范如圭
范如圭、字は伯達、建州建陽の人である。幼くして舅の胡安國に従い『春秋』を受けた。進士に及第し、左從事郎・武安軍節度推官に授けられた。着任早々、帥が人を斬らんとしたが、如圭はその誤りを申し述べた。帥は既に署名したので改められぬとした。如圭は厳しい顔色で言った、「節下はどうして一字を改めることを重んじ、数人の命を軽んじられるのか」。帥は驚いてこれに従った。これより府中の事は大小となく皆彼に諮問した。数ヶ月在職し、憂(父母の喪)のため去った。江東安撫司書寫機宜文字に召し出された。近臣が相次いで推薦し、召されて秘書省正字を試みられ、校書郎兼史館校勘に遷った。
秦檜が和議を強く主張し、金の使者が来たが、宿泊する館がなく、秘書省を空けて彼らを処遇しようとした。如圭は急ぎ宰相趙鼎に会い、「秘府は訓戒の書が蔵されている所、仇敵をそこに住まわせることができようか」と言った。鼎は恐れ入って館を改めた。やがて金使は傲慢に至り、その要求は多く従いがたく、朝廷内外は憤り鬱屈した。如圭は同省の十余人と合議し、共に上疏して争うこととし、草稿が整うと、恐れおののいて退く者が多かった。如圭はただ一人、書を以て檜を責め、学を曲げ師に背き、仇を忘れ国を辱める罪を挙げ、かつ言った、「公が喪心狂病でなければ、どうしてこのようなことをするのか、必ずや末代まで臭いを遺すであろう」。檜は怒った。草奏を史官六人と共に上奏した。
金が河南の地を帰還させると、檜は自ら功績としていた。如圭が輪対し、言った、「両京の版図が既に入ったならば、九廟・八陵は目前に望むところ、今朝に修復の使を未だ遣わさず、どうして神霊を慰め、民志を集められようか」。帝は涙ぐんで言った、「卿でなければこの言葉は聞けなかった」。即日に宗室の士㒟と張燾を行かせることを命じた。檜は自分に先に告げなかったことを怒りを増した。
如圭は謁告して去り、柩を奉じて故郷に葬った。葬った後、主管台州崇道観に差された。門を閉じて十余年、起用されて邵州通判となり、また荊南府通判となった。荊南は旧来戸口数十万であったが、寇乱の後は再び人跡がなく、当時口銭を免除して民を安集したが、百分の一、二も回復していなかった。議する者が檜の意を迎え、急に流亡の民が次第に回復しているとしてこれを増やし、滞納が二十余万緡積もり、その他の負債も数十万に上り、版曹は日々文書を下して償還を責めて甚だ急であった。如圭は帥に申し述べ、悉く上奏して免除させた。
檜が死ぬと、旨を受けて入朝し対面し、言った、「治をなすには人を知ることを先とし、人を知るには心を清くし欲を寡なくすることを本とする」。言葉は甚だ切実であった。また論じて、「東南の子を挙げぬ風俗は、人理を傷つけ絶やすものである。漢の『胎養令』を挙行してこれを全活させよ、また勾践が生聚して呉に報いた意でもある」。帝はその言葉を良しとした。また奏上した、「今の屯田の法は、歳の獲るところを、官が悉く徴収する。そして田卒には衣糧を賜う食は旧の如くである。力を尽くして耕作する者に贏余の望みを絶ち、惰農の者に飢餓の憂い無からしめ、小利に貪り、大計を失い、近効を謀り、遠図を妨げる。故に久しく成功がない。宜しく荊・淮の曠土を籍没し、丘井に画し、古の助法に倣い、別に科条を為し、政役の法とせよ。然らば農利修まり武備整うであろう」。
直秘閣提挙江西常平茶監に以て、利州路提点刑獄に移り、病を以て祠官を請うた。時に宗藩を並び建てたが、儲位が定まらず、巷間ひそかに異言があった。如圭は遠方にありながら、ただ深くこれを憂い、至和・嘉祐の間の名臣の奏章三十六篇を掇拾し、一書に合せ、袋に入れて封じ献上し、群言を深く考察し、成憲を仰ぎ師とし、至公を以て断じ疑うことなからんことを請うた。或る者が越職を以て危ぶんだが、如圭は言った、「これで罪を得ても、何の憾みかあろう」。帝は感ずるところあり、輔臣に謂って言った、「如圭は忠であると言えよう」。即日に詔を下し普安郡王を皇子とし、建王に進封させた。再び如圭を起用して泉州知事とした。
南外宗官が郡中に寄寓して治め、勢いに乗じて暴虐をなし、禁兵を占めて役使すること百数を数えた。如圭は法義を以てこれを正した。宗官は大いに沮喪し恨み、密かに讒言して如圭を去らせようとし、遂に中旨を以て罷免させられたが、祠官を領するは旧の如くであった。邵武に家を借りて住んだ。士大夫はこれを尊び、学者多く彼に従い質疑した。卒年五十九。
如圭は忠孝誠実、天より得たものである。その学は経術に根ざし、無用の文を為さなかった。草した屯田の条目数千言は、未だ上るに及ばず、張浚が師を視察した日、その家に取りに行かせるよう奏上したが、浚が罷免され、また果たして行われなかった。集十巻あり、皆書疏議論の語であり、家に蔵した。子に念祖・念德・念茲。
呉表臣
高宗が台諫に大利害を条陳するよう詔すると、表臣は上流を措置して形勢を張り、淮甸を安輯して藩蔽を立て、民兵を選んで険阻を守らせ、海舶を集めて不虞に備えることを請うた。その策は多く用いられた。帝が儒術に向かい始めると、表臣は講官を選んで聖徳を補うこと、かつ古今の成敗・民物の情偽・辺防の利害を詳しく熟し講究することを請うた。これにより経筵開講の詔が下った。近臣に蔡京・王黼の党を用いようとする者がいた。侍御史沈與求が明らかにその人を指し、顕に罷免責罰するよう請うた。執政は悦ばず、その言職を奪った。表臣が争って言った、「台諫は天子の耳目、これをもって壅蔽を防ぎ姦邪を杜ぐものである。もしその切直を咎めて罷免するならば、後誰か敢えて言う者があろうか、国家の福ではない。與求を還して言路を開くことを請う」。
時に防秋のため、守辺の者を選ぶことを議し、人材の乏しさを患えた。表臣は言った、「唐の蕭復が徳宗に言った、陳少游は将相の任を兼ねながら、真っ先に臣節を敗り、韋皐は幕府の下僚ながら、ただ一人忠義を建てた。皐を以て少遊に代えて淮南を鎮守させよ。善悪が明らかになれば、天下は逆順の理を知る。初めから皐の名が賤しく官が卑しいことを疑わなかった。今、忠義不屈で既に試みられた験のある者を取り、次を問わず用いれば、ただ勧めることができるのみならず、捍禦の方略もまた倚仗に堪えるであろう」。ここにおいて陳敏等十数人が次第に録用された。久しくして、病を以て外補を請い、直秘閣を以て信州知事となった。
宰相、表臣を擬して検正とせんとす。帝曰く、「朕将に自ら之を用いんとす。」遂に左司諫を除す。給事中胡安国、事を論じて合わずして罷まる。表臣上疏して之を留めんとす。前宰相朱勝非、都督江淮軍馬に同ぜず。表臣力言して都督は罷むべからずとす。侍読を除し、又累疏して之を争うも、聴かず、遂に罷む。表臣、吏部に送らる。台州黄岩丞を授け、尋いで提点浙西刑獄を除し、召されて秘書少監と為り、同修『哲宗実録』す。
帝建康に如く。詔して表臣に留司参議官を兼ねしめ、中書舎人・給事中・兵部侍郎を除す。建・崇二国公、外傅に就く。翊善を兼ぬ。帝曰く、「二国公誦習甚だ進めり、卿の力なり。」礼部侍郎に徙り、吏部尚書兼翰林学士に遷る。時に秦檜、使をして金に使いせしめて地界を議せんと欲し、政事堂を指して曰く、「帰来れば此に坐すべし。」表臣答えず。又大礼を議して意に忤い、罷めて去る。
俄に起きて婺州を知る。会に大水有り、常平米を発して之に振貸し、然る後に以て聞く。郡人之を徳とす。課最なり、敷文閣待制を除す。三歳にして祠を請い、直学士に進み、江州太平興国宮を提挙す。家居すること数年、卒す。年六十七。
表臣、晩号「湛然居士」とす。自ら奉ずるに布衣の時に異ならず、郷論其の清約を推す。
王居正
王居正、字は剛中、揚州の人。少しく学を嗜み、文辞に工なり。太学に入る。時に『新経』・『字説』を習う者、主司輒ち高選に置く。居正人に語りて曰く、「窮達自ら時にあり、心の是非、改むべけんや。」流落すること十余年、司業黄齊其の文を得て曰く、「王佐の才なり。」及び同知貢挙、首に擢でんと欲し、以て多士を風せんとす。他の考官之を持し、次選に置く。饒州安仁丞・荊州教授に調すも、皆赴かず。大名・鎮江両帥交えて教授府学に辟すも、亦就かず。
范宗尹朝に薦む。召し至る。宗尹に謂ひて曰く、「時危きこと此の如し、公極めて所学を用ひ、元元を塗炭の中より抜かずして、尚誰をか待たん。居正寇を避けて陽羨の山間にあり、勉ひて出でて公に見え、一道此の意のみ。」宗尹愧謝す。入対し、奏して曰く、「昔人有云ふ、『君以て難と為せば、易将に至らん。』今日の事、朝廷皆難と曰へば、則ち当に易為の理有るべし。然るに国勢日弱く、敵気日驕る、何ぞや。蓋し昔人は難なる者を勉強して之を為し、今は難と為して、復た為す所あることなく、以て天意の自ら回り、強敵の自ら斃るるを俟つなり。宣和末、難と為す者十五六、靖康と宣和と孰れか難なる。靖康末、難と為す者十八九、建炎と靖康と孰れか難なる。此に由りて言へば、今日雖も前日に難しとす、安んぞ他日今日に難しからざるを知らんや。蓋し宣和以て難と為せば、故に靖康の禍有り。靖康以て難と為せば、故に今日の憂有り。今にして亦云ふ、臣聞くに忍びざる所有り。」高宗之を嘉し、宗尹に諭して曰く、「王居正の如き人才、歳月の間に一人を得るも亦幸ひなり。」
太常博士を除し、礼部員外郎に遷る。議して天地を明堂に合祭し、請ふて太祖・太宗を奉じて配せんとす。宗尹之を是とし、議遂に定まり、天地復た合祭す。侍御史沈与求、宗尹を劾し、因りて居正に及ぶ。宗尹去り、居正補外を乞ふも、許さず。撫州守高衛言ふ、甘露州の祥符観に降る、と。図を為して献ず。居正論じて、今日恐らくは天祥瑞を降すの時に非ずとし、其の図を却く。
居正素より秦檜と善し。檜執政と為り、居正と天下の事を論ずること甚だ鋭し。既に相と為り、言ふ所皆酬はれず。居正其の詭を疾み、帝に見えて言ひて曰く、「秦檜嘗て臣に語りて曰く、『中国人惟だ衣を著け飯を啖ひ、共に中興を図るべし。』と。臣心に其の言を服す。又自ら謂ひて曰く、『檜をして相と為らしむること数月なば、必ず天下を聳動せしめん。』と。今相と為り施設するは止く是のみ。願くは陛下臣の聞く所を以て檜に問はしめよ。」檜之を銜み、居正を出して婺州を知らしむ。州羅を貢す。旧制歳万匹、崇寧後五倍を増す。建炎中二万に減ず。是に至り、主計者崇寧の数に復せんことを請ふ。居正力めて朝に言ふ。戸部督趣愈峻し。居正檄を置きて行はず、其の属に語りて曰く、「吾身を坐するを願ひ、以て諸君を累はさず。」吏を呼び文書を為して之に付し、曰く、「即ち譴有らば、此を以て自ら解せよ。」復た手疏「五不可」を以て聞す。詔して建炎中の数に如くす。漕司御炭を市ふ。胡桃文・鵓鴿色を須ふ。居正曰く、「民炭を以て自ら業と為す者、率山谷に居る。安んぞ所謂胡桃文・鵓鴿色を知らんや。」朝に入りて以て聞す。詔して之を止む。
召されて太常少卿と為り、起居舎人兼権中書舎人・史館修撰に遷る。帝将に趙令峸を大中大夫に遷せんと欲す。居正奏して曰く、「官は侍従に非ざれば転ずべからず。此れ祖宗の法なり。若し令峸を以て庶官にて遷するを得しめば、則ち宗室承宣を為す者、踵を旋らさずして節度を求めん。何を以て之を却かん。」遂に其の命を寝す。上書人陳東・歐陽澈已に官を贈らる。居正黄潜善・汪伯彦を重く貶し、以て二子の身を殺して仁を成すの美を彰はさんことを乞ふ。大将張俊卒を遣はして彭沢に至らしむ。卒故に県吏、俊の勢を怙りて令を侵辱す。令郭彦恭之を械す。俊朝に訴ふ。帝為に彦恭を罷む。居正言ふ、「彦恭強禦を畏れず、罪す可き無し。」俊又徭役を免ぜんことを乞ふ。居正言ふ、「兵興以来、士大夫及び勳戚家の賦役編戸と均し。蓋し貴賤上下をして、共に国事を済はしめ、以て民力を寛かにせんと欲するなり。俊反って此を体すること能はざるか。」和州進奉大礼絹を蠲免せんことを請ふ。居正言ふ、「大礼進奉は、乃ち臣子の上を享くるの誠なり。初め朝廷の百姓より取るの物に非ず。若し民力の従ひて出づる所無きを察し、能く預め旨を降して之を蠲免せず、至て州県をして自ら陳ぜしむるは、已に非是と為す。願くは速やかに請ふ所の如くせよ。」除目に中より出づる者有り。居正奏して曰く、「近習の請託、進擬朝廷より自らせず。係る所軽からず。」因りて皇佑の詔書を録して以て進む。帝皆嘉納す。
兼ねて権直学士院を務め、また兵部侍郎に任ぜられた。入朝して対し、論じた王安石父子の言で道に合わないものを集めて四十二篇を得、名づけて『辨學』とし、上進した。また言うには、「陛下が安石の学を憎まれるのは、聖心において灼然と見られ、その弊害がどこにあるか」と。帝は言った、「安石の学は、伯道を交え、商鞅の富国強兵を倣おうとした。今日の禍は、人々はただ蔡京・王黼の罪を知るのみで、安石に生じたことを知らない」。居正は言った、「安石が万世に罪を得るのはこれに止まりません」。そこで安石が経を解釈して父無く君無きものとすることを述べた。帝は顔色を変えて言った、「これは名教を害さぬということがあろうか。孟子のいわゆる邪説とは、まさにこれをいうのである」。居正は退き、帝の言葉を序して『辨學』の冒頭に付した。
起用されて温州の知州となった。この時秦檜が国政を専断し、居正は自らが容れられぬと知り、眼病を理由に祠官を請い、門を閉ざし、時事に言及せず、客が来れば経・史を談論するのみであった。檜は終にこれを忌み、中丞何鑄に唆して居正が趙鼎に引き立てられ、世を欺き名を盗むと弾劾させ、職を奪って祠官とし、凡そ十年。檜が死ぬと、元の職に復した。紹興二十一年に卒す。年六十五。
居正は風貌豊偉で、声音は洪亮であった。俸禄は兄弟宗族に分け与え、留めるものはなかった。郊祀の恩典で弟の居厚を任じ、卒する時、末子はなお布衣であった。その学は『六経』に根拠し、楊時はこれを器として、著わした『三経義辨』を示して居正に言った、「私はその端緒を挙げた。子よ、私の志を成せ」。居正は感奮し、首尾十年をかけて『書辨學』十三巻、『詩辨學』二十巻、『周礼辨學』五巻、『辨學外集』一巻を為した。居正がその書七巻を進めた後、楊時の『三経義辨』も秘府に列せられ、二書が既に行われると、天下は遂に王氏の学を言わなくなった。
晏敦復
晏敦復、字は景初、丞相晏殊の曾孫。少く程頤に学び、頤はこれを奇とした。進士に及第し、御史台検法官となった。紹興初め、大臣の推薦により、館職に召し試みられたが、就かず。特命で祠部郎官とされ、吏部に遷ったが、法を守って呂頤浩に逆らい、出でて貴渓県の知県となった。時に敦復の事を弁護する者がおり、臨江軍の通判に改められ、召されて吏部郎官・左司諫・権給事中となり、中書門下省検正諸房公事を務めた。
淮西宣撫使劉光世が淮東の私田を以て淮西の田と交換することを請い、帝はこれを許した。敦復が言うには、「光世は一道を帥とし、朝廷のために毫髪も措置したと聞かず、先ず私畝を交換する。近ごろ岳飛の属官が私事を以て朝廷に干渉し、飛は罪を加えるよう請い、中外が称美し、古の賢将の風有りと謂う。光世自らの処し方は必ずや飛の下に在らぬであろう。臣の言を以て光世に示し、且つ淮南を経理し、百姓を収撫して、定都建康の計と為し、中興の期有らしめよ。何ぞ私計の未だ便ならざるを患えん」。権吏部侍郎兼詳定一司勅令となった。
渡江後、諸事草創で、凡そ四選の格法を多く裁定した。敦復は素より剛厳で、吏部に居り、請謁を行わず、銓綜は平允であり、給事中に任ぜられた。冬至の節、旨が礼部に下り、度牒四百を取って賜与に充てた。敦復が奏上して言うには、「兵興して費用広く、凡そ用度を助け得るものは特に惜しむべし。況んや両宮遠方に在り、陛下この令節に当たり、一觴を奉って万歳の寿を為さんと欲するも得ず。有司乃ち平時の例を挙げて慶賜を行わんと欲するか」。遂に止んだ。ある卒が宣帖を失い、中旨を得て証拠を与えられ、太医の呉球が旨を得て試験を免ぜられた。敦復が奏上して言うには、「一卒の微なるものに至りてすら、聖聴を瀆すに上り、医官の免試は皆成法を壊す。崇寧・大観以来、奸人の欺罔、事に臨んで旨を取り、これを『暗嬴指揮』と謂い、紀綱敗壊し、危乱に馴致した。正に前の弊を蹈み、長ずべからず」。汪伯彦の子召嗣が江西監司に任ぜられた。敦復が論じて言うには、「伯彦は奸庸にして国を誤る。その子は素より才望無く、澄淸の任に難し」。袁州知州に改められた。また奏上して言うには、「召嗣は監司と為すべからざるのみならず、守臣と為すことも不可である」。右省に両月居り、論駁すること凡そ二十四事、議者はこれを憚った。再び吏部侍郎となった。
彗星が現れ、詔して直言を求めた。敦復が奏上して言うには、「昔、康澄が『賢士蔵匿し、四民業を遷し、上下相徇い、廉恥の道消え、毀誉真を乱し、直言聞こえず』を以て深く畏るべしと為す。臣嘗てその言に即いて已然の事を考うるに、多くは左右近習及び奸邪の巧佞を以て人主の意を転移するに本づく。その直を悪み正を醜くするは、則ち能く賢士を蔵匿せしめ、その事端を造為するは、則ち能く四民に業を遷さしめ、その委曲彌縫するは、則ち能く上下を相徇わしめ、その寵を仮り権を窃み、流俗に簧鼓するは、則ち能く廉恥の道を消さしめ、その人の功罪を誣うるは、則ち能く毀誉をして真を乱さしめ、その聰明を壅蔽するは、則ち能く直言を聞こえざらしむ。臣は微を防ぎ漸を杜ぎ、以て天に応ずるの実を助けんことを願う」。また論じて言うには、「比来、百司は肯て責を任ぜず、瑣屑なこと皆朝省に取決し、事に当らざるもの、上って天聴を煩わす者は、例多く旨を取る。これにより宰執の治むる煩雑、有司に減ぜず、天子の聴覧、毎に細務に及び、政を為す所以に非ず。願わくはその大なるものを詳かにし、その細なるものを略せよ」。
八年、金が使いを遣わして来たり、難行の礼を以て要し、詔して侍従・台諫に条奏すべき所宜をさせた。敦復が言うには、「金は両度使いを遣わし、直ちに講和を許す。我を畏れて然るに非ず、どうして我を誘うに非ざるを知らん。且つこれを己を屈すると謂えば、則ち一事既に屈すれば、必ず他事を以て来たりて我を屈せしめん。今遣わす使は詔諭を名とす。もし陛下に服を易え拜受せしめ、又廷を分けて抗礼せんと欲すれば、尚従うべけんや。苟くもその一二に従えば、則ち此後我を号令し、小に違異有れば、即ち釁端と成り、社稷の存亡、皆その掌握に在り」。時に秦檜方に力を以て己を屈するの説を賛し、外議群れ起こり、計既に定まりながら未だ敢えて行わず。勾龍如淵が檜に説き、宜しく人を択び台官と為し、異論を撃ち去らしめば、則ち事遂げられんと。ここにおいて如淵・施廷臣・莫将皆要地に拠り、人皆愕然とした。敦復は尚書張燾と共に上疏して言うには、「前日如淵は和議に附会して中丞を得、今施廷臣又これを以て横榻に躋り、衆論沸騰し、方に切歯す。莫将又これを以て右史に擢ぜらる。夫れ如淵・廷臣は庸人、ただ観望するを知るのみ。将は則ち奸人なり。陛下奈何ぞ此の輩と国論を断たんとするか。乞うらくは斥逐を加え、群枉の門を杜ぎ、力を自治自強の策に為せ」。既に又燾らと同班入対し、争った。檜は親しい者をして敦復に諭させて言わしめた、「公能く曲からば、両地旦夕に至るべし」。敦復は言った、「吾は終に身の計を為して国家を誤らじ。況んや吾が薑桂の性、老いて愈々辣し。請う、言う勿れ」。檜遂に屈せしむること能わず。
胡銓が昭州に流罪となると、臨安は人を遣わして枷をはめて流刑地へ護送させた。敦復は守臣の張澄のもとへ赴き会見して言った、「胡銓が宰相を論じたことは天下周知である。祖宗の時代には言事によって流罪となった者に対し、開封の長官がかくの如く扱うことはなかった」と。張澄は恥じて謝罪し、追いかけて連れ戻させた。初め秦檜が宰相に任ぜられた時、任命の詔が下ると、朝士は互いに祝賀したが、敦復のみ憂色を帯びて言った、「奸人が宰相となった」と。張致遠と魏矼がこれを聞き、皆その言葉を過激であると考えた。この度胡銓が流罪となると、敦復は人に言った、「かつて秦檜の奸を言ったが、諸君は然りとしなかった。今や国政を専断するや、早くもこのように敢えてする。将来、どこまで及ばないことがあろうか」と。
権吏部尚書兼江淮等路経制使となった。故事によれば、侍従が宰相の閣を過ぎるとき、退出した後、宰相は必ず数歩送るものであった。敦復は秦檜が送ったことがないのを見て、常に言った、「人は必ず自ら侮る所があって、後に人これを侮るのである」と。まもなく外任を請い、宝文閣直学士として衢州の知州となり、後に亳州明道宮の提挙となった。閑居すること数年で卒去した。享年七十一。
敦復は静かで沈黙しており、言葉ができないかのようであったが、朝廷に立って事を論ずるに避けるところがなかった。帝はかつて彼に言われた、「卿は鯁直で敢えて言い、爾が祖に辱じないと言えよう」と。
黄亀年
黄亀年、字は徳邵、福州永福県の人である。崇寧五年の進士に及第し、洺州司理参軍に任ぜられ、累官して河北西路提挙学士となった。呂頤浩が彼を見て奇異とし、朝廷に入れて太常博士とした。
殿中侍御史に遷った。時に辺境からの報告で王倫が帰って来ると聞き、黄亀年は秦檜が専ら和議を主張し、恢復を沮止し、党を植え権を専らにし、漸くして長ずべからざることを弾劾した。そこで上書して言った、「臣は聞く、一言にして君に事える道を尽くすを忠と為し、罪は君を欺くより大なるは莫し。一言にして政を輔ける道を尽くすを公と為し、罪は己を私するより大なるは莫し。臣たる者が公に背き私に従えば、刑賞は僭り濫る。人主がその奸を照らすことを慮れば、党を合わし交を締め、互いに比周し、主の聴を熒惑す。故に下に附き上を罔くするの党盛んにして、威福の柄下に移り、禍いは言うに勝えざる者有り。伏して秦檜が金国より還りしを見るに、陛下は驟に任用し、一年ならずして超えて宰輔に至らしめられた。乃ち国家を顧みず、威福を己に盗み、永く言路を塞がんと欲す」と。上書が上ると、秦檜は罷免され、併せて秦檜の党与である王㬇・王昞・王守道を弾劾し、皆これを罷免させた。秦檜はそこで観文殿大学士・提挙江州太平観を授けられ、官はもとの如くであった。黄亀年はまた奏上した、「近ごろ秦檜が私に従い君を欺くを論じ、合わすべきは典刑を正し、諸れを裔土に投じ、以て魑魅を禦ぐべし。今乃ち任便居住を許すは、陛下が大臣の礼を曲げて全うせられると雖も、秦檜の奸状暴露し、復た儒学最上の職名を以て寵し、優遊して琳館に俾え、その自如を聴く。律を以て群盗を断ずれば、必ず首従を分かち、その従たる者は皆既に誅に伏す。独り渠魁を置くは可ならんや」と。また言った、「臣は聞く、恩は父子に隆なること莫く、義は君臣に重きこと莫し。義ならざれば則ちその君を後ろにし、仁ならざれば則ちその親を遺す。君親すら然り、則ち何をか忌憚して為さざらん。秦檜は貌厚く情深く、言を矯い行いを偽り、進んでは君臣の勢いに迫り、陽に面従を為し、退いては朋比の奸を恃み、陰に謀りて沮格す。上は陛下を畏れず、中は大臣を畏れず、下は天下の議を畏れず、忌憚無きことかくの如し。君を欺き己を私するは、一つ有ればすなわち罷免すべきなり。況んや秦檜の欺きと私すること顕著なるもの多きにおいてをや」と。上奏文は凡そ三度上り、遂に秦檜の職を褫った。さらに上章して言った、「秦檜は行い詭にして言譎り、外は縮みて中は邪なり。巧詐を以て相位を取り、奸回として国柄を窃み、険佞を収め召し、党与を蟠結す。陛下は智を以て臨みて之を弁ずること早く、剛を以て決して之を去ること速かなり。故に端人正士、手を挙げて相慶し、蓋し天下の悪を同じくするを公にするに在り。臣願わくは陛下、明詔を発し、秦檜の潜慝隠悪を天下に暴白し、以て陛下が数たび相位を易えられたるは真に已むを得ざるに由ることを知らしめ、また以て臣たる者の奸胆を破り、庶幾くは朋比の風復た作らざらんことを」と。太常少卿に任ぜられ、累遷して起居舎人・中書舎人兼給事中となった。
侍御史常同が、黄亀年が陰に大臣と結び、身を要地に致し、また諸将と交結し、趣操正しからずと上言したため、罷免されて帰郷した。司諫詹大方が秦檜の意を迎え、黄亀年が匪人に附麗し、縉紳の歯すべきところにあらずと弾劾し、落職して本貫居住となった。卒去、六十三歳。
黄亀年が微賤の時、永福の主簿李朝旌が彼を奇異とし、娘を妻とすることを許した。黄亀年が進士に及第した時には、李朝旌は既に死去しており、家は甚だ貧しかった。ある者が黄亀年に別に娶るよう勧めたが、黄亀年は正色して言った、「私は諾を以て許した。死して之に背くは、何を以て自立せん」と。遂に娶った。任子の恩典に際しては、先ずその弟の子を奏薦した。人皆これを義とした。子の黄衡は、官は湖南提挙に至った。
程瑀
金人が侵入し、使える者を求めた。程瑀は行くことを請うた。未だ出発せず、欽宗が即位し、三鎮を割譲することを議し、程瑀を河東に、秦檜を河中に遣わすことを命じた。程瑀は奏上した、「臣は使節を奉ずることを願い、地を割くことを願わず」と。返答無し。中山に至ると、諸将は既に密諭を得ており、城を守って下さなかった。程瑀は金使の王汭と共に燕山に至った。還ると、左正言に任ぜられ、即座に言った、股肱の大臣は身を以て天下の事を任せんとする者無し、と。また論じて、「祖宗を慕い追い及ぼさんと欲するも術無く、奄宦を斥けんと欲するも寵任益々堅く、奸悪を鋤かんと欲するも薄く典刑を示すのみ、濫繆を汰せんと欲するも苟くも僥倖を容る。兼聴して其の言を行えず、委任して其の効を責めず、苟且の習い復た成り、党与の私浸く広がる。最も時の病の大なる者なり」と。帝は言われた、「朕は此れを知らざるに非ず。慮い未だ尽きざるを憂え、決意して之を行えば失い有らんとす」と。程瑀は言った、「事は固より熟慮すべきなり。然れども優柔断ぜざれば、実に事功を隳す」と。帝が問われた、「李綱が両路を宣撫するは、外議は何と謂うか」と。程瑀は言った、「僉論は固より宜しと為す。然れども李綱は前に大臣と議論合わず、須らく聖明の其の心を照察し、疑い無く之を任ずるを頼むべきなり」と。
金の首長の斡離不と粘罕が功を争い、故に斡離不は和を欲し、粘罕は戦を欲した。朝廷は人を遣わして蠟書を齎し余睹と約したが、皆粘罕に得られた。程瑀は因って言った、「金兵は我が重鎮を囲み、数月解く能わず。豈に塞を出て人の国を謀ることを共にせんや。使者を遣わして和を議するに若かず。然れども謹んで辺備を飭い、徐ろに其の変を観るべし」と。使者は未だ行かず。程瑀はまた言った、「徐処仁は庸俗、呉敏は昏懦、唐恪は傾険なり。政事の振わざる所以は此れに在り。尽く黜免し、別に英賢を選び、共に大計を図らんことを請う」と。帝は嘉納された。
時に御史李光が星変を言上し、帝は疑って瑀に問うと、対えて言うには、「陛下は有無を問うことなかれ、ただ事を正し徳を修められれば、則ち変異は消すべし」と。瑀は嘗て蔡京の罪を論じ、帝は因って呉敏が京を庇うことを言い、また光が京に与することを疑い、瑀に謂うには、「卿の文字を作るを須つ」と。瑀は辞す。屯田郎官に改め、瑀を漳州塩税監に謫す。
高宗即位し、召して司封員外郎と為し、光禄少卿・国子司業に遷る。祠を請い、亳州明道宮を主管す。尋いで行在に赴くを召し、十事を疏して以て献ず。直秘閣・提点江東刑獄を除し、召して太常少卿と為し、給事中兼侍講に遷る。
修政局を建つ、その目は省費裕国・強兵息民と曰う。瑀は十四事を条上し、皆時務に切る。時に三衙は単弱にし、五軍は多く盗より出づ。瑀言う、「李捧・崔増の輩は各其の徒を将い、張俊・王𤫉は本より兵機無し。今呂頤浩出征すれば、即ち捧・増の輩便ち使うべくして戎行に隷せしむ」と。帝因りて言う、「頤浩は軍事に熟し、外に在りて諸将を総ぶ。檜は朝廷に在り、庶幾く内外相応ぜん。然れども檜は誠実なり、但だ太だ執るのみ」と。瑀曰く、「機警にして能く旨に順う者を求むるが如きは、極めて難しからず、但だ誠実ならざれば、則ち終に倚るべからず」と。帝之を然りとす。
権邦彦を除して簽書枢密院と為す。瑀は邦彦の五罪を言い、疏三たび上るも、報いず。罷めんことを求め、兵部侍郎を除すも拝せず、敷文閣待制を以て信州を知る。侍御史江公躕・左司諫方公孟、瑀の去るべからざるを言い、復た以て給事中と為す。久しくして、復た命じて信州を知らしむ。胡安国・劉一止言う、「瑀は忠信以て献納に備え、正直以て風憲を司どるべし、去るべからず」と。遂に復た留まる。頤浩は席益を薦む、既に旨を得て、御批を以て後省官に示す。瑀曰く、「益が人公豈知らざらんや、何ぞ必ず用いん」と。頤浩曰く、「給事御批を見ざるか」と。瑀曰く、「已に見たり。公能く執奏せず、乃ち先ず瑀輩に示し、敢えて論駁せざらしめんと欲するか。然れども益の来るは、公の福ならず」と。頤浩赧然たり、即ち益を劾す。未だ幾ばくもせず、言者を以て罷め、亳州明道宮を提挙し、尋いで徽猷閣待制・撫州知州を復し、間も無く、江州太平興国宮を提挙す。
父母の喪に居り、服除き、厳州を知り、宣州に徙り、復た祠を奉ず。俄に行在に赴くを召し、兵部侍郎兼侍読を除す。因りて論ず、「鄧禹嘗て言う『興衰は徳の厚薄に在り、初め大小を論ぜず』と。光武数年にして大業を定めず、禹の言符契の如く合う。今英俊朝に満つ、豈陛下が為に至計を画する者無からんや、願わくは志を厲ますのみ」と。尋いで翊善に遷る。論ず、「金人の侵入、未だ嘗て一大衄せず、我が心を軽んず、豈其の盟を背かざるを保つべけんや。宜しく費を省み末を抑え、常賦の外一毫も民に取らず、民日に厚くし、兵日に強くし、金人をして敢えて窺わしめざるを長計と為すべし」と。帝曰く、「且つ十年を作せ」と。瑀再拝して曰く、「十年の説、願わくは陛下早夜忘れることなかれ」と。兵部尚書を除す。
檜既に和を主とし、瑀の議論は専ら和を是とせず、檜之を忌み、龍図閣学士・信州知州に改む。会う大水有り、檜瑀の奏牘を見て、同列に謂う曰く、「堯の洪水、是の如くに至らず」と。瑀遂に疾を称し、江州太平興国宮を提挙す。李光に通書するに坐し、朝議大夫に降り、卒す。年六十六。
瑀は朝に詭随無く、嘗て『論語説』を為し、「弋は宿を射ず」に至りては、孔子の陰に人を中るるを欲せざるを言う。「周公魯公に謂う」に至りては、則ち流涕すべしと曰う。洪興祖其の意を序述し、檜以て己を譏るとなし、興祖を逐う。魏安行京西漕司に鋟版す、亦た安行の官を奪い、其の家を籍し、版を毀つ。檜死し、瑀の子孫乃ち錮を免る。奏議六巻有り。
張闡
張闡、字は大猷、永嘉の人。幼より力み学び、経史に博く渉り、善く文を属す。将に名づけんとし、神人の大いに「闡」の字を書くを夢みて曰く、「是を以て爾を名づけよ」と。父之を異とし、力めて其の学を為すを勉む。未だ冠せず、舎選より京師に貢す。
宣和六年進士第に登り、厳州兵曹掾に調じ兼ねて右獄を治む。時に方臘乱を作す。闡守禦の計を倡う。義士有り身を請うて戦を督す。既に戦い、稍く却く。州将怒り、闡に付して治め、将に之を殺さんとす。闡力めて争いて曰く、「是の士は義を以て戦を請い、官軍却く、勢い独り前に出づるを得ず。首めて奔る者に非ず、之を殺す何の罪ぞ」と。州将意解け、士免る。
李回江西に帥し、席益湖南に帥し、皆幕下に辟置す。群盗洞庭に拠る。官軍多く西北の人、水戦に閑ならず。闡策を建て戦艦を造り、大艦を以て営と為し、小艦を以て出戦し、水涸るるに乗じて直ちに賊巣を搗く。賊勢以て衰う。諸司交えて薦め、秩を改む。吏部微文を以て之を沮む。闡弁せず、岳祠を求めて帰る。鄂・台二州教授を歴る。
紹興十年、詔して侍従各所知を挙げしむ。給事中林待聘闡を以て聞こえ、召対す。時に金人和を議し、関中の地を帰す。闡首めて言う、「関中は必争の地、古より天府と号す。願わくは固く守り以て巴蜀を蔽い、中原を図らん」と。次に監司・郡守の薦挙の弊を言う。又た遏糴を厳禁するを乞い、以て江・浙の水患を済さんとす。召して館職を試み、秘書省正字を除し、校書郎兼呉・益王府教授に遷る。時に諸将功に恃み爵賞を邀え、過有れば則ち姑息し、又た兵は外に布き、禁衛は単寡なり。闡上疏し極めて之を論ず。後稍く諸将を進退するも必ず其の実に当たり、且つ諸道の兵を召して以て禁旅を益す、皆闡の言う如し。
二十五年冬、帝躬より万機を攬り、闡を起して両浙路市舶を提挙し、入りて御史台検法官と為り、吏部員外郎に升る。孝宗王邸に在り、帝妙に宮僚を選び、「荘重老成闡に逾る者無し」と謂い、祠部兼建王府賛読に改命す。
三十一年春、大雨し、麦苗無く、荊・浙に盗起こる。詔して侍従・台諫に災を弭ぎ盗を禦ぐの術を条陳せしむ。闡上疏して曰く、「和議以来、歳に聘幣有り、民命に堪えず。臣願わくは陛下金人の中国を困しむるを以てすことなかれ、可ならんや。帰正人時に遣還の命有り、怨声道路に聞こゆ。臣願わくは陛下金人をして以て甘心するを得しめざらんことを、可ならんや。州県吏職卑く地遠く、漁奪の禍編籍に被る。臣願わくは陛下髒吏の誅を厳にせんことを、可ならんや。租を蠲するの令、已に赦して復た征し、寛大の沢例として虚文と為る。臣願わくは陛下詔令の禁を申せんことを、可ならんや。是の数者能く次第に行えば、則ち以て天地を動かし和気を召すに足り、災異・盗賊慮るに足らず」と。又た言う、「金主亮将に侵入せんとす。宜しく要害を守り海道を防ぎ、三辺良将無くんば可からず、督視大帥無くんば可からず」と。疏奏す、帝嘉納し、面諭して曰く、「卿の言う所深く時病に中る。但だ人を遣わし北に帰すは、已に約書に載す。朕忍びて渝えざるなり」と。将作監に遷り、宗正少卿に進む。
金主亮が死に、葛王褒が再び和を求め、使者派遣が再議された。闡は言った。「遣使の命を厳しくし、敵国の礼を正すべきである。彼が従わなければ、戦うのみ。かくして中国の威は復振せしめ得る。」帝は言った。「使者の報聘は故事なり。旧約に従わざれば、朕の志は定まれり。」この冬、侍従・台諫に札を与えて時務を条陳させた。闡は十事を上奏し、いずれも切実であった。当時詔に応じた者は数十人、ただ闡と国子司業王十朋のみが時事を指陳し、権幸を斥け、隠すところがなかった。翌日、両人を内殿に対せしめ、帝は大いに称賞し、酒と御書を賜うた。時に太上皇帝・太上皇后の冊宝を進上し、工部は例により官を進めたが、闡は辞した。或る人が言った。「公が一階を転ずれば、恩沢は子孫に及ぶ。何ぞ辞するや。」闡は笑って言った。「冊宝は吾が功にあらず。吾が子孫のために無功の賞を冒せんや。」
時に台諫を数度更易す。闡は力を尽くして言い、諫員を増広せんことを請うた。帝は言った。「台諫は名を好む。某の如きはただ直声を得て去らんと欲するのみ。」闡は言った。「唐の徳宗は姜公輔を売直と疑う。陸贄が切諫す。願わくは陛下深く以て鑑とせられん。」帝は再三嘉奨した。
金人が和を求め、帝は闡と議す。闡は言った。「彼が和を欲するは、我を畏るるか、我を愛するか。直に我を款ぶのみ。」六つの害を力陳し、許すべからざるを説く。帝は言った。「朕の意もまた然り。姑く宜に随ひて之に応ぜん。」帝は「売直」の語を記し、謂う。「胡銓もまた此に及べり。朕は諫を拒む者にあらず。是非を弁ずるのみ。」闡は言った。「聖度は天の如くあるべし。奈何ぞ臣下と名を争わんや。」帝は言った。「卿の言は是なり。」頃いて、工部尚書兼侍読を除す。
金の副元帥紇石烈志寧が書を以て通好を諭し、請うところ三事、国書・歳幣の議は既に定まるも、ただ唐・鄧・海・泗の割譲は未だ決せず。将に王之望・龍大淵を遣わして通問せんとす。而して衆言紛紛として已まず。闡は謂う。「四州を与えざれば和を通ずべし。議論先ず定まりて乃ち使を遣わすべし。今彼は客、我は主なり。我は仁義を以て天下を撫し、彼は残酷を以て吾が民を虐ぐ。金の勢の既に衰えたるを観る。何ぞ必ずしも先づ弱を示さんや。」朝論之を是とす。
朱熹嘗て言う。「秦檜は敵を挟みて君に要し、力を主として和議を唱う。群言勃勃として平らかならず。檜は既に忠臣義士の気を摧折し、遂に士大夫をして安を懐いて習い成さしむ。癸未の和議に至りては、則ち其の非なるを知る者鮮し。朝論間に建白あるも、率ね利害を雑言す。其の言に金人は世仇なり和すべからずとする者は、惟だ胡右史銓・張尚書闡のみ。」子に叔椿あり。
洪擬
洪擬、字は成季、一字は逸叟、鎮江丹陽の人。本姓は弘、其の先に璆と名乗る者あり、嘗て中書令となり、南唐の諱を避けて今の姓に改む。後にまた宣祖の廟諱を避く。遂に之に因る。
擬は進士甲科に登る。崇寧中、国子博士となり、出でて利州路学事を提挙し、尋いで福建路に改む。譴に坐し、鄆州通判となり、復た京西北路学事を提挙し、湖南・河北東路を歴任す。宣和中、監察御史となり、殿中に遷り、侍御史に進む。時に王黼・蔡京更に用事す。擬は中立して附会する所なし。殿中侍御史許景衡罷す。擬も亦坐して吏部に送られ、桂陽軍を知り、海州に改む。時に山東に盗賊起こり、屡城を攻む。擬は兵民を率いて堅く守る。
建炎間、母憂に居り、秘書少監として召さるるも起たず。喪終わりて、起居郎・中書舎人となり、言う。「兵興累年、饋餉悉く民より出づ。屋無くして屋税を責め、丁無くして丁税を責む。不時の須、無名の斂、殆ど虚日無し。去りて盗となる所以なり。今関中の盗は急ぐべからず。宜しく以て之を弭する所以を求め、江西の盗は緩にすべからず。宜しく以て之を滅する所以を求むべし。夫れ財を豊かにする者は政事の本、而して用を節する者は又た財を豊かにするの本なり。」高宗越に如る。執政蹕を饒・信の間に移さんと議す。擬上疏して力争し、謂う「四通五達を捨てて偏方下邑に趨くは、形勢を示し守禦を固うするに足らず。」
給事中・吏部尚書に遷る。言者擬の未だ州県を歴せざるを以てす。龍図閣待制として温州を知る。宣撫使孟庾師を総べて閩寇を討ち、郡を過ぐ。擬趣して使をして赴援せしむ。庾怒り、擬に命じて師を犒わしむ。擬封椿の銭を借りて之を用い、已にして自ら劾す。賊平ぎ、秩一等を加えられ、礼部尚書として召され、吏部に遷る。
渡江後、法に現籍無く、吏は事に随い文を立て、「省記」と号す。出入自ら如し。是に至りて『七司敕令』を修し、擬を命じて之を総ぶ。旧法及び続降指揮を以て詳定し書を成し、上る。
金人再び淮を攻む。詔して日輪して侍従を都堂に赴かしめ、札を給して攻守の策を問う。擬言う。「国勢強ければ則ち戦い、将士勇なれば則ち戦い、財用足れば則ち戦い、我れ主となり彼れ客となれば則ち戦う。陛下蹕を東南に移し、前年会稽に幸し、今年臨安に幸す。興王の居、未だ定議無きは高祖の関中に在り、光武の河内に在るが如くに非ず。国勢を論ずれば、守を言うべく、未だ戦を言うべからず。」擬謂う、時相姑く戦を議して武を示すも、実は戦う能わざるなり。
初め、洪擬は海州より還りて鎮江に居る。趙万の叛兵郡に逼り、守臣趙子崧戦ひ敗れ、遁れ去る。洪擬は母を挟み出でて避く、賊に遇ひ至り、兵を加へんと欲す。洪擬曰く、「死は避くる所無し、願くは老母を驚かす勿れ。」賊之を捨つ。他賊又至り、刃を以て臨む。洪擬其の母を指して曰く、「此れ吾が母なり、幸に之を怖しむる勿れ。」賊又捨て去る。『浄智先生集』及び『注杜甫詩』二十巻有り。
趙逵
趙逵は御製『芝草詩』に賡ひ、「皇心未だ敢へて宴安を図る無し」の句有り。秦檜之を見て怒りて曰く、「趙逵猶ほ未だ太平ならずと為すか。」又た趙逵に謂ひて曰く、「館中の禄薄し、能く家を以て来らんか。」趙逵曰く、「親老いて険遠に渉ること能はず。」秦檜徐に曰く、「当に百金を以て助けんとす。」趙逵唯唯するのみ。又た親しき者を遣はして前言を申し、趙逵を諷して往きて謝せしめんとす。趙逵答えず、秦檜怒りを滋し、之を擠さんと欲すれども、未だ及ばずして死す。
帝秦檜を臨哭して還り、即ち趙逵を著作佐郎兼権礼部員外郎に遷す。帝景霊宮に如く、秘省起居は惟だ趙逵一人のみ。帝屢たび趙逵を目し、即日命じて引見し殿上に上らしむ。帝迎へて謂ひて曰く、「卿知るか、始終皆朕自ら擢でしなり。卿登第の後、大臣の沮格に為り、久しく卿を見ず。秦檜日々に士を薦むれども、未だ一語も卿に及ばず、此を以て卿の権貴に附かざるを知る。真に天子の門生なり。」詔して普安郡王府教授を充てしむ。趙逵奏して曰く、「言路久しく通ぜず、乞ふらくは広く賜ひて開納し、微賤を以て間と為す勿れ、庶幾く敢言の気を養成せん。」帝嘉納す。普安府にて勸講戾太子の事に至り、王曰く、「此の時に於て、江充を斬り自ら武帝に帰るは、何如。」趙逵曰く、「此れ臣子の能くする所に非ず。」王の意蓋し在る所有り。
二十六年、著作郎に遷り、尋ち起居郎を除す。入謝す、帝又た曰く、「秦檜炎炎たり、附かざる者は惟だ卿一人のみ。」趙逵曰く、「臣古人の権姦に抗折するに效ふ能はず、但だ之と同ぜざるのみ。然れども宰相に事ふる礼も亦敢へて闕かず。」又た曰く、「陛下の爵禄を受けて権門に奔走するは、臣敢へて惟ふのみならず、亦た且つ忍びず。」明年、同知貢挙と為り、尽く公に考閲し、以て旧弊を革め、遂に王十朋・閻安中を得る。
是に先立ち、趙逵嘗て杜莘老・唐文若・孫道夫を薦む、皆蜀の名士なり。是に至り詔を奉じて士を挙ぐるに、又た馮方・劉儀鳳・李石・郯次雲を以て詔に応ず。宰執以て聞す。帝曰く、「蜀人の道遠く、其の間の文学行義有用なる者は、論薦に因らざれば知る由無し。此に先んずる蜀中の宦遊者は多く隔絶し、一たび朝廷に至るを得ず、甚だ惜しむべし。」秦檜権を顓にしてより、深く蜀士を抑へし故に、帝語此に及ぶ。
趙逵疾を以て外を求め、帝国医王継先に命じて疾を視しむ。為す可からざるなり。卒す年四十一。帝之が為に涙を抆ひ歎息す。趙逵嘗て自ら謂ひて曰く、「司馬温公は非色に近づかず、非財を取らず。吾不肖なれども、庶幾く之を慕はん。」
秦檜の権盛んなる時、秦檜に忤ふ者は固より趙逵一人に非ざるも、而して帝亟に趙逵の附麗せざるを称し、又た趙逵の文章蘇軾に似たりと謂ひ、故に「小東坡」と称す。未だ用ふるに及ばずして趙逵死す、其の論建の世に伝はらざるを惜しむ。『棲雲集』三十巻有り。
論じて曰く、胡如圭は胡安国に師ひ、張居正は楊時に師ひ、潘敦復は程頤に師ひ、蕭振は陳瓘に交はる。其の師友の淵源自ら来る有り。故に其の議論讜直、剛厳鯁峭、異説に惑はず、強禦を畏れず、大略相似たり。若し夫れ張居正の王氏『三経』の繆を辨し、王亀年の首めて秦檜の主和の非を劾し、程瑀の力めて蔡京の党を排せしは、尤も名教に功有るなり。張闡の事を論ずるに避くる無く、洪擬の朴実端亮、趙逵の純正善文、皆一時の良にして、秦檜に忌まれしも撓がざる者なり。語に曰く、「歳寒く然る後に松柏の後に凋むるを知る。」信なるかな。