宋史

列傳第一百四十一 張燾 黃中 孫道夫 曾幾 勾濤 李彌遜

張燾

張燾、字は子公、饒州の徳興県の人、秘閣修撰張根の子である。政和八年の進士第三位、嘗て辟雍録・秘書省正字を為す。靖康元年、李綱が親征行営使となると、張燾を幕下に辟召した。李綱が貶謫されると、親知で連座した者は十七人、張燾もまた貶謫された。

建炎初年、起用されて湖州通判となる。明受の変に際し、賊が詔を偽って張燾に江・浙を撫諭させようとしたが、張燾は受けなかった。上(高宗)が復辟した後、詔を下して直言を求めた。張燾が上書した大略は次の通り。「人主が禍乱を平定するには、至誠を本としないで成功した者はない。陛下が践祚されて以来、発する号令は人心を感ずるに足らず、施す政事は人望を慰めるに足らない。これは我が方の誠が未だ修まっていないからではないか。天下の治乱は、君子と小人の用捨にあるのみである。小人の党が日に勝てば、君子の類は日に退き、どうして乱を止め治を図ることができようか」と。また、江防の措置は計略に非ず、徒らに民財を費やし官賦を損ない、用に適さないと述べた。また言うには、「侍従・台諫は意向を観望し、細事を毛挙し、国家の大事に至っては、坐視して言わない」と。また言うには、「巡幸の至る所で、営繕が民を困らせ、越の会稽に棲むも、かくの如くであるべきではない」と。

紹興二年、呂頤浩の推薦により、司勲員外郎に除され、起居舎人に遷る。言うには、「古より敵の情を知らずして勝てた者はない。願わくは大臣・諸将に詔し、爵賞を厚くし、任用に堪える者を募って敵の動静を窺わせられよ。既に審らかに知れば、戦守進退、我に在りて皆備えあり、彼尚安んぞ不意に出でて我が行闕を犯すことができようか」と。詔してこれを都督ととく府及び沿辺の諸帥に付した。中書舎人に遷る。

呂祉が淮西を撫諭しようとした時、張燾は張浚に言った。「呂祉は書生で、軍旅を更めず、どうして軽々しく任せられようか」と。張浚は従わず、遂に酈瓊の変を招いた。七年、張滉に特に進士出身を賜う。張滉は張浚の兄で、母を奉じて行在に至り、上は引見して対しこれを命じた。張燾が言うには、「宣和以来、姦臣の子弟が濫りに儒科を得た。陛下は方に張浚と大業を図回されんとし、公道を以て前の弊を革むべきである。今まず張滉に第を賜うは、どうして公議を塞がん」と。上は張浚の功を思い、その母の心を慰めんと欲し、乃ち起居郎楼炤に行わせて下したが、楼炤はまた封還した。著作郎兼起居舎人何掄が言うには、「賢良の子、宰相の兄、科第を賜うも過ちではない」と。乃ち書して行わせた。張燾は自ら安んぜず、楼炤と共に去らんことを求めたが、許されず、言事者がこれを論じ、集英殿修撰として江州太平観を提挙した。

翌年、兵部侍郎として召され、詔して引見して対す。上が言うには、「卿が去ったのは只張滉のためである」と。張燾が言うには、「臣苟くも見る所あれば、敢えて言わざるを得ません。内侍の王鑒おうかんの如きは、陛下の親信される所ですが、臣尚お論列しました。豈に宰相の親兄に自ら出身を賜い、公議が与せざることを言わざらんや。臣若し言わざれば、豈に陛下に負うのみならず、張浚にも負うことになります」と。上因って問うて言うには、「朕が治を図ること一紀、収效蔑然たり。その弊何れの所に在るか」と。張燾が言うには、「昔より有為の君は、未だ先ず規模を定めずして能く収效した者はありません。臣は紹興初年に首としてこれを言い、今七年になります。往時は大江に臨み進み、退いて呉会を守り、期月を経ずして或いは進み或いは退く、豈に敵に窺われざらんや。今陛下と国論を断ずる者は、二三大臣のみです。一紀の間、十四度相を命じ、執政の遷る者は慮うに二十余を下りません。日月逝き、大計は再び誤るを容れず、願わくは先ず規模を定めることを急務とされんことを」と。

尋いで権吏部尚書となる。徽猷閣待制黎確が卒す。詔して官を贈り恩を推す。張燾が言うには、「黎確は素より正人と号せられ、一旦変に臨み、臣節を失い、北面して張邦昌の庭に仕え、且つ将命して勤王の師を止めました。今曲げて贈恤を加うるは、どうして天下に示さん」と。詔して職名を追奪す。

時に金の使節が境に至る。詔して己を屈して和に就かんと欲し、侍従・台諫に条上させた。張燾が言うには、「金使の来るは、和好を議し、我が梓宮を帰し、我が淵聖(欽宗)を帰し、我が母后を帰し、我が宗社を帰し、我が土地人民を帰さんと欲するが故で、その意は甚だ美しく、その言は甚だ甘い。廟堂は以て信然と為すも、群臣・国人は未だ敢えて信然と為さず。事は国体に関わる故、臣は天意を推原して陛下に陳べん。《伝》に曰く、『天将に之を興さんとす、誰か能く之を廃せん』と。臣は人事を考へて天意を験す。陛下が済州に飛龍せられたは、天の命ずる所です。敵騎が屡々行闕を犯すも、虞と為す能わず。甲寅の一戦に敵師を敗り、丙辰の再戦に劉を退け、丁巳に酈瓊は叛くも、実は偽斉が廃滅する資と為り、皆天の賛ずる所です。これは蓋し陛下が艱難を躬行し、身を側めて修行し、徳を布き正を立て、上って天意に副い、而して天の之を佑けるに致る所です。臣は是を以て上天が禍を悔いるに期有り、中興遠からざるを知ります。願わくは益々自ら修め自ら強くして、以て天心を享け、以て天時を俟たれん。時の既に至れば、吉にして利ならざる無く、則ち何の戦か勝たざる、何の功か立たざらん。今この和議は、姑く之を聴くも、必ず信ずべき恃む有る無きなり。彼の使は已に境に及び、勢い難く固く拒ぐ。其の果して和好を願うが如く、前に陳ぶる所の如きは、是れ天の其の衷を誘うにして、必ず復た我をして難行の礼を強いること無からん。其の初めより此の心無く、其の説を二三にし、我をして必ず行うべからざる礼を責め、我をして必ず従うべからざる事を要するは、其の包蔵する所、何れの所か有らざらん。便ち大義を以て之を絶つべし。辺防を謹み、将士を励まし、時に相い動くべし。願わくは淵衷より断ぜられ、必ずを彼に取らずして必ずを天に取られんことを。若し国家の大恥を略し、宗社の深仇を置き、躬ら臣民を率い、金に屈膝して之に臣事し、而して和議の必ず成るを凱るは、臣の敢えて知る所に非ず」と。上奏を覧て、愀然として色を変え言うには、「卿の言は忠と謂うべし。然れども朕は必ず彼に紿かれるに至らじ。方に熟議し、必ず詐偽に非ずして後に従うべし。然らずんば、当に再び使して虚実を審らかにし、其の使人を拘うべし」と。張燾頓首して謝す。

金使の張通古・蕭哲が行在に至る。朝議は上(皇帝)が金の詔書に拝礼せんと欲す。張燾が言うには、「陛下は王倫の虚詐を信じ、聖断より発し、復た謀議せず、便ち礼を行わんと欲す。群臣震懼措く所を知らず。必ず已に梓宮を得、已に母后を得、已に宗族を得て、始めて通好経久の礼を議すべし。今彼は特に関好を説くを以てし、意は地を割き和を講ずるのみと謂う。陛下の願欲して聖心に切なる者は、一言も之に及ばず。其の情見るべし。奈何ぞ遽かに屈して之を聴かんと欲する。一たび屈した後は、復た伸ぶること能わず。廷臣は正救する能わず、曾て魯仲連の如くにも及ばず、豈に天下万世に罪を獲ざらんや」と。

既にして監察御史施廷臣が抗章して力んで和議を賛し、侍御史に擢げられる。司農寺丞莫将に忽ち第を賜い、起居郎に擢げられる。朝論大いに駭く。張燾は吏部侍郎晏敦復を率いて上疏して曰く。

臣は思うに、陛下は梓宮(天子の棺)が未だ還らず、両宮(徽宗・欽宗)が未だ復せざるを痛み、己を屈して敵と和議を結ぶことを憚らず、ただ衆論が未だ同からざるが故に、軽々しく屈することを敢えてせざるなり。幸いに大小の臣、再び異議なく、従容として献納せば、天聴(天子の聞くところ)を回らし、終に屈せざるに至らんことを庶幾う、これ宗社の福なり。かの施廷臣は乃ち迎合に務め、輒ち敢えて抗章し、力を此の議に賛し、姑く一身進用の資となし、君父の屈辱の恥を恤れず、罪は誅に容れざるに、察官より超擢して柱史(侍御史)と為す。夫れ御史府は、朝廷の紀綱の地にして、而して陛下の耳目の司なり、前日勾龍如淵は附会して中丞を得、衆論固より已に喧しくこれを鄙みたり。今廷臣又此をもって横榻(侍御史の座)に躋る、一台の中、長貳皆然り、既に同郷曲、又た同心腹、惟相朋附し、是非を変乱す、豈に紀綱を紊さずして陛下の耳目を蔽わざらんや。衆論沸騰し、方に切歯す、而して莫将なる者は又此の議により寺丞より擢て右史と為す。如淵・廷臣は庸人なり、初め長ずる所無く、但だ観望を知るのみ、而して将は則ち姦人なり、其の平昔を考うるに為さざる所無し、此の輩烏ぞ之と国論を断つことを与えんや。斥逐を加うるを望み、庶幾くは少しく群枉の門を杜わん。和議に至りては、則ち王倫実に謀主と為り、彼は敵中に往来すること再四に至る、陛下之を恃みて心腹と為し、之を信ずること蓍亀の如し、今其の言為るや已に二三事の端倪、蓋し亦見るべし。更に仰いで祖宗の付託の重きを念い、俯して億兆の愛戴の誠を念い、此の身を貴重し、軽々しく屈せざらんことを望む。但だ恥を雪ぎて復讐を思うに務め、其の使に礼を加え、厚く資を遣わし発し、必ず事実を得んとの意を諭し、国人皆曰う不可との状を告げよ。彼をして禍を悔い、果たして誠心を出だし、惟我の欲する所、尽く我に帰せしめ、然る後に徐ろに之に報ゆるの礼を議するも、亦未だ晩からず。若し其の変詐、虚詞を以て我を誘わば、則ち包蔵終に測るべからず、便ち当に将士を励まし、疆塲を保ち、自治自強し、以て天時を俟つべし、何を為して成らざらん。伏して願わくは陛下少しく忍ばんことを。朝廷に屈己の議有るより、上下解体す、儻し遂に屈己の事を成さば、則ち上下必ず離心に至らん、人心既に離れば、何を以て国を立つる。伏して願わくは之を戒め之を重んぜんことを。

ここにおいて将・廷臣は皆敢えて拝せず。燾又面して如淵を折りて曰く、「達観其の挙ぐる所、君は七人を薦む、皆北面して張邦昌に仕え、今囁嚅として附会し、敵の計に堕ち、他日必ず君親に背かん。」

燾は既に拝詔の議を力詆し、秦檜之を患う、燾亦自ら罪を得たるを知り、疾に託して告に在り。檜、楼炤をして之を諭さしめて曰く、「北扉(翰林学士院)人を闕く、公を以て直院と為さんと欲す。」燾大いに駭きて曰く、「果たして此の言有らば、愈いで敢えて出でざらん。」檜能く奪わず、乃ち止む。

和議成り、范如圭、使を遣わして八陵に朝せんことを請う、遂に判大宗正士㒟と燾を行わしめ偕わしめ、且つ修奉を命じ、荊湖帥臣岳飛に其の役を済ましむ。燾と士㒟、武昌を道り、蔡・潁を出づ、河南の百姓歓迎して夾道し、以て喜び以て泣きて曰く、「久しく王化を隔て、図らざりし今日復た宋民と為らんとは。」九年五月、永安諸陵に至り、朝謁礼の如し。陵前の石澗の水久しく涸る、二使垂至らんとして忽ち湧溢す、父老驚歎し、中興の兆と為す。

燾等柏城に入り、鉏荊棘を披き、随い所葺治し、二日留まりて還る、鄭州より汴・宋・宿・泗・淮南を歴て以て帰る。即ち奏疏して曰く、「金人の禍、上りて山陵に及び、殄滅すと雖も、未だ以て此の恥を雪ぎ此の仇を復するに足らず。陛下の聖孝天至、豈に痛憤に勝えんや、顧みるに梓宮・両宮の故に、方に且つ和し、未だ遽に兵を言うべからず。祖宗の在天の霊、震怒既に久し、豈に但だ已むを容れん、異時に天罰を恭行する、得て無くんや陛下を望まんことを。古より禍乱を戡定する、武無くしては不可、狼子の野心保恃すべからざること久し、伏して武備を修め、釁隙起こるを俟ちて之に応じ、電掃風駆し、尽く醜類を俘えて以て諸陵に告げんことを望む。夫れ是の如く然る後に天子の孝を尽くし、而して人子孫の責塞がれん。」上諸陵寢の如何を問う、燾対せず、唯だ言う、「万世此の賊を忘るべからず。」上黯然たり。

燾因りて永固陵に金玉を用いざることを請う、大略に謂う、「金玉珍宝、聚めて之を蔵むるは、固より以て人の耳目を動かすに足り、又其の物たる、自ら当に世に流布すべく、理必ず発露す、怪しむに足らざる者なり。」上疏を覧し、秦檜に謂いて曰く、「前世厚葬の禍、一軌を循うが如し。朕断じて金玉を用いず、庶幾くは先帝の神霊万世の安き有らん。」燾又言う、「頃に劉豫初めて廃せられ、人情恟恟たり、我が斥候明らかならず、坐して機会を失う。今又敵の淮陽に於いて筏を作り、繩索を造るを聞く、安くにか用いんとするを知らず。諸将朝廷に戒めて間探を遣わすことを得ざらしむ、遂に復た遣わさず、我が動息、敵知らざる無く、敵の情状、我は則ち聞かず。又黄河の船尽く北岸に拘められ、悉く敵の用と為り、往来自若し、一人敢えて北渡する者無きを見る。願わくは辺吏に耳目を広め、事に先んじて防がしめん。」又言う、「酈瓊の部伍は皆西陲の勁兵、今河南に在り、尚ち収用すべし。新疆の租賦已に蠲せられ、而して使命絡繹し、推恩の費用猶お兵興時の例を循う、願わくは裁損を加え、甚だ已むを得ざるに非ざれば使を遣わさず、以て民力を寛かにせん。」又論ず、「陝西の諸帥相下らず、動輒喧争す、願わくは一大帥を置きて之を統べしめ、庶幾くは首尾相応じ、緩急恃むべからん。」燾の言う所皆時病に切中す、秦檜方に和を主とし、惟だ少しくも敵意に忤わんことを恐れ、悉く置きて問わず。

成都謀帥す、上檜に諭して曰く、「張燾可なり、第に道遠く、其の行を憚らんことを恐る。」檜以て燾に諭す、燾曰く、「君命なり、焉んぞ敢えて辞せん。」十月、宝文閣学士を以て成都府を知り兼ね本路安撫使と為し、便宜を付す、一路を安撫すと雖も、而して四川の賦斂無藝なる者は、悉く蠲減を得。陛辞し、奏して曰く、「しょく民困せり、官吏従いて之を誅剝す、朝廷を去ること遠く、赴く所無し。臣の至る所部を俟ち、首に徳意を宣べ、但だ一路咸く恵沢に沾わん。」上曰く、「豈に惟だ一路のみならん、四川の恤民の事悉く卿に委ぬ。」燾因りて官吏の民を害する者を言い、先ず罷めて後ち劾すことを請う、上之を許す。又言う、「軍興十余年、日に暇あらず。今和議甫だ定まる、願わくは汲汲として政刑を以て先務と為さん。」上曰く、「当に之を座右に書すべし。」十年三月、成都に至る。

蜀に在ること四年、貪吏を戢え、租賦を薄くす;雅州蕃部を撫し、西辺驚かず;歳旱れば則ち粟を発し、民饑えざるを得;暇あれば則ち学校を修め、諸生と講論す。会に詔有りて宣撫司に契丹の降人を納めしむ、燾宣撫使胡世将に為りて言う、「蜀地狭く容るる能わず、前朝の常勝軍戒むべし。」世将奏して其の事を寢む。

燾祠を乞う、李璆を以て之に代う。燾蜀より帰り、家に臥すること凡そ十三年。二十五年冬、檜死す、旧人の在る者は皆起つ、燾除せられて建康府を知り兼ね行宮留守と為る。金陵累歳内庫の錢帛巨万を負う、悉く奏して免ぜしむ。池に義子有りて父と争訟す、守昏謬にして、父を繫ぎ、連年決せず、燾大理に移し、其の守を斥く。居ること二年、端明殿学士に進む。二十九年、万寿観を提挙し兼ね侍読す、衰疾を以て力辞す、許さず。吏部尚書を除す。

初め、上(高宗)は普安郡王(後の孝宗)の賢明なるを知り、嗣子に立てんと欲したが、顯仁皇后(高宗の母)の意は未だ欲せず、長く躊躇していた。顯仁皇后が崩御すると、上は燾に方今の大計を問うた。燾は言う、「儲貳(皇太子)は国の根本なり。天下の大計、これに過ぐるはなし」と。上は言う、「朕はこの思いを懐くこと久し。卿の言は朕の心に契う。開春に当たり典禮を議せん」と。また上に賜与を省き、土木を罷め、冗吏を減じ、北貨(金からの輸入品)を止むるよう勧めた。上はこれを嘉奨した。

金の使者施宜生が来朝した。燾は詔を奉じて賓客を館した。宜生は元来閩の人であり、平素より燾の名を聞いていた。一見して副使を顧みて言う、「これが南朝で詔に拝せざる者なり」と。燾は「首丘桑梓」(故郷を思う情)をもって彼を動かした。宜生はここにおいて敵情を漏らしたので、燾は密かに奏上して早く備えをなすよう請うた。

先に、御前に甲庫を置き、凡そ乗輿(天子)の需める図画什物で、有司の供せられざるものは悉くここに集めた。日々の費用は計り知れず。禁中には既に内酒庫があり、醸造は殊に勝れ、その余りを売り捌き、大農(国庫)の利益を頗る侵していた。燾は対面の機会に因り、甲庫は工巧を集めて上心を蕩かし、酒庫は良醸を売って官課(官営専売の収益)を奪うと言上した。併せて教坊の楽工人数を罷減するよう乞うた。上は言う、「卿の言は難きを君に責むるというべし」と。翌日、悉く詔してこれを罷めた。

たびたび衰疾を以て骸骨を乞うた。三十年、資政殿学士を以て致仕し、尋いで太中大夫に遷り、真奉(全俸)を給された。三十一年八月、致仕の身分を解かれ、再び建康府の知府に任ぜられた。時に金人が江を窺い、建業の民は驚き移り過半に及んだが、燾の到着を聞き、人情稍々安んじた。尋いで詔して沿江の帥臣に恢復の事宜を条上せしめると、燾は真っ先に十事を陳べ、大略は不虞に備え、重きを持して威を養い、釁(隙)を観て動き、必勝を期すべきことを欲した。

孝宗が禅を受け、同知樞密院に除せられ、子の埏を遣わして入朝を辞した。詔して肩輿を以て宮に至らしめ、扶持を給して殿に上らせ、まず為治の要を問うた。燾は内治あってこそ外攘できると答えた。また百官執事に弊事を条陳せしめるよう命ずることを乞うた。詔してこれに従い、侍従・臺諫に都堂に集まらせ劄子を給して上聞せしめた。隆興元年、参知政事に遷ったが、老病を以て拝受せず、臺諫が交章して留めたので、資政殿大学士・提挙萬壽觀兼侍読に除せられた。謁告して将養を請うと、許された。家に帰ると、固く致仕を求めた。後二年にして卒す。年七十五。諡して忠定。

燾は外は和やかで内は剛直であり、蜀を帥として恵政あり、民は祠して忘れなかった。初め和議を論じた時、これを天に帰したので、士論は物足りなさを感じた。施廷臣の奏を繳駁してからは、朝野再び一辞に重んじるに帰した。

黃中

黃中、字は通老、邵武の人。幼くして書を受け、一両度で成誦した。初め族祖の蔭で官に補せられた。紹興五年の廷試で、孝弟を言上して上心を動かし、進士第二人に擢げられ、保寧軍節度推官に授けられた。二十余年を経て、秦檜が死ぬと、乃ち召されて校書郎となり、歴遷して普安・恩平両府の教授となった。中が王府にいた時、龍大淵は既に親幸されていたが、中は未だ嘗て彼と親狎せず、見れば揖して退いた。後に他の教授は多くその力に蒙ったが、中だけは官を徙められなかった。

司封員外郎兼国子司業に遷る。芝草が武成廟に生じた。官吏がこれを聞上するよう請うたが、中は答えず、官吏は密かに図を画いて献上した。宰相が祭酒の周綰と中に言う、「治世の瑞祥を、抑えて奏上せず、何ぞや」と。綰は未だ答えず、中は言う、「治世に何ぞこれを用いん」と。綰は退きて人に謂う、「黃司業の言は精切簡当なり。諫官とならざるを惜しむ」と。

賀金生辰使を充て、還りて秘書少監となり、尋いで起居郎を除され、累遷して権礼部侍郎となった。中が金に使いして帰り、その汴宮を修治する様子から、必ずや居を徙めて迫らんとするので、早く計らうべしと奏上した。上は愕然とした。宰相は顧みて中に言う、「沈介が帰って来たが、全くこれを聞かず、何ぞや」と。数日居て、中は宰相に白し、妄言を以て罪に待つよう請うた。湯思退は怒り、言葉で中を侵した。已にして乃ち介を吏部侍郎に除し、中を徙めてその処を補わせた。中は猶お備辺を言上したが、また聴かれず、遂に外補を請うた。上は許さず、言う、「黃中は恬退して操守あり」と。左史(起居郎)を除し、且つ鞍馬を賜うた。

金の使者が天申節を賀するに及び、急に欽宗の訃報を伝えた。朝論は使者の去るを待って発喪しようとした。中は馳せて宰相に白す、「これは国家の大事、臣子の至痛なり。一たび礼を失すれば、天下後世に何と謂わん」と。竟に礼の如く行うことを得た。中は使より還って以来、進見する毎に、輒ち辺事を言上し、又独りに防禦備の方略を陳べた。高宗は善しと称した。数ヶ月も経たぬうちに、金主亮は既に衆を擁して淮を渡った。中は入謝に因り、淮西の将士が命令を用いざることを論じ、大臣を択んで師を督せしめるよう請うた。既にして殿帥の楊存中を以て御営使と為すと、中は同列を率いて力論し派遣すべからずとした。敵が既に江に臨むと、朝臣は争って家眷を遣わして逃匿したが、中だけは晏然としていた。敵が退く頃には、唯中と陳康伯の家眷のみが城中にあり、衆は慚いて服した。

天申節の上寿に際し、議する者は欽宗の服喪が除かれるので楽を挙るべしとした。中は言う、「『春秋』に君しいされて賊討たれざれば、葬ると雖も書かず、以て臣子の罪を明らかにす。況んや欽宗は実に未だ葬られずして、可と為して遽かに楽を作すべきや」と。事は竟に止んだ。給事中を兼ねる。内侍の遷官が法に応ぜず、諫官の劉度が近習の龍大淵を論じて旨に忤い郡に補せられ、已にして復たこれを罷めた件について、中は皆書読(詔書に署名して読み上げる手続)しなかった。群小相与に媒蘖(讒言)し、中は罷め去らされた。尹穡は意を希って中を誹り張浚の党と為した。

乾道と改元し、中は年恰も七十に適うと、即ち告老し、集英殿修撰を以て致仕し、敷文閣待制に進んだ。六年を居て、上が講筵に御するに及び、侍臣を顧みて言う、「黃中の老儒、今何れの許に居るか。年幾ばくか。筋力或いは未だ衰えざるか」と。召して内殿に引対し、問労甚だ渥く、兵部尚書兼侍読に任じた。

中は以前礼部に在った時、嘗て作楽を止めしむることを諫めたが、中が去ると、卒(遂)にこれを用いた。この時に至り又将に宴を賜わんとすると、遂に前説を申し奏上した。詔して范成大を遣わし金に使いして山陵(陵墓)のことを請わしめた。中は言う、「陛下の聖孝ここに及ぶは、天下の幸甚なり。然れども欽廟の梓宮を置いて問わず、尽くさざる所あり」と。上はその言を善しとしたが、用いられなかった。

満たず歳、帰る志あり。乃ち十の要道を陳べた。以て人を用いて自ら用いず、公議を以て人才を進退し、邪正を察し、言路を広くし、事実を核し、用度を節し、監司を択び、貪吏を懲し、方略を陳べ、兵籍を考うるを以てとす。上は亟に善しと称した。中は力を尽くして去らんことを求め、顯謨閣・提挙江州太平興國宮に除せられ、犀帯・香茗を賜うた。

龍圖閣學士を除し、致仕す。凡そ邑里の後生謁見するに、必ず孝弟忠信を以て訓む。朱熹書を裁して見え、曰く「今日の来たる、将に再拝堂下せんとす、惟だ公坐して之を受けて、門弟子の列に進ましめば、則ち某の志なり」と。其の人敬慕せらるる此の如し。其の後、上手書して使を遣わし朝政の闕失を訪わしめ、端明殿學士に進職す。疾に属し、手ずから遺表を草し、猶山陵・欽宗の梓宮を以て言と為し、深く人主の職左右に仮すべからざるを以て戒めと為す。淳熙七年八月庚寅卒す、年八十有五。九月、詔して正議大夫を贈る。中に奏議十巻有り。諡して「簡肅」と曰う。

孫道夫

孫道夫、字は太沖、眉州丹棱の人なり。年十八、辟雍に貢す。時に元祐の学を禁ず、蘇氏の文を収むるに坐して籍を除かる。再び貢し、優等に入る。張浚高宗に薦む、召して対せしむ、道夫奏す「願わくは徳を修めて以て天意を回らし、都を定めて以て人心を繫ぎ、賢材を任じ、興復を図りて以て國恥を雪がん」と。

上越に在り、浚道夫を遣わし事を奏せしむ、出身を賜い、左承奉郎に改む。再び詔して対せしむ、言う「漢中は前に三秦を瞰し、後に巴蜀はしょくを蔽う、孔明・蔣琬関輔を出でて図るも、漢中に屯せざるは未だあらざるなり。今兵を陝右に進めんと欲せば、当に先ず漢中を経営すべし。荊南は東に呉會に連なり、北に漢沔に通ず、用武の国と号し、晋・宋以来、嘗て重鎮と為すに倚る。武帝も亦た荊南上流に居るを以て、故に諸子をして之に居らしむ。今江を守らんと欲せば、当に先ず荊南を措置すべく、時至れば則ち蜀漢の師は秦関より出で、荊楚の師は宛洛より出で、陛下親しく六軍を御し、淮甸より諸将と咸陽に会せば、孰か能く之を禦がん」と。上嘉納し、召して館職を試む。上宰相に諭して曰く「江を渡りし以来、文気道夫の如きは未だあらず、一二年を涵養し、当に詞臣と為すべし」と。

秘書正字・権礼部郎官を除す。徽宗凶問の礼儀、多く草定す。尋いで権左司員外郎。上蜀中の水運陸運孰れか便なるかを問う。道夫奏す「水運は遅くして費を省き、陸運は速くして民を労す。宣撫司初め水運に由り、率ね石に銭十千を費やし、後緩しと以為い、陸に従いて丁夫十数万を起し、率ね石に銭五十余千を費やす」と。上曰く「水運便なり、之を行え」と。

校書郎に遷る。出でて懷安軍を知る、都運司を罷めて以て民力を寛め、戍兵を罷めて以て乱階を弭ぎ、泛使を罷めて以て浮費を省かんことを乞う。資州を知る、宣撫鄭剛中其の治行第一を薦む。移りて蜀州を知る、盗敢えて境内に入らず。州綾を産す、是に先立ち、守軍匠を以て機を置き絲を買いて直を虧き、民之を病む、道夫其の機を断つ。事に遇いて明瞭、人目して「水晶燈籠」と為す。九年遷らず、蓋し秦檜の楽しまざる所なり。

吏部郎中を以て入対し、蜀民の二税監酒茶額の弊を言う、上其の言を納る。太常少卿を除し、礼部侍郎を仮し賀金正旦使を充つ。金将に盟を敗らんとし、秦檜の存亡及び関・陝の買馬約に非ざることを詰む、道夫事に随いて之を折す。使い還り、権礼部侍郎を擢ぐ。上曰く「卿小官より已に朕の知る所と為る、第に趙鼎と張浚相失して後、蜀の士朝に仕うる者、皆沮抑せらる。継いて今より見る所有らば、数え対を求むべし」と。

侍講を兼ね、奏す敵江・淮を窺うの意有りと。上曰く「朝廷之を待つこと甚だ厚し、彼何の名を以て兵端と為さん」と。道夫曰く「彼金人は身其の父兄を弑し其の位を奪い、兵を興す豈に名を問わんや、臣願わくは預め之が図を為さん」と。宰相沈該慮いと為さず、道夫毎に対を進むるに、輒ち武事を言う、該其の張浚を引用するを疑い、之を忌む。道夫自ら安からず、出づることを請い、綿州知州を除し、致仕し、卒す、年六十六。

道夫官に居る、一意民の為と為し、私を以て干すべからず。仕宦三十年、奉給多く書籍を置く。然れども性剛直、面折を喜び、人の短を容れず、或いは此を以て之を少くすと云う。

曾幾

曾幾、字は吉甫、其の先贛州の人、河南府に徙る。幼くして識度有り、親に事えて孝、母死し、蔬食十五年。太学に入りて声有り。兄弼、京西南路學事を提挙し、部を按ずるに溺死し、後無し、特命に幾を将仕郎と為す。吏部を試み、考官其の文を異にし、優等に置き、上舍出身を賜い、國子正兼欽慈皇后宅教授を擢ぐ。辟雍博士に遷り、校書郎を除す。

林靈素幸いを得、符書を作り号して《神霄錄》と曰い、朝士争いて之に趨る、幾と李綱・傅崧卿皆疾と称して往き視ず。久しくして、応天少尹と為り、庭に留訟無し。閹人旨を得て金を取るも文書無く、府尹徐處仁之を与う、幾力争うも得ず。

靖康初、淮東茶監を提挙す。高宗即位し、湖北提挙に改め、広西運判・江西提刑に徙り、又浙西に改む。会に兄開礼部侍郎と為り、秦檜と力めて和議を争い、檜怒り、開去り、幾も亦罷む。月を逾え、広西轉運副使を除し、荊南路に徙る。盗駱科郴の宜章より起る、郴・桂皆澒洞す、宣撫司兵を調うるも未だ至らず、謾りに捷を以て聞く。幾其の実を疏し、朝廷他将を遣わし之を平ぐ。閒を請い、崇道観を得る。復た広西運判と為り、固く辞し、上饒に僑居すること七年。

檜死し、起きて浙西提刑・台州知州と為り、治め清浄を尚び、民之に安んず。黄岩令賄を受け両吏に持たる、令吏を械し獄に置く、一夕皆死す、幾其の罪を詰む。或いは曰く「令は丞相沈該の客なり」と。之を治むること益急なり。

賀允中薦め、召して対せしむ、疾を以て辞し、直秘閣を除し、故治に帰る。未だ幾からず、復た召して対せしむ、幾言う「士気久しく振わず、陛下一朝に之を起さんと欲す、枉を矯うる者は必ず過直す、檻を折り鞅を断ち、裾を牽き笏を還し、直を売り誉を干すが若き者有りと雖も、願わくは優容を加えよ」と。時に帝檜の権を擅にするの弊を懲らし、方に言路を開き、詔に応ずる者衆し、幾戾を獲る者有らんことを懼れ、事に先立ち之を陳ぶ。帝大いに悦び、秘書少監を授く。

劉幾は承平の世に既に館職にあり、去ること三十八年にして再び至るに、鬚鬢は皓白たり、衣冠は偉然たり。毎に同舎と会すれば、多くは先輩の言行・臺閣の典章を談じ、薦紳は推重す。詔して『神宗寶訓』を修せしめ、書成りて奏薦す。帝は善しと称す。権礼部侍郎。兄の楙・開は皆嘗て春官の貳たりしが、幾復た之を為し、人以て栄と為す。

呉・越に大水・地震あり、幾は唐の貞元の故事を挙げて反覆論奏す。帝は其の言を韙とす。他日幾に謂ひて曰く、「前に進めし陸贄の事甚だ切なり、已に漕臣を遣はして振済せしむ」と。引年して謝せんと請ふ。上曰く、「卿の気貌は老人に類せず、姑く朕が為に留まれ」と。謝して曰く、「臣は万一に補ふこと無し、惟だ進退に礼有るを尚ふ、猶ほ陛下の抜擢に負かざらん」と。上は事を以て労するを閔み、玉隆観を提挙せしむ。紹興二十七年なり。集英殿修撰を除し、又三年、敷文閣待制に昇る。

金、塞を犯す。中外大いに震ふ。帝、楊存中を召して宰執と偕に便殿に対せしめ、将に百官を散じ、海に浮かびて之を避けんとするを諭す。左僕射陳康伯、不可を堅持す。存中言ふ、「敵は国を空くして遠く来たり、已に淮甸を闖く。此れ正に賢智馳騖して足らざるの時なり。臣願はくは率先して将士を将ひ、北首して敵に死せん」と。帝喜び、遂に親征の議を定め、詔を下して進討す。使を遣はして敵に詣り師を緩めんと欲する者有り。幾疏を上りて言ふ、「幣を増して和を請ふは、小益無く、大害有り。朝廷の為に計るに、正に胆を嘗め戈を枕とし、専ら節儉を務め、経武の外一切之を置くべし。是くの如くせば、北に中原を取るも可なり。且つ前日諸将に詔して檄を伝へ金の君臣を数ふるは、奴隷を叱するが如し。何の辞を以てか之と和するを得んや」と。帝、之を壮とす。

孝宗、禅を受く。幾又た疏数千言を上る。将に召さんとす。屢たび老を請ふ。乃ち通奉大夫に遷り、致仕す。其の子逮を擢て浙西提刑と為し、以て養ひに便ならしむ。乾道二年卒す。年八十二。諡して「文清」と曰ふ。

幾は三たび嶺表に仕へ、家に長物無し。人其の廉を称す。早く舅氏の孔文仲・武仲に従ひて講学す。初め応天に佐くる時、諫官劉安世は恙無く、党禁方に厲しく、其の門を窺ふ者敢へて無かりしに、幾独り之に従ひ、経を談じ事を論じ、之と合す。衡嶽に地を避け、又た胡安国に従ひて遊び、其の学益々粹なり。文を為すこと純正雅健、詩は尤も工なり。『経説』二十巻・文集三十巻有り。

二子:逢は仕へて司農卿に至る。逮も亦た終に敷文閣待制たり。而して逢は最も学を以て称せらる。

兄 開

開は、字は天遊。少くして好学し、善く属文す。崇寧の間進士第に登り、真州司戸に調へ、累遷して国子司業、起居舍人に擢てられ、権中書舎人となる。掖垣にて制を草すに、論駁すること多く、時相の意に忤ひ、左遷して太常少卿と為り、責めて大寧監塩井を監す。匹馬にて官に之くも、以て自ら卑しまず。召還さる。時相復た用事し、杭州市易務を監す。直秘閣を除し、和州を知り、徙めて恩州を知る。祠を請ひ、鴻慶宮を得、南京国子監を判す。復た中書舎人と為り、罷む。洞霄宮を提挙す。

欽宗即位し、顕謨閣待制・万寿観提挙・潁昌府知府を除し、京西安撫使を兼ぬ。職を奪はれ、祠を奉ず。建炎初、職を復し、潭州知府・湖南安撫使と為る。年を踰えて去らんことを求め、復た鴻慶宮を得、起きて平江府知府・広東経略安撫使と為る。詔を奉じて潮陽に駐し処寇を招捕し、事を訖へて、乃ち鎮に之く。居ること二年、群盗を尽く平ぐ。太平観を提挙す。

復た中書舎人を以て召さる。首に論じて曰く、「古より興衰撥乱の主は、必ず一定の論有り、然る後に能く成功す。願はくは大計を講明し、議論を一定せしめ、断じて必ず行はしめば、則ち功烈は周宣に侔ふべし」と。又た論じて曰く、「車駕東南を撫巡し、重兵の聚まる所、大江を以て限られ、敵未だ易く遽かに犯し難し。其の窺伺する所は全蜀なり。一たび其の防を失はば、陛下高枕して臥するを得ざらん。願はくは重臣を択び呉玠と協力して全蜀を固護せしめよ」と。屢たび去らんことを請ひ、宝文閣待制に進み、鎮江府知府兼沿江安撫使と為る。

召されて刑部侍郎と為る。言ふ、「太祖は五季の尾大掉はざるの患を懲り、畿甸に屯営し、天下に倍し、周廬の宿衛は、三衙を以て領せり。今禁旅は単弱なり。願はくは旧制に参らせて之を増補せしめよ」と。帝悉く嘉納す。

礼部侍郎兼直学士院に遷る。時に秦檜は専ら和議を主とす。開当に国書を草すべく、体制の是に非ざるを辨視し、之を論ず。聴かず。遂に罷めんことを請ひ、兼侍読に改む。檜嘗て開を招き温言を以て慰め、且つ曰く、「主上は執政を虚しくして待つ」と。開曰く、「儒者の争ふ所は義に在り。苟も義に非ざれば、高爵厚禄も顧みず。願はくは敵に事ふるの礼を聞かん」と。檜曰く、「高麗の本朝に於けるが若きのみ」と。開曰く、「主上は聖徳を以て大位に登り、臣民の推戴する所、列聖の聴聞する所なり。公当に兵を強くし国を富ませ、主を尊び民を庇ふべし。奈何ぞ自ら卑辱して此くの如くに至らん。開の敢て聞く所に非ざるなり」と。又た古誼を引いて以て之を折る。檜大怒して曰く、「侍郎は故事を知る。檜独り知らざらんや」と。他日、開又た政事堂に至り、計果して安くに出づるかを問ふ。檜曰く、「聖意已に定まれり。尚何をか言はん。公自ら大名を取りて去れ。檜が如きは、第に国事を済さんと欲するのみ」と。然れども猶ほ梓宮未だ還らず、母后・欽宗未だ復せざるを以て、詔して侍従・台諫をして集議して以て聞かしむ。開疏を上りて略に曰く、「但だ徳を修め政を立て、為備に厳にして、我が仁を以て彼の不仁に敵し、我が義を以て彼の不義に敵し、我が戒懼を以て彼の驕泰に敵し、真積力久しくして、元気の固きが如く病自ら消え、大陽の昇るが如く陰自ら散ずれば、己を屈するを待たずして、陛下の志成るべし。然らずんば、恐らくは在天の霊と太后・淵聖の陛下に望む所に非ざらん」と。檜曰く、「此の事は大いに安危に係る」と。開曰く、「今日は当に安危を説くべからず、只だ存亡を論ずべし」と。檜矍然たり。

会に枢密編修胡銓が封事を上り、痛く檜を詆し、極めて開を称す。是に由りて罷められ、宝文閣待制を以て婺州を知る。開言ふ、「議論妄りに発するは、実に国事に縁る」と。力を請ひて帰る。檜、職を奪はんと議す。同列以て不可と為す。太平観を提挙し、徽州を知る。病を以て免れ、閑に居ること十余年。黄達如、和議の同異を籍して士大夫の升黜と為さんことを請ふ。即ち達如を擢て監察御史と為し、首に開を劾し、職を褫ふ。引年して政を還さんことを請ひ、僅かに秘閣修撰を復す。卒す。年七十一。檜死して、始めて待制を復し、尽く致仕遺表の恩数を還す。

開は孝友にして族を厚くし、朋友に信あり。其の歴陽を守るや、遊酢に従ひて学び、日『論語』を読み、諸の言に求めて得ざれば、則ち諸の心に反求し、毎に会意有れば、欣然として食を忘る。其の南京に留まるや、劉安世一見して旧の如く、終身の交を定む。故に朝に立ちて事に遇ひ、大節に臨みて奪ふ可からず。師友の淵源、固より自ら有る所云ふ。

勾濤

勾濤、字は景山、成都新繁の人なり。崇寧二年の進士第に登り、嘉州法掾・川陝鑄錢司屬官に調ず。建炎初、黔州通判となる。田祐恭の兵が境上を過ぐるや、濤は守に白し、これを燕労す。祐恭は恩を感じて下を励まし、郡は以て犯されざるを得たり。湖湘の賊王辟が秭帰を破り、桑仲・郭守忠が茶務箭窠砦を攻め、将に夔門を犯さんとす。夔の兵は素より単弱なり。宣司は檄を飛ばして祐恭に捍禦せしめ、濤は黔兵を帥いてこれを佐く。賊潰走す。宣撫張浚、濤を奏して巴州知州とす。赴かず。

翰林侍讀學士范沖の薦により召見され、五事を論じ、兵部郎中を除す。七年、右司郎官兼校正に遷る。日食あり、上言す。八月、起居舍人に遷り、足疾のため、閣門に命じて墩を賜い班を待たしむ。九月、兼権中書舍人。

時に沿辺に久しく兵を宿し、江・浙は饋餉に罷弊し、荊・襄・淮・楚には曠土多し。濤、因って羊祜の屯田故事を進む。事、諸大将に下る。ここにおいて辺方、屯田を行わんと議す。淮西都統制劉光世罷むるを乞う。丞相張浚、呂祉を以てこれに代えんと欲す。濤謂う、「祉は疏庸浅謀、必ず事を敗らん。将士の素より推服する所の者を択びてこれを用うるに若かず。然らずんば劉錡可なり」と。浚納れず。祉至るや、果たして軽易を以て士心を失う。未幾、酈瓊叛き、祉乱に死す。浚これを聞き、夜半濤を召して愧謝す。

時に帝建康に駐蹕し、亟に臨安に還らんと欲す。濤入見して曰く、「今江・淮に戍を列ねる十余万、苟も付託に人を得ば、憂顧無かるべし。適この危疑に当たり、詎んぞ軽く退きて以て敵心を啓くべけんや」と。因って劉錡を薦む。帝即ち命してその衆を以て合肥を鎮ましむ。川・陝宣撫使吳玠、都轉運使李迨が賞格を朘刻すと言い、迨もまた玠の苛費を奏す。帝、濤を以て問う。濤曰く、「玠の忠は西蜀に在り。縦え費すとも、豈に核すべけんや。第に迨を他路に移すべし」と。帝然りとす。

会に金人劉豫を廃す。金・房鎮撫使郭浩、その弟沔を遣わして事を奏せしむ。濤、沔の警敏にして仗すべきを察し、陝右の諸叛将に詔諭して機に乗じ南帰せしむるを乞う。帝、濤に命じて詔を草せしめ、沔を持ち往かしむ。聞く者流涕す。十二月、中書舍人を除す。

八年、史館修撰を除す。『哲宗實録』を重修す。帝これを諭して曰く、「昭慈聖獻皇后病革の際、朕流涕して所欲言う所を問う。后愴然として朕に謂いて曰く、『吾れ宣仁聖烈皇后に逮事し、その賢を任じ能を使い、己を約して民を便にし、宗社を憂勤し、外家を疏遠するを見る。古今の母后、比するもの無し。不幸にして姦邪上を罔み、史官蔡卞等悪を同じくして相い済し、謗史を造りて以て聖徳を損なう。誰か切歯せざらんや!在天の霊も亦た或いは介介たるあらん。筆を正臣に属し、亟に刪削に従い、以て来世を信ぜしめよ』と。朕遺訓を痛念し、未だ嘗て一日も輒ち忘れず。今卿に命ず」と。濤奏す、「数十年來、宰相学無く術無く、邪正貿乱す。故に姦臣の子孫その私智を逞うし得て、幾くんぞ裕陵の成書を乱らんとす。陛下の聖明に頼らざれば、則ち任申必ず先ず過嶺の謫有らん。臣も亦た復た媒蘖の禍を蹈まんことを恐る」と。帝これを慰勉す。六月、『實録』成る。一秩を進め、就館して宴を賜う。復た『徽宗實録』を修す。中書舍人呂本中を以て薦と為し、丞相趙鼎、旨を諭して宜しく婉辞紀載すべしとす。濤曰く、「崇寧・大観の大臣国を誤り、以て今の禍を稔らす。仮りに隠諱有りと雖も、天下の野史を如何せん」と。

七月、給事中を除す。去るを求む。徽猷閣待制を以て池州知州と為り、江州太平観提挙に改む。俄に荊湖北路安撫使・潭州知州を除す。秦檜嘗て人をして意を諭し、与に政を共にせんと欲す。濤、書を以てこれに謝す。檜、言を諷してこれを劾せしむ。報いず。

濤上書して時事の政を害する者を論ず、「大臣密かに王倫に諭して地界を変易せしむるは、一なり。蔡攸の妻近く臨平に居り、行都に咫尺して、略ぼ畏避せざるは、二なり。大小の臣、凡そ謫籍に在る者は、皆已に甄叙せられ、悪しきこと京・黼の如きも、尚ほ寛宥を蒙る。今侍従の臣、初め大過無く、理宜く牽復すべきは、三なり。河南の故地復た中国に帰し、新附の民、徳沢に頸を延ぶ。承流の寄は、当に精選を加うべきは、四なり。台諫は耳目の司なり。今宰相引援するは、皆な同舎の旧にして、鷹犬として倚るは、五なり」と。帝その忠直を歎じ、繒彩・茶薬を賜い、且つ事これより大なる者あれば、悉く以て聞かしむ。秩満ち、太平観提挙。

十一年、帝秦檜に謂いて曰く、「勾濤久しく閑にあり。性泉石を喜ぶ。職を進めて一の山水近き郡を与うべし」と。檜対えて曰く、「永嘉に天臺・雁蕩の勝あり」と。帝曰く、「永嘉は太だ遠し。湖州を以てこれに命ぜよ」と。俄に疾を以て卒す。年五十九。遺表聞こゆ。帝震悼し、近臣を顧みて曰く、「勾濤死せり。惜しいかな」と。左太中大夫を贈る。

濤身長七尺、風貌偉然たり。頗る忠亮を以て自ら許す。国に大議有れば、帝必ず心を委ねて延訪し、往復酬詰、率ね漏下数刻にして始めて罷む。辺情を料るに目前の如く、知名の士多く薦進す。文集十巻、『西掖制書』十巻、奏議十巻有り。

李彌遜

李彌遜、字は似之、蘇州呉県の人なり。弱冠、上舎を以て大観三年の第に登り、単州司戸に調じ、再び陽穀主簿に調ず。政和四年、国朝会要所検閲文字を除す。引見され、特に関校書郎に遷り、編修六典校閲を充て、累官して起成郎に至る。封事剴切なるを以て、盧山県知県に貶ぜられ、嵩山祠奉祀に改む。廃斥隠居すること八載。

宣和末、冀州知州となる。金人河朔を犯す。諸郡皆な驚備す。彌遜は金帛を損ない、勇士を致し、城堞を修め、河を決して塁を護り、その遊騎を邀撃し、首級甚だ衆し。兀術北還し、師を戒めてその城を犯すこと無からしむ。

靖康元年、衛尉少卿に召され、瑞州知州として出づ。二年、建康府牙校周德叛き、帥宇文粹中を執り、官吏を殺し、城を嬰いて自ら守り、勢猖獗たり。彌遜、江東判運を以て郡事を領し、単騎賊の囲みを叩き、蠟書を以て城中に射て招降す。賊款を通じ、関を開いてこれを迎う。彌遜、禍福を以て諭し、勉めて勤王せしむ。時に李綱建康に行き次ぐ。共に謀りて首悪五十人を誅し、その余党を撫す。一郡帖然たり。

淮南運副に改む。後に興国宮祠を奉じ、饒州知州となり、召対す。首めて「当に規模を堅定し、姦言を排斥すべし」と奏す。又謂う、「朝廷一日事無くば、一日の安を幸い、一月事無くば、一月の安を幸う。終歳の安を求めんと欲すれば、已に得可からず。況んや能く天下の大計を定めんや」と。帝その讜直を嘉す。輔臣に悦ばざる者有り。直宝文閣を以て吉州知州と為す。陛辞す。帝曰く、「朕卿を留めんと欲す。大臣卿を重ねて民事に試みんと欲す。行きて卿を召さん」と。

七年の秋、起居郎に遷る。彌遜は政和末より上封事を以て貶せられて以来、ほぼ二十年を経て、再びこの職に居るに及び、直ちに前に出て事を論じ、初めの如く鯁切であった。冬、中書舍人を試みられ、六事を奏して曰く、「蕃維を固くして外侮を禦ぎ、禁衛を厳にして朝廷を尊び、兵を練りて国勢を壮にし、用を節して軍食を備え、民心を収めて根本を固くし、守帥を択びて実効を責むべし」と。時に駐蹕未だ定まらず、旨有りて舟を料り卒を給して宮人を済すべしとす。彌遜は奏を繳して曰く、「六飛雷動し、百司豫め厳なり、時方に孔艱なるに、宜しく宗社を以て心とすべく、内幸の細故に於て、更に聖慮を勤うべからず。事雖も至微なれども、大體を傷つくるを懼る」と。帝嘉しこれを納る。戸部侍郎を試みられる。

秦檜が再び相となると、惟だ彌遜と吏部侍郎晏敦復のみ憂色有り。八年、彌遜は疏を上して外任を乞うこと甚だ力めり、詔して允さず。趙鼎が宰相を罷められ、檜が国政を専らにし、帝を賛して和を通ずるを決策す。金国より烏陵思謀等を遣わして界に入り、礼を索むること甚だ悖り、軍民皆平らかならず、人言紛紛たり。檜は御榻の前に於て去らんことを求め、決意して己を屈して和に従わんことを要せんとす。枢密院編修官胡銓は疏を上して檜を斬ることを乞い、校書郎范如圭は書を以て檜を責め曲学して師に背き、仇を忘れ国を辱うるとし、礼部侍郎曾開は声を抗して古誼を引きて檜を折り、相継いで貶逐せらる。

彌遜は対を請い、言うに金使の請和は、君臣の礼を行わんと欲し、大いに不可有りと。帝是れを然りと為し、廷臣を詔して大いに議せしめ、即日入奏す。彌遜は手疏を以て力言す、「陛下は金人の空言を受け、一毫の得る所未だ有らず、乃ち祖宗の付託を軽んじ、身を屈して命を委ね、自ら下国に同じてこれを尊奉し、太阿を倒持し、柄を人に授くは、国を危うくするの道にして、而して和と謂うべけんや。仮使ひ金人姑く吾が欲に従い、目前の安を仮すとも、異時に一たび厭くこと無きの求、意外の欲有らば、これに従えば則ち吾が社稷の計を害し、従わざれば則ち釁端復た開く。是れ今日徒らに屈身の辱有るも、而して後患未だ已まず」と。又言う、「陛下国を率いて仇に事えんとす、将に何を以て天下の忠臣義士の気を責めんや」と。力めて不可なること三を陳ぶ。

檜嘗て彌遜を私第に邀えり、曰く、「政府方に員虚し、苟も和好に異議無くんば、当に両地を以て相い浼わん」と。答えて曰く、「彌遜は国恩を受くること深厚なり、何ぞ利を見て義を忘れんや。顧みるに今日の事、国人皆然りと為さず、独り一たび去るを以て相公に報ゆるのみ」と。檜黙然たり。次日、彌遜再び疏を上し、言愈々切直にして、又言う、「送伴使は揣摩迎合し、社稷を恤れず。乞う別に忠信の人を選び、協して国事を済さしむべし」と。檜大いに怒る。彌遜は疾を引き、帝は大臣に諭してこれを留めしむ。時に和議已に決し、その説に附会する者、至っては「向に明州の時を使ひ、主上百拝すと雖も問わず」と謂い、議論靡然たり。彌遜の廷争に頼り、檜は従わざるも、亦た公論を憚る。再び金の使者と計り、議和して封冊を受けず、宰相の館に就きて金使を見、その書を受けて禁中に納るるなど、多く降殺有り、惟だ君臣の礼のみは尽く争うことを得ず。

九年春、再び疏を上して帰田を乞い、徽猷閣直学士を以て端州を知り、改めて漳州を知る。十年、連江の西山に帰隠す。是の歳、兀術四道に分かれて入侵し、明年、又た淮西を侵し寿春を取る。竟に彌遜の言う如し。

十二年、檜は金兵既に敗れたるに乗じ、諸路の兵を収め、復た和好を通じ、向者言を尽くしたる臣を仇として追い、言者を嗾して彌遜と趙鼎、王庶、曾開の四人、同じく和議を沮むと論ぜしむ。ここに於て彌遜は職を落とし、十余年の間、時相に書を通ぜず、磨勘を請わず、任子を乞わず、封爵を序せず、以てその身を終う。常に国を憂え、怨懟の意無し。二十三年、卒す。朝廷その忠節を思い、詔して敷文閣待制を復す。奏議三巻、外制二巻、『議古』三巻、詩十巻有り。弟に彌大が有り。

弟 彌大

彌大、字は似矩、崇寧三年の進士第に登る。大臣の薦めにより召対され、校書郎を除かれ、監察御史に遷る。太常少卿を仮りて契丹賀正旦使を充つ。時に伝聞す、燕民漢に帰らんと欲すと。徽宗は彌大を遣わしてこれを覘わしむ。使い還り、聞く所を奏すこと二有り、「或いは彼の主淫刑して親を滅ぼし、種類畔離し、女真侵迫し、国勢危殆として取るべしと謂い、或いは詔を下して己を罪し、耆旧を擢用し、盗賊を招赦し、国尚お人ありて未だ取るべからずと謂う。其の自ら相攻並するを聴くに若かず」と。起居郎に遷り、中書舍人を試みられ、国史を同修す。

童貫が永興を宣撫す。走馬承受白鍔は貫を恃んで師期を報ぜず、朝廷は止だ薄き責めに従う。彌大は奏を繳し、辺報至らざるは、朝廷の福に非ずと為す。鍔は坐して名を除かれ、彌大も亦た出でて光州を知る。移りて鄂州を知る。召されて給事中兼校正御前文籍詳定官と為り、礼部侍郎を拝す。

金人大いに挙りて入侵す。李綱城守の策を定め、彌大を参議と為すことを命ず。綱と合わず、罷めらる。未だ幾ばくもあらず、刑部尚書を除く。初め、朝廷は三鎮を割きて金人に畀うることを許す。既にして种師道、師中を遣わして河北を援けしめ、姚古を遣わして河東を援けしむ。彌大は疏を上し、河東西境の麟、府諸郡及び陝西の兵を起こして古の師を済わしめ、河東路及び京東近郡の兵を起こして師道、師中の師を済わしめ、腹背攻劫の図と為さんことを乞う。ここに於て彌大を河東宣撫副使に除く。張師正が勝捷軍を領いて河東に敗れ、潰れて帰る。彌大これを誅す。復た余卒を遣わして真定を援けしむ。余卒叛く。

宣撫罷めらる。命じて彌大に陝州を知らしむ。河東破れ、小将李彦先来謁し、軍事を言う。彌大これを壮とし、留めて将と為し、崤・澠の間に戍らしめて敵を遏えしむ。詔して使いを遣わして召援す。彌大未だ敢えて進まず。会に永興帥范致虚兵を糺して王に勤め、檄を以て彌大を諸道計議に充つ。方城に行き至り、道阻まれ、乃ち衆を率いて大元帥府に赴く。

建炎元年、淮寧府を知ることを除く。郡に到ること未だ幾ばくもあらず、杜用等夜に叛く。彌大は城を縋りて出で、賊散じて乃ち還る。坐して秩を貶せらる。尋ねて召されて吏部侍郎と為る。帝杭州に如く。命じて権紹興府と為し、戸部尚書兼侍読を試みさる。呂頤浩師を視る。彌大を以て参謀官と為す。彌大奏す、「王導、謝安都督と為り、未だ朝廷を離れず。今辺圉幸いに他無し。頤浩軽々に動くべからず」と。又言う、「已に天子の従官と為る。宰相の辟くべからず。諸軍に悉く軍正を置き、漢朝の故事の如く、察官、郎官を以てこれを為さんことを乞う。陛下必ず臣を留めんと欲せば、当に別に一司を為し、頤浩の過失を伺察せしむべし」と。旨に忤い、出でて平江府を知る。

中丞沈与求、彌大の君臣を間わんと謀り、妄りに自尊大するを劾し、職を奪いて帰す。起きて静江府を知り、広西辺防の利害を奏す。入りて工部尚書と為る。未だ幾ばくもあらず、罷め去る。広西提刑韓璜、その静江に在る日の強盗死罪を断ずるに、絞を引きて斬に入るるを劾し、両秩を貶す。紹興十年卒す。年六十一。

論ずるに、宋は既に南渡してより、日に徽宗の梓宮及び韋后を念うことを以てせり。秦檜は和を主とし、甘心して己を屈す。張燾は連章して論列し、謀深く慮遠く、其の言は必ず天に取る、豈に宗社の仇を忘れんや、亦た曰く時に相い動くのみ。惜しむらくは其の利沢専ら蜀に在るなり。黄中は党せず阿らず、明察して敵を料り、朝に立ちて忠実、退きて君を忘れず。道夫は張浚に知られ、国を憂えて身の為に謀らず。曾幾は学を積み行いを潔くし、風節凛々たり、嘗胆枕戈の言を陳べて、以て親征を賛し、亦た壮なるかな。勾濤は直節正論、檜の私を受けず、身を潔くして老いに帰る。弥遜・曾開は同じく和議を沮み、廢絀して没し、怨懟の心無し、所謂大節に臨みて奪うべからざる者か。