宋史

列傳第一百三十六 向子諲 陳規 季陵 盧知原 陳桷 李璆 李朴 王庠 王衣

列傳第一百三十六 向子諲 陳規 季陵 盧知原 陳桷 李璆 李朴 王庠 王衣

向子諲

原文向子諲

向子諲、字は伯恭、臨江の人、向敏中の玄孫、欽聖憲肅皇后の再從侄なり。元符三年、后の復辟の恩により、假承奉郎に補せられ、三遷して開封府咸平縣知縣となる。豪民が勢いに乗じて法を犯し、獄案が上ると、府尹の盛章は獄空を以て賞を覬うため、却けて受けず、子諲はこれを聞こし召す。詔して自ら論決するを許す。章は大いに怒り、他事を以て劾して勒停せしむ。

原文向子諲,字伯恭,臨江人,敏中玄孫,欽聖憲肅皇后再從侄也。元符三年,以后復辟恩,補假承奉郎,三遷知開封府咸平縣。豪民席勢犯法,獄具上,尹盛章方以獄空覬賞,卻不受,子諲以聞,詔許自論決,章大怒,劾以他事勒停。

宣和初め、官を復し、江淮發運司主管文字を除す。淮南は連年旱魃にて、漕運通ぜず、河を浚って江・淮と平らかにせんとする者あり、内侍がその議を主とし、敢えて可否する者なし。發運司は子諲を行かしむるを檄す。子諲言う、「江より淮に至るまで数百里、河は江・淮より数丈高く、これを浚って平らかにせんと欲するは、決して不可なり。曩に有司は三日に一度閘を啓き、また澳を作りて水を儲う、故に水乏しからず。近年直達の法を行い、これに応奉の往来を加え、啓閉に節なく、堰閘率として存せず。今故の制に復し、厳に禁約すれば、則ち患いなし」と。使者その言を用い、漕運復た通じ、秩一等を進む。召されて対し、淮南轉運判官を除す。戸部の諸路の上供を起発して数に及ばざるを奏するに坐し、一官を降す。

原文宣和初,復官,除江淮發運司主管文字。淮南仍歲旱,漕不通,有欲浚河與江、淮平者,內侍主其議,無敢可否,發運司檄子諲行。子諲言:「自江至淮數百里,河高江、淮數丈,而欲浚之使平,決不可。曩有司三日一啟閘,復作澳儲水,故水不乏。比年行直達之法,加以應奉往來,啟閉無節,堰閘率不存。今復故制,嚴禁約,則無患。」使者用其言,漕復通,進秩一等。召對,除淮南轉運判官。以戶部奏諸路起發上供不及數,降一官。

七年、入りて右司員外郎となるも、就かず。直秘閣を以て京畿轉運副使と為り、尋いで發運副使を兼ぬ。建炎元年、金人亳州を犯す。子諲は勤王の所より、書を以て金人に遺し、兵勢の逆順を言い、退きて河外を保たしむ。金人遽かに亳・宋等州守禦所の牒を以てこれに報い、日を約して戦を索め、語極めて不遜なり。諸道の兵畏縮して進まず。時に康王は濟州に次ぐ。子諲は進士李植を遣わし、金帛及び本司の錢穀の濟州に在るものを献じ、以て軍費を助く。張邦昌位を僭す。人を遣わし敕書を持ちて廬州に往き、その家の安否を問わしむ。子諲は郡守の馮詢・提挙の范仲に檄してこれを拘らしめ、以て王命を俟たしむ。邦昌またその甥の劉達をして手書を齎らしめて来らしむ。子諲は封を啓かずしてこれを焚き、達を械繫して獄に繋ぐ。子の澹を遣わし康王に請い、諸将を率いて河を渡り、その不意に出でて以て二帝を救わしむ。将の王儀を遣わし勤王の兵を統べて城下に至らしむ。

原文七年,入為右司員外郎,不就,以直秘閣為京畿轉運副使,尋兼發運副使。建炎元年,金人犯亳州,子諲自勤王所,以書遺金人,言兵勢逆順,令退保河外。金人遽以亳、宋等州守禦所牒報之,約日索戰,語極不遜,諸道兵畏縮不進。時康王次濟州,子諲遣進士李植獻金帛及本司錢穀之在濟州者,以助軍費。張邦昌僭位,遣人持敕書往廬州,問其家安否,子諲檄郡守馮詢、提舉范仲使拘之,以俟王命。邦昌又使其甥劉達齎手書來,子諲不啟封焚之,械繫達於獄。遣子澹請康王率諸將渡河,出其不意以救二帝;遣將王儀統勤王兵至城下。

直龍圖閣・江淮發運副使に遷る。子諲言う、「去歳劉順が淵聖の蠟詔を奉じ、監司帥守に命じて兵を募り勤王せしむ。臣即ち板を鏤めて遍く所部に檄す。然るに六路の間漠として応ずる者なし。間に団結して起発する者有りと雖も、類は児戯の如く、姑く以て責を避くるのみ。惟だ淮東一路、臣親しく諸司を率い、粗に紀律を成す。然れども諸司猶に錢物を占吝し、肯て供億せず、殊に君父の幽く圍城の中に処するを念わず。臣当時に利刃無きを恨み、以てその頸に加えんとす。今京城失守し、二帝播遷す。儻し賞罰行われずんば、恐らくは金人再び辺患と為らん。陛下復た天下の兵を起こさんと欲するも、諸路故常を翫習し、恬として畏るるを知らず、将に何を恃りて艱難を済さんとするか。願わくは明詔を大臣に下し、諸路の監司の向に蠟詔を承けながら廃格して勤王せず、及び名は勤王と為りながら稽緩する者を按劾し、悉く顕黜を加えられんことを」。命じて諸路の提刑司に実を究めて以て聞かしむ。九月、子諲罷む。素より李綱に善くせらるるを以て、故に黄潜善これを斥く。

原文遷直龍圖閣、江淮發運副使。子諲言:「去歲劉順奉淵聖蠟詔,命監司帥守募兵勤王,臣即鏤板遍檄所部,而六路之間漠無應者;間有團結起發者,類如兒戲,姑以避責而已。惟淮東一路,臣親率諸司,粗成紀律。然諸司猶有占吝錢物,莫肯供億,殊不念君父幽處圍城之中,臣當時恨無利刃以加其頸。今京城失守,二帝播遷,儻賞罰不行,恐金人再為邊患,陛下復欲起天下之兵,而諸路翫習故常,恬不知畏,將何恃以濟艱難哉?願明詔大臣,按劾諸路監司向承蠟詔廢格不勤王,及名為勤王而稽緩者,悉加顯黜。」命諸路提刑司究實以聞。九月,子諲罷,以素為李綱所善,故黃潛善斥之。

明年、襲慶府知府となるも、道梗して赴く能わず。初め、邦昌が平章軍國事と為るや、子諲は致仕を乞うてこれを避く。言者に坐して三官を降され、起復して潭州知府となる。禁卒乱を為し、火を放ちて市を掠め、瀏陽県を出づ。子諲は通判の孟彥卿等を遣わし攸県に追い及びてこれを平らぐ。

原文明年,知襲慶府,道梗不能赴。初,邦昌為平章軍國事,子諲乞致仕避之,坐言者降三官,起復知潭州。禁卒為亂,縱火掠市,出瀏陽縣,子諲遣通判孟彥卿等追及攸縣平之。

金人江西を破り、兵を移して湖南に至る。子諲警報を聞き、軍民を率いて死守す。宗室の成忠郎の聿之は東壁に隷す。子諲城を巡り、顧みて謂いて曰く、「君は宗室なり、この曹の苟簡に效うべからず」と。聿之感激して涕を流す。金人八日間城を囲み、城に登りて火を放つ。子諲は官吏を率いて南楚門を奪い遁る。城陥つ。敵至りて失守するに坐し、落職罷む。轉運副使の賈收、子諲が兵を督して巷戦し、また潰卒を収めて復た入りて事を治むるを言う。帝もまた子諲を他守臣の風望みて遁るる者と殊科とし、詔して職を復す。

原文金人破江西,移兵湖南,子諲聞警報,率軍民以死守。宗室成忠郎聿之隸東壁,子諲巡城,顧謂曰:「君宗室,不可效此曹苟簡。」聿之感激流涕。金人圍八日,登城縱火,子諲率官吏奪南楚門遁,城陷。坐敵至失守落職罷。轉運副使賈收言子諲督兵巷戰,又收潰卒復入治事,帝亦以子諲與他守臣望風遁者殊科,詔復職。

紹興元年、鄂州に移り、荊湖東路安撫司を主管す。劇盗の曹成、攸縣に拠る。子諲は安仁に軍し、使を遣わしてこれを招く。成命を聴く。子諲また将を遣わし西は衡陽を扼し、南は宜章を守らしむ。成逡巡して敢えて南向せずすること百余日、諸郡遂に刈穫を得る。既にして援兵至らず、成は子諲が己を扼するを忿り、衆を擁して南す。子諲は親兵を率いてこれを拒ぐ。会に官軍潰え、度るに遏え難しと、単騎で賊中に入り、国家の威霊を以て諭す。成服せず、子諲を執って帰す。会に宣撫司都統制の馬擴が人を遣わし呉敏の檄を持ちて成を諭す。成許して招を受く。始めて子諲を釈す。

原文紹興元年,移鄂州,主管荊湖東路安撫司。劇盜曹成據攸縣,子諲軍于安仁,遣使招之,成聽命。子諲又遣將西扼衡陽,南守宜章,成逡巡不敢南向者百餘日,諸郡遂得割穫。既而援兵不至,成忿子諲扼己,擁眾而南,子諲率親兵拒之。會官軍潰,度不可遏,單騎入賊中,諭以國家威靈。成不服,執子諲歸。會宣撫司都統制馬擴遣人持吳敏檄諭成,成許受招,始釋子諲。

詔して江州太平観を提挙せしむ。胡安国方に湖南に地を避く。書を以て秦檜に抵え言う、「子諲の忠節は以て三綱を扶持すべし。願わくはその救い無くして賊に陷るるを憐れみ、復た収用を加えられんことを」。起して広州知府と為す。時に賊の嶺を度るを恐れ、故に就いて子諲を用いてこれを守らしむ。また言者を以て罷められ、遂に致仕す。尋いで起して江州知府と為り、江東轉運使に改め、秘閣修撰に進む。江東は当に劉光世の軍に餉すべきに、適に劉豫よ寇に入る。光世の軍は合淝に在り、餉乏するを以て告げ、亟に師を退く。子諲馳せて合淝に至り、糧の具わるを見て以て聞こす。光世是に由って罪を得。徽猷閣待制に進む。両浙路に徙めて都轉運使と為し、戸部侍郎を除す。

原文詔提舉江州太平觀。胡安國方避地湖南,以書抵秦檜,言:「子諲忠節,可以扶持三綱,願憐其無救而陷於賊,復加收用。」起知廣州。時恐賊度嶺,故就用子諲守之。又以言者罷,遂致仕。尋起知江州,改江東轉運使,進秘閣修撰。江東當餉劉光世軍,適劉豫入寇,光世軍合淝,以乏餉告,亟退師。子諲馳至合淝,具見糧以聞,光世由是得罪。進徽猷閣待制。徙兩浙路為都轉運使,除戶部侍郎。

入見し、京都の旧事を論じ、頗る珍玩に及ぶ。起居郎の潘良貴故に子諲に善し、その言を聞き甚だ怒る。既にして子諲、金国の報聘及び朱震を奠する事を奏す。反復良久。良貴径に榻前に至り厲声してこれを叱りて曰く、「子諲は益なき談を以て久しく聖聴を煩わすべからず」と。子諲退かんと欲す。上、良貴に謂いて曰く、「是れ朕のこれを問うなり」と。また子諲に款語を諭す。子諲復た語し、久しく止まず。良貴これを叱して退かしむること再びす。上色変じ、良貴の罪を抵えんと欲す。中丞の常同言う、「良貴罪無し。願わくは子諲の補外を許さしめられん」と。上並びに同を怒る。張九成言う、「士大夫の子諲を嘉する所以は、その能く善類を眷眷するに在り。今子諲の故を以て柱史を逐い、また中司を逐うは、子諲を愛する所以に非ず」と。上の意稍く解く。批諭して同に示す。同言を已めず。ここに於て三人倶に罷む。子諲は徽猷閣直學士を以て平江府知府となる。金使議和して将に境に入らんとす。子諲肯て金の詔を拝せず。乃ち上章して言う、「古より人主の己を屈して戎と和するも、未だこの時に甚だしきを聞かず。宜しく却けて受けざるべし」と。秦檜の意に忤い、乃ち致仕す。

原文入見,論京都舊事,頗及珍玩。起居郎潘良貴故善子諲,聞其言甚怒。既而子諲奏金國報聘及奠朱震事,反復良久。良貴徑至榻前厲聲叱之曰:「子諲不宜以無益之談,久煩聖聽。」子諲欲退,上謂良貴曰:「是朕問之也。」又諭子諲款語。子諲復語,久不止,良貴叱之退者再,上色變,欲抵良貴罪。中丞常同言:「良貴無罪,願許子諲補外。」上並怒同,張九成言:「士大夫所以嘉子諲者,以其能眷眷於善類。今以子諲故逐柱史,又逐中司,非所以愛子諲也。」上意稍解,批諭同,同言不已,於是三人俱罷。子諲以徽猷閣直學士知平江府。金使議和將入境,子諲不肯拜金詔,乃上章言:「自古人主屈己和戎,未聞甚於此時,宜卻勿受。」忤秦檜意,乃致仕。

子諲は相家の子、能く修飭して時に自ら見ゆ。諸弟を友愛し、義荘を置き、宗族の貧しき者を贍う。初め淮南に漕す時、張邦昌の偽詔至る。虹縣令以下迎拝し宣読すること常の如し。独り武尉の徐端益は拝せずして走る。事定まりて、子諲朝に言い、端益を文資に易う。退閑すること十五年、居する所を号して「薌林」と曰う。卒す、年六十八。

原文子諲相家子,能修飭自見於時。友愛諸弟,置義莊,贍宗族貧者。初漕淮南時,張邦昌偽詔至,虹縣令已下迎拜宣讀如常式,獨武尉徐端益不拜而走。事定,子諲言于朝,易端益文資。退閑十五年,號所居曰「薌林」。卒,年六十八。

陳規

原文陳規

陳規、字は元則、密州安丘の人。明法科に及第す。靖康の末、金人侵寇し、鎮海軍節度使劉延慶を殺し、その徒の祝進・王在去ら盗賊となり、随・郢・復等の州を犯す。規は安陸令たり、勤王の兵を率いて汴に赴かんとし、蔡州に至り、道塞がりて還る。時に祝進徳安府を攻め、守は城を棄てて遁ぐ。父老規に守事を摂行するを請う。規は射士張立を遣わし兵を率いて進を討たしめ、これを退く。既にして在復進と合し、砲石鵝車を以て城東を攻む。規連戦してこれを破り、二人懼れ、衆を引いて去る。

原文陳規,字元則,密州安丘人。中明法科。靖康末,金人入侵,殺鎮海軍節度使劉延慶,其徒祝進、王在去為盜,犯隨、郢、復等州。規為安陸令,以勤王兵赴汴,至蔡州,道梗而還。會祝進攻德安府,守棄城遁,父老請規攝守事。規遣射士張立率兵討進,卻之。既而在復與進合,以砲石鵝車攻城東,規連戰敗之,二人懼,引眾去。

建炎元年、直龍図閣・知徳安府を除す。李孝義・張世歩騎数万を以て城に迫り、陽に詔を受けて招撫すと称す。規城に登りその営壘を視て曰く「これ詐りなり」と。急ぎ備えを為す。夜半、孝義兵城を囲み、遂にこれを大破す。群盗楊進と相持すること十八日、進技窮まり、百人を以て自衛し、濠上に抵りて和を求む。規城を出でて交臂語り、進これに感じ、箭を折りて誓いを為し去る。董平衆を引きて城を窺い、その党李居正・黄進を遣わし城に入りて犒を求めしむ。規進を斬り、居正に兵を授けて前鋒と為し、これを大破す。秘閣修撰に昇る。尋いで徳安府・復州・漢陽軍鎮撫使を除し、三品服を賜い、俄に徽猷閣待制に昇る。

原文建炎元年,除直龍圖閣、知德安府。李孝義、張世以步騎數萬薄城,陽稱受詔招,規登城視其營壘,曰:「此詐也。」亟為備。夜半,孝義兵圍城,遂大敗之。與群盜楊進相持十八日,進技窮,以百人自衛,抵濠上求和。規出城與交臂語,進感之,折箭為誓而去。董平引眾窺城,遣其黨李居正、黃進入城求犒,規斬進,授居正兵為前鋒,大破之。升秘閣修撰。尋除德安府、復州、漢陽軍鎮撫使,賜三品服,俄升徽猷閣待制。

時に桑仲襄・漢の間を剽略し、その副霍明兵を屯し郢上に在り。規朝に請い、就きて明をして郢を守らしむ。張浚都督ととくとして蜀しょく道を行い、仲兵を引いてこれを窺う。王彦に敗られ、仲怒り、数百騎を従え来たりて明を譙る。明これを殺し、劉豫に奔る。書を以て規を招く。規その使を械し以て聞す。李横城を囲み、天橋を造り、濠を填め、鼓噪して城に臨む。規軍民を帥いてこれを禦ぎ、砲足を傷つくも神色変らず。囲み急にして糧尽き、家財を出だして軍を労う。士気益々振るう。横人を遣わし、願わくば妓女を得て軍を罷めんとす。規許さず。諸将曰く「城を囲むこと七十日、一婦を以て一城を活かす、また可ならずや」と。規竟に与えず。会に濠橋陥ち、規六十人を以て火槍を持たしめ西門より出で、天橋を焚き、火牛を以てこれを助く。須臾にして皆尽き、横砦を抜きて去る。

原文時桑仲剽略襄、漢間,其副霍明屯兵郢上,規請於朝,就以明守郢。張浚都督行蜀道,仲引兵窺之,為王彥所敗。仲怒,從數百騎來譙明,明殺之,奔劉豫,以書招規,規械其使以聞。李橫圍城,造天橋,填濠,鼓噪臨城。規帥軍民禦之,砲傷足,神色不變,圍急糧盡,出家財勞軍,士氣益振。橫遣人來,願得妓女罷軍,規不許。諸將曰:「圍城七十日矣,以一婦活一城,不亦可乎。」規竟不予。會濠橋陷,規以六十人持火槍自西門出,焚天橋,以火牛助之,須臾皆盡,橫拔砦去。

徽猷閣直学士に昇り、詔を行在に赴かしむ。改めて顕謨閣直学士と為し、徙めて池州を知り沿江安撫使と為す。入対し、首に言う「鎮撫使は当に罷むべし。諸将跋扈す。偏裨を用いてその勢いを分つを請う」と。上皆これを納る。龍図閣直学士に遷り、改めて廬州を知る。尋いでまた召されて行在に赴かんとす。疾を以て辞し、江州太平観を提挙す。復た起きて徳安府を知る。吏職を失察するに坐し、両官を鐫らる。

原文升徽猷閣直學士,詔赴行在,改顯謨閣直學士,徙知池州、沿江安撫使。入對,首言:「鎮撫使當罷,諸將跋扈,請用偏裨以分其勢。」上皆納之。遷龍圖閣直學士,改知廬州,尋又召赴行在,以疾辭,提舉江州太平觀。復起知德安府,坐失察吏職,鐫兩官。

金人河南の地を帰す。改めて順昌府を知る。城壁を葺き、流亡を招き、保伍を立つ。会に劉錡兵を領いて京留守に赴き郡境を過ぐ。規出で迎え、坐未だ定まらざるに、伝うるに金人已に京城に入れりと。即ち錡に告げて城中に粟数万斛有り、勉めて同じく死守の計を為さんことを。相いと城に登り区画し、分ちて諸将に命じ四門を守らしめ、且つ斥候を明らかにし、土人郷導間諜を募る。布設粗だ畢らんとするに、金の游騎已に城に迫る。既に至りて、金の龍虎大王者重兵を提げ踵いて至る。規躬み甲冑を擐ぎ、錡と城を巡り督戦す。神臂弓を以てこれを射る。稍々引き退く。復た歩兵を以て邀撃し、河に溺るる者甚だ衆し。規曰く「敵志屡挫く、必ず奇を出だして我を困らんと思わん。潜かに兵をして営を斫らしめ、彼をして昼夜休むを得ざらしむるに若かず。吾が鋭を養うべし」と。錡然り、果たして劫いでその砦に中り、その兵を殲すこと甚だ衆し。金人兀朮に告急す。規大いに将士を饗す。酒半ばにして問うて曰く「兀朮精兵を擁して将に至らんとす。策将に安く出ださん」と。諸将或いは謂う「今已に累捷す。宜しく勢いに乗じて全師して帰るべし」と。規曰く「朝廷兵を養うこと十五年、正に緩急の用に為さんと欲す。況んや屡その鋒を挫き、軍声稍々振う。規已に一死を分つ。進むも死、退くも死、進めて忠と為すに如かず」と。錡諸将を叱して曰く「府公文人猶お誓って死守せんとす。況んや汝曹においてをや。兼ねて金営近く三十里、兀朮来援せば、我軍一動すれば、金人追い及び、老幼先ず乱れ、必ず狼狽に至らん。前功を廃するのみに非ず、両淮を侵擾せしめ、江・浙震驚せしめん。平生君に報いんとし、反って国を誤ることと成らん。城を背に一戦し、死中に生を求むるに如かず」と。已にして兀朮至り、親しく城を循り、諸酋の用兵の失を責む。衆跪いて曰く「南兵昔に比ぶるに非ず」と。兀朮令を下し晨に府庭に飯し、且つ箭を折りて誓いを為す。兵を併せて十余万城を攻め、自ら鉄浮屠軍三千を将いて遊撃す。規と錡城を行き、諸将を勉め激し、流矢衣に及ぶも懼色無し。軍殊死に闘う。時に方に劇暑たり。規錡に謂う「多く軍を出す毋れ。第に隊を更え器を易え、逸を以て労を制せば、勝たざる蔑し」と。毎清晨輒ち堅壁して出でず、金兵の烈日の中に暴するを伺い、未申に至りて気力疲るれば、則ち城中の兵争い奮い、斬獲算無し。兀朮宵に遁ぐ。錡功を奏す。詔これを褒諭し、枢密直学士に遷す。規順昌に至り、即ち広く粟麦を糴り倉廩を実す。会に計議司粟を移して河上に赴かしむ。規金帛を以て代えて輸するを請う。是に至りてその用を得、錡の功を成すは、食足るが故なり。

原文金人歸河南地,改知順昌府,葺城壁,招流亡,立保伍。會劉錡領兵赴京留守過郡境,規出迎,坐未定,傳金人已入京城,即告錡城中有粟數萬斛,勉同為死守計。相與登城區畫,分命諸將守四門,且明斥候,募土人鄉導間諜。佈設粗畢,金游騎已薄城矣。既至,金龍虎大王者提重兵踵至,規躬擐甲胄,與錡巡城督戰,用神臂弓射之,稍引退,復以步兵邀擊,溺於河者甚眾。規曰:「敵志屢挫,必思出奇困我,不若潛兵斫營,使彼晝夜不得休,可養吾銳也。」錡然之,果劫中其砦,殲其兵甚眾。金人告急於兀术。規大饗將士,酒半問曰:「兀术擁精兵且至,策將安出?」諸將或謂今已累捷,宜乘勢全師而歸。規曰:「朝廷養兵十五年,正欲為緩急用,況屢挫其鋒,軍聲稍振。規已分一死,進亦死,退亦死,不如進為忠也。」錡叱諸將曰:「府公文人猶誓死守,況汝曹耶!兼金營近三十里,兀术來援,我軍一動,金人追及,老幼先亂,必至狼狽,不獨廢前功,致兩淮侵擾,江、浙震驚。平生報君,反成誤國,不如背城一戰,死中求生可也。」已而兀术至,親循城,責諸酋用兵之失,眾跪曰:「南兵非昔比。」兀术下令晨飯府庭,且折箭為誓,並兵十餘萬攻城,自將鐵浮屠軍三千遊擊。規與錡行城,勉激諸將,流矢及衣無懼色,軍殊死鬥。時方劇暑,規謂錡毋多出軍,第更隊易器,以逸制勞,蔑不勝矣。每清晨輒堅壁不出,伺金兵暴烈日中,至未申,氣力疲,則城中兵爭奮,斬獲無算,兀术宵遁。錡奏功,詔褒諭之,遷樞密直學士。規至順昌,即廣糴粟麥實倉廩。會計議司移粟赴河上,規請以金帛代輸,至是得其用,成錡功者,食足故也。

移りて廬州を知り淮西安撫を兼ぬ。既に至りて疾発す。旨有りて郡城を修めしむ。規告に在り。吏文書を抱いて臥内に入る。規力疾して起きて曰く「帥事は機宜之を董す。郡城は通判之を董す」と。語畢りて卒す。年七十。右正議大夫を贈る。『攻守方略』有りて世に伝わる。

原文移知廬州兼淮西安撫,既至,疾作。有旨修郡城,規在告,吏抱文書入臥內,規力疾起曰:「帥事,機宜董之;郡城,通判董之。」語畢而卒,年七十。贈右正議大夫。有《攻守方略》傳於世。

初め、規徳安を守る時、嘗て条上して営屯田の事宜を上す。古の屯田の制に倣わんと欲し、射士民兵を合せ、地を分かち耕墾せしむ。軍士の屯する田は、皆険隘に相い堡砦を立て、寇至れば則ち堡に聚り捍禦し、事無ければ則ち時に乗じて田作す。射士は皆半を分かち以て屯田を耕す。民戸の営む田は、水田は畝に粳米一斗を賦し、陸田は麦豆各五升を賦す。満三年逋輸無ければ、永業として給す。流民自ら帰る者は田を以てこれを還す。凡そ屯田の事は営田司兼ねて行い、営田の事は府県官兼ねて行い、皆更に官吏を置かず。条列して以て聞す。詔これを嘉奨し、仍ってその法を諸鎮に下す。紹興以来、文臣鎮撫使として威声有る者は、惟だ規のみ。

原文初,規守德安時,嘗條上營屯田事宜,欲仿古屯田之制,合射士民兵,分地耕墾。軍士所屯之田,皆相險隘立堡砦,寇至則堡聚捍禦,無事則乘時田作,射士皆分半以耕屯田。民戶所營之田,水田畝賦粳米一斗,陸田賦麥豆各五升。滿三年無逋輸,給為永業。流民自歸者以田還之。凡屯田事,營田司兼行,營田事,府縣官兼行,皆不更置官吏,條列以聞,詔嘉獎之,仍下其法于諸鎮。自紹興以來,文臣鎮撫使有威聲者,惟規而已。

規端毅にして言笑寡く、然れども人に待つに和易なり。忠義を以て自ら許し、尤も好んで振施し、家に贏財無し。嘗て女の為に従婢を求め、一婦を得たり甚だ閒雅なり。怪しみてこれを詢うれば、乃ち雲夢の張貢士の女なり。乱離して夫死に託する所無く、身を鬻ぎて活かんことを求む。規即ち女の奩を輟みてこれを嫁す。聞く者感泣す。規の功名諸将と等しくして、位労に酬いず。時に共にこれを惜しむ。乾道八年、詔して『規徳安守城録』を刻し天下に頒ち諸守将の法と為す。廟を徳安に立て、額を「賢守」と賜い、忠利侯を追封し、後に智敏を加封す。

原文規端毅寡言笑,然待人和易。以忠義自許,尤好振施,家無贏財。嘗為女求從婢,得一婦甚閒雅,怪而詢之,乃雲夢張貢士女也,亂離夫死無所託,鬻身求活,規即輟女奩嫁之,聞者感泣。規功名與諸將等,而位不酬勞,時共惜之。乾道八年,詔刻《規德安守城錄》頒天下為諸守將法。立廟德安,賜額「賢守」,追封忠利侯,後加封智敏。

季陵

原文季陵

季陵、字は延仲、処州龍泉の人。政和二年上舎第に登り、三遷して太学博士と為る。学術の邪正異同を論ず。長官怒り、執政にこれを譖り、舒城県知事に謫せらる。未幾、太常寺簿を除し、比部員外郎に遷る。高宗即位し、従いて揚州に至る。建炎二年、尚書右司員外郎・太常少卿を守る。金人南侵し、帝杭州に幸す。朝廷の儀物皆これを委棄す。陵九廟の神主を奉じて負い以て行く。起居郎を拝し、中書舎人に遷る。

原文季陵,字延仲,處之龍泉人。登政和二年上舍第,三遷太學博士。論學術邪正異同,長官怒,譖之執政,謫知舒城縣。未幾,除太常寺簿,遷比部員外郎。高宗即位,從至揚州。建炎二年,守尚書右司員外郎、太常少卿。金人南侵,帝幸杭州,朝廷儀物皆委棄之,陵奉九廟神主負之以行,拜起居郎,遷中書舍人。

三年六月、淫雨す。詔して直言を求む。陵言う。

原文三年六月,淫雨,詔求直言。陵言:

金人が累年にわたって侵攻し、生霊が塗炭の苦しみに陥り、怨気が積もり、災異が起こるのは、もとより怪しむに足りない。『惟だ先ず王を格し、其の事を正す』とあるが、我が方にあるものは軽視してよいであろうか。臣が観るに、廟堂には擅命の臣はないが、ただ将帥の権力が甚だ盛んである。宮閫には女謁の私情はないが、ただ宦官の習わしが未だ革まっていない。今、将帥は兵を擁して自衛し、次第に跋扈の態を成し、苗傅・劉正彦が窃発した時、勤王の師が一度到着すると、官吏を凌轢し、誰もこれをどうすることもできなかった。これが将帥の権力が甚だ盛んで、陽を干犯する所以である。宦官が縦横に振る舞い、上下共に憤ったが、ついに賊の手に斃れた。戒めとすべきである。近頃、藍珪を再び召還したと聞くが、その党与は互いに賀し、聞く者は歯ぎしりする。これが宦官の習わしが未だ革まらず、陽を干犯する所以である。『洪範』に言う、『休徴は曰く肅、時に雨若し……謀、時に寒若し。咎徴は曰く狂、恒に雨若し……急、恒に寒若す』と。古来、天子が出るには必ず廟主を載せて行き、尊ぶものがあることを示す。先日は倉卒に迎奉したため、礼の如くにはできなかった。既に錢塘に至っては、太廟を道宮に置き、薦享に欠けがある。神御を河滸に留め、安奉が後時となった。不肅の咎は、臣は宗廟がこれを当たるものと思う。近年、盗賊は例として招安を許され、間もなく再び叛き、かえってその計に陥る。忠臣の憤りは雪がれず、赤子の冤みは報いられない。不謀の咎は、臣は盗賊がこれを当たるものと思う。道路の言によれば、鑾輿は久しくここに居られないという。臣の臆度するに、決してそのような事はない。仮にあったとしても、狂に近くはないか。軍興以来、保甲を結び、また巡社を改め、弓手を招き、また民兵を募り、民力は尽きたが、なお誅求する。急に近くはないか。これらは皆、陰道が甚だ盛んであることによるものである。

原文「金人累歲侵軼,生靈塗炭,怨氣所積,災異之來,固不足怪。『惟先格王,正厥事』,則在我者其可忽邪?臣觀廟堂無擅命之臣,惟將帥之權太盛;宮閫無女謁之私,惟宦寺之習未革。今將帥擁兵自衛,浸成跋扈,苗、劉竊發,勤王之師一至,淩轢官吏,莫敢誰何?此將帥之權太盛,有以干陽也。宦寺縱橫,上下共憤,卒碎賊手,可為戒矣。比聞復召藍珪,黨與相賀,聞者切齒,此宦寺之習未革有以干陽也。《洪範》:『休徵曰肅,時雨若……謀,時寒若;咎徵曰狂,恒雨若……急,恒寒若。』自古天子之出,必載廟主行,示有尊也。前日倉卒迎奉,不能如禮。既至錢塘,置太廟于道宮,薦享有闕;留神御于河滸,安奉後時。不肅之咎,臣意宗廟當之。比年盜賊例許招安,未幾再叛,反墮其計。忠臣之憤不雪,赤子之冤莫報,不謀之咎,臣意盜賊當之。道路之言謂鑾輿不久居此,自臣臆度,決無是事,假或有之,不幾於狂乎?軍興以來,既結保甲,又改巡社,既招弓手,又募民兵,民力竭矣,而猶誅求焉,不幾於急乎?此皆陰道太盛所致。」

帝はこれを嘉納した。

原文帝嘉納之。

時に梁揚祖を発運使に任じようとしたが、給事中劉寧止がその不可を言上したため、起居郎綦崇礼を権給事中とし、書を読み上げたが、陵は録黄を封還した。また言上した、「防秋は既に迫っている。願わくは陛下、先ず兵衛及び扈従の臣を定められたい。万一、敵勢が猖獗すれば、便ち整駕して親しく営壘を巡り、諸道の兵を召して援軍とし、将相大臣を留めて相率いて死守し、前日のごとく百官が跣足で奔竄し、扈蹕を名目として、城池を棄てて敵に与え、生霊を塗炭に堕し、財用を溝壑に填しめることのないように」。

原文時除梁揚祖為發運使,給事中劉寧止言其不可,乃以起居郎綦崇禮權給事中,書讀,陵封還錄黃。又言:「防秋已迫,願陛下先定兵衛及扈從之臣,萬一敵勢猖獗,便當整駕親按營壘,召諸道兵以為援,留將相大臣,相率死守,勿效前日百官跣足奔竄,以扈蹕為名,棄城池以予敵,使生靈墮塗炭,財用填溝壑。」

時に張浚が川陝等路宣撫処置使であったが、陵はその専権が甚だしいと論じ、旨に逆らい、罷められて徽猷閣待制・太平州知州とされた。赴任せず、落職して祠官とされた。数か月後、復職し、温州知州に任じられたが、また中書舎人に改められ、いずれも力辞した。

原文時張浚為川陝等路宣撫處置使,陵論其太專,忤旨,罷為徽猷閣待制、知太平州,未行,落職與祠。數月,復職,除知溫州,又改中書舍人,皆力辭。

范宗尹がその才を推薦し、臨安府知府を命じられ、また中書舎人となった。入対して言上した。

原文范宗尹薦其才,命知臨安府,復為中書舍人。入對,言:

「深く慮るべき事が四つあり、なお恃むべき事が一つある。大駕に駐蹕の地が未だないこと、賢人に皆経世の心がないこと、兵柄が分かれて将が和せず、政権が去って主が益々弱いこと。恃んで僅かに存するものは、人心が未だ厭わないだけである。

原文「事有可深慮者四,尚可恃者一:大駕未有駐蹕之地、賢人皆無經世之心、兵柄分而將不和、政權去而主益弱;所恃以僅存者,人心未厭而已。

前年、江を渡ることを議した時、人は可とし、朝廷は不可とした。故に南渡を言うことを諱り、詔を降して回鑾した。去年、蜀に幸することを議した時、人は不可とし、朝廷は可とした。故に江・淮の備えを弛め、関・陝を経営した。今これを観るに、孰れが得で孰れが失か。維揚の変では、朝廷は及んで知らず、功は宦官に帰した。錢塘の変では、朝廷は救うことができず、功は将帥に帰した。これによって、この輩に朝士を軽んじる心を生ぜしめた。黄潜善は自らを用いることを好み、人を用いることができない。呂頤浩は能を使うことを知るが、賢を任ずることを知らない。張愨・許景衡が恨みを飲んで死んで以来、幾を知り自らを重んずる者は、往々にして志を巻き懐にして退縮する。今天下、兵無しとは謂えず、劉光世・韓世忠・張俊は各々亡命を招いて軍勢を張り、各々小労を効して主恩に報いている。然れども勝っても相譲らず、敗れても相救わず、大敵一たび至れば、人は自ら謀るのみである。周望が浙西にいることは、人はこれを言える。張浚が陝右にいることは、敢えて言う者がない。軍事は機会を失うことを恐れ、便宜を行うのはよい。乃ち自ら詔書を降すこと、窃命の嫌疑無からんや。官吏に事を弁ずることを責めるのは、便宜を行うのはよい。乃ち従臣を安置すること、忌器の嫌疑無からんや。姓氏を賜い、寺額を改めるに至っては、これらは皆、太だ専なるに傷く、臣は恐らくは陝以西より、陛下の在すを知らざらんことを。

原文前年議渡江,人以為可,朝廷以為不可,故諱言南渡而降詔回鑾。去年議幸蜀,人以為不可,朝廷以為可,故弛備江、淮,經營關、陝。以今觀之,孰得孰失?維揚之變,朝廷不及知而功歸宦寺;錢塘之變,朝廷不能救而功歸將帥,是致此曹有輕朝士之心。黃潛善好自用不能用人,呂頤浩知使能不知任賢。自張愨、許景衡飲恨而死,凡知幾自重者,往往卷懷退縮。今天下不可謂無兵,劉光世、韓世忠、張俊各招亡命以張軍勢,各效小勞以報主恩。然勝不相遜,敗不相救,大敵一至,人自為謀耳。周望在浙西,人能言之;張浚在陝右,無敢言者。夫軍事恐失機會,便宜可也,乃若自降詔書,得無竊命之嫌邪?官吏責以辦事,便宜可也,乃若安置從臣,得無忌器之嫌邪?以至賜姓氏,改寺額,此皆傷於太專,臣恐自陝以西不知有陛下矣。

ただ祖宗の徳沢が人心に在って未だ忘れられず、中興を望むのはこれのみである。陛下宜しくこれを結ぶべきものあり。今、薄斂して民財を裕かにしようとするが、用度は正に欠乏している。軽徭して民力を紓かにしようとするが、師旅は正に興っている。罪己の詔は屡々降り、民を憂うる言は屡々聞こえる。丁寧切至であるが、終いにこれを信じる者はない。臣は謂う、民を動かすのは行いによってであり、言葉によってではないと。陛下が爵を賢に当て、禄を功に当て、刑を罪に当て、施設注措に理に当たらざるもの無ければ、天下が心服しないことは未だこれ有らざるなり」。

原文惟祖宗德澤在人心未忘,所望以中興者此耳,陛下宜有以結之。今欲薄斂以裕民財,而用度方闕;輕徭以紓民力,而師旅方興。罪己之詔屢降,憂民之言屢聞,丁寧切至,終莫之信。臣謂動民以行不以言,陛下爵當賢,祿當功,刑當罪,施設注措無不當理,天下不心服者未之有也。」

朱勝非が江西帥に任じられたが、未だ赴任せず、陵は言上した、「金人は往年、燕山で士馬を休め、次年は河北に移り、また次年は京東に移り、今は淮甸に寓り、再び去る意思がなく、患いは朝夕にあり、急と謂うべきである。若し呂頤浩が既に去り、朱勝非が未だ至らざるに、金人が南向し、兵は平素練らず、糧は平素積まず、また険を設けず、何をもってこれを禦がん。臣は願わくは陛下、更に賢副を択び、予め経画して待たれたい。今日は安危を論ずるのではなく、実に存亡を論ずるのである。朝に謀り夕に行い、溺るるを拯うが如くすべきで、豈に分陰を惜しまざるべけんや」。詔して劉洪道をして池州に趣往せしめ、防江を措置させた。戸部侍郎に任じられた。

原文朱勝非除江西帥,未行,陵言:「金人往年休士馬于燕山,次年移河北,又次年移京東,今寓淮甸,無復去意,患在朝夕,可謂急矣。若頤浩既去,勝非未至,金人南向,兵不素練,糧不素積,又不設險,何以禦之?臣願陛下更擇賢副,預為經畫以待。今日非論安危,實論存亡,朝謀夕行,當如拯溺,豈可不惜分陰。」詔劉洪道趣往池州,措置防江。除戶部侍郎。

范宗尹は嘗て偽楚に仕えたことがあったため、凡そ偽命を受けた者を皆録用した。陵はこれにより上疏して言った、「前日の士大夫は名節を立てず、事を論ずる者は皆これを攻めることを喜び、瑕疵既に顕われば、再び用いることができず、仮に拭い去ろうとしても、攻める者が踵を接して来る。君相が制命しても、またその地と為すことができない。臣は試みにその罪の大なる者を挙げて言おう。崇寧・大観以来、巨奸を党助し、詭道によって寵栄を饕うた者は幾何人か知らない。張邦昌の乱朝に、死節できなかった者は幾何人か知らない。苗傅・劉正彦が専殺し、拱手して制を受けた者は幾何人か知らない。義をもって責めれば固より誅を免れず、情をもって恕せばまた不幸である。筆墨を弄する者が、文致してその罪とし、既に悪名を得れば、誰か敢えて引薦せん。臣は願わくは明詔を宰執に下し、罪戾の中から実能を選択し、量を以て事を付し、一眚によってその終身を廃することなく、仍て詔して台諫に、国の為に人を愛し、復た言わざらしめられたい」。詔してその上疏を朝堂に掲示した。侍御史沈与求が陵が宰執の風旨を承望したと弾劾し、罷官して杭州洞霄宮提挙とされた。

原文范宗尹嘗仕偽楚,故凡受偽命者皆錄用。陵因上疏曰:「前日士大夫名節不立,論事者皆喜攻之,瑕疵既彰,不復可用,縱加抆拭,攻者踵來,雖君相制命,亦不能為之地。臣試舉其罪大者言之,崇寧、大觀以來,黨助巨姦,由詭道以饕寵榮者不知幾何人?邦昌亂朝,不能死節者不知幾何人?苗、劉專殺,拱手受制不知幾何人?以義責之固不容誅,以情恕之亦不幸耳。弄筆墨者,文致其罪,既得惡名,誰敢引薦。臣願明詔宰執,於罪戾中選擇實能,量付以事,勿因一眚廢其終身,仍詔臺諫為國愛人,勿復言。」詔榜其疏於朝堂。侍御史沈與求劾陵承望宰執風旨,罷官,提舉杭州洞霄宮。

紹興元年、右文殿修撰に復した。二年、内外の官に事を言わしめる詔があった。陵は言上した。

原文紹興元年,復右文殿修撰。二年,詔內外官言事。陵言:

軍興以来、朝廷の誥牒は、民に強いて与えなければ売れず、師旅の糧草は、民から強いて取らなければ供給されない。旧例の和買は、元本を支払うことができず久しく、新たに行う和糴は、その価値を償うこと幾何かあろうか。一たび軍興に遇えば、事ごとに責めて調達し、不足するものがあれば、後年の賦税を前借りする。名は『和』と雖も、実は強いて取るのであり、名は『借』と雖も、その実は奪うのである。兵将の衣食は飽暖を取らず、豊美を取る。器械は堅利を取らず、華好を取る。末を務めて本に勝ち、初めより闘う心無く、賊至れば則ち偽って退保を言い、賊去れば則ち盛んに収復を言い、敗に遇えば千を以て一と為し、勝に遇えば一を以て千と為す。今、乗輿服御の費は十去ること七八、百官有司の費は十去ること五六、猶も国に益無きは、軍が余りに冗多なるが故である。張浚の一軍は川・陝を以てこれを養い、劉光世の一軍は淮・浙を以てこれを養い、李綱の一軍は湖広を以てこれを養う。上供の物が司農・太府に至るものは幾ばくも無し。夫れ強兵は冗食に在らず。今、統領は家口を随行し、一たび賊至ると聞けば、精鋭なる者を選んで老小を護送し、その自ら随う者は只走ることを弁ずるのみ。議すべき者一なり。虜掠の婦女、軍中に多く有り、養うこと既に足らず、寧くんぞ過ちを作らざらんや、議すべき者二なり。至る所の州軍において、犒賞を邀め求め、守令は事を生ずるを憚り、民を竭き取ってこれを奉ず、議すべき者三なり。詭名虚券、随在して批請し、官物を枉費す、議すべき者四なり。或いは関節を仮り、或いは賄賂を行い、軍籍に名を寄せ、功賞を冒することを規る、議すべき者五なり。願わくは有司に詔して専意に講求せしめ、因循を革めて以て士気を作らしめよ。然らば則ち軍政立つ。」復た徽猷閣待制と為り、広を帥とす。

原文「軍興以來,朝廷誥牒,非強以予民則莫售;師旅糧草,非強取于民則莫給。舊例和買,無本可支者久矣,新行和糴,能償其直幾何?一遇軍興,事事責辦,有不足者,預借後年之賦。雖名曰『和』,實彊取之;雖名曰『借』,其實奪之。兵將衣食不取其飽煖,取其豐美;器械不取其堅利,取其華好。務末勝本,初無鬥心,賊至則偽言退保,賊去則盛言收復,遇敗以千為一,遇勝以一為千。今乘輿服御之費十去七八,百官有司之費十去五六,猶無益于國者,軍太冗也。張浚一軍以川、陝贍之,劉光世一軍以淮、浙贍之,李綱一軍以湖廣贍之,上供之物得至司農、太府者無幾。夫強兵不在冗食,今統領家口隨行,一聞賊至,擇精銳者護送老小,其自隨者祗辦走耳,當議者一。虜掠婦女,軍中多有,養既不足,寧免作過,當議者二。所至州軍,邀求犒賞,守令憚生事,竭取民以奉之,當議者三。詭名虛券,隨在批請,枉費官物,當議者四。或假關節,或行賄賂,寄名軍籍,規冒功賞,當議者五。願詔有司專意講求,革因循以作士氣,則軍政立。」復徽猷閣待制,帥廣。

先に、惠州に狂男子有り、衆数千を聚め、僭号して乱を為す。陵、境に入り、その徒曾袞を誘い、功を以て罪を贖わしむるを令す。旬日を経ずしてこれを擒う。官に在ること三年にして卒す。年五十五。中大夫を贈らる。文集十巻有り。

原文先是,惠州有狂男子聚眾數千,僭號作亂。陵入境,誘其徒曾袞,令以功贖罪,不旬日擒之。在官三年卒,年五十五,贈中大夫。有文集十卷。

陵は事を言うに善く、奏疏観るべし。然れども范宗尹に附き、則ち凡そ偽命を受けたる者は皆進用すべしと謂い、台諫復た以て言うべからずと為す。張浚を攻め、則ち蜀に在りて太専に失うと謂い、陝以西将は陛下有るを知らずと謂う。君子皆然りと謂わず。幸医王継先、栄州防禦使を授かる。陵その制を草す。時論も亦此を以て之を少なむ。

原文陵善言事,奏疏可觀;然附范宗尹,則謂凡受偽命者皆當進用,臺諫不當復以為言;攻張浚,則謂在蜀失於太專,自陝以西將不知有陛下,君子皆不謂然也。幸醫王繼先授榮州防禦使,陵草其制,時論亦以此少之。

盧知原

原文盧知原

盧知原、字は行之、湖州徳清の人。父の任により歙県を知り、近臣の薦により、都堂に赴き審察を受け、累遷して梓州路転運副使と為る。時、承平既に久しく、戎備皆弛みたり。知原は兵籍を招補し、城を築きて二十余里に亙る。王黼国に当たり、費出るに藝無し。知原因りて疏を以て之を言う。黼怒り、罷めて去らしむ。久しくして、起ちて提点京東刑獄と為り、江西転運副使に改む。闕を過ぎて入奏す。徽宗之を勉めて曰く、「卿蜀道に在りて、功效甚だ休なり。」遂に三品服を賜う。

原文盧知原,字行之,湖州德清人。以父任知歙縣,因近臣薦,赴都堂審察,累遷梓州路轉運副使。時承平既久,戎備皆弛,知原招補兵籍,築城亙二十餘里。王黼當國,費出無藝,知原因疏言之,黼怒,罷去。久之,起提點京東刑獄,改江西轉運副使,過闕入奏,徽宗勉之曰:「卿在蜀道,功效甚休。」遂賜三品服。

先に、綱運重江に阻まれ、吏卒並びに縁りて姦を為す。知原悉く意を経理し、故に諸道に先んじて京師に上る。一官を進め、尋いで直秘閣を除き、江淮荊浙等路発運使と為る。秘閣修撰に昇り、河北を提挙す。言者の劾に坐し、職を褫り吏部に帰す。

原文先是,綱運阻于重江,吏卒並緣為姦。知原悉意經理,故先諸道上京師,進一官,尋除直秘閣,為江淮荊浙等路發運使。升秘閣修撰,提舉河北。以言者劾,褫職歸吏部。

高宗即位し、復た龍図閣・知温州と為る。時、葉濃建州を陷れ、揚勍処州を陷る。知原は甲兵を繕い、城を増し隍を浚い、声勢隠然たり。帝東幸す。知原海道を繇りて粟及び金繒十余万を転じて台州に至る。召見せられ、称奨され、右文殿修撰・管内安撫使に擢でらる。郡に在ること四年、民像を繪して之を祠す。

原文高宗即位,復龍圖閣、知溫州。時葉濃陷建州,揚勍陷處州,知原繕甲兵,增城浚隍,聲勢隱然。帝東幸,知原繇海道轉粟及金繒十餘萬至台州。召見,稱獎,擢右文殿修撰、管內安撫使。在郡四年,民繪像祠之。

王師范汝為を討つ。召されて添差両浙転運使と為る。罷められ、太平観を提挙す。都督孟庾辟きて参謀と為し、徽猷閣待制・知臨安府に改む。諫官唐輝、知原が政乖謬なりと言う。詔して復た都督府参謀官と為す。章再上し、遂に旧職を以て祠を奉ず。紹興十一年十月卒す。弟法原。

原文王師討范汝為,召為添差兩浙轉運使。罷,提舉太平觀。都督孟庾辟為參謀,改徽猷閣待制、知臨安府。諫官唐輝言知原為政乖謬,詔復為都督府參謀官。章再上,遂以舊職奉祠。紹興十一年十月卒。弟法原。

弟 法原

原文弟 法原

法原、字は立之。雍丘県を知り、積官して太府少卿、賜うに同上舎出身を以てす。遼に使い還り、司農卿に遷り、三品服を賜う。吏部尚書と為り、官秩の次第履歴を総べて一書と為し、功過殿最、巻を開けば了然たり。吏欺く能わず。王黼に累ね坐し、罷めて顕謨閣待制と為る。

原文法原,字立之。自知雍丘縣積官太府少卿,賜同上舍出身。使遼還,遷司農卿,賜三品服。為吏部尚書,以官秩次第履歷總為一書,功過殿最,開卷了然,吏不能欺。坐王黼累,罷為顯謨閣待制。

紹興元年、臨安洞霄宮を提挙す。張浚制を承けて起ちて夔州を知り、尋いで龍図閣学士・川陝等路宣撫処置副使と為り、端明殿学士・川陝宣撫副使に進む。

原文紹興元年,提舉臨安洞霄宮。張浚承制起知夔州,尋為龍圖閣學士、川陝等路宣撫處置副使,進端明殿學士、川陝宣撫副使。

金人関輔を攻む。叛将史斌興州を陷る。諸郡多く応ずる者有り。法原諸将に命じて壁を堅くし、戦を言う者は斬るとす。衆以て怯なりと為す。未だ幾ばくもあらず、河東経制使王燮食乏しを以て師を班す。法原関を開きて之を納れ、燮とともに斌を破り、興州を復す。方に巨盗充斥し、秦・隴の叛兵蜀を窺わんと欲す。法原極意拊循し、厳に備禦を為し、檄を諸路に伝う。人心稍く安んず。山川の険阻を視て地を分ち将を置く。洮・岷より階・成に至るまで、関師古之を主り、通川に屯す。文・龍より威・茂に至るまで、劉錡之を主り、巴西に屯す。前後屡捷し、上倚重せらる。

原文金人攻關輔,叛將史斌陷興州,諸郡多應者。法原命諸將堅壁,言戰者斬,眾以為怯。未幾,河東經制使王燮以乏食班師,法原開關納之,與燮同破斌,復興州。方巨盜充斥,秦、隴叛兵欲窺蜀,法原極意拊循,嚴為備禦,傳檄諸路,人心稍安。視山川險阻分地置將:自洮、岷至階、成,關師古主之,屯通川;文、龍至威、茂,劉錡主之,屯巴西。前後屢捷,上所倚重。

会に兀术関を攻めて呉玠に敗らる。法原素より玠と睦まず。玠因りて功を奏して法原の師を済さず、糧を饋せず、立功将士を銓録せざるを訟う。帝手詔を以て詰問す。法原自ら弁すこと甚だ力めり。上頗る之を直さず。憂恚し、軍中に卒す。

原文會兀术攻關為吳玠所敗。法原素與玠不睦,玠因奏功訟法原不濟師,不饋糧,不銓錄立功將士。帝手詔詰問,法原自辯甚力,上頗不直之,憂恚,卒於軍。

始め、法原川・陝宣撫使と為る。上従容として知原に謂いて曰く、「朕方に川・陝を法原に付せんとす。」蓋し兄弟皆以て材を以て世に称せらる。故に並び之を用うるなり。

原文始,法原為川、陝宣撫使,上從容謂知原曰:「朕方以川、陝付法原。」蓋兄弟皆以材見稱於世,故並用之也。

陳桷

原文陳桷

陳桷、字は季壬、温州平陽の人。上舎より辟雍に貢せられ、政和二年、廷対第三、文林郎・冀州兵曹参そうしん軍を授かり、累遷して尚書虞部員外郎となる。

原文陳桷,字季壬,溫州平陽人。以上舍貢辟雍。政和二年,廷對第三,授文林郎、冀州兵曹參軍,累遷尚書虞部員外郎。

宣和七年、福建路刑獄を提点す。福州にて防秋の兵を調発するに、資糧その望みに満たず、帥臣を殺し、変は倉卒に生ず。吏民奔潰し、闔城震駭す。桷、乱兵の中に入り、禍福を以て諭す。賊気沮み、桷に帥臣自ら斃るると奏せんことを邀う。桷、詭りてその請いに従い、間道より馳せて奏す。前に奏せしこと実ならざるを以て罪を待つ。朝廷、桷の変を知るを以て、これを釈す。叛兵既に行を調うるや、乃ち道にて首悪二十余人を追殺し、一方以て安んず。建炎四年五月、復た福建路提刑を除せられ、尋いで疾を以て祠を乞い、江州太平観を主管す。

原文宣和七年,提點福建路刑獄。福州調發防秋兵,資糧不滿望,殺帥臣,變生倉卒,吏民奔潰,闔城震駭。桷入亂兵中,諭以禍福,賊氣沮,邀桷奏帥臣自斃,桷詭從其請,間道馳奏,以前奏不實待罪,朝廷以桷知變,釋之。叛兵既調行,乃道追殺首惡二十餘人,一方以安。建炎四年五月,復除福建路提刑,尋以疾乞祠,主管江州太平觀。

紹興三年、召されて金部員外郎と為り、郎中に昇る。時に事を言う者は率い細務を毛挙し、利害の大なるを略す。桷抗言して曰く、「今まさに専ら治道の本を講じ、政事を修めて以て敵国を攘うべし、細故を以て聖慮を勤うること平時の如くあるべからず」と。又言う、「刺史・県令は天下に満つれども、皆人を得ること能わず。監司を選び、その権を重くし、その任を久しくせんことを乞う」と。太常少卿を除す。又た攻守の二策を陳ぶ。人心を得、軍政を修むるに在り。

原文紹興三年,召為金部員外郎,升郎中。時言事者率毛舉細務,略大利害。桷抗言:「今當專講治道之本,修政事以攘敵國,不當以細故勤聖慮如平時也。」又言:「刺史縣令滿天下,不能皆得人,乞選監司,重其權,久其任。」除太常少卿。又陳攻守二策,在於得人心,修軍政。

五年、直龍図閣・知泉州を除す。明年、両浙西路提刑に改む。郷県に三老を置き以て風俗を厚くせんことを乞い、凡そ宮室・車馬・衣服・器械を差等に定め、侈靡の禁を重くす。八年、福建路転運副使に遷る。

原文五年,除直龍圖閣、知泉州。明年,改兩浙西路提刑。乞置鄉縣三老以厚風俗,凡宮室、車馬、衣服、器械定為差等,重侈靡之禁。八年,遷福建路轉運副使。

十年、復た召されて太常少卿と為る。適た徽宗御書の編類成る。詔して敷文閣に蔵す。桷以て為く、「旧制、龍図より徽猷に至るまで皆学士・待制を設け、雑圧は令に著す。龍図は朝請大夫の上に在り、徽猷に至っては承議郎の上に在り、各閣相去ること稍く遠し。議者はその倫ならざるを疑う。直敷文閣の者を徽猷に綴すれば諸閣と小異あり、これを除けば班列太だ卑し。参酌して中を取り、並びに一列と為し、必ずしも相遠からず、庶幾くば名位倫有り、陛下の祖宗の謨訓を厳奉するの意に仰称せん」と。又言う、「祫祭に太牢を用う、これ祀典の常なり。駐蹕の初め、未だ礼を備えず、ただ一羊を用う。紹興六年の詔旨を検会し、復た太牢を用いんことを乞う」と。

原文十年,復召為太常少卿。適編類徽宗御書成,詔藏敷文閣,桷以為:「舊制自龍圖至徽猷皆設學士、待制,雜壓著令,龍圖在朝請大夫之上,至徽猷在承議郎之上,每閣相去稍遠,議者疑其不倫。直敷文閣者綴徽猷則與諸閣小異,除之則班列太卑,欲參酌取中,並為一列,不必相遠,庶幾名位有倫,仰稱陛下嚴奉祖宗謨訓之意。」又言:「祫祭用太牢,此祀典之常。駐蹕之初,未能備禮,止用一羊,乞檢會紹興六年詔旨,復用太牢。」

十一年、権礼部侍郎を除し、三品服を賜う。普安郡王出閣す。詔を奉じて吏部・太常寺と典故を討論す。桷等議して、国本未だ立たず、宜しくその礼を厚くして以て天下の望みを繫ぐべしと。乃ち『皇子出閣礼例』を以てこれを上る。或いは以て太重なりと為す。詔して、典故を詳らかに具せず、専ら己が意を任じ、姦を懐いて附麗すと。吏部尚書呉表臣・礼部尚書蘇符・郎官方雲翼・丁仲寧・太常属王普・蘇籍と並びに罷む。尋いで桷を以て江州太平観を提挙す。

原文十一年,除權禮部侍郎,賜三品服。普安郡王出閣,奉詔與吏部、太常寺討論典故。桷等議以國本未立,宜厚其禮以繫天下望,乃以《皇子出閣禮例》上之,或以為太重。詔以不詳具典故,專任己意,懷姦附麗,與吏部尚書吳表臣、禮部尚書蘇符、郎官方雲翼、丁仲寧、太常屬王普、蘇籍並罷。尋以桷提舉江州太平觀。

十五年、襄陽府を知り、京西南路安撫使を充てる。襄・漢は兵火の余、民物凋瘵す。桷、朝に請う。今の戸数、承平時を視て才に二十の一なるに、賦は須らく尚お多し。重ねて蠲減を行わんことを乞う。明年、金・房の兵叛く。桷、将を遣わしてこれを平げて後に以て聞かしむ。漢水決溢し、廬舍を漂蕩す。躬ら兵民を率いて堤岸を捍築し、頼り以て虞無し。疾を以て祠を乞い、秘閣修撰・提挙江州太平興国宮を除す。二十四年、広州を知るに改め、広南東路経略安撫使を充てる。未だ至らずして卒す。年六十四。

原文十五年,知襄陽府,充京西南路安撫使。襄、漢兵火之餘,民物凋瘵,桷請於朝,以今之戶數視承平時才二十之一,而賦須尚多,乞重行蠲減。明年,金、房兵叛,桷遣將平之而後以聞。漢水決溢,漂蕩廬舍,躬率兵民捍築堤岸,賴以無虞。以疾乞祠,除秘閣修撰、提舉江州太平興國宮。二十四年,改知廣州,充廣南東路經略安撫使,未至而卒,年六十四。

桷は寛洪醞籍、誠を以て物に接し、而して栄利に恬たり。秦檜の事を用うるに当たり、永嘉を以て寓里と為す。士の夤縁攀附する者、顕要に躐登らざる無し。桷は立螭の旧を以て、人主に知られ、出入頓挫す。晩に奉常少卿より擢でて権小宗伯と為る。復た礼を議して阿らずして意に忤い、遽かに罷む。その節称すべき有り。自ら「無相居士」と号す。文集十六巻有り。子に汝楫・汝賢・汝諧。孫の峴、詞学を以て第に擢で、中書舎人・直学士院に官す。

原文桷寬洪醞籍,以誠接物,而恬于榮利。當秦檜用事,以永嘉為寓里,士之夤緣攀附者,無不躐登顯要。桷以立螭之舊,為人主所知,出入頓挫,晚由奉常少卿擢權小宗伯,復以議禮不阿忤意,遽罷,其節有足稱。自號「無相居士」。有文集十六卷。子汝楫、汝賢、汝諧。孫峴,以詞學擢第,官中書舍人、直學士院。

李璆

原文李璆

李璆、字は西美、汴の人。政和の進士第に登り、陳州教授に調じ、入って国子博士と為り、出でて房州を知る。時に既に官茶を榷し、復た民に旧額を輸することを強う。貧にして出す所無く、繫がるる者数百人。璆至るや、即日尽くこれを釈す。

原文李璆,字西美,汴人。登政和進士第,調陳州教授,入為國子博士,出知房州。時既榷官茶,復強民輸舊額,貧無所出,被繫者數百人,璆至,即日盡釋之。

宣和三年、廷議将に燕を取らんとす。璆これを聞きて曰く、「百辟卿士、一たび倡えて共和す。国家の安危、その幾は是に在り」と。疏を上りて切に諫む。大略に謂う、「太祖は聖武を以て天下を得、将士は皆百戦の余、是を以て燕雲を取るに、宜しく力を為し易かるべし。然れども趙普の輩敢えてその決を賛する者無し。天下の大勢を識り、且つ民命を重んずる故なり。今、太平の業を承け、父老幸いに兵を識らず。燕雲の地を得ずと雖も、漢に何の闕けん」と。疏奏して省みず。燕既に平らぎて、英州清渓鎮を監するを責む。

原文宣和三年,廷議將取燕,璆聞之,曰:「百辟卿士,一倡共和,國家安危,其幾在是。」上疏切諫,大略謂:「太祖以聖武得天下,將士皆百戰之餘,以是而取燕雲,宜易為力。然趙普輩無敢贊其決者,蓋識天下大勢,且重民命故也。今承太平之業,父老幸不識兵,雖不得燕雲地,何闕於漢。」疏奏不省。及燕既平,責監英州清溪鎮。

明年、赦されて郎に還り、尋いで中書舎人を試す。建言す、元祐名臣の子孫、久しく廃錮せらる、宜しくこれを少しく寛うべしと。宦官譚稹、河北に出師し、功無きを以て廃す。将に復た進用せんとす。璆、行を書くことを肯せず。会に山東に盗起こり、州県制すること能わず、河北に至りて見糧無く、軍士洶洶たり。璆、十事を条奏し、大臣の意に忤い、罷む。紹興四年、集英殿修撰を以て吉州を知る。江西の兵素より剽悍なり。璆始めて視事す。相挺して乱を為す者有り。亟に首謀者を捕誅し、その余を撫循し、大いに恩信を布く。境内遂に安んず。

原文明年,赦還為郎,尋試中書舍人。建言元祐名臣子孫,久被廢錮,宜少寬之。宦官譚稹出師河北,以無功廢,將復進用,璆不肯書行。會山東盜起,州縣不能制,至河北無見糧,軍士洶洶。璆條奏十事,忤大臣意,罷。紹興四年,以集英殿修撰知吉州。江西兵素剽悍,璆始視事,有相挺為亂者,亟捕誅首謀者,撫循其餘,大布恩信,境內遂安。

累遷して徽猷閣直学士・四川安撫制置使と為る。成都の旧城多く毀圮す。璆至るや、首に修築を命ず。俄かに水大いに至る。民頼り以て安んず。三江に堰有り、以て下り眉の田百万頃を灌すべし。久しく廃して修せず、田莱以て荒る。璆、部刺史を率いて合力して修復し、竟にその利を受く。眉の人これを感し、像を絵りて堰の所に祠す。間に歳饑に遭い、民徙る。倉を発して振活す。慮る無く百万家。蜀を治むるの政多く紀すべき有り。『清渓集』二十巻有り。

原文累遷徽猷閣直學士、四川安撫制置使。成都舊城多毀圮,璆至,首命修築。俄水大至,民賴以安。三江有堰,可以下灌眉田百萬頃,久廢弗修,田萊以荒。璆率部刺史合力修復,竟受其利,眉人感之,繪像祠於堰所。間遭歲饑,民徙,發倉振活,無慮百萬家,治蜀之政多可紀。有《清溪集》二十卷。

李朴

原文李朴

李朴、字は先之、虔の興国の人。紹聖元年の進士第に登り、臨江軍司法参軍に調じ、西京国子監教授に移り、程頤独り器許す。虔州教授に移る。嘗て隆祐太后瑤華宮に廃処すべからずと言える事を以て、詔有りて推鞫す。忌む者これを擠して死なさんと欲し、人をして危言を以てこれを動かす。朴泰然として懼色無し。旋って官を追い勒停す。会に赦あり、汀州司戸に注す。

原文李朴,字先之,虔之興國人。登紹聖元年進士第,調臨江軍司法參軍,移西京國子監教授,程頤獨器許之。移虔州教授。以嘗言隆祐太后不當廢處瑤華宮事,有詔推鞫。忌者欲擠之死,使人危言動之,朴泰然無懼色。旋追官勒停,會赦,注汀州司戶。

徽宗が即位すると、翰林承旨の范純禮は自ら「四十六日間待罪したが、玉音を聞かず」と言い、王朴に「ある事は国に便であろうか、ある事は民に便であろうか」と尋ねた。朴は「承旨は知りながら言わず、父の風がない」と言うと、純禮は涙を流した。

原文徽宗即位,翰林承旨范純禮自言待罪四十六日,不聞玉音,謂朴曰:「某事豈便於國乎?某事豈便於民乎?」朴曰:「承旨知而不言,無父風也。」純禮泣下。

右司諫の陳瓘が王朴を推薦し、召し出して対問せよとの旨があった。朴はまず「熙寧・元豊以来、政体が屡々変わり、始めは一二の大臣の学ぶところが異なるからであったが、後には円方の説を執って互いに排撃し、今治めなければ、必ず救い難きに至る」と言い、また「今の士大夫の学は己に求めず、ただ王氏(王安石)の説を聴くのみで、心術を敗壊するのはこれより大なるはない。王氏に拘らぬよう詔を下されば、英材が輩出しよう」と言った。蔡京は朴の鯁直を憎み、他の執政が三度官職を擬しても皆これを留め、再び虔州教授とした。また言事者を唆して朴が元祐の学術に与するとして師儒を領するに当たらずと論じさせ、罷めて肇慶府四会令とした。

原文右司諫陳瓘薦朴,有旨召對,朴首言:「熙寧、元豐以來,政體屢變,始出一二大臣所學不同,後乃更執圓方,互相排擊,失今不治,必至不可勝救。」又言:「今士大夫之學不求諸己,而惟王氏之聽,敗壞心術,莫大於此。願詔勿以王氏為拘,則英材輩出矣。」蔡京惡朴鯁直,他執政三擬官,皆持之不下,復以為虔州教授。又嗾言者論朴為元祐學術,不當領師儒,罷為肇慶府四會令。

奸民が邑の東の地に金宝が産すると言い、買撲の額を立てて田畑を破壊し、墟墓を発掘し、多額の賄賂を贈ってやっと止んだ。朴が着任すると、これを廃止するよう請うた。承事郎に改め、臨江軍清江県知事・広東路安撫司主管機宜文字となった。欽宗が東宮におられた時その名を聞き、即位すると著作郎に任じ、半年の間に五度遷って国子祭酒に至ったが、病のため着任できなかった。高宗が即位すると秘書監に任じ、急ぎ召されたが、到着せずに卒去した。六十五歳。宝文閣待制を追贈し、子孫二人に官職を与えた。

原文有姦民言邑東地產金寶,立額買撲,破田疇,發墟墓,厚賂乃已,朴至,請罷之。改承事郎,知臨江軍清江縣、廣東路安撫司主管機宜文字。欽宗在東宮聞其名,及即位,除著作郎,半歲凡五遷至國子祭酒,以疾不能至。高宗即位,除秘書監,趣召,未至而卒,年六十五。贈寶文閣待制,官其子孫二人。

王朴は小官の時から、天下にその名を高くした。蔡京は強いて招き寄せようとし、親しい者に意を伝えさせて侍従の官を約束したが、朴は力強く拒んで会おうとせず、京は怒りを顔色に表したが、結局害することはなかった。中書侍郎の馮熙載が偶然にでも会おうとしたが、朴は笑って「蔡京に会えない者が、どうして馮熙載に偶然会えようか」と言った。官に在る所では必ず名声があった。広南では、帥の孫竢が文書だけを整えて勤王するのを止めさせ、常賦を発して辺境を助けるよう勧めた。漕使の鄭良が真臘を引き入れて安南を取る計略を退け、辺患を鎮めたので、人はその智を称えた。朴は自ら墓誌を書き「天を以て心と為し、道を以て体と為し、時を以て用と為す、それ已むべし」とした。平生を述べたものである。『章貢集』二十巻が世に行われた。

原文朴自為小官,天下高其名。蔡京將強致之,俾所厚道意,許以禁從,朴力拒不見,京怒形於色,然終不害也。中書侍郎馮熙載欲邂逅見朴,朴笑曰:「不能見蔡京,焉能邂逅馮熙載邪?」居官所至有聲。在廣南,止其帥孫竢以文具勤王,不若發常賦助邊。破漕使鄭良引真臘取安南之計,以息邊患,人稱其智。朴嘗自志其墓曰:「以天為心,以道為體,以時為用,其可已矣。」蓋敘其平生云。有《章貢集》二十卷行於世。

王庠

原文王庠

王庠、字は周彥、栄州の人。累世同居し、「義門王氏」と号した。

原文王庠,字周彥,榮州人。累世同居,號「義門王氏」。

祖父の伯琪は、義の声をもって郷州に著しかった。塩井があり民に煎じ輸納させたため、多くは破産に至ったが、禄のある家のみが免れていた。伯琪は州に請うて官戸に均しくしたが、仕官者が誣告したため、恨みを抱いて没した。父の夢易は皇祐年間に及第し、父の志を成し遂げようと力め、州県に言っても聞かず、刺史に言い、三司に言い、三司が上奏したので、没収された三百五十五家が返還され、歳額三十万斤が免除された。かつて興州を摂理し、川茶の運送を改め、茶舗を設けて民の役を免じ、歳課もまた整った。部刺史はその議が己から出なかったことを恨み、他事を以て中傷し、三階を降格させ、罷免されて帰り卒した。母の向氏は、欽聖憲肅皇后の叔母である。

原文祖伯琪,以義聲著於鄉州。有鹽井籍民煎輸,多至破產,惟有祿之家得免。伯琪請于州,均之官戶,而仕者誣訴之,齎恨以歿。父夢易,登皇祐第,力成父志,言於州縣不聽,言于刺史,言于三司,三司以聞,還籍沒者三百五十五家,蠲歲額三十萬斤。嘗攝興州,改川茶運,置茶鋪免役民,歲課亦辦。部刺史恨其議不出己,以他事中之,鐫三秩,罷歸而卒。母向氏,欽聖憲肅后之姑也。

王庠は幼くして聡明で、七歳で文を綴ることができ、大人のようであった。十三歳の時、父の喪に服し、哀憤深切で、弟の王序に「父は直道によって排斥され、母は柩を撫でて誓い、我ら兄弟が成立し、父の官を追贈して初めて葬ることを許すと言われた。互いに励まそう。また制科は先君の遺意である、私は志がある」と言った。そこで戸を閉ざし、経史百家の書伝注の学を究め、師を求めて千里を尋ね、その旨帰を究めた。早くに范純仁・蘇轍・張商英に書を送り、皆中立不倚の論を述べ、呂陶・蘇轍は皆これを器重した。かつて『経説』を蘇軾に送り、「二帝三王の臣は皆道に志し、自得することが難しいからこそ、守ること堅固であった。孔・孟が『六経』を作ってから、この道には一定の論があるが、士の養うところはかえって古に及ばず、後世が『六経』を易しと見て、軽んじて行わないことを知る」と言った。軾は答えて「『経説』一篇、誠にこの言の通りである」と言った。

原文庠幼穎悟,七歲能屬文,儼如成人。年十三,居父喪,哀憤深切,謂弟序曰:「父以直道見擠,母撫柩誓言,期我兄弟成立,贈復父官,乃許歸葬,相與勉之。且制科先君之遺意也,吾有志焉。」遂閉戶,窮經史百家書傳注之學,尋師千里,究其旨歸。蚤歲上范純仁、蘇轍、張商英書,皆持中立不倚之論,呂陶、蘇轍皆器重之。嘗以《經說》寄蘇軾,謂:「二帝三王之臣皆志於道,惟其自得之難,故守之至堅。自孔、孟作《六經》,斯道有一定之論,士之所養,反不逮古,乃知後世見《六經》之易,忽之不行也。」軾復曰:「《經說》一篇,誠哉是言。」

元祐年間、呂陶が賢良方正直言極諫科で王庠を推薦したが、庠は宋邦傑が学を成したのにまだ推薦されていないとして、彼を先に就かせようと推した。陶はこれを聞いて一層敬重した。間もなく紹聖の諸臣が政事を執り、制科が廃止されると、庠は嘆いて「命である。先訓に愧じず、これをもって己を行えば足りる」と言った。

原文元祐中,呂陶以賢良方正直言極諫科薦之,庠以宋邦傑學成未有薦者,推使先就,陶聞而益加敬。未幾,當紹聖諸臣用事,遂罷制科,庠歎曰:「命也,無愧先訓,以之行己足矣。」

崇寧壬午の年、能書に応じ、首位となった。京師に蝗害があり、庠は時政の得失について上書し、内外が蔽われて寇戎の患いが生じると論じた。張舜民はこれを見て、その危言に嘆息した。下第して直ちに帰り、親に仕えて志を養い、八年間挙に応じなかった。

原文崇寧壬午歲,應能書,為首選。京師蝗,庠上書論時政得失,謂中外壅蔽,將生寇戎之患,張舜民見之,歎其危言。下第徑歸,奉親養志,不應舉者八年。

大観庚寅の年、天下に舍法が行われ、州は再び王庠を詔に応じさせようとした。庠は「かつて母が五十二歳の時に侍養を求め、再び仕官を願わなかった。今母は六十歳、詔に奉ずるのは、本心であろうか」と言った。当時元祐の党禁が厳しく、庠は自ら「蘇軾・蘇轍・范純仁を知己とし、呂陶・王吉に推薦され、黄庭堅・張舜民・王鞏・任伯雨と交遊した。挙に応じて仕を求めるべからず、田里に屏居したい」と陳述した。弟の王序が朝官に昇り、父に官が追贈されたので、初めて葬ることができ、葬った後母が卒した。

原文大觀庚寅,行舍法於天下,州復以庠應詔。庠曰:「昔以母年五十二求侍養,不復願仕,今母年六十,乃奉詔,豈本心乎?」時嚴元祐黨禁,庠自陳:「蘇軾、蘇轍、范純仁為知己,呂陶、王吉嘗薦舉,黃庭堅、張舜民、王鞏、任伯雨為交遊,不可入舉求仕,願屏居田里。」以弟序升朝,贈父官,始克葬,葬而母卒。

喪が終わると再び八行で挙げられ、事は太学に下り、大司成が考定して天下第一とし、詔してその門を表彰した。朝廷はその屈せざるを知り、「処士」の号を賜った。間もなく潼川府教授に改め、出身及び章服を賜り、一日に四つの命が共に至ったが、ついに力辞して受けなかった。山林に処しながらも、唱酬賦詠は皆、君を愛し国を憂うる言であった。太后はその叔母を思い、官にしようとしたが、庠は弟・甥に譲り、また田を庶兄及び前母の姉に均しく分け与えた。王庠が卒すると、孝宗は「賢節」と諡した。

原文終喪復舉八行,事下太學,大司成考定為天下第一,詔旌其門。朝廷知其不可屈,賜號「處士」。尋改潼川府教授,賜出身及章服,一日四命俱至,竟力辭不受。雖處山林,唱酬賦詠,皆愛君憂國之言。太后念其姑,嘗欲官,庠以遜其弟、侄及甥,且以田均給庶兄及前母之姊。庠卒,孝宗諡曰「賢節」。

王序は、宣和年間に恩幸によって徽猷閣直学士に至った。王庠はその間に浮沈し、それぞれ大邸宅を建てたので、ある者はその晩節の隠操がやや衰えたと言った。

原文序,宣和間以恩幸至徽猷閣直學士。庠浮沉其間,各建大第,或者謂其晚節隱操少衰云。

王衣

原文王衣

王衣、字は子裳、済南歴城の人。門蔭によって仕え、明法科に及第し、深州・冀州の法曹掾を歴任し、入って大理評事となり、寺正に昇った。林霊素が寵愛を受け、仏教を毀って私意を逞しくしようとした。襄州の僧杜徳宝が身体を毀損して香を焚いたが、役人は林霊素の意を窺い、捕らえて上奏した。衣はこれを調べて「律では自傷した者は杖刑のみである」と言った。霊素は内批を求め、風教を害した罪で流刑に処し、衣の官を停め、間もなく祠官とした。陝西都転運司主管文字・詳定一司勅令所刪定官・通判襲慶府・知濠州となったが、赴任せず、召されて刑部員外郎となった。

原文王衣,字子裳,濟南歷城人。以門蔭仕,中明法科,歷深、冀二州法曹掾,入為大理評事,升寺正。林靈素得幸,將毀釋氏以逞其私。襄州僧杜德寶毀體然香,有司觀望靈素意,捕以聞。衣閱之曰:「律自傷者杖而已。」靈素求內批,坐以害風教竄流之,停衣官,尋予祠。為陝西都轉運司主管文字、詳定一司敕令所刪定官、通判襲慶府、知濠州,未行,召為刑部員外郎。

建炎初年、司勳郎中となり、大理少卿に遷る。三年、韓世忠が苗傅・劉正彥を捕らえ、捕虜を献上し、檻車ほぼ百両を先に大理獄に付し、ことごとく市中にさらし首にせんとす。衣上奏して曰く、「此の輩は律に照らして誅すべきなり、但しその中の婦女に雇い買い及び鹵掠して従わしめたる者あり」と。高宗は驚きて曰く、「卿の言は極めて是なり、朕はこのことを慮り及ばざりき」と。即ち詔して傅・正彥の妻子を除く外は皆これを釈せしむ。范瓊罪ありて大理寺に下り、衣詔を奉じてこれを鞫す。瓊服せず、衣は靖康の囲城中に上皇を逼遷し、呉革を擅殺し、張邦昌を迎え立てし事を責む。瓊死罪を称す。衣吏を顧みて曰く、「囚の詞服せり」と。遂に死を賜い、その親属将佐を釈す。

原文建炎初,為司勳郎中,遷大理少卿。三年,韓世忠執苗傅、劉正彥,獻俘,檻車幾百兩,先付大理獄,將盡尸諸市。衣奏曰:「此曹在律當誅,顧其中婦女有僱買及鹵掠以從者。」高宗矍然曰:「卿言極是,朕慮不及此也。」即詔自傅正彥妻子外皆釋之。范瓊有罪下大理寺,衣奉詔鞫之。瓊不伏,衣責以靖康圍城中逼遷上皇,擅殺吳革,迎立張邦昌事,瓊稱死罪。衣顧吏曰:「囚詞服矣。」遂賜死,釋其親屬將佐。

四年、大理卿に昇る。初め、帯御器械王球は龍徳宮都監たり、本宮の宝玉器玩を尽く盗み、事覚え、帝大いに怒り、これを誅せんとす。衣曰く、「球は固より殺すべし、然れどもその隠匿せざれば、則ち尽く敵の有と為り、何に従って復た国家に帰せんや」と。乃ちこれを寛す。

原文四年,升大理卿。初,帶御器械王球為龍德宮都監,盡盜本宮寶玉器玩,事覺,帝大怒,欲誅之。衣曰:「球固可殺,然非其所隱匿,則盡為敵有,何從復歸國家乎?」乃寬之。

先に、百司の過失は寺に付してこれを劾す、三問に至り伏状を取る。劾せられたる者は対するを懼れ、敢えて弁ぜず。衣奏して曰く、「伏することと弁ずることとは二事なり、若し一切に伏を取らば、是れ以て威迫し、自ら直からしめざるなり、法の意に非ず。三問して未だ承らざる者は、弁ずるを聴かんことを乞う」と。これに従う。同詳定一司勈令、雑犯死罪四十七箇条を刪し、書成る。帝その議法の詳明なるを嘉す。

原文先是,百司愆戾,付寺劾之,至三問取伏狀,被劾者懼對,莫敢辨。衣奏曰:「伏與辨二事也,若一切取伏,是以威迫之,不使自直,非法意也,乞三問未承者,聽辨。」從之。同詳定一司敕令,刪雜犯死罪四十七條,書成,帝嘉其議法詳明。

紹興元年、権刑部侍郎。二年、集英殿修撰を除し、祠を奉ず。既にして趙令畤詔に応じてこれを薦む、復た召されて刑部侍郎と為るも、言者に阻まれる。四年、家に卒す。衣は質直にして和易、法を執って阿らず、議者これを賢とす。

原文紹興元年,權刑部侍郎。二年,除集英殿修撰,奉祠。既而趙令畤應詔薦之,復召為刑部侍郎,為言者所格。四年,卒於家。衣質直和易,持法不阿,議者賢之。

論じて曰く、向子諲は相家の子として臣節を克く飭し、陳規は文儒の臣として鎮守に声あり、流俗より抜け出たる者と謂うべし。季陵は事を言うに諱まず、二盧兄弟並び用いられ、材を以て称さる。陳桷は礼を守り変を知り、李璆は政を為すに恵あり、皆紀するに足る。李朴は権威に訹らず、王庠は志高くして晩節頗る衰え、王衣は明恕にして刑を用うるに刻ならず、或いは器識斉しからざるも、亦皆その職を曠らさざるか。

原文論曰:向子諲以相家之子克飭臣節,陳規以文儒之臣有聲鎮守,可謂拔乎流俗者焉。季陵言事不諱,二盧兄弟並用,以材見稱,陳桷守禮知變,李璆為政有惠,咸足紀焉。李朴不訹權威,王庠志高而晚節頗衰,王衣明恕而用刑不刻,雖或器識不齊,亦皆不曠其職也歟!