宋史

列傳第一百四十四 葛邲 錢端禮 魏杞 周葵 施師點 蕭燧 龔茂良

列傳第一百四十四 葛邲 錢端禮 魏杞 周葵 施師點 蕭燧 龔茂良

葛邲

原文葛邲

葛邲、字は楚輔、その先祖は丹陽に居住し、後に吳興に移った。代々儒學を以て名家をなし、高祖こうその葛密から邲に至るまで、五世にわたり科第に登り、祖父の葛勝仲から邲に至るまで、三世にわたり詞命を掌った。邲は幼少より聡敏で、葉夢得・陳與義が一目見て國器と称した。

原文葛邲,字楚輔,其先居丹陽,後徙吳興。世以儒學名家,高祖密至邲,五世登科第,大父勝仲至邲,三世掌詞命。邲少警敏,葉夢得、陳與義一見稱為國器。

蔭補により建康府上元縣丞に任ぜられた。折しも金人が江を侵犯し、上元は敵の衝に当たり、調度が百出したが、邲は擾乱せずにこれを処理し、留守の張浚・王綸は皆これを器重した。進士第に登った。蕭之敏が御史となり、その才能を推薦し、國子博士に任ぜられた。輪對において、州縣の受納及び鬻爵の弊を論じ、孝宗はこれを褒めて言った、「奏上を観るに、卿の材能を知る」。著作郎兼學士院權直に任ぜられた。

原文以蔭授建康府上元丞。會金人犯江,上元當敵衝,調度百出,邲不擾而辦,留守張浚、王綸皆器重之。登進士第。蕭之敏為御史,薦其才,除國子博士。輪對,論州縣受納及鬻爵之弊,孝宗獎諭曰:「觀所奏,知卿材。」除著作郎兼學士院權直。

正言に任ぜられ、初めて上疏して言った、「盈虚の理は、未然に隠れ、治亂の分は、忽せにすることより生ずる。専ら天を畏れ民を愛することを先とすべきである」。また論じて言った、「征榷が年々増加する害は、例えば輦下の都税務は、紹興年間に茶鹽の歳額を一千三百萬緡と定めたが、乾道六年以後は二千四百萬緡に増加した。成都府の一務は、初めの額は四萬八千緡であったが、今は四十餘萬緡に至り、四川全体の酒額は遂に五百餘萬緡に至り、民力は重く困窮している。租税には定数があるが、暗耗は日増し、折帛は益々多く、民はどうして窮乏しないでいられようか。願わくは明詔を有司に下し、茶鹽酒税が原額より既に一倍に増加したものは、更に新額を立てず、官吏に増賞を与えず、疲れた民を少しでも蘇らせられたい」。上は特に召して、更に條陳を命じ、邲は六事を以て答え、皆時弊に切中した。侍御史に任ぜられ、救荒の三事を論じ、累遷して中書舍人となった。

原文除正言,首疏言:「盈虛之理,隱于未然;治亂之分,生於所忽。宜專以畏天愛民為先。」又論:「征榷歲增之害,如輦下都稅務,紹興間所趁茶鹽歲以一千三百萬緡為額,乾道六年後增至二千四百萬緡。成都府一務,初額四萬八千緡,今至四十餘萬緡,通四川酒額遂至五百餘萬緡,民力重困。至若租稅有定數,而暗耗日增,折帛益多,民安得不窮乎?願明詔有司,茶鹽酒稅比原額已增至一倍者,毋更立新額,官吏不增賞,庶少蘇疲甿。」上特召,復令條陳,邲以六事對,皆切中時病。除侍御史,論救荒三事,累遷中書舍人。

旱魃の年、詔して初政の得失を求め、邲は詔に応じ、大略において言った、「虞允文が國用を制し、南庫の蓄積は日々厚くなるが、戶部の収入は日々削がれ、故に近年以來、常に不足の憂いがある。罷兵以來、諸將は皆賄賂によって昇進を得ており、その勢いは必ずや掊刻して償いを取るに至り、その選を益々精しくすべきである」。給事中に遷った。張嶷は張說の子として知閣に任ぜられ、裴良琮は顯仁太后の姪女の夫として階官を落とされたが、邲は皆これを繳奏した。廣西で鹽法を改めようと議論し、邲は言った、「鈔法を行えば、漕臣が嘗て群商を欺き、その資財を没収したことがある。楮幣を二廣で行えば、民は必ず疑慮を抱き、後悔することもあろう」。刑部尚書に任ぜられた。

原文歲旱,詔求初政得失,邲應詔,大略謂:「虞允文制國用,南庫之積日以厚,戶部之入日以削,故近年以來,常有不足之憂。罷兵以來,諸將皆以賂得升,其勢必至於掊刻取償,益精其選。」遷給事中。張嶷以說之子除知閣,裴良琮以顯仁之侄女夫落階官,邲皆繳奏。廣西議更鹽法,邲言:「鈔法之行,漕臣嘗紿群商,沒入其貲。楮幣行之二廣,民必疑慮,且有後悔。」除刑部尚書。

邲は東宮の僚屬として八年にわたり仕え、孝宗は「安遇」の字を書いて賜り、また『梅花詩』を出して邲に属和を命じ、眷遇は甚だ厚かった。光宗が禪を受け、參知政事に任ぜられた。邲は上に孝宗に専ら法り、風俗を正し、財用を節し、士気を振るい、中道を執り、民力を恤れみ、將帥を選び、人才を収め、監司を択び、法令を明らかにするよう勧め、手疏を以て歴々とこれを述べ、上は嘉してこれを納れた。知樞密院事に任ぜられた。紹熙四年、左丞相に拝され、専ら祖宗の法度を守り、人物を薦進し、公論を博く採り、ただそれが聞こえないことを恐れた。一年に満たず、觀文殿大學士・知建康府に任ぜられた。隆興府に改められ、祠官を請うた。

原文邲為東宮僚屬八年,孝宗書「安遇」字以賜,又出《梅花詩》命邲屬和,眷遇甚渥。光宗受禪,除參知政事。邲勸上專法孝宗,正風俗,節財用,振士氣,執中道,恤民力,選將帥,收人才,擇監司,明法令,手疏歷言之,上嘉納。除知樞密院事。紹熙四年,拜左丞相,專守祖宗法度,薦進人物,博采公論,惟恐其不聞之。未期年,除觀文殿大學士、知建康府。改隆興,請祠。

寧宗が即位すると、邲は上疏して言った、「今日の事は、身を修め家を斉えること、人心を結ぶこと、規模を定めることより先なるはない」。紹興府の判官となり、文書の検閲と期日の定め、錢穀と刑獄には必ず自ら関わった。或る者が大臣は均しく佚楽するに体があると言うと、邲は言った、「大體を崇めて細務を簡略にするなど、私は為さない」。嘗て言った、「十二時中、自らを欺くな」。その実践はこのようであった。

原文寧宗即位,邲上疏言:「今日之事莫先于修身齊家,結人心,定規模。」判紹興府,簡稽期會,錢穀刑獄必親。或謂大臣均佚有體,邲曰:「崇大體而簡細務,吾不為也。」嘗曰:「十二時中,莫欺自己。」其實踐如此。

福州の判官に改められ、赴任途中で病に罹り、少保に任ぜられ、致仕した。薨去、六十六歳。少師を追贈され、諡は「文定」、光宗廟庭に配饗された。文集二百巻・『詞業』五十巻がある。

原文改判福州,道行感疾,除少保,致仕。薨,年六十六。贈少師,諡「文定」,配饗光宗廟庭。有文集二百卷、《詞業》五十卷。

錢端禮

原文錢端禮

錢端禮、字は處和、臨安府臨安の人。父は錢忱、瀘川軍節度使。端禮は恩蔭により官に補せられた。紹興年間、明州通判となり、直秘閣を加えられ、累遷して右文殿修撰となり、地方官として名声があった。高宗はその才能を認め、臨安府知府に任じた。

原文錢端禮,字處和,臨安府臨安人。父忱,瀘川軍節度使。端禮以恩補官。紹興間,通判明州,加直秘閣,累遷右文殿修撰,仕外服有聲。高宗材之,知臨安府。

御史中丞汪澈が版曹(戸部)の官闕を論じ、遴選すべきとし、權戸部侍郎兼樞密都承旨となった。端禮は嘗て楮を以て幣と為すことを建議し、ここに於いて専らその経畫を委ねられ、六つの務に分け、出納に皆法があり、数ヶ月で錢数百万を交換した。

原文御史中丞汪澈論版曹闕官,當遴選,權戶部侍郎兼樞密都承旨。端禮嘗建明用楮為幣,於是專委經畫,分為六務,出納皆有法,幾月易錢數百萬。

孝宗は恢復に鋭意し、詔して張浚に出師させた。折しも符離で少し失利し、湯思退が和議を唱えると、端禮は奏上した、「用兵の名有りて、用兵の実無く、怨みを買い事を生じ、國に益無し」。思退は大いに喜び、戸部侍郎に任ぜるよう奏上した。間もなく、吏部を兼ねた。端禮は戸部尚書韓仲通と共に対し、経費を論じ、奏上した、「収入は有限であるが、兵糧は日増し、更に調発があれば、支え難い」。上は言った、「中原を恢復すれば、財賦は自ずから足りる」。仲通は奏上した、「恢復は必ずしもならず、且つ目前の所用を経度すべきである」。端禮は奏上した、「仲通の言は是なり、採納を乞う」。

原文孝宗銳意恢復,詔張浚出師。會符離稍失利,湯思退遂倡和議,端禮奏:「有用兵之名,無用兵之實,賈怨生事,無益于國。」思退大喜,奏除戶部侍郎。未幾,兼吏部。端禮與戶部尚書韓仲通同對,論經費,奏:「所入有限,兵食日增,更有調發,不易支吾。」上云:「須恢復中原,財賦自足。」仲通奏:「恢復未可必,且經度目前所用。」端禮奏:「仲通言是,乞採納。」

湯思退と張浚が和戦を決せず、張浚は戦を主とし、上は甚だそれに傾いていた。思退は詭って去らんことを求め、端禮は対して留めるよう請い、また奏上した、「兵は兇器なり、願わくは符離の潰敗を戒めとし、早く國是を決し、社稷の至計と為されよ」。ここにおいて思退は再び留まり、張浚に行辺を命じ、戍兵を還し、招納を罷めた。端禮を以て淮東宣諭使に充て、王之望を淮西に使わし、端禮は入奏して言った、「両淮は名は備守と為すも、守は必ずしも備わらず、名は治兵と為すも、兵は必ずしも精ならず。用兵して勝たず、僥倖して険を行い、軽躁に出師し、大いに師徒を喪う者あり、必勝の説が果たしてこの如きならば、皆誤國すること甚だ明らかである」。端禮は既にこれをもって張浚を誹謗し、右正言尹穡もまた張浚を弾劾し、都督ととくを罷免し、ここより議論は帰一した。

原文思退與張浚議和戰不決,浚方主戰,上意甚向之。思退詭求去,端禮請對乞留,又奏:「兵者兇器,願以符離之潰為戒,早決國是,為社稷至計。」於是思退復留,命浚行邊,還戍兵,罷招納。以端禮充淮東宣諭使,王之望使淮西,端禮入奏:「兩淮名曰備守,守未必備;名曰治兵,兵未必精。有用兵不勝,僥倖行險,輕躁出師,大喪師徒者,必勝之說果如此,皆誤國明甚。」端禮既以是詆浚,右正言尹穡亦劾浚,罷都督,自此議論歸一矣。

端禮は淮から帰還し、守備が粗略であることを極言し、金兵を招く恐れがあると述べ、早く和議を定めるべきだと主張した。そこで吏部侍郎に任じられ、再び淮上に赴き、駅伝による上疏で言うには、「使節派遣と出兵は並行すべきであり、使節は礼を尽くすため、兵は変事を防ぐためであり、必ずしも金の国書が届くのを待ってから使節を派遣する必要はない。国書の中に脅迫の言葉があるかもしれないので、疑念を解くために先に派遣する方が、計略として得策である」。上は言った、「端禮の上奏は正しくない」。思退は詔旨を伝えて海州・泗州の二州の守備兵を撤収させた。詳細は『思退傳』にある。

原文端禮至淮還,極言守備疏略,恐召金兵,宜早定和議。遂除吏部侍郎,再往淮上,驛疏言:「遣使、發兵當並行,使以盡其禮,兵以防其變,不必待金書至而後遣使。書中或有見脅之語,不若先遣以釋其疑,于計為得。」上云:「端禮所奏未是。」思退傳旨撤海、泗二州戍兵,語在《思退傳》。

金の将帥僕散忠義が兵を分けて侵入した。上は内心で後悔し、思退に江・淮の軍馬を都督させ、端禮を兵部尚書に試任し、軍事に参画補佐させた。思退は畏怯して行かず、端禮は宮闕に赴いた。上は言った、「前後の廷臣の議論の中で、卿だけが変わらなかった」。戸部尚書を兼ね、まもなく端明殿学士・簽書枢密院事に任じられ、参知政事を権知した。上はかつて問うた、「楊由義に金の将帥への書簡を持たせて遣わそうとしたが、辞退が非常に強い。誰を遣わすべきか」。端禮は王抃を行かせるよう請い、金の将帥と議させ、商州・秦州の地を割譲し、捕虜を帰還させることを許し、ただ叛亡者だけは与えず、その他の誓約項目はほぼ紹興のものと同様とし、世々叔姪の国とし、銀絹五万を減額し、歳貢を歳幣に改めることとした。王抃が帰還すると、上は書簡を見て、金がすべて聞き入れたことを知った。端禮は上を補佐し、その様式に従って返答するよう進言した、「国を謀るには遠大な計画を考えるべきであり、もし彼らと和すれば、我々は休息を得て内治を修めることができる。もし憤りの兵を起こせば、それが適切であるとは見えない」。王抃は遂に出発した。間諜の報告で北軍がすでに引き揚げたと知ると、端禮は和議がすでに定まったとして、詔を下すよう請うた。参知政事に任じられ、枢密院事を権知した。

原文金帥僕散忠義分兵入,上意中悔,令思退都督江、淮軍馬,端禮試兵部尚書,參贊軍事。思退畏怯不行,端禮赴闕,上曰:「前後廷臣議論,獨卿不變。」兼戶部尚書,俄拜端明殿學士、簽書樞密院事兼權參知政事。上嘗問:「欲遣楊由義持金帥書,而辭行甚力,誰可遣?」端禮請以王抃行,俾與金帥議,許割商、秦地,歸被俘人,惟叛亡者不與,餘誓目略同紹興,世為叔侄之國,減銀絹五萬,易歲貢為歲幣。及抃還,上見書,金皆聽許。端禮贊上如其式報之:「謀國當思遠圖,如與之和,則我得休息以修內治,若為忿兵,未見其可。」抃遂行。諜報北軍已回,端禮以和議既定,乞降詔。除參知政事兼權知樞密院事。

当時、長く宰相を置かず、端禮は首席参知政事として相位を窺うことが非常に切迫していた。皇長子鄧王の夫人は端禮の娘であった。殿中侍御史唐堯封が、端禮は帝の姻族であるから執政に任ずるべきではないと論じたが、回答がなかった。太常少卿に遷った。館閣の士人たちが相次いで上疏して端禮を排斥したが、皆左遷された。刑部侍郎王茀はひそかに端禮に附き、「国是」の説を立ててその勢いを助けた。吏部侍郎陳俊卿が抗疏し、その罪を力強く誹謗し、かつ本朝では戚属を宰相としたことはなく、これは子孫の法とすべきではないと述べた。やがて『宝訓』の進講に及んだ時、ちょうど外戚の条に当たり、俊卿は言った、「祖宗の家法では、外戚が政事に関与しないことが最も深い意味を持つ。陛下が守るべきである」。上はその言葉を容れた。端禮はこれを恨み、俊卿を建寧府知事として出させた。

原文時久不置相,端禮以首參窺相位甚急。皇長子鄧王夫人,端禮女也,殿中侍御史唐堯封論端禮帝姻,不可任執政,不報,遷太常少卿。館閣士相與上疏排端禮,皆坐絀。刑部侍郎王茀陰附端禮,建為「國是」之說以助其勢。吏部侍郎陳俊卿抗疏,力詆其罪,且謂本朝無以戚屬為相,此懼不可為子孫法。逮進讀《寶訓》,適及外戚,因言:「祖宗家法,外戚不與政,最有深意,陛下所宜守。」上納其言。端禮憾之,出俊卿知建寧府。

鄧王夫人が子を生んだ。太上(高宗)は大いに喜んだ。その二ヶ月前に、恭王夫人李氏も子を生んでいた。そこで恭王府直講王淮が端禮に言った、「恭王夫人の子こそが皇長嫡孫である」。端禮は快く思わず、翌日上奏して言った、「嫡庶は『礼経』に詳しく載っている。講官は正論をもって輔導すべきであり、このような邪説を唱えるべきではない」。遂に王淮を傾邪不正として弾劾し、外任させた。鄧王が太子に立てられると、端禮は嫌疑を避け、資政殿大学士・提挙徳寿宮兼侍読に任じられ、後に提挙洞霄宮に改められた。寧国府知事として起用され、紹興府に移り、観文殿学士に進んだ。

原文鄧王夫人生子,太上甚喜。先兩月,恭王夫人李氏亦生子,於是恭王府直講王淮白端禮云:「恭王夫人子是為皇長嫡孫。」端禮不懌,翌日奏:「嫡庶具載《禮經》,講官當以正論輔導,不應為此邪說。」 遂指淮傾邪不正,與外任。鄧王立為太子,端禮引嫌,除資政殿大學士、提舉德壽宮兼侍讀,改提舉洞霄宮。起知寧國府,移紹興,進觀文殿學士。

端禮は人の財産を没収して六十万緡に至り、宮闕に訴え出る者がいた。上はこれを聞き、旧来の祠禄官を与えた。侍御史范仲芑が端禮の貪暴で悔い改めないことを弾劾し、職を一等降格させた。淳熙四年八月、元の職に復した。薨去し、銀青光禄大夫を追贈され、後に「忠肅」と諡された。孫の象祖は、嘉定元年に左丞相となり、独自の傳がある。

原文端禮籍人財產至六十萬緡,有詣闕陳訴者,上聞之,與舊祠。侍御史范仲芑劾端禮貪暴不悛,降職一等。淳熙四年八月,復元職。薨,贈銀青光祿大夫,後諡「忠肅」。孫象祖,嘉定元年為左丞相,自有傳。

魏杞

原文魏杞

魏杞、字は南夫、寿春の人。祖父の蔭で官に入る。紹興十二年、進士に及第。宣州涇県知事となる。従臣錢端禮がその才能を推薦し、召されて対問し、太府寺主簿に抜擢され、丞に進む。端禮が淮東を宣諭する時、杞は考功員外郎として参議官となり、宗正少卿に遷る。

原文魏杞,字南夫,壽春人。祖蔭入官。紹興十二年,登進士第。知宣州涇縣。從臣錢端禮薦其才,召對,擢太府寺主簿,進丞。端禮宣諭淮東,杞以考功員外郎為參議官,遷宗正少卿。

湯思退が和議を提唱し、杞を金への通問使に命じた。孝宗は面諭して言った、「今、使節を遣わす目的は、第一に名分を正すこと、第二に軍を退かせること、第三に歳幣を減らすこと、第四に帰附人を引き渡さないことである」。杞は十七箇条の問答案を条上し、上は事に応じて許可した。陛辞の際、上奏して言った、「臣がもし指命を奉じて国境を出るならば、敢えて努めないわけにはいきません。万一、彼らが飽くことを知らなければ、速やかに兵を加えられるよう願います」。上はこれを良しとした。

原文湯思退建和議,命杞為金通問使,孝宗面諭:「今遣使,一正名,二退師,三減歲幣,四不發歸附人。」杞條上十七事擬問對,上隨事畫可。陛辭,奏曰:「臣若將指出疆,其敢不勉。萬一無厭,願速加兵。」上善之。

盱眙に至った時、金が派遣した大将僕散忠義・紇石烈志寧らがちょうど兵を擁して淮に迫り、権泗州趙房長を遣わして来意を問わせ、国書を見せよと求めた。杞は言った、「書状は御封である。君主に謁見して廷上で授けるべきである」。房長は馳せて僕散忠義に報告した。忠義は国書が様式通りでないと疑い、さらに商・秦の地の割譲と帰正人の引き渡しを求め、かつ歳幣二十万を要求した。杞はこれを上聞し、上は初めの様式にすべて従うよう命じ、国書を再び改めさせ、歳幣もその数とさせた。忠義は望み通りにならなかったため、遂に志寧と兵を分けて山陽を侵犯した。戦いは不利で、驍ぎょう将魏勝が戦死した。

原文行次盱眙,金所遣大將僕散忠義、紇石烈志寧等方擁兵闖淮,遣權泗州趙房長問所以來意,求觀國書,杞曰:「書御封也,見主當廷授。」房長馳白僕散忠義,疑國書不如式,又求割商、秦地及歸正人,且欲歲幣二十萬。杞以聞,上命盡依初式,再易國書,歲幣亦如其數。忠義以未如所欲,遂與志寧分兵犯山陽。戰不利,驍將魏勝死之。

上は金の反覆を怒り、礼物をもって督府の軍を犒労するよう詔した。杞は上奏して言った、「金がもし約束に従うのに、金銀絹帛が備わっていなければ、国体を損ない、事機を阻害することになりはしないでしょうか」。そこで礼物を持って出発した。燕に至り、金主褒に謁見し、詳しく述べた、「天子は神聖で、才傑が奮起し、人々皆敵愾心を持っている。北朝が兵を用いて必勝を保証できるでしょうか。和すれば両国がその福を享け、戦えば将兵がその利を受ける。昔の人がこれを論じたことは甚だ詳しい」。金の君臣は周りを取り囲んで聴き、拱手して竦然とした。館伴の張恭愈が国書に「大宋」と称しているのを問題とし、「大」の字を削るよう脅したが、杞は拒絶し、遂に敵国としての対等な体裁を正し、歳幣を五万減らし、帰正人を北還させないことを取り決めた。上は甚だ厚く慰労した。

原文上怒金反覆,詔以禮物犒督府師,杞奏:「金若從約,而金繒不具,豈不瘠國體、格事機乎?」乃以禮物行。至燕,見金主褒,具言:「 天子神聖,才傑奮起,人人有敵愾意,北朝用兵能保必勝乎?和則兩國享其福,戰則將士蒙其利,昔人論之甚悉。」金君臣環聽拱竦。館伴張恭愈以國書稱「大宋」,脅去「大」字,杞拒之,卒正敵國體,損歲幣五萬,不發歸正人北還。上慰藉甚渥。

起居舎人を守り、給事中・同知枢密院事に遷り、参知政事・右僕射兼枢密使に進んだ。当時、職田を借りて辺境防備を助けようとしていた。降人蕭鷓巴に淮南の田を与えたが、彼は満足せず、職田を請うた。杞は言った、「圭租は功績に報い廉潔を養うものであり、借りるのはまだしも、奪うことはできない」。上はその言葉を是とした。杞は金への使者として使命を辱めなかったため、庶官から一年で宰相の位に至った。上は恢復に意気込み、杞はその議論を左右した。ちょうど郊祀の時に冬雷があり、漢代の制度に倣い災異による策免が行われ、左諫議大夫を守り、江州太平興国宮を提挙した。

原文守起居舍人,遷給事中、同知樞密院事,進參知政事、右僕射兼樞密使。時方借職田助邊,降人蕭鷓巴賜淮南田,意不愜,以職田請,杞言:「圭租食功養廉,借之尚可,奪之不可。」上是其言。杞以使金不辱命,繇庶官一歲至相位。上銳意恢復,杞左右其論。會郊祀冬雷,用漢制災異策免,守左諫議大夫、提舉江州太平興國宮。

六年、観文殿学士・平江府知事に任じられた。諫官王希呂が杞の貪墨を論じ、職を奪われた。後に端明殿学士として祠禄官となり、老齢を理由に致仕し、再び資政殿大学士に復した。淳熙十一年十一月に薨去し、特進を追贈された。嘉泰年間に「文節」と諡された。

原文六年,授觀文殿學士、知平江府。諫官王希呂論杞貪墨,奪職。後以端明殿學士奉祠,告老,復資政殿大學士。淳熙十一年十一月薨,贈特進。嘉泰中,諡「文節」。

周葵

原文周葵

周葵、字は立義、常州宜興の人。幼少より学問に励み、郷校から籍を京師に移し、両学でその文章が伝誦された。宣和六年、進士甲科に擢第。徽州推官に調任。高宗が臨安に移った時、諸軍が境上を往来したが、葵は判官として郡事を摂行し、応変が敏速で、千里の地が平穏であった。臨安府教授に任じられたが、未だ着任せず、吏部侍郎陳与義が密かに推薦し、召されて館職の試験を受けた。試験前に再び引見され、高宗は言った、「従班の多くが卿が端正であると言っている」。

原文周葵,字立義,常州宜興人。少力學,自鄉校移籍京師,兩學傳誦其文。宣和六年,擢進士甲科。調徽州推官。高宗移蹕臨安,諸軍交馳境上,葵與判官攝郡事,應變敏速,千里帖然。教授臨安府,未上,吏部侍郎陳與義密薦之,召試館職。將試,復引對,高宗曰:「從班多說卿端正。」

監察御史に任じられ、殿中侍御史に転じた。在職わずか二ヶ月で、上奏した事柄は三十章に及び、かつ行っている不適切な事二十箇条を歴条し、宰相が責任を担わないことを指摘した。高宗は顔色を変えて言った、「趙鼎・張浚は任事を肯んじるが、権限を与える必要がある。どうして急に小事をもって形跡を求めるのか」。葵は言った、「陛下が即位されて以来、すでに十人ほどの宰相を任じられました。その初めは皆極めて意を委ねられましたが、結局は公議が容れられず去り、大臣も固い志を持ちません。仮に陛下に過失があっても、なお大臣の尽忠を望まれるのに、まして大臣に過失があって、言官が一指摘しただけで、すぐに形跡とされ、彼らが過ちを改めず、罪が日々深まるならば、彼らを保全する道ではありません」。高宗は表情を改めて言った、「この論は甚だ奇特である」。

原文除監察御史,徙殿中侍御史。在職僅兩月,言事至三十章,且歷條所行不當事凡二十條,指宰相不任責。高宗變色曰:「趙鼎、張浚肯任事,須假之權,奈何遽以小事形跡之?」葵曰:「陛下即位,已相十許人,其初皆極意委之,卒以公議不容而去,大臣亦無固志。假如陛下有過,尚望大臣盡忠,豈大臣有過,而言者一指,乃便為形跡,使彼過而不改,罪戾日深,非所以保全之也。」高宗改容曰:「此論甚奇。」

張浚が北伐を議すると、周葵は三度上疏して力説し、これは存亡の機であり、単なる安危の問題ではないと述べた。或る者が周葵が大計を沮むと讒言したため、司農少卿に左遷され、直秘閣を帯びて信州知州に任ぜられた。未だ着任せず、趙鼎が罷免され、陳與義が執政となると、湖南提点刑獄公事に改められ、親老を理由に江東への異動を願い出たが、いずれも就任しなかった。

原文張浚議北伐,葵三章力言此存亡之機,非獨安危所係。或言葵沮大計,罷為司農少卿,以直秘閣知信州。未上,鼎罷,陳與義執政,改湖南提刑,以親老易江東,皆不就。

和議が既に定まると、召還され、論じて曰く、「国を治めるには道があり、戦えば勝ち、守れば固く、和すれば久しくなる。然らずんば、この三つは人に在りて我に在らず」。太常少卿に任ぜられた。時に秦檜が独り宰相となり、周葵が以前の論事で去ったことを思い、必ずや趙鼎を恨んでいるだろうと考え、再び殿中侍御史に任じた。周葵は人に語って曰く、「元鎮(趙鼎)は既に貶せられた。葵は敢えて言わない。門下の客にすら及ばない」。内降(内旨)で四人の官職差除があったので、上奏して言うには、「願わくは陛下は仁祖(仁宗)を法とされ、大臣は杜衍を法とされたし」。秦檜はここに至って快く思わなくなった。また国用・軍政・士民の三弊を論じると、高宗は曰く、「国用は民に蔵すべきものであり、百姓が足れば国用は患いではない」。また薦挙による改官の弊を論じ、挙員を減ずることを聴くべきであると述べ、詔して吏部に措置させた。

原文和議已定,被召,論:「為國有道,戰則勝,守則固,和則久。不然,三者在人不在我矣。」除太常少卿。時秦檜獨相,意葵前論事去,必憾趙鼎,再除殿中侍御史。葵語人曰:「元鎮已貶,葵固不言,雖門下客亦不及之也。」內降差除四人,奏言:「願陛下以仁祖為法,大臣以杜衍為法。」檜始不樂。又論國用、軍政、士民三弊,高宗曰:「國用當藏之民,百姓足則國用非所患。」又言薦舉改官之弊,宜聽減舉員,詔吏部措置。

秦檜が厚遇する権戸部尚書梁汝嘉が特旨で進士出身を与えられ、両府(中書・枢密院)に任ぜられようとした。汝嘉は周葵が自分を弾劾しようとしていると聞き、中書舎人林待聘に言った、「副端(殿中侍御史)が君を論じようとしている」。待聘は秦檜が未だ朝に出仕していない隙に、急いでこれを告げた。秦檜は即座に周葵を起居郎に任命するよう奏上した。周葵がまさに引見を待っていた時、秦檜が殿を下りて閣門に諭して曰く、「周葵は既に旨を得て起居郎に任ぜられた」。任命を隔てて下した。八月庚辰のことであった。

原文檜所厚權戶部尚書梁汝嘉將特賜出身,除兩府,汝嘉聞葵欲劾之,謂中書舍人林待聘曰:「副端將論君矣。」待聘乘檜未趨朝,亟告之,檜即奏為起居郎。葵方待引,檜下殿諭閣門曰:「周葵已得旨除起居郎。」隔下。八月庚辰也。

参知政事李光が呂廣問を館職に任じようとしたが、秦檜が許さなかった。時に従官に士を推薦する詔があり、周葵は廣問を推薦したが、初めは互いに知らなかった。李光が既に退けられると、周葵はこれに附会したとして落職し、玉隆観主管となった。後に直秘閣に復し、起用されて湖州知州となり、平江府に移った。時に金の使者が道に絡繹としていたが、周葵は礼を尽くさず、転運使李椿年が秦檜の意を迎えてこれを弾劾したため、落職して崇道観主管となった。郷里に隠居し、憂患が頻繁にあったが、人は耐えられないのに、周葵は独り安んじていた。

原文參政李光擬除呂廣問館職,檜不許。時有詔從官薦士,葵以廣問應,初不相知也。光既絀,葵以附會落職,主管玉隆觀。復直秘閣,起知湖州,移平江府。時金使絡繹於道,葵不為禮,轉運李椿年希檜旨劾之,落職,主管崇道觀。屏居鄉閭,憂患頻仍,人不能堪,葵獨安之。

秦檜が死ぬと、直秘閣に復し、紹興府知府となった。都を過ぎる時、権礼部侍郎となり、まもなく国子祭酒を兼ねた。上奏して曰く、「科挙は士を取るためのものである。近年、主司が大臣の意に迎合し、経伝の言葉で諂うことができるものを問目とし、学者は競って時の好みを追う。願わくは詔を下し、国子監で秋試の考官を選び、経に通じ古に博い士を精選して前列に置き、穿鑿して乖謬な者を退けられたし」。

原文檜死,復直秘閣、知紹興府。過闕,權禮部侍郎,尋兼國子祭酒。奏:「科舉所以取士。比年主司迎合大臣意,取經傳語可諛者為問目,學者競逐時好。望詔國學並擇秋試考官,精選通經博古之士,置之前列,其穿鑿乖謬者黜之。」

権給事中を兼ねた。侍御史湯鵬挙が言うには、「周葵は魏良臣の推薦により、侍従の位に躐等して就いた。呂廣問は周葵の死党である。乞う、併せて罷免せられん」。太学生の黄作・詹淵が諸生を率いて都堂に牒を投じて周葵の留任を請うた。翌日、博士何俌らが朝廷に言上し、懲戒を請うた。詔して黄作・詹淵を共に五百里外の州に送って編管させ、周葵は信州知州として出向し、まもなく罷免された。

原文兼權給事中。侍御史湯鵬舉言:「葵以魏良臣薦,躐處侍從;呂廣問,葵之死黨。乞並罷之。」太學生黃作、詹淵率諸生都堂投牒留葵。翌日,博士何俌等言於朝,乞懲戒,詔作、淵皆送五百里外州編管,葵出知信州,隨罷。

起用されて撫州知州となり、病気を理由に辞し、提挙興国宮に改められ、直龍図閣を加えられて太平州知州となった。水害で圩堤が壊れたので、全て修繕し、凡そ百二十里に及んだ。隣郡の圩は皆水没したが、当塗のみは毎年豊作であった。市河が長らく埋まっており、雨や日照りのたびに被害が出ていたので、周葵は城中に下令し、一家につき一夫を出させ、官が食糧を支給し、力を合わせて浚渫・疏導させたので、公私ともに便利となった。集英殿修撰・敷文閣待制に進み、婺州知州となった。

原文起知撫州,引疾,改提舉興國宮,加直龍圖閣、知太平州。水壞圩堤,悉繕完,凡百二十里。傍郡圩皆沒,惟當塗歲熟。市河久堙,雨暘交病,葵下令城中,家出一夫,官給之食,並力浚導,公私便之。進集英殿修撰、敷文閣待制、知婺州。

孝宗が即位すると、兵部侍郎兼侍講に任ぜられ、同知貢挙兼権戸部侍郎に改められた。孝宗はたびたび手詔で銭穀の出入を問うた。周葵は上奏して曰く、「陛下は万政に心を労し、日々諮詢されるが、それは人々の意表に出るものばかりである。今は皆些細な条文や事柄ばかりである。これは必ず小人が間隙に乗じて私利を売ろうとしているのであり、察せられざるべからず」。これは龍大淵・曾覿を指していた。孝宗の表情が動いた。

原文孝宗即位,除兵部侍郎兼侍講,改同知貢舉兼權戶部侍郎。孝宗數手詔問錢穀出入,葵奏:「陛下勞心庶政,日有諮詢,若出人意表。今皆微文細故,此必有小人乘間欲售其私,不可不察。」蓋指龍大淵、曾覿也。孝宗色為動。

金主亮がその部下に殺されると、張浚が督府から来朝し、密かに言うには、「敵は泗州を失い、罪を恐れる者は皆来帰しようとしている。願わくは軍を派遣して淮を渡り彼らに赴かせられん。これ恢復の機である」。周葵は対を請い、軽挙すべからずと述べ、数百言に及んだ。やがて李顯忠・邵宏淵を派遣して霊壁・虹の二県を取らせたが、敗北した。孝宗は彼の言葉を思い、参知政事に任じた。周葵は終始、自ら治めるという説を守った。

原文金主亮為其下所斃,張浚自督府來朝,密言:「敵失泗州,其懼罪者皆欲來歸,願遣軍渡淮赴之,此恢復之機也。」葵請對,謂不可輕舉,累數百言。及遣李顯忠、邵宏淵取靈壁、虹二縣,敗績。孝宗思其言,拜參知政事。葵始終守自治之說。

権知枢密院事を兼ねた。台諫が相次いで上章し、和議が速すぎると言った。周葵は陳康伯・湯思退と共に、侍従・台諫を集めて議させてくれるよう請うた。衆議はますます沸騰し、諸公は待罪して罷免を請うたが、許されなかった。周葵だけが独り留まって固く請うた。孝宗が曰く、「卿はどうしてこれほど強く請うのか」。答えて曰く、「政に預かって以来、毎度宰相と事を論ずるに、然りとして従うものあり、已むを得ず強いて従うものあり、絶対に肯んじず従わないものあり、十中四五に常になる。御前におよんでは、陛下また或いは然らずとされ、おおよそ十事のうち、従わないことが七八である。心に愧じないではいられない。これ臣の去らんと欲する所以である」。

原文兼權知樞密院事。臺諫交章言議和太速,葵與陳康伯、湯思退乞令侍從、臺諫集議,眾益洶洶,諸公待罪乞罷,不許。葵獨留身固請,孝宗曰:「卿何請之力也?」曰:「自預政以來,每與宰相論事,有以為然而從者;有不得以強從者;有絕不肯從者,十常四五。洎至榻前,陛下又或不然,大率十事之中,不從者七八,安得不愧於心,此臣所以欲去也。」

かつて侍従・台諫の召用を請うたことがあった。孝宗は曰く、「どうして卿の如き直諒の士を得られようか」。そこで李浩・龔茂良を推薦した。孝宗は二人を皆佳士と認め、順次任用した。太常が郊祀の牛が死んだと奏上すると、周葵は言う、「『春秋』に鼷鼠が牛の角を食えば郊祀を免ずとある。況んや辺境の憂い未だ靖まらず。請う、郊祀を延期して天意に符せられん」。詔してこれに従った。

原文嘗乞召用侍從、臺諫,孝宗曰:「安得如卿直諒者。」遂薦李浩、龔茂良,孝宗皆以為佳士,次第用之。太常奏郊牛斃,葵言:「《春秋》鼷鼠食牛角免郊,況邊虞未靖,請展郊以符天意。」詔從之。

虞允文・陳康伯が宰相となると、周葵は即座に退任を求め、資政殿学士・提挙洞霄宮に任ぜられた。起用されて泉州知州となり、老齢を理由に致仕し、大学士を加えられた。閑居すること数年、世の事柄を心に縈らせなかった。淳熙元年正月、薨去。享年七十七。上聞いて震悼し、正奉大夫を追贈した。後に子が朝官となったため、累贈して太傅となった。

原文虞允文、陳康伯相,葵即求退,除資政殿學士、提舉洞霄宮。起知泉州,告老,加大學士致仕。閒居累年,不以世故縈心。淳熙元年正月,薨,年七十有七。上聞震悼,贈正奉大夫。後以子升朝,累贈太傅。

周葵は親に仕えて孝行であり、任子の恩典がある時は、先ず孤児の甥を優先した。その薨去の時、幼い子と孫はまだ官命を受けていなかった。平生の学問は伝注に拘泥せず、『聖伝詩』二十篇・文集三十巻・奏議五巻を著した。晚年は惟心居士と号した。四年、有司が諡を請うたので、諡を賜って「恵簡」といった。

原文葵孝於事親,當任子,先孤侄。其薨也,幼子與孫尚未命。平生學問不泥傳注,作《聖傳詩》二十篇、文集三十卷、奏議五卷。晚號惟心居士。四年,有司請諡,賜諡曰「惠簡」。

施師點

原文施師點

施師點、字は聖與、上饒の人。十歳で『六経』に通じ、十二歳で文が書けた。弱冠にして太学に遊学し、試験は毎回前列にあり、司業の高宏はその文が深醇で古風があると称賛した。まもなく学職を授けられ、舎選によって廷対に奉じ、復州教授に任ぜられた。未だ着任せず、母の喪に服した。服喪が終わると、臨安府教授となった。

原文施師點,字聖與,上饒人。十歲通《六經》,十二能文。弱冠遊太學,試每在前列,司業高宏稱其文深醇有古風。尋授以學職,以舍選奉廷對,調復州教授。未上,丁內艱。服除,為臨安府教授。

乾道元年、陳康伯の推薦により、賜対し、言うには、「歴年しばしば詔を下して民を恤れども、恵み未だ加わって浸透せず。陛下軫念し、ただ一人の者も失所することを恐れ、郡邑は搜求し、ただ財賦が集まらぬことを恐る。日々に詔勅を降すも恩沢が覆わざるのも怪しむに足らず。細民は既に倍輸に困り、また非法に困り、重ねて凶年に遭い、家は且つ垂磬の状態にあり、租税は期に如かず、積もりて逋負多し。今明堂にて肆赦を行うに、戸は四等以下より、逋負は四年以前より、悉く除免せんことを願う」と。上曰く、「卿にあらざればこの言を聞かず」と。詔してこれに従う。

原文乾道元年,陳康伯薦,賜對,言:「歷年屢下詔恤民,而惠未加浹。陛下軫念,惟恐一夫失所;郡邑搜求,惟恐財賦不集。毋惑乎日降絲綸,恩不霑被。細民既困於倍輸,又困於非法,重以歲惡,室且垂磬,租不如期,積多逋負。今明堂肆赦,戶自四等以下,逋自四年以前,願悉除免。」上曰:「非卿不聞此言。」詔從之。

八年、兼権礼部侍郎、給事中を除す。時に太子詹事は既に除されており、上はまた特に員を増やして二員とし、兼ねてこれを命ず。賜対し、言うには、「比年人物萎靡し、士気耗苶す。広く人材を儲えて用に待つべし」と。上曰く、「卿の奏する所を観るに、公輔の器なり」と。

原文八年,兼權禮部侍郎,除給事中。時太子詹事已除,上又特令增員為二,命兼之。賜對,言:「比年人物骫骳,士氣耗苶,當廣儲人材以待用。」上曰:「觀卿所奏,公輔器也。」

仮に翰林学士・知制誥兼侍読として金に使す。金廷に致命するに、立班既に定まり、相儀の者、親王将に至らんとするを以て、師点に退位を命ず。師点は屹然として立つ。相儀の者四たび請うも、師点は正色して曰く、「班既に立ち定まれり、尚何をか為さんと欲する」と。少しも動かず。廷に在る者相顧みて駭愕し、その守り有るを知り、敢えて再び以て請うとせず。九年、使より還る。その事を上に言う者有り。上嘉歎して已まず。後に金使正旦を賀して闕に至り、館伴に問うて曰く、「師点今何の官に居るか」と。館伴の宇文価、班列の中に於いて師点を指し示す。金使恍然として曰く、「一たび正人を見れば、人の眼を明らかにせしむ」と。

原文假翰林學士、知制誥兼侍讀使金。致命金廷,立班既定,相儀者以親王將至,命師點退位,師點屹立。相儀者請數四,師點正色曰:「班立已定,尚欲何為。」不肯少動。在廷相顧駭愕,知其有守,不敢復以為請。九年,使還,有言其事於上者,上嘉歎不已。及後金使賀正旦至闕,問館伴:「師點今居何官?」館伴宇文價于班列中指師點以示之,金使恍然曰:「一見正人,令人眼明。」

十年、端明殿学士・簽書枢密院事を除す。入奏して控免す。上曰く、「卿は靖重にして守り有り、識慮深遠なり。朕卿を用いんと欲すること久し」と。復た詔して兼参知政事とし、参知政事兼同知枢密院事を除す。師点嘗て宰相と共に奏事して退き、復た枢密の周必大と共に進呈す。上曰く、「適や一二の事に卿等各々所見を陳ぶ、甚だ大體に関わる。此に先んずる宰相の奏事には、執政は措辞せず。今卿等かくの如し、深く望む所に副う」と。必大奏して曰く、「祖宗の時、宰執の奏事は自ら可否を相い、或いは面を相いて切責に至り、退いて相い銜まず。秦檜の事を用うるより、執政は畏避して敢えて言わず。今陛下虚心兼聴す。若し只だ宰相の奏事のみならば、何を以て執政を用いん」と。師点復た奏して曰く、「臣敢えて股肱の力を竭さざらんや」と。上因りて之に諭して曰く、「朕は天下の事を日に胸中に往来せしめ、未だ嘗て釋かず」と。

原文十年,除端明殿學士、簽書樞密院事。入奏,控免,上曰:「卿靖重有守,識慮深遠,朕欲用卿久矣。」復詔兼參知政事,除參知政事兼同知樞密院事。師點嘗同宰相奏事退,復同樞密周必大進呈,上曰:「適一二事卿等各陳所見,甚關大體。前此宰相奏事,執政不措辭,今卿等如此,深副所望。」必大奏:「祖宗時,宰執奏事自相可否,或至面相切責,退不相銜。自秦檜用事,執政畏避不敢言。今陛下虛心兼聽,若只宰相奏事,何用執政為?」師點復奏:「臣敢不竭股肱之力。」上因諭之曰:「朕欲天下事日往來胸中,未嘗釋也。」

是に先立ち、州郡の上供或いは時を以て進めず。歳終の稽考法を立て、是に及び、主計の臣に督促を喜ぶ者有り、歳終を待たず先期して之を行わんことを乞う。画命既に下る。師点矍然として曰く、「此の策若し行わば、上下逼迫し、民聊生すべからず」と。或いは謂う、「令既に出づ」と。師点曰く、「事天下に病有るものは、惟だ更むることの速からざるを恨む」と。即ち其の議を追って寢む。枢密の周必大、手を挙げて師点を賀して曰く、「天下の赤子をして其の毒を受けざらしむるは、公の賜なり」と。一日、後殿に入対す。上曰く、「朕前に冰水を飲むこと過多し、忽ち暴下す。幸いに即ち平復す」と。師点曰く、「古より人君、事無き時に当たり、快意の為す所、其の戒むべき所を忽せにすれば、其の後悔いざる者未だ有らざるなり」と。上深く之を然りとす。

原文先是,州郡上供或不以時進,立歲終稽考法,及是,主計臣有喜為督促者,乞不待歲終先期行之。畫命已下,師點矍然曰:「此策若行,上下逼迫,民不聊生。」或謂:「令已出矣。」師點曰:「事有為天下病,惟恨更之不速。」即追寢其議。樞密周必大舉手賀師點曰:「使天下赤子不被其毒者,公之賜也。」一日,入對後殿,上曰:「朕前飲冰水過多,忽暴下,幸即平復。」師點曰:「自古人君當無事時,快意所為,忽其所當戒,其後未有不悔者。」上深然之。

十三年、兼同知枢密院事を辞す。権提挙国史院、権提挙『国朝会要』。十四年、知枢密院事を除す。師点惓惓として人才を搜訪し、手書して夾袋の中に置く。蜀しょくは朝廷より遠く、人才自ら見え難しと謂い、蜀士の賢者に、各々其の知る所を疏せしめ、其の才行・文学を差次す。毎に除授有れば、必ず列陳す。十五年春、資政殿大学士を以て泉州を知り、提挙臨安府洞霄宮を除す。

原文十三年,辭兼同知樞密院事。權提舉國史院,權提舉《國朝會要》。十四年,除知樞密院事。師點惓惓搜訪人才,手書置夾袋中,謂蜀去朝廷遠,人才難以自見,蜀士之賢者,俾各疏其所知,差次其才行、文學,每有除授,必列陳之。十五年春,以資政殿大學士知泉州,除提舉臨安府洞霄宮。

紹熙二年、知隆興府・江西安撫使を除す。師点嘗て諸子に謂いて曰く、「吾が平生の仕宦は、皆其の升沉に任せ、初め未だ嘗て其の間に心を容れず、道を枉げて附麗せず。独り人主之を知り、遂に顕用に至る。夫れ人の窮達は命有り、巧図に在らず。惟だ忠孝乃ち吾が事なり」と。三年、疾を得て薨ず。年六十九。金紫光禄大夫を贈る。奏議七巻、制槁八巻、『東宮講議』五巻、『易説』四巻、『史識』五巻、文集八巻有り。

原文紹熙二年,除知隆興府、江西安撫使。師點嘗謂諸子曰:「吾平生仕宦,皆任其升沉,初未嘗容心其間,不枉道附麗,獨人主知之,遂至顯用。夫人窮達有命,不在巧圖,惟忠孝乃吾事也。」三年,得疾薨,年六十九。贈金紫光祿大夫。有奏議七卷、制槁八卷、《東宮講議》五卷、《易說》四卷、《史識》五卷、文集八卷。

蕭燧

原文蕭燧

蕭燧、字は照鄰、臨江軍の人。高祖の固は、皇祐初年に広西転運使と為り、儂智高の凶狡なるを知り、羈縻の策を条上して枢府にすれども、果たして用いられず。智高後果たして叛く。父の増は、紹興初年に嘗て制挙に応ず。

原文蕭燧,字照鄰,臨江軍人。高祖固,皇祐初為廣西轉運使,知儂智高凶狡,條上羈縻之策於樞府,不果用,智高後果叛。父增,紹興初嘗應制舉。

燧は生まれながら穎異にして、幼くして文を属す能う。紹興十八年、進士の高第に擢でられる。平江府観察推官を授かる。時に秦檜国に当たり、其の親党密かに燧に告げて曰く、「秋試必ず漕台に於いて文を主とすべし」と。燧其の故を詰む。曰く、「丞相に子就挙有り、公に属せんと欲す」と。燧怒って曰く、「初仕して敢えて心を欺かんや」と。檜之を懐く。既にして檄を被り秀州に至る。至れば員溢れ、院に就きて一員を易え漕闈に往く。秦熺果たして前列に中る。秩満し、学官と為るべかりしも、檜を避け、静江府察推に調して帰る。

原文燧生而穎異,幼能屬文。紹興十八年,擢進士高第。授平江府觀察推官。時秦檜當國,其親黨密告燧,秋試必主文漕臺,燧詰其故,曰:「丞相有子就舉,欲以屬公。」燧怒曰:「初仕敢欺心耶!」檜懷之,既而被檄秀州,至則員溢,就院易一員往漕闈,秦熺果中前列。秩滿,當為學官,避檜,調靜江府察推而歸。

燧未だ第せざりし時、神人の文書を示すを夢み、其の一聯を記すに云く、「火の如く烈烈たり、玉石俱に焚く。冬に在りて青青たり、松柏改めず」と。已にして果たして前事に符す。未だ幾ばくもせず、丁憂す。三十二年、靖州教授を授かる。孝宗初年、諸王宮大小学教授を除す。輪対し、官は人を択ぶべく、人の為に官を択ぶべからずと論ず。上喜び、『用人論』を制して大臣に賜う。淳熙二年、累遷して国子司業兼権起居舎人に至り、起居郎に進む。

原文燧未第時,夢神人示以文書,記其一聯云:「如火烈烈,玉石俱焚;在冬青青,松柏不改。」已而果符前事。未幾,丁憂。三十二年,授靖州教授。孝宗初,除諸王宮大小學教授。輪對,論官當擇人,不當為人擇官,上喜,制《用人論》賜大臣。淳熙二年,累遷至國子司業兼權起居舍人,進起居郎。

是に先立ち、察官闕く。朝論多く燧に属すも、未だ県を歴せざるを以て、遂に左司諫を除す。上執政に諭して曰く、「昨蕭燧を除くこと若何」と。龔茂良奏して曰く、「燧は純実にして華無く、正に言責に任ず可し。除目の下るを聞くに、外議甚だ允なり」と。燧首めて邪正を辨し然る後に以て治む可きを論ず。上は外台の耳目多く称職せざるを以てす。時に宦官甘昪の客胡与可、都承旨王抃の族叔の秬、皆節を持して外に在り、依憑する所有りて善状無し。燧皆奏して之を罷む。

原文先是,察官闕,朝論多屬燧,以未歷縣,遂除左司諫。上諭執政:「昨除蕭燧若何?」龔茂良奏:「燧純實無華,正可任言責,聞除目下,外議甚允。」燧首論辨邪正然後可以治,上以外臺耳目多不稱職,時宦官甘昪之客胡與可、都承旨王抃之族叔秬皆持節於外,有所依憑,無善狀,燧皆奏罷之。

時に進取を覆議す。上以て燧に問う。対えて曰く、「今賢否雑揉し、風俗澆浮す。兵未だ強からず、財未だ裕ならず。宜しく臥薪嘗胆して以て内治を図るべし。若し小康を恃みて驕心を萌さば、臣の知る所に非ず」と。上曰く、「忠言なり」と。因りて上に紀綱を正し、直言を容れ、君子に親しみ小人を遠ざけ、近習に労有れば禄を以て賞す可く、権を以て仮すべからざるを勧む。上皆嘉納す。右諫議大夫に擢でらる。入謝す。上曰く、「卿の議論鯁切にして、名誉を求めず、姦邪を糾正し、仇怨を恤れず」と。

原文時覆議進取,上以問燧,對曰:「今賢否雜揉,風俗澆浮,兵未強,財未裕,宜臥薪嚐膽以圖內治。若恃小康,萌驕心,非臣所知。」上曰:「忠言也。」因勸上正紀綱;容直言;親君子,遠小人;近習有勞可賞以祿,不可假以權。上皆嘉納。擢右諫議大夫,入謝,上曰:「卿議論鯁切,不求名譽,糾正姦邪,不恤仇怨。」

五年、同知貢挙と為る。旨有りて江東西・湖南北の帥司に下し軍を招く。燧言うには、「募る所多くは市井の年少、犒齎に利あり、往々農民を捕えて以て数に応じ、細民を取って以て軍に充つ。厳に諸郡に戒め、庶幾くは丁壮を得て以て用と為さんことを乞う」と。之に従う。

原文五年,同知貢舉。有旨下江東西、湖南北帥司招軍,燧言:「所募多市井年少,利犒齎,往往捕農民以應數,取細民以充軍。乞嚴戒諸郡,庶得丁壯以為用。」從之。

夔州の帥李景孠が貪婪で暴虐であったが、参知政事趙雄がこれを庇い、台臣の謝廓然は敢えて論劾せず、燧のみが上奏してこれを罷免させた。趙雄は果たして救援を図り、命を覆して還任させた。燧は再び論劾し、趙雄にも及んだ。趙雄は密かに上奏し、燧が誤って李景孠の仇敵の言葉を聞き入れたとし、遂に臨安府に命じて恭州の士人鐘京らを捕らえ獄に下し、罪に坐せ、李景孠は元の職に復した。燧は乃ち自らを劾し、詔して風聞に基づくことを許さず、竟に力を尽くして去らんことを求めた。刑部侍郎に移されたが拝命せず、固より外補を請うた。出て厳州の知州となり、吏部尚書鄭丙・侍郎李椿が上疏して留めんとしたが、上もまた間もなく後悔した。

原文夔帥李景孠貪虐,參政趙雄庇之,臺臣謝廓然不敢論,燧獨奏罷之。雄果營救,覆命還任。燧再論,並及雄。雄密奏燧誤聽景孠仇人之言,遂下臨安府捕恭州士人鐘京等置之獄,坐以罪,景孠復依舊職。燧乃自劾,詔以風聞不許,竟力求去。徙刑部侍郎,不拜,固請補外。出知嚴州,吏部尚書鄭丙、侍郎李椿上疏留之,上亦尋悔。

厳州は地狭く財乏しく、着任当初、官銭は三千に満たなかったが、燧は倹約して用を足した。二年の間に、蓄積は十五万に至り、その余剰をもって積年の未納を補い、諸邑は皆寛になった。先に、宣和庚子の年に方臘の賊が起こり、甲子が一巡し、人々は憂懼していたところ、遂安県令が土兵の俸給を削ったため、群議が騒然となった。燧は急ぎ県令を更え、且つ卒長を呼び告誡し、皆畏服した。城中の悪少年が群れをなして市を乱したので、燧は密かに姓名を登録し、墨で刺青して軍籍に補し、人々は安堵した。上は職名を惜しみ、功なくしては与えなかったが、詔して燧が郡を治めて功労あるを以て、敷文閣待制を除し、婺州知州に移した。父老が道を遮り、ほとんど行けず、境外まで送る者が数千に及んだ。

原文嚴地狹財匱,始至,官鏹不滿三千,燧儉以足用。二年之間,積至十五萬,以其羨補積逋,諸邑皆寬。先是,宣和庚子方臘盜起,甲子一周,人人憂懼,會遂安令朘土兵廩給,群言恟恟。燧急易令,且呼卒長告戒,悉畏服。城中惡少群擾市,燧密籍姓名,涅補軍額,人以按堵。上方靳職名,非功不予,詔燧治郡有勞,除敷文閣待制,移知婺州。父老遮道,幾不得行,送出境者以千數。

婺州は厳州と隣接し、人々はよく条教を知っていたので、労せずして治まった。旱魃の年、浙西常平司が厳州へ粟の移転を請うたが、燧は言う、「東西は路が異なり、与えるべきではないが、然しながら旧治を忍んで坐視できようか」と。朝に請うて、太倉の米を発してこれを賑済した。

原文婺與嚴鄰,人熟知條教,不勞而治。歲旱,浙西常平司請移粟于嚴,燧謂:「東西異路,不當與,然安忍於舊治坐視?」為請諸朝,發太倉米振之。

八年、召還され、言う、「江・浙は二年続き水害旱害あり、願わくは詔を下して言を求め、仍って諸司に郡県の財賦を通融せしめ、只だ督促逼迫するのみとすべからず」と。吏部右選侍郎を除し、間もなく国子祭酒を兼ねた。九年、枢密都承旨となった。近例として、承旨は知閤門官が兼ね、或いは寵を恃んで権を招くことがあった。上は儒臣を再び用いんと思い、故に燧を以て龍図閣待制としてこれに当たらせた。燧は言う、「債帥の風未だ絶えず、群臣多く迎合献諛し、強弁して誉を干す。宜しくその虚実を察すべし」と。上は善しと称した。権刑部尚書を除し、金使館伴を充てた。

原文八年,召還,言:「江、浙再歲水旱,願下詔求言,仍令諸司通融郡縣財賦,毋但督迫。」除吏部右選侍郎,旋兼國子祭酒。九年,為樞密都承旨。近例,承旨以知閤門官兼,或怙寵招權,上思復用儒臣,故命燧以龍圖閣待制為之。燧言:「債帥之風未殄,群臣多迎合獻諛,強辨干譽,宜察其虛實。」上稱善。除權刑部尚書,充金使館伴。

十年、権吏部尚書を兼ねた。広西諸郡の民の身丁銭の弊を上言した。侍講を兼ね、侍読に昇った。言う、「命令は数たび易うべからず、憲章は数たび改むべからず。初官は恩例をもって免試を許さず、今は或いは竟に注授を命ず。既に羨余の数を退けたのに、今は反って出剩を名とす。諸路は大辟を録するに、長吏は当に自ら詰問すべく、若し死囚の数多きは、宜しく漢制のごとく殿最を以て聞上すべし」と。事多く施行された。慶典の恩沢として、丁銭を半減したのも、燧より発したものである。

原文十年,兼權吏部尚書。上言廣西諸郡民身丁錢之弊。兼侍講,升侍讀。言:「命令不可數易,憲章不可數改。初官不許恩例免試,今或竟令注授。既卻羨餘之數,今反以出剩為名。諸路錄大辟,長吏當親詰,若死囚數多,宜如漢制殿最以聞。」事多施行。慶典霈澤,丁錢減半,亦自燧發之。

高宗の山陵に、按行使を充て、参知政事を除された。間もなく永思陵礼儀使を充て、権監修国史日曆となった。十六年、権知枢密院事となった。年齢に及んで自ら陳請し、上は留めんとしたが、許さず、資政殿学士を除し、郡を与えられた。再び閑職を請い、臨安府洞霄宮の提挙となった。紹熙四年に卒し、年七十七。諡して「正肅」といった。

原文高宗山陵,充按行使,除參知政事,尋充永思陵禮儀使,權監修國史日曆。十六年,權知樞密院。以年及自陳,上留之,不可,除資政殿學士,與郡。復請閑,提舉臨安府洞霄宮。紹熙四年卒,年七十七。諡「正肅」。

孝宗は常にその善類を全うし護ることを称し、誠実で欺かずとし、手ずから『二十八将伝』を書写して賜った。子の逵は、淳熙十四年の進士に及第し、唱名第四となった。孝宗は言う、「逵の才気は甚だ佳く、父子高科、殊に喜ばしい」と。逵は累官して太常に至った。

原文孝宗每稱其全護善類,誠實不欺,手書《二十八將傳》以賜。子逵,登淳熙十四年進士第,唱名第四,孝宗曰:「逵才氣甚佳,父子高科,殊可喜。」逵累官至太常。

龔茂良

原文龔茂良

龔茂良、字は実之、興化軍の人。紹興八年、進士及第。南安の主簿・邵武の司法となった。父母の喪に、哀号擗踊し、隣人は聞くに忍びなかった。泉州の察推に転じ、廉潔勤勉と称された。宣教郎に改め、同知枢密院事黄祖舜の推薦により、召されて館職を試みられ、秘書省正字を除された。累遷して吏部郎官となった。

原文龔茂良,字實之,興化軍人。紹興八年,進士第。為南安簿、邵武司法。父母喪,哀號擗踴,鄰不忍聞。調泉州察推,以廉勤稱。改宣教郎,以同知樞密院事黃祖舜薦,召試館職,除秘書省正字。累遷吏部郎官。

張浚が江・淮を視師した時、茂良は言う、「本朝の敵を禦ぐには、景德の勝は能く断ずるに本づき、靖康の禍は疑いを致すに在り。願わくは景德の断を仰ぎ法とし、靖康の疑いと為すことなかれ」と。監察御史を除された。

原文張浚視師江、淮,茂良言:「本朝禦敵,景德之勝本於能斷,靖康之禍在於致疑,願仰法景德之斷,勿為靖康之疑。」除監察御史。

江・浙に大水があり、詔して欠失を陳べさせた。茂良は疏を上して言う、「水は至陰なり、その占いは女寵・嬖佞・小人の専制にあり。崇寧・大観・政和の時、小人の道長じ、内には憸腐の輩が窃かに弄び、外には姦回の徒が充満し、ここに京城大水し、以て金人の闕を犯すに至る。今一人を進退し一事を行なうも、命は中より出で、人心嘩然として、これを此輩と指す。臣願わくは先ず腹心の疾を去り、然る後に政事の欠失を次第に言わん」と。内侍の梁珂・曾覿・龍大淵が皆権勢を用いていたので、茂良はこれに及んだのである。

原文江、浙大水,詔陳闕失,茂良疏曰:「水至陰也,其占為女寵,為嬖佞,為小人專制。崇、觀、政和,小人道長,內則憸腐竊弄,外則姦回充斥,於是京城大水,以至金人犯闕。今進退一人,施行一事,命由中出,人心譁然,指為此輩。臣願先去腹心之疾,然後政事闕失可次第言矣。」內侍梁珂、曾覿、龍大淵皆用事,故茂良及之。

右正言に遷った。時に内侍李珂が没し、節度使を贈られ、「靖恭」と諡されようとした。茂良は諫めて言う、「中興の名相たる趙鼎、勲臣たる韓世忠ですら、皆未だ諡なく、朝廷が行なうも、亦た忠義の心を少しく慰うるに足る。今これを珂に施すは惜しむべし」と。竟にその諡を止めた。嘗て大淵・覿の姦邪を論じたが、ここに至り又極めてこれを言い、曰く、「今積陰解けず、淫雨益々甚だしく、熒惑斗に入り、正に呉の分に当たる。天意若し怒る所有って未だ釈かざるが如し。二人の政を害すること、珂より百倍甚だし」と。上は皆潜邸の旧臣であり、他の近習と比ぶべからず、且つ俱に文学あり、敢えて諫争し、未だ外事に関与せずと諭した。翌日、再び疏を上して言う、「唐の徳宗が李泌に謂う、『人盧杞の姦邪を言うも、朕独り知らず、何ぞや』。泌曰く、『此れ其の姦邪たる所以なり』と。今大淵・覿の為す所、行道の人能く之を言う。而るに陛下更に其の賢を頌す。此れ臣の深く憂うる所以なり」と。疏が入っても返答なく、即ち家に居て罪を待った。章を再上し、太常少卿を除されたが、五度辞して拝せず、直秘閣・建寧府知府を除された。自ら群小に容れられざるを以て、祠官を請うたが、允されなかった。

原文遷右正言。會內侍李珂沒,贈節度,諡「靖恭」,茂良諫曰:「中興名相如趙鼎,勳臣如韓世忠,皆未有諡,如朝廷舉行,亦足少慰忠義之心。今施於珂為可惜。」竟寢其諡。嘗論大淵、覿奸姦,至是又極言之,曰:「今積陰弗解,淫雨益甚,熒惑入斗,正當吳分,天意若有所怒而未釋。二人害政,甚珂百倍。」上諭以皆潛邸舊,非他近習比,且俱有文學,敢諫爭,未嘗預外事。翌日,再疏言:「唐德宗謂李泌:『人言盧杞姦邪,朕獨不知,何耶?』泌曰:『此其所以為奸邪也。』今大淵、覿所為,行道之人能言之,而陛下更頌其賢,此臣所以深憂。」疏入,不報,即家居待罪。章再上,除太常少卿,五辭不拜,除直秘閣、知建寧府。自以不為群小所容,請祠,不允。

上は後に二人の姦邪を知り、既に外に逐った後、茂良を起用して広東提点刑獄とし、就いて信州知州とした。即ち番山の旧址に学を建て、又番禺・南海県学を置いた。完成後、釈奠を行い、郷飲酒礼を以て落成を祝った。城東に旧く広恵庵があり、中原の衣冠で南に没した者の葬地であったが、歳月を経て廃れていた。茂良は故地を訪れ、更に海会浮図を建て、仮葬や暴露していた者を皆掩蔵して遺漏無くした。崇政殿に召対され、左丞相陳俊卿は留めんとしたが、右相虞允文は喜ばなかった。時に陳俊卿もまた罷免され、直顕謨閣・江西運判兼隆興府知府を除された。

原文上後知二人之姦,既逐於外,起茂良廣東提刑,就知信州。即番山之址建學,又置番禺南海縣學,既成,釋奠,行鄉飲酒以落之。城東舊有廣惠庵,中原衣冠沒于南者葬之,歲久廢,茂良訪故地,更建海會浮圖,菆寄暴露者皆揜藏無遺。召對崇政殿,左丞相陳俊卿欲留之,右相虞允文不樂。會俊卿亦罷,除直顯謨閣、江西運判兼知隆興府。

上は江西が連年大旱したことを以て、茂良の精忠を知り、一路の荒政をこれに付した。茂良は郡県に戒めて積欠を免じ、上戸には只だ未納分を求め、倉を開いて賑恤した。右文殿修撰として再任され、疫癘が大いに起こった時、医者を命じて治療させ、数百万人を全活させた。待制敷文閣に進め、その救荒の功を賞した。召対され、奏上して言う、「潢池で兵を弄ぶ盗賊は、即ち南畝で耒を負う民なり。今諸郡に荒田極めて多し。願わくは監司守臣に詔して条陳せしめ、人を募り便に従い耕すを請わしめよ。民に余粟あらば、仮令之を駆りて寇と為すも、亦た従わざらん」と。礼部侍郎を除された。

原文上以江西連歲大旱,知茂良精忠,以一路荒政付之。茂良戒郡縣免積稅,上戶止索逋,發廩振贍。以右文殿修撰再任,疫癘大作,命醫治療,全活數百萬。進待制敷文閣,賞其救荒之功。召對,奏:「潢池弄兵之盜,即南畝負耒之民。今諸郡荒田極多,願詔監司守臣條陳,募人從便請耕,民有餘粟,雖驅之為寇,亦不從矣。」除禮部侍郎。

上は茂良を急ぎ用い、手詔を以て国朝の典故に従官より径に執政を除く例有りやと問うた。明日即ち参知政事に拝した。奏事の際、座を賜わり、上は葉衡及び茂良を顧みて言う、「両参政は皆公議の与うる所なり」と。葉衡らは起って謝し、上は従容として言う、「今より諸事私に循うことなかれ。若し郷曲の親戚は、且つ未だ須らく援引せず。朕は毎に公道を存す。設い誤り有らば、卿等宜しく力を争うべし。君臣の間は形跡を事とすべからず」と。茂良は言う、「大臣は道を以て君に事え、不可なるに遇えば、自ら啓沃すべく、豈に形跡を外に現わすを容れんや」と。有司に詔して七司法を刊定せしめることを請うた。

原文上亟用茂良,手詔問國朝典故有自從官徑除執政例,明日即拜參知政事。奏事,賜坐,上顧葉衡及茂良曰:「兩參政皆公議所與。」衡等起謝,上從容曰:「自今諸事毋循私,若鄉曲親戚,且未須援引。朕每存公道,設有誤,卿等宜力爭,君臣之間不可事形跡。」茂良曰:「大臣以道事君,遇有不可,自當啟沃,豈容跡見於外。」請詔有司刊定七司法。

淮南が旱魃に遭い、茂良は封樁米十四万石を取るよう奏上し、漕帥に委ねて救済させた。ある者が言うには、「救荒は常平の事である。今急に封樁米を取るのは、いかがなものか」。茂良は、「淮南は敵境に近く、民は久しく復業せず、飢寒に迫られて、万一徒党を組めば、禍害はたちまち現れる。どうしてこの米を計算できようか」と考えた。後日、上は褒めて諭して言った、「淮南が旱魃で凶作となっても、民に飢えた様子がないのは、卿の力である」。

原文淮南旱,茂良奏取封樁米十四萬,委漕帥振濟。或謂:「救荒常平事,今遽取封樁米,毋乃不可?」茂良以為:「淮南咫尺敵境,民久未復業,饑寒所逼,萬一嘯聚,患害立見,寧能計此米乎?」他日,上獎諭曰:「淮南旱荒,民無饑色,卿之力也。」

潮州の守が通判の不法を奏上し、旨を得て、帥臣に実情を訪ねさせた。通判は茂良の同郷人であった。同列が密かに省吏を棘寺に付して推問させ、茂良に及ぼそうとした。奏事を終えて退出する時、同列は留まって、獄案を出して上に進めたが、茂良は知らなかった。上は声を厳しくして言った、「参政に決してこのようなことはない」。茂良はへりくだって謝罪し、再び弁明しなかった。

原文潮州守奏通判不法,得旨,下帥臣體訪。通判,茂良鄉人也,同列密以省吏付棘寺推鞫,欲及茂良。奏事退,同列留身,出獄案進上,茂良不知也。上厲聲曰:「參政決無此!」茂良遜謝,不復辯。

葉衡が罷免され、上は茂良に首参として宰相の職務を行わせた。慶寿の礼が行われ、朝廷内外が恩恵を期待した。茂良は慨然として嘆いて言った、「これは身をもって怨みを引き受けるべきであり、身を惜しんで天下を弊させることはできない。もし一命以上の者すべてに恩転があれば、月々の給与の増加と来年の郊祀の恩典による奏補がどれほどになるか分からず、どうして給することができようか」。

原文葉衡罷,上命茂良以首參行相事。慶壽禮行,中外覬恩,茂良慨然歎曰:「此當以身任怨,不敢愛身以弊天下。若自一命以上覃轉,不知月添給奉與來歲郊恩奏補幾何,將何以給?」

廉潔で退く者を褒めて用いるよう宣諭され、茂良は奏上した、「朱熹は操行が耿介で、たびたび召しても起きず、録用されるべきである」。秘書郎に任じられた。群小が隙に乗じて讒言し、まもなく手詔が茂良に下り、「虚名の士は朝廷を害する恐れがある」と言い、朱熹は結局来なかった。錢良臣が大軍の錢糧を侵食し、累計数十万に及んだ。茂良がその事を奏上すると、手詔で詳しく分析するよう命じた。やがて良臣を朝廷に召し、次第に重用されるようになった。その後茂良が貶されたのは、良臣が力を与えたのである。

原文宣諭獎用廉退,茂良奏:「朱熹操行耿介,屢召不起,宜蒙錄用。」除秘書郎。群小乘間讒毀,未幾,手詔付茂良,謂「虛名之士,恐壞朝廷」,熹迄不至。錢良臣侵盜大軍錢糧,累數十萬,茂良奏其事,手詔令具析。俄召良臣赴闕,駸駸柄用,其後茂良之貶,良臣與有力焉。

茂良が首参として宰相の職務を行ってから、二年余りを過ぎても、上は相を置かなかった。そこで茂良に諭して言った、「史官が近ごろ三台星が明るくないと奏上したが、まさにその人選が難しいからである」。淳熙四年正月、史浩を四明から召した。茂良も寵愛が衰えたことを悟り、病気を理由に強く去職を求めた。上は言った、「朕は経筵のために史浩を召したのであって、卿は疑う必要はない」。

原文茂良之以首參行相事也,逾再歲,上亦不置相,因諭茂良:「史官近奏三台星不明,蓋實艱其選耳。」淳熙四年正月,召史浩於四明,茂良亦覺眷衰,因疾力求去。上曰:「朕以經筵召史浩,卿不須疑。」

時に曾覿が文官の資格でその孫に俸禄を与えようとした。茂良は文武の官はそれぞれの本官に従って蔭補する格法を進呈して差し出した。覿は茂良が政事堂へ行く途中、直省官の賈光祖らに道の真ん中で避けないようにさせた。街司が叱責すると、「参政もいつまで続くものか」と言った。茂良は奏上した、「臣はもとより言うに足りないが、惜しむべきは朝廷の大義である」。上は覿に謝罪に行かせようとした。茂良は厳しい顔色で言った、「参知政事とは、朝廷の参知政事である」。覿は恥じて退いた。上は茂良に先に人を覿のもとに遣わし、衝替してから施行するよう諭した。茂良は旨を批して、賈光祖らを臨安府に下して鞭打たせた。手詔で施行が急ぎすぎたと宣問され、茂良は待罪した。上は人を遣わして委曲を宣諭し、手詔を返上させ、かつ「卿が去れば美名を得るが、朕をどのような立場に置くのか」と言った。茂良はただちに詔に従った。

原文時曾覿欲以文資祿其孫,茂良以文武官各隨本色蔭補格法繳進。覿因茂良入堂道間,俾直省官賈光祖等當道不避。街司叱之,曰:「參政能幾時!」茂良奏:「臣固不足道,所惜者朝廷大體。」上諭覿往謝,茂良正色曰:「參知政事者,朝廷參知政事也。」覿慚退。上諭茂良先遣人於覿,衝替而後施行。茂良批旨,取賈光祖輩下臨安府撻之。手詔宣問施行太遽,茂良待罪。上使人宣諭委曲,令繳進手詔,且謂:「卿去雖得美名,置朕何地?」茂良即奉詔。

謝廓然が出身を賜り、殿中侍御史に任じられた。廓然は曾覿に附く者である。中書舎人林光輔が奏上を差し出し、黄を書かず、ついに外任に補された。茂良は強く去職を求めた。上は諭して言った、「朕は卿を極めて知っており、忘れず、卿を全うして去らせたい。恢復を議する時には、卿は再び来るべきである」。この日、職を与えて郡に任じ、内殿で奏事させた。そこで手疏で恢復に関する六事を上奏した。上は言った、「卿は五年間恢復を言わなかったのに、どうして今日これに及んだのか」。退朝して大いに怒り、「福建の者はこのように信用できない」と言った。謝廓然がこれに因んで弾劾し、ついに職を落として罷免させた。まもなくまた茂良が権力を擅にして公平でなく、上旨を偽って伝え、勝手に賈光祖らの罪を断じたと論じ、ついに責め降格され、英州に安置された。父子ともに貶所で没した。

原文謝廓然賜出身,除殿中侍御史,廓然附曾覿者也。中書舍人林光輔繳奏,不書黃,遂補外。茂良力求去,上諭曰:「朕極知卿,不敢忘,欲保全卿去,俟議恢復,卿當再來。」是日,除職與郡,令內殿奏事,乃手疏恢復六事,上曰:「卿五年不說恢復,何故今日及此?」退朝甚怒,曰:「福建子不可信如此!」謝廓然因劾之,乃落職放罷;尋又論茂良擅權不公,矯傳上旨,輒斷賈光祖等罪,遂責降,安置英州。父子卒于貶所。

覿と廓然が死んだ後、茂良の家が投匭して冤罪を訴え、ついに通奉大夫に復した。周必大が単独で宰相となり、復職を進呈した。上は言った、「茂良はもともと罪はない」。ついに資政殿学士に復し、諡を「莊敏」とした。

原文覿與廓然死後,茂良家投匭訟冤,遂復通奉大夫。周必大獨相,進呈復職,上曰:「茂良本無罪。」遂復資政殿學士,諡「莊敏」。

茂良は平生、兵を言うことを好まず、国を去る日に恢復の事を言った。ある者は覿が密かに人にそそのかして言わせたという、「もし恢復を論じれば、必ず再び留められる」。茂良はこれを信じた。廓然が茂良を論じたのも、これを罪とした。茂良が没して数年後、朱熹がその子から副本を得て読むと、事は恢復についてではあるが、その意は極論して軽挙すべきでないとし、依然として平生の持論であった。深くこれを嘆息したという。

原文茂良平生不喜言兵,去國之日乃言恢復事,或謂覿密令人訹之云:「若論恢復,必再留。」茂良信之。廓然論茂良,亦以此為罪。茂良沒數年,朱熹從其子得副本讀之,則事雖恢復,而其意乃極論不可輕舉,猶平生素論也,深為之歎息云。

論じて言う。葛邲は相位にあった期間は長くないが、法度を守り、人材を進めることができ、自らを処するには、不欺を本とした。錢端禮は戚属として宰相となり、周葵は晩年秦檜に附かず、龔茂良とともに和議を主張した。魏杞は使節として国体を尊ぶことを知り、施師點は静重で操守があり、蕭燧は忠実で敢えて言い、紹興の間に仕えたのは、不幸であったと言えよう。

原文論曰:葛邲在相位雖不久,而能守法度,進人才,其處己也,則以不欺為本。錢端禮以戚屬為相,周葵晚雖不附秦檜,而與龔茂良皆主和議。若乃魏杞奉使知尊國體,施師點之靖重有守,蕭燧忠實敢言,仕於紹興之間,可謂不幸矣。