宋史

列傳第一百三十五 常同 張致遠 薛徽言 陳淵 魏矼 潘良貴 呂本中

列傳第一百三十五 常同 張致遠 薛徽言 陳淵 魏矼 潘良貴 呂本中

常同

原文常同

常同、字は子正、邛州臨邛の人、紹聖の御史常安民の子である。政和八年の進士に及第した。靖康初め、大理司直に任ぜられたが、敵の難を理由に赴任せず、元帥府主管機宜文字に辟召され、まもなく太常博士に任ぜられた。

原文常同,字子正,邛州臨邛人,紹聖御史安民之子也。登政和八年進士第。靖康初,除大理司直,以敵難不赴,辟元帥府主管機宜文字,尋除太常博士。

高宗が南渡すると、浙帥の機幕に辟召された。建炎四年、詔が下った。「故監察御史常安民・左司諫江公望は、節を抗して剛直であり、権臣の怒りに触れ、排斥されて死に至った。今その子孫は自ら振るわない。朕は甚だこれを憫れむ」。常同を行在に召し寄せると、到着すると大宗丞とした。

原文高宗南渡,辟浙帥機幕。建炎四年,詔:「故監察御史常安民、左司諫江公望,抗節剛直,觸怒權臣,擯斥至死。今其子孫不能自振,朕甚憫之。」召同至行在,至則為大宗丞。

紹興元年、郡守を請い、柳州を得た。三年、召還され、まず朋党の禍を論じた。「元豊の新法が行われて以来、初めて党派が分かれ、邪正が相攻すること五十年。章惇が紹聖の初めに唱え、蔡京が崇寧の後に和し、元祐の臣僚は流逐貶死し、上下が蔽蒙されて、夷虜の禍を養い成した。今、国歩は艱難であるが、分朋して交を締め、公に背き党に死する者は、固より自若たり。恩は私門に帰し、朝廷の尊きを知らず、私怨に重く報い、寧ろ公議の顧みる所を復せんとする。臣は思うに、朋党を破らんと欲すれば、先ず是非を明らかにし、是非を明らかにせんと欲すれば、先ず邪正を弁ぜよ。然らば則ち公道開けて奸邪息む」。上曰く「朋党もまた破り難し」。同対えて曰く「朋党の結ぶは、蓋し邪正分かたざるに縁る。但だ其の言行の実を観、其の朋附の私を察すれば、則ち邪正分かれて朋党破る」。上曰く「君子小人皆党有り」。同また対えて曰く「君子の党は、心を協せて国を済わす。小人の党は、私を挟みて公を害す。党と為すは則ち同じく、而して党と為す所以は則ち異なり。且つ元祐の臣僚の如きは、中に讒謗に遭い、竄殛流死し、而して後禍乱成る。今朝に在るの士は、猶ほ元祐の政は行うべからず、元祐の子孫は用うべからずと謂う」。上曰く「此の論有りと聞く」。同対えて「禍乱未だ成らざる時、元祐の臣僚は固より以て自ら明らかにする能わず。今、是非定まれりと謂うべし。尚ほ猶ほ此の如きは、蓋し今日の士大夫は猶ほ蔡京・王黼等の傾邪不正の論を宗とするなり。朋党此の如くんば、公論何れのよりか出でん。願わくは陛下、始終善類を主張し、小人の惑わす所と為る勿れ」。

原文紹興元年,乞郡,得柳州。三年,召還,首論朋黨之禍:「自元豐新法之行,始分黨與,邪正相攻五十年。章惇唱於紹聖之初,蔡京和于崇寧之後,元祐臣僚,竄逐貶死,上下蔽蒙,豢成夷虜之禍。今國步艱難,而分朋締交、背公死黨者,固自若也。恩歸私門,不知朝廷之尊;重報私怨,寧復公議之顧。臣以為欲破朋黨,先明是非,欲明是非,先辨邪正,則公道開而奸邪息矣。」上曰:「朋黨亦難破。」同對:「朋黨之結,蓋緣邪正不分,但觀其言行之實,察其朋附之私,則邪正分而朋黨破矣。」上曰:「君子小人皆有黨。」同又對曰:「君子之黨,協心濟國;小人之黨,挾私害公。為黨則同,而所以為黨則異。且如元祐臣僚,中遭讒謗,竄殛流死,而後禍亂成。今在朝之士,猶謂元祐之政不可行,元祐子孫不可用。」上曰:「聞有此論。」同對以:「禍亂未成,元祐臣僚固不能以自明。今可謂是非定矣,尚猶如此,蓋今日士大夫猶宗京、黼等傾邪不正之論。朋黨如此,公論何自而出?願陛下始終主張善類,勿為小人所惑。」

また奏上した。「古より禁旅の寄する所は、必ず参錯して相制す。漢には南北軍有り、周勃は南軍を用いて北軍に入り劉氏を安んじ、唐の李晟もまた神策軍を用いて京師を復せり、是れ其の効なり。今、国家の仗る所は、惟だ劉光世・韓世忠・張俊の三将の兵のみ。陛下且つ心腹の禁旅無く、緩急に備うべし。頃者の苗傅・劉正彦の変も亦た鑑とすべし」。殿中侍御史に任ぜられた。

原文又奏:「自古禁旅所寄,必參錯相制。漢有南北軍,周勃用南軍入北軍以安劉氏,唐李晟亦用神策軍以復京師,是其效也。今國家所仗,惟劉光世、韓世忠、張俊三將之兵耳。陛下且無心腹禁旅,可備緩急,頃者苗、劉之變,亦可鑒矣。」除殿中侍御史。

時に韓世忠は鎮江に屯し、劉光世は建康に屯し、私忿の為め兵を交えんと欲す。同奏上す。「光世等は待遇の恩を思わず、驕狠にして気を尚び、忌憚する所無し。一旦急有らば、其れ能く相為に唇歯たらんや。是非を分かち、国典を正さんことを望む。昔、漢の諸侯王過ち有りと雖も、猶ほ師傅を責めたり。今、両軍の幕属は賛画無状なり。先ず黜責せんことを乞う」。上、章を両軍に示す。

原文時韓世忠屯鎮江,劉光世屯建康,以私忿欲交兵。同奏:「光世等不思待遇之恩,而驕狠尚氣,無所忌憚,一旦有急,其能相為唇齒乎?望分是非,正國典。昔漢諸侯王有過,猶責師傅,今兩軍幕屬贊畫無狀,乞先黜責。」上以章示兩軍。

呂頤浩が再び宰相となる。同、其の十事を論じ、且つ曰く「陛下未だ遽かに頤浩を罷めざるは、豈に其の復辟の功有るを以ての故にあらずや。臣謂う、功は衆人に出で、一頤浩の力に非ず。功有りと仮令せんも、宰相は天に代わりて物を理む、張九齢の所謂功を賞するに以てせざる者なり」。頤浩、宰相を罷めらる。知樞密院・宣撫川陝の張浚が師を喪い地を失うを論じ、遂に詔して浚を福州居住せしむ。同と辛炳は臺に在りて好悪を同じくし、上皆之を重んず。

原文呂頤浩再相,同論其十事,且曰:「陛下未欲遽罷頤浩者,豈非以其有復辟之功乎?臣謂功出眾人,非一頤浩之力。縱使有功,宰相代天理物,張九齡所謂不以賞功者也。」頤浩罷相。論知樞密院、宣撫川陝張浚喪師失地,遂詔浚福州居住。同與辛炳在臺同好惡,上皆重之。

金の使李永寿等入見す。同言う「先ず国威を振るえば、則ち和戦常に我に在り。若し一意に和を議せば、則ち和戦常に彼に在り」。上、因りて武備に語及びて曰く「今、兵を養うこと已に二十万」。同奏す「二十万の兵にして人を畏るるは未だ聞かず」。

原文金使李永壽等入見,同言:「先振國威,則和戰常在我;若一意議和,則和戰常在彼。」上因語及武備曰:「今養兵已二十萬。」同奏:「未聞二十萬兵而畏人者也。」

偽斉の宿遷令張澤が二千人を率いて自ら抜けて来帰す。泗州守の徐宗誠之を納る。韓世忠以て聞かす。朝論、世忠に令して澤等を退けしめ、而して宗誠を械して行在に赴かしむ。同奏す「敵は和を議すと雖も、而して両界の人往来未だ嘗て禁ずる有らず。偽斉尚ほ能く帰受館を置き、賞を立てて吾が民を招く。今乃ち澤を退くれば、人心此より離る。況んや宗誠は土豪を起し、県官の財賦を用いず、兵を募り自ら養い、国の為めに障捍す。今、澤を受くるに因りて之を械し、以て士気を沮ぐは、策に非ず」。詔して来帰する者を淮南に処し、宗誠の罪を釈す。

原文偽齊宿遷令張澤以二千人自拔來歸,泗州守徐宗誠納之,韓世忠以聞。朝論令世忠卻澤等,而械宗誠赴行在。同奏:「敵雖議和,而兩界人往來未嘗有禁,偽齊尚能置歸受館,立賞以招吾民,今乃卻澤,人心自此離矣。況宗誠起土豪,不用縣官財賦,募兵自養,為國障捍,今因受澤而械之,以沮士氣,非策也。」詔處來歸者於淮南,釋宗誠罪。

四年、起居郎・中書舎人・史館修撰に任ぜられる。先に、同嘗て上疏して神宗・哲宗の二史を論じて曰く「章惇・蔡京・蔡卞の徒は積悪造謗し、痛く誣詆を加え、是非顛倒し、循って乱危を致す。紹聖の時に在りては、則ち章惇は王安石の『日録』私書を取りて『神宗実録』を改修し、崇寧の後に在りては、則ち蔡京は尽く『時政記』・『日暦』を焚毀し、私意を以て『哲宗実録』を修定す。其の間に載する所は、悉く一時の姦人の論に出で、後世に信ずべからず。恭しく惟うに、宣仁太后の保佑の徳は、豈に異辞を容れんや。而るに蔡確は天の功を貪り、以て己が力と為し、厚く聖后を誣え、恩を私門に収む。陛下即位の初め、嘗て詔を下して宣仁の社稷を安んずる大功を明らかにし、国史院に令して実を摭り刊修せしむ。又復悠悠たり。精しく史官を択び、先ず『哲宗実録』を修し、書成るを候ち、『神宗朱墨史』を取り考証修定せば、毀誉是非皆其の実を得ん」。上深く嘉納す。是に至り、同に修撰を命じ、且つ之に諭して曰く「是の除は卿の家世伝聞多く事実を得る故なり」。一日、事を奏す。上愀然として曰く「向に昭慈太后嘗て言う、宣仁には保佑の大功有り、哲宗自ら能く之を言う。正に宮中に宣仁に志を得ざる者有るを為め、因りて誣謗を生ず。其の事を弁白せんと欲すれば、須らく『実録』を重修し、保立の労効を具し、来世に昭示すべし。此れ朕の卿を選ぶ意なり」。同、得たる聖語を宣付して史館に付し、仍って『実録』の巻末に記さんことを乞う。

原文四年,除起居郎、中書舍人、史館修撰。先是,同嘗上疏論神、哲二史曰:「章惇、蔡京、蔡卞之徒積惡造謗,痛加誣詆,是非顛倒,循致亂危。在紹聖時,則章惇取王安石《日錄》私書改修《神宗實錄》;在崇寧後,則蔡京盡焚毀《時政記》、《日曆》,以私意修定《哲宗實錄》。其間所載,悉出一時姦人之論,不可信於後世。恭惟宣仁保佑之德,豈容異辭,而蔡確貪天之功,以為己力,厚誣聖后,收恩私門。陛下即位之初,嘗下詔明宣仁安社稷大功,令國史院摭實刊修,又復悠悠。望精擇史官,先修《哲宗實錄》,候書成,取《神宗朱墨史》考證修定,庶毀譽是非皆得其實。」上深嘉納。至是,命同修撰,且諭之曰:「是除以卿家世傳聞多得事實故也。」一日奏事,上愀然曰:「向昭慈嘗言,宣仁有保佑大功,哲宗自能言之,正為宮中有不得志於宣仁者,因生誣謗。欲辨白其事,須重修《實錄》,具以保立勞效,昭示來世,此朕選卿意也。」同乞以所得聖語宣付史館,仍記於《實錄》卷末。

張俊、其の田産税役を復すことを乞う。一卒を令して書を瑞昌に持たしむるに、而して其の令郭彦参を凌悖す。彦参之を獄に繫ぐ。俊、朝に訴う。彦参を罷むるを命ず。同、並びに二命を封還す。俄に集英殿修撰・衢州知事に任ぜられるも、疾を以て辞し、徽猷閣待制・提挙江州太平観に任ぜられる。

原文張俊乞復其田產稅役,令一卒持書瑞昌,而淩悖其令郭彥參,彥參繫之獄。俊訴於朝,命罷彥參,同並封還二命。俄除集英殿修撰、知衢州,以疾辭,除徽猷閣待制、提舉江州太平觀。

七年の秋、礼部侍郎として召還された。数日も経たぬうちに、御史中丞に任じられた。車駕が建康より臨安に還幸する際、同は奏上して言うには、「還蹕の初め、淮河よりますます遠ざかります。重臣を遣わして両淮を巡按させ、人情の利病を尋ね、官吏の侵擾を察し、民に耕墾を許して租税を収めぬようにすべきです。数年後には田野が開け加わり、百姓が足りて国もまた足りるでしょう」と。そこで枢密使王庶を遣わして師を視察させ、同はこの上奏を王庶に付して、実施の可否を尋ね究めさせようと請うた。また言うには、「江浙は月樁銭に困窮し、民は生きるに聊かならず」と。上は数千緡を減じた。また言うには、「呉玠が興州・利州に師を屯し、西川の人力はすでに困窮している。呉玠は近年屯田を講じたことがある。その積穀が幾何か、輸送を減じたのが幾何か、趙開・李迨が相継いで都漕となり、先後の輸送が各々幾何か、制置司・漕司・帥司に条具させて奏聞させ、それから実情を按じて講究し、民力を紓すべきです」と。また言うには、「国家が兵を養うのは少なくないが、患いは偏って集まりながら力を同じくせず、自ら用いながら心を同じくしないことにある。今、韓世忠は楚州に、張俊は建康に、岳飛は江州に、呉玠は蜀しょくにあり、隔たり遠く、情が相通じない。今、陛下が枢臣王庶を遣わして辺防を措置させるなら、王庶に将帥を会集させ、国体を諭して協心共に禦敵を議じさせ、常に諸軍を相接せしめて常山の蛇勢の如くし、一意に国家に思い、彼我を分かたず、緩急応援に、皆あらかじめ定まった術があるようにすべきです」と。詔して王庶に付し、諸将に示させた。

原文七年秋,以禮部侍郎召還。未數日,除御史中丞。車駕自建康回臨安,同奏:「旋蹕之初,去淮益遠,宜遣重臣出按兩淮,詢人情利病,察官吏侵擾,縱民耕墾,勿收租稅。數年之後,田野加闢,百姓足而國亦足矣。」乃遣樞密使王庶視師,同乞以此奏付庶,詢究罷行。又言:「江浙困于月樁錢,民不聊生。」上為減數千緡。又言:「吳玠屯師興、利,而西川人力已困。玠頃年嘗講屯田,願聞其積穀幾何,減饋運幾何,趙開、李迨相繼為都漕,先後饋運各幾何,令制、漕、帥司條具以聞,然後按實講究,以紓民力。」又言:「國家養兵,不為不多,患在於偏聚而不同力,自用而不同心。今韓世忠在楚,張俊在建康,岳飛在江州,吳玠在蜀,相去隔遠,情不相通。今陛下遣樞臣王庶措置邊防,宜令庶會集將帥,諭以國體,協心共議禦敵,常令諸軍相接以常山蛇勢,一意國家,無分彼此,緩急應援,皆有素定之術。」詔付王庶出示諸將。

同は郡守を請い、顕謨閣直学士・湖州知州に任じられた。再び召されたが、祠官を請い、詔して江州太平観提挙とした。紹興二十年に卒した。

原文同乞郡,除顯謨閣直學士、知湖州。復召,請祠,詔提舉江州太平觀。紹興二十年卒。

張致遠

原文張致遠

張致遠、字は子猷、南剣州沙県の人である。宣和三年、進士に及第した。宰相范宗尹がその才を推薦し、召対して枢密院計議官に抜擢された。建州の賊寇范汝為は既に降ったが、なお反覆の心を抱き、招安官の謝嚮・陸棠が賊の賄賂を受け、密かにこれと通じていた。致遠は謁告して帰郷し、その情を知り、還って執政に報告し、その根柢を鋤くよう請うた。そこで謝嚮・陸棠及び制置司属官の施宜生を捕らえて獄に付した。詔して参知政事孟庾を福州宣撫使として賊を討たせ、韓世忠を副とし、致遠を随軍機宜文字に辟召した。賊が平定されると、両浙転運判官に任じられ、広東転運判官に改めた。劇盗の曾袞らを招撫し、賊衆は悉く降った。

原文張致遠,字子猷,南劍州沙縣人。宣和三年,中進士第。宰相范宗尹薦其才,召對,擢為樞密院計議官。建寇范汝為已降,猶懷反側,而招安官謝嚮、陸棠受賊賂,陰與之通。致遠謁告歸,知其情,還白執政,請鋤其根枿,於是捕嚮、棠及制置司屬官施宜生付獄。詔參知政事孟庾為福州宣撫使討賊,韓世忠副之,辟致遠為隨軍機宜文字。賊平,除兩浙轉運判官,改廣東轉運判官。招撫劇盜曾袞等,賊眾悉降。

紹興四年、監察御史として召された。未だ到らぬうちに、殿中侍御史に任じられた。時に江西帥の胡世将が和買絹の折納銭を増やすよう請うた。致遠は上疏して言うには、「絹を銭に折納するのは本来民力を少し寛げようとするものであるが、旧より半ば増やすのは、民の急に乗じてその徴斂を厚くしようとするものである」と。これに従った。

原文紹興四年,以監察御史召。未至,除殿中侍御史。時江西帥胡世將請增和買絹折納錢,致遠上疏言:「折納絹錢本欲少寬民力,而比舊增半,是欲乘民之急而厚其斂也。」從之。

金人と劉豫よが分道して侵入した。宰相趙鼎が高宗の親征を勧めたが、朝士はなお疑いを持ち、趙鼎に審らかに処するよう言った。致遠が入対し、ただ一人その決断を賛成した。侍御史に遷った。言うには、「財を聚め兵を養うのは、皆民力より出る。財を理めるのが善い者は、邦本を固くすべきである。福建塩の専売を罷め、三司使・副を精選し、常平・茶塩を一官に合せ、経常を計り、量入制出させ、先ず省節を務め、次いで経理に及ぶよう請う」と。詔して戸部に講究させた。

原文金人與劉豫分道入寇,宰相趙鼎勸高宗親征,朝士尚以為疑,白鼎審處。致遠入對,獨贊其決。遷侍御史。言:「聚財養兵,皆出民力,善理財者,宜固邦本。請罷榷福建鹽,精擇三司使、副,以常平茶鹽合為一官,令計經常,量入為出,先務省節,次及經理。」詔戶部講究。

五年、戸部侍郎に任じられ、吏部侍郎に進み、まもなくまた戸部侍郎となった。言うには、「陛下が富国強兵を欲し、天下に大いに為さんとされるなら、大臣に詔して力を省節に務めさせ、僭侈を明らかに禁じ、宮禁より始め、朝廷より始めるよう願います。定員で減ずべきは減じ、司属で併せられるものは併せましょう。州県に妄用なからしめ、その余りを監司に帰せしめ、監司に妄用なからしめ、その余りを朝廷に帰せしめ、朝廷に横費なからしめ、日積月聚して、ただ軍需を慮れば、中興の業は致せましょう」と。給事中に任じられた。

原文五年,除戶部侍郎,進吏部侍郎,尋復為戶部侍郎。言:「陛下欲富國強兵,大有為於天下,願詔大臣力務省節,明禁僭侈,自宮禁始,自朝廷始。額員可減者減之,司屬可併者併之。使州縣無妄用,歸其餘於監司;監司無妄用,歸其餘於朝廷;朝廷無橫費,日積月聚,惟軍須是慮,中興之業可致也。」除給事中。

まもなく老母のために外任を乞い、顕謨閣待制・台州知州となった。朝廷は海寇の鄭広が未だ平定されぬため、福州知州に改めた。六年八月、鄭広らが降った。致遠は四百人を選んで留め、城外に営を置き、余りは帰業させた。また鄭広を遣わして他郡の諸盗を討たせ、数ヶ月で悉く平定した。

原文尋以老母丐外,以顯謨閣待制知台州。朝廷以海寇鄭廣未平,改知福州。六年八月,廣等降,致遠選留四百人,置營城外,餘遣還業。復遣廣討他郡諸盜,數月悉平。

八年正月、再び給事中として召された。出て広州知州となった。まもなく顕謨閣待制として致仕した。十七年に卒した。享年五十八。

原文八年正月,再召為給事中。出知廣州。尋以顯謨閣待制致仕。十七年卒,年五十八。

致遠は鯁亮で学識があり、台省・侍従を歴任し、言論風旨は皆卓然として見るべきものがあった。趙鼎はかつてその客に謂って言うには、「鼎が再び相となって以来、政府を除く外、従官たる張致遠・常同・胡寅・張九成・潘良貴・呂本忠・魏矼は皆士望があり、他日その守るところは当に変じないであろう」と。識者は趙鼎が人を知ると言った。

原文致遠鯁亮有學識,歷臺省、侍從,言論風旨皆卓然可觀。趙鼎嘗謂其客曰:「自鼎再相,除政府外,從官如張致遠、常同、胡寅、張九成、潘良貴、呂本忠、魏矼皆有士望,他日所守當不渝。」識者謂鼎為知人云。

薛徽言

原文薛徽言

薛徽言、字は徳老、温州の人である。進士に及第し、枢密院計議官となった。紹興二年、使者を遣わして諸路に分行させたが、徽言はその選中にあり、権監察御史として湖南に宣諭した。時に郴州・道州・桂陽で旱魃飢饉があった。徽言は朝廷に請い、返答を待たずに漕臣に諭して衡州・永州の米を発して賑済させ、経制銀をもって米を買い償わせた。挙劾した者は二十人であった。使より還ると、他の使者は皆進擢されたが、宰相呂頤浩は徽言が守臣を擅に易え、経制銀を移用したとして、興国軍知軍に出した。入って郎となり、右司に遷り、起居舎人に抜擢された。時に秦檜が金人と和議を論じた。徽言は吏部侍郎晏敦復ら七人と共に疏を拝してこれを争った。ある日、秦檜が上前で和議を論じた。徽言は直前に進み義を引いて固く争い、反復すること数刻に及んだ。中寒疾にかかり卒した。高宗これを念じ、絹百匹を賻し、特に遺表の恩典を与えた。

原文薛徽言,字德老,溫州人。登進士第,為樞密院計議官。紹興二年,遣使分行諸路,徽言在選中,以權監察御史宣諭湖南。時郴、道、桂陽旱饑,徽言請於朝,不待報即諭漕臣發衡永米以振,而以經制銀市米償之,所刺舉二十人。使還,他使皆進擢,宰相呂頤浩以徽言擅易守臣,而移用經制銀,出知興國軍。入為郎、遷右司,擢起居舍人。時秦檜與金人議和,徽言與吏部侍郎晏敦復等七人同拜疏爭之。一日,檜於上前論和,徽言直前引義固爭,反復數刻。中寒疾而卒。高宗念之,賻絹百匹,特與遺表恩。

陳淵

原文陳淵

陳淵、字は知黙、南剣州沙県の人である。紹興五年、給事中廖剛・中書舎人胡寅・朱震・権戸部侍郎張致遠が言うには、「淵は陳瓘の諸孫にして文あり学あり、陳瓘在世の時より器重甚だしく、垂老流落し、材を負いて未だ試みられず」と。枢密院編修官に充てられた。時に李綱が前宰相として江南西路安撫制置大使となり、制置司機宜文字に辟召した。

原文陳淵,字知默,南劍州沙縣人也。紹興五年,給事中廖剛、中書舍人胡寅、朱震、權戶部侍郎張致遠言:「淵乃瓘之諸孫,有文有學,自瓘在時,器重特甚,垂老流落,負材未試。」充樞密院編修官。會李綱以前宰相為江南西路安撫制置大使,辟為制置司機宜文字。

七年、詔して侍従に直言極諫の士を挙げさせた。胡安国が陳淵を応じた。召対して官を改め、進士出身を賜った。九年、監察御史に任じられ、まもなく右正言に遷った。入対して論じて言うには、「比年以来、恩恵は甚だ濫れ、賞給は甚だ厚く、頒賚賜与の費は甚だ過ぎる。用いる所既に多く、而して入る所実に寡ない。これ臣の甚だ懼れる所なり。『周官』に『唯だ王及び后・世子は会せず』とあり、説く者は有司の法をもってこれを治むるを得ずと謂うが、周公が法を作り後世人主の侈用の端を開くものではない。臣は謂う、冢宰は九式をもって財用を均節し、有司は会せずとも、冢宰は式を越えてこれを論ずるを得る。若し事々に式に依れば、会せずとも猶会するが如し。臣は願わくば陛下、凡そ賜賚するに、法に無くして例に疑いあるものは、三省これを共議し得、戸部これを執奏し得て、則ち前日の弊は止みましょう」と。

原文七年,詔侍從舉直言極諫之士,胡安國以淵應。召對,改官,賜進士出身。九年,除監察御史,尋遷右正言。入對,論:「比年以來,恩惠太濫,賞給太厚,頒賚賜予之費太過。所用既眾,而所入實寡,此臣所甚懼也。《周官》:『唯王及后、世子不會』,說者謂不得以有司之法治之,非周公作法開後世人主侈用之端也。臣謂塚宰以九式均節財用,有司雖不會,塚宰得以越式而論之。若事事以式,雖不會猶會也。臣願陛下凡有錫賚,法之所無而於例有疑者,三省得以共議,戶部得以執奏,則前日之弊息矣。」

淵が面会して対し、程頤と王安石の学術の同異を論ずるに因り、上曰く、「楊時の学は能く孔・孟を宗とし、其の『三経義辨』は甚だ理に当たる」と。淵曰く、「楊時は初め安石を宗とし、後に程顥に師事して之を得て、乃ち其の非を悟る」と。上曰く、「『三経義解』を以て之を観るに、安石の穿鑿を見るに具わる」と。淵曰く、「穿鑿の過ちは尚ほ小なり、道の大原に至りては、安石は一も差さざる無し。其の学を推行して、遂に大害と為る」と。上曰く、「差とは何を謂うか」と。淵曰く、「聖学の伝うる所は唯だ『論語』、『孟子』、『中庸』有り、『論語』は仁を主とし、『中庸』は誠を主とし、『孟子』は性を主とす。安石は皆其の原を暗しむ。仁道は至大なり、『論語』は問に随い答に随う、唯だ樊遅の問いに、始めて対えて曰く『人を愛す』と。愛は特仁の一端なり、而して安石は遂に愛を以て仁と為す。其の『中庸』を言うは、則ち中庸は以て人に接し、高明は以て己を処すと謂う。『孟子』七篇は、専ら性善を発明す、而して安石は揚雄の善悪混の言を取る。無善無悪に至りては、又仏に溺る。其の性を失うこと遠し」と。

原文淵面對,因論程頤、王安石學術同異,上曰:「楊時之學能宗孔、孟,其《三經義辨》甚當理。」淵曰:「楊時始宗安石,後得程顥師之,乃悟其非。」上曰:「以《三經義解》觀之,具見安石穿鑿。」淵曰:「穿鑿之過尚小,至於道之大原,安石無一不差。推行其學,遂為大害。」上曰:「差者何謂?」淵曰:「聖學所傳止有《論》、《孟》、《中庸》,《論語》主仁,《中庸》主誠,《孟子》主性,安石皆暗其原。仁道至大,《論語》隨問隨答,惟樊遲問,始對曰:『愛人。』愛特仁之一端,而安石遂以愛為仁。其言《中庸》,則謂中庸所以接人,高明所以處己。《孟子》七篇,專發明性善,而安石取揚雄善惡混之言,至於無善無惡,又溺於佛,其失性遠矣。」

鄭億年が資政殿学士・奉朝請に復し、内殿に於いて召見せらる。淵言う、「億年は故相居中の子なり、従官と為り雖も、而して賊に従うの醜有り、其の職名を寖むるを乞う」と。報いず。億年は右僕射秦檜の親党なり、是に由りて檜之を怒る。秘書少監兼崇政殿説書を除すも、祖の名を以て辞す。宗正少卿に改むるも、何鑄の論に以て罷む。台州崇道観を主管す。十五年、卒す。

原文鄭億年復資政殿學士、奉朝請,召見於內殿。淵言:「億年故相居中之子,雖為從官,而有從賊之醜,乞寖其職名。」不報。億年,右僕射秦檜之親黨也,由是檜怒之。除祕書少監兼崇政殿說書,以祖名辭。改宗正少卿,以何鑄論罷。主管台州崇道觀。十五年,卒。

魏矼

原文魏矼

魏矼、字は邦達、和州歴陽の人、唐の丞相知古の後なり。少にして穎悟なり。時に方に王氏の新説を尚ぶも、矼独り学ぶ所を守る。宣和三年、上舍及第す。建炎四年、闕に赴くを召し、詔して宣教郎に改め、詳定一司勅令所刪定官を除す。

原文魏矼,字邦達,和州歷陽人,唐丞相知古後也。少穎悟。時方尚王氏新說,矼獨守所學。宣和三年,上舍及第。建炎四年,召赴闕,詔改宣教郎,除詳定一司敕令所刪定官。

紹興元年、枢密院計議官に遷り、考功郎に遷る。星変有るに会し、矼転対に因り言う、「治平の間、彗東方に出づ、英宗輔臣に問う所以消弭の道を、韓琦明賞罰を以て対う。比年以来、賞の加うる所、参選せずして官已に朝に升る者有り、経任せずして輒れ正郎と為る者有り、罰の加うる所、到任せずして例に衝替せらるる者有り、罪犯同じくして罰軽重有る者有り」と。力を尽くして大臣の黜陟不公なるを言い、所以異を致す所以を言う。上其の忠を識り、監察御史に擢で、殿中侍御史に遷る。

原文紹興元年,遷樞密院計議官,遷考功郎。會星變,矼因轉對,言:「治平間,彗出東方,英宗問輔臣所以消弭之道,韓琦以明賞罰為對。比年以來,賞之所加,有未參選而官已升朝者,有未經任而輒為正郎者,罰之所加,有未到任而例被衝替者,有罪犯同而罰有輕重者。」力言大臣黜陟不公,所以致異。上識其忠,擢監察御史,遷殿中侍御史。

臨安火災有り、延焼して数千家に及び、諛を献ずる者災異に非ずと謂う。矼言う、「『春秋』定・哀の間数え火災を言う、説く者孔子に徳有り而して魯用うる能わず、季孫に悪有り而して去る能わざるを謂い、故に天の之に咎を降すと。今朝廷の上に姦慝邪佞の人未だ逐わざるか。百執事の間に朋附奔競の徒未だ汰わざるか。搢紳に公忠宿望及び道を抱き芸を懐き、猷有り守有るの士未だ用いられざるか。位に在る人は、人己を軋むを畏れ、方に賢を蔽い、未だ誠を推し尽くし公にし、旁ら俊乂を招くを聞かず。宜しく定・哀の失を鑑み、邪正を甄別し、亟に進用を加うべし」と。

原文臨安火,延燒數千家,獻諛者謂非災異。矼言:「《春秋》定、哀間數言火災,說者謂孔子有德而魯不能用,季孫有惡而不能去,故天降之咎。今朝廷之上有姦慝邪佞之人未逐乎?百執事之間有朋附奔競之徒未汰乎?搢紳有公忠宿望及抱道懷藝、有猷有守之士未用乎?在位之人,畏人軋己,方且蔽賢,未聞推誠盡公,旁招俊乂。宜鑒定、哀之失,甄別邪正,亟加進用。」

内侍李𠪙韓世忠の家に飲み、刃を以て弓匠を傷つく。事廷尉に下る。矼言う、「内侍は宮禁を出入し、而して狼戾杯酒より発し、乃ち此の如くなるに至る、豈に過ち之を為すを慮れざるを得んや。建炎の詔令は内侍の主兵官に交通し及び朝政に預るを禁じ、違う者は軍法を以て処す。乞う其の禁を申厳し、以て履霜の戒を謹ましむ」と。是に於いて𠪙杖脊に処し瓊州に配す。侍御史に遷り、矼に五品服を賜う。

原文內侍李𠪙飲韓世忠家,刃傷弓匠,事下廷尉。矼言:「內侍出入宮禁,而狠戾發於杯酒,乃至如此,豈得不過為之慮?建炎詔令禁內侍不得交通主兵官及預朝政,違者處以軍法。乞申嚴其禁,以謹履霜之戒。」於是𠪙杖脊配瓊州。遷侍御史,賜矼五品服。

時朱勝非独り相と為る。矼論ず、「勝非は建明する所無く、唯だ今日一二の細故を進呈し、明日一二の故人を啓擬するを知るのみ。而して機務決せず、軍政修まらず、除授は私を挟み、賢士は解体す」と。又其の五罪を疏し、詔して勝非に余服を執らしむ。又言う、「国家命令の出づるは、必ず先ず黄を録す。其れ両省を過ぐれば、則ち給・舍封駁を以て得、其れ所属に下れば、則ち台・諫論列を以て得。此れ万世の良法なり。窃に聞く近時三省・枢密院、間に黄を録せずして直に指揮を降す者有り、亦た黄を画すと雖も六部に下さざる者有りと。望むらくは並びに旧制に依れ」と。

原文時朱勝非獨相,矼論:「勝非無所建明,惟知今日進呈一二細故,明日啟擬一二故人,而機務不決,軍政不修,除授挾私,賢士解體。」又疏其五罪,詔令勝非持餘服。又言:「國家命令之出,必先錄黃。其過兩省,則給舍得以封駁;其下所屬,則臺諫得以論列。此萬世良法也。竊聞近時三省、樞密院,間有不用錄黃而直降指揮者,亦有雖畫黃而不下六部者,望並依舊制。」

劉豫金人を挟み入寇す。宰相趙鼎親征の議を決す。矼扈従を請い、因りて命じて江上の諸軍を督せしむ。時劉光世・韓世忠・張俊の三大将権均しく勢敵し、又私隙を懐き、肯て心を協せず。矼首めて光世の軍中に至り、之に諭して曰く、「賊衆我寡、合力すら猶お支え難きを懼る、況んや軍自ら心を為し、将何を以てか戦わん。諸公が計りに為りては、当に国の為に恥を雪ぎ、私隙を釈き去り、独り国に利有るのみならず、亦た将に其の身に利有らんことを思うべし」と。光世之を許し、遂に其れ二帥に書を貽し、他無きを示すを勧む。二帥復書して交歓す。光世書を以て聞す。此に由りて衆戦屡捷し、軍声大いに振う。

原文劉豫挾金人入寇,宰相趙鼎決親征之議,矼請扈從,因命督江上諸軍。時劉光世、韓世忠、張俊三大將權均勢敵,又懷私隙,莫肯協心。矼首至光世軍中,諭之曰:「賊眾我寡,合力猶懼不支,況軍自為心,將何以戰?為諸公計,當思為國雪恥,釋去私隙,不獨有利於國,亦將有利其身。」光世許之,遂勸其貽書二帥,示以無他,二帥復書交歡。光世以書聞,由此眾戰屢捷,軍聲大振。

上平江に至る。魏良臣・王倫金に使いして回り、約して再び使を遣わし、且つ恐廹の語有り。矼「講和」の二字を罷め、諸将を飭厲し、力を図り攻取すべしと請う。会うに金屡敗して遁れ去り、使も亦た遣わさず。秘書少監に遷る。

原文上至平江,魏良臣、王倫使金回,約再遣使,且有恐廹語。矼請罷「講和」二字,飭厲諸將,力圖攻取。會金屢敗遁去,使亦不遣。遷祕書少監。

矼職に在ること七箇月、事を論ずる凡そ百二十余章。尋いで補外を乞い、直龍図閣・知泉州を除すも、親老を以て辞し、知建州と為る。尋いで召還さる。祠を丐うも允さず、権吏部侍郎を除す。

原文矼在職七閱月,論事凡百二十餘章。尋乞補外,除直龍圖閣、知泉州,以親老辭,知建州。尋召還,丐祠,不允,除權吏部侍郎。

八年、金使境に入る。矼を命じて館伴使を充てしむ。矼言う、「頃に御史を任じ、嘗て和議の非を論ず、今専論するに難し」と。秦檜矼を召して都堂に至らしめ、其の和を主とせざる所以の意を問う。矼敵情の保ち難きを具陳す。檜之に諭して曰く、「公は智を以て敵を料い、檜は誠を以て敵を待つ」と。矼曰く、「相公固より誠を以て敵を待つ、第だ恐らくは敵人は誠を以て相公を待たざらんことを」と。檜屈する能わず、乃ち改めて呉表臣を命ず。

原文八年,金使入境,命矼充館伴使,矼言:「頃任御史,嘗論和議之非,今難以專論。」秦檜召矼至都堂,問其所以不主和之意,矼具陳敵情難保,檜諭之曰:「公以智料敵,檜以誠待敵。」矼曰:「相公固以誠待敵,第恐敵人不以誠待相公耳。」檜不能屈,乃改命吳表臣。

詔す、金使境に入り、己を屈して就和せんと欲す。侍従・台諫に令して条奏来上せしむ。矼言う、「臣素より敵情に熟せず、使人の需むる所の礼何なるかを知らず、陛下の所以己を屈する所の事何事なるかを知らず。賊豫は金人の立てる所、之が為に北面す。陛下祖宗の基業を承け、天命の帰する所、何ぞ金国に藉ること有らんや。伝聞するに奉使の帰るを、金人悉く我が欲する所に従い、必ず難行の礼無く、以て重く我を困らすと謂う。陛下何ぞ過ち自ら侮りを取らんや。もし或いは従う可からざるの事有らば、儻し軽く之を許さば、他時に反って其の制せらるる所と為り、号令廃置将に其の手より出ず。一に従わざる有らば、便ち兵隙を生ず。予奪は彼に在り、信を失うは我に在り。計の得るに非ざるなり。仮令空地を我に還すと雖も、之を如何にして保つ可けん。兵を寝めんと欲すと雖も、之を如何にして寝む可けん。民を息まんと欲すと雖も、之を如何にして息ます可けん。計の得るに非ざるなり。陛下既に親の為に少しく屈せんと欲す、更に願わくは天下治乱の機を審思し、之を群情に酌み、其の経久し行う可き者を択びて之を行い、其の従う可からざる者は、国人の意を以て之を拒ぎ、庶幾くは後悔無からん。所謂国人とは、万民・三軍のみ。搢紳は万民と一体、大将は三軍と一体なり。今陛下搢紳に詢う、民情大いに見る可し。望むらくは速やかに大将を召し、各近上の統制官数人を帯びて同来せしめ、詳しく訪問を加え、以て他日の意外の憂いを塞がん。大将以て不可と為せば、則ち其の気益々堅く、何ぞ此の敵を憂えん」と。

原文詔金使入境,欲屈己就和,令侍從、臺諫條奏來上。矼言:「臣素不熟敵情,不知使人所需者何禮,陛下所以屈己者何事。賊豫為金人所立,為之北面,陛下承祖宗基業,天命所歸,何藉於金國乎?傳聞奉使之歸,謂金人悉從我所欲,必無難行之禮,以重困我,陛下何過自取侮乎?如或不可從之事,儻輕許之,他時反為所制,號令廢置將出其手,一有不從,便生兵隙。予奪在彼,失信在我,非計之得也。雖使還我空地,如之何而可保?雖欲寢兵,如之何而可寢?雖欲息民,如之何而可息?非計之得也。陛下既欲為親少屈,更願審思天下治亂之機,酌之群情,擇其經久可行者行之,其不可從者,以國人之意拒之,庶無後悔。所謂國人者,不過萬民、三軍爾。搢紳與萬民一體,大將與三軍一體,今陛下詢于搢紳,民情大可見矣。欲望速召大將,各帶近上統制官數人同來,詳加訪問,以塞他日意外之憂。大將以為不可,則其氣益堅,何憂此敵。」

間もなく父の喪に服す。喪が明けて、集英殿修撰・宣州知州に任ぜられたが、就任せず。改めて太平興国宮提挙となり、これより祠官を奉じ、凡そ四任。母の喪中に卒す。

原文未幾,丁父憂。免喪,除集英殿修撰、知宣州,不就。改提舉太平興國宮,自是奉祠,凡四任。丁內艱以卒。

潘良貴

原文潘良貴

潘良貴、字は子賤、婺州金華の人。上舎生として及第し辟雍博士となり、秘書郎に遷る。時に宰相蔡京とその子の蔡攸が爵禄を以て知名の士を釣らんとし、良貴は屹然として特立し、親故が数度にわたり蔡京の意を伝えて交わりを願うも、良貴は正色して謝絶す。主客郎中に除され、間もなく淮南東路常平提挙となる。

原文潘良貴,字子賤,婺州金華人。以上舍釋褐為辟雍博士,遷秘書郎。時宰相蔡京與其子攸方以爵祿鉤知名士,良貴屹然特立,親故數為京致願交意,良貴正色謝絕。除主客郎中,尋提舉淮南東路常平。

靖康元年、召還さる。賜対し、欽宗が誰を政権の枢軸とすべきか問うと、良貴は極言して曰く、「何㮚・唐恪等四人は用いるべからず、他日必ず社稷を誤らん。陛下若し危殆を扶け顛覆を支うる相を欲せば、下僚に博く詢ね、微賤に明らかに揚げるに非ざれば、其の可なるを見ざるべし」と。語は外に徹し、国政を執る者は之を狂率と指し、信州汭口排岸監に貶す。

原文靖康元年,召還。賜對,欽宗問孰可秉鈞軸者,良貴極言:「何㮚、唐恪等四人不可用,他日必誤社稷。陛下若欲扶危持顛之相,非博詢於下僚,明揚於微陋,未見其可。」語徹於外,當國者指為狂率,黜監信州汭口排岸。

高宗即位し、左司諫に召す。既に謁見し、偽党を誅し、叛命の者を国門にて刃を受けしめ、即ち敵人の宋鼎を軽んじて議するを得ざらしめんことを請う。又た宗室の賢者を山東・河北に封じ、以て国体を壮んにし、維揚に巡幸し、兵威を養い以て恢復を図らんことを乞う。黄潜善・汪伯彦其の言を悪み、工部に改除す。良貴は其の言を得ざるを以て、去らんことを求め、明道宮主管となる。

原文高宗即位,召為左司諫。既見,請誅偽黨,使叛命者受刃國門,即敵人不敢輕議宋鼎。又乞封宗室賢者于山東、河北,以壯國體,巡幸維揚,養兵威以圖恢復。黃潛善、汪伯彥惡其言,改除工部。良貴以不得其言,求去,主管明道宮。

数年を越え、荊湖南路刑獄提点に除され、江州太平観主管、考功郎に除され、左司に遷る。宰相呂頤浩従容として良貴に謂いて曰く、「旦夕に相い引いて両省に入れん」と。良貴正色して対えて曰く、「親老にして方に外補を乞わんとす、両省の官は良貴の為すべきに非ざるなり」と。退きて人に語りて曰く、「宰相は一世の人才を進退し、以て賢と為すは、自ら擢用すべし、何ぞ手を握り密語し、先ず私恩を示さん。若し士大夫其の牢籠を受け、又た何を以て朝に立たん」と。即日に外補を乞い、直龍図閣を以て厳州知州となる。官に到ること両月、祠官を請い、亳州明道宮主管となる。起用されて中書舎人となる。

原文越數年,除提點荊湖南路刑獄,主管江州太平觀,除考功郎,遷左司。宰相呂頤浩從容謂良貴曰:「旦夕相引入兩省。」良貴正色對曰:「親老方欲乞外,兩省官非良貴可為也。」退語人曰:「宰相進退一世人才,以為賢邪,自當擢用,何可握手密語,先示私恩。若士大夫受其牢籠,又何以立朝。」即日乞補外,以直龍圖閣知嚴州。到官兩月,請祠,主管亳州明道宮。起為中書舍人。

時に戸部侍郎向子諲入見し、言語煩褻なり。良貴は故に子諲と善し、是の日起居を摂し、殿上に立ち、径ち榻前に至り厲声に曰く、「子諲は無益の談を以て久しく聖聴を煩わす」と。子諲退かんとす、高宗顧みて良貴に曰く、「是れ朕の之を問うなり」と。又た子諲に諭して且く款語せしむ。子諲復た語り、久しく止まず、良貴之を叱して退かしむこと再びす。高宗色変じ、閤門併せて之を弾劾す、ここに於て二人倶に待罪す。旨有りて良貴は罪を放たれ、子諲は待つべき罪無し。

原文會戶部侍郎向子諲入見,語言煩褻,良貴故善子諲,是日攝起居,立殿上,徑至榻前厲聲曰:「子諲以無益之談久煩聖聽!」子諲欲退,高宗顧良貴曰:「是朕問之。」又諭子諲且款語。子諲復語,久不止,良貴叱之退者再。高宗色變,閤門併彈之,於是二人俱待罪。有旨良貴放罪,子諲無罪可待。

良貴去らんことを求め、集英殿修撰を以て江州太平観提挙となる。起用されて明州知州となる。一年、徽猷閣待制・亳州明道宮提挙に除される。既に帰り、出でざること十年。李光罪を得、良貴嘗て通書せしに坐し、三官を降す。卒す、年五十七。

原文良貴求去,以集英殿修撰提舉江州太平觀。起知明州。朞年,除徽猷閣待制、提舉亳州明道宮。既歸,不出者十年。李光得罪,良貴坐嘗與通書,降三官。卒,年五十七。

良貴剛介清苦、壮老一節。博士たりし時、王黼・張邦昌倶に女を以て妻せんと欲す、之を拒む。晩年家居貧甚だし、秦檜諷して郡を求めしめんとす、良貴曰く、「従臣の除授は辞免を合わすべし、今之を宰相に求め、之を君父に辞すは、良貴敢えて為さざるなり」と。其の諫疏多くは稿を焚き、僅かに雑著十五巻を存す、新安の朱熹之に序す。

原文良貴剛介清苦,壯老一節。為博士時,王黼、張邦昌俱欲妻以女,拒之。晚家居貧甚,秦檜諷令求郡,良貴曰:「從臣除授合辭免,今求之于宰相,辭之於君父,良貴不敢為也。」其諫疏多焚稿,僅存雜著十五卷,新安朱熹為之序。

呂本中

原文呂本中

呂本中、字は居仁、元祐の宰相公著の曾孫、好問の子。幼くして敏悟、公著奇愛す。公著薨じ、宣仁太后及び哲宗臨奠し、諸童稚庭下に立つ、宣仁独り本中を進め、其の頭を摩して曰く、「親に孝、君に忠、児勉めよ」と。

原文呂本中,字居仁,元祐宰相公著之曾孫、好問之子。幼而敏悟,公著奇愛之。公著薨,宣仁太后及哲宗臨奠,諸童稚立庭下,宣仁獨進本中,摩其頭曰:「孝於親,忠於君,兒勉焉。」

祖父希哲は程頤に師事し、本中聞見習熟す。少長し、楊時・游酢・尹焞に従い遊び、三家或いは疑異有るも、未だ嘗て苟も同ぜず。公著の遺表の恩を以て、承務郎を授かる。紹聖年間、党事起こり、公著追貶せられ、本中之に坐す。

原文祖希哲師程頤,本中聞見習熟。少長,從楊時、游酢、尹焞遊,三家或有疑異,未嘗苟同。以公著遺表恩,授承務郎。紹聖間,黨事起,公著追貶,本中坐焉。

元符年中、済陰主簿・秦州士曹掾を主とし、大名府帥司幹官に辟さる。宣和六年、枢密院編修官に除される。靖康改元、職方員外郎に遷り、父の嫌に因り祠官を奉ず。父の喪に服し、服除け、祠部員外郎に召され、疾を以て告げ去る。再び秘閣に直し、崇道観主管となる。

原文元符中,主濟陰簿、秦州士曹掾,辟大名府帥司幹官。宣和六年,除樞密院編修官。靖康改元,遷職方員外郎,以父嫌奉祠。丁父憂,服除,召為祠部員外郎,以疾告去。再直秘閣,主管崇道觀。

紹興六年、行在に赴くことを召され、特賜進士出身を賜い、起居舎人兼権中書舎人に擢でる。内侍李琮料歴を失い、上は潜邸の旧人を以て、保任を用いず特に之を与う。本中言う、「若し異恩を以て別に給するは、所謂『宮中府中当に一体と為すべし』と謂うに非ざるなり」と。上見て繳還するを、甚だ悦び、宰臣に諭して曰く、「自今見る所有らば、第に之を言え」と。

原文紹興六年,召赴行在,特賜進士出身,擢起居舍人兼權中書舍人。內侍李琮失料歷,上以潛邸舊人,不用保任特給之。本中言:「若以異恩別給,非所謂『宮中府中當為一體』者。」上見繳還,甚悅,令宰臣諭之曰:「自今有所見,第言之。」

階州草場監苗亙贓に以て敗れ、詔有りて黥げいに従わんとす、本中奏す、「近年官吏贓を犯すもの、多くは黥籍に至る、然れども四方の遠き、或いは枉濫有らん、何を由りてか尽く知らん。異時に其の非辜を察し、雖も抆拭せんと欲すと雖も、其れ得べけんや。若し祖宗以来此の刑嘗て用いられば、則ち紹聖の権臣国政を当るの時、士大夫遺類無きこと久しからん。願わくは常罰を酌み処し、姦臣をして以て後世に藉口することを得せしむるなかれ」と。之に従う。

原文監階州草場苗亙以贓敗,有詔從黥,本中奏:「近歲官吏犯贓,多至黥籍,然四方之遠,或有枉濫,何由盡知?異時察其非辜,雖欲抆拭,其可得乎?若祖宗以來此刑嘗用,則紹聖權臣當國之時,士大夫無遺類久矣。願酌處常罰,毋令姦臣得以藉口於後世。」從之。

七年、上(高宗)が建康に行幸されたとき、本中は上奏して言った。「当今の計は、必ず先ず恢復の事業を為し、人材を求め、民の隠れた苦しみを恤れ、法度を講明し、刑政を詳審にし、直言の路を開き、人々をして情を尽くすことを得せしむるに在り。然る後に兵を練り帥を謀り、上流に師を増し、淮甸を固守して、江南に先ず動かし難き勢い有らしめ、彼に隙有るを伺い、一挙にして克つべし。若し徒らに恢復の志有りて、其の策無くんば、邦本未だ強からず、他患を生ずるを恐る。今、江南・両浙の科須日々に繁く、閭里病みを告ぐ。倘や水旱乏絶有らば、姦宄窃発し、未だ朝廷以て何をか之に待つや審らかならず。近く臣庶の師を興して罪を問わんと勧むる者は、数うるに勝えず。其の辞を観るに固より甚だ順なりと雖も、其の実を考うるに行うべからず。大抵、言を献ずる人は、朝廷の利害と絶えて相侔わず。言酬いられず、事済まざれば、則ち身を脱して去る。朝廷の施設失当すれば、誰か其の咎を任んや。鷙鳥将に撃たんとすれば、必ず其の形を匿す。今、朝廷進取に於いて毫末の実未だ有らず。下す所の詔命、已に賊境に伝わり、之をして以て備えを為すを得しむ。策に非ざるなり。」また上奏して言った。「江左の形勢、九江・鄂渚・荊南諸路の如きは、当に重兵を宿し、重臣を以て臨むべし。呉の時に西陵・建平を謂いて、国の藩表と為す。願わくは守帥を精択し、以て緩急に待たしめよ。然らば則ち江南自守の計備われり。」

原文七年,上幸建康,本中奏曰:「當今之計,必先為恢復事業,求人才,恤民隱,講明法度,詳審刑政,開直言之路,俾人人得以盡情。然後練兵謀帥,增師上流,固守淮甸,使江南先有不可動之勢,伺彼有釁,一舉可克。若徒有恢復之志,而無其策,邦本未強,恐生他患。今江南、兩浙科須日繁,閭里告病,倘有水旱乏絕,姦宄竊發,未審朝廷何以待之?近者臣庶勸興師問罪者,不可勝數,觀其辭固甚順,考其實不可行。大抵獻言之人,與朝廷利害絕不相侔,言不酬,事不濟,則脫身而去。朝廷施設失當,誰任其咎?鷙鳥將擊,必匿其形,今朝廷於進取未有秋毫之實,所下詔命,已傳賊境,使之得以為備,非策也。」又奏:「江左形勢如九江、鄂渚、荊南諸路,當宿重兵,臨以重臣。吳時謂西陵、建平,國之藩表,願精擇守帥,以待緩急,則江南自守之計備矣。」

内侍の鄭諶が致仕を落とし、兵官を得んとした。本中が言うには、「陛下江滸に進臨せられ、将に為す有らんとす。今、賢士大夫未だ顕用せられず、巖穴の幽隠未だ招致せられず。乃ち諶を起して統兵の任に就かしめんとは、何ぞや。」命は遂に止む。疾を引いて祠官を乞い、直龍図閣・台州知事となるも就かず、太平観を主管す。召されて太常少卿と為る。

原文內侍鄭諶落致仕,得兵官。本中言:「陛下進臨江滸,將以有為,今賢士大夫未能顯用,巖穴幽隱未能招致,乃起諶以統兵之任,何邪?」命遂寢。引疾乞祠,直龍圖閣、知台州,不就,主管太平觀。召為太常少卿。

八年二月、中書舎人に遷る。三月、侍講を兼ぬ。六月、権直学士院を兼ぬ。金の使いが和を通ずるに当たり、有司が行人の供応を議す。本中言う、「使いの来るは、正に儉約を以て示すべきなり。客館の芻粟若し務めて充悦せば、適に戎心を啓くのみ。且つ成敗の大計は、初め此れに在らず。吾が治政の得失、兵財の強弱に在り。願わくは有司に詔し、乏しき無からしむるを令せよ。」

原文八年二月,遷中書舍人。三月,兼侍講。六月,兼權直學士院。金使通和,有司議行人之供,本中言:「使人之來,正當示以儉約,客館芻粟若務充悅,適啟戎心。且成敗大計,初不在此,在吾治政得失,兵財強弱,願詔有司令無乏可也。」

初め、本中は秦檜と共に郎官たりしとき、相得ること甚だ歓ばしかりき。檜既に相と為り、私に引用せんとす。本中は除目を封じて還す。檜其の書行を勧むるも、遂に従わず。趙鼎は素より元祐の学を主とし、本中を公著の後と謂い、又范沖の薦むる所なれば、故に深く相知る。会に『哲宗実録』成る。鼎は僕射に遷る。本中が制を草すに、曰く「晋・楚の成を合するは、王を尊びて覇を賤しむるに若かず。牛李の党を散ずるは、是を明かにして非を去るに如かず。」檜大いに怒り、上に言う「本中は鼎の風旨を受け、和議成らざるを伺い、脱身の計を為す。」と。御史蕭振に風して之を劾罷せしむ。太平観を提挙し、卒す。学者「東萊先生」と称し、諡して「文清」を賜う。

原文初,本中與秦檜同為郎,相得甚歡。檜既相,私有引用,本中封還除目,檜勉其書行,卒不從。趙鼎素主元祐之學,謂本中公著後,又范沖所薦,故深相知。會《哲宗實錄》成,鼎遷僕射,本中草制,有曰:「合晉、楚之成,不若尊王而賤霸;散牛李之黨,未如明是以去非。」檜大怒,言於上曰:「本中受鼎風旨,伺和議不成,為脫身之計。」風御史蕭振劾罷之。提舉太平觀,卒。學者稱為「東萊先生」,賜諡「文清」。

詩二十巻有り、黄庭堅・陳師道の句法を得たり。『春秋解』一十巻、『童蒙訓』三巻、『師友淵源録』五巻、世に行わる。

原文有詩二十卷,得黃庭堅、陳師道句法;《春秋解》一十卷;《童蒙訓》三卷;《師友淵源錄》五卷,行於世。

論じて曰く、『伝』に「君子有らざれば、其れ何を以てか国たる能わん。」と有り。紹興の世、呂頤浩・秦檜相位に在り。君子有りと雖も、豈に其の志を尽くすことを得んや。宋の復た中原を図る能わざるは、天命と曰うと雖も、豈に人事に非ざらんや。若し常同・張致遠・薛徽言・陳淵・魏矼・潘良貴・呂本中の如きは、其の才猷皆以て邦を経るべく、其の風節皆以て世を厲すべし。然れども皆論議合わず、祠官を奉じて国を去る。永く慨むべし。

原文論曰:《傳》有之「不有君子,其何能國。」紹興之世,呂頤浩、秦檜在相位,雖有君子,豈得盡其志,宋之不能圖復中原,雖曰天命,豈非人事乎?若常同、張致遠、薛徽言、陳淵、魏矼、潘良貴、呂本中,其才猷皆可以經邦,其風節皆可以厲世,然皆論議不合,奉祠去國,可為永慨矣。