周執羔
建炎初年、乗輿が南渡すると、京師より揚州に馳せ参じたが、間に合わず、そこで隆祐太后に従って江西におり、会稽に還り覲見した。まもなく継母の劉氏が病を得たため、帰郷して養うことを乞い、撫州宜黄県丞に転じた。当時、四境は騒擾し、潰走した兵卒が相挺って変を起こし、県令は大いに恐れ、なすべきことを知らなかった。執羔は禍福を以て諭すと、皆手を束ねて命を聴いた。その後さらにその徒党を誘い、首謀者を捕らえて斬り、衆に示した。邑人はこれを徳とし、ついに像を描き祠を立てた。
紹興五年、官等を改め、湖州通判となった。母の喪に服し、喪が明けて、平江府通判となった。召されて将作監丞となる。翌年の春、太常丞に遷る。ちょうど明堂を建てる議が始まり、大楽は久しく廃れて修められていなかった。詔して奉常に習熟させ、旧聞を訪ね集め、工器を整え閲し、制作がようやく整った。累遷して右司員外郎となる。
さらに六年後、起用されて眉州知州となり、閬州に移り、また夔州に改め、夔路安撫使を兼ねた。夔部の地は蛮獠に接し、事を生じやすい。ある者が溱・播の夷が叛いたと告げ、その豪帥が兵を遣わして討つことを請うた。執羔はこれに謂いて「朝廷は爾を長と為して用いる。今一方が騒擾する。責は将に焉くにか往かん。能く力を尽くせば爾を赦す。一兵も得るべからず」と言った。豪帥は懼れ、叛いた者を斬って献じ、夷人は是より皆息をひそめた。三十年、饒州知州となり、まもなく敷文閣待制を除された。
方士の劉孝榮が『統元暦』に誤差があると言ったので、執羔に命じてこれを厘正させた。執羔は劉義叟の法を用い、日月の交食を推し、五緯の盈縮を考へ、気朔寒温の候を紀して、『暦議』・『暦書』・『五星測験』各一卷を撰して上進した。
上は嘗て財を豊かにする術を問うた。執羔は民を蠹す根本は、兵に甚だしきは莫しと為した。古は師を興すこと十万、日費千金。今、尺籍の数は、これより十倍し、罷癃老弱の者は幾ばくか半ばに及ぶ。これを汰わざればその弊益々深からん、と論じた。「和糴は本来、軍興に給し、凶災に備えるためである。蓋し国家一切の政は、已むを得ずして之を為すものなり。若し辺境に事無く、民食を妨げて務めて聚斂を為すは、可ならんや。旧糴には常数有り。比年、毎郡増すこと一二十万石に至る。今、諸路は枯旱の余り、虫螟大いに起こり、常税を供するに足らず、況んや数外に之を取るをや。一路一郡一県の豊凶の数に視て、軽重を行い、災甚だしき者は之を蠲くべし」と。上は矍然として「災異此の如くにして、乃ち一人も朕が為に言う者無し」と言い、即座に詔してこれに従わせた。
翌年三月、老を告げた。上は諭して「祖宗の時、近臣に年八十を逾えて尚留まる者有り。卿の歯は未だならず」と言い、その上章を退けることを命じた。閏月、再び前の請いを申す。上は奪うべからざるを度り、詔して江州太平興国宮提挙とし、茶・薬・御書を賜い、恩礼特に渥く、公卿は都門外で祖帳を設け、搢紳は之を栄とした。時に閩・粤・江西は歳饑え盗賊起こり、執羔は陛辞の際にこれを以て言上した。詔して太府丞馬希言を遣わし諸路に使わしてこれを振救させた。乾道六年に卒す。年七十七。
執羔は雅量有り、朝に立って朋比無し。郡を治めるに廉恕にして、循吏の風有り。手から巻を釋かず、特に『易』に通じた。
王希呂
王希呂、字は仲行、宿州の人。江を渡り南に帰って後、仕官してより、嘉興府に寓居す。乾道五年、進士科に及第す。孝宗は西北の士を奨励して用い、六年、召して試み、秘書省正字を授く。右正言を除す。時に張説は戚属に攀援して擢用せられ、再び簽書樞密院事を除せらる。希呂は侍御史李衡と交章してこれを劾す。上は其の党を合して名を邀うを疑い、遠小の監当を責む。既にして之を悔い、宮観に改めて授く。方に説の見用せらるるや、気勢赫奕たり。後省は黄を書かず、学士院は詔を草せず、皆相継ぎて斥逐せらる。而して希呂復た身を以て怨を任す。国を去るの日、徒御を屏け、履を躡いて以て行き、恬として悔いと為さず。是に由りて直声遠近に聞こゆ。此を以て黜せらるると雖も、亦此を以て知らる。出でて廬州を知る。
五年、召されて起居郎と為り、中書舎人・給事中を除し、兵部尚書に転じ、吏部尚書に改む。去らんことを求め、乃ち端明殿学士・知紹興府を除す。尋いで言者に以て職を落とすも、之を処するに晏如たり。
郡を治むるに百廃俱に興り、尤も文学端方の士を敬礼す。天性剛勁、利害に遇いて回護の意無く、惟だ是れに従う。嘗て近習の用事するを論じ、語極めて切至なり。上色を変えて起たんと欲す。希呂御衣を挽きて曰く、「但だ臣の能く言うのみに非ず、侍従・台諫皆文字来たれり」と。江西に漕を佐く。嘗て『拳石記』を作りて以て僚属に示す。一幕官筆を挙げて数字を塗る。座を挙げて駭愕す。希呂之を覧み、其の阿らざるを喜び、之を薦む。
居官廉潔、屋有ること無くして廬す可きに至る。紹興より帰り、終焉の意有り。然れども猶お僧寺に寓す。上之を聞き、銭を賜ひて第を造らしむ。後に疾に以て家に卒す。
陳良祐
首に会子の弊を言い、願わくは内帑を捐てて以て細民の急を紡がんとす。上曰く、「朕財を積むこと何の用か有らん、散ずる能くば可なり」と。慨然として内府の白金数万両を発して会子を収換し、銅版を収めて造る勿れとす。軍民翕然たり。未だ幾ばくもせず、戸部請うを得、五百万を改造す。又奏す、「陛下の号令前に在りて、半歳の久を持する能わず。此を以て民に令せば、誰か能く之を信ぜん。豈に交子五百万を印せずして、遂に国を為す可からざる有らんや」と。既にして又た会子二千万を造らんと欲す。屡之を争うも得ず、遂に五百萬を以て旧会を換え、通行するを俟ち漸く之を収め、常に千万の数を越えざらしむるを請う。
上鋭意治を図り、唐太宗を以て自ら比す。良祐言う、「太宗の『政要』を賜いて省覧せしめ、善を択びて従い、非を知りて戒め、臣をして良臣と為らしめ、忠臣と為す勿れ」と。上曰く、「卿も亦た魏徴を以て自ら勉むべし」と。
又言う、「陛下躬行節儉、貨利を殖えず。或いは肺腑の親に託け、市井の行いを為し、公侯の貴を以て、商賈の利を牟る。田疇を占め、山沢を擅にし、甚だしきは舶舟を発し、蕃賈を招き、宝貨を貿易し、金錢を麋費す。或いは徳寿に仮り、或いは椒房に託け、法を犯し禁を冒し、利を専にして厭きず。是れ紀綱を維持し、戚畹を保全する所以に非ず。願わくは厳に戒敕し、苟も能く過ちを改めば富貴保つ可く、其の悛まざるが如くは、義を以て恩を断つべし」と。
時に左相丁外艱す。詔して起復せしむ。良祐言う、「起復は正礼に非ず。今疆場の事無し。之をして喪を終わらしむべし」と。遂に寝す。右諫議大夫兼侍講に遷り、同知貢挙、給事中を除し、兼ねて直学士院、吏部侍郎に遷る。尋いで尚書を除す。
時に議して泛使を遣わして地を請わしむ。良祐奏す。
「陛下恢復の志未だ嘗て忘れ懷かざるも、然れども詞は僉同より貴ぶ莫く、察せざる可からず。博く訪うも独断に帰し、審にせざる可からず。固より衆を用いて興る有り、亦た衆を用いて亡ぶ有り。固より独断に以て成る有り、亦た独断に以て敗るる有り。今使を遣わすは乃ち釁を啓くの端なり。万一敵騎辺を犯せば、則ち民力は供輸に困しみ、州郡は調発に疲れ、兵禍結びて息む期有ること無からん。将帥庸鄙、類は遠謀に乏しく、君父に対すれば則ち効死を言い、戦陣に臨めば則ち各々生を求む。符離の役の有るが如きは、戦わずして自ら潰え、瓜洲の遇の如きは、敵を望みて驚き奔る。孰か仗る可き者か。此れ臣の未だ敢えて其の万全を保たざる所以なり。且つ今の地を求むるは、河南を得んと欲す。曩歳嘗て版図に帰すも、踵を旋めずして又た失う。其の許さざるが如くは、徒らに往来を費やすのみ。若し其の我を許さば、必ず重幣を邀えん。経理未だ定まらず、根本内に虚しく、又た将に随いて之を取らんとす。向の四郡之を得るも亦た勤めたり。尚お能く有すること能わず。今又た故無くして侵地を求む。陛下度る可きか、虚声を以て之を下すことを。況んや止だ陵寢を求むるに、地其の中に在り。曩も亦た此を議す。其の答書を観るに、幾ばくか相戲るるに近し。凡そ此の二端は、皆釁を求むるなり。必ず使を遣わさば、則ち欽宗の梓宮を祈請するは、猶お辞有るが如し。内を視るに足らず、何の暇にか外を事とせん。邇者未だ懷かず、豈に遠を綏んぜんや」と。
奏入り、旨に忤い、瑞州居住に貶せらる。尋いで信州に移す。九年、許して令して自便せしむ。淳熙四年、起きて徽州を知り、尋いで敷文閣待制・知建寧府を除し、卒す。
李浩
順番に応対する機会に、まず『無逸』の戒めを述べ、かつ言った。「宿衛大将の楊存中は恩寵が特に異例であり、待遇が過ぎれば、その福とはならない。」上は悟り、すぐに邸宅に帰らせた。秦檜が権力を握って以来、言路は塞がれていたが、上(高宗)が権力を総覧し、忠直な言論を励ますようになってからも、この風習は残っており、朝臣の多くは慎重沈黙に務めていた。この時に至り百官に順番に対応するよう命じると、浩と王十朋・馮方・査籥・胡憲が初めて相次いで時事について言上し、聞く者を奮い立たせた。
浩は朝廷に安んじず、宮観の祠禄を請い、台州崇道観主管となって帰郷した。孝宗が即位すると、太常丞として召された。時に張浚が江・淮の軍を督師していたが、宰相たちは多く彼を抑えつけようとした。浩は仁宗が韓琦・范仲淹を任用した時に詔で章得象に戒めた故事を引き、同心協力するよう戒め諭すことを乞うた。吏部郎官を兼ねた。浩はもともと湯思退に厚遇されていたが、御史の尹穡は彼を引き入れて共に張浚を排斥しようとし、浩を推薦した。しかし応対の場で、浩ははっきりと意見が異なることを示し、二人(湯・尹)はともに喜ばなかった。一年余りして、ようやく員外郎兼皇子恭王府直講に任じられた。
王府において多く補益するところがあり、かつ事に因って時政に及び、それを冊子に書き記し、幸いに上(孝宗)が見られるかもしれず、王(恭王)ももとより彼を愛重していた。後に地方官に転出し、数年を経て帰ってくると、王は喜んで言った。「李直講が来た。」まもなく、宰相が四人の郎官を召し、登用しようとしたが、特に浩に目をかけていた。浩は黙然として一言も発せず、同僚は皆昇進したが、浩だけは元のままだった。
翌年、浙河で水害があり、詔で郎官・館職以上の者に時政の欠失を条陳させた。浩は、上(孝宗)がこれほど憂労しているのに、今どうして言わないことがあろうかと考え、すぐに上疏して近臣を指弾し、宰執がただ命令を奉行するのみで、台諫が多く迎合し、百官が顧慮して畏縮していることを論じた。数千言にわたり反復し、心中を傾け尽くして述べ、見る者を慄然とさせた。上はこれを怒らず、執政者たちは深く忌み嫌った。
地方官を請い、台州知州を得た。州には揀中禁軍五百人がおり、訓練官が貪婪残忍で衆望を失い、不満分子がこれに乗じて乱を謀り、突然庭で刃を露わにした。浩は彼らに言った。「お前たちは乱を起こそうというのか? まず私を殺せ。」衆は驚いて「恐れ多くてできません」と言った。そこでゆるやかに首謀者四人を推し出して黥面の上流刑にし、ついに事なきを得た。直秘閣に任じられた。海沿いに宿寇がおり、長く捕らえられなかったが、浩はその仲間を募り、自ら縛られて罪を贖うことを許すと、すぐにその首魁を得た。
郷里の豪民鄭憲が財貨をもって権貴の家に仕え、私腹を肥やして悪事を働いていたが、事が発覚し、枷をはめられ獄に繋がれ、獄中で死んだ。浩はその家財をすべて没収し、妻子を流刑にした。権貴人がその家族に教えて冤罪を訴えさせ、かつ妾を買った事で浩を誣告させた。言官はこれをもって浩を排斥しようとした。弾劾文が上程された時、権参知政事劉珙が順序を越えて奏上して言った。「李浩が郡守として、豪民に罪を得て、その者に誣告されています。臣がその経緯を調べたところ、非常に明白です。」上は振り返って言った。「守臣が強権を恐れないなど、そう易々と得られるものか?」そして弾劾文の所在を問うと、劉珙が袖から取り出したので、内廷に留めて下さなかった。大理寺は形勢を窺い、なお没収した財産を返還しようとしたが、上はその文書の後に批答して言った。「台州の判決は甚だ妥当である。鄭憲の家財は永久に返還せず、流刑も元の通りとする。」浩はようやく安泰を得た。
翌年、司農少卿に任じられた。時に朝廷が八万石の米を和糴したが、その事務を監督した者が安く湿って悪い米を買い入れ、官銭を着服し、戸部は敢えて詰問しなかった。浩はその悪事を明るみに出し、関係官庁に徹底追及させた。戸部は現存する数値で決済しようとし、大理寺もそれに附会した。浩は争って言った。「これは悪人を利するだけでなく、軍糧をも損なう。」上はその言を是とした。ちょうど大理寺が他の事件の判決を奏上した時、上は輔臣に向かって言った。「大理寺の官に李浩のように剛直な者を得た。」やがて卿が欠員となると、また言った。「李浩に代える者なし。」そこで大理卿に任じられた。
時に上(孝宗)は英明で、大いに為すべき志があり、廷臣はそれに奉行できず、怠慢で苟且、依違して事を避けていた。浩は以前司農にいた時、応対の機会に、両淮を経営する策を述べたことがあった。この時、金使の接伴使を務めて帰還し、奏上して言った。「臣が親しく見たところ、両淮の耕すべき田はすべて荒廃地となっており、心を痛めておりました。営田・屯田を計画し、これを恢復の根本とすべきです。」また言った。「近頃の辺境対策は甚だ慌ただしく、将吏に厳重に防備させ、微利や近功を図らぬよう戒めてください。日々大臣と政治の具を整え、人心を結び、重厚に静かにして、敵の隙を待つべきです。」上はすべて嘉納した。
宰相が広く使節を派遣することを議したが、浩はその不可を弁じ、ついには官職で脅そうとした。浩は怒り、言葉でそれに触れ、かつ強く地方官を求めた。直宝文閣を帯びて静江府知府兼広西安撫使となった。ある尚書郎が入対し、帥の選任について論じた時、上は言った。「広西のような地には、朕はすでに李浩を得た。」また大臣に諭して言った。「李浩の営田の議は甚だ実行可能である。」大臣で応える者はなかった。
浩が郡に着任すると、以前から霊渠があって漕運と灌漑に通じていたが、長年修治されず、命じて疏浚して通じさせ、民はその利益を頼んだ。邕管の管轄する安平州では、その酋長が険阻を頼み、兵を集めて辺境の患いを謀っていた。浩は単身の使者を遣わして禍福を諭し、かつ赦令に従って自新することを許すと、その日に叩頭して過ちを謝し、水上の柵を焼き払い、太府(朝廷)の制約に従った。
浩は天資が質朴で正直であり、涵養が渾厚で、利害をもってその心を動かさなかった。少時に学を力めて文辞を為し、壮年に至って益々理義に沈潜した。朝廷に立ち慨然として時事を己が任とし、忠憤激烈にして、言は時弊を切る、これをもって衆に忌まれる。平居未だ嘗て人に辞色を仮さず、知らざる者は以て傲りと為し、或いは上前に譖す、上謂う「斯人は他無し、朕が前にも亦た此くの如し、傲る者と為すに非ず」と。小人之を憚り、祿利を以て誘うも、正色にして回らず、之を謀害する者は至らざる所無し、独り上其の衷を察し、始終之を全うするを頼む。郡を為すに尤も己を潔くし、海右より帰るも、南海の一物を載せず。平生の奉養は布衣の時の如く、風裁素より高く、人敢えて私を以て干すこと無しと云う。
陳橐
陳橐、字は德應、紹興餘姚の人。太學に入り声有り、政和の上舍第に登り、寧州教授となる。母老いたりを以て台州士曹に改め、獄を治むるに平允なり。更に天臺・臨海・黃岩の三邑を攝め、越州新昌令に易う、皆愷悌を以て稱せらる。
母年高きを以て、帰養を乞う、詔して橐善く撫字すと、台州知事に移す。台に五邑有り、嘗て其の三を攝む、民惠愛を懷き、境を越えて歡迎し、数ヶ月を経ずして治まると稱す。母喪す、邦人巷に哭き、相率いて行在所に走る者千餘人、橐を起すを請う。詔して橐清謹にして擾さず、治状著聞すと、其の所在の州を敕し錢三十萬を賜う。橐力めて辭す、上近臣に謂いて曰く「陳橐に古の循吏の風有り」と。喪終わり、司勳郎中を以て召す。
累遷して權刑部侍郎となる。時に秦檜力めて和議を主とし、橐疏して謂う「金人多詐、和は信ずべからず。且つ二聖遠く沙漠に狩し、百姓肝腦地に塗れ、天下痛心疾首す。今天意既に回り、兵勢漸く集まる、時に乗じて掃清すべし、以て國恥を雪ぐべし。否も亦た兵を按じ嚴備し、勢を審らかにして動くべし。此を舍てて為さず、乃ち遽に和を講ず、何を以て中原の望みを繫がん」と。
既にして金厚く邀うる所有り、議久しく決せず、将に再び使を遣わんとす、橐復た言う「金は毎に講和を挾んで以て其の姦謀を售す。論者は其の劉豫を廢し又河南の地を還すに因り、遂に其の和に意有りと謂う、臣以為うらく然らずと。且つ金の豫を立つるは、蓋自ら捍蔽と為さんと欲し、之をして南を窺わしむ。豫は毎に順を犯すも、率皆敗北す、金恃むに足らざるを知り、従って之を廢す、豈我が為めならんや。河南の地を他人に付せんと欲すれば、則必ず豫を以て戒めと為す、故に捐てて我に帰す。往年の金書嘗に謂う歲帑の多寡は我が裁く所に聽くと、未だ歲を淹めず、反覆此くの如し。且つ地を割き和を通ずれば、則彼此各封疆を守る可きなり、而同州の橋は、今に至るまで存す。蓋し金は以て義を交え信を結ぶべからず、其の和好の説を仮り、謬悠の辭を騁せ、禍心を包藏し、變出不測なるを恐る。願わくは深く前轍を鑒み、亦た戰守の備を嚴にし、人をして人人激厲せしめ、常に寇至るが若くせしめよ。苟も彼和を通ぜば、則吾が武備を振飭するは立國の常を害せず。其の然らずんば、恢復の圖を決意し、私曲の説に循うこと勿れ、天意允協し、人心響應し、一挙以て大勳を成せば、則梓宮・太后還る可く、祖宗の疆土復す可し」と。檜之を憾む。橐因り力めて去らんことを請う。未幾、金果たして盟を渝つ。
橐博學剛介にして、產業に事えず、先世の田廬は、悉く兄弟に推し與う。廣に積年あり、四方の聘幣一として私室に入らず。既に事を謝して剡中に歸り、僧寺に僑寓し、日糴を以て食し、之に處するに泰然たり。王十朋《風土賦》を為し、近世會稽の人物を論じ、曰く「杜祁公の後に陳德應有り」と云う。
胡沂
胡沂、字は周伯、紹興餘姚の人。父宗伋、號は醇儒、能く所学を守り、時好を逐わず。沂穎異にして、六歳にして《五經》を誦し皆畢え、一字も忘れず。紹興五年進士甲科、州縣に陸沈すること幾三十載、二十八年に至り、始めて正字として入る。校書郎兼實錄院檢討官、吏部員外郎に遷る。右司に轉じ、憂いを以て去り、喪終わり朝に還る。孝宗禪を受け、國子司業・鄧王府直講を除し、尋いで殿中侍御史に擢でる。
旨有り侍從・臺諫方今の時務を條具せしむ、沂言う「守禦の利は、邊に沿いて屯田せしむるに若かず。前歲淮民逃移し、未だ舊業を復せず、中原歸附し、處する所を知らず。之を就耕せしめば、贍給す可く、餉饋を省く。東作方に興り、且つ敵人時を乘じて驚擾するを慮る、兵を險隘に聚めて防守すべし」と。詔其の言を行う。
御史中丞辛次膺殿帥成閔の貨を黷し士卒を恤れざる罪を論ず、詔して殿前司職事を罷め、祠と與う。沂再び其の二十罪を言う、遂に太尉を落とし、婺州居住とす。
沂又言う「將臣十等の目を定め、其の舉薦を令す、之を將を擇ぶの頃に施すは則ち可なり、之を士を養うに素より有るに施すは未だならんや。夫れ武舉を設け、武學を立て、之を弓馬を以て試み、又之を韜略の文・兵機の策を以て試むるは、蓋將に用うる所あらんとす。高等一二名を除き、餘は皆吏部榷酤・征商を授く、養う所は用うる所に非ず、用うる所は養う所に非ず、願わくは大臣に詔して詳議せしめ、中舉する者品格を定め、分かち差し邊將の下に準備差遣せしめば、則ち人人奮い思い、上の求むるに應ぜん」と。之に從う。
時に龍大淵・曾覿が藩邸の旧恩により知閤門事に任ぜられると、張震・劉珙・周必大が相次いで詞命を返上した。王沂は彼らが権勢を売り士を招くことを論じ、遠ざけるよう請うたが、聞き入れられず、諫官劉度が抗論した罪で左遷された。沂は累章を上し、ますます懇切に、『大淵・覿を退けなければ、柳宗元・劉禹錫のごとき者が節を曲げてこれに従う者が出ないとも限らない』と言った。出世を望む者はその言を嫉み、共に彼を排斥し、沂もまた言が行われないことを理由に去職を請い、直顕謨閣を以て台州崇道観を主管した。
六年、徽猷閣待制・知処州として出された。再び病を理由に祠官を奉じ、江州太平興国宮提挙となった。八年、待制のまま太子詹事に任ぜられ、まもなく再び給事中に任ぜられ、礼部尚書に進み詹事を兼ね、さらに侍読に改めた。上は沂を厚く遇し、大用の意があったが、沂は資性恬退で、依附する所なく、たびたび去職を請うた。
虞允文が国政を執り、上意を迎えて中原回復を献策すると、沂は金に隙がなく、我が方の諸将にこの任に堪えうる者がないと極論し、たびたびその議を妨げた。そこで龍図閣学士のまま興国宮提挙となった。
唐文若
唐文若、字は立夫、眉山の人。父の庚は『文苑伝』にある。文若は若くして英邁にして群を抜き、文は豪健であった。進士に及第し、潼川府の教官となった。給事中勾濤が自らの代わりに推薦し、詔して行在所に赴かせたが、到着した時には勾濤は出ており、会えなかった。文若は闕下に書を奏し、おおよそ次のように述べた、『昔、漢高は士を慢じ、四皓は去り、西鄙に廉恥の人が少なかった。光武は賢を礼し、厳光を友とし、東都に節義の士が多かった。陛下は万乗の尊を屈し、東南に駐蹕し、両宮は将に帰らんとし、五路は初めて回復した。正に朽骨を市い、怒蛙に式り、豪傑を招き、これと共に治めるべきであり、どうしてこの数刻の対面を惜しむことがあろうか』。書が奏上されると、翌日便殿に召し対し、高宗は大いに喜び、特旨で合入官に改め、洋州通判とした。洋州西郷県は茶を産し、陵谷を亘ること八百余里、山は険しく、賦税を全て把握できない。使者韓球が賦税を増やして寵を買おうとし、園戸は苛斂を避けて転徙し、飢饉が相次いだ。文若は力爭し、賦税はついに増えなかった。
再び遂寧府通判となった。大水に遭い、民多く漂死した。文若は城上に至り、庫銭を出して泳ぎの上手な者を募り、多くを救活した。また朝廷に力を請い、田租二万一千頃を免除し、場務税二十余所を免じ、長堤を築いて水勢を防ぎ、これより水害がなくなった。
秦檜が死ぬと、上は魏良臣に蜀の士を訪ね、文若を推薦した。二十六年、光禄丞として召され、秘書郎に改め、『文思箴』を作って献じた。その要旨は、『赫々たる我が皇、兵は既に休む。兵を休めば如何。兵を治めるに若くは莫し。安に居りて危を思えば、邦乃ち攸寧し。爰に其の旅を整え、文王以て興る。載せて干羽を舞わしめ、舜の仁用て成る。向戍は兵を弭し、『春秋』の懲る所。蕭俯は兵を去り、禍乱乃ち萌す。師は則ち多し、軍は則ち強し。弛みて縄せざれば、猶お人無しと曰う。兵は以て残すに非ず、兵を以て兵を休む』。凡そ千五百余言。檜が和を主として以来、朝論は兵を言うことを忌み嫌ったので、文若はこれをもって風刺した。
起居郎に遷った。西北の人材を登用して根本を固めるよう上に勧め、上は深くこれを容れた。制誥を掌らせようとした時、宣和の執政のために恩典を請う者がおり、司諫淩哲が弾劾した。文若はその直諫を喜び、『禾黍詩』を作ってこれを称えた。侍御史周方崇は自分を諷したと思い、文若が狂誕であると弾劾し、邵州知州として出された。上はたびたび近臣に、唐文若に罪はなく、近郡に改めるべきだと言った。
饒州知州となり、学宮を興し、田租の奇耗二万石を減じ、また常平義倉の備蓄の十分の三を毎年民と平価で売買するよう請い、農民も商人も共に利を得、粟も腐らず、遂に令として定められた。余干に凶悪な盗賊がおり、巡尉が制することができなかったが、文若は牙兵を遣わして捕らえ誅殺した。直敷文閣を加えられ、温州知州に移った。三十一年、召されて宗正少卿となった。
金人が辺境を侵犯すると、文若は対面を求め、まず大臣に江上の軍を節制させる議を建てた。上は大臣に、文若と虞允文・杜莘老・馬驥は皆用いることができると諭し、再び起居郎に任ぜられた。時に諸将が北に出撃し、捷報が日々聞こえ、上下に慣れ安堵の気持ちがあったが、文若だけはこれを憂い、元嘉の北伐の故事を図上に示した。上は創業の際の艱苦と敵情の反覆を詳しく文若に諭した。文若は答えて言った、『願わくは陛下は大勢を深く察し、策の長所を取り短所を避け、前代の軌轍を踏襲されませんように。そうすれば大いに善いでしょう』。
まもなく、諸軍は退守し、金主は自ら将となり、大将王権を歴陽に包囲した。権は逃げ、淮南はことごとく陥落した。詔して百官に廷議させた。文若は三策を画策した。一つは上親征を請い、二つは大臣を遣わして軍を労うことを乞い、三つは張浚を起用することを乞うた。工部侍郎許尹がその言を是とし、衆は遂に列奏して上ったが、回答がなかった。
文若はまもなく対面し、上は問うた、『今の計はどう出すか。卿は張浚に詳しいか』。文若は言った、『浚は道を守り学に篤く、天下の属望するところで、今四十年、天が浚を嶺海で死なせなかったのは、正に今日のためです』。上は驚いて言った、『浚を援ける者は多いが、卿でなければこの言葉を発することはできなかった』。数日後、楊存中を遣わして江上の軍を護らせ、親征の期を緩め、浚を起用して平江府知府とした。上は浚が忠愨ではあるが、功を好み、将兵に附かない者が多いと考えたからである。文若はまた言った、浚はもと孤忠をもって衆を得たと。まもなく浚を改めて建康府に鎮させ、江淮宣撫使としようとしたが、中で阻まれて止んだ。
乗輿が江表に幸するに当たり、起居郎を兼ねて給事中とし、直学士院を帯び、諸司と共に居守を務めた。御駕が還ると、中書舎人に遷った。上将に内禅せんとし、数日前に手詔を下して皇太子の生父を追崇せしめ、文若は既に黄を書いたが、周必大を訪れて聖徳を誦し、名称が未だ安からざるを疑い、帰って宰相に白し、黄を改めんことを請うた。堂吏は不可とし、文若は執して已まず、宰相は以て聞こえしむ。詔して本生親と称するを改め、尋いで又宗室子偁と改め、その後詔して皇兄と称す。
孝宗が位を嗣ぐと、張浚が右府を以て江・淮の軍事を都督し、文若は時に疾を以て外任を請い、敷文閣待制を除かれ、漢州知州となり、尋いで都督府参賛軍事に改む。浚は辺を行き巡り守備を按ずることを使わしめ、罷行する所多し。未だ還らざるに、鼎州知州を除かれ、江州に改む。
明年、浚が相に入り、都督府は罷む。其の冬、金復た大いに入り、官軍は悉く淮に戍る。文若は上流に兵備を厳にすべく、以て民志を定むべしと謂い、郷丁五万を籍するを奏し、訓練に法有り、人倚りて以て固し。解厳し、和糴大いに起こり、郡の数八万、文若は民の労を以て、堅く請いて什三を減ずるを得。旋って祠を請い、章三たび上るも未だ報ぜず。
李燾
李燾、字は仁甫、眉州丹棱の人、唐の宗室曹王の後なり。父中は第に登り、仙井監を知る。燾冠甫だに、金の仇未だ報いざるを憤り、『反正議』十四篇を著し、皆時を救う大務なり。紹興八年、進士第に擢げらる。華陽簿に調じ、再び雅州推官に調ず。秩を改め、双流県を知る。仕族張氏の子喪に居りて産を争う、燾曰く「若し先訓を墜すを忍びんや、盍ぞ帰りて之を思わん」と。三日にして復た来り、遂に悔艾して訟なし。又母に白さずして産を鬻ぐ者有り、燾これを理に置き、豪強跡を斂む。ここに於いて余暇を以て力學す。
燾は王氏の書を読むを恥じ、独り載籍に博く極まり、百氏を搜羅し、慨然として史を以て自ら任じ、本朝の典故に尤も悉く力を研核す。司馬光の『資治通鑑』の例に倣い、建隆を断じ、靖康に迄り、編年一書と為し、名づけて『長編』と曰う、浩大にして未だ畢らず、仍て光の体を效いて『百官公卿表』と為す。史官以て聞こえしむ、詔して劄を給して上らしむ。制置王剛中辟いて幹辦公事とす。
兵部員外郎兼礼部郎中を除く。会慶節上寿に会し、郊礼散斎の内に在り、権に楽を作すを議す、燾言す「漢・唐は天地を祀り、散斋四日、致斋三日、建隆初郊も亦然り。崇寧・大観より『周礼』に法りて天地を祭る、故に前十日に誓戒を受く。今既に合祭す、宜しく漢・唐及び建隆の旧制に復し、庶幾く両得すべし」と。詔して垂拱上寿に楽を止め、正殿は北使の為に権に用う。正に礼部郎中を除き、中興の祭礼未だ備わらざるを言い、『開宝通礼』・『嘉祐因革礼』・『政和新儀』を以て太常寺に参校して同異を令し、祭法を修成せしむるを請う。
四年、『続通鑑長編』を上る、建隆より治平に至る、凡そ一百八巻。時に『乾道新暦』成る、燾言す「暦は差さざれば改めず、験せざれば用いず。未だ差さざれば以て其の失を知る無く、未だ験せざれば以て其の是を知る無し。旧暦多く差し、改めざるを容れず、而して新暦も未だ大験有らず、暦官を申飭して討論せしむるを乞う」と。五年、秘書少監兼権起居舎人に遷り、尋いで兼実録院検討官とす。
子垕賢良方正直言極諫科を試む。燾素より唐三百年此の科に愧じざる者は唯劉去華のみと謂い、心に之を慕い、嘗て著す所の『通論』五十篇を以て蜀帥張燾に見え、詔に応ぜんと欲すれども、偶わずして止む。其の友晁公溯書を以て之を勉む、燾当に此の学を修むべく、必ず此の挙に従わざるべしと答う。既に躬試する克わざるに、ここに於いて二子垕・塾に習わしむ。是に至り、吏部尚書汪応辰垕の文行を薦めて詔に応ずべしとす、故に是の命有り。
左相陳俊卿出でて福州を知り、右相虞允文恢復の事を任じ、旧典を更張す。宰相燾の数言事するを以て、楽しまず、燾遂に去らんことを請う。直顕謨閣・湖北転運副使を除く、陛辞に、速やかに古を変えんと欲するを以て戒めと為す。
歳饑し、鄂州大軍倉を発して之を振う、僚属争い執して不可とす、燾曰く「吾自ら任ず、以て諸君を累さず」と。尋いで数如く之を償う。遊問返り、果たして燾の専を劾す、上止だ具析を令するのみ、之を罪せず。
八年、直宝文閣に任じられ、潼川を帥とし瀘州知事を兼ね、まず石門堡を修築して夷人を扼し、茶馬司に奏して叙州羈縻の馬を市うに額を溢れざるを戒め、官民に夷漢の禁山において木を伐り舟を造るなきを戒め、鎖水を開辺の旧池に移すを奏し、皆報可せらる。
燾都門に及び、祠官を乞う。江西運副を除され、かつ臨遣を許さる。或いは方に讒せらるるを以て時事に及ぶなかれと勧むるも、燾曰く「聖主全度かくの如し、忠を竭くすは以て報いと為す所以なり」と。すなわち奏して「日食・地震は皆陰盛にして、敵国小人を主る、慮わざるべからず」とし、かつ「古を変える無く、速やかならんと欲する無し」の両言を申し、また『快箴』を上る。太祖の朝を罷めて快に乗り事を決するを悔いしを引きて諫む。上曰く「朕まさにこれを座右に掲ぐべし」と。秘閣修撰に進み、権同修国史・権実録院同修撰を兼ぬ。
燾左史たりしとき、嘗て明堂礼を行なうを復すを乞い、「南郊・明堂は初め隆殺無く、圜壇を視るに合し、特に出郊の浮費を免るべし」と言えり。ここに至りてこれを申し言う。詔して集議せしむるも、嬖幸沮み止む。その後周必大礼部尚書として、その説を申し、始めて行なわるるを得。権礼部侍郎。
七月壬戌、雷太祖廟の柱を震い、鴟尾を壊す。有司旋ちに修繕を加う。燾奏して天変を畏るる所以に非ず、実を以て応ずべしとす。上大臣に諭して「燾朕を愛し、屡々讜言を進む」と言う。金紫を賜う。嘗て太祖東向の位を正すを請う。
四年、駕太学に幸す。執経を以て特みに一官を転ず。燾両学の釈奠を論ず。孔子に従祀するは、范仲淹・欧陽修・司馬光・蘇軾を升すべく、王安石父子を黜くべし。武成王に従祀するは、李勣を黜くべしと。衆議叶わず、ただ王雱を黜くに止む。真に侍郎を拝し、なお工部を兼ぬ。
『徽宗実録』院を置くこと久し。奏篇を上るを趣す。燾呂祖謙の学識の明らかなるを薦め、秘書郎兼検討官として召す。夜直宣引に、奏して「近く蒙気日に蔽う。その占いは不肖者の禄に在り。股肱耳目まさにその与を謹むべし」と。坐を賜う。起たんとすれば、また留めて飲を賜い、茶を賜う。尋いで詔して太史の天文を測験するを監視せしむ。
九月丁酉、日まさに夜食すべし。燾社壇祭告官と為り、伐鼓の礼廃れたるを、特みに行なう。垕すでに制科に中り、秘書省正字と為り、尋いで著作郎兼国史実録院編修検討官に遷る。父子史事を同じく主る。搢紳これを栄しむ。
燾上の知遇を感し、事を論ずること益々切なり。毎に集議するに、衆発言を敢えてせず、独り可否を条陳して避くるところ無し。近臣またその次子塾を挙げて制科に応ぜしむるも、閣試程に中らざるを以て黜かる。垕偶たま上舎の試巻を考うるに、策を発して制科を問う。御史の劾する所と為り、語燾に連なり、垕罷められ、燾もまた常徳府を知る。
初め、政和末、澧・辰・沅・靖の四州に営田刀弩手を置き、人を募りて辺を開く。范世雄等附会して民を擾す。建炎中これを罷む。乾道間、復置を建請する者あり。燾転運使として、嘗て復すべからざるを奏す。已にして提刑尹機郡県を迫いてこれを行なわしむ。田給する能わず。燾ここに至りてまたこれを申し言い、田を度り額を立てんことを請い、かつ帥臣張栻と約して列奏せしむ。詔これに従う。境に茶園多し。異時に商賈を禁切すれば、率い交兵に至る。燾曰く「官茶賊を捕う、豈に茶商を禁ぜんや」と。その自如するを聴く。終に警無し。
累表して閑を乞う。興国宮を提挙す。秋、明堂の大礼成る。その首議を以て、また敷文閣待制を除かる。頃くして、垕・塾相継いで亡ぶ。上吏事を以て燾の憂いを紡がんと欲し、遂寧府知事として起つ。
七年、『長編』全書成り、これを上る。詔して秘閣に蔵す。燾自らこの書は繁を失うとも略を失う無からんことを謂う。故に一祖八宗の事凡そ九百七十八巻、巻第総目五巻。熙寧の『三経』を修する例に依り、損益修換四千四百余事。上その書司馬遷に愧じざると謂う。燾嘗て漢の石渠・白虎の故事を挙げ、上に称制して臨決せんことを請い、また序を冠せんことを請う。上これを許すも、竟に就くこと能わず。
また奏して「陛下即位二十余年、志は富強に在り。而るに兵弱く財匱う。『民を教うること七年にして以て戎に即くべし』と異なり」と。一日、延和殿に召対す。講臣方に『陸贄奏議』を読む。燾因りて言う「贄徳宗に相たりしも、その実遇わず。今陛下に遇う、千載一時と謂うべし」と。すなわち贄の言う今に切にして挙げて行なうべき者数十事を挙げ、上に力を以てこれを行なわしむるを勧む。上功業足らざるの歎あり。燾曰く「功業は変通に見る。人事既に修まりて、天応すなわち至る」と。敷文閣直学士に進み、佑神観を提挙し侍講・同修国史を兼ぬ。尤袤・劉清之等十人を史官に薦む。
十年七月、久しく旱つ。祖宗の殿を避け膳を減じ言を求むる故事を進む。上亟に施行す。丁丑雨ふる。一日宣対す。燾言う「外議す、陛下多く薬を服し、殿に御すること罕にして、宮嬪見るに時無く、浮費頗る多しと」と。上曰く「卿忠愛と謂うべし。顧みるに朕老いたり、安くんぞこの声を得ん。近く惟だ李婕妤を葬るに三万緡を用う。他に費無し」と。すなわち転対に因り、祖宗の故事を用い宰執を召して経筵に赴かしむるを乞う。
太史言う、十一月朔、日まさに心を食むこと八分と。燾また上古今日食この月なる者三十四事を条し、因りてこれを奏して曰く「心は天王の位、その分は宋なり。十一月は卦に復と為り、方に陽潜まる時、陰気これに乗ず。故に他の食に比べて重し。小人政を害せざれば、すなわち敵人の中国を窺うなり」と。明日延和殿に対し、また晋の何曾が武帝に経国の遠図無しと譏りしに及ぶ。
十一年の春、致仕を乞うたが、優詔をもって許されず。上はしばしばその病状の増減を問い、給事中宇文价に上旨を伝えさせた。燾は言う、「臣子として闕を恋うるは、老病にあらざれば、いずくんぞ骸骨を乞うに忍びんや」と。そこで价に時事を叩き、忠藎を以て勉めるよう勧めた。また四川が酒課額の減免を乞うていると聞き、なお手劄を以て廟堂にこれを実行するよう賞賛した。
病篤くして、敷文閣学士を除され、致仕した。命が下ると、喜んで言う、「事畢れり」と。口占して遺表をなす、「臣年七十、死すとも夭ならず、恨むらくは国に報いること缺然たるなり。願わくは陛下、遠きを経るに芸祖を師とし、人を用いるに昭陵を則とせられんことを」と。辞気舒徐にして、乃ち卒す。年七十。
上聞きて嗟悼し、光禄大夫を贈った。他日、宇文价に謂いて曰く、「朕嘗て燾に『続資治通鑑長編』の七字を大書せんことを許し、且つ神宗が司馬光に賜わった故事を用い、序を以て篇に冠せしめんとしたが、その此れに止まるとは謂わざりき」と。
燾の性剛大にして、特立独行す。早くより著書す。檜なお当路に在りし時、檜死して始めて朝に聞こゆ。暨び従列に在りては、毎に正色を以て国論を訂す。張栻嘗て曰く、「李仁甫は霜松雪柏の如し。嗜好無く、姫侍無く、産を殖やさず。平生、生死文字の間にある」と。『長編』一書に力を用いること四十年、葉適は以て『春秋』以後に初めて此の書有りと為す。
『易学』五巻、『春秋学』十巻、『五学伝授』・『尚書百篇図』・『大伝雑説』・『七十二子名籍』各一巻、『文集』五十巻、『奏議』三十巻、『四朝史稿』五十巻、『通論』十一巻、『南北攻守録』三十巻、『七十二候図』・『陶潜新伝』並びに『詩譜』各三巻、『歴代宰相年表』・『唐宰相譜』・『江左方鎮年表』・『晋司馬氏本支』・『斉梁本支』・『王謝世表』・『五代将帥年表』合わせて四十一巻を有す。
諡して「文簡」と曰う。累贈して太師・温国公。子に垕・𡉙・塾・壁・𡌴あり。垕は著作郎。𡉙は夔州路提点刑獄。壁・𡌴は皆執政す。別に伝有り。
論じて曰く、執羔は宿徳雅度あり、経筵に在りては忠忱を以て啓沃し、口舌を以て相高むるを戒めたり。希呂は剛直懇切にして、古の引裾の風有り。良佑は力を尽くして泛使を止め、釁端を開くを懼れ、旨に忤いて竄斥せられても甘心せり。李浩は独り秦熺を造らず、陳橐は身を呈するを恥じ、文若は休兵を譏り、胡沂は閹宦を斥く。其の清風苦節、終始渝らざりき。高・孝の世、李燾は王氏の書を読むを恥じ、礼文残缺の余を掇拾し、粲然として則有り。『長編』の作、咸く史才を称す。然れども掇拾する所、或いは野史に出づ。『春秋』の疑を伝え信を伝うるの法、然るか。