まった。黄點は端明殿学士・簽書枢密院事に任ぜられた。上(寧宗)が明堂の祭祀を行うこととなり、點は扈従して斎宮にいたが、病を得て卒した。四十五歳であった。太保を追贈され、諡は「文恭」とされた。

點の天性は孝友であり、矯激で崖岸を張るような行いはなく、端介として守るべき節があり、義と利の弁別は皎然としていた。ある者が天下の事は才なくしては成し得ないと言うと、點は言った、「まずその心を論ずべきである。心もし正しからざれば、才は人に過ぐると雖も、果たして何を取るというのか」と。宰相趙汝愚はかつて寧宗に泣いて言った、「黄裳・羅點が相次いで淪謝した。二臣の不幸は、天下の不幸である」と。

黄度

黄度、字は文叔、紹興新昌の人である。学を好み書を読み、秘書郎張淵がその文を見て、曾鞏に似ていると言った。隆興元年に進士となり、嘉興県知事となった。入朝して登聞鼓院を監し、行国子監簿となった。上言して言った、「今日、兵を養うことは巨患である。患を救う策は、民に屯田を行わせ、ひそかに府衛の制を復して募兵を消すべきである」と。『屯田』『府衛』十六篇を具してこれを上った。

紹熙四年、監察御史を守った。蜀の将軍呉挺が死ぬと、度は言った、「挺の子曦は必ず賄賂を納めて襲位を求めるであろう。もしそれによってこれを授ければ、他日の患いとなる恐れがある。その兵権を分かつことを乞う」と。宰相はこれを難じた。後に曦が関外四州を割いて金人に賄賂し蜀王となることを求めたが、果たして度の言う通りとなった。

光宗が病を理由に重華宮に過ぎず、度は上書して切に諫め、連疏して父子相親しむべき義を極めて陳べ、かつ言った、「太白が昼に見え天関を犯し、熒惑・勾芒が太微に入って行く。その占いは乱兵が宮に入るというものである」と。諫めて聴かれず、罷めて去ることを乞うた。また言った、「孝をもって君に事うれば則ち忠となる。臣の父は年垂れ八十、菽水の養いも親しまず、動けば歳月を経る。親に事うることこの如くにして、何をもって君に事うるの忠と為さん」と。これは己を託して諭とし、よって以て上心を感悟せしめんことを冀ったのである。

また台諫官とともに内侍陳源・楊舜卿・林億年の三人を今日の禍根と劾し、その罪は李輔国よりも大であると言った。また言った、「孔子は『天下道有れば、則ち庶人議せず』と称された。人主に過ち有りて、公卿大夫が諫めて改めれば、則ち過ちは顕れず、庶人は何を議せん。ただ諫めて改めざれば、失い覆うべからず、閭巷の小人をして皆妄りに議せしめ、紛然として乱れ生ずる。故に陳勝ちんしょう・呉広・黄巢の流れが下に議し、国皆これに随いて亡ぶ。今天下、聖徳を議せざる者無し。臣窃かにこれを危ぶむ」と。上はなお聴かなかった。遂に修門を出ると、上は安職せしむべく諭した。度は奏して言った、「言責ある者は、その言を得ざれば則ち去る。理、復た入り難し」と。寧宗が即位すると、詔して再び御史と為し、右正言に改めた。

韓侂冑が権を執り、丞相留正が国を去った。侂冑は度がかつて正と事を論じて合わなかったことを知り、諷してこれを排擠せしめんとした。度は同列に語って言った、「丞相は既に去った。これを擠すは易い。然れども小人の声焰を長ずることは可ならんや」と。侂冑は驟に政柄を窃み、意の好む所悪む所を以て威福と為した。度は疏を具してその姦を論ぜんとしたが、侂冑に覚えられ、御筆にて遽かに度を直顕謨閣・平江府知府に除した。度は言った、「蔡京が権を擅にし、天下これによって乱る。今侂冑、御筆を仮りて臣を逐い、俯首して去らしめ、一言を効うるを得ざらしむ。国の利と為さず」と。固く辞した。丞相趙汝愚がその疏を袖に入れて白し、詔して沖佑禄を以て帰養せしめた。俄かに婺州知州となり、県令張元㢸の贓罪を発覚せざるに坐し、降格罷免された。ここより紀綱一変し、大権ことごとく侂冑より出で、党論起こった。然れども侂冑は平素より度を厳しく憚り、害を加えることを敢えてしなかった。泉州知州として起用されたが、辞し、乃ち宝文閣に進め、祠官としての奉仕は従前の如くであった。

侂冑が誅せられると、天子は思い召し出し、太常少卿に除し、尋いで国史院編修官・実録院検討官を兼ねた。朝論は侂冑の首を函に入れ、泗州の五千人を以て金に還すことを欲したが、度は国を辱しむとしてこれを非とした。権吏部侍郎兼玉牒修撰・同修国史・実録院同修撰となり、屡々疾を移し、集英殿修撰として福州知州となり、宝謨閣待制に遷った。初めて到着すると、訴訟の書状は日に千余に及び、度は事に随って裁決し、日未だ中ならずして畢った。

龍図閣に進み、建康府知府兼江淮制置使となり、金帯を賜わって行かせた。金陵に至り、科糴輸送の煩擾を罷め、飢民百万口を活かし、現税二十万余を除き、盗賊卞整を撃ち降し、盗賊胡海の首を斬って献じ、帰業する者九万家を招いた。侂冑がかつて雄淮軍を募り、既に刺収した者は十余万人、別に数千人を屯せしめて所属無き者有ったが、度はその患いとなることを憂い、人ごとに銭四万を与え、その役を復して遣わした。

宝謨閣直学士に遷った。度は人物を以て己が任とし、推挽して休まず、常に言った、「国に報いること無し。惟だ此れ有るのみ」と。十度にわたり引年の請を上ったが、許されず、礼部尚書兼侍読となった。趣いて入覲し、芸祖(太祖)が万世の統を垂れたことを論じ、一には純かに儒生を用い、二には務めて民力を惜しむと説いた。上はその言を納れた。病を謝して去ることを丐い、遂に煥章閣学士として隆興府知府となった。越に帰り、万寿宮提挙となった。嘉定六年十月に卒し、龍図閣学士に進み、通奉大夫を追贈された。

度の志は経世に在り、而して学を以て本と為した。『詩』『書』『周礼』の説を作り、『史通』を著し、僭窃を抑え、大分を存し、別に編年と為し、前史の法を用いず。天文・地理・井田・兵法に至っては、近きを験として遠きに及ぼし、拠依すべきもの有り、迂陋牽合の病無し。また『芸祖憲監』『仁皇従諫録』『屯田便宜』『歴代辺防』が世に行われた。婿は周南。

周南 附

周南、字は南仲、平江の人である。年十六、呉下に遊学し、時人の科挙の業を見て、心にこれを陋しとした。葉適に従い講学し、頓悟捷得した。文詞を為すに、雅麗精切にして皆時用に達し、常に世道の興廃を以て己が任と為した。紹熙元年に進士第に登り、池州教授となった。会に黄度が言をもって当路に忤い、御史が度を劾し、南をも併せて罷めた。度と南は共に偽学の党に入れられた。開禧三年、館職に召し試された。南は対策において権要を詆毀し、言者が南を劾して罷めさせ、家にて卒した。

南は端行拱立し、尺寸に程準有り。賜第より文林郎を授けられ、終身官に進まず、両たび館職と為るも、数ヶ月で止んだ。既に当世に意を絶ち、弊衣悪食、書を挟んで昼夜を忘れ、言った、「此れ吾が老を遺し、吾が死を俟つ所以なり」と。

林大中

林大中、字は和叔、婺州永康の人。太学に入り、紹興三十年の進士第に登り、撫州金谿県の知県となった。郡が賦税の納入を急に督促したので、大中はその期限を寛げるよう請うたが、聞き入れられず、告身を納めて弾劾の文を提出して帰郷した。後に太常寺主簿を務めた。

光宗が禅を受けると、監察御史に任ぜられた。大中は言う、「国家の大事は祭祀にあり、不正を沿襲することは、典礼を厳かにし、神明を安んずる所以ではない」と。上疏して言う、「臣が先般太常寺主簿として正を執り、実際に廟祀に陪従した際、神に祝する文が、時に文に誤りがあり、神に称える言葉が、時にその字を誤り、厚くすべきものが、簡略で虔敬を欠き、先にすべきものが、廃されて用いられず、器物や服制を改製するのに、年月があまりに疎かであり、早朝に行事を起こすのに、時刻があまりに早い。これらは皆、礼の精神に順わず、人情の安んずるところではない」と。ある日、御札が大中に示され、言事と監察については旧例に従うべきであるとされた。大中は言う、「台臣が分を越えて守るべきでないことは、確かに聖訓の通りである。しかし、必ず抗直敢言でなければ、職に称するとは言えない」と。

殿中侍御史に遷る。上奏して言う、「人材を進退するには、その趣向の大體を観るべきであり、その行事の小節を責めるべきではない。趣向が正しければ、たとえ小節に責むべき点があっても、君子を失わない。趣向が正しくなければ、たとえ小節に喜ばしい点があっても、小人を免れない」と。また論じて言う、「今日の事は、仇恥が未だ復されないことより大なるはない。この事が成らなければ、この念を忘れることはできない。この念が心に存すれば、それをもって天下の才を招き、天下の気を起こし、天下の義を倡うことができる。この義が既に明らかになれば、事の條目は言うを得、治功は成し得るであろう」と。陳賈が静江の守臣として入奏しようとしたが、大中は極論してその「庸回で識がなく、かつて王淮と表裏し、道学の名目を創り出し、陰に正人を廃した。もし入奏を許せば、必ず再び留中され、善類がこれを聞いて、紛然として引き去り、国を安んずる所以ではない」と言った。命令は遂に止んだ。

紹熙二年春、雷電が交作し、時政の闕失を訪ねる旨があった。大中は事が多く中(宮中)から出ることを以て、上疏して言う、「仲春に雷電があり、大雪が続いて起こる。類を以てこれを求めれば、陰が陽に勝つことの明らかな験しである。蓋し男は陽であり、女は陰であり、君子は陽であり、小人は陰である。邪正を辨じ、小人が君子を間することを得させてはならない。正始の道を思い、女謁が行われることを得させてはならない」と。

司諫の鄧馹が言事を以て将作監に移された。大中は言う、「台諫が論事の不合を以て遷されるのは、臣は天下が陛下を容れることができないと為すことを恐れる」と。侍御史を守り、侍講を兼ねる。潭州知州の趙善俊が旨を得て奏事しようとした。大中は上疏して善俊を弾劾し、宗室の趙汝愚の賢を言って召すべきであるとした。上はその言を用い、汝愚を召し出し、善俊を郡守として出した。

当時、江・淮・荊・襄は国の巨屏であったが、権任が頗る軽かった。大中は言う、「行実と材略のある人を選び、江・淮・荊・襄を經理する任を付すべきである。旧制では河北・陝西を四路に分け、文臣を大帥とし、武臣を副とした。中興の初め、沿江に制置使を置いた。秦檜が三大将の兵権を罷めて以来、専ら武臣に帰し、江東・荊・襄の帥臣は再び制置の職を領しなくなった。宜しく旧制の如く制置を置き、諸将を副とし、その任を久しくし、その権を重くすれば、辺防は立ち国勢は張るであろう」と。

江・浙の四路の民は折帛と和買の重い輸納に苦しんだ。大中は言う、「産有れば則ち税有り、税絹に於いて折帛を科するは、猶言う可し。和買の折帛に至っては、則ち重く民の害と為る。蓋し咸平年間に馬元方が春に予め本錢を支払ってその乏絶を済まし、夏秋にこれをして輸納せしむることを建言して以来、これは先に錢を支払い後に絹を輸するものである。その後は錢と鹽を分給し、更にその後は直に民から取り、今また折帛錢を納めさせ、兩縑で一縑の値段に折るのは、立法の初意を大いに失う」と。朝廷はその言を以て、輸するものを三年間減じた。

馬大同が戸部に在った。大中はその用法が峻厳であることを弾劾した。上は他の部に易置しようとしたが、大中は言う、「彼は嘗て刑部に在り、固より深刻を以て称されていた」と。上奏文を三度上るも回答がなかった。また大理少卿の宋之瑞を論じ、上奏文を四度上るも、また回答がなかった。大中は言が行われないことを以て、去ることを求め、吏部侍郎に改められたが、辞して拝せず、大中を直宝謨閣に除し、大同・之瑞は共に郡守とした。

初め、占星者が朱熹に言う、「某星が変を示す、正人がこれに当たる、それは林和叔であろうか」と。ここに至り、熹は朝士に書を送って言う、「林和叔が台に入り、一事として的を外さず、国を去る一節は、風義凛然として、古人の中に求むべきである」と。給事中の尤袤・中書舎人の楼鑰が上疏して言う、「大中は言官であり、被論者と区別されるべきである」と。尋ねて寧国府の知府を命じ、また贛州に移した。寧宗が即位すると、召還され、中書舎人を試み、給事中に遷り、尋ねて侍講を兼ねた。知閤門事の韓侂冑が来謁したが、大中はこれに接して他言なく、陰に内交を請うたが、大中は笑ってこれを退けた。侂冑の怨みはここから始まった。

時に吏部侍郎の彭亀年が侂冑を抗論した。侂冑は一官を転じて内祠とし、亀年は煥章閣待制を除して郡守とした。大中は中書舎人の楼鑰と共に奏文を返上して言う、「陛下が僚旧を眷礼し、一旦龍飛して、延問虚日無し。三数月を経ずして、或いは死し或いは斥けられ、亀年一人に頼って尚留まっている。今またこれを去らせれば、四方はその尽言を以て罪を得たと言い、政体を傷つけることを恐れる。且つ一を去らせ一を留まらせるは、恩意同じからず。去る者は日々遠ざかり、再び左右に侍すること無からん。留まる者は内祠に在り、則ち召見時に拘わらず。請う、亀年を経筵に留め、侂冑を外任に命ずれば、則ち事體恰も平らかで、人の言うべきこと無からん」と。旨有り、「亀年は既に優異と為し、侂冑は本より過尤無し、併せて書を行う可し」と。大中は再び共に上奏して言う、「亀年が職を除き郡守とするを以て優異と為すならば、則ち侂冑の承宣使に転ずるは優異に非ずや。若し侂冑は本より過尤無しと言うならば、則ち亀年の論事は実に君を愛する忱より出で、豈に過と為すを得んや。亀年既に決然として去らんとし、侂冑は独り留まること難し。宜しく外任或いは外祠に畀え、以て公議を慰むべし」と。聞き入れられず。

太府寺丞の呂祖儉が上書して侂冑を攻撃し、韶州に謫置された。大中はこれを救った。汪義端は頃に御史として、趙汝愚を論じて去り、ここに至り侂冑がこれを引きて右史とした。大中はこれを駁した。吏部侍郎に改められたが拝せず、煥章閣待制を以て慶元府の知府となった。城南の民田は、潮が溢れて種を蒔けなかった。大中は公帑を捐てて石を治め築き、民は役を知らずしてその利を蒙った。郡に夜に妖有りとの訛言があった。大中はこれは必ず狡賊の為す所であると言い、直ちに捕えてげいし、人情遂に安んじた。祠官を請い、許しを得た。給事中の許及之がこれを駁し、遂に職を削られた。後に沖佑観の提挙となった。休致を乞い、元の職に復した。監宗御史の林采が論列し、再び落職したが、尋ねてこれを復した。

大中は罷められて帰り、十二年屏居し、未だ嘗て得失を以てその心に関せず、亀潭の上に園を作り、客が至れば、杞菊を摘み、溪魚を取り、酒を觴し詩を賦し、時事は一切口に掛けなかった。客或いは大中に侂冑に書を通ずるよう勧めた。大中は言う、「吾が夕郎たる時、一言承意すれば、豈に閑居して今日に至らんや」と。客は言う、「縦え福を求めずとも、何ぞ禍を免れざらん」と。大中は言う、「福は求めても得られず、禍は懼れても免れようか」と。侂冑が既に兵を召して畔くと、大中は言う、「今日民を安んぜんと欲すれば、兵を息めざるべからず。兵を息めんと欲すれば、侂冑を去らざるべからず」と。

韓侂冑が誅殺されると、ただちに召し出され、致仕の身分を解かれ、吏部尚書を試任され、上奏して言うには、「呂祖儉は韓侂冑を諫言して罪を得、瘴癘の地で死にました。官職を追贈されたとはいえ、公論はなお納まっておりません。彭龜年は面と向かって韓侂冑の過失を奏上し、朱熹は韓侂冑が権威を弄ぶと論じましたが、いずれも中傷されて、官を降格され職を削られ、ついに老死しました。優遇して顕彰すべきです。その他、韓侂冑を諷諫して罪を得た者たちについて、その軽重を量って表彰・区別し、罪を負わされた者の冤罪を晴らしてください」。端明殿学士・簽書樞密院事に任じられた。

嘉定に改元すると、太子賓客を兼ねた。かつて講和の事を議論した際、上(寧宗)は言われた、「朕は民のために己を屈することを厭わない。講和の後は、卿らとともに韓侂冑の弊政を改め、家計を立て直したいのだ」。大中は頓首して言った、「陛下がこのようにおっしゃられることは、宗廟社稷と生民の福でございます」。常々親しい者に語って言った、「私は齢八十に近い。どうして労苦に堪えられようか。ただ和議が未だ成らず、聖上のご訓示を体して承け、弊政を改め幸いを長続きさせるための計略を思うばかりである。もし当初の志が少しでも遂げられれば、すぐに身を引いて帰ろう」。この年(嘉定元年)六月に卒去した。七十八歳。資政殿学士・正奉大夫を追贈され、諡は「正惠」とされた。

大中は清廉で寡欲、おとなしくて衣の重さに耐えられぬかのようであったが、事に臨んで発揮するその気概は、凛として犯すべからざるものがあった。幼少より学問に励み、志操が凡庸ではなかった。著作として奏議・外制・文集三十巻がある。

陳騤

陳騤、字は叔進、台州臨海の人である。紹興二十四年、礼部試で第一となったが、秦檜が国政を執り、秦塤をその上位に置いた。累次昇進して将作少監となり、秘書少監を守り太子諭徳を兼ねた。太子が臨安府尹となったとき、騤は言った、「皇太子が下って細務に携われば、学問に専念できず、徳を養うことにはなりません」。太子は驚き、急いで辞任した。崔淵が外戚の張説の推挙で、秘書郎兼金部郎に任じられようとしたが、騤は任命書を封還した。

ほどなく、贛州知州として出向し、秀州に移った。召還されると、まず上奏して言った、「陛下は盛んに治世を図られ、臣下らは己を売り込むのに急で、強兵・理財の策を争って献上しますが、職を与えられても、報効の実績は聞かれません。邪悪な諂いの道を断つべきです」。再び元の官に戻り、秘書監兼崇政殿説書に昇進した。淳熙五年、中書舎人兼侍講・同修国史を試任された。

上(孝宗)は晋・宋以降の興亡治乱の大要を採り、一書にまとめようとし、騤に言われた、「卿と周必大のみがこの任に堪える」。言事官がこれを妬んで攻撃したので、上は弾劾文書を留め置いて下さず、提挙太平興国宮に任じた。寧国府知府として起用され、太平州知州に転じ、集英殿修撰を加えられた。言事官の弾劾で罷免された。袁州知州として起用された。光宗が受禅すると、召されて吏部侍郎を試任された。紹熙元年、同知貢挙兼侍講となった。

二年春、雷と雪が降り、時政の得失を陳べるよう詔が下った。騤は三十条を上疏した。すなわち、宮中の区別が厳しくなければ権柄が移り、内廷への請謁の兆しを断たなければ明断が失せ、権勢ある者に台諫官を諮れば私党が生じ、側近に将帥を諮れば賄賂が行われ、正論を求めなければ過失が顕わになり、旧章を謹まなければ取捨を誤り、宴飲が時をわきまえなければ精神が昏く、賜与に節度がなければ財用が尽きる、などで、いずれも当時の弊害に切実であった。

三年三月、権礼部尚書となった。六月、同知樞密院事となった。四年二月、参知政事となった。光宗は病気を理由に重華宮に朝謁せず、会慶節の賀寿にも結局行かれなかった。騤は三度奏上し、廷臣の上疏も数百に及んだので、上は感得し、冬至の日に重華宮に朝謁された。五年正月元日、慈福宮で賀寿を行った。孝宗が崩御すると、光宗は病気で喪に臨まれなかったので、騤は皇太子を正式に立てて人心を安んじるよう請うた。七月、三省の事務を代行した。

寧宗が即位すると、知樞密院事兼参知政事となった。趙汝愚が右丞相となったが、騤は平素から快く思っておらず、一度も同堂で語らなかった。汝愚が劉光祖を侍御史に任じようとしたところ、騤は上奏して言った、「劉光祖は以前より臣と不和です。光祖が御史台に入るなら、臣は避けます」。汝愚は驚いてやめた。

時に韓侂冑は伝旨の功績を恃み、ひそかに国権を窃んでいた。吏部侍郎彭龜年が侂冑が国の禍患となると論じたが、回答がなかった。そこで龜年と侂冑はともに祠官を請うた。騤は言った、「閤門使(侂冑)を経筵から去らせて、どうして天下に示せましょうか」。龜年は結局、地方官に補外された。侂冑は人に語って言った、「彭侍郎が好官を貪らぬのはもとよりだが、元樞(陳騤)もまた好人になろうというのか」。そこで資政殿大学士として州知事に任じようとしたが、辞退したので、詔により提挙洞霄宮となった。

慶元二年、婺州知州となった。老齢を理由に致仕を願い出て、観文殿学士・提挙洞霄宮を授けられた。嘉泰三年に卒去した。七十六歳。少傅を追贈され、諡は「文簡」とされた。

黃黼

黃黼、字は元章、臨安府餘杭県の人である。若くして太学に遊学し、進士に及第した。累次昇進して太常博士となった。順番に対面して奏上し、言った、「周は輔弼の臣を出して方伯とし、漢は牧守の最優れた者を抜擢して公卿とし、唐は辺境の任を経なければ宰相に任ぜず、本朝は三司等の属官を経なければ清望官に除されません。仁宗の時、韓琦・范仲淹・龐籍はいずれも西方の経略を担当し、長く辺境の任にあり、ようやく執政に除されました。辺境からの奏上で再び警報があると、范仲淹は再び自ら行くことを請いました。貝州の変乱では、文彦博が自ら賊を討ちました。時望高い近臣の中から、才略謀慮があり重任を託して遠大な目標を達成できる者を選び、あるいは上流の地を任せ、あるいは方面を委ね、辺防の利害や地形の険阻に習熟させ、中外の軍民にもその恩信を信じさせその威名に慣れ親しませてください。天下に事なき時は、風績顕著な者を順序を飛ばして抜擢し、朝廷を尊ばせます。辺境に警報あれば、重責を任せて方面を統制させます。出ては将、入っては相、何の不可がありましょう」。上(孝宗)は賞賛して言われた、「卿の言う通りであれば、用人之道を尽くしたと言えよう」。

太常丞を行い、秘書郎・提挙江東常平茶塩に進み、召されて戸部員外郎となった。まもなく直秘閣・両浙路転運判官に任じられ、直龍図閣に進み、副使に昇進したが辞退し、直顕謨閣に改められた。浙東の海に臨む田地が旱魃・洪水に見舞われ、常平倉の蓄えが不足したので、黼は漕運の経費を拠出して貸し与えた。毗陵で飢民が糠や秕、雑草の根を取って食としたが、郡県は上奏しなかった。黼は民の食物を取って進呈し、僧侶の度牒や銭貨を供出して救済するよう請い、全うし生かされた者は非常に多かった。

中書門下檢正諸房公事を除され、殿中侍御史兼侍講を守り、侍御史に遷り、起居郎を行い兼ねて権刑部侍郎を務めた。劉德秀の論劾により、祠官に奉じて卒した。

詹體仁

詹體仁、字は元善、建寧浦城の人。父の綎は、胡宏・劉子翬と交遊し、贛州信豊尉に調ぜられた。金人が盟約を破ると、張浚に謁して金国討滅の秘計を論じ、浚に辟かれて属官となった。體仁は隆興元年の進士第に登り、饒州浮梁尉に調ぜられた。郡が體仁の盗賊捕獲の功状を上奏して賞を受けるべきところ、體仁は「これを以て賞を受くるは、その願いならず」と言い、辞して就かなかった。泉州晉江丞となる。宰相梁克家は泉州の人であり、朝廷に推薦した。入朝して太学録となり、太学博士・太常博士に昇進し、太常丞に遷り、金部郎官を摂行した。

光宗即位の際、浙西常平を提挙し、戸部員外郎・湖広総領を除され、就いて司農少卿に昇進した。諸郡の賦輸積欠百余万を蠲免するよう奏上した。逃亡兵卒千人余が大冶に入り、鉄を以て銭を鋳造し、剽掠して変を為さんとした。體仁は戎帥に言うには、「ここより京師まで千余里、もし上奏して返報を得るのを待てば、賊勢は張るであろう。速やかに誅討を加うべきなり」と。帥はその言を用い、群党悉く散じた。

太常少卿を除され、陛対に際し、まず父子の至恩について説き、謂うには、「『易』は『家人』の後に『睽』を次ぐ。『睽』の上九に曰く、『豕の塗に負うを見、鬼一車を載せ、先ず之が弧を張り、後に之が弧を説く。寇に非ずして婚媾す。往きて雨に遇えば則ち吉なり』と。疑い極まって惑うときは、凡そ見る所の者皆寇と為すも、実はその親なるを知らざるなり。孔子これを釈して曰く、『雨に遇えば則ち吉なり、群疑亡ぶなり』と。蓋し人倫天理は、間隔あれども断絶することなく、未だ通ぜざる時は、湮鬱煩憒して、終日を以てすべからざるが如し。其れ醒然として悟り、泮然として釈るるに及びては、雨に遇うが如く、何ぞ其れ和悦にして条暢なるや。伏して惟うに、陛下の神心は昭融にして、聖度は恢豁なり。凡そ其の疑情、一朝にして渙然として日月を掲げ雲霧を開くが若し。丕に彝倫を叙し、以て両宮の歓を承け、以て兆民の望を塞がんことを」と。時に上は積疑して疾を成し、久しく重華宮に過ぎず、故に體仁は『易』の睽弧の義を引き、以て聖意を開広せんとした。

孝宗崩御の際、體仁は同列を率いて抗疏し、車駕をして重華宮に詣で親しく祥祭に臨まんことを請い、辞意懇切であった。時に趙汝愚は大策を定めんとし、外廷に預謀する者なく、密かに體仁及び左司郎官徐誼に命じて少保吳琚に意を達せしめ、憲聖太后の垂簾を請いて援立の計とせしめた。寧宗登極の際、天下晏然たりしは、體仁と諸賢が密かに汝愚を賛襄した力による。

時に大行皇帝の諡を議す。體仁言う、「寿皇聖帝は徳寿宮に事うること二十余年、天下の養を極め、諒陰三年、常服を御せず。漢唐以来未だ之有らず。宜しく『孝』と諡すべし」と。終にその言を用いた。孝宗を復土せんとするに当たり、體仁言う、「永阜陵の地勢は卑下にして、神霊を妥安する所以に非ず」と。宰相と異議を為し、太府卿を除された。尋いで直龍図閣・福州知事となり、言事者が竟に以前の山陵に関する論議を以て之を罷免した。霅川に退居し、日に経史を以て自ら娯しみ、人その際を窺うこと能わず。

初め、體仁が浙右に使した時、蘇師旦は胥吏として役を執り、後に韓侂冑に倚りて大官に躐躋した。是に至り、介を遣わして殷勤を通ぜんとした。體仁曰く、「小人君子の器に乗ずれば、禍の至ること日無からん。烏んぞ以て我を汚すを得んや」と。未だ幾ばくもせず、果たして敗れた。

再び直龍図閣・静江府知事となり、十県の税銭一万四千を閣し、雑賦八千を蠲免した。鄂州に移り守り、司農卿を除され、再び湖広の餉事を総べた。時に凶歳にて食艱しく、便宣を以て倉廩を発して振捄し、後に奏聞した。

侂冑が辺境を開くことを建議し、一時兵を争って談じ以て進用を規る者あり。體仁は廟堂に書を移し、兵は軽々しく動かすべからず、宜しく養いを遵び時を俟つべしと述べた。皇甫斌は自ら将家の子を以て任じ、兵を好んで言う。體仁は僚属に語り、斌必ず敗るべしと謂い、已にして果たして然り。開禧二年に卒す。年六十四。

體仁は穎邁特立にして、群書を博く極む。少くして朱熹に従い学び、誠を存し独りを慎むを主とす。文を為すこと明暢にして、悉く諸理に根ざす。周必大が国を当る時、體仁嘗て三十余人を疏薦し、皆当世の知名の士なり。郡人の真徳秀早くより其の遊に従い、嘗て居官民に蒞るの法を問う。體仁曰く、「尽心・平心のみ。尽心すれば則ち愧じること無く、平心すれば則ち偏ること無し」と。世その確論を服す。

論じて曰く、彭亀年・黄裳・羅点は青宮師保の旧臣として、言を尽くして隠すこと無し。黄度・林大中も亦よく正を守り阿わず、進退裕如たり。此の数臣は、皆能く所学を推明し、務めて君を引いて当道に当たらしむ。謂うべし、粹然たる君子なりと。陳騤は事を論ずること頗る時病に切なり。詹體仁は理学に深く、皆称すべき者あり。然れども騤は嘗て呂祖謙を詆譏し、趙汝愚・劉光祖を仇と視るに至り、而して體仁は乃ち能く朱熹・真徳秀を師友と為す。即ち其の好悪を観て、而して二人の邪正、是に於いて知るべし。