宋史

列傳第一百三十七 衞膚敏 劉珏 胡舜陟 沈晦 劉一止 胡交修 綦崇禮

列傳第一百三十七 衞膚敏 劉珏 胡舜陟 沈晦 劉一止 胡交修 綦崇禮

衛膚敏

原文衛膚敏

衛膚敏、字は商彦、華亭の人である。上舎生として宣和元年の進士第に登り、文林郎・南京宗子博士を授けられ、まもなく教授に改められた。六年、召されて対し、宣教郎・秘書省校書郎に改められ、命により給事中を仮として金主の生辰を賀す。膚敏は奏して言う、「彼の生辰は天寧節の後五日であり、金人は入賀したと聞かず、かえって先んずれば国体を失い、万一金使が来なければ、朝廷の恥となろう。燕山に至りこれを待つことを請う、彼が来なければ、幣を境上に置くのみである。」帝はその奏を許可した。既に燕に至ると、金の賀使は果たして至らず、すなわち幣を置いて返った。七年、再び給事中を仮として行き、慶源府に至り、許亢宗の還るに逢い、金国の事を語り、言う、「彼はまさに大いに侵入せんとし、その勢い往くべからず。」膚敏は燕に至り、報はますます急であり、衆は懼れて進まず、膚敏は叱して言う、「吾は君命を将いて行く、どうして止むことができようか。」すなわち金国に至り、その兵が既に挙がったことを知り、まったく屈しなかった。将に還らんとするに及び、金人の答える国書は、押字をもって璽に代えようとし、膚敏は力爭して言う、「押字はどうして隣国と交わるに足りようか。」論難往復し、ついに璽に易えた。書を受けるに及び、双跪せしめんとし、膚敏は言う、「双跪は北朝の礼なり、どうして南朝の人に行わせることができようか。」爭辨すること時を逾え、ついに単跪をもって受けた。金人は積もって悦ばず、中道に羈留すること半年に及んだ。

原文衛膚敏,字商彥,華亭人。以上舍生登宣和元年進士第,授文林郎、南京宗子博士,尋改教授。六年,召對,改宣教郎、秘書省校書郎,命假給事中賀金主生辰。膚敏奏曰:「彼生辰後天寧節五日,金人未聞入賀,而反先之以失國體,萬一金使不來,為朝廷羞。請至燕山候之,彼若不來,則以幣置境上而已。」帝可其奏。既至燕,金賀使果不至,遂置幣而返。七年,復假給事中以行,及慶源府,逢許亢宗還,語金國事,曰:「彼且大入,其勢不可往。」膚敏至燕,報愈急,眾懼不敢進,膚敏叱曰:「吾將君命以行,其可止乎?」即至金國,知其兵已舉,殊不為屈。及將還,金人所答國書,欲以押字代璽,膚敏力爭曰:「押字豈所以交鄰國。」論難往復,卒易以璽。及受書,欲令雙跪,膚敏曰:「雙跪乃北朝禮,安可令南朝人行之哉!」爭辨逾時,卒單跪以受。金人積不說,中道羈留且半年。

涿州新城に至り、斡離不に遇い、人を遣わして相見を約し、拒むも不可であり、すなわちこれに語って言う、「必ず相見せんと欲すれば、その礼はまさに如何にあるべきか。」言う、「例あり。」膚敏は笑って言う、「例とは趨伏羅拜を謂う、この礼どうして用いるべけんや。北朝はただ一君のみ、皇子郎君は貴しといえども人臣なり、一介の使は賤しといえどもまた人臣なり。両国の臣相見して、君臣の礼を用いれば、これは北朝一国に二君ありとなる。」金人の気折れ、初めて言う、「ただ欲する所に任せよ。」膚敏は長揖して入った。既に坐すと、金人は誓書を出してこれを示し、膚敏は退けて視ず、言う、「遠使久しく朝廷の事を聞かず、この書の真偽知るべからず。」因りて用兵の事を論じ、また言葉をもってこれを折り、幾らかまた留められんとす。

原文至涿州新城,與斡離不遇,遣人約相見,拒之不可,遂語之曰:「必欲相見,其禮當如何?」曰:「有例。」膚敏笑曰:「例謂趨伏羅拜,此禮焉可用?北朝止一君耳,皇子郎君雖貴,人臣也,一介之使雖賤,亦人臣也。兩國之臣相見,而用君臣之禮,是北朝一國有二君也。」金人氣折,始曰:「唯所欲。」膚敏長揖而入。既坐,金人出誓書示之,膚敏卻不視,曰:「遠使久不聞朝廷事,此書真偽不可知。」因論用兵事,又以語折之,幾復為所留。

靖康初め、初めて還り、三官を進め、吏部員外郎に遷る。会に高麗が使を遣わして来賀し、命により太常少卿を仮としてこれを接せんとす。朝論は宣問使と改称せんと欲し、膚敏は言う、「国家高麗を厚遇すること久し、今辺事まさに起こらんとす、遽かにその礼を削るべからず、遠人の心を失う、願わくは姑く旧に仍らん。」すなわちまた接伴使と称す。既に明州に至り、会に京師多難なり、すなわち便宜に詔を称して使者に厚く賜い、遣わして還らしむ。

原文靖康初,始還,進三官,遷吏部員外郎。會高麗遣使來賀,命假太常少卿往接之。朝論欲改稱宣問使,膚敏曰:「國家厚遇高麗久矣,今邊事方作,不可遽削其禮,失遠人心,願姑仍舊。」乃復稱接伴使。既至明州,會京師多難,乃便宜稱詔厚賜使者,遣還。

建炎元年、命を覆し、自ら矯制の罪を劾し、高宗嘉賞す。衛尉少卿に遷る。両河の諸郡はまさに蠟書を降し、世襲を許し、各々堅守せしむべく、陝西・山東・淮南の諸路は、並びに陴を増し隍を浚い、民を徙して城に入れ清野の計となすべく、大臣を命じて汴京に留守し、車駕早く江寧に幸すべしと建議し、帝はこれを頗る納れた。

原文建炎元年,覆命,自劾矯制之罪,高宗嘉賞。遷衛尉少卿。建議兩河諸郡宜降蠟書,許以世襲,使各堅守;陝西、山東、淮南諸路,並令增陴浚隍,徙民入城為清野計;命大臣留守汴京,車駕早幸江寧,帝頗納之。

起居舍人に遷り、言う、「前日金人憑陵し、都邑守を失い、朝臣趙氏を存せんと欲する者は一二人に過ぎず、その他は皆節を屈して辱を受け、以て恥とせず、甚だしき者は敵人のために金帛を斂め、妃嬪を索め、至らざる所なし、その能く楚に詐る者紀信の如きを求めても無し。及び金人偽りに叛臣を立て、位号を僭窃す、廷の臣逃避して従わず及び寇の退きて位を趙氏に帰さんと約する者は、一二人に過ぎず、その他は皆質を委ねて栄を求め、以て愧とせず、甚だしき者は叛臣のために功德を称し、符命を説き、推戴の議を主とし、勸進の文を草し、為さざる所なし、その朱泚を撃つ者段秀實の如きを求めても無し。今陛下践祚の初め、苟くも典刑無くば、何を以て国を立たん。凡そ前日敵に節を屈し、偽命に質を委ねた者は、まさにその罪を差第すべく、大なるは族し、次は誅し、またその次は竄殛し、下はこれを遠方に斥け、終身齒せず、どうしてなお祠祿を畀え、班列を塵せしめんや。」また言う、「今二帝北遷し、寰宇痛心す、願わくは陛下愈々自ら貶損し、服雪を忘れず、宮室を卑くし、飲食を菲くし、衣服を悪くし、嬪御を減じ、聲樂を斥け、以て歳時上壽、春秋錫宴に至るまで、一切これを罷め、饗郊廟といえども楽を用いず。必ず両宮の闕に還るを俟ち、然る後に常に復す、庶幾くば精誠天地に昭格し、人心を感動せん。」右諫議大夫兼侍読を拝し、言う、「行在頗る土木の役を興す、四方を示す所以に非ず、承慶院・昇暘宮の築を罷むるを乞う。」また奏す、「凡そ黜陟中より出づる者は、皆三省を経て乃ち奉行を得、或いは祖宗の成憲に戾る者は、皆執奏を許す。」時に内侍李志道は赦恩により保慶軍承宣使に復し、添差入内都知とす、膚敏極論してこれを罷む。

原文遷起居舍人,言:「前日金人憑陵,都邑失守,朝臣欲存趙氏者不過一二人而已,其他皆屈節受辱,不以為恥,甚者為敵人斂金帛,索妃嬪,無所不至,求其能詐楚如紀信者無有也。及金人偽立叛臣,僭竊位號,在廷之臣逃避不從及約寇退歸位趙氏者,不過一二人而已,其他皆委質求榮,不以為愧,甚者為叛臣稱功德,說符命,主推戴之議,草勸進之文,無所不為,求其擊朱泚如段秀實者無有也。今陛下踐祚之初,苟無典刑,何以立國?凡前日屈節敵人,委質偽命者,宜差第其罪,大則族,次則誅,又其次竄殛,下則斥之遠方,終身不齒,豈可猶畀祠祿,使塵班列哉?」又言:「今二帝北遷,寰宇痛心,願陛下愈自貶損,不忘服雪,卑宮室,菲飲食,惡衣服,減嬪御,斥聲樂,以至歲時上壽,春秋錫宴,一切罷之,雖饗郊廟亦不用樂。必俟兩宮還闕,然後復常,庶幾精誠昭格天地,感動人心。」拜右諫議大夫兼侍讀,言:「行在頗興土木之役,非所以示四方,乞罷築承慶院、昇暘宮。」又奏:「“凡黜陟自中出者,皆由三省乃得奉行,或戾祖宗成憲者,皆許執奏。」時內侍李志道以赦恩復保慶軍承宣使,添差入內都知,膚敏極論罷之。

初め、欽宗の内侍昭慶軍承宣使容機は、囲城中の時に致仕を乞い、高宗即位し、命してこれを起す。膚敏は言う、「古より帝王未だ閑退より閹寺を求めて用いる者無し。」遂に寝す。后の父邢煥は徽猷閣待制を除し、太后の兄の子孟忠厚は顯謨閣直學士とす。膚敏は言う、「祖宗の法に非ず。」煥はまもなく武職に換え、忠厚は自若たり。俄に膚敏を中書舍人に遷す、膚敏は懇ろに奏して言う、「昔し司馬光は張方平の参知政事たるに当らざるを論じ、自ら御史中丞より翰林學士に遷る。光は言う、『臣を以て是と為せば、則ち方平まさに罷むべく、臣を以て非と為せば、則ち臣まさに貶せらるべし。今両に問う所無くして臣を遷す、臣未だ諭せず。』臣不肖といえども、司馬光に附せんことを願う。」また言う、「母后に事うるは孝に若くは莫く、戚属を待つは恩に若くは莫く、臣下を勧むるは賞に若くは莫し。今陛下太母に順うて非法を以てす、孝と謂う所に非ず、忠厚を処するに非分を以てす、恩と謂う所に非ず、臣の言を用いずしてその官を遷す、賞と謂う所に非ず、一挙にして三失す。」帝は宰相に命じて膚敏に諭して言う、「朝廷は次第に官を遷す、論事に因るに非ず。」膚敏はなお拝せず、家に居ること月を逾え、及び忠厚が承宣使に改まり、詔して后族は従官を除くこと勿れとし、膚敏初めて命を拝す。また言う、「中書は根本の地、舍人の掌る所、ただ演綸のみに非ず。」凡そ命令公議に合わざる者は、率ねこれを封還す。

原文初,欽宗內侍昭慶軍承宣使容機,圍城中時乞致仕,高宗即位,命起之。膚敏言:「自古帝王未有求閹寺於閑退而用者。」遂寢。后父邢煥除徽猷閣待制,太后兄子孟忠厚顯謨閣直學士。膚敏言:「非祖宗法。」煥尋換武職,忠厚自若。俄遷膚敏中書舍人,膚敏懇奏曰:「昔司馬光論張方平不當參知政事,自御史中丞遷翰林學士。光言:『以臣為是,則方平當罷;以臣為非,則臣當貶。今兩無所問而遷臣,臣所未諭。』臣雖不肖,願附于司馬光。」又言:「事母后莫若孝,待戚屬莫若恩,勸臣下莫若賞。今陛下順太母以非法,非所謂孝,處忠厚以非分,非所謂恩,不用臣言而遷其官,非所謂賞,一舉而三失矣。」帝命宰相諭膚敏曰:「朝廷以次遷官,非因論事也。」膚敏猶不拜,居家逾月,及忠厚改承宣使,詔后族勿除從官,膚敏始拜命。又言:「中書根本之地,舍人所掌,不特演綸而已。」凡命令不合公議者,率封還之。

会に膚敏は貢挙を知り、進士何烈が省試策に対し、謬って「臣」と称す、諫官李處遯は考官の鹵莽の罪を正すを乞い、集英殿修撰をもって洞霄宮を提挙す。或いは謂う、膚敏が後省において事を論じ、黄潜善・汪伯彦に悪まれたる故に、事に因ってこれを斥く。

原文會膚敏知貢舉,有進士何烈對省試策,謬稱「臣」,諫官李處遯乞正考官鹵莽之罪,以集英殿修撰提舉洞霄宮。或謂膚敏在後省論事,為黃潛善、汪伯彥所惡,故因事斥之。

三年春、行在に召し赴かしむ。時に帝は平江に次す。膚敏入見し、時事に言及して泣下し、帝もまた泣いて言う、「卿今宜しく言う所無からざるを知り、請う有れば時に拘わらず対せよ。」膚敏は謝して言う、「臣頃に嘗て三たび陛下に言う、揚州は駐蹕の地に非ず、早く江寧に幸すを乞う。今錢塘もまた帝王の都に非ず、宜しく事の定まるを須ち、亟に金陵に還るべし。」因りて長江を守る所以の策を陳べ、帝はその言を善しとす。翌日、再び対し、帰りて疾を得、然れどもなお力疾して蹕を扈して臨安に至る。俄に刑部侍郎を除す、未だ拝せず、謁告して華亭に帰り医に就くを請い、これを許し、礼部侍郎に遷る。

原文三年春,召赴行在。時帝次平江。膚敏入見,言及時事泣下,帝亦泣曰:「卿今宜知無不言,有請不以時對。」膚敏謝曰:「臣頃嘗三為陛下言,揚州非駐蹕之地,乞早幸江寧。今錢塘亦非帝王之都,宜須事定,亟還金陵。」因陳所以守長江之策,帝善其言。翌日,再對,歸得疾,然猶力疾扈蹕至臨安。俄除刑部侍郎,未拜,謁告歸華亭就醫,許之,遷禮部侍郎。

初め、膚敏は久しく病み舟中に臥し、朝参することができず、時に苗傅・劉正彦の変があり、帝は未だ反正せず、宰相朱勝非が隆祐太后に言上して、「膚敏は病と称して坐して成敗を観、人臣の節無し」とす。及び卒して、始めて其の偽りならざるを明らかにす。年四十九、特に大中大夫を贈る。子に仲英・仲傑・仲循あり。

原文初,膚敏久疾臥舟中,不能朝,時苗、劉之變,帝未反正,宰相朱勝非言于隆祐太后,以「膚敏稱疾坐觀成敗,無人臣節」。及卒,始明其非偽云。年四十九,特贈大中大夫。子仲英、仲傑、仲循。

劉珏

原文劉珏

劉珏、字は希範、湖州長興の人なり。崇寧五年の進士第に登る。初め太学に遊び、書を以て中書舎人鄒浩に遺りて曰く、「公始め博士として取士の失を論じ、居官を免ぜられ、諫省に在りて宮掖の非を斥け、嶺表に遠遷せらる。豈に禍福を逆計し、後日の報を邀えんや、固より古人の行いを蹈まんと欲するなり。今、庶政豈に尽く修明せんや、百官豈に尽く忠実ならんや、従臣継いで去るは、豈に尽く非才ならんや、言官屡逐せらるるは、豈に尽く罪有らんや。信任曩昔に逾え、而して拱黙して言わず、天下の士窃かに疑い有り、願わくば以て群望を慰塞せんことを」と。浩書を得て愧謝す。宣和四年、監察御史に擢でられ、言事に坐して舒州を知り、留まって尚書主客員外郎と為る。

原文劉珏,字希范,湖州長興人。登崇寧五年進士第。初遊太學,以書遺中書舍人鄒浩曰:「公始為博士論取士之失,免所居官,在諫省斥宮掖之非,遠遷嶺表,豈逆計禍福,邀後日報哉,固欲蹈古人行也。今庶政豈盡修明,百官豈盡忠實,從臣繼去,豈盡非才,言官屢逐,豈盡有罪!信任逾曩昔而拱默不言,天下之士竊有疑焉,願有以慰塞群望。」浩得書愧謝之。宣和四年,擢監察御史,坐言事知舒州,留為尚書主客員外郎。

靖康初め、皇帝の上皇朝謁の儀を議し、家人の礼を以て内庭に見えんと欲す。珏、皇帝に大小次を設け、上皇の御坐を俟ち、宰臣皇帝を導きて東階より升らしめ、殿上に拝せしむれば、則ち君の尊有り、父の敬有らんと請う。又謂う、「君、大臣に或いは剣履上殿を賜い、或いは子孫の扶掖を許す。皇帝の朝謁には、宜しく環衛士卒をして殿西に侍立せしめ、宰執・三衙・侍従等の官をして殿上に扶侍せしむべし。如し帝坐を請わば、即ち宰執等退きて西隅に立つべし」と。太常少卿に遷る。皇帝の冊宝受ける故事を討論し、珏言う、「唐の太宗・明皇皆親しく父命を受け、未だ再び冊礼を行わず。粛宗霊武に即位す、故に明皇韋見素を遣わして就いて冊し、宣政にて伝国璽を授く。群臣尊号を上る。至て徳宗之に踵いて行う、後世以て非と為す」と。議遂に寝す。

原文靖康初,議皇帝朝謁上皇儀,欲以家人禮見於內庭,珏請皇帝設大小次,俟上皇御坐,宰臣導皇帝升自東階,拜於殿上,則有君之尊,有父之敬。又謂:「君于大臣或賜劍履上殿,或許子孫扶掖。皇帝朝謁,宜令環衛士卒侍立於殿西,宰執、三衙、侍從等官扶侍於殿上。如請帝坐,即宰執等退立西隅。」遷太常少卿。討論皇帝受冊寶故事,珏言:「唐太宗、明皇皆親受父命,未嘗再行冊禮,肅宗即位于靈武,故明皇遣韋見素就冊之,宣政授傳國璽,群臣上尊號,至德宗踵行之,後世以為非。」議遂寢。

中書舎人を除く。十の開端の戒めを陳ぶること曰く、

原文除中書舍人。陳十開端之戒曰:

「陛下即位し御筆を罷め、営繕を止め、俊乂を登用し、虚誕を詘し、内侍の権を戢え、言者の路を開く。命令既に当たり、未だ数改めず、任用既に公にして、率ね皆職に称す。賞は必ず功を視、政は必ず実を核す。此れ天下の指日にして太平を徯う所以なり。比者内降数出で、三省に可否罕なり。此れ御筆の開端なり。子弟を教うるに既に其の所有り、又徹して之を新たにす。長入祗候の班、勢緩かならんとするも、亟に之を成す。此れ営繕の開端なり。河陽を庸才に付し、涇原を貪吏に委ぬ。此れ任用失当の開端なり。花石等の濫賞、既に治めて復た止む。馬忠兵を統べ、累行累召す。此れ命令数易の開端なり。三省・密院議論各々所見有り、啓擬各々知る所を挙ぐ。同じからず比せずの説を持ち、同寅協恭の議を忘る。此れ大臣不和の開端なり。内路の帥擅に聖旨指揮を作し、行郡の守外任監当と称す。此れ臣下誕謾の開端なり。局務を董る者官属を広く辟き、帷幄に侍る者殿廬を分争す。此れ内侍恣横の開端なり。両省の繳奏多く命じて以て次に行下し、或いは再び繳すべからざるを戒む。台諫言事失当すれば、率ね遠小監当を責む。此れ言路壅塞の開端なり。民を恤うの詔累下るも、未だ行う可き者多し。是れ空文にして実徳無きなり。此れ政事失信の開端なり。随龍第賞し、冠帯の工も亦恩を推す。金兵闕を扣けば、礼房の吏も亦秩を進む。此れ爵賞僣濫の開端なり。是の十者は未だ前日の甚だしきに若かざるも、其の端已に見ゆ。杜ぎて之を止めば、以て治平に馴致すべく、因りて之を循れば、智者有りと雖も其の後を善くすること能わざるなり」と。

原文「陛下即位罷御筆,止營繕,登俊乂,詘虛誕,戢內侍之權,開言者之路,命令既當,未嘗數改,任用既公,率皆稱職,賞必視功,政必核實,此天下所以指日而徯太平也。比者內降數出,三省罕有可否,此御筆之開端也。教子弟既有其所,又徹而新之,長入祗候之班,勢若可緩,亟而成之,此營繕之開端也。河陽付之庸才,涇原委之貪吏,此任用失當之開端也。花石等濫賞,既治復止,馬忠統兵,累行累召,此命令數易之開端也。三省、密院議論各有所見,啟擬各舉所知,持不同不比之說,忘同寅協恭之議,此大臣不和之開端也。內路之帥擅作聖旨指揮,行郡之守稱為外任監當,此臣下誕謾之開端也。董局務者廣辟官屬,侍帷幄者分爭殿廬,此內侍恣橫之開端也。兩省繳奏多命以次行下,或戒以不得再繳,臺諫言事失當,率責為遠小監當,此言路壅塞之開端也。恤民之詔累下,未可行者多,是為空文無實德,此政事失信之開端也。隨龍第賞,冠帶之工亦推恩,金兵扣闕,禮房之吏亦進秩,此爵賞僣濫之開端也。是十者雖未若前日之甚,其端已見,杜而止之,可以馴致治平,因而循之,雖有智者不能善其後矣。」

詹度都堂に稟議す。中書舎人安扶之を不可と持す。改めて珏に命じて書行せしむ。珏言う、「燕を伐つの役、度書を以て童貫の大挙を賛す。去秋蔡靖屡に金人の点集を言うに、度独り応に此れ有るべからずと謂い、遂に設備せず。請う、度を嶺表に竄せん」と。詔して宮祠を予う。李綱観文殿学士を以て揚州を知る。安扶又之を不可と持す。珏言う、「韓琦好水の敗、韓絳西州の敗、皆黜責を免れず。綱は国に報ゆるに勇み、兵を用うるに鋭し。聴用審ならず、数に敗衄有り。宜しく降黜して以て懲戒を示すべし」と。綱宮祠に改む。吏部侍郎馮澥、珏の両端を持し、綱の為に遊説すと言う。亳州明道宮を提挙す。

原文詹度都堂稟議,中書舍人安扶持不可,改命珏書行,珏言:「伐燕之役,度以書贊童貫大舉,去秋蔡靖屢以金人點集為言,度獨謂不應有此,遂不設備,請竄度嶺表。」詔予宮祠。李綱以觀文殿學士知揚州,安扶又持不可,珏言:「韓琦好水之敗,韓絳西州之敗,皆不免黜責。綱勇於報國,銳於用兵,聽用不審,數有敗衄,宜降黜以示懲戒。」綱改宮祠。吏部侍郎馮澥言珏持兩端,為綱遊說,提舉亳州明道宮。

建炎元年、復た召されて中書舎人と為る。泗州に至り、上書して言う、「金人尚ほ河北に屯する者有り。万一猖獗として南せば、六飛豈に警無からんや。乞う早く行幸を賜わらんことを。西兵驍ぎょう勇、宜しく留めて以て衛と為すべし。西京の舟船、恐らくは金人之を藉りて以て用いんとす。並びに東下せしむべし」と。時に李綱已に南陽を営せんと議す。珏未だ知らず。既に至り、極言して南陽は兵弱く財単なり、乗輿取る所の給無しと。乞う金陵に駐蹕して敵を待たんことを。汪伯彦・黄潜善皆東南に幸せんことを主る。帝遂に揚州に如く。潜善の兄潜厚戸部尚書を除く。珏、兄弟同一省に居るべからずと言う。帝張愨を遣わして旨を諭す。珏初めの如く論ず。詔して潜厚に醴泉観を提挙せしむ。

原文建炎元年,復召為中書舍人,至泗州,上書言:「金人尚有屯河北者,萬一猖獗而南,六飛豈能無警,乞早賜行幸。西兵驍勇,宜留以為衛。西京舟船。恐金人藉以為用,並令東下。」時李綱已議營南陽,珏未知也。既至,極言南陽兵弱財單,乘輿無所取給,乞駐蹕金陵以待敵。汪伯彥、黃潛善皆主幸東南,帝遂如揚州。潛善兄潛厚除戶部尚書,珏言兄弟不可同居一省,帝遣張愨諭旨,珏論如初。詔潛厚提舉醴泉觀。

給事中に遷る。内降・営繕の二事を論じて曰く、「陛下前朝の房院を以て承慶院を建つ。議者営造浸く広しと為す。隆祐太后時に御筆有るを以て、議者内降数出づと為す。蓋し除授中書に帰せず、工役内侍に領せらる。此れ人言の籍籍たる所以なり。営繕悉く有司に帰し、中旨皆執奏を許さば、則ち衆論息まん」と。孟忠厚顕謨閣直学士を除き、邢煥徽猷閣待制を除く。珏封還し、旧制外戚未だ両禁の官為る者無しと言う。詔して煥に武階を換えしむ。帝曰く、「忠厚は乃ち隆祐太后の族なり。宜しく朕の太后を優奉するの意を体すべし」と。珏益堅く持す。忠厚尋いで亦武階を換う。

原文遷給事中,論內降、營繕二事曰:「陛下以前朝房院而建承慶院,議者以為營造浸廣,以隆祐太后時有御筆,議者以為內降數出。蓋除授不歸中書,工役領之內侍,此人言所以籍籍也。營繕悉歸有司,中旨皆許執奏,則眾論息矣。」孟忠厚除顯謨閣直學士,邢煥徽猷閣待制,珏封還,言舊制外戚未有為兩禁官者,詔煥換武階。帝曰:「忠厚乃隆祐太后族,宜體朕優奉太后之意。」珏持益堅,忠厚尋亦換武階。

吏部侍郎に遷り、国史を同修す。言う、「淮甸敵に備え、兵食先と為す。今、降卒を以て見兵と為し、糴本を以て見糧と為す。一として恃む可き無し。維揚の城池未だ修まらず、軍旅多く闕く。卒かに不虞有らば、何を以て之を待たん」と。已にして金人果たしく虚に乗じて大いに入る。帝亟に臨安に如く。珏を以て龍図閣直学士・宣州知事と為す。俄に復た吏部侍郎と為る。

原文遷吏部侍郎,同修國史,言:「淮甸備敵,兵食為先,今以降卒為見兵,以糴本為見糧,無一可恃,維揚城池未修,軍旅多闕,卒有不虞,何以待之?」已而金人果乘虛大入,帝亟如臨安,以珏為龍圖閣直學士、知宣州。俄復為吏部侍郎。

久雨を以て詔して言を求む。珏疏を上りて天変を消し、人心を収むる数事を論じ、詞極めて激切なり。並びに荊・陝・江・淮の守禦の略を陳ぶ。「願わくば大臣に申詔し、細務を悉く屏け、唯だ守禦を謀らしめよ。京より荊・淮の郡に及び、大帥を置き、勁兵を屯せしめよ。命ず江に沿うの守に、各々措画の方上らしめ、斥候を明らかにし、険阻を設け、大府の出を節し、大農の入を広くし、戦艦を検察して之を習わしめば、則ち守禦詳尽し、人心安んじ、天意回り、大業昌んならん」と。吏部尚書に遷る。

原文以久雨詔求言,珏疏論消天變、收人心數事,詞極激切,並陳荊、陝、江、淮守禦之略:「願申詔大臣,悉屏細務,唯謀守禦。自京及荊、淮之郡,置大帥,屯勁兵。命沿江之守,各上措畫之方,明斥堠,設險阻,節大府之出,廣大農之入,檢察戰艦而習之,則守禦詳盡,人心安,天意回,大業昌矣。」遷吏部尚書。

隆祐太后が神主を奉じて江西に赴かれるに当たり、詔により鄭珏は端明殿学士・権同知三省枢密院事に任ぜられて従行した。時に詔して元祐の党籍及び上書により廃錮された人々を、故官に追復し、子孫を録用することを命じたが、施行が未だ尽くされていない者を、鄭珏は悉く奏上して実行させた。また常安民・張克公がかつて蔡京の罪を論じたことを述べ、厚く恩を加えるよう請うた。洪州に至り、巡幸道路の修治の役について上疏し、おおよそ次のように述べた。「陛下は時艱難に遭い、自ら倹約を実践され、前の冬に淮甸に行幸された際、供帳は古びて破れ、道路は険しく狭かったが、未だ気に留められなかった。今聞くところによれば、衢州・信州以来、道路を整備し、民丁を徴発し、急を星火の如くし、広く羊豕を買い求め、服用の具を備え造らせ、農夫をして収穫させず、平民をして休ませないのは、陛下の倹をもって難を避けられるお心に非ず。詔を降して悉く罷めることを乞う。」金人が吉州を攻め、兵を分けて太后を追撃し、舟が太和県に至ると、衛兵は皆潰走し、鄭珏は太后を奉じて退き虔州を守った。監察御史張延寿が鄭珏の罪を論じ、鄭珏もまた上書して自らを劾し、嶺を越えて命を待ち、落職して江州太平観の提挙となった。張延寿が論じ止まず、責められて秘書少監を授けられ、衡州に貶された。紹興元年、自便を許された。翌年、朝散大夫をもって西京に分司した。梧州にて卒す。年五十五。その二子を官とした。八年、龍図閣学士を追復された。『呉興集』二十巻・『集議』五巻・『両漢蒙求』十巻がある。

原文隆祐太后奉神主如江西,詔珏為端明殿學士、權同知三省樞密院事從行。時詔元祐黨籍及上書廢錮人,追復故官,錄用子孫,施行未盡者,珏悉奏行之。又言常安民、張克公嘗論蔡京罪,乞厚加恩。至洪州,疏言修治巡幸道路之役,略曰:「陛下遭時艱難,躬履儉約,前冬幸淮甸,供帳弊舊,道路險狹,未嘗介意。今聞衢、信以來,除治道路,科率民丁,急如星火,廣市羊豕,備造服用,使農夫不得穫,齊民不得休,非陛下儉以避難之意也。乞降詔悉罷。」金人攻吉州,分兵追太后,舟至太和縣,衛兵皆潰,珏奉太后退保虔州。監察御史張延壽論珏罪,珏亦上書自劾,逾嶺俟命,落職,提舉江州太平觀。延壽論不已,責授秘書少監,貶衡州。紹興元年,許自便。明年,以朝散大夫分司西京。卒於梧州,年五十五。官其二子。八年,追復龍圖閣學士。有《吳興集》二十卷、《集議》五卷、《兩漢蒙求》十卷。

胡舜陟

原文胡舜陟

胡舜陟、字は汝明、徽州績渓の人。大観三年の進士に及第し、州県の官を歴任し、監察御史となった。上奏して言う。「御史は言を以て職とす。故に唐より本朝に至るまで皆時事を論じ、官邪を撃ち、殿中侍御史と同様であった。崇寧年間、大臣が己の便を図らんとし、遂に祖宗の成憲を変え、南台の御史に始めて事を言わざる者あり。多事の時には、言路を開くことを急務とす。本台に下し、監察御史の言事の条文を増入し、以て祖宗の制を復することを乞う。」内艱により去職。

原文胡舜陟,字汝明,徽州績溪人。登大觀三年進士第,歷州縣官,為監察御史。奏:「御史以言為職,故自唐至本朝皆論時事,擊官邪,與殿中侍御史同。崇寧間,大臣欲便己,遂變祖宗成憲,南臺御史始有不言事者。多事之時,以開言路為急。乞下本臺,增入監察御史言事之文,以復祖宗之制。」以內艱去。

服闋し、再び監察御史となる。上奏して言う。「河北の金兵は既に遁れたが、備禦は特に講ぜざるべからず。」欽宗即位し、また言う。「今、辺患を結び成し、幾らか社稷を傾けんとしたのは、帰明官趙良嗣に始まる。請う、これを戮して以て天下の快とせよ。」遂に趙良嗣を誅す。また上奏して言う。「今、辺境の備禦の計は、兵は練ることができ、粟は積むことができるが、ただ将を得ることが難し。請う、内外の臣に詔し、文武の官で将帥に堪える才を併せて挙げしめよ。」また上奏して言う。「上殿の班は先に台、後に諫たるは、祖宗の法なり。今、台臣が諫臣の下に在る。乞う、今後台諫同日に上殿せしめ、台諫の雑圧を以て先後とせよ。」

原文服闋,再為監察御史。奏:「河北金兵已遁,備禦尤不可不講。」欽宗即位,又言:「今結成邊患,幾傾社稷,自歸明官趙良嗣始,請戮之以快天下。」遂誅良嗣。又奏:「今邊境備禦之計,兵可練,粟可積,獨將為難得,請詔內外之臣,並舉文武官才堪將帥者。」又奏:「上殿班先臺後諫,祖宗法也,今臺臣在諫臣下,乞今後臺諫同日上殿,以臺諫雜壓為先後。」

侍御史に遷る。上奏して言う。「向に晁説之が皇太子に『孝経』を講じ、『論語』を読み、間日に『爾雅』を読んで『孟子』を廃することを乞うた。夫れ孔子の後に聖人の道を深く知る者は、孟子のみ。願わくは詔して東宮の官に旧制に遵わしめ、先ず『論語』を読み、次いで『孟子』を読ませよ。」また上奏して言う。「涪陵の譙定は郭雍に『易』を受け、象数を究極し、人事を逆知し、諸葛亮の八陣法に洞曉す。厚礼を以てこれを招くべし。」

原文遷侍御史。奏:「向者晁說之乞皇太子講《孝經》,讀《論語》,間日讀《爾雅》而廢《孟子》。夫孔子之後深知聖人之道者,孟子而已。願詔東宮官遵舊制,先讀《論語》,次讀《孟子》。」又奏:「涪陵譙定受《易》于郭雍,究極象數,逆知人事,洞曉諸葛亮八陣法,宜厚禮招之。」

高宗即位し、胡舜陟は宰相李綱の罪を論じたが、帝は聴かなかった。言事者がその偽廷に仕えたことを論じ、集英殿修撰・廬州知州に除せられた。時に淮西は盗賊充満し、廬州の人は震恐し、日々舟楫を具えて南渡の計を為した。胡舜陟が至り、城を修め戦具を治めると、人心始めて安んず。

原文高宗即位,舜陟論宰相李綱之罪,帝不聽。言者論其嘗事偽廷,除集英殿修撰、知廬州。時淮西盜賊充斥,廬人震恐,日具舟楫為南渡計。舜陟至,修城治戰具,人心始安。

冀州の雲騎卒孫琪が兵を聚めて盗賊となり、「一海蝦」と号し、廬州に至った。胡舜陟は城に乗りて拒守した。孫琪が資糧を要求したが、胡舜陟は与えず、その配下が粟を与えるよう請うた。胡舜陟は言う。「我は愛惜する所あるに非ず、顧みるに賊の心は厭くこと無し。これに与えれば弱を示すことになり、彼は為す能わざるなり。」乃ち時に兵を出してその掠奪する者を撃ち、孫琪は夜遁し、胡舜陟は伏兵して邀撃し、その輜重を得て帰った。

原文冀州雲騎卒孫琪聚兵為盜,號「一海蝦」,至廬,舜陟乘城拒守。琪邀資糧,舜陟不與,其眾請以粟遺之,舜陟曰:「吾非有所愛,顧賊心無厭,與之則示弱,彼無能為也。」乃時出兵擊其抄掠者,琪宵遁,舜陟伏兵邀擊,得其輜重而歸。

済南の僧劉文舜が党を聚めて万余りとなり、舒州投子山を保って剽掠をほしいままにした。胡舜陟は介使を遣わしてこれを招降させた。時に丁進・李勝が兵を合して蘄州・寿州の間に盗賊となり、胡舜陟は劉文舜を遣わしてこれを破らせた。

原文濟南僧劉文舜聚黨萬餘,保舒州投子山縱剽,舜陟遣介使招降之。時丁進、李勝合兵為盜蘄、壽間,舜陟遣文舜破之。

張遇が濠州より奄かに梁県に至った。胡舜陟は竹里橋を毀たせ、兵を河西に伏せ、その半ば渡るを伺って撃ち破った。また自ら江北を守り、以て行宮を護ることを請うた。帝はその言を壮とし、徽猷閣待制に擢げ、淮西制置使を充てた。范瓊が寿春より淮を渡り、書を送って軍需の銭帛を責めた。胡舜陟は逆順を以て諭すと、范瓊は去った。

原文張遇自濠州奄至梁縣,舜陟使毀竹里橋,伏兵河西,伺其半渡擊敗之。又請以身守江北,以護行宮。帝壯其言,擢徽猷閣待制,充淮西制置使。范瓊自壽春渡淮,貽書責贍軍錢帛,舜陟諭以逆順,瓊乃去。

軍興以来、淮西八郡は群盗攻蹂して全き城無く、胡舜陟は廬州を守ること二年、按堵として故の如し。徽猷閣待制をもって建康府知府に転じ、沿江都制置使を充てた。一年余りして、臨安府知府に改め、再び徽猷閣待制となり、京畿数路宣撫使を充てた。間もなく罷められ、廬州・寿州鎮撫使に遷り、淮西安撫使に改められた。廬州に至り、潰兵の王全がその徒と共に降って来た。胡舜陟は財を散じ粟を発し、流民漸く帰った。静江府知府に改められ、詔により市戦馬を措置することを命じられた。御史中丞常同が胡舜陟の兇暴傾險を奏し、罷められた。

原文自軍興後,淮西八郡,群盜攻蹂無全城,舜陟守廬二年,按堵如故,以徽猷閣待制知建康府,充沿江都制置使。逾年,改知臨安府,復為徽猷閣待制,充京畿數路宣撫使。尋罷,遷廬、壽鎮撫使,改淮西安撫使。至廬州,潰兵王全與其徒來降,舜陟散財發粟,流民漸歸。改知靜江府,詔措置市戰馬。御史中丞常同奏舜陟兇暴傾險,罷之。

後十八年、再び広西経略となる。邕州知州の俞儋に贓あり、運副の呂源に按劾され、事が胡舜陟に連座し、太平観提挙となった。先に、胡舜陟は呂源と隙あり、胡舜陟は郴州の賊を討つに因り、呂源が軍事を沮むことを劾した。呂源は書を以て秦檜に抵り、胡舜陟が金を受け馬を盗むこと及び朝政を誹謗することを訟えた。秦檜は素より胡舜陟を悪み、その説を入れ、大理寺官の袁柟・燕仰之を遣わして推劾させるよう奏した。二旬を経て、辞服せず、獄中に死す。

原文後十八年,復為廣西經略。以知邕州俞儋有贓,為運副呂源所按,事連舜陟,提舉太平觀。先是,舜陟與源有隙,舜陟因討郴賊,劾源沮軍事,源以書抵秦檜,訟舜陟受金盜馬,非訕朝政。檜素惡舜陟,入其說,奏遣大理寺官袁柟、燕仰之往推劾,居兩旬,辭不服,死獄中。

胡舜陟は恵愛あり、邦人はその死を聞き、そのために哭した。妻の江氏が朝廷に訴え、詔して徳慶府通判の洪元英に実を究めさせた。洪元英は言う。「胡舜陟の金を受け馬を盗むことは、事曖昧に渉る。その人心を得ることは、古の循吏と雖も以て過ぐる無し。」帝は秦檜に謂いて言う。「胡舜陟は従官なり、又罪は死に至らず。勘官は懲せざるべからず。」遂に袁柟・燕仰之を吏部に送った。

原文舜陟有惠愛,邦人聞其死,為之哭。妻江氏訴於朝,詔通判德慶府洪元英究實。元英言:「舜陟受金盜馬,事涉曖昧,其得人心,雖古循吏無以過。」帝謂檜曰:「舜陟從官,又罪不至死,勘官不可不懲。」遂送柟、仰之吏部。

沈晦

原文沈晦

沈晦、字は元用、銭塘の人、翰林学士沈遘の孫。宣和年間の進士で廷対第一となり、校書郎に除せられ、著作佐郎に遷った。金人が汴京を攻めると、給事中を借りて肅王枢に従い質として斡離不の軍に出た。金人が再び攻めて来た時、これと共に南に下った。京城陥落し、張邦昌が偽って立つと、金人に馮澥等の帰還を請い、沈晦は因って還ることができ、真に給事中となった。

原文沈晦,字元用,錢塘人,翰林學士沈遘孫。宣和間進士廷對第一,除校書郎,遷著作佐郎。金人攻汴京,借給事中從肅王樞出質斡離不軍。金人再攻也,與之俱南。京城陷,邦昌偽立,請金人歸馮澥等,晦因得還,真為給事中。

高宗即位し、言事者が沈晦は金に使して艱苦したと雖も、封駁の職は労を賞するに以てすべからずと論じ、集英殿修撰・信州知州に除せられた。帝が揚州に行幸し、将に召して中書舎人とせんとした時、侍御史張守が沈晦の布衣の時の事を論じた。帝は言う。「頃に金営にてその慷慨を見る。士人の細行、豈に終身の累たるに足らんや。」果たして召さず。明州知州となり、処州に移った。

原文高宗即位,言者論晦雖使金艱苦,而封駁之職不可以賞勞,除集英殿修撰、知信州。帝如揚州,將召為中書舍人,侍御史張守論晦為布衣時事,帝曰:「頃在金營見其慷慨,士人細行,豈足為終身累邪?」不果召。知明州,移處州。

帝は会稽に行幸し、守備を婺州に移した。賊の成皋が侵入し、劉晦は教授の孫邦の策を用い、民兵数百を率いて城を出て戦ったが、大敗し、劉晦は孫邦を斬ろうとしたが、後にこれを釈放した。時に浙東防遏使傅崧卿が城中におり、単騎で成皋のもとに赴き説得すると、成皋は遂に降伏した。徽猷閣待制に進む。言事官が劉晦が便宜指揮行事を妄用したと論じたため、集英殿修撰・提挙臨安府洞霄宮に降格した。まもなく徽猷閣待制に復し、宣州知州となり、建康府知州に移った。満一月に満たず、御史常同の論劾により罷免された。

原文帝如會稽,移守婺州。賊成皋入寇,晦用教授孫邦策,率民兵數百出城與戰,大敗,晦欲斬邦,已而釋之。時浙東防遏使傅崧卿在城中,單騎往說皋,皋遂降。進徽猷閣待制。以言者論晦妄用便宜指揮行事,降集英殿修撰、提舉臨安府洞霄宮。尋復徽猷閣待制、知宣州,移知建康府。甫逾月,以御史常同論罷。

紹興四年、起用されて鎮江府知州・両浙西路安撫使となり、行在所に立ち寄り対面し、言上した。「藩帥の兵は用いることができる。今、長江沿い千余里にわたり、もし鎮江・建康・太平・池・鄂の五郡にそれぞれ兵一二万ずつ置き、本郡の財賦で官田を買い与えて養えば、敵が来れば、五郡が舟師で江を守り、歩兵で要害を守れば、敵は渡江し難い。仮に一部が渡江しても、五郡が合撃すれば、敵はたとえ善戦しても、一日で諸城を破ることはできない。もし五郡を包囲すれば、兵は分散し勢いは弱まり、あるいは一部の軍で我が大軍を引きつけ南侵すれば、五郡がその背後を遮って邀撃するので、敵はどうして遠くへ去ることができようか。この体制が少し定まれば、三年後に江北に移り、糧餉・器械を全て自ら携行する。」また自ら兵二千を分与され、敢戦士三千を募ることを請い、昭義の歩兵法を参酌して用い、一年後には京口は強力な藩鎮となるとした。時に丁度韓世忠が鎮江に駐屯しており、用いられることはなかった。

原文紹興四年,起知鎮江府、兩浙西路安撫使,過行在面對,言:「藩帥之兵可用。今沿江千餘里,若令鎮江、建康、太平、池、鄂五郡各有兵一二萬,以本郡財賦易官田給之,敵至,五郡以舟師守江,步兵守隘,彼難自渡。假使參渡,五郡合擊,敵雖善戰,不能一日破諸城也。若圍五郡,則兵分勢弱,或以偏師綴我大軍南侵,則五郡尾而邀之,敵安敢遠去。此制稍定,三年後移江北,糧餉、器械悉自隨。」又自乞分兵二千及召募敢戰士三千,參用昭義步兵法,期年後,京口便成強藩。時方以韓世忠屯軍鎮江,不果用。

劉麟が侵入すると、韓世忠は揚州でこれを防ぎ、劉晦は張俊の軍を促して韓世忠の援軍とするよう請うた。趙鼎は劉晦の議論が激昂していると称賛したが、帝は言った。「劉晦は確かに賞賛に値する。しかし朕はその人を知っている。言は甚だ壮だが、胆志はやや怯懦である。さらに事に臨んで、言ったことと符合するかどうかを見よう。」しかし劉晦は韓世忠に好まれず、まもなく提挙臨安府洞霄宮となり、起用されて広西経略兼静江府知州となった。

原文劉麟入寇,世忠拒於揚州,晦乞促張俊兵為世忠援。趙鼎稱晦議論激昂,帝曰:「晦誠可嘉,然朕知其人言甚壯,膽志頗怯,更觀臨事,能副所言與否?」然晦不為世忠所樂,尋提舉臨安府洞霄宮,起為廣西經略兼知靜江府。

先に、南州の蛮酋莫公晟が帰朝し、年久しく、本路鈐轄に任じて羈縻していたが、後に遁走し、近隣の諸峒の蛮と結び、毎年出没して辺境の患いとなった。劉晦は老将の羅統を選んで辺境を守らせ、諸酋を招誘し、威信をもって諭すと、皆府に赴いて降伏を請い、劉晦はこれを慰労して贈物を与え、誓いを結んで去らせた。これより莫公晟は孤立し、再び辺境を侵犯しなかった。劉晦は郡において、毎年三千匹の馬を買い、後任者は皆これに及ばなかった。徽猷閣直学士に進み、行在所に召還され、衢州知州に任じられ、潭州知州に改め、提挙太平興国宮となり、卒した。

原文先是,南州蠻酋莫公晟歸朝,歲久,用為本路鈐轄羈縻之,後遁去,旁結諸峒蠻,歲出為邊患。晦選老將羅統戍邊,招誘諸酋,喻以威信,皆詣府請降,晦犒遺之,結誓而去。自是公晟孤立,不復犯邊。晦在郡,歲買馬三千匹,繼者皆不能及。進徽猷閣直學士,召赴行在,除知衢州,改潭州,提舉太平興國宮,卒。

劉晦は胆気人に過ぎ、法度に全て従うことができず、貧しい時は特に甚だしかったので、しばしば人言を招いた。しかしその官にある時の才幹は、また覆い隠すことができないものであった。

原文晦膽氣過人,不能盡循法度,貧時尤甚,故累致人言。然其當官才具,亦不可掩云。

劉一止

原文劉一止

劉一止、字は行簡、湖州帰安の人。七歳で文を綴ることができ、太学で試験を受けた時、有司が八行で推挙しようとしたが、一止は言った。「行いは士の常である。」と就かなかった。進士に及第し、越州教授となった。参知政事李邴が詳定一司敕令所刪定官に推薦した。

原文劉一止,字行簡,湖州歸安人。七歲能屬文,試太學,有司欲舉八行,一止曰:「行者士之常。」不就。登進士第,為越州教授。參知政事李邴薦為詳定一司敕令所刪定官。

紹興初年、館職に召し試みられ、その大略は言った。「事が成就しないのは、患いは為さないことにあり、その難しさにあるのではない。聖人は多難を畏れず、難に因って事を図るのである。もし為さなければ、天命が自ら回り、人事が自ら正しくなり、敵国が自ら屈し、盗賊が自ら平定されるのを待つということが、ありえようか。」高宗は善しとし、かつ近臣にその言の剴切で治道を知っていると告げ、急いで用いようとしたが、執政が喜ばず、秘書省校書郎に任じた。両浙類試を考査し、科挙がまさに変革されようとしていたので、時務に通じた者を得ようとし、同僚は皆その人材がないのを憂えたが、一止が一巻を取り出して言った。「これが首位とすべきである。」封を開けて番号を見ると張九成であったので、衆は皆悦服した。

原文紹興初,召試館職,其略曰:「事不克濟者,患在不為,不患其難,聖人不畏多難,以因難而圖事耳。如其不為,俟天命自回,人事自正,敵國自屈,盜賊自平,有是哉?」高宗稱善,且諭近臣以所言剴切知治道,欲驟用,執政不樂,除秘書省校書郎。考兩浙類試,以科舉方變,欲得通時務者,同列皆患無其人,一止出一卷曰:「是宜為首。」啟號乃張九成也,眾皆厭服。

監察御史に遷った。上疏して言った。「天下の治は、衆君子が成しても足らず、一小人が敗れば余りある。君子はたとえ多くても道は孤となり、小人はたとえ寡なくても勢いは蔓延しやすい。よく察さなければ、小人が隙を窺って入り、政を敗るのである。」また言った。「陛下は宿蠹が未だ除かれず、頽綱が未だ振るわず、民は困窮し財は枯渇していることを憂い、故に司を置いて講究させられたが、未だ施行されたと聞かない。疑わしい説をもって陛下を欺き、『このようにすれば、人心を失うであろう』と言う者がいるのではないか。いわゆる人心を失うとは、必ず刑政の苛酷、賦役の多さ、好悪の不公正、賞罰の不明によるものである。もしこれらが皆なければ、失うのは小人の心のみである。何の病むことがあろうか。」

原文遷監察御史。上疏謂:「天下之治,眾君子成之而不足,一小人敗之而有餘,君子雖眾道則孤,小人雖寡勢易蔓,不加察,則小人伺隙而入以敗政矣。」又言:「陛下憫宿蠹未除,頹綱未振,民困財竭,故置司講究,然未聞有所施行,得無有以疑似之說欺陛下,曰 『如此,將失人心』。夫所謂失人心者,必刑政之苛,賦役之多,好惡之不公,賞罰之不明;若皆無是,則所失者小人之心耳,何病焉。」

当時は諸事草創で、有司は吏の省記(記憶・記録)を法としていたため、吏がこれに便乗して奸を行った。一止は言った。「法令が備わっていても、吏はなお文を弄することができる。まして全てその省記に従えば、与えたい時は与える先例を述べ、奪いたい時は奪う先例を述べ、与奪がその口先一つにあり、患いは言い尽くせない。省記の文を刊定して頒行するよう請う。これによって奸吏が法を弄し賄賂を受ける弊害を絶つことができるであろう。」従われた。一年余りして書が完成した。

原文時庶事草創,有司以吏所省記為法,吏並緣為姦,一止曰:「法令具在,吏猶得舞文,矧一切聽其省記,所欲與則陳與例,欲奪則陳奪例,與奪在其牙頰,患可勝言哉!請以省記之文刊定頒行,庶幾絕姦吏弄法受賕之弊。」從之。逾年而書成。

秦檜が修政局を置くことを請うと、一止は言った。「宣王が内に政事を修めたのは、外を攘う政を修めたに過ぎない。今修めようとしているのは、特に簿書・獄訟、官吏の遷降、土木営建の事務であり、急務とすべきものは見られない。」また言った。「人材の進用が余りに急である。仕える者が銓選によらないこともあり、朝士は入って出ず、外官はたとえ異能があっても召用されない。軍事でないのに起復するのは、皆幸門が塞がれないためである。財利に通暁した近臣を選び、劉晏の法に倣い、江辺に司を置いて国用を制し、郷村に義倉を置いて水旱に備え、監司の選任を重んじるよう請う。」後に多くその言が採用された。

原文秦檜請置修政局,一止言:「宣王內修政事,修其外攘之政而已。今之所修,特簿書獄訟,官吏遷降,土木營建之務,未見所當急也。」又謂:「人才進用太遽,仕者或不由銓選,朝士入而不出,外官雖有異能,不見召用,非軍事而起復,皆幸門不塞之故。請選近臣曉財利者,仿劉晏法,瀕江置司以制國用,鄉村置義倉以備水旱,增重監司之選。」後多採用其言。

起居郎に遷った。奏事すると、帝は迎えて言った。「朕が親しく抜擢した者である。六察から二史(起居郎・起居舎人)に遷ったのは、祖宗の時に幾人いたか。」一止は謝して言った。「先朝ではただ張澂・李棁のみです。」そこで堂吏・宦官の弊害を極力陳べ、執政が私党を植え、国を憂うる心がないと述べた。翌日罷免され、主管台州崇道観となった。

原文遷起居郎。奏事,帝迎語曰:「朕親擢也,繇六察遷二史,祖宗時有幾?」一止謝:「先朝惟張澂、李棁耳。」因極陳堂吏宦官之蠹,執政植私黨,無憂國心。翌日罷,主管台州崇道觀。

祠部郎・袁州知州に召され、浙東路提点刑獄に改め、秘書少監となり、再び起居郎に任じられ、中書舎人兼侍講に抜擢された。莫将が賜出身して起居郎に任じられると、一止は奏上した。「莫将は上書して和議を助け、驟然として太府丞から従班に連なり、これ以前にはなかったことで、臣は莫将と同命となることになります。臣も共に罷免されることを願います。」答はなかった。

原文召為祠部郎、知袁州,改浙東路提點刑獄,為秘書少監,復除起居郎,擢中書舍人兼侍講。莫將賜出身除起居郎,一止奏:「將以上書助和議,驟自太府丞綴從班,前此未有,臣乃與將同命,願並臣罷之。」不報。

給事中に遷った。徐偉達という者は、かつて張邦昌に仕えて郎官となり、池州知州を得た。一止は言った。「偉達は既に偽廷に仕えたのに、今郡を付与すれば、天下に示すところがありません。」孟忠厚が郡守を試みることを請うと、一止は言った。「后族で忠厚のように文を業とする者は郡守となれても、他日に例を援用する者が現れた時、どうして退けることができましょうか。」汪伯彦が宣州知州として入朝すると、詔して元帥府の旧人であるとして、特に現任の執政に準じて俸給を与えた。一止は言った。「伯彦の誤国の罪は天下が共に知るところです。郡守の身分で執政に例えるのは、かつて待制でないのに待制の待遇を受け、両府でないのに両府の待遇を受けた者と同類になりましょう。」帝は皆これを罷めさせた。および貴近の請託については、たとえ小事でも論執して止めなかった。御史中丞廖剛はその僚属に言った。「台諫で言うべきことは、皆劉君に先を越されてしまった。」

原文遷給事中。徐偉達者,嘗事張邦昌為郎,得知池州,一止言:「偉達既仕偽廷,今付以郡,無以示天下。」孟忠厚乞試郡,一止言:「后族業文如忠厚雖可為郡,他日有援例者,何以卻之?{」汪伯彥知宣州入覲,詔以元帥府舊人,特依見任執政給奉,一止言:「伯彥誤國之罪,天下共知,以郡守而例執政,殆與異時非待制而視待制,非兩府而視兩府者類矣。」帝皆為罷之,於凡貴近之請,雖小事亦論執不置。御史中丞廖剛謂其僚曰:「臺當有言者,皆為劉君先矣。」

瑣闥(門下省)に百余日居り、奏書を駁し続けたため、権力者が初めて忌むようになり、一止が周葵と共に呂広問を推薦し、李光に迎合したと奏上され、罷免され、提挙江州太平観となった。敷文閣待制に進む。御史中丞何若が奏上した。「一止は李光に朋附し、傲慢で上を軽んじている。」落職し、祠官を罷免された。後八年、老齢を理由に致仕を請い、復職し、致仕した。秦檜が死ぬと、国門に召還されたが、病のため拝礼できず、力辞し、直学士に進み、致仕した。享年八十三。

原文居瑣闥百餘日,繳奏不已,用事者始忌,奏一止同周葵薦呂廣問,迎合李光,罷,提舉江州太平觀。進敷文閣待制。御史中丞何若奏:「一止朋附光,偃蹇慢上。」落職,罷祠。後八年,請老,復職,致仕。秦檜死,召至國門,以病不能拜,力辭,進直學士,致仕。卒年八十三。

一止は沖淡寡欲にして、嘗て其の子を誨えて曰く、「吾が平生の通塞は、自然に聴く、唯機械を生ぜざるを以て、故に方寸自ら楽しむ地有り」と。博学にして通ぜざる無く、文を為すに纖刻を事とせず、制誥は坦明にして体有り、書詔は一日に数十輒ち辦ず、嘗て言ふ、「訓誥は、善を賞し悪を罰する詞なり、豈に情を過ぎ美を溢し、鄰を怒らせ坐を罵るの為ならんや」と。其の草したる顏魯公の孫特命官の制甚だ偉なり、帝歎賞し、手を為して之を書く。詩は自ら一家を成し、呂本中・陳與義之を讀みて曰く、「語人間より來らず」と。類稿五十卷有り。子は巒・嶅、從弟は寧止。

原文一止沖淡寡欲,嘗誨其子曰:「吾平生通塞,聽于自然,唯機械不生,故方寸自有樂地。」博學無不通,為文不事纖刻,制誥坦明有體,書詔一日數十輒辦,嘗言:「訓誥者,賞善罰惡詞也,豈過情溢美、怒鄰罵坐之為哉。」其草顏魯公孫特命官制甚偉,帝歎賞,為手書之。詩自成家,呂本中、陳與義讀之曰:「語不自人間來也。」有類稿五十卷。子巒、嶅,從弟寧止。

從弟 寧止

原文從弟 寧止

寧止、字は無虞、宣和の進士甲科に登り、太學錄・校書郎を除す。建炎初、浙西安撫大使司參議と為り、兩浙轉運判官に改む。苗傅・劉正彥の變に、寧止は毗陵より馳せて京口・金陵に詣り、呂頤浩・劉光世を見て、忠義を以て勉め、退きて軍須を具し以て勤王を佐く。左司郎官を除すも、辭す。帝位に復し、右司郎官・給事中を除す。梁揚祖が發運使と為るに、寧止再疏を上りて論駁す。

原文寧止,字無虞,登宣和進士甲科,除太學錄、校書郎。建炎初,為浙西安撫大使司參議,改兩浙轉運判官。苗傅、劉正彥之變,寧止自毗陵馳詣京口、金陵,見呂頤浩、劉光世,勉以忠義,退而具軍須以佐勤王。除左司郎官,辭。帝復位,除右司郎官、給事中。梁揚祖為發運使,寧止再疏論駁。

添差江・淮・荊湖制置發運副使を以て隆祐太后に扈從し江西に幸するを扈し、尋いで兩浙轉運副使と為る。勤王の功を錄し、直龍圖閣に直し、秘閣修撰に進み、崇道觀を主管し、江淮等路坑冶鑄錢を提點し、鎮江府を知り兼ねて沿江安撫と為り、右文殿修撰に進む。寧止言ふ、「京口は大江を控扼し、浙西の門戸と為る、常州・江陰軍及び昆山・常熟の二縣を分ちて本司に隷せしめ、庶幾くば防秋の時沿江の號令一に歸し、以て固守すべし」と。權戸部侍郎、三宣撫司錢糧を總領す。張浚諸軍を都督ととくし、以て行府の屬と為す。吏部侍郎を除し、徽猷閣直學士に進み秀州を知り、顯謨閣に升り、太平觀を提舉し、卒す。

原文以添差江、淮、荊湖制置發運副使扈從隆祐太后幸江西,尋為兩浙轉運副使。錄勤王功,直龍圖閣,進秘閣修撰,主管崇道觀,提點江淮等路坑冶鑄錢,知鎮江府兼沿江安撫,進右文殿修撰。寧止言:「京口控扼大江,為浙西門戶,請分常州、江陰軍及昆山、常熟二縣隸本司,庶防秋時沿江號令歸一,可以固守。」權戶部侍郎,總領三宣撫司錢糧。張浚都督諸軍,以為行府屬。除吏部侍郎,進徽猷閣直學士、知秀州,升顯謨閣,提舉太平觀,卒。

寧止は文名有り、慷慨として事を論ずるを喜ぶ。艱難の時に當り、上疏して闕失を言ひ、隱微を指切し、人の言ひ難きに多し。王安石の『日録』を禁ずるを乞ひ、賢良方正科を復し、司馬光の十科薦士法を用ひ、唐制に倣ひ宰執の事を論ずるに諫官をして侍立せしめ、皆其の顯顯たる者なり。勤王の舉に、呂頤浩其の輸忠贊謀の勞有るを紀す。寧止は一止・岑と皆群從昆弟なり、帝嘗て寧止の忠、一止の清、岑の敏を稱す。『教忠堂類稿』十卷有り。

原文寧止有文名,慷慨喜論事。當艱難時,上疏言闕失,指切隱微,多人所難言。乞禁王安石《日錄》,復賢良方正科,用司馬光十科薦士法,仿唐制宰執論事以諫官侍立,皆其顯顯者。勤王之舉,呂頤浩紀其有輸忠贊謀之勞。寧止與一止、岑皆群從昆弟,帝嘗稱寧止忠、一止清、岑敏云。有《教忠堂類稿》十卷。

胡交修

原文胡交修

胡交修、字は已楙、常州晉陵の人。崇寧二年の進士第に登り、泰州推官を授かり、詞學兼茂科を試む。給事中翟汝文貢舉を同知し、其の文を得て曰く、「吾の能く及ぶ所に非ず」と。首選に置き、編類國朝會要所檢閱文字を除す。政和六年、太常博士・都官郎に遷り、祠部に徙り、左司官に遷り、起居舍人・起居郎を拜す。昭慈太后簾を垂れて政を聽くに、右文殿修撰・湖州知事を除す。

原文胡交修,字已楙,常州晉陵人。登崇寧二年進士第,授泰州推官,試詞學兼茂科。給事中翟汝文同知貢舉,得其文曰:「非吾所能及也。」置之首選,除編類國朝會要所檢閱文字。政和六年,遷太常博士、都官郎,徙祠部,遷左司官,拜起居舍人、起居郎。昭慈太后垂簾聽政,除右文殿修撰、知湖州。

建炎初、中書舍人を以て召さるるも、辭して至らず、徽猷閣待制・杭州洞霄宮提舉に改む。三年、復た舍人を以て召さる、詔して守臣に津發せしめ、尋いで給事中・直學士院兼侍講に進む。入對し、首めて天下の大勢を論じて曰く、「淮南は吾が膺に當たり、將士敵に遇ひて先づ奔り、藩籬の衛無し。湖・廣は吾が脅を帶び、群盜間に乘じて竊發し、腹心の憂有り。江・浙は吾が基を肇め、根本久しく未だ立たず。秦・蜀しょくは吾が援を張り、指臂相救はず。宜しく二三大臣に詔して政事を修め、將帥を選び、卒乘を蒐補し、以て國勢を張り、疲瘵を撫綏し、以て國本を固むべし」と。

原文建炎初,以中書舍人召,辭不至,改徽猷閣待制、提舉杭州洞霄宮。三年,復以舍人召,詔守臣津發,尋進給事中、直學士院兼侍講。入對,首論天下大勢曰:「淮南當吾膺,將士遇敵先奔,無藩籬之衛。湖、廣帶吾脅,群盜乘間竊發,有腹心之憂。江、浙肇吾基,根本久未立。秦、蜀張吾援,指臂不相救。宜詔二三大臣修政事,選將帥,蒐補卒乘,以張國勢,撫綏疲瘵,以固國本。」

帝又た手詔を出し、以て盜を弭し民を保ち、財を豐かにし國を裕かにし、兵を強くして戎を禦ぐの要を訪ふ、交修疏を上りて言ふ、

原文帝又出手詔,訪以弭盜保民、豐財裕國、強兵禦戎之要,交修疏言:

「昔人謂ふ、甑に麥飯有り、床に故絮有らば、儀・秦と雖も之を說きて盜と為すことを使ふ能はざるも、其の凍餓聊か無く、日に死に迫るるにのみ、然る後に忍びて其の身を以て之を盜賊に棄つ。陛下寬大の詔を下し、其の自新の路を開き、苛慝の暴を禁じ、其の衣食の源を豐かにせば、則ち悔悟する者は更に相告げ語り歡呼して歸らん。其の變ぜざる者は、黨與攜落し、亦た吏士の係獲する所と為り、而して盜は弭す可く、盜弭すれば則ち以て民を保つ可し。沃野千里、殘して盜區と為るは、皆吾が秔稻の地なり。弓矢を操り、刀劍を帶び、牛を椎き塚を發き、白晝盜と為るは、皆吾が南畝の民なり。陛下撫して之を納れ、其の田里に反し、急征暴斂無くして、其の不肖の心を啓かず、耕桑時に以てし、各其の業に安んぜば、穀帛用ふるに勝へず、而して財は豐かにす可く、財豐かにすれば則ち以て國を裕かにす可し。日者翟興西路に連なり、董平南楚に據り、其の人を什伍し、農と為し兵と為し、数年ならずして、粟を積みて充牣し、一方を雄視す。盜賊猶ほ能く爾るか、況んや中興二百郡の地を以てし、兵を強くして寇を禦がんと欲して、翟興輩の為す所を為す能はざらんや」と。

原文「昔人謂甑有麥飯,床有故絮,雖儀、秦說之不能使為盜,惟其凍餓無聊,日與死迫,然後忍以其身棄之于盜賊。陛下下寬大之詔,開其自新之路,禁苛慝之暴,豐其衣食之源,則悔悟者更相告語歡呼而歸。其不變者,黨與攜落,亦為吏士所係獲,而盜可弭,盜弭則可以保民矣。沃野千里,殘為盜區,皆吾秔稻之地。操弓矢,帶刀劍,椎牛發塚,白晝為盜,皆吾南畝之民。陛下撫而納之,反其田里,無急征暴斂,啟其不肖之心,耕桑以時,各安其業,穀帛不可勝用,而財可豐,財豐則可以裕國矣。日者翟興連西路,董平據南楚,什伍其人,為農為兵,不數年,積粟充牣,雄視一方。盜賊猶能爾,況以中興二百郡地,欲強兵以禦寇,不能為翟興輩之所為乎?」

世以て名言と為す。

原文世以為名言。

李成江・淮を盜み、廷議親征せんと欲す、交修謂ふ、「群盜猖狂、天子自ら將ふ、之に勝てば則ち武ならず、勝たざれば則ち天下に笑はれを貽す。此れ將帥の責なり、何ぞ以て王師を辱しむるに足らん」と。議遂に格り、盜尋いで遁る。

原文李成盜江、淮,廷議欲親征,交修謂:「群盜猖狂,天子自將,勝之則不武,不勝則貽天下笑。此將帥之責,何足以辱王師?」議遂格,盜尋遁。

周杞常州を守り、殘虐に坐して免ぜらる。會ふ大旱有り、帝交修に旱を致すの由を問ふ、對へて殆ど杞の佚罰の故なるを以てす、乃ち杞を以て吏に屬す。杞交修の讒する所と為るを疑ひ、上書して其の罪を告ぐ、大理寺丞胡蒙を遣はして常に詣り按驗せしむ。交修絓る所無し、然れども群從多く罪に抵る。尋いで徽猷閣待制を以て太平觀を提舉す。

原文周杞守常州,坐殘虐免。會大旱,帝問交修致旱之由,對以殆杞佚罰之故,乃以杞屬吏。杞疑為交修所讒,上書告其罪,遣大理寺丞胡蒙詣常按驗。交修無所絓,然群從多抵罪。尋以徽猷閣待制提舉太平觀。

六年、給事中・刑部侍郎・翰林學士・知制誥兼侍讀として召さる。久しくして、刑部尚書に遷る。汀州寧化縣大辟十人を論ず、獄已に上る、知州事鄭強驗問するに、一人も死に當たる者無し、交修縣令の賞を冒し無辜を殺すの罪を治むるを乞ふ。江東留獄追逮する者尚ほ六百人、交修言ふ、「若し六百人俱に至るを待たば、則ち瘐死する者衆し、請ふ罪狀明白なる者を以て律の如く論じ、疑はば則ち輕きに從はん」と。詔して皆其の言の如くす。

原文六年,召為給事中、刑部侍郎、翰林學士、知制誥兼侍讀。久之,遷刑部尚書。汀州寧化縣論大辟十人,獄已上,知州事鄭強驗問,無一人當死,交修乞治縣令冒賞殺無辜罪。江東留獄追逮者尚六百人,交修言:「若待六百人俱至,則瘐死者眾矣,請以罪狀明白者論如律,疑則從輕。」詔皆如其言。

朝論四川の交子を以て諸路に行はんと欲す、交修力めて其の害を陳べ、謂ふ、「崇寧の大錢覆轍鑒とす可し、當時大臣建議し、人皆附和す、未幾錢兩等に分かれ、市に二價有り、姦民盜鑄し、死徙相屬す。今の交子を以て大錢に校ふるに、銅炭の費無く、鼓鑄の勞無く、一夫紙を挾み日十數萬を作し、真贗辨莫く、之を售るに疑はず、一たび憲網に觸れば、家を破り産を壞し、以て告捕を賞し、禍無辜に及ぶ。歲月の後、公私の錢盡く藏鏹の家に歸し、商賈行はず、市井蕭條、比して悔悟するに及ばば、恐らく及ぶ無からん」と。時議大舉せんとす、交修曰く、「今妄言無行の徒、迎合可喜の論を為し、吾其の實を考驗するに以て無く、遽に之を信じて以て事を舉ぐれば、豈に國を誤らざらんや」と。帝之を覽みて矍然とす。翌日、其の奏を出して大臣に示し曰く、「交修眞に一士の諤諤たり」と。

原文朝論欲以四川交子行之諸路,交修力陳其害,謂:「崇寧大錢覆轍可鑒,當時大臣建議,人皆附和,未幾錢分兩等,市有二價,姦民盜鑄,死徙相屬。以今交子校之大錢,無銅炭之費,無鼓鑄之勞,一夫挾紙日作十數萬,真贗莫辨,售之不疑,一觸憲網,破家壞產,以賞告捕,禍及無辜。歲月之後,公私之錢盡歸藏鏹之家,商賈不行,市井蕭條,比及悔悟,恐無及矣。」時議大舉,交修曰:「今妄言無行之徒,為迎合可喜之論,吾無以考驗其實,遽信之以舉事,豈不誤國哉?」帝覽之矍然。翌日,出其奏示大臣曰:「交修真一士之諤諤也。」

蜀の帥たる席益が既に去ると、帝は交修に誰が蜀を守るに適するかを問うた。交修は臣の従子の世将が用いるに足ると答え、遂に世将を枢密直学士・四川安撫制置使とした。世将は蜀に在ること五年、名帥と称された。

原文蜀帥席益既去,帝問交修孰可守蜀者,對以臣從子世將可用,遂以世將為樞密直學士、四川安撫制置使。世將在蜀五年,號為名帥。

重兵が関外に集結して蜀を守って以来、糧道は険阻にして遠く、漕運の舟は嘉陵江を遡るが、春夏は増水して覆ることが多く、秋冬は水涸れて座礁することが多い。紹興の初め、宣撫副使の呉玠が陸運を始め、成都・潼川・利州の三路より夫役十万を徴発し、県官が部送したが、賞を競い先を争い、十のうち三四が斃れた。ここに至り交修は言う、「兵を養うは蜀を保つためなり。民が命に堪えざれば則ち腹心先ず潰え、何をもって蜀を保たん。臣愚かならんや、三月以後・九月以前には、ただ関を守る正兵を存し、余は悉く他州に就糧せしめんことを。かくの如くすれば、関を守る者は水運にて給し、分戍する者は陸運を免れん」と。帝は学士院に命じて交修の意を述べさせ、詔して呉玠に行わせた。

原文自重兵聚關外以守蜀,餉道險遠,漕舟自嘉陵江而上,春夏漲而多覆,秋冬涸而多膠。紹興初,宣撫副使吳玠始行陸運,調成都、潼川、利州三路夫十萬,縣官部送,徼賞爭先,十斃三四。至是交修言:「養兵所以保蜀也,民不堪命則腹心先潰,何以保蜀?臣愚欲三月以後、九月以前,第存守關正兵,餘悉就糧他州,如此則守關者水運可給,分戍者陸運可免。」帝命學士院述交修意,詔玠行之。

徽宗の配享功臣を議するに、交修は奏上して言う、「韓忠彦は建中靖国の初めに相となり、賢誉翕然たり、時に『小元祐』と号せり」と。これに従い、人々大いに允服した。

原文議徽宗配享功臣,交修奏:「韓忠彥建中靖國初為相,賢譽翕然,時號『小元祐』。」從之,人大允服。

八年夏、親老を以て、宝文閣学士・信州知州を除された。入朝して辞すに、上は留めて経筵に侍せんと欲したが、力説して母老なるを言い、祠官を奉じて里中にて養いを便にせんと願った。帝曰く、「卿去らば、行くこと復た召さん」と。提挙江州太平興国宮に改めた。九年六月召還され、兵部尚書・翰林学士兼侍講を除された。時に河南新たに回復し、交修は奏上す、「京西・陝右の取士の法、乞うらくは祖宗の時に如く諸科の目を設け、以て西北の士を待ち、別に号を南宮に為し、以て五路の才を収めん」と。詔して礼部に討論せしむ。一年を逾ぎ、復た外補を請い、端明殿学士・合州知州を除された。私請を退け、上供を免ずること万計に及び、州を領すること数月にして卒した。

原文八年夏,以親老,除寶文閣學士、知信州。入辭,上欲留侍經筵,力言母老,願奉祠里中以便養。帝曰:「卿去,行復召矣。」改提舉江州太平興國宮。九年六月召還,除兵部尚書、翰林學士兼侍講。時河南新復,交修奏;「京西、陝右取士之法,乞如祖宗時設諸科之目,以待西北之士;別為號於南宮,以收五路之才。」詔令禮部討論。逾年,復請補外,除端明殿學士、知合州。卻私請,免上供以萬計,領州數月卒。

交修は簡重にして寡言、進止に度有り、文を為すに琢雕を事とせず、坦然として明白、詞苑に在りて称職と号せられた。その従祖の宿・従父の宗愈より交修・世将に至るまで、皆禁林に在った。中興以後、学士三たび入る者は交修より始まる。交修は裒次して書と為し、号して『四世絲綸集』とし、以て一門の遇を侈った。事へ継母に孝を以て聞こえ、二弟を撫するに極めて友愛、恩遇に次いで官を補すに至っては、若し交修の如きは、その文行の兼ねて副う者か。

原文交修簡重寡言,進止有度,為文不事琢雕,坦然明白,在詞苑號為稱職。自其從祖宿、從父宗愈至交修、世將,皆在禁林。中興以後,學士三入者自交修始。交修裒次為書,號《四世絲綸集》,以侈一門之遇。至於事繼母以孝聞,撫二弟極其友愛,遇恩以次補官,若交修者,其文行之兼副者歟!

綦崇礼

原文綦崇禮

綦崇礼、字は叔厚、高密の人、後に濰の北海に徙る。祖父及び父は皆明経進士科に中った。崇礼は幼くして穎邁、十歳にして邑人の墓銘を作り得、父見て大いに驚き曰く、「吾が家積善の報いは、其れ茲に在るか」と。

原文綦崇禮,字叔厚,高密人,後徙濰之北海。祖及父皆中明經進士科。崇禮幼穎邁,十歲能作邑人墓銘,父見大驚曰:「吾家積善之報,其在茲乎!」

初め太学に入る。諸生は王氏の新説に溺れ、詞芸に能くする者は少なかった。徽宗が太学に幸すると、崇礼は二表を出し、祭酒と同列大いにその工なるを称した。重和元年上舍第に登り、淄県主簿に調され、太学正となり、博士に遷り、宣教郎・秘書省正字に改め、工部員外郎を除され、尋いで起居郎・摂給事中となった。政事堂に召し試みられ、制誥三篇を為すに、日影を淹くせずして成り、辞翰奇偉たり。中書舎人を拝し、三品服を賜う。進用の速きは近世未だ有らざる所、高宗猶お以て之を得るの晩しと為した。

原文初入太學,諸生溺于王氏新說,少能詞藝者。徽宗幸太學,崇禮出二表,祭酒與同列大稱其工。登重和元年上舍第,調淄縣主簿,為太學正,遷博士,改宣教郎、秘書省正字,除工部員外郎,尋為起居郎、攝給事中。召試政事堂,為制誥三篇,不淹晷而就,辭翰奇偉。拜中書舍人,賜三品服,進用之速,近世所未有,高宗猶以為得之晚。

車駕平江に如く。旨有りて鄒浩を追復して龍図閣待制とす。崇礼当に詞を行くべく、帝の遺直を褒恤する所以の意を推し、曰く有り、「心を処するに欺かず、気を養うこと至って大なり。言は意を寤ますを期し、裾を引き嘗て雷霆を犯し、計は身を顧みず、国を去り再び嶺徼に遷る。群臣動色し、志士心を傾く」と。又曰く、「英爽忘れず、想うに生気の猶在るを、姦諛已に死し、知る朽骨の尚寒きを」と。同列推重し、試み尚書吏部侍郎を除く。時に従官は惟だ崇礼と汪藻有り、尋いで直学士院を兼ねる。徽猷閣直学士を以て漳州知州と為る。其の俗悍強、治め難きと号す。建州に巨寇起こるに属し、声は鄰境を撼かし、人心動揺す。崇礼は民を牧し衆を禦うこと、一も常日の如し。盗賊息むに至り、城内外を環して按堵故の如し。

原文車駕如平江,有旨鄒浩追復龍圖閣待制,崇禮當行詞,推帝所以褒恤遺直之意,有曰:「處心不欺,養氣至大。言期寤意,引裾嘗犯于雷霆;計不顧身,去國再遷於嶺徼。群臣動色,志士傾心。」又曰:「英爽不忘,想生氣之猶在;姦諛已死,知朽骨之尚寒。」同列推重,除試尚書吏部侍郎,時從官惟崇禮與汪藻,尋兼直學士院。以徽猷閣直學士知漳州,其俗悍強,號難治,屬有巨寇起建州,聲撼鄰境,人心動搖,崇禮牧民禦眾,一如常日,訖盜息,環城內外按堵如故。

明州知州に徙められ、召されて吏部侍郎兼権直学士院と為る。時に詔有りて侍従官日に一員を輪じ、前代及び本朝にて治体に関わる事一二事を具え進入せしむ。崇礼言う、「祖宗以来儒臣を選用し、以て講読を奉ぜしむ。若し従官をして一例に其の聞く所を献せしむれば、既に旧典に非ず、且つ又職を越ゆ。望むらくは講読官に三五日に一進せしめん」と。乃ち学士と両省官に命じて前詔の如くせしむ。又言う、「駐蹕臨安、浙西を以て根本と為す。宜しく江・淮の守りを固くし、然る後に興復を図るべし。蜀は万里の外に在り、当に其の士夫を召用し、遠人の心を慰安すべし」と。時に兵革の後、省曹の簿書残毀幾くんと尽きんとす。崇礼再び銓法を執り、典故に熟し、沿革を討論し、援拠該審にして、吏其の私を通すを得ず。後に詔有りて七司条敕を重刊す。崇礼の建明する所、悉く令と為すに著せらる。

原文徙知明州,召為吏部侍郎兼權直學士院。時有詔侍從官日輪一員,具前代及本朝事關治體者一二事進入,崇禮言:「祖宗以來選用儒臣,以奉講讀。若令從官一例獻其所聞,既非舊典,且又越職,望令講讀官三五日一進。」乃命學士與兩省官如前詔。又言:「駐蹕臨安,以浙西為根本,宜固江、淮之守,然後可以圖興復。蜀在萬里外,當召用其士夫,慰安遠人之心。」時兵革後,省曹簿書殘毀幾盡,崇禮再執銓法,熟於典故,討論沿革,援據該審,吏不得容其私。後有詔重刊七司條敕,崇禮所建明,悉著為令。

兵部侍郎に移り、仍お直学士院に進む。御筆処分にて都堂に召し至らしめ、進討固守の利害を条具せしむ。崇礼奏す、「諜伝するに金人兵を併せて川・陝に趣くは、蓋し向來江左に用兵するは敵の便に非ざるを以て、故に二三年来力を悉くして蜀を窺う。其の意は蜀若し守らざれば、江・浙自ら揺らぐを謂うに在り、故に必ず之を図らんとす。只だ前日の呉玠一敗を報ずるに非ざるのみ。今日の利害は、蜀兵の勝負に在り」と。又奏す、「君の臣有るは、治を済す所以なり。臣実用を効せば、則ち君其の功を享け、臣虚名を窃れば、則ち君其の弊を受く。実用の利は国に在り、虚名の美は身に在り。国に忠なる者は、一己の毀誉を計らず、惟だ天下の治乱を憂う。身を潔くする者は、天下の治乱を顧みず、惟だ一己の毀誉を恤う。然れども国に力を効するは、其の実甚だ難く、世必ずしも貴ばず。己に名を窃むは、其の為す則ち易く、且つ以て誉を得。二者風俗に関わること甚だ大なり。是れ察せざるべからざるなり」と。

原文移兵部侍郎,仍進直學士院。御筆處分召至都堂,令條具進討固守利害。崇禮奏:「諜傳金人併兵趣川、陝,蓋以向來江左用兵非敵之便,故二三歲來悉力窺蜀。其意以謂蜀若不守,江、浙自搖,故必圖之,非特報前日吳玠一敗而已。今日利害,在蜀兵之勝負。 」又奏:「君之有臣,所以濟治。臣效實用,則君享其功;臣竊虛名,則君受其弊。實用之利在國,虛名之美在身。忠於國者,不計一己之毀譽,惟天下之治亂是憂;潔其身者,不顧天下之治亂,惟一己之毀譽是恤。然效力于國,其實甚難,世未必貴;竊名於己,其為則易,且以得譽。二者有關於風俗甚大,是不可不察也。」

九月、御筆にて翰林学士を除く。靖康以後、従官が御筆にて除拜されるは此より始まる。楊惟忠・邢煥が節度使を以て致仕す。告は舎人院より出づ。崇礼言う、「祖宗の時、凡そ節鉞の臣僚謝を得るは、文武を問わず、並びに節を納め別に一官を以て致仕す。熙寧の間、富弼元勳を以て始めて特に節鉞を帯びて致仕せしめ、其の後継ぐ者曾公亮・文彦博、他人豈に例として援くべけんや」と。詔して自今より祖宗の故典の如くせしむ。

原文九月,御筆除翰林學士,自靖康後,從官以御筆除拜自此始。楊惟忠、邢煥以節度使致仕,告由舍人院出,崇禮言:「祖宗時,凡節鉞臣僚得謝,不以文武,並納節別除一官致仕。熙寧間,富弼以元勳始令特帶節鉞致仕,其後繼者曾公亮、文彥博,他人豈可援以為例。」詔自今如祖宗故典。

侍読兼史館修撰を兼ねて進む。時に旨有りて神宗・哲宗の『正史』を重修す。兵火の後、典籍散亡す。崇礼奏す、「『神宗実録』墨本は、元祐の修むる所已に成書たり。朱本は蔡卞の手に出づ、多く附会す。乞うらくは朱墨本を参照して修定せん。『哲宗実録』は、崇寧の間蔡京提挙して編修し、語言を増飾し、是非を変乱す。便ち旧録に拠りて修定すべからず。欲乞うらくは故臣の家の文献事蹟を訪求し参照せん」と。又奏す、「湖州知州汪藻が元符庚辰より建炎己酉に至る三十年の事蹟を編類す。乞うらくは藻に下して已成の文字を以て本所に赴かしめん」と。並びに之に従う。先に、藻詔を奉じて甚だ備わりて訪求すれど、未だ修纂に及ばず。崇礼之を取って専らにす。

原文進兼侍讀兼史館修撰。時有旨重修神宗、哲宗《正史》。兵火之後,典籍散亡,崇禮奏:「《神宗實錄》墨本,元祐所修已是成書,朱本出蔡卞手,多所附會,乞將朱墨本參照修定。《哲宗實錄》,崇寧間蔡京提舉編修,增飾語言,變亂是非,難以便據舊錄修定,欲乞訪求故臣之家文獻事蹟參照。」又奏:「知湖州汪藻編類元符庚辰至建炎己酉三十年事蹟,乞下藻以已成文字赴本所。」並從之。先是,藻奉詔訪求甚備,未及修纂,崇禮取而專之。

嘗て唐の太宗が刺史の姓名を屏風に録した故事を進めて曰く、「千里の封域に一の良守を得れば、則ち千里の民安んじ、百里の境域を環らして一の良令を得れば、則ち百里の民悦ぶ。民を牧するの吏、咸しく其の良を得れば、則ち治功成る。苟も能く当時の事を効して、守令の姓名を以て詳らかに屏に列し、帝心に簡在すれば、則ち人は心を尽くして職業を知らん」と。再び翰林に入る凡そ五年、撰する所の詔命数百篇、文は簡にして意明らか、私に美せず、怨みを寄せず、代言の体を得ること深し。

原文嘗進唐太宗錄刺史姓名于屏風故事,曰:「連千里之封得一良守,則千里之民安;環百里之境得一良令,則百里之民說。牧民之吏咸得其良,則治功成矣。苟能效當時之事,以守令姓名詳列于屏,簡在帝心,則人知盡心職業。」再入翰林凡五年,所撰詔命數百篇,文簡意明,不私美,不寄怨,深得代言之體。

宝文閣直学士を以て紹興府を守る。劉豫よ、金人を導きて入侵せしめ、揚・楚震擾す。高宗躬ら戎衣を御して呉会に次す。崇礼、近臣として方面を承寧し、浙東一道を行都の肘腋の地と謂ひ、備禦謹まざるべからずとし、密かに朝に疏して、便宜に事を行ふを得たり。ここに於て城郭を繕ひ、甲兵を厲し、錢帛を輸して王師を犒ひ、舟艦を簡して海道を扼し、疚心夙夜、殆ど食寢を廃す。春に及び、帝還り、七州晏然として羽檄の遽きを知らず。是歳、印綬を上け、台州に退居す。卒す年六十、左朝議大夫を贈らる。

原文以寶文閣直學士知紹興府。劉豫導金人入侵,揚、楚震擾,高宗躬御戎衣次吳會。崇禮以近臣承寧方面,謂浙東一道為行都肘腋之地,備禦不可不謹,密疏於朝,得便宜從事。於是繕城郭,厲甲兵,輸錢帛以犒王師,簡舟艦以扼海道,疚心夙夜,殆廢食寢。及春,帝還,七州晏然不知羽檄之遽。斯年,上印綬,退居台州。卒年六十,贈左朝議大夫。

崇礼は妙齢秀発、聡敏人に絶し、崖岸斬絶の行ひを為さず。廉儉寡欲、独り辞章に心を覃ひ、音律を洞曉し、酒酣に気振ひ、長歌慷慨、議論風生す、亦た一時の英なり。中年頓挫場屋、晩方に登第し、県主簿を以て驟に華要に昇り、極めて潤色論思の選に当る。端方亮直、強禦を憚れず、秦檜政を罷むるに、崇礼詞を草して其の悪を顕著にし隠す所無く、檜深く之を憾む。再び相と為るに及び、詔を矯って台州に下り、崇礼の家に就きて其の稿を索め、自ら帝前に於て之を納め、且つ将に怨を修めんとす。会に崇礼既に没す、故に身後に得る所の恩澤、其の家畏懼して敢へて陳べず、士大夫も亦た敢へて其の任保を為す者無し。楼鑰嘗て其の文を叙し、気格渾然として天成し、一旦書命の任に当り、明白洞達、武夫遠人と雖も曉然として上意の在る所を知ると云ふ。

原文崇禮妙齡秀髮,聰敏絕人,不為崖岸斬絕之行。廉儉寡欲,獨覃心辭章,洞曉音律,酒酣氣振,長歌慷慨,議論風生,亦一時之英也。中年頓剉場屋,晚方登第,以縣主簿驟昇華要,極潤色論思之選。端方亮直,不憚強禦,秦檜罷政,崇禮草詞顯著其惡無所隱,檜深憾之。及再相,矯詔下台州就崇禮家索其稿,自於帝前納之,且將修怨。會崇禮已沒,故身後所得恩澤,其家畏懼不敢陳,士大夫亦無敢為其任保。樓鑰嘗敘其文,以為氣格渾然天成,一旦當書命之任,明白洞達,雖武夫遠人曉然知上意所在云。

論じて曰く、建炎・紹興の際、俊彦を網羅し、庶職に布くこと、衛膚敏以下七人の如きは、其の時政を論議し、闕失を指陳する、或は好悪多く同じからずと雖も、亦た皆一時の表表たる者なり。況んや一止・甯止兄弟の忠清、交修・崇礼の祠翰は、又治化に助くる者有らんや。

原文論曰:建炎、紹興之際,網羅俊彥,布於庶職,如衛膚敏以下七人者,其論議時政,指陳闕失,雖或好惡多不同,亦皆一時之表表者,矧一止、甯止兄弟之忠清,交修、崇禮之祠翰,又有助於治化者焉。