宋史

列傳第一百三十六 向子諲 陳規 季陵 盧知原 陳桷 李璆 李朴 王庠 王衣

向子諲

向子諲、字は伯恭、臨江の人、向敏中の玄孫、欽聖憲肅皇后の再從侄なり。元符三年、后の復辟の恩により、假承奉郎に補せられ、三遷して開封府咸平縣知縣となる。豪民が勢いに乗じて法を犯し、獄案が上ると、府尹の盛章は獄空を以て賞を覬うため、却けて受けず、子諲はこれを聞こし召す。詔して自ら論決するを許す。章は大いに怒り、他事を以て劾して勒停せしむ。

宣和初め、官を復し、江淮發運司主管文字を除す。淮南は連年旱魃にて、漕運通ぜず、河を浚って江・淮と平らかにせんとする者あり、内侍がその議を主とし、敢えて可否する者なし。發運司は子諲を行かしむるを檄す。子諲言う、「江より淮に至るまで数百里、河は江・淮より数丈高く、これを浚って平らかにせんと欲するは、決して不可なり。曩に有司は三日に一度閘を啓き、また澳を作りて水を儲う、故に水乏しからず。近年直達の法を行い、これに応奉の往来を加え、啓閉に節なく、堰閘率として存せず。今故の制に復し、厳に禁約すれば、則ち患いなし」と。使者その言を用い、漕運復た通じ、秩一等を進む。召されて対し、淮南轉運判官を除す。戸部の諸路の上供を起発して数に及ばざるを奏するに坐し、一官を降す。

七年、入りて右司員外郎となるも、就かず。直秘閣を以て京畿轉運副使と為り、尋いで發運副使を兼ぬ。建炎元年、金人亳州を犯す。子諲は勤王の所より、書を以て金人に遺し、兵勢の逆順を言い、退きて河外を保たしむ。金人遽かに亳・宋等州守禦所の牒を以てこれに報い、日を約して戦を索め、語極めて不遜なり。諸道の兵畏縮して進まず。時に康王は濟州に次ぐ。子諲は進士李植を遣わし、金帛及び本司の錢穀の濟州に在るものを献じ、以て軍費を助く。張邦昌位を僭す。人を遣わし敕書を持ちて廬州に往き、その家の安否を問わしむ。子諲は郡守の馮詢・提挙の范仲に檄してこれを拘らしめ、以て王命を俟たしむ。邦昌またその甥の劉達をして手書を齎らしめて来らしむ。子諲は封を啓かずしてこれを焚き、達を械繫して獄に繋ぐ。子の澹を遣わし康王に請い、諸将を率いて河を渡り、その不意に出でて以て二帝を救わしむ。将の王儀を遣わし勤王の兵を統べて城下に至らしむ。

直龍圖閣・江淮發運副使に遷る。子諲言う、「去歳劉順が淵聖の蠟詔を奉じ、監司帥守に命じて兵を募り勤王せしむ。臣即ち板を鏤めて遍く所部に檄す。然るに六路の間漠として応ずる者なし。間に団結して起発する者有りと雖も、類は児戯の如く、姑く以て責を避くるのみ。惟だ淮東一路、臣親しく諸司を率い、粗に紀律を成す。然れども諸司猶に錢物を占吝し、肯て供億せず、殊に君父の幽く圍城の中に処するを念わず。臣当時に利刃無きを恨み、以てその頸に加えんとす。今京城失守し、二帝播遷す。儻し賞罰行われずんば、恐らくは金人再び辺患と為らん。陛下復た天下の兵を起こさんと欲するも、諸路故常を翫習し、恬として畏るるを知らず、将に何を恃りて艱難を済さんとするか。願わくは明詔を大臣に下し、諸路の監司の向に蠟詔を承けながら廃格して勤王せず、及び名は勤王と為りながら稽緩する者を按劾し、悉く顕黜を加えられんことを」。命じて諸路の提刑司に実を究めて以て聞かしむ。九月、子諲罷む。素より李綱に善くせらるるを以て、故に黄潜善これを斥く。

明年、襲慶府知府となるも、道梗して赴く能わず。初め、邦昌が平章軍國事と為るや、子諲は致仕を乞うてこれを避く。言者に坐して三官を降され、起復して潭州知府となる。禁卒乱を為し、火を放ちて市を掠め、瀏陽県を出づ。子諲は通判の孟彥卿等を遣わし攸県に追い及びてこれを平らぐ。

金人江西を破り、兵を移して湖南に至る。子諲警報を聞き、軍民を率いて死守す。宗室の成忠郎の聿之は東壁に隷す。子諲城を巡り、顧みて謂いて曰く、「君は宗室なり、この曹の苟簡に效うべからず」と。聿之感激して涕を流す。金人八日間城を囲み、城に登りて火を放つ。子諲は官吏を率いて南楚門を奪い遁る。城陥つ。敵至りて失守するに坐し、落職罷む。轉運副使の賈收、子諲が兵を督して巷戦し、また潰卒を収めて復た入りて事を治むるを言う。帝もまた子諲を他守臣の風望みて遁るる者と殊科とし、詔して職を復す。

紹興元年、鄂州に移り、荊湖東路安撫司を主管す。劇盗の曹成、攸縣に拠る。子諲は安仁に軍し、使を遣わしてこれを招く。成命を聴く。子諲また将を遣わし西は衡陽を扼し、南は宜章を守らしむ。成逡巡して敢えて南向せずすること百余日、諸郡遂に刈穫を得る。既にして援兵至らず、成は子諲が己を扼するを忿り、衆を擁して南す。子諲は親兵を率いてこれを拒ぐ。会に官軍潰え、度るに遏え難しと、単騎で賊中に入り、国家の威霊を以て諭す。成服せず、子諲を執って帰す。会に宣撫司都統制の馬擴が人を遣わし呉敏の檄を持ちて成を諭す。成許して招を受く。始めて子諲を釈す。

詔して江州太平観を提挙せしむ。胡安国方に湖南に地を避く。書を以て秦檜に抵え言う、「子諲の忠節は以て三綱を扶持すべし。願わくはその救い無くして賊に陷るるを憐れみ、復た収用を加えられんことを」。起して広州知府と為す。時に賊の嶺を度るを恐れ、故に就いて子諲を用いてこれを守らしむ。また言者を以て罷められ、遂に致仕す。尋いで起して江州知府と為り、江東轉運使に改め、秘閣修撰に進む。江東は当に劉光世の軍に餉すべきに、適に劉寇に入る。光世の軍は合淝に在り、餉乏するを以て告げ、亟に師を退く。子諲馳せて合淝に至り、糧の具わるを見て以て聞こす。光世是に由って罪を得。徽猷閣待制に進む。両浙路に徙めて都轉運使と為し、戸部侍郎を除す。

入見し、京都の旧事を論じ、頗る珍玩に及ぶ。起居郎の潘良貴故に子諲に善し、その言を聞き甚だ怒る。既にして子諲、金国の報聘及び朱震を奠する事を奏す。反復良久。良貴径に榻前に至り厲声してこれを叱りて曰く、「子諲は益なき談を以て久しく聖聴を煩わすべからず」と。子諲退かんと欲す。上、良貴に謂いて曰く、「是れ朕のこれを問うなり」と。また子諲に款語を諭す。子諲復た語し、久しく止まず。良貴これを叱して退かしむること再びす。上色変じ、良貴の罪を抵えんと欲す。中丞の常同言う、「良貴罪無し。願わくは子諲の補外を許さしめられん」と。上並びに同を怒る。張九成言う、「士大夫の子諲を嘉する所以は、その能く善類を眷眷するに在り。今子諲の故を以て柱史を逐い、また中司を逐うは、子諲を愛する所以に非ず」と。上の意稍く解く。批諭して同に示す。同言を已めず。ここに於て三人倶に罷む。子諲は徽猷閣直學士を以て平江府知府となる。金使議和して将に境に入らんとす。子諲肯て金の詔を拝せず。乃ち上章して言う、「古より人主の己を屈して戎と和するも、未だこの時に甚だしきを聞かず。宜しく却けて受けざるべし」と。秦檜の意に忤い、乃ち致仕す。

子諲は相家の子、能く修飭して時に自ら見ゆ。諸弟を友愛し、義荘を置き、宗族の貧しき者を贍う。初め淮南に漕す時、張邦昌の偽詔至る。虹縣令以下迎拝し宣読すること常の如し。独り武尉の徐端益は拝せずして走る。事定まりて、子諲朝に言い、端益を文資に易う。退閑すること十五年、居する所を号して「薌林」と曰う。卒す、年六十八。

陳規

陳規、字は元則、密州安丘の人。明法科に及第す。靖康の末、金人侵寇し、鎮海軍節度使劉延慶を殺し、その徒の祝進・王在去ら盗賊となり、随・郢・復等の州を犯す。規は安陸令たり、勤王の兵を率いて汴に赴かんとし、蔡州に至り、道塞がりて還る。時に祝進徳安府を攻め、守は城を棄てて遁ぐ。父老規に守事を摂行するを請う。規は射士張立を遣わし兵を率いて進を討たしめ、これを退く。既にして在復進と合し、砲石鵝車を以て城東を攻む。規連戦してこれを破り、二人懼れ、衆を引いて去る。

建炎元年、直龍図閣・知徳安府を除す。李孝義・張世歩騎数万を以て城に迫り、陽に詔を受けて招撫すと称す。規城に登りその営壘を視て曰く「これ詐りなり」と。急ぎ備えを為す。夜半、孝義兵城を囲み、遂にこれを大破す。群盗楊進と相持すること十八日、進技窮まり、百人を以て自衛し、濠上に抵りて和を求む。規城を出でて交臂語り、進これに感じ、箭を折りて誓いを為し去る。董平衆を引きて城を窺い、その党李居正・黄進を遣わし城に入りて犒を求めしむ。規進を斬り、居正に兵を授けて前鋒と為し、これを大破す。秘閣修撰に昇る。尋いで徳安府・復州・漢陽軍鎮撫使を除し、三品服を賜い、俄に徽猷閣待制に昇る。

時に桑仲襄・漢の間を剽略し、その副霍明兵を屯し郢上に在り。規朝に請い、就きて明をして郢を守らしむ。張浚都督ととくとしてしょく道を行い、仲兵を引いてこれを窺う。王彦に敗られ、仲怒り、数百騎を従え来たりて明を譙る。明これを殺し、劉豫に奔る。書を以て規を招く。規その使を械し以て聞す。李横城を囲み、天橋を造り、濠を填め、鼓噪して城に臨む。規軍民を帥いてこれを禦ぎ、砲足を傷つくも神色変らず。囲み急にして糧尽き、家財を出だして軍を労う。士気益々振るう。横人を遣わし、願わくば妓女を得て軍を罷めんとす。規許さず。諸将曰く「城を囲むこと七十日、一婦を以て一城を活かす、また可ならずや」と。規竟に与えず。会に濠橋陥ち、規六十人を以て火槍を持たしめ西門より出で、天橋を焚き、火牛を以てこれを助く。須臾にして皆尽き、横砦を抜きて去る。

徽猷閣直学士に昇り、詔を行在に赴かしむ。改めて顕謨閣直学士と為し、徙めて池州を知り沿江安撫使と為す。入対し、首に言う「鎮撫使は当に罷むべし。諸将跋扈す。偏裨を用いてその勢いを分つを請う」と。上皆これを納る。龍図閣直学士に遷り、改めて廬州を知る。尋いでまた召されて行在に赴かんとす。疾を以て辞し、江州太平観を提挙す。復た起きて徳安府を知る。吏職を失察するに坐し、両官を鐫らる。

金人河南の地を帰す。改めて順昌府を知る。城壁を葺き、流亡を招き、保伍を立つ。会に劉錡兵を領いて京留守に赴き郡境を過ぐ。規出で迎え、坐未だ定まらざるに、伝うるに金人已に京城に入れりと。即ち錡に告げて城中に粟数万斛有り、勉めて同じく死守の計を為さんことを。相いと城に登り区画し、分ちて諸将に命じ四門を守らしめ、且つ斥候を明らかにし、土人郷導間諜を募る。布設粗だ畢らんとするに、金の游騎已に城に迫る。既に至りて、金の龍虎大王者重兵を提げ踵いて至る。規躬み甲冑を擐ぎ、錡と城を巡り督戦す。神臂弓を以てこれを射る。稍々引き退く。復た歩兵を以て邀撃し、河に溺るる者甚だ衆し。規曰く「敵志屡挫く、必ず奇を出だして我を困らんと思わん。潜かに兵をして営を斫らしめ、彼をして昼夜休むを得ざらしむるに若かず。吾が鋭を養うべし」と。錡然り、果たして劫いでその砦に中り、その兵を殲すこと甚だ衆し。金人兀朮に告急す。規大いに将士を饗す。酒半ばにして問うて曰く「兀朮精兵を擁して将に至らんとす。策将に安く出ださん」と。諸将或いは謂う「今已に累捷す。宜しく勢いに乗じて全師して帰るべし」と。規曰く「朝廷兵を養うこと十五年、正に緩急の用に為さんと欲す。況んや屡その鋒を挫き、軍声稍々振う。規已に一死を分つ。進むも死、退くも死、進めて忠と為すに如かず」と。錡諸将を叱して曰く「府公文人猶お誓って死守せんとす。況んや汝曹においてをや。兼ねて金営近く三十里、兀朮来援せば、我軍一動すれば、金人追い及び、老幼先ず乱れ、必ず狼狽に至らん。前功を廃するのみに非ず、両淮を侵擾せしめ、江・浙震驚せしめん。平生君に報いんとし、反って国を誤ることと成らん。城を背に一戦し、死中に生を求むるに如かず」と。已にして兀朮至り、親しく城を循り、諸酋の用兵の失を責む。衆跪いて曰く「南兵昔に比ぶるに非ず」と。兀朮令を下し晨に府庭に飯し、且つ箭を折りて誓いを為す。兵を併せて十余万城を攻め、自ら鉄浮屠軍三千を将いて遊撃す。規と錡城を行き、諸将を勉め激し、流矢衣に及ぶも懼色無し。軍殊死に闘う。時に方に劇暑たり。規錡に謂う「多く軍を出す毋れ。第に隊を更え器を易え、逸を以て労を制せば、勝たざる蔑し」と。毎清晨輒ち堅壁して出でず、金兵の烈日の中に暴するを伺い、未申に至りて気力疲るれば、則ち城中の兵争い奮い、斬獲算無し。兀朮宵に遁ぐ。錡功を奏す。詔これを褒諭し、枢密直学士に遷す。規順昌に至り、即ち広く粟麦を糴り倉廩を実す。会に計議司粟を移して河上に赴かしむ。規金帛を以て代えて輸するを請う。是に至りてその用を得、錡の功を成すは、食足るが故なり。

移りて廬州を知り淮西安撫を兼ぬ。既に至りて疾発す。旨有りて郡城を修めしむ。規告に在り。吏文書を抱いて臥内に入る。規力疾して起きて曰く「帥事は機宜之を董す。郡城は通判之を董す」と。語畢りて卒す。年七十。右正議大夫を贈る。『攻守方略』有りて世に伝わる。

初め、規徳安を守る時、嘗て条上して営屯田の事宜を上す。古の屯田の制に倣わんと欲し、射士民兵を合せ、地を分かち耕墾せしむ。軍士の屯する田は、皆険隘に相い堡砦を立て、寇至れば則ち堡に聚り捍禦し、事無ければ則ち時に乗じて田作す。射士は皆半を分かち以て屯田を耕す。民戸の営む田は、水田は畝に粳米一斗を賦し、陸田は麦豆各五升を賦す。満三年逋輸無ければ、永業として給す。流民自ら帰る者は田を以てこれを還す。凡そ屯田の事は営田司兼ねて行い、営田の事は府県官兼ねて行い、皆更に官吏を置かず。条列して以て聞す。詔これを嘉奨し、仍ってその法を諸鎮に下す。紹興以来、文臣鎮撫使として威声有る者は、惟だ規のみ。

規端毅にして言笑寡く、然れども人に待つに和易なり。忠義を以て自ら許し、尤も好んで振施し、家に贏財無し。嘗て女の為に従婢を求め、一婦を得たり甚だ閒雅なり。怪しみてこれを詢うれば、乃ち雲夢の張貢士の女なり。乱離して夫死に託する所無く、身を鬻ぎて活かんことを求む。規即ち女の奩を輟みてこれを嫁す。聞く者感泣す。規の功名諸将と等しくして、位労に酬いず。時に共にこれを惜しむ。乾道八年、詔して『規徳安守城録』を刻し天下に頒ち諸守将の法と為す。廟を徳安に立て、額を「賢守」と賜い、忠利侯を追封し、後に智敏を加封す。

季陵

季陵、字は延仲、処州龍泉の人。政和二年上舎第に登り、三遷して太学博士と為る。学術の邪正異同を論ず。長官怒り、執政にこれを譖り、舒城県知事に謫せらる。未幾、太常寺簿を除し、比部員外郎に遷る。高宗即位し、従いて揚州に至る。建炎二年、尚書右司員外郎・太常少卿を守る。金人南侵し、帝杭州に幸す。朝廷の儀物皆これを委棄す。陵九廟の神主を奉じて負い以て行く。起居郎を拝し、中書舎人に遷る。

三年六月、淫雨す。詔して直言を求む。陵言う。

金人が累年にわたって侵攻し、生霊が塗炭の苦しみに陥り、怨気が積もり、災異が起こるのは、もとより怪しむに足りない。『惟だ先ず王を格し、其の事を正す』とあるが、我が方にあるものは軽視してよいであろうか。臣が観るに、廟堂には擅命の臣はないが、ただ将帥の権力が甚だ盛んである。宮閫には女謁の私情はないが、ただ宦官の習わしが未だ革まっていない。今、将帥は兵を擁して自衛し、次第に跋扈の態を成し、苗傅・劉正彦が窃発した時、勤王の師が一度到着すると、官吏を凌轢し、誰もこれをどうすることもできなかった。これが将帥の権力が甚だ盛んで、陽を干犯する所以である。宦官が縦横に振る舞い、上下共に憤ったが、ついに賊の手に斃れた。戒めとすべきである。近頃、藍珪を再び召還したと聞くが、その党与は互いに賀し、聞く者は歯ぎしりする。これが宦官の習わしが未だ革まらず、陽を干犯する所以である。『洪範』に言う、『休徴は曰く肅、時に雨若し……謀、時に寒若し。咎徴は曰く狂、恒に雨若し……急、恒に寒若す』と。古来、天子が出るには必ず廟主を載せて行き、尊ぶものがあることを示す。先日は倉卒に迎奉したため、礼の如くにはできなかった。既に錢塘に至っては、太廟を道宮に置き、薦享に欠けがある。神御を河滸に留め、安奉が後時となった。不肅の咎は、臣は宗廟がこれを当たるものと思う。近年、盗賊は例として招安を許され、間もなく再び叛き、かえってその計に陥る。忠臣の憤りは雪がれず、赤子の冤みは報いられない。不謀の咎は、臣は盗賊がこれを当たるものと思う。道路の言によれば、鑾輿は久しくここに居られないという。臣の臆度するに、決してそのような事はない。仮にあったとしても、狂に近くはないか。軍興以来、保甲を結び、また巡社を改め、弓手を招き、また民兵を募り、民力は尽きたが、なお誅求する。急に近くはないか。これらは皆、陰道が甚だ盛んであることによるものである。

帝はこれを嘉納した。

時に梁揚祖を発運使に任じようとしたが、給事中劉寧止がその不可を言上したため、起居郎綦崇礼を権給事中とし、書を読み上げたが、陵は録黄を封還した。また言上した、「防秋は既に迫っている。願わくは陛下、先ず兵衛及び扈従の臣を定められたい。万一、敵勢が猖獗すれば、便ち整駕して親しく営壘を巡り、諸道の兵を召して援軍とし、将相大臣を留めて相率いて死守し、前日のごとく百官が跣足で奔竄し、扈蹕を名目として、城池を棄てて敵に与え、生霊を塗炭に堕し、財用を溝壑に填しめることのないように」。

時に張浚が川陝等路宣撫処置使であったが、陵はその専権が甚だしいと論じ、旨に逆らい、罷められて徽猷閣待制・太平州知州とされた。赴任せず、落職して祠官とされた。数か月後、復職し、温州知州に任じられたが、また中書舎人に改められ、いずれも力辞した。

范宗尹がその才を推薦し、臨安府知府を命じられ、また中書舎人となった。入対して言上した。

「深く慮るべき事が四つあり、なお恃むべき事が一つある。大駕に駐蹕の地が未だないこと、賢人に皆経世の心がないこと、兵柄が分かれて将が和せず、政権が去って主が益々弱いこと。恃んで僅かに存するものは、人心が未だ厭わないだけである。

前年、江を渡ることを議した時、人は可とし、朝廷は不可とした。故に南渡を言うことを諱り、詔を降して回鑾した。去年、蜀に幸することを議した時、人は不可とし、朝廷は可とした。故に江・淮の備えを弛め、関・陝を経営した。今これを観るに、孰れが得で孰れが失か。維揚の変では、朝廷は及んで知らず、功は宦官に帰した。錢塘の変では、朝廷は救うことができず、功は将帥に帰した。これによって、この輩に朝士を軽んじる心を生ぜしめた。黄潜善は自らを用いることを好み、人を用いることができない。呂頤浩は能を使うことを知るが、賢を任ずることを知らない。張愨・許景衡が恨みを飲んで死んで以来、幾を知り自らを重んずる者は、往々にして志を巻き懐にして退縮する。今天下、兵無しとは謂えず、劉光世・韓世忠・張俊は各々亡命を招いて軍勢を張り、各々小労を効して主恩に報いている。然れども勝っても相譲らず、敗れても相救わず、大敵一たび至れば、人は自ら謀るのみである。周望が浙西にいることは、人はこれを言える。張浚が陝右にいることは、敢えて言う者がない。軍事は機会を失うことを恐れ、便宜を行うのはよい。乃ち自ら詔書を降すこと、窃命の嫌疑無からんや。官吏に事を弁ずることを責めるのは、便宜を行うのはよい。乃ち従臣を安置すること、忌器の嫌疑無からんや。姓氏を賜い、寺額を改めるに至っては、これらは皆、太だ専なるに傷く、臣は恐らくは陝以西より、陛下の在すを知らざらんことを。

ただ祖宗の徳沢が人心に在って未だ忘れられず、中興を望むのはこれのみである。陛下宜しくこれを結ぶべきものあり。今、薄斂して民財を裕かにしようとするが、用度は正に欠乏している。軽徭して民力を紓かにしようとするが、師旅は正に興っている。罪己の詔は屡々降り、民を憂うる言は屡々聞こえる。丁寧切至であるが、終いにこれを信じる者はない。臣は謂う、民を動かすのは行いによってであり、言葉によってではないと。陛下が爵を賢に当て、禄を功に当て、刑を罪に当て、施設注措に理に当たらざるもの無ければ、天下が心服しないことは未だこれ有らざるなり」。

朱勝非が江西帥に任じられたが、未だ赴任せず、陵は言上した、「金人は往年、燕山で士馬を休め、次年は河北に移り、また次年は京東に移り、今は淮甸に寓り、再び去る意思がなく、患いは朝夕にあり、急と謂うべきである。若し呂頤浩が既に去り、朱勝非が未だ至らざるに、金人が南向し、兵は平素練らず、糧は平素積まず、また険を設けず、何をもってこれを禦がん。臣は願わくは陛下、更に賢副を択び、予め経画して待たれたい。今日は安危を論ずるのではなく、実に存亡を論ずるのである。朝に謀り夕に行い、溺るるを拯うが如くすべきで、豈に分陰を惜しまざるべけんや」。詔して劉洪道をして池州に趣往せしめ、防江を措置させた。戸部侍郎に任じられた。

范宗尹は嘗て偽楚に仕えたことがあったため、凡そ偽命を受けた者を皆録用した。陵はこれにより上疏して言った、「前日の士大夫は名節を立てず、事を論ずる者は皆これを攻めることを喜び、瑕疵既に顕われば、再び用いることができず、仮に拭い去ろうとしても、攻める者が踵を接して来る。君相が制命しても、またその地と為すことができない。臣は試みにその罪の大なる者を挙げて言おう。崇寧・大観以来、巨奸を党助し、詭道によって寵栄を饕うた者は幾何人か知らない。張邦昌の乱朝に、死節できなかった者は幾何人か知らない。苗傅・劉正彦が専殺し、拱手して制を受けた者は幾何人か知らない。義をもって責めれば固より誅を免れず、情をもって恕せばまた不幸である。筆墨を弄する者が、文致してその罪とし、既に悪名を得れば、誰か敢えて引薦せん。臣は願わくは明詔を宰執に下し、罪戾の中から実能を選択し、量を以て事を付し、一眚によってその終身を廃することなく、仍て詔して台諫に、国の為に人を愛し、復た言わざらしめられたい」。詔してその上疏を朝堂に掲示した。侍御史沈与求が陵が宰執の風旨を承望したと弾劾し、罷官して杭州洞霄宮提挙とされた。

紹興元年、右文殿修撰に復した。二年、内外の官に事を言わしめる詔があった。陵は言上した。

軍興以来、朝廷の誥牒は、民に強いて与えなければ売れず、師旅の糧草は、民から強いて取らなければ供給されない。旧例の和買は、元本を支払うことができず久しく、新たに行う和糴は、その価値を償うこと幾何かあろうか。一たび軍興に遇えば、事ごとに責めて調達し、不足するものがあれば、後年の賦税を前借りする。名は『和』と雖も、実は強いて取るのであり、名は『借』と雖も、その実は奪うのである。兵将の衣食は飽暖を取らず、豊美を取る。器械は堅利を取らず、華好を取る。末を務めて本に勝ち、初めより闘う心無く、賊至れば則ち偽って退保を言い、賊去れば則ち盛んに収復を言い、敗に遇えば千を以て一と為し、勝に遇えば一を以て千と為す。今、乗輿服御の費は十去ること七八、百官有司の費は十去ること五六、猶も国に益無きは、軍が余りに冗多なるが故である。張浚の一軍は川・陝を以てこれを養い、劉光世の一軍は淮・浙を以てこれを養い、李綱の一軍は湖広を以てこれを養う。上供の物が司農・太府に至るものは幾ばくも無し。夫れ強兵は冗食に在らず。今、統領は家口を随行し、一たび賊至ると聞けば、精鋭なる者を選んで老小を護送し、その自ら随う者は只走ることを弁ずるのみ。議すべき者一なり。虜掠の婦女、軍中に多く有り、養うこと既に足らず、寧くんぞ過ちを作らざらんや、議すべき者二なり。至る所の州軍において、犒賞を邀め求め、守令は事を生ずるを憚り、民を竭き取ってこれを奉ず、議すべき者三なり。詭名虚券、随在して批請し、官物を枉費す、議すべき者四なり。或いは関節を仮り、或いは賄賂を行い、軍籍に名を寄せ、功賞を冒することを規る、議すべき者五なり。願わくは有司に詔して専意に講求せしめ、因循を革めて以て士気を作らしめよ。然らば則ち軍政立つ。」復た徽猷閣待制と為り、広を帥とす。

先に、惠州に狂男子有り、衆数千を聚め、僭号して乱を為す。陵、境に入り、その徒曾袞を誘い、功を以て罪を贖わしむるを令す。旬日を経ずしてこれを擒う。官に在ること三年にして卒す。年五十五。中大夫を贈らる。文集十巻有り。

陵は事を言うに善く、奏疏観るべし。然れども范宗尹に附き、則ち凡そ偽命を受けたる者は皆進用すべしと謂い、台諫復た以て言うべからずと為す。張浚を攻め、則ち蜀に在りて太専に失うと謂い、陝以西将は陛下有るを知らずと謂う。君子皆然りと謂わず。幸医王継先、栄州防禦使を授かる。陵その制を草す。時論も亦此を以て之を少なむ。

盧知原

盧知原、字は行之、湖州徳清の人。父の任により歙県を知り、近臣の薦により、都堂に赴き審察を受け、累遷して梓州路転運副使と為る。時、承平既に久しく、戎備皆弛みたり。知原は兵籍を招補し、城を築きて二十余里に亙る。王黼国に当たり、費出るに藝無し。知原因りて疏を以て之を言う。黼怒り、罷めて去らしむ。久しくして、起ちて提点京東刑獄と為り、江西転運副使に改む。闕を過ぎて入奏す。徽宗之を勉めて曰く、「卿蜀道に在りて、功效甚だ休なり。」遂に三品服を賜う。

先に、綱運重江に阻まれ、吏卒並びに縁りて姦を為す。知原悉く意を経理し、故に諸道に先んじて京師に上る。一官を進め、尋いで直秘閣を除き、江淮荊浙等路発運使と為る。秘閣修撰に昇り、河北を提挙す。言者の劾に坐し、職を褫り吏部に帰す。

高宗即位し、復た龍図閣・知温州と為る。時、葉濃建州を陷れ、揚勍処州を陷る。知原は甲兵を繕い、城を増し隍を浚い、声勢隠然たり。帝東幸す。知原海道を繇りて粟及び金繒十余万を転じて台州に至る。召見せられ、称奨され、右文殿修撰・管内安撫使に擢でらる。郡に在ること四年、民像を繪して之を祠す。

王師范汝為を討つ。召されて添差両浙転運使と為る。罷められ、太平観を提挙す。都督孟庾辟きて参謀と為し、徽猷閣待制・知臨安府に改む。諫官唐輝、知原が政乖謬なりと言う。詔して復た都督府参謀官と為す。章再上し、遂に旧職を以て祠を奉ず。紹興十一年十月卒す。弟法原。

弟 法原

法原、字は立之。雍丘県を知り、積官して太府少卿、賜うに同上舎出身を以てす。遼に使い還り、司農卿に遷り、三品服を賜う。吏部尚書と為り、官秩の次第履歴を総べて一書と為し、功過殿最、巻を開けば了然たり。吏欺く能わず。王黼に累ね坐し、罷めて顕謨閣待制と為る。

紹興元年、臨安洞霄宮を提挙す。張浚制を承けて起ちて夔州を知り、尋いで龍図閣学士・川陝等路宣撫処置副使と為り、端明殿学士・川陝宣撫副使に進む。

金人関輔を攻む。叛将史斌興州を陷る。諸郡多く応ずる者有り。法原諸将に命じて壁を堅くし、戦を言う者は斬るとす。衆以て怯なりと為す。未だ幾ばくもあらず、河東経制使王燮食乏しを以て師を班す。法原関を開きて之を納れ、燮とともに斌を破り、興州を復す。方に巨盗充斥し、秦・隴の叛兵蜀を窺わんと欲す。法原極意拊循し、厳に備禦を為し、檄を諸路に伝う。人心稍く安んず。山川の険阻を視て地を分ち将を置く。洮・岷より階・成に至るまで、関師古之を主り、通川に屯す。文・龍より威・茂に至るまで、劉錡之を主り、巴西に屯す。前後屡捷し、上倚重せらる。

会に兀术関を攻めて呉玠に敗らる。法原素より玠と睦まず。玠因りて功を奏して法原の師を済さず、糧を饋せず、立功将士を銓録せざるを訟う。帝手詔を以て詰問す。法原自ら弁すこと甚だ力めり。上頗る之を直さず。憂恚し、軍中に卒す。

始め、法原川・陝宣撫使と為る。上従容として知原に謂いて曰く、「朕方に川・陝を法原に付せんとす。」蓋し兄弟皆以て材を以て世に称せらる。故に並び之を用うるなり。

陳桷

陳桷、字は季壬、温州平陽の人。上舎より辟雍に貢せられ、政和二年、廷対第三、文林郎・冀州兵曹参そうしん軍を授かり、累遷して尚書虞部員外郎となる。

宣和七年、福建路刑獄を提点す。福州にて防秋の兵を調発するに、資糧その望みに満たず、帥臣を殺し、変は倉卒に生ず。吏民奔潰し、闔城震駭す。桷、乱兵の中に入り、禍福を以て諭す。賊気沮み、桷に帥臣自ら斃るると奏せんことを邀う。桷、詭りてその請いに従い、間道より馳せて奏す。前に奏せしこと実ならざるを以て罪を待つ。朝廷、桷の変を知るを以て、これを釈す。叛兵既に行を調うるや、乃ち道にて首悪二十余人を追殺し、一方以て安んず。建炎四年五月、復た福建路提刑を除せられ、尋いで疾を以て祠を乞い、江州太平観を主管す。

紹興三年、召されて金部員外郎と為り、郎中に昇る。時に事を言う者は率い細務を毛挙し、利害の大なるを略す。桷抗言して曰く、「今まさに専ら治道の本を講じ、政事を修めて以て敵国を攘うべし、細故を以て聖慮を勤うること平時の如くあるべからず」と。又言う、「刺史・県令は天下に満つれども、皆人を得ること能わず。監司を選び、その権を重くし、その任を久しくせんことを乞う」と。太常少卿を除す。又た攻守の二策を陳ぶ。人心を得、軍政を修むるに在り。

五年、直龍図閣・知泉州を除す。明年、両浙西路提刑に改む。郷県に三老を置き以て風俗を厚くせんことを乞い、凡そ宮室・車馬・衣服・器械を差等に定め、侈靡の禁を重くす。八年、福建路転運副使に遷る。

十年、復た召されて太常少卿と為る。適た徽宗御書の編類成る。詔して敷文閣に蔵す。桷以て為く、「旧制、龍図より徽猷に至るまで皆学士・待制を設け、雑圧は令に著す。龍図は朝請大夫の上に在り、徽猷に至っては承議郎の上に在り、各閣相去ること稍く遠し。議者はその倫ならざるを疑う。直敷文閣の者を徽猷に綴すれば諸閣と小異あり、これを除けば班列太だ卑し。参酌して中を取り、並びに一列と為し、必ずしも相遠からず、庶幾くば名位倫有り、陛下の祖宗の謨訓を厳奉するの意に仰称せん」と。又言う、「祫祭に太牢を用う、これ祀典の常なり。駐蹕の初め、未だ礼を備えず、ただ一羊を用う。紹興六年の詔旨を検会し、復た太牢を用いんことを乞う」と。

十一年、権礼部侍郎を除し、三品服を賜う。普安郡王出閣す。詔を奉じて吏部・太常寺と典故を討論す。桷等議して、国本未だ立たず、宜しくその礼を厚くして以て天下の望みを繫ぐべしと。乃ち『皇子出閣礼例』を以てこれを上る。或いは以て太重なりと為す。詔して、典故を詳らかに具せず、専ら己が意を任じ、姦を懐いて附麗すと。吏部尚書呉表臣・礼部尚書蘇符・郎官方雲翼・丁仲寧・太常属王普・蘇籍と並びに罷む。尋いで桷を以て江州太平観を提挙す。

十五年、襄陽府を知り、京西南路安撫使を充てる。襄・漢は兵火の余、民物凋瘵す。桷、朝に請う。今の戸数、承平時を視て才に二十の一なるに、賦は須らく尚お多し。重ねて蠲減を行わんことを乞う。明年、金・房の兵叛く。桷、将を遣わしてこれを平げて後に以て聞かしむ。漢水決溢し、廬舍を漂蕩す。躬ら兵民を率いて堤岸を捍築し、頼り以て虞無し。疾を以て祠を乞い、秘閣修撰・提挙江州太平興国宮を除す。二十四年、広州を知るに改め、広南東路経略安撫使を充てる。未だ至らずして卒す。年六十四。

桷は寛洪醞籍、誠を以て物に接し、而して栄利に恬たり。秦檜の事を用うるに当たり、永嘉を以て寓里と為す。士の夤縁攀附する者、顕要に躐登らざる無し。桷は立螭の旧を以て、人主に知られ、出入頓挫す。晩に奉常少卿より擢でて権小宗伯と為る。復た礼を議して阿らずして意に忤い、遽かに罷む。その節称すべき有り。自ら「無相居士」と号す。文集十六巻有り。子に汝楫・汝賢・汝諧。孫の峴、詞学を以て第に擢で、中書舎人・直学士院に官す。

李璆

李璆、字は西美、汴の人。政和の進士第に登り、陳州教授に調じ、入って国子博士と為り、出でて房州を知る。時に既に官茶を榷し、復た民に旧額を輸することを強う。貧にして出す所無く、繫がるる者数百人。璆至るや、即日尽くこれを釈す。

宣和三年、廷議将に燕を取らんとす。璆これを聞きて曰く、「百辟卿士、一たび倡えて共和す。国家の安危、その幾は是に在り」と。疏を上りて切に諫む。大略に謂う、「太祖は聖武を以て天下を得、将士は皆百戦の余、是を以て燕雲を取るに、宜しく力を為し易かるべし。然れども趙普の輩敢えてその決を賛する者無し。天下の大勢を識り、且つ民命を重んずる故なり。今、太平の業を承け、父老幸いに兵を識らず。燕雲の地を得ずと雖も、漢に何の闕けん」と。疏奏して省みず。燕既に平らぎて、英州清渓鎮を監するを責む。

明年、赦されて郎に還り、尋いで中書舎人を試す。建言す、元祐名臣の子孫、久しく廃錮せらる、宜しくこれを少しく寛うべしと。宦官譚稹、河北に出師し、功無きを以て廃す。将に復た進用せんとす。璆、行を書くことを肯せず。会に山東に盗起こり、州県制すること能わず、河北に至りて見糧無く、軍士洶洶たり。璆、十事を条奏し、大臣の意に忤い、罷む。紹興四年、集英殿修撰を以て吉州を知る。江西の兵素より剽悍なり。璆始めて視事す。相挺して乱を為す者有り。亟に首謀者を捕誅し、その余を撫循し、大いに恩信を布く。境内遂に安んず。

累遷して徽猷閣直学士・四川安撫制置使と為る。成都の旧城多く毀圮す。璆至るや、首に修築を命ず。俄かに水大いに至る。民頼り以て安んず。三江に堰有り、以て下り眉の田百万頃を灌すべし。久しく廃して修せず、田莱以て荒る。璆、部刺史を率いて合力して修復し、竟にその利を受く。眉の人これを感し、像を絵りて堰の所に祠す。間に歳饑に遭い、民徙る。倉を発して振活す。慮る無く百万家。蜀を治むるの政多く紀すべき有り。『清渓集』二十巻有り。

李朴

李朴、字は先之、虔の興国の人。紹聖元年の進士第に登り、臨江軍司法参軍に調じ、西京国子監教授に移り、程頤独り器許す。虔州教授に移る。嘗て隆祐太后瑤華宮に廃処すべからずと言える事を以て、詔有りて推鞫す。忌む者これを擠して死なさんと欲し、人をして危言を以てこれを動かす。朴泰然として懼色無し。旋って官を追い勒停す。会に赦あり、汀州司戸に注す。

徽宗が即位すると、翰林承旨の范純禮は自ら「四十六日間待罪したが、玉音を聞かず」と言い、王朴に「ある事は国に便であろうか、ある事は民に便であろうか」と尋ねた。朴は「承旨は知りながら言わず、父の風がない」と言うと、純禮は涙を流した。

右司諫の陳瓘が王朴を推薦し、召し出して対問せよとの旨があった。朴はまず「熙寧・元豊以来、政体が屡々変わり、始めは一二の大臣の学ぶところが異なるからであったが、後には円方の説を執って互いに排撃し、今治めなければ、必ず救い難きに至る」と言い、また「今の士大夫の学は己に求めず、ただ王氏(王安石)の説を聴くのみで、心術を敗壊するのはこれより大なるはない。王氏に拘らぬよう詔を下されば、英材が輩出しよう」と言った。蔡京は朴の鯁直を憎み、他の執政が三度官職を擬しても皆これを留め、再び虔州教授とした。また言事者を唆して朴が元祐の学術に与するとして師儒を領するに当たらずと論じさせ、罷めて肇慶府四会令とした。

奸民が邑の東の地に金宝が産すると言い、買撲の額を立てて田畑を破壊し、墟墓を発掘し、多額の賄賂を贈ってやっと止んだ。朴が着任すると、これを廃止するよう請うた。承事郎に改め、臨江軍清江県知事・広東路安撫司主管機宜文字となった。欽宗が東宮におられた時その名を聞き、即位すると著作郎に任じ、半年の間に五度遷って国子祭酒に至ったが、病のため着任できなかった。高宗が即位すると秘書監に任じ、急ぎ召されたが、到着せずに卒去した。六十五歳。宝文閣待制を追贈し、子孫二人に官職を与えた。

王朴は小官の時から、天下にその名を高くした。蔡京は強いて招き寄せようとし、親しい者に意を伝えさせて侍従の官を約束したが、朴は力強く拒んで会おうとせず、京は怒りを顔色に表したが、結局害することはなかった。中書侍郎の馮熙載が偶然にでも会おうとしたが、朴は笑って「蔡京に会えない者が、どうして馮熙載に偶然会えようか」と言った。官に在る所では必ず名声があった。広南では、帥の孫竢が文書だけを整えて勤王するのを止めさせ、常賦を発して辺境を助けるよう勧めた。漕使の鄭良が真臘を引き入れて安南を取る計略を退け、辺患を鎮めたので、人はその智を称えた。朴は自ら墓誌を書き「天を以て心と為し、道を以て体と為し、時を以て用と為す、それ已むべし」とした。平生を述べたものである。『章貢集』二十巻が世に行われた。

王庠

王庠、字は周彥、栄州の人。累世同居し、「義門王氏」と号した。

祖父の伯琪は、義の声をもって郷州に著しかった。塩井があり民に煎じ輸納させたため、多くは破産に至ったが、禄のある家のみが免れていた。伯琪は州に請うて官戸に均しくしたが、仕官者が誣告したため、恨みを抱いて没した。父の夢易は皇祐年間に及第し、父の志を成し遂げようと力め、州県に言っても聞かず、刺史に言い、三司に言い、三司が上奏したので、没収された三百五十五家が返還され、歳額三十万斤が免除された。かつて興州を摂理し、川茶の運送を改め、茶舗を設けて民の役を免じ、歳課もまた整った。部刺史はその議が己から出なかったことを恨み、他事を以て中傷し、三階を降格させ、罷免されて帰り卒した。母の向氏は、欽聖憲肅皇后の叔母である。

王庠は幼くして聡明で、七歳で文を綴ることができ、大人のようであった。十三歳の時、父の喪に服し、哀憤深切で、弟の王序に「父は直道によって排斥され、母は柩を撫でて誓い、我ら兄弟が成立し、父の官を追贈して初めて葬ることを許すと言われた。互いに励まそう。また制科は先君の遺意である、私は志がある」と言った。そこで戸を閉ざし、経史百家の書伝注の学を究め、師を求めて千里を尋ね、その旨帰を究めた。早くに范純仁・蘇轍・張商英に書を送り、皆中立不倚の論を述べ、呂陶・蘇轍は皆これを器重した。かつて『経説』を蘇軾に送り、「二帝三王の臣は皆道に志し、自得することが難しいからこそ、守ること堅固であった。孔・孟が『六経』を作ってから、この道には一定の論があるが、士の養うところはかえって古に及ばず、後世が『六経』を易しと見て、軽んじて行わないことを知る」と言った。軾は答えて「『経説』一篇、誠にこの言の通りである」と言った。

元祐年間、呂陶が賢良方正直言極諫科で王庠を推薦したが、庠は宋邦傑が学を成したのにまだ推薦されていないとして、彼を先に就かせようと推した。陶はこれを聞いて一層敬重した。間もなく紹聖の諸臣が政事を執り、制科が廃止されると、庠は嘆いて「命である。先訓に愧じず、これをもって己を行えば足りる」と言った。

崇寧壬午の年、能書に応じ、首位となった。京師に蝗害があり、庠は時政の得失について上書し、内外が蔽われて寇戎の患いが生じると論じた。張舜民はこれを見て、その危言に嘆息した。下第して直ちに帰り、親に仕えて志を養い、八年間挙に応じなかった。

大観庚寅の年、天下に舍法が行われ、州は再び王庠を詔に応じさせようとした。庠は「かつて母が五十二歳の時に侍養を求め、再び仕官を願わなかった。今母は六十歳、詔に奉ずるのは、本心であろうか」と言った。当時元祐の党禁が厳しく、庠は自ら「蘇軾・蘇轍・范純仁を知己とし、呂陶・王吉に推薦され、黄庭堅・張舜民・王鞏・任伯雨と交遊した。挙に応じて仕を求めるべからず、田里に屏居したい」と陳述した。弟の王序が朝官に昇り、父に官が追贈されたので、初めて葬ることができ、葬った後母が卒した。

喪が終わると再び八行で挙げられ、事は太学に下り、大司成が考定して天下第一とし、詔してその門を表彰した。朝廷はその屈せざるを知り、「処士」の号を賜った。間もなく潼川府教授に改め、出身及び章服を賜り、一日に四つの命が共に至ったが、ついに力辞して受けなかった。山林に処しながらも、唱酬賦詠は皆、君を愛し国を憂うる言であった。太后はその叔母を思い、官にしようとしたが、庠は弟・甥に譲り、また田を庶兄及び前母の姉に均しく分け与えた。王庠が卒すると、孝宗は「賢節」と諡した。

王序は、宣和年間に恩幸によって徽猷閣直学士に至った。王庠はその間に浮沈し、それぞれ大邸宅を建てたので、ある者はその晩節の隠操がやや衰えたと言った。

王衣

王衣、字は子裳、済南歴城の人。門蔭によって仕え、明法科に及第し、深州・冀州の法曹掾を歴任し、入って大理評事となり、寺正に昇った。林霊素が寵愛を受け、仏教を毀って私意を逞しくしようとした。襄州の僧杜徳宝が身体を毀損して香を焚いたが、役人は林霊素の意を窺い、捕らえて上奏した。衣はこれを調べて「律では自傷した者は杖刑のみである」と言った。霊素は内批を求め、風教を害した罪で流刑に処し、衣の官を停め、間もなく祠官とした。陝西都転運司主管文字・詳定一司勅令所刪定官・通判襲慶府・知濠州となったが、赴任せず、召されて刑部員外郎となった。

建炎初年、司勳郎中となり、大理少卿に遷る。三年、韓世忠が苗傅・劉正彥を捕らえ、捕虜を献上し、檻車ほぼ百両を先に大理獄に付し、ことごとく市中にさらし首にせんとす。衣上奏して曰く、「此の輩は律に照らして誅すべきなり、但しその中の婦女に雇い買い及び鹵掠して従わしめたる者あり」と。高宗は驚きて曰く、「卿の言は極めて是なり、朕はこのことを慮り及ばざりき」と。即ち詔して傅・正彥の妻子を除く外は皆これを釈せしむ。范瓊罪ありて大理寺に下り、衣詔を奉じてこれを鞫す。瓊服せず、衣は靖康の囲城中に上皇を逼遷し、呉革を擅殺し、張邦昌を迎え立てし事を責む。瓊死罪を称す。衣吏を顧みて曰く、「囚の詞服せり」と。遂に死を賜い、その親属将佐を釈す。

四年、大理卿に昇る。初め、帯御器械王球は龍徳宮都監たり、本宮の宝玉器玩を尽く盗み、事覚え、帝大いに怒り、これを誅せんとす。衣曰く、「球は固より殺すべし、然れどもその隠匿せざれば、則ち尽く敵の有と為り、何に従って復た国家に帰せんや」と。乃ちこれを寛す。

先に、百司の過失は寺に付してこれを劾す、三問に至り伏状を取る。劾せられたる者は対するを懼れ、敢えて弁ぜず。衣奏して曰く、「伏することと弁ずることとは二事なり、若し一切に伏を取らば、是れ以て威迫し、自ら直からしめざるなり、法の意に非ず。三問して未だ承らざる者は、弁ずるを聴かんことを乞う」と。これに従う。同詳定一司勈令、雑犯死罪四十七箇条を刪し、書成る。帝その議法の詳明なるを嘉す。

紹興元年、権刑部侍郎。二年、集英殿修撰を除し、祠を奉ず。既にして趙令畤詔に応じてこれを薦む、復た召されて刑部侍郎と為るも、言者に阻まれる。四年、家に卒す。衣は質直にして和易、法を執って阿らず、議者これを賢とす。

論じて曰く、向子諲は相家の子として臣節を克く飭し、陳規は文儒の臣として鎮守に声あり、流俗より抜け出たる者と謂うべし。季陵は事を言うに諱まず、二盧兄弟並び用いられ、材を以て称さる。陳桷は礼を守り変を知り、李璆は政を為すに恵あり、皆紀するに足る。李朴は権威に訹らず、王庠は志高くして晩節頗る衰え、王衣は明恕にして刑を用うるに刻ならず、或いは器識斉しからざるも、亦皆その職を曠らさざるか。