何鑄
何鑄、字は伯壽、餘杭の人。政和五年の進士に及第し、州県の官を歴任し、入朝して諸王宮大小學教授・秘書郎となった。御史中丞廖剛が、何鑄の操行は剛直で正しく、拾遺補闕の任に備えうると推薦した。ただちに対面を命ぜられる。何鑄はまず陳べた。「天を動かす徳は孝より大なるはなく、物を感ずる道は誠に過ぐるはない。誠と孝とが既に至れば、梓宮を陵寢に帰し、両宮を魏闕に奉じ、大業を継ぎ、境土を回復することも、また何の難きことがあろうか。」帝は嘉してこれを採り入れた。
監察御史に拝され、まもなく殿中侍御史に遷る。上疏して論ず。「士大夫の心術が正しからず、虚に徇って名を掠め、名に託して利を規る。言は中より出ずして首尾背き、険を行いて自らを售し、意を設けて相い傾くる者は、事君の失である。険巇の謀を懐き、刻薄の政を行い、軽儇にして荘重ならず、慢易にして礼なき者は、己を行うの失である。大いに好悪を明らかにし、中外に申し飭め、各々その心術を正しく務め、欺誕あることなからんことを乞う。」蓋し指すところがあったのである。時に温州の諸宮殿の神像を湖州に遷すこととなり、有司が迎奉するに、過ぐる所騒然とした。何鑄が言う。「孝は神を寧んずるより大なるはなく、神を寧んずるは四海の歓心を得るより大なるはない。浙東は旱魃で凶作である。もし労役を加えれば、恐らく道路に怨みの声が起こるであろう。簡約に務め、過ぎて騒擾することなからんことを乞う。」疏が奏上されると、その事は遂に止んだ。右諫議大夫に擢げられる。論ず。「中興の功は、志を立つるに在り、天下の事の成るか否かは、思うか思わざるかに在る。願わくは陛下、事の大小を問わず、精思熟慮し、その至当を求めこれを行われんことを。かくの如くならば、事に過挙は無からん。」まもなく御史中丞に拝される。
先に、秦檜が和議を力主し、大将岳飛は戦功があり、金人の深く忌むところであった。檜はその己に異なることを憎み、これを除かんとし、岳飛の旧将王貴を脅して変事を上告させ、岳飛を捕らえて大理寺の獄に繋ぎ、まず何鑄にこれを審問させた。何鑄は岳飛を引き至り庭にて、その反状を詰問した。岳飛は衣を脱いで背中を示した。背中には旧く涅された「尽忠報国」の四大字があり、膚理に深く刻まれていた。やがて実情を調べてみると全て証拠がなく、何鑄はその冤罪を察し、これを秦檜に告げた。檜は悦ばず言う。「これは上意である。」何鑄曰く。「何鑄がただ一岳飛のためを思うような者ではございません。強敵未だ滅びず、故なくして一大将を戮せば、士卒の心を失い、社稷の長計ではありません。」檜は言葉に詰まり、万俟卨に命を改めた。岳飛は獄中で死に、子の岳雲は市で斬られた。
秦檜は何鑄を恨んだ。時に金が蕭毅・邢具瞻を遣わして来て議事する。檜が言う。「先帝の梓宮未だ返らず、太后の鑾輿尚だ朔方に遷されている。大臣でなければ祈請できぬ。」乃ち何鑄を端明殿学士・簽書枢密院事として報謝使とした。何鑄曰く。「この行いは顔真卿が李希烈に使わされたようなものだ。しかし君命は辞すべからず。」既に命に返り復命すると、檜は万俟卨にそそのかして、何鑄が岳飛に私し、反さずと為したことを論じさせ、嶺表に竄えようとしたが、帝は従わず、ただ徽州に謫するに止めた。
時に金に使した者が帰り、金人が何鑄は何処にいるか、かつて用いられたかと問うたと伝えた。ここにおいて再び温州知州に任ぜられる。まもなく、端明殿学士として万寿観を提挙し侍読を兼ね、行在に召し赴かせようとしたが、力辞した。乃ち再び金に使いし、使事は秘して伝わらなかった。既に帰り復命すると、帝は再び大用することを許したが、また力請して祠官を求め、資政殿学士・徽州知州を除かれた。数ヶ月居て、江州太平興国宮を提挙した。卒す。年六十五。
何鑄は孝友廉倹であった。貴くなって後も、住むべき家屋がなく、ただ仏寺に寓居した。その岳飛の冤罪を弁じたことは、また人の難くするところであった。然れども紹興己未(九年)以後、台諫を遍歴し、論じたところの趙鼎・李光・周葵・范沖・孫近ら諸人は、風旨を迎え望むことを免れず、議者はこれを以て軽んじた。慈寧太后の帰養と梓宮の復還に至っては、何鑄の祈請の力もあったが、金の謀りごとは蓋し素より定まっていたのである。
先に、金の諸将は皆既に兵を厭い和を欲していたが、自ら発言し難く、故に秦檜をして家族ごと海を渡って帰らせ、密かに成約があった。紹興以後、我が師は屡々捷し、金は和を欲すること益々堅かった。ここに至り、何鑄を遣わして命を奉じさせたのは、蓋し秦檜の陰謀であり、何鑄がかつて岳飛の獄を争い、而して岳飛が遂に死んだことを、金に知らせてその議を速やかに調えさせようとしたのである。
何鑄の死後四十余年、諡して「通恵」とされたが、その家はこれを辞した。嘉定初年、改めて諡して「恭敏」とした。
王次翁
燕雲の役に際し、免夫銭を取るのに期に及ばず、直ちに乏興の罪に論ぜられそうになった。次翁は属邑の丁籍を檄して取り、民産の高下を視て輸すべき多寡の数を定め、期を約して受納し、擾わずして集めた。広西転運判官を除かれる。時に劇盗の馬友・孔彦舟・曹成が長沙を更に占拠し、帥司が漕司に檄して予め糧秣三十万を鳩めて調発に備えさせた。次翁は直ちにこれを具えて報告した。吏は愕眙した。次翁曰く。「兵は必ずしも発せず、先に民を擾わすことができようか。我は一路の常平上供をもってこれを計る。三十万に啻ならぬ。」已にして賊は境を犯さなかった。召されて対し、論事合わず、出て処州知州となり、祠官を乞い、婺州に帰り寓居した。
呂頤浩が長沙を帥とし、参謀官に辟す。頃くして、力を尽くして致仕を乞うた。秦檜が召し還され、道婺州に出で、次翁これに会う。楼炤が言う。「頤浩と次翁とは同郡である。頤浩が再び相となるに、次翁は貧困ここに至っている。」檜笑って曰く。「その類いではない。」檜が朝廷に居ると、遂に吏部員外郎とし、秘書少監に遷し、起居舎人を除き、中書舎人に遷す。劉光世が使相に除せられ、文資を以てその子を蔭すことを奏したが、次翁は執奏してこれを返上した。
工部侍郎兼侍講に任ず。蜀に帥が欠員し、宰執は次翁を擬して以て聞かしむ。帝は次翁が経術に明るきを以て、留めて資善堂翊善を兼ねしむ。御史中丞に改む。趙鼎の不法を論じ、泉州知州に罷む。部は李泗を差して鄂州巡検と為さんとし、然るに湖北宣撫使は不可とす。次翁言う、「法令下に沮まれ、朝廷の尊きを知らず、漸く長ずべからざるなり」と。帝、宣撫司を詰問せしむ。宣賛舎人陳諤・孫崇節、即ち閤門にて旨を受け昇転す。次翁言う、「閤門径自に画旨し、三省を由らず、祖宗の法に非ず」と。命を寝かしむ。呼延通、内教に因り不遜の語を出だす。次翁、通を斬りて以て軍を粛すべく乞い、且つ言う、「令を著す、寸鉄皇城に入る者は常刑有り」と。遂に内教を罷む。
韓世忠と劉光世、張俊と劉錡は皆相能わず。次翁言う、「世忠は光世に因り言議に隙有り、俊は錡に由り措置に睽有り。窃かに錡が一の孤壘を保ち、光世軍窮に処り、独り俊と世忠急援を肯わざるを恐る。願わくは使いを遣わし切責し、郭子儀・李光弼が忠義を以て泣別し相勉めて感動せしむる者に因りて之を感動せしめよ」と。
金人盟を敗りて入侵す。次翁、秦檜の為に帝に言う、「前日の国是、初め主議無く、事小変有れば則ち他相を用い更え、後来の者は未だ必ずしも前人に賢ならず、而して異党を排斥し、親故を収召し、紛紛として累月を非ざれば定まらず、国事に初め補うこと無し。願わくは陛下以て至戒と為し、小人の異議間を乗じて入るることを無からしめよ」と。檜之を徳とす。是に先立ち、檜の兄の子と其の内兄王奐は皆恩幸に以て官を得、檜初め政を罷むるや、二人擯斥せられ累年。是に至り、次翁檜の旨に希い、言う、「吏部の審量有るは、皆君父の過挙を暴揚し、陛下の孝治を傷つくること無からんや。願わくは悉く建炎・紹興前後の累降指揮を罷めよ」と。是に由りて二人驟進す。
初め、次翁既に趙鼎を論じて罷めしむ。鼎会稽に帰り、上書して時政を言う。檜鼎の復用を忌み、乃ち次翁をして又之を言わしめ、法に置くことを顕わにせんことを乞う。且つ言う、「特進は乃ち宰相の階官なり、鼎雖も謫降せられ、而して階官旧に如し、是れ未だ嘗て相を罷めざるなり」と。遂に散官に降し、興化軍に謫居す。右諫議大夫何鑄又鼎の罪重く罰軽きを論じ、朝奉大夫に降し、漳州に移す。檜意猶未だ厭わず、次翁又論ず、「鼎辺警を聞き、喜色を見す。漢法を以て縄すれば、当に不道の誅に伏すべく、『春秋』を以て責むれば、当に誅意の罰に坐すべし。再び貶責を行えども、然れども朝奉大夫中大夫を視れば品秩相遼ならず、漳州興化に比すれば尤も善地なり、此を以て罰を示せば、人将に刑を玩ぶべし」と。再び潮州に移し安置す。
次翁参知政事に任ず。両浙転運司牒試、主司観望し、檜と次翁の子侄預選する者数人、士論大いに駭く。金人柘皋に敗る。帝曰く、「将帥成す不戦劫敵の功は、乃ち輔弼の奇謀指縦の力なり」と。一子の職名を除す。
檜三大将を召し功を論じ賞を行わんとす。岳飛未だ至らず。檜と次翁謀り、明日を以て率い世忠・俊をして湖上に酒を置かしめ、出でんと欲すれば、則ち直省官に語りて曰く、「姑く岳少保の来るを待て」と。益々堂厨に其の燕具を豊かにせしめ、此の如く展期して待つこと六七日。飛既に至り、皆枢密使を除し、兵柄を罷む。次翁帰り其の子伯庠に語りて曰く、「吾と秦相謀ること久し」と。
太后鑾を回す。次翁奉迎扈従礼儀使と為る。初め、太后金使に金を貸して以て従者を犒う。境に至り、金使償を責めて乃ち入る。次翁未だ檜の命を得ざるを以て、且つ檜其の私相結納を疑い、其の位を攘わんと欲するを懼れ、堅く償うことを肯わず、境上に相持すること凡そ三日、中外憂慮す。副使王奐金を裒めて之を与う。太后帰り、帝に泣訴して曰く、「王次翁大臣、国家の利害を顧みず、万一変有らば、則ち我が子母相見えざらん」と。帝震怒し、其の罪を暴きて之を誅せんと欲す。次翁先ず檜に白して謂う所以然る者は、未だ嘗て稟命せざるを以て、故に敢えて専にせざるなりと。檜大いに喜び、力を為して営救し、報謝使として奏して以て帝の怒りを避く。
使い還る。帝中宮を立て、冊宝副使として奏す。帝終に之を悪む。檜次翁に位を辞せしむ。遂に資政殿学士を以て祠を奉じ、年を引いて帰り、明州に居る。檜之を憐み、饋問絶えず。十九年、卒す。年七十一。宣奉大夫を贈り、諸子婿親戚族人浙東に添差する者又数人、皆檜の為に開陳する所なり。檜国を擅ること十九年、凡そ政府に居る者は、微忤を以て去らざる莫く、終始二つならざるは、惟だ次翁のみ。
范同
范同、字は択善、建康の人。政和五年に第に登り、再び宏詞科に中り、累官して吏部員外郎に至る。秦檜と力を主として和議を主とす。紹興八年、太常少卿を仮りて金使蕭哲・張通古を接伴し入境す。同北向して再拝し、金主の起居を問う。軍民見る者多く流涕す。中書門下省検正諸房公事を除し、権吏部侍郎兼実録院修撰を権め、給事中に遷る。
十一年、檜再び和議を主とす。諸将制し難きを患え、同檜に計を献じ、請う皆枢府を除き、其の兵権を罷めんと。檜喜び、乃ち密奏して柘皋の捷を以て、三大将を行在に赴かしめ、功を論じ賞を行わんとす。同入対す。帝命じて林待聘と分かち三制を草せしむ。世忠・俊枢密使、飛副使、並びに宣押して枢府に赴き事を治めしむ。張俊檜の意に合い、且つ朝廷兵権を罷めんと欲するを覚り、即ち首に其の統ぶる兵を納る。帝同を召し入対せしめ、復た同を以て翰林学士と為し、俄かに参知政事兼実録修撰を拝す。
同始め和議を賛し、檜に引かれる。政府に在りて、或いは自ら奏事す。檜之を忌む。万俟卨因り論ず、「同政に貳するの初め、首めて遷葬の議を為し、建康より信州に至り、夫を調えて道を治め、怨嗟籍籍たり。近く朝廷天下の兵柄を収め、之を宥密に帰す。同輒ち稠人中に天功を貪り以て己が有と為す」と。遂に罷めて祠を与う。檜意未だ已まず、卨再び論じ、左朝奉郎・秘書少監を責め授け、筠州に謫居す。
十四年、復た朝奉大夫と為り、江州太平観を提挙し、池州に移す。十八年、復た太中大夫・太平州知州と為る。卒す。年五十二。
楊愿
楊愿、字は原仲。宣和末、太学録を補す。二帝北遷す。金人愿の名を聞き、之を索む。愿民間に匿る。執政に上書し、元祐皇后の迎復を請う。又済州元帥府に奔り進を勧め、属と為るを辟す。
檜が既に政権を専らにすると、召されて秘書丞となった。間もなく監察御史に拝された。臺長が楼炤の資歴が浅いことを言上し、先ず郎官を歴任すべきであるとし、司封員外郎に改め、右司に遷り、起居舍人を兼ねて権中書舍人となった。初めて玉牒を修するにあたり、特に楼炤に命じた。楼炤は言った、「玉牒には靖康の際に趙氏を推戴した事績を載せるべきであり、秦檜が建議した経緯を記すべきである。」
十五年、罷免され、太平観を提挙した。初め、楼炤と張擴が共に西掖に在った時、一時の書命は張擴の潤色に依っていた。張擴が『二毫筆詩』を詠じると、楼炤は己を誹ったと思い、檜に訴え、御史の李文会に勧めてこれを弾劾させた。高閌が経筵に侍していた時、帝が張九成の安否を問うと、翌日、また檜に問うた。檜は言った、「九成は異説を唱えて衆を惑わし、臺臣に論じられ、郡守を与えられたが、力んで祠官を乞うた。その意を観るに、終に陛下に用いられようとしない。」帝は言った、「九成は清貧である。禄無きは不可である。」檜は高閌がこれを推薦したと疑い、楼炤に語った。楼炤はまた李文会を嗾けて高閌を攻め去らせた。藤州守臣が遷客の李光が詩を作って時政を諷刺したと上言した。楼炤が御史中丞に在った時、その説に附会し、「李光は縦横に傾險をなし、子弟賓客が吳・越を往来し、人を誘って上書させ、国是を動揺させている。」と言った。李光は再び移謫されて瓊海に至った。李文会が既に西府に昇ると、楼炤は檜の意が稍々厭っていると窺い、即ちその害政を数え上げて罷免させた。二日後、楼炤は遂にその地位を補った。帝が檜と事を論じ、因って言った、「朕は思うに、士大夫を進用することは一相の責である。一相既に賢ならば、則ち薦むる所は皆賢である。」楼炤は言った、「陛下が宰相を任用されることは、まさに治道の要を得ておられます。」また史事を論じた。檜は言った、「靖康の囲城の中で、節を失った者が互いに私史を作り、公然と排擠している。」帝は言った、「卿は異姓を推さなかった。宜しくその容れられざる所以である。」楼炤は言った、「檜は独りその時に雷同を肯んぜず、宣和の間、耿延禧が学官となった時、その父が東宮に在り、勢い一時を傾け、士は皆靡然としてこれに従い、以て後福を徼めたが、独り檜は正を守って易えなかった。」蓋し檜が再び相位に居て以来、毎に執政を推薦するには、必ず世に名誉無く、柔佞で制し易き者を選んだ。楼炤は檜の意を希って迎合し、下に附き上を罔い、ここに至って斥け去られ、天下これを快とした。
初め、楼炤が宣城を守っていた時、表弟の王炎が蘄水令に調任され、これを訪れた。酔中に楼炤に言った、「嘗て呂丞相の処で貴公が往年に通じた書簡を得た。その中に秦丞相の短所に頗る及んでいるが、尚お記憶しているか。」楼炤これを聞き、色死灰の如し。遂に王炎を留めて去ることを聴さなかった。丁度楼炤が金陵に移守することとなり、監司を宴し、大いに楽を合わせた。守卒皆怠り、王炎は即ち青溪で客舟を得て行った。楼炤は憂い煩って卒去した。
樓炤
樓炤、字は仲暉、婺州永康の人。政和五年に進士に及第し、大名府戸曹に調任、西京國子博士・辟雍録・淮寧府司儀曹事に改め、尚書考功員外郎となった。
帝が建康に在った時、楼炤は言った、「今日の計は、当に古人の量力の言を思い、兵家の知己の計を察すべきである。力以て淮南を保つことができれば、則ち淮南を以て屏蔽と為し、権に建康に都し、漸く恢復を図る。力未だ以て淮南を保つことができなければ、則ち長江に因って険阻と為し、権に呉会に都し、以て国力を養う。」ここにおいて臨安に移蹕した。右司郎中に抜擢された。当時、銓曹は員多く闕少ないことを患い、倅貳以下多く添差とした。楼炤は言った、「光武は吏員を並省した。今、縦え其の素有する所を損うことができずとも、安んぞ其の本無き所を置くべけんや。」
七年、宰相張浚の兄の張滉に出身を賜い郡守とされたが、中書舍人張燾が封還した。ここにおいて楼炤に行わせたが、楼炤もまた封還した。而して竟に権起居舍人何掄が書黄を行い下した。ここにおいて張燾と楼炤は皆補外を請い、秘閣修撰として温州知州となった。間もなく、中書舍人を除され、勾龍如淵と並んで命を受けた。如淵が入対すると、帝はこれに謂って言った、「卿と楼炤は皆朕の親しく擢でた者である。」間もなく給事中兼直學士院に遷った。
九年、金人が来て和を伝える勅命に、楼炤がその文を草した。曰く、「乃ち上穹悔禍の期を開き、而して大金和を許すの約を報ず。河南の境土を割き、我が輿図に帰す。宇内の干戈を戢え、用て全民の命を全うす。」間もなく侍読を兼ね、端明殿學士・簽書樞密院事を除かれた。継いで命を受けて陝西に往き徳意を宣諭した。楼炤は奏上した、「京城統制の呉革、環州知州の田敢、成忠郎の盧大受は皆節義に因り、呉革は范瓊に害せられ、田敢・盧大受は劉豫に殺された。褒恤を賜うことを乞う。」また奏上した、「陝西諸路が劉豫に陥り、郡県に偽に従わざる人有り。所籍の資産は、並びに勘験して給還せしむることを令す。」楼炤は東京に至り、宮室を検視し、間もなく永安軍に詣で陵寝を謁し、遂に長安に至った。
丁度李世輔が夏国より帰朝せんと欲した。楼炤は書を以てこれを招くと、世輔は二千人を率いて行在に赴いた。間もなく鳳翔に至り、便宜を以て郭浩に鄜延を帥せしめ、楊政に熙河蘭鞏を帥せしめ、呉璘に鳳翔を帥せしめた。楼炤は川口の諸軍を尽く陝西に移さんと欲した。呉璘は言った、「金人は反覆して信じ難し。今、軍を陝右に移せば、則ち蜀口空虚となる。金若し南山より蜀を搗ち、我が陝右軍を要せば、則ち我は戦わずして自ら屈す。当に山に依りて屯と為し、要害を控守すべし。」ここにおいて呉璘・楊政の二軍のみ内地に屯した。楼炤はまた諸路の監司を鳳翔に会し、皆蜀辺に屯駐する大軍の久しきは、坐して四川の民力を困らすと言った。ここにおいてその議を下し、その語は『胡世將傳』にある。
趙炤が朝廷に還ると、親が老いていることを理由に明州へ帰省を求め、これを許され、給暇して迎え侍ることを命じられ、なお金帯を賜った。十四年、資政殿学士として紹興府の知事となり、宮闕を過ぎて入見し、簽書枢密院事兼権参知政事に任じられた。まもなく李文会・詹大方に弾劾され、祠官となった。久しくして、宣州知事に任じられ、広州に移ったが、赴任せずに卒去した。享年七十三。後に「襄靖」と諡された。
趙炤は早くに蔡京に附いて官位を改め、台諫に論じられた。その後、朝廷に立ち二府の位に至るまで、皆秦檜と同時期であった。その陝西宣諭の際、妄りに自尊大であり、ある者はその財貨を好んで将士の心を失ったと論じている。
勾龍如淵
勾龍如淵、字は行父、永康軍導江県の人。勾姓は本来古の勾芒に出自し、高宗が即位すると、御名を避けて、勾龍氏に改めた。政和八年、上舎に及第した。州県に二十年沈浮し、張浚の推薦により、召されて館職の試験を受けた。
紹興六年、秘書省校書郎に任じられた。著作佐郎・祠部員外兼礼部・起居舎人を歴任した。かつて自らの文章三十篇を進呈したところ、帝は言った、「卿の文章は極めて高古であるが、さらに平易にして尽く善からしめよ。」後に進対の際、帝はまた言った、「文章は平易なものは多く浅近であり、淵深なものは多く艱澀である。ただ、意を用いること淵深にして語を造ること平易なる、これが最も難しいことである。」
八年、給事中・同知貢挙を兼ね、中書舎人兼侍読、兼直学士院に任じられた。面命して趙鼎の罷相の制を草せしめ、如淵は言った、「陛下は既に鼎を罷められました。ならば人材を用いるには四方を聳動させるべきであり、速やかに君子を召し、小人を顕かに黜けるべきです。」帝が「君子とは誰をいうか」と問うと、「孫近・李光です」と答えた。「小人とは誰か」と問うと、「呂本中です」と答えた。先に、祠臣の曾開が老病を理由に国書を草することを辞したので、帝は如淵を用いて代えようとしたが、趙鼎が本中を推薦したため、如淵はこれを恨んだのである。
また言った、「臣が朝廷の事を見るに、君臣の情が通じなければ、容易に成し遂げられません。大臣が事について少し過差があれば、陛下が訓飭なされればよいのです。陛下がなさろうとされることで、勢いとして未だならぬことがあれば、大臣もまた明白に弁論すべきです。しかし必ず陛下が先に大臣にこの意を言い及ぼされるべきです。もし先に言わなければ、大臣が一事を論じて従わないと、まだそれに気づかず、再び三度と至って、遂に陛下が自分を疎んじたと思い、あるいは他人が間に入ったと疑います。既に疑いを抱けば、誠を尽くすことができず、陛下はその不誠を察して、また従ってこれを疑われます。どうして君臣の間で、動もすれば相疑い間隙を生じて、その位に久しくいられることがありましょうか。願わくは陛下が明らかに諭されますように。」帝は言った、「これまで未だかつてこのことを朕に告げた者はなかった。卿は秦檜に会ってもまたこのことを語るがよい。」当時檜はちょうど君寵を得ていたが、如淵はなお檜への委任が専一でないことを恐れたので、このことを言及したのである。御史中丞に任じられた。
先に、秦檜が力を込めて和議を主張し、執政・侍従および内外の諸臣が皆これを非とし、多く上書して諫め止める者がいたので、檜はこれを憂えた。如淵が檜に謀って言った、「相公は天下の大計を為されますが、邪説が横溢して起きます。どうして人を選んで台諫とし、ことごとく撃ち去らせないのですか。そうすれば相公の事は成就します。」檜は大いに喜び、すぐに如淵を中司に抜擢した。
また言った、「孟庾が召節を帯びて途上にあるが、士論はこれを認めない。」帝は言った、「朕は彼を金国に遣わそうと思うが、朝廷内にさらに小人はいないか。」答えて言った、「例えば趙鼎が宰相となった時、ことごとく紀綱を隳し、かえって賢相の名を窃んで去りました。王庶が枢府に在った時、ことごとく奸計を用い、かえって和議に合わないことを以て、直を売って去りました。劉大中は不孝の罪を得て、かえって朝廷の美職を窃んで去りました。」帝は言った、「卿はどうして論じないのか。」答えて言った、「目下の士論は孟庾の召喚、王庶の去職を見て、既に『一解不如一解(一解も一解に及ばず)』という言葉があります。願わくは陛下は孟庾一人を惜しまず、以て今日の公論を正され、その他の者は臣が一つ一つ陛下のために別白いたします。」そこで孟庾を出して厳州知事とした。また連続して王庶・劉大中を論じ、皆罷免させた。
金国が二使を遣わして和議を論じ、河南の地を帰すことを許した。使者は甚だ踞傲で、国書を受ける礼儀が決まらず、外議が洶々とした。如淵はその書を取って禁中に納れることを建議した。そこで諫長と共に対を請い、また台吏を呼んで問うた、「朝廷に大議論があれば、台諫が宰執に会って商議することを許すか。」吏は言った、「あります。」そこで都堂に赴き宰執と書を受け取る事を議し、宰執は皆これを然りとした。帝が親筆で如淵・李誼を召し入対させた。翌日、詔して宰執をして館に行き金使に会い、その書を受け取って納入させ、人情はようやく安んじた。
九年、曾開・范同を召還し、施庭臣・莫将を罷めることを奏上し、以て言った、「曾開・范同の出されたのは、言葉の過ちとは言え、その心は実に君を愛するより出たものである。施庭臣・莫将の昇進は、議論が合ったとは言え、その跡は終に進取を希うに近い。今や国論は既に定まり、好悪黜陟は深く謹むべきである。」また張邦昌の時の偽臣が赦によって復職したのは非であると論じた。帝は言った、「卿の言う通りである。朕もまたこの数匹夫を問わずに置こうと思う。」答えて言った、「恐らくは訓示を示すことができないでしょう。」その後、結局行われなかった。
ある日突然、如淵が言った、「和議の際、臣は粗ながら自ら効力しました。例えば臣が都堂に行った時、朝廷が再び使を遣わす議論を遏えなければ、和議は必ず壊れるに至りました。また宣対の日、少しでも将順すれば、遂には屈するに至りました。臣はこの二点において、粗ながら報国の忠がありました。臣の親は老いております。帰省を願います。」帝は許さなかった。如淵は帝が自分を疎んじる意があるのではないかと疑い、また奏上して言った、「臣が以前に君臣腹心の論を推薦しました時、陛下は大いにこれを然りとされました。その後、秦檜が和議の可否未決の間に去ろうと求め、陛下はこれを頗る罪せられましたが、臣は再三秦檜のために弁析いたしました。今や陛下と秦檜は君臣として元の通りですが、臣は反ってその間に讒訴があるかのようです。」帝は言った、「朕は元より讒を好まない。卿は疑うな。」如淵はかつて施庭臣と忿争し、庭臣は如淵に指斥の言葉があると言った。帝は秦檜に言った、「朕が観るに、庭臣の罪は小さく、如淵の罪は大きい。」檜は庭臣を斥け如淵を移し、その求去を待ってから補外することを請うた。帝は認めず、そこで庭臣と共に罷免された。
初め、如淵は莫将および施庭臣と共に力を込めて和議を主張し、如淵はこれによって中司に抜擢され、莫将および庭臣はこれによって皆重用された。張燾・晏敦復が上疏して専らこの三人を言上した。如淵が言路に入ると、すぐに二人を弾劾し、ここに至って庭臣と共に罷免された。その後、秦檜が如淵を遂寧府知事に擬したが、帝は言った、「この人は用心が端でない。」遂に取りやめとなった。二度祠官に奉じ、卒去した。享年六十二。
如淵は初め張浚の推薦で召されたが、終には秦檜を翼けて趙鼎を排擠し、呂本中を仇とし、劉大中・王庶を逐う。その心跡は固より見るべきである。子に佃・僎・似がいる。
薛弼
靖康初め、金兵が汴京を攻めると、李綱は堅守の議を定めたが、衆は喜ばなかった。弼の考えは綱と同じであり、包囲が解けると、光禄寺丞に遷った。嘗て「姚平仲は恃むべからず」と言った。間もなくして敗れた。綱が太原を救援するとき、弼は言った。「金は必ず再び来るであろう。綱は去るべからず、宜しく先ず河北に事を為すべし。」金人は果たして再び侵入した。初めて刑部侍郎の宋伯友を命じて河防を提挙させ、弼は点検糧草としてこれに従い、計画を甚だ切実に為したが、皆用いられず、乃ち罷帰を乞い、三門・白波輦運に改め、間もなく明道宮を主管し、淮東塩事を提挙し、湖南運判に改めた。
楊么が洞庭を占拠し、鼎州を寇すと、王燮は久しくこれを平定できず、更に岳飛を命じてこれを討たせた。么は陸で耕作し水で戦い、楼船は十余丈に及び、官軍は徒らに仰ぎ見るのみで近づくことができなかった。飛は大船を更に造ることを謀ったが、弼は言った。「もしそうすれば、歳月を以て勝つことはできません。且つ彼の長所は、避けるべくして戦うべからざるものです。今大旱であり、湖水が落ちて浅くなっています。もし舟の首領を重く購(賞をかけて誘い)い、戦わず、筏を追って江路を断ち、上流に藁を積み、彼の長所を坐して廃させ、精鋭の騎兵を以て直ちにその塁を搗けば、破壊は目前にあります。」飛は言った。「善し。」兼旬(二十日)のうちに、積年の寇は尽く平定され、直秘閣に進んだ。当時、道に餓死者が相望んだので、弼はこれを上聞し、帝は惻然とし、銭六万緡・広西常平米六万斛・鄂州米二十万斛を給してこれを賑恤し、且つ富弼の青州における荒政を講求させ、民はこれに頼って甦った。
王彦が荊から襄に移ったが、遷延して即時に赴かなかった。彦の率いる八字軍は皆中原の勁卒であり、朝廷はその恣横を患い、弼を以て直徽猷閣としてこれを代えた。彦は全く予期せず、弼は径ちに府に入って将吏の謁を受け、大いに驚いた。弼は曲折を尽くして譬え諭し、彦は感悟し、即日に出境した。
岳飛の参謀官を除す。飛の母が死ぬと、廬山に遁れ、張宗元が飛の事を摂行した。飛の将の張憲が病と称して出仕せず、部曲が洶洶として、異なる言葉を生じた。弼は諸将に謂って言った。「太尉(岳飛)は力を尽くして張公(宗元)を乞い、而して詔使が随って至った。岳軍は平素整っており、今嘩哄するは、是れ汝曹が太尉を累わすなり。」諸将が以て憲に告げると、憲は佯って悟って言った。「相公(岳飛)の腹心は、惟だ参謀のみこれを知る。」衆は乃ち定まった。戸部郎官を除し、再び荊南を知る。
桃源の劇盗の伍俊は既に招安されたが、復た謀叛を図り、提点刑獄の万俟卨が制することができず、乃ち以て弼に委ねた。弼は俊に靖州を与えることを許した。俊は喜んで言った。「我れ靖を得れば、則ち地は桃源を過ぐること遠し。」俊が至ると、則ち斬って徇とした。秘閣修撰・陝西転運使に遷り、左司郎官として召されて虔州を知り、黄州に移る。
当時、福州の大盗に「管天下」「伍黒龍」「満山紅」などの号する者がおり、その衆は甚だ盛んであり、鈐轄の李貴は賊に捕えられ、民は山砦を作って自保した。守臣の莫将は漳・泉・汀・建に委ね、強壮の遊手(無頼の徒)各千人を募って效用とし、殿司統制の張淵と同措置することを議した。未だ行わざるに、詔して弼を集英殿修撰に昇らせ、将と両易させた。弼が郡に至ると、漕臣は遊手は集め易く散じ難く、他日の患いとなることを恐れ、朝廷に聞こえた。事は下って弼に議させた。弼は謂って言った。「昔、章貢を守ったとき、武夫の周虎臣・陳敏という者あり、丁壮各数百人を有し、皆能く戦い、官軍を見れば一をもって十に当たる。」乃ち虎臣を副将とし、敏を巡検とし、丁壮千人を選び、「奇兵」と号し、日に糗糧を給し、賊を滅ぼすことを責めた。是より歳に銭三万六千余緡・米九千石を費やし、凡そ四年にして賊は平定された。弼は広州を知り、敷文閣待制に擢げられた。卒す。年六十三。
初め、秦檜が永嘉に居たとき、弼はその門に遊んだ。弼が湖北で盗賊を除いたとき、功を万俟卨に帰した。檜が岳飛を誣えて吏に下すと、卨は中司(御史中丞)として獄を鞫き、飛父子及び憲は皆死んだ。朱芾・李若虚も嘗て飛の謀議を為したことに坐し、職を奪われたが、惟だ弼のみ免れ、且つ檜に用いられ、屡々事任を更え、通籍して従官となり、世はこれをもって之を軽んじた。
羅汝楫
監察御史に拝される。一月を過ぎず、殿中侍御史に遷る。中丞の何鑄と交章して岳飛を論じ、その枢筦(枢密副使の職)を罷めさせた。朱芾・李若虚は嘗て飛の議曹(参謀官)となり、主帥に異意ありながら諫めることができなかった;又言う、飛の獄が具わり、寺官(大理寺官)が集って断じたが、皆死して余罪ありと謂い、寺丞の何彦猷・李若樸のみ喧然として衆議を非とし、軽典に従わんと欲したので、皆坐して黜けられた。王庶が道州に謫されると、郡丞の孫行儉が官廨を以てこれに居らせたので、汝楫はその忌憚無きを劾して当に斥くべく、且つ庶に徙居せしむべしと論じた。劉子羽が鎮江を知り、上言して「和好は久遠の計に非ず、宜しく暇に乗じて備えを為すべし」と言うと、檜は怒り、汝楫に風して論じ罷めさせた。
当時、撫州に両陳四という者が獄に繋がれ、誤って軽罪を論じて死罪としたので、汝楫はその冤を誦え、且つ言った。「独り獄官を罪して守卒を坐せざるは、祖宗の法に非ず。」ここに於いて詔して天下に死刑を断ずるに、守以下囚を引いて姓名・郷里を問いて然る後に決せしめた。又言った。「国家が臨安に駐蹕するは、淮南を度外に置くべからず、当に防海の寄を重くし、長江の要を守り、賞籍に名を竄することを革めて以て有功を勧むべし。」
起居郎兼侍講に遷る。帝が問うて「或いは『春秋』には貶有りて褒無しと謂う、この誼は是か」と。対えて言う。「『春秋』は上って天道に法り、春は生じ秋は殺す。若し貶して褒無ければ、則ち天道具わらず。」帝は善しと称し、嘗て言った。「王安石が『春秋』の学を廃して以来、聖人の旨は浸く以て明らかならず。近世その要を得る者は、惟だ胡安国と卿のみ耳。」中書舎人を兼権し、右諫議大夫を除す。
南雄守が奏対して言う。「太后の帰還は、和議の力なり。当に前に和議を不便と言う者を尽く按ずべし。」時の宰相(秦檜)はこれを是とし、驟かに用いて台官と為し、中外悚懼し、多く束装して派遣を待った。汝楫は言う。「皆罪すべからず。宜しく崇寧の事党(元祐党籍碑の事件)を以て戒めとすべし。」議は遂に寝んだ。
御史中丞に遷る。旧例として、中丞と侍御史は併置せず、乃ち侍御史に改める。汝楫は去ることを益々力めて求め、吏部尚書に遷り、国信使を充てる。龍圖閣學士を除され、嚴州知州となる。任期満ちて、祠官を請い、喪に服する未だ終わらざるに卒す。年七十。累贈して開府儀同三司となる。子に顥・籲・頡・頌・願・類あり、皆文あり。
子 願
願は、字を端良とし、博学で古を好む。秦・漢に法りて詞章を作り、高雅精煉にして、朱熹特に之を称重す。『小集』七巻、『爾雅翼』二十巻あり。鄂州を知り、治績あり。父の故を以て敢えて岳飛廟に入らず。一日、自ら吾が政善しと思い、姑く往きて之を祠らんとし、甫く拝せんとして、遽かに像前に卒す。人、飛の憾み釋けざるを疑うという。
蕭振
蕭振は、字を德起とし、溫州平陽の人なり。幼くして莊重、弄ぶを好まず。稍く長じて、自ら學を謀る能う。嘗て父命を奉じ農役を隴畝に董むるも、手巻を釋かず、其の師其の父に謂いて曰く、「此兒遠大の器なり」と。未だ冠せずして郡庠に遊び、既に冠して太學に升る。時に「三賢」と號する者有り、振を推して首と為す。政和八年進士第に登り、信州儀曹に調う。
時に州郡神霄宮を奉ずるに務めて侈靡、振は財を費やし民を労するを欲せず、守と議合わず。会に方臘東南を寇し、信に距ること尤も近し、守は振を危うからんと欲し、檄して振に貴溪・弋陽の二邑を攝らしむ。既にして王師衢に至り、又檄して振に軍餉を督めしむ。振治辦して闕無し。大将劉光世見て之を喜び、軍中の俘馘を以て振に授け賞と為さんと欲す。振辭して曰く、「豈に矢石を冒さずして人の功を貪らんや」と。諸邑の盜未だ息まず、守復た檄して振を初めの如くせしむ。振悉く意を區處し、其の自新を許す。賊降る者多し。守贓を以て去るに、振獨り爲に行を辨す。守愧謝す。
婺州兵曹兼功曹に調う。時に振の婦翁許景衡、給事中を以て召さる。振之を祝して曰く、「公朝に至り幸いに薦を見る勿れ」と。景衡其の故を詢う。振曰く、「今執政多く其の親を私す。願わくは時爲に弊を革せん」と。景衡之を然りとす。
時に盜賊所在猖獗し、婺の卒揚言して叛して賊に応ぜんと欲すとし、官吏震恐す。振諸邑の士兵強勇なる者幾千人を選び、日武を習いて備え、異謀を蓄むる者稍く懼る。一兵官素より軍士の心を得、守疑いて之を罷む。群卒数百人甲を被り刃を挺ち、儀門を斬って入る。振聞き即ち往く。群卒皆羅拜して呼びて曰く、「某等屈抑せらる。願わくは兵曹之を理せよ」と。振之をして言わしめ、厲色叱して曰く、「細事なる耳。車駕南巡し、大兵咫尺す。汝速に死せんとするか。急ぎ械を釋くべし。當に汝が爲に言わん」と。衆拜謝して去る。郡守是より益々相信じ、事悉く與に謀る。嘗て城守を議す。振請うて錢數萬緡を以て工を庸い板築せしむ。數月未だだずして、城壘屹然たり。一毫も擾さず。任滿ちて歸り、其の親に告げて曰く、「家世農を業とす。幸いに田有りて力を以て甘旨を奉ずる可し。振は仕えんと願わず」と。或る者朝に薦む。婺州教授を授けられ、秩を改め、祠を乞う。
執政の薦を以て召對に応じ、數事を敷奏す。皆時に中り病む。帝大いに喜び、監察御史を拜す。明年冬、親老を以て外補を乞う。章七たび上るも、許さず。面奏して曰く、「臣が親に事うる日の短く、陛下に事うる日の長きを」と。心を指して自ら誓いて曰く、「今日の父母に事うるは、乃ち他日の陛下に事うるなり」と。遂に提點浙西刑獄を除し、尋いで召されて宗正少卿と爲り、俄かに侍御史に擢でらる。
振本より趙鼎の薦する所、後秦檜に因りて臺に引入る。時に劉大中と鼎と和議を主とせず、振遂に大中を劾して以て鼎を搖がす。大中既に出づ。振人に謂いて曰く、「趙丞相の如きは必ずしも論ずるに及ばず。盍ぞ自ら去就を爲さん」と。鼎遂に罷む。
後、振紹興府を知り、兵部に改め、徽猷閣待制を除され湖州知州となる。陛辭に、奏して曰く、「國家和を講ず。諸將の心を失わんことを恐る。宜しく使を遣わし撫諭し、朝廷の兵を息め民を寬むるの意を示すべし。兩國通好すと雖も、戰禦の備え宜しく弛むべからず」と。帝曰く、「卿は親を奉じて便を求めんと欲す。豈に朕に親有るを知らざらんや」と。振曰く、「臣が親の係る所は一夫なり。陛下の親の係る所は天下なり。陛下天下を以て心と爲せば、聖孝愈々光らん」と。帝其の忠を歎ず。將に行かんとし、檜に白して曰く、「宰相は一元氣の如し。私ある可からず。私あれば則ち萬物之が爲に生ぜず」と。檜悅ばず。
振州に至る。檜羨餘を取らんと欲す。振檜に書を遺し、謂いて曰く、「財用天下に在るは、血氣の一身に在るが如し。左を移して右を實くれば、則ち病む」と。檜私事を以て屬すも、又克く盡く從わず。親老を以て祠を乞い、太平觀を提舉す。後、台州を知る。海寇勢い張る。振至りて之を克つ。
明年、詔して敷文閣待制・成都府知府・安撫制置使を除す。軍儲適た闕く。倉吏窘しきを以て告ぐ。振奏して對糴米八萬斛を留めて以て軍食を足し、其の直を計所に歸す。總計者は掊克に利在り、即ち先ず檜に告げ、振闕乏の語を唱うと謂い、御史を風して振の譽を要するを劾せしむ。復た池陽に謫す。而して總計者は譖を以て蜀帥を得。既にして專ら羅織を以て其の民を掊克す。民益々振を思う。
檜死す。語聞こえ得る。帝大いに感悟す。亟に振を遣わして還り成都に至らしむ。父老歡呼して蜀道す。振至りて、一切寬を以て治む。或る者其の故を問う。振曰く、「縱弛を承くれば、之を革するは嚴なるべし。今苛劾を繼ぐ。寬からざれば則ち民力瘁る」と。帝振の治行を嘉し、宰臣沈該・湯思退に謂いて曰く、「四川の善政、前に胡世將有り、今に蕭振有り」と。秩を四等進め、敷文閣學士を加う。成都府治に卒す。年七十二。振兩たび蜀守と爲り、威行き惠孚く。死するの日、民老稚無く、相與に道に聚り哭す。遺表至る。帝悼惜し、賻に銀五百兩・絹五百匹を賜い、四官を贈る。
振は善類を奨励することを好み、端人正士と多く交わり識り、その中に卓然として抜きん出る者あり、遂に名臣となる。振は江辺に居住し、父が微賤の時より、往来の客が渡し守と争い多く溺死するを見る。振は大船を造り、雇い人夫を用いて渡し、人その徳に感じ、相与にその江を蕭家渡と名づく。文集二十巻あり。子に諴・忱あり。
論じて曰く、何鑄・王次翁以下の数人は、秦檜に附麗し、忠良を斥逐し、以て富貴を貪り、而して次翁は特に柔媚なり、故に檜独り之を憐れむ、其の在位最も久し。孔子の所謂る鄙夫は得んことを患え失わんことを患え、至らざる所なしとは、此の輩是れ已なり。鑄は岳飛の枉を伸ぶる能く、雖も尚ぶ可きも、然るに又之が為に金に使いして通問す、蓋し其の術に堕ちて悟らざる者なり、檜の計深きかな。