常同
常同、字は子正、邛州臨邛の人、紹聖の御史常安民の子である。政和八年の進士に及第した。靖康初め、大理司直に任ぜられたが、敵の難を理由に赴任せず、元帥府主管機宜文字に辟召され、まもなく太常博士に任ぜられた。
高宗が南渡すると、浙帥の機幕に辟召された。建炎四年、詔が下った。「故監察御史常安民・左司諫江公望は、節を抗して剛直であり、権臣の怒りに触れ、排斥されて死に至った。今その子孫は自ら振るわない。朕は甚だこれを憫れむ」。常同を行在に召し寄せると、到着すると大宗丞とした。
また奏上した。「古より禁旅の寄する所は、必ず参錯して相制す。漢には南北軍有り、周勃は南軍を用いて北軍に入り劉氏を安んじ、唐の李晟もまた神策軍を用いて京師を復せり、是れ其の効なり。今、国家の仗る所は、惟だ劉光世・韓世忠・張俊の三将の兵のみ。陛下且つ心腹の禁旅無く、緩急に備うべし。頃者の苗傅・劉正彦の変も亦た鑑とすべし」。殿中侍御史に任ぜられた。
時に韓世忠は鎮江に屯し、劉光世は建康に屯し、私忿の為め兵を交えんと欲す。同奏上す。「光世等は待遇の恩を思わず、驕狠にして気を尚び、忌憚する所無し。一旦急有らば、其れ能く相為に唇歯たらんや。是非を分かち、国典を正さんことを望む。昔、漢の諸侯王過ち有りと雖も、猶ほ師傅を責めたり。今、両軍の幕属は賛画無状なり。先ず黜責せんことを乞う」。上、章を両軍に示す。
呂頤浩が再び宰相となる。同、其の十事を論じ、且つ曰く「陛下未だ遽かに頤浩を罷めざるは、豈に其の復辟の功有るを以ての故にあらずや。臣謂う、功は衆人に出で、一頤浩の力に非ず。功有りと仮令せんも、宰相は天に代わりて物を理む、張九齢の所謂功を賞するに以てせざる者なり」。頤浩、宰相を罷めらる。知樞密院・宣撫川陝の張浚が師を喪い地を失うを論じ、遂に詔して浚を福州居住せしむ。同と辛炳は臺に在りて好悪を同じくし、上皆之を重んず。
金の使李永寿等入見す。同言う「先ず国威を振るえば、則ち和戦常に我に在り。若し一意に和を議せば、則ち和戦常に彼に在り」。上、因りて武備に語及びて曰く「今、兵を養うこと已に二十万」。同奏す「二十万の兵にして人を畏るるは未だ聞かず」。
偽斉の宿遷令張澤が二千人を率いて自ら抜けて来帰す。泗州守の徐宗誠之を納る。韓世忠以て聞かす。朝論、世忠に令して澤等を退けしめ、而して宗誠を械して行在に赴かしむ。同奏す「敵は和を議すと雖も、而して両界の人往来未だ嘗て禁ずる有らず。偽斉尚ほ能く帰受館を置き、賞を立てて吾が民を招く。今乃ち澤を退くれば、人心此より離る。況んや宗誠は土豪を起し、県官の財賦を用いず、兵を募り自ら養い、国の為めに障捍す。今、澤を受くるに因りて之を械し、以て士気を沮ぐは、策に非ず」。詔して来帰する者を淮南に処し、宗誠の罪を釈す。
四年、起居郎・中書舎人・史館修撰に任ぜられる。先に、同嘗て上疏して神宗・哲宗の二史を論じて曰く「章惇・蔡京・蔡卞の徒は積悪造謗し、痛く誣詆を加え、是非顛倒し、循って乱危を致す。紹聖の時に在りては、則ち章惇は王安石の『日録』私書を取りて『神宗実録』を改修し、崇寧の後に在りては、則ち蔡京は尽く『時政記』・『日暦』を焚毀し、私意を以て『哲宗実録』を修定す。其の間に載する所は、悉く一時の姦人の論に出で、後世に信ずべからず。恭しく惟うに、宣仁太后の保佑の徳は、豈に異辞を容れんや。而るに蔡確は天の功を貪り、以て己が力と為し、厚く聖后を誣え、恩を私門に収む。陛下即位の初め、嘗て詔を下して宣仁の社稷を安んずる大功を明らかにし、国史院に令して実を摭り刊修せしむ。又復悠悠たり。精しく史官を択び、先ず『哲宗実録』を修し、書成るを候ち、『神宗朱墨史』を取り考証修定せば、毀誉是非皆其の実を得ん」。上深く嘉納す。是に至り、同に修撰を命じ、且つ之に諭して曰く「是の除は卿の家世伝聞多く事実を得る故なり」。一日、事を奏す。上愀然として曰く「向に昭慈太后嘗て言う、宣仁には保佑の大功有り、哲宗自ら能く之を言う。正に宮中に宣仁に志を得ざる者有るを為め、因りて誣謗を生ず。其の事を弁白せんと欲すれば、須らく『実録』を重修し、保立の労効を具し、来世に昭示すべし。此れ朕の卿を選ぶ意なり」。同、得たる聖語を宣付して史館に付し、仍って『実録』の巻末に記さんことを乞う。
張俊、其の田産税役を復すことを乞う。一卒を令して書を瑞昌に持たしむるに、而して其の令郭彦参を凌悖す。彦参之を獄に繫ぐ。俊、朝に訴う。彦参を罷むるを命ず。同、並びに二命を封還す。俄に集英殿修撰・衢州知事に任ぜられるも、疾を以て辞し、徽猷閣待制・提挙江州太平観に任ぜられる。
七年の秋、礼部侍郎として召還された。数日も経たぬうちに、御史中丞に任じられた。車駕が建康より臨安に還幸する際、同は奏上して言うには、「還蹕の初め、淮河よりますます遠ざかります。重臣を遣わして両淮を巡按させ、人情の利病を尋ね、官吏の侵擾を察し、民に耕墾を許して租税を収めぬようにすべきです。数年後には田野が開け加わり、百姓が足りて国もまた足りるでしょう」と。そこで枢密使王庶を遣わして師を視察させ、同はこの上奏を王庶に付して、実施の可否を尋ね究めさせようと請うた。また言うには、「江浙は月樁銭に困窮し、民は生きるに聊かならず」と。上は数千緡を減じた。また言うには、「呉玠が興州・利州に師を屯し、西川の人力はすでに困窮している。呉玠は近年屯田を講じたことがある。その積穀が幾何か、輸送を減じたのが幾何か、趙開・李迨が相継いで都漕となり、先後の輸送が各々幾何か、制置司・漕司・帥司に条具させて奏聞させ、それから実情を按じて講究し、民力を紓すべきです」と。また言うには、「国家が兵を養うのは少なくないが、患いは偏って集まりながら力を同じくせず、自ら用いながら心を同じくしないことにある。今、韓世忠は楚州に、張俊は建康に、岳飛は江州に、呉玠は蜀にあり、隔たり遠く、情が相通じない。今、陛下が枢臣王庶を遣わして辺防を措置させるなら、王庶に将帥を会集させ、国体を諭して協心共に禦敵を議じさせ、常に諸軍を相接せしめて常山の蛇勢の如くし、一意に国家に思い、彼我を分かたず、緩急応援に、皆あらかじめ定まった術があるようにすべきです」と。詔して王庶に付し、諸将に示させた。
同は郡守を請い、顕謨閣直学士・湖州知州に任じられた。再び召されたが、祠官を請い、詔して江州太平観提挙とした。紹興二十年に卒した。
張致遠
紹興四年、監察御史として召された。未だ到らぬうちに、殿中侍御史に任じられた。時に江西帥の胡世将が和買絹の折納銭を増やすよう請うた。致遠は上疏して言うには、「絹を銭に折納するのは本来民力を少し寛げようとするものであるが、旧より半ば増やすのは、民の急に乗じてその徴斂を厚くしようとするものである」と。これに従った。
金人と劉豫が分道して侵入した。宰相趙鼎が高宗の親征を勧めたが、朝士はなお疑いを持ち、趙鼎に審らかに処するよう言った。致遠が入対し、ただ一人その決断を賛成した。侍御史に遷った。言うには、「財を聚め兵を養うのは、皆民力より出る。財を理めるのが善い者は、邦本を固くすべきである。福建塩の専売を罷め、三司使・副を精選し、常平・茶塩を一官に合せ、経常を計り、量入制出させ、先ず省節を務め、次いで経理に及ぶよう請う」と。詔して戸部に講究させた。
五年、戸部侍郎に任じられ、吏部侍郎に進み、まもなくまた戸部侍郎となった。言うには、「陛下が富国強兵を欲し、天下に大いに為さんとされるなら、大臣に詔して力を省節に務めさせ、僭侈を明らかに禁じ、宮禁より始め、朝廷より始めるよう願います。定員で減ずべきは減じ、司属で併せられるものは併せましょう。州県に妄用なからしめ、その余りを監司に帰せしめ、監司に妄用なからしめ、その余りを朝廷に帰せしめ、朝廷に横費なからしめ、日積月聚して、ただ軍需を慮れば、中興の業は致せましょう」と。給事中に任じられた。
まもなく老母のために外任を乞い、顕謨閣待制・台州知州となった。朝廷は海寇の鄭広が未だ平定されぬため、福州知州に改めた。六年八月、鄭広らが降った。致遠は四百人を選んで留め、城外に営を置き、余りは帰業させた。また鄭広を遣わして他郡の諸盗を討たせ、数ヶ月で悉く平定した。
八年正月、再び給事中として召された。出て広州知州となった。まもなく顕謨閣待制として致仕した。十七年に卒した。享年五十八。
致遠は鯁亮で学識があり、台省・侍従を歴任し、言論風旨は皆卓然として見るべきものがあった。趙鼎はかつてその客に謂って言うには、「鼎が再び相となって以来、政府を除く外、従官たる張致遠・常同・胡寅・張九成・潘良貴・呂本忠・魏矼は皆士望があり、他日その守るところは当に変じないであろう」と。識者は趙鼎が人を知ると言った。
薛徽言
陳淵
陳淵、字は知黙、南剣州沙県の人である。紹興五年、給事中廖剛・中書舎人胡寅・朱震・権戸部侍郎張致遠が言うには、「淵は陳瓘の諸孫にして文あり学あり、陳瓘在世の時より器重甚だしく、垂老流落し、材を負いて未だ試みられず」と。枢密院編修官に充てられた。時に李綱が前宰相として江南西路安撫制置大使となり、制置司機宜文字に辟召した。
七年、詔して侍従に直言極諫の士を挙げさせた。胡安国が陳淵を応じた。召対して官を改め、進士出身を賜った。九年、監察御史に任じられ、まもなく右正言に遷った。入対して論じて言うには、「比年以来、恩恵は甚だ濫れ、賞給は甚だ厚く、頒賚賜与の費は甚だ過ぎる。用いる所既に多く、而して入る所実に寡ない。これ臣の甚だ懼れる所なり。『周官』に『唯だ王及び后・世子は会せず』とあり、説く者は有司の法をもってこれを治むるを得ずと謂うが、周公が法を作り後世人主の侈用の端を開くものではない。臣は謂う、冢宰は九式をもって財用を均節し、有司は会せずとも、冢宰は式を越えてこれを論ずるを得る。若し事々に式に依れば、会せずとも猶会するが如し。臣は願わくば陛下、凡そ賜賚するに、法に無くして例に疑いあるものは、三省これを共議し得、戸部これを執奏し得て、則ち前日の弊は止みましょう」と。
淵が面会して対し、程頤と王安石の学術の同異を論ずるに因り、上曰く、「楊時の学は能く孔・孟を宗とし、其の『三経義辨』は甚だ理に当たる」と。淵曰く、「楊時は初め安石を宗とし、後に程顥に師事して之を得て、乃ち其の非を悟る」と。上曰く、「『三経義解』を以て之を観るに、安石の穿鑿を見るに具わる」と。淵曰く、「穿鑿の過ちは尚ほ小なり、道の大原に至りては、安石は一も差さざる無し。其の学を推行して、遂に大害と為る」と。上曰く、「差とは何を謂うか」と。淵曰く、「聖学の伝うる所は唯だ『論語』、『孟子』、『中庸』有り、『論語』は仁を主とし、『中庸』は誠を主とし、『孟子』は性を主とす。安石は皆其の原を暗しむ。仁道は至大なり、『論語』は問に随い答に随う、唯だ樊遅の問いに、始めて対えて曰く『人を愛す』と。愛は特仁の一端なり、而して安石は遂に愛を以て仁と為す。其の『中庸』を言うは、則ち中庸は以て人に接し、高明は以て己を処すと謂う。『孟子』七篇は、専ら性善を発明す、而して安石は揚雄の善悪混の言を取る。無善無悪に至りては、又仏に溺る。其の性を失うこと遠し」と。
鄭億年が資政殿学士・奉朝請に復し、内殿に於いて召見せらる。淵言う、「億年は故相居中の子なり、従官と為り雖も、而して賊に従うの醜有り、其の職名を寖むるを乞う」と。報いず。億年は右僕射秦檜の親党なり、是に由りて檜之を怒る。秘書少監兼崇政殿説書を除すも、祖の名を以て辞す。宗正少卿に改むるも、何鑄の論に以て罷む。台州崇道観を主管す。十五年、卒す。
魏矼
臨安火災有り、延焼して数千家に及び、諛を献ずる者災異に非ずと謂う。矼言う、「『春秋』定・哀の間数え火災を言う、説く者孔子に徳有り而して魯用うる能わず、季孫に悪有り而して去る能わざるを謂い、故に天の之に咎を降すと。今朝廷の上に姦慝邪佞の人未だ逐わざるか。百執事の間に朋附奔競の徒未だ汰わざるか。搢紳に公忠宿望及び道を抱き芸を懐き、猷有り守有るの士未だ用いられざるか。位に在る人は、人己を軋むを畏れ、方に賢を蔽い、未だ誠を推し尽くし公にし、旁ら俊乂を招くを聞かず。宜しく定・哀の失を鑑み、邪正を甄別し、亟に進用を加うべし」と。
内侍李𠪙韓世忠の家に飲み、刃を以て弓匠を傷つく。事廷尉に下る。矼言う、「内侍は宮禁を出入し、而して狼戾杯酒より発し、乃ち此の如くなるに至る、豈に過ち之を為すを慮れざるを得んや。建炎の詔令は内侍の主兵官に交通し及び朝政に預るを禁じ、違う者は軍法を以て処す。乞う其の禁を申厳し、以て履霜の戒を謹ましむ」と。是に於いて𠪙杖脊に処し瓊州に配す。侍御史に遷り、矼に五品服を賜う。
時朱勝非独り相と為る。矼論ず、「勝非は建明する所無く、唯だ今日一二の細故を進呈し、明日一二の故人を啓擬するを知るのみ。而して機務決せず、軍政修まらず、除授は私を挟み、賢士は解体す」と。又其の五罪を疏し、詔して勝非に余服を執らしむ。又言う、「国家命令の出づるは、必ず先ず黄を録す。其れ両省を過ぐれば、則ち給・舍封駁を以て得、其れ所属に下れば、則ち台・諫論列を以て得。此れ万世の良法なり。窃に聞く近時三省・枢密院、間に黄を録せずして直に指揮を降す者有り、亦た黄を画すと雖も六部に下さざる者有りと。望むらくは並びに旧制に依れ」と。
劉豫金人を挟み入寇す。宰相趙鼎親征の議を決す。矼扈従を請い、因りて命じて江上の諸軍を督せしむ。時劉光世・韓世忠・張俊の三大将権均しく勢敵し、又私隙を懐き、肯て心を協せず。矼首めて光世の軍中に至り、之に諭して曰く、「賊衆我寡、合力すら猶お支え難きを懼る、況んや軍自ら心を為し、将何を以てか戦わん。諸公が計りに為りては、当に国の為に恥を雪ぎ、私隙を釈き去り、独り国に利有るのみならず、亦た将に其の身に利有らんことを思うべし」と。光世之を許し、遂に其れ二帥に書を貽し、他無きを示すを勧む。二帥復書して交歓す。光世書を以て聞す。此に由りて衆戦屡捷し、軍声大いに振う。
上平江に至る。魏良臣・王倫金に使いして回り、約して再び使を遣わし、且つ恐廹の語有り。矼「講和」の二字を罷め、諸将を飭厲し、力を図り攻取すべしと請う。会うに金屡敗して遁れ去り、使も亦た遣わさず。秘書少監に遷る。
矼職に在ること七箇月、事を論ずる凡そ百二十余章。尋いで補外を乞い、直龍図閣・知泉州を除すも、親老を以て辞し、知建州と為る。尋いで召還さる。祠を丐うも允さず、権吏部侍郎を除す。
八年、金使境に入る。矼を命じて館伴使を充てしむ。矼言う、「頃に御史を任じ、嘗て和議の非を論ず、今専論するに難し」と。秦檜矼を召して都堂に至らしめ、其の和を主とせざる所以の意を問う。矼敵情の保ち難きを具陳す。檜之に諭して曰く、「公は智を以て敵を料い、檜は誠を以て敵を待つ」と。矼曰く、「相公固より誠を以て敵を待つ、第だ恐らくは敵人は誠を以て相公を待たざらんことを」と。檜屈する能わず、乃ち改めて呉表臣を命ず。
詔す、金使境に入り、己を屈して就和せんと欲す。侍従・台諫に令して条奏来上せしむ。矼言う、「臣素より敵情に熟せず、使人の需むる所の礼何なるかを知らず、陛下の所以己を屈する所の事何事なるかを知らず。賊豫は金人の立てる所、之が為に北面す。陛下祖宗の基業を承け、天命の帰する所、何ぞ金国に藉ること有らんや。伝聞するに奉使の帰るを、金人悉く我が欲する所に従い、必ず難行の礼無く、以て重く我を困らすと謂う。陛下何ぞ過ち自ら侮りを取らんや。もし或いは従う可からざるの事有らば、儻し軽く之を許さば、他時に反って其の制せらるる所と為り、号令廃置将に其の手より出ず。一に従わざる有らば、便ち兵隙を生ず。予奪は彼に在り、信を失うは我に在り。計の得るに非ざるなり。仮令空地を我に還すと雖も、之を如何にして保つ可けん。兵を寝めんと欲すと雖も、之を如何にして寝む可けん。民を息まんと欲すと雖も、之を如何にして息ます可けん。計の得るに非ざるなり。陛下既に親の為に少しく屈せんと欲す、更に願わくは天下治乱の機を審思し、之を群情に酌み、其の経久し行う可き者を択びて之を行い、其の従う可からざる者は、国人の意を以て之を拒ぎ、庶幾くは後悔無からん。所謂国人とは、万民・三軍のみ。搢紳は万民と一体、大将は三軍と一体なり。今陛下搢紳に詢う、民情大いに見る可し。望むらくは速やかに大将を召し、各近上の統制官数人を帯びて同来せしめ、詳しく訪問を加え、以て他日の意外の憂いを塞がん。大将以て不可と為せば、則ち其の気益々堅く、何ぞ此の敵を憂えん」と。
間もなく父の喪に服す。喪が明けて、集英殿修撰・宣州知州に任ぜられたが、就任せず。改めて太平興国宮提挙となり、これより祠官を奉じ、凡そ四任。母の喪中に卒す。
潘良貴
潘良貴、字は子賤、婺州金華の人。上舎生として及第し辟雍博士となり、秘書郎に遷る。時に宰相蔡京とその子の蔡攸が爵禄を以て知名の士を釣らんとし、良貴は屹然として特立し、親故が数度にわたり蔡京の意を伝えて交わりを願うも、良貴は正色して謝絶す。主客郎中に除され、間もなく淮南東路常平提挙となる。
高宗即位し、左司諫に召す。既に謁見し、偽党を誅し、叛命の者を国門にて刃を受けしめ、即ち敵人の宋鼎を軽んじて議するを得ざらしめんことを請う。又た宗室の賢者を山東・河北に封じ、以て国体を壮んにし、維揚に巡幸し、兵威を養い以て恢復を図らんことを乞う。黄潜善・汪伯彦其の言を悪み、工部に改除す。良貴は其の言を得ざるを以て、去らんことを求め、明道宮主管となる。
数年を越え、荊湖南路刑獄提点に除され、江州太平観主管、考功郎に除され、左司に遷る。宰相呂頤浩従容として良貴に謂いて曰く、「旦夕に相い引いて両省に入れん」と。良貴正色して対えて曰く、「親老にして方に外補を乞わんとす、両省の官は良貴の為すべきに非ざるなり」と。退きて人に語りて曰く、「宰相は一世の人才を進退し、以て賢と為すは、自ら擢用すべし、何ぞ手を握り密語し、先ず私恩を示さん。若し士大夫其の牢籠を受け、又た何を以て朝に立たん」と。即日に外補を乞い、直龍図閣を以て厳州知州となる。官に到ること両月、祠官を請い、亳州明道宮主管となる。起用されて中書舎人となる。
時に戸部侍郎向子諲入見し、言語煩褻なり。良貴は故に子諲と善し、是の日起居を摂し、殿上に立ち、径ち榻前に至り厲声に曰く、「子諲は無益の談を以て久しく聖聴を煩わす」と。子諲退かんとす、高宗顧みて良貴に曰く、「是れ朕の之を問うなり」と。又た子諲に諭して且く款語せしむ。子諲復た語り、久しく止まず、良貴之を叱して退かしむこと再びす。高宗色変じ、閤門併せて之を弾劾す、ここに於て二人倶に待罪す。旨有りて良貴は罪を放たれ、子諲は待つべき罪無し。
良貴去らんことを求め、集英殿修撰を以て江州太平観提挙となる。起用されて明州知州となる。一年、徽猷閣待制・亳州明道宮提挙に除される。既に帰り、出でざること十年。李光罪を得、良貴嘗て通書せしに坐し、三官を降す。卒す、年五十七。
良貴剛介清苦、壮老一節。博士たりし時、王黼・張邦昌倶に女を以て妻せんと欲す、之を拒む。晩年家居貧甚だし、秦檜諷して郡を求めしめんとす、良貴曰く、「従臣の除授は辞免を合わすべし、今之を宰相に求め、之を君父に辞すは、良貴敢えて為さざるなり」と。其の諫疏多くは稿を焚き、僅かに雑著十五巻を存す、新安の朱熹之に序す。
呂本中
呂本中、字は居仁、元祐の宰相公著の曾孫、好問の子。幼くして敏悟、公著奇愛す。公著薨じ、宣仁太后及び哲宗臨奠し、諸童稚庭下に立つ、宣仁独り本中を進め、其の頭を摩して曰く、「親に孝、君に忠、児勉めよ」と。
祖父希哲は程頤に師事し、本中聞見習熟す。少長し、楊時・游酢・尹焞に従い遊び、三家或いは疑異有るも、未だ嘗て苟も同ぜず。公著の遺表の恩を以て、承務郎を授かる。紹聖年間、党事起こり、公著追貶せられ、本中之に坐す。
元符年中、済陰主簿・秦州士曹掾を主とし、大名府帥司幹官に辟さる。宣和六年、枢密院編修官に除される。靖康改元、職方員外郎に遷り、父の嫌に因り祠官を奉ず。父の喪に服し、服除け、祠部員外郎に召され、疾を以て告げ去る。再び秘閣に直し、崇道観主管となる。
紹興六年、行在に赴くことを召され、特賜進士出身を賜い、起居舎人兼権中書舎人に擢でる。内侍李琮料歴を失い、上は潜邸の旧人を以て、保任を用いず特に之を与う。本中言う、「若し異恩を以て別に給するは、所謂『宮中府中当に一体と為すべし』と謂うに非ざるなり」と。上見て繳還するを、甚だ悦び、宰臣に諭して曰く、「自今見る所有らば、第に之を言え」と。
階州草場監苗亙贓に以て敗れ、詔有りて黥に従わんとす、本中奏す、「近年官吏贓を犯すもの、多くは黥籍に至る、然れども四方の遠き、或いは枉濫有らん、何を由りてか尽く知らん。異時に其の非辜を察し、雖も抆拭せんと欲すと雖も、其れ得べけんや。若し祖宗以来此の刑嘗て用いられば、則ち紹聖の権臣国政を当るの時、士大夫遺類無きこと久しからん。願わくは常罰を酌み処し、姦臣をして以て後世に藉口することを得せしむるなかれ」と。之に従う。
七年、上(高宗)が建康に行幸されたとき、本中は上奏して言った。「当今の計は、必ず先ず恢復の事業を為し、人材を求め、民の隠れた苦しみを恤れ、法度を講明し、刑政を詳審にし、直言の路を開き、人々をして情を尽くすことを得せしむるに在り。然る後に兵を練り帥を謀り、上流に師を増し、淮甸を固守して、江南に先ず動かし難き勢い有らしめ、彼に隙有るを伺い、一挙にして克つべし。若し徒らに恢復の志有りて、其の策無くんば、邦本未だ強からず、他患を生ずるを恐る。今、江南・両浙の科須日々に繁く、閭里病みを告ぐ。倘や水旱乏絶有らば、姦宄窃発し、未だ朝廷以て何をか之に待つや審らかならず。近く臣庶の師を興して罪を問わんと勧むる者は、数うるに勝えず。其の辞を観るに固より甚だ順なりと雖も、其の実を考うるに行うべからず。大抵、言を献ずる人は、朝廷の利害と絶えて相侔わず。言酬いられず、事済まざれば、則ち身を脱して去る。朝廷の施設失当すれば、誰か其の咎を任んや。鷙鳥将に撃たんとすれば、必ず其の形を匿す。今、朝廷進取に於いて毫末の実未だ有らず。下す所の詔命、已に賊境に伝わり、之をして以て備えを為すを得しむ。策に非ざるなり。」また上奏して言った。「江左の形勢、九江・鄂渚・荊南諸路の如きは、当に重兵を宿し、重臣を以て臨むべし。呉の時に西陵・建平を謂いて、国の藩表と為す。願わくは守帥を精択し、以て緩急に待たしめよ。然らば則ち江南自守の計備われり。」
内侍の鄭諶が致仕を落とし、兵官を得んとした。本中が言うには、「陛下江滸に進臨せられ、将に為す有らんとす。今、賢士大夫未だ顕用せられず、巖穴の幽隠未だ招致せられず。乃ち諶を起して統兵の任に就かしめんとは、何ぞや。」命は遂に止む。疾を引いて祠官を乞い、直龍図閣・台州知事となるも就かず、太平観を主管す。召されて太常少卿と為る。
八年二月、中書舎人に遷る。三月、侍講を兼ぬ。六月、権直学士院を兼ぬ。金の使いが和を通ずるに当たり、有司が行人の供応を議す。本中言う、「使いの来るは、正に儉約を以て示すべきなり。客館の芻粟若し務めて充悦せば、適に戎心を啓くのみ。且つ成敗の大計は、初め此れに在らず。吾が治政の得失、兵財の強弱に在り。願わくは有司に詔し、乏しき無からしむるを令せよ。」
初め、本中は秦檜と共に郎官たりしとき、相得ること甚だ歓ばしかりき。檜既に相と為り、私に引用せんとす。本中は除目を封じて還す。檜其の書行を勧むるも、遂に従わず。趙鼎は素より元祐の学を主とし、本中を公著の後と謂い、又范沖の薦むる所なれば、故に深く相知る。会に『哲宗実録』成る。鼎は僕射に遷る。本中が制を草すに、曰く「晋・楚の成を合するは、王を尊びて覇を賤しむるに若かず。牛李の党を散ずるは、是を明かにして非を去るに如かず。」檜大いに怒り、上に言う「本中は鼎の風旨を受け、和議成らざるを伺い、脱身の計を為す。」と。御史蕭振に風して之を劾罷せしむ。太平観を提挙し、卒す。学者「東萊先生」と称し、諡して「文清」を賜う。
詩二十巻有り、黄庭堅・陳師道の句法を得たり。『春秋解』一十巻、『童蒙訓』三巻、『師友淵源録』五巻、世に行わる。
論じて曰く、『伝』に「君子有らざれば、其れ何を以てか国たる能わん。」と有り。紹興の世、呂頤浩・秦檜相位に在り。君子有りと雖も、豈に其の志を尽くすことを得んや。宋の復た中原を図る能わざるは、天命と曰うと雖も、豈に人事に非ざらんや。若し常同・張致遠・薛徽言・陳淵・魏矼・潘良貴・呂本中の如きは、其の才猷皆以て邦を経るべく、其の風節皆以て世を厲すべし。然れども皆論議合わず、祠官を奉じて国を去る。永く慨むべし。