劉珙
劉珙、字は共父、子羽の長子なり。生まれながら奇質あり、季父の子翬に従い学ぶ。蔭により承務郎を補し、進士乙科に登第し、紹興府都税務を監す。祠官を請うて帰り、門を杜ち力學し、仕進を急がず。西外敦宗院を主管し、召されて諸王宮大小學教授に除され、禮部郎官に遷る。
秦檜、其の父を追諡せんと欲し、禮官を召して會問す。珙至らず、檜怒り、言者に風して之を逐わしむ。檜死し、召されて大宗正丞と為り、吏部員外郎に遷る。令式を庭中に置き、選集する者をして自ら翻閲せしめ、吏と辨せしめ、吏其の巧を藏するを得ず。兼ねて秘書少監を權し、兼ねて中書舍人を權す。金邊を犯し、王師北に向かう。詔檄多く其の手より出づ。詞氣激烈、聞く者涙下す。御史杜莘老、宦者張去為を劾す。旨に忤い左遷せらる。珙制を草せず、莘老去るを得ず。建康に幸するに從い、兼ねて直學士院を直す。車駕将に還らんとす。軍務未だ付する所なし。時に張浚建康に留守す。衆望之に属す。詔の出づるに及び、楊存中を以て江淮宣撫使と為す。珙錄黄を書せず、仍って其の不可を論ず。上怒り、宰相に謂いて曰く、「劉珙の父は浚に知らる。此れ特だ浚の為に地を為すのみ。」命して再び下す。宰相珙を召して旨を諭し、且つ曰く、「再び繳せば則ち張公に累を及ぼさん。」珙曰く、「某国家の為に計らんとす。豈に暇あらんや張公の為に謀らん。」初めの如く執奏す。存中の命乃ち寢す。真に中書舍人・直學士院を除す。田師中死す。其の家請うて、沒入の王繼先の第を以て賜わらんとす。李珂近習に関通し、督府掾を求む。詔中より下る。珙皆之を論じて罷む。出でて泉州を知り、衢州に改む。
湖南旱す。郴州宜章縣の李金乱を為す。朝廷之を憂う。珙を以て潭州知州・湖南安撫使と為す。境に入り、郡縣の兵を発して討撃せんと聲言し、而して制使沈介に書を移し、便宜に出師せんことを請い、曰く、「擅興の罪は、吾自ら之に当たらん。」介即ち田寶・楊欽を遣わして兵を以て至らしむ。珙其の暑行疲怠なるを知り、夫を発して数程の外に迎え、其の負任に代わり、至れば則ち犒賜望みに過ぎ、軍士感奮す。珙欽の用いる可きを知り、諸軍に檄して皆節制を受くべしとし、令を下して賊徒の相捕らえ斬りて吏に詣る者を募り、罪を除き賞を受くべしとす。欽と寶連戦して賊を破り、莽山に追う。賊党の曹彦・黄拱、李金を執して以て降る。支党竄匿する者尚ほ衆し。珙欽等に諭して兵を卻け、其の自ら降るに聽せしむ。賊相率いて兵を納れ、據を給わりて田里に帰る。第に諸将の功状を上るに差あり。上璽書を賜いて曰く、「近世の書生但だ清談を務む。經綸の實才蓋し未だ之を見ず。朕是を以て毎に東晉の憂え有り。今卿既に群盗を誅し、而して功状詳實、諸将の優劣、賊を破る先後、歴歴として觀る可し。宜しく益々勉めて朕が意に副わん。」
翰林學士・知制誥兼侍讀を除す。上に言いて曰く、「世の儒多く漢の高帝の學を悅ばず、儒生を輕んずるを病む。臣以為うらく、高帝の悅ばざる所は、特だ腐儒俗學のみ。當時に二帝三王の學を以て之に告くる者有らしめば、其の必ず敬信するを知らん。功烈此れに止まらず。」因りて聖王の學の理を明らかにし心を正す所以を陳べ、萬事の綱と為す。上亟に善しと稱す。
中大夫・同知樞密院事を拜す。辭するを得ず。因りて進みて言いて曰く、「汪應辰・陳良翰・張栻の學行才能は、皆臣の及ばざる所なり。而して栻は聖微を窮探し、軍務に曉暢す。曩に幸いに賊を破るは、栻の謀為多し。願わくは亟に召用せられん。」上其の奏を可す。兼ねて參知政事と為る。奏して福建の鈔鹽の歳額二萬萬を除き、江西の和糴及び廣西の折米鹽錢を罷め、及び諸路の累年逋負の金錢穀帛巨億計を蠲す。上嘗て久旱に齋居して雨を禱る。一夕にして應ず。珙進みて言いて曰く、「陛下の誠心感格、其の應響の如し。天人相與の際、真に髮を容れず。隱微纖芥の失、其の應豈に亦た是の如くならざらんや。臣願わくは益々其の獨を謹まん。」上竦然として善しと稱す。
龍大淵・曾覿既に逐われ、未だ幾ばくもせず、大淵死す。上覿を憐れみ還さんと欲す。珙言う、「二人の去るや、天下方に威斷を仰ぐ。此の曹は奴隸のみ。厚く之に賜うは可なり。若し引いて自ら近づけ、機事に與からしめ、人才を進退せしむるは、德業を光らし紀綱を振う所以に非ず。」命遂に止む。
殿前指揮使王琪、旨を受け、兩淮の城壁を按視し、還り、密かに和州教授劉甄夫を薦む。上執政に諭して之を召す。珙請うて曰く、「此人名位微なり。何を以て之を知る。」上琪の告ぐるを以てす。珙退きて堂上に坐し、琪を追いて至らしめ、其の故を詰め、牘を授けて對せしむ。珙恐れ、後不敢を請う。乃ち叱して責戒勵狀をさせて去らしむ。會に揚州奏す、琪郡に檄して新城を増築すと。珙遂に奏して琪を罷む。語は『陳俊卿傳』に在り。珙時に之を爭うこと尤も力め、殿中皆驚く。以て故に獨り罷められて端明殿學士と為り、外祠を奉ず。陳俊卿言う、「珙正直にして才あり、怨を任ずるを肯んず。臣の及ばざる所なり。願わくは之を留められん。」詔して隆興府知事・江西安撫使に改む。入りて辭す。猶六事を以て献ず。上曰く、「卿國を去ると雖も、忠言を忘れず。材美他人の及ぶ所に非ず。行く行く卿を召さん。」鎮に至り、首に税務の新額を蠲し、及び苗倉の大斛を罷む。属邑奉新に復た租税を出だす有り。窮民輸する能わず、相率いて逃去り、反って正税を失う。並びに奏して之を除く。
服闋し、再び潭州知州・湖南安撫使を除す。闕を過ぎ入り見え、極めて時事を論じ、言甚だ切至なり。上再三労を加え、資政殿大學士を進めて以て行かしむ。安南象を貢す。過ぐる所夫を発して道を除き、屋廬を毀ち、数十州騷然たり。珙奏して曰く、「象の郊祀に用いらるるは、經に見えず。驅いて之を遠ざくれば、則ち周公の典有るが若し。且つ吾が中國の疲民をして、遠夷の野獸に困らしむるは、豈に仁聖の為す所ならんや。」湖北の茶盗数千人境に入る。疆吏以て告ぐ。珙曰く、「此れ必ずしも死の寇に非ず。之を緩くすれば則ち散じて生を求め、之を急かせば則ち聚じて死に致さん。」榜を掲げて自新を諭し、聲言して兵将に至らんとし、属州縣に令して数千人の食を具えしむ。盗果たして散去り、其の存する者幾ばくも無し。珙乃ち兵を遣わし、戒めて曰く、「来たらば亟に戦うこと無く、去らば窮追すること無く、去らざる者を撃つのみ。」盗の意益々緩やかなり。於是に一戦して之を敗ち、盡く擒えて以て帰り、首惡数十を誅し、余は軍籍に隷す。
観文殿学士に進んだが、病気にかかり、致仕を請うた。孝宗は宦官を遣わして医師を送ったが、病状が重篤となり、遺奏を草して言うには、「弘恭・石顕・王伾・王叔文は、近習が権力を握った戒めである。今、腹心耳目の任をこの輩に託せば、朝綱は乱れ、士気は衰え、民心は離反する。過ちは皆ここにある。陳俊卿は忠良で確実な人物であり、重任を託して遠大な事業を成し遂げさせることができる。張栻は学問が醇正であり、遺漏を拾い欠点を補うことができる。どうか速やかに召し出して用いられたい」。さらに手紙をしたためて張栻と朱熹に訣別し、その言葉は皆、国に代わって仇恥を報い雪ぐことができなかったことを遺憾とするものであった。薨去。五十七歳。光禄大夫を追贈され、諡は「忠肅」といった。
珙は精聡明で果断であり、家にあっては孝行であった。継母卓氏の喪に服したとき、すでに五十歳を超えていたが、哀悼の情を尽くし憔悴し、内外の縁故者(功服・緦麻の親族)の喪には、必ず素服で月数を満たした。直言を受けることを喜び、事に小さな過失があれば、下吏が言えば直ちに改めた。数鎮を治め、民は父母のように彼を愛し、訃報を聞くと、市を閉めて巷で泣き、互いに祠を建てる者もあった。
王藺
王藺、字は謙仲、廬江の人。乾道五年(1169年)、進士に及第した。信州上饒の主簿・鄂州教授・四川宣撫司幹辦公事を経て、武学諭に任じられた。孝宗が学に臨幸したとき、藺は法駕を迎え、道の傍らに立ち、上(皇帝)は目を留めて彼を異才と認め、小黄門に命じて姓名を問わせ、これによって記憶された。
枢密院編修官に遷り、輪対に当たり、五事を奏上した。読み終わらないうちに、上は喜びの色を顔に表した。翌日、輔臣に諭して言うには、「王藺は敢言である。褒賞抜擢すべきである」。宗正丞に任じられ、まもなく舒州の太守として出向した。陛辞の際、数条の奏疏を上奏し、皆、時事が正しくないことを極言した。上は言った、「卿の議論は峻厳で直截である」。まもなく手詔を出して、「王藺は鯁直で敢言である。監察御史に任じよ」。ある日、上は袖から一幅の紙を取り出して賜り、言うには、「近頃陸贄の『奏議』を閲覧したが、その陳述は深切であり、今日の政事には徳宗の弊害のようなものがあるのではないかと恐れる。朕の過失を考え、条陳して上奏せよ」。藺は即座に対えて言った、「徳宗の過失は、自らを用い、非を遂げ、天下の士を疑うことにある」。退いてすぐに上疏し、徳宗の弊害と時政の過失を陳べた。上は嘉納した。
起居舎人に遷り、言うには、「朝廷の官職授与は妥当を欠き、台諫は職務を尽くさず、給事中・中書舎人はすでに封駁を廃し、内官・医官・薬官への賜与が多く、転任が容易である。これらを警戒し正すことを考えねばならないのではないか」。上は竦然として言った、「卿が言わなければ、朕は皆聞くことがなかった。磊磊落落たる者は、卿ただ一人である」。礼部侍郎兼吏部侍郎に任じられた。かつて手詔により「監司を選ぶことを謀り、卿のように剛直な者を得たい。数人を推挙せよ」とあったので、即座に潘時・鄭矯・林大中ら八人を推挙し、抜擢任用を請うた。ちょうど母の喪に服するため去職した。喪が明け、召還されて礼部尚書となり、参知政事に進んだ。
光宗が即位すると、知枢密院事兼参知政事に遷り、枢密使に拝された。光宗は初政に精励し、藺もまた形跡を残さず、任命文書が中(内廷)から出て人心に適わないものは、すぐに留め、御座に納めた。ある者が皇后の家廟を建てることを議したが、力爭して不可とし、詔に応じて上疏し「願わくは陛下まず聖志を定められんことを」とし、八事を条列した。疏が入ったが、回答はなかった。中丞何澹が彼を論劾し、罷免されて去った。のちに帥閫として起用され、蜀に転鎮させられたが、いずれも就任しなかった。後に祠官を領し、江陵の帥となった。寧宗が即位すると、湖南の帥に改めた。台臣が論劾して罷免され、郷里に帰り祠官を奉じた。七年後に薨去。
藺は直言して隠すところがなかったが、悪を憎むことが甚だしく、同列の多くは彼を忌み、ついに意見が合わず去った。『奏議』が世に伝わっている。
黄祖舜
黄祖舜、福州福清の人。進士に及第し、累任して軍器監丞に至った。入対し、言うには、「県令の選任を銓曹に委ね、専ら資格を用いるのは、郡守に委ねて、特に不良な者を淘汰させるのと比べてどうか」。上はこれをよしとした。
権守尚書屯田員外郎となり、吏部員外郎に転じ、泉州通判として出向した。出発に際し、言うには、「道を抱き徳を懐く士は、科挙に応じて禄を求めることをせず、韋布(平民)のままで老いる。科挙の外に、学行が修明で孝友が純篤な者を、県が州に推薦し、州が学校に招き、多くの士人の模範とさせることを請う。その卓行が特に優れた者は、州がその名を上聞する。これもまた郷挙里選の趣旨である」。その奏を礼部に下したところ、留められて倉部郎中となり、右司郎中・権刑部侍郎兼詳定勅令司兼侍講に遷った。『論語講義』を進呈すると、上は金安節に校勘を命じ、安節はその書が詞義明瞭で精粋であると言ったので、国子監に板行させた。李宝を推薦し、その勇は三軍の冠となるに足り、智は敵を料るに足ると言い、詔により宝を帯御器械とした。
権給事中を兼ねた。張浚が薨去すると、その家が使臣五十余人を留めて資任を処理するよう奏請した。祖舜は言うには、「武臣で闕(官職の空席)を待つ者は数年を経ており、今、無為に食む者に代わらず、座して高い官秩に進むならば、どうして功績を勧められようか。制限を設けることを請う」。そこで詔して勲臣の家の兵校は五分の一を留めることとした。戸部が官田を淘汰された使臣に授けるよう奏上した。祖舜は言うには、「淘汰された使臣は一千六百余人、臨安の官田はわずか千百畝である。その請求に応じて田を与えれば、数十人に過ぎない」。事は行われなかった。保義郎梁舜弼・漢弼は、邦彦の養孫であり、ともに閤門祗候となった。祖舜は言うには、「閤門は恩沢によって補遷すべきではない」。池州知事劉堯仁が右文殿修撰に昇進し、新州知事韓彦直が秘閣修撰に昇進した。祖舜は言うには、「修撰は本来文学を待つものであり、僥倖によって得るべきではない」。故資政殿学士楊愿の家が遺表の恩典を乞うた。祖舜は言うには、「愿は陰に秦檜を助け、善類を中傷した」。いずれもその命令は取りやめられた。秦熺が卒すると、太傅を追贈された。祖舜は言うには、「熺はその父檜の謀議に参与した。今、帝傅の官秩を贈るのは適切ではない」。追贈を取り消させた。
同知枢密院事に遷った。金主亮が淮を侵犯し、劉汜が敗れ、王権が逃走した。上は権を誅して他の者を励まそうとした。祖舜は言うには、「権の罪は誅すに当たるが、汜もまた容赦すべきではない。劉錡は大功があり、その病がすでに危篤と聞く。権・汜を誅すれば、錡は必ずや愧れ憤って死ぬであろう。これは国家が一敗兵のために三将を殺すことであり、敵を快からしめることにならないか」。上は嘉納した。官において薨去。諡は「莊定」。
王大宝
趙鼎潮州に謫せられしとき、大寶日々に従ひて『論語』を講ず、鼎歎じて曰く、「吾此に居るも、平時に薦むる所の者一人も至らず、君獨り肯へて吾が遊に従ふ、人を過ぐること遠し」と。連州を知る。張浚も亦謫居す、其の子栻をして之と講学せしむ。時に趙・張の客貶斥せらるる日虚しからず、人累息すと為すも、大寶獨り泰然たり。浚の俸給時を得ず、大寶経制銭を以て之に給す、浚曰く、「君を累すが如きは何ぞや」と。大寶変ぜず。
代還して言ふ、連・英・循・惠・新・恩の六州は、居民纔かに数百、懋遷の地に非ず、月に輸ずる免行銭は宜しく蠲減すべしと。高宗大臣に謂ひて曰く、「守臣上殿するに、民事を陳ぜしむれば、遂に田里の疾苦を知ることを得、其の陳ぶる所五六にして、一を得て行ふ可きは、其の利亦細ならず」と。乃ち広西諸司に命じて減数を具へて聞かしむ。
袁州を知り、『詩』・『書』・『易解』を進む、上執政に謂ひて曰く、「大寶経術に留意し、其の書甚だ采る可し、内除を与ふべし」と。執政国子司業を擬す、上喜びて曰く、「適に朕が意に合ふ」と。時に経筵官闕く、遂に国子司業兼崇政殿説書を除す。奏す、「江南諸州に月樁銭有り、定名数無く、吏縁りて姦を為し、民を刻剝す。又折帛銭有り、方に南渡兵興し、物価翔貴す、下戸に折納せしめ、務めて之を優にするを令す、今市の帛匹四千なれど、而して六千を輸せしむ。何ぞ監司に委ねて月樁を覈し定制と為し、折帛を減じて小民を恵まざらんや」と。詔して戸部に其の奏を詳ならしむ。
直敷文閣・溫州知事・福建刑獄提点。臨漳に道す、峻嶺有りて蔡岡と曰ひ、藂薄蔽翳し、山石犖确、盜間に乗じて剽劫す。大寶囊金三十万を以て、民を募りて藪を抉ち道を甃すること十余里、行者之に便す。広東刑獄提点。
孝宗即位し、礼部侍郎を除す。大寶言ふ、「古の致治の君は、先づ国是を明らかにし、而して之を行ふに果斷を以てす。軍興以来、征と曰ひ和と曰ひ、浮議定まらず。太上丕基を陛下に伝ふ、四方日々に恢復を徯つ、国論未だ定まらず、衆志未だ孚かず。願くは陛下果斷せられば、則ち済はざる無からん」と。右諫議大夫に擢でられ、首めて朱倬・沈該の罪を論じ、皆其の言を行はしむ。汪澈荊・襄に師を督す、大寶其の節制能はざるを劾し、方城の敗を坐視するを疏再上し、澈職を落とし台州に謫せらる。大寶嘗て移蹕に論及す、上曰く、「吾亟に行はんと欲す」と。大寶奏す、「今日の勢殆んど未だ可からず、願くは歳月を少しく寛げよ」と。
張浚復た起用せられ都督と為る、大寶力めて其の議を賛す、符離にて律を失ひ、群言洶洶たり。大寶言ふ、「危疑の際は、果斷持重に非ざれば、何を以てか横議を息まん」と。未だ幾ばくもせず、湯思退督府を罷むるを議し、力を請ひて講和す、大寶奏して謂ふ、「今国事恢復より大なるは莫く、金敵に仇するより仇なるは莫く、攻守より難きは莫く、用人を審にするより審なるは莫し。宰相財計乏しく、軍儲虚しく、符離にて師潰へ、名額除かざるを以て、意軍籍を覈し、月給を減ずるに在り。臣恐らくは惟だ辺鄙の憂ひのみに非ずして、患ひ蕭牆より起らん」と。章三上し、兵部侍郎を除す。
胡銓起居郎と為り、奏して曰く、「近日王十朋・王大寶相継ぎて引去す、国の福に非ず」と。上曰く、「十朋力自ら引去し、朕之を留むるも能は得ず。大寶湯思退を論ずること太だ早し、兵部侍郎と為すを令す、豈に復た其の去るを聴くを容れんや」と。未だ幾ばくもせず、敷文閣直学士を以て太平興国宮を提挙す。他日、銓事を奏す、上復た之に諭して曰く、「大寶を経筵に留むるも、亦固より去るを求め、勢両立せず」と。銓奏す、「古より臺諫宰相を論ずること多し、若し勢両立せずと謂はば、則ち宰相を論ずる者は皆当に去るべし」と。大寶尋ねて致仕を請ふ。督府既に罷まり、辺防を撤き、四州を棄つ、金復た辺を犯す、詔して思退に軍馬を都督せしむ、辞して行かず。上震怒し、思退を竄す、中外大寶の前言用ひられざるを以て恨みと為す。
金安節
金安節、字は彥亨、歙州休寧の人。資穎悟、日に千言を記し、経史に博洽し、尤も『易』に精し。宣和六年、太学より進士第に擢でられ、洪州新建県主簿に調す。紹興初年、范宗尹引きて刪定官と為す。入対し、言ふ、「司馬光財用乏しきを以て、宰相をして総計使を領せしむるを請ふ、宜しく以て法と為すべし」と。
司農丞を除し、又殿中侍御史に遷る。韓世忠の子彥直秘閣を直す、安節言ふ、「崇寧・大観以来、父兄の政を秉るに因りて貼職を得るは近制、皆討論に在り。今彥直復た父任に因りて授けらる、是れ自ら法を廃するなり」と。報へず。任申先待制を除して致仕す、安節其の忿戾を劾し、追奪を乞ふ。秦檜の兄梓台州を知る、安節其の梁師成に附麗するを劾し、梓遂に罷む、檜之を銜む。未だ幾ばくもせず、母憂に丁し去り、遂に出でず。
檜死し、起用せられ嚴州を知り、浙西提刑を除す。入りて大理卿と為り、首めて言ふ、「民を治むるの道は、先づ徳後に刑、今守令遠慮及ばず、簿書期会、賦稅輸納、日力を窮めて之を辦し、而して卓然教化を務とする者無し。願くは守令を申飭し、俾くは専ら法律を事とすること無からしめ、苟くももって教化を賛するに足らば、必ず力を以て之を行はしめよ」と。時に偽造の鹽引者を獲る、大臣之を死に置かんと欲す、安節力爭し、事已に十余年、且つ自首に死法無しと為し、因りて減等を得しむ。両浙漕属王悅道仁和令楊績の獄を鞫するに実せず、事大理に下る、安節並びに悅道を逮ふ。悅道は幸醫王繼先の子なり、屢人に因りて免れんことを求む、安節従はず。
宗正少卿に遷る。金使施宜生の賀正に為り、安節館伴す。顯仁皇后の喪に属し、黒帯を服す、宜生曰く、「使人賀礼を以て来る、迓使安んぞ黒帯を服するを得んや」と。安節辞難再四し、宜生屈服す。礼部侍郎に遷る。明年、再び送伴使を充す。楚州に至り、副使耶律翼巡檢王松の馬を奪ふを得ず、之を鞭笞す。安節人を遣はして翼を責め、詞色俱に厲し、朝廷事を生ずるを恐れ、坐して両秩を削らる。葉義問金に使す、金主因りて言ふ、「前日馬を奪ひし事、曲は翼に在り、已に二百を笞す、回日に詳しく奏す可し」と。乃ち元官に復す。
礼部侍郎に遷る。将に明堂を祠らんとす、時に已に欽宗の升遐を聞く、安節言ふ、「宮廟礼を行ふは、皆当に大臣を以て事を摂すべし」と。之に従ふ。侍講・給事中に遷る。殿院杜莘老張去為の補外を論ず、安節言ふ、「内侍に因りて言官を去る可からず」と。上遂に莘老を留む。
金主亮が淮を侵犯し、安節は建康への行幸に従った。亮が死ぬと、安節は進取・招納・備守の三策を陳べ、備守を進取・招納の根本とした。上(高宗)が臨安に還ろうとした時、楊存中に江・淮・荊・襄の宣撫を命じたが、安節は言った、「存中は近ごろ権勢が盛んすぎると、人言が喧しかったので、ようやく軍政を解かれたばかりなのに、またこの職を授けるのは、彼を全うする道ではない」。また言った、「今こそまさに賞罰を大いに明らかにすべき時に、まず劉宝・王権のような刻削で凡庸懦弱な者を用いるのは、どうして将士を激励できようか」。上はその言をいずれも容れた。
楊存中が江・淮の州県を削減することを議したが、安節は言った、「廬州の合肥、和州の濡須は、いずれも昔の人が扼すべき要路を制した所である。魏の明帝が言うには、『先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固めて、賊が来れば常に三城の下で撃破した』。孫権が濡須塁を築くと、魏軍は累次攻撃しても陥せず、守将の甘寧らは常に寡をもって衆を制した。形勢の地は、攻守において百倍の利があり、昔の人が得て成功したものを、今日持っていながら反って棄てるなどということがあろうか。しかも濡須・巢湖の水は、上流は店歩に接し、下流は江口に接して漕運の舟を通すことができる。どうか将を選んでこれを経理せられたい」。存中の議はそこで止まった。
孝宗が位を嗣ぐと、廷臣に筆札を与えて当世の事を陳べさせた。安節は請うた、「内降(内旨による任命)の科条を厳しくし、内侍省・御薬院・内東門司の冗費を一切罷め去られたい。堂除(政事堂での任命)は省みて吏部に帰し、長官は僚属を辟召することを聴して、中書の務めを清くせられたい。文武の蔭補はそれぞれ定制があり、文資に易えることを許さないようにせられたい。臣僚の致仕遺表による恩沢は、異姓に奏するべきではなく、高額の財貨で売買させないようにせられたい」。上はかつて大臣に対しその誠実を称えた。ある日、奏事の際に面と向かって労うように言った、「近ごろ卿が繳駁(詔書を封還し駁正すること)するのを見ないが、何か見るところがあれば、ただ繳駁せよ。朕は聴かないことはない」。
龍大淵・曾覿は潜邸(皇太子時代の邸宅)の旧恩により、大淵は枢密都承旨に除され、覿は帯御器械を帯びた。諫議大夫劉度がなお累次上疏してこれを論じた。隆興と改元すると、大淵・覿はともに知閤門事に除された。宰相は安節が必ず諫言すると知り、人をやって諷して言わせた、「もし書行(詔書を発給執行すること)すれば、すぐに政府(中書門下)に坐すことになろう」。安節は拒んで受け入れず、録黄(詔書の草案)を封還した。当時、台諫が相継いで論列し、奏疏は入ったが出されず、上の意向はまだ戻らなかった。安節は給事中周必大とともに奏した、「陛下が即位されて以来、台諫が弾劾した者は、たとえ両府の大将であっても、罷めようとすれば罷め、貶そうとすれば貶された。ただこの二臣に対してのみ、遷就し諱避なさる。臣らがもし明詔を奉じれば、臣らは中外の誹謗を負うことになります。大臣がもし開陳しなければ、大臣は中外の責めを負うことになります。陛下がもし俯いて従われなければ、中外の紛々たる議論は止まないでしょう」。上は怒り、安節はすぐに自らを劾して竄逐を乞うた。上の怒りは解け、命令は遂に止んだ。潜邸の旧人李珂が編修官に抜擢されると、安節はまた奏してこれを罷めさせた。上は彼に諭して言った、「朕は卿が孤立して党がないことを知っている」。張浚はこれを聞き、人に語って言った、「金給事はまことの金石の人である」。
兵部侍郎に拝された。金の将僕散忠義が三省・枢密院に書を送り、和議を論じて四つの事柄を画定した。詔して群臣に議させた。安節は言った、「世に侄国と称し、国号に「大」の字を加えず、また「再拜」の二字を用いることは、いずれも従うべきではない。海・泗・唐・鄧の地は淮・襄の屏障であり、与えるべきではない。やむを得ないならば、寧ろ歳幣を少し増やすべきである。欽宗の梓宮は迎え奉るべきである。陵寝の地は必ずや我が方に帰そうとはしないだろうから、たびたび使を遣わして恭しく謁するようにすべきである。ただ和好を講じた後は、ますます将を選び兵を励まして、後の図りとすべきである」。やがて祠官を請い、許しを得た。中書舎人胡銓が繳奏して言った、「安節は太上(高宗)の旧人であり、陛下の老成な臣である。漢の張蒼、唐の張柬之、国朝の富弼・文彦博はいずれも八十歳になってもその去ることを聴かなかった。安節は膂力まだ衰えず、憂国の心がある。どうしてその引退に従うべきであろうか」。上は遂に彼を留めた。
一年余りして、権吏部尚書兼侍読となった。この時より力を尽くして謝事(退任)を請い、詔して敷文閣学士として致仕させた。陛辞の際、上は言った、「卿はしばらく帰れ。旦夕に卿を召すであろう」。去る日に、縉紳は互いに歎羨し、中興以来、全名高節においてこれに比肩する者は稀であると思った。乾道六年に卒去。七十七歳。遺表が聞こえ、通奉大夫を贈られ、累贈して開府儀同三司・少保となった。
安節は至孝であり、喪に居るに礼があった。兄と友愛し、田業はすべて彼に推譲し、また恩蔭をもってその孤子の㒜を奏薦した。初めて官に就いた時、人に求めて推薦を請うたことはなく、貴くなってからも、人を挙薦しても人に知らせなかった。司農丞に除された時、ある人が彼に言った、「公のこの任命は、張侍郎致遠が中丞であった時に推薦したものです。どうして謝りに行かないのですか」。安節は言った、「彼は朝廷のために人を推薦したのであって、私的に私を推薦したのではない」。ついに行かなかった。晁公武・龔茂良を台諫に推せるべきと薦め、二人はともにその職に称したが、二人はそれを知らなかった。秦檜と意見が合わず、出仕しなかったこと十八年、再び起用されてからも、事を論じて終に屈せず、人はこれをもって彼を敬服した。文集三十巻、『奏議表疏』、『周易解』がある。
王剛中
孝宗が普安郡王であった時、剛中は王府教授を兼ね、侍講するごとに、古今の治乱の故と君子小人忠佞の弁を極めて陳べた。中書舎人に遷り、言った、「敵を禦ぐことは今日の先務である。敵が強ければ辺境を侵犯し、弱ければ盟を請う。今は敵の強弱を計らず、必ずまず自らを治め、将帥を選び、戦士を搜し、辺儲を実らせ、器械を備えるべきである。国勢が富強になり、将が良く士が勇めば、盟を請えば漢の文帝のごとく、辺境を犯せば唐の太宗のごとくに対処できる」。上はその言を是とした。ちょうど西蜀の帥を謀るに当たり、上は言った、「王剛中に越える者はいない」。龍図閣待制・成都府知事・四川制置使として出向させた。便殿にて、臨んで派遣し金帯・象笏を賜った。敷文閣直学士に進んだ。
当時、呉璘は累官して大帥に至り、その下の姚仲・王彦らもまた節度使として一方を雄にしていた。守帥が文治をもってすれば柔弱に流れて号令行わず、武競をもってすれば暴虐に陥って下情通じない。ただ剛中のみが身を法によって検し、人に礼を示し、崖塹を立てず、吏を馭するに恩威並行し、羽檄が紛遝としても、従容として裁決し、いずれも機会に中った。
敵騎が大散関を渡ると、人情洶洶とした。剛中は一馬に跨り、夜に二百里を馳せ、帳中にいる呉璘を起こして責めて言った、「大将は国と義を同じくし休戚を共にするものだ。敵に臨んでどうして高枕して臥することができようか」。璘は大いに驚いた。また蠟書をもって張正彦に送り援軍を済わせた。西師が大いに集まり、金兵は敗走した。ちょうど捷奏を議していた時、剛中は倍道で馳せ還り、その属官李燾に言った、「将帥の功に、私に何の関わりがあろうか」。燾は唶じて言った、「身自ら戦いを督して功成りながら居らず、人に遠く越えている」。やがて将士を差択し、衆の推す者を上って朝廷に推薦し、統帥の選に備えた。また蜀の名勝の士と幕府の賢者を疏挙し、部使者・州刺史の補佐に備えた。目を使い頤で指し、内外響応した。諸々の汰遣された使臣で困窮して自ら生きられない者について、剛中は、少壮の年に刃を冒した者を、既に老いた後に斥棄すべきではないと考え、すべて府に召し寄せ、善く射る者はその禄秩を復し、禁軍の闕額の糧をもって給し、罷癃で事に堪えられない者には義倉の米をもって給した。
成都の萬歳池は広さ十里に及び、三郷の田を灌漑していたが、歳月を経て泥が堆積していた。剛中は三郷の民夫を集めて共にこれを疏浚し、土を積んで堤防とし、上に榆や柳を植え、石柱を立てて標とした。州人は指して言った。「王公の甘棠(善政の象徴)である」と。府学の礼殿は東漢の興平年間に建立され、後にまた新学が建てられたが、時勢多難に遭い、日に日に傾き崩れかけていた。九県に命じて修繕させ、全て旧観を回復させた。諸葛武侯の祠と張文定公の廟を修復し、黄巣の墓を平らげ、賢者を顕彰し悪を憎むことを示して民に知らしめた。女巫が蛇を飼って妖術を行っていたので、蛇を殺し、女巫に黥刑を施した。
孝宗が禅を受けると、宮僚として左朝奉大夫に進み、召されて闕に赴くよう命じられたが、足疾を理由に祠官を請い、太平興国宮の提挙となった。帰途、番陽に滞在し、園を営んで竹を植え、「竹塢」と号した。
金が淮を侵犯すると、詔旨により剛中に入朝を促し、戦守の策を陳述させた。礼部尚書・直学士院兼給事中に任じ、鹵簿使となり、端明殿学士・簽書枢密院事に任じ、同知院事に進んだ。剛中は言った。「戦守は実事であり、和議は虚名である。虚名を頼りに実事を害してはならない」。また四事を奏上した。屯田を開くこと、浮費を省くこと、将帥を選ぶこと、冗兵を淘汰することである。政府に在ること、病に罹って卒した。享年六十三。資政殿大学士・光禄大夫を追贈され、諡は「恭簡」といった。
建炎年間、詔により階・成・岷・鳳の四州で壮丁を徴兵することとなり、人々は憂慮した。剛中は五つの害を挙げて建言し、これを廃止させた。徴兵の符が下るのを免れ、民は歓呼し、その声は山谷を震わせた。去る時には、蜀の父老が道を遮り、数百里も追い送る者もあった。布衣から公卿に至るまで、他の嗜好はなく、公務の余りにはただ読書と著述を楽しみとした。著書に『易説』、『春秋通義』、『仙源聖紀』、『経史辨』、『漢唐史要覧』、『天人修応録』、『東溪集』、『応斎筆録』があり、凡そ百余巻に及ぶ。
李彦穎
李彦穎、字は秀叔、湖州徳清の人。幼少より端厳で重厚、記憶力と見識に優れていた。金が浙西を侵犯した時、父は家族を連れて逃避したが、彦穎はちょうど十歳で追いつけず、敵が既に背後に迫っていた。しかし小道に急ぎ、流れを乱して渡ることができた。
紹興十八年、進士に及第し、余杭の主簿となった。太守の曹泳が酒屋の家業を豪奪して官営とし、その資財を利しようとしたが、彦穎はこれに争った。泳は怒り、役人に命じて罪状を捏造させようとしたが、毫末の罪も得られなかった。建徳の丞に転じ、官等を改めた。時の宰相はその才能を知り、学官に処そうとしたが、ある者が一度面会するよう勧めた。彦穎は自ら進んで売り込むことを恥じた。富陽の丞に転じた。御史の周操が推薦して御史台主簿となった。
金が盟約を破ると、張浚が師を督いて進討した。上は張浚を支持していたが、執政は強硬に主和を主張し、陳良翰と周操はそうは思わなかった。右正言の尹穡は密かに執政と結託し、同調する者を推薦引き立て、上面前で和議を説いた。上はこれに惑わされ、督府を罷め、良翰と操は相次いで罷免され、尹穡は殿中に進み、諫議大夫に遷った。ある日、穡が和・戦・守について彦穎に尋ねた。彦穎は言った。「人の見解は固より同じではない。公が既に和議を是とするなら、何故はっきりと上面前で陳述し、自らその責を負わないのか。事が成功すれば功績は公に帰し、不成なら身を引いて退く。もしその利を享受しながら害に及ぼうとしないなら、国事は誰を頼りとすればよいのか」。穡は大いに怒って言った。「私が諫官となって以来、前後百余の奏上の中で、一度でも『和』の字に及んだことがあろうか。それなのに台簿(彦穎)がこのようなことを言うとは!」。これより彦穎を恨み、陰に排斥した。
国子博士に改め、権吏部郎中となり、父の喪で去職した。喪が明けると、再び吏部となり皇子恭王府直講を兼ね、権右史兼兵部侍郎となった。経筵で、張栻が『葛覃』を講じ、先王の家を正す道を説き、時事に及んで、言葉が激切であった。上は快く思わなかった。彦穎は言った。「人臣が君に仕えるのに、どうして阿諛追従して容れられることができないことがあろうか。張栻が敢えて直言する所以は、正に聖明の君が上にいらっしゃるからこそ、君を愛する誠を尽くせるのです。『書経』に曰く、『言汝の心に逆らう有らば、必ず諸れ道を求めよ』と」。上の気持ちはたちまち和らぎ、言った。「臣下が皆このようであれば、人主に過ちはあるまい」。
皇太子が立てられると、左諭徳を兼ねた。まず東宮の官僚の建置について論じ、詹事は東宮の内外を省みざる所なく、事は必ず詹事に報告してから行うべきだと述べた。司馬光が皇太子の講読官について論じた奏疏があり、それを書き写して進呈した。上は大いに喜び、これを行った。皇太子が臨安尹となると、判官兼中書舎人を兼ねた。張説が再び枢府に登ると、彦穎は論じた。「張説には寸長もなく、去年急に宥府に昇り、世論は沸騰した。今またこの任命が出て、朝廷内外は驚愕している。臣は恐れる、六軍が解体し、人心が服さないことを」。間もなく、権礼部侍郎兼侍講となり、ついで言った。「士風は萎靡しているか、さもなくば矯激である。篤実で鯁亮な者を選んで用いるべきである」。詹事に昇進し、上に拝謁して言った。「皇太子が臨安尹となって久しい。民事を経験させたいお気持ちはあっても、これは適切ではない。一意に講学に専念させるべきです」。他日、上に言ったことを太子に告げ、尹の職務を辞する奏上を草するよう促した。三度辞してようやく免じられた。
吏部侍郎を兼ね、権尚書兼侍読となった。月食と長雨があり、言上した。「甲申の年に長雨のために直言を求めたが、今から十年になる。その間にも水旱がなかったわけではないが、直言を求める詔は聞かない。はたして言論が多く沽名釣誉や過激であるため、厭われているのか。近ごろ欺瞞と隠蔽が風潮となり、侍従や台諫でさえなお慎んで黙している。まして他の者であろうか。陰の災いが起こるのは、必ずしもこのことによらないとは言えない」。時に廷臣の多くが中批(内批)によって斥逐されていた。彦穎はまた言った。「臣下に過ちがあれば、公然と追放し、朝廷内外に罪を得た理由を知らせて戒めとすべきです。今、讒言と誹謗が密かに行われ、斥逐の命令が内廷から出るので、朝廷にいる者はその理由を測り知ることができません。恐らくは陰邪の徒が意を得て、善類が意気消沈するでしょう。盛世の事ではありません」。吏部尚書に任じられた。金の賀正使を接送し、両淮の兵備と城塁の修築、および接送の浮費削減について詳しく述べ、上は嘉納した。
墜馬して在告し、力を尽くして去らんことを求め、資政殿学士を以て紹興府を治む。勤約にして恵政有り。洞霄宮を提挙し、復た参知政事に任ず。病みて羸え、拝起艱しく、力を辞す。上曰く、「老者は筋力を以て礼と為さず、孟享の礼繁し、特に関を免ず」と。諫官、其の子が人を殴りて死に至らしむるを論じ、祠を奉じ秩を鐫らる。起きて婺州を治め、民の牛を屠るを禁じ、属県の税十三万三千緡を捐つ。復た紹興府を治め、資政殿大学士に進み、再び祠を奉じ、観文殿学士に進む。
范成大
起きて処州を治む。陛対し、力の及ぶ所の者三つを論ず、曰く日力、曰く国力、曰く人力、今尽く虚文を以て之を耗すと、上嘉納す。処の民は役を争い囂訟す、成大為に義役を創め、家の貧富に随い金を輸して田を買い、役に当たる者を助け、甲乙輪第すること二十年に至り、民之に便す。其の後入奏し、言此に及び、詔して其の法を諸路に頒つ。処は山田多く、梁の天監中、詹・南の二司馬、通済堰を松陽・遂昌の間に作り、溪水を激すること四十里、田二十万畝を溉ぐ。堰歳久しくして壊る、成大故跡を訪れ、石を疊み防を築き、堤閘四十九所を置き、水則を立て、上中下溉灌序有り、民其の利を食む。
礼部員外郎兼崇政殿説書を除す。乾道の『令』は絹を以て贓を計い、估価軽くして罪を論ずること重し。成大奏す、「承平の時、絹匹千錢に及ばず、而るに估価倍を過ぐ。紹興初年、五分を遞増し、銭三千足と為す。今絨実に貴し、当に時直を倍すべし」と。上驚きて曰く、「是れ民を陷るる深文なり」と。遂に四千に増し、而して刑軽し。
隆興再び和を講じ、定受書の礼を失い、上嘗て之を悔ゆ。成大を起居郎に遷し、資政殿大学士を仮し、金祈請国信使を充てる。国書は専ら陵寢を求め、蓋し泛使なり。上面諭して受書の事を諭す。成大併せて書中に載せんことを乞う、従わず。金の使者を迎える者、成大の名を慕い、至って巾幘を求めて之を效う。燕山に至り、密かに奏を草し、具に受書の式を言い、之を懐いて入る。初め国書を進むるに、詞気慷慨、金の君臣方に傾聴す、成大忽ち奏して曰く、「両朝既に叔侄と為り、而るに受書の礼称わず、臣に疏有り」と。笏を搢げて之を出す。金主大いに駭きて曰く、「此れ豈に書を献ずる処ならんや」と。左右笏を以て標して之を起さんとす、成大屹として動かず、必ず書の達するを欲す。既にして館所に帰る、金主伴使を遣わし旨を宣して奏を取らしむ。成大の未だ起たざるや、金庭紛然、太子成大を殺さんと欲す、越王之を止め、竟に全節して帰るを得たり。
中書舎人を除す。初め、上書崔寔の『政論』を輔臣に賜う。成大奏して曰く、「御書『政論』、意は綱紀を飭い、積敝を振わんとすに在り。而るに近日大理刑を議し、遞に一等を加う、此れ厳を以て平を致すに非ず、乃ち酷なり」と。上之を知言と称す。張説が簽書枢密院事を除せらるるに、成大制を当て、詞頭を留めて七日下さず、又上疏して之を言う。説の命竟に寝す。
静江府を治む。広西窘匱、専ら塩利に藉り、漕臣尽く之を取る。是に於いて属邑に価を増し配を抑えるの敝有り。詔して復た鈔塩を行わしむ。漕司鈔銭を拘し均しく部を給す、而して銭時に至らず。成大境に入りて曰く、「利害此より大なる者有らんや」と。奏疏して謂う、「能く漕司の強取の数を裁抑し、以て郡県を寛かにせば、則ち科抑禁ず可し」と。上之に従う。数年、広州の塩商上書し、復た客の販を令せんことを乞う。宰相其の説を可とし、大いに銀銭を出して之を助く。人多く以て非と為す。下して有司に議せしむ、卒に成大の説を易えず。旧法、馬は四尺三寸を以て限と為す。詔して四寸以上に加えんとす。成大謂う、互市四十年、驟に改むべからずと。
敷文閣待制・四川制置使を除し、疏して言う、「吐蕃・青羌、両たび黎州を犯し、而して奴児結・蕃列等尤も桀黠、中国を軽視す。臣当に将兵を教閲し、外に堡砦を修め、仍って教閲団結の法を講明し、人をして自ら戦わしむ、此の三者は財無くしては不可なり」と。上度牒銭四十万緡を賜う。成大、西南諸辺に、黎を要地と為し、戦兵五千を増し、路分都監を置くを奏す。吐蕃寇入するの路十有八、悉く柵を築き分戍す。奴児結安静砦を擾わす、飛山軍千人を発して之に赴かしめ、其の三日必ず遁るるを料る、已にして果然たり。白水砦の将王文才、私に蛮女を娶り、常に之を導きて辺を寇す。成大重賞を以て群蛮に檄し、相い疑貳せしむ。俄かに文才を禽えて以て献ず、即ち之を斬る。蜀の北辺旧に義士三万有り、本民兵なり。監司・郡守之を雑役し、都統司又大軍と更戍せしむ。成大力を尽くして其の不可を言う。詔して旧法に遵わしむ。蜀の知名士孫松寿、年六十余、樊漢広甫五十九、皆掛冠して仕えず。其の節を表し、詔して之を召す、皆起たず。蜀士是より心を帰す。凡そ人才の用う可き者、悉く幕下に致し、其の長を用い、小節に拘わらず。其の傑然たる者は章を露わして之を薦め、往々朝に顕れ、位二府に至る。
成大素より文名有り、尤も詩に工なり。上嘗て陳俊卿に命じて文士を択び内制を掌らしむ。俊卿成大及び張震を以て対う。自ら「石湖」と号す。『石湖集』・『攬轡録』・『桂海虞衡集』世に行わる。
論ずるに、劉珙は忠義の家系に生まれ、臨終に際しては、未だ仇恥を雪がざるを深く恨みとせり。王藺は顔を犯して忠諫し、剛腸にして悪を嫉む。趙鼎・張浚が罪なくして遠く貶せられ、朋交蹤を絶つに方り、大寶独り之と遊び、権姦を斥ぐるに逮りて、了る顧忌無かりき。安節は秦檜を拒み、淵・覿を排し、堅きこと金石の如く、孤立して党無く、死生禍福、曾て一たびも其の心を動かさず。金兵大散関を犯すに当たり、剛中は単騎星馳し、夜に呉璘を起し、一戦にして敵を却けたり。成大は北庭に書を致し、幾ばくか見殺に近く、卒に命を辱めず。俱に古大臣の風烈有り、孔子の所謂「歳寒くして然る後に松柏の後に凋むを知る」者か。若し祖舜は楊愿の恩を奪い、秦熺の秩を褫い、檜の悪を既に死して後誅し、彦穎は事を論じて激烈、忠藎を披露せり、直気亦尚ぶべきのみ。