李衡
李衡、字は彦平、江都の人。高祖の昭素は侍御史に至った。衡は幼くして博く誦読を善くし、文を作るに筆を操れば立ちどころに成った。進士に及第し、呉江主簿を授けられた。部使者に勢いを恃んで威を作り、下民を侵刻する者がいたが、衡は敲扑をもって迎合するに忍びず、劾状を府に投じて、衣を払って帰った。後に溧陽県を知り、専ら誠意をもって民を化し、民は敬わざる者なく、夏秋の二税は、期日を県門に掲げ、郷に府吏の跡なく、而して輸送は他邑に先んじて弁じた。因任して四年を歴るも、獄戸に未だ嘗て一の重囚を繫がず。
衡は宣和の間に入って辟雍に在りしとき、同舎に趙孝孫という者あり、洛の人なり。其の父は実に程頤に師事し、家学に源あり。衡を勧めて『論語』を読むに曰く「学は記誦辞章の謂いにあらず、以て聖賢を学ぶ所以なり。毫釐も偽実の処あるべからず、方にて以て学を言うべし」と。衡は心に其の訓を佩び、群書に博通すれども『論語』を根本と為す。臨終に沐浴し冠櫛し、翛然として逝く。周必大之を聞きて曰く「世は潜かに心を釈氏にすれば、乃ち能く死生に達すと謂う。衡は儒を逃れて釈に入る者に非ざるに、而して臨終に超然として此の如し。殆ど幾ばくか孔門の所謂道を聞く者か」と。
王自中
王自中、字は道甫、温州平陽の人。少にして奇気を負い、自ら崖岸を立て、繇って世に忤う。乾道四年、帰正人を遣わすを議す。自中は麗正門に伏して争論し、且つ言う「今内は空しく賢無く、外は空しく兵無し。当に豪俊を搜羅し、忠力を広く募り、以て中原を図るべし」と。坐して徽州に斥けられ、放還さる。淳熙中、進士に及第し、舒州懐寧簿・厳州分水令を主る。
枢密使の王藺が推薦し、召して対す。帝其の言を壮とし、将に秩を改めて籍田令と為し、又た俾くに所知を挙げしめ、且つ響用せんとす。諫疏を以て罷む。自中は本より韓彦古の客なり。王藺既に之を薦すや、上大いに喜ぶ。韓彦直・彦質の輩は其の彦古の為に讐を報ぜんことを恐れ、力を請うて自中に交結せんとし、而して密かに近習に意を達し、自中が彦古の賂を受け、闕に伏して上書し彦古を相に薦むと謂う。上人を遣わして其事を物色せしむ。中書舎人の王信は恒に自中の台に入るを懼れ、将に王淮に不利ならんとし、彦直の輩の譖已に行わるるを知り、亟に請対し、上意を探り、退きて即ち走りて右正言の蔣継周に白す。継周方に敢えて劾奏し、読むこと「賂を受け闕に伏す」の処に至りて、上曰く「卿は中其の膏肓と謂うべし」と。継周奏す「臣王藺に孤蹤忤うを知らざるに非ざるも、但だ職を曠つするを敢えざるなり」と。蓋し並びに藺を中てて以て淮に媚びんと欲す。上但だ継周の善く事を論ずるを喜ぶのみにて、曲折の此の如きを知らず。
通判郢州、道すがら知光化軍を除き、信州に改む。内艱に丁し、服闋して朝に還る。光宗即位し、迎えて謂う「朕卿の名を寿皇に得たり。留めて郎と為すべからんや」と。言者置かず。沖祐観を主管し、起きて邵州・興化軍を知る。命下るも而して自中已に病む。慶元五年八月、卒す。年六十。
家愿
家愿、字は処厚、眉山の人。父は勤国、慶曆・嘉祐の間、従兄の安国・定国と同く劉巨に従い游び、蘇軾兄弟と同門の友と為る。王安石久しく『春秋』の学を廃す。勤国之を憤り、『春秋新義』を著す。熙寧・元豊の諸人紛更し、而して元祐の諸賢は枉を矯えて過ぎ、勤国之を憂え、為に室を築き、『室喻』を作る。二蘇之を読んで敬歎す。
方や蘇轍が願の策を読み、願は年少にして進取の計を為さず、異時には直道を以て聞こえるであろうと謂い、及ばずして見ることを恨んだが、轍の言は是に至って験された。淳祐年間、願の曾孫大酉が経筵に侍講し、因って従容として之に及ぶと、上は容を改めて嘉歎し、上書した所の書を宣取し、又親しく「西社同門友、元符上書人」の十大字を書して賜う。
張綱
張綱、字は彦正、潤州丹陽の人なり。太学に入り、上舎及第に以て及第す。釈褐し、徽宗は綱が三たび首選に中るを知り、特除して太学正と為し、博士に遷り、校書郎を除す。入対し、論じて曰く、「君子小人混殽し、言を詢ね事を試みれば則ち邪正自ずから別つ。小人志を得て功を邀い事を生じ、禍言うべからざる者有り。今用事者大言を以て上を罔し、風俗侈靡、本に背き末に趨き、日甚だしきこと一日の如し。宜しく祖考躬行の教を以て法と為し、天下化し難からざる有らん」。上善しと称す。事を論じて蔡京と相合わず、之を擠して去らしめ、玉局観を主管す。久しくして故官に還り、兼ねて『国朝会要』を修し、御前文字を校正す。著作佐郎・屯田司勲郎に遷る。
初め、朝議童貫・蔡攸を遣わして朔方に使わさんとし、綱は力論して出師すべからざる状を論じ、報いず。及び金盟を渝え京闕を犯すに及び、綱を命じて四壁を分守せしめ、旋って厳を解き、詔して陴に登ること足月なる者は遷す。綱曰く、「主憂え臣辱しむは、義爾るべし、顧みて此に因りて賞を受くべきや」。卒って自ら言わず。出でて両浙提刑と為り、江東に移る。池の将王進剽悍恣睢、曹官小過を以て違忤す、遂に手を門に釘す。事聞こえ、詔して綱に伝乗をして窮竟せしむ。時国勢未だ安からず、諸将往々朝廷を易しむ、進甲騎数百を擁して突如綱の前に至る、綱進を階下に叱し、即ち按問し、罪立ち具わり、是より越法する者無し。左司を以て召され、権監察御史と為る。郡邑に月に繫囚の存亡数を具えさせ、提刑司に申し、歳終わりに多寡を校して殿最を行わんことを請う。起居舎人に進み、中書舎人に改む。建言し祖法に依り大臣に史事を兼領せしめんことを乞い、詔して宰臣呂頤浩に国史を監修せしめ、令と為して著す。
給事中を試す。大将軍中田均しからずと以て有り、租を収めざるを乞い、朝廷将に之に従わんとす、綱執りて不可とす。会に元祐党籍の家に恩を推す、有司限制無く、自陳する者紛至し、綱崇寧の刻する所の九十八人を以て正と為すを建議す。軍興後より、小人多く時を乗じて乱を召し、五年を歴て怨家告訐する者衆し、綱是を以て好生の徳を広むる所以に非ずと謂い、囚を蔽うより乞い、後告有るも受くる勿からんことを請う。宗室令懬特に太中大夫に転ず、綱言く、「庶官超転して侍従と為るは法に非ず、且つ崇寧以来官職資任に循わず、致す所綱紀大いに壊れ、今方に其の俗を丕変せんとす、奈何ぞ令懬の故を以て復た旧章に違わん」。詔して次官に命じて詞せしむ、舎人王居正復た執りて行わず、命遂に寝す。宣撫使張俊師を九江に駐め、営卒を遣わして書を以て瑞昌に至らしむ、県令郭彦章卒と獄囚通ずるを揣知し、乃ち械繫す。俊朝に愬う、彦章坐して免ぜらる、綱言く、「近時州県吏多く当路に諛を献ず、彦章流俗に随わず、是能く法を奉じ職を守る者なり、今奨めずして黜くは、何を以て勧めを示さん」。
給事中を除す。侍御史魏矼綱を劾し、太平観を提挙す。徽猷閣待制に進み、年を引いて致仕す。秦檜用事久しく、綱家に臥すること二十年絶えて通問せず。檜死し、召されて吏部侍郎兼侍読と為る。初め『詩・関雎』を講じ、后妃淑女の事に因り、歴陳して文王の人を用いるを陳べ、寓意規戒す。上曰く、「久しく博雅の言を聞かず、今日講ずる所析理精詳、深く朕が心を啓く」。綱言く、「比年監司資浅く望軽し、七品以上の清望官、或いは曾て郡守たり治状有る者を択みて之と為し、庶幾く位望既に重く、材能已に試みられ、其の職を挙ぐるを得ん」。之に従う。権吏部尚書、時に彗東方に出ずるを以て、詔して言を求めしむ、綱奏す、「言を求むるは易く、聴察は難し。宜しく有司に命じて章奏を詳審せしめ、必ず其の情を究極し、苟簡なる事無からしむべし」。参知政事を除す、高宗頻りに輔臣に民力を寛恤せしむるを諭す、蓋し秦檜の苛政を懲り、黎庶を安んずるを期す、綱乃ち其の民に利するに切なる八十事を摘し、大指を以て標し、鏤版して中外に宣布せんことを乞う、是に於いて人皆上徳意を昭かに知る。老を告げ、資政殿学士を以て婺州を知り、尋ねて致仕す。高宗建康に幸す、綱行宮に朝す。孝宗登極し、綱を召して南郊に陪祀せしむ、老を以て辞して至らず、詔して之を嘉し、所在の州郡に命じて恒に存問せしめ、仍て羊酒を賜う、卒す、年八十四。
綱嘗て坐右に書して曰く、「直を以て己を行い、正を以て朝に立ち、静を以て退きて天下に高し」。其の篤守すること此の如し。初め文定と謚す、吏部尚書汪応辰之を論駁す。孫釜再び請う、特賜して章簡と曰う。釜、慶元間諫官と為り、力んで道学の諸賢を排し、累官して簽書枢密院事に至る。
張大経
張大経、字は彦文、建昌南城の人なり。紹興十五年、進士第に中り、吉の龍泉を宰し、善政有り。諸司列薦し、便殿に対賜し、出でて儀真を知る。時両淮の監司・帥守多く事を興して功を邀う、大経独り平易を以て民に近く、民皆之を徳とす。湖南常平を提挙し、湖北刑獄を提点し、尋ねて江東に移る。他路に巨豪法を犯し、獄久しく竟わず、命じて大経に属せしむ、豪権勢を挟みて脱せんことを求む、大経卒って其の罪を正す。孝宗風憲の選を重んじ、命じて部使者十人を上条せしむ、上独り大経を可とし、召見し、上曰く、「朕十人中卿一人を得たり、卿の風力峻整を以てす」。遂に監察御史を除し、命下り、中外聳歎す。
大経はまず士風の弊として、掊克(搾取)、偷惰(怠惰)、誕慢(虚偽傲慢)、浮虚(浮ついた空虚)の四つを挙げた。当時、理官(司法官)の多くが外に居住していたが、大経は不便であると上奏し、そこで官舎を建てて守衛の庭とした。大理少卿に遷り、殿中侍御史を守り、言うには、「今日政治が治まらないのは、大臣が責任を負わないからである」。また言うには、「諸路の凶作対策が実態を伴わず、飛蝗が甚だ多い。願わくは益々恐懼を加え、大臣に申し飭め、内にあっては百官有司に忠讜を尽くさせ、その職務を修めさせ、外にあっては監司・守臣に貪婪を察し冤罪を理め、苛斂を去り、民力を寛かにさせよ」。上は皆これを嘉納した。近習の韓俁が士人を推薦したことを論じたところ、上は言った、「これも害はない。昔、楊得意が狗監(天子の猟犬を管理する官)であったが、司馬相如を推薦したこともある」。大経が奏上して言うには、「彼は何者ぞ、斯くも士人を推薦させることは、恐らくは廉恥なき者が風望して旨に迎合し、士俗を傷つけ毀損するであろう」。数日後、上は大経に言った、「卿が先に論じた韓俁のこと、朕が思うに誠にその通りである」。また宦官の董璉の暴横を論じ、淮甸に命を受けて赴き、至る所で誅求し、且つ自ら「董閻羅」と号していると、上は言った、「然り、人皆これを言う」。即座に奏上に依って官を削り罷免し、南康軍に流した。侍御史に除され、上は宣諭して言った、「卿の事を論ずることは得体を得ており、且つ詳練である」。大経は遂に言う、「士風未だ厚からず、吏治未だ粛ならず、民力未だ蘇らず、和気未だ応ぜず、皆人心未だ正しからざるに由る。願わくは公正を察し、義利を明らかにし、以て好悪を彰かにし、浮薄を抑え、貪刻を去らば、則ち靡然として洗濯し、一に正に帰する者無からん」。上は再三称善した。また言う、「監司は民を治める根本である。資格に限るべからず」。上はその言を納れ、即座に四寺丞を選び同時に臨遣した。右諫議大夫兼侍講を試みる。漕臣の計を貫通させ、以て州郡の有無を補うことを請う。戸絶の租を拘え、以て常平の儲蓄を広めることを請う。臓罪改正の法を厳しくし、以て貪黷を懲らしめることを請う。外路の闢闕(欠員補充の権限)を収めて吏部に帰し、以て私謁を杜ぎ孤寒を通ずることを請う。
秋に旱魃があり、詔して言を求むると、大経は極言して言う、「人心の和せざる有りて、以て之を致す。民力竭きて愁歎多く、軍士貧しくして怨嗟衆し。この二者は当今の大弊なり。州県の間、絹帛多く其の估を折り、米粟過ぎて其の贏を収め、関市苛征し、榷酤峻禁す。中外の兵帥多くは貴幸の門より出で、営利自ら豊かにし、素より衆怨を召し、教閲滅裂にして、軍容整わず。且つ近習の甲第名園、法を越え制を逾え、別墅列肆、在々として之あり、賂遺せずんば何を以てか欲を済さん。願わくは陛下憸腐を疏斥し、幸門を抑絶し、人主の職に意を垂れ、宰輔に責成し、一に其の綱を提げば、則ち天下の事必ず能く之を弁ずる者有らん」。俄にして池司の郝政が統制官に降充され、殿帥が外補されたのは、蓋し其の言を用いたのである。
礼部尚書兼侍読に除される。大経は屡々祠官を請うたが、上は言った、「卿は公廉にして必ず朕が為に民を牧する能わん」。徽猷閣学士・知建寧府を以てす。未だ幾ばくもせず、鎮を移して紹興に知らしめようとしたが、辞して拝せず、祠官を予う。龍図閣学士に進み、老を告げ、通奉大夫を以て致仕す。主眷未だ衰えざるに方り、抗疏して去りを引き、人は孔戣に比した。寿は八帙を逾え、紹熙五年、寧宗即位し、正議大夫に進み、詔を降して撫問し、銀奩・薬・茗を賜う。慶元四年七月、疾革(病篤く)、諸子に語って言う、「吾が目は瞑ずべし、吾が君を愛し国を憂うる心は泯すべからず」。一語も私に及ぶこと無し。卒す、年八十九。訃報を聞き、上は甚だ之を悼み、銀青光禄大夫を贈り、謚して「簡粛」とす。
蔡洸
蔡洸、字は子平、其の先は興化仙游人、端明殿学士襄の後、霅川に徙る。父は伸、左中大夫。洸は蔭を以て将仕郎に補し、法科に中り、大理評事に除され、寺丞に遷り、出でて吉州を知る。召されて刑部郎と為り、度支に徙り、戸部郎を以て淮東軍馬銭糧を総領し、鎮江府を知る。会に西溪の卒が建康に移屯するや、舳艫相銜(船が連なる)。時に久しく旱有り、郡民は陂を築き水を瀦て灌漑す。漕司は郡に檄して之を決せしめんとす。父老泣いて訴う。洸曰く、「吾は百姓に罪を獲るを忍びず」と。之を却く。已にして大雨有り、漕運通じ、歳も亦大いに熟す。民之を歌いて曰く、「我水を瀦し、以て灌し以て溉す。我を奪わしめざらしむるは、蔡公是れ頼む」と。就いて司農少卿に除され、言う、「鎮江三邑の税戸・客戶、丁を輸する各異なり。請う、一体と為し、自ら同異を為すを得ざらしむ。所輸の丁絹、和買の直に依り、尺を計り折納し、人に一鈔を与え、官自ら絹を買い起発せば、公私皆便なり」。上嘉納す。戸部侍郎として召され、吏部尚書を試み、戸部に移る。上侍臣に謂いて曰く、「朕は版曹に人を得るを喜ぶ」。洸常に言う、「財は滲漏無ければ則ち用に勝えず」。未だ幾ばくもせず去りを求め、徽猷閣学士・知寧国府に除される。陛辞に坐を賜う。上慰労して曰く、「卿の面に火色有り、風証なり。朕に二方有り卿に賜わん」。洸謝し、即ち祠を奉じて以て帰る。卒す、年五十七。
洸は親に事うること孝なり。曾祖の襄未だ名を易えず(諡されず)、力を朝廷に請い、諡して「忠恵」を賜う。得る所の俸は、毎に以て親戚の貧しき者を振う。朝を去るの日、囊に余資無く、至って賜わった所の銀鞍韉を売りて行装を治む。人は其の清潔を服すと云う。
莫濛
莫濛、字は子濛、湖州帰安の人。祖蔭を以て将仕郎に補し、両たび法科に魁し、累官して大理評事・提挙広南市舶に至る。張子華が臓で敗るるや、朝廷命じて濛を往きて之を鞫せしむ。濛其の罪を正す。又言う、秦熺・鄭時中が子華の賂を受け、計うるに直数千緡なり。朝に還り、大理寺正に除す。吏部火災有り、連坐する者数百人、久しく決せず、命じて濛に之を治めしむ。濛其の最も疑わしき者を察して獄に留め、余人を出して耳目と為し以て之を蹤跡せしめ、三日を約して復た来らしむ。遂に其の実を得、係わる者乃ち釈かるるを得たり。黄州の卒が親しく盗五十余人を擒えたと奏す。上命じて濛に窮竟せしむ。既に至るや、皆以て冤と告ぐ。濛命じて囚の桎梏を去らしめ、卒を引いて庭に至らしめ、窃発の由、闘敵の所、遠近の時日を詢うるに悉く皆抵牾す。之を折すと、語塞る。濛正犯数人を具して奏上し、余は之を釈す。上輔臣に諭して曰く、「莫濛は独り刑獄に曉なるのみならず、金穀を理せしむべし」。戸部員外郎に除す。
朝廷濛を遣わして浙西・江淮の沙田蘆場を措置せしむ。上之に語りて曰く、「此を得れば経費を助くべし。帰るの日は版曹を以て卿を処せん」。濛多方に括責し、二百五十三万七千余畝を得る。言者其の丈量実を失い、徴収貧民に及ぶを論ず。責めて饒州景德鎮を監せしむ。起きて光化軍を知る。諜(間者)金の盟を渝るを知る。郡舟乏しく、衆以て慮いと為す。濛力を為して辦集し、敵境を犯するに及んで、民之に頼りて済る。時に餉饋急なり。淮南転運判官に除す。濛遷延して之に赴かず。右司諫梁仲敏其の命に慢なるを劾し、官を罷め勒停す。宣諭使汪澈為に上に言う。旧職に復し、召見す。上諭して曰く、「朕常に向かって沙田を措置すること甚だ不易なりしを記す」。濛謝して曰く、「職爾、怨を避けんと敢えてせず」。上曰く、「責に任ずる者をして人々卿の如くならしめば、天下何事か成らざらん」。
湖北転運判官に任ぜられる。間もなく、鄂州知州となり、召されて戸部左曹郎中に任ぜられ、出向して揚州知州となった。陛辞の際、上は城壁が崩壊していることを以て、濛に増築を命じた。濛は州に到着すると、城門の規模を測り、諸将に分担させ、各々に塀の間に姓名を刻ませ、重賞を掲げて激励し、数ヶ月を経て完工を報告した。直宝文閣学士・大理少卿兼詳定司勅令官に任ぜられ、兼権として臨安府知事を務めた。間もなく、工部尚書を仮官として金に使いし、正旦を賀した。金廷で宴が賜わったが、濛は本朝の忌日に当たるため簪花して音楽を聴くことを敢えず、金は人を遣わして赴くよう促したが、濛は固執して従わず、遂に奪うことができなかった。使いより帰還し、刑部侍郎に任ぜられ、工部侍郎に改められ、臨安府少尹を兼ねたが、言事者の弾劾により罷免された。起用されて鄂州知州となった。官にて卒す。享年六十一。正奉大夫を追贈された。
周淙
周淙、字は彦広、湖州長興の人。父の需は進士より起家し、官は左中奉大夫に至った。淙は幼少より聡敏で、学問に励み、宣和年間に父の任子により郎官となり、官を歴て通判建康府に至った。紹興三十年、金が盟約を破り、辺境の事態が勃興すると、帥守の選任は難しく、士大夫も行くことを憚った。まず淙を命じて滁陽を守らせたが、赴任せず、楚州に移され、また濠梁に転じた。淮・楚の地には旧来より山水に並んで砦を設け自衛する者があったが、淙は規約を立て、保伍を組織した。金主亮が国を傾けて辺境を侵犯した際、民がこれにより全活した者は数え切れなかった。直秘閣に任ぜられ、再任された。孝宗が禅を受け、王師が虹県を進取すると、中原の民はこぞって帰順し、老いを扶け幼を携えて道に相連なった。淙は人口を計って食糧を与え、行く者には牛酒で労い、至る者には家屋を住まわせ、人々は感悦した。張浚が軍を視察し、都梁に駐屯した時、淙の謀略を見て、直ちに称賛し、且つ言うには「急事あれば、公は我と共に死すべきである」と。淙も感激し、遂に「頭は断たれようとも、身は去るべからず」と言うに至った。浚が朝廷に入り、その状況を悉く陳述すると、上は嘉賞して止まず、直徽猷閣に進められ、維揚の帥となった。
時に銭端礼が尚書として淮東に宣諭したが、また淙を推薦し、直顕謨閣に進めた。当時、両淮は践蹂され、民多く流亡していたが、淙は極力招集安輯し、以前のように安定させた。民に桑柘を植えさせ、屯田を開くよう勧め、上も専ら淙に委ね、屡々親筆の書簡を賜わった。淙は奉行に一層力を入れ、直龍図閣に進み、両浙転運副使に任ぜられた。間もなく、臨安府知事となり、上言した。「古より風化は必ず近きより始まる。陛下は躬みて節倹を履み、四方に示されるが、貴近の者は奢靡で、少しも革めることを知らない」。乃ち禁止すべき十五事を条上すると、上は嘉納し、詔を下して賞諭し、金帯を賜わった。臨安に駐蹕すること久しく、居民は日増し、河流は狭く、舟楫が難儀していたので、淙は疏浚を請うた。工事完了後、秘閣修撰に任ぜられ、右文殿修撰に進み、提挙江州太平興国宮として帰郷した。上は淙を忘れず、敷文閣待制に任じ、起用して寧国府知事とし、入奏を促すと、上は慰撫すること愈々厚かった。魏王が出鎮すると、守りを移して婺州となった。明年の春、再び祠官を奉じ、急ぎ老齢を告げた。十月に卒す。享年六十。積階は右中奉大夫に至り、長興県男に封ぜられた。
劉章
初め、章が秘省に在った時、郊廟の礼文について議論し、局を置いて討論すべきとし、詔してその説を行わせた。正に吏部に遷らんとする時、御史が章が胥長に絹を買わせたと論じたが、高宗は愕然として言うに「劉章に必ずや是の如き事はあるまい」と。御史が執拗に止まず、提挙崇道観に罷免され、朝廷挙げて嘆き鬱した。起居郎王佐がその冤罪を訟じたが、また罪に坐して貶黜された。起用されて信州知州となったが、久しからず、再び祠官を請うた。孝宗が禅を受け、旧学を思い、漳州知州に命じたが、諫議大夫王大宝に阻まれた。間もなく秘閣修撰・敷文閣待制に任ぜられ、召されて提挙祐神観兼侍読となり、遂に礼部侍郎を拝した。淫祀を禁遏するよう奏上し、更に『三朝史』より『道釈』・『符瑞志』を削除すべきとし、大略『春秋』の法に非ずと為した。
朝廷が中原を経略することを議し、諸郡の兵を徴発すると、民は頗る擾乱し、少卿趙彦端が指摘して是に非ずと述べたが、或る者が彦端を讒して言うに「陛下は大挙に心を究められるが、凡そ図回されることは、只趙彦端の一笑を資するのみである」と。彦端は不測を懼れた。上は夜対の際に章に問うて言うに「卿監の中に朕を笑う者あると聞く」と。章は状況を知らず、従容として対えて言うに「聖主の為される所、人焉んぞ敢えて笑わんや、若し議論同じからざれば或いは有り得ましょう」と。上の意は頗る解けた。彦端は免れ、人は章を長者と称した。詔して唐太宗が魏徴に問うた徳・仁・功・利の優劣を諮詢すると、章は上疏して諄々と繰り返し、且つ言うに「太宗が徴に問うたのは貞観十六年、陛下は天命を宅してより十載、茲に在り、原より益々意を加え、将に商・周を越え、唐・虞を紹がんとされる、太宗は到り難きに非ず」と。権礼部尚書兼給事中に進んだ。選徳殿に対し、章に問うて「今年幾つにして容貌未だ衰えず、頗る嘗て学道したか」と。章は拱手して対えて言うに「臣は書生に他に長ずる所なく、唯菲倹を以て自ら度るのみ。晏嬰は一つの狐裘を三十年易えず、人は以て難しと為すも、臣は以て易しと為す」と。上は久しく嘉賞した。親しく宸翰を揮毫して賜い、職に安んぜしめた。章は力めて帰郷を請い、顕謨閣学士として祠禄を食んだ。
沈作賓
沈作賓、字は賓王、代々呉興帰安の人。父の任子により入仕し、饒州永平監を監り、冶鑄は堅緻で、また詔を承って雁翎刀を造り、上意に称し、連続して二資を進めた。刑法科に中第し、江西提刑司検法官を歴任し、入って大理評事となった。改秩し、通判紹興府となった。帥守の丘崈は僚吏に対し剛厳であったが、作賓は従容として裨贊し、常に寛容を以て補った。秩満し、台州知州となり、まず民の疾苦を訪れ、塩禁を弛め、租期を寛げ、徭役を均しくし、酒政を改め、滞獄を決し、五十日の間に前政の民に不便なるものを悉く除き、邦人は皆悦んだ。しかし前守は己に勝ることを嫉み、巧みに醸成して、罷免させ去った。民は朝廷に請い、借留は果たせず、為に「留賢碑」を立てた。大理正に任ぜられたが、親嫌により、太府丞に改められ、刑部郎に遷った。
慶元の初め、官を歴て淮南転運判官に至り、治辦を以て聞こゆ。直華文閣を帯び、その任に因る。太府少卿に擢て、淮東軍馬銭糧を総領し、継いで卿に昇る。尋いで直龍図閣を除され、浙東を帥し、紹興府を知る。入朝して対し、奏す、「徽州・南康軍の月樁は期に如かず、朝廷の科降額、比年『権めて一次を免ず』と曰うも、来年督促すること初めの如し、適に吏姦を啓き、民害を重んずるに足る。明詔を以て示すことを乞う。又た楚州武鋒の一軍は已に三千五百余人を招くも、朝廷初め戍を減ぜんと欲し、数年未だ紀律に就かず。一に、主将の望軽し。二に、郡守の節制を礼と為さず。三に、訓練その能を尽くさず。願わくは本州に令して少しく仮借し、之を責めて練習せしめ、歳月を期し、考績を以て成否を成し、上って朝に於いて之を黜陟せん」と。上嘉納す。韓侂冑方に事を用う。族に越に居する者有り、私釈公行す。作賓逮捕して獄に置き、而して其の奴を竄す。又た紹興府の和買の事を論ず。語は『食貨志』に在り。
両浙転運副使を除す。入朝して対し、奏す、「攢宮一司、歳に経・総制銭を撥て緡率四万有奇と為す。丹雘未だ弊せず、之に塗飾を加え、墻壁具存す、従って創易す。妄費固より計うるに足らず、亡謂驚黟、神霊を妥し、聖孝を彰す所以に非ず。今後営繕に合する有らば、朝に聞こえ、守臣に下して稽覈せしめ、旨を画して後に役を興すべし」と。上首肯すること再三、而して修奉者は楽しまず。
権工部侍郎を除し、継いで戸部侍郎を兼ぬ。奏請して紹興三十一年以前の故事を修め、復た敕令所の刪修官五員をして、選人の才有る者を待たしめ、又た保伍法を申厳するを乞う。言者を以て罷め帰り、起して鎮江府を知らしめ、集英殿修撰を除し、改めて寧国府を知り、宝謨閣待制を除し、潭州を知り、戸部侍郎兼詳定敕令官を除す。奏す、湖北は当に粟を儲くべく、湖南は当に兵を増すべしと。未だ幾ばくもあらず、龍図閣待制を除し、平江府を知る。許浦水軍を節制するを得んことを請う。詔して可とす。郡に使臣有り、故に海盜なり。作賓之をして其の党を招誘せしむ。既に至り、之を慰勉し、衣物を錫う。又た強勇の者幾千人を得、将を置きて之を統べ、号して「義士」と曰う。復た郡城内外の悪少を募るも亦幾千人、号して「壮士」と曰う。衣糧器械皆官軍に視るも、而して軽捷善鬥之に過ぐ。是に於いて海道警なく、市井嘩なし。尋いで督府を参贊するを命ぜられ、兼ねて鎮江府を権む。戍兵千人を留めんことを請い、又た江・閩の新軍二千人を以て旧軍千人に易え、不虞に備えんと欲す。朝廷之を難じ、遂に祠を請う。言者継いて之に及ぶ。復た召されて戸部侍郎と為る。軍興の余、国力殫耗し、見存の金穀、僅かに旬日を支う。作賓逋負を考へ、吏姦を柅ぎ、三月を閲すれば即ち半年の儲有り。館伴使を充て、兼ねて工部尚書を権む。
会うに臨安知府事を闕く。時相奏用して作賓をせんと欲すも、力辞す。権戸部尚書を除す。母憂を以て解く。服闋し、顕謨閣直学士・建寧府知事を授かる。入覲し、詭戸の禁を申厳するを乞う。宝謨閣学士・江西安撫兼隆興府知事を除す。奏す、部内の南安・南康・龍泉の三県、溪峒に迫近す。三県の令尉及び峒に近き砦、曰く秀洲、曰く北郷、曰く蓮塘、並びに永新県の勝郷砦は、宜しく就て帥・憲の両司に委ね才を択び置き、賞格を量りて加うべしと。又た諸道の監司に詔して州郡に分詣せしめ、禁軍を選び、精練閲し、其の懦弱なる者を改刺して廂軍と為すを乞う。郡に在りて銭二十余万緡を撙し、僚属朝に献ぜんことを請うも、作賓平生未だ嘗て羨を献ぜずと謂い、半を以て帥司に帰して師を犒い、半を本府に隷す。煥章閣学士・隆興府玉隆万寿宮提挙を除し、進んで顕謨閣学士にて致仕し、家に卒す。金紫光禄大夫を贈らる。
論じて曰く、李衡の進退雍容、道を聞くに幾し。王自中・家愿の奇邁危言、摧折して悔いず、咸に称すべき有り。嘗て宋の立国を考うるに、元気は台諫に在り。崇寧・大観の後、姦佞権を擅にし、爵賞冒濫し、馴て覆亡に至る。高・孝重く繩糾封駁の司をし、張綱令懬恩を抑え、大経韓俁を劾し、董璉を斥く。人々風采を振揚し、正気稍く伸ぶ。時に則ち若し洸・濛・淙・章・作賓の有るが若く、班班たる善有り、同傳も亦宜し。