黄洽
丁度、職事官に待次無しとの旨があり、改めて浙東安撫司主管機宜文字に差遣された。引き続き太学国子博士、枢密院編修官、福州通判を歴任した。祠官を奉じた後、召されて太常丞となった。外任を請うたが、孝宗は精励して治を求めていた折であり、「黄洽は徳が厚く、まさに事を任せるべきである」と言って許さなかった。対面の際、三事を奏上した:事に備えるには人材を儲けるに如かず、士卒はその心を練るべきであり、軍政は必ず予め謀るべし、と。上は驚き、洽は徐ろに奏して言った、「願わくは州郡を戒飭し、煩擾して寇を招くことなく、軽易に寇を侮ることなからしめ給え。寇が擾乱して後に平定するは、根本を傷つけること甚だ多い」と。秘書郎より著作郎に遷った。上は詞臣に諭して言われた、「秘閣は英俊を儲けて異時の公卿に用いる。黄洽の詞を行えば、及ぶことができるであろう」と。
右正言に任じられ、まず奏上した、「諫臣は具員にあらず、その職は諫争にあり、朝政に欠けがあれば、まさに言を尽くすべきである」と。上もまた端士と認め、その隠さず言を尽くすことを許された。侍御史に任じられた。水害旱魃が頻繁に起こった折、祠祭に因んで上言した、「此事は全く一念に在り。陛下夙に興きて黙想し、専ら民に精を致し、身は法宮に在りとも、心は壇壝に在り、洋洋たる左右、理として漠然たるべからず。連年の荒歉の由は、必ずや未だ神示の心に契し尽くさざる所あらん」と。ある日特詔があった、「諸路、荒政を奉行して虔ならず、官を差して按視安集せしむ」と。洽は急ぎ奏上した、「使者一出ずれば、官吏必ず畏るるを知らん。その常平一司、何の事を職とするや。淮・浙・江東に現に使あり、五使を以て五路を分つも、尚お周知せざるを慮る。今一人に二三路を兼ねしむれば、図帳戸口の多寡を閲するに過ぎず、地里遼邈、安くんぞ遍く歴らんや。若し専ら常平に責めば、名正しくして職挙がり、事分かれて察精なり」と。また奏上した、「芸祖は藩鎮の偏重の失を懲らし、兵民の権が一夫の手に聚まるを欲せざりき。今、主兵官に郡寄を兼ねしむるは、是れ兵民の権を一に合するなり。且つ辺徼に属すれば、偏重尤も甚だし」と。上は皆嘉納された。洽の論列する所は、嘗て細故や他の悪事を捃摭して以てその終身を累わすことはなかった。
右諫議大夫に任じられた。上は正に武を肄うる志鋭く、洽は因って風諫し、言った、「『頤』の大象に曰く、『君子は以て言語を慎み、飲食を節す』と。言語飲食すら猶お謹んで節す、況んや其の他のことにおいてをや。凡そ筋力喘息の間、一たび過差あれば、皆な其の身を養う所以に非ざるなり」と。上は言われた、「卿の言は仁義忠孝に非ざるは無く、万世の臣子の法と為すべし。朕常に之を念う」と。洽が経筵に在った時、言った、「宰相は天に代わって物を理む、要は国の為に人を得るに在り。人主の命ずる相は、任ずれば則ち疑うこと勿れ。宰相重ければ則ち朝廷尊く、朝廷尊ければ則ち廟社安し。宰相が才を掄え職に任ずるは、当に公心を尽くすべし。君子進めば則ち庶職挙がり、庶職挙がれば則ち天下治まる」と。上は再三肯き、乃ち言われた、「卿は良金美玉の如く、渾厚にして瑕無し。天其れ卿を以て朕の弼と為すか」と。
参知政事に任じられた。上は言われた、「卿は毎度朕に用人を告ぐ。今卿は用人之地に居る、勉めざるべからず」と。上が除目を商榷された折、洽は謁して顧み避ける所無く、上は大いに喜んで言われた、「五十年此の如き差除無し」と。知枢密院事に任じられた。洽は累章を上って去るを求め、許され、資政殿大学士・知隆興府に任じられた。
洽は常に言った、「家に居て親を欺かず、仕えて君を欺かず、仰いで天を欺かず、俯して人を欺かず、幽にして鬼神を欺かず、何ぞ福報を求むるを用いんや」と。六年七月、薨じ、年七十九。金紫光禄大夫を贈られた。洽は質直端重にして、大臣の体有り、両朝に推されて名臣と為された。文集・奏議八十五巻有り。
汪応辰
汪応辰、字は聖錫、信州玉山の人である。幼少より凝重にして常童に異なり、五歳にして読書を知り、属対応声の語驚くべきもの有り、奇字を多く識った。家貧しく膏油無く、毎度薪蘇を拾って以て晷を継いだ。人に従い書を借り、一たび目に経れば忘れず。十歳にして詩を作ることができ、郷校に遊び、郡博士戯れて之に曰く、「韓愈十三にして文能くす、今子は奚若」と。応辰答えて曰く、「仲尼三千にして道を論ず、惟れ公其れ然らん」と。
応辰は少くして喻樗に知られ、既に第を擢げて後、張九成の賢を知り、之を樗に問い、往きて之に従い遊び、学ぶ所益々進んだ。初任の時、趙鼎が帥と為り、幕府の事悉く之に諮った。歳小旱し、応辰に命じて名山に雨を祷らしめれば即応し、越人之を語って曰く、「此れ相公の雨なり」と。鼎曰く、「然らず、乃ち状元の雨なり」と。
秘書省正字に召される。時に秦檜は和議を力説し、王倫が使節より帰還すると、金人は河南の地を我が国に帰そうとした。応辰は上疏して言う、「和議が調わないことは憂うるに足らず、和議が調った後、因循として備えなきことこそ恐るべきである。異論が止まないことは憂うるに足らず、異論が止んだ後、上下相い蒙ることこそ恐るべきである。金は通和したとはいえ、疆場の上では各々戒厳を布き、他盗に備えるべきである。今まさに中外に赦令を施行し、将帥を褒賞し、休兵息民はここより始まるとしている。積年の恥を忘れるはともかく、異時における意外の患を思わぬのか。これが因循無備の恐るべき所以である。朝廷が群議を力排した当初、大なるは竄逐、小なるは罷黜に至り、一言迎合する者あれば、次第を越えて抜擢任用した。これにより小人は間隙を窺い、軽躁なる者は阿諛して寵を希い、畏懦なる者は循黙して位を備え、忠臣正士はかえって群小の間に自立する術なく、これが上下相蒙の恐るべき所以である。臣は願わくば、和好に憂いなきを以てせず、患いを思い予防し、常に敵人の至るが如くせられんことを」。疏が奏上されると、秦檜は大いに喜ばず、建州通判に出し、遂に祠官を請うて帰った。常山の永年院に寓居し、蓬蒿径に満ち、一室蕭然として、饘粥すら続かず、人はその憂いに堪えぬが、応辰は裕如として処し、ますます修身講学を事とした。ここより凡そ三度崇道観を主管し、隠約の時にも、胸中の浩然の気は凜然として屈せざるものがあった。
張九成が邵州に謫せられると、交遊は皆絶えたが、応辰は時に書信を通じた。その父の喪に際しては、言事官がなおも攻撃する中、応辰は千里を遠しとせず弔問に赴き、人皆危ぶんだ。袁州通判となり、凡そ与奪する所、人に異詞無し。着任早々、或いはその書生を以て軽んじたが、やがて吏師の及ばざるを知った。丞相趙鼎が朱崖で死すと、喪を扶けて郡を過ぎ、応辰は文を作りてこれを祭りて曰く、「惟れ公は両たび上宰に登り、皆艱危の時に直り、一たび南荒に斥けられ、遂に死生の別となる。事は既に蓋棺に定まり、恩は特に帰骨を容る」。吏はこれを火に付した。その子が三兵を借りて帰る途中、衢州を道出すると、章傑が太守となり、秦檜の意を迎え、応辰を阿附、死党と指弾し、符移を以て訊鞫し、遍く行嚢を捜索したが、祭文は得られなかった。時に胡寅が秦檜に書を遺し、この事は竟えるに足らずと謂い、事はやむ。
静江府通判となり、任期を過ぎても代官が来ず、乃ち檄に沿って帰省し母を見舞う。続いて広州通判を差遣される。時に秦檜が深く忌み嫌った者は趙鼎・張浚であり、鼎は既に死し浚のみ存命で、その意を快くせず。江西運判張常先が前帥張宗元と張浚との詩に箋注を施し、朝廷に言上、その詞に連坐する者数十家、不軌を誣いて尽く除かんとした。獄が既に成った時、秦檜が死に、応辰は幸いに免れた。
明年、吏部郎官に召され、右司に遷る。母老いて外任を乞うと、丞相は苦しく留めて曰く、「今まさに進用せんとす、未だ然るべからず」。応辰曰く、「親老いり、緩すべからず」。乃ち出でて婺州知州となる。郡には上供の積欠十三万緡あり、朝廷は憲司・漕司に究治を命じたが、応辰は急なれば民を擾すと謂い、乃ち諸邑と共に宿逋を蠲免し、苛斂を去り、期会を定め、滲漏を塞ぎ、悉く補発した。尋いで内艱に遭い去り、墓側に廬する。
服喪明け、秘書少監に除され、権吏部尚書に遷る。李顕忠が安豊軍の功賞を五千余人に偽って具申したのを、応辰は奏上して駁した。権戸部侍郎兼侍講となる。応辰は独りで劇務を担当し、冗費を節減し、常に奏上して言う、「班直が転官する三日で、堂吏が食銭一万余緡を増給し、工匠が器皿を洗沢するのに僅か百余千を与えるのに、堂吏の食銭は六百千、顕仁皇后の神御を塑るのに半年で功半ばにも至らぬのに、堂吏の食銭は既に三万・銀絹六百匹両を支給した。他も皆これに類す」。上はその費の冗なるに驚き、吏部に裁減を命じた。
金が盟約を破ると、詔して足食足兵の策を求め、応辰は奏上して言う、「陸贄に云う、『将その人に非ざれば、兵多くと雖も恃むに足らず、柄を失いて操れば、将才あるも用いられず』と。臣の憂うる所は、兵の足らざるに在らず、軍政の修まらざるに在り。講和以来、将士驕惰となり、兵は閲習せず、敵未だ至らざれば則ち風を望んで逃遁し、敵既に退けば則ち戦功を謾りに列ね、佚罰を受けるのみならず、且つ或いは賞を受く。平時には詔令行はれず、一旦急あれば、誰か命を聴きて国家の難に赴かん。英断を発し、善を賞し悪を罰し、人々に心を洗い慮りを易えさせて上命を聴かしめ、然る後に号令必ず行はれんことを望む」。
太上皇帝の尊号を議し、李燾・陳康伯は密議して「光堯寿聖」を称とすべしとす。集議に及んで、或いは謂う、「尊号は開元に始まり、元豊に罷む、今復すべからず、況んや太上は天下を棄屣の如く視す、豈にまたこれを顧みんや」。応辰はこれを主張すること尤も力めた。或いは又言う、「主上親に奉ずるに、どうして元豊を援りて自ら退くを比と為すを得ん」。ここに於いて議状に書する者半ば、書せざる者半ば。明日、応辰は復た金安節ら十二人と各々所見を陳べ、大概に「光堯」は「神堯」に近く、「寿聖」は英宗の誕節にして、嘗て寺名とす、と謂う。御史周必大も亦以て問うと、応辰は「堯」豈に「光」とすべけんやと答う。この語は徳寿宮に聞こえ、高宗は上(孝宗)の宮中に過ぐるに因りて云う、「汪応辰は素より吾を楽しまず」。ここに於いて詔有り、「尊号の議は、既に嘗て奏知せり、但已むるを容れず」。安節らは遂に詔を奉じた。
汪璘の時は蜀口の武興に駐屯し、精兵は天下に冠たるものであったが、既に老いて病んでいたので、汪応辰は密かに上奏して、関陝の大将は国の安危に関わるものであり、予め図るべきであると述べた。そこで執政が伝旨し、もし汪璘が起きられなければ、制置司に暫くその任を領せしめよとした。そして汪璘が死ぬと、汪応辰は遂に宣撫の職務を代行し、蜀の道は平穏であった。
虞允文が間もなく知枢密院事として四川を宣撫することとなり、汪応辰は張浚の先例を引き合いに出し、制置司の廃止を請うたが、許されなかった。総領所が牒を発して官吏に命じ四川の隠匿した契約税を査定させたが、汪応辰は上奏して言った。「その不便な点は四つあり、農事を妨げ生業を廃するという点、官吏を放任して民を擾乱させるという点、法に違背して教化を害するという点、奸悪を助長して訴訟を起こさせるという点である。戸部が既に人々に自首させ、州県が収めて合算したものは少なくないが、未だ尽きないものについては、現行の法令があり、このような煩わしい擾乱を行うべきではない。」上は言った。「論は極めて道理に適っている。速やかにこれを止めよ。」
蜀は大旱魃に見舞われ、詔を下して救荒の策を問うた。汪応辰は上奏して言った。「利州・閬州・綿州・梓州の軍馬糧料は、民力に随って均等に課しているが、官は糴銭を支払うとはいえ、民は半価も得られない。もし官吏を選んで豊作の地に派遣し買い付けさせれば、民力を寛げることができる。ただ資金がなく手も足も出ないので、度牒の支給を乞う。」上は言った。「汪応辰は蜀を治めるのに甚だ名声があり、しかもこのように民事に留意している。」度牒四百を給し、永久的な糴本として振済に充てた。そこで諸路の漕臣に書を送り、速やかに救荒に努めよと命じ、かつ綿州・剣州の和糴についても告げたので、全蜀が恩恵を蒙った。
劉珙が同知枢密院事に任ぜられ、進言して言った。「汪応辰・陳良翰・張栻の学行才能は、臣の及ぶところではない。」既にして召還の旨を得た。邛州の安仁が凶年にあたり、徒党を組んで盗賊となり、害は隣郡に及んだ。汪応辰は直ちに詳細を上奏し、かつ茶馬使に檄を飛ばして招捕させた。十日一ヶ月の間に、その首魁を誅し、残りは悉く撫定した。ある者が虞允文に告げて言った。「汪帥は盗賊の事実を隠して上聞しないのではないでしょうか。」宣撫司は密かに上奏し、人を遣わして汪応辰を欺いて言った。「邛の賊徒のことは未だ敢えて上奏していないが、制置司はどのようにされたか。」汪応辰は上奏文の写しを以てこれに報じたので、虞允文は内心恥じた。汪応辰が任を去るに当たり、成都一府の激賞絹の価三万三千九百八十四匹を代納した。
冬、入朝して拝謁し、殿上で応対し、天を畏れ民を愛することを言上した。上は言った。「卿は久しく蜀におり、朕の西顧の憂いを寛げてくれた。軍政民事の弊を革めること殆んど尽くし、蜀中では虚額を除き、民間は実恵を蒙るはずである。」汪応辰は上奏して言った。「虚額が除かれれば州県は寛になるが、なお二つの事柄がある。それは預借と対糴である。預借は州県が累年相仍いて行っているものであり、対糴は州県の欠乏を補うためのものである。民が米一石を納めれば、即ち一石を糴うが、半価であったり、支払われなかったりし、かつ多く余剰を取る。陛下は近ごろ百万を投じて預借の弊を除かれたが、対糴の患いは数州に止まっている。願わくは併せてこれを除かれれば、弊は革め尽くされて残るところがないでしょう。」
吏部尚書に任ぜられ、間もなく翰林学士を兼ね侍読となった。民を愛する六事を論じたが、廟堂の議は合わず、不愉快に思う者が多かった。ある日、陳良祐が登対した時、上は告げて言った。「汪応辰が言うには、卿は蜀において多く虚誕であったと。」陳良祐は奏上して言った。「臣と汪応辰は以前ともに従班にあり、汪応辰が外任を請い、衢州を得た時、臣はその去るを惜しみ、ともに上奏して留めた。その時は辺境の奏報が急を告げており、臣は汪応辰が私利を図ろうとしているとは知らなかった。奏上した後、汪応辰はこれを大いに恨み、このような説を以て臣を中傷したのです。」上は言った。「そうであったのか。」
汪応辰は朝廷にあって多く弊事を革めたので、中貴人たちは皆側目した。徳寿宮が石の池を甃いている時、水銀の上に金の鳧魚を浮かべた。上がこれを見ると、高宗は指し示して言った。「水銀が丁度不足しているが、これは汪尚書の家から買ったものだ。」上は怒って言った。「汪応辰は朕が房廓を置いて民と利を争うと力説したのに、自ら水銀を販売していたのか。」汪応辰はこれを知り、力を尽くして去職を求めた。ちょうど発運均輸の旨が復活することとなり、嘆いて言った。「我は留まることはできない。ただ衆の枉れるを力説すれば、外任の請いが自ずと得られるだろう。」そこでその事が有害無利であることを力論し、遂に端明殿学士として平江府知府となった。
汪応辰は人と接するには温和で謙遜であったが、事に遇しては独立不撓であった。嶺嶠に流落すること十七年、秦檜が死んで初めて朝廷に戻り、剛直方正で、敢えて言い避けなかった。若くして呂居仁・胡安国に交わり、張栻・呂祖謙は深く器重し、道を造る方法を告げた。嘗て己の私を克つことを釈して、兵を用いて敵を克つようだとし、「『易経』は忿りを懲らし欲を窒ぐとし、『書経』は剛をもって酒を制すとある。懲窒・剛制は皆克ち勝つという意味であり、常に省みて察するべきではないか。」その義理の精微はこのようなものであった。賢を好み善を楽しむことは天性より出で、特に友愛に篤く、嘗て先祖の田地を兄の汪衢に譲り、屋も住むに足りないことを顧みなかった。子の汪達は継いで進士に登第し、吏部尚書・端明殿学士に至った。
王十朋
王十朋、字は亀齢、温州楽清の人。資質は聡明で悟りが早く、日に数千言を誦した。成長すると、文行あり、梅渓に学徒を集め、学業を受ける者は数百を数えた。太学に入ると、主司はその文を異とす。
上はその言を用い、銷金鋪翠の禁令を厳しくし、交阯が貢いだ翠の物品を取って焼かせた。そして「王十朋は朕が親しく擢でた者である」と言った。紹興府簽判に任ぜられた。到着すると、ある者は書生と侮ったが、王十朋の裁決は神の如く、吏の奸計は行われなかった。時に四科を以て士を求め、帥の王師心は王十朋が四者を兼ね備えていると言い、独り詔に応じた。召されて秘書郎兼建王府小学教授となった。これ以前、教授は講堂に入ると賓位に居たが、王十朋はこれを認めず、皇孫が特に礼を加えて教授を中座に位せしめた。
金の将軍が盟約を破らんとす。十朋が順番に対面し、言うには、「建炎より今に至るまで、金は内々に相残し賊害することをやめたことがない。しかし一人の主が斃れれば、一人の主が生まれ、何ぞ嘗て中国の利となったことがあろうか。要は自らの備え如何にある。敵を防ぐには人を用いるに急なるはなく、今、天資忠義にして文武を兼ねる材あり、将相と為るべき者あり。兵を用いるに長け、士卒その用いられるを楽しみ、大帥と為るべき者あり。或いは閑散に投じ置かれ、或いは藩郡に老いている。願わくは起用してこれを用い、敵の謀を寝かせ、恢復を図らん」と。蓋し張浚・劉錡を指す。また言うには、「今、権は陛下に帰すとはいえ、政は復た多門より出ず。これは一檜死して百檜生ずるなり。楊存中は三衙を以て北司に交結し、大権を盗む。漢の禍は恭・顕より起こり、王氏の相は終始を為す。唐の禍は北軍より起こり、藩鎮の相は表裏を為す。今、管軍を以て三公の位に就け、利源皆その門に入る。陰に諸将と結び、相い党援を為す。枢密は本兵の地にして、立班甘んじてその後に居る。子弟親戚、清要の職に満ち布く。台諫論列すれども、委曲庇護し、風憲独り管軍の門に行われず。何を以て国と為さん。至りては清資を噲伍に加え、高爵医門に濫る。諸軍の承受は威福自ら恣にし、唐の監軍より甚だし。皇城の邏卒は旁午として事を察し、周の監謗より甚だし。将帥は下を剥ぎ上に賂し、三軍に怨みを結ぶ。道路人を捕えて卒と為し、百姓に怨みを結ぶ。皆治世の事に非ず」と。上嘉納し、邏卒を戒め、諸軍の承受を罷め、枢密・管軍の班次を改定し、楊存中の兵権を解く。その言おおよそ施行される。秦檜久しく言路を塞ぎ、ここに至り十朋と馮方・胡憲・査籥・李浩相継いで事を論じ、太学生『五賢詩』を作りてその事を述ぶ。著作郎を除す。
三十一年正月、風雷雨雪交わりて作す。十朋は陽陰に勝たざるの験と為し、陳康伯に書を遣わし、冀くは『春秋』災異の説を以て上に力陳し、陽を崇め陰を抑え、以て天変を弭わんとす。大宗正丞に遷り、亟に祠を請いて帰る。金辺を犯し、劉錡を起して江・淮・浙西制置と為し、張浚に金陵を帥せしむ。悉くその言の如し。
孝宗禅を受け、厳州知州として起用される。召されて対し、まず言うには、「太皇倦勤の時に非ざるに、大器を以て陛下に付す。堯・舜に賢なり。陛下当に太上に副わんことを思うべし。今、社稷の安危、生民の休戚、人才の進退、朝廷の刑賞、宜しく舜の堯に協うが若くすべく、断然としてこれを行い、以て継述の道を尽くすべし」と。司封郎中を拝し、累遷して国子司業と為る。言うには、「今、位に居る者は往々にして職を挙げず。宜しくこれを革する所以あり。人主に大職三あり、賢を任じ、諫を納れ、賞罰を行う是なり」と。上これを嘉す。起居舍人を除し、侍講に昇る。時に左右史職を失うこと久しく、十朋起居郎を除す。胡銓四事を奏す。語は『胡銓伝』に在り。侍御史を除す。上胡銓に謂いて曰く、「比来台官を除す。外議如何」と。銓曰く、「皆人を得たりと謂う」と。上曰く、「卿と十朋は皆朕親しく擢でしところなり」と。
十朋、上英鋭なるを見て、必ず恢復の計を陳ぶ。将に北伐せんとするに及び、上疏して曰く、
「天子の孝、祖宗を光し社稷を安んずるより大なるは莫し。前王の盈成に因りて守る者は、周の成康・漢の文景是なり。前世の衰微を承けて興る者は、商の高宗・周の宣王是なり。先君恥ありてこれを雪ぐ者は、漢の宣帝単于を臣とし、唐の太宗頡利を俘う是なり。先君仇ありてこれを復する者は、夏の少康澆を滅ぼし、漢の光武莽を誅す是なり。跡は同じからずと雖も、その孝たるは一なり。靖康の禍、亘古未だ有らず。陛下英武、慨然として志興復に在り。窃に聞く、毎に群臣に対し事を奏するに、則ち曰く『創業の時に当るべし』と。又曰く『馬上を以てこれを治むべし』と。又曰く『某の事は恢復を俟ちて後にこれを為すべし』と。比来宣召に因り、語陵寢に及び、聖容惻然として曰く『四十年なり』と。陛下の心、真に少康・高宗・宣王・光武の心なり。奈何ぞ大臣聖心に仰副すること能わざる。願わくは在位者を戒め、附和の私心を去り、国家の大計を賛し、則ち中興の日月冀うべし」と。
因りて史浩の八罪を論ず。曰く奸を懐き、国を誤り、党を植え、権を盗み、言を忌み、賢を蔽い、君を欺き、上を誹る。上為に浩を出して紹興府知府と為す。十朋再び疏し、謂うには、「陛下舜の邪を去るが如くする能うと雖も、舜の名を正し罪を定むるが如くするに未だし。紹興は行都に密邇し、浩嘗て属吏と為り、奸賍彰聞す。亦何の顔あって復たその吏民に見えん」と。遂に祠を与うるに改む。
史正志は浩と族を異にすと雖も、浩を拝して父の如くこれに事う。十朋正志の傾険奸邪、時に観て進を求むるを論じ、宜しく正志を黜し以て典刑を正すべしとす。林安宅は史浩・龍大淵の門に出入りし、威福を盗み弄ぶ。ここに至り病を詐りて致仕を求む。十朋並びにその罪を疏す。皆罷め去らしむ。
張浚師を出して霊壁・虹県を復し、帰附する者万計。又た宿州を復す。十朋奏す、「王師は民を弔うを主とし、先ずこれに招納を以てし、已むを得ざるに及びて戦伐これに随う。乞うらくはこの旨を以て浚を戒めしめよ。金の将既に降る、宜しく速やかに爵賞を加え、以て来る者を勧むべし」と。上皆嘉納す。
会に李顕忠・邵宏淵協わず、王師律を失う。張浚表を上りて自ら劾す。主和の者これに乗じて異議を唱う。十朋上疏して言う、「臣素より浚を識らず、その敵と俱に生くるを誓わざるを聞き、心実にこれを慕う。前に輪対に因り、金必ず盟を敗らんとし、浚を用いるを乞うと言えり。陛下位を嗣ぎ、江・淮に督師せしむ。今、浚将を遣わして二県を取り、一月に三捷す。皆陛下の浚を用いるの難きに服す。王師一たび利あらずと、横議蜂起す。臣謂う、今日の師は、祖宗の陵寝の為、二帝の復讐の為、二百年の境土の為、中原の民を弔い罪を伐つ為なり。前代の大を好み事を生ずる者に比ぶるに非ず。益々内修すべく、時を俟ちて動くべし。陛下恢復の志立ち、固より一衄を以て群議に揺るがされざるも、然れども異論紛紛たり。浚既に罪を待つ。臣其れ尚ほ風憲の職に居るべけんや。乞うらくは竄殛を賜わん」と。因りて言う、「臣聞く、近日龍大淵を遣わして淮南を撫諭せんと欲すと。信ずるや否や」と。上曰く、「之無し」と。又た言う、「楊存中を以て御営使に充てんと欲すと聞く」と。上嘿然たり。
吏部侍郎に改除す。力辞し、出でて饒州を知る。饒は湖に並び、盗その間に出没す。十朋の至るを聞き、一夕にして遁去す。丞相洪适故学の基を請いて其の圃を益さんとす。十朋曰く、「先聖の居る所、十朋何ぞ敢えて人に与えん」と。夔州に移知す。饒の民諸司に走りて留まるを乞うも得ず、橋を断つに至る。乃ち車に従い間道より去る。衆断橋を葺き、以て「王公」と名づく。
湖州に移知す。召されて対す。劉珙留まるを請う。上曰く、「朕豈に王十朋を知らざらんや、顧みるに湖州水に被り、十朋に非ざれば能く鎮撫すること莫し」と。郡に至り、戸部虚逋三十四万を責む。吏を命じて券を持ち往きて弁ぜしむも、聴かず。即ち祠を請いて去る。泉州知州として起用さる。十朋前に湖に在りし時、奉錢を割きて貢闈を創し、又た泉の為にこれを建つ。尤も宏壮なり。
凡そ四郡を歴任し、上恩を布き、民の隠苦を恤み、士の賢なる者は門に詣で、礼を以て之を致す。朔望には諸生を学宮に会し、経を講じ政を詢ね、僚属に不善ある者あれば、反復告戒し、之をして自新せしむ。民の租を輸するに自ら概量せしめ、聞く者相告げ、宿逋も亦償うを願う。訟庭に至れば、温詞を以て理義を暁し、退きて聴く者多し。至る所の人、絵を描きて之を祠し、去るの日、老稚攀留して涕泣し、境を越えて送り、之を父母の如く思う。饒州久しく旱魃すれども、境に入れば雨至る。湖州霖雨積もれども、境に入れば即ち霽る。凡そ祷れば必ず応じ、其の至誠は独り人を感ずるのみならず、亦天地鬼神を動かす。
十朋は親に事うるに孝にして、喪終るまで内に処らず、二弟を友愛す。郊祀の恩典には先ず其の名を奏し、没するも二子猶布衣なり。書室の扁に「不欺」と曰い、毎に諸葛亮・顔真卿・寇準・范仲淹・韓琦・唐介を以て自ら比し、朱熹・張栻雅に之を敬す。
子聞詩・聞礼、皆篤学自立す。聞詩は光州を知り、江東刑獄を提点す。聞礼は常州を知り、江東転運判官となり、治を為すに能く家法を守り、人亦之を思慕す。
呉芾
呉芾、字は明可、台州仙居の人。進士第に挙がり、秘書正字に遷る。秦檜とは旧知なりしが、是に至り檜既に政を専らにす。芾は退然として未だ嘗て識らざるが如し。公座に旅進し、揖して退く。檜之を疑い、言事者に風して罷めしむ。処・婺・越の三郡を通判す。処州を知る。処州は旧く丁絹の重きを苦しむ。芾之を損じ、新丁を以て其の額を補う。
何溥、芾の材は御史に中ると薦ぐ。監察御史を除す。時に金将盟を敗らんとす。芾、高宗に「専ら徳を修め、痛く自ら悔咎し、群臣を延見し、闕失を陳べしめ、天地に合し、祖宗に愧じざるを求めよ。然らば人心悦服し、天も亦順を助けん」と勧む。上其の言を是とす。殿中侍御史に遷る。
両淮の戦利あらず。廷臣争いて退避の計を陳ぶ。芾言う、「今日の事、進む有りて退く無し。進むは上策、退くは策無し」と。既にして金主亮斃る。上疏して親征を勧む。車駕建康に至る。芾請う、遂に駐蹕し、以て中原の望を係がんと。高宗其の説を納る。会に密かに東に還らんと啓する者有り。侍従・台諫に下りて議す。芾言う、「今襄・漢を控帯し、湖・広を引輸せんと欲すれば、則ち臨安は建康の便に如かず。淮甸を經理し、梁・宋に応接せんとすれば、則ち臨安は建康の近きに如かず。議者は徒らに一時の扈従思帰の人のみを悦ばしめ、国計の為に非ず。臣回鑾の後、西師の声援接せず、北土の謳吟絶望せんことを恐る」と。又言う、「去歳両淮諸城、風望んで奔潰し、一城も能く拒守する者無し。此れ秦檜言路を壅塞し、士気を挫折せしめし余毒なり。其の道を反する能くば、則ち士気日々振い、而して危きを見て命を授くる者人有らん」と。
婺州を知る。孝宗初めて即位す。陛辞に、裴垍の唐憲宗に対す「治を為すには先ず其の心を正す」を陳べ、以て臨御の初、治の大原を出すは、此に越ゆる無しと為す。上嘉納す。郡に至り、民に義役を勧む。金華長仙郷の民十一家、自ら甲乙を以て其の産に第し、相次いで役を執ること幾二十年。芾、車を致して十一人者を輿し、与に合宴し、其の郷を「循理」と更め、里を「信義」と曰い、以て之を褒異す。
紹興府を知る。会稽は賦重くして折色尤も甚だし。芾、攢宮在るを以て、支移折変を免ずるを奏す。鑑湖久しく廃す。会に歳大いに饑う。常平米を出して饑民を募りて浚治せしむ。芾去り、大姓田に利し、湖復た廃す。
権刑部侍郎、給事中に遷り、吏部侍郎に改む。敷文閣直学士を以て臨安府を知る。内侍の家僮、酒家保を毆傷す。芾之を捕え治め、市に徇す。権豪側目す。執政、芾を以て金に使わさんと議す。復た吏部侍郎を除し、且つ議して龍大淵を副とせんとす。芾曰く、「是れ与に事を言うべき者か」と。語聞こえ、罷めて行わざるを得。下りて礼部侍郎に遷り、力めて去らんことを求め、太平興国宮を提挙す。
時に芾と陳俊卿俱に剛直を以て忌まれるを見る。未だ幾ばくもなく、俊卿も亦引き去る。中書舎人閻安中、孝宗に二臣の去るは国の福に非ざるを言う。起きて太平州を知る。舟を造りて以て姑溪に梁す。歴陽の築者久役して潰帰し、声言して郡境に趨かんと欲す。芾呼びて城下に至らしめ、厚く犒い遣わし、而して密かに乱を倡うる者を捕え獄に繫ぎて以て聞こゆ。詔して褒諭す。隆興府を知る。
芾前後六郡を守り、各其の俗に因りて寛猛を為し、吏姦を容るる莫く、民恵利を懐く。再び太平祠に奉じ、屡々老を告げ、龍図閣直学士を以て致仕す。後十年卒す。年八十。嘗て曰く、「官物を視ること己が物の如くすべく、公事を視ること私事の如くすべし。其れ百姓に得罪するに与りては、寧ろ上官に得罪せん」と。朝に立ちて偶わず、晩く退き閑なること十有四年、自ら「湖山居士」と号す。文を為すに豪健俊整、表奏五巻・詩文三十巻有り。
陳良翰
陳良翰、字は邦彦、台州臨海の人。早く孤となり、母に事うるに孝なり。資性荘重、文を為すに恢博気有り。紹興五年進士第に中る。温州瑞安県を知る。俗強梗と号し、吏治尚厳なり。良翰独り寛を以て撫し、租を催すに文符を下さず、但だ名物を掲示すれば、民競って楽しく輸し、訟を聴くこと咸其の情を得。或る人何の術かと問う。良翰曰く、「術無し。第に此の心を公にすること虚堂に鏡を懸くるが如きのみ」と。殿中侍御史呉芾、之を薦めて検法官と為し、監察御史に遷す。
孝宗の初元、金主の褒(完顔雍)が新たに立ち、和を求め、また中原の旧人多くは帰順を求めた。詔を下してこれをどう処すべきかを問うたところ、良翰は言う、「和を議し、また降人を受け入れるは、いずれも正しからず。必ず計を定めて自ら治め、和とするか否かは、これを任せてこそ可なり」と。張浚が淮・泗に軍を置いて進取を図ったが、議者は争って防江の策を献じた。良翰は言う、「藩籬を固くし、委任を専一にすべきである。今、淮を捨てて江を防ぎ、地を退き便を奪う。朝廷が過って聞き入れ、督府に閫外の事を専らにさせざるは、誤りなり」と。右正言に除せられた。
金が再び書を移して故疆を求めると、良翰は言う、「中原は皆わが故土なり。まして唐・鄧・海・泗はまた金が盟に背いた後に兵をもって取りしもの、安んぞ故疆を言うをもってこれを帰すべきや?」と。湯思退は小使の盧仲賢・李栻を遣わすことを主張した。良翰は言う、「仲賢は軽佻にして恥知らず、栻は北より来たりて信じ難し」と。また言う、「廟堂と督府とが論議同じからず、辺境の奏上聞かされても、皆陽に唯諾して陰に沮敗す。万一事機を失せば、督府安んぞ独りその責を任ぜんや?」と。上は驚きて善しと称した。
朝廷が史正志を建康に遣わし、張浚と事を議して乖牾す。良翰これを劾す。上曰く、「正志もまた罪なし」と。良翰言う、「陛下が浚に淮を守らしむれば、則ち浚を任ずるは重く、一郎官は軽し。且つ正志が中に居れば、浚必ず去就を為さん」と。上悟り、正志を出して福建漕運と為す。楊存中が御営使と為り、殿前軍を総べる。良翰言う、「存中久しく兵権を擅にし、太上皇これを罷めて第に就かしむ。奈何ぞ復た使名を仮すべきや?履霜の戒めを慎むべし」と。疏三たび上る。存中ついに罷まる。
李栻は淮を渉るを敢えず。良翰奏してその官を奪う。仲賢は汴に至り、輒ち金人に疆土・歳幣を許して還る。上大いに怒り、仲賢を吏に下し、誅せんと欲す。宰相叩頭して懇請し、免るるを得たり。復た王之望・龍大淵を遣わす。良翰言う、「前に使を遣わして既に命を辱しむ。大臣前の失いを悔いず、秦檜の復た今日に見るを謂わざるか!且つ金は我に四郡の屯兵を罷めてこれを帰するを要す。これは一兵も折らずして、坐して四千里の要害の地を収むるなり。決して許すべからず。若し歳幣は、則ち陵寝を得て然る後に与うれば、なお名有るに庶幾し。今議未だ決せずして之望遂に行く。その国を辱しむること仲賢に止まらざるを恐る。願わくは先ず一介を馳せ往かしめ、議決するを俟ちて、行くは未だ晩しからず」と。詔して侍従・台諫に議せしむ。多くは良翰に同じ。ここにおいて胡昉・楊由義を審議官と為し、敵と四郡を議して合わず、困辱されて帰る。
思退なお前論を執る。正言の尹穡、思退に附きて督府を撼がす。良翰は左司諫と為り、疏を上って論ず、「思退は姦邪にして国を誤る。宜しく早く罷黜すべし。張浚は精忠老謀なり。小人の言をもってこれを動かすべからず」と。孝宗曰く、「思退の前議固より失えり。然れども朕その警敏を愛し、効あるを冀う。卿そのこれを置け。若し魏公(張浚)に至っては、則ち今日孰かその右に出づる者あらん。朕豈にこの意有らんや?縦え有るとも、また豈に卿等と謀らずんばあらんや?これ言者の異意有るに殆し。卿朕のためにこれを諭せ」と。良翰頓首して謝して曰く、「陛下この言及するは、天下幸甚なり。宰相縦え全才無くとも、寧ろ樸実を取るべし。緩急なお倚頼すべし。思退は庸狡にして、小黠大痴、将に国を誤らんとす。且つ『警敏』の二字は、恐らくは明主の相を卜するの法に非ざるべし」と。既に退き、上の語をもって同列に諭す。穡勃然として色を変ず。明日また対を請う。ここにおいて良翰の言職を罷む。
両淮既に備えを撤く。金大いに侵入す。孝宗始めて深く悔いる。太学生数百人闕に伏し、良翰・胡銓・王十朋を召用し、思退等を斬らんことを乞う。思退ここより始めて敗る。
良翰、諫省に在りしとき、成恭皇后冊を受く。内外の親属二十五人を官す。良翰その冗を論ず。詔して七人を減ず。建寧府知府・福建転運副使、江東刑獄を提点し、浙西に移る。召されて宗正少卿・兵部侍郎と為り、右諫議大夫を除せられる。良翰言う、「蜀漢の師をもって関陝を下し、荊・襄・韓・魏、江・淮をもって青・徐を搗つ。これ今日の大計なり。四川は既に大臣を命ず。而して荊・淮には未だ責を任ずる者無し。また重臣を択びこれに臨ますべし」と。上善しと称す。
給事中に進む。大将の成閔、真奉を冒して請う。有司坐して譴責を受く。閤門の王抃、詔を矯って妄人の謝顯を遣わし出境せしむ。顯既に罪に抵るも、閔と抃を置いて問わず。良翰皆駁議し、典刑を正すことを請う。ここにおいて礼部侍郎に改めらる。拝せず。敷文閣待制をもって江州太平興国宮を提挙す。
召されて太子詹事と為る。既に見ゆ。上、調護の責を属す。一日、選徳殿に召対す。手書して唐太宗と魏征の仁徳功利を論ずるの説を出だし、今日未だ至らざる所を極陳せしむ。良翰退き、疏を上る。略して曰く、「仁徳は治の本、功利は治の効なり。本を務むれば効自ら至る。今、天意を承け、民心を結び、賢能を任じ、小人を退け、将帥を択び、軍情を収め、監司を択び、吏を久任す。皆行うに未だ至らざる有り。誠にこの八弊を革せば、則ち仁徳累わず、功利自ら致らん」と。上このために嘉歎し、詔して侍講を兼ぬ。
未幾、疾を以て老いを告ぐ。敷文閣直学士・太平宮提挙を除せらる。卒す。年六十五。光宗立ち、特に「献肅」と諡す。
杜莘老
杜莘老、字は起莘、眉州青神の人、唐の工部甫(杜甫)の十三世の孫なり。幼少の時、方に蘇氏(蘇軾)の文を禁ず。独り誦習を喜ぶ。紹興年間、進士に及第す。親老を以て廷対に赴かず。同進士出身を賜わる。梁山軍教授を授けらる。従遊する者衆し。
秦檜死す。魏良臣大政に参ず。莘老、天下の利害を疏して以て聞かしむ。良臣これを薦む。礼・兵部架閣文字を主管す。彗星東方に見ゆ。高宗詔を下して言を求む。莘老上書し、論ず、「彗は、盩気の生ずる所、多く兵の兆と為る。国家は民のために兵を息む。而るに将驕り卒惰り、軍政肅まらず。今、天戒に因りて人事を修め、患いを思い予防するは、これより大なるは莫し」と。ここにおいて時弊十事を陳ず。時に詔に応ずる者衆し。上命してその議論切当なる者を択び、推恩して以てこれを勧む。後省、莘老を首と為し、一階を進め、敕令刪定官・太常寺主簿に遷し、博士に升る。輪対し、論ず、「金将に盟を敗らんとす。宜しく辺備を飭うべし。その来らざるを恃むこと勿れ、吾れこれを持する有るを恃め」と。上再三善しと称す。
南渡後、典秩散失し、多くは有司の記する所に省かる。凶礼に至ってはまた諱して録せず。顕仁皇后崩ず。議礼に疑い有り。吏皆拱手す。莘老、古義をもって裁定す。大斂の前一日、宰相旨を伝えて含玉の制を問う。莘老曰く、「礼院の故実に載せざる所なり。請う《周礼》典瑞の鄭玄《注》をもってこれを製せば、其れ可なり」と。ここにおいて立具して奏す。上これを見て曰く、「真の礼官なり」と。虞祭に及んで、或いは上哀労すと謂い、宰相をもって事を行わんと欲す。莘老曰く、「古今これ無し」と。卒いにこれを正す。
秘書丞に遷る。江・淮の守備を論ず。上曰く、「卿この言及するは、国を憂うること深し」と。監察御史に擢でらる。殿中侍御史に遷る。入対す。上曰く、「卿の強禦を畏れざるを知る。故にこの授有り。自今卿を用いん」と。陳俊卿既に言職を解き、力を尽くして去らんと求む。莘老、事を奏するに因り、従容として曰く、「多事の際、俊卿輩を論思の地に在らしむれば、必ず補益有らん」と。上然りと以為う。俊卿乃ち復た留まる。
金国が使者を遣わして侮慢の書状を送り、欽宗の凶報を伝え、淮・漢の地を請い、大臣を指名して要求した。上(高宗)は親征を決策し、莘老は上疏して上を賛成し、かつ言うには、「敵は天を欺き盟に背き、懼れずに臨むべきであり、小利鈍を以て異議に動かされ、諛言に惰るなからしめれば、則ち人心恃む所ありて士気振るうであろう。早晩を限らず、大臣・侍従を引見し、国事を謀議すべし。侍従・台諫・監司・守臣に申し誡め、急ぎ可用の才を挙げよ。」また言うには、「親征の期日は定まったが、禁衛はわずか五千余りで、羸老が半数を占め、甲冑を着けられない者さえいる。願わくは急ぎ聖慮を留められよ。」事は皆施行された。
帯御器械の劉炎が禁中の市易を管轄し、北の商人と通じて、大いに姦利をなした。ある日、莘老に会うと、すぐに朝政に及び、言葉が狂悖であった。莘老はこれを上聞し、劉炎を嘉州税監に斥けた。知樞密院事の周麟之は初め金国への使節を請うたが、侮慢の書状が届き、金が大軍を率いて辺境を犯すと聞くと、大いに恐れ、使節を遣わす必要はないと建言した。莘老は麟之を弾劾して言うには、「姦を抱きて上を罔し、事を避け難を辞し、恐懼して泣きを掩うに至り、衆に『哭して富鄭公を殺す』と誚られるあり。」まもなく宮観の職を与えられた。上疏が再び上がり、ついに瑞州に責められた。
幸医承宣使の王継先は寵を恃んで法を干し、富は公室を浮かべ、子弟は延閣に直し、居宅は僭擬し、別業・外帑は畿甸に遍く、数十年誰もこれを揺るがす者なし。辺境の警報を聞き、急ぎ重宝を車に載せて吳興に帰り、敵を避ける計略とす。莘老はその十罪を上疏し、上は言う、「初めは太后がその薬を用いたので、少し恩寵を仮したが、小人の驕横このようであるとは謂わざりき。」莘老は言う、「継先の罪は髪を抜いても数え足りず、臣の奏する所は、その大概のみ。」上は色をなして言う、「恩有りて威無く、賞有りて罰無ければ、堯舜と雖も天下を治め難し。」詔して継先を福州居住とし、子孫は皆勒停す。その財産を没収するに千万を以て計り、詔してその銭を売り御前激賞庫に入れ、専ら将士を賞するに供し、天下快と称す。
内侍の張去為が御馬院の西兵二百人の頂を髡(剃り)たるを取る。都人のこれを異とし、口語籍籍たり。莘老弾治す。上はその未だ審らかならざるを疑い、楽しからず。莘老執奏して已まず、ついに去為を御馬院より罷め、致仕せしむ。而して莘老もまた直顕謨閣を以て遂寧府知府と為る。給事中金安節・中書舎人劉珙、制書を封還し、司農少卿に改む。まもなく外任を請い、仍って遂寧を与えられる。
孝宗、禅を受く。莘老三議を進む。曰く、国是を定め、内政を修め、根本を養う。まもなく卒す。年五十八。
論じて曰く、黄洽は渾厚にして守る所あり、応辰は学術精醇にして、尤も骨鯁と称せらる。十朋・吳芾・良翰・莘老、相継いで台府に在り、歴て姦幸を詆し、直言隠す所無く、皆上に事うるに忠にして自ら信ずるに篤く、以て大任に当たるに足る者なり。その用を尽くさざるを惜しむ。