宋史

列傳第一百三十四 鄧肅 李邴 滕康 張守 富直柔 馮康國

鄧肅

鄧肅、字は志宏、南剣州沙県の人。幼少より聡敏にして文を能くし、風采儀容美しく、談論を善くす。李綱これを見て奇とし、互いに唱和し、忘年の交わりを為す。父の喪に居り、哀毀礼を踰え、芝その廬に産す。太学に入り、交遊する所は皆天下の名士なり。時に東南より花石綱を貢す。肅詩十一章を作り、守令の搜求民を擾わすを言う。用事者これを見て、学より屏出す。

欽宗位を嗣ぎ、便殿に召して対せしめ、承務郎を補し、鴻臚寺簿を授く。金人闕を犯す。肅命を被り敵営に詣る。五十日留まりて還る。張邦昌位を僭す。肅義に屈せず、南京に奔赴し、左正言に擢げらる。

先んずるに、朝廷金国に帛一千萬を賜う。肅その営に在り、密かに覘う。将士の数に均しく与うるに、大約八万人を過ぎず。是に至りて上に之を言い、且つ言う、「金人は畏るるに足らず。但だ其の賞を信じ罰を必ずし、文字を仮らず。故に人各々命を用う。朝廷は則ち然らず。同時に功を立てて功又相等しき者あり。或いは已に数官を転じ、或いは尚お布衣たり。軽重上下、只だ吏の手に在り。賞既に明らかならず、誰か肯て自ら勧めん。功賞一司を専らにせんことを望み、凡そ功を立つる者をして自ら陳ぶることを得せしめん。若し功状已に明らかにして賞行われず、或いは功同じくして賞に軽重先後のある者は、並びに法を置かんことを」と。上これに従う。

朝臣偽命を受くる者衆し。肅三等に分かちて罪を定めんことを請う。上、肅の囲城中に在りて其の姓名を知るを以て、具に奏せしむ。肅言う、「叛臣の上なる者は、其の悪五つあり。諸侍従にして執政と為る者は、王時雍・徐秉哲・吳幵・呂好問・莫儔・李回是れなり。諸庶官及び宮観より起きて侍従と為る者は、胡思・朱宗・周懿文・盧襄・李擢・范宗尹是れなり。勧進文と赦書とを撰する者は、顔博文・王紹是れなり。朝臣にして事務官と為る者、私に十友を結び冊立邦昌の儀を講ずる者は是れなり。張邦昌に因りて名を改むる者は、何昌言善言と改め、其の弟昌辰知辰と改む是れなり。嶺外に置かんことを乞う。所謂叛臣の次なる者は、其の悪三つあり。諸執政・侍従・台諫偽庭に称臣する者は、執政馮澥・曹輔是れなり。侍従者は已に行遣せり。独り李会尚お中書舎人たり。台諫の中に金人の根括を為して杖せられ、一は病を以て免るる者あり。其の余偽楚の庭に在らざるは無し。庶官にして升擢せらるる者は、数うるに勝えず。留守司に委ね籍を按じて之を考うることを乞う。則ち遺るる者無からん。奉使たらんと願う者は、黎確・李健・陳戩是れなり。遠小の処に編管せんことを乞う。若し夫れ庶官位に在り職を供し廃せざる者は、但だ禄を苟むるのみ。其の罪を赦し其の名を録し、復た用いて台諫・侍従と為さざることを乞う」と。上然りと為す。

耿南仲祠禄を得て帰る。其の子延禧郡守と為る。肅劾す、「南仲父子悪を同じくし、渡河の戦を沮み、勤王の兵を遏む。今日は三鎮を割き、明日は両河を截つ。及び陛下京城を進援せんと欲するに、又た南仲父子に沮まる。国を誤ること此の如し。典刑を正さんことを乞う」と。南仲嘗て肅を欽宗に薦む。肅之を言いて恤れず。上其の直を嘉し、五品服を賜う。

范訥東京を留守す。肅言う、「訥両河に出師し、風を望み先ず遁る。今人に語りて曰く、『留守の説四つあり。戦・守・降・走のみ。戦うに卒無く、守るに糧無く、降せざれば則ち走る』と。且つ漢人傑を得て、乃ち関中を守る。奔軍の将、豈に此れに与すべけんや」と。訥遂に罷む。内侍陳良弼肩輿にて横門外に至り、開封内に女童を買い入る。肅連章して之を論ず。時に官吏多く故に託して去る。肅其の仕版を削り、其の禄を取って禁衛に給し、若し夫れ先ず指揮を仮り径ちに江湖に徙る者は、追いて有司に付して以て其の罪を正さんことを乞う。

因りて入対し、言う、「外夷の巧は文書簡なるに在り。簡なる故に速し。中国の患は文書煩なるに在り。煩なる故に遅し」と。上曰く、「正に此れを討論す。故に三省を倂せ尽く祖宗の法に依らしむ」と。及び局を建て祖宗の官制を討論す。両月施行を見ず。肅言う、「太祖・太宗の時は、法厳にして令速く、事簡にして官清し。未だ嘗て旁らに搜り曲げて引きて以て賞罰を稽えず。故に能く十万の精兵を以て六合を混一す。時に自り厥の後、群臣議うべき者無し。今日は一策を献じ、明日は一言を献ず。煩冗瑣碎、惟だ備わらざるを恐る。此れ文書益々煩はしくなる所以にして、政事益々緩やかになる所以なり。今兵戈未だ息まず。豈に揖遜進退し、尚お事無きの時に循らんや。旬日を以て限り、必ず至るを期せんことを乞う。庶幾くば法厳しく事簡にして、賞罰の権濡滞せざらん」と。肅諫垣に在り、事に遇いて感激し、三月に満たず凡そ二十疏を抗す。言皆切至なり。上多く採納す。

会うに李綱罷まる。肅奏して曰く、「綱学は正しと雖も術疏く、謀は深しと雖も機浅し。固より聖意に副うに足らず。惟だ陛下嘗て臣を顧みて曰く、『李綱真に身を以て国に徇う者なり』と。今日之を罷め、而して責詞甚だ厳し。此れ臣の疑う所以なり。且つ両河の百姓適従する所無し。綱措置一月間に満たず、民兵稍く集まる。今綱既に去る。両河の民将に如何せん。偽楚の臣紛紛として朝に在り。李綱先ず逆臣邦昌を逐わんことを乞う。然る後叛党稍く能く罪を正す。今綱既に去る。叛臣将に如何せん。叛臣朝に在りて、政事乖けり。両河兵無くして、外夷驕る。李綱此に於いて、亦一日の長無しと謂うべからず」と。執政怒り、肅を吏部に送り、罷めて家に帰り居る。紹興二年、寇を避けて福唐に至り、疾を以て卒す。

李邴

李邴、字は漢老、済州任城県の人。崇寧五年の進士第に中り、累官して起居舎人と為り、中書舎人を試む。北方兵を用う。功に酬い賞を第す。日数十百。邴辞命留難無し。給事中・同修国史兼直学士院を除し、翰林学士に遷る。嘗て禁中の曲宴に与る。徽宗詩を賦せしむ。高麗使貢に入る。邴館伴と為る。徽宗中使を遣り持示す。使者伝録して以て帰らんことを請う。未だ幾ばくもあらず、言者に坐して罷めらる。南京鴻慶宮を提挙す。

欽宗即位し、徽猷閣待制・越州知事を除す。久しくして、再び職を落とし、西京嵩山崇福宮を提挙す。高宗即位し、徽猷閣待制を復す。歳を踰え、召されて兵部侍郎兼直学士院と為る。

苗傅・劉正彥上を迫り位を遜らしむ。上邴を顧みて詔を草せしむ。邴御札を得て而る後敢えて作らんことを請う。朱勝非詔赦を降さんことを請う。邴都堂に就きて之を草す。翰林学士を除す。初め、邴苗傅に見え、面して逆順禍福の理を諭し、且つ密かに殿帥王元に勧めて禁旅を以て賊を撃たしむ。元唯唯として用うる能わず。即ち政事堂に詣り朱勝非に白す。適た正彥及其の党王世修其の中に在り。又た大義を以て之を責む。人の為に之を危ぶむも、邴顧みず。時に御史中丞鄭瑴又た抗疏して睿聖皇帝改号すべからざるを言う。ここに於いて邴・瑴端明殿学士・同簽書枢密院事と為る。邴と張守分かちて百官の章奏を草す。三奏三答、及び太后の手詔と復辟の赦文、一日にして具わる。

四月、尚書右丞に拝され、間もなく、参知政事に改める。上(高宗)が江寧に巡幸し、太后と六宮が章に赴かれるに当たり、邴を資政殿学士・権知行台三省枢密院事に任じた。呂頤浩と議論が合わず、罷免を請うたので、遂に本職をもって杭州洞霄宮の提挙となった。一ヶ月も経たぬうちに、平江府の知事として起用された。時に兄の鄴が越州を失守したため、連座して落職した。翌年、直ちに赦令を引用してこれを復し、また資政殿学士に昇進した。

紹興五年、詔を下して宰執に方略を問うたところ、邴は戦陣・守備・措画・綏懐の各五事を条上した。

戦陣の利たる五事とは、軽兵を出すこと、遠略を務めること、将帥を儲けること、成功を責めること、賞格を重んずることである。その大略に謂う、「関陝は進取の地、淮南は保固の地なり。関陝は進取に利ありといえども、もし京東に師を用いてその勢いを牽制しなければ、彼は一力を以て我を拒ぐを得ん。今、大将として兵を統べる者は数人、皆根本として恃む所なり。万一利あらずんば、将、再び用いるべからず。偏裨の中、牛皋・王進・楊珪・史康民のごときは皆京東の土人にして、地の険易を知る。各々に部曲三五千人を配し、或いは淮陽より出で、或いは徐・泗より出づるも可なり。彼は奔命に暇あらざるべく、これ動かずして陝西の重兵を分かつ一端なり。関陝は今二宣撫ありといえども、その体尚軽し。大臣を遣わさざればならず。呂頤浩は気節高亮、李綱は識量宏遠、威名素より著る。願わくはその一を択びて用いられんことを。必ずや以て陛下に報いるあらん」と。また言う、「陛下即位の初め、韓世忠・劉光世・張俊の威名は隠然として大将たり。今また呉玠・岳飛のごとき者出づ。願わくは大将に詔し、その部内において智謀忠勇、衆を馭し師を統ぶるに足る者各々両三人を挙げしめ、朝廷に籍記せしめよ。事有るに遇いては、一隊を当たらしめ、大将に隷せしむることなかれ。すなわち諸人競って才智を奮い、皆飛・玠の儔たらん。大将の爵位已に崇く、統一体し難し。今より兵を用うるには、第に成算を授けて自ら戦わしむるのみ。慎んで重臣をして臨ましむることなかれ。以てその権を軽んじその功を分かつことなからん。今、敵を退け師を引くの後、必ず功を論じ賞を行わん。願わくはこの故に有司に詔し、予め賞格を定めしめよ。謂わく、城邑及び近上の首領の類を得るごとき、一命より節度使に至るまで、皆差次して足りて相当せしめよ」と。

所謂る守備の宜しき五事とは、根本を固くすること、舟師を習わすこと、他道を防ぐこと、遺策を講ずること、長戍を列ぬることである。その大略に謂う、「江・浙は今日の根本なり。保守せんと欲すれば則ち進取の利を失い、進取せんと欲すれば則ち根本の傷つくを慮る。古の名将は、内には必ず屯田して以て自足し、外には必ず糧を敵に因る。誠に功名を以て自ら任ずる者、祖逖のごときを得て、淮南を挙げて之に付し、自ら進取せしめ、内を虚しくして以て外に事えしむることなからしめよ。臣聞く、朝廷福建に下して海船七百隻を造らしむ、必ず期の如くに弁ぜん。乞う、古制に倣い、伏波・下瀬・楼船の官を建て、以て水戦を教習せしめ、近上の将佐に領せしめて、自ら一軍を成さしめ、専ら朝廷に隷せしめよ。事なきときは則ち之を縁江の州郡に散じ、緩急あれば則ち聚めて之を用いよ。臣、度るに、敵人の他年入寇するや、今日の敗を懲創し、必ず先ず一軍を以て淮甸より来たり、築室反耕の計を為し、以て我が師を綴らん。然る後に登・萊より海を泛かびて呉・越を窺い、以て吾が左に出で、武昌より江を渡りて江・池を窺い、以て吾が右に出でん。一処支えずんば則ち大事去らん。願わくは予め左を支え右を吾がるの策を講ぜん。夫れ兵の形は窮まり無し。願わくは臨江の守臣に詔し、凡そ奇を設けて以て敵を誤らしむる可きもの、呉人の疑城の類のごとき、皆予め措画せしめよ。今、長江の険、数千里に綿り、守備一にあらず。苟もその要を制するを得ば、則ち力を用いること少なくして功を見ること多からん。願わくはその最も緊なる処を差次し、軍若干人を屯せしめ、一将これを領し、その郡守の節制を聴かしめ、次緊稍緩の処は差降せしめよ。事有れば則ち大将を以て兼ね統べしめよ。既に久しければ則ち風土に諳熟し、緩急用いる可く、旋発の師と侔ならざらん」と。

所謂る措画の方五事とは、大閲に親すること、禁衛を補うこと、軍制を講ずること、使事を訂すること、敕榜を降すことである。その大略に謂う、「秋冬の交わりに因り、広場を辟き、諸将を会し、士卒の才藝絶特なる者を取りて爵賞を加えよ。建炎以来、禁衛単寡にして、乃ち五軍を藉りて以て重しと為す。臣常に寒心す。願わくは忠実厳重の将を択びて以て殿帥と為し、稍く禁衛の闕を補い、隠然として自ら一軍を成さしめよ。すなわちその諸将を馭するや、臂の指を使うが若くならん。今、諸郡の廂禁、冗占私役するもの、大郡は二三千人、小郡も亦数百人なり。臣願わくは講求し、郡守兵将官の自ら禁軍に給事するを除く外、余の兼従の衣糧は自ら人を僦って以て役せしめよ。大抵廂軍を三分の二殺し、而してその衣糧の数を以て尽く禁軍を募れ。金人は兵を用うる以来、未だ嘗て和好を言わざること無し。これ決して恃むべからず。然れども二聖彼に在り、遂に已むべからず。姑く余力を以て之を行え。臣謂う、宜しく一官を専命すべし。古の所謂る行人のごとき、或いは止めて左右司に之を領せしむべし。人を遣わすに当たり、成法を挙げて之に授くれば、庶幾くは臨時の斟酌の労を免れ、而して朝廷は以て専意兵を治むるを得ん。劉豫僭叛す、理必ず之を滅すべし。謂う、宜しく敕榜を降し、明らかに豫の僭逆の罪を著し、江北の士民に曉諭すべし。これ亦兵家の所謂る謀を伐ち交を伐つ者なり」と。

所謂る綏懐の略五事とは、徳意を宣べること、先ず振恤すること、関津を通ずること、材能を選ぶこと、寛貸を務めることである。その大略に謂う、「山東の大姓、山砦を結びて以て自保す。今累年といえども、勢い必ず未だ下らざる者有らん。願わくは心力有るの人を募り、密かに往きて詔諭せしめよ。応に淮北の遺民来帰する者は、淮南の州郡をして行由を与えしめ、船を差し津済し、量りに地分の人を差して護送せしめ、邀阻すること無からしめよ。官有る人は先次に差遣に注授し、官無くして貧乏なる者は、沿江の州郡をして官舎を以て之に居らしめ、仍り量りに銭米を三両月給し、その自ら営みて生を為すを得るに及びて乃ち止めよ。内に才智用いる可きの人あれば、宜しきに随い任使し、但だ爵秩を以て縻すことのみ勿れ。凡そ諸将の行師境に入り、敢えて抗拒する者は、固より剿戮すべし。その善良・老弱の人あるは、皆寛貸に従い、之をして更生の望み有らしめよ」と。報いず。

邴は閑居すること十有七年、泉州にて薨ず。年六十二。諡して「文敏」と曰う。『草堂集』一百巻有り。

滕康

滕康、字は子濟、応天府宋城の人。崇寧五年の進士第に登り、また詞学兼茂科に中り、秘書省正字に除され、著作佐郎・尚書工部礼部員外郎・国子司業に遷る。

靖康二年、元帥府、康の憲章に習熟するを聞き、召して済州に至らしむ。康、群臣を率いて進を勧め、太常少卿に除され、登極の礼儀を定めしむ。凡そ天に告ぐ及び肆赦の文は、皆康の為す所、辞意激切、聞く者感動す。起居舍人・権給事中に除され、起居郎兼討論祖宗法度検討官に進み、中書舎人を試みる。

時に顕謨閣学士孟忠厚が父の任官を以て減年遷官を乞うたが、汪康は言う、「忠厚は隆祐太后の甥なり、太宗以来、凡そ母后の兄弟の子に侍従たる者なし」と。武義大夫康義が登極の恩典により、遙郡刺史に遷らんとしたが、康はまた詞頭を封還し、言う、「恩例の遷官一等とは、階官の上に一階を進むるを謂う。今康義が特旨を得て一官を転ずるは、武義大夫より遙郡刺史に躐上し、名は一官を遷るといえども、実は五等を升るなり、法を紊る甚だしきものなり。古より乱を召すの源は、外戚の法を撓さざれば、則ち内侍の政を干すにあり、漢・唐これを鑑とすべし」と。凡そ再び降旨すれども、竟に行わず。

後軍統制韓世忠がその部を戢むること能わず、贖金に坐す。康言う、「世忠に赫々たる功なく、只だ盗賊を捕うる微労に縁り、遂に節鉞に亜ぐ。今その部の卒伍、御器を奪うに至り、諫臣を死地に逼るも、乃ち只だ罰金を止む、何を以て後に懲らしめんや」と。詔して世忠を一官降す。

江州知事陳彥文が劉光世の奏を用い、その守城の功を録し、龍図閣待制に遷る。康は光世の上ぐる彥文の功状が前後牴牾するを以て、閣して下さず。宰相力めて彥文を主とし、康に詞を行わしむるを趣す。康論じて已まず、宰相之を銜む。時に布衣の省試の巻子が式に合わざるも、康はその文を以て之を取る。諫官李処遯論奏す。遂に集英殿修撰を以て杭州洞霄宮を提挙す。

未だ幾ばくもせず、蹕を銭塘に移す。再び中書舎人を除す。奏して曰く、「去歳郊礼の前日に日食ありしも、日官これを聞かず、廷臣これを告げず、陛下の天に応ずる所以のもの未だ至らざらしむ。故に逆臣敢えて不軌を萌すは、先事の戒めなきが故なり。陛下即位して再歳を行えり。側怛愛民の政は徒らに空言たるのみにして、百姓その恩を被らず。哀痛責躬の詔は事実に著わさず、四方これを信とせず。忠佞並び馳せて、多士解体す。刑賞当を失いて、三軍気を沮む。臣願わくは、陛下建炎初元以来の下し給う詔書、挙げ給う政事を取り、熟思審度して、一二臣が言うに類わざるものなからしめんことを。得失を参稽して之を行い罷むるを望む」と。上再三褒諭し、その諫臣の風有るを称す。左諫議大夫を除す。旬日の間に、封章屡々上る。遂に翰林学士に擢ぐ。翌日、端明殿学士・同簽書枢密院事を除す。

建炎三年、宰相呂頤浩が武昌に幸して陝に趨るの計を議す。既に蹕を建康に移すも、又議して中原を尽く棄て、居民を東南に徙さんと欲す。康力めて不可を持ち、上悟りて止む。未だ幾ばくもせず、上は太后に請いて神主を奉じて江西に如かしめ、参知政事李邴に権めて三省枢密院事を知らしむ。康は資政殿学士と為り、同じく従衛して以て行く。邴疾を辞す。又命じて康に権知せしめ、劉珏を以て貳と為す。康に褒詔を賜い、宰執の班に綴りて奏事するを許す。

康は従衛して洪州に至る。劉光世江を護るに密ならず、金人絶えて渡る。康等倉卒として太后を奉じて虔州に趨る。殿中侍御史張延寿、康と珏に憂国の心なきを論じ、太后をして険を渉らしめ、敵人の追迫するに至らしむるに及ぶ。責めて康を秘書少監に授け、分司南京、永州居住とす。未だ幾ばくもせず、自便を許す。復た左朝請大夫と為り、明道宮を提挙す。紹興二年九月卒す。年四十八。八年、追って龍図閣学士を復す。文集二十巻有り。

張守

張守、字は子固、常州晉陵の人。家貧しく書無く、人に従い仮借し、過目すれば輒ち忘れず。崇寧元年進士第に登り、詞学兼茂科に中る。詳定『九域図志』編修官を除す。省員を以て罷められ、宣徳郎に改め、監察御史に擢ぐ。内艱に丁し去る。

建炎元年冬、召還され、官を改め、五品服を賜う。上維揚に在り、粘罕将に東平より泗・淮を歴て以て行在を窺わんとす。宰臣汪伯彦・黄潜善は李成の余党は畏るるに足らずと為す。上百官を召して各々見る所を言わしむ。葉夢得は上に南巡を請い、江を阻みて守りと為す。張俊もまた敵勢方に張るを奏し、宜しく且く南渡すべしとす。守独り疏を抗し、上に淮を防ぎ江を渡るの利害六事を上る。又別に疏を以て金人の淮甸を犯すの路四つ有るを言い、宜しく四路の帥守を択び兵を繕い粟を儲えて以て之を捍禦すべしとす。疏再び上る。又請うて大臣に詔し、惟だ将を選び兵を治むるを急と為し、凡そ不急の務は、之を都司・六曹に付すべしと。二相ますます悦ばず、遂に守を遣わして京城を撫諭せしむるを建議す。守命を聞きて即ち道に就く。

三年正月、還り、金人の必ず来るを奏し、願わくは早く之が図りを為さんとす。上惻然たり。起居郎兼直学士院を除す。金人果たして淮を渡る。上臨安に幸す。御史中丞に遷る。

苗・劉既に平ぐ。詔して百官を赦す。表奏は皆な守と李邴分かって之を為す。守、宰相朱勝非が患を思い予防する能わず、賊をして猖獗せしむるを論じ、政を罷むるを乞う。疏留中して出でず。既にして勝非竟に政を罷む。

呂頤浩初めて相と為り、司馬光の言を行い、三省を併合せんと欲す。詔して侍従・台諫をして集議せしむ。守言う、光の奏する所は較然として行う可し。若し更に衆を集むれば、徙らに紛紜と為すのみと。既にして悉く異論無く、竟に三省を合して一と為す。

上建康に幸す。呂頤浩・張浚叶い議し、将に上を奉じて武昌に幸し、陝に趨るの計と為さんとす。時に方に浚を宣撫処置使に拝し、身もって陝・しょくを任ず。守と諫議大夫滕康皆な不可を持ちて曰く、「東南は今日の根本なり。陛下遠く適かば、則ち姦雄窺伺の心を生ず。況んや将士多きは陝西の人、蜀の関陝に近きを以て、西帰を図る可く、自ら計るのみ。陛下と国家の為に計るに非ざるなり」と。守又た十害を陳ぶ。殿廬に至りて康に謂いて曰く、「蜀に幸するの事、吾曹当に死を以て之を争うべし」と。上曰く、「朕固より難行と為す」と。議遂に寝す。

六月、久雨恒陰す。呂頤浩・張浚皆な謝罪して去らんことを求む。詔して郎官以上に闕政を言わしむ。初め、守が副端たりし時嘗て上疏して曰く、「陛下宮室の安きに処りては、則ち二帝・母后の穹廬毳幕の居を思い、膳羞の奉を享けては、則ち二帝・母后の膻肉酪漿の味を思い、細暖の衣を服しては、則ち二帝・母后の窮辺絶塞の寒苦を思い、与奪の柄を操りては、則ち二帝・母后の言語動作人の制を受くるを思い、嬪御の適を享けては、則ち二帝・母后の誰か之が使令を為すかを思い、臣下の朝に対しては、則ち二帝・母后の誰か之が尊礼を為すかを思うべし。思いて又思い、兢兢栗栗、聖心倦まずして、天の之が為に順を助けざるは、万に是の理無し」と。是に至りて復た前説を申して曰く、「今罪己の詔数たび下るも、天未だ禍を悔い改めず、実に至らざる所有るのみ」と。且つ曰く、「天時人事此に至りて極まれり。陛下今日の勢と去年とを睹るに孰れか愈れる。而して朝廷の措置施設は、前日と未だ始めより異ならず。其の維揚の変の如くなるを俟ちて後に之を言わば、則ち大臣を斥逐すとも、禍に救う無からん。漢制災異に三公を策免す。今宰相に任ずる者は、勳労有りと雖も、然れども其の器識機務を斡旋するに足らず。願わくは更に文武全材、海内の共に推する所の者を択び、親しく擢ぎて並びに之を用いよ。上書して事を論じ、或いは切直なる有らば、宜しく褒擢を加えて以て言路を来たすべし」と。

先に、張守はかつて呂頤浩を単独で任用すべからず、張浚を西去せしむべからずと論じ、上意と異なり、外補を乞うた。礼部侍郎に除せられたが拝せず、上は呂頤浩を政事堂に至らせ、正人端士は軽々に去るべからざるを諭し、張守は初めて命を受けた。殿中侍御史趙鼎が入対し、張守の故なく下遷されたことを論ずると、上は曰く、「その資浅きを以てなり。」趙鼎曰く、「言事官に他過なし、願わくは陛下その気を沮ぐることなかれ。」ここにおいて翰林學士・知制誥に遷す。九月、端明殿學士・同簽書樞密院事を拝す。扈従して海道より永嘉に至り、回って會稽に至る。

四年五月、參知政事を除す。張守はかつて汪伯彦を推薦し、沈與求がその短を劾し、資政殿學士を以て洞霄宮を提挙す。まもなく、紹興府を知る。尋いで内祠を以て侍讀を兼ねるが、張守は力辞し、福州知事に改む。時に右司員外郎張宗臣が福建に城を築かしむるを請うと、張守は奏す、「福州の城は晉の太康三年にあり、偽閩これを増広して六千七百餘歩に至る。國初より削平すること久しく、公私困弊す。願わくは他年を俟たれ。」ここにおいて止む。尋いで度牒銭百萬餘緡を変易して行在に輸し、国用を助く。

時に劉豫が金人を導き淮を寇す。上は平江に次ぐ。諸将の俘虜を献ずる者踵を接す。張守これを聞き、上疏して曰く、「今、献ずる俘虜、誠に皆金人ならば、あるいは諸国を借るならば、これを戮すべし。両河・山東の民に至りては、皆陛下の赤子なり。駆迫されて来る、豈に已むを得んや。且つ恩信を以て諭し、これを貸して帰らしめ、留まらんことを願う者もまた聴すべし。然らば賊兵は戦わずして潰ゆべし。」金人既に遁ぐるや、詔して諸将に江を渡り追撃せしむ。張守また上疏し、敵情測り難きを以て、願わくは劉光世を留めて諸渡を控禦せしめんとす。

上は既に臨安に還り、また詔して張守に攻戦の利、守備の宜、綏懷の略、措置の方を問う。張守言う。

明詔の四事、臣は以て措置に急なるは莫しと為す。措置苟くも当たれば、則ち余は陛下に道うに足らず。臣は請う措置の大略を言わん。その一は軍旅を措置し、その二は糧食を措置す。

神武中軍は専ら行在を衛うべく、余軍を以て三路に分戍すべし。一軍は淮東に駐し、一軍は淮西に駐し、一軍は鄂・岳あるいは荊南に駐し、要害の処を択びてこれを処すべし。北は関輔に至り、西は川・陝に抵り、血脈相通じ、号令相聞こえ、唇歯輔車の勢いあらしむれば、則ち江より南は枕を奠めて臥すべし。然れども今の大将は皆重兵を握り、貴極まり富溢れ、前には禄利の望なく、退いては誅罰の憂いなし。故に朝廷の勢いは日々に削がれ、兵将の権は日々に重し。また大将たる者、万一病を称して罷め賜わり、あるいは卒然として不諱あらば、則ち統ぶる所の衆は将に安くに属せんや。臣は謂う、宜しく麾下の将を抜擢し、統制と為し、毎将五千人を過ぎず、四路に棋布し、朝廷の号令その軍に径達し、分合使令悉く朝廷よりすべし。以て為す有るべし。

何をか軍食を措置すと謂うや。諸軍既に諸路に分屯すれば、則ち患う所は財穀の転輸なり。祖宗以来、毎歳上供六百餘萬、東南の転輸に出づ、未だ以て病と為さず。今は宜しく両浙の粟を挙げて淮東に餉い、江西の粟を以て淮西に餉い、荊湖の粟を以て鄂・岳・荊南に餉うべし。用ゆる所の数を量り、漕臣に将輸を責め、その余を行在に帰すべし。銭帛もまた然り。未だ不足に至らざるを恐る。銭糧乏絶の患い無くして、然る後に諸将を戒飭し、州県を侵擾するを得ざらしめ、復業の民の戸口の多寡を以て、諸将の殿最と為し、歳ごとに核実して黜陟すべし。かくの如く措置既に定まり、防秋に至るを俟ち、また大臣を遣わして之が統督と為し、諸路の兵をして首尾相応ぜしめ、綏懷の略もまた是に在り。その本原を究むれば、則ち陛下の内に徳を修め外に政を修むるに在るのみ。

閩は范汝為の擾乱より、公私赤立す。張守は鎮すること四年、凋瘵を撫綏し、かつ朝廷に請い、福州の貸す所の常平緡銭十五萬を蠲除せしむ。累ねて郡を去らんことを請い、万寿観提挙兼侍読を以て召還さる。甫く両月、また病を引きて去らんことを丐い、平江府知府と為り、力めて祠官を丐いて帰る。

六年十二月、召見せられ、即日參知政事を除す。明日、権樞密院事を兼ぬ。七年、張浚は劉光世の兵権を罷め、かつ呂祉を以て淮西に往き諸軍を撫諭せんと欲す。張守は以て不可と為す。張浚従わず。張守曰く、「必ず改図を曰わば、また聞望素より高く、能く諸将の心を服する者を得て乃ち可なり。」張浚聴かず、遂に酈瓊の変有り。及び臺諫交章して張浚を論ずるに及び、御批して嶺表に安置す。趙鼎即ち行わず。張守力めて上に解きて曰く、「張浚は陛下のために両淮を捍ぎ、劉光世を罷む。正にその衆烏合して用いられざるを以てなり。今その験あらわる。群臣従いてその短を媒蘖す。臣恐らくは後の継ぐ者、必ず張浚を以て鑒と為し、誰か肯て陛下のために事を任せんや。」張浚は永州に謫せらる。張守もまた咎を引きて去らんことを請う。許さず。

八年正月、上は建康より将に臨安に還らんとす。張守言う、「建康は六朝より帝王の都たり。江流険闊、気象雄偉、かつ都会に拠りて中原を經理し、険阻に依りて強敵を捍禦す。別都と為して恢復を図るべし。」趙鼎は不可を堅持す。張守は力を尽くして去らんことを求め、資政殿大学士を以て婺州を知る。尋いで洪州に改め、江南西路安撫使を兼ぬ。入対す。時に江西の盗賊未だ息まず。上に弭盗の策を以て問う。張守曰く、「徳政に先なるは莫し。その悛まざるを伺い、然る後に兵を以てこれを加うべし。」因りて師を出して要害に屯せんことを請う。既に部に至り、榜を郡邑に掲げ、禍福を開諭し、期限を以て約し、自新を許す。数ヵ月を経ずして盗平ぐ。

後に徙って紹興府を知る。会に朝廷三使者を遣わして諸路の財賦を括る。至る所に鞭撻を以て威を立つ。韓球は會稽に在り、斂むる所五十餘萬緡。張守は既に視事するや、即ち入覲を求め、上に之を言う。詔して三使を追還す。時に秦檜国を当つ。悦ばず。張守もまた自ら安からず、また祠官に奉ず。

建康の帥を謀る。上曰く、「建康は重地、大臣にして徳望ある者を用う。惟だ張守のみ可なり。」鎮に至ること数月にして薨ず。

張守はかつて秦檜を時宰張浚に推薦す。及び秦檜枢密使と為り、朝を同じくす。一日、張守は省閣に在りて張浚の手を執りて曰く、「張守前者公に誤る。今同班列に在り、之と朝夕相処し、その趨向を観るに、患失の心有り。公宜しく力を尽くして上に陳べよ。」張守は江右に在り、郡県の供億科擾を以て、上疏して和買を蠲め、和糴を罷めんことを請う。上は之を行わんと欲す。時に秦檜方に度支を損じて月進と為し、かつ日ごとに四方の財用の至らざるを憂う。張守の疏を見て怒りて曰く、「張帥何ぞ国を損すること是の如きや。」張守これを聞き、歎じて曰く、「彼は国を損すと謂う、乃ち国を益するなり。」ついに「文靖」と諡す。孫の張抑、戸部侍郎。

富直柔

富直柔、字は季申、宰相富弼の孫なり。父の任を以て官を補す。少より敏悟にして才名有り。靖康初め、晁説之その文を奇とし、朝に薦む。召して同進士出身を賜い、秘書省正字を除す。

建炎二年、近臣を召して知る所を挙げさせたところ、礼部侍郎張浚が直柔を推挙した。詔して著作佐郎に任じ、まもなく礼部員外郎・起居舎人を拝命し、右諫議大夫に遷った。范致虚が謫籍より召し入れられたが、直柔は致虚を復用すべからざることを力説し、鼎州知州として出させた。

給事中に遷る。医官・団練使王継先が覃恩により防禦使に転じたが、法は回授すべきところ、得旨して特旨をもって武功大夫に換授された。直柔が論じて言うには、「継先は計略をもって換授され、既に授かった後は、官資を転行し、差遣を除授するにも、更に何の妨げもない。しかるに武功大夫は戦功あり、辺任を歴任し、材武を負う者のみが遷るものであり、軽々しく授けるべきではない」。上は宰相范宗尹に言う、「この除授は朕の意より出たものだ。今、直柔が抗論するので、朕は意を屈してこれに従い、直言の気を伸ばすこととする」。

四年、御史中丞に遷る。直柔は右司侯延慶を罷免し、蘇遅を代わりに任用するよう請うた。上は言う、「台諫は遺漏を拾い過失を補うことを職分とし、ある人をある官に推薦すべきではない」。そこで延慶は礼部員外郎に改められ、遅は太常少卿となった。

十月、端明殿学士・簽書枢密院事を拝命。故事によれば、簽書には員外郎をもって任じた例はあるが、三丞をもって任じた例はない。中書が旧典に非ずと上言した。当時、直柔は奉議郎であったが、特旨をもって朝奉郎に遷された。これより、寄禄官が三丞で二府に除される者は、員外郎に遷されることとなり、直柔に始まり、遂に例となった。

紹興元年、詔して礼部・太常寺に隆祐太后の冊礼を討論させた。范宗尹が言う、「太母は前後して廃斥されたが、実は章惇・蔡京の出したところであり、人は皆、二聖の過ちでないことを知っている」。直柔が言う、「陛下が隆祐を推祟されるのは、天下が当然とするところである。しかし、人もまた哲廟と上皇の意に非ずとは思わない。願わくは陛下、再び疑いを致さぬよう」。そこで礼官に典礼を討論させた。まもなく王居正が言う、「太后の隆名定位は、既に元符の時に正されている。欽聖の詔を用い、天地宗廟に奏告すべきであり、その典礼は討論を要しない」。議は遂に定まった。

上虞県丞婁寅亮が宗社の大計について上書し、太祖の諸孫で「伯」の字の行に下り、賢徳ある者を選んで親王の秩を視させ、九州を牧させ、皇嗣の生まれるを待ち、退いて藩服に処せしめんことを求めた。疏が入ると、上は大いに悟りを歎じ、直柔はこれに従って寅亮を推薦し、行在に召し赴かせ、監察御史に任じた。ここにおいて孝宗が普安郡王に立てられたのは、寅亮の言によるものである。

同知枢密院事を拝命。侍御史沈与求が、直柔が辛道宗・永宗兄弟に附会して進んだこと、及びその推薦した右司諫韓璜を論じた。先だって、直柔は上面前で呂頤浩を短く言ったことがあり、頤浩と秦檜は共にこれを忌んだ。これにより二人は共に罷免され、璜は潯州酒税監を責められ、直柔は本官をもって洞霄宮提挙となった。

六年、生母の喪に服す。起復して資政殿学士・鎮江府知府となるが、辞して赴任せず。起復して衢州知州となる。死罪を失入した罪により、落職して祠官となる。まもなく端明殿学士を復す。山沢に徜徉し、意のままに吟詠し、蘇遅・葉夢得らと交遊し、家にて寿を終えた。

馮康國

馮康国、字は元通、本名は轓、遂寧府の人。太学生となり、気節を負う。建炎年中、高宗が杭州に駐蹕した時、礼部侍郎張浚が御営参贊軍事として平江に留まった。苗傅・劉正彦が乱を起こすと、浚は外で諸将を帥いて合兵し討伐を致さんとし、傅らが内に居ることを思い、弁士を得て往き説かせようとした。当時、轓は浚の客としており、慷慨して行くことを請うた。浚はこれを杭州に遣わし、傅・正彦を説いて言う、「古より宦官が政を乱せば、根株相連なり、誅鋤すれば必ず禍を受ける。今、二公は一朝にして国家のために数十年の患を去り、天下の蒙る福は甚だ大きい。然るに主上は春秋に鼎盛にして、天下その過ちを聞かず、豈に急ぎて繈褓の子に位を伝えるべきか。かつ前日、名は位を伝うるも、実は廃立なり。二公の本心は国のためなり、奈何ぞこれをもって天下に謗りを負わんや」。傅は剣を按じて大怒したが、轓は辞気屈せず。正彦は乃ち善く諭して言う、「張侍郎が復辟を欲するは固より善し、然れども面議を用いるべし」。乃ち轓を還し、浚を杭州に至らせることを約した。

浚は再び轓を遣わし、傅らに書を移し、禍福を告げて改めさせた。既にまた傅に返書し、その罪を誦言した。轓が至ると、傅の党の馬柔吉がこれを訹して言う、「先般の張侍郎の書は委曲を尽くさず、二公は大怒し、既に兵を発して杭州を出た。君尚ほ敢えて来るか」。轓は言う、「畏るれば則ち来ず、来れば則ち畏れず」。王世修は轓を拘留せんとしたが、時に浚が偽りの書を轓に遺わし、「適に客が杭州より来り、方に二公が社稷に対し初め不利の心無きを知り、甚だ前書の輕易を悔いる」と云う。傅らこれを見て喜び、轓は免れた。

俄にして勤王の兵大いに集まり、傅ら始めて懼れる。轓はその動かし得るを知り、乃ち宰相朱勝非を説き、今日の事は淵聖皇帝を以て主とすべく、睿聖皇帝は宜しく復た大元帥と為り、少主は皇太侄と為り、太后は垂簾すべしと。勝非は傅・正彦と議わせたところ、皆承諾した。轓はまた傅・正彦を趙普の故事の如く褒賞するよう請うた。遂に皆鉄券を賜う。詔して轓を奉議郎・守兵部員外郎に補し、五品服を賜い、更に名を康国と改めさせた。

高宗が反正すると、張浚を以て川陝宣撫とし、浚は康国を辟して機宜文字を主管させた。浚が蜀に至り、康国を遣わして事を奏せしめた。詔して両官を進め、荊湖宣諭使と為す。康国の行くや、上は浙東に幸し、詔旨を降す暇なく、康国は自らの意をもってこれを行った。言事者が制書を擅に造るを以て弾劾し、坐して秩を二等貶せられた。紹興三年、浚が召還され、康国と共に行在に赴く。浚が既に黜せられると、御史常同が因って康国を論じ、これを罷めた。起復して万州知州・湖北転運判官となる。

浚が宰相となると、入朝して都官員外郎となる。康国が言う、「四川の税色は、祖宗以来、正税重き者は科折軽く、正税軽き者は科折重く、科折の権衡は税と平準し、故に偏重無し。近年、監司・総漕は悉く旧法を改め、数を取るに務めて多し、失業逃亡は皆これに由る。何ぞ旧法に従わざる」。詔してその言を四川憲司に下し、法に如かざる者を察せしむ。また言う、「蜀は陸運に苦しむ。当に呉玠を諭し、防秋の月に非ざれば、兵を分けて糧に就かしむべし。兼ねて守牧を選び梁・洋を治め、流散を招集し、耕鑿就緒すれば、則ち漕運は省くべし。これ蜀を保つ良策なり」。

浚が相位を去ると、康国は外補を乞うた。趙鼎が高宗に言う、「張浚が罷せられてより、蜀の士は自ら安からず、今留まる者十余り、臣は台諫が浚の故を以て論列するを恐る。願わくは陛下これを察せられよ」。高宗は言う、「朝廷が人を用いるは、止だその才の有無を論ずべきのみ。頃に台諫は朋党を以て士大夫を論ずるを好み、例えば一宰相を罷むれば、則ち凡そその薦引する所は、才の有無を問わず一時に罷黜す。これは朝廷がこれに朋党を為さしむるものであり、人材を愛し風俗を厚くする所以ではない」。右司員外郎に遷り、直顕謨閣・夔州知州を拝命。母の喪に服す。起復し、呉玠軍を撫諭し、都大主管川陝茶馬を拝命し、卒す。

論ずるに、鄧肅・李邴・滕康は危急存亡の秋に当たり、皆侃々として正色をなし、知る所を言わざる無し。張守は事を論ずるに明遠、富直柔は秦檜・呂頤浩に厄せられ、馮康國は二凶を説き折る、皆有用の才なり。