宋史

列傳第一百五十一 趙汝愚子:崇憲

趙汝愚

趙汝愚、字は子直、漢恭憲王元佐の七世孫、饒州餘干県に居住す。

父善應、字は彥遠、官は終に修武郎・江西兵馬都監に至る。性純孝にして、親の病むや、嘗て血を刺して薬に和し進む。母は雷を畏れ、雷を聞く毎に衣を披きて其の所に走る。嘗て寒夜遠くより帰り、従者門を叩かんとす、遽かに之を止めて曰く「吾が母を恐るるなかれ」と。露坐して明に達し、門啓けて後に入る。家貧しく、諸弟衣を制せざれば敢えて制せず、已に制して未だ服せざれば敢えて服せず、一瓜果の微なるも必ず相待ちて共に之を嘗む。母喪に、哭泣して血を嘔し、毀瘠骨立し、終日首を俯して柩の傍に在り、雷を聞けば猶起ち、側立して涕を垂る。既に喪終り、其の親に言及すれば、未だ嘗て涕を揮わざるは無く、生朝には必ず廟に哭す。父は終に肺疾にて、毎膳諸肺を以て羞と為すに忍びず。母の生歳卯に値う、卯は兔の神なりと謂い、其の身を終るまで兔を食わず。四方の水旱を聞けば、輒ち憂い形に於いて色す。江・淮の警報至れば、之が為に流涕し、累日食わず。同僚会宴す、善應悵然として曰く「此れ寧ろ諸君楽飲の時ならんや」と。衆は色を失いて罷む。故人の孤女、貧にして帰する所無く、善應聘して以て己が子の婦と為す。嘗て同僚せし者有りて死して克く葬らず、子は他所に傭食す、善應馳往きて之に哭し、其の子を帰して之に資を与え、葬らしむ。道に病者を見れば必ず収恤し、躬ら薬を煮るを為す。歳饑うれば、旦夕其の家人を率いて食の半ばを輟き、以て饑者に飼う。夏は草を去らず、冬は壤を破らず、百蟲の遊び且つ蟄する者の其の所を失わんことを懼る。晉陵の尤袤之を称して曰く「古の君子なり」と。既に卒す、丞相陳俊卿其の墓碣に題して曰く「宋篤行趙公彥遠之墓」と。

汝愚早く大志有り、毎に曰く「丈夫汗青一幅の紙を得て、始めて此の生を負わず」と。進士第一に擢げられ、簽書寧國軍節度判官に任じ、召されて館職を試みられ、秘書省正字を除す。孝宗方に恢復に鋭意し、始めて見え、即ち自治の策を陳ぶ。孝宗善しと称し、校書郎に遷る。知閤門張説、簽書樞密院事に擢げらる。汝愚往きて見ず、率いて同列祠を請う。未だ報いず。会に祖母の訃至る、即日帰り、因りて自ら劾す。上罪を加えず。

著作郎・信州知州に遷り、台州に易え、江西転運判官を除され、入りて吏部郎兼太子侍講と為る。秘書少監兼権給事中に遷る。内侍陳源、徳寿宮に寵有り、浙西副総管を添差す。汝愚言す「祖宗童貫を以て兵を典とし、卒に辺釁を開く。源総戎の任に居らしむるに宜しからず」と。孝宗喜び、詔して自今内侍兵職を兼ぬべからずとす。旧制、密院の文書は皆門下省を経る。張説西府に在り、辺機は泄すべからずと託言す。汝愚謂う「東西二府朝廷の治乱関わる所、中書の庶政東省よりせざるは無し。何ぞ密院然らざるや」と。孝宗命して旧制の如くせしむ。

権吏部侍郎兼太子右庶子と為り、知閤王抃の権を招き政に預かるを論じ、抃を外祠に出だす。集英殿修撰を以て福建を帥とし、陛辞に、国事の大なる者四つを言う。其の一に「呉氏四世しょく兵を専にす、国家の利に非ず。請う及今を以て漸く之を抑えん」と。直学士に進み、四川を制置し兼ねて成都府知府と為る。諸羌蛮相挻きて辺患と為る。汝愚至り、悉く計を以て其の勢を分つ。孝宗其の文武威風有りと謂い、召還す。光宗禅を受け、趣して召すも未だ至らず。殿中侍御史范処義其の命を稽えるを論じ、潭州知州を除す。辞し、太平州に改む。敷文閣学士に進み、福州知州と為る。

紹熙二年、召されて吏部尚書と為る。是に先立ち、高宗宮人黄氏を以て光宗に東宮に侍わしむ。即位して貴妃と為るに及び、后李氏意平らかならず。是の年冬十一月郊有り、有司已に戒むるも風雨暴かに至る。光宗震懼し、斎宿青城に及ぶや、貴妃暴かに薨ず。駕還り、之を聞きて恚り、是の夕疾発す。内侍馳せて白す孝宗に、孝宗倉卒として南内に至り、疾を致す所以の由を問う、免れずして戒責有り。光宗疾稍く平らぎ、汝愚入対す。上常に五日に一朝し孝宗に重華宮にす。是に至り往往旨を伝えて免ず。会慶節上寿に至りては駕出でず、冬至朝賀また出でず、都人憂いと為す。汝愚往復規諫す、上意乃ち悟る。汝愚又た嗣秀王伯圭に属して調護せしむ。是に於いて両宮の情通ず。光宗及び后俱に北内に詣り、従容竟日す。

四年、汝愚貢挙を知り、監察御史汪義端と違言有り。汝愚同知樞密院事を除され、義端祖宗の法を言い、宗室執政と為らずとし、汝愚の党を植え名を沽うを詆す。疏上るも納れず。又た台諫・給舍の陰に汝愚に附くを論じ、一切緘黙すと。報いず。汝愚発策し祖宗を譏訕すを論ず。又た報いず。汝愚力めて辞し、上義端を軍器監に徙すを為す。給事中黄裳言す「汝愚親に事うるに孝、君に事うるに忠、官に居るに廉、国を憂え民を愛すること天性より出づ。義端実に賢を忌む、黜けざるべからず」と。上乃ち義端を黜し郡に補す。汝愚已むを得ずして命を拝す。未だ幾ばず、知樞密院事に遷る。拝せずして辞し、旨有りて告を受くるを趣す。汝愚対して曰く「臣敢えて久しく辞せず。臣嘗て朝廷数事を論ず、其の言未だ用いられず。今陛下重華に過ぎ、留正復た相と為る、天下幸甚なり。惟だ武興未だ帥を除かず、臣心安んぜず」と。上遂に張詔を以て代わり武興軍を領せしむ。汝愚乃ち命を受く。

光宗の疾は疑畏より生ず。其の宮に過ぎざるや、汝愚数たび従容進諫す。光宗出でて其の語を聞けば輒ち悟り、入れば復た疑う。五年春、孝宗せず。夏五月、疾日ならびに臻る。光宗後殿に御す。丞相率いて同列入り、請う上重華宮に詣り疾に侍らんことを。従臣・台諫継いで入る。閤門吏故事を以て之を止む、退かず。光宗益々疑い、起ちて内に入る。二日を越え、宰相又た対請う。光宗知閤門事韓侂冑に令して旨を伝えしむ云く「宰執並びに出でよ」と。是に於いて俱に浙江亭に至り命を俟つ。孝宗之を聞きて憂い甚だし。嗣秀王簡丞相に伝え孝宗の意を、令す宰執復た入らんことを。侂冑奏して曰く「昨旨を伝えて宰執殿門を出でしむ。今乃ち都門を出づ」と。請う自ら往きて宣押せんことを。汝愚等乃ち第に還る。

六月丁酉の夜、五鼓の時分、重華宮の大閹が宰執の私邸を叩き、孝宗の崩御を報ず。中書はこれを以て上聞す。汝愚は上(光宗)の疑いを恐れ、或いは出でて朝を視ずんばとて、その劄を上さず。翌日、上朝を視す。汝愚は提挙重華宮関礼の状を進め、上は乃ち北内(重華宮)に過ぐるを許す。日昃に至るも出でず、宰相は百官を率いて重華宮に詣で発喪す。壬寅、将に成服せんとす。留正と汝愚議し、少傅呉琚を介して憲聖太后に垂簾し暫く喪事を主たるを請う。憲聖許さず。正等附奏して曰く、「臣等連日南内に造りて請対すれども獲ず。累ねて上疏すれども報を得ず。今まさに百官を率いて請わんとす。若し皇帝出でずんば、百官相い与に宮門に於いて慟哭せん。恐らくは人情騒動し、社稷の憂いとならん。乞うらくは太皇太后、旨を降し、皇帝疾あるを以て、暫く宮中に就きて成服せしめよ。然れども喪主無きべからず。祝文に『孝子嗣皇帝』と称す。宰臣敢えて代わりて行うこと能わず。太皇太后は寿皇の母なり。祭礼を摂行せんことを請う」と。蓋し是の時、正・汝愚の垂簾を請うるは、国本嘉王に係るを以て、簾前を因りて宗社の計を奏陳し、命を簾幃の間に出だし、事を廟堂の上に行わしめんと欲すればなり。則ち体正しく言順い、後艱無かるべし。而るに呉琚は素より畏慎し、且つ后戚を以て大計に関与せんと欲せず。此の議竟にとどめらる。

丁未、宰臣已下、和寧門にて待対すれども報ずること無し。乃ち入奏して云く、「皇子嘉王仁孝夙に成る。宜しく早く儲位を正し以て人心を安んずべし」と。又報ずること無し。六日を越えて再び請う。御批に云く、「甚だ好し」と。明日、旨を同じく擬して進め、上に親しく批を付し学士院に降詔せしめんことを乞う。是の夕、御批を丞相に付して云く、「歴事歳久しく、退閑せんと念う」と。留正之を見て懼れ、朝臨に因りていつわりて庭に仆れ、密かに去るの計を為す。汝愚自ら度るに其の責を辞するを得ざるを、故事須らく甲を坐して以て不虞を戒むべしと念う。而して殿帥郭杲、腹心を以て語る者有ること莫し。

工部尚書趙彦逾が私第に至るに会す。国事に及びて語る。汝愚泣き、彦逾も亦泣く。汝愚因りて微かに与子(嘉王擁立)の意に及ぶ。彦逾喜ぶ。汝愚は彦逾が杲に善しとするを知り、因りていつわりて曰く、「郭杲儻もし同じからずんば、奈何いかんせん」と。彦逾曰く、「某当に之を任ず」と。明旦に復命せんことを約す。汝愚曰く、「此の大事已に諸口より出づ。豈に俟つこと容さるべけんや」と。汝愚敢えて私室に入らず、屏後に退き坐し、以て彦逾の至るを待つ。有る頃、彦逾至る。議遂に定まる。明日、正は五更に肩輿にて城を出で去る。人心益々動揺す。汝愚之を処するに恬然たり。呉琚の議諧わざるより、汝愚は徐誼・葉適と謀り、以て慈福宮に意を白し得べき者を、乃ち韓侂冑を遣わし内禅の意を以て憲聖に請わしむ。侂冑因りて善くする所の内侍張宗尹を以て奏す。命を獲ず。明日往く。又命を獲ず。侂冑逡巡して将に退かんとす。重華宮提挙関礼之を見て問う。侂冑具に汝愚の意を述ぶ。礼少しく俟たしむ。入りて憲聖に見えて泣く。憲聖故を問う。礼曰く、「聖人万巻を読む。亦嘗て此の如き時にして乱無きを保つを見るや」と。憲聖曰く、「此れ汝の知る所に非ず」と。礼曰く、「此事人人之を知る。今丞相已に去る。頼む所は趙知院なり。旦夕も亦去らん」と。言と泪俱にす。憲聖驚きて曰く、「知院は同姓なり。事体他人と異なり。乃ち亦去るか」と。礼曰く、「知院未だ去らず。但だ同姓の故を以てのみに非ず、太皇太后を恃む可しと為すを以てなり。今大計を定めて命を獲ず。勢い去らざるを得ず。将に天下を如何せん。願わくは聖人三思せよ」と。憲聖侂冑の安在いずくにかを問う。礼曰く、「臣已に其の命を俟たしむ」と。憲聖曰く、「事順いしむれば則ち可なり。諭して好く之を為せ」と。礼侂冑に報じ、且つ云く、「来朝、太皇太后寿皇の梓宮の前に於いて垂簾し執政を引かん」と。侂冑復命す。汝愚始めて其の事を陳騤・余端礼に語り、郭杲及び歩帥閻仲をして夜兵を以て南北内を衛わしむ。礼其の姻党宣賛舎人傅昌朝をして密かに黄袍を製せしむ。

是の日、嘉王謁告して入臨せず。汝愚曰く、「禫祭は重事なり。王出でざるべからず」と。翌日、禫祭、群臣入る。王も亦入る。汝愚百官を率いて大行(孝宗)の前に詣づ。憲聖垂簾す。汝愚同列を率いて再拝し、奏す、「皇帝疾有り、未だ喪を執ること能わず。臣等乞うらくは皇子嘉王を立てて太子と為し、以て人心を繫がん。皇帝批出に『甚だ好し』の二字有り。継いて『退閑せんと念う』の語有り。太皇太后の処分を取らん」と。憲聖曰く、「既に御筆有り。相公当に奉行すべし」と。汝愚曰く、「茲の事重大なり。之を天下に播し、史冊に書す。須らく一指揮を議すべし」と。憲聖允諾す。汝愚袖中より擬する所の太皇太后指揮を出だして進む。云く、「皇帝疾を以て今に至るまで未だ喪を執ること能わず。曾て御筆有り、自ら退閑せんと欲す。皇子嘉王拡、即ち皇帝位に即くべし。皇帝を尊びて太上皇帝と為し、皇后を太上皇后と為す」と。憲聖覧み畢りて曰く、「甚だ善し」と。汝愚奏す、「今より臣等奏事に合する者有らば、当に嗣君の処分を取るべし。然れども恐らくは両宮父子の間に処するに難き者有らん。須らく煩わしく太皇太后主張せられんことを」と。又奏す、「上皇疾未だ平らず。驟に此の事を聞けば、驚疑無からざる無からん。乞うらくは都知楊舜卿をして本宮を提挙せしめ、其の責を任ぜしめよ」と。遂に舜卿を召して簾前に至らしめ、面に之を諭す。憲聖乃ち皇子に即位を命ず。皇子固く辞して曰く、「恐らくは不孝の名を負わん」と。汝愚奏す、「天子は当に社稷を安んじ国家を定むるを以て孝と為す。今中外人人乱を憂う。万一変生ぜば、太上皇を何れの地に置かん」と。衆扶いて素幄に入り、黄袍を披く。方に却り立ち未だ坐せず。汝愚同列を率いて再拝す。寧宗几筵殿に詣で、哭して哀を尽くす。須臾、立仗畢り、百官の班を催す。帝衰服を以て出で重華殿東廡の素幄に立ち、内侍扶掖して乃ち坐す。百官起居畢り、禫祭の礼を行ふ。汝愚即ち喪次に於いて、留正を召還して長く百僚たらしめ、朱熹をして待制経筵せしめ、悉く在外の士君子を収召す。侍御史張叔椿、正の国を棄つるの罰を議せんことを請う。汝愚為に叔椿の官を遷す。

是の月、上汝愚に命じて兼ねて権参知政事と為す。留正至る。汝愚兼職を免ぜんことを乞う。乃ち特進・右丞相を除す。汝愚拝せずして辞し、曰く、「同姓の卿、不幸にして君臣の変に処る。敢えて功を言わんや」と。乃ち特進を以て枢密使と為すことを命ず。汝愚又特進を辞す。孝宗将にさんせんとす。汝愚議す、攢宮は永制に非ずと。改めて山陵を卜せんと欲し、留正と議合わず。侂冑因りて之を間し、正を出だして建康を判せしめ、汝愚を光禄大夫・右丞相と為すことを命ず。汝愚力めて再三に至るまで辞す。許さず。汝愚本より正を倚りて共に事とす。侂冑告げざるを怒り、及び来謁すれども、故に見えず。侂冑慚愧忿る。簽書枢密羅点曰く、「公誤れり」と。汝愚も亦悟り、復た之を見る。侂冑終によろこばず。自ら定策の功有りとし、且つ肺腑に依託し、宮掖に出入りし、中に居りて用事す。朱熹進対し、以て言と為す。又吏部侍郎彭亀年と約して同く之を劾せんとすれども、未だ果たさず。熹汝愚に白す、当に厚賞を以て労に酬い、政に預からしむる勿からんとす。而して汝愚は其の制し易きを謂い、慮いと為さず。

右正言黄度が韓侂冑を弾劾せんとし、謀が漏れ、内批により斥けられ去った。朱熹は講義を終えて、上疏して極言した。「陛下が即位されて未だ旬月ならずして、宰執の進退、台諫の移易は、皆陛下の独断より出で、大臣は謀に与からず、給舎は議に及ばず。この弊を革めざれば、臣は独断と名づくるも、主威の下移を免れざるを恐る。」疏が入ると、直ちに内批を出して、朱熹に宮観を除した。趙汝愚は袖に批を納めて還上し、諫めつつ拝し、侂冑は必ずや彼を出そうとした。汝愚は退いて去らんことを求め、許されず。吏部侍郎彭亀年は力陳して、侂冑が威福を窃み弄び、中外に附せられ、去らざれば必ず患いを遺すとし、また奏して、「近日朱熹を逐うること甚だ暴なり。故に陛下にもこの小人を急ぎ去らんことを欲す」と。既にして内批により亀年は郡守とされ、侂冑の勢いは益々張る。

侂冑は功に恃み、汝愚に抑えられ、日夜その党を引きて台諫となし、以て汝愚を擯かんと謀る。汝愚は人となり疎闊にして、その奸を虞れず。趙彦逾は嘗て郭杲に意を通ぜしめ、事定まって、汝愚が引いて同列とせんことを冀うも、ここに至り四川制置に除され、意愜わず、侂冑と合謀す。陛辞の日、当時の賢者の姓名を尽く疏して、汝愚の党と指し、上意疑い無きを得ず。汝愚は近臣に御史を挙げしめんことを請う。侂冑は密かに中司に諭し、厚き所の大理寺簿劉徳秀を薦めしむ。内批して徳秀を察官に擢げ、その党牽連して進み、言路遂に皆侂冑の人となる。時に黄裳・羅点卒す。侂冑はまたその党京鏜を擢げて点に代え、汝愚始めて孤となり、天子益々倚信する所無し。ここにおいて中書舎人陳傅良・監察御史呉獵・起居郎劉光祖各先後に斥け去られ、群憸和附し、正士を疾むこと仇讎の如く、而して衣冠の禍始まる。

侂冑は汝愚を逐わんと欲するもその名を難くし、或る者これに教えて曰く、「彼は宗姓なり。謀りて社稷を危うくせんとすと誣えば、則ち一網遺すところ無からん」と。侂冑これ然りとし、その党将作監李沐を正言に擢ぐ。沐は彦穎の子なり。嘗て汝愚に節度使を求めて得ず。奏して「汝愚は同姓を以て相位に居り、将に社稷に利あらざらんとす。その政を罷むるを乞う」と。汝愚は出でて浙江亭に待罪し、遂に右相を罷め、観文殿学士・知福州を除す。台臣合詞して出守の命を寝めんことを乞い、遂に大学士を以て洞霄宮を提挙す。

国子祭酒李祥言う。「去歳国大戚に遭い、中外洶洶たり。留正は相位を棄てて去り、官僚幾くんか解散せんとし、軍民皆乱たらんとす。両宮隔絶し、国喪主無し。汝愚は枢臣を以て独り身を殞し族を滅すの禍を避けず、太皇太后の命を奉じ、陛下を翊けて以て九五に登らしむ。勲労社稷に著しく、精忠天地に貫く。乃ち卒に黯黮を受けて去る。天下後世それ何を謂わんや」。博士楊簡も亦以て言う。李沐は祥・簡を劾し、罷む。太府丞呂祖儉も亦上書して汝愚の忠を訴う。詔して祖儉は朋比して上を罔すとし、韶州に送り安置す。太学生楊宏中・周端朝・張衜・林仲麟・蒋傅・徐範等、闕に伏して言う。「去歳人情驚疑し、変は朝夕に在り。当時に仮りて汝愚の死力を出だし、大議を定めざれば、百の李沐有るとも、済う所を知らざりき。国家多難に当たり、汝愚枢府に位し、本より兵柄を握り、指揮操縦、何に向かってか不可ならん。この時に利を為さず、今上下安恬なるに、乃ち独り異志有らんや」。書上る。悉く五百里外に送り羈管す。

侂冑は汝愚を忌むこと益々深く、重く貶さざれば人言已まざらんと謂う。中丞何澹の疏を以て、大観文を落とす。監察御史胡紘は汝愚を疏して「偽徒を唱引し、謀りて不軌を為し、龍に乗り鼎を授け、夢を仮りて符と為す」と。寧遠軍節度副使を責め、永州に安置す。初め、汝愚嘗て孝宗が湯鼎を授くるを夢み、白龍を背負いて天に昇る。後に寧宗を翼けて素服を以て大宝に登る。蓋しその験なり。而して讒者以て言う。時に汪義端行詞し、漢が劉屈氂を誅し、唐が李林甫を戮する事を用い、殺さんとする意を示す。迪功郎趙師召も亦上書して汝愚を斬らんことを乞う。汝愚は怡然として道に就き、諸子に謂いて曰く、「侂冑の意を観るに、必ず我を殺さんとす。我死なば、汝曹尚お免るることを得ん」と。衡州に至り病発す。守臣銭鍪に窘しめられ、暴薨す。天下聞いて冤しとす。時は慶元二年正月壬午なり。

汝愚は学務めて有用を務め、常に司馬光・富弼・韓琦・范仲淹を以て自ら期す。凡そ平昔師友に聞く所、張栻・朱熹・呂祖謙・汪応辰・王十朋・胡銓・李燾・林光朝の言の如き、次第に行わんと欲するも、果たさず。著する所の詩文十五巻、『太祖実録挙要』若干巻、『類宋朝諸臣奏議』三百巻。汝愚は族を聚めて居り、門内三千指、得る所の廩給悉くこれに分ち与え、菜羹疏食、恩意均しく洽く、人間言無し。自ら奉養すること甚だ薄く、夕郎たりし時、大冬に布裘を衣、相となるに至りても亦然り。

汝愚既に歿し、党禁漸く解け、旋って資政殿学士・太中大夫を復し、已にして少保を贈る。侂冑誅され、尽く元の官を復し、諡を「忠定」と賜い、太師を贈り、沂国公を追封す。理宗詔して寧宗廟庭に配享し、福王を追封し、その後周王に進封す。子九人、崇憲はその長子なり。

子 崇憲

崇憲、字は履常。淳熙八年、取応の対策第一となり、時に汝愚殿上に侍立す。降りて再拝して謝す。孝宗近臣を顧みて曰く、「汝愚年幾何。已に子かくの如き有り」と。三年を越え、復た進士の対策にて、甲科に擢げらる。上執政に謂いて曰く、「此れ汝愚の子、豈に前科取応の第一人者なるや」と。

崇憲初め保義郎・監饒州贍軍酒庫に仕え、換えて従事郎・撫州軍事推官となる。汝愚蜀に帥すとき、書写機宜文字を辟し、江西転運司幹弁公事に改め、監西京中嶽廟となる。汝愚既に貶死せし後、海内憤鬱し、崇憲は門を闔いて自ら処す。数年居りて、復た汝愚の故官職とし、多く仕えんことを勧む。

奉議郎・知南昌県事に改む。荒政を行い、活かす所甚だ衆し。籍田令に昇る。制に曰く、「爾が先人は王室に功有り。中更に讒毀せらる。その功を思いその子を録するは、国の典なり」と。崇憲命を拝して感泣し、疏を陳べて力辞し、以て「先臣の冤未だ悉く昭白せず、而其の孤先に寵光を被るは、公朝の忠孝を勧め廉恥を厲すの意に非ず」とす。俄に行在都進奏院を監すと改め、復た陳瓘が司馬光・呂公著の復官の事を論ずるを引きてこれを申し言い、以て陳ぶる所を三省に下し集議せんことを乞う。「若し先臣の心跡、言者の論ずるが如き一有らば、即ち近日の恩典皆冒濫たり。先臣の復官賜諡と臣が新命と、俱に追寝すべし。若し公論果たして誣衊と謂わば、中外に昭示し、先臣の讒謗既に辨まり忠節自ら明らかならしめ、而して憲聖慈烈皇后擁佑の功德益々顕はれんことを乞う。然る後に史官に申飭し、誣史を改正し、万世の公を垂れん」と。

また趙師召の妄りに封章を貢する罪を正し、蔡璉が大臣と仇をなす奸を究め、龔頤正の『続稽古録』の妄りを毀つことを請うた。詔して両省の史官に考訂させて奏聞させた。やがて吏部尚書兼修国史の楼鑰らが章の如く施行を請うたので、これに従った。誣史が未だ正されないと、また進言し、その要旨は「先の史官はただ権臣の風旨に従い、旧史を刊し、元稿を焚き、少しも留難しなかった。今詔旨再三なれども、慨然として直筆を奮う者なし。何ぞ小人は敢えて悪をなすことを得て、君子と謂う者はかえって善をなすに勇ならざるや」というものであった。聞く者これを愧じた。その後、玉牒・日暦所がついに『重修龍飛事実』を進呈したのは、崇憲の請いによるものであった。

間もなく、汝愚に太師を贈り、沂国公に封じ、崇憲を軍器監丞に抜擢し、太府監丞に改め、秘書郎に遷したが、辞して許されなかった。まもなく著作佐郎兼権考功郎官となった。かつて雨を憂いて言を求めた際に、封事を上奏し、「今日は更化の名はあれど、更化の実なし。人材は国の元気なり。忠鯁にして擯け廃せられたる士は、死者未だ尽く省録せず、存する者は未だ悉く褒揚せられず。言論は国の風采なり。その間、忠を輸して隠すことなく、規益する所ある者は、ただ賞激加わらぬのみならず、用いられることもまた稀なり。安きを盗み容れられんことを取りて、建明する所なき者は、ただ黜罰及ばぬのみならず、あるいは遂に通顕の階に至る」と論じた。聖学を勉めて以て聡明を広め、儲貳を教えて以て根本を固め、宰輔大臣に戒めて同寅して瘁を尽くして艱難を済まし、侍従台諫を責めて職を思い規を尽くして壅蔽を宣ぶることを求め、左右近習の窃弄する漸を防ぎ、奸憸余党の窺伺する萌を察することに至るまで、皆懇々として上に言った。

外任を請い、江州知州となった。郡民は毎年和糴に苦しんでいたので、崇憲は朝廷に上疏し、永くこれを蠲免させた。かつて傍郡の穀を転糴して別に廩に儲え、凶年に備えた。瑞昌の民は茶引銭を負い、新旧累積して緡十七万有余となり、皆困窮して償うことができず、死すればその子孫に責めても猶貸さなかった。新券が行われるに当たり、旧価に比べて数倍になったので、崇憲は歎いて「茶を負う民は愈々困窮す」と言い、急ぎ新券一で旧券二を償うことを請い、詔してこれに従った。恩恵を受けた者は千余家に及び、石を刻んでその事を記した。陂塘を修築して灌漑を広め、凡そ数千所に及んだ。江西常平提挙兼権隆興府及び帥漕司事を拝命し、転運判官に遷り、なお帥事を兼ねた。

初め、汝愚は私銭百余万を捐じて養済院を創設し、四方の賓旅で疾病の者に薬と食を与えていたが、歳月を経て次第に他に転用されていた。崇憲が到着すると、まもなく修復し、規約数十条を立て、疾病が癒える者の多寡を以て賞罰とした。道に棄てられた児もまた収容して養育した。社倉は久しく弊害があったので、その利害を訪ねて更張した。

兵部郎中として召されたが、まもなく司封に改められ、皆固く辞した。遂に直秘閣・知静江府・広西経略安撫に任じられた。静江府の属邑は十、土地の肥瘠は略々等しいのに、陽朔・修仁・荔浦の賦税だけが倍であった。張栻が奏請して減免して以来も、人々はなお病み苦しんでいた。崇憲はさらに蠲減を加えることを請い、詔して差等を以て順次減損し、三県の民は祠を立て石を刻んだ。瓊州守は才なく、黎峒の変を激成したので、これを弾劾して去らせ、能ある者を改めて辟召してその任に代えた。蘿蔓峒は毎年寇鈔して暴虐を働き、実は民の何向父子が陰にこれを誘導していた。崇憲は金帛を捐じて小校に与え、これを縛って来させ、法に置いた。これにより民と夷の交通の禁を厳しくし、辺民を什伍に組織させ、寇が来れば鼓を鳴らして衆を召集し、先後して掩撃し、俘獲した者には賞を与え、来ない者には罰を与えた。先に、管内の郡邑に警報があると、輒ち統府の兵を移してこれを戍らせ、宜州には百人、古県にはその半を置いていた。崇憲は根本が単虚であるのは、奸萌を窒ぐ所以にあらずとし、その地に各々戍兵と同数の兵を置き、戍兵を収斂して帰還させた。邕州は辺境の要害の地であり、狄青が儂智高を平定して以来、防禦の設けは極めて周到であったが、歳月を経て次第に弛緩し、溪峒が日に日に強くなっていた。崇憲は条上してその議を述べ、朝廷は頗るその言を採用したが、未だ尽く用いるには至らなかった。

崇憲は天性篤く孝であり、父の喪に服し、一月余りして初めて食事をし、小祥して初めて果実を食し、喪が終わるまで酒肉を飲食せず、妻室に近づくことも久しくしなかった。

【論】

論じて曰く、昔より大臣危疑の地に処りて、能く禍難を免るる者は蓋し鮮し。昔、周の成王立ちて幼沖なりしに、周公は王室の懿親として宰輔たりしも、四国流言し、周公は東に居るの憂いを免れず。天、風雷の変を降して、周公の徳を彰わし成王の衷を啓くことなければ、則ち所謂『金縢』の書は、固より因由なくして王の耳目に關わること能わず、公の心果たして能く自ら明らかにすることを得んや。公の心能く自ら明らかにするを得ば、則ち天意の周に属して八百載の丕祚を綿ぐは、実に茲に係る。然らずんば、周は其れ殆うからん。

趙汝愚は、宋の宗臣なり。其の賢は固より周公に及ばず、其の位と戚はまた周公の尊く且つ昵きが如くには非ず。方に孝宗崩じ、光宗疾あり、大喪主無く、中外洶洶たりし時、一時の大臣に難を畏れて去る者あり。汝愚独り能く身を慮れず奮い立ち、頃刻の間に大計を定め、明徳の士を収召して、寧宗の新政を輔けしめ、天下翕然として治を望みしは、其の功盛んなりと謂うべし。然るに幾時もせず、卒に韓侂冑の構うる所となり、一たび斥けられて遂に復た返らず、天下聞いて之を冤とす。此に於いて天の宋を眷する所以の周の如くならざるを見、而して宋の陵夷馴致して為すべからざるに至るは、信に人力の能くする所に非ざるなり。

汝愚の父は純孝を以て聞こえ、而して子の崇憲は能く家法を守り、至る所に恵政あり。亦た世其の美を済うする者と謂うべし。