宋史

列傳第一百三十八 章誼 韓肖冑 陳公輔 張觷 胡松年 曹勛 李稙 韓公裔

章誼

章誼、字は宜叟、建州浦城の人。崇寧四年の進士第に登り、補はれて懐州司法参軍となり、漳州・台州の二州教授・杭州通判を歴任した。建炎初年、陳通が銭塘を寇し、城門は閉ざされた。部使者が檄を飛ばして章誼に杭州七県の弓兵を集めさせ、以て声勢を張らせた。時に王淵が賊を討つに及び、章誼は王淵に随って城に入ることができ、賊が平定されると、直ちに撫定を加え、人皆その恩徳を感じた。

帝が臨安に幸すると、苗傅・劉正彦が変を起こし、帝は楼に御し、宰臣・百官皆在ったが、人心は騒然としていた。帝が群臣に問うて曰く、「今日の事は如何。」浙西安撫司主管機宜文字の時希孟が直ちに曰く、「三軍に問うことを乞う。」章誼が班を越えてこれを叱して曰く、「三軍に問うとは何の義ぞ。乱を鼓舞しようとするのか。」希孟は退き立って息を潜めた。帝はこれを嘉した。事が定まると、希孟を吉陽軍に流し、章誼は二階級を進められ、倉部員外郎に抜擢された。二浙に奉使し、祠牒を貿易して以て軍用に充てたが、稽遅の罪で罷免された。未だ幾ばくもせず、召されて駕部員外郎となり、殿中侍御史に遷った。

張浚が陝西を宣撫すると、章誼は奏上した、「趙哲が退敗して以来、事任は既に重く、処断は太だ専にして、副貳を除き、以て自ら助けしむべきなり。」何㮚が贈官されると、章誼は論じて、その折衝に謀無く、守禦に策無きは、乃ち中国の禍を招く首魁なりとし、贈免を止めることを乞うた。

邵青が太平より舟に乗って平江に抵り、至る所で劫掠した。章誼は駐蹕の地に水軍を置くことを請い、且つ言う、「古の舟師に三等あり、大なるは陣脚と為し、次は戦船と為し、小なるは伝令と為す。皆な戦守の備と為し得る。」と。詔して淮南の三宣撫に措置せしむ。章誼はまた戦守の四策を献じ、謂う、「金人は累歳南侵し、我も亦累歳奔走す。蓋し国を謀る臣の陛下を誤れるなり。比者揚州に駐蹕し、兵数十万あり、以て一戦し得たり。斥候明らかならず、金人奄かに至り、江を踰えて東す。此れ宰相黄潜善・汪伯彦の過ちなり。前年、建康に蹕を移し、兵練れ将勇にして、長江の険に拠れば、守るべかりしなり。舟師設けず、二相意を異にし、金人未だ至らざるに、海に遵って南す。此れ宰相呂頤浩の過ちなり。知らず、今年の守戦の策は何れの所より出づるか。執政大臣誰か陛下の為に此の事を任ずる者あらんや。臣愚かに謂う、江海有れば必ず舟楫戦守の具を資し、険阻有れば必ず郡県防守の力を資し、兵将有れば必ず駕馭撫循し、将帥自衛の資と為すべからず。糧賦有れば必ず漕運転輸し、盗賊侵拠の用と為すべからず。此の四者を各々能臣に付し、路を分かちて以て弁ぜしめ、賞を重くし罰を厳にせば、誰か命を用いざらん。」と。

詔して保民・弭盗・遏寇・生財の策を問う。章誼対えて曰く、「姦貪残虐の吏を去らば、則ち民は保たれん。循良廉平の吏を用いば、則ち盗は弭がれん。敵寇未だ遏がれざるは、折衝禦侮の臣を得ざるによる。財賦未だ裕かならざるは、財を掌る心計の臣を得ざるによる。凡そ此の四者は、人を任じて法を任ぜざれば、則ち政治は得て治むべし。」と。

詔して明堂配享を集議す。胡直儒等は天地を合祭し、而して太祖・太宗を以て配することを請う。章誼言う、「経旨に稽うれば則ち未だ合せず、典故に参すれば則ち未だ尽きず、事帝に施せば則ち未だ簡厳と為さず。今国家既に太祖を以て天に配して郊に祀り、周の后稷に比す。則ち太宗は宜しく明堂に帝に配し、以て周の文王に比すべし。仁宗皇祐二年、始めて明堂に天地を合祭し、並びに祖宗を配す。乃ち一時の変礼なり。嘉祐七年に至り、再び宗祀を行い、既に皇祐の非を悟り、乃ち配享を罷め、仍って地示の位を徹す。故に並侑の煩文を去るの詔有り。嘉祐の詔の如きは、則ち太祖地示は已に祭に与せず。元豊正祀典の詔は、則ち悉く群祀を罷む。臣等謂う、将来明堂の大饗は、宜しく専ら昊天上帝を祀り、而して太宗を以て配すべし。」と。後に果たして行われず。

紹興二年、大理卿を除す。宰相が平江府を知ることを奏す。帝曰く、「誼は儒者なり。其の奏讞平恕なるに頼り、民をして冤しましめず。外補することを令するなかれ。」と。尋いで権吏部侍郎を除し、「詔して有司に四選通知の条を編類せしめ、一司専用の法と、兼ねて前後続降の指揮を以て、自ら一書を成さしむべし。此くの如くすれば則ち銓曹に守るべき法有り、姦吏文を舞うの弊無からん。書成りて吏銓執守する所有らん。」と乞うた。

刑部侍郎兼詳定一司敕令に改む。章誼奏す、「比来紹興の敕令格式を修す。其の忠厚の意は則ち祖宗に本づき、其の綱条の挙ぐるは則ち旧貫に仍る。今有司に在りて日既に久しく、州県に推行し、漸く牴牾を見る。疑いを承けて遵用せんと欲すれば、則ち衆聴惑いて孚らず。事に因りて申明せんと欲すれば、則ち法屡変じて守り難し。詔して監司・郡守と承用官司に、祖宗の旧典を参考せしめ、各々新書の闕遺を摭い、条具して以て聞かしめ、然る後に官を命じて審訂刪去せしめ、著して定法と為すことを乞う。」と。

徽猷閣直学士・枢密都承旨に遷る。章誼奏す、「漢には南北両屯有り、唐には南北両衛有り、皆な天子自ら将うるの兵なり。祖宗の置く所の殿班親軍は、禁門の内に処り、皆な天下の選を極む。今日神武の兵は五軍に萃まり、多くは逃亡の余、市井の人なり。殿班親軍は侍衛に倚る所なれど、曾て千百無し。願わくは陛下漢・唐の南北禁衛の意を酌み、本朝の班直を遴選するの法を修め、五軍及び諸州を選び各々一衛と為し、合せて万人を取り、分かって両衛と為さば、則ち禁衛増して厳しく、王室大いに競わん。」と。

四年、金は李永寿・王翊を遣わして来たり、劉の俘虜及び西北の人にして東南に在る者の還付を求め、又江を画して以て劉豫を益さんと欲す。時に議して之を難じ、大臣を遣わして報使とせんと欲す。参政の席益は母老を以て辞し、章誼を薦めて代とす。章誼に龍図閣学士を加え、軍前奉表通問使を充て、給事中孫近之を副えしむ。章誼雲中に至り、粘罕・兀室と事を論じ、少も屈せず。金人は速やかに還ることを諭す。章誼曰く、「万里の命を銜み、兼ねて両宮を迎えんとす。必ず請を得て俟たん。」と。金人は乃ち蕭慶に命じて書を授け、併せて風聞の事を以て章誼を責む。章誼其の自る所を詰む。金人は実を以て告ぐ。乃ち還る。南京に至り、劉豫之を留む。計を以て得て帰る。帝嘉み労い、刑部尚書に擢ぐ。

是の冬、帝親征し、王師淮陰に大捷す。章誼扈従す。臨安に還り、戸部尚書に遷る。章誼言う、「祖宗官を設けて財を理む。内には則ち戸部、外には則ち諸路の転運使・副、東南の委輸最も盛んなれば、則ち又発運を置き、以て諸路の供輸の入を督む。皆な移用補助の法有り、戸部の仰ぐ所以て乏しからざるなり。今川・広・荊湖の土貢歳輸、王府に入らざること累年なり。皆な発運使の失職の罪なり。頃に汴京に定都するに因り、故に発運使は真・泗に司を置く。今呉会に駐す。則ち発運は当に荊湖南北の間に在るべし。願わくは発運置司の地を討論し、能臣を選び以て其の任に充てしめん。」と。又言う、「戸部左右曹の設け、諸路の運司は則ち左曹の属なり、提挙は則ち右曹の属なり。若し復た発運司をし、諸路に各々転運使副二員を置き、一員を以て常平を検察せしめ、以て右曹の選に応ぜしめば、則ち戸部の財用陷失すること無からん。」と。

五年、病を以て郡を請う、龍圖閣學士・知溫州を除す。時に歳大旱に適し、米一斗千錢、誼は劉晏の招商の法を用い、場を置き直を増して以て糴し、米商輻湊し、其の價自ら平らかなり。部使者状を以て聞く、詔して官一等を遷す。六年、平江を守るに移す。時に将に臨幸せんとし、供億繁夥なり、誼之を処するに皆理に当る。召して対し、帯笏を賜い、帝曰く「此れ以て卿の労を償うに足らず、其れ謝する勿れ」と。

明年、建康に移蹕し、復た戸部尚書と為る。誼営田の策を奏し、謂う「京西・湖北・淮南東西は失業者最も多く、朝廷必ずや家に牛種を与え、人に錢糧を与えて以て耕を勧めんと欲すれば、則ち財力足らず。今三大将各一路に屯し、若し各数県の地を捐てて将士に均しく与え、其の余を収めて以て転輸を省かば、小補に非ず」と。

七年、帝臨安に還り、誼を以て端明殿學士・江南東路安撫大使・知建康府兼行宮留守と為す。未幾、毫州明道宮を提挙し、代わりて還る。八年卒す、年六十一、諡して「忠恪」と曰う。

誼は寛厚なる長者なり、故事に、臺官事を言うは、怨みを挟みて以て己の私を快くするに非ざれば、即ち仇家の言を用いて人の為に報復す、誼独り大體を存し、士論之に帰す。朝に立ちて事を論じ、奏疏数十百篇に慮り無く、皆国を経め時を済すの策なり。初め、席益誼を薦めて金に使わしむ、帝曰く「誼も亦た母老ゆ、朕自ら之を諭すべし」と。誼命を聞き、略々難色無く、其の家人に戒めて母に知らしむる勿からしむ。将に行かんとし、母に告げて曰く「是の行は数月に即ち帰らん、大いに往年の太学謁告の時に似たり」と。及び還り、母竟に其の金に使えるを知らず。誼卒す、母年九十二。子八人:駽・駒・駟・驔・𩤏・駉・馳・駰。

韓肖胄

韓肖胄、字は似夫、相州安陽の人。曾祖は琦、祖は忠彥、再世相と為る。父は治。肖胄は蔭を以て承務郎を補し、開封府司録を歴る。府尹と殿中に同対し、徽宗其の家世を問い、同上舎出身を賜い、衛尉少卿を除し、三品服を賜う。

尋いで給事中を仮し、賀遼国生辰使を充つ。既に還り、時に治相州を守り、祠を請う。肖胄因り外に補して疾に侍るを乞う、詔して直秘閣・知相州を除し、其の父の任に代わる。陛辞し、帝曰く「先帝韓氏に相に世官せしむるを詔す。卿父子相代わり、栄事なり」と。相に在ること四年、王師燕を伝う、肖胄策す幽薊且つ変有らんと、宜しく陰に守備を為すべしと。已にして金騎境に入り、野に掠うる所無くして去る。

建炎二年、江州を知り、入りて祠部郎と為り、左司に遷る。嘗て言う「中原未だ復せず、恃む所は長江の険、淮南実に屏蔽と為る。沃野千里、近く多く荒廃す、若し広く農事を修めば、則ち転餉省くべく、兵食足るべし」と。是より局を建康に置き、屯田を江淮に行う。又詔に応じ五事を陳ぶ、曰く:斥候を遠くし、戍兵を戢え、海道を防ぎ、中原を援け、軍政を修む。工部侍郎に擢でらる。

時に川・陝の馬綱路通塞常ならず、肖胄広西邕州に司を置き、諸蕃馬を互市せんことを請う、詔して之を行わしむ。時に侍従を召して戦守の計を問う、肖胄条奏千余言、帝其の対する所の事理簡当なるを称す。吏部尚書席益歎じて曰く「古を援け今に証し、時用に切る、世官に非ざれば能わざるなり」と。

紹興二年、詔して百官各々省費裕国・強兵息民の策を言わしむ、肖胄言う「天下の財賦の窠名、旧く悉く三司に隷す、今戸部には惟だ上供の目のみ有るのみ。諸路の窠名を戸部に問えば、戸部悉くせず、諸州の窠名を漕司に問えば、漕司悉くせず、一つの窠名を失えば、則ち此の項遂に亡ぶ。願わくは諸路の漕司に詔し、州県の出納を括り、罷すべきは之を罷し、併すべきは之を併し、定籍を立てしめよ。漕司諸州を総べ、戸部諸路を総べば、則ち失陷無からん。経費の大なるは、兵を養うに過ぎず。今人亡くして冒請する者衆し、願わくは諸軍の核実の法を立て、将帥の冒請の罪を重くせば、則ち兵数実を得、餉給虚しからず、費を省き国を裕かにする、此れ其の大なる者なり。生民常賦の外、軍期を迫られ、吏縁りて姦を為し、斂取百端。復た寇に迫逐せられ、田桑時に失い、寇去りて復業し、未だ息肩に及ばず、催科の吏已に其の門を呼ぶ。願わくは郡邑に詔し、流散を招集し、官之に種を貸し、三年に及び俟て、始めて其の賦を責め、籍を置きて之を書き、以て殿最を課せしめよ、兵を強くし民を息ます、此れ其の先なる者なり」と。時に多く採納す。又天地・日月・星辰・社稷の祀を復すことを請う、是に於て有司に下して一歳の祭礼を定めしむ。

吏部侍郎に遷る、時に条例散失し、吏因りて姦を為す、肖胄重賞を立て、俾く各省記せしめ、条目に編み、以て次第に行わしむ、舞文の弊始めて革まる。陣亡補官は、占射差遣を得、而して部の常調の人に在りては、守待して注授能わず、且つ短使重難有り。肖胄請う陣亡は惟だ本家に恩例を用いることを許し、異姓は経任を俟ちて収使せしめば、遂に均しからずんばあらず、且つ六部出入の禁を厳にし、而して請託行われず。

三年、端明殿學士・同簽書樞密院事を拝し、通問使を充つ、胡松年を以て之に副えしむ、肖胄慨然として命を受く。時に金酋粘罕専ら政を執り、方に兵強を恃み、和戦離合の策を持し、行人皆之を危ぶむ。肖胄入りて奏して曰く「大臣各々己見に循り、致して和戦未だ定論有らず。然れども和は乃ち権時の宜しきなり、他日国家安強、軍声大振せば、誓って此の仇恥を雪すべし。今臣等行き、或いは半年にして命に返らざれば、必ず復た謀有らん、宜しく速やかに兵を進むべく、臣等の彼に在るを因りて之を緩くす可からず」と。将に行かんとし、母文之に語りて曰く「汝家世国恩を受け、当に命を受けて即ち行くべく、我が老いを以て念う勿れ」と。帝賢母と称し、栄国夫人に封ず。

肖胄金国に至る、金人其の家世を知り、甚だ之を重んず、往復纔かに半年。帝即位より、使者凡そ六七年未だ嘗て報聘せず、是に至りて始めて人を遣わして偕に来らしむ。肖胄先ず北使入対し、朱勝非と議合わず、力を極めて去らんことを求む、旧職を以て溫州を知り、臨安府洞霄宮を提挙す。

紹興五年、詔を下して前の宰執に戦守の方略を問うたところ、肖胄は言上した、「女真等の軍は皆、西兵の勁鋭にして善戦なることを畏服しております。今、三帥の統べる所は多く西人であり、呉玠が引き続き捷奏を上げ、軍声はますます振るい、敵の意は必ず動揺するでしょう。攻戦の利は、臣固より知るところであります。荊・襄より江・淮に至るまで、綿々と数千里に亘っておりますが、文武の臣僚を選んで巡行し計度させ、険阻の地を求め、兵を屯し糧を積ませ、そうすれば形勢相接することになります。今、淮東・西には宣撫使を命じたとはいえ、然しながら将屯して司を置くのは、乃ち江上に在り、派遣する偏裨が分守するも、軽兵を以て資するに過ぎず、勢孤にして力弱く、その固志を責むるは難し。当に二将を江北に移し、藩籬を固くすべきです。」また言上した、「諸大将の兵は自ら庭戸を主とし、互いに仇疾し合っております。もし併せて派遣して進攻させようとするならば、宜しく先ず総帥を命じ、精鋭を分けて、自ら一軍を成し、号令既に一ならば、諸将誰か敢えて命を聴かざらんや。畿甸・山東・関河の民は金人を怨み骨髄に徹しております。当に流亡を安集し、帰附を招き懐けることを先とすべきです。今、淮南・江東西には荒田甚だ多く、もし境上の人を招き、田を授け糧を与え、その賦租を捐てば、必ず接跡して至るでしょう。」また奏上した、「江の南岸には、曠土甚だ多く、沿江の大将は各々地を分けて屯し、軍士で旧より農たる者は十の五六、その甚だ精鋭ならざる者を選び、之をして力耕せしめ、農隙には則ち習う所の技藝を試み、秋成には則ち種うる所の禾麥を均しく分かち、或いは江北の流徒及び江南に無業にして遷るを願う人を募り分け与え、営屯を創めます。止むときは則ち固守し、出づるときは則ち攻討すべきです。」常州の知州として起用され、行在に召し赴かせられ、万寿観の提挙となり、尋いで簽書樞密院事を除かれた。

和議既に定まり、再び肖胄を命じて報謝使とした。接伴の者が境で迎え、謝恩使と称すべきであると言った。肖胄が論難すること三四度、遂に言葉に詰まった。既に到着すると、金は人を遣わして館に就き事を議したが、肖胄は問いに随い随い答えて、衆皆聳然として聴いた。その還るに当たり、氈車及び頓遞宴設を与えることは、肖胄より始まった。

資政殿学士・知紹興府を除かれた。尋いで祠官を奉じ、その弟の膺胄と越に寓居すること幾十年。母に事えること孝を以て聞こえ、弟至らざれば食さず、得る所の恩沢は、皆先ず宗族に給した。卒す、年七十六、諡して「元穆」と曰う。

韓琦が相州を守り、晝錦堂を作り、韓治が榮歸堂を作り、肖胄また榮事堂を作り、三世郷郡を守り、人これを以て榮と為した。

陳公輔

陳公輔、字は國佐、台州臨海の人。政和三年、上舍及第し、平江府教授に調せられた。朱勔が寵幸を受けている時、官に当たる者は奴の如くこれに事えたが、公輔は全く交わりを持たなかった。勔に兄の喪があり、諸生が弔問に行こうとしたが、公輔は告を与えなかった。勔は悦ばず、権要に諷して公輔を越州に移させた。累遷して権応天府少尹となり、秘書郎を除かれた。

靖康初め、二府には宣和の旧人が多かった。公輔は言上した、「蔡京・王黼が事を用いること二十余年、臺諫は皆これに縁って進み、唐重・師驥は太宰李邦彥に引用され、謝克家・孫覿は纂修蔡攸に引用され、及び邦彥が相となると、また附麗して進みました。この四人の者、臺諫の任に処するに、臣はその決して宰相大臣の過ちを言わざるを知ります。願わくは人臣の中より樸茂純直にして、能く貧に安んじ節を守り、権幸に附せず、慷慨して事を論ずる者を選び、之を臺諫に列ねば、則ち任ずる所人を得、禮義廉恥稍々振るい起こり、敵国これを聞きて、豈に畏服せざらんや!」時に呉敏・李綱が協わず、公輔は奏上した、「陛下初めて萬機に臨まれ、正にその同心合謀に頼るべきに、而るに二臣和せず、既にその跡有り、願わくは聖訓を以て諭し、務めて一心を以て国家を安んぜしめられんことを。」

徽宗が江を渡り未だ還らず、人情疑懼す。公輔は父子の義を力陳し、宜しく大臣を遣わして迎え奉ずべきとす。欽宗これを嘉し、右司諫に擢げられた。孟夏に景霊宮を享け、遂に陽徳・佑神観に幸す。公輔は平時の如く事宴遊すべからざるを諫め、「蔡京父子は姦を懐いて国を誤り、終に行遣せられず。今朝廷の公卿百執事、半ばその門より出ず、必ずこれを庇う者有らん。」と論じた。詔して京を崇信軍節度副使に貶謫し、徳安府に安置させた。また奏上した、「朱勔の罪悪、都城の民は皆既にその家を族滅せりと謂う。乞う、その子姓の上皇に随い入京するを許すなかれ。」

時に公輔を李綱の党と指し、士庶を鼓唱して闕に伏せしむる者有り。公輔自ら列ね、因りて位を辞し、後三事を陳べた。その一は李綱は書生にして軍旅を知らず、太原を援け遣わすは、乃ち大臣の陥れる所となり、必ず事を敗らんと言い、その二は余応求は言を以て遠く謫せらるべからざるを言い、その三は方に祖宗の法度を復するに、馮澥は更に熙寧・元豊の政を論ずべからざるを言った。語、時宰に触れ、遂に応求・程瑀・李光と俱に罪を得、合州税監に斥けられた。

高宗即位し、召し還され、尚書左司員外郎を除かれた。明年、始めて維揚に達した。初め、李綱が政を得、公輔は外より郎官を除されたが、未だ至らぬ内に綱罷め、南剣州に改められ、尋いで宮観を予された。

紹興六年、召されて吏部員外郎と為る。疏を以て言上した、

「今日の禍は、実に公卿大夫に気節忠義無く、天下国家を維持する能わざるに由る。平時既に忠言直道無く、緩急詎んで肯て節を伏し義に死せんや。豈に王安石の学術これを壊さざらんや。議者は尚お安石の政事は善からずと雖も、学術は尚お取る可しと謂う。臣謂う、安石の学術の不善は、政事に尤も甚だし。政事は人才を害し、学術は人心を害す。《三経》・《字説》は聖人を詆誣し、大道を破碎す、一端に非ず。《春秋》は名分を正し、褒貶を定め、乱臣賊子をして懼れしむ。安石は学者をして《春秋》を治めしめず。《史》・《漢》は成敗安危・存亡理亂を載せ、聖君賢相・忠臣義士の龜鑑と為す。安石は学者をして《史》・《漢》を読ましめず。王莽の篡するに、揚雄は死する能わず、又これに仕え、更に《劇秦美新》の文を為す。安石乃ち曰う、『雄の仕うるは、孔子の無可無不可の義に合う』と。五季の乱に、馮道は四姓八君に事う。安石乃ち曰う、『道は五代時に最も善く、難を避けて身を存す』と。公卿大夫をして皆安石の言を師とせしむれば、その気節忠義無きも宜なり。」

再び左司諫を授けられ、中興の治は天を得人を得るに在り、孝を以て天を感し、誠を以て民を得ると言上した。帝その深く諫臣の体を得たるを善しとし、三品服を賜い、尚書省に令して図を写し進入せしめ、以て観覧の便と為した。

公輔は帝の知遇に感じ、益々忠鯁を罄き、「正心は学を務むるに在り、治国は人を用うるに在り、朝廷の禍は朋党に在り。」と言上した。仍りて輪対の官を増すことを乞い、審計・官告・糧料・榷貨・監倉及び茶場等の官に、己見有らば、面対を許すべしと令した。時に詔有りて将に建康に駐蹕せんとす。公輔は疏を上して攻守の策を陳べ、且つ大臣を選び淮西を鎮めさせ、兵将を増して要害を守らせ、西は鄂・岳に連なり、東は楚・泗に接し、皆掎角の形有らしむるを乞うた。

徽宗の訃が至り、公輔は宮中に三年の喪を行い、視朝には淡黄の服を着け、群臣は未だ純吉服とすべからず、明堂は未だ当に徽宗を以て配すべからず、宜しく臨軒策士を罷むべしと請うた。また権めて講筵を罷むることを乞うたが、事行われず。

尚書礼部侍郎に遷る。時に趙鼎が人材の進退は己が職分なりと上言し、上疏がやや公輔を侵したため、祠官を強く請う。集英殿修撰・提挙江州太平観を除され、まもなく処州知州となる。徽猷閣待制に昇進し、太平観提挙に任ぜられる。卒す、年六十六、太中大夫を贈られる。文集二十巻、奏議十二巻あり、世に行わる。公輔は事を論ずるに切実にして、悪を疾むこと仇の如く、ただ程頤の学を右とせず、士論これを惜しむ。

張觷

張觷は字を柔直といい、福州の人である。進士に挙げられ、小官となったが、世と詭随せず。時に蔡京が国政を執り、子弟を善く訓える者を求めていた。觷がたまたま部に到着したところ、蔡京の族子応之が觷を推薦した。觷は再三辞したが、許されず、遂に館に就いたが、蔡京も未だ暇なくして彼と接しなかった。觷は厳毅聳抜、意度凝然として、他の師とは異なり、諸生はすでに堪え難く思っていた。ある時突然彼らに言うには、「汝らはかつて走ることを学んだか」と。諸生は驚いて問うて言うには、「かつて先生が読書して徐行することを教えられたと聞きますが、走ることを教えられたとは聞きません」と。觷は言う、「天下は汝らの父によってここまで破壊され、旦夕に賊が来れば、まず汝らの家に至るであろう。汝らは善く走るのみで、かろうじて死を逃れ得るのみである」と。諸子は大いに驚き、急いで聞いたことを蔡京に告げて言うには、「先生は心を病んでおられます」と。蔡京は矍然として言う、「これは汝らの知るところではない」と。即座に觷に会って深く語り合った。觷は慷慨として言う、「宗廟社稷は、危うきこと旦夕に迫っている」と。蔡京は顔色を正して策を問うと、觷は言う、「急ぎ耆徳老成を引きいて左右に置き、以て上心を開導すべきである。天下の忠義の士を羅致し、内外に分布させることが、第一の要義である」と。蔡京はそこで彼の知る者を尋ねると、遂に楊時を推薦した。そこで楊時を召し寄せた。

觷は後に南剣州を守り、福建路転運判官に遷る。未だ赴任せず、范汝為が建州を陥落させ、葉徹に衆を擁させて南剣を寇掠させた。時に統制官任士安は城西に軍を駐め、力戦しようとせず、觷は独り州兵を率いてこれと戦い、数隊に分け、城中に羊・牛・豕を殺して肉串を作らせ、また多く飯を具えさせた。戦おうとする時は、まず第一隊の者に食わせ、飽きたら、これを陣に入れ、すぐに第二隊の者に食わせ、派遣した兵力が将に困窮する頃合いを見計らって、即ち第三隊の者を派遣して代えさせ、第四から五六隊もまたこのようにした。更迭して交戦し、士卒は飽いて力に乏しきことなし。葉徹は流れ矢に当たって死に、衆は敗走した。觷は士安が功無きことを懼れるを知り、即座に葉徹の首を函に入れて彼に与えた。州兵は皆憤ったが、觷は言う、「賊は必ず再び来る。大軍と合力せずしては破ることはできぬ」と。士安はこれを得て大いに喜び、遂に諸司に馳せ報じて、自ら葉徹を斬ったと称した。未だ幾ばくもせず、葉徹の二人の子が果たして衆を引きいて父の仇を復すと声言し、縞素を着て攻めて来た。ここにおいて士安と州兵が挟撃し、これを大破した。城はこれによって全からしめられた。

再び処州知州となり、かつて大舟を造らんと欲し、幕僚はその費用を計算できなかった。觷は一小舟を造り、その尺寸を量り、十倍にして算することを教えた。また紹興園神廟の垣を築かんとする者があり、工匠を召して計算させると、八万緡の費用と云った。觷は自ら一丈の長さを築き、約算して二万の値とすべきことを教え、即座に二万を工匠に与えた。役を監督する内官は得る所なく、乃ち上奏して紹興は空乏にして賄い難しとし、太后遂に自ら出銭し、三十二万緡を費やした。直龍図閣を以て虔州知州となり、余寇を蕩平し、秘閣修撰に進み、卒す。後に邵武に廟食す。

胡松年

胡松年は字を茂老といい、海州懐仁県の人である。幼くして孤貧、母は機織りを売り、学資を与えて学ばせた。読書は過目不忘、特に『易』に精通した。政和二年、上舎生として及第し、濰州教授に補せられる。八年、便殿で賜対し、徽宗はその状貌の魁偉なるを賞し、校書郎兼資善堂賛読に改める。殿試参詳官となり、沈晦を第一とし、徽宗は大いに悦んで言う、「朕は久しく晦の名を聞く、今ようやくこれを得たり」と。中書舎人に遷る。

時に燕雲の地に事有らんとし、松年は累章を上じて辺境の争いが一旦開かれれば、言い尽くせぬことがあると論じた。時に宰相の意に逆らい、太平観提挙となる。建炎年間、中原の利害を密奏し、行在に召し赴き、平江府知府として出向する。未だ境に入らぬうちに、貪吏は印を解き跡を潜め、興利除害十七事を都市に掲示し、百姓これを便利とした。徽猷閣待制を加えられる。江防の利害を奏上す:一に国を立つるに藩籬の固き無きこと、二に将を遣わすに首尾の援け無きこと、三に敵の技の短き所を攻めざること。

中書舎人に召される。武昌・九江・建昌・京口・呉江・錢塘・明州・越州に各々水戦士三千を屯させて備えとすべきことを言上する。唐恪が観文殿学士を追復されんとした時、松年は奏状を返上して言う、「靖康の禍は、何㮚の軽脱寡謀によるものであり、罪の首と為すべきである。去年秦檜が朝に還り、力めてその義に抗い正を守ることを称え、遂に褒贈を受けたが、既に士論に大いに逆らっている。今、恪の子琢が自ら陳うに、その父は二帝を迎請する謀を伸ばすを得ず、薬を飲んで死せりと。この事は凛然として、古人に追蹤す。宜しく有司に詔して実状を詳かに考せしめ、虚美に堕さず、以て激勧を示すべし」と。

給事中を除される。時に将帥を選ぼうとし、松年は奏上す、「富貴なる者は善を為し易く、貧賤なる者は功を為し難し、上に在る者の識擢如何によるのみ。願わくは陛下自ら出でて軍を労い、即ち行伍の中に捜簡し、必ず時に用いるべき者あり」と。また奏上す、「中原を恢復するは、必ず山東より始まるべく、山東の帰附は、必ず登州・萊州・密州より始まる。ただ三郡の民俗忠義なるのみならず、また通州・泰州より飛艘往来の便有るが故なり」と。兼侍講を除される。

王倫が金より使いして還り、金人が再び重臣を遣わして来て計議せんと欲すると言う。松年を工部尚書試とし、韓肖冑の副使として、大金奉表通問使を充てる。時に使命久しく通ぜず、人皆疑懼したが、松年は毅然として往く。汴京に至ると、劉豫は臣礼を以て見よと命じた。肖冑は未だ答えず、松年は言う、「聖主万寿」と。劉豫は言う、「聖意は何処に在るか」と。松年は言う、「主上の意は、必ず故疆を復して後已まんとすることに在り」と。使いより還り、吏部尚書に拝される。

岳飛が襄陽・漢陽を収復すると、松年に守禦の事を籌度せしめる。松年は奏上す、「乞うらくは飛に班師せしめ、徐ろに劉豫の意向を窺うべし。若し豫がこれを置いて問わざれば、その情は測り難く、将士を飭して疆場を謹ませるべし」と。また戦艦の四利を条陳す:一に朝廷の深入する軍勢を張ること、二に山東の帰さんと欲する民心を固くすること、三に強敵を震疊せしめて江・浙を窺わしめざること、四に劉豫を牽制して襄陽・漢陽を営む暇無からしむること。

端明殿学士・簽書枢密院事を除される。まず八事を奏上す:「規摹を立てて中興の基を定め、紀綱を振るって朝廷の勢を尊び、将帥を馭して畏るるを知らしめ、士卒を撫して勧むるを知らしめ、予奪の柄を収め、毀譽の言を察し、小疵を以て人才を棄てず、虚文を以て実效を廃せず」と。また張敵萬を推薦す:「向に淮南に在りて敵を誘いて深入せしめ、歩騎四方より集まり、悉く淖中に陥り、解するを得る者無し。金人は今に至るまで胆を落とす。乞うらくは軍馬を統率せしめて別に任使せしめ、外閫に漸く名将多からしめ、独り三四人を仗倚するのみに非ざらしむべし」と。

諜報によれば、劉豫が登州・萊州・海州・密州に船を整え、淮陽・順昌に糧秣を蓄積し、金人の力を借りて我が辺境を侵さんとしている。議者は韓世忠・劉光世・岳飛がそれぞれ一面を守れば、憂いなしと謂う。松年は奏上して曰く、「三人の勢力は初めより連携せず、危急の際には必ずや互いに救援せざるべし。況や海道は広遠にして、蘇州・秀州・明州・越州が最も要衝なり。精兵一万を選び、一大臣をして建康に駐屯せしめ、自ら世忠・光世を督して採石・馬家渡を守らせ、両軍の勢いを張らしむるを乞う。なお兵五千を明州・平江に屯させ、江海を制御せしむべし。もし遣わすべき人なければ、臣疾駆してその急を赴かんことを願う。」詔して松年を江上に遣わし、諸将と会議して進討を議し、因って賊情を窺わしむ。帝は親征を決意し、遂に平江に駐蹕し、松年を権参知政事とし、専ら戦艦を整えさせ、張浚に専ら軍器を整えさせしむ。松年曰く、「議論既に定まりたれば、力を尽くして行うにしかず。若し今日行い、明日止むれば、徒らに紛々として益なし。」

俄かに疾を以て洞霄宮提挙に転じ、陽羨に居を卜す。閑居するも朝廷の事を忘れず、屡々和糴の科斂・防秋の利害を言上し、帝皆嘉納す。十六年、病篤く、其の子を呼びて曰く、「大化推移し、免れざる所あり。」乃ち枕に就くや、鼻息雷の如く、有りて頃にして卒す。人、死せずと謂う。年六十。

松年平生財を蓄えるを喜ばず、官を除かるる毎に例として金帛を賜わるも、軍興の費広きを以て、一も陳請せず。或いは其を朝に白すを勧むるも、曰く、「請わざれば已む。白するは是れ名を沽ぶなり。」賓客を喜び、俸入以て費を供するに足らず。或いは用を節し子孫の為に計らんことを請う。松年曰く、「賢にして財多ければ、則ち其の志を損う。況んや俸廩は、主上の老臣を養う所以なり。」自ら持囊より執政に至るまで、挙げて自ら代わる者は皆一時の聞人にして、薦ぐる所一に至公を以てし、権勢も能く奪うこと莫し。

方に秦檜政を秉るや、天下識ると識らざるとを問わず、率い疑忌を以て之を死地に置く。故に士大夫曲意して阿附し、自安を計らざるは無し。松年独り之を鄙しみ、死に至るまで一書を通ぜず。世、此を以て之を高しとす。

曹勛

曹勛、字は公顯、陽翟の人。父の組、宣和中、閤門宣賛舎人として睿思殿応制となり、占対開敏なるを以て寵遇を得る。勛、恩蔭を以て承信郎に補せられ、特命にて進士廷試に赴き、甲科を賜わり、武吏なるは故の如し。

靖康初、閤門宣賛舎人・勾当龍徳宮となり、武義大夫を除かる。徽宗に従い北遷し、河を過ぐること十余日、勛に謂いて曰く、「中原の民康王を推戴するや否や知らず。」翌日、御衣を出だし、領中に書して曰く、「便ち即真すべし、来たりて父母を救え。」並びに韋賢妃・邢夫人の信を執り、勛に命じて間行して王に詣らしむ。又勛に諭して曰く、「康王に見えて第に中原を清むるの策有りと言え。悉く之を行い、我を念うこと毋れ。」又言う、藝祖に誓約有りて之を太廟に蔵し、大臣及び言事官を殺さず、違う者は不祥なりと。

勛、燕山より遁れ帰る。建炎元年七月、南京に至り、御衣の書する所を以て進む。高宗泣きて輔臣に示す。勛、死士を募り航海して金国東京に入り、徽宗を奉じて海道より帰らんことを建議す。執政之を難じ、勛を外に出だす。凡そ九年遷秩を得ず。紹興五年、江西兵馬副都監を除かる。勛、遠次を以て請う。浙東に改む。言者其の武芸に閑ならず、専ら請求に事うると論ず。竟に新命を奪わる。

十一年、兀術使いを遣わして和を議す。勛を成州団練使に授け、劉光遠に副えて之に報ぜしむ。淮に及び、兀術に遇い、遣り返され、尊官右職の節を持して来る者を遣るべしと言う。蓋し和を亟にせんと欲するなり。勛還り、忠州防禦使に遷る。金使蕭毅等来たり、勛を接伴使と命ず。未幾、階官を落とし容州観察使と為り、金国報謝副使を充てる。内殿に召し入れられ、帝涕泣し、親族を懇請するの意を諭す。金主に見えし時、正使何鑄地に伏して言う能わず。勛反覆開諭す。金主首肯し梓宮及び太后の還るを許す。勛帰る。金、高居安等を遣わし太后を衛送して臨安に至らしめ、勛を接伴使に充てしむ。保信軍承宣使・枢密副都承旨に遷る。

二十九年、昭信軍節度使に拝し、王倫に副えて称謝使と為る。時金主亮既に淮を侵すの計を定む。勛と倫還り、隣国恭順にして和好他無しと言う。人其の妄りを譏る。孝宗朝に太尉・提挙皇城司・開府儀同三司を加う。淳熙元年卒す。少保を贈らる。

李稙

李稙、字は元直、泗州臨淮の人。幼より明敏篤学、郷挙に二度挙げらる。従父中行蘇軾の門に客す。太史晁無咎之を見て曰く、「此れ国士なり。」女を以て妻とす。

靖康初、高宗康王として大元帥府を開く。湖南の向子諲京畿に転運す。時群盗四方に起こり、餉道絶え阻まる。左右を環視するに遣うに足る者無し。稙を薦むる者有り。遂に迪功郎を借補し、四百艘を督せしめ、総押して犒師の銀百万・糧百万石を、忠義二万余衆を招募し、淮より入り徐より済に趨ること、凡そ十余戦、卒に計を以て達す。時高宗鉅野に師を駐む。東南の一布衣衆を統べて至ると聞き、士気十倍す。首に労問を加う。稙占対詳敏、高宗大いに悦び、親しく之に食を賜い曰く、「一士を得ること拱璧を獲るが如し。豈に軍餉のみならんや。」承制して承直郎を授け、之を幕府に留む。

稙三たび表を上りて進を勧め曰く、「願わくは早く大宝を正し、以て人心を定め、天意に応ぜん。」三たび手札を降して奨諭す。稙感激知遇し、言う所尽くさざる無し。汪伯彦・黄潜善に忌まれる。高宗即位したる後、東南発運司幹弁公事と為り、尋いで奉議郎を以て潭州湘陰県を知る。県楊么の蕩析を経て、稙荊棘を披き、県治を立て、廩粟を発し、困乏を振恤し、専ら撫摩を急務とす。

丞相張浚江上に師を督す。稙の才を知り、朝奉郎・鄂州通判に薦む。大盗馬友・孔彦舟未だ平らがず。稙戦艦を修め、水戦を習わしめ、軍馬を分かち左右翼と為し、大いに彦舟の伏兵を破り、馬友を誅す。二盗平ぐ。浚、賊を破るの功を以て朝に上る。転じて朝奉大夫・通判荊南府と為る。秩満し、尚書戸部員外郎を除かる。

時に秦檜が国政を執り、凡そ帥府の旧僚は悉く罷黜され、張浚もまた国を去った。李稙は即ち祠官を乞うて親に仕え、長沙の醴陵に寓居すること十九年、門を杜ぎて仕えず。

秦檜が死ぬと、子の李諲が戸部尚書として近列にあり、龍飛の旧事に言及し、李稙の姓名を識り、戸部郎中に除せられる。李稙が初めて入見すると、帝は曰く、「朕が故人なり。」大用せんと意ありしが、母老いたるを以て、毎に辞し、便養を願い、桂陽軍知事を除せられる。母の憂に服し、帰葬し、哀毀して墓側に廬し、白鷺朱草の祥有り。劉錡が之に書を遺して曰く、「忠臣孝子、元直兼ね之れり。」

服闋し、参政銭端禮が薦めて差して瓊州知事と為す。陛辞に、帝慨然として曰く、「卿老いたり、瓊管遠く海外に在り。」徽州知事に改む。徽の俗は淫祠を崇尚す、李稙は首に邪説を息め人心を正すことを事とし、民俗変ず。朝請大夫・直秘閣に転じ、鎮江府知事に改め、江淮荊湘都大提点坑冶鑄銭公事に遷る。

年を踰え、金人盟に敗れ、朝廷将に大挙せんとす、李稙が漕運に才略有るを以て、直敷文閣・京西河北路計度転運使を授かる。李稙措画方有り、廷議倚重す。乾道元年、提刑江西に遷る。二年、直宝文閣・江南東路転運使兼建康軍府知事兼本路安撫使に任じ、行宮留守司事を主管す。

李稙上書して極めて防江十策を言う、其の略に曰く、「荊・襄の障を保ち、以て本根を固くすべし;中軍の処する所を審らかにし、以て大挙を俟つべし;強壮を搜選し、以て軍勢を重くすべし;地の険阨を度り、以て居民を保つべし;敵の長ずる所を避け、其の短き所を撃つべし;金人の降る者は宜しく賞勧を加うべし。」皆直ちに事の宜を指し、浮泛を為さず。疏上る、帝其の言を嘉し、太府卿を以て闕に召し赴かしむ、疾有りて上道克わず、遂に中奉大夫・宝文閣学士を以て致仕し、湘に還る。

時に胡安国父子は南嶽の下に家し、劉錡は湘潭に家す、相与に往還し講論し、国事に言及すれば、必ず憂い色に形り、終始和議を以て恨みと為す。年七十六、卒す。文集十巻有り、題して《臨淮集》と曰い、廬陵の胡銓之が為に序す。諡して「忠襄」。

子五人:汝虞、桃源県知事;汝士、朝奉大夫・黄州知事;汝工、昌化軍知事。

韓公裔

韓公裔、字は子扆、開封の人。初め三館の吏を以て官に補し、韋賢妃閣の箋奏を掌り、尋いで康王府内知客を充つ。金兵京を犯す、王出使す、公裔従行す。河を渡り、将官劉浩・呉湛私闘す、公裔諭して乃ち解く。次に磁州、軍民奉使王雲を戕し、王の車に随い州廨に入る、公裔復た諭して之を退く。王の将に南せんとするや、公裔と謀り、間道より潜師夜起し、遅明して相に至る、磁人知る者無し、是より親愛愈篤し。及び兵退き、張邦昌人を遣わし王舅韋淵と同しく来たり伝国璽を献ず。時に淵自ら偽官と称し、議者又た邦昌信ずべからずと謂う、王怒り将に淵を誅せんとす、公裔曰く、「神器自ら帰す、天命なり。」王遂に璽を受け、公裔をして之を掌らしむ。公裔力めて淵を救い、其の罪を釈く。

元祐后詔して王に入り大統を承けしむ、府僚金兵尚ほ近しと謂い、宜しく彭城に屯すべし。公裔言う、「国家肇基す睢陽に、王も亦た宜しく睢陽に於て命を受くべし。」時に前軍已に発し、将に彭城に趨わんとす、会天大雷電し、前る能わず、王之を異とし、夜半抗声して公裔に語りて曰く、「明日睢陽に如くは、決せり。」既に帝位に即く、公裔累遷して武功大夫・貴州防禦使と為る。

後に事を以て黄潜善に忤う、適に帝維揚に幸す、公裔去らんことを丐う、潜善事を避くると為し、遂に三官を降し、吏部に送る。帝越に幸す、其の旧労を念い、召して故官に復し、幹辦皇城司と為し、仍た御器械を帯び、累遷して広州観察使・提挙佑神観に至る。

公裔藩邸に給事すること三十余年、恩寵優厚、毎に酒を慈寧宮に置けば、必ず公裔を召す。会に《玉牒》を修す、元帥府の事多く放佚す、秦檜公裔が帥府の旧人なるを以て、奏して修書官をして就き其の事を質せしむ。俄に保康軍承宣使を除す、秦檜其の己を捨てて帝に求むるを疑い、之を銜む。右諫議大夫汪勃秦檜の意に希い、劾して公裔を罷め、遂に外祠を与え、在外居住せしむ、然れども帝の眷之衰えず。

秦檜死す、即ち復た提挙佑神観と為し、第を和寧門西に賜う、帝曰く、「朕と東朝卿に常に見えんと欲す、故に以て近きに自らす耳。」華容軍節度使に昇る、尋いで致仕す。後華容軍復た岳陽軍と為り、公裔遂に岳陽軍節度使に換わる。高宗既に内禅し、嘗て孝宗に其の忠労を語り、因りて詔して其の居む郡に善く之を視しむ。乾道二年卒す、年七十五、太尉を贈られ、諡して「恭榮」、其の親族八人を官す。高宗金帛を賜うこと甚だ厚し。

公裔身を律すること稍謹み、勢を植えず、恩を市わず、又た敢えて黄潜善・秦檜と異なるに与す、斯れ亦た取るに足る云う。

論じて曰く、章誼には蹇諤の節有り、肖胄は父祖の蔭に席し、二人多く論建有り、使を奉じて辱しめられず、亦た取るべし。陳公輔は諫臣の体を得、其の蔡京・王黼の党を劾し、呉敏・李綱の隙を論ずるは、是れなり。然れども既に安石学術の害を弁じながら、程頤の学を尚ばざるは、何ぞや?張觷は蔡京の禍を斥け、楊時の賢を薦む、其の趣操正し、況んや寇を平ぐるに術有りて、自ら功と為さざるや?松年は秦檜を鄙しんで交わらず、命を知り方に通ず、固より易く得るに非ず。而して曹勛は兵間に崎岖し、稍々労效著しく、然れども金人の入侵の計已に決す、猶お曰く隣国恭順して他無しと、何ぞ其の幾を見ること早からざるや?若し李稙・韓公裔は早く忠藎を著し、天子の故人と為り、能く黄潜善・秦檜と異なるを為し、門を閉ざして出でず、時を待ちて動く、斯れ亦た向かう所の方を知る者なるかな。