宋史

列傳第一百四十三 陳康伯 梁克家 汪澈 葉義問 蔣芾 葉顒 葉衡

陳康伯

陳康伯、字は長卿、信州弋陽県の人である。父は亨仲、江東常平提挙を務めた。康伯は幼少より学問と行いがあった。宣和三年、上舎の丙科に及第した。累遷して太学正となった。母の喪に服した。貴渓の賊がその郷里に迫らんとしたとき、康伯は義勇兵を起こして迎撃し、その首魁を捕虜とし、邑は全きを得た。

建炎末、勅令刪定官となり、『紹興勅令』の編纂に参与した。まもなく衢州通判となり、郡の事務を代行した。白馬原に賊が起こると、康伯は州兵を督して官軍の進討を助け、これを平定した。太常博士に任じられ、改めて江東常平茶塩提挙となった。高宗が建康に行幸されたとき、康伯は職務のため宮門を過ぎ、対面を得、将帥を選ぶことを請うたところ、上はこれを聞き入れた。

紹興八年、枢密院大計議官に任じられた。累遷して戸部司勳郎中となった。康伯は秦檜と太学で旧知であったが、檜が国政を執るとき、康伯は郎省に五年在職し、淡泊として求めるところなく、迎合しなかった。十三年、ようやく軍器監に遷った。吏部尚書を借りて金に使し、汴に至って日も暮れんとしたが、食事の供給がなく、戸を閉じて臥し、問わなかった。夜に入り、館の者が戸を叩いて不手際を謝したが、これにも答えなかった。後に金使が来たとき、詔により康伯が館伴を務め、端午に扇と帕を賜り、拝受の礼について論じたところ、言事官が事を生ずると論じ、罷免されて泉州知州となった。

海賊が間断なく起こり、朝廷は劉宝・成閔を遣わして追捕させたが、康伯は上の意を以て懐柔し、賊の多くは出て降り、兵籍に編入された。久しくして、不逞の輩がひそかに乱を煽ったが、康伯は訊問して実情を得、これを誅殺すべしと論じ、州は事なきを得た。任期が満ち、三度祠官を奉じ、ほぼ十年に及んだ。

檜が死ぬと、漢州知州として起用され、峡を出んとしたとき、召されて対面し、吏部侍郎に任じられた。康伯はまず用度を節し民を寛めることを請い、凡そ州県が民から法外な取り立てをすることを、監司に相互監察を許し、台諫に弾劾させた。まもなく礼部・戸部を兼ねた。歳用を節約し、収入を合わせ、その一二を蓄えて水旱に備えることを請うた。奏上したが、議論はついに決しなかった。刑部を兼ねた。これ以前、役人が檜の意を迎えて大獄を起こしていたが、康伯は審理して冤罪を正し、士大夫の生死多くこれを頼った。吏部尚書に任じられた。宰臣が「権尚書」を用いて任命文書を作ろうとしたが、高宗は顧みて言われた、「朕はまさに大用せんとす、何ぞ権となさんや」。まもなく参知政事に任じられた。

孫道夫が北より使いから還り、すでに金が買馬を条約違反として言いがかりをつけると聞いていたが、朝廷は和議を恃みにしていた。康伯は同知枢密院事王倫と共にその端緒を明らかにしたが、王倫が使いから還ると、和好に他意なしと述べた。康伯は当初の論を堅持して変えなかった。九月、通奉大夫・守尚書右僕射・同中書門下平章事となり、例により銀絹を賜うたが、康伯は固辞し、半減され、また辞した。史院を兼ねた。上はかつて彼を「静重にして明敏、一言も妄りに発せず、真の宰相なり」と評された。また湯思退と共に政を輔けることを命じ、事は憚らず議論し、ただその当を得るべきであるとした。康伯は言った、「大臣の事は公を尽くすべきであり、もし迎合して徒党を結ぶは、これは鄙夫の失わんことを患うる者であります。臣は敢えないのみならず、もとよりできません」。高宗は彼を長者と歎じられた。普安郡王が潜藩に居られたとき、高宗がある日康伯に、使相として真王に封ずべきであり、今は属籍に冠すべきであると述べ、ここに詔して皇子と為し、建王に封じた。実に三十年二月のことである。

明年三月、光禄大夫・尚書左僕射に任じられた。五月、金が使を遣わして天申節を賀し、侮慢な言葉を発し、淮・漢の地を求め、将相大臣を指名して要求し、かつ淵聖(欽宗)の凶報が届いた。康伯は礼部侍郎黄中の論を主とし、斬衰の喪を三年持つことを主張した。先に、葉義問・賀允中が使いから還り、金は必ず盟約を破ると言ったので、康伯は早く備えを為すことを請い、四つの策を建てた。一、劉錡の荊南軍を増強し、上流を重くすること。二、両淮の地を分画し、諸将に命じて民社を結び、各々その境を保たせること。三、劉宝は独り淮東を担当するが、将驕り卒少なく、倚るべからざること。四、沿江の諸郡に城を修め糧を積み、内国を固めること。ここに至り、三衙の帥及び楊存中を都堂に召して挙兵を議し、また侍従・台諫を集めて議することを請うた。康伯は上の旨を伝えて言った、「今日はもはや和と守とを問わず、ただ戦いを如何にすべきかを問う」。時に上は親征を望んでおられたが、内侍省都知張去為がひそかに用兵を沮み、かつ退避の策を陳べ、内外に妄りに閩・しょくに幸せんと伝え、人情洶洶たるものがあった。右相朱倬は一言もなく、同知枢密院事周麟之は金に聘することを命じられたが、畏れて行きたがらなかった。康伯のみがこれを己が任と為し、奏して言った、「金敵盟を敗り、天人共に憤る。今日の事は進むありて退くなし。聖意堅決なれば、則ち将士の意自ずから倍す。願わくは三衙の禁旅を分かち襄・漢を助け、その先発を待ってこれに応ぜん」。康伯は国事を以て周麟之を励ましたが、麟之の言葉は康伯を侵した。康伯は言った、「もし某が宰相ならざれば、自ら行くべきところ、大臣は国と存亡を共にす、死すとも何ぞ避けん」。麟之はついに辞行を理由に罷免され、まもなく貶責された。殿中侍御史陳俊卿は張浚を用いるべきと言い、かつ張去為を斬って士気を振るわすことを請うた。康伯は俊卿が職務を振るったとして、権兵部侍郎に奏した。

九月、金が廬州を犯し、王権敗れて帰り、内外震駭し、朝臣には家族を予め避難させる者もあった。康伯のみは舟を具えて家族を浙に迎え入れ、かつ臨安の諸城門の閉鎖を常時より遅らせるよう命じ、人はこれによって安んじた。敵が江上に迫り、楊存中を内殿に召してこれを議し、よって康伯のもとに就いて議することを命じた。康伯は彼を招き入れ、衣を解き酒を置き、上はこれを聞いてすでに自ら寛がれた。翌日、入奏して言った、「陛下が越を幸い閩に趨かんと勧める者あると聞く。もし然らば、大事去らん。何ぞ静かにしてこれを待たざる」。

ある日、突然親書の詔が下った、「もし敵退かざれば、百官を散ぜん」。康伯はこれを焼き、後に奏して言った、「百官散ぜば、主の勢い孤しくなります」。上の意志が既に堅かったので、親征の詔を下すことを請い、葉義問に江・淮の軍を督させ、虞允文を参謀軍事とした。上は初め朱倬を都督ととくと命じたが、倬が辞したので、義問を命じた。允文はまもなく采石で敵を破り、金主亮はその臣下に殺されて還った。

亮が江を犯したとき、金国ではすでに葛王褒を立てていた。三十二年、初めて高忠建を遣わして即位を告げさせた。国書授受の礼儀について議し、康伯は大義を以てこれを折した。ここにおいて返書に初めて敵国の礼を用いた。

高宗が政務に倦まれ、子に譲る意向があった。康伯は密かに大議を賛し、まず名を正し、天下に聖意を知らしめることを請うた。ここに太子を立てる詔を草して進めた。内禅の礼を行うに当たり、康伯に冊を奉じさせた。孝宗即位すると、枢密使を兼ねることを命じ、信国公に進封され、礼遇は殊に厚く、ただ丞相と呼び名を呼ばなかった。

康伯は建康より扈従して戻ると、すぐに病を理由に去位を請うたが、許されなかった。明年、元号を隆興と改め、請い益々堅く、遂に太保・観文殿大学士・福国公として信州を判することとなった。上は甚だ懇ろに慰労され、かつ言われた、「宣召あらば、慎んで辞するなかれ」。宰執は即座に府で餞別し、百官は都門外に列をなして送った。後にまた郡を辞し、外祠を乞い、醴泉観使に任じられた。

二年八月、判紹興府を起用し、且つ闕に赴き奏事することを命じられたが、再び辞退した。未だ幾ばくもせず、郊祀に陪することを召された。時に北兵が再び淮甸を侵犯し、人情驚駭し、皆康伯の復相を望んだ。上は手劄を出し、使者を遣わして即ち家に居る所に召し出した。里門を未だ出でざるに、尚書左僕射・同中書平章事兼樞密使を拝し、魯國公に進封された。親故は康伯が実に病んでいるので、辞すべきであると言ったが、康伯は曰く、「然らず。吾は大臣なり。今國家危うし、当に輿疾して道に就くべし、幸いに上哀しみて之を帰せしめんのみ」と。道にて辺遽を聞き、兼程して進み、闕下に至る。詔して子の安節・婿の文好謙に掖せしめて見えしめ、拝礼を減じて坐を賜う。間日に一度朝会し、肩輿を以て殿門に至ることを許し、仍って扶けを給し、大事に非ざれば署せず。敵師退く。尋いで目疾を以て朝謁を免じ、家に臥し、旬余に一度奏事す。

乾道元年正月上辛、南郊に事有り、康伯起きて祠に陪す。已にして即ち帰ることを丐う。章屢上すも、許さず。一日殿門を出づるに、喘劇しく、輿にて第に至りて薨ず。年六十有九。太師を贈り、諡して「文恭」と曰う。日を択びて臨奠せんとす。子の偉節固く辞す。乃ち止む。工部侍郎何俌に命じて喪を護り帰らしむ。

二子有り。偉節は直秘閣を除し、安節は同進士出身を賜う。五たび辞して受けず。上は手劄を批諭し、省中に寄留して其の美を成さしめんとす。康伯薨ずるに及び、之を給還す。慶元初、孝宗廟庭に配享し、諡を「文正」と改む。

梁克家

梁克家、字は叔子、泉州晉江の人。幼くして聰敏人に絶え、書は目を通せば誦す。紹興三十年、廷試第一、平江簽判を授かる。時に金主亮死す。衆皆機に乗じて進取すべしと言う。克家は書を移して陳俊卿に謂う、「敵は退くといえども、吾が兵力未だ振わず、力を量らずして動かば、将に後悔有らん」と。俊卿帰りて以て丞相陳康伯に白す。其の遠慮を歎ず。秘書省正字に召され、著作佐郎に遷る。

時に災異数見す。克家奏して宜しく詔を下して言を求むべしとす。之に従う。侍従・臺諫・卿監・郎官・館職に命じて闕失を疏せしむ。克家は六事を条す。一に心術を正す、二に紀綱を立つ、三に風俗を救う、四に威柄を謹む、五に廟算を定む、六に人心を結ぶ。其の廟算を定むるを論ずるに、今の辺議は三説に過ぎず、曰く将・兵・財と、語甚だ切直なり。累遷して中書舍人となる。

金に使いす。金は中朝の進士第一なるを以て、敬って之を待つ。即ち館にて宴射し、連ねて数十発的に中つ。金人慶會節を賀し来る。克家請うて金使の入朝は南門よりし、百官は北門よりし、従者は輒て殿門外に至ること毋からしめ、以て朝儀を肅にすべしと。詔して令と定む。

郊祀に雷震の変有り。克家復た六事を条す。給事中に遷る。凡そ三年、事に遇いて不可なれば、必ず執奏して隠さず。嘗て奏す、「陛下実才を用いんと欲し、空言を喜ばず。空言固より益無し。然れども空言を以て懲と為せば、則ち諫爭の路遂に塞がれん。願わくば之を開導する所以有らんことを」と。上欣んで納れ、因って風俗の弊を条具せしむ。克家は四条を列す。曰く欺罔・苟且・循默・奔競と。上は手筆を以て獎諭す。

乾道五年二月、端明殿學士・簽書樞密院事を拝す。明年、參知政事となる。又明年、院事を知るを兼ぬ。初め金好を修む。金は獲たる俘虜を索む。釁を啓いて未だ已まず。克家請うて楚州城を築き、舟師を外に環らしむ。辺此に頼りて安んず。政府に在りて、虞允文と可否相い済まし、苟も同じからず。皇太子初めて立つ。克家請うて官属を選置し、講読員を増さんと。遂に王十朋・陳良翰を以て詹事と為す。中外称えて人を得たりとす。允文は恢復を主とす。朝臣多く迎合す。克家密かに諫む。数たび合わず、力を竭して去らんことを丐う。上曰く、「兵は終に用うべからざるか」と。克家奏す、「兵を用うるは財用を以て先と為す。今用度足らず、何を以て事を集めん」と。上容を改めて曰く、「朕将に之を思わん」と。詰朝、上克家に面諭して曰く、「朕終夜卿の言を思い、至当なり。庸に去ること毋かれ」と。

八年、詔して僕射を更定して左右丞相と為す。克家を右丞相兼樞密使に拝す。一日、上宰執に謂いて曰く、「近く徳壽宮に過ぐ。太上の頤養愈よ勝れ、天顔悦懌す。朕退きて喜びに勝えず」と。克家奏す、「堯未だ舜を得て以て己が憂いと為さざるも、既に舜を得れば、固より宜しく甚だ楽むべし」と。允文奏す、「堯独り五帝の寿に高きは此を以てなり」と。上曰く、「然り」と。允文既に相を罷むるや、克家独り政を秉る。近戚権幸と雖も少も仮借せず、而して外は和を以て済ます。張説枢府に入る。公議之を与せず。命を寝す。俄に復用す。説は士夫の己に附かざるを怒り、謀りて之を中傷せんとす。克家悉く力を竭くして調護す。善類之に頼る。

金使の朝見授書儀を議す。時に文を対境に移して以て其の礼を正さんと欲す。克家の議合わず。遂に去らんことを求む。観文殿大學士を以て建康府を知る。陛辞す。上治效を以て問う。克家上に勧めて奇功を求めざらんとす。既にして三省・密院卒に牒を泗州に移す。敵従わず。泛使を遣わして来る。挙朝震駭す。後二年、湯邦彥使いの事に坐して貶せらる。天下益々克家の国に謀るの忠に服す。

淳熙八年、福州を知るを起す。鎮に在りて治績有り。趙雄奏して再任せしめんと欲す。旨を降して仍って福州を知らしむ。召されて醴泉観使を除す。九年九月、右丞相を拝し、儀國公に封ぜらる。一月を踰えて疾む。十三年、内祠を以て侍読を兼ねることを命じ、第を賜い、在所に存問絶えず。十四年六月、薨ず。年六十。手書して遺奏す。上之が為に涕を垂る。少師を贈り、諡して「文靖」と曰う。

初め、第を唱うる時、孝宗建邸より入り侍す。其の風度峻整なるを愛す。及び政府に登り、眷寵尤も渥し。文を為すこと渾厚明白、一家を成し、辞命尤も温雅、多く世に行わる。

汪澈

汪澈、字は明遠、新安より自ら饒州浮梁に徙り居る。進士に第し、衡州・沅州を教授す。万俟卨の薦を用いられ、秘書正字・校書郎と為る。輪対し、帥臣・監司・侍従・臺諫に各将帥を挙げしむることを乞う。高宗之を善しとし、其の言を行う。監察御史を除し、殿中侍御史に進み、特めて鞍馬を賜う。時に和戎歳久しく、邊防浸く弛む。澈は民を養い兵を養い、自ら治めめ備うの説を陳ぶ。累ねて数千言に及ぶ。

顕仁皇后の攢宮(仮葬地)が完工すると、議者が四隅を広げようとし、士庶の墳墓が二十里内にあるものは皆移転すべきとし、汪澈に巡視させた。還って奏上して言うには、「昭慈・徽宗・顕粛・懿節の四陵は旧来百歩を占めており、既に数十年を経ている。今日どうしてこのように騒ぎ立てるのか。漢の長楽宮・未央宮は樗里疾の墓を挟んでいたが、移転させたことはない。国朝の宮陵儀制では、封堠の界内にあるものは、故合祔を開くことを許さず、望んで移り出る者は聴く、その意は深遠である」。高宗は大いに悟り、全て旧来の通りとした。

葉義問が金に使いして帰還し、辺境侵犯の謀略をかなり知ると、汪澈は言う、「平素から備えなければ、事が至って慌てふためくことになり、靖康の変が鑑とすべきである。今、将は驕り兵は惰んでおり、検閲を加えて、戦う心を持たせるべきである。文武の職事は実才を選ぶべきで、資格に限ってはならない」。侍御史に任じられた。左相湯思退は人望がなく、汪澈は殿中侍御史陳俊卿とともに弾劾して罷免させ、また鎮江の大将劉宝の十の罪を論じ、詔により節度使を奪い祠官とした。

三十一年、上元節の前夜、風雷雨雪が交作した。汪澈は言う、『春秋』に魯の隠公の時、大雷電があり、続いて雨雪があったとある。孔子は八日の間に再び大変があったとして、謹んでこれを記した。今、一夕の間に二つの異変が相次いで至った。これは陰盛の証であり、おそらく金人のためであろう。今、荊・襄には統督がなく、江海には備えが乏しい。ここに修攘の十二事を陳べる。殿帥楊存中は長く兵権を握り、内では宦官と結び、王十朋・陳俊卿らが続いてその罪を論じたが、高宗は擁護して去らせようとした。汪澈と陳俊卿がともに奏上すると、楊存中は初めて罷免された。

折しも金の使節高景山が来て、釁端(争いの口実)を求めた。汪澈は言う、「天下の勢いは、強弱に定まった形はなく、我が用い方による。陛下は己を屈して和戎し、金に絹帛を厚く贈ったが、彼らは悪言を吐いて我が国を揺るがそうとする。願わくは陛下が赫然と睿断し、兵を増やし厳重に備え、中外に布告されよ。将に見るべく、上下一心となり、その気勢は百倍となるであろう」。御史中丞に任じられた。

まもなく馬軍帥成閔に命じてその部衆三万人を荊・襄に駐屯させ、汪澈を湖北・京西宣諭使とし、詔して凡そ官吏の能否・民の利害を全て聞くこととした。九江を過ぎると、王炎が汪澈に会って辺事を論じ、属官に辟召し、ともに襄陽に至って諸軍を慰撫した。鄂帥田師中は老いて怯懦であり、すぐに奏上して更易した。当時、襄を守って荊南に置こうとしたが、汪澈は奏上して言う、「襄陽は地が重要で、荊楚の門戸である。棄てることはできない」。敵将劉萼が十万の衆を擁し、声を揚げて荊南を取らんとし、また光州・黄州から軍を分けて武昌を衝かんとした。朝廷は敵がかつてここから江南に入ったとして、呉拱に武昌の津渡を厳重に守護させた。呉拱は兵を率いて鄂に赴こうとしたが、汪澈はこれを聞き、急いで書を送って呉拱を止め、自ら鄂の余兵を発して黄州を守らせ、呉拱には襄陽に留まらせた。敵騎が突然樊城に至ると、呉拱は漢水上で大戦し、敵衆は敗走した。当時、唐州・鄧州・陳州・蔡州・汝州・潁州が相次いで職方(版図)に帰した。まもなく、金主亮が死んだ。汪澈は出兵して淮甸に至り、荊・襄の軍と挟撃してその帰師を撃たんことを請うた。返答がないうちに、金の新主が兵を罷めて和を請い、汪澈を召し入れて参知政事とし、宰相陳康伯とともに内禅を補佐した。

孝宗が即位し、恢復に鋭意し、まず張浚を用いて江・淮に使いさせ、汪澈は参知政事として荊・襄の軍を督し、分道進討しようとした。趙撙は唐州を守り、王宣は鄧州を守り、皇甫倜を蔡州に招いた。襄・漢は沃壤であるが、荊棘が望み見えるほどであった。汪澈は古い長渠に因って堰を築き、閑民を募り、冗卒を淘汰して雑耕させ、三十八屯と定め、種子と牛を与え、廬舎を授け、年に穀物七十余万斛を収穫でき、民は種子を償い、残りを私有し、官は銭でこれを買い取ることを請うた。功績はほぼ成った。

隆興元年、入朝して奏上し、武昌に還ったが、張浚が期日を定めて大挙し、詔して汪澈に出兵して応じさせた。汪澈は議論が合わず、張浚に荊・襄を併せて領させるよう請うた。諫議大夫王大宝が汪澈に勝つ策がなく、皇甫倜が忠義をもって山砦を結び、敵の要衝を扼しているのに、汪澈はこれを節制できず、孤軍が敵の計に陥るのを坐視したと論じた。趙撙が千五百人で方城を救ったが、五百余人が敗散したのに、汪澈は漫然として省みなかった。罷免を請うた。汪澈も祠官を請い、資政殿学士・提挙洞霄宮に任じられた。王大宝の上疏が再び上がり、職を落とし、なお祠祿を与えられた。

翌年、建康府知府となり、まもなく枢密使に任じられた。在位二年、観文殿学士として洞霄宮の祠祿を奉じ、まもなく鄂州知州兼安撫使となった。孝宗が辺事を訪ねると、汪澈は奏上して言う、「かつて我が唐州・鄧州を藩籬とし、また皇甫倜が陳州・蔡州を控扼していたので、敵は襄陽を窺うことができなかった。両郡を失い、皇甫倜もまた内徙すると、敵は新野に屯し、百里を距てるのみである。臣は趙撙・王宣に命じて城を築き糧を儲け、要害を分備し、敵を待つ備えがある。至る機会の来るは、予め料し難い」。孝宗はこれを善しとした。当時、江州軍を廃止する議論があったが、汪澈は不可と言った。寧国府知府となり、福州・福建安撫使に改め、また祠官を請うた。まもなく致仕した。卒去、年六十三。金紫光禄大夫を贈られ、諡は「荘敏」。

汪澈が殿中侍御史の時、陳俊卿・王十朋・陳之茂を台官に推薦した。高宗は言う、「名士である。順次用いよう」。枢密府にあって、孝宗が密かに人材を訪ねると、百十八人を推薦した。かつて奏上して言う、「臣は寒遠より起り、国に報いる所以はただ私なく欺かざるのみ」。その自らの生活は清約で、貴くなってもなお布衣の時と変わらなかった。文集二十巻・奏議十二巻がある。

葉義問

葉義問、字は審言、厳州寿昌県の人。建炎初年、進士に及第した。臨安府司理参軍に調任。范宗尹が宰相となると、葉義問は沈長卿らとともにその奸を上疏した。饒州教授となり、郡事を摂行した。旱魃の年、便宜を以って常平米を発して民を賑い、提刑黄敦書がこれを弾劾したが、詔して問わなかった。前枢密徐俯の門僧が罪を犯すと、葉義問は法をもってこれを裁いた。徐俯はかつて葉義問を推薦していたので、大いに怒り、袖にあった推薦書を返した。

江寧県知県となった。秦檜の親しい者を役に召すと、同僚は不可としたが、葉義問は言う、「これを釈すればどうして他人を服させられようか」。ついにこれを役した。江州通判となった。豫章太守張宗元が秦檜に逆らい、ある者が流言飛語を中傷し、事が漕臣張常先に下った。張宗元が九江を通ると、張常先は葉義問に檄を飛ばしてその舟を拘束させようとした。葉義問は檄を投げて言う、「我は寧ろ罪を得ても、不祥を行わない」。張常先が秦檜に報告し、罷免された。

秦檜が死ぬと、湯思退がこれを推薦し、上はかつて范宗尹のことを言ったのを覚えており、召し出されると、台諫の廃置は人主にあり、秦檜の親党は尽く罷逐すべきであり、言によって罪を得た者は叙復すべきと奏上した。殿中侍御史に抜擢された。枢密湯鵬挙は秦檜の所為を真似、その党周方崇・李庚を立て、台諫に籍を置き、異己者を鉏いた。葉義問は累章して湯鵬挙を弾劾し、「一秦檜死して一秦檜生ず」の語があり、周方崇らも皆罷免された。また言う、「凡そ将を選ぶに一つの欠員に遇えば、枢密院に三名を具して上旨を取らせよ。そうすれば軍政は尽く掌握から出るであろう」。侍御史に遷った。朱樸・沈虚中が里居で祠祿を奉じていたが、葉義問はその秦檜への附会を弾劾し、皆移住させた。郊祀の赦があり、葉義問は言う、「近年告訐に附会した者は、例に倣って移放すべきではない」。従われた。吏部侍郎兼史館修撰に遷り、まもなく兼侍読となり、同知枢密院事に拝された。

上(孝宗)は金が辺境を犯す意図があると聞き、義問を使者として派遣してこれを窺わせた。帰還して奏上した。「彼らは舟船を造り、器械を備えており、その心遣いは必ずやどこかにある。沿海の要害に駐屯して備えるべきである。」金主亮は果たして南侵した。命じて師を視察させたが、義問は元来軍旅のことに習熟しておらず、ちょうど劉錡の捷報が届き、それを読んで「金賊また生兵を添う」とあるところで、吏を顧みて言った。「『生兵』とは何物か。」聞いた者は口を押さえて笑った。鎮江に至り、瓜洲の官軍が敵と相持していると聞き、大いに失措し、民を役して砂の溝を掘り、木の枝を植えて鹿角とし敵を防ごうとした。一夜にして潮が生じ、砂の溝は平らになり、木の枝はすべて流れ去った。ちょうど建康留守の張燾が人を遣わして危急を告げたので、義問は陸路を進み、建康へ向かい軍の出発を催促すると言ったが、市の人々は皆彼を罵った。また敵が瓜洲を占拠し、采石の兵が甚だ多いと聞き、再び鎮江に戻ろうとした。諸軍が喧噪して言った。「戻ることはできない。戻れば測り知れぬことがある。」そこで建康へ向かった。やがて金主亮がしいされ、師は退き、義問は朝廷に戻り、力を尽くして退くことを請い、遂に罷免された。

隆興元年、中丞辛次膺が義問を論じた。「かつて諸将を護りながらほとんど事を敗り、かつ官をもってその親を私す。」饒州に謫された。乾道元年、詔して自便を許された。六年に卒した。七十三歳。

蔣芾

蔣芾、字は子禮、常州宜興の人、之奇の曾孫。紹興二十一年、進士第二人。孝宗即位の後、累遷して起居郎兼直學士院となった。時に宦官梁珂が上(孝宗)の潜邸に仕え、権力を撓乱していた。尹穡が珂を論じ、祠官に任じようとしたが、芾は奏上を留めてこれを罷免させた。

簽書樞密院事に任じ、まず辺防に意を加えるよう奏上し、また奏上した。「将才を行伍の間から抜擢し、その姓名を識別しておけば、一旦籍を披けば直ちに取り揃えることができる。また帰正人を選別し、なお北人をもってこれを将とし、あるいは山東に深入りさせ、あるいは荊・襄から深入りさせるようにせよ。」

権參知政事・同知國用事を除かれた。芾は奏上した。「方今、財が最も費えるのは兵を養うことである。藝祖(太祖)が天下を取った時は、十五万人に過ぎなかった。紹興の初め、外には大敵があり、内には巨寇があったが、兵数も今日ほど多くなかった。近頃陳敏が勇壮三千人を淘汰し、戚方が四千人を淘汰したのを見るが、多くは有官の人であり、外任を与えても、請券錢・添借給は以前の如くである。これは内で減らして外で増やすことであり、何の益があろうか。また招兵は消耗・腐敗をますます甚だしくする。臣が内の諸軍を考核したところ、毎月逃亡や事故で常に四百人を下らない。もし招兵を一年半の間権停し、財用が稍々足りるのを待って丁壮を招けば、費を省くのみならず、兵も精鋭となる。」上は悟った。

ある日、辺報を進呈した際、上は芾を顧みて言った。「将来の都督は卿でなければならぬ。」芾は奏上した。「臣は未だ兵の間を経験したことがありません。」また奏上した。「方今、錢穀は足らず、兵士は練られず、将帥と臣は互いに識りません。願わくは陛下、更にその人を審らかに思し召し下さい。」南郊の礼が終わり、宰相の葉顒・魏杞が罷免された。芾は衆論を採り、己の見解を参酌して『籌邊志』を著し、これを上進した。

翌年、右僕射・同中書門下平章事兼枢密使に拝された。ちょうど母の病気で死去したため、詔して起復させ、左僕射に拝しようとしたが、芾は力を尽くして辞した。密旨があり、今年の大挙を望んでおり、手詔して廷臣に議わせた。或いは和を主とし、或いは恢復を主とし、芾に決断させようとした。芾は奏上した。「天時人事、未だ至らず。」上意に逆らった。服喪が終わり、観文殿大学士・知紹興府・提挙洞霄宮を除かれた。まもなく言事者の論により、落職し、建昌軍に居住した。一年後、自便の旨があり、再び洞霄宮を提挙し、卒した。

芾は初め辺事を論じて上(孝宗)の知遇を得、十年と経たないうちに相位に至ったが、終には兵事を任せられず責めを受けた。これは議論に優れていて事功に劣っていたということか。

葉顒

葉顒、字は子昂、興化軍仙遊県の人。紹興元年に進士に及第し、広州南海県主簿となり、尉を摂行した。盗賊が発生し、州が巡検・県尉に共同で捕らえるよう檄を飛ばした。巡検が盗賊十余人を捕らえ、その功労を顒に帰そうとした。顒は言った。「美を掠め、君を欺き、賞を幸いとする、この三つは皆罪である。忍んで為すことができない。」帥の曾開は大いにこれを善しとした。

信州貴溪県の知県となった。時に詔して経界法を行い、郡は上中下の三等で田税を定めることを議したが、顒は九等に分けるよう請い、太守はこれに従い、信州の六邑に貴溪を手本とするよう命じた。

紹興府上虞県の知県となった。全ての徭役について、民に自ら資産と労力の甲乙を推挙させ、吏に委ねず、民は欣然として皆実情に応じた。租税の取り立てはそれぞれその数を民に書き示し、自ら戸租を持って庭に至り、親しくその納入を見るよう約束し、皆これを便利とした。帥の曹泳が当年の夏租を期日より前に十割の八を送るよう命じたが、顒はその期日を少し緩めるよう請うたので、泳は怒った。やがて麦が大いに実り、民の租税納入はかえって諸邑の中で最も多くなったので、泳は大いに喜び、朝廷に推薦しようと約束したが、顒は固く辞した。

賀允中が顒の静退を推薦したので、遂に召されて拝謁した。顒は国仇未だ復さず、中原の民が日々鑾輿の返還を企てていると論じ、その言葉は切実であった。高宗は嘉納し、将作監簿を除した。処州の知州となり、青田県令の陳光が羨余百万を献上したが、顒はその献上したものを賦税の不足分に充てた。湯思退の兄が処州に住んでおり、家奴が屠酤の禁令を犯したので、一様に法によって裁いたので、思退は悦ばなかった。常州に四十万の逋欠緡銭があることに連座し、太守が坐して免官となり、顒を移して常州の知州とした。

金が辺境を侵犯した時、高宗は建康で師を視察し、道中毗陵(常州)を通った。顒は舟中で賜対し、因みに言った。「恢復は将相に先んずるものはありません。故相の張浚は久しく謫されながら無事です。これは天が陛下のために宰相として留め置かれたのです。」顒が初めて郡に着いた時は、十日分一ヶ月分の蓄えもなかったが、一年も経たないうちに二十万緡の余剰ができた。或る者が羨余を献上するよう勧めたが、顒は言った。「羨余と名付けるものは、重い徴税でなければ横暴な収奪であり、これは民の膏血である。利をもって賞と取り替えることは、心実にこれを恥じる。」

召されて尚書郎となり、右司に除せられる。詔して直言を求めしめし、葉顒上疏して謂う、「陛下は手足の至親を以て、州郡の重寄を付す、是れ一人を利して一方を害するなり」と。人その直を称す。吏部侍郎に除せられ、復た尚書を権む。時に七司の弊事未だ去らず、上疏して選部の弊を為す所以を言い、乃ち郎官と共に七司の条例を編して一書と為し、上之を嘉し、刻板して頒示せしむ。

端明殿学士に除せられ、参知政事に拝せられ、同知枢密院事を兼ぬ。武臣梁俊彦、沙田・蘆場に税を請う。帝以て葉顒に問う。対えて曰く、「沙田は乃ち江濱の地なり、田は沙の漲に随って出没常ならず、蘆場は則ち臣未だ之を詳にせず。且つ辛巳の軍興より蘆場の田租並びに復し、今沙田は其の擾に勝えず」と。上曰く、「誠に卿の言の如し」と。葉顒中書に至り、俊彦を召して切に責めて曰く、「汝は利を言いて進を求め、万一国に事を生ぜば、汝を斬るも以て責を塞ぐに足らず」と。俊彦惶恐して汗下す。是の日、詔して沙田・蘆場並びに罷む。

御史林安宅、両淮に鉄錢を行わんことを請う。葉顒力言して不可とす。安宅平らかならず、枢府に入りし既に、乃ち上章して葉顒を攻めて云う、「葉顒の子、宣州の富人周良臣の銭百万を受け、鎮江大軍倉を監するを得たり」と。御史王伯庠も亦之を論ず。葉顒吏に下して弁明せんことを乞う。乃ち資政殿学士を以て洞霄宮を提挙す。上其の事を臨安府に下す。時に王炎臨安を知る。上炎に親しく鞫して対せしむるを令す。秋毫の跡無し。獄奏す。上安宅・伯庠の風聞失実を以て、並びに居る官を免じ、仍って安宅を筠州に貶し、葉顒を召して闕に赴かしむ。入見す。上之を労して曰く、「卿の清徳は是れ自ら愈光なり」と。

知枢密院事に除せられ、未だ拝せずして、尚書左僕射に進み枢密使を兼ぬ。葉顒首めて汪応辰・王十朋・陳良翰・周操・陳之茂・芮曄・林光朝等を薦め、以て執政・侍従・台諫に備う可しとす。上嘉納す。又言う、「古より明君人の用いるや、賢を使い愚を使い、姦を使い盗を使うも、唯だ泰甚なるを去るのみ」と。上曰く、「固然なり。虞に禹・皐有り、亦た共・驩有り。周に旦・奭有り、亦た管・蔡有り。用うる用いざるに在り」と。葉顒曰く、「誠に聖訓の如し。但だ今日朝に在りては、未だ共・驩・管・蔡有るを見ずと雖も、然れども威福を窃み弄する者有り。臣敢えて隠さず」と。上誰を為すかと問う。葉顒龍大淵を以て対う。語は『陳俊卿伝』に在り。

上国用未だ裕ならずと以て、詔して宰相に国用使を兼ねしめ、参政に国用事を同知せしむ。葉顒乃ち言う、「今日財を費やすは兵を養うこと甚だし。兵多ければ則ち冗卒虚籍有り、事無ければ則ち財を費やし、事有れば則ち用う可からず。之を汰つと曰うと雖も、旋ちに之を招く。国用を足らんと欲すれば、当に汰に厳しく、招に緩やかにする可きなり。孔子曰く、『用を節して人を愛す』と。蓋し用を節すれば、則ち人を愛するの政自ら其の間に行わる。若し財を生ぜんと欲すれば、祗だ民財を費やすのみ」と。上曰く、「此れ至言なり」と。上曰く、「建康の劉源嘗て近習に賂す。朕王抃を遣わして其の姦を廉せんと欲す」と。葉顒曰く、「臣恐らくは廉する者姦する者に甚だしきを」と。乃ち止む。

乾道三年冬至、上親しく郊し而して雷す。葉顒漢の故事を引きて印綬を上り、太平興国宮を提挙す。家に帰り至り、疾無くして薨ず。年六十八。観文殿学士を以て致仕し、特進を贈られ、諡して「正簡」と曰う。

葉顒人と為り簡易清介、物と若し忤う無きも、大事を処するに至りては毅然として奪う可からず。友人高登嘗て上書して時相を譏切す。名捕甚だ急なり。葉顒之と同邸し、擿して逸せしむ。登曰く、「君の累と為らざらんや」と。葉顒曰く、「以て罪を獲ば、固より願う所なり」と。即ち為に舟を具し、舟移りて乃ち去る。初め仕えてより宰相に至るまで、服食・僮妾・田宅其の旧を改めず。

葉衡

葉衡、字は夢錫、婺州金華の人なり。紹興十八年進士第に及第し、福州寧徳の簿に調じ、尉を摂む。塩寇を獲るを以て秩を改め、臨安府於潜県を知る。戸版積弊し、富民多く隠漏し、貧弱倍輸に困す。衡九等に定め、五以下より其の籍を除き、而して其の額を上の四等に均しくす。貧者頓に蘇る。征科は期限を県門に榜し、里正に俾りて民に諭さしむ。一吏を遣わさずして賦自ら足る。歳災し、蝗境に入らず。治諸邑の最と為る。郡政績を以て聞こゆ。即ち召対す。上曰く、「卿県を作るに法有りと聞く」と。還任を遣わす。

常州を知るに擢でらる。時に水潦災と為る。衡倉を発して糜と為し、以て饑者に食わしむ。或いは言う、常平は軽く発す可からずと。衡曰く、「儲蓄正に緩急に備う。民の饑ゆるを見て救わざらんや」と。疫大いに作る。衡単騎医薬を命じて自ら随い、偏に疾苦を問い、活くる者甚だ衆し。檄して晋陵丞李孟堅をして無錫県を摂ましむ。政声有り。衡之を上に薦む。即ち秀州を知るに除す。上其の言を信ずること此の如し。

太府少卿に除せらる。合肥湖に瀕すること四十里の圩田有り。衡奏す、「民を募りて以て耕さしめ、歳に穀数十万を得可し。租税を蠲し、二三年後阡陌成れば、営田に倣い、官私各其の半を収むべし」と。之に従う。

戸部侍郎に除せらる。時に塩課大いに虧く。衡奏す、「年来課入増えず、私販之を害するなり。宜しく煮塩の地より之を制すべし。火の起伏を司り、灶の多少を稽え、亭戸の本銭は時を以て之を与え、塩の委積は時を以て之を収め、廉能の吏を択びて之を察せば、私販自ら絶ゆべし」と。仍って措置官三人を命ず。淮南は通州に於いて、浙東は明州に於いて、浙西は秀州に於いてす。

母憂に丁す。起復し、廬州を知る。未だ行かずして、枢密都承旨に除せらる。馬政の弊を奏し、宜しく統制一員を命じ各馬若干匹を領せしめ、歳終に其の数を計りて殿最とすべしと。李垕賢良方正に対策し、近く訐直なり。第四等に入る。衡奏す、「陛下其の狂を赦し其の忠を取る、以て容諫の盛を顕わすに足る」と。乃ち垕に制科出身を賜う。江・淮の兵籍偽濫すと言う者有り。詔して衡に按視せしめ、袍帯・鞍馬・弓矢を以て賜い、且つ衡に民兵を措置せしむ。咸に兵を治むるの要を得たりと称す。事を訖えて闕に赴く。上便殿に御し武士を閲す。衡を召して預め観せしめ、酒を賜い、宸翰を洒して之に賜う。

荊南・成都・建康府を知り、戸部尚書に除せられ、簽書枢密院事に除せられ、参知政事に拝せらる。衡二事を奏す。一、牧守将帥は必ず材を択び以て其の職に称せしめ、必ず久任して以て其の材を尽くさしむべし。二、戸部に令して湖広会子の実数を取り、尽く京会を以て限を立てて之を易えしむべし。之に従う。

右丞相に拝せられ枢密使を兼ぬ。上鋭意恢復に、凡そ将帥・器械・山川・防守悉く思慮を経る。奏対畢り、従容として坐を賜い、機密を講論し、或いは時に召対す。時に会子漸く折閲の患い有り。手詔を賜いて衡に曰く、「会子は流通と曰うと雖も、終に未だ人の意を尽くして愜わず。目即ち流使するに二千二百余万有り。今上下庫の黄金・白金・銅銭九百万、内蔵庫五百万、並びに蜀中の銭物七百万を以て、尽く会子の数を易え、専ら卿に命じて措置せしむ。日近くして弁ぜば、卿真に宰相の才なり」と。

一日、上(孝宗)は宰執を凝碧に曲宴し、上曰く、「三代より下り、漢・唐に至るまで、治世の日は常に少なく、乱世の日は常に多し、何ぞや」と。衡奏す、「聖君は常には有らず、周八百年、極治を称するは成・康のみ」と。上曰く、「朕『無逸篇』を観るに、周公が成王のために歴言する商・周の君の享国の長遠なるを見る、真に万世の亀鑑なり」と。衡奏す、「願わくは陛下常に『無逸』を以て亀鑑と為し給え、これ社稷の福なり」と。上又言う、「朝廷の用うる所は、正にその人の如何を論ずべく、党有るべからず。唐の牛・李の党の如き、相攻すること四十年、主の聴くこと明らかならざるに縁りて此に至る。文宗曰く、『河北の賊を去るは易く、朝中の朋党を去るは難し』と。朕嘗て之を笑う」と。衡奏す、「文宗は優遊して断ぜず、故に此の語有り。陛下は英明聖武、誠に難事に非ず」と。

御宝実封の命を以て臨安府の竇思永に合入官を改めさせんとす。衡奏す、「選人の官を改むるは、奏対して旨に称せざれば、則ち考挙磨勘を用う。一旦特旨を以て之を与うるは、陛下の人才を愛惜するの意に非ず」と。上急ぎ前命を収む。

上、執政に諭し、使を選び河南を求めしむ。衡奏す、「司諫湯邦彦は口弁有り、宜しく金に使わしむべし」と。邦彦、対請し、遣わす所以を問う。既に薦が衡に出づるを知り、衡が己を擠むを恨む。衡が客に対し上を訕るの語有ると聞き、之を奏す。上大いに怒る。即日、相を罷め、責めて安德軍節度副使を授け、郴州に安置す。邦彦、使より還り、果たして命を辱しむ。上震怒し、之を嶺南に竄す。詔して衡に自便せしめ、官を復し祠を与う。年六十有二にして薨ず。資政殿学士を贈る。

衡は才を負い智足り、兵事を理むること甚だ悉し。小官より十年を経ずして宰相に至る。進用の驟なる、人、曾覿に出づと謂う。

論じて曰く、陳康伯は経済を以て自ら任じ、事に臨み明断なり。梁克家は才優れ識遠く、国を謀り忠を尽くす。至りて若し汪澈の事を論ずる忠愨、人才を薦達し、葉義問の直言正色、秦檜の余党を掃除するは、然れども兵に長ぜず、敵に臨み失措す。豈に議論を優れども事功を劣る者ならんや。葉顒は清倹正直にして、衡は才智余り有り。蓋し亦た一時の選なりと云う。