宋史

列傳第一百三十三 張九成 胡銓 廖剛 李迨 趙開

列傳第一百三十三 張九成 胡銓 廖剛 李迨 趙開

張九成

原文張九成

張九成、字は子韶、その先祖は開封の人であったが、移り住んで錢塘に居を定めた。京師に遊学し、楊時に師事した。権貴が人を介して金品を届けさせ、「我が門に従うならば、館閣に推薦しよう」と言わせた。九成は笑って言った、「王良でさえ尚、寵臣の奚と同車に乗ることを恥じたというのに、我がどうして貴人の食客となれようか」。

原文張九成,字子韶,其先開封人,徙居錢塘。游京師,從楊時學。權貴託人致幣曰:「肯從吾游,當薦之館閣。」九成笑曰:「王良尚羞與嬖奚乘,吾可為貴游客耶?」

紹興二年、上は進士を策試しようとし、考官に詔して、直言する者を高等に置くように命じた。九成の対策は次のように述べた、「禍乱の起こるのは、天が聖人を開かせるためである。願わくは陛下が剛大の心をもたれ、憂い驚きによって自ら挫けられぬように。臣が観るに、金人には必ず滅亡する勢いがあり、中国には必ず興隆する道理がある。好戦は必ず滅び、その旧来の習俗を失えば必ず滅び、人心が服さなければ必ず滅びるが、金はそのすべてを備えている。劉豫よは君親に背き、夷狄に身を委ね、狡猾な雛鳥が事を営むがごとく、児戯に等しい、何ら慮るに足りない。前世の中興の主は、おおむね剛徳を尊んだ。讒言を退け欲望を節し、佞人を遠ざけ奸を防ぐことは、皆中興の根本である。今、里巷の民でさえ父兄妻子の楽しみがあることを知っているのに、陛下は貴き天子でありながら、冬は温かさを得ず、夏は涼しさを得ず、夕べには定まる所なく、朝には省みる所もなく、時節に感じ物事に触れては、心に悲しみを覚える、どうして二聖の車駕を還す方途を考えないことがあろうか」。また言った、「宦官の名が世に聞こえるのは、国の不祥である。今、この輩の名が次第に知られるようになったのは、臣の憂うるところである。彼らを掃除の役に安んじさせ、あらゆる交際往来を禁じ、政事に干渉する者は必ず誅すべきである」。首位に抜擢された。楊時は九成に書を送って言った、「廷対は中興以来未だかつてなかったものである。剛大の気がなければ、得失によって屈することなく、成し得なかったであろう」。

原文紹興二年,上將策進士,詔考官,直言者置高等。九成對策略曰:「禍亂之作,天所以開聖人也。願陛下以剛大為心,無以憂驚自沮。臣觀金人有必亡之勢,中國有必興之理。夫好戰必亡,失其故俗必亡,人心不服必亡,金皆有焉。劉豫背叛君親,委身夷狄,黠雛經營,有同兒戲,何足慮哉。前世中興之主,大抵以剛德為尚。去讒節欲,遠佞防姦,皆中興之本也。今閭巷之人皆知有父兄妻子之樂,陛下貴為天子,冬不得溫,夏不得清,昏無所定,晨無所省,感時遇物,淒惋於心,可不思所以還二聖之車乎?」又言:「閹寺聞名,國之不祥也,今此曹名字稍稍有聞,臣之所憂也。當使之安掃除之役,凡結交往來者有禁,干預政事者必誅。」擢置首選。楊時遺九成書曰:「廷對自中興以來未之有,非剛大之氣,不為得喪回屈,不能為也。」

鎮東軍簽判に任じられ、吏は彼を欺くことができなかった。民が塩の禁令を犯した時、提刑の張宗臣が数十人を逮捕しようとしたので、九成はこれに争った。宗臣は言った、「この件は左相(秦檜)が封書で送って来たものだ」。九成は言った、「主上はたびたび刑を憐れむ詔を下されている。公は聖意を体せずに宰相の顔色を窺うのか」。宗臣は怒り、九成はすぐに辞表を出して帰った。従学する者が日に日に増え、その門を出た者の多くは名士となった。

原文授鎮東軍簽判,吏不能欺。民冒鹺禁,提刑張宗臣欲逮捕數十人,九成爭之。宗臣曰:「此事左相封來。」九成曰:「主上屢下恤刑之詔,公不體聖意而觀望宰相耶?」宗臣怒,九成即投檄歸。從學者日眾,出其門者多為聞人。

趙鼎が朝廷に推薦したので、太常博士として召された。到着すると、著作佐郎に改められ、さらに著作郎に昇進した。上言して言った、「我が宋の家法は、仁と言うのみである。仁の発現は、特に刑罰において顕著である。陛下は刑罰を減らすことを急務とされているのに、司法官は刑を憐れむことを念頭に置いていない。司法官に詔して、何人かを生かした者には勤務評定の期間を減ずるようにすべきである」。これに従った。浙東提刑に任じられたが、強く辞退し、祠官を与えられて帰郷した。

原文趙鼎薦於朝,遂以太常博士召。既至,改著作佐郎,遷著作郎,言:「我宋家法,曰仁而已。仁之發見,尤在於刑。陛下以省刑為急,而理官不以恤刑為念。欲詔理官,活幾人者與減磨勘。」從之。除浙東提刑,力辭,乃與祠以歸。

間もなく、宗正少卿・権礼部侍郎兼侍講、兼権刑部侍郎として召された。法寺が死刑の確定案を上奏した時、九成は始末を調べてその実情を得たため、再審を請うたところ、囚人は果たして誣告による自白であった。朝廷の議論では平反を賞としようとしたが、九成は言った、「職は刑を詳らかにすることにある。どうして賞を求めることができようか」。これを辞退した。

原文未幾,召除宗正少卿、權禮部侍郎兼侍講,兼權刑部侍郎。法寺以大辟成案上,九成閱始末得其情,因請覆實,囚果誣服者。朝論欲以平反為賞,九成曰:「職在詳刑,可邀賞乎?」辭之。

金人が和議を申し出た時、九成は趙鼎に言った、「金は実際には戦争を厭っているが、虚勢を張って中国を揺さぶっているのだ」。そこで十か条の事柄を述べ、彼らが真に我が言うことに従うならば、和議を結び、主導権を朝廷に握らせるべきだと主張した。趙鼎が罷免された後、秦檜が九成を誘って言った、「どうか私(檜)のこの事業を成就させてほしい」。九成は言った、「九成がどうして異議を唱えようか。ただ、安易に和議を結んで一時の安泰を図ることはできないというだけである」。檜は言った、「朝廷に立つには、悠々とし、時には屈する必要がある」。九成は言った、「己を曲げて人を正すことなどできません」。上(高宗)が和議について尋ねると、九成は言った、「敵情は偽りが多い。よくよく考察せねばなりません」。

原文金人議和,九成謂趙鼎曰:「金實厭兵,而張虛聲以撼中國。」因言十事,彼誠能從吾所言,則與之和,使權在朝廷。鼎既罷,秦檜誘之曰:「且成檜此事。」九成曰:「九成胡為異議,特不可輕易以苟安耳。」檜曰:「立朝須優游委曲。」九成曰:「未有枉己而能直人。」上問以和議,九成曰:「敵情多詐,不可不察。」

経筵で西漢の災異の故事を論じたため、秦檜はこれをひどく憎み、邵州知州に左遷した。着任すると、倉庫は空しく乏しかった。僚属が酒税の滞納分や未納の苗絹を督励するよう請うたが、九成は言った、「たとえ民に恵みを施すことができなくとも、どうして敢えて民を困窮させることができようか」。その年、租税の収入は以前よりも早かった。中丞の何鑄が、彼が偽りを弄して世を欺き、趙鼎に傾倒して付和雷同したと上言し、職を奪われた。

原文因在經筵言西漢災異事,檜甚惡之,謫守邵州。既至,倉庫虛乏,僚屬請督酒租宿負、苗絹未輸者,九成曰:「縱未能惠民,其敢困民耶?」是歲,賦入更先他時。中丞何鑄言其矯偽欺俗,傾附趙鼎,落職。

父の喪に服した。喪が明けた後、秦檜が上意を仰ぐと、上は言った、「古来、朋党は人主に知られることを恐れるものだが、この者はただ一人畏れるところがない。宮観を与えよ」。これ以前に、徑山の僧・宗杲が禅理を談ずるのに長け、従って遊ぶ者が多かったが、九成も時折その間に往来していた。秦檜は彼が己を論議することを恐れ、司諫の詹大方に命じて、宗杲と共に朝政を誹謗したと論劾させ、南安軍に謫居させた。南安に十四年間滞在し、毎度書物を手に明かりの下に寄り、庭の磚に倚り立ったため、歳月を経て両足の跡がくっきりと残った。広南の帥が籠に入れた金を贈ったが、九成は言った、「我がどうして安易に受け取ることができようか」。全て返した。秦檜が死ぬと、温州知州として起用された。戸部が吏を遣わして軍糧を督促したため、民は苦しんだ。九成は文書を送ってその弊害を痛烈に陳述したが、戸部がこれを固執したので、九成はすぐに祠官を請いて帰郷した。数か月後、病没した。

原文丁父憂,既免喪,秦檜取旨,上曰:「自古朋黨畏人主知之,此人獨無所畏,可與宮觀。」先是,徑山僧宗杲善談禪理,從游者眾,九成時往來其間。檜恐其議己,令司諫詹大方論其與宗杲謗訕朝政,謫居南安軍。在南安十四年,每執書就明,倚立庭磚,歲久雙趺隱然。廣帥致籯金,九成曰:「吾何敢苟取。」悉歸之。檜死,起知溫州。戶部遣吏督軍糧,民苦之,九成移書痛陳其弊,戶部持之,九成即丐祠歸。數月,病卒。

九成は経学を研究思索し、多くの訓解をなしたが、早くから仏教者と交わったため、その議論には偏りが多い。寶慶初年、特に太師を追贈され、崇國公に封ぜられ、諡は「文忠」とされた。

原文九成研思經學,多有訓解,然早與學佛者游,故其議論多偏。寶慶初,特贈太師,封崇國公,諡「文忠」。

胡銓

原文胡銓

胡銓、字は邦衡、廬陵の人。建炎二年、高宗が淮海で士を策試した時、銓は御題が「治道は天に本づき、天道は民に本づく」と問うたのに対して、答えて云った、「湯・武は民に従って興り、桀・紂は天に従って亡んだ。今、陛下は干戈鋒鏑の間より起こられ、外には乱、内には訌があるのに、臣下に数十条を策問され、皆天に質しているが、民に従ってはいない」。また謂うには、「今の宰相は晏殊ではなく、枢密・参政は韓琦・杜衍・范仲淹ではない」。策文は万余言に及び、高宗はこれを見て異才と認め、多くの士の首位としようとしたが、その率直さを忌む者がいて、第五位に置き換えられた。撫州軍事判官に任じられたが、着任しないうちに、隆祐太后が兵を避けて贛州にいると、金人がその後を追った。銓は漕司の檄により本州の幕職を代行し、郷丁を募って官軍を助け防禦に当たり、論功行賞により承直郎に転じた。父の喪に服し、郷里の先生・蕭楚に従って『春秋』を学んだ。

原文胡銓,字邦衡,廬陵人。建炎二年,高宗策士淮海,銓因御題問「治道本天,天道本民」,答云:「湯、武聽民而興,桀、紂聽天而亡。今陛下起干戈鋒鏑間,外亂內訌,而策臣數十條,皆質之天,不聽於民。」又謂:「今宰相非晏殊,樞密、參政非韓琦、杜衍、范仲淹。」策萬餘言,高宗見而異之,將冠之多士,有忌其直者,移置第五。授撫州軍事判官,未上,會隆祐太后避兵贛州,金人躡之,銓以漕檄攝本州幕,募鄉丁助官軍捍禦,第賞轉承直郎。丁父憂,從鄉先生蕭楚學《春秋》。

紹興五年、張浚が督府を開くと、湖北倉属に辟召したが、赴任しなかった。詔により都堂に赴いて審察を受け、兵部尚書の呂祉が賢良方正として推薦し、賜対の後、枢密院編修官に任じられた。

原文紹興五年,張浚開督府,辟湖北倉屬,不赴。有詔赴都堂審察,兵部尚書呂祉以賢良方正薦,賜對,除樞密院編修官。

八年、宰臣秦檜が決策して和議を主とし、金の使節が「詔諭江南」を名目としたため、朝廷内外が騒然とした。胡銓が抗疏して言うには、

原文八年,宰臣秦檜決策主和,金使以「詔諭江南」為名,中外洶洶。銓抗疏言曰:

「臣が謹みて案ずるに、王倫はもとより一介の狎邪小人、市井の無頼に過ぎず、近頃宰相の無識に縁り、遂に挙げられて虜に使わされた。専ら詐誕を務め、天聴を欺罔し、驟に美官を得たので、天下の人は切歯して唾罵している。今、故なくして虜使を誘致し、『詔諭江南』を名目とするは、是れ我をして臣妾たらしめんと欲するなり、是れ我をして劉豫たらしめんと欲するなり。劉豫は醜虜に臣事し、南面して王を称し、自ら子孫帝王万世抜くべからざる業と為すも、一旦豺狼慮いを改め、捽んでこれを縛し、父子虜と為る。商鑑遠からず、而るに王倫は又陛下にこれを倣わしめんと欲する。夫れ天下は祖宗の天下なり、陛下の居ます位は祖宗の位なり。奈何ぞ祖宗の天下を以て金虜の天下と為し、祖宗の位を以て金虜藩臣の位と為さんや。陛下一たび膝を屈すれば、則ち祖宗廟社の霊尽く夷狄に汚され、祖宗数百年の赤子尽く左衽と為り、朝廷の宰執尽く陪臣と為り、天下の士大夫皆当に冠を裂き冕を毀ち、胡服に変ずべし。異時に豺狼飽くことを知らぬ求め、安んぞ我に無礼を加うること劉豫の如くせざるを知らんや。

原文「臣謹案,王倫本一狎邪小人,市井無賴,頃緣宰相無識,遂舉以使虜。專務詐誕,欺罔天聽,驟得美官,天下之人切齒唾駡。今者無故誘致虜使,以『詔諭江南』為名,是欲臣妾我也,是欲劉豫我也。劉豫臣事醜虜,南面稱王,自以為子孫帝王萬世不拔之業,一旦豺狼改慮,捽而縛之,父子為虜。商鑒不遠,而倫又欲陛下效之。夫天下者祖宗之天下也,陛下所居之位,祖宗之位也。奈何以祖宗之天下為金虜之天下,以祖宗之位為金虜藩臣之位!陛下一屈膝,則祖宗廟社之靈盡汙夷狄,祖宗數百年之赤子盡為左衽,朝廷宰執盡為陪臣,天下士大夫皆當裂冠毀冕,變為胡服。異時豺狼無厭之求,安知不加我以無禮如劉豫也哉?

夫れ三尺の童子は至って無識なり、犬豕を指して之を拝せしむれば、則ち怫然として怒る。今、醜虜は則ち犬豕なり、堂堂たる大国、相率いて犬豕を拝せんとは、曾て童孺の羞ずる所にして、陛下忍びて之を為さんや。王倫の議は乃ち曰く、『我が一たび膝を屈すれば則ち梓宮還り、太后復し、淵聖帰り、中原得べし』と。嗚呼、変故以来、和議を主とする者は誰か此の説を以て陛下を啖わざる者あらんや。然るに卒に一つの験無く、則ち虜の情偽已に知るべし。而るに陛下尚お覚悟せず、民の膏血を竭くして恤れず、国の大讐を忘れて報いず、垢を含み恥を忍び、天下を挙げて之に臣するを甘心す。仮令虜決して和すべく、尽く王倫の議の如しとせんも、天下後世、陛下を何如なる主と謂わんや。況んや醜虜は変詐百出し、而して王倫は又姦邪を以て之を助く。梓宮決して還るべからず、太后決して復すべからず、淵聖決して帰るべからず、中原決して得べからず、而して此の膝一たび屈すれば復た伸ぶべからず、国勢陵夷して復た振るうべからず、痛哭流涕長太息すべきなり。

原文夫三尺童子至無識也,指犬豕而使之拜,則怫然怒。今醜虜則犬豕也,堂堂大國,相率而拜犬豕,曾童孺之所羞,而陛下忍為之耶?倫之議乃曰:『我一屈膝則梓宮可還,太后可復,淵聖可歸,中原可得。』嗚呼!自變故以來,主和議者誰不以此說啖陛下哉!然而卒無一驗,則虜之情偽已可知矣。而陛下尚不覺悟,竭民膏血而不恤,忘國大讐而不報,含垢忍恥,舉天下而臣之甘心焉。就令虜決可和,盡如倫議,天下後世謂陛下何如主?況醜虜變詐百出,而倫又以姦邪濟之,梓宮決不可還,太后決不可復,淵聖決不可歸,中原決不可得,而此膝一屈不可復伸,國勢陵夷不可復振,可為痛哭流涕長太息矣!

向者、陛下間関海道し、危うきこと累卵の如く、当時尚お北面して虜に臣するを忍びず、況んや今国勢稍く張り、諸将尽く鋭く、士卒奮わんと欲す。只だ近頃の如き醜虜の陸梁、偽豫の入寇、固に嘗て之を襄陽に敗り、之を淮上に敗り、之を渦口に敗り、之を淮陰に敗つ。之を往時の海を蹈むの危に校ぶれば、固に已に万万、倘や已むを得ずして兵を用うるに至らば、則ち我豈に遽かに虜人の下に出でんや。今、故無くして反って之に臣せんとし、万乗の尊を屈し、穹廬の拝に下らんと欲す。三軍の士は戦わずして気已に索ん。此れ魯仲連の義を以て秦に帝せざる所以にして、夫れ秦に帝するの虚名を惜しむに非ず、天下の大勢に不可有る所を惜しむなり。今、内に百官、外に軍民、万口一談、皆王倫の肉を食わんと欲す。謗議洶洶、陛下聞かず、正に一旦変作するを恐れ、禍且つ測るべからず。臣窃かに謂う、王倫を斬らざれば、国の存亡未だ知るべからずと。

原文向者陛下間關海道,危如累卵,當時尚不忍北面臣虜,況今國勢稍張,諸將盡銳,士卒思奮。只如頃者醜虜陸梁,偽豫入寇,固嘗敗之於襄陽,敗之於淮上,敗之於渦口,敗之于淮陰,校之往時蹈海之危,固已萬萬,儻不得已而至於用兵,則我豈遽出虜人下哉?今無故而反臣之,欲屈萬乘之尊,下穹廬之拜,三軍之士不戰而氣已索。此魯仲連所以義不帝秦,非惜夫帝秦之虛名,惜天下大勢有所不可也。今內而百官,外而軍民,萬口一談,皆欲食倫之肉。謗議洶洶,陛下不聞,正恐一旦變作,禍且不測。臣竊謂不斬王倫,國之存亡未可知也。

然りと雖も、王倫は道うるに足らず、秦檜は腹心の大臣として而も亦之を為す。陛下に堯舜の資有り、秦檜は君を致して唐虞の如くする能わずして、陛下を導きて石晋たらしめんと欲す。近者、礼部侍郎曾開等古誼を引きて之を折るに、秦檜は乃ち厲声して責めて曰く、『侍郎故事を知る、我独り知らざらんや』と。則ち秦檜の非を遂げ諫を愎むる、已に自ら見るべく、而して乃ち建白して台諫・侍臣に可否を僉議せしむ、是れ蓋し天下の己を議するを畏れ、台諫・侍臣をして共に謗を分からしめんとするなり。識有るの士皆朝廷人無しと為す、吁、惜しむべし哉。

原文雖然,倫不足道也,秦檜以腹心大臣而亦為之。陛下有堯、舜之資,檜不能致君如唐、虞,而欲導陛下為石晉,近者禮部侍郎曾開等引古誼以折之,檜乃厲聲責曰:『侍郎知故事,我獨不知?』則檜之遂非愎諫,已自可見,而乃建白令臺諫、侍臣僉議可否,是蓋畏天下議己,而令臺諫、侍臣共分謗耳。有識之士皆以為朝廷無人,吁,可惜哉!

孔子曰く、『管仲微ならば、吾其れ発を被り左衽せん』と。夫れ管仲は、霸は者の佐に過ぎず、尚お左衽の区を変じて衣裳の会と為す能う。秦檜は、大国の相なり、反って衣冠の俗を駆りて左衽の郷と為さんとす。則ち秦檜は唯だ陛下の罪人のみに非ず、実に管仲の罪人なり。孫近は秦檜の議に傅会し、遂に参知政事を得たり。天下治まるを望むこと饑渇の如く有るに、孫近は中書に伴食し、漫りに敢えて事の可否せず。秦檜曰く虜和すべしと、孫近も亦曰く和すべしと。秦檜曰く天子拝すべしと、孫近も亦曰く拝すべしと。臣嘗て政事堂に至り、三たび問いて孫近答えず、但だ曰く、『已に台諫・侍従に議せしむ』と。嗚呼、大政に参賛し、徒に位を充つることを取るのみ此の如し。仮に虜騎長駆す有らば、尚お折衝禦侮する能わんや。臣窃かに謂う、秦檜・孫近も亦斬るべしと。

原文孔子曰:『微管仲,吾其被髮左衽矣。』夫管仲,霸者之佐耳,尚能變左衽之區,而為衣裳之會。秦檜,大國之相也,反驅衣冠之俗,而為左衽之鄉。則檜也不唯陛下之罪人,實管仲之罪人矣。孫近傅會檜議,遂得參知政事,天下望治有如饑渴,而近伴食中書,漫不敢可否事。檜曰虜可和,近亦曰可和;檜曰天子當拜,近亦曰當拜。臣嘗至政事堂,三發問而近不答,但曰:『已令臺諫、侍從議矣。』嗚呼!參贊大政,徒取充位如此。有如虜騎長驅,尚能折衝禦侮耶?臣竊謂秦檜、孫近亦可斬也。

臣枢属に備員し、義秦檜等と天を共に戴かず。区々の心、願わくは三人の頭を断ち、之を藁街に竿げ、然る後に虜使を羈留し、無礼を責め、徐に問罪の師を興し、則ち三軍の士は戦わずして気自ら倍せん。然らずんば、臣は東海に赴きて死する有らんのみ、寧んぞ能く小朝廷に処りて活きを求めんや。」

原文臣備員樞屬,義不與檜等共戴天,區區之心,願斷三人頭,竿之藁街,然後羈留虜使,責以無禮,徐興問罪之師,則三軍之士不戰而氣自倍。不然,臣有赴東海而死爾,寧能處小朝廷求活邪!」

上書既に上るや、秦檜は胡銓が狂妄凶悖、衆を鼓し劫持すとし、詔して名を除き、昭州に編管し、仍て詔を降して中外に播告せしむ。給・舍・台諫及び朝臣多く之を救う者有り、秦檜公論に迫られ、乃ち胡銓を以て広州塩倉を監せしむ。明年、改めて威武軍判官に簽書す。十二年、諫官羅汝楫胡銓を劾し非を飾り横議すとす、詔して名を除き、新州に編管す。十八年、新州守臣張棣胡銓を訐り客と唱酬し、謗訕怨望すとす、移して吉陽軍に謫す。

原文書既上,檜以銓狂妄凶悖,鼓眾劫持,詔除名,編管昭州,仍降詔播告中外。給、舍、臺諫及朝臣多救之者,檜迫於公論,乃以銓監廣州鹽倉。明年,改簽書威武軍判官。十二年,諫官羅汝楫劾銓飾非橫議,詔除名,編管新州。十八年,新州守臣張棣訐銓與客唱酬,謗訕怨望,移謫吉陽軍。

二十六年、秦檜死す、胡銓量移して衡州に至る。胡銓の初め上書するや、宜興の進士吳師古木を鋟って之を伝う、金人其の書を千金を募る。其の広州に謫せらるるや、朝士陳剛中啓事を以て賀と為す。其の新州に謫せらるるや、同郡の王庭珪詩を以て行を贈る。皆人の為に訐せられ、師古は袁州に流され、廷珪は辰州に流され、剛中は謫せられて虔州安遠県を知り、遂に死す。三十一年、胡銓自便を得る。

原文二十六年,檜死,銓量移衡州。銓之初上書也,宜興進士吳師古鋟木傳之,金人募其書千金。其謫廣州也,朝士陳剛中以啟事為賀。其謫新州也,同郡王庭珪以詩贈行。皆為人所訐,師古流袁州,廷珪流辰州,剛中謫知虔州安遠縣,遂死焉。三十一年,銓得自便。

孝宗即位し、復た奉議郎・饒州知事と為す。召対し、徳を修め民を結び兵を練り釁を観るを言う。上曰く、「久しく卿の直諒を聞く。」吏部郎官を除く。隆興元年、秘書少監に遷り、起居郎に擢でられ、史官の職を失うる者四つを論ず。一に記注必ずしも進呈せず、庶くは人主に史を観ざるの美有らんことを謂い、二に唐制二史螭頭の下に立つ、今殿の東南隅に在りて言動未だ嘗て聞くを得ずと謂い、三に二史後殿に立ちて前殿に立たず、願わくは前後殿皆日に分かれて侍立せんことを乞い、四に史官其の直前に往かんと欲するに、閤門未だ嘗て牒を預けず、今日班次無きを以て辞と為す、願わくは今より直前に言事し、必ずしも閤門に牒を預けず、及び有無班次を以て拘わられざらんことを乞う。詔して之に従う。兼ねて侍講・国史院編修官と為す。因りて『礼記』を講じ、曰く、「君は礼を以て重しと為し、礼は分を以て重しと為し、分は名を以て重しと為す。願わくは陛下名器を以て軽々しく人に仮すこと無からんことを。」

原文孝宗即位,復奉議郎、知饒州。召對,言修德、結民、練兵、觀釁,上曰:「久聞卿直諒。」除吏部郎官。隆興元年,遷秘書少監,擢起居郎,論史官失職者四:一謂記注不必進呈,庶人主有不觀史之美;二謂唐制二史立螭頭之下,今在殿東南隅,言動未嘗得聞;三謂二史立後殿,而前殿不立,乞於前後殿皆分日侍立;四謂史官欲其直前,而閤門以未嘗預牒,以今日無班次為辭,乞自今直前言事,不必預牒閤門,及以有無班次為拘。詔從之。兼侍講、國史院編修官。因講《禮記》,曰:「君以禮為重,禮以分為重,分以名為重,願陛下無以名器輕假人。」

又進みて言い、都を建康にせんことを乞う。謂うに、「漢高関中に入り、光武信都を守る。大抵人と闘うに、其の吭を搤え其の背を拊せずんば、全勝する能わず。今日の大勢、淮以北より、天下の吭と背なり、建康は則ち之を搤え之を拊するの地なり。若し進みて建康に拠り、下りて中原に臨まば、此れ高・光の興王の計なり。」と。

原文又進言乞都建康,謂:「漢高入關中,光武守信都。大抵與人鬥,不搤其吭,拊其背,不能全勝。今日大勢,自淮以北,天下之吭與背也,建康則搤之拊之之地也。若進據建康,下臨中原,此高、光興王之計也。」

詔を下して行幸を議せしむると、言者はその期日を延期するよう請い、遂に張浚に師を視察させて恢復を図らしめ、侍御史王十朋がこれを賛成した。宿州を克復するや、大将李顯忠はその金帛を私し、且つ邵宏淵と忿争し、軍は大いに潰えた。十朋は自らを劾した。上は甚だ怒り、銓は上疏して、願わくは小敗を以て自ら沮喪せざることを願うと述べた。

原文詔議行幸,言者請紓其期,遂以張浚視師圖恢復,侍御史王十朋贊之。克復宿州,大將李顯忠私其金帛,且與邵宏淵忿爭,軍大潰。十朋自劾。上怒甚,銓上疏願毋以小衄自沮。

時に旱魃・蝗害・星変あり、詔して政事の闕失を問うと、銓は詔に応じて数千言を上書し、終始『春秋』の災異を書くの法を以て、政令の闕失は十あり、而して上下の情の合わざることもまた十あると述べ、且つ言うには、「堯・舜は四目を明らかにし、四聡に達し、共工・鯀がいたとしても、塞ぐことはできなかった。秦の二世は趙高を腹心とし、劉邦りゅうほう・項羽こううが横行しても聞くことができず、漢の成帝は王章を殺し、王氏が鼎を移しても聞くことができず、霊帝は竇武・陳蕃を殺し、天下が横潰しても聞くことができず、梁の武帝は朱异を信じ、侯景が関を斬っても聞くことができず、隋の煬帝は虞世基を信じ、李密が帝を称しても聞くことができず、唐の明皇は張九齢を逐い、安禄山・史思明が禍を胎しても聞くことができなかった。陛下が即位されて以来、逐客を召し寄せられ、臣とともに召された者は張燾・辛次膺・王大寶・王十朋であるが、今や燾は去り、次膺は去り、十朋は去り、大寶もまた将に去らんとし、ただ臣のみが残っている。言論を忌諱とし、而して災異の源を塞がんと欲するならば、臣は必ずやできないことを知っている。」

原文時旱蝗、星變,詔問政事闕失,銓應詔上書數千言,始終以《春秋》書災異之法,言政令之闕有十,而上下之情不合亦有十,且言:「堯、舜明四目,達四聰,雖有共、鯀,不能塞也。秦二世以趙高為腹心,劉、項橫行而不得聞;漢成帝殺王章,王氏移鼎而不得聞;靈帝殺竇武、陳蕃,天下橫潰而不得聞;梁武信朱异,侯景斬關而不得聞;隋煬帝信虞世基,李密稱帝而不得聞;唐明皇逐張九齡,安、史胎禍而不得聞。陛下自即位以來,號召逐客,與臣同召者張燾、辛次膺、王大寶、王十朋,今燾去矣,次膺去矣,十朋去矣,大寶又將去,惟臣在爾。以言為諱,而欲塞災異之源,臣知其必不能也。」

銓はまた言うには、「昔、周の世宗は劉旻に敗れたが、敗将の何徽ら七十人を斬り、軍威は大いに震い、果たして旻を破り、淮南を取り、三関を定めた。一日に七十将を戮するなど、どうして再び将を用いることがあろうか? 然るに世宗は終に恢復することができた。凡庸懦弱なる者去らざれば、勇敢なる者出でざるということではないか! 近く宿州の敗戦に、敵のために死した士卒は野に満ちたるに、敗軍の将は得たる金を以て権貴に賄賂して自らを解き、上天は変異を昭然と示している。陛下は信賞必罰を以て天に応ぜざるべからず。」その諫言を容れることについて論じて曰く、「今、廷臣は箝黙を賢とし、容悦を忠とする。馴致して興元の幸(天子の行幸)に至るは、所謂『一言にして邦を喪う』である。」上曰く、「卿にあらずんば、この言葉を聞かず。」

原文銓又言:「昔周世宗為劉旻所敗,斬敗將何徽等七十人,軍威大震,果敗旻,取淮南,定三關。夫一日戮七十將,豈復有將可用?而世宗終能恢復,非庸懦者去,則勇敢者出耶!近宿州之敗,士死於敵者滿野,而敗軍之將以所得之金賂權貴以自解,上天見變昭然,陛下非信賞必罰以應天不可。」其論納諫曰:「今廷臣以箝默為賢,容悅為忠。馴至興元之幸,所謂『一言喪邦』。」上曰:「非卿不聞此。」

金人が和を求めると、銓は言う、「金人は陛下が恢復に鋭意なることを知り、故に甘言を以て我を款なだめんとする。願わくは口を絶って『和』の字を言うなかれ。」上は辺事を全く張浚に倚りしが、王之望・尹穡は専ら和を主として浚を排し、銓は朝廷で彼らを責めた。兼ねて権中書舎人・同修国史を務む。張浚の子の栻に金紫が賜わると、銓はこれを返上して奏し、勲臣の子をこのように待遇すべきではないと謂う。浚は平素より銓と厚く、顧みなかった。

原文金人求成,銓曰:「金人知陛下銳意恢復,故以甘言款我,願絕口勿言『和』字。」上以邊事全倚張浚,而王之望、尹穡專主和排浚,銓廷責之。兼權中書舍人、同修國史。張浚之子栻賜金紫,銓繳奏之,謂不當如此待勳臣子。浚雅與銓厚,不顧也。

十一月、詔して和戎のため使節を遣わすに当たり、朝廷において大いに諮詢し、侍従・台諫で議に預かる者は凡そ十四人。和を主とする者は半ば、可否を言う者は半ば、和すべからずと言う者は銓ただ一人のみであった。乃ち独り一つの議を上って曰く、「京師失守は耿南仲が和を主としたことに始まり、二聖の播遷は何㮚が和を主としたことに始まり、維揚失守は汪伯彦・黄潛善が和を主としたことに始まり、完顔亮の変は秦檜が和を主としたことに始まる。議者は乃ち曰く、『外は和すれども内は戦を忘れず』と。これは従来の権臣が国を誤った言葉である。一旦和に溺れば、自ら振るうことができず、尚よく戦うことができようか?」宗正少卿に除せられ、外補を乞うたが、許されなかった。

原文十一月,詔以和戎遣使,大詢于庭,侍從、臺諫預議者凡十有四人。主和者半,可否者半,言不可和者銓一人而已,乃獨上一議曰:「京師失守自耿南仲主和,二聖播遷自何㮚主和,維揚失守自汪伯彥、黃潛善主和,完顏亮之變自秦檜主和。議者乃曰:『外雖和而內不忘戰。』此向來權臣誤國之言也。一溺於和,不能自振,尚能戰乎?」除宗正少卿,乞補外,不許。

先に、金の将蒲察徒穆・大周仁が泗州を以て降り、蕭琦が軍百人を率いて降り、詔して並びに節度使となす。銓言う、「降を受くるは古より難し。六朝は七たび河南の地を得たれども、踵を旋めぐらさずして皆失い、梁の武帝の時、侯景は河南を以て来奔したれども、未幾にして台城を陥とし、宣和・政和の間、郭薬師は燕雲より来降したれども、未幾にして中国の患いとなった。今、金の三大将が内附し、その爵禄を高くし、その部曲を優遇して、中原の心を繋ぐは善い。然れども彼らを近地に処すれば、万一禍心を包蔵し、或いは内応とならんには、後将に臍を噬ぜいわん。願わくは兵権を任せず、その衆を湖・広に遷して後患を絶たん。」

原文先是,金將蒲察徒穆、大周仁以泗州降,蕭琦以軍百人降,詔並為節度使。銓言:「受降古所難,六朝七得河南之地,不旋踵而皆失;梁武時侯景以河南來奔,未幾而陷臺城;宣、政間郭藥師自燕雲來降,未幾為中國患。今金之三大將內附,高其爵祿,優其部曲,以繫中原之心,善矣。然處之近地,萬一包藏禍心,或為內應,後將噬臍,願勿任以兵柄,遷其眾於湖、廣以絕後患。」

二年、国子祭酒を兼ね、尋いで権兵部侍郎に除せらる。八月、上は災異のため殿を避け膳を減じ、詔して廷臣に闕政と急務を言わしむ。銓は災害救済を急務とし、和議を闕政とす。その和議に関する上書に曰く、

原文二年,兼國子祭酒,尋除權兵部侍郎。八月,上以災異避殿減膳,詔廷臣言闕政急務。銓以振災為急務,議和為闕政,其議和之書曰:

靖康より今に至るまで凡そ四十年、三たび大変に遭うこと、皆和議に在り。則ち醜虜と和すべからざること、彰彰然たり。肉食の鄙夫、万口一談、牢として破るべからず。和議の害を知らざるに非ざるも、争って和と為すを言う者は、これ三つの説有り。曰く、偷懦(苟且で懦弱)、曰く、苟安、曰く、附会。偷懦は則ち国を立つるを知らず、苟安は則ち鴆毒を戒めず、附会は則ち美官を得んと覬う。小人の情状、此に具わる。

原文自靖康迄今凡四十年,三遭大變,皆在和議,則醜虜之不可與和,彰彰然矣。肉食鄙夫,萬口一談,牢不可破。非不知和議之害,而爭言為和者,是有三說焉:曰偷懦,曰苟安,曰附會。偷懦則不知立國,苟安則不戒鴆毒,附會則覬得美官,小人之情狀具於此矣。

今日の議若し成らば、則ち弔うべきこと十有り。若し成らざれば、則ち賀すべきこと亦十有り。請う、陛下の為に極言せん。何をか弔うべきこと十と謂う。

原文今日之議若成,則有可弔者十;若不成,則有可賀者亦十。請為陛下極言之。何謂可弔者十?

真宗皇帝の時、宰相李沆、王旦に謂いて曰く、「我死なば、公必ず相と為るべし、決して虜と講和するなかれ。我聞く、出ずれば則ち敵国・外患無く、是の如き者は国常に亡ぶと。若し虜と和せば、此より中国必ず多事とならん。」旦は殊に然りと為さず。既にして遂に和し、海内は乾耗し、旦始めて文靖(李沆の諡)の言を用いざるを悔ゆ。此れ弔うべきこと一なり。

原文真宗皇帝時,宰相李沆謂王旦曰:「我死,公必為相,切勿與虜講和。吾聞出則無敵國外患,如是者國常亡,若與虜和,自此中國必多事矣。」旦殊不以為然。既而遂和,海內乾耗,旦始悔不用文靖之言。此可弔者一也。

中原に謳吟し思帰の人は、日夜領を引いて陛下の溺を拯い焚を救わんことを望むこと、赤子の慈父母を望むに啻ならず。一旦虜と和すれば、則ち中原は絶望し、後悔何ぞ及ばん。此れ弔うべきこと二なり。

原文中原謳吟思歸之人,日夜引領望陛下拯溺救焚,不啻赤子之望慈父母,一與虜和,則中原絕望,後悔何及。此可弔者二也。

海州・泗州は今日の藩籬・咽喉なり。彼が海・泗を得ば、且つ吾が藩籬を決して吾が室を瞰み下ろし、吾が咽喉を扼して吾が命を制せん。則ち両淮は決して保つべからず。両淮保たずんば、則ち大江は決して守るべからず。大江守らずんば、則ち江・浙は決して安んずべからず。此れ弔うべきこと三なり。

原文海、泗今日之藩籬咽喉也,彼得海、泗,且決吾藩籬以瞰吾室,扼吾咽喉以制吾命,則兩淮決不可保。兩淮不保,則大江決不可守,大江不守,則江、浙決不可安。此可弔者三也。

紹興戊午(八年)、和議既に成り、檜は建議して二三大臣、路允迪等の如きを遣わし、分かれて南京等州に往きて帰地を交割せしむ。一旦盟に叛き、允迪等を劫執し、遂に親征の詔を下す。虜復た和を請う。その反覆変詐此の如し。檜猶お悟らず、初めの如く之を奉じ、事うること愈謹にし、賂うること愈厚くし、卒に逆亮(完顔亮)の変有り、輦轂を驚動す。太上(高宗)謀りて海に入らんと欲し、行朝の居民一空す。覆轍遠からず、忽ゆるがせにして戒めずんば、臣恐らくは後車又た覆らんとす。此れ弔うべきこと四なり。

原文紹興戊午,和議即成,檜建議遣二三大臣如路允迪等,分往南京等州交割歸地。一旦叛盟,劫執允迪等,遂下親征之詔,虜復請和。其反覆變詐如此,檜猶不悟,奉之如初,事之愈謹,賂之愈厚,卒有逆亮之變,驚動輦轂。太上謀欲入海,行朝居民一空,覆轍不遠,忽而不戒,臣恐後車又將覆也。此可弔者四也。

紹興の和、首に議して決して帰正人を与えずとす。口血未だ乾かざるに、尽く前議を変ず。凡そ帰正の人一切に遣還し、程師回・趙良嗣等の如きは族数百を聚め、幾くんか蕭牆の憂いと為らんとす。今必ず尽く帰正の人を索めば、之を与うれば則ち反側して変を生じ、与えざれば則ち虜決して肯て但ただ已やまざらん。夫れ反側すれば則ち肘腋の変深く、虜決して肯て但已まざれば則ち必ず別に釁端を起こし、猝にわかに逆亮の謀有らんには、何を以てか之を待つを知らず。此れ弔うべきこと五なり。

原文紹興之和,首議決不與歸正人,口血未乾,盡變前議。凡歸正之人一切遣還,如程師回、趙良嗣等聚族數百,幾為蕭牆憂。今必盡索歸正之人,與之則反側生變,不與則虜決不肯但已。夫反側則肘腋之變深,虜決不肯但已,則必別起釁端,猝有逆亮之謀,不知何以待之。此可弔者五也。

檜が国を当てしより二十年間、民の膏血を竭くして犬羊に餌とし、今に至るまで府庫に旬月の儲無く、千村万落生理蕭然たり。重ねて蝗虫・水潦有り。此より復た和せば、則ち国を蠹き民を害すること、殆ど之より甚だしき者有らん。此れ弔うべきこと六なり。

原文自檜當國二十年間,竭民膏血以餌犬羊,迄今府庫無旬月之儲,千村萬落生理蕭然,重以蝗蟲水潦。自此復和,則蠹國害民,殆有甚焉者矣。此可弔者六也。

今日の患は、兵費既に広く、養兵の外に又歳幣を増し、且つ少なくも十年を以て之を計れば、其の費慮る無く数千億なり。而して歳幣の外に、又私覿の費有り;私覿の外に、又賀正・生辰の使有り;賀正・生辰の外に、又泛使有り。一使未だ去らず、一使復た来たり、生民奔命に疲れ、帑廩将迎に涸れ、中国を瘠せしめて以て虜を肥やす、陛下何を憚りて之を為すや。此れ其の弔う可き者七なり。

原文今日之患,兵費已廣,養兵之外又增歲幣,且少以十年計之,其費無慮數千億。而歲幣之外,又有私覿之費;私覿之外,又有賀正、生辰之使;賀正、生辰之外,又有泛使。一使未去,一使復來,生民疲於奔命,帑廩涸於將迎,瘠中國以肥虜,陛下何憚而為之。此其可弔者七也。

側く聞く、虜人の嫚書、御名を書かんと欲し、国号「大」の字を去らんと欲し、再拝を用いんと欲すと。議者以為く、繁文小節は必ずしも計較せずと、臣切に以為く、議者は斬る可しと。夫れ四郊多壘は、卿大夫の辱なり;楚子鼎を問うは、義士の深く恥ずる所なり;「献納」の二字は、富弼死を以て之を争えり。今醜虜横行と多壘と孰れか辱しきや?国号の大小と鼎の軽重と孰れか多きや?「献納」の二字と再拝と孰れか重きや?臣子君父の己を屈して以て之に従わんと欲せば、則ち是れ多壘は辱しむるに足らず、鼎を問うは必ずしも恥ずるに及ばず、「献納」は必ずしも争うに及ばず。此れ其の弔う可き者八なり。

原文側聞虜人嫚書,欲書御名,欲去國號「大」字,欲用再拜。議者以為繁文小節不必計較,臣切以為議者可斬也。夫四郊多壘,卿大夫之辱;楚子問鼎,義士之所深恥;「獻納」二字,富弼以死爭之。今醜虜橫行與多壘孰辱?國號大小與鼎輕重孰多?「獻納」二字與再拜孰重?臣子欲君父屈己以從之,則是多壘不足辱,問鼎不必恥,「獻納」不必爭。此其可弔者八也。

臣恐らくは、再拝已まずば必ず称臣に至り、称臣已まずば必ず請降に至り、請降已まずば必ず納土に至り、納土已まずば必ず銜璧に至り、銜璧已まずば必ず輿櫬に至り、輿櫬已まずば必ず晋帝の青衣行酒の如くなるに至りて然る後に快と為さんと。此れ其の弔う可き者九なり。

原文臣恐再拜不已必至稱臣,稱臣不已必至請降,請降不已必至納土,納土不已必至銜壁,銜壁不已必至輿櫬,輿櫬不已必至如晉帝青衣行酒然後為快。此其可吊者弔也。

事此に至りては、匹夫たるを求むるも尚ほ得可きか。此れ其の弔う可き者十なり。

原文事至於此,求為匹夫尚可得乎?此其可弔者十也。

窃かに今日の勢を観るに、和は決して成らず、儻し乾剛独断して、使者魏杞・康湑等を追回し、請和の議を絶ちて以て戦士を鼓し、哀痛の詔を下して以て民心を収めば、天下庶幾くは其れ為す可きならん。此くの如くせば則ち賀す可き者も亦十有り:数千億の歳幣を省く、一なり;武備に意を専らにし、食を足し兵を足す、二なり;書名の恥無し、三なり;「大」を去るの辱無し、四なり;再拝の屈無し、五なり;称臣の忿無し、六なり;請降の禍無し、七なり;納土の悲無し、八なり;銜璧・輿櫬の酷無し、九なり;青衣行酒の冤無し、十なり。

原文竊觀今日之勢,和決不成,儻乾剛獨斷,追回使者魏杞、康湑等,絕請和之議以鼓戰士,下哀痛之詔以收民心,天下庶乎其可為矣。如此則有可賀者亦十:省數千億之歲幣,一也;專意武備,足食足兵,二也;無書名之恥,三也;無去「大」之辱,四也;無再拜之屈,五也;無稱臣之忿,六也;無請降之禍,七也;無納土之悲,八也;無銜璧、輿櫬之酷,九也;無青衣行酒之冤,十也。

十弔を去りて十賀に就かば、利害較然たり、三尺の童稚と雖も之を知るに、而るに陛下悟らず。『春秋左氏』に無勇の者を婦人と謂う、今日挙朝の士皆婦人なり。臣の言を然らずと為すに如かば、乞う流放竄殛を賜い、以て臣子の位を出で分を犯すの戒めと為さんことを。

原文去十弔而就十賀,利害較然,雖三尺童稚亦知之,而陛下不悟。《春秋左氏》謂無勇者為婦人,今日舉朝之士皆婦人也。如以臣言為不然,乞賜流放竄殛,以為臣子出位犯分之戒。

符離の敗より、朝論戎和に急にして、唐・鄧・海・泗の四州を棄てて虜に与えたり。金又商・秦の地を得んと欲し、歳幣を邀え、使者魏杞を留め、兵を分かちて淮を攻む。本職を以て浙西・淮東海道を措置す。

原文自符離之敗,朝論急於和戎,棄唐、鄧、海、泗四州與虜矣。金又欲得商、秦地,邀歲幣,留使者魏杞,分兵攻淮。以本職措置浙西、淮東海道。

時に金使僕散忠義・紇石烈志寧の兵号八十万、劉宝楚州を棄て、王彦昭関を棄て、濠・滁皆陥つ。惟だ高郵守臣陳敏敵を射陽湖に拒ぐも、而して大将李宝預め密詔を求めて自安の計と為し、兵を擁して救わず。銓之を劾奏し、曰く、「臣詔を受けて范栄に淮を備えしめ、李宝に江を備えしめ、緩急相援けしむ。今宝敏を見て救わず、若し射陽守を失せば、大事去らん。」宝懼れ、始めて師を出して掎角す。時に大雪、河氷皆合す、銓先ず鉄鎚を以て氷を鎚ち、士皆命を用う、金人遂に退く。久しくして、太平興国宮を提挙す。

原文時金使僕散忠義、紇石烈志寧之兵號八十萬,劉寶棄楚州,王彥棄昭關,濠、滁皆陷。惟高郵守臣陳敏拒敵射陽湖,而大將李寶預求密詔為自安計,擁兵不救。銓劾奏之,曰:「臣受詔令范榮備淮,李寶備江,緩急相援。今寶視敏弗救,若射陽失守,大事去矣。」寶懼,始出師掎角。時大雪,河冰皆合,銓先持鐵鎚鎚冰,士皆用命,金人遂退。久之,提舉太平興國宮。

乾道初め、集英殿修撰を以て漳州を知り、泉州に改む。趣に奏事を促され、留められて工部侍郎と為る。入対し、言う、「少康一旅を以て禹績を復す、今陛下四海に富み、一旅に非ざるも、即位九年、禹を復するの效未だ赫然たらず。」又言う、「四方水旱多く、左右以て告げず、国を謀る者の過ちなり、宜しく有司に令して速やかに先備を為さしむべし。」致仕を乞う。

原文乾道初,以集英殿修撰知漳州,改泉州。趣奏事,留為工部侍郎。入對,言:「少康以一旅復禹績,今陛下富有四海,非特一旅,而即位九年,復禹之效尚未赫然。」又言:「四方多水旱,左右不以告,謀國者之過也,宜令有司速為先備。」乞致仕。

七年、宝文閣待制を除し、経筵に留む。去らんことを求め、敷文閣直学士を以て外祠と為す。陛辞に、猶帰陵寢・故疆を復するを言とし、上曰く、「朕が志なり。」且つ今何に帰るかと問う、銓曰く、「廬陵に帰る、臣向に嶺海に在りて嘗て諸経を訓伝し、此の書を成さんと欲す。」特め通天犀帯を賜いて以て之を寵す。

原文七年,除寶文閣待制,留經筵。求去,以敷文閣直學士與外祠。陛辭,猶以歸陵寢、復故疆為言,上曰:「朕志也。」且問今何歸,銓曰:「歸廬陵,臣向在嶺海嘗訓傳諸經,欲成此書。」特賜通天犀帶以寵之。

銓帰り、上る所著の『易』・『春秋』・『周礼』・『礼記解』、詔して秘書省に蔵む。尋いで元官を復し、龍図閣学士に昇り・太平興国宮を提挙し、転じて玉隆万寿宮を提挙し、端明殿学士に進む。六年、召して経筵に帰す、銓疾を引きて力辞す。七年、資政殿学士を以て致仕す。薨じ、諡して「忠簡」と曰う。『澹庵集』一百巻世に行わる。孫槻・榘、皆尚書に至る。

原文銓歸,上所著《易》、《春秋》、《周禮》、《禮記解》,詔藏秘書省。尋復元官,升龍圖閣學士、提舉太平興國宮,轉提舉玉隆萬壽宮,進端明殿學士。六年,召歸經筵,銓引疾力辭。七年,以資政殿學士致仕。薨,諡「忠簡」。有《澹庵集》一百卷行於世。孫槻、榘,皆至尚書。

廖剛

原文廖剛

廖剛、字は用中、南剣州順昌の人。少く陳瓘・楊時に従いて学ぶ。崇寧五年進士第に登る。宣和初め、漳州司録より国子録を除し、監察御史に擢でる。時に蔡京国に当たり、剛論奏するに避くる所無し。親老を以て外補を求め、出でて興化軍を知る。欽宗即位し、右正言を以て召す。父憂に丁し、服闋し、工部員外郎を除し、母疾を以て辞す。

原文廖剛,字用中,南劍州順昌人。少從陳瓘、楊時學。登崇寧五年進士第。宣和初,自漳州司錄除國子錄,擢監察御史。時蔡京當國,剛論奏無所避。以親老求補外,出知興化軍。欽宗即位,以右正言召。丁父憂,服闋,除工部員外郎,以母疾辭。

紹興元年、盗旁郡に起こり、官吏悉く逃げ去る、順昌の民剛を以て命と為す。剛盗に従う者に諭して反業せしめ、既にして他盗順昌に入る、部使者剛に檄して撫定せしむ。剛長子遅を遣わして賊を諭す、賊剛父子信義有るを知り、亦散去す。本路提点刑獄を除す。

原文紹興元年,盜起旁郡,官吏悉逃去,順昌民以剛為命。剛諭從盜者使反業,既而他盜入順昌,部使者檄剛撫定。剛遣長子遲諭賊,賊知剛父子有信義,亦散去。除本路提點刑獄。

尋いで召されて吏部員外郎と為り、言う、「古え天子必ず親兵有り自ら将い、以て不虞を備え主威を強うする所以なり、漢の北軍・唐の神策の類なり。祖宗軍制尤も厳し。願わくは旧制を稽え、精鋭を選びて親兵と為し、居る時は則ち以て衛と為し、動く時は則ち以て中軍と為せ、此れ幹を強くし枝を弱くするの道なり。」又言う、「国家艱難已に極まれり、今方に新たに図らんとす、会稽誠に久駐の地に非ず。請う建康を経営し、親しく六師を擁して往き固守の計と為し、以て金人の窺伺の意を杜がんことを。」起居舎人に遷り・権吏部侍郎兼侍講し、給事中を除す。

原文尋召為吏部員外郎,言:「古者天子必有親兵自將,所以備不虞而強主威,漢北軍、唐神策之類也。祖宗軍制尤嚴。願稽舊制,選精銳為親兵,居則以為衛,動則以為中軍,此強幹弱枝之道。」又言:「國家艱難已極,今方圖新,若會稽誠非久駐之地。請經營建康,親擁六師往為固守計,以杜金人窺伺之意。」遷起居舍人、權吏部侍郎兼侍講,除給事中。

母の喪に服し、喪が明けると、再び給事中に任ぜられた。廖剛は言う、「国は一日も兵なくしてはならず、兵は一日も食なくしてはならぬ。今、諸将の兵は江・淮に備え、幾万と知れず、初めより蓄積なく、日々に東南の転餉に哺を待つ。浙民は既に困窮す。この患を救わんと欲すれば、屯田に如くはなし」と。因みに三つの説を献じ、将校に射耕能くする者あれば、優賞を加うべく、耕田一頃ごとに、一資を転ずべし。百姓の耕さんと願う者には、糧種を仮し、また租賦を復すべしと。上は都督ととく府に措置せしむ。

原文丁母憂,服闋,復拜給事中。剛言:「國不可一日無兵,兵不可一日無食。今諸將之兵備江、淮,不知幾萬,初無儲蓄,日待哺于東南之轉餉,浙民已困,欲救此患莫若屯田。」因獻三說,將校有能射耕,當加優賞,每耕田一頃,與轉一資;百姓願耕,假以糧種,復以租賦。上令都督府措置。

時に朝廷は章惇・蔡卞の国を誤らせた罪を推究し、その身を追貶し、なお詔して子孫をして中朝に官を得しめざらしむ。ここに至り章傑は崇道観より婺州の知州となり、章僅は太府丞より江東茶塩事を提挙す。廖剛は詔書を封還し、謂う、もしこの如くならば、何を以て懲しめを示さんや、と。乃ち並びに祠官とす。権戸部侍郎となり、尋いで刑部侍郎に遷る。外補を求め、徽猷閣直学士・漳州知州に除せらる。

原文時朝廷推究章惇、蔡卞誤國之罪,追貶其身,仍詔子孫毋得官中朝。至是章傑自崇道觀知婺州,章僅自太府丞提舉江東茶鹽事。剛封還詔書,謂即如此,何以示懲,乃並與祠。權戶部侍郎,尋遷刑部侍郎。求補外,除徽猷閣直學士、知漳州。

七年二月、日食あり、詔して内外の官に事を言わしむ。廖剛は言う、「陛下には建国の封あり、以て天意を承け、天下後世に大公を示す所以なり。然るに未だ名を正さざるは、豈に待つところあらざらんや。待つところあれば、則ち是れ天に応ずるの誠至らざるなり。願わくは陛下、藝祖の在天の霊に昭告し、建国儲君の号を正し、中外に布告して、その旨を匿さざらしめよ。異時に百斯男ありと雖も、復た更易せず、天下孰か敢えて服さざらん」と。上これを読みて聳然とし、即ち廖剛を召し闕に趣かしめ、御史中丞に拝す。廖剛は言う、「臣の職は姦邪を糾す、大體に務むべし。若し細故を捃摭せば、則ち臣が本心に非ず」と。又た経費支えず、盗賊息まず、事功立たず、命令孚らず、及び兵驕り官冗なるの弊を奏す。

原文七年二月,日有食之,詔內外官言事。剛言:「陛下有建國之封,所以承天意、示大公於天下後世者也,然而未遂正名者,豈非有所待耶?有所待,則是應天之誠未至也。願陛下昭告藝祖在天之靈,正建國儲君之號,佈告中外,不匿厥旨。異時雖百斯男,不復更易,天下孰敢不服。」上讀之聳然,即召剛趣至闕,拜御史中丞。剛言:「臣職糾姦邪,當務大體,若捃摭細故,則非臣本心。」又奏經費不支,盜賊不息,事功不立,命令不孚,及兵驕官冗之弊。

時に徽宗は既に崩御せり。上は朔望に遇うも猶お群臣を率いて淵聖に遙拝す。廖剛は言う、「礼には隆殺あり、兄君たれば則ちこれを君とし、己君たれば則ちこれを兄とす可し。望むらくは聖心を勉めて抑え、但だ歳時に家人の礼を内庭に行わしめよ」と。これに従う。

原文時徽宗已崩,上遇朔望猶率群臣遙拜淵聖,剛言:「禮有隆殺,兄為君則君之,己為君則兄之可也。望勉抑聖心,但歲時行家人禮於內庭。」從之。

殿前司、強いて民を刺して兵と為し、及び大将、功を恃み恩を希い、請うところ多く法を廃す。廖剛は知ることを言わざるなく、論列すること四・五に及び、驕横なる者肅然たり。

原文殿前司強刺民為兵,及大將恃功希恩,所請多廢法。剛知無不言,論列至於四五,驕橫者肅然。

鄭億年は秦檜と連なりて美官を得たり。廖剛は顕かにその悪を疏し、檜これを銜む。金人、盟に叛く。廖剛は旧相の徳望ある者を起し、近藩に処せんことを乞う。檜これを聞きて曰く、「是れ我を何れの地に置かんと欲するか」と。工部尚書に改め、而以て王次翁を中丞と為す。初め、辺報至る。従官、都堂に会す。剛、億年に謂いて曰く、「公は百口を以て金人を保つ。今已に約に背けり。何の面目か尚お朝廷に在らん」と。億年、祠官に奉じて去る。次翁と右諫議何鑄、廖剛が劉昉・陳淵を薦め、相い朋比を為すを劾す。以て徽猷閣直学士として亳州明道宮を提挙す。明年、致仕す。紹興十三年に卒す。

原文鄭億年與秦檜有連而得美官,剛顯疏其惡,檜銜之。金人叛盟,剛乞起舊相之有德望者,處以近藩,檜聞之曰:「是欲置我何地耶?」改工部尚書,而以王次翁為中丞。初,邊報至,從官會都堂,剛謂億年曰:「公以百口保金人,今已背約,有何面目尚在朝廷乎?」億年奉祠去。次翁與右諫議何鑄劾剛薦劉昉、陳淵,相為朋比,以徽猷閣直學士提舉亳州明道宮。明年致仕。以紹興十三年卒。

子四人:廖遅・廖過・廖遂・廖遽、仕えて皆麾節を秉り、邦人これを「万石廖氏」と号す。

原文子四人:遲、過、遂、遽,仕皆秉麾節,邦人號為「萬石廖氏」。

李迨

原文李迨

李迨は東平の人なり。曾祖の李參は仕えて尚書右丞に至る。迨は未だ冠せざるに太学に入り、因って開封に居る。蔭により官を補し、初め渤海県尉に調う。

原文李迨,東平人也。曾祖參,仕至尚書右丞。迨未冠入太學,因居開封。以蔭補官,初調渤海縣尉。

時に州県は民兵を団結す。民は田畝の中より起り、坐作進退の節に閑ならず、或いは譁して令を受かざるあり。迨は賞罰を立ててこれを整斉し、累月にして皆精練し、部伍法の如し。部刺史按閲す、一人として行伍を乱す者なし。遂にこれを朝に薦め、合入官に改む。累遷して済州通判となる。

原文時州縣團結民兵,民起田畝中,不閑坐作進退之節,或譁不受令,迨立賞罰以整齊之,累月皆精練,部伍如法。部刺史按閱,無一人亂行伍者,遂薦之朝,改合入官。累遷通判濟州。

時に高宗は大元帥として済を過ぐ。郡守は自ら才及ばずとして、迨に州事を行わしむるを遜る。迨は軍須を応辦して闕くことなし。会に大元帥府、進を勧む。乗輿の儀物皆未だ備わらず。迨は典故に諳熟し、その制を裁定し、日に俟たずして辦ず。上深く歎賞し、即ち随軍輦運に除す。

原文時高宗以大元帥過濟,郡守自以才不及,遜迨行州事,迨應辦軍須無闕。會大元帥府勸進,乘輿儀物皆未備,迨諳熟典故,裁定其制,不日而辦。上深歎賞,即除隨軍輦運。

上、南京に即位す。山東輦運を授け、金部郎に改む。駕に従い維揚に至る。敵、行在所を犯す。即ち金部の籍を取り、国家の経賦に関わる大なるものを載せて行く。及び上に鎮江に於いて。時に建炎三年二月なり。宰相呂頤浩、上に言う。即日召見す。

原文上即位于南京,授山東輦運,改金部郎。從駕至維揚,敵犯行在所,即取金部籍有關於國家經賦之大者載以行,及上於鎮江。時建炎三年二月也。宰相呂頤浩言於上,即日召見。

未だ幾ばくもせず、父の喪に服す。詔して起復せしめ、中散大夫直龍図閣を以て、御営使司参議官兼措置軍前財用と為す。苗傅・劉正彥叛く。呂頤浩・張浚、勤王の師を集む。迨は涙を流して諸将に謂いて曰く、「君第に行け、軍食を慮うること無かれ」と。師の行く所至る処、食は皆先ず具わる。事平らぎ、趙哲等とともに入対す。上これを慰労す。詔して三官を転ぜしむ。拝せずと辞し、権戸部侍郎に除す。

原文未幾,丁父喪,詔起復,以中散大夫直龍圖閣,為御營使司參議官兼措置軍前財用。苗傅、劉正彥叛,呂頤浩、張浚集勤王之師,迨流涕謂諸將曰:「君第行,無慮軍食。」師行所至,食皆先具。事平,同趙哲等入對,上慰勞之。詔轉三官,辭不拜,除權戶部侍郎。

四年、顕謨閣待制を加え、淮南・江・浙・荊湖等路制置発運使と為す。尋いで軍旅甫めて定まるを以て、余服を持たんことを乞う。詔してこれを許す。紹興二年、筠州を知る。明年、信州に移り、尋いで江州太平観を提挙す。

原文四年,加顯謨閣待制,為淮南、江、浙、荊湖等路制置發運使。尋以軍旅甫定,乞持餘服,詔許之。紹興二年,知筠州。明年,移信州,尋提舉江州太平觀。

五年十月、旧職を以て両浙路転運使に除せられ、言う、「祖宗は大梁に都し、歳に東南を漕すること六百余万斛、而して六路の民に飛挽の擾れ無し。蓋し運ぶところは官舟、役するところは兵卒なるが故なり。今、浙右に駐蹕す。漕運の地里は中都の遠きに若かず、而して公私これを苦しむ、何ぞや。以って用うる所の舟、太半民間より取り、往々に井を鑿ち船を沈めてその役を避く。温・明・虔・吉州等の処に置く所の造船場の如きは、乞うらくは逐州の守臣に委ねて措置せしめ、兵卒を募りて牽挽せしめ、使臣に管押せしめよ。庶幾く害民に及ばず、以って漕運の旧制に漸復すべし」と。詔して工部に措置せしむ。尋いで徽猷閣直学士を加え、龍図閣直学士に昇り、四川都転運使兼成都等路茶事提挙と為し、並びに陝西等路買馬を提挙す。

原文五年十月,以舊職除兩浙路轉運使,言:「祖宗都大梁,歲漕東南六百餘萬斛,而六路之民無飛挽之擾,蓋所運者官舟,所役者兵卒故也。今駐蹕浙右,漕運地里不若中都之遠,而公私苦之,何也?以所用之舟太半取於民間,往往鑿井沉船以避其役。如溫、明、虔、吉州等處所置造船場,乞委逐州守臣措置,募兵卒牽挽,使臣管押,庶幾害不及民,可以漸復漕運舊制。」詔工部措置。尋加徽猷閣直學士,升龍圖閣直學士,為四川都轉運使兼提舉成都等路茶事,並提舉陝西等路買馬。

熙寧・元豊以来、初めて熙州・秦州・戎州・黎州等の州に場を設けて馬を買い、川茶は永興等四路に通じたので、成都府・秦州にはいずれも榷茶司が置かれた。この時に関陝は既に失われたので、迨は一司に合併するよう請い、都大提挙茶馬司と名付け、冗費を省くこととし、これに従った。一年余りして、詔により迨は毎年の収支の数を詳細に記して駅伝で奏上することとなり、迨はその経緯を考証して、次のように奏上した。

原文自熙、豐以來,始即熙、秦、戎、黎等州置場買馬,而川茶通於永興四路,故成都府、秦州皆有榷茶司。至是關陝既失,迨請合為一司,名都大提舉茶馬司,以省冗費,從之。踰年,詔迨以每歲收支之數具旁通驛奏,迨乃考其本末,具奏曰:

「紹興四年の収入は銭物三千三百四十二万余緡で、支出より五十一万余緡不足した。五年は三千六十万緡で、支出より一千万余緡不足した。六年は未詳。七年は三千六百六十万余緡で、支出より一百六十一万余緡不足した。従来、歳計が不足する際には、銭引を増発して補助してきた。紹興四年は五百七十六万道を増印し、五年は二百万道を増印し、六年は六百万道を増印した。現在は過剰な発行が多く、引価が急落しているため、これ以降は増印していない。また、歳収の銭物のうち、上供・進奉などの項目一千五百九十九万は、四川の歳入の旧額である。勧諭・激賞などの項目の銭物合わせて二千六十八万は、軍興以後に歳入として増加したもので、旧額を既に倍以上超えており、民から取るものは重いと言える。

原文「紹興四年,所收錢物三千三百四十二萬餘緡,比所支闕五十一萬餘緡。五年,收三千六十萬緡,比所支闕一千萬餘緡。六年,未見。七年,所收三千六百六十萬餘緡,比所支闕一百六十一萬餘緡。自來遇歲計有闕,即添支錢引補助。紹興四年,添印五百七十六萬道。五年,添印二百萬道。六年,添印六百萬道。見今泛料太多,引價頓落,緣此未曾添印。兼歲收錢物內有上供、進奉等窠名一千五百九十九萬,係四川歲入舊額。其勸諭、激賞等項窠名錢物共二千六十八萬,係軍興後來歲入所增,比舊額已過倍,其取於民可謂重矣。

臣はかつて『劉晏伝』を考証したが、当時は天下の歳入が緡銭一千二百万で、専売による収入がその半分を占めていた。今、四川の塩専売・酒専売の歳入は一千九十一万で、劉晏の専売収入より多い。諸項目の銭は既に劉晏の歳入の三倍であり、彼は一千二百万で中原の軍を養って余裕があったのに、今は三千六百万貫で川・陝の一軍を養っても不足している。また、折估および正色米の一項は、合わせて二百六十五万石である。ただ紹興六年に朝廷が取りまとめた官兵の数は、六万八千四百四十九人であり、一年に二百六十五万石の米を使う道理は決してない。そのうち官員は一万一千七員、軍兵は五万七百四十九人で、官員の数は軍兵の数の約六分の一である。軍兵の支給銭は官員の支給の十分の一にも及ばず、すなわち冗濫は官員にあり、軍兵にはない。財政担当官庁は冗濫と知りながら、力を尽くして削減することができず、余剰があっても敢えて減らさず、これは朝廷が知らねばならないことである。

原文臣嘗考《劉晏傳》,是時天下歲入緡錢千二百萬,而管榷居其半。今四川榷鹽榷酒歲入一千九十一萬,過於晏所榷多矣。諸窠名錢已三倍劉晏歲入之數,彼以一千二百萬贍中原之軍而有餘,今以三千六百萬貫贍川、陝一軍而不足。又如折估及正色米一項,通計二百六十五萬石。止以紹興六年朝廷取會官兵數,計六萬八千四百四十九人,決無一年用二百六十五萬石米之理。數內官員一萬一千七員,軍兵五萬七百四十九人,官員之數比軍兵之數約計六分之一。軍兵請給錢比官員請給不及十分之一,即是冗濫在官員,不在軍兵也。計司雖知冗濫,力不能裁節之,雖是寬剩,亦未敢除減,此朝廷不可不知也。

蜀しょく人の苦しみが甚だしいのは、糴買(穀物買い上げ)と搬運である。糴買は賦課をしなければ事を集めることができず、賦課をすれば煩わしさがないわけにはいかない。搬運は事が少し緩やかであれば船戸だけがその弊害を受け、急であれば税戸は皆その害を受ける。漕運を省くには屯田に如くはない。漢中の地で約二十五万余石を収穫し、その半分を水運によらない場所の歳計米に充て、もう半分で川路の糴買・搬発の歳計米を対減すれば、民力を少し緩和することもできる。また、臣は既に官を委ねて興元・洋州で夏麦五十万石を現地買い付け、岷州では二十万石を現地買い付けようとし、さらに営田の収穫の半分の数十二万石を合わせ、三項合わせて五十七万石とする。毎年水運で閬州・利州以東に供給する計米は五十八万石であるが、この三項が得られれば、川路の糴買・搬運を全て免除でき、これは民を思いやる実恵であり、辺境を守る良策である。」

原文蜀人所苦甚者,糴買、般運也。蓋糴買不科敷則不能集其事,苟科敷則不能無擾;般運事稍緩則船戶獨受其弊,急則稅戶皆被其害。欲省漕運莫如屯田,漢中之地約收二十五萬餘石,若將一半充不係水運去處歲計米,以一半對減川路糴買、般發歲計米,亦可少寬民力。兼臣已委官於興元、洋州就糴夏麥五十萬石,岷州欲就糴二十萬石,兼用營田所收一半之數十二萬石,三項共計五十七萬石。每年水運應付閬、利州以東計米五十八萬石,若得此三項,可盡數免川路糴買、般運,此乃恤民之實惠,守邊之良策也。」

詔を下して褒め称えられたが、呉玠と合わず、祠官とされた。

原文降詔獎諭,以與吳玠不合,與祠。

九年、金人が我が三京を返還したので、迨を京畿都転運使に任命した。孟庾は当時権東京留守であったが、密かに北使と通じていた。迨はその隠れた微かな動きを察知し、孟庾は心穏やかでなく、朝廷に訴え、かつ人をやって迨に告げさせた。「北人が兵を率いて来た。」迨は言った。「我が家は国家の禄を食むこと二百年、陛下の重任を担い、万死も報いるに足りない。私は老いた、どうして穹廬(北方民族の幕屋)に向かって拝礼できようか。首は断たれても膝は屈せぬ。もし本当なら、私は極限まで罵って死のう。」告げた者は恐れおののいて去った。降聖節に、孟庾は礼を行わず、迨に握られたので、孟庾は自ら弾劾し、迨はこれにより罷免を求めた。そこで落職して祠官とされ帰ったが、孟庾は京師を挙げて金人に降った。

原文九年,金人歸我三京,命迨為京畿都轉運使。孟庾時為權東京留守,潛通北使。迨察其隱微,庾不能平,訟於朝,且使人告迨曰:「北人以兵至矣。」迨曰:「吾家食國家祿二百年,荷陛下重任,萬死不足報。吾老矣,豈能下穹廬之拜乎?首可斷而膝不可屈也。如果然,吾將極罵以死。」告者悚然而去。降聖節,庾失於行禮,為迨所持,庾自劾,迨因此求罷去,乃落職與祠歸,而庾以京師降於金人。

迨はまもなく龍図閣待制・洪州知州に復した。十六年、病気を理由に祠官を求めた。十八年に卒去した。

原文迨尋復龍圖閣待制、知洪州。十六年,以疾丐祠。十八年卒。

趙開

原文趙開

趙開、字は応祥、普州安居の人。元符三年に進士に及第した。大観二年、権辟廱正となる。推薦者により官等を改められると、すぐに家族全員を連れて京師に赴き、尉氏に田を買い、四方の賢俊と交遊し、それによって天下の利害で廃止すべきことと行うべきことを探り知った。このようにして七年を過ごし、慨然として通変救弊の志を抱いた。

原文趙開,字應祥,普州安居人。登元符三年進士第。大觀二年,權辟廱正。用舉者改秩,即盡室如京師,買田尉氏,與四方賢俊遊,因詗知天下利病所當罷行者。如是七年,慨然有通變捄弊志。

宣和初年、礼制局校正検閲官に任じられた。数か月で局が廃止され、鄢陵県知県として出向した。七年、講議司検詳官に任じられた。開は心計に長け、検詳官を罷免された後、成都路転運判官に任じられ、そこで宣和六年に増加した上供認額綱布十万匹の廃止を奏上し、綿州の下戸が利州に支移する水脚銭を十分の三減らし、また蒲江六井の元符から宣和にかけて増加した塩額を減らし、その順序を列記して「鼠尾帳」と称し、郷戸が歳時に輸納すべき折科等の実数を掲示して、人々に全て明らかにさせ、郷胥が隠匿や転記できないようにした。

原文宣和初,除禮制局校正檢閱官。數月局罷,出知鄢陵縣。七年,除講議司檢詳官。開善心計,自檢詳罷,除成都路轉運判官,遂奏罷宣和六年所增上供認額綱布十萬匹,減綿州下戶支移利州水腳錢十分之三,又減蒲江六井元符至宣和所增鹽額,列其次第,謂之「鼠尾帳」,揭示鄉戶歲時所當輸折科等實數,俾人人具曉,鄉胥不得隱匿竄寄。

かつて言った。「財利の源は一つから出るべきである。祖宗の朝には天下の財計は全て三司に帰し、諸道の利源は各々漕司に帰したので、官は省かれ事は理に適っていた。併合廃止して漕司に戻せば、利害を参酌究明でき、牽制や障害の患いはなくなる。」そこで茶専売・買馬の五害を指摘陳述し、大略次のように述べた。「黎州での買馬は、嘉祐年間の歳額はわずか二千百余頭であった。司を置いて茶を専売して以来、歳額は四千頭となり、かつ馬兵千人余りを獲得してもなお用に足りず、衣糧を多く費やすのが一害である。嘉祐年間は銀絹で馬と交換し、価格は全て定まっていた。今、長吏が縁故を頼って姦を行い、時を定めずに貨物を返さず、空手形を夷人に与えて順番待ちをさせ、夷人は怨恨し、必ずや辺境の患いを生むのが二害である。初めに司を置いて茶を専売した際、転運司から五十二万緡、常平司から二十余万緡を元手として借りた。熙寧から今に至るまで約六十年、旧借金は一文も返済せず、歳借はなお当初の数を基準としており、三害である。茶専売の初め、茶戸に本銭を前貸ししたが、まもなく定数外にさらに和買を増やし、あるいは前貸し銭を抑留して和買に充て、茶戸はこれにより破産し、官買は年々増加した。茶は日に日に粗悪混雑となり、官茶は既に食用に堪えず、私販が公然と行われ、刑罰でも禁じられないのが四害である。承平の時、蜀の茶で秦に入るものは十のうち八、九であり、なお積み滞って売れ難いのを患った。今、関・隴は全て兵火に遭い、なお旧額に拘束され、果たして何に用いようか。茶兵官吏は坐して衣糧を浪費し、州県への割り当てを免れず、五害である。嘉祐の故事に依り、茶専売を全て廃止し、なお転運司に買馬を行わせるよう請う。そうすれば五害は全て去り、辺境の患いは生じない。もし茶専売を直ちに廃止すべきでないと言うなら、これもまた転運司に併合し、額を痛く減らして茶戸を蘇らせ、価格を軽く立てて茶商に恵みを与えるべきである。そうすれば私販は必ず衰え、盗賊は消滅し、元手は常に存在し、利息銭は自ずから足りるであろう。」

原文嘗言:「財利之源當出於一,祖宗朝天下財計盡歸三司,諸道利源各歸漕計,故官省事理。併廢以還,漕司則利害可以參究,而無牽掣窒礙之患矣。」因指陳榷茶、買馬五害,大略謂:「黎州買馬,嘉祐歲額才二千一百餘。自置司榷茶,歲額四千,且獲馬兵逾千人,猶不足用,多費衣糧,為一害。嘉祐以銀絹博馬,價皆有定。今長吏旁緣為姦,不時歸貨,以空券給夷人,使待資次,夷人怨恨,必生邊患,為二害。初置司榷茶,借本錢於轉運司五十二萬緡,於常平司二十餘萬緡。自熙寧至今幾六十年,舊所借不償一文,而歲借乃準初數,為三害。榷茶之初,預俵茶戶本錢,尋於數外更增和買,或遂抑預俵錢充和買,茶戶坐是破產,而官買歲增。茶日濫雜,官茶既不堪食,則私販公行,刑不能禁,為四害。承平時,蜀茶之入秦者十幾八九,猶患積壓難售。今關、隴悉遭焚蕩,仍拘舊額,竟何所用?茶兵官吏坐縻衣糧,未免科配州縣,為五害。請依嘉祐故事,盡罷榷茶,仍令轉運司買馬,即五害並去,而邊患不生。如謂榷茶未可遽罷,亦宜併歸轉運司,痛減額以蘇茶戶,輕立價以惠茶商,如此則私販必衰,盜賊消弭,本錢既常在,而息錢自足。」

朝廷はその言を是とし、即ち趙開を都大提挙川・陝茶馬事に抜擢し、これを施行させた。時に建炎二年なり。ここにおいて大いに茶馬の法を変更し、官買官売の茶を並びに罷め、政和二年の東京都茶務所創立の条約を参酌し、茶引を印給し、茶商に引を執らせて茶戸と自ら相貿易せしむ。成都の旧買売茶場を合同場買引所と改め、なお合同場に茶市を置き、交易する者は必ず市を由り、引と茶は必ず相随うべし。茶戸は十戸または十五戸を以て一保と為し、並びに茶鋪の姓名を籍定し、互いに影帯して販鬻する者を察せしむ。凡そ茶引を買うには、一斤ごとに、春は銭七十、夏は五十と為し、旧来輸す所の市例頭子銭は並びに旧に依る。茶の過ぐるごとに一斤ごとに一銭を徴し、住むごとに一銭半を徴す。その合同場の監官は引を験し、茶を秤し、封記し、発放するを除く外、茶商・茶戸の交易事に干預することを得ず。

原文朝廷是其言,即擢開都大提舉川、陝茶馬事,使推行之。時建炎二年也。於是大更茶馬之法,官買官賣茶並罷,參酌政和二年東京都茶務所創條約,印給茶引,使茶商執引與茶戶自相貿易。改成都舊買賣茶場為合同場買引所,仍於合同場置茶市,交易者必由市,引與茶必相隨。茶戶十或十五共為一保,並籍定茶鋪姓名,互察影帶販鬻者。凡買茶引,每一斤,春為錢七十,夏五十,舊所輸市例頭子錢並依舊。茶所過每一斤徵一錢,住徵一錢半。其合同場監官除驗引、秤茶、封記、發放外,無得干預茶商、茶戶交易事。

旧制は馬を買うこと三千匹に及べば一官を転ずるも、比来はただ買いし数を以て賞を推すのみにて、往々にして一任の間に数官を転ずる者あり。趙開奏して曰く、「請うらくは賞を推すには必ず馬の京師に到り実収する数を以て格と為し、或いは道中に死すれば、黜降に差等あらしめん」と。比及すること四年の冬、茶引の収息は一百七十余万緡に至り、買馬は乃ち二万余匹を逾えたり。

原文舊制買馬及三千匹者轉一官,比但以所買數推賞,往往有一任轉數官者。開奏:「請推賞必以馬到京實收數為格,或死於道,黜降有差。」比及四年冬,茶引收息至一百七十餘萬緡,買馬乃逾二萬匹。

張浚は知枢密院として川蜀を宣撫し、平素より趙開の財を理むるに善きを知り、即ち制を承けて趙開を以て宣撫処置使司随軍転運使を兼ねしめ、専一に四川の財賦を総領せしむ。趙開、張浚に見えて曰く、「蜀の民力は尽きたり、錙銖も加うべからず、独り榷貨に稍々贏余を存するも、貪猾の者これを己が有と為し、互いに隠匿す。ただ怨詈を恤れず、断然として敢えて行い、庶幾くは一時の急を救わん」と。

原文張浚以知樞密院宣撫川蜀,素知開善理財,即承制以開兼宣撫處置使司隨軍轉運使,專一總領四川財賦。開見浚曰:「蜀之民力盡矣,錙銖不可加,獨榷貨稍存贏餘,而貪猾認為己有,互相隱匿。惟不恤怨詈,斷而敢行,庶可救一時之急。」

張浚は鋭意興復を図り、委任して疑わず、ここにおいて大いに酒法を変え、成都より始む。先ず公使売供給酒を罷め、即ち旧撲買の坊場の所に隔槽を置き、官を設けてこれを主らしめ、麹と醸具は官悉く自ら買い、醸戸に各々米を以て官場に赴き自ら醸すを聴し、凡そ一石の米に三千を輸し、並びに頭子雑用等二十二を加う。その醸すことの多寡は、惟だ銭を視るのみにて、数に限りなし。明年、遂に四路に遍くその法を行わしむ。また成都府の法に倣い、秦州に銭引務を置き、興州に銅銭を鼓鑄し、官は銀絹を売り、民に銭引または銅銭を以てこれを買うを聴く。凡そ民の銭の官に入るべきものは、並びに引を以て折納するを聴き、官の支出もまたこれに如し。民、私に引を以て市と為すには、一千並びに五百以上においては便に従いその直を増高するを許すも、ただ減削することを得ず。法既に流通し、民これを便と為す。

原文浚銳意興復,委任不疑,於是大變酒法,自成都始。先罷公使賣供給酒,即舊撲買坊場所置隔槽,設官主之,麴與釀具官悉自買,聽釀戶各以米赴官場自釀,凡一石米輸三千,並頭子雜用等二十二。其釀之多寡,惟錢是視,不限數也。明年,遂遍四路行其法。又法成都府法,於秦州置錢引務,興州鼓鑄銅錢,官賣銀絹,聽民以錢引或銅錢買之。凡民錢當入官者,並聽用引折納,官支出亦如之。民私用引為市,於一千並五百上許從便增高其直,惟不得減削。法既流通,民以為便。

初め、銭引両料の通行するもの纔かに二百五十万有奇なりしが、ここに至り添印すること四千一百九十余万に及び、人もまたその多きを厭わず、価もまた削がれず。

原文初,錢引兩料通行才二百五十萬有奇,至是添印至四千一百九十餘萬,人亦不厭其多,價亦不削。

宣撫司は偽引三十万、盗人五十人を獲たり。張浚、有司の議に従いて死に当てんと欲す。趙開、張浚に白して曰く、「相君誤れり。引が偽ならば、宣撫使の印をその上に加うれば即ち真と為る。その徒を黥げいして幣を治めしむれば、これ相君一日にして三十万の銭を獲、而して五十人の死を起こすなり」と。張浚善しと称し、悉く趙開の言の如し。

原文宣司獲偽引三十萬,盜五十人,浚欲從有司議當以死,開白浚曰:「相君誤矣。使引偽,加宣撫使印其上即為真。黥其徒使治幣,是相君一日獲三十萬之錢,而起五十人之死也。」浚稱善,悉如開言。

最後にまた塩法を変う。その法は実に大観の東南・東北塩鈔条約を視て、合同場塩市を置き、茶法と大抵相類す。塩引は一斤ごとに銭二十五を納め、土産税に增添等ありて共に九銭四分を納め、過ぐるごとに一斤ごとに銭七分を徴し、住むごとに一銭五分を徴す。若し銭引を以て折納せば、別に称提勘合銭共六十を輸す。初め榷法を変うるに、怨詈四起し、ここに至り趙開覆議して塩法を更えんとす。言者遂にその不便を奏し、これを罷めて遠民を安んぜんことを乞い、且つ曰く、「もし大臣の建請するを謂わば、務めて事体を全うし、必ず更制せざるべからず、即ち乞うらくは劄を以て張浚に照会せしめよ」と。詔してその章を以て張浚に示す。張浚変えず。

原文最後又變鹽法,其法實視大觀東南、東北鹽鈔條約,置合同場鹽市,與茶法大抵相類。鹽引每一斤納錢二十五,土產稅有增添等共納九錢四分,所過每斤徵錢七分,住徵一錢五分,若以錢引折納,別輸稱提勘合錢共六十。初變榷法,怨詈四起,至是開覆議更鹽法,言者遂奏其不便,乞罷之以安遠民,且曰:「如謂大臣建請,務全事體,必須更制,即乞劄與張浚照會。」詔以其章示浚,浚不為變。

時に張浚は重寄を荷い、兵を秦川に治め、両河を経営し、旬に犒い月に賞し、士の死力を得んことを期す。費用貲えず、尽く趙開に取りて辦せしむ。趙開は悉く知慮を食貨に尽くし、算に遺策なく、支費計うべからざるも、而して贏貲余りあるが若し。

原文時浚荷重寄,治兵秦川,經營兩河,旬犒月賞,期得士死力,費用不貲,盡取辦於開,開悉知慮於食貨,算無遺策,雖支費不可計,而贏貲若有餘。

呉玠は四川宣撫副使と為り、専ら戦守を治め、財計の盈虚に未だ嘗て問わず、惟だ一切軍期を以て趣辦せしめ、趙開と趣を異にす。呉玠数たび餉饋継がざるを以て朝廷に訴う。趙開もまた自ら老憊を劾し、去らんことを丐う。朝廷未だ許さず、乃ち特に四川安撫制置大使の名を置き、席益をしてこれを為さしむ。席益は前執政なり。詔して位を宣撫司の上にせしむ。朝論未だ安からざるを恐れ、仍て詔して張浚に荊・襄・川・陝を視師せしむ。

原文吳玠為四川宣撫副使,專治戰守,於財計盈虛未嘗問,惟一切以軍期趣辦,與開異趣。玠數以餉饋不繼訴於朝,開亦自劾老憊,丐去。朝廷未許,乃特置四川安撫制置大使之名,命席益為之。益前執政,詔位宣撫司上,朝論恐未安,仍詔張浚視師荊、襄、川、陝。

六年、綿州宣撫司を罷む。呉玠は仍て宣撫として兵事を治め、軍馬は呉玠の移撥を聴き、銭物は則ち趙開に委ねて拘収せしむ。尋いで趙開を徽猷閣待制に除し、呉玠に両鎮の節鉞を加う。復た旨を降し、都転運使は四路の漕臣と同しく銜を繫ぐべからず。成都・潼川両路の漕臣と都転運使は軍に応副する支銭物の期に愆るに坐し、各々二秩を貶す。朝廷故に抑揚して、之をして隙間を交解し、餉饋を趣辦せしむるなり。而して趙開復た席益と和せず、抗疏して旧来宣撫司の年計軍期に応副するを将ち、他司の分擘支用を許さざるを乞う。又た宣撫司の都漕運司の銭を截ち、果・閬に就きて米を糴するは是に非ざるを指陳す。又た呉玠の軍須に応副するは、紹興四年総めて銭一千九百五十五万七千余緡、五年は四年を視て又た四百二十万五千余緡を増すと言う。蜀今公私倶に困し、四向取給する所なし。事危急に属し、実に甚だ憂うべし。茶馬司に奏計を以て闕下に詣り、言わんと欲する所を尽くすを許さんことを乞う。

原文六年,罷綿州宣撫司,玠仍以宣撫治兵事,軍馬聽玠移撥,錢物則委開拘收。尋除開徽猷閣待制,加玠兩鎮節鉞。復降旨,都轉運使不當與四路漕臣同繫銜,成都、潼川兩路漕臣與都轉運使坐應副軍支錢物愆期,各貶二秩。朝廷故抑揚之,使之交解間隙、趣辦餉饋也。而開復與席益不和,抗疏乞將舊來宣撫司年計應副軍期,不許他司分擘支用。又指陳宣撫司截都漕運司錢,就果、閬糴米非是。又言應副吳玠軍須,紹興四年總為錢一千九百五十五萬七千餘緡,五年視四年又增四百二十萬五千餘緡。蜀今公私俱困,四向無所取給,事屬危急,實甚可憂,乞許以茶馬司奏計詣闕下,盡所欲言。

朝廷既に趙開の呉玠及び席益と隙あるを知り、乃ち詔して趙開を行在に赴かしめ、李迨を以てこれに代う。会い疾作して行かず、江州太平観を提挙す。七年、復た右文殿修撰・都大主管川陝茶馬と為る。趙開既に病み、累疏して去らんことを丐う。詔して乞う所に従い、太平観を提挙す。十一年卒す。

原文朝廷既知開與玠及席益有隙,乃詔開赴行在,以李迨代之。會疾作不行,提舉江州太平觀。七年,復右文殿修撰、都大主管川陝茶馬。開已病,累疏丐去,詔從所乞,提舉太平觀。十一年卒。

論じて曰く、秦檜国柄を執り、その宋の大計を誤れるは、固より議うるを以て無し。張九成の策、胡銓の疏は、忠義凜然たり。廖剛の徳望の人を復用せんことを請うるは、豈に苟くも時好に阿る者ならんや。李迨・趙開の所謂く、其の賦を治むるに使うべしとする者なるか。

原文論曰:秦檜執國柄,其誤宋大計,固無以議為也。張九成之策,胡銓之疏,忠義凜然。廖剛請復用德望之人,豈苟阿時好者哉?李迨、趙開所謂可使治其賦也歟?