衛膚敏
涿州新城に至り、斡離不に遇い、人を遣わして相見を約し、拒むも不可であり、すなわちこれに語って言う、「必ず相見せんと欲すれば、その礼はまさに如何にあるべきか。」言う、「例あり。」膚敏は笑って言う、「例とは趨伏羅拜を謂う、この礼どうして用いるべけんや。北朝はただ一君のみ、皇子郎君は貴しといえども人臣なり、一介の使は賤しといえどもまた人臣なり。両国の臣相見して、君臣の礼を用いれば、これは北朝一国に二君ありとなる。」金人の気折れ、初めて言う、「ただ欲する所に任せよ。」膚敏は長揖して入った。既に坐すと、金人は誓書を出してこれを示し、膚敏は退けて視ず、言う、「遠使久しく朝廷の事を聞かず、この書の真偽知るべからず。」因りて用兵の事を論じ、また言葉をもってこれを折り、幾らかまた留められんとす。
靖康初め、初めて還り、三官を進め、吏部員外郎に遷る。会に高麗が使を遣わして来賀し、命により太常少卿を仮としてこれを接せんとす。朝論は宣問使と改称せんと欲し、膚敏は言う、「国家高麗を厚遇すること久し、今辺事まさに起こらんとす、遽かにその礼を削るべからず、遠人の心を失う、願わくは姑く旧に仍らん。」すなわちまた接伴使と称す。既に明州に至り、会に京師多難なり、すなわち便宜に詔を称して使者に厚く賜い、遣わして還らしむ。
起居舍人に遷り、言う、「前日金人憑陵し、都邑守を失い、朝臣趙氏を存せんと欲する者は一二人に過ぎず、その他は皆節を屈して辱を受け、以て恥とせず、甚だしき者は敵人のために金帛を斂め、妃嬪を索め、至らざる所なし、その能く楚に詐る者紀信の如きを求めても無し。及び金人偽りに叛臣を立て、位号を僭窃す、廷の臣逃避して従わず及び寇の退きて位を趙氏に帰さんと約する者は、一二人に過ぎず、その他は皆質を委ねて栄を求め、以て愧とせず、甚だしき者は叛臣のために功德を称し、符命を説き、推戴の議を主とし、勸進の文を草し、為さざる所なし、その朱泚を撃つ者段秀實の如きを求めても無し。今陛下践祚の初め、苟くも典刑無くば、何を以て国を立たん。凡そ前日敵に節を屈し、偽命に質を委ねた者は、まさにその罪を差第すべく、大なるは族し、次は誅し、またその次は竄殛し、下はこれを遠方に斥け、終身齒せず、どうしてなお祠祿を畀え、班列を塵せしめんや。」また言う、「今二帝北遷し、寰宇痛心す、願わくは陛下愈々自ら貶損し、服雪を忘れず、宮室を卑くし、飲食を菲くし、衣服を悪くし、嬪御を減じ、聲樂を斥け、以て歳時上壽、春秋錫宴に至るまで、一切これを罷め、饗郊廟といえども楽を用いず。必ず両宮の闕に還るを俟ち、然る後に常に復す、庶幾くば精誠天地に昭格し、人心を感動せん。」右諫議大夫兼侍読を拝し、言う、「行在頗る土木の役を興す、四方を示す所以に非ず、承慶院・昇暘宮の築を罷むるを乞う。」また奏す、「凡そ黜陟中より出づる者は、皆三省を経て乃ち奉行を得、或いは祖宗の成憲に戾る者は、皆執奏を許す。」時に内侍李志道は赦恩により保慶軍承宣使に復し、添差入内都知とす、膚敏極論してこれを罷む。
初め、欽宗の内侍昭慶軍承宣使容機は、囲城中の時に致仕を乞い、高宗即位し、命してこれを起す。膚敏は言う、「古より帝王未だ閑退より閹寺を求めて用いる者無し。」遂に寝す。后の父邢煥は徽猷閣待制を除し、太后の兄の子孟忠厚は顯謨閣直學士とす。膚敏は言う、「祖宗の法に非ず。」煥はまもなく武職に換え、忠厚は自若たり。俄に膚敏を中書舍人に遷す、膚敏は懇ろに奏して言う、「昔し司馬光は張方平の参知政事たるに当らざるを論じ、自ら御史中丞より翰林學士に遷る。光は言う、『臣を以て是と為せば、則ち方平まさに罷むべく、臣を以て非と為せば、則ち臣まさに貶せらるべし。今両に問う所無くして臣を遷す、臣未だ諭せず。』臣不肖といえども、司馬光に附せんことを願う。」また言う、「母后に事うるは孝に若くは莫く、戚属を待つは恩に若くは莫く、臣下を勧むるは賞に若くは莫し。今陛下太母に順うて非法を以てす、孝と謂う所に非ず、忠厚を処するに非分を以てす、恩と謂う所に非ず、臣の言を用いずしてその官を遷す、賞と謂う所に非ず、一挙にして三失す。」帝は宰相に命じて膚敏に諭して言う、「朝廷は次第に官を遷す、論事に因るに非ず。」膚敏はなお拝せず、家に居ること月を逾え、及び忠厚が承宣使に改まり、詔して后族は従官を除くこと勿れとし、膚敏初めて命を拝す。また言う、「中書は根本の地、舍人の掌る所、ただ演綸のみに非ず。」凡そ命令公議に合わざる者は、率ねこれを封還す。
会に膚敏は貢挙を知り、進士何烈が省試策に対し、謬って「臣」と称す、諫官李處遯は考官の鹵莽の罪を正すを乞い、集英殿修撰をもって洞霄宮を提挙す。或いは謂う、膚敏が後省において事を論じ、黄潜善・汪伯彦に悪まれたる故に、事に因ってこれを斥く。
初め、膚敏は久しく病み舟中に臥し、朝参することができず、時に苗傅・劉正彦の変があり、帝は未だ反正せず、宰相朱勝非が隆祐太后に言上して、「膚敏は病と称して坐して成敗を観、人臣の節無し」とす。及び卒して、始めて其の偽りならざるを明らかにす。年四十九、特に大中大夫を贈る。子に仲英・仲傑・仲循あり。
劉珏
劉珏、字は希範、湖州長興の人なり。崇寧五年の進士第に登る。初め太学に遊び、書を以て中書舎人鄒浩に遺りて曰く、「公始め博士として取士の失を論じ、居官を免ぜられ、諫省に在りて宮掖の非を斥け、嶺表に遠遷せらる。豈に禍福を逆計し、後日の報を邀えんや、固より古人の行いを蹈まんと欲するなり。今、庶政豈に尽く修明せんや、百官豈に尽く忠実ならんや、従臣継いで去るは、豈に尽く非才ならんや、言官屡逐せらるるは、豈に尽く罪有らんや。信任曩昔に逾え、而して拱黙して言わず、天下の士窃かに疑い有り、願わくば以て群望を慰塞せんことを」と。浩書を得て愧謝す。宣和四年、監察御史に擢でられ、言事に坐して舒州を知り、留まって尚書主客員外郎と為る。
靖康初め、皇帝の上皇朝謁の儀を議し、家人の礼を以て内庭に見えんと欲す。珏、皇帝に大小次を設け、上皇の御坐を俟ち、宰臣皇帝を導きて東階より升らしめ、殿上に拝せしむれば、則ち君の尊有り、父の敬有らんと請う。又謂う、「君、大臣に或いは剣履上殿を賜い、或いは子孫の扶掖を許す。皇帝の朝謁には、宜しく環衛士卒をして殿西に侍立せしめ、宰執・三衙・侍従等の官をして殿上に扶侍せしむべし。如し帝坐を請わば、即ち宰執等退きて西隅に立つべし」と。太常少卿に遷る。皇帝の冊宝受ける故事を討論し、珏言う、「唐の太宗・明皇皆親しく父命を受け、未だ再び冊礼を行わず。粛宗霊武に即位す、故に明皇韋見素を遣わして就いて冊し、宣政にて伝国璽を授く。群臣尊号を上る。至て徳宗之に踵いて行う、後世以て非と為す」と。議遂に寝す。
中書舎人を除く。十の開端の戒めを陳ぶること曰く、
「陛下即位し御筆を罷め、営繕を止め、俊乂を登用し、虚誕を詘し、内侍の権を戢え、言者の路を開く。命令既に当たり、未だ数改めず、任用既に公にして、率ね皆職に称す。賞は必ず功を視、政は必ず実を核す。此れ天下の指日にして太平を徯う所以なり。比者内降数出で、三省に可否罕なり。此れ御筆の開端なり。子弟を教うるに既に其の所有り、又徹して之を新たにす。長入祗候の班、勢緩かならんとするも、亟に之を成す。此れ営繕の開端なり。河陽を庸才に付し、涇原を貪吏に委ぬ。此れ任用失当の開端なり。花石等の濫賞、既に治めて復た止む。馬忠兵を統べ、累行累召す。此れ命令数易の開端なり。三省・密院議論各々所見有り、啓擬各々知る所を挙ぐ。同じからず比せずの説を持ち、同寅協恭の議を忘る。此れ大臣不和の開端なり。内路の帥擅に聖旨指揮を作し、行郡の守外任監当と称す。此れ臣下誕謾の開端なり。局務を董る者官属を広く辟き、帷幄に侍る者殿廬を分争す。此れ内侍恣横の開端なり。両省の繳奏多く命じて以て次に行下し、或いは再び繳すべからざるを戒む。台諫言事失当すれば、率ね遠小監当を責む。此れ言路壅塞の開端なり。民を恤うの詔累下るも、未だ行う可き者多し。是れ空文にして実徳無きなり。此れ政事失信の開端なり。随龍第賞し、冠帯の工も亦恩を推す。金兵闕を扣けば、礼房の吏も亦秩を進む。此れ爵賞僣濫の開端なり。是の十者は未だ前日の甚だしきに若かざるも、其の端已に見ゆ。杜ぎて之を止めば、以て治平に馴致すべく、因りて之を循れば、智者有りと雖も其の後を善くすること能わざるなり」と。
詹度都堂に稟議す。中書舎人安扶之を不可と持す。改めて珏に命じて書行せしむ。珏言う、「燕を伐つの役、度書を以て童貫の大挙を賛す。去秋蔡靖屡に金人の点集を言うに、度独り応に此れ有るべからずと謂い、遂に設備せず。請う、度を嶺表に竄せん」と。詔して宮祠を予う。李綱観文殿学士を以て揚州を知る。安扶又之を不可と持す。珏言う、「韓琦好水の敗、韓絳西州の敗、皆黜責を免れず。綱は国に報ゆるに勇み、兵を用うるに鋭し。聴用審ならず、数に敗衄有り。宜しく降黜して以て懲戒を示すべし」と。綱宮祠に改む。吏部侍郎馮澥、珏の両端を持し、綱の為に遊説すと言う。亳州明道宮を提挙す。
給事中に遷る。内降・営繕の二事を論じて曰く、「陛下前朝の房院を以て承慶院を建つ。議者営造浸く広しと為す。隆祐太后時に御筆有るを以て、議者内降数出づと為す。蓋し除授中書に帰せず、工役内侍に領せらる。此れ人言の籍籍たる所以なり。営繕悉く有司に帰し、中旨皆執奏を許さば、則ち衆論息まん」と。孟忠厚顕謨閣直学士を除き、邢煥徽猷閣待制を除く。珏封還し、旧制外戚未だ両禁の官為る者無しと言う。詔して煥に武階を換えしむ。帝曰く、「忠厚は乃ち隆祐太后の族なり。宜しく朕の太后を優奉するの意を体すべし」と。珏益堅く持す。忠厚尋いで亦武階を換う。
吏部侍郎に遷り、国史を同修す。言う、「淮甸敵に備え、兵食先と為す。今、降卒を以て見兵と為し、糴本を以て見糧と為す。一として恃む可き無し。維揚の城池未だ修まらず、軍旅多く闕く。卒かに不虞有らば、何を以て之を待たん」と。已にして金人果たしく虚に乗じて大いに入る。帝亟に臨安に如く。珏を以て龍図閣直学士・宣州知事と為す。俄に復た吏部侍郎と為る。
久雨を以て詔して言を求む。珏疏を上りて天変を消し、人心を収むる数事を論じ、詞極めて激切なり。並びに荊・陝・江・淮の守禦の略を陳ぶ。「願わくば大臣に申詔し、細務を悉く屏け、唯だ守禦を謀らしめよ。京より荊・淮の郡に及び、大帥を置き、勁兵を屯せしめよ。命ず江に沿うの守に、各々措画の方上らしめ、斥候を明らかにし、険阻を設け、大府の出を節し、大農の入を広くし、戦艦を検察して之を習わしめば、則ち守禦詳尽し、人心安んじ、天意回り、大業昌んならん」と。吏部尚書に遷る。
胡舜陟
服闋し、再び監察御史となる。上奏して言う。「河北の金兵は既に遁れたが、備禦は特に講ぜざるべからず。」欽宗即位し、また言う。「今、辺患を結び成し、幾らか社稷を傾けんとしたのは、帰明官趙良嗣に始まる。請う、これを戮して以て天下の快とせよ。」遂に趙良嗣を誅す。また上奏して言う。「今、辺境の備禦の計は、兵は練ることができ、粟は積むことができるが、ただ将を得ることが難し。請う、内外の臣に詔し、文武の官で将帥に堪える才を併せて挙げしめよ。」また上奏して言う。「上殿の班は先に台、後に諫たるは、祖宗の法なり。今、台臣が諫臣の下に在る。乞う、今後台諫同日に上殿せしめ、台諫の雑圧を以て先後とせよ。」
侍御史に遷る。上奏して言う。「向に晁説之が皇太子に『孝経』を講じ、『論語』を読み、間日に『爾雅』を読んで『孟子』を廃することを乞うた。夫れ孔子の後に聖人の道を深く知る者は、孟子のみ。願わくは詔して東宮の官に旧制に遵わしめ、先ず『論語』を読み、次いで『孟子』を読ませよ。」また上奏して言う。「涪陵の譙定は郭雍に『易』を受け、象数を究極し、人事を逆知し、諸葛亮の八陣法に洞曉す。厚礼を以てこれを招くべし。」
高宗即位し、胡舜陟は宰相李綱の罪を論じたが、帝は聴かなかった。言事者がその偽廷に仕えたことを論じ、集英殿修撰・廬州知州に除せられた。時に淮西は盗賊充満し、廬州の人は震恐し、日々舟楫を具えて南渡の計を為した。胡舜陟が至り、城を修め戦具を治めると、人心始めて安んず。
冀州の雲騎卒孫琪が兵を聚めて盗賊となり、「一海蝦」と号し、廬州に至った。胡舜陟は城に乗りて拒守した。孫琪が資糧を要求したが、胡舜陟は与えず、その配下が粟を与えるよう請うた。胡舜陟は言う。「我は愛惜する所あるに非ず、顧みるに賊の心は厭くこと無し。これに与えれば弱を示すことになり、彼は為す能わざるなり。」乃ち時に兵を出してその掠奪する者を撃ち、孫琪は夜遁し、胡舜陟は伏兵して邀撃し、その輜重を得て帰った。
済南の僧劉文舜が党を聚めて万余りとなり、舒州投子山を保って剽掠をほしいままにした。胡舜陟は介使を遣わしてこれを招降させた。時に丁進・李勝が兵を合して蘄州・寿州の間に盗賊となり、胡舜陟は劉文舜を遣わしてこれを破らせた。
張遇が濠州より奄かに梁県に至った。胡舜陟は竹里橋を毀たせ、兵を河西に伏せ、その半ば渡るを伺って撃ち破った。また自ら江北を守り、以て行宮を護ることを請うた。帝はその言を壮とし、徽猷閣待制に擢げ、淮西制置使を充てた。范瓊が寿春より淮を渡り、書を送って軍需の銭帛を責めた。胡舜陟は逆順を以て諭すと、范瓊は去った。
後十八年、再び広西経略となる。邕州知州の俞儋に贓あり、運副の呂源に按劾され、事が胡舜陟に連座し、太平観提挙となった。先に、胡舜陟は呂源と隙あり、胡舜陟は郴州の賊を討つに因り、呂源が軍事を沮むことを劾した。呂源は書を以て秦檜に抵り、胡舜陟が金を受け馬を盗むこと及び朝政を誹謗することを訟えた。秦檜は素より胡舜陟を悪み、その説を入れ、大理寺官の袁柟・燕仰之を遣わして推劾させるよう奏した。二旬を経て、辞服せず、獄中に死す。
胡舜陟は恵愛あり、邦人はその死を聞き、そのために哭した。妻の江氏が朝廷に訴え、詔して徳慶府通判の洪元英に実を究めさせた。洪元英は言う。「胡舜陟の金を受け馬を盗むことは、事曖昧に渉る。その人心を得ることは、古の循吏と雖も以て過ぐる無し。」帝は秦檜に謂いて言う。「胡舜陟は従官なり、又罪は死に至らず。勘官は懲せざるべからず。」遂に袁柟・燕仰之を吏部に送った。
沈晦
高宗即位し、言事者が沈晦は金に使して艱苦したと雖も、封駁の職は労を賞するに以てすべからずと論じ、集英殿修撰・信州知州に除せられた。帝が揚州に行幸し、将に召して中書舎人とせんとした時、侍御史張守が沈晦の布衣の時の事を論じた。帝は言う。「頃に金営にてその慷慨を見る。士人の細行、豈に終身の累たるに足らんや。」果たして召さず。明州知州となり、処州に移った。
帝は会稽に行幸し、守備を婺州に移した。賊の成皋が侵入し、劉晦は教授の孫邦の策を用い、民兵数百を率いて城を出て戦ったが、大敗し、劉晦は孫邦を斬ろうとしたが、後にこれを釈放した。時に浙東防遏使傅崧卿が城中におり、単騎で成皋のもとに赴き説得すると、成皋は遂に降伏した。徽猷閣待制に進む。言事官が劉晦が便宜指揮行事を妄用したと論じたため、集英殿修撰・提挙臨安府洞霄宮に降格した。まもなく徽猷閣待制に復し、宣州知州となり、建康府知州に移った。満一月に満たず、御史常同の論劾により罷免された。
劉麟が侵入すると、韓世忠は揚州でこれを防ぎ、劉晦は張俊の軍を促して韓世忠の援軍とするよう請うた。趙鼎は劉晦の議論が激昂していると称賛したが、帝は言った。「劉晦は確かに賞賛に値する。しかし朕はその人を知っている。言は甚だ壮だが、胆志はやや怯懦である。さらに事に臨んで、言ったことと符合するかどうかを見よう。」しかし劉晦は韓世忠に好まれず、まもなく提挙臨安府洞霄宮となり、起用されて広西経略兼静江府知州となった。
先に、南州の蛮酋莫公晟が帰朝し、年久しく、本路鈐轄に任じて羈縻していたが、後に遁走し、近隣の諸峒の蛮と結び、毎年出没して辺境の患いとなった。劉晦は老将の羅統を選んで辺境を守らせ、諸酋を招誘し、威信をもって諭すと、皆府に赴いて降伏を請い、劉晦はこれを慰労して贈物を与え、誓いを結んで去らせた。これより莫公晟は孤立し、再び辺境を侵犯しなかった。劉晦は郡において、毎年三千匹の馬を買い、後任者は皆これに及ばなかった。徽猷閣直学士に進み、行在所に召還され、衢州知州に任じられ、潭州知州に改め、提挙太平興国宮となり、卒した。
劉晦は胆気人に過ぎ、法度に全て従うことができず、貧しい時は特に甚だしかったので、しばしば人言を招いた。しかしその官にある時の才幹は、また覆い隠すことができないものであった。
劉一止
劉一止、字は行簡、湖州帰安の人。七歳で文を綴ることができ、太学で試験を受けた時、有司が八行で推挙しようとしたが、一止は言った。「行いは士の常である。」と就かなかった。進士に及第し、越州教授となった。参知政事李邴が詳定一司敕令所刪定官に推薦した。
紹興初年、館職に召し試みられ、その大略は言った。「事が成就しないのは、患いは為さないことにあり、その難しさにあるのではない。聖人は多難を畏れず、難に因って事を図るのである。もし為さなければ、天命が自ら回り、人事が自ら正しくなり、敵国が自ら屈し、盗賊が自ら平定されるのを待つということが、ありえようか。」高宗は善しとし、かつ近臣にその言の剴切で治道を知っていると告げ、急いで用いようとしたが、執政が喜ばず、秘書省校書郎に任じた。両浙類試を考査し、科挙がまさに変革されようとしていたので、時務に通じた者を得ようとし、同僚は皆その人材がないのを憂えたが、一止が一巻を取り出して言った。「これが首位とすべきである。」封を開けて番号を見ると張九成であったので、衆は皆悦服した。
監察御史に遷った。上疏して言った。「天下の治は、衆君子が成しても足らず、一小人が敗れば余りある。君子はたとえ多くても道は孤となり、小人はたとえ寡なくても勢いは蔓延しやすい。よく察さなければ、小人が隙を窺って入り、政を敗るのである。」また言った。「陛下は宿蠹が未だ除かれず、頽綱が未だ振るわず、民は困窮し財は枯渇していることを憂い、故に司を置いて講究させられたが、未だ施行されたと聞かない。疑わしい説をもって陛下を欺き、『このようにすれば、人心を失うであろう』と言う者がいるのではないか。いわゆる人心を失うとは、必ず刑政の苛酷、賦役の多さ、好悪の不公正、賞罰の不明によるものである。もしこれらが皆なければ、失うのは小人の心のみである。何の病むことがあろうか。」
当時は諸事草創で、有司は吏の省記(記憶・記録)を法としていたため、吏がこれに便乗して奸を行った。一止は言った。「法令が備わっていても、吏はなお文を弄することができる。まして全てその省記に従えば、与えたい時は与える先例を述べ、奪いたい時は奪う先例を述べ、与奪がその口先一つにあり、患いは言い尽くせない。省記の文を刊定して頒行するよう請う。これによって奸吏が法を弄し賄賂を受ける弊害を絶つことができるであろう。」従われた。一年余りして書が完成した。
秦檜が修政局を置くことを請うと、一止は言った。「宣王が内に政事を修めたのは、外を攘う政を修めたに過ぎない。今修めようとしているのは、特に簿書・獄訟、官吏の遷降、土木営建の事務であり、急務とすべきものは見られない。」また言った。「人材の進用が余りに急である。仕える者が銓選によらないこともあり、朝士は入って出ず、外官はたとえ異能があっても召用されない。軍事でないのに起復するのは、皆幸門が塞がれないためである。財利に通暁した近臣を選び、劉晏の法に倣い、江辺に司を置いて国用を制し、郷村に義倉を置いて水旱に備え、監司の選任を重んじるよう請う。」後に多くその言が採用された。
起居郎に遷った。奏事すると、帝は迎えて言った。「朕が親しく抜擢した者である。六察から二史(起居郎・起居舎人)に遷ったのは、祖宗の時に幾人いたか。」一止は謝して言った。「先朝ではただ張澂・李棁のみです。」そこで堂吏・宦官の弊害を極力陳べ、執政が私党を植え、国を憂うる心がないと述べた。翌日罷免され、主管台州崇道観となった。
祠部郎・袁州知州に召され、浙東路提点刑獄に改め、秘書少監となり、再び起居郎に任じられ、中書舎人兼侍講に抜擢された。莫将が賜出身して起居郎に任じられると、一止は奏上した。「莫将は上書して和議を助け、驟然として太府丞から従班に連なり、これ以前にはなかったことで、臣は莫将と同命となることになります。臣も共に罷免されることを願います。」答はなかった。
給事中に遷った。徐偉達という者は、かつて張邦昌に仕えて郎官となり、池州知州を得た。一止は言った。「偉達は既に偽廷に仕えたのに、今郡を付与すれば、天下に示すところがありません。」孟忠厚が郡守を試みることを請うと、一止は言った。「后族で忠厚のように文を業とする者は郡守となれても、他日に例を援用する者が現れた時、どうして退けることができましょうか。」汪伯彦が宣州知州として入朝すると、詔して元帥府の旧人であるとして、特に現任の執政に準じて俸給を与えた。一止は言った。「伯彦の誤国の罪は天下が共に知るところです。郡守の身分で執政に例えるのは、かつて待制でないのに待制の待遇を受け、両府でないのに両府の待遇を受けた者と同類になりましょう。」帝は皆これを罷めさせた。および貴近の請託については、たとえ小事でも論執して止めなかった。御史中丞廖剛はその僚属に言った。「台諫で言うべきことは、皆劉君に先を越されてしまった。」
瑣闥(門下省)に百余日居り、奏書を駁し続けたため、権力者が初めて忌むようになり、一止が周葵と共に呂広問を推薦し、李光に迎合したと奏上され、罷免され、提挙江州太平観となった。敷文閣待制に進む。御史中丞何若が奏上した。「一止は李光に朋附し、傲慢で上を軽んじている。」落職し、祠官を罷免された。後八年、老齢を理由に致仕を請い、復職し、致仕した。秦檜が死ぬと、国門に召還されたが、病のため拝礼できず、力辞し、直学士に進み、致仕した。享年八十三。
一止は沖淡寡欲にして、嘗て其の子を誨えて曰く、「吾が平生の通塞は、自然に聴く、唯機械を生ぜざるを以て、故に方寸自ら楽しむ地有り」と。博学にして通ぜざる無く、文を為すに纖刻を事とせず、制誥は坦明にして体有り、書詔は一日に数十輒ち辦ず、嘗て言ふ、「訓誥は、善を賞し悪を罰する詞なり、豈に情を過ぎ美を溢し、鄰を怒らせ坐を罵るの為ならんや」と。其の草したる顏魯公の孫特命官の制甚だ偉なり、帝歎賞し、手を為して之を書く。詩は自ら一家を成し、呂本中・陳與義之を讀みて曰く、「語人間より來らず」と。類稿五十卷有り。子は巒・嶅、從弟は寧止。
從弟 寧止
寧止、字は無虞、宣和の進士甲科に登り、太學錄・校書郎を除す。建炎初、浙西安撫大使司參議と為り、兩浙轉運判官に改む。苗傅・劉正彥の變に、寧止は毗陵より馳せて京口・金陵に詣り、呂頤浩・劉光世を見て、忠義を以て勉め、退きて軍須を具し以て勤王を佐く。左司郎官を除すも、辭す。帝位に復し、右司郎官・給事中を除す。梁揚祖が發運使と為るに、寧止再疏を上りて論駁す。
添差江・淮・荊湖制置發運副使を以て隆祐太后に扈從し江西に幸するを扈し、尋いで兩浙轉運副使と為る。勤王の功を錄し、直龍圖閣に直し、秘閣修撰に進み、崇道觀を主管し、江淮等路坑冶鑄錢を提點し、鎮江府を知り兼ねて沿江安撫と為り、右文殿修撰に進む。寧止言ふ、「京口は大江を控扼し、浙西の門戸と為る、常州・江陰軍及び昆山・常熟の二縣を分ちて本司に隷せしめ、庶幾くば防秋の時沿江の號令一に歸し、以て固守すべし」と。權戸部侍郎、三宣撫司錢糧を總領す。張浚諸軍を都督し、以て行府の屬と為す。吏部侍郎を除し、徽猷閣直學士に進み秀州を知り、顯謨閣に升り、太平觀を提舉し、卒す。
寧止は文名有り、慷慨として事を論ずるを喜ぶ。艱難の時に當り、上疏して闕失を言ひ、隱微を指切し、人の言ひ難きに多し。王安石の『日録』を禁ずるを乞ひ、賢良方正科を復し、司馬光の十科薦士法を用ひ、唐制に倣ひ宰執の事を論ずるに諫官をして侍立せしめ、皆其の顯顯たる者なり。勤王の舉に、呂頤浩其の輸忠贊謀の勞有るを紀す。寧止は一止・岑と皆群從昆弟なり、帝嘗て寧止の忠、一止の清、岑の敏を稱す。『教忠堂類稿』十卷有り。
胡交修
帝又た手詔を出し、以て盜を弭し民を保ち、財を豐かにし國を裕かにし、兵を強くして戎を禦ぐの要を訪ふ、交修疏を上りて言ふ、
「昔人謂ふ、甑に麥飯有り、床に故絮有らば、儀・秦と雖も之を說きて盜と為すことを使ふ能はざるも、其の凍餓聊か無く、日に死に迫るるにのみ、然る後に忍びて其の身を以て之を盜賊に棄つ。陛下寬大の詔を下し、其の自新の路を開き、苛慝の暴を禁じ、其の衣食の源を豐かにせば、則ち悔悟する者は更に相告げ語り歡呼して歸らん。其の變ぜざる者は、黨與攜落し、亦た吏士の係獲する所と為り、而して盜は弭す可く、盜弭すれば則ち以て民を保つ可し。沃野千里、殘して盜區と為るは、皆吾が秔稻の地なり。弓矢を操り、刀劍を帶び、牛を椎き塚を發き、白晝盜と為るは、皆吾が南畝の民なり。陛下撫して之を納れ、其の田里に反し、急征暴斂無くして、其の不肖の心を啓かず、耕桑時に以てし、各其の業に安んぜば、穀帛用ふるに勝へず、而して財は豐かにす可く、財豐かにすれば則ち以て國を裕かにす可し。日者翟興西路に連なり、董平南楚に據り、其の人を什伍し、農と為し兵と為し、数年ならずして、粟を積みて充牣し、一方を雄視す。盜賊猶ほ能く爾るか、況んや中興二百郡の地を以てし、兵を強くして寇を禦がんと欲して、翟興輩の為す所を為す能はざらんや」と。
世以て名言と為す。
李成江・淮を盜み、廷議親征せんと欲す、交修謂ふ、「群盜猖狂、天子自ら將ふ、之に勝てば則ち武ならず、勝たざれば則ち天下に笑はれを貽す。此れ將帥の責なり、何ぞ以て王師を辱しむるに足らん」と。議遂に格り、盜尋いで遁る。
周杞常州を守り、殘虐に坐して免ぜらる。會ふ大旱有り、帝交修に旱を致すの由を問ふ、對へて殆ど杞の佚罰の故なるを以てす、乃ち杞を以て吏に屬す。杞交修の讒する所と為るを疑ひ、上書して其の罪を告ぐ、大理寺丞胡蒙を遣はして常に詣り按驗せしむ。交修絓る所無し、然れども群從多く罪に抵る。尋いで徽猷閣待制を以て太平觀を提舉す。
六年、給事中・刑部侍郎・翰林學士・知制誥兼侍讀として召さる。久しくして、刑部尚書に遷る。汀州寧化縣大辟十人を論ず、獄已に上る、知州事鄭強驗問するに、一人も死に當たる者無し、交修縣令の賞を冒し無辜を殺すの罪を治むるを乞ふ。江東留獄追逮する者尚ほ六百人、交修言ふ、「若し六百人俱に至るを待たば、則ち瘐死する者衆し、請ふ罪狀明白なる者を以て律の如く論じ、疑はば則ち輕きに從はん」と。詔して皆其の言の如くす。
朝論四川の交子を以て諸路に行はんと欲す、交修力めて其の害を陳べ、謂ふ、「崇寧の大錢覆轍鑒とす可し、當時大臣建議し、人皆附和す、未幾錢兩等に分かれ、市に二價有り、姦民盜鑄し、死徙相屬す。今の交子を以て大錢に校ふるに、銅炭の費無く、鼓鑄の勞無く、一夫紙を挾み日十數萬を作し、真贗辨莫く、之を售るに疑はず、一たび憲網に觸れば、家を破り産を壞し、以て告捕を賞し、禍無辜に及ぶ。歲月の後、公私の錢盡く藏鏹の家に歸し、商賈行はず、市井蕭條、比して悔悟するに及ばば、恐らく及ぶ無からん」と。時議大舉せんとす、交修曰く、「今妄言無行の徒、迎合可喜の論を為し、吾其の實を考驗するに以て無く、遽に之を信じて以て事を舉ぐれば、豈に國を誤らざらんや」と。帝之を覽みて矍然とす。翌日、其の奏を出して大臣に示し曰く、「交修眞に一士の諤諤たり」と。
蜀の帥たる席益が既に去ると、帝は交修に誰が蜀を守るに適するかを問うた。交修は臣の従子の世将が用いるに足ると答え、遂に世将を枢密直学士・四川安撫制置使とした。世将は蜀に在ること五年、名帥と称された。
重兵が関外に集結して蜀を守って以来、糧道は険阻にして遠く、漕運の舟は嘉陵江を遡るが、春夏は増水して覆ることが多く、秋冬は水涸れて座礁することが多い。紹興の初め、宣撫副使の呉玠が陸運を始め、成都・潼川・利州の三路より夫役十万を徴発し、県官が部送したが、賞を競い先を争い、十のうち三四が斃れた。ここに至り交修は言う、「兵を養うは蜀を保つためなり。民が命に堪えざれば則ち腹心先ず潰え、何をもって蜀を保たん。臣愚かならんや、三月以後・九月以前には、ただ関を守る正兵を存し、余は悉く他州に就糧せしめんことを。かくの如くすれば、関を守る者は水運にて給し、分戍する者は陸運を免れん」と。帝は学士院に命じて交修の意を述べさせ、詔して呉玠に行わせた。
徽宗の配享功臣を議するに、交修は奏上して言う、「韓忠彦は建中靖国の初めに相となり、賢誉翕然たり、時に『小元祐』と号せり」と。これに従い、人々大いに允服した。
八年夏、親老を以て、宝文閣学士・信州知州を除された。入朝して辞すに、上は留めて経筵に侍せんと欲したが、力説して母老なるを言い、祠官を奉じて里中にて養いを便にせんと願った。帝曰く、「卿去らば、行くこと復た召さん」と。提挙江州太平興国宮に改めた。九年六月召還され、兵部尚書・翰林学士兼侍講を除された。時に河南新たに回復し、交修は奏上す、「京西・陝右の取士の法、乞うらくは祖宗の時に如く諸科の目を設け、以て西北の士を待ち、別に号を南宮に為し、以て五路の才を収めん」と。詔して礼部に討論せしむ。一年を逾ぎ、復た外補を請い、端明殿学士・合州知州を除された。私請を退け、上供を免ずること万計に及び、州を領すること数月にして卒した。
交修は簡重にして寡言、進止に度有り、文を為すに琢雕を事とせず、坦然として明白、詞苑に在りて称職と号せられた。その従祖の宿・従父の宗愈より交修・世将に至るまで、皆禁林に在った。中興以後、学士三たび入る者は交修より始まる。交修は裒次して書と為し、号して『四世絲綸集』とし、以て一門の遇を侈った。事へ継母に孝を以て聞こえ、二弟を撫するに極めて友愛、恩遇に次いで官を補すに至っては、若し交修の如きは、その文行の兼ねて副う者か。
綦崇礼
綦崇礼、字は叔厚、高密の人、後に濰の北海に徙る。祖父及び父は皆明経進士科に中った。崇礼は幼くして穎邁、十歳にして邑人の墓銘を作り得、父見て大いに驚き曰く、「吾が家積善の報いは、其れ茲に在るか」と。
車駕平江に如く。旨有りて鄒浩を追復して龍図閣待制とす。崇礼当に詞を行くべく、帝の遺直を褒恤する所以の意を推し、曰く有り、「心を処するに欺かず、気を養うこと至って大なり。言は意を寤ますを期し、裾を引き嘗て雷霆を犯し、計は身を顧みず、国を去り再び嶺徼に遷る。群臣動色し、志士心を傾く」と。又曰く、「英爽忘れず、想うに生気の猶在るを、姦諛已に死し、知る朽骨の尚寒きを」と。同列推重し、試み尚書吏部侍郎を除く。時に従官は惟だ崇礼と汪藻有り、尋いで直学士院を兼ねる。徽猷閣直学士を以て漳州知州と為る。其の俗悍強、治め難きと号す。建州に巨寇起こるに属し、声は鄰境を撼かし、人心動揺す。崇礼は民を牧し衆を禦うこと、一も常日の如し。盗賊息むに至り、城内外を環して按堵故の如し。
明州知州に徙められ、召されて吏部侍郎兼権直学士院と為る。時に詔有りて侍従官日に一員を輪じ、前代及び本朝にて治体に関わる事一二事を具え進入せしむ。崇礼言う、「祖宗以来儒臣を選用し、以て講読を奉ぜしむ。若し従官をして一例に其の聞く所を献せしむれば、既に旧典に非ず、且つ又職を越ゆ。望むらくは講読官に三五日に一進せしめん」と。乃ち学士と両省官に命じて前詔の如くせしむ。又言う、「駐蹕臨安、浙西を以て根本と為す。宜しく江・淮の守りを固くし、然る後に興復を図るべし。蜀は万里の外に在り、当に其の士夫を召用し、遠人の心を慰安すべし」と。時に兵革の後、省曹の簿書残毀幾くんと尽きんとす。崇礼再び銓法を執り、典故に熟し、沿革を討論し、援拠該審にして、吏其の私を通すを得ず。後に詔有りて七司条敕を重刊す。崇礼の建明する所、悉く令と為すに著せらる。
九月、御筆にて翰林学士を除く。靖康以後、従官が御筆にて除拜されるは此より始まる。楊惟忠・邢煥が節度使を以て致仕す。告は舎人院より出づ。崇礼言う、「祖宗の時、凡そ節鉞の臣僚謝を得るは、文武を問わず、並びに節を納め別に一官を以て致仕す。熙寧の間、富弼元勳を以て始めて特に節鉞を帯びて致仕せしめ、其の後継ぐ者曾公亮・文彦博、他人豈に例として援くべけんや」と。詔して自今より祖宗の故典の如くせしむ。
侍読兼史館修撰を兼ねて進む。時に旨有りて神宗・哲宗の『正史』を重修す。兵火の後、典籍散亡す。崇礼奏す、「『神宗実録』墨本は、元祐の修むる所已に成書たり。朱本は蔡卞の手に出づ、多く附会す。乞うらくは朱墨本を参照して修定せん。『哲宗実録』は、崇寧の間蔡京提挙して編修し、語言を増飾し、是非を変乱す。便ち旧録に拠りて修定すべからず。欲乞うらくは故臣の家の文献事蹟を訪求し参照せん」と。又奏す、「湖州知州汪藻が元符庚辰より建炎己酉に至る三十年の事蹟を編類す。乞うらくは藻に下して已成の文字を以て本所に赴かしめん」と。並びに之に従う。先に、藻詔を奉じて甚だ備わりて訪求すれど、未だ修纂に及ばず。崇礼之を取って専らにす。
嘗て唐の太宗が刺史の姓名を屏風に録した故事を進めて曰く、「千里の封域に一の良守を得れば、則ち千里の民安んじ、百里の境域を環らして一の良令を得れば、則ち百里の民悦ぶ。民を牧するの吏、咸しく其の良を得れば、則ち治功成る。苟も能く当時の事を効して、守令の姓名を以て詳らかに屏に列し、帝心に簡在すれば、則ち人は心を尽くして職業を知らん」と。再び翰林に入る凡そ五年、撰する所の詔命数百篇、文は簡にして意明らか、私に美せず、怨みを寄せず、代言の体を得ること深し。
宝文閣直学士を以て紹興府を守る。劉豫、金人を導きて入侵せしめ、揚・楚震擾す。高宗躬ら戎衣を御して呉会に次す。崇礼、近臣として方面を承寧し、浙東一道を行都の肘腋の地と謂ひ、備禦謹まざるべからずとし、密かに朝に疏して、便宜に事を行ふを得たり。ここに於て城郭を繕ひ、甲兵を厲し、錢帛を輸して王師を犒ひ、舟艦を簡して海道を扼し、疚心夙夜、殆ど食寢を廃す。春に及び、帝還り、七州晏然として羽檄の遽きを知らず。是歳、印綬を上け、台州に退居す。卒す年六十、左朝議大夫を贈らる。
崇礼は妙齢秀発、聡敏人に絶し、崖岸斬絶の行ひを為さず。廉儉寡欲、独り辞章に心を覃ひ、音律を洞曉し、酒酣に気振ひ、長歌慷慨、議論風生す、亦た一時の英なり。中年頓挫場屋、晩方に登第し、県主簿を以て驟に華要に昇り、極めて潤色論思の選に当る。端方亮直、強禦を憚れず、秦檜政を罷むるに、崇礼詞を草して其の悪を顕著にし隠す所無く、檜深く之を憾む。再び相と為るに及び、詔を矯って台州に下り、崇礼の家に就きて其の稿を索め、自ら帝前に於て之を納め、且つ将に怨を修めんとす。会に崇礼既に没す、故に身後に得る所の恩澤、其の家畏懼して敢へて陳べず、士大夫も亦た敢へて其の任保を為す者無し。楼鑰嘗て其の文を叙し、気格渾然として天成し、一旦書命の任に当り、明白洞達、武夫遠人と雖も曉然として上意の在る所を知ると云ふ。
論じて曰く、建炎・紹興の際、俊彦を網羅し、庶職に布くこと、衛膚敏以下七人の如きは、其の時政を論議し、闕失を指陳する、或は好悪多く同じからずと雖も、亦た皆一時の表表たる者なり。況んや一止・甯止兄弟の忠清、交修・崇礼の祠翰は、又治化に助くる者有らんや。