陳俊卿
陳俊卿、字は應求、興化の人である。幼少より荘重にして、妄りに言笑せず。父の死に際し、喪に服すること成人の如し。紹興八年、進士第に登り、泉州觀察推官に授けられる。職務に勤勉にして、同僚の宴席には常に謝絶して赴かず。ある日、郡中に火災が起こり、太守の汪藻が走り視察するに、諸掾属は或る所で酒宴中であり、俊卿の輿卒もまたこれを借り出していた。そこで例により後至の故を詰問されるが、俊卿は唯々として謝罪するのみ。後に実情を知った藻がその理由を問うと、俊卿は言う、「某は同僚の行いを止め得ず、またその僕を貸した。どうして過ち無しとせん。時に公はまさに盛怒せられており、どうして自分だけを弁解し、人の罪を重くすることを忍びようか」。藻は感服し、及ぶべからずと為す。
任期満了の後、秦檜が国政を執る。俊卿が己に附かざるを察し、南外睦宗院教授に任ず。まもなく通判南劍州を添差されるが、未だ赴任せずして檜死す。乃ち校書郎として召される。孝宗が普安郡王であった時、高宗は端厚静重なる者を選んでこれを輔導せしめんと命じ、著作佐郎兼王府教授に除す。経を講ずる毎に規戒の意を寓し、正色して特立す。王は蹴鞠を好む。俊卿は韓愈の張建封に諫むる書を誦じて以て諷し、王は敬してこれを納る。
累遷して監察御史・殿中侍御史となる。まず言う、「人主は兼聴を以て美と為すは、必ず至公に本づくべし。人臣は不欺を以て忠と為すは、必ず大體に達すべし。下を御するの道は、恩威並施し、驕将を抑え、士気を作せば、則ち紀綱正しくして号令行わる」。遂に韓仲通を弾劾す。仲通は元より獄事を以て檜に附き、無辜を冤陷せしめ、檜の党は尽く逐かるるも仲通のみ独り全うせりと。劉寶は京口に総戎して恣に掊克し、且つ命に拒みて戍を分たずと。二人遂に罪に当たる。湯思退が政を専らにするに、俊卿は言う、「冬日雲無くして雷鳴す。宰相は上は天心に当たらず、下は人望を厭わず」。詔して思退を罷む。
時に災異数多く現れ、金人の侵軼の勢い既に形を成す。俊卿は乃ち疏を上して言う、「張浚は忠藎にして、白首も変わらず。窃かに讒言に聞く、其の陰に異志有りと。夫れ浚の人心を得、士論を伏するは、其の忠義素より有るが故なり。これに反すれば、則ち人将に之を去り、誰か復た与に変を為さんや」。疏入るも未だ報いず。因りて対を請い、力を尽くしてこれを言う。上始めて悟る。数月後、浚を以て建康を守らしむ。又言う、「内侍張去為は陰に用兵を沮み、且つ敵を避くるの計を陳べ、成算を揺るがす。軍法に按ずるを請う」。上曰く、「卿は仁者の勇と謂うべし」。権兵部侍郎を除す。
金主亮が淮を渡る。俊卿は詔を受けて浙西水軍を整え、李寶はこれに因りて遂に膠西の捷を得る。亮死す。詔して俊卿に淮東の堡砦屯田を治めしむ。過ぐる所流亡を安輯す。金主褒新たに立ち、旧好を申す。廷臣多く和議に附和す。俊卿奏す、「和戎は本より已むを得ざるものなり。若し故疆を得るを実利と為せば、得たりと雖も必ずしも能く守らず、是れ亦た虚文のみ。今は名を正すに若かず。名正しければ則ち国威強く、歳幣を損ずるべし」。因りて将を選び兵を練り、屯田して租を減ずるの策を陳べ、胆略有る文臣を選んで参佐と為し、軍政を察せしめ戎務に習わしめて以て将材を儲う。
孝宗禅を受く。言う、「国を為すの要は三つ有り。人を用い、功を賞し、罪を罰す。之を行う所以の者は、至公のみ。願わくは聖意に留められんことを」。中書舎人に遷る。時に孝宗は興復を志し、方に閫外の事を張浚に属す。俊卿の忠義沈靖にして謀有るを以て、本職を以て江淮宣撫判官兼権建康府事を充てる。奏して曰く、「呉璘は孤軍を率いて深入す。敵は衆を悉くして拒戦し、久しく決せず。危き道なり。両淮の事勢既に急なり。何ぞ舟師を分遣して直ちに山東を搗かずんや。彼必ず師を還して自ら救い、而して璘は勝に乗じて関中を定むべし。我その未だ至らざるに及び、其の腹心を潰せば、此れ不世の功なり」。会に主和の議方に堅く、詔して璘に班師せしめ、俊卿をも召し還す。十事を奏陳す。規模を定め、紀綱を振い、風俗を励まし、賞罰を明らかにし、名器を重んじ、祖宗の法に遵い、無名の賦を蠲つ。
隆興初元、都督府を建つ。俊卿は礼部侍郎参賛軍事を除す。張浚初め大挙して北伐を謀る。俊卿は未だ可ならずと為す。会に諜報す、敵糧を辺地に聚むと。諸将は秋必ず至らんと為し、其の未だ動かざるに先んじて挙兵すべしと為す。浚乃ち朝に請いて出師す。已にして邵宏淵果たして兵を以て潰ゆ。俊卿は退きて揚州を保つ。主和議の者は其の敗を幸い、横議を以て之を揺るがす。浚は疏を上して罪を待つ。俊卿も亦た従坐を乞う。詔して両秩を貶す。諫臣尹穡は思退に附き、議して浚の都督を罷め、宣撫使と為して揚州に治めしむ。俊卿奏す、「浚果たして用うべからずんば、別に賢将に属せよ。若し其の後效を責めんと欲せば、官を降して罰を示すは、古の法なり。今都督の重権を削ぎ、揚州の死地に置き、もし奏請有らば、台諫之を沮ぎ、人情解體す。尚何の後效の図らんや。議者は但だ浚を悪みて之を殺さんと欲するのみにて、復た宗社の為に計らざるなり。願わくは詔を下して中外に戒め協済せしめ、浚をして自ら效せしめよ」。疏再び上る。上悟り、即ち浚に都督を命じ、且つ召して相と為さんとす。卒に思退・穡に擠まれて、師を視せしめ江・淮に遣わす。俊卿累章を上して罪を請い、宝文閣待制を以て泉州を知り、祠を請い、太平興国宮を提挙す。
時に上未だ蹴鞠の戯れを屏ぐること能わず、将に白石に游猟せんとす。俊卿は漢の桓帝・霊帝、唐の敬宗・穆宗及び司馬相如の言を引き、力を尽くして以て戒めと為す。上喜びて曰く、「忠讜の備わるを見る。朕卿を用いんと決意す。朕藩邸に在りし時、卿が忠臣たるを知れり」。俊卿拝謝す。
詔を受けて金使を館す。遂に同知樞密院事を拝す。時に曾覿・龍大淵は旧恩を怙り、威福を窃にす。士大夫頗る其の門を出づ。俊卿が館伴と為るに及び、大淵之を副う。公見の外、一語も交わさず。大淵謁を納るるも、亦た謝絶して接せず。洪邁俊卿に白す、「人言う、鄭聞右史を除かれ、某当に某官を除かるべしと。信ずるや」。其の従う所を詰む。邁は淵・覿に告ぐると為す。具に邁の語を以て上に質す。上曰く、「朕何ぞ嘗て此の輩に謀り及ばん。必ず窃聴して之を得たり」。旨を下して淵・覿を出だす。中外称快す。
金、辺吏に移文し、前に俘えし所の者を取らんとす。俊卿報ずるに「誓書に云う、俘虜と叛亡とは是れ両事なり。俘虜は既に多く発遣せり。叛亡は応に遣るべからず。且つ本朝の両淮の民、上国に俘虜せられし者亡慮数万、本朝未だ嘗て以て言と為さず。恐らくは和議を壊し、両境の民を安からしめざらん。或いは交兵に至らば、則ち屈直勝負有る所なり」と以てせんことを請う。
鎮江軍の帥戚方が軍士を刻削す、俊卿奏す、「内臣の中に方を主とする者あり、併せてこれを懲らすべし」と。即ち詔して方を罷め、内侍陳瑤・李宗回を大理に付して贓状を究めしむ。十一月、郊祀に当たって雷鳴す、上内より手詔を出し、大臣を戒飭す、葉顒・魏杞坐して罷む。俊卿参知政事となる。時に四明銀鉱を献ず、将に冶工を召して即ち禁中においてこれを鍛えんとす。俊卿奏す、「帝王の大を務めずして屑屑たる有司の細に有り、識有る者の窺うる所と為るを恐る」と。従官梁克家・莫濟倶に外補を求め、俊卿奏す、「二人皆賢なり、その去るは惜しむべし」と。ここにおいて洪邁の奸険讒佞なるを劾奏し、左右に在るに宜しからずとし、これを罷む。福建の鈔塩を減じ、江西の和糴・広西の折米塩銭を罷め、諸道の宿逋金穀銭帛を巨万を以て計して蠲免す、ここにおいて政事稍く中書に帰す。
龍大淵死す、上曾覿を憐れみ、召さんと欲す。俊卿曰く、「この両人を出だしてより、中外称頌せざる莫し。今復た召せば、必ず大いに天下の望を失わん。臣請う先ず罷まらん」と。遂に召さず。殿前指揮使王琪旨を被り両淮の城壁を按視して還り、和州教授劉甄夫を薦め、召しを得たり。俊卿言す、「琪が兵将官を薦むるは乃ちその職なり、教官に才あらば、何ぞ琪の事に預からん」と。会に揚州奏す、琪旨を伝えて城を増築する事已に訖れりと、俊卿上に請う、未だ嘗て是の命有らず。俊卿曰く、「もし上旨を詐伝せば、小故に非ず」と。奏言す、「人主万幾、豈に尽く防閑せんや、恃む所は紀綱・号令・賞罰のみ。琪を誅せずんば、何をか為さざらん」と。琪秩を削り官を罷む。
是に先立ち、禁中の密旨直ちに諸軍に下る、宰相多く預聞せず、内官張方事覚る、俊卿奏す、「今より百司御筆の処分する事を承くるは、奏審して方に行うべし」と。これに従う。既にして内諸司の楽しまざるを以て、前命を収む。俊卿言す、「張方・王琪の事、聖断已に明らかなり、忽ち臣に諭して曰く、『禁中一飲一食を取るも、必ず申審を待つ、豈に留滞せざらんや』と。臣の慮る所は、命令の大なるもの、三衙の兵を発し、戸部の財を取るが如き、豈に宮禁の細微の事の為めならんや。臣等数に備わり、陛下の命令を出内するのみ。凡そ奏審は陛下に取決せんと欲するなり、臣の専らにせんと欲するに非ず、且つ新条に非ず、旧制を申するのみ。已に行いて復た収む、中外惶惑す、小人の疑似を以て聖怒を激するを恐る」と。上曰く、「朕豈に小人の言を以て卿等を疑わんや」と。
同知樞密院事劉珙進み対し、争辨激切、旨に忤う、既に退き、手詔して珙を除して端明殿學士と為し、外祠に奉ぜしむ。俊卿即ちこれを蔵め去り、密かに奏す、「前日の奏劄、臣実に草定す、罪有りと為せば、臣当に先ず罷まるべし。珙の除命、未だ敢えて詔を奉ぜず。陛下即位以来、諫諍を納れ、大臣を体する、皆盛徳の事なり。今珙小事を以て罪を得たり、臣これより大臣皆阿順して祿を持するに至らんことを恐る、国家の福に非ず」と。上色悔ゆること久しく、命じて珙に江西を帥せしむ。俊卿退き自ら劾す、上手劄してこれを留め、且つ曰く、「卿百請すとも、朕必ず従わじ」と。
四年十月、制を授けて尚書右僕射・同中書門下平章事兼樞密使と為す。俊卿人を用いることを以て己が任と為し、除く所の吏皆一時の選、廉退を奨め、奔競を抑う。或いは才用いる可く、資歴浅きは、密かに上に薦め、嘗て人に語さず。毎に朝士及び牧守の遠より至るに接すれば、必ず時政の得失、人才の賢否を以て問う。
虞允文四川を宣撫す、俊卿その相たるに堪うる才を薦む。五年正月、上允文を召して樞密使と為し、至れば則ち以て右相と為し、俊卿を左相と為す。允文建議して金に使を遣わし陵寢を以て請わしめんとす、俊卿面陳し、復た手疏して以て未だ可からずと為す。上孤矢に御す、弦激して目眚を致す、六月始めて便殿に御す。俊卿疏して曰く、「陛下経月外朝に御せず、口語籍籍、皆輔相無状、事に先んじて開陳すること能わず、聖徳を虧損すと。陛下憂勤恭儉、清静寡欲、前代英主の免れざる所の者皆屏絶す、顧みるに騎射の末に猶お未だ能く忘れず。臣知る、此を楽むに非ざるを、恢復を図るの志有り、故に俯して事に従い、以て武備を閲し、士気を激するのみ。願わくは陛下智謀を任じ、賞罰を明らかにし、信義を恢めば、則ち英声義烈、尊俎を越えず、固より已に敵人の万里の遠を震駭せしめん、豈に区々たる騎射を百歩の間に待たんや。陛下一身、宗社生霊の休戚繫る、願わくは今日の事を以て、永く後戒と為さんことを」と。
曾覿官満ち当に代わるべし、俊卿預め請うて浙東総管に処せんとす。上曰く、「覿の意此の官を為さんと欲せざるに似たり」と。俊卿曰く、「此に先だち陛下二人を去りし、公論甚だ愜えり。願わくは私恩を捐て、公議を伸べよ」と。覿怏怏として去る。樞密承旨張説親戚の為に官を求め、俊卿を憚りて敢えて言わず、会に告に在り、允文に請うて之を得たり。俊卿勅の已に出づるを聞き、吏に語りてこれを留む。説惶恐として来たり謝し、允文も亦愧じ、猶お之が為に請う、俊卿竟に与えず、説深くこれを憾む。吏部尚書汪応辰允文と議事合わず、去らんことを求め、俊卿数え奏す、応辰剛毅正直、執政と為す可しと。上初め之を然りとす、後竟に応辰を出して平江を守らしむ。ここより上意允文に向かい、而して俊卿も亦数え去らんことを求む。
俊卿福州に至り、政寛厚を尚び、盗を治むるに厳しく、海道晏清、功を以て秩を進む。転運判官陳峴建議して鈔塩法を行わんと改む、俊卿宰執に書を移し、極言して福建の塩法は淮・浙と異なるを、遂に果たして行わず。明年、祠を請い、洞霄宮を提挙す。第に帰り、弊屋数楹、怡然として介意せず。
俊卿は孝友忠敬、天資より得、清厳にして礼を好み、終日惰慢の容なし。平居は恂恂として言えぬが如しと雖も、朝廷に在りては正色危論、邪正を分別し、権勢を斥けて顧み憚ること無し。凡そ奏請する所は、治乱安危の大なる者に関す。常に汪応辰・李燾と善くし、特に朱熹を敬い、屡々嘗て論薦す。その薨ずるや、熹は遠く千里を隔てずして往きて哭し、又その行状を記す。文集二十巻有り。
子五人、宓は学に志有り、終に承奉郎に至る。朱熹その墓の銘を作る。宓は自ら伝有り。
虞允文
秦檜が国政を執る時、蜀の士人多くは屏棄された。檜の死後、高宗は之を用いんと欲し、中書舎人趙達がまず允文を推薦す。召し出されて対し、人君は必ず天を畏れ、必ず民を安んじ、必ず祖宗に法らねばならぬと謂う。又、士風の弊を論じ、文章によって進む者は必ずその軽浮を抑え、言語によって進む者は必ずその巧偽を退け、政事によって進む者は必ずその苛刻を去らしめ、庶幾くば重任に堪え遠きに致すべしと。且つ四川の財賦科納の弊を極論す。上嘉納す。
秘書丞を授かり、累遷して礼部郎官となる。金主亮が汴京を修築し、既に南侵の意有り。王倫還り、敵は恭順にして和好すと言う。湯思退再拝して賀し、辺備を置きて問わず。及んで金使施宜生が頗る敵情を漏らし、張燾密かに之を奏す。亮は又、画工を隠し臨安の湖山を図させて帰らしむ。亮詩を賦し、情益々露わなり。允文上疏して言う、「金必ず盟を敗らん。兵を出すに五道有り。願わくは大臣に詔して予め防禦を考えしめよ」。時に三十年正月なり。十月、工部尚書を借りて賀正使を充て、館伴と賓射す。一発的に的を破り、衆驚異す。允文は糧を運び舟を造る者多きを見て、辞して帰らんとす。亮曰く、「我将に洛陽にて花を見ん」。允文還り、見聞した所及び亮の語を奏上し、淮・海の備えを申し言う。
中書舎人・直学士院を授かる。三衙管軍が宦官を以て承受に充てる。允文言う、「古より人主の大権は、姦臣に移らざれば、則ち近幸に落つ。秦檜権を盗むこと十有八年、檜死して、権は陛下に帰す。近頃三衙が中官と交結す。宣和・明受の鑑遠からず」。上大いに悟り、直ちに之を罷む。
金使王全・高景山、生辰を賀すために来朝し、口伝にて亮の悖慢なる語を伝え、淮南の地を得んと欲し、将相大臣を索めて事を議せんとす。ここにおいて三衙大将趙密等を召して挙兵を議し、侍従・台諫を集めて議す。宰臣陳康伯、上旨を伝う、「今日は更に和と守とを問わず、直ちに戦い当に如何にすべきかを問う」。成閔を遣わして京湖制置使と為し、禁衛五万を将いて襄・漢の上流を防がしむ。允文曰く、「兵来たりて道を除かず。敵は虚声を以て我が兵を分かち、その淮に出づる姦謀を成さんとするのみ」。聴かず、卒に閔を遣わす。七月、金主亮汴京に遷る。允文復た康伯に語す、「閔軍の行程は江・池に約す。宜しく池に到る者は池に駐め、江に到る者は江に駐めしむべし。若し敵兵上流に出ずれば、則ち荊湖の軍は前にて捍ぎ、江・池の軍は後にて援けよ。若し淮西に出ずれば、則ち池の軍は巢県より出で、江州軍は無為より出で、淮西の援けと為すべし。是れ一軍にして両用と為すなり」。康伯その説に然りとす。而して閔軍は竟に武昌に屯す。
九月、金主李通を大都督に命じ、淮水上に浮梁を造らしむ。金主自ら将たり、兵号百万、氈帳相望み、鉦鼓の声絶えず。十月、渦口より淮を渡る。先んじて、劉錡は淮東を措置し、王権は淮西を措置す。ここに至り、権まず廬州を棄て、錡も亦た揚州に回る。中外震恐す。上航海せんと欲す。陳康伯力めて親征を賛す。是の月戊午、枢臣葉義問、江・淮軍を督し、允文軍事に参謀す。権又た和州より遁れ帰り、錡は鎮江に回り、両淮を尽く失う。
十一月壬申、金主大軍を率いて采石に臨み、別に兵を以て瓜洲を争わしむ。朝命成閔に錡を代わらしめ、李顕忠に権を代わらしむ。錡・権は皆召還さる。義問旨を受け、允文に蕪湖に往きて顕忠を促し権軍を交わらしめ、且つ采石にて師を犒うことを命ず。時に権軍は猶采石に在り。丙子、允文采石に至る。権は既に去り、顕忠は未だ来たらず。敵騎充満す。我が師は三三五五散在し、鞍を解き甲を束ね道傍に坐すは、皆権の敗兵なり。允文、坐して顕忠を待てば国事を誤らんと謂い、遂に立ちて諸将を招き、忠義を以て勉め、曰く、「金帛・告命皆ここに在り、功有るを待つ」。衆曰く、「今既に主有り、請う死戦せん」。或いは曰く、「公は命を受けて師を犒うも、命を受けて戦を督するには非ず。他人之を壊さんに、公その咎を任すべきか」。允文之を叱して曰く、「社稷に危き及び、吾将に何くにか避けん」。
江辺に至ると、江北には既に高台が築かれ、向かい合って緋色の旗二本、刺繍の旗二本が立てられ、中央に黄色い屋根の御座が設けられ、亮がその下に踞って坐しているのを見た。間者が言うには、前日に白黒の馬を殺して天を祭り、衆と盟を結び、明日に江を渡り、朝食を玉麟堂で取り、先に渡る者には黄金一両を与えると約したという。当時、敵兵は実に四十万、馬はその倍、宋軍はわずか一万八千であった。允文は諸将に命じて大陣を列ねて動かさず、戈船を五隊に分け、その二隊は東西の岸に沿って進ませ、一隊は中流に駐屯させ、精兵を隠して戦いを待たせ、二隊は小港に隠し、不測の事態に備えさせた。配置がようやく終わると、敵は既に大声で叫び、亮は小さな赤旗を操って数百艘の船を指揮し、江を渡って来た。瞬く間に南岸に到達したのは七十艘、まっすぐに宋軍に迫り、軍は少し後退した。允文は陣中に入り、時俊の背を撫でて言った、「汝の胆略は四方に聞こえている。陣の後に立てば、それは児女子に過ぎぬ」。俊は即座に双刀を揮って出陣し、兵士は決死の戦いをした。中流の官軍もまた海鰍船で敵を衝き、敵船は皆平らに沈み、敵は半ば死に半ば戦い、日暮れになっても退かなかった。折しも光州から潰走した軍が到着したので、允文はこれに旗鼓を与え、山の後ろから回り出させた。敵は援軍が来たと疑い、ようやく逃げ去った。また強弓を持たせて追撃し、これを大いに破り、斃れた屍は合わせて四千余、万戸二人を殺し、千戸五人及び生女真五百余人を捕虜とした。江で死ななかった敵兵は、亮がことごとく敲き殺した。江に出て戦わなかったことを怒ったのである。勝利を奏聞し、将士を労い、彼らに言った、「敵は今敗れたが、明日は必ずまた来るであろう」。夜半、諸将に配置を命じ、海舟を分けて上流に繋がせ、別に兵を遣わして楊林口を遮断させた。丁丑、敵は果たして来襲したので、挟撃し、再び大戦し、その船三百を焼き、ようやく逃げ去った。再び勝利を奏聞した。やがて敵は偽の詔書を遣わして王権を諭し、あたかも以前からの約束があるかのようであった。允文は言った、「これは反間の計である」。依然として返書を書き、「権は既に典憲に処せられ、新たな将は李世輔である。願わくば一戦して雌雄を決せん」と述べた。亮は書を得て大いに怒り、遂に龍鳳車を焼き、梁漢臣及び船を造った者二人を斬り、瓜洲に向かった。漢臣は、亮に江を渡ることを教えた者である。
顯忠が蕪湖から到着すると、允文は彼に言った、「敵が揚州に入れば、必ず瓜洲の兵と合流し、京口には備えがない。私はそこへ行かねばならぬ。公は兵を分けて助けてくれまいか」。顯忠は李捧の軍一万六千を分けて京口へ向かわせ、葉義問もまた楊存中に命じて配下の軍を率いて来会させた。允文は建康に戻り、即座に上疏して言った、「敵は采石で敗れ、瓜洲で僥倖を狙うであろう。今、我が精兵は京口に集結し、慎重に待てば、一戦して勝つことができる。どうか六飛の発進を少し緩めてくださるようお願いいたします」。
甲申、京口に到着した。敵は重兵を滁河に駐屯させ、三つの水門を造って水を貯え、深さ数尺とし、瓜洲口を塞いでいた。当時、楊存中、成閔、邵宏淵らの諸軍は皆京口に集結し、二十万を下らず、ただ海鰍船は百に満たず、戈船はその半分であった。允文は、風があれば戦船を使い、風がなければ戦艦を使うべきで、数が少ないと用が足りない恐れがあると言った。そこで材木を集めて鉄を鍛え、馬船を戦艦に改造し、かつ平江から借り受け、張深に命じて滁河口を守らせ、大江の要衝を扼させ、苗定を下蜀に駐屯させて援軍とした。庚寅、亮が瓜洲に到着すると、允文は存中と共に江辺で試験を行い、戦士に命じて車船を中流で上下させ、三度金山を周回させた。回転すること飛ぶが如く、敵は弓を引き絞って待ち構え、互いに見合わせて驚愕した。亮は笑って言った、「紙の船に過ぎぬ」。一人の将が跪いて奏上した、「南軍には備えがあります。軽々しく攻めてはなりません。揚州に駐屯し、徐々に進取を図ることを願います」。亮は怒り、斬ろうとしたが、将が長く哀願して謝罪したので、五十回杖打った。乙未、亮はその部下に殺された。
初め、亮が瓜洲にいた時、李宝が海路から膠西に入り、成閔らの諸軍がちょうど流れに沿って下って来ると聞き、亮はますます怒った。揚州に戻り、諸将を召して三日以内に江を渡ることを約束し、そうでなければ皆殺しにすると言った。諸将は謀って言った、「進めば溺れ殺される禍いがあり、退けば敲き殺される憂いがある。どうしたものか」。万戴という者が言った、「郎主を殺し、南宋と通和して故郷に帰れば生き延びられる」。衆は言った、「承知した」。亮には紫茸細軍がおり、戦陣には臨まず、常に自衛に用いていた。衆はこれを憂い、蕭遮巴という者が彼らを欺いて言った、「淮東の子女玉帛は皆海陵に集まっている」。かつ唆して行かせた。細軍が去った後、亮は死んだ。
丙申、敵は退いて三十里に駐屯し、使者を遣わして和議を求めた。己亥、これを奏聞した。召されて入対し、上は慰労し賞賛して歎じ、陳俊卿に言った、「虞允文の公忠は天性より出でたもの。朕の裴度である」。詔して扈従を免じ、両淮の措置に向かわせた。允文は鎮江に至り、両淮を収める三つの策を上奏したが、返答はなかった。
翌年正月、上は建康に到着した。間もなく回鑾を議し、詔して楊存中を江淮・荊襄路宣撫使とし、允文をその副使とした。給事中・中書舎人が存中の任命を封還したので、ここに允文は川陝宣諭使を充てられた。陛辞に際し、言った、「金の亮が既に誅殺され、新主が初めて立ち、彼の国はまさに乱れている。天が我が恢復を助けているのである。和すれば海内の気勢は沮喪し、戦えば海内の気勢は伸びる」。上はこれを然りとした。允文が蜀に至ると、大将の吳璘と中原経略を議し、璘は鳳翔を進取し、鞏州を回復した。金は兵を治めて陝西の新たに回復した州郡を争い、蜀の士人はこれを棄てようとしたが、允文は反対を主張した。
孝宗が禅を受けられると、朝臣に西事を言う者がおり、官軍が進討するには、東は宝雞を過ぎてはならず、北は徳順を過ぎてはならず、かつ忠義人を用いて新たに回復した州郡を守らせ、官軍は蜀口に退いて守るべきだと主張した。允文はこれと争ったが及ばず、吳璘は遂に河池に帰った。これは参知政事史浩の議を用い、陝西をことごとく棄てようとしたのであり、臺諫の袁季、任古がその説に附和した。允文は再び上疏し、大略において言った、「恢復は陝西に先んずるものはなく、陝西五路の新たに回復した州県はまた徳順の存亡にかかっている。一旦これを棄てれば、蜀を窺う路はますます多くなり、西和、階、成の利害は極めて重大である」。前後合わせて十五度上疏し、かつ陳康伯に書を送ったが、康伯は同列に牽制され、翻意させることができなかった。上は允文を召して陝西の事を問おうとしたが、執政は彼が来るのを忌み、顯謨閣直學士として夔州知州とし、間もなくまた奏事を命じた。
当時、朝廷は盧仲賢を遣わして金に和議を議わせ、湯思退はまた唐、鄧、海、泗を棄てようとし、手詔には唐・鄧は険要でなく、度外視してよいとあった。允文は五度上疏して力爭した。思退は怒り、即座に奏上して言った、「これらは皆、利害が己に切実でないため、大言を吐いて国を誤り、美名を邀えようとするものである。宗社の大事は、どうして戯れと同じであろうか」。上意は遂に定まった。思退は表面上允文を召還するよう請うたが、実は彼を去らせようとしたのである。允文は官印を返上し、なおも四州を棄ててはならないと請い、致仕を乞うた。詔して顯謨閣學士として平江府知府とした。思退は遂に和議を決行し、唐・鄧を割譲した。
郢を過ぎ、黄鷹山城を築くことを奏す。襄陽を過ぎ、府城を修復することを奏す。八月漢中に至り、また沔陽に往く。九月、益昌に至る。先に手詔を被り九事を戒められ、蜀に至りて後、悉く奉じて行い、特に軍政を急務とす。また諸軍を閲実し、その壮怯を第して三等と為し、上は戦備に、中下は輜重に備え、老いたる者少なき者は預からしめず。兵を汰うこと凡そ一万人、緡銭四百万を減ず。汰われた兵で労績ある者は、員闕を置いてこれに処す。興・洋の義士は民兵なり、紹興初年に七万を計りしが、大散の戦いにて、将は甲を授けず、これを駆りて官軍に先んぜしめ、死亡すること略ね尽くす。利帥の晁公武に命じて核実せしめ、二万三千九百余人を得たり。また陝西弓箭手法を得て、紹興の制に参酌し一書と為し、将吏をしてこれを守らしむ。馬政を張松に付し、旧制に依り茶馬を川・秦の二司に分つことを奏す。
初め枢府に在りし時、蕭遮巴が軍中の人を刷り出すことを言上し、允文嘗て三衙に撫存するよう奏諭せり。ここに至り、金・洋・興元の帰正人二万、道を遮り繫縛の苦しみを訴う。允文は官田を分け与え、皆が生業を振るうようにす。敵将の姜挺・白沂を結ぼうと欲し、御札に遵い鞏人の王嗣祖を募り外蕃を結ばしめて金人を図らしめ、また蕃僧六彪なる者を得てともに往かしむるも、竟に成説無し。時に邛・蜀十四郡饑饉を告げ、荒政凡そ六十五事を施行す。劍州の倅が羨銭五万を献ずるも、これを退ける。
五年八月、右僕射・同中書門下平章事兼枢密使を拝す。允文は多く知名の士を推薦す、洪适・汪應辰の如し。相と為りて後、人材を籍して三等と為し、見聞あること有れば即ちこれを記し、『材館録』と号す。凡そ挙げたる者は、上皆これを収用し、胡銓・周必大・王十朋・趙汝愚・晁公武・李燾、これらは特に顕著なる者なり。上は兵冗財匱を憂う。允文は陳俊卿と議し、三衙の雑役を革め、冗籍を汰う。三軍に怨言無し。
六年、陳俊卿が龔茂良を留めることを奏して上意に逆らい、上大いに震怒す。俊卿は浙江亭にて待命すること二日、報い無し。允文、対を請い、体貌の道を極論し、榻前にて繰り返し拝礼す。遂に福州判を命ず。
詔して范成大を祈請使と為し、陵寢の故なり。金従わず、かつ諜報に三十万騎を以て陵寢を奉遷し来帰せんと欲すとあり、中外洶洶たり。荊・襄の将帥皆増戍を請う。允文曰く、「金は方に亮を懲らしめ、決して軽動せず、虚声を以て我を撼がすに過ぎざるなり。」遂にこれを止むることを奏す。朝論紛然たりしも、允文屹然として動かず、敵卒いに他事無し。
胡銓が臺評により去らんとす。允文、これを留めて経筵に侍せしむることを奏す。銓は朱熹を推薦す。上、允文に問うて熹を知るやと。允文、熹は程頤に下らざると謂う。遂に熹を召すも、熹至らず。檢鼓院が六条を以て上書人を抑う。允文力言して不可とす。従う。
会慶節、金使の烏林答天錫入見す。金主の婿なり、驕倨甚だし。固より上に請いて榻を降り金主の起居を問わんとす。上許さず。天錫跪いて起たず。侍臣錯愕して措くところを知らず。允文、大駕の禁中に還ることを請い、かつこれを諭して曰く、「大駕既に興り、再び殿に御するは難し。使人来たりて且つ班に随い寿を上ぐべし。」金使慚じて退く。
上、僕射の名正しからずとして、左・右丞相と改む。八年二月、允文に特進・左丞相兼枢密使を授け、梁克家を右丞相と為す。允文嘗て克家を挙げて自らに代えんとす。上許さず。この月、病を以て機政を解くことを乞い、また克家が靖重にして宰相の器有ることを推薦す。ここに至り始めて同相と為る。手詔を允文に付して曰く、「朕方に武臣をして枢密と為さんと欲す。曹勛は如何。」允文、勛の人品卑凡にして用うべからずと謂う。既にして張説を以て枢密院事に簽書せしむ。右正言の王希呂、臺官と交えてこれを劾す。上、希呂を甚だしく怒り、手詔して「遠悪の監当に与えよ」とす。允文これを繳回す。上益々怒る。梁克家曰く、「希呂が張説を論ずるは臺綱なり。左相が希呂を救うは国体なり。」上怒り稍や解け、卒いに希呂の罰を薄くす。
四月、御史の蕭之敏、允文を劾す。允文上章して罪を待つ。上、徳寿宮に過ぐ。太上曰く、「采石の功、之敏は何許に在りや。その去るを聴く毋かれ。」上、之敏を出し、かつ扇に詩を制して書し以てこれを留む。允文、之敏の端方なるを言い、召し帰して言路を開くことを請う。上、その言の寛厚なるを謂い、曾懐に命じて『時政記』にこれを書かしむ。
上、諫官を選ぶことを命ず。允文、李彥潁・林光朝・王質を以て対う。三人皆鯁亮にして、また文学を以て時に推重せらる。故にこれを薦む。久しく報い無し。曾覿一人を推薦す。賜第し、諫議大夫に擢ず。允文・克家これに争うも、従わず。允文力求めて去らんとし、少保・武安軍節度使・四川宣撫使を授けられ、雍国公に進封さる。陛辞の際、上、進取の方略を諭し、某日を期して河南に会わんとす。允文言す、「異時に内外相応ぜざるを戒む。」上曰く、「若し西師出でて朕遅回せば、即ち朕卿に負く。若し朕既に動きて卿遅回せば、即ち卿朕に負く。」上正衙に御し、酒を酌み詩を賦して以てこれを遣わし、かつ家廟の祭器を賜う。
九年、蜀に至る。大軍の月給米一石五斗、その家を贍うに足らず。允文、宣司の銭三十万を捐てて米に易え、口数を計って増給す。戸馬七条を立て、民馬を括り、良家の子を選び戦用に儲うることを奏す。初め、北界に寇鄰なる者あり、数万の衆を擁して商・虢の間に在り。允文の政を執る日に款を納れんとす。蜀に至るに及び、また人を遣わして允文に書を致すも、報いず、羈縻するのみ。既にして鄰の謀覚る。金密かに人を遣わしてこれを捕らう。葉衡奏聞す。允文上疏して自ら弁明し、因って禄を納れることを請う。報いず。
上嘗て允文に謂いて曰く、「丙午の恥、まさに丞相とともにこれを雪すべし。」また曰く、「朕惟うに功業は唐太宗に如かず、富庶は漢の文・景に如かず。」故に允文は上に恢復を期す。蜀に使いすること一年、進兵の期無し。上密詔を賜いてこれを促す。允文、軍需未だ備わらずと言う。上楽しからず。
允文は姿が雄偉、身長六尺四寸、慷慨磊落として大志有り、而して言動には則度有り、人は望んで任重の器と知る。早く文学を以て身を台閣に致し、晩年に時艱に際会し、将相に出入りすること垂二十年、孜孜として忠勤に二心無し。嘗て『唐書』『五代史』を注し、家に蔵す。詩文十巻、『経筵春秋講義』三巻、『奏議』二十二巻、『内外志』十五巻有り、世に行わる。
子三人:公亮、公著、杭孫。孫八人、皆好修、唯だ剛簡最も知名、嘉定中、召されて至らず、終に利路提点刑獄に至る。
辛次膺
山東の乱に値い、挙室南渡す。閩寇范汝為が建州を陥とすに属し、宰相呂頤浩が次膺を以て浦城を宰せしめ、賊の衝を遏せしむ。比して至るに、寇党の熊志寧已に其の邑を焚く。ここに於いて荊棘を披き、瓦礫の中に坐し、吏民を安輯し、丁壮を料し、器械を治め、険阻を扼し、号令煩わしからず、邑民之に便す。数月、韓世忠賊を破り、建州を復し、審計司を除す。余党の范黒龍鄰邑を破る、閩帥張守次膺に檄し、賊平して後に行かしむ。乃ち郷兵を募り強弩を習わしめ、賊至る、之と水を夾して陣し、矢斉に発し、賊奔潰し、生にして首領五人を致し、余は悉く之を宥す。
参政孟庾の薦を用い、召対に応じ、用人は務めて実を貴ぶに在り、施令は必ず行わるるに在ると奏す。駕部に遷る。願わくは郡邑に勅し耕を省み征を薄くし、農を務め末を抑えんことを。又奏す、「中原の人、墳墓生業を棄て、巡に従い江左に至り、飢寒に殞仆す。願わくは存拊を加え、以て中原の徯后の心を堅くすべし」と。吏部郎・湖北運判に遷り、中途召還され、高宗に建康行宮に見え、首に救世の弊を言い、上善しと称し、以て奏したる所を朝堂に榜するよう勅す。
右正言に擢でられる。奏す、「願わくは兵将を閲し、親しく簡抜し、恩威の柄を攬り、人々に朝廷の尊きを知らしめん。左右近習、久しければ則ち政を干す、願わくは其の漸を杜がん。兵連れて解けず、十年茲に於る。一歳に銭三十万・米四百万石を用い、諸路の常賦僅かに其の半を支うるに足り、余は悉く民に取る。願わくは不急の務を罷め、姑息の沢を節し、冗官を省み、愞兵を汰せんことを乞う」と。
韓世忠の男を直秘閣に任ぜんとす、次膺奏して曰く、「城を攻め野に戦うは、世忠の功なり、其の子何ぞ関わる。石渠・東観は、図書の府なり、武功何ぞ関わる。幸門一たび開けば、例に援る者衆し」と。又奏す、「今主議する者は小利を見て大計を忽せにし、偏師偶々勝てば、遽に進討を思い、便ち攻を以て余り有りと謂い;警奏稍々聞けば、首に退舍を陳べ、便ち守を以て足らざると謂う。願わくは紀律を厳にし、烽燧を謹み、間探を明らかにせん」と。上皆信納す。韓世忠将に楚州より軍を移して鎮江に駐せんとすを聞き、復た慮うべき者五を陳ぶ。王倫北に使して和を請う、次膺言う、「宣和海上の約、靖康城下の盟、口血未だ乾かず、兵其の後に随う。今日の事当に其の詐を識るべし」と。
時に秦檜政府に在り、其の妻兄王仲薿の為に両官を叙す。次膺仲薿を劾し、朱勔に奴事し、金酋に投拜し、罪赦すべからざるに在りと。又た撫州知事王㬇を劾し、法に違いて官田を佃し、租を輸せずと。其の父仲山、先に撫州を知り、金人に屈膝し、㬇其の後に継ぐ、何の顔あって吏民に見えん。㬇は、檜の妻兄なり。章留中す。次膺再び之を論じて曰く、「近臣二人を奏す、継いて除命を追寝すと聞く、是皆檜私を容れて営救し、陛下曲く其の欲に従い、国の紀綱、臣の責任、一切廃格す。借り令え貴き宮掖に連なり、親しきこと肺附の如くすとも、寵任宜しからずんば、臣も亦た之を論ずるを得べく、而して大臣の姻婭は、乃ち之を縄するを得ざる耶。願わくは陛下乾剛の威を奮い、蒙蔽の漸を戒めん」と。
去らんことを求め、直秘閣・湖南提刑を除す。先ず是に、湖南の賊龍淵・李朝衆数万を擁し、衡州の茶陵を拠す、檜匿して奏せず、乃ち見闕を以て次膺を処す。陛辞に、上曰く、「卿母を将うるを以て請う、朕留むるを得ず。湖湘の風物甚だ佳く、且つ盗賊無し、職名は異恩、卒歳当に召さん」と。既に長沙に抵るや、賊勢方に張る、戍将抽回され、始めて檜之を陥れんと欲するを悟る。即ち単車にて茶陵に趨り、賊の驍将を擒えて之を戮し、賊党の毛義・龍麟等を募り、榜を齎して朝廷戍将を抽回し、務めて招安せんと欲し、宜しく亟に降り、以て死せずして待つべしと諭す。龍淵・李朝相継いで降り、仍って精鋭を料せば、禁旅万余を得可しと請う。次膺笑って曰く、「是皆吾が民なり、正に兵甲を棄て、鋤耰を持ち、趣に令して復業せしむべし」と。茶陵を軍と為すを奏す。
金との和好成る、赦書衡陽に至る、次膺極めて其の詐を陳ぶ、略して曰く、「臣昨諫列に在り、嘗て数え金人の変詐常無きを論じ、願わくは陛下宗社生霊の為に深く慮らん。近く邸報を観るに、枢密院編修官胡銓妄りに和好を議し、歴て大臣を詆し、除名遠竄せらる。已にして銓の書槁を得るに、乃ち朝廷遽に己を屈して藩と称せんと欲するを知る、臣未だ其の可なるを知らず。大臣姦を懐い位を固め、国計を恤みず、媕婀として和に趨い、謬って便と為す、臣天下の人々の以て便と為すを知らず。『父の讐は与に天を戴かず、兄弟の讐は兵を反さず』。讐を棄て怨を釈し、前事を尽く除き、万乗の尊を降して、以て敵に説を求めんとす、天下の人々、果たして能く遂に怨痛を亡くして以て陛下の志に従わんや」と。書奏す、報いず。金三京を陥とす。
次膺罷められ、祠を奉ず。秦檜其の重名を負うを以て、先ず書を移し、当に稍々収用すべしと欲す、次膺笑って答えず。十六年を閲し、貧益々甚だしく、人に求むる毫髪無し。檜死し、起復して婺州を知らしめられ、三日にして召される。国門に至り、足疾を以て去らんことを求む。秘閣修撰を加えられ、郡に還る。再び召見され、歴て仇怨国を当にす、老母幾くばくか溝壑に委せんとするを言い、因りて国本未だ立たざるを奏す、上容を改めて曰く、「誰か可ならん」と。次膺曰く、「子を知るは父に若くは莫し」と。上善しと称す。権給事中に擢でられる。蔣璨権戸部侍郎と為らんとす、次膺璨が正を守らず、事交結するを駁し、璨を出して平江を知らしむ。御史中丞湯鵬挙次膺を劾し、権を仮りて怨を報いると、待制・宮観を除す。起復して泉州を知り、福建帥に移る。母憂に丁し、禄を納れんことを乞う。
孝宗即位し、手詔して趣に召す。既に至り、奏す、「陛下賢を用いるには必ず事功を考核し、一人の誉に以て之を用い、一人の毀に以て之を去ること無く、令を出すには要に反汗無く、善を納るるには要に転圜を知らん。兵を練り民を恤み、両淮を經理し、敵をして虚に乗じて入る能わざらしめん」と。是の日、御史中丞を除す。徳寿宮に朝し、高宗一見して謂く、「卿を強健の時に閑にせしを惜しむ」と。
上将にて春饗を行い、高宗を迎えて延祥観に詣で、玉津園に幸する。次膺が奏上して言う、「欽宗の喪服が終わらず、まさに策士を停めているところであり、かつ金人の侮慢な書状が到着したばかりで、その意は交戦にある。まして原野の間は禁衛が稀少であるから、過分にこれを慮るべきであり、兼ねて一度出御すれば十数万緡を費やす。いずれか兵食を資するに如かず」と。当時、両淮はことごとく荒野と化しており、次膺が奏上して言う、「遺民を集めて帰業させ、種牛を貸し与え、あるいは屯兵に在って便に従い耕種させることを乞う。これ足兵の良法なり」と。至って成閔の貪饗、湯思退の朋党への阿附、葉義問の奸佞なることを、皆これに次いで論劾した。毎度、章疏が出るや、天下これを是とした。上はまさに政事に精励しており、次膺は毎度名実を以て言上し、裨益すること多く、その官を呼んで名を称さなかった。
隆興と改元し、三月、同知枢密院事となる。符離の軍において、捷報が日々聞こえる中、次膺は手疏を千言にわたり書き、持重を乞うた。間もなく、軍は果たして潰えた。謁見するに及んで、上の顔色は楽しからず、奏上して言う、「軍は潰えて帰還したが、張浚が弾圧すれば必ず他事なかるべし。これは上天の陛下に対する大いなる戒めなり」と。上はその先見を歎じた。
参知政事に拝されるも、病を以て力強く免じることを祈願した。かつ奏上して言う、「王十朋が侍史に除せられたのは、たとえ上みずから抜擢されたとはいえ、天下は皆、臣が嘗てその賢を推薦したことを知っている。湯思退が召されて将に至らんとするも、また臣が嘗てその奸を疏奏したことを知っている。臣が引避しなければ、人は何と言うであろうか」と。資政殿学士・洞霄宮提挙に除せられる。陛辞に際し、茶を賜わり、その去ることを甚だ惜しまれた。次膺が奏上して言う、「臣と思退とは、理において同列たるは難し」と。上は言う、「湯思退を用いるべしと言う者あり」と。次膺が奏上して言う、「今日の事は、恐らく思退の弁じ得る所ではあるまい。思退は固より論ずるに足らず、窃かに国家の事を誤らんことを恐れる」と。乾道六年閏五月に卒す。年七十九。
次膺は孝友にして清介、朝廷に立ちては謇諤たり。仕宦五十年、毫も吏議に掛かるところ無し。政を為すには清静を貴び、徳化を先とし、至る所、人はその煩わしからざるを称えた。文を属するに善く、特に詩に工であった。
論じて曰く、孝宗は恢復を志し、特に張浚を任用し、俊卿は奸党を斥け、公道を明らかにして、以てその補佐となった。中書に居るに及びては、知ることは為さざる無く、言うことは尽くさざる無く、その志を立てるや一に先哲を法とし、他の宰相の比すべきに非ざるなり。允文の国に許す忠は、炳として丹青の如し。金の庶人亮の南侵、その鋒は甚だ鋭く、中外は劉錡を長城として倚りしも、錡は病を以て進師を克くせず。允文は儒臣ながら、奮勇して督戦し、一挙にしてこれを挫き、亮は乃ち自ら斃れた。昔、赤壁の一勝にして三国の勢成り、淮淝の一勝にして南北の勢定まる。允文の采石の功は、宋の事を転危きを安きにし、実にこれに係る。その相を罷めて蜀を鎮め、命を受けて興復に当たり、期を克くして往くに及びては、志は未だ就かざりしも、その能く慷慨として重きを任じたるは、豈に易くして得んや。次膺は力強く群邪を排し、言責に負うところ無く、政に涖みて煩わさず、約に居りて守る有り。晩年再び朝廷に立ちては、謇諤たること特に著しく、南渡後の直言の臣として、宜しく首に称すべき者なり。