宋史

列傳第一百四十二 陳俊卿 虞允文 辛次膺

列傳第一百四十二 陳俊卿 虞允文 辛次膺

陳俊卿

原文陳俊卿

陳俊卿、字は應求、興化の人である。幼少より荘重にして、妄りに言笑せず。父の死に際し、喪に服すること成人の如し。紹興八年、進士第に登り、泉州觀察推官に授けられる。職務に勤勉にして、同僚の宴席には常に謝絶して赴かず。ある日、郡中に火災が起こり、太守の汪藻が走り視察するに、諸掾属は或る所で酒宴中であり、俊卿の輿卒もまたこれを借り出していた。そこで例により後至の故を詰問されるが、俊卿は唯々として謝罪するのみ。後に実情を知った藻がその理由を問うと、俊卿は言う、「某は同僚の行いを止め得ず、またその僕を貸した。どうして過ち無しとせん。時に公はまさに盛怒せられており、どうして自分だけを弁解し、人の罪を重くすることを忍びようか」。藻は感服し、及ぶべからずと為す。

原文陳俊卿,字應求,興化人。幼莊重,不妄言笑。父死,執喪如成人。紹興八年,登進士第,授泉州觀察推官。服勤職業,同僚宴集,恒謝不往。一日,郡中失火,守汪藻走視之,諸掾屬方飲某所,俊卿輿卒亦假之行,於是例以後至被詰,俊卿唯唯稱謝。已而知其實,問故,俊卿曰:「某不能止同僚之行,又資其僕,安得為無過。時公方盛怒,其忍幸自解,重人之罪乎?」藻歎服,以為不可及。

任期満了の後、秦檜が国政を執る。俊卿が己に附かざるを察し、南外睦宗院教授に任ず。まもなく通判南劍州を添差されるが、未だ赴任せずして檜死す。乃ち校書郎として召される。孝宗が普安郡王であった時、高宗は端厚静重なる者を選んでこれを輔導せしめんと命じ、著作佐郎兼王府教授に除す。経を講ずる毎に規戒の意を寓し、正色して特立す。王は蹴鞠を好む。俊卿は韓愈の張建封に諫むる書を誦じて以て諷し、王は敬してこれを納る。

原文秩滿,秦檜當國,察其不附己,以為南外睦宗院教授。尋添通判南劍州,未上而檜死,乃以校書郎召。孝宗時為普安郡王,高宗命擇端厚靜重者輔導之,除著作佐郎兼王府教授。講經輒寓規戒,正色特立。王好鞠戲,因誦韓愈諫張建封書以諷,王敬納之。

累遷して監察御史・殿中侍御史となる。まず言う、「人主は兼聴を以て美と為すは、必ず至公に本づくべし。人臣は不欺を以て忠と為すは、必ず大體に達すべし。下を御するの道は、恩威並施し、驕将を抑え、士気を作せば、則ち紀綱正しくして号令行わる」。遂に韓仲通を弾劾す。仲通は元より獄事を以て檜に附き、無辜を冤陷せしめ、檜の党は尽く逐かるるも仲通のみ独り全うせりと。劉寶は京口に総戎して恣に掊克し、且つ命に拒みて戍を分たずと。二人遂に罪に当たる。湯思退が政を専らにするに、俊卿は言う、「冬日雲無くして雷鳴す。宰相は上は天心に当たらず、下は人望を厭わず」。詔して思退を罷む。

原文累遷監察御史、殿中侍御史。首言:「人主以兼聽為美,必本至公;人臣以不欺為忠,必達大體。御下之道,恩威並施,抑驕將,作士氣,則紀綱正而號令行矣。」遂劾韓仲通本以獄事附檜,冤陷無辜,檜黨盡逐而仲通獨全;劉寶總戎京口,恣掊克,且拒命不分戍;二人遂抵罪。湯思退專政,俊卿曰:「冬日無雲而雷,宰相上不當天心,下不厭人望。」詔罷思退。

時に災異数多く現れ、金人の侵軼の勢い既に形を成す。俊卿は乃ち疏を上して言う、「張浚は忠藎にして、白首も変わらず。窃かに讒言に聞く、其の陰に異志有りと。夫れ浚の人心を得、士論を伏するは、其の忠義素より有るが故なり。これに反すれば、則ち人将に之を去り、誰か復た与に変を為さんや」。疏入るも未だ報いず。因りて対を請い、力を尽くしてこれを言う。上始めて悟る。数月後、浚を以て建康を守らしむ。又言う、「内侍張去為は陰に用兵を沮み、且つ敵を避くるの計を陳べ、成算を揺るがす。軍法に按ずるを請う」。上曰く、「卿は仁者の勇と謂うべし」。権兵部侍郎を除す。

原文時災異數見,金人侵軼之勢已形。俊卿乃疏言:「張浚忠藎,白首不渝,竊聞讒言其陰有異志。夫浚之得人心、伏士論,為其忠義有素。反是,則人將去之,誰復與為變乎?」疏入,未報,因請對,力言之,上始悟。數月,以浚守建康。又言:「內侍張去為陰沮用兵,且陳避敵計,搖成算,請按軍法。」上曰:「卿可謂仁者之勇。」除權兵部侍郎。

金主亮が淮を渡る。俊卿は詔を受けて浙西水軍を整え、李寶はこれに因りて遂に膠西の捷を得る。亮死す。詔して俊卿に淮東の堡砦屯田を治めしむ。過ぐる所流亡を安輯す。金主褒新たに立ち、旧好を申す。廷臣多く和議に附和す。俊卿奏す、「和戎は本より已むを得ざるものなり。若し故疆を得るを実利と為せば、得たりと雖も必ずしも能く守らず、是れ亦た虚文のみ。今は名を正すに若かず。名正しければ則ち国威強く、歳幣を損ずるべし」。因りて将を選び兵を練り、屯田して租を減ずるの策を陳べ、胆略有る文臣を選んで参佐と為し、軍政を察せしめ戎務に習わしめて以て将材を儲う。

原文金主亮渡淮,俊卿受詔整浙西水軍,李寶因之遂有膠西之捷。亮死,詔俊卿治淮東堡砦屯田,所過安輯流亡。金主褒新立,申舊好,廷臣多附和議。俊卿奏:「和戎本非得已,若以得故疆為實利,得之未必能守,是亦虛文而已。今不若先正名,名正則國威強,歲幣可損。」因陳選將練兵、屯田減租之策,擇文臣有膽略者為參佐,俾察軍政、習戎務以儲將材。

孝宗禅を受く。言う、「国を為すの要は三つ有り。人を用い、功を賞し、罪を罰す。之を行う所以の者は、至公のみ。願わくは聖意に留められんことを」。中書舎人に遷る。時に孝宗は興復を志し、方に閫外の事を張浚に属す。俊卿の忠義沈靖にして謀有るを以て、本職を以て江淮宣撫判官兼権建康府事を充てる。奏して曰く、「呉璘は孤軍を率いて深入す。敵は衆を悉くして拒戦し、久しく決せず。危き道なり。両淮の事勢既に急なり。何ぞ舟師を分遣して直ちに山東を搗かずんや。彼必ず師を還して自ら救い、而して璘は勝に乗じて関中を定むべし。我その未だ至らざるに及び、其の腹心を潰せば、此れ不世の功なり」。会に主和の議方に堅く、詔して璘に班師せしめ、俊卿をも召し還す。十事を奏陳す。規模を定め、紀綱を振い、風俗を励まし、賞罰を明らかにし、名器を重んじ、祖宗の法に遵い、無名の賦を蠲つ。

原文孝宗受禪,言:「為國之要有三:用人、賞功、罰罪,所以行之者至公而已,願留聖意。」遷中書舍人。時孝宗志在興復,方以閫外事屬張浚。以俊卿忠義,沉靖有謀,以本職充江淮宣撫判官兼權建康府事。奏曰:「吳璘得孤軍深入,敵悉眾拒戰,久不決,危道也。兩淮事勢已急,盍分遣舟師直搗山東,彼必還師自救,而璘得乘勝定關中。我及其未至,潰其腹心,此不世之功也。」會主和議方堅,詔璘班師,亦召俊卿。奏陳十事:定規模,振紀綱,勵風俗,明賞罰,重名器,遵祖宗之法,蠲無名之賦。

隆興初元、都督ととく府を建つ。俊卿は礼部侍郎参賛軍事を除す。張浚初め大挙して北伐を謀る。俊卿は未だ可ならずと為す。会に諜報す、敵糧を辺地に聚むと。諸将は秋必ず至らんと為し、其の未だ動かざるに先んじて挙兵すべしと為す。浚乃ち朝に請いて出師す。已にして邵宏淵果たして兵を以て潰ゆ。俊卿は退きて揚州を保つ。主和議の者は其の敗を幸い、横議を以て之を揺るがす。浚は疏を上して罪を待つ。俊卿も亦た従坐を乞う。詔して両秩を貶す。諫臣尹穡は思退に附き、議して浚の都督を罷め、宣撫使と為して揚州に治めしむ。俊卿奏す、「浚果たして用うべからずんば、別に賢将に属せよ。若し其の後效を責めんと欲せば、官を降して罰を示すは、古の法なり。今都督の重権を削ぎ、揚州の死地に置き、もし奏請有らば、台諫之を沮ぎ、人情解體す。尚何の後效の図らんや。議者は但だ浚を悪みて之を殺さんと欲するのみにて、復た宗社の為に計らざるなり。願わくは詔を下して中外に戒め協済せしめ、浚をして自ら效せしめよ」。疏再び上る。上悟り、即ち浚に都督を命じ、且つ召して相と為さんとす。卒に思退・穡に擠まれて、師を視せしめ江・淮に遣わす。俊卿累章を上して罪を請い、宝文閣待制を以て泉州を知り、祠を請い、太平興国宮を提挙す。

原文隆興初元,建都督府,俊卿除禮部侍郎參贊軍事。張浚初謀大舉北伐,俊卿以為未可。會諜報敵聚糧邊地,諸將以為秋必至,宜先其未動舉兵,浚乃請於朝出師。已而邵宏淵果以兵潰,俊卿退保揚州。主和議者幸其敗,橫議搖之。浚上疏待罪,俊卿亦乞從坐,詔貶兩秩。諫臣尹穡附思退,議罷浚都督,改宣撫使治揚州。俊卿奏:「浚果不可用,別屬賢將;若欲責其後效,降官示罰,古法也。今削都督重權,置揚州死地,如有奏請,臺諫沮之,人情解體,尚何後效之圖?議者但知惡浚而欲殺之,不復為宗社計。願下詔戒中外協濟,使浚自效。」疏再上,上悟,即命浚都督,且召為相,卒為思退、穡所擠,遣視師江、淮。俊卿累章請罪,以寶文閣待制知泉州,請祠,提舉太平興國宮。

思退既に竄ぜられたる後、太学の諸生闕下に伏して俊卿を召さんことを乞う。乾道元年、入対す。上労撫し、因りて朋党の弊を極論す。吏部侍郎・同修国史を除す。人才は当に気節を以て主と為すべしと論ず。気節ある者は、小に過ち有るも当に之を容るべし。邪佞なる者は、甚だ才有るも当に之を察すべしと。錢端禮は戚里より起りて参政と為り、相位を窺うこと甚だ急なり。館閣の士上疏して之を斥く。端禮は客を遣わし密かに俊卿に告ぐ、己即ち相たらば、当に共に政を引かんと。深く拒絶して聴かず。翌日、『宝訓』を進読す。適た外戚に及び、因りて言う、「本朝の家法、外戚は政に預からず。深き意有り。陛下宜しく謹んで守らるべし」。上首肯す。端禮之を憾む。建康府を知る。一年を踰え、吏部尚書を授かる。

原文思退既竄,太學諸生伏闕下乞召俊卿。乾道元年,入對,上勞撫之,因極論朋黨之弊。除吏部侍郎、同修國史。論人才當以氣節為主,氣節者,小有過當容之;邪佞者,甚有才當察之。錢端禮起戚里為參政,窺相位甚急,館閣之士上疏斥之。端禮遣客密告俊卿,己即相,當引共政。深拒不聽。翌日,進讀《寶訓》,適及外戚,因言:「本朝家法,外戚不預政,有深意,陛下宜謹守。」上首肯,端禮憾之。知建康府。逾年,授吏部尚書。

時に上未だ蹴鞠の戯れを屏ぐること能わず、将に白石に游猟せんとす。俊卿は漢の桓帝・霊帝、唐の敬宗・穆宗及び司馬相如の言を引き、力を尽くして以て戒めと為す。上喜びて曰く、「忠讜の備わるを見る。朕卿を用いんと決意す。朕藩邸に在りし時、卿が忠臣たるを知れり」。俊卿拝謝す。

原文時上未能屏鞠戲,將游獵白石。俊卿引漢桓靈、唐敬穆及司馬相如之言力以為戒。上喜曰:「備見忠讜,朕決意用卿矣。朕在藩邸,知卿為忠臣。」俊卿拜謝。

詔を受けて金使を館す。遂に同知樞密院事を拝す。時に曾覿・龍大淵は旧恩を怙り、威福を窃にす。士大夫頗る其の門を出づ。俊卿が館伴と為るに及び、大淵之を副う。公見の外、一語も交わさず。大淵謁を納るるも、亦た謝絶して接せず。洪邁俊卿に白す、「人言う、鄭聞右史を除かれ、某当に某官を除かるべしと。信ずるや」。其の従う所を詰む。邁は淵・覿に告ぐると為す。具に邁の語を以て上に質す。上曰く、「朕何ぞ嘗て此の輩に謀り及ばん。必ず窃聴して之を得たり」。旨を下して淵・覿を出だす。中外称快す。

原文受詔館金使,遂拜同知樞密院事。時曾覿、龍大淵怙舊恩,竊威福,士大夫頗出其門。及俊卿館伴,大淵副之,公見外,不交一語,大淵納謁,亦謝不接。洪邁白俊卿:「人言鄭聞除右史,某當除某官,信乎?」詰所從,邁以淵、覿告。具以邁語質於上,上曰:「朕曷嘗謀及此輩,必竊聽得之。」有旨出淵、覿,中外稱快。

金、辺吏に移文し、前に俘えし所の者を取らんとす。俊卿報ずるに「誓書に云う、俘虜と叛亡とは是れ両事なり。俘虜は既に多く発遣せり。叛亡は応に遣るべからず。且つ本朝の両淮の民、上国に俘虜せられし者亡慮数万、本朝未だ嘗て以て言と為さず。恐らくは和議を壊し、両境の民を安からしめざらん。或いは交兵に至らば、則ち屈直勝負有る所なり」と以てせんことを請う。

原文金移文邊吏,取前所俘。俊卿請報以「誓書云:俘虜叛亡是兩事,俘虜發已多,叛亡不應遣。且本朝兩淮民,上國俘虜亡慮數萬,本朝未嘗以為言,恐壞和議,使兩境民不安。或至交兵,則屈直勝負有在矣。」

鎮江軍の帥戚方が軍士を刻削す、俊卿奏す、「内臣の中に方を主とする者あり、併せてこれを懲らすべし」と。即ち詔して方を罷め、内侍陳瑤・李宗回を大理に付して贓状を究めしむ。十一月、郊祀に当たって雷鳴す、上内より手詔を出し、大臣を戒飭す、葉顒・魏杞坐して罷む。俊卿参知政事となる。時に四明銀鉱を献ず、将に冶工を召して即ち禁中においてこれを鍛えんとす。俊卿奏す、「帝王の大を務めずして屑屑たる有司の細に有り、識有る者の窺うる所と為るを恐る」と。従官梁克家・莫濟倶に外補を求め、俊卿奏す、「二人皆賢なり、その去るは惜しむべし」と。ここにおいて洪邁の奸険讒佞なるを劾奏し、左右に在るに宜しからずとし、これを罷む。福建の鈔塩を減じ、江西の和糴・広西の折米塩銭を罷め、諸道の宿逋金穀銭帛を巨万を以て計して蠲免す、ここにおいて政事稍く中書に帰す。

原文鎮江軍帥戚方刻削軍士,俊卿奏:「內臣中有主方者,當併懲之。」即詔罷方,以內侍陳瑤、李宗回付大理究贓狀。十一月,當郊而雷,上內出手詔,戒飭大臣,葉顒、魏杞坐罷。俊卿參知政事。時四明獻銀礦,將召冶工即禁中鍛之。俊卿奏:「不務帝王之大,而屑屑有司之細,恐為有識所窺。」從官梁克家、莫濟俱求補外,俊卿奏:「二人皆賢,其去可惜。」於是劾奏洪邁奸險讒佞,不宜在左右,罷之。減福建鈔鹽,罷江西和糴、廣西折米鹽錢,蠲諸道宿逋金穀錢帛以巨萬計,於是政事稍歸中書矣。

龍大淵死す、上曾覿を憐れみ、召さんと欲す。俊卿曰く、「この両人を出だしてより、中外称頌せざる莫し。今復た召せば、必ず大いに天下の望を失わん。臣請う先ず罷まらん」と。遂に召さず。殿前指揮使王琪旨を被り両淮の城壁を按視して還り、和州教授劉甄夫を薦め、召しを得たり。俊卿言す、「琪が兵将官を薦むるは乃ちその職なり、教官に才あらば、何ぞ琪の事に預からん」と。会に揚州奏す、琪旨を伝えて城を増築する事已に訖れりと、俊卿上に請う、未だ嘗て是の命有らず。俊卿曰く、「もし上旨を詐伝せば、小故に非ず」と。奏言す、「人主万幾、豈に尽く防閑せんや、恃む所は紀綱・号令・賞罰のみ。琪を誅せずんば、何をか為さざらん」と。琪秩を削り官を罷む。

原文龍大淵死,上憐曾覿,欲召之。俊卿曰:「自出此兩人,中外莫不稱頌。今復召,必大失天下望。臣請先罷。」遂不召。殿前指揮使王琪被旨按視兩淮城壁還,薦和州教授劉甄夫,得召。俊卿言:「琪薦兵將官乃其職,教官有才,何預琪事。」會揚州奏琪傳旨增築城已訖事,俊卿請於上,未嘗有是命。俊卿曰:「若詐傳上旨,非小故。」奏言:「人主萬幾,豈能盡防閑,所恃者紀綱、號令、賞罰耳。不誅琪,何所不為。」琪削秩罷官。

是に先立ち、禁中の密旨直ちに諸軍に下る、宰相多く預聞せず、内官張方事覚る、俊卿奏す、「今より百司御筆の処分する事を承くるは、奏審して方に行うべし」と。これに従う。既にして内諸司の楽しまざるを以て、前命を収む。俊卿言す、「張方・王琪の事、聖断已に明らかなり、忽ち臣に諭して曰く、『禁中一飲一食を取るも、必ず申審を待つ、豈に留滞せざらんや』と。臣の慮る所は、命令の大なるもの、三衙の兵を発し、戸部の財を取るが如き、豈に宮禁の細微の事の為めならんや。臣等数に備わり、陛下の命令を出内するのみ。凡そ奏審は陛下に取決せんと欲するなり、臣の専らにせんと欲するに非ず、且つ新条に非ず、旧制を申するのみ。已に行いて復た収む、中外惶惑す、小人の疑似を以て聖怒を激するを恐る」と。上曰く、「朕豈に小人の言を以て卿等を疑わんや」と。

原文先是,禁中密旨直下諸軍,宰相多不預聞,內官張方事覺,俊卿奏:「自今百司承御筆處分事,須奏審方行。」從之。既而以內諸司不樂,收前命。俊卿言:「張方、王琪事,聖斷已明,忽諭臣曰:『禁中取一飲一食,必待申審,豈不留滯。』臣所慮者,命令之大,如三衙發兵,戶部取財,豈為宮禁細微事。臣等備數,出內陛下命令耳。凡奏審欲取決陛下,非臣欲專之,且非新條,申舊制耳。已行復收,中外惶惑,恐小人以疑似激聖怒。」上曰:「朕豈以小人言疑卿等耶?」

同知樞密院事劉珙進み対し、争辨激切、旨に忤う、既に退き、手詔して珙を除して端明殿學士と為し、外祠に奉ぜしむ。俊卿即ちこれを蔵め去り、密かに奏す、「前日の奏劄、臣実に草定す、罪有りと為せば、臣当に先ず罷まるべし。珙の除命、未だ敢えて詔を奉ぜず。陛下即位以来、諫諍を納れ、大臣を体する、皆盛徳の事なり。今珙小事を以て罪を得たり、臣これより大臣皆阿順して祿を持するに至らんことを恐る、国家の福に非ず」と。上色悔ゆること久しく、命じて珙に江西を帥せしむ。俊卿退き自ら劾す、上手劄してこれを留め、且つ曰く、「卿百請すとも、朕必ず従わじ」と。

原文同知樞密院事劉珙進對,爭辨激切,忤旨,既退,手詔除珙端明殿學士,奉外祠。俊卿即藏去,密具奏:「前日奏劄,臣實草定,以為有罪,臣當先罷。珙之除命,未敢奉詔。陛下即位以來,納諫諍,體大臣,皆盛德事。今珙以小事獲罪,臣恐自此大臣皆阿順持祿,非國家福。」上色悔久之,命珙帥江西。俊卿退自劾,上手劄留之,且曰:「卿雖百請,朕必不從。」

四年十月、制を授けて尚書右僕射・同中書門下平章事兼樞密使と為す。俊卿人を用いることを以て己が任と為し、除く所の吏皆一時の選、廉退を奨め、奔競を抑う。或いは才用いる可く、資歴浅きは、密かに上に薦め、嘗て人に語さず。毎に朝士及び牧守の遠より至るに接すれば、必ず時政の得失、人才の賢否を以て問う。

原文四年十月,制授尚書右僕射、同中書門下平章事兼樞密使。俊卿以用人為己任,所除吏皆一時選,獎廉退,抑奔競。或才可用,資歷淺,密薦於上,未嘗語人。每接朝士及牧守自遠至,必問以時政得失,人才賢否。

虞允文四川を宣撫す、俊卿その相たるに堪うる才を薦む。五年正月、上允文を召して樞密使と為し、至れば則ち以て右相と為し、俊卿を左相と為す。允文建議して金に使を遣わし陵寢を以て請わしめんとす、俊卿面陳し、復た手疏して以て未だ可からずと為す。上孤矢に御す、弦激して目眚を致す、六月始めて便殿に御す。俊卿疏して曰く、「陛下経月外朝に御せず、口語籍籍、皆輔相無状、事に先んじて開陳すること能わず、聖徳を虧損すと。陛下憂勤恭儉、清静寡欲、前代英主の免れざる所の者皆屏絶す、顧みるに騎射の末に猶お未だ能く忘れず。臣知る、此を楽むに非ざるを、恢復を図るの志有り、故に俯して事に従い、以て武備を閲し、士気を激するのみ。願わくは陛下智謀を任じ、賞罰を明らかにし、信義を恢めば、則ち英声義烈、尊俎を越えず、固より已に敵人の万里の遠を震駭せしめん、豈に区々たる騎射を百歩の間に待たんや。陛下一身、宗社生霊の休戚繫る、願わくは今日の事を以て、永く後戒と為さんことを」と。

原文虞允文宣撫四川,俊卿薦其才堪相。五年正月,上召允文為樞密使,至則以為右相,俊卿為左相。允文建議遣使金以陵寢為請,俊卿面陳,復手疏以為未可。上御孤矢,弦激致目眚,六月始御便殿。俊卿疏曰:「陛下經月不御外朝,口語籍籍,皆輔相無狀,不能先事開陳,虧損聖德。陛下憂勤恭儉,清靜寡欲,前代英主所不能免者皆屏絕,顧於騎射之末猶未能忘。臣知非樂此,志圖恢復,故俯而從事,以閱武備,激士氣耳。願陛下任智謀,明賞罰,恢信義,則英聲義烈,不越尊俎,固已震懾敵人於萬里之遠,豈待區區騎射于百步間哉。陛下一身,宗社生靈之休戚繫焉,願以今日之事,永為後戒。」

曾覿官満ち当に代わるべし、俊卿預め請うて浙東総管に処せんとす。上曰く、「覿の意此の官を為さんと欲せざるに似たり」と。俊卿曰く、「此に先だち陛下二人を去りし、公論甚だ愜えり。願わくは私恩を捐て、公議を伸べよ」と。覿怏怏として去る。樞密承旨張説親戚の為に官を求め、俊卿を憚りて敢えて言わず、会に告に在り、允文に請うて之を得たり。俊卿勅の已に出づるを聞き、吏に語りてこれを留む。説惶恐として来たり謝し、允文も亦愧じ、猶お之が為に請う、俊卿竟に与えず、説深くこれを憾む。吏部尚書汪応辰允文と議事合わず、去らんことを求め、俊卿数え奏す、応辰剛毅正直、執政と為す可しと。上初め之を然りとす、後竟に応辰を出して平江を守らしむ。ここより上意允文に向かい、而して俊卿も亦数え去らんことを求む。

原文曾覿官滿當代,俊卿預請處以浙東總管。上曰:「覿意似不欲為此官。」俊卿曰:「前此陛下去二人,公論甚愜。願捐私恩,伸公議。」覿怏怏而去。樞密承旨張說為親戚求官,憚俊卿不敢言,會在告,請于允文,得之。俊卿聞敕已出,語吏留之。說惶恐來謝,允文亦愧,猶為之請,俊卿竟不與,說深憾之。吏部尚書汪應辰與允文議事不合,求去,俊卿數奏應辰剛毅正直,可為執政。上初然之,後竟出應辰守平江。自是上意向允文,而俊卿亦數求去。

明年、允文復た陵寢の議を申す、上手劄して俊卿に諭す、俊卿奏す、「陛下祖宗を痛念し、故疆を復さんと思わば、臣疲駑と雖も、豈に激昂して聖謨を仰贊するを知らざらんや、然れども大事に於いては其の万全を計らんと欲し、一二年の間を俟ち、吾が事力稍く充つるに及びて乃ち可なり、敢えて意指に迎合して国事を誤らざらん」と。即ち門を杜して去らんことを請い、観文殿大学士を以て福州を帥す。陛辞に、猶お上に佞を遠ざけ賢に親しみ、政を修め敵を攘わんことを勧め、泛使未だ軽く遣わす可からずとす。既にして去り、允文卒に使を遣わすも、終に要領を得ず。曾覿も亦召し還され、節鉞を建て、保傅に躋り、而して士大夫敢えて言う者莫し。

原文明年,允文復申陵寢之議,上手劄諭俊卿,俊卿奏:「陛下痛念祖宗,思復故疆,臣雖疲駑,豈不知激昂仰贊聖謨,然于大事欲計其萬全,俟一二年間,吾之事力稍充乃可,不敢迎合意指誤國事。」即杜門請去,以觀文殿大學士帥福州。陛辭,猶勸上遠佞親賢,修政攘敵,泛使未可輕遣。既去,允文卒遣使,終不得要領。曾覿亦召還,建節鉞,躋保傅,而士大夫莫敢言。

俊卿福州に至り、政寛厚を尚び、盗を治むるに厳しく、海道晏清、功を以て秩を進む。転運判官陳峴建議して鈔塩法を行わんと改む、俊卿宰執に書を移し、極言して福建の塩法は淮・浙と異なるを、遂に果たして行わず。明年、祠を請い、洞霄宮を提挙す。第に帰り、弊屋数楹、怡然として介意せず。

原文俊卿至福州,政尚寬厚,嚴於治盜,海道晏清,以功進秩。轉運判官陳峴建議改行鈔鹽法,俊卿移書宰執,極言福建鹽法與淮、浙異,遂不果行。明年,請祠,提舉洞霄宮。歸第,弊屋數楹,怡然不介意。

淳熙二年、再び福州知事を命ぜられる。累次上書して帰郷を請い、特進を授けられ、建康府判官兼江東安撫使として起用される。垂拱殿に召し出されて対し、座を賜り茶を賜う。そこで従容として言う、「将帥は公選によるべきです。臣は諸将が多く賄賂によって得たと聞きます。曾覿・王抃が権を招き賄賂を受け、人を進めること皆、中批(内廷の裁可)によって行われています。贓吏はすでに審理を終えているのに、内批によって改正されるならば、何をもって勧懲としましょうか」。上曰く、「卿の言は甚だ当たっている」。朝辞の際、奏上して曰く、「国を去ること十年、都城にて穀物安く人安らかなるを見ましたが、ただ士大夫の風俗が大いに変わりました」。上曰く、「どうか」。俊卿曰く、「以前、士大夫が曾覿・王抃の門に奔走する者は十に一二、なお人に知られるのを畏れましたが、今では公然と趨り附く者が既に七八に及び、もはや顧み憚ることがありません。人材の進退が私門によって行われるのは、朝廷の美事とは大いに異なります」。上曰く、「王抃はそうではあるまい。曾覿は時折請うことがあるが、朕は多く抑えてきた。今後はもはや従わぬ」。俊卿曰く、「この輩の声勢が既に長じ、侍従・台諫も多くその門下に出て、陛下に言うことを敢えてしません。臣は朝廷の紀綱が壊れ、有司の法度が廃れ、天下の風俗が敗れ、陛下の聖徳に累いすることを恐れます」。二府に命じて浙江亭にて餞別を行わせる。

原文淳熙二年,再命知福州。累章告歸,除特進,起判建康府兼江東安撫。召對垂拱殿,命坐賜茶,因從容言曰:「將帥當由公選,臣聞諸將多以賄得。曾覿、王抃招權納賄,進人皆以中批行之。贓吏已經結勘,而內批改正,將何所勸懲?」上曰:「卿言甚當。」朝辭,奏曰:「去國十年,見都城穀賤人安,惟士大夫風俗大變。」上曰:「何也?」俊卿曰:「向士大夫奔覿、抃之門,十纏一二,尚畏人知,今則公然趨附已七八,不復顧忌矣。人材進退由私門,大非朝廷美事。」上曰:「抃則不敢。覿雖時或有請,朕多抑之,自今不復從矣。」俊卿曰:「此曹聲勢既長,侍從、臺諫多出其門,毋敢為陛下言,臣恐壞朝廷紀綱,廢有司法度,敗天下風俗,累陛下聖德。」命二府飲餞浙江亭。

俊卿が建康を去ること十五年、父老はその再来を喜ぶ。政は寛簡にして、無名の賦を罷む。時に御前では多く「白札」が行われ、左右の私人を用いて持送させたが、俊卿は不便を奏上し、上は手札を下して褒め諭した。少保を授けられ、建康府判官はもと通り。八年、上章して老齢を告げ、少師・魏国公をもって致仕す。十三年十一月薨去、年七十四。病に臥せりし時、手書して諸子に示す、「遺表はただ聖恩に謝するのみとし、恩沢及び功德を祈らず、諡号を請い碑を樹てることを求むるなかれ」。上聞きて嘆悼し、視朝を輟み、太保を追贈し、本路転運司に葬事を給することを命じ、諡を「正献」と賜う。

原文俊卿去建康十五年,父老喜其再來。為政寬簡,罷無名之賦。時御前多行「白劄」,用左右私人持送,俊卿奏非便,上手劄獎諭。除少保,判建康府如故。八年上章告老,以少師、魏國公致仕。十三年十一月薨,年七十四。方屬疾,手書示諸子云:「遺表止謝聖恩,勿祈恩澤及功德,勿請諡樹碑。」上聞嗟悼,輟視朝,贈太保,命本路轉運司給葬事,賜諡「正獻」。

俊卿は孝友忠敬、天資より得、清厳にして礼を好み、終日惰慢の容なし。平居は恂恂として言えぬが如しと雖も、朝廷に在りては正色危論、邪正を分別し、権勢を斥けて顧み憚ること無し。凡そ奏請する所は、治乱安危の大なる者に関す。常に汪応辰・李燾と善くし、特に朱熹を敬い、屡々嘗て論薦す。その薨ずるや、熹は遠く千里を隔てずして往きて哭し、又その行状を記す。文集二十巻有り。

原文俊卿孝友忠敬,得於天資,清嚴好禮,終日無惰容。平居恂恂若不能言,而在朝廷正色危論,分別邪正,斥權勢無顧避。凡所奏請,關治亂安危之大者。雅善汪應辰、李燾,尤敬朱熹,屢嘗論薦。其薨也,熹不遠千里往哭之,又狀其行。有集二十卷。

子五人、宓は学に志有り、終に承奉郎に至る。朱熹その墓の銘を作る。宓は自ら伝有り。

原文子五人,宓有志於學,終承奉郎,朱熹為銘其墓。宓自有傳。

虞允文

原文虞允文

虞允文、字は彬甫、隆州仁寿の人。父の祺、政和年間の進士に及第し、官は太常博士・潼川路転運判官に至る。允文六歳にして『九経』を誦し、七歳にして文を属す。父の任により官に入る。母の憂いに遭い、哀毀骨立す。葬った後、朝夕墓側に哭す。墓に枯桑有り、二羽の烏来たりて巣くう。父が鰥にして且つ疾あるを思い、七年間転任せず、跬歩も左右を離れんことを忍ばず。父死す。紹興二十三年始めて進士に登第し、彭州通判、権知黎州・渠州を歴任す。

原文虞允文,字彬甫,隆州仁壽人。父祺,登政和進士第,仕至太常博士、潼川路轉運判官。允文六歲誦《九經》,七歲能屬文。以父任入官。丁母憂,哀毀骨立。既葬,朝夕哭墓側,墓有枯桑,兩烏來巢。念父之鰥且疾,七年不調,跬步不忍離左右。父死,紹興二十三年始登進士第,通判彭州,權知黎州、渠州。

秦檜が国政を執る時、蜀しょくの士人多くは屏棄された。檜の死後、高宗は之を用いんと欲し、中書舎人趙達がまず允文を推薦す。召し出されて対し、人君は必ず天を畏れ、必ず民を安んじ、必ず祖宗に法らねばならぬと謂う。又、士風の弊を論じ、文章によって進む者は必ずその軽浮を抑え、言語によって進む者は必ずその巧偽を退け、政事によって進む者は必ずその苛刻を去らしめ、庶幾くば重任に堪え遠きに致すべしと。且つ四川の財賦科納の弊を極論す。上嘉納す。

原文秦檜當國,蜀士多屏棄。檜死,高宗欲收用之,中書舍人趙達首薦允文,召對,謂人君必畏天,必安民,必法祖宗。又論士風之弊,以文章進必抑其輕浮,以言語進必黜其巧偽,以政事進必去其苛刻,庶可任重致遠。且極論四川財賦科納之弊。上嘉納之。

秘書丞を授かり、累遷して礼部郎官となる。金主亮が汴京を修築し、既に南侵の意有り。王倫還り、敵は恭順にして和好すと言う。湯思退再拝して賀し、辺備を置きて問わず。及んで金使施宜生が頗る敵情を漏らし、張燾密かに之を奏す。亮は又、画工を隠し臨安の湖山を図させて帰らしむ。亮詩を賦し、情益々露わなり。允文上疏して言う、「金必ず盟を敗らん。兵を出すに五道有り。願わくは大臣に詔して予め防禦を考えしめよ」。時に三十年正月なり。十月、工部尚書を借りて賀正使を充て、館伴と賓射す。一発的に的を破り、衆驚異す。允文は糧を運び舟を造る者多きを見て、辞して帰らんとす。亮曰く、「我将に洛陽らくようにて花を見ん」。允文還り、見聞した所及び亮の語を奏上し、淮・海の備えを申し言う。

原文除秘書丞,累遷禮部郎官。金主亮修汴,已有南侵意。王倫還,言敵恭順和好。湯思退再拜賀,置邊備不問。及金使施宜生頗泄敵情,張燾密奏之。亮又隱畫工圖臨安湖山以歸。亮賦詩,情益露。允文上疏言:「金必敗盟,兵出有五道,願詔大臣豫思備禦。」時三十年正月也。十月,借工部尚書充賀正使,與館伴賓射,一發破的,眾驚異之。允文見運糧造舟者多,辭歸,亮曰:「我將看花洛陽。」允文還,奏所見及亮語,申言淮、海之備。

中書舎人・直学士院を授かる。三衙管軍が宦官を以て承受に充てる。允文言う、「古より人主の大権は、姦臣に移らざれば、則ち近幸に落つ。秦檜権を盗むこと十有八年、檜死して、権は陛下に帰す。近頃三衙が中官と交結す。宣和・明受の鑑遠からず」。上大いに悟り、直ちに之を罷む。

原文除中書舍人、直學士院。三衙管軍以宦寺充承受,允文言:「自古人主大權,不移于姦臣,則落於近幸。秦檜盜權十有八年,檜死,權歸陛下。邇來三衙交結中官,宣和、明受厥鑒未遠。」上大悟,立罷之。

金使王全・高景山、生辰を賀すために来朝し、口伝にて亮の悖慢なる語を伝え、淮南の地を得んと欲し、将相大臣を索めて事を議せんとす。ここにおいて三衙大将趙密等を召して挙兵を議し、侍従・台諫を集めて議す。宰臣陳康伯、上旨を伝う、「今日は更に和と守とを問わず、直ちに戦い当に如何にすべきかを問う」。成閔を遣わして京湖制置使と為し、禁衛五万を将いて襄・漢の上流を防がしむ。允文曰く、「兵来たりて道を除かず。敵は虚声を以て我が兵を分かち、その淮に出づる姦謀を成さんとするのみ」。聴かず、卒に閔を遣わす。七月、金主亮汴京に遷る。允文復た康伯に語す、「閔軍の行程は江・池に約す。宜しく池に到る者は池に駐め、江に到る者は江に駐めしむべし。若し敵兵上流に出ずれば、則ち荊湖の軍は前にて捍ぎ、江・池の軍は後にて援けよ。若し淮西に出ずれば、則ち池の軍は巢県より出で、江州軍は無為より出で、淮西の援けと為すべし。是れ一軍にして両用と為すなり」。康伯その説に然りとす。而して閔軍は竟に武昌に屯す。

原文金使王全、高景山來賀生辰,口傳亮悖慢語,欲得淮南地,索將相大臣議事。於是召三衙大將趙密等議舉兵,侍從、臺諫集議。宰臣陳康伯傳上旨:「今日更不問和與守,直問戰當如何。」遣成閔為京湖制置使,將禁衛五萬禦襄、漢上流。允文曰:「兵來不除道,敵為虛聲以分我兵,成其出淮姦謀爾。」不聽,卒遣閔。七月,金主亮徙汴,允文復語康伯:「閔軍約程在江、池,宜令到池者駐池,到江者駐江。若敵兵出上流,則荊湖之軍捍于前,江、池之軍援於後;若出淮西,則池之軍出巢縣,江州軍出無為,可為淮西援,是一軍而兩用之。」康伯然其說,而閔軍竟屯武昌。

九月、金主李通を大都督に命じ、淮水上に浮梁を造らしむ。金主自ら将たり、兵号百万、氈帳相望み、鉦鼓の声絶えず。十月、渦口より淮を渡る。先んじて、劉錡は淮東を措置し、王権は淮西を措置す。ここに至り、権まず廬州を棄て、錡も亦た揚州に回る。中外震恐す。上航海せんと欲す。陳康伯力めて親征を賛す。是の月戊午、枢臣葉義問、江・淮軍を督し、允文軍事に参謀す。権又た和州より遁れ帰り、錡は鎮江に回り、両淮を尽く失う。

原文九月,金主命李通為大都督,造浮梁于淮水上。金主自將,兵號百萬,氈帳相望,鉦鼓之聲不絕。十月,自渦口渡淮。先是,劉錡措置淮東,王權措置淮西。至是,權首棄廬州,錡亦回揚州,中外震恐。上欲航海,陳康伯力贊親征。是月戊午,樞臣葉義問督江、淮軍,允文參謀軍事。權又自和州遁歸,錡回鎮江,盡失兩淮矣。

十一月壬申、金主大軍を率いて采石に臨み、別に兵を以て瓜洲を争わしむ。朝命成閔に錡を代わらしめ、李顕忠に権を代わらしむ。錡・権は皆召還さる。義問旨を受け、允文に蕪湖に往きて顕忠を促し権軍を交わらしめ、且つ采石にて師を犒うことを命ず。時に権軍は猶采石に在り。丙子、允文采石に至る。権は既に去り、顕忠は未だ来たらず。敵騎充満す。我が師は三三五五散在し、鞍を解き甲を束ね道傍に坐すは、皆権の敗兵なり。允文、坐して顕忠を待てば国事を誤らんと謂い、遂に立ちて諸将を招き、忠義を以て勉め、曰く、「金帛・告命皆ここに在り、功有るを待つ」。衆曰く、「今既に主有り、請う死戦せん」。或いは曰く、「公は命を受けて師を犒うも、命を受けて戦を督するには非ず。他人之を壊さんに、公その咎を任すべきか」。允文之を叱して曰く、「社稷に危き及び、吾将に何くにか避けん」。

原文十一月壬申,金主率大軍臨采石,而別以兵爭瓜洲。朝命成閔代錡、李顯忠代權,錡、權皆召。義問被旨,命允文往蕪湖趣顯忠交權軍,且犒師采石,時權軍猶在采石。丙子,允文至采石,權已去,顯忠未來,敵騎充斥。我師三五星散,解鞍束甲坐道旁,皆權敗兵也。允文謂坐待顯忠則誤國事,遂立招諸將,勉以忠義,曰:「金帛、告命皆在此,待有功。」眾曰:「今既有主,請死戰。」或曰:「公受命犒師,不受命督戰,他人壞之,公任其咎乎?」允文叱之曰:「危及社稷,吾將安避?」

江辺に至ると、江北には既に高台が築かれ、向かい合って緋色の旗二本、刺繍の旗二本が立てられ、中央に黄色い屋根の御座が設けられ、亮がその下に踞って坐しているのを見た。間者が言うには、前日に白黒の馬を殺して天を祭り、衆と盟を結び、明日に江を渡り、朝食を玉麟堂で取り、先に渡る者には黄金一両を与えると約したという。当時、敵兵は実に四十万、馬はその倍、宋軍はわずか一万八千であった。允文は諸将に命じて大陣を列ねて動かさず、戈船を五隊に分け、その二隊は東西の岸に沿って進ませ、一隊は中流に駐屯させ、精兵を隠して戦いを待たせ、二隊は小港に隠し、不測の事態に備えさせた。配置がようやく終わると、敵は既に大声で叫び、亮は小さな赤旗を操って数百艘の船を指揮し、江を渡って来た。瞬く間に南岸に到達したのは七十艘、まっすぐに宋軍に迫り、軍は少し後退した。允文は陣中に入り、時俊の背を撫でて言った、「汝の胆略は四方に聞こえている。陣の後に立てば、それは児女子に過ぎぬ」。俊は即座に双刀を揮って出陣し、兵士は決死の戦いをした。中流の官軍もまた海鰍船で敵を衝き、敵船は皆平らに沈み、敵は半ば死に半ば戦い、日暮れになっても退かなかった。折しも光州から潰走した軍が到着したので、允文はこれに旗鼓を与え、山の後ろから回り出させた。敵は援軍が来たと疑い、ようやく逃げ去った。また強弓を持たせて追撃し、これを大いに破り、斃れた屍は合わせて四千余、万戸二人を殺し、千戸五人及び生女真五百余人を捕虜とした。江で死ななかった敵兵は、亮がことごとく敲き殺した。江に出て戦わなかったことを怒ったのである。勝利を奏聞し、将士を労い、彼らに言った、「敵は今敗れたが、明日は必ずまた来るであろう」。夜半、諸将に配置を命じ、海舟を分けて上流に繋がせ、別に兵を遣わして楊林口を遮断させた。丁丑、敵は果たして来襲したので、挟撃し、再び大戦し、その船三百を焼き、ようやく逃げ去った。再び勝利を奏聞した。やがて敵は偽の詔書を遣わして王権を諭し、あたかも以前からの約束があるかのようであった。允文は言った、「これは反間の計である」。依然として返書を書き、「権は既に典憲に処せられ、新たな将は李世輔である。願わくば一戦して雌雄を決せん」と述べた。亮は書を得て大いに怒り、遂に龍鳳車を焼き、梁漢臣及び船を造った者二人を斬り、瓜洲に向かった。漢臣は、亮に江を渡ることを教えた者である。

原文至江濱,見江北已築高臺,對植絳旗二、繡旗二,中建黃屋,亮踞坐其下。諜者言,前一日刑白黑馬祭天,與眾盟,以明日濟江,晨炊玉麟堂,先濟者予黃金一兩。時敵兵實四十萬,馬倍之,宋軍才一萬八千。允文乃命諸將列大陣不動,分戈船為五,其二並東西岸而行,其一駐中流,藏精兵待戰,其二藏小港,備不測。部分甫畢,敵已大呼,亮操小紅旗麾數百艘絕江而來,瞬息,抵南岸者七十艘,直薄宋軍,軍小卻。允文入陣中,撫時俊之背曰:「汝膽略聞四方,立陣後則兒女子爾。」俊即揮雙刀出,士殊死戰。中流官軍亦以海鰍船衝敵,舟皆平沉,敵半死半戰,日暮未退。會有潰軍自光州至,允文授以旗鼓,從山後轉出,敵疑援兵至,始遁。又命勁弓尾擊追射,大敗之,僵屍凡四千餘,殺萬戶二人,俘千戶五人及生女真五百餘人。敵兵不死于江者,亮悉敲殺之,怒其不出江也。以捷聞,犒將士,謂之曰:「敵今敗,明必復來。」夜半,部分諸將,分海舟縋上流,別遣兵截楊林口。丁丑,敵果至,因夾擊之,復大戰,焚其舟三百,始遁去,再以捷聞。既而敵遣偽詔來諭王權,似有宿約。允文曰:「此反間也。」仍復書言:「權已置典憲,新將李世輔也,願一戰以決雌雄。」亮得書大怒,遂焚龍鳳車,斬梁漢臣及造舟者二人,乃趨瓜洲。漢臣,教亮濟江者也。

顯忠が蕪湖から到着すると、允文は彼に言った、「敵が揚州に入れば、必ず瓜洲の兵と合流し、京口には備えがない。私はそこへ行かねばならぬ。公は兵を分けて助けてくれまいか」。顯忠は李捧の軍一万六千を分けて京口へ向かわせ、葉義問もまた楊存中に命じて配下の軍を率いて来会させた。允文は建康に戻り、即座に上疏して言った、「敵は采石で敗れ、瓜洲で僥倖を狙うであろう。今、我が精兵は京口に集結し、慎重に待てば、一戦して勝つことができる。どうか六飛の発進を少し緩めてくださるようお願いいたします」。

原文顯忠至自蕪湖,允文語之曰:「敵入揚州,必與瓜洲兵合,京口無備,我當往,公能分兵相助乎?」顯忠分李捧軍萬六千往京口,葉義問亦命楊存中將所部來會。允文還建康,即上疏言:「敵敗於采石,將徼幸於瓜洲。今我精兵聚京口,持重待之,可一戰而勝。乞少緩六飛之發。」

甲申、京口に到着した。敵は重兵を滁河に駐屯させ、三つの水門を造って水を貯え、深さ数尺とし、瓜洲口を塞いでいた。当時、楊存中、成閔、邵宏淵らの諸軍は皆京口に集結し、二十万を下らず、ただ海鰍船は百に満たず、戈船はその半分であった。允文は、風があれば戦船を使い、風がなければ戦艦を使うべきで、数が少ないと用が足りない恐れがあると言った。そこで材木を集めて鉄を鍛え、馬船を戦艦に改造し、かつ平江から借り受け、張深に命じて滁河口を守らせ、大江の要衝を扼させ、苗定を下蜀に駐屯させて援軍とした。庚寅、亮が瓜洲に到着すると、允文は存中と共に江辺で試験を行い、戦士に命じて車船を中流で上下させ、三度金山を周回させた。回転すること飛ぶが如く、敵は弓を引き絞って待ち構え、互いに見合わせて驚愕した。亮は笑って言った、「紙の船に過ぎぬ」。一人の将が跪いて奏上した、「南軍には備えがあります。軽々しく攻めてはなりません。揚州に駐屯し、徐々に進取を図ることを願います」。亮は怒り、斬ろうとしたが、将が長く哀願して謝罪したので、五十回杖打った。乙未、亮はその部下に殺された。

原文甲申,至京口。敵屯重兵滁河,造三閘儲水,深數尺,塞瓜洲口。時楊存中、成閔、邵宏淵諸軍皆聚京口,不下二十萬,惟海鰍船不滿百,戈船半之。允文謂遇風則使戰船,無風則使戰艦,數少恐不足用。遂聚材治鐵,改修馬船為戰艦,且借之平江,命張深守滁河口,扼大江之衝,以苗定駐下蜀為援。庚寅,亮至瓜洲,允文與存中臨江按試,命戰士踏車船中流上下,三周金山,回轉如飛,敵持滿以待,相顧駭愕。亮笑曰:「紙船耳。」一將跪奏:「南軍有備,未可輕,願駐揚州,徐圖進取。」亮怒,欲斬之,哀謝良久,杖之五十。乙未,亮為其下所殺。

初め、亮が瓜洲にいた時、李宝が海路から膠西に入り、成閔らの諸軍がちょうど流れに沿って下って来ると聞き、亮はますます怒った。揚州に戻り、諸将を召して三日以内に江を渡ることを約束し、そうでなければ皆殺しにすると言った。諸将は謀って言った、「進めば溺れ殺される禍いがあり、退けば敲き殺される憂いがある。どうしたものか」。万戴という者が言った、「郎主を殺し、南宋と通和して故郷に帰れば生き延びられる」。衆は言った、「承知した」。亮には紫茸細軍がおり、戦陣には臨まず、常に自衛に用いていた。衆はこれを憂い、蕭遮巴という者が彼らを欺いて言った、「淮東の子女玉帛は皆海陵に集まっている」。かつ唆して行かせた。細軍が去った後、亮は死んだ。

原文初,亮在瓜洲,聞李寶由海道入膠西,成閔諸軍方順流而下,亮愈怒。還揚州,召諸將約三日濟江,否則盡殺之。諸將謀曰:「進有渰殺之禍,退有敲殺之憂,奈何?」有萬戴者曰:「殺郎主,與南宋通和歸鄉則生矣。」眾曰:「諾。」亮有紫茸細軍,不臨陣,恒以自衛,眾患之,有蕭遮巴者紿之曰:「淮東子女玉帛皆聚海陵。」且嗾使往,細軍去而亮死。

丙申、敵は退いて三十里に駐屯し、使者を遣わして和議を求めた。己亥、これを奏聞した。召されて入対し、上は慰労し賞賛して歎じ、陳俊卿に言った、「虞允文の公忠は天性より出でたもの。朕の裴度である」。詔して扈従を免じ、両淮の措置に向かわせた。允文は鎮江に至り、両淮を収める三つの策を上奏したが、返答はなかった。

原文丙申,敵人退屯三十里,遣使議和。己亥,奏聞。召入對,上慰藉嘉歎,謂陳俊卿曰:「虞允文公忠出天性,朕之裴度也。」詔免扈從,往兩淮措置。允文至鎮江,奏收兩淮三策,不報。

翌年正月、上は建康に到着した。間もなく回鑾を議し、詔して楊存中を江淮・荊襄路宣撫使とし、允文をその副使とした。給事中・中書舎人が存中の任命を封還したので、ここに允文は川陝宣諭使を充てられた。陛辞に際し、言った、「金の亮が既に誅殺され、新主が初めて立ち、彼の国はまさに乱れている。天が我が恢復を助けているのである。和すれば海内の気勢は沮喪し、戦えば海内の気勢は伸びる」。上はこれを然りとした。允文が蜀に至ると、大将の吳璘と中原経略を議し、璘は鳳翔を進取し、鞏州を回復した。金は兵を治めて陝西の新たに回復した州郡を争い、蜀の士人はこれを棄てようとしたが、允文は反対を主張した。

原文明年正月,上至建康。尋議回鑾,詔以楊存中充江淮、荊襄路宣撫使,允文副之。給、舍繳存中除命,於是允文充川陝宣諭使。陛辭,言:「金亮既誅,新主初立,彼國方亂,天相我恢復也。和則海內氣沮,戰則海內氣伸。」上以為然。允文至蜀,與大將吳璘議經略中原,璘進取鳳翔,復鞏州。金治兵爭陝西新復州郡,蜀士欲棄之,允文持不可。

孝宗が禅を受けられると、朝臣に西事を言う者がおり、官軍が進討するには、東は宝雞を過ぎてはならず、北は徳順を過ぎてはならず、かつ忠義人を用いて新たに回復した州郡を守らせ、官軍は蜀口に退いて守るべきだと主張した。允文はこれと争ったが及ばず、吳璘は遂に河池に帰った。これは参知政事史浩の議を用い、陝西をことごとく棄てようとしたのであり、臺諫の袁季、任古がその説に附和した。允文は再び上疏し、大略において言った、「恢復は陝西に先んずるものはなく、陝西五路の新たに回復した州県はまた徳順の存亡にかかっている。一旦これを棄てれば、蜀を窺う路はますます多くなり、西和、階、成の利害は極めて重大である」。前後合わせて十五度上疏し、かつ陳康伯に書を送ったが、康伯は同列に牽制され、翻意させることができなかった。上は允文を召して陝西の事を問おうとしたが、執政は彼が来るのを忌み、顯謨閣直學士として夔州知州とし、間もなくまた奏事を命じた。

原文孝宗受禪,朝臣有言西事者,謂官軍進討,東不可過寶雞,北不可過德順,且欲用忠義人守新復州郡,官軍退守蜀口。允文爭之不得,吳璘遂歸河池,蓋用參知政事史浩議,欲盡棄陝西,臺諫袁季、任古附和其說。允文再上疏,大略言:「恢復莫先於陝西,陝西五路新復州縣又係於德順之存亡,一旦棄之,則窺蜀之路愈多,西和、階、成,利害至重。」前後凡十五疏,且移書陳康伯,康伯牽于同列,不能回也。上將召允文問陝西事,執政忌其來,以顯謨閣直學士知夔州,尋又命奏事。

隆興元年に入対した。史浩は既に以前から棄地を主張しており、宰相に拝されると、急いでこれを実行し、かつ自ら詔書を作り、その中に「鶏肋の多からざるを棄て、狼心の未だ已まざるを免る」とあった。允文は入対して言った、「今日には八つの戦うべき理由がある」。上が棄地について問うと、允文は笏で地面を画き、その利害を陳べた。上は言った、「これは史浩が朕を誤らせたのである」。敷文閣待制として太平州知州とし、間もなく兵部尚書・湖北京西宣撫使に除し、制置使に改めた。

原文隆興元年入對,史浩既素主棄地,及拜相,亟行之,且親為詔,有曰:「棄雞肋之無多,免狼心之未已。」允文入對言:「今日有八可戰。」上問及棄地,允文以笏畫地,陳其利害。上曰:「此史浩誤朕。」以敷文閣待制知太平州,尋除兵部尚書、湖北京西宣撫使,改制置使。

当時、朝廷は盧仲賢を遣わして金に和議を議わせ、湯思退はまた唐、鄧、海、泗を棄てようとし、手詔には唐・鄧は険要でなく、度外視してよいとあった。允文は五度上疏して力爭した。思退は怒り、即座に奏上して言った、「これらは皆、利害が己に切実でないため、大言を吐いて国を誤り、美名を邀えようとするものである。宗社の大事は、どうして戯れと同じであろうか」。上意は遂に定まった。思退は表面上允文を召還するよう請うたが、実は彼を去らせようとしたのである。允文は官印を返上し、なおも四州を棄ててはならないと請い、致仕を乞うた。詔して顯謨閣學士として平江府知府とした。思退は遂に和議を決行し、唐・鄧を割譲した。

原文時朝廷遣盧仲賢使金議和,湯思退又欲棄唐、鄧、海、泗,手詔謂唐、鄧非險要,可置度外,允文五上疏力爭。思退怒,即奏曰:「此皆以利害不切於己,大言誤國,以邀美名。宗社大事,豈同戲劇。」上意遂定。思退陽請召允文,實欲去之也。允文上印,猶以四州不可棄為請,乞致仕。詔以顯謨閣學士知平江府。思退竟決和議,割唐、鄧。

二年、金兵が再び到来し、思退は貶官された。上は允文の言を用いなかったことを悔いた。陳俊卿もまた允文が大用に堪えると推薦し、端明殿學士・同簽書樞密院事に除した。

原文二年,金兵復至,思退貶,上悔不用允文言。陳俊卿亦薦允文堪大用,除端明殿學士、同簽書樞密院事。

乾道元年、参知政事を拝命し、枢密院事を兼ねる。この秋、金が完顔仲を遣わして議事あり、傲慢にして礼を失す。允文はこれを斬ることを請うたが、朝廷に異論あり、果たさず。時に錢端禮が李宏の玉帯を受け取った事件が起こり、事が允文に連座し、御史の章服に論ぜられ、政務を罷め、祠官を奉じて西に帰る。

原文乾道元年,拜參知政事兼知樞密院事。是秋,金遣完顏仲有所議,偃蹇不敬,允文請斬之,廷有異論,不果。會錢端禮受李宏玉帶,事連允文,為御史章服所論,罷政,奉祠西歸。

三年二月、闕下に召され、枢密院事を除され参知政事を兼ねる。吳璘が卒す。後任を選ぶ議あり、上は允文に諭して曰く、「吳璘既に卒せり。汪應辰は恐らく軍事に習わず、卿に代える者なし。凡そ事は張浚の迂闊なるを倣うべからず。軍前の事は、卿一一親ら臨むべし。」即ち資政殿大学士・四川宣撫使を拝命し、尋いで詔して旧の如く枢密院事を知らしむ。蜀に帰ること一月、闕下に召され、数ヶ月ならずして再び蜀に使わす。太上より御書『聖主得賢臣頌』を賜い、上またそのために跋文を制し、陛辞の際、さらに御用の双履と甲冑を賜う。

原文三年二月,召至闕,除知樞密院事兼參知政事。吳璘卒,議擇代,上諭允文曰:「吳璘既卒,汪應辰恐不習軍事,無以易卿。凡事不宜效張浚迂闊,軍前事,卿一一親臨之。」即拜資政殿大學士、四川宣撫使,尋詔依舊知樞密院事。歸蜀一月,召至闕,不數月復使蜀。太上賜御書《聖主得賢臣頌》,上又為之制跋,陛辭,復以所御雙履及甲胄賜焉。

郢を過ぎ、黄鷹山城を築くことを奏す。襄陽を過ぎ、府城を修復することを奏す。八月漢中に至り、また沔陽に往く。九月、益昌に至る。先に手詔を被り九事を戒められ、蜀に至りて後、悉く奉じて行い、特に軍政を急務とす。また諸軍を閲実し、その壮怯を第して三等と為し、上は戦備に、中下は輜重に備え、老いたる者少なき者は預からしめず。兵を汰うこと凡そ一万人、緡銭四百万を減ず。汰われた兵で労績ある者は、員闕を置いてこれに処す。興・洋の義士は民兵なり、紹興初年に七万を計りしが、大散の戦いにて、将は甲を授けず、これを駆りて官軍に先んぜしめ、死亡すること略ね尽くす。利帥の晁公武に命じて核実せしめ、二万三千九百余人を得たり。また陝西弓箭手法を得て、紹興の制に参酌し一書と為し、将吏をしてこれを守らしむ。馬政を張松に付し、旧制に依り茶馬を川・秦の二司に分つことを奏す。

原文過郢,奏築黃鷹山城。過襄陽,奏修府城。八月至漢中,又往沔陽。九月,至益昌。先被手詔戒九事,洎至蜀,悉奉而行,尤以軍政為急。又奏閱實諸軍,第其壯怯為三,上備戰,中下備輜重,老者少者不預。汰兵凡萬人,減緡錢四百萬。汰去兵有勞績者,置員闕處之。興、洋義士,民兵也,紹興初以七萬計,大散之戰,將不授甲,驅之先官軍,死亡略盡。命利帥晁公武核實,得二萬三千九百餘人。又得陝西弓箭手法,參紹興制為一書,俾將吏守之。以馬政付張松,奏依舊制分茶馬為川、秦司。

初め枢府に在りし時、蕭遮巴が軍中の人を刷り出すことを言上し、允文嘗て三衙に撫存するよう奏諭せり。ここに至り、金・洋・興元の帰正人二万、道を遮り繫縛の苦しみを訴う。允文は官田を分け与え、皆が生業を振るうようにす。敵将の姜挺・白沂を結ぼうと欲し、御札に遵い鞏人の王嗣祖を募り外蕃を結ばしめて金人を図らしめ、また蕃僧六彪なる者を得てともに往かしむるも、竟に成説無し。時に邛・蜀十四郡饑饉を告げ、荒政凡そ六十五事を施行す。劍州の倅が羨銭五万を献ずるも、これを退ける。

原文初在樞府,蕭遮巴以刷軍中人為言,允文嘗奏諭三衙撫存之。至是,金、洋、興元歸正人二萬,遮道訴繫縲之苦,允文分給官田,俾咸振業。欲結敵將姜挺、白沂,遵御劄募鞏人王嗣祖結外蕃以圖金人,又得蕃僧六彪者偕往,竟無成說。時邛、蜀十四郡告饑,荒政凡六十五事,劍倅獻羨錢五萬,卻之。

五年八月、右僕射・同中書門下平章事兼枢密使を拝す。允文は多く知名の士を推薦す、洪适・汪應辰の如し。相と為りて後、人材を籍して三等と為し、見聞あること有れば即ちこれを記し、『材館録』と号す。凡そ挙げたる者は、上皆これを収用し、胡銓・周必大・王十朋・趙汝愚・晁公武・李燾、これらは特に顕著なる者なり。上は兵冗財匱を憂う。允文は陳俊卿と議し、三衙の雑役を革め、冗籍を汰う。三軍に怨言無し。

原文五年八月,拜右僕射、同中書門下平章事兼樞密使。允文多薦知名士,如洪适、汪應辰。及為相,籍人才為三等,有所見聞即記之,號《材館錄》。凡所舉,上皆收用,如胡銓、周必大、王十朋、趙汝愚、晁公武、李燾其尤章明者也。上以兵冗財匱為憂,允文與陳俊卿議革三衙雜役,汰冗籍,三軍無怨言。

六年、陳俊卿が龔茂良を留めることを奏して上意に逆らい、上大いに震怒す。俊卿は浙江亭にて待命すること二日、報い無し。允文、対を請い、体貌の道を極論し、榻前にて繰り返し拝礼す。遂に福州判を命ず。

原文口六年,陳俊卿以奏留龔茂良忤上意,上震怒甚,俊卿待命浙江亭,兩日不報。允文請對,極論體貌之道,疊拜榻前,遂命判福州。

詔して范成大を祈請使と為し、陵寢の故なり。金従わず、かつ諜報に三十万騎を以て陵寢を奉遷し来帰せんと欲すとあり、中外洶洶たり。荊・襄の将帥皆増戍を請う。允文曰く、「金は方に亮を懲らしめ、決して軽動せず、虚声を以て我を撼がすに過ぎざるなり。」遂にこれを止むることを奏す。朝論紛然たりしも、允文屹然として動かず、敵卒いに他事無し。

原文詔以范成大為祈請使,為陵寢故。金不從,且諜報欲以三十萬騎奉遷陵寢來歸,中外洶洶,荊、襄將帥皆請增戍。允文謂:「金方懲亮,決不輕動,不過以虛聲撼我耳。」遂奏止之。朝論紛然,允文屹不動,敵卒無他。

莊文太子斃れて以来、儲位定まらず。允文上疏し、かつ屡々懇ろに陳述す。七年正月、両宮に尊号を上る。議始めて定まり、詔して皇第三子恭王惇を立て皇太子と為し、皇子愷を雄武・保寧軍節度使と為し寧国府を判せしむ。皇太子尋いで臨安を尹す。侍衛馬軍司の牧地、旧く臨安に在り。允文、地狭く芻牧に利あらずと謂い、就いて鎮江に牧せしむることを請う。緩急の際、騎を以て江を渡るに便なり。三軍に怨言あり、その後言官これをもって言上す。

原文自莊文太子斃,儲位未定。允文上疏,且屢懇陳。七年正月,上兩宮尊號,議始定,下詔皇第三子恭王惇立為皇太子,皇子愷以雄武、保寧軍節度使判寧國府。皇太子尋尹臨安。侍衛馬軍司牧地舊在臨安,允文謂地狹不利芻牧,請令就牧鎮江,緩急用騎過江便。三軍有怨語,其後言者以此為言。

胡銓が臺評により去らんとす。允文、これを留めて経筵に侍せしむることを奏す。銓は朱熹を推薦す。上、允文に問うて熹を知るやと。允文、熹は程頤に下らざると謂う。遂に熹を召すも、熹至らず。檢鼓院が六条を以て上書人を抑う。允文力言して不可とす。従う。

原文胡銓以臺評去,允文奏留之經筵。銓薦朱熹,上問允文識熹否?允文謂熹不在程頤下,遂召熹,熹不至。檢鼓院以六條抑上書人,允文力言不可,從之。

会慶節、金使の烏林答天錫入見す。金主の婿なり、驕倨甚だし。固より上に請いて榻を降り金主の起居を問わんとす。上許さず。天錫跪いて起たず。侍臣錯愕して措くところを知らず。允文、大駕の禁中に還ることを請い、かつこれを諭して曰く、「大駕既に興り、再び殿に御するは難し。使人来たりて且つ班に随い寿を上ぐべし。」金使慚じて退く。

原文會慶節,金使烏林答天錫入見,金主婿也,驕倨甚,固請上降榻問金主起居,上不許,天錫跪不起,侍臣錯愕失措。允文請大駕還禁中,且諭之曰:「大駕既興,難再御殿,使人來且隨班上壽。」金使慚而退。

上、僕射の名正しからずとして、左・右丞相と改む。八年二月、允文に特進・左丞相兼枢密使を授け、梁克家を右丞相と為す。允文嘗て克家を挙げて自らに代えんとす。上許さず。この月、病を以て機政を解くことを乞い、また克家が靖重にして宰相の器有ることを推薦す。ここに至り始めて同相と為る。手詔を允文に付して曰く、「朕方に武臣をして枢密と為さんと欲す。曹勛は如何。」允文、勛の人品卑凡にして用うべからずと謂う。既にして張説を以て枢密院事に簽書せしむ。右正言の王希呂、臺官と交えてこれを劾す。上、希呂を甚だしく怒り、手詔して「遠悪の監当に与えよ」とす。允文これを繳回す。上益々怒る。梁克家曰く、「希呂が張説を論ずるは臺綱なり。左相が希呂を救うは国体なり。」上怒り稍や解け、卒いに希呂の罰を薄くす。

原文上以僕射名不正,改為左、右丞相。八年二月,授允文特進、左丞相兼樞密使,梁克家為右丞相。允文嘗舉克家自代,上不許。是月,以病乞解機政,又薦克家靖重有宰相器,至是始同相,手詔付允文曰:「朕方欲武臣為樞密,曹勛如何?」允文謂勛人品卑凡,不可用。既而以張說簽書樞密院事,右正言王希呂與臺官交劾之。上怒希呂甚,手詔「與遠惡監當」,允文繳回,上益怒。梁克家曰:「希呂論張說,臺綱也,左相救希呂,國體也。」上怒稍解,卒薄希呂之罰。

四月、御史の蕭之敏、允文を劾す。允文上章して罪を待つ。上、徳寿宮に過ぐ。太上曰く、「采石の功、之敏は何許に在りや。その去るを聴く毋かれ。」上、之敏を出し、かつ扇に詩を制して書し以てこれを留む。允文、之敏の端方なるを言い、召し帰して言路を開くことを請う。上、その言の寛厚なるを謂い、曾懐に命じて『時政記』にこれを書かしむ。

原文四月,御史蕭之敏劾允文,允文上章待罪。上過德壽宮,太上曰:「采石之功,之敏在何許?毋聽其去。」上為出之敏,且書扇制詩以留之。允文言之敏端方,請召歸以辟言路。上謂其言寬厚,命曾懷書之《時政記》。

上、諫官を選ぶことを命ず。允文、李彥潁・林光朝・王質を以て対う。三人皆鯁亮にして、また文学を以て時に推重せらる。故にこれを薦む。久しく報い無し。曾覿一人を推薦す。賜第し、諫議大夫に擢ず。允文・克家これに争うも、従わず。允文力求めて去らんとし、少保・武安軍節度使・四川宣撫使を授けられ、雍国公に進封さる。陛辞の際、上、進取の方略を諭し、某日を期して河南に会わんとす。允文言す、「異時に内外相応ぜざるを戒む。」上曰く、「若し西師出でて朕遅回せば、即ち朕卿に負く。若し朕既に動きて卿遅回せば、即ち卿朕に負く。」上正衙に御し、酒を酌み詩を賦して以てこれを遣わし、かつ家廟の祭器を賜う。

原文上命選諫官,允文以李彥潁、林光朝、王質對,三人皆鯁亮,又以文學推重于時,故薦之,久不報。曾覿薦一人,賜第,擢諫議大夫。允文、克家爭之,不從。允文力求去,授少保、武安軍節度使、四川宣撫使,進封雍國公。陛辭,上諭以進取之方,期以某日會河南。允文言:「異時戒內外不相應。」上曰:「若西師出而朕遲回,即朕負卿;若朕已動而卿遲回,即卿負朕。」上御正衙,酌酒賦詩以遣之,且賜家廟祭器。

九年、蜀に至る。大軍の月給米一石五斗、その家を贍うに足らず。允文、宣司の銭三十万を捐てて米に易え、口数を計って増給す。戸馬七条を立て、民馬を括り、良家の子を選び戦用に儲うることを奏す。初め、北界に寇鄰なる者あり、数万の衆を擁して商・虢の間に在り。允文の政を執る日に款を納れんとす。蜀に至るに及び、また人を遣わして允文に書を致すも、報いず、羈縻するのみ。既にして鄰の謀覚る。金密かに人を遣わしてこれを捕らう。葉衡奏聞す。允文上疏して自ら弁明し、因って禄を納れることを請う。報いず。

原文九年至蜀。大軍月給米一石五斗,不足贍其家,允文捐宣司錢三十萬易米,計口增給。立戶馬七條,括民馬,奏選良家子以儲戰用。初,北界有寇鄰者,擁眾數萬在商、虢間,允文秉政日納款,迨至蜀,復遣人致書允文,不報,羈縻之而已。既而鄰謀覺,金密遣人捕之。葉衡奏聞,允文上疏自辨,因請納祿,不報。

上嘗て允文に謂いて曰く、「丙午の恥、まさに丞相とともにこれを雪すべし。」また曰く、「朕惟うに功業は唐太宗に如かず、富庶は漢の文・景に如かず。」故に允文は上に恢復を期す。蜀に使いすること一年、進兵の期無し。上密詔を賜いてこれを促す。允文、軍需未だ備わらずと言う。上楽しからず。

原文上嘗謂允文曰:「丙午之恥,當與丞相共雪之。」又曰:「朕惟功業不如唐太宗,富庶不如漢文、景。」故允文許上以恢復。使蜀一歲,無進兵期,上賜密詔趣之,允文言軍需未備,上不樂。

淳熙元年に薨去した。後四年、上(孝宗)が白石に幸して大閲を行い、軍が皆少壮であるのを見て、輔臣に謂って曰く、「虞允文が沙汰を行った効果である」と。尋いで詔して太傅を贈り、諡を「忠肅」と賜う。

原文淳熙元年薨。後四年,上幸白石大閱,見軍皆少壯,謂輔臣曰:「虞允文行沙汰之效也。」尋詔贈太傅,賜諡「忠肅」。

允文は姿が雄偉、身長六尺四寸、慷慨磊落として大志有り、而して言動には則度有り、人は望んで任重の器と知る。早く文学を以て身を台閣に致し、晩年に時艱に際会し、将相に出入りすること垂二十年、孜孜として忠勤に二心無し。嘗て『唐書』『五代史』を注し、家に蔵す。詩文十巻、『経筵春秋講義』三巻、『奏議』二十二巻、『内外志』十五巻有り、世に行わる。

原文允文姿雄偉,長六尺四寸,慷慨磊落有大志,而言動有則度,人望而知為任重之器。早以文學致身臺閣,晚際時艱,出入將相垂二十年,孜孜忠勤無二焉。嘗注《唐書》、《五代史》,藏於家。有詩文十卷,《經筵春秋講義》三卷,《奏議》二十二卷,《內外志》十五卷,行於世。

子三人:公亮、公著、杭孫。孫八人、皆好修、唯だ剛簡最も知名、嘉定中、召されて至らず、終に利路提点刑獄に至る。

原文子三人:公亮、公著、杭孫。孫八人,皆好修,唯剛簡最知名,嘉定中,召不至,終利路提點刑獄。

辛次膺

原文辛次膺

辛次膺、字は起季、萊州の人。幼くして孤と成り、母に従い外氏の王聖美に依り丹徒に在り。俊慧にして力学、日に千言を誦す。甫に冠し、政和二年の進士第に登り、歴官して単父丞と為る。

原文辛次膺,字起季,萊州人。幼孤,從母依外氏王聖美於丹徒。俊慧力學,日誦千言。甫冠,登政和二年進士第,歷官為單父丞。

山東の乱に値い、挙室南渡す。閩寇范汝為が建州を陥とすに属し、宰相呂頤浩が次膺を以て浦城を宰せしめ、賊の衝を遏せしむ。比して至るに、寇党の熊志寧已に其の邑を焚く。ここに於いて荊棘を披き、瓦礫の中に坐し、吏民を安輯し、丁壮を料し、器械を治め、険阻を扼し、号令煩わしからず、邑民之に便す。数月、韓世忠賊を破り、建州を復し、審計司を除す。余党の范黒龍鄰邑を破る、閩帥張守次膺に檄し、賊平して後に行かしむ。乃ち郷兵を募り強弩を習わしめ、賊至る、之と水を夾して陣し、矢斉に発し、賊奔潰し、生にして首領五人を致し、余は悉く之を宥す。

原文值山東亂,舉室南渡。屬閩寇范汝為陷建州,宰相呂頤浩以次膺宰浦城,遏賊衝。比至,寇黨熊志寧已焚其邑。於是披荊棘,坐瓦礫中,安輯吏民,料丁壯,治器械,厄險阻,號令不煩,邑民便之。數月,韓世忠破賊,復建州,除審計司。餘黨范黑龍破鄰邑,閩帥張守檄次膺,俟賊平而後行。乃募鄉兵習強弩,賊至,與之夾水而陣,矢齊發,賊奔潰,生致首領五人,餘悉宥之。

参政孟庾の薦を用い、召対に応じ、用人は務めて実を貴ぶに在り、施令は必ず行わるるに在ると奏す。駕部に遷る。願わくは郡邑に勅し耕を省み征を薄くし、農を務め末を抑えんことを。又奏す、「中原の人、墳墓生業を棄て、巡に従い江左に至り、飢寒に殞仆す。願わくは存拊を加え、以て中原の徯后の心を堅くすべし」と。吏部郎・湖北運判に遷り、中途召還され、高宗に建康行宮に見え、首に救世の弊を言い、上善しと称し、以て奏したる所を朝堂に榜するよう勅す。

原文用參政孟庾薦,召對,奏用人貴于務實,施令在於必行。遷駕部。願敕郡邑省耕薄征,務農抑末。又奏:「中原之人,棄墳墓生業,從巡江左,饑寒殞仆。願加存拊,可以堅中原徯后之心。」遷吏部郎、湖北運判,中途召還,見高宗于建康行宮,首言救世之弊,上稱善,敕以所奏榜朝堂。

右正言に擢でられる。奏す、「願わくは兵将を閲し、親しく簡抜し、恩威の柄を攬り、人々に朝廷の尊きを知らしめん。左右近習、久しければ則ち政を干す、願わくは其の漸を杜がん。兵連れて解けず、十年茲に於る。一歳に銭三十万・米四百万石を用い、諸路の常賦僅かに其の半を支うるに足り、余は悉く民に取る。願わくは不急の務を罷め、姑息の沢を節し、冗官を省み、愞兵を汰せんことを乞う」と。

原文擢右正言。奏:「願閱兵將,親簡拔,攬恩威之柄,使人人知朝廷之尊。左右近習,久則干政,願杜其漸。兵連不解,十年於茲。一歲用錢三十萬、米四百萬石,諸路常賦僅足支其半,餘悉取諸民。乞罷不急之務,節姑息之澤,省冗官,汰愞兵。」

韓世忠の男を直秘閣に任ぜんとす、次膺奏して曰く、「城を攻め野に戦うは、世忠の功なり、其の子何ぞ関わる。石渠・東観は、図書の府なり、武功何ぞ関わる。幸門一たび開けば、例に援る者衆し」と。又奏す、「今主議する者は小利を見て大計を忽せにし、偏師偶々勝てば、遽に進討を思い、便ち攻を以て余り有りと謂い;警奏稍々聞けば、首に退舍を陳べ、便ち守を以て足らざると謂う。願わくは紀律を厳にし、烽燧を謹み、間探を明らかにせん」と。上皆信納す。韓世忠将に楚州より軍を移して鎮江に駐せんとすを聞き、復た慮うべき者五を陳ぶ。王倫北に使して和を請う、次膺言う、「宣和海上の約、靖康城下の盟、口血未だ乾かず、兵其の後に随う。今日の事当に其の詐を識るべし」と。

原文韓世忠男直秘閣,次膺奏曰:「攻城野戰,世忠功也,其子何與?石渠、東觀,圖書府也,武功何與?幸門一啟,援例者眾。」又奏:「今主議者見小利忽大計,偏師偶勝,遽思進討,便謂攻為有餘;警奏稍聞,首陳退舍,便謂守為不足。願嚴紀律,謹烽燧,明間探。」上皆信納。聞韓世忠將自楚州移軍鎮江,復陳可慮者五。王倫使北請和,次膺言:「宣和海上之約,靖康城下之盟,口血未乾,兵隨其後。今日之事當識其詐。」

時に秦檜政府に在り、其の妻兄王仲薿の為に両官を叙す。次膺仲薿を劾し、朱勔に奴事し、金酋に投拜し、罪赦すべからざるに在りと。又た撫州知事王㬇を劾し、法に違いて官田を佃し、租を輸せずと。其の父仲山、先に撫州を知り、金人に屈膝し、㬇其の後に継ぐ、何の顔あって吏民に見えん。㬇は、檜の妻兄なり。章留中す。次膺再び之を論じて曰く、「近臣二人を奏す、継いて除命を追寝すと聞く、是皆檜私を容れて営救し、陛下曲く其の欲に従い、国の紀綱、臣の責任、一切廃格す。借り令え貴き宮掖に連なり、親しきこと肺附の如くすとも、寵任宜しからずんば、臣も亦た之を論ずるを得べく、而して大臣の姻婭は、乃ち之を縄するを得ざる耶。願わくは陛下乾剛の威を奮い、蒙蔽の漸を戒めん」と。

原文時秦檜在政府,為其妻兄王仲薿敘兩官。次膺劾仲薿奴事朱勔,投拜金酋,罪在不赦。又劾知撫州王㬇違法佃官田,不輸租。其父仲山,先知撫州,屈膝金人,㬇繼其後,何顏見吏民?㬇,檜之妻兄也。章留中。次膺再論之曰:「近臣奏二人,繼聞追寢除命,是皆檜容私營救,陛下曲從其欲,國之紀綱,臣之責任,一切廢格。借使貴連宮掖,親如肺附,寵任非宜,臣亦得論之,而大臣之姻婭,乃不得繩之耶?望陛下奮乾剛之威,戒蒙蔽之漸。」

去らんことを求め、直秘閣・湖南提刑を除す。先ず是に、湖南の賊龍淵・李朝衆数万を擁し、衡州の茶陵を拠す、檜匿して奏せず、乃ち見闕を以て次膺を処す。陛辞に、上曰く、「卿母を将うるを以て請う、朕留むるを得ず。湖湘の風物甚だ佳く、且つ盗賊無し、職名は異恩、卒歳当に召さん」と。既に長沙に抵るや、賊勢方に張る、戍将抽回され、始めて檜之を陥れんと欲するを悟る。即ち単車にて茶陵に趨り、賊の驍ぎょう将を擒えて之を戮し、賊党の毛義・龍麟等を募り、榜を齎して朝廷戍将を抽回し、務めて招安せんと欲し、宜しく亟に降り、以て死せずして待つべしと諭す。龍淵・李朝相継いで降り、仍って精鋭を料せば、禁旅万余を得可しと請う。次膺笑って曰く、「是皆吾が民なり、正に兵甲を棄て、鋤耰を持ち、趣に令して復業せしむべし」と。茶陵を軍と為すを奏す。

原文求去,除直秘閣、湖南提刑。先是,湖南賊龍淵、李朝擁眾數萬,據衡之茶陵,檜匿不奏,乃以見闕處次膺。陛辭,上曰:「卿以將母為請,朕不得留。湖湘風物甚佳,且無盜賊,職名異恩,卒歲當召。」既抵長沙,賊勢方張,戍將抽回,始悟檜欲陷之。即單車趨茶陵,擒賊驍將戮之,募賊黨毛義、龍麟等,齎榜諭以朝廷抽回戍將,務欲招安,宜亟降,待以不死。龍淵、李朝相繼降,仍請料精銳,可得禁旅萬餘。次鷹笑曰:「是皆吾民,正當棄兵甲,持鋤耰,趣令復業。」奏茶陵為軍。

金との和好成る、赦書衡陽に至る、次膺極めて其の詐を陳ぶ、略して曰く、「臣昨諫列に在り、嘗て数え金人の変詐常無きを論じ、願わくは陛下宗社生霊の為に深く慮らん。近く邸報を観るに、枢密院編修官胡銓妄りに和好を議し、歴て大臣を詆し、除名遠竄せらる。已にして銓の書槁を得るに、乃ち朝廷遽に己を屈して藩と称せんと欲するを知る、臣未だ其の可なるを知らず。大臣姦を懐い位を固め、国計を恤みず、媕婀として和に趨い、謬って便と為す、臣天下の人々の以て便と為すを知らず。『父の讐は与に天を戴かず、兄弟の讐は兵を反さず』。讐を棄て怨を釈し、前事を尽く除き、万乗の尊を降して、以て敵に説を求めんとす、天下の人々、果たして能く遂に怨痛を亡くして以て陛下の志に従わんや」と。書奏す、報いず。金三京を陥とす。

原文金好成,赦書至衡陽,次膺極陳其詐,略曰:「臣昨在諫列,嘗數論金人變詐無常,願陛下為宗社生靈深慮。近觀邸報,樞密院編修官胡銓妄議和好,歷詆大臣,除名遠竄。已而得銓書槁,乃知朝廷遽欲屈己稱藩,臣未知其可。大臣懷姦固位,不恤國計,媕婀趨和,謬以為便,臣不知天下之人以為便乎?『父之讎不與共戴天,兄弟之讎不反兵』。棄讎釋怨,盡除前事,降萬乘之尊,以求說於敵,天下之人,果能遂亡怨痛以從陛下之志乎?」書奏,不報。金陷三京。

次膺罷められ、祠を奉ず。秦檜其の重名を負うを以て、先ず書を移し、当に稍々収用すべしと欲す、次膺笑って答えず。十六年を閲し、貧益々甚だしく、人に求むる毫髪無し。檜死し、起復して婺州を知らしめられ、三日にして召される。国門に至り、足疾を以て去らんことを求む。秘閣修撰を加えられ、郡に還る。再び召見され、歴て仇怨国を当にす、老母幾くばくか溝壑に委せんとするを言い、因りて国本未だ立たざるを奏す、上容を改めて曰く、「誰か可ならん」と。次膺曰く、「子を知るは父に若くは莫し」と。上善しと称す。権給事中に擢でられる。蔣璨権戸部侍郎と為らんとす、次膺璨が正を守らず、事交結するを駁し、璨を出して平江を知らしむ。御史中丞湯鵬挙次膺を劾し、権を仮りて怨を報いると、待制・宮観を除す。起復して泉州を知り、福建帥に移る。母憂に丁し、禄を納れんことを乞う。

原文次膺罷,奉祠。秦檜以其負重名,欲先移書,當稍收用,次膺笑而不答。閱十六年,貧益甚,亡毫髮求於人。檜死,起知婺州,三日被召。至國門,以足疾求去。加秘閣修撰,還郡。再召見,歷言仇怨當國,老母幾委溝壑,因奏國本未立,上改容曰:「誰可?」次膺曰:「知子莫若父。」上稱善。擢權給事中。蔣璨權戶部侍郎,次膺駁璨不守正,事交結,出璨知平江。御史中丞湯鵬舉劾次膺假權報怨,除待制、宮觀。起知泉州,移福建帥。丁母憂,乞納祿。

孝宗即位し、手詔して趣に召す。既に至り、奏す、「陛下賢を用いるには必ず事功を考核し、一人の誉に以て之を用い、一人の毀に以て之を去ること無く、令を出すには要に反汗無く、善を納るるには要に転圜を知らん。兵を練り民を恤み、両淮を經理し、敵をして虚に乗じて入る能わざらしめん」と。是の日、御史中丞を除す。徳寿宮に朝し、高宗一見して謂く、「卿を強健の時に閑にせしを惜しむ」と。

原文孝宗即位,手詔趣召。既至,奏:「陛下用賢必考核事功,勿以一人譽用之,一人毀去之,出令要無反汗,納善要知轉圜。練兵恤民,經理兩淮,使敵不能乘虛而入。」是日,除御史中丞。朝德壽宮,高宗一見,謂:「惜閒卿于強健時。」

上将にて春饗を行い、高宗を迎えて延祥観に詣で、玉津園に幸する。次膺が奏上して言う、「欽宗の喪服が終わらず、まさに策士を停めているところであり、かつ金人の侮慢な書状が到着したばかりで、その意は交戦にある。まして原野の間は禁衛が稀少であるから、過分にこれを慮るべきであり、兼ねて一度出御すれば十数万緡を費やす。いずれか兵食を資するに如かず」と。当時、両淮はことごとく荒野と化しており、次膺が奏上して言う、「遺民を集めて帰業させ、種牛を貸し与え、あるいは屯兵に在って便に従い耕種させることを乞う。これ足兵の良法なり」と。至って成閔の貪饗、湯思退の朋党への阿附、葉義問の奸佞なることを、皆これに次いで論劾した。毎度、章疏が出るや、天下これを是とした。上はまさに政事に精励しており、次膺は毎度名実を以て言上し、裨益すること多く、その官を呼んで名を称さなかった。

原文上將以春饗,迎高宗詣延祥觀,幸玉津園。次膺奏:「欽宗服未終,方停策士,且金人嫚書甫至,意在交兵,矧原野間禁衛稀少,當過為之慮,兼一出費十數萬緡,曷若以資兵食。」時兩淮盡為荒野,次膺奏:「乞集遺甿歸業,借種牛,或令在屯兵從便耕種,此足兵良法。」至若成閔之貪饕,湯思退之朋附,葉義問之姦罔,皆以次論劾。每章疏一出,天下韙之。上方厲精政事,次膺每以名實為言,多所裨益,呼其官不名。

隆興と改元し、三月、同知枢密院事となる。符離の軍において、捷報が日々聞こえる中、次膺は手疏を千言にわたり書き、持重を乞うた。間もなく、軍は果たして潰えた。謁見するに及んで、上の顔色は楽しからず、奏上して言う、「軍は潰えて帰還したが、張浚が弾圧すれば必ず他事なかるべし。これは上天の陛下に対する大いなる戒めなり」と。上はその先見を歎じた。

原文隆興改元,三月,同知樞密院事。符離之師,捷奏日聞,次膺手疏千言,乞持重。未幾,軍果潰。及見,上顏色不樂,奏言:「師潰而歸,張浚彈壓必無他,此上天大儆戒于陛下。」上歎其先見。

参知政事に拝されるも、病を以て力強く免じることを祈願した。かつ奏上して言う、「王十朋が侍史に除せられたのは、たとえ上みずから抜擢されたとはいえ、天下は皆、臣が嘗てその賢を推薦したことを知っている。湯思退が召されて将に至らんとするも、また臣が嘗てその奸を疏奏したことを知っている。臣が引避しなければ、人は何と言うであろうか」と。資政殿学士・洞霄宮提挙に除せられる。陛辞に際し、茶を賜わり、その去ることを甚だ惜しまれた。次膺が奏上して言う、「臣と思退とは、理において同列たるは難し」と。上は言う、「湯思退を用いるべしと言う者あり」と。次膺が奏上して言う、「今日の事は、恐らく思退の弁じ得る所ではあるまい。思退は固より論ずるに足らず、窃かに国家の事を誤らんことを恐れる」と。乾道六年閏五月に卒す。年七十九。

原文拜參知政事,以疾力祈免。且奏曰:「王十朋除侍史,雖上親擢,天下皆知臣嘗薦其賢。湯思退召將至,亦知臣嘗疏其姦。臣不引避,人其謂何?」除資政殿學士、提舉洞霄宮。陛辭,賜茶,甚惜其去。次膺奏:「臣與思退,理難同列。」上曰:「有謂湯思退可用者。」次膺奏:「今日之事,恐非思退能辨。思退固不足道,竊恐誤國家事。」乾道六年閏五月卒,年七十九。

次膺は孝友にして清介、朝廷に立ちては謇諤たり。仕宦五十年、毫も吏議に掛かるところ無し。政を為すには清静を貴び、徳化を先とし、至る所、人はその煩わしからざるを称えた。文を属するに善く、特に詩に工であった。

原文次膺孝友清介,立朝謇諤。仕宦五十年,無絲毫挂吏議。為政貴清靜,先德化,所至人稱其不煩。善屬文,尤工於詩。

論じて曰く、孝宗は恢復を志し、特に張浚を任用し、俊卿は奸党を斥け、公道を明らかにして、以てその補佐となった。中書に居るに及びては、知ることは為さざる無く、言うことは尽くさざる無く、その志を立てるや一に先哲を法とし、他の宰相の比すべきに非ざるなり。允文の国に許す忠は、炳として丹青の如し。金の庶人亮の南侵、その鋒は甚だ鋭く、中外は劉錡を長城として倚りしも、錡は病を以て進師を克くせず。允文は儒臣ながら、奮勇して督戦し、一挙にしてこれを挫き、亮は乃ち自ら斃れた。昔、赤壁の一勝にして三国の勢成り、淮淝の一勝にして南北の勢定まる。允文の采石の功は、宋の事を転危きを安きにし、実にこれに係る。その相を罷めて蜀を鎮め、命を受けて興復に当たり、期を克くして往くに及びては、志は未だ就かざりしも、その能く慷慨として重きを任じたるは、豈に易くして得んや。次膺は力強く群邪を排し、言責に負うところ無く、政に涖みて煩わさず、約に居りて守る有り。晩年再び朝廷に立ちては、謇諤たること特に著しく、南渡後の直言の臣として、宜しく首に称すべき者なり。

原文論曰:孝宗志恢復,特任張浚,俊卿斥姦黨,明公道,以為之佐。洎居中書,知無不為,言無不盡,蓋其立志一以先哲為法,非他相可擬也。允文許國之忠,炳如丹青。金庶人亮之南侵,其鋒甚銳,中外倚劉錡為長城,錡以病不克進師。允文儒臣,奮勇督戰,一舉而挫之,亮乃自斃。昔赤壁一勝而三國勢成,淮淝一勝而南北勢定。允文采石之功,宋事轉危為安,實係乎此。及其罷相鎮蜀,受命興復,克期而往,志雖未就,其能慷慨任重,豈易得哉?次膺力排群邪,無負言責,涖政不煩,居約有守。晚再立朝,謇諤尤著,南渡直言之臣,宜為首稱焉。