宋史

列傳第一百四十  范如圭 呉表臣 王居正 晏敦復 黃龜年 程瑀 張闡 洪擬 趙逵

列傳第一百四十  范如圭 呉表臣 王居正 晏敦復 黃龜年 程瑀 張闡 洪擬 趙逵

范如圭

原文范如圭

范如圭、字は伯達、建州建陽の人である。幼くして舅の胡安國に従い『春秋』を受けた。進士に及第し、左從事郎・武安軍節度推官に授けられた。着任早々、帥が人を斬らんとしたが、如圭はその誤りを申し述べた。帥は既に署名したので改められぬとした。如圭は厳しい顔色で言った、「節下はどうして一字を改めることを重んじ、数人の命を軽んじられるのか」。帥は驚いてこれに従った。これより府中の事は大小となく皆彼に諮問した。数ヶ月在職し、憂(父母の喪)のため去った。江東安撫司書寫機宜文字に召し出された。近臣が相次いで推薦し、召されて秘書省正字を試みられ、校書郎兼史館校勘に遷った。

原文范如圭,字伯達,建州建陽人。少從舅氏胡安國受《春秋》。登進士第,授左從事郎、武安軍節度推官。始至,帥將斬人,如圭白其誤,帥為已署不易也。如圭正色曰:「節下奈何重易一字而輕數人之命?」帥矍然從之。自是府中事無大小悉以咨焉。居數月,以憂去。辟江東安撫司書寫機宜文字。近臣交薦,召試秘書省正字,遷校書郎兼史館校勘。

秦檜が和議を強く主張し、金の使者が来たが、宿泊する館がなく、秘書省を空けて彼らを処遇しようとした。如圭は急ぎ宰相趙鼎に会い、「秘府は訓戒の書が蔵されている所、仇敵をそこに住まわせることができようか」と言った。鼎は恐れ入って館を改めた。やがて金使は傲慢に至り、その要求は多く従いがたく、朝廷内外は憤り鬱屈した。如圭は同省の十余人と合議し、共に上疏して争うこととし、草稿が整うと、恐れおののいて退く者が多かった。如圭はただ一人、書を以て檜を責め、学を曲げ師に背き、仇を忘れ国を辱める罪を挙げ、かつ言った、「公が喪心狂病でなければ、どうしてこのようなことをするのか、必ずや末代まで臭いを遺すであろう」。檜は怒った。草奏を史官六人と共に上奏した。

原文秦檜力建和議,金使來,無所於館,將虛秘書省以處之。如圭亟見宰相趙鼎曰:「秘府,謨訓所藏,可使仇敵居之乎?」鼎竦然為改館。既而金使至悖傲,議多不可從,中外憤鬱。如圭與同省十餘人合議,並疏爭之,既具草,駭遽引卻者眾。如圭獨以書責檜以曲學倍師、忘讐辱國之罪,且曰:「公不喪心病狂,奈何為此,必遺臭萬世矣!」檜怒。草奏與史官六人上之。

金が河南の地を帰還させると、檜は自ら功績としていた。如圭が輪対し、言った、「両京の版図が既に入ったならば、九廟・八陵は目前に望むところ、今朝に修復の使を未だ遣わさず、どうして神霊を慰め、民志を集められようか」。帝は涙ぐんで言った、「卿でなければこの言葉は聞けなかった」。即日に宗室の士㒟と張燾を行かせることを命じた。檜は自分に先に告げなかったことを怒りを増した。

原文金歸河南地,檜方自以為功。如圭輪對,言:「兩京之版圖既入,則九廟、八陵瞻望咫尺,今朝修之使未遣,何以慰神靈、萃民志乎?」帝泫然曰:「非卿不聞此言。」即日命宗室士㒟及張燾以行。檜以不先白己,益怒。

如圭は謁告して去り、柩を奉じて故郷に葬った。葬った後、主管台州崇道観に差された。門を閉じて十余年、起用されて邵州通判となり、また荊南府通判となった。荊南は旧来戸口数十万であったが、寇乱の後は再び人跡がなく、当時口銭を免除して民を安集したが、百分の一、二も回復していなかった。議する者が檜の意を迎え、急に流亡の民が次第に回復しているとしてこれを増やし、滞納が二十余万緡積もり、その他の負債も数十万に上り、版曹は日々文書を下して償還を責めて甚だ急であった。如圭は帥に申し述べ、悉く上奏して免除させた。

原文如圭謁告去,奉柩歸葬故鄉,既窆,差主管台州崇道觀。杜門十餘歲,起通判邵州,又通判荊南府。荊南舊戶口數十萬,寇亂後無復人跡,時蠲口錢以安集之,百未還一二也。議者希檜意,遽謂流庸浸復而增之,積逋二十餘萬緡,他負亦數十萬,版曹日下書責償甚急。如圭白帥,悉奏蠲之。

檜が死ぬと、旨を受けて入朝し対面し、言った、「治をなすには人を知ることを先とし、人を知るには心を清くし欲を寡なくすることを本とする」。言葉は甚だ切実であった。また論じて、「東南の子を挙げぬ風俗は、人理を傷つけ絶やすものである。漢の『胎養令』を挙行してこれを全活させよ、また勾践が生聚して呉に報いた意でもある」。帝はその言葉を良しとした。また奏上した、「今の屯田の法は、歳の獲るところを、官が悉く徴収する。そして田卒には衣糧を賜う食は旧の如くである。力を尽くして耕作する者に贏余の望みを絶ち、惰農の者に飢餓の憂い無からしめ、小利に貪り、大計を失い、近効を謀り、遠図を妨げる。故に久しく成功がない。宜しく荊・淮の曠土を籍没し、丘井に画し、古の助法に倣い、別に科条を為し、政役の法とせよ。然らば農利修まり武備整うであろう」。

原文檜死,被旨入對,言:「為治以知人為先,知人以清心寡欲為本。」語甚切。又論:「東南不舉子之俗,傷絕人理,請舉漢《胎養令》以全活之,抑亦勾踐生聚報吳之意也。」帝善其言。又奏:「今屯田之法,歲之所獲,官盡征之。而田卒賜衣廩食如故,使力穡者絕贏餘之望,惰農者無饑餓之憂,貪小利,失大計,謀近效,妨遠圖,故久無成功。宜籍荊、淮曠土,畫為丘井,倣古助法,別為科條,令政役法,則農利修而武備飭矣。」

直秘閣提挙江西常平茶監に以て、利州路提点刑獄に移り、病を以て祠官を請うた。時に宗藩を並び建てたが、儲位が定まらず、巷間ひそかに異言があった。如圭は遠方にありながら、ただ深くこれを憂い、至和・嘉祐の間の名臣の奏章三十六篇を掇拾し、一書に合せ、袋に入れて封じ献上し、群言を深く考察し、成憲を仰ぎ師とし、至公を以て断じ疑うことなからんことを請うた。或る者が越職を以て危ぶんだが、如圭は言った、「これで罪を得ても、何の憾みかあろう」。帝は感ずるところあり、輔臣に謂って言った、「如圭は忠であると言えよう」。即日に詔を下し普安郡王を皇子とし、建王に進封させた。再び如圭を起用して泉州知事とした。

原文以直秘閣提舉江西常平茶監,移利州路提點刑獄,以病請祠。時宗藩並建,儲位未定,道路竊有異言。如圭在遠外,獨深憂之,掇至和、嘉佑間名臣奏章凡三十六篇,合為一書,囊封以獻,請深考群言,仰師成憲,斷以至公勿疑。或以越職危之,如圭曰:「以此獲罪,奚憾!」帝感悟,謂輔臣曰:「如圭可謂忠矣。」即日下詔以普安郡王為皇子,進封建王。復起如圭知泉州。

南外宗官が郡中に寄寓して治め、勢いに乗じて暴虐をなし、禁兵を占めて役使すること百数を数えた。如圭は法義を以てこれを正した。宗官は大いに沮喪し恨み、密かに讒言して如圭を去らせようとし、遂に中旨を以て罷免させられたが、祠官を領するは旧の如くであった。邵武に家を借りて住んだ。士大夫はこれを尊び、学者多く彼に従い質疑した。卒年五十九。

原文南外宗官寄治郡中,挾勢為暴,占役禁兵以百數,如圭以法義正之,宗官大沮恨,密為浸潤以去如圭,遂以中旨罷,領祠如故。僦舍邵武以居,士大夫高之,學者多從之質疑。卒年五十九。

如圭は忠孝誠実、天より得たものである。その学は経術に根ざし、無用の文を為さなかった。草した屯田の条目数千言は、未だ上るに及ばず、張浚が師を視察した日、その家に取りに行かせるよう奏上したが、浚が罷免され、また果たして行われなかった。集十巻あり、皆書疏議論の語であり、家に蔵した。子に念祖・念德・念茲。

原文如圭忠孝誠實,得之於天。其學根於經術,不為無用之文。所草具屯田之目數千言,未及上,張浚視師日,奏下其家取之,浚罷,亦不果行。有集十卷,皆書疏議論之語,藏於家。子念祖、念德、念茲。

呉表臣

原文吳表臣

呉表臣、字は正仲、永嘉の人である。大観三年に進士及第し、通州司理に抜擢された。陳瓘が郡中に謫居していたが、一目で彼を器とした。盛章という者は、朱勔の党である。嘗て婢を買おうとしたが、ある武臣が強奪した。章は罪を誣いて獄に繋いだ。表臣がこれを審問していた時、郡将が言った、「盛待制がいるのをご存知か」。表臣は知らぬふりをし、結局その事を正した。累官して監察御史となり、右正言に遷った。

原文吳表臣,字正仲,永嘉人。登大觀三年進士第,擢通州司理。陳瓘謫居郡中,一見而器之。盛章者,朱勔黨也,嘗市婢,有武臣強取之,章誣以罪,繫獄。表臣方鞫之,郡將曰:「知有盛待制乎?」表臣佯若不知者,卒直其事。累官監察御史,遷右正言。

高宗が台諫に大利害を条陳するよう詔すると、表臣は上流を措置して形勢を張り、淮甸を安輯して藩蔽を立て、民兵を選んで険阻を守らせ、海舶を集めて不虞に備えることを請うた。その策は多く用いられた。帝が儒術に向かい始めると、表臣は講官を選んで聖徳を補うこと、かつ古今の成敗・民物の情偽・辺防の利害を詳しく熟し講究することを請うた。これにより経筵開講の詔が下った。近臣に蔡京・王黼の党を用いようとする者がいた。侍御史沈與求が明らかにその人を指し、顕に罷免責罰するよう請うた。執政は悦ばず、その言職を奪った。表臣が争って言った、「台諫は天子の耳目、これをもって壅蔽を防ぎ姦邪を杜ぐものである。もしその切直を咎めて罷免するならば、後誰か敢えて言う者があろうか、国家の福ではない。與求を還して言路を開くことを請う」。

原文高宗詔臺諫條陳大利害,表臣請措置上流以張形勢,安輯淮甸以立藩蔽,擇民兵以守險阻,集海舶以備不虞。其策多見用。帝方鄉儒術,表臣乞選講官以裨聖德,且於古今成敗、民物情偽,邊防利害,詳熟講究。由是詔開經筵。邇臣有請用蔡京、王黼之黨者,侍御史沈與求乞明指其人,顯行黜責,執政不悅,奪其言職。表臣爭曰:「臺諫為天子耳目,所以防壅蔽、杜姦邪,若咎其切直而黜之,後誰敢言,非國家福也。請還與求以開言路。」

時に防秋のため、守辺の者を選ぶことを議し、人材の乏しさを患えた。表臣は言った、「唐の蕭復が徳宗に言った、陳少游は将相の任を兼ねながら、真っ先に臣節を敗り、韋皐は幕府の下僚ながら、ただ一人忠義を建てた。皐を以て少遊に代えて淮南を鎮守させよ。善悪が明らかになれば、天下は逆順の理を知る。初めから皐の名が賤しく官が卑しいことを疑わなかった。今、忠義不屈で既に試みられた験のある者を取り、次を問わず用いれば、ただ勧めることができるのみならず、捍禦の方略もまた倚仗に堪えるであろう」。ここにおいて陳敏等十数人が次第に録用された。久しくして、病を以て外補を請い、直秘閣を以て信州知事となった。

原文時防秋,議選守邊者,患乏才。表臣曰:「唐蕭復言于德宗,陳少游任兼將相,首敗臣節,韋皐幕府下僚,獨建忠義,以皐代少遊鎮淮南。善惡著明,則天下知逆順之理,初不以皐名賤官卑為疑。今取忠義不屈有已試之驗者,不次而用,豈特可以勸,捍禦方略,亦堪倚仗。」於是陳敏等十數人浸以錄用。久之,以病請補外,以直秘閣知信州。

紹興元年、召されて司勳郎中となり、左司に遷る。詔して百官に裕国強兵の策を陳べしむ。表臣、十事を条陳して献ずるに曰く、税役を蠲免して閑田を墾き、懦卒を淘汰して兵費を省み、添差を罷めて冗員を澄まし、度牒を停めて生歯を蕃え、佃租を拘して乾没を防ぎ、計臣を委ねて邦用を制し、有功を奨めて将帥を厲し、弓手を招いて旧籍を存し、和買を厳にして弊幸を絶ち、法令を簡にして瘡痍を息まんとす。

原文紹興元年,召為司勳郎中,遷左司。詔百官陳裕國強兵之策,表臣條十事以獻,曰:蠲稅役以墾閒田,汰懦卒以省兵費,罷添差以澄冗員,停度牒以蕃生齒,拘佃租以防乾沒,委計臣以制邦用,獎有功以厲將帥,招弓手以存舊籍,嚴和買以絕弊幸,簡法令以息瘡痍。

宰相、表臣を擬して検正とせんとす。帝曰く、「朕将に自ら之を用いんとす。」遂に左司諫を除す。給事中胡安国、事を論じて合わずして罷まる。表臣上疏して之を留めんとす。前宰相朱勝非、都督ととく江淮軍馬に同ぜず。表臣力言して都督は罷むべからずとす。侍読を除し、又累疏して之を争うも、聴かず、遂に罷む。表臣、吏部に送らる。台州黄岩丞を授け、尋いで提点浙西刑獄を除し、召されて秘書少監と為り、同修『哲宗実録』す。

原文宰相擬表臣為檢正,帝曰:「朕將自用之。」遂除左司諫。給事中胡安國以論事不合罷,表臣上疏留之。前宰相朱勝非同都督江淮軍馬,表臣力言都督不可罷。除侍讀,又累疏爭之,不聽,遂罷。表臣送吏部。授台州黃岩丞,尋除提點浙西刑獄,召為秘書少監,同修《哲宗實錄》。

帝建康に如く。詔して表臣に留司参議官を兼ねしめ、中書舎人・給事中・兵部侍郎を除す。建・崇二国公、外傅に就く。翊善を兼ぬ。帝曰く、「二国公誦習甚だ進めり、卿の力なり。」礼部侍郎に徙り、吏部尚書兼翰林学士に遷る。時に秦檜、使をして金に使いせしめて地界を議せんと欲し、政事堂を指して曰く、「帰来れば此に坐すべし。」表臣答えず。又大礼を議して意に忤い、罷めて去る。

原文帝如建康,詔表臣兼留司參議官,除中書舍人、給事中、兵部侍郎。建、崇二國公就外傅,兼翊善。帝曰:「二國公誦習甚進,卿力也。」徙禮部侍郎,遷吏部尚書兼翰林學士。時秦檜欲使使金議地界,指政事堂曰:「歸來可坐此。」表臣不答。又以議大禮忤意,罷去。

俄に起きて婺州を知る。会に大水有り、常平米を発して之に振貸し、然る後に以て聞く。郡人之を徳とす。課最なり、敷文閣待制を除す。三歳にして祠を請い、直学士に進み、江州太平興国宮を提挙す。家居すること数年、卒す。年六十七。

原文俄起知婺州。會大水,發常平米振貸之,然後以聞,郡人德之。課最,除敷文閣待制。三歲請祠,進直學士,提舉江州太平興國宮。家居數年,卒,年六十七。

表臣、晩号「湛然居士」とす。自ら奉ずるに布衣の時に異ならず、郷論其の清約を推す。

原文表臣晚號「湛然居士」,自奉無異布衣時,鄉論推其清約。

王居正

原文王居正

王居正、字は剛中、揚州の人。少しく学を嗜み、文辞に工なり。太学に入る。時に『新経』・『字説』を習う者、主司輒ち高選に置く。居正人に語りて曰く、「窮達自ら時にあり、心の是非、改むべけんや。」流落すること十余年、司業黄齊其の文を得て曰く、「王佐の才なり。」及び同知貢挙、首に擢でんと欲し、以て多士を風せんとす。他の考官之を持し、次選に置く。饒州安仁丞・荊州教授に調すも、皆赴かず。大名・鎮江両帥交えて教授府学に辟すも、亦就かず。

原文王居正,字剛中,揚州人。少嗜學,工文辭。入太學,時習《新經》、《字說》者,主司輒置高選,居正語人曰:「窮達自有時,心之是非,可改邪?」流落十餘年,司業黃齊得其文,曰:「王佐才也。」及同知貢舉,欲擢為首,以風多士,他考官持之,置次選。調饒州安仁丞、荊州教授,皆不赴。大名、鎮江兩帥交辟教授府學,亦不就。

范宗尹朝に薦む。召し至る。宗尹に謂ひて曰く、「時危きこと此の如し、公極めて所学を用ひ、元元を塗炭の中より抜かずして、尚誰をか待たん。居正寇を避けて陽羨の山間にあり、勉ひて出でて公に見え、一道此の意のみ。」宗尹愧謝す。入対し、奏して曰く、「昔人有云ふ、『君以て難と為せば、易将に至らん。』今日の事、朝廷皆難と曰へば、則ち当に易為の理有るべし。然るに国勢日弱く、敵気日驕る、何ぞや。蓋し昔人は難なる者を勉強して之を為し、今は難と為して、復た為す所あることなく、以て天意の自ら回り、強敵の自ら斃るるを俟つなり。宣和末、難と為す者十五六、靖康と宣和と孰れか難なる。靖康末、難と為す者十八九、建炎と靖康と孰れか難なる。此に由りて言へば、今日雖も前日に難しとす、安んぞ他日今日に難しからざるを知らんや。蓋し宣和以て難と為せば、故に靖康の禍有り。靖康以て難と為せば、故に今日の憂有り。今にして亦云ふ、臣聞くに忍びざる所有り。」高宗之を嘉し、宗尹に諭して曰く、「王居正の如き人才、歳月の間に一人を得るも亦幸ひなり。」

原文范宗尹薦於朝,召至,謂宗尹曰:「時危如此,公不極所學,拔元元塗炭中,尚誰待?居正避寇陽羨山間,勉出見公,一道此意爾。」宗尹愧謝。入對,奏:「昔人有云:『君以為難,易將至矣。』今日之事,朝廷皆曰難,則當有易為之理。然國勢日弱,敵氣日驕,何邪?蓋昔人於難者勉強為之,今以為難,不復有所為,以俟天意自回,強敵自斃也。宣和末,以為難者十五六,至靖康與宣和孰難?靖康末,以為難者十八九,至建炎與靖康孰難?由此而言,今日雖難於前日,安知他日不難於今日?蓋宣和以為難,故有靖康之禍;靖康以為難,故有今日之憂。今而亦云,臣有所不忍聞。」高宗嘉之,諭宗尹曰:「如王居正人才,歲月間得一人亦幸矣。」

太常博士を除し、礼部員外郎に遷る。議して天地を明堂に合祭し、請ふて太祖・太宗を奉じて配せんとす。宗尹之を是とし、議遂に定まり、天地復た合祭す。侍御史沈与求、宗尹を劾し、因りて居正に及ぶ。宗尹去り、居正補外を乞ふも、許さず。撫州守高衛言ふ、甘露州の祥符観に降る、と。図を為して献ず。居正論じて、今日恐らくは天祥瑞を降すの時に非ずとし、其の図を却く。

原文除太常博士,遷禮部員外郎。建議合祭天地於明堂,請奉太祖、太宗配,宗尹是之,議遂定,天地復合祭。侍御史沈與求劾宗尹,因及居正,宗尹去,居正乞補外,不許。撫州守高衛言甘露降於州之祥符觀,為圖以獻。居正論今日恐非天降祥瑞之時,卻其圖。

太常少卿兼修政局参議を試み、起居郎に遷る。帝方に規諫に嚮かふ。居正前世の聴納の事を次ぎて『集諫』十五巻を為し、以て帝の意を広む。詔して時務を以て群臣に訪ふ。居正疏数千言を献じ、費を省むるを論ずること尤も切なり。曰く、「宋興ること百七十三年なり、行ふ所多くは弥文の事なり。今陛下の至る所を行在と曰ふ。一日二日の少しく駐蹕するの頃に、向の百七十三年の事を尽く為さんと欲するは、所謂変を知ると為さず。夫れ時に随ひて事を省むるを知らずして、乃ち事に随ひて費を省む。故に今日例へて減半の説有り、其の実を究むれば未だ始めより重費せざるに非ず。願くは大臣に詔し、百事の実を計りて論定せしめ、苟くも寇を禦ぎ敵を備へ、賢を任じ能を使ひ、百姓を振恤するに非ざれば、一切姑く置かば、則ち費省みて国裕かなはん。」

原文試太常少卿兼修政局參議,遷起居郎。帝方鄉規諫,居正次前世聽納事為《集諫》十五卷,以廣帝意。詔以時務訪群臣,居正獻疏數千言,論省費尤切,曰:「宋興百七十三年矣,所行多彌文之事。今陛下所至曰行在,於一日二日少駐蹕之頃,欲盡為向者百七十三年之事,非所謂知變也。夫不知隨時以省事,而乃隨事以省費,故今日例有減半之說,究其實未始不重費。願詔大臣計百事之實而論定之,苟非禦寇備敵,任賢使能,振恤百姓,一切姑置,則費省而國裕。」

居正素より秦檜と善し。檜執政と為り、居正と天下の事を論ずること甚だ鋭し。既に相と為り、言ふ所皆酬はれず。居正其の詭を疾み、帝に見えて言ひて曰く、「秦檜嘗て臣に語りて曰く、『中国人惟だ衣を著け飯を啖ひ、共に中興を図るべし。』と。臣心に其の言を服す。又自ら謂ひて曰く、『檜をして相と為らしむること数月なば、必ず天下を聳動せしめん。』と。今相と為り施設するは止く是のみ。願くは陛下臣の聞く所を以て檜に問はしめよ。」檜之を銜み、居正を出して婺州を知らしむ。州羅を貢す。旧制歳万匹、崇寧後五倍を増す。建炎中二万に減ず。是に至り、主計者崇寧の数に復せんことを請ふ。居正力めて朝に言ふ。戸部督趣愈峻し。居正檄を置きて行はず、其の属に語りて曰く、「吾身を坐するを願ひ、以て諸君を累はさず。」吏を呼び文書を為して之に付し、曰く、「即ち譴有らば、此を以て自ら解せよ。」復た手疏「五不可」を以て聞す。詔して建炎中の数に如くす。漕司御炭を市ふ。胡桃文・鵓鴿色を須ふ。居正曰く、「民炭を以て自ら業と為す者、率山谷に居る。安んぞ所謂胡桃文・鵓鴿色を知らんや。」朝に入りて以て聞す。詔して之を止む。

原文居正素與秦檜善,檜為執政,與居正論天下事甚銳,既相,所言皆不酬。居正疾其詭,見帝言曰:「秦檜嘗語臣:『中國人惟當著衣啖飯,共圖中興。』臣心服其言。又自謂:『使檜為相數月,必聳動天下。』今為相施設止是,願陛下以臣所聞問檜。」檜銜之,出居正知婺州。州貢羅,舊制歲萬匹,崇寧後增五倍,建炎中減為二萬。至是,主計者請復崇寧之數,居正力言於朝,戶部督趣愈峻,居正置檄不行,語其屬曰:「吾願身坐,不以累諸君。」呼吏為文書付之曰:「即有譴,以此自解。」復手疏「五不可」以聞。詔如建炎中數。漕司市御炭,須胡桃文、鵓鴿色者,居正曰:「民以炭自業者,率居山谷,安知所謂胡桃文、鵓鴿色耶?」入朝以聞,詔止之。

召されて太常少卿と為り、起居舎人兼権中書舎人・史館修撰に遷る。帝将に趙令峸を大中大夫に遷せんと欲す。居正奏して曰く、「官は侍従に非ざれば転ずべからず。此れ祖宗の法なり。若し令峸を以て庶官にて遷するを得しめば、則ち宗室承宣を為す者、踵を旋らさずして節度を求めん。何を以て之を却かん。」遂に其の命を寝す。上書人陳東・歐陽澈已に官を贈らる。居正黄潜善・汪伯彦を重く貶し、以て二子の身を殺して仁を成すの美を彰はさんことを乞ふ。大将張俊卒を遣はして彭沢に至らしむ。卒故に県吏、俊の勢を怙りて令を侵辱す。令郭彦恭之を械す。俊朝に訴ふ。帝為に彦恭を罷む。居正言ふ、「彦恭強禦を畏れず、罪す可き無し。」俊又徭役を免ぜんことを乞ふ。居正言ふ、「兵興以来、士大夫及び勳戚家の賦役編戸と均し。蓋し貴賤上下をして、共に国事を済はしめ、以て民力を寛かにせんと欲するなり。俊反って此を体すること能はざるか。」和州進奉大礼絹を蠲免せんことを請ふ。居正言ふ、「大礼進奉は、乃ち臣子の上を享くるの誠なり。初め朝廷の百姓より取るの物に非ず。若し民力の従ひて出づる所無きを察し、能く預め旨を降して之を蠲免せず、至て州県をして自ら陳ぜしむるは、已に非是と為す。願くは速やかに請ふ所の如くせよ。」除目に中より出づる者有り。居正奏して曰く、「近習の請託、進擬朝廷より自らせず。係る所軽からず。」因りて皇佑の詔書を録して以て進む。帝皆嘉納す。

原文召為太常少卿,遷起居舍人兼權中書舍人、史館修撰。帝欲遷趙令峸大中大夫,居正奏:「官非侍從不可轉,此祖宗法,若令峸以庶官得遷,則宗室為承宣者,不旋踵求為節度,何以卻之?」遂寢其命。上書人陳東、歐陽澈已贈官,居正乞重貶黃潛善、汪伯彥,以彰二子殺身成仁之美。大將張俊遣卒至彭澤,卒故縣吏,怙俊勢侵辱令,令郭彥恭械之,俊訴於朝,帝為罷彥恭。居正言:「彥恭不畏強禦,無可罪。」俊又乞免徭役,居正言:「兵興以來,士大夫及勳戚家賦役與編戶均,蓋欲貴賤上下,共濟國事,以寬民力,俊反不能體此乎?」和州請蠲進奉大禮絹,居正言:「大禮進奉,乃臣子享上之誠,初非朝廷取于百姓之物,若察民力無所從出,不能預降旨蠲之,至使州縣自陳,已為非是,乞速如所請。」除目有自中出者,居正奏:「近習請託,進擬不自朝廷,所繫非輕。」因錄皇佑詔書以進。帝皆嘉納。

兼ねて権直学士院を務め、また兵部侍郎に任ぜられた。入朝して対し、論じた王安石父子の言で道に合わないものを集めて四十二篇を得、名づけて『辨學』とし、上進した。また言うには、「陛下が安石の学を憎まれるのは、聖心において灼然と見られ、その弊害がどこにあるか」と。帝は言った、「安石の学は、伯道を交え、商鞅の富国強兵を倣おうとした。今日の禍は、人々はただ蔡京・王黼の罪を知るのみで、安石に生じたことを知らない」。居正は言った、「安石が万世に罪を得るのはこれに止まりません」。そこで安石が経を解釈して父無く君無きものとすることを述べた。帝は顔色を変えて言った、「これは名教を害さぬということがあろうか。孟子のいわゆる邪説とは、まさにこれをいうのである」。居正は退き、帝の言葉を序して『辨學』の冒頭に付した。

原文兼權直學士院,又除兵部侍郎。入對,以所論王安石父子之言不合於道者,裒得四十二篇,名曰《辨學》,上之。又曰:「陛下惡安石之學,嘗於聖心灼見,其弊安在?」帝曰:「安石之學,雜以伯道,欲效商鞅富國強兵,今日之禍,人徒知蔡京、王黼之罪,而不知生於安石。」居正曰:「安石得罪萬世者不止此。」因陳安石釋經無父無君者。帝作色曰:「是豈不害名教邪?孟子所謂邪說,正謂是矣。」居正退,序帝語繫於《辨學》首。

出でて饒州の知州となり、まもなく吉州に改められた。侍御史謝祖信が居正が兇暴詭詐で、大臣を陥れたと弾劾し、官を免ぜられ、括蒼に隠棲すること三年。その弟の駕部郎居修が入朝して対し、帝は言った、「卿の兄は今どこにおるか。やがて大用されるであろう」。中書舎人劉大中が帝に侍し、制誥について論じると、帝は言った、「王居正は極めて詞臣の体を得ている」。侍御史蕭振が守令の賢否を論じると、帝は居正が婺州を守って羅・御炭の貢納を免じたことを挙げ、言った、「守臣がみなこのように百姓を愛すれば、朕はまた何を憂えよう」。

原文出知饒州,尋改吉州。侍御史謝祖信劾居正兇暴詭詐,傾陷大臣,罷官,屏居括蒼三載。其弟駕部郎居修入對,帝曰:「卿兄今安在?行大用矣。」中書舍人劉大中侍帝,論制誥,帝曰:「王居正極得詞臣體。」侍御史蕭振論守令賢否,帝舉居正守婺免貢羅、御炭事,曰:「守臣愛百姓皆如此,朕復何憂。」

起用されて温州の知州となった。この時秦檜が国政を専断し、居正は自らが容れられぬと知り、眼病を理由に祠官を請い、門を閉ざし、時事に言及せず、客が来れば経・史を談論するのみであった。檜は終にこれを忌み、中丞何鑄に唆して居正が趙鼎に引き立てられ、世を欺き名を盗むと弾劾させ、職を奪って祠官とし、凡そ十年。檜が死ぬと、元の職に復した。紹興二十一年に卒す。年六十五。

原文起知溫州。是時檜專國,居正自知不為所容,以目疾請祠,杜門,言不及時事,客至談論經、史而已。檜終忌之,風中丞何鑄劾居正為趙鼎汲引,欺世盜名,奪職奉祠,凡十年。檜死,復故職。紹興二十一年卒,年六十五。

居正は風貌豊偉で、声音は洪亮であった。俸禄は兄弟宗族に分け与え、留めるものはなかった。郊祀の恩典で弟の居厚を任じ、卒する時、末子はなお布衣であった。その学は『六経』に根拠し、楊時はこれを器として、著わした『三経義辨』を示して居正に言った、「私はその端緒を挙げた。子よ、私の志を成せ」。居正は感奮し、首尾十年をかけて『書辨學』十三巻、『詩辨學』二十巻、『周礼辨學』五巻、『辨學外集』一巻を為した。居正がその書七巻を進めた後、楊時の『三経義辨』も秘府に列せられ、二書が既に行われると、天下は遂に王氏の学を言わなくなった。

原文居正儀觀豐偉,聲音洪暢。奉祿班兄弟宗族,無留者。郊祀恩以任其弟居厚,及卒,季子猶布衣。其學根據《六經》,楊時器之,出所著《三經義辨》示居正曰:「吾舉其端,子成吾志。」居正感厲,首尾十載為《書辨學》十三卷,《詩辨學》二十卷,《周禮辨學》五卷,《辨學外集》一卷。居正既進其書七卷,而楊時《三經義辨》亦列秘府,二書既行,天下遂不復言王氏學。

晏敦復

原文晏敦復

晏敦復、字は景初、丞相晏殊の曾孫。少く程頤に学び、頤はこれを奇とした。進士に及第し、御史台検法官となった。紹興初め、大臣の推薦により、館職に召し試みられたが、就かず。特命で祠部郎官とされ、吏部に遷ったが、法を守って呂頤浩に逆らい、出でて貴渓県の知県となった。時に敦復の事を弁護する者がおり、臨江軍の通判に改められ、召されて吏部郎官・左司諫・権給事中となり、中書門下省検正諸房公事を務めた。

原文晏敦復,字景初,丞相殊之曾孫。少學于程頤,頤奇之。第進士,為御史臺檢法官。紹興初,大臣薦,召試館職,不就。特命祠部郎官,遷吏部,以守法忤呂頤浩,出知貴溪縣。會有為敦復直其事者,改通判臨江軍,召為吏部郎官、左司諫、權給事中,為中書門下省檢正諸房公事。

淮西宣撫使劉光世が淮東の私田を以て淮西の田と交換することを請い、帝はこれを許した。敦復が言うには、「光世は一道を帥とし、朝廷のために毫髪も措置したと聞かず、先ず私畝を交換する。近ごろ岳飛の属官が私事を以て朝廷に干渉し、飛は罪を加えるよう請い、中外が称美し、古の賢将の風有りと謂う。光世自らの処し方は必ずや飛の下に在らぬであろう。臣の言を以て光世に示し、且つ淮南を経理し、百姓を収撫して、定都建康の計と為し、中興の期有らしめよ。何ぞ私計の未だ便ならざるを患えん」。権吏部侍郎兼詳定一司勅令となった。

原文淮西宣撫使劉光世請以淮東私田易淮西田,帝許之。敦復言:「光世帥一道,未聞為朝廷措置毫髮,乃先易私畝。比者岳飛屬官以私事干朝廷,飛請加罪,中外稱美,謂有古賢將風。光世自處必不在飛下,乞以臣言示光世,且令經理淮南,收撫百姓,以為定都建康計,中興有期,何患私計之未便。」權吏部侍郎兼詳定一司敕令。

渡江後、諸事草創で、凡そ四選の格法を多く裁定した。敦復は素より剛厳で、吏部に居り、請謁を行わず、銓綜は平允であり、給事中に任ぜられた。冬至の節、旨が礼部に下り、度牒四百を取って賜与に充てた。敦復が奏上して言うには、「兵興して費用広く、凡そ用度を助け得るものは特に惜しむべし。況んや両宮遠方に在り、陛下この令節に当たり、一觴を奉って万歳の寿を為さんと欲するも得ず。有司乃ち平時の例を挙げて慶賜を行わんと欲するか」。遂に止んだ。ある卒が宣帖を失い、中旨を得て証拠を与えられ、太医の呉球が旨を得て試験を免ぜられた。敦復が奏上して言うには、「一卒の微なるものに至りてすら、聖聴を瀆すに上り、医官の免試は皆成法を壊す。崇寧・大観以来、奸人の欺罔、事に臨んで旨を取り、これを『暗嬴指揮』と謂い、紀綱敗壊し、危乱に馴致した。正に前の弊を蹈み、長ずべからず」。汪伯彦の子召嗣が江西監司に任ぜられた。敦復が論じて言うには、「伯彦は奸庸にして国を誤る。その子は素より才望無く、澄淸の任に難し」。袁州知州に改められた。また奏上して言うには、「召嗣は監司と為すべからざるのみならず、守臣と為すことも不可である」。右省に両月居り、論駁すること凡そ二十四事、議者はこれを憚った。再び吏部侍郎となった。

原文渡江後,庶事草創,凡四選格法多所裁定。敦復素剛嚴,居吏部,請謁不行,銓綜平允,除給事中。冬至節,旨下禮部,取度牒四百充賜予。敦復奏:「兵興費廣,凡可助用度者尤當惜,矧兩宮在遠,陛下當此令節,欲奉一觴為萬歲壽不可得,有司乃欲舉平時例行慶賜乎?」遂寢。有卒失宣帖,得中旨給據,太醫吳球得旨免試,敦復奏:「一卒之微,乃至上瀆聖聰,醫官免試,皆壞成法。自崇寧、大觀以來,姦人欺罔,臨事取旨,謂之『暗嬴指揮』,紀綱敗壞,馴致危亂,正蹈前弊,不可長也。」汪伯彥子召嗣除江西監司,敦復論:「伯彥姦庸誤國,其子素無才望,難任澄清。」改知袁州。又奏:「召嗣既不可為監司,亦不可為守臣。」居右省兩月,論駁凡二十四事,議者憚之。復為吏部侍郎。

彗星が現れ、詔して直言を求めた。敦復が奏上して言うには、「昔、康澄が『賢士蔵匿し、四民業を遷し、上下相徇い、廉恥の道消え、毀誉真を乱し、直言聞こえず』を以て深く畏るべしと為す。臣嘗てその言に即いて已然の事を考うるに、多くは左右近習及び奸邪の巧佞を以て人主の意を転移するに本づく。その直を悪み正を醜くするは、則ち能く賢士を蔵匿せしめ、その事端を造為するは、則ち能く四民に業を遷さしめ、その委曲彌縫するは、則ち能く上下を相徇わしめ、その寵を仮り権を窃み、流俗に簧鼓するは、則ち能く廉恥の道を消さしめ、その人の功罪を誣うるは、則ち能く毀誉をして真を乱さしめ、その聰明を壅蔽するは、則ち能く直言を聞こえざらしむ。臣は微を防ぎ漸を杜ぎ、以て天に応ずるの実を助けんことを願う」。また論じて言うには、「比来、百司は肯て責を任ぜず、瑣屑なこと皆朝省に取決し、事に当らざるもの、上って天聴を煩わす者は、例多く旨を取る。これにより宰執の治むる煩雑、有司に減ぜず、天子の聴覧、毎に細務に及び、政を為す所以に非ず。願わくはその大なるものを詳かにし、その細なるものを略せよ」。

原文彗星見,詔求直言。敦復奏:「昔康澄以『賢士藏匿,四民遷業,上下相徇,廉恥道消,毀譽亂真,直言不聞』為深可畏。臣嘗即其言考已然之事,多本于左右近習及姦邪以巧佞轉移人主之意。其惡直醜正,則能使賢士藏匿;其造為事端,則能使四民遷業;其委曲彌縫,則能使上下相徇;其假寵竊權,簧鼓流俗,則能使廉恥道消;其誣人功罪,則能使毀譽亂真;其壅蔽聰明,則能使直言不聞。臣願防微杜漸,以助應天之實。」又論:「比來百司不肯任責,瑣屑皆取決朝省,事有不當,上煩天聽者,例多取旨。由是宰執所治煩雜,不減有司,天子聽覽,每及細務,非所以為政。願詳其大,略其細。」

八年、金が使いを遣わして来たり、難行の礼を以て要し、詔して侍従・台諫に条奏すべき所宜をさせた。敦復が言うには、「金は両度使いを遣わし、直ちに講和を許す。我を畏れて然るに非ず、どうして我を誘うに非ざるを知らん。且つこれを己を屈すると謂えば、則ち一事既に屈すれば、必ず他事を以て来たりて我を屈せしめん。今遣わす使は詔諭を名とす。もし陛下に服を易え拜受せしめ、又廷を分けて抗礼せんと欲すれば、尚従うべけんや。苟くもその一二に従えば、則ち此後我を号令し、小に違異有れば、即ち釁端と成り、社稷の存亡、皆その掌握に在り」。時に秦檜方に力を以て己を屈するの説を賛し、外議群れ起こり、計既に定まりながら未だ敢えて行わず。勾龍如淵が檜に説き、宜しく人を択び台官と為し、異論を撃ち去らしめば、則ち事遂げられんと。ここにおいて如淵・施廷臣・莫将皆要地に拠り、人皆愕然とした。敦復は尚書張燾と共に上疏して言うには、「前日如淵は和議に附会して中丞を得、今施廷臣又これを以て横榻に躋り、衆論沸騰し、方に切歯す。莫将又これを以て右史に擢ぜらる。夫れ如淵・廷臣は庸人、ただ観望するを知るのみ。将は則ち奸人なり。陛下奈何ぞ此の輩と国論を断たんとするか。乞うらくは斥逐を加え、群枉の門を杜ぎ、力を自治自強の策に為せ」。既に又燾らと同班入対し、争った。檜は親しい者をして敦復に諭させて言わしめた、「公能く曲からば、両地旦夕に至るべし」。敦復は言った、「吾は終に身の計を為して国家を誤らじ。況んや吾が薑桂の性、老いて愈々辣し。請う、言う勿れ」。檜遂に屈せしむること能わず。

原文八年,金遣使來要以難行之禮,詔侍從,臺諫條奏所宜。敦復言:「金兩遣使,直許講和,非畏我而然,安知其非誘我也。且謂之屈己,則一事既屈,必以他事來屈我。今所遣使以詔諭為名,儻欲陛下易服拜受,又欲分廷抗禮,還可從乎?苟從其一二,則此後可以號令我,小有違異,即成釁端,社稷存亡,皆在其掌握矣。」時秦檜方力贊屈己之說,外議群起,計雖定而未敢行。勾龍如淵說檜,宜擇人為臺官,使擊去異論,則事遂矣。於是如淵、施廷臣、莫將皆據要地,人皆駭愕。敦復同尚書張燾上疏言:「前日如淵以附會和議得中丞,今施廷臣又以此躋橫榻,眾論沸騰,方且切齒,莫將又以此擢右史。夫如淵、廷臣庸人,但知觀望,將則姦人也,陛下奈何與此輩斷國論乎?乞加斥逐,杜群枉門,力為自治自強之策。」既又與燾等同班入對,爭之。檜使所親諭敦復曰:「公能曲從,兩地旦夕可至。」敦復曰:「吾終不為身計誤國家,況吾薑桂之性,到老愈辣,請勿言。」檜卒不能屈。

胡銓が昭州に流罪となると、臨安は人を遣わして枷をはめて流刑地へ護送させた。敦復は守臣の張澄のもとへ赴き会見して言った、「胡銓が宰相を論じたことは天下周知である。祖宗の時代には言事によって流罪となった者に対し、開封の長官がかくの如く扱うことはなかった」と。張澄は恥じて謝罪し、追いかけて連れ戻させた。初め秦檜が宰相に任ぜられた時、任命の詔が下ると、朝士は互いに祝賀したが、敦復のみ憂色を帯びて言った、「奸人が宰相となった」と。張致遠と魏矼がこれを聞き、皆その言葉を過激であると考えた。この度胡銓が流罪となると、敦復は人に言った、「かつて秦檜の奸を言ったが、諸君は然りとしなかった。今や国政を専断するや、早くもこのように敢えてする。将来、どこまで及ばないことがあろうか」と。

原文胡銓謫昭州,臨安遣人械送貶所。敦復往見守臣張澄曰:「銓論宰相,天下共知,祖宗時以言事被謫,為開封者必不如是。」澄愧謝,為追還。始檜拜相,制下,朝士相賀,敦復獨有憂色曰:「姦人相矣。」張致遠、魏矼聞之,皆以其言為過。至是竄銓,敦復謂人曰:「頃言秦之姦,諸君不以為然,今方專國便敢爾,他日何所不至耶?」

権吏部尚書兼江淮等路経制使となった。故事によれば、侍従が宰相の閣を過ぎるとき、退出した後、宰相は必ず数歩送るものであった。敦復は秦檜が送ったことがないのを見て、常に言った、「人は必ず自ら侮る所があって、後に人これを侮るのである」と。まもなく外任を請い、宝文閣直学士として衢州の知州となり、後に亳州明道宮の提挙となった。閑居すること数年で卒去した。享年七十一。

原文權吏部尚書兼江淮等路經制使。故事,侍從過宰相閣,既退,宰相必送數步。敦復見檜未嘗送,每曰:「人必自侮而後人侮之。」尋請外,以寶文閣直學士知衢州,提舉亳州明道宮。閒居數年卒,年七十一。

敦復は静かで沈黙しており、言葉ができないかのようであったが、朝廷に立って事を論ずるに避けるところがなかった。帝はかつて彼に言われた、「卿は鯁直で敢えて言い、爾が祖に辱じないと言えよう」と。

原文敦復靜默如不能言,立朝論事無所避。帝嘗謂之曰:「卿鯁峭敢言,可謂無忝爾祖矣。」

黄亀年

原文黃龜年

黄亀年、字は徳邵、福州永福県の人である。崇寧五年の進士に及第し、洺州司理参軍に任ぜられ、累官して河北西路提挙学士となった。呂頤浩が彼を見て奇異とし、朝廷に入れて太常博士とした。

原文黃龜年,字德邵,福州永福人。登崇寧五年進士第,調洺州司理參軍,累官河北西路提舉學士。呂頤浩見而奇之,入為太常博士。

靖康元年、吏部員外郎に任ぜられ、監察御史に拝され、まもなく尚書左司員外郎・中書門下検正房公事に任ぜられ、修政局検討官を充てた。検正官に通進司を監察させるよう請うたところ、帝はその請いを容れた。時に呂頤浩が再び宰相となり、党を結んで秦檜を傾けようとし、朱勝非を引き入れて京祠を奉ぜしめ侍読を兼ねさせたが、中書舎人胡安国が録黄を留めて下さないことを恐れ、特に黄亀年に命じて書行させた。議者はその官職を侵すことを譏った。

原文靖康元年,除吏部員外郎,拜監察御史,尋除尚書左司員外郎、中書門下檢正房公事,充修政局檢討官。乞令檢正官察通進司,帝從其請。時頤浩再相,植黨傾秦檜,引朱勝非奉京祠兼侍讀,恐中書舍人胡安國持錄黃不下,特命龜年書行,議者譏其侵官。

殿中侍御史に遷った。時に辺境からの報告で王倫が帰って来ると聞き、黄亀年は秦檜が専ら和議を主張し、恢復を沮止し、党を植え権を専らにし、漸くして長ずべからざることを弾劾した。そこで上書して言った、「臣は聞く、一言にして君に事える道を尽くすを忠と為し、罪は君を欺くより大なるは莫し。一言にして政を輔ける道を尽くすを公と為し、罪は己を私するより大なるは莫し。臣たる者が公に背き私に従えば、刑賞は僭り濫る。人主がその奸を照らすことを慮れば、党を合わし交を締め、互いに比周し、主の聴を熒惑す。故に下に附き上を罔くするの党盛んにして、威福の柄下に移り、禍いは言うに勝えざる者有り。伏して秦檜が金国より還りしを見るに、陛下は驟に任用し、一年ならずして超えて宰輔に至らしめられた。乃ち国家を顧みず、威福を己に盗み、永く言路を塞がんと欲す」と。上書が上ると、秦檜は罷免され、併せて秦檜の党与である王㬇・王昞・王守道を弾劾し、皆これを罷免させた。秦檜はそこで観文殿大学士・提挙江州太平観を授けられ、官はもとの如くであった。黄亀年はまた奏上した、「近ごろ秦檜が私に従い君を欺くを論じ、合わすべきは典刑を正し、諸れを裔土に投じ、以て魑魅を禦ぐべし。今乃ち任便居住を許すは、陛下が大臣の礼を曲げて全うせられると雖も、秦檜の奸状暴露し、復た儒学最上の職名を以て寵し、優遊して琳館に俾え、その自如を聴く。律を以て群盗を断ずれば、必ず首従を分かち、その従たる者は皆既に誅に伏す。独り渠魁を置くは可ならんや」と。また言った、「臣は聞く、恩は父子に隆なること莫く、義は君臣に重きこと莫し。義ならざれば則ちその君を後ろにし、仁ならざれば則ちその親を遺す。君親すら然り、則ち何をか忌憚して為さざらん。秦檜は貌厚く情深く、言を矯い行いを偽り、進んでは君臣の勢いに迫り、陽に面従を為し、退いては朋比の奸を恃み、陰に謀りて沮格す。上は陛下を畏れず、中は大臣を畏れず、下は天下の議を畏れず、忌憚無きことかくの如し。君を欺き己を私するは、一つ有ればすなわち罷免すべきなり。況んや秦檜の欺きと私すること顕著なるもの多きにおいてをや」と。上奏文は凡そ三度上り、遂に秦檜の職を褫った。さらに上章して言った、「秦檜は行い詭にして言譎り、外は縮みて中は邪なり。巧詐を以て相位を取り、奸回として国柄を窃み、険佞を収め召し、党与を蟠結す。陛下は智を以て臨みて之を弁ずること早く、剛を以て決して之を去ること速かなり。故に端人正士、手を挙げて相慶し、蓋し天下の悪を同じくするを公にするに在り。臣願わくは陛下、明詔を発し、秦檜の潜慝隠悪を天下に暴白し、以て陛下が数たび相位を易えられたるは真に已むを得ざるに由ることを知らしめ、また以て臣たる者の奸胆を破り、庶幾くは朋比の風復た作らざらんことを」と。太常少卿に任ぜられ、累遷して起居舎人・中書舎人兼給事中となった。

原文遷殿中侍御史。會邊報王倫來歸,龜年劾檜專主和議,沮止恢復,植黨專權,漸不可長。乃上書曰:「臣聞一言而盡事君之道曰忠,罪莫大於欺君;一言而盡輔政之道曰公,罪莫大於私己。臣人者背公而徇私,則刑賞僭濫。慮人主之照其姦,則合黨締交,相與比周,熒惑主聽。故附下罔上之黨盛,而威福之柄下移,禍有不可勝言者。伏見秦檜還自金國,陛下驟任,不一年而超至宰輔,乃不顧國家,盜威福在己,欲永塞言路。」書上,檜罷,並劾檜黨王㬇、王昞、王守道,皆罷之。檜乃授觀文殿大學士、提舉江州太平觀,官如故。龜年又奏:「比論檜徇私欺君,合正典刑,投諸裔土,以禦魑魅。今乃任便居住,雖陛下曲全大臣之禮,秦檜姦狀暴露,復寵以儒學最上職名,俾優遊琳館,聽其自如。律斷群盜,必分首從,為之從者皆已伏誅,獨置渠魁可乎?」又曰:「臣聞恩莫隆于父子,義莫重於君臣。不義則後其君,不仁則遺其親。君親既然,則何忌憚而不為。檜厚貌深情,矯言偽行,進迫君臣之勢,陽為面從;退恃朋比之姦,陰謀沮格。上不畏陛下,中不畏大臣,下不畏天下之議,無忌憚如此。欺君私己,有一即可黜,況檜之欺與私顯著者為多乎?」章凡三上,遂褫檜職。復上章曰:「檜行詭而言譎,外縮而中邪,以巧詐取相位,姦回竊國柄,收召險佞,蟠結黨與。陛下以智臨而辨之早,以剛決而去之速,故端人正士,舉手相慶,蓋以公天下之同惡耳。臣願陛下發明詔,以檜潛慝隱惡暴白於天下,使知陛下數易相位真不得已也;又所以破為臣姦膽,庶朋比之風不復作矣。」除太常少卿,累遷起居舍人、中書舍人兼給事中。

侍御史常同が、黄亀年が陰に大臣と結び、身を要地に致し、また諸将と交結し、趣操正しからずと上言したため、罷免されて帰郷した。司諫詹大方が秦檜の意を迎え、黄亀年が匪人に附麗し、縉紳の歯すべきところにあらずと弾劾し、落職して本貫居住となった。卒去、六十三歳。

原文侍御史常同言龜年陰結大臣,致身要地,又交結諸將,趣操不正,罷歸。司諫詹大方希檜意劾龜年附麗匪人,搢紳不齒,落職,本貫居住。卒,六十三。

黄亀年が微賤の時、永福の主簿李朝旌が彼を奇異とし、娘を妻とすることを許した。黄亀年が進士に及第した時には、李朝旌は既に死去しており、家は甚だ貧しかった。ある者が黄亀年に別に娶るよう勧めたが、黄亀年は正色して言った、「私は諾を以て許した。死して之に背くは、何を以て自立せん」と。遂に娶った。任子の恩典に際しては、先ずその弟の子を奏薦した。人皆これを義とした。子の黄衡は、官は湖南提挙に至った。

原文龜年微時,永福簿李朝旌奇之,許妻以女。龜年既登第,而朝旌已死,家貧甚。或勸龜年別娶,龜年正色曰:「吾許以諾,死而負之,何以自立。」遂娶之。任子恩,先奏其弟之子,人皆義之。子衡,仕至湖南提舉。

程瑀

原文程瑀

程瑀、字は伯㝢、饒州浮梁県の人である。その姑の臧氏の婦人が、程瑀を養子とした。姑が没して後、初めて本姓に復した。少時に太学で名声有り、試みに第一となり、累官して校書郎に至った。臧氏の父母の喪に服し、服喪が終わると、兵部員外郎に任ぜられた。高麗の使者が帰国するのに適い、送伴使を充てた。先に、使者が往復する江・浙の間で、舟を挽く人夫を徴発することが甚だ煩わしかったため、詔を下して禁止されていた。提挙人舡の王珣が別勅を画策し、風逆り水澁まるに遇えば人夫徴発を許すとした。程瑀が淮を渡ると、民丁が従前の如く舟を挽いているのを見て、遂に王珣を弾劾した。王珣は反って程瑀が御筆に違うと上奏した。詔命により淮南提挙潘良貴が実情を核したところ、良貴は王珣の言は正しからずと奏上した。

原文程瑀,字伯㝢,饒州浮梁人。其姑臧氏婦,養瑀為子,姑沒,始復本姓。少有聲太學,試為第一,累官至校書郎。為臧氏父母服,服闋,除兵部員外郎。適高麗使回,充送伴使。先是,使者往返江、浙間,調挽舟夫甚擾,有詔禁止。提舉人舡王珣畫別敕,遇風逆水澁許調夫。瑀渡淮,見民丁挽舟如故,遂劾珣,珣反奏瑀違御筆。詔命淮南提舉潘良貴核實,良貴奏珣言非是。

金人が侵入し、使える者を求めた。程瑀は行くことを請うた。未だ出発せず、欽宗が即位し、三鎮を割譲することを議し、程瑀を河東に、秦檜を河中に遣わすことを命じた。程瑀は奏上した、「臣は使節を奉ずることを願い、地を割くことを願わず」と。返答無し。中山に至ると、諸将は既に密諭を得ており、城を守って下さなかった。程瑀は金使の王汭と共に燕山に至った。還ると、左正言に任ぜられ、即座に言った、股肱の大臣は身を以て天下の事を任せんとする者無し、と。また論じて、「祖宗を慕い追い及ぼさんと欲するも術無く、奄宦を斥けんと欲するも寵任益々堅く、奸悪を鋤かんと欲するも薄く典刑を示すのみ、濫繆を汰せんと欲するも苟くも僥倖を容る。兼聴して其の言を行えず、委任して其の効を責めず、苟且の習い復た成り、党与の私浸く広がる。最も時の病の大なる者なり」と。帝は言われた、「朕は此れを知らざるに非ず。慮い未だ尽きざるを憂え、決意して之を行えば失い有らんとす」と。程瑀は言った、「事は固より熟慮すべきなり。然れども優柔断ぜざれば、実に事功を隳す」と。帝が問われた、「李綱が両路を宣撫するは、外議は何と謂うか」と。程瑀は言った、「僉論は固より宜しと為す。然れども李綱は前に大臣と議論合わず、須らく聖明の其の心を照察し、疑い無く之を任ずるを頼むべきなり」と。

原文金人入侵,求可使者,瑀請往。未行,會欽宗即位,議割三鎮,命瑀往河東,秦檜往河中。瑀奏:「臣願奉使,不願割地。」不報。至中山,諸將已得密諭,城守不下。瑀與金使王汭俱至燕山。還,除左正言,即言股肱大臣莫肯以身任天下事,且論:「欲慕祖宗而遹追無術,欲斥奄宦而寵任益堅,欲鋤姦惡而薄示典刑,欲汰濫繆而苟容僥倖,兼聽而不能行其言,委任而不能責其效,苟且之習復成,黨與之私浸廣,最時病之大者。」帝曰:「朕非不知此,慮有未盡,決意行之有失耳。」瑀曰:「事固當熟慮,然優柔不斷,實隳事功。」帝問:「李綱宣撫兩路,外議謂何?」瑀曰:「僉論固以為宜。然綱前與大臣議論不合,須賴聖明照察其心,任之無疑可也。」

金の首長の斡離不と粘罕が功を争い、故に斡離不は和を欲し、粘罕は戦を欲した。朝廷は人を遣わして蠟書を齎し余睹と約したが、皆粘罕に得られた。程瑀は因って言った、「金兵は我が重鎮を囲み、数月解く能わず。豈に塞を出て人の国を謀ることを共にせんや。使者を遣わして和を議するに若かず。然れども謹んで辺備を飭い、徐ろに其の変を観るべし」と。使者は未だ行かず。程瑀はまた言った、「徐処仁は庸俗、呉敏は昏懦、唐恪は傾険なり。政事の振わざる所以は此れに在り。尽く黜免し、別に英賢を選び、共に大計を図らんことを請う」と。帝は嘉納された。

原文金酋斡離不、粘罕爭功,故斡離不欲和,粘罕欲戰,朝廷遣人齎蠟書約余睹,皆為粘罕所得。瑀因言:「金兵圍我重鎮,數月不能解,豈能出塞共謀人之國。莫若遣使議和,然謹飭邊備,徐觀其變。」使未行。瑀復言:「徐處仁庸俗,吳敏昏懦,唐恪傾險,政事所以不振。請盡黜免,別選英賢,共圖大計。」帝嘉納之。

時に御史李光が星変を言上し、帝は疑って瑀に問うと、対えて言うには、「陛下は有無を問うことなかれ、ただ事を正し徳を修められれば、則ち変異は消すべし」と。瑀は嘗て蔡京の罪を論じ、帝は因って呉敏が京を庇うことを言い、また光が京に与することを疑い、瑀に謂うには、「卿の文字を作るを須つ」と。瑀は辞す。屯田郎官に改め、瑀を漳州塩税監に謫す。

原文時御史李光言星變,帝疑以問瑀,對言:「陛下毋問有無,第正事修德,則變異可消。」瑀嘗論蔡京罪,帝因言吳敏庇京,又疑光黨京,謂瑀曰:「須卿作文字來。」瑀辭。改屯田郎官,謫瑀監漳州鹽稅。

高宗即位し、召して司封員外郎と為し、光禄少卿・国子司業に遷る。祠を請い、亳州明道宮を主管す。尋いで行在に赴くを召し、十事を疏して以て献ず。直秘閣・提点江東刑獄を除し、召して太常少卿と為し、給事中兼侍講に遷る。

原文高宗即位,召為司封員外郎,遷光祿少卿、國子司業。請祠,主管亳州明道宮。尋召赴行在,疏十事以獻。除直秘閣、提點江東刑獄,召為太常少卿,遷給事中兼侍講。

修政局を建つ、その目は省費裕国・強兵息民と曰う。瑀は十四事を条上し、皆時務に切る。時に三衙は単弱にし、五軍は多く盗より出づ。瑀言う、「李捧・崔増の輩は各其の徒を将い、張俊・王𤫉は本より兵機無し。今呂頤浩出征すれば、即ち捧・増の輩便ち使うべくして戎行に隷せしむ」と。帝因りて言う、「頤浩は軍事に熟し、外に在りて諸将を総ぶ。檜は朝廷に在り、庶幾く内外相応ぜん。然れども檜は誠実なり、但だ太だ執るのみ」と。瑀曰く、「機警にして能く旨に順う者を求むるが如きは、極めて難しからず、但だ誠実ならざれば、則ち終に倚るべからず」と。帝之を然りとす。

原文建修政局,其目曰省費裕國、強兵息民。瑀條上十四事,皆切時務。時三衙單弱,五軍多出於盜,瑀言:「李捧、崔增輩各將其徒,張俊、王𤫉本無兵機,今呂頤浩出征,即捧、增輩便可使隸戎行。」帝因言:「頤浩熟於軍事,在外總諸將,檜在朝廷,庶幾內外相應,然檜誠實,但太執耳。」瑀曰:「如求機警能順旨者,極不難得,但不誠實,則終不可倚。」帝然之。

権邦彦を除して簽書枢密院と為す。瑀は邦彦の五罪を言い、疏三たび上るも、報いず。罷めんことを求め、兵部侍郎を除すも拝せず、敷文閣待制を以て信州を知る。侍御史江公躕・左司諫方公孟、瑀の去るべからざるを言い、復た以て給事中と為す。久しくして、復た命じて信州を知らしむ。胡安国・劉一止言う、「瑀は忠信以て献納に備え、正直以て風憲を司どるべし、去るべからず」と。遂に復た留まる。頤浩は席益を薦む、既に旨を得て、御批を以て後省官に示す。瑀曰く、「益が人公豈知らざらんや、何ぞ必ず用いん」と。頤浩曰く、「給事御批を見ざるか」と。瑀曰く、「已に見たり。公能く執奏せず、乃ち先ず瑀輩に示し、敢えて論駁せざらしめんと欲するか。然れども益の来るは、公の福ならず」と。頤浩赧然たり、即ち益を劾す。未だ幾ばくもせず、言者を以て罷め、亳州明道宮を提挙し、尋いで徽猷閣待制・撫州知州を復し、間も無く、江州太平興国宮を提挙す。

原文權邦彥除簽書樞密院,瑀言邦彥五罪,疏三上,不報。求罷,除兵部侍郎,不拜,以敷文閣待制知信州。待御史江公躋左司諫方公孟,言瑀不可去,復以為給事中。久之,復命知信州。胡安國、劉一止言:「瑀忠信可以備獻納,正直可以司風憲,不宜去。」遂復留。頤浩薦席益,既得旨,以御批示後省官。瑀曰:「益為人公豈不知,何必用?」頤浩曰:「給事不見御批耶?」瑀曰:「已見矣。公不能執奏,乃先示瑀輩,欲使不敢論駁耶?然益之來,非公福也。」頤浩赧然,即劾益。未幾,以言者罷,提舉亳州明道宮,尋復徽猷閣待制、知撫州,無何,提舉江州太平興國宮。

父母の喪に居り、服除き、厳州を知り、宣州に徙り、復た祠を奉ず。俄に行在に赴くを召し、兵部侍郎兼侍読を除す。因りて論ず、「鄧禹嘗て言う『興衰は徳の厚薄に在り、初め大小を論ぜず』と。光武数年にして大業を定めず、禹の言符契の如く合う。今英俊朝に満つ、豈陛下が為に至計を画する者無からんや、願わくは志を厲ますのみ」と。尋いで翊善に遷る。論ず、「金人の侵入、未だ嘗て一大衄せず、我が心を軽んず、豈其の盟を背かざるを保つべけんや。宜しく費を省み末を抑え、常賦の外一毫も民に取らず、民日に厚くし、兵日に強くし、金人をして敢えて窺わしめざるを長計と為すべし」と。帝曰く、「且つ十年を作せ」と。瑀再拝して曰く、「十年の説、願わくは陛下早夜忘れることなかれ」と。兵部尚書を除す。

原文居父母喪,服除,知嚴州,徙宣州,復奉祠。俄召赴行在,除兵部侍郎兼侍讀。因論:「鄧禹嘗言『興衰在德厚薄,初不論大小』。光武不數年定大業,禹言如合符契。今英俊滿朝,豈無為陛下畫至計者,願厲志而已。」尋遷翊善。論:「金人入侵,未嘗一大衄,有輕我心,豈可保其不背盟。宜省費抑末,常賦外一毫不取於民,民日益厚,兵日益強,使金人不敢窺為長計。」帝曰:「且作十年。」瑀再拜曰:「十年之說,願陛下早夜毋忘。」除兵部尚書。

檜既に和を主とし、瑀の議論は専ら和を是とせず、檜之を忌み、龍図閣学士・信州知州に改む。会う大水有り、檜瑀の奏牘を見て、同列に謂う曰く、「堯の洪水、是の如くに至らず」と。瑀遂に疾を称し、江州太平興国宮を提挙す。李光に通書するに坐し、朝議大夫に降り、卒す。年六十六。

原文檜既主和,瑀議論不專以和為是,檜忌之,改龍圖閣學士、知信州。會大水,檜見瑀奏牘,謂同列曰:「堯之洪水,不至如是。」瑀遂稱疾,提舉江州太平興國宮。坐通書李光,降朝議大夫,卒,年六十六。

瑀は朝に詭随無く、嘗て『論語説』を為し、「弋は宿を射ず」に至りては、孔子の陰に人を中るるを欲せざるを言う。「周公魯公に謂う」に至りては、則ち流涕すべしと曰う。洪興祖其の意を序述し、檜以て己を譏るとなし、興祖を逐う。魏安行京西漕司に鋟版す、亦た安行の官を奪い、其の家を籍し、版を毀つ。檜死し、瑀の子孫乃ち錮を免る。奏議六巻有り。

原文瑀在朝無詭隨,嘗為《論語說》,至「弋不射宿」,言孔子不欲陰中人。至「周公謂魯公」,則曰可為流涕。洪興祖序述其意,檜以為譏己,逐興祖。魏安行鋟版京西漕司,亦奪安行官,籍其家,毀版。檜死,瑀子孫乃免錮云。有奏議六卷。

張闡

原文張闡

張闡、字は大猷、永嘉の人。幼より力み学び、経史に博く渉り、善く文を属す。将に名づけんとし、神人の大いに「闡」の字を書くを夢みて曰く、「是を以て爾を名づけよ」と。父之を異とし、力めて其の学を為すを勉む。未だ冠せず、舎選より京師に貢す。

原文張闡字大猷,永嘉人。幼力學,博涉經史,善屬文。將命名,夢神人大書「闡」字曰:「以是名爾。」父異之,力勉其為學。未冠,由舍選貢京師。

宣和六年進士第に登り、厳州兵曹掾に調じ兼ねて右獄を治む。時に方臘乱を作す。闡守禦の計を倡う。義士有り身を請うて戦を督す。既に戦い、稍く却く。州将怒り、闡に付して治め、将に之を殺さんとす。闡力めて争いて曰く、「是の士は義を以て戦を請い、官軍却く、勢い独り前に出づるを得ず。首めて奔る者に非ず、之を殺す何の罪ぞ」と。州将意解け、士免る。

原文登宣和六年進士第,調嚴州兵曹掾兼治右獄。時方臘作亂,闡倡守禦計。有義士請身督戰,既戰,稍卻,州將怒,付闡治,將殺之,闡力爭曰:「是士以義請戰,官軍卻,勢不得獨前,非首奔者,殺之何罪?」州將意解,士得免。

李回江西に帥し、席益湖南に帥し、皆幕下に辟置す。群盗洞庭に拠る。官軍多く西北の人、水戦に閑ならず。闡策を建て戦艦を造り、大艦を以て営と為し、小艦を以て出戦し、水涸るるに乗じて直ちに賊巣を搗く。賊勢以て衰う。諸司交えて薦め、秩を改む。吏部微文を以て之を沮む。闡弁せず、岳祠を求めて帰る。鄂・台二州教授を歴る。

原文李回帥江西,席益帥湖南,皆辟置幕下。群盜據洞庭,官軍多西北人,不閑水戰。闡建策造戰艦,以大艦為營,小艦出戰,乘水涸直搗賊巢,賊勢以衰。諸司交薦,改秩,吏部以微文沮之,闡弗辯,求嶽祠歸。歷鄂、台二州教授。

紹興十年、詔して侍従各所知を挙げしむ。給事中林待聘闡を以て聞こえ、召対す。時に金人和を議し、関中の地を帰す。闡首めて言う、「関中は必争の地、古より天府と号す。願わくは固く守り以て巴蜀しょくはしょくを蔽い、中原を図らん」と。次に監司・郡守の薦挙の弊を言う。又た遏糴を厳禁するを乞い、以て江・浙の水患を済さんとす。召して館職を試み、秘書省正字を除し、校書郎兼呉・益王府教授に遷る。時に諸将功に恃み爵賞を邀え、過有れば則ち姑息し、又た兵は外に布き、禁衛は単寡なり。闡上疏し極めて之を論ず。後稍く諸将を進退するも必ず其の実に当たり、且つ諸道の兵を召して以て禁旅を益す、皆闡の言う如し。

原文紹興十年,詔侍從各舉所知,給事中林待聘以闡聞,召對。時金人議和,歸關中地。闡首言:「關中必爭之地,古號天府,願固守以蔽巴蜀,圖中原。」次言監司、郡守薦舉之弊。又乞嚴禁遏糴,以濟江、浙水患。召試館職,除秘書省正字,遷校書郎兼吳、益王府教授。時諸將恃功邀爵賞,有過則姑息,又兵布於外,禁衛單寡,闡上疏極論之。後稍進退諸將必當其實,且召諸道兵以益禁旅,皆如闡言。

十三年、秘書郎兼国史院検討官に遷る。秦檜毎に台諫を薦むるに、必ず先ず己が意を以て諭す。嘗て闡に謂いて曰く、「秘書久次す、台中以て相い処わんと欲す、如何」と。闡謝して曰く、「丞相見知る、秘書に老死するを得ば幸いなり」と。檜黙然たり、竟に罷め、台州崇道観を主管し、泉・衢二州通判を歴る。

原文十三年,遷秘書郎兼國史院檢討官。秦檜每薦臺諫,必先諭以己意,嘗謂闡曰:「秘書久次,欲以臺中相處何如?」闡謝曰:「丞相見知,得老死秘書幸矣!」檜默然,竟罷,主管台州崇道觀,歷泉、衢二州通判。

二十五年冬、帝躬より万機を攬り、闡を起して両浙路市舶を提挙し、入りて御史台検法官と為り、吏部員外郎に升る。孝宗王邸に在り、帝妙に宮僚を選び、「荘重老成闡に逾る者無し」と謂い、祠部兼建王府賛読に改命す。

原文二十五年冬,帝躬攬萬機,起闡提舉兩浙路市舶,入為御史臺檢法官,升吏部員外郎。孝宗在王邸,帝妙選宮僚,謂「莊重老成無逾闡者」,改命祠部兼建王府贊讀。

三十一年春、大雨し、麦苗無く、荊・浙に盗起こる。詔して侍従・台諫に災を弭ぎ盗を禦ぐの術を条陳せしむ。闡上疏して曰く、「和議以来、歳に聘幣有り、民命に堪えず。臣願わくは陛下金人の中国を困しむるを以てすことなかれ、可ならんや。帰正人時に遣還の命有り、怨声道路に聞こゆ。臣願わくは陛下金人をして以て甘心するを得しめざらんことを、可ならんや。州県吏職卑く地遠く、漁奪の禍編籍に被る。臣願わくは陛下髒吏の誅を厳にせんことを、可ならんや。租を蠲するの令、已に赦して復た征し、寛大の沢例として虚文と為る。臣願わくは陛下詔令の禁を申せんことを、可ならんや。是の数者能く次第に行えば、則ち以て天地を動かし和気を召すに足り、災異・盗賊慮るに足らず」と。又た言う、「金主亮将に侵入せんとす。宜しく要害を守り海道を防ぎ、三辺良将無くんば可からず、督視大帥無くんば可からず」と。疏奏す、帝嘉納し、面諭して曰く、「卿の言う所深く時病に中る。但だ人を遣わし北に帰すは、已に約書に載す。朕忍びて渝えざるなり」と。将作監に遷り、宗正少卿に進む。

原文三十一年春,大雨,無麥苗,荊、浙盜起,詔侍從、臺諫條陳弭災、禦盜之術。闡上疏曰:「和議以來,歲有聘幣,民不堪命,臣願陛下毋以金人困中國可乎?歸正人時有遣還之命,怨聲聞道路,臣願陛下毋使金人得以甘心可乎?州縣吏職卑地遠,漁奪之禍被於編籍,臣願陛下嚴髒吏之誅可乎?蠲租之令,已赦復征,寬大之澤例為虛文,臣願陛下申詔令之禁可乎?是數者能次第行之,則足以動天地,召和氣,災異、盜賊不足慮也。」又言:「金主亮將入侵,宜守要害,防海道,三邊不可無良將,督視不可無大帥。」疏奏,帝嘉納,面諭曰:「卿所言深中時病,但遣人北歸,已載約書,朕不忍渝也。」遷將作監,進宗正少卿。

三十二年、孝宗即位すると、闡は工部侍郎兼侍講を権任し、入朝して謝恩し、言上した。「諸将は敗北を勝利と偽り、爵禄を冒して受け、州の廂禁軍は覃霈(恩赦)に乗じて騒動し、厚賞を望む。その罪を正さざるべからず。」時に全て施行された。

原文三十二年,孝宗即位,闡權工部侍郎兼侍講,入謝,言:「諸將以敗為捷,冒受爵秩,州廂禁軍因覃霈皷譟,希厚賞,不可不正其罪。」時悉為施行。

金主亮が死に、葛王褒が再び和を求め、使者派遣が再議された。闡は言った。「遣使の命を厳しくし、敵国の礼を正すべきである。彼が従わなければ、戦うのみ。かくして中国の威は復振せしめ得る。」帝は言った。「使者の報聘は故事なり。旧約に従わざれば、朕の志は定まれり。」この冬、侍従・台諫に札を与えて時務を条陳させた。闡は十事を上奏し、いずれも切実であった。当時詔に応じた者は数十人、ただ闡と国子司業王十朋のみが時事を指陳し、権幸を斥け、隠すところがなかった。翌日、両人を内殿に対せしめ、帝は大いに称賞し、酒と御書を賜うた。時に太上皇帝・太上皇后の冊宝を進上し、工部は例により官を進めたが、闡は辞した。或る人が言った。「公が一階を転ずれば、恩沢は子孫に及ぶ。何ぞ辞するや。」闡は笑って言った。「冊宝は吾が功にあらず。吾が子孫のために無功の賞を冒せんや。」

原文金主亮死,葛王褒復求和,再議遣使。闡言:「宜嚴遣使之命,正敵國之禮,彼或不從,則有戰爾。如是,則中國之威可以復振。」帝曰:「使者報聘,故事也,舊約不從,朕志定矣。」是冬,給劄侍從、臺諫條具時務,闡上十事皆剴切。當時應詔數十人,惟闡與國子司業王十朋指陳時事,斥權幸,無所回隱。明日,召兩人對內殿,帝大加稱賞,賜酒及御書。時進太上皇帝、太上皇后冊寶,工部例進官,闡辭。或曰:「公轉一階,則澤可以及子孫,奈保辭?」闡笑曰:「寶冊非吾功也,吾能為子孫冒無功賞乎?」

隆興元年、工部侍郎を真拝した。闡は奏上した。「臣は去冬両淮の守禦を乞う。陛下は春首に行い、夏秋に畢わらんと謂われし。今その時なり。」帝は言った。「江・淮の事は全て張浚に付す。朕は浚を長城と倚る。」時に督府が蕭琦の降伏を受けんことを請う。詔して闡に問う。闡はその降を受けんことを請うた。俄かに王師が霊壁県を収復せしと報ず。闡は大将李顕忠・邵宏淵が深入して援無きを慮り、兵を益して殿後せんことを奏請した。已にして王師果たして利を失い、衆論は戦を帰罪せんとす。闡は言った。「陛下が出師して降を受けしは是なり。諸将が節度に違ひ且つ援無くして敗る。前の失を矯うべし。安んぞ遽かに鋭気を沮さんや。」帝はその言を壮とし、益々御前の器甲を諸軍に付し、手詔を以て浚を労し、軍声復振せり。

原文隆興元年,真拜工部侍郎。闡奏:「臣去冬乞守禦兩淮,陛下謂春首行之,夏秋當畢,今其時矣。」帝曰:「江、淮事盡付張浚,朕倚浚為長城。」會督府請受蕭琦降,詔問闡,闡請受其降。俄報王師收復靈壁縣,闡慮大將李顯忠、邵宏淵深入無援,奏請益兵殿后。已而王師果失利,眾論歸罪於戰。闡曰:「陛下出師受降是也。諸將違節度且無援而敗,當矯前失,安可遽沮銳氣。」帝壯其言,益出御前器甲付諸軍,手詔勞浚,軍聲復振。

時に台諫を数度更易す。闡は力を尽くして言い、諫員を増広せんことを請うた。帝は言った。「台諫は名を好む。某の如きはただ直声を得て去らんと欲するのみ。」闡は言った。「唐の徳宗は姜公輔を売直と疑う。陸贄が切諫す。願わくは陛下深く以て鑑とせられん。」帝は再三嘉奨した。

原文時數易臺諫,闡力言之,請增廣諫員。帝曰:「臺諫好名,如某人但欲得直聲而去。」闡曰:「唐德宗疑姜公輔為賣直,陸贄切諫,願陛下深以為鑒。」帝再三嘉獎。

金人が和を求め、帝は闡と議す。闡は言った。「彼が和を欲するは、我を畏るるか、我を愛するか。直に我を款ぶのみ。」六つの害を力陳し、許すべからざるを説く。帝は言った。「朕の意もまた然り。姑く宜に随ひて之に応ぜん。」帝は「売直」の語を記し、謂う。「胡銓もまた此に及べり。朕は諫を拒む者にあらず。是非を弁ずるのみ。」闡は言った。「聖度は天の如くあるべし。奈何ぞ臣下と名を争わんや。」帝は言った。「卿の言は是なり。」頃いて、工部尚書兼侍読を除す。

原文金人求和,帝與闡議,闡曰:「彼欲和,畏我耶?愛我耶?直款我耳。」力陳六害不可許。帝曰:「朕意亦然,姑隨宜應之。」帝記「賣直」之語,謂:「胡銓亦及此。朕非拒諫者,辨是非耳。」闡曰:「聖度當如天,奈何與臣下爭名。」帝曰:「卿言是也。」頃之,除工部尚書兼侍讀。

金の副元帥紇石烈志寧が書を以て通好を諭し、請うところ三事、国書・歳幣の議は既に定まるも、ただ唐・鄧・海・泗の割譲は未だ決せず。将に王之望・龍大淵を遣わして通問せんとす。而して衆言紛紛として已まず。闡は謂う。「四州を与えざれば和を通ずべし。議論先ず定まりて乃ち使を遣わすべし。今彼は客、我は主なり。我は仁義を以て天下を撫し、彼は残酷を以て吾が民を虐ぐ。金の勢の既に衰えたるを観る。何ぞ必ずしも先づ弱を示さんや。」朝論之を是とす。

原文金副元帥紇石烈志寧以書諭通好,所請三事,國書、歲幣之議已定,惟割唐、鄧、海、泗未決,將遣王之望、龍大淵通問,而眾言紛紛不已。闡謂:「不與四州乃可通和,議論先定乃可遣使,今彼為客,我為主,我以仁義撫天下,彼以殘酷虐吾民,觀金勢已衰,何必先示以弱。」朝論韙之。

帝は真宗の故事を用い、経筵官二員をして学士院に遞宿せしめ、顧問に備えしむ。闡の入対は特に数多し。屡疾を引きて骸骨を乞う。帝は其の去るを忍びず。二年、闡の請益々力あり。乃ち顕謨直学士・提挙太平興国宮を除す。陛辞に際し、帝の欲言する所を問う。闡は奏す。「和を許せば則ち祖宗の仇を忘れ、四州を棄つれば則ち中原の心を失い、帰正人を遣わせば則ち忠義の気を傷つく。惟うらくは陛下老臣平昔の言を忘れ給わざらんことを。」其の時事を指すこと特に諄切なり。帝の眷益々篤し。秋涼に復召すべしと諭し、金犀帯を加賜し、特許して魚袋を佩かしむ。家に居ること一月余りにして卒す。年七十四。特に端明殿学士を贈る。

原文帝用真宗故事,命經筵官二員遞宿學士院,以備顧問,闡入對尤數。屢引疾乞骸骨,帝不忍其去。二年,闡請益力,乃除顯謨直學士、提舉太平興國宮。陛辭,帝問所欲言,闡奏:「許和則忘祖宗之仇,棄四州則失中原之心,遣歸正人則傷忠義之氣。惟陛下毋忘老臣平昔之言。」其指時事尤諄切,帝眷益篤。諭以秋涼復召,加賜金犀帶,特許佩魚。居家逾月卒,年七十四。特贈端明殿學士。

朱熹嘗て言う。「秦檜は敵を挟みて君に要し、力を主として和議を唱う。群言勃勃として平らかならず。檜は既に忠臣義士の気を摧折し、遂に士大夫をして安を懐いて習い成さしむ。癸未の和議に至りては、則ち其の非なるを知る者鮮し。朝論間に建白あるも、率ね利害を雑言す。其の言に金人は世仇なり和すべからずとする者は、惟だ胡右史銓・張尚書闡のみ。」子に叔椿あり。

原文朱熹嘗言:「秦檜挾敵要君,力主和議,群言勃勃不平。檜既摧折忠臣義士之氣,遂使士大夫懷安成習。至癸未和議,則知其非者鮮矣。朝論間有建白,率雜言利害,其言金人世仇不可和者,惟胡右史銓、張尚書闡耳。」子叔椿。

洪擬

原文洪擬

洪擬、字は成季、一字は逸叟、鎮江丹陽の人。本姓は弘、其の先に璆と名乗る者あり、嘗て中書令となり、南唐の諱を避けて今の姓に改む。後にまた宣祖の廟諱を避く。遂に之に因る。

原文洪擬,字成季,一字逸叟,鎮江丹陽人。本弘姓,其先有名璆者,嘗為中書令,避南唐諱,改今姓。後復避宣祖廟諱。遂因之。

擬は進士甲科に登る。崇寧中、国子博士となり、出でて利州路学事を提挙し、尋いで福建路に改む。譴に坐し、鄆州通判となり、復た京西北路学事を提挙し、湖南・河北東路を歴任す。宣和中、監察御史となり、殿中に遷り、侍御史に進む。時に王黼・蔡京更に用事す。擬は中立して附会する所なし。殿中侍御史許景衡罷す。擬も亦坐して吏部に送られ、桂陽軍を知り、海州に改む。時に山東に盗賊起こり、屡城を攻む。擬は兵民を率いて堅く守る。

原文擬登進士甲科。崇寧中為國子博士,出提舉利州路學事,尋改福建路。坐譴,通判鄆州,復提舉京西北路學事,歷湖南、河北東路。宣和中,為監察御史,遷殿中,進侍御史。時王黼、蔡京更用事,擬中立無所附會。殿中侍御史許景衡罷,擬亦坐送吏部,知桂陽軍,改海州。時山東盜起,屢攻城,擬率兵民堅守。

建炎間、母憂に居り、秘書少監として召さるるも起たず。喪終わりて、起居郎・中書舎人となり、言う。「兵興累年、饋餉悉く民より出づ。屋無くして屋税を責め、丁無くして丁税を責む。不時の須、無名の斂、殆ど虚日無し。去りて盗となる所以なり。今関中の盗は急ぐべからず。宜しく以て之を弭する所以を求め、江西の盗は緩にすべからず。宜しく以て之を滅する所以を求むべし。夫れ財を豊かにする者は政事の本、而して用を節する者は又た財を豊かにするの本なり。」高宗越に如る。執政蹕を饒・信の間に移さんと議す。擬上疏して力争し、謂う「四通五達を捨てて偏方下邑に趨くは、形勢を示し守禦を固うするに足らず。」

原文建炎間,居母憂,以秘書少監召,不起。終喪,為起居郎、中書舍人,言:「兵興累年,饋餉悉出於民,無屋而責屋稅,無丁而責丁稅,不時之須,無名之斂,殆無虛日,所以去而為盜。今關中之盜不可急,宜求所以弭之,江西之盜不可緩,宜求所以滅之。夫豐財者政事之本,而節用者又豐財之本也。」高宗如越,執政議移蹕饒、信間,擬上疏力爭,謂「舍四通五達而趨偏方下邑,不足以示形勢、固守禦。」

給事中・吏部尚書に遷る。言者擬の未だ州県を歴せざるを以てす。龍図閣待制として温州を知る。宣撫使孟庾師を総べて閩寇を討ち、郡を過ぐ。擬趣して使をして赴援せしむ。庾怒り、擬に命じて師を犒わしむ。擬封椿の銭を借りて之を用い、已にして自ら劾す。賊平ぎ、秩一等を加えられ、礼部尚書として召され、吏部に遷る。

原文遷給事中、吏部尚書,言者以擬未嘗歷州縣,以龍圖閣待制知溫州。宣撫使孟庾總師討閩寇,過郡,擬趣使赴援。庾怒,命擬犒師。擬借封椿錢用之,已乃自劾。賊平,加秩一等,召為禮部尚書,遷吏部。

渡江後、法に現籍無く、吏は事に随い文を立て、「省記」と号す。出入自ら如し。是に至りて『七司敕令』を修し、擬を命じて之を総ぶ。旧法及び続降指揮を以て詳定し書を成し、上る。

原文渡江後,法無見籍,吏隨事立文,號為「省記」,出入自如。至是修《七司敕令》,命擬總之,以舊法及續降指揮詳定成書,上之。

金人再び淮を攻む。詔して日輪して侍従を都堂に赴かしめ、札を給して攻守の策を問う。擬言う。「国勢強ければ則ち戦い、将士勇なれば則ち戦い、財用足れば則ち戦い、我れ主となり彼れ客となれば則ち戦う。陛下蹕を東南に移し、前年会稽に幸し、今年臨安に幸す。興王の居、未だ定議無きは高祖こうその関中に在り、光武の河内に在るが如くに非ず。国勢を論ずれば、守を言うべく、未だ戦を言うべからず。」擬謂う、時相姑く戦を議して武を示すも、実は戦う能わざるなり。

原文金人再攻淮,詔日輪侍從赴都堂,給劄問以攻守之策。擬言:「國勢強則戰,將士勇則戰,財用足則戰,我為主、彼為客則戰。陛下移蹕東南,前年幸會稽,今年幸臨安,興王之居,未有定議非如高祖在關中、光武在河內也。以國勢論之,可言守,未可言戰。」擬謂時相姑議戰以示武,實不能戰也。

紹興三年、天候旱魃と地震により詔して群臣に事を言わしめしとき、洪擬は奏して曰く、「法を行ふに公ならば、則ち人楽しんで気和し、之を行ふに偏なれば、則ち人怨みて気乖く。試みに小事を以て之を論ずるに、比者監司・守臣の羨余を献ずれば則ち之を黜し、宣撫司の献ずれば則ち之を受く、是れ行法の疏遠にのみ及ぶなり。庶僚より侍従となる者有りて、臥家して職を視、未だ嘗て入謝せずして、遂に美職を得て去る。若し鼓院官の疾を移して朝謁を廃すれば、則ち之を斥罷す、是れ行法の冗賤にのみ及ぶなり。榷酤の立法甚だ厳にして、犯す者は家財を籍没して賞に充つ。大官勢臣は営を連ね障を列ね、公行して酤売すれども敢えて問はざる、是れ行法の孤弱にのみ及ぶなり。小事此の如し、推して之を極むれば、則ち怨多くして和気傷つく。」尋ち言者に以て罷められ、徽猷閣直学士・提挙江州太平観と為る。初め、洪擬の兄の子駕部郎官洪興祖が洪擬と共に封事を上りて在位者を侵せし故に、父子俱に罷めらる。起きて温州を知り、提挙亳州明道宮と為る。卒す、年七十五、諡して「文憲」と曰ふ。

原文紹興三年,以天旱地震詔群臣言事,擬奏曰:「法行公,則人樂而氣和;行之偏,則人怨而氣乖。試以小事論之:比者監司、守臣獻羨餘則黜之,宣撫司獻則受之,是行法止及疏遠也。有自庶僚為侍從者,臥家視職,未嘗入謝,遂得美職而去,若鼓院官移疾廢朝謁,則斥罷之,是行法止及冗賤也。榷酤立法甚嚴,犯者籍家財充賞,大官勢臣連營列障,公行酤賣則不敢問,是行法止及孤弱也。小事如此,推而極之,則怨多而和氣傷矣。」尋以言者罷為徽猷閣直學士、提舉江州太平觀。始,擬兄子駕部郎官興祖與擬上封事侵在位者,故父子俱罷。起知溫州,提舉亳州明道宮。卒,年七十五,諡「文憲」。

初め、洪擬は海州より還りて鎮江に居る。趙万の叛兵郡に逼り、守臣趙子崧戦ひ敗れ、遁れ去る。洪擬は母を挟み出でて避く、賊に遇ひ至り、兵を加へんと欲す。洪擬曰く、「死は避くる所無し、願くは老母を驚かす勿れ。」賊之を捨つ。他賊又至り、刃を以て臨む。洪擬其の母を指して曰く、「此れ吾が母なり、幸に之を怖しむる勿れ。」賊又捨て去る。『浄智先生集』及び『注杜甫詩』二十巻有り。

原文初,擬自海州還居鎮江。趙萬叛兵逼郡,守臣趙子崧戰敗,遁去。擬挾母出避,遇賊至,欲兵之,擬曰:「死無所避,願勿驚老母。」賊舍之。他賊又至,臨以刃,擬指其母曰:「此吾母也,幸勿怖之。」賊又舍去。有《淨智先生集》及《注杜甫詩》二十卷。

趙逵

原文趙逵

趙逵、字は莊叔、其の先は秦の人、八世の祖趙処栄蜀に徙り、資州に家す。趙逵は書を読みて数行俱に下り、尤も古書を聚むるを好み、歴代の興衰治乱の跡を考へ、当代の名人鉅公の出処大節と、根を窮め底を究め、尚ほ其の人を友とす。紹興二十年、類省して奏名し、明年に対策し、君臣父子の情を論じて甚だ切なり、第一に擢でらる。時に秦檜意に属する所有りしも、趙逵の対独り帝意に当たり、秦檜悦ばず。即ち知挙王曮を罷め、趙逵に左承事郎・簽書剣南東川を授く。帝嘗て秦檜に問ひ、趙逵何れにか在る。秦檜実を以て対ふ。久しくして帝又問ひ、校書郎を除す。趙逵単車にて闕に赴く、徴税者は秦檜の意を希ひ、行嚢を捜せば皆書籍にして、纔かに数金のみ。職に就きて後、未だ嘗て私謁せず、秦檜の意愈々恨む。

原文趙逵,字莊叔,其先秦人,八世祖處榮徙蜀,家於資州。逵讀書數行俱下,尤好聚古書,考歷代興衰治亂之跡,與當代名人鉅公出處大節,根窮底究,尚友其人。紹興二十年,類省奏名,明年對策,論君臣父子之情甚切,擢第一。時秦檜意有所屬,而逵對獨當帝意,檜不悅。即罷知舉王曮,授逵左承事郎、簽書劍南東川。帝嘗問檜,趙逵安在?檜以實對。久之,帝又問,除校書郎。逵單車赴闕,徵稅者希檜意,搜行橐皆書籍,才數金而已。既就職,未嘗私謁,檜意愈恨。

趙逵は御製『芝草詩』に賡ひ、「皇心未だ敢へて宴安を図る無し」の句有り。秦檜之を見て怒りて曰く、「趙逵猶ほ未だ太平ならずと為すか。」又た趙逵に謂ひて曰く、「館中の禄薄し、能く家を以て来らんか。」趙逵曰く、「親老いて険遠に渉ること能はず。」秦檜徐に曰く、「当に百金を以て助けんとす。」趙逵唯唯するのみ。又た親しき者を遣はして前言を申し、趙逵を諷して往きて謝せしめんとす。趙逵答えず、秦檜怒りを滋し、之を擠さんと欲すれども、未だ及ばずして死す。

原文逵賡御制《芝草詩》,有「皇心未敢宴安圖」之句,檜見之怒曰:「逵猶以為未太平耶?」又謂逵曰:「館中祿薄,能以家來乎?」逵曰:「親老不能涉險遠。」檜徐曰:「當以百金為助。」逵唯唯而已。又遣所親申前言,諷逵往謝,逵不答,檜滋怒,欲擠之,未及而死。

帝秦檜を臨哭して還り、即ち趙逵を著作佐郎兼権礼部員外郎に遷す。帝景霊宮に如く、秘省起居は惟だ趙逵一人のみ。帝屢たび趙逵を目し、即日命じて引見し殿上に上らしむ。帝迎へて謂ひて曰く、「卿知るか、始終皆朕自ら擢でしなり。卿登第の後、大臣の沮格に為り、久しく卿を見ず。秦檜日々に士を薦むれども、未だ一語も卿に及ばず、此を以て卿の権貴に附かざるを知る。真に天子の門生なり。」詔して普安郡王府教授を充てしむ。趙逵奏して曰く、「言路久しく通ぜず、乞ふらくは広く賜ひて開納し、微賤を以て間と為す勿れ、庶幾く敢言の気を養成せん。」帝嘉納す。普安府にて勸講戾太子の事に至り、王曰く、「此の時に於て、江充を斬り自ら武帝に帰るは、何如。」趙逵曰く、「此れ臣子の能くする所に非ず。」王の意蓋し在る所有り。

原文帝臨哭檜還,即遷逵著作佐郎兼權禮部員外郎。帝如景靈宮,秘省起居惟逵一人。帝屢目逵,即日命引見上殿,帝迎謂曰:「卿知之乎?始終皆朕自擢。自卿登第後,為大臣沮格,久不見卿。秦檜日薦士,未嘗一語及卿,以此知卿不附權貴,真天子門生也。」詔充普安郡王府教授。逵奏:「言路久不通,乞廣賜開納,勿以微賤為間,庶幾養成敢言之氣。」帝嘉納之。普安府勸講至戾太子事,王曰:「于斯時也,斬江充自歸於武帝,何如?」逵曰:「此非臣子所能。」王意蓋有所在也。

二十六年、著作郎に遷り、尋ち起居郎を除す。入謝す、帝又た曰く、「秦檜炎炎たり、附かざる者は惟だ卿一人のみ。」趙逵曰く、「臣古人の権姦に抗折するに效ふ能はず、但だ之と同ぜざるのみ。然れども宰相に事ふる礼も亦敢へて闕かず。」又た曰く、「陛下の爵禄を受けて権門に奔走するは、臣敢へて惟ふのみならず、亦た且つ忍びず。」明年、同知貢挙と為り、尽く公に考閲し、以て旧弊を革め、遂に王十朋・閻安中を得る。

原文二十六年,遷著作郎,尋除起居郎。入謝,帝又曰:「秦檜炎炎,不附者惟卿一人。」逵曰:「臣不能效古人抗折權姦,但不與之同爾,然所以事宰相禮亦不敢闕。」又曰:「受陛下爵祿而奔走權門,臣不惟不敢,亦且不忍。」明年同知貢舉,盡公考閱,以革舊弊,遂得王十朋、閻安中。

初め、趙逵未だ貢闈を出でざるに、蔣璨戸部侍郎を除せらる。給事中辛次膺は蔣璨の交結して進を希ふを以て、之を還す。帝怒り、辛次膺を罷め、趙逵に書を付して読ましむ。趙逵不可とす。蔣璨此を以て出でて蘇州を知り、辛次膺仍た次対を得、趙逵給事中を兼ぬ。未だ幾もなく、中書舎人を除す。登第六年にして外制に当る、南渡後未だ有らざるなり。帝王綸に語りて曰く、「趙逵純正にして用ふ可し、朕蜀士に於て未だ其の比を見ず。朕の所以に甫二歳にして此に令るは、其の権貴に附かざるを報ふるなり。」

原文始,逵未出貢闈,蔣璨除戶部侍郎,給事中辛次膺以璨交結希進,還之。帝怒,罷次膺,付逵書讀,逵不可,璨以此出知蘇州,次膺仍得次對,逵兼給事中。未幾,除中書舍人,登第六年而當外制,南渡後所未有也。帝語王綸曰:「趙逵純正可用,朕於蜀士未見其比。朕所以甫二歲令至此,報其不附權貴也。」

是に先立ち、趙逵嘗て杜莘老・唐文若・孫道夫を薦む、皆蜀の名士なり。是に至り詔を奉じて士を挙ぐるに、又た馮方・劉儀鳳・李石・郯次雲を以て詔に応ず。宰執以て聞す。帝曰く、「蜀人の道遠く、其の間の文学行義有用なる者は、論薦に因らざれば知る由無し。此に先んずる蜀中の宦遊者は多く隔絶し、一たび朝廷に至るを得ず、甚だ惜しむべし。」秦檜権を顓にしてより、深く蜀士を抑へし故に、帝語此に及ぶ。

原文先是,逵嘗薦杜莘老、唐文若、孫道夫皆蜀名士,至是奉詔舉士,又以馮方、劉儀鳳、李石、郯次雲應詔,宰執以聞。帝曰:「蜀人道遠,其間文學行義有用者,不因論薦無由得知。前此蜀中宦遊者多隔絕,不得一至朝廷,甚可惜也。」自檜顓權,深抑蜀士,故帝語及之。

趙逵疾を以て外を求め、帝国医王継先に命じて疾を視しむ。為す可からざるなり。卒す年四十一。帝之が為に涙を抆ひ歎息す。趙逵嘗て自ら謂ひて曰く、「司馬温公は非色に近づかず、非財を取らず。吾不肖なれども、庶幾く之を慕はん。」

原文逵以疾求外,帝命國醫王繼先視疾,不可為矣。卒年四十一。帝為之抆淚歎息。逵嘗自謂:「司馬溫公不近非色,不取非財,吾雖不肖,庶幾慕之。」

秦檜の権盛んなる時、秦檜に忤ふ者は固より趙逵一人に非ざるも、而して帝亟に趙逵の附麗せざるを称し、又た趙逵の文章蘇軾に似たりと謂ひ、故に「小東坡」と称す。未だ用ふるに及ばずして趙逵死す、其の論建の世に伝はらざるを惜しむ。『棲雲集』三十巻有り。

原文方檜權盛時,忤檜者固非止逵一人,而帝亟稱逵不附麗,又謂逵文章似蘇軾,故稱為「小東坡」,未及用而逵死,惜其論建不傳於世。有《棲雲集》三十卷。

論じて曰く、胡如圭は胡安国に師ひ、張居正は楊時に師ひ、潘敦復は程頤に師ひ、蕭振は陳瓘に交はる。其の師友の淵源自ら来る有り。故に其の議論讜直、剛厳鯁峭、異説に惑はず、強禦を畏れず、大略相似たり。若し夫れ張居正の王氏『三経』の繆を辨し、王亀年の首めて秦檜の主和の非を劾し、程瑀の力めて蔡京の党を排せしは、尤も名教に功有るなり。張闡の事を論ずるに避くる無く、洪擬の朴実端亮、趙逵の純正善文、皆一時の良にして、秦檜に忌まれしも撓がざる者なり。語に曰く、「歳寒く然る後に松柏の後に凋むるを知る。」信なるかな。

原文論曰:如圭師于安國,居正師于楊時,敦復師于程頤,表臣交于陳瓘,其師友淵源有自來矣。故其議論讜直,剛嚴鯁峭,不惑異說,不畏強禦,大略相似。若夫居正辨王氏《三經》之繆,龜年首劾秦檜主和之非,程瑀力排蔡京之黨,尤為有功於名教。張闡論事無避,洪擬樸實端亮,趙逵純正善文,皆一時之良,為檜所忌而不撓者。語曰:「歲寒然後知松柏之後凋。」信哉!