宋史

列傳第一百三十二 朱弁 鄭望之 張邵 洪皓

列傳第一百三十二 朱弁 鄭望之 張邵 洪皓

朱弁

原文朱弁

朱弁、字は少章、徽州婺源の人なり。幼くして聡明にして悟るところ多く、読書一日数千言に及ぶ。冠に既にし、太学に入り、晁説之その詩を見て、これを奇とし、共に新鄭に帰り、兄の女を以て妻とす。新鄭は汴・洛の間に介在し、故家遺俗多し、弁其の中に遊び、聞見日を追って広し。靖康の乱に、家は賊に破られ、弁南に帰る。

原文朱弁,字少章,徽州婺源人。少穎悟,讀書日數千言。既冠,入太學,晁說之見其詩,奇之,與歸新鄭,妻以兄女。新鄭介汴、洛間,多故家遺俗,弁遊其中,聞見日廣。靖康之亂,家碎於賊,弁南歸。

建炎初め、使を遣わして両宮を問安するを議し、弁身を奮って自ら献じ、詔して修武郎を補し、吉州団練使を借り、通問副使と為る。雲中に至り、粘罕を見、邀えて説くこと甚だ切なり。粘罕聴かず、館に就かしめ、兵を以てこれを守る。弁復た書を与え、用兵講和の利害を言うこと甚だ悉し。

原文建炎初,議遣使問安兩宮,弁奮身自獻,詔補修武郎,借吉州團練使,為通問副使。至雲中,見粘罕,邀說甚切。粘罕不聽,使就館,守之以兵。弁復與書,言用兵講和利害甚悉。

紹興二年、金人忽ち宇文虚中を遣わし来たり、和議成る可しと言い、当に一人を遣わして元帥府に詣り書を受け還るべしとす。虚中は弁と正使王倫に策を探り去留を決せんと欲す。弁曰く、「吾来るや、固より自ら必ず死すと分かつ。豈に今日倖いに先んじて帰るを覬うべきや。願わくは正使書を受け帰り天子に報じ、両国の好を成し、早く四海の養を両宮に申さしめよ。然らば吾たとえ骨を外国に暴かすとも、猶お生ける年なり」と。倫将に帰らんとす。弁請うて曰く、「古の使者には節を以て信と為す。今節無くして印有り。印も亦た信なり。願わくは印を留め、弁を得て抱き以て死なしめよ。死して腐らざらん」と。倫解きて以て弁に授く。弁受けこれを懐し、臥起これと俱にす。

原文紹興二年,金人忽遣宇文虛中來,言和議可成,當遣一人詣元帥府受書還,虛中欲弁與正使王倫探策決去留,弁曰:「吾來,固自分必死,豈應今日覬倖先歸。願正使受書歸報天子,成兩國之好,蚤申四海之養於兩宮,則吾雖暴骨外國,猶生之年也。」倫將歸,弁請曰:「古之使者有節以為信,今無節有印,印亦信也。願留印,使弁得抱以死,死不腐矣。」倫解以授弁,弁受而懷之,臥起與俱。

金人弁を迫り劉豫よに仕えしめ、且つこれを訹して曰く、「これ南帰の漸なり」と。弁曰く、「豫は乃ち国賊なり。吾嘗て其の肉を食わざるを恨む。又た忍びて北面してこれに臣すべきや。吾死有るのみ」と。金人怒り、其の餼遺を絶ちて以てこれを困む。弁固より駅門を拒み、飢えを忍びて尽くるを待ち、誓って屈せず。金人も亦た感動し、礼を致すこと初めの如し。久しくして、復た其の官を易えんと欲す。弁曰く、「古より兵交わるより、使其の間に在り。言従う可きはこれに従い、従う可からざれば則ちこれを囚え、これを殺す。何ぞ必ずしも其の官を易えん。吾が官は本朝に受けしもの、死有るのみ。誓って易えて吾が君を辱しめじ」と。且つ書を移して耶律紹文等に曰く、「上国の威命朝に至れば則ち使人をして夕に死なしめ、夕に至れば則ち朝に死なしむ」と。又た書を以て後使洪皓に訣して曰く、「行人を殺するは細事に非ず。吾曹これに遭うは命なり。要は当に生を捨てて義を全うすべし爾」と。乃ち酒食を具え、掠められたる士夫を召し飲ます。半ば酣にして、これに語りて曰く、「吾已に近郊某寺の地を得たり。一旦命を畢えて国に報ぜん。諸公幸いに我を其の処に瘞せ。其上に題して『有宋通問副使朱公之墓』と曰え。我に於いて幸いなり」と。衆皆涙下り、仰ぎ視ること能わず。弁談笑自若たり、曰く、「此れ臣子の常なり。諸君何ぞ悲しむや」と。金人其の終に屈せざる可きを知り、遂に復た強ゆること無し。

原文金人迫弁仕劉豫,且訹之曰:「此南歸之漸。」弁曰:「豫乃國賊,吾嘗恨不食其肉,又忍北面臣之,吾有死耳。」金人怒,絕其餼遺以困之。弁固拒驛門,忍飢待盡,誓不為屈。金人亦感動,致禮如初。久之,復欲易其官,弁曰:「自古兵交,使在其間,言可從從之,不可從則囚之、殺之,何必易其官?吾官受之本朝,有死而已,誓不易以辱吾君也。」且移書耶律紹文等曰:「上國之威命朝以至,則使人夕以死,夕以至則朝以死。」又以書訣後使洪皓曰:「殺行人非細事,吾曹遭之,命也,要當舍生以全義爾。」乃具酒食,召被掠士夫飲,半酣,語之曰:「吾已得近郊某寺地,一旦畢命報國,諸公幸瘞我其處,題其上曰『有宋通問副使朱公之墓』,於我幸矣。」眾皆泣下,莫能仰視。弁談笑自若,曰:​​「此臣子之常,諸君何悲也?」金人知其終不可屈,遂不復強。

王倫朝に還り、弁の節を守りて屈せざるを言う。帝其の子林に官を為し、其の家に銀帛を賜う。会に粘罕等相継いで死滅す。弁密かに其の事及び金国の虚実を疏し、曰く、「此れ失う可からざるの時なり」と。李発等を遣わし間行して帰報せしむ。其の後、倫復た帰る。又た弁の奉送せる徽宗大行の文を以て献ぜしむ。其の辞に曰く有り、「馬角の未だ生ぜざるを歎き、魂は雪窖に消え;龍髯に攀じて未だ逮ばざるに、涙は氷天に灑ぐ」と。帝読みて感泣し、其の親属五人に官を為し、呉興の田五頃を賜う。帝丞相張浚に謂いて曰く、「帰日の、当に禁林を以てこれを処せん」と。八年、金使烏陵思謀・石慶充至り、弁の忠節を称す。詔して黄金三十両を附して以て賜う。

原文王倫還朝,言弁守節不屈,帝為官其子林,賜其家銀帛。會粘罕等相繼死滅,弁密疏其事及金國虛實,曰:「此不可失之時也。」遣李發等間行歸報。其後,倫復歸,又以弁奉送徽宗大行之文為獻,其辭有曰:「歎馬角之未生,魂消雪窖;攀龍髯而莫逮,淚灑冰天。」帝讀之感泣,官其親屬五人,賜吳興田五頃。帝謂丞相張浚曰:「歸日,當以禁林處之。」八年,金使烏陵思謀、石慶充至,稱弁忠節,詔附黃金三十兩以賜。

十三年、和議成り、弁帰るを得。便殿に入り見ゆ。弁謝し且つ曰く、「人の得難き者は時なり。而して時の運は已む無し。事の失う可からざる者は幾なり。而して幾の蔵は形無し。惟だ已む無きが故に、来たりて遅くして遇い難く;惟だ形無きが故に、動き微にして見難し。陛下金人と講和し、上は梓宮を返し、次には太母を迎え、又其の次には赤子の辜無きを憐れむ。此れ皆時を知り幾を知るの明験なり。然れども時は運び往きて、或いは固執し難く;幾は動きて変有り、未だ兆さざるを鑑みる宜し。盟は守る可く、而して詭詐の心は宜しく嘿してこれを待つべし。兵は息む可く、而して銷弭の術は詳しく以てこれを講ずべし。金人は黷武を以て至徳と為し、苟安を以て太平と為し、民を虐げて民を恤わず、地を広くして徳を広くせず。此れ皆天の中興の勢を助くるなり。若し時と幾と、陛下既に始めに知る。願わくは其の終わりを図らん」と。帝其の言を納れ、金帛を賜うこと厚し。弁又た金国に得たる六朝の御容及び宣和の御書画を以て献ず。秦檜其の敵情を言うを悪み、奏して初補の官を以て宣教郎・直秘閣に易えしむ。有司其の考を校するに十七年、応に数官を遷すべし。檜これを沮み、僅かに奉議郎に転ず。十四年、卒す。

原文十三年,和議成,弁得歸。入見便殿,弁謝且曰:「人之所難得者時,而時之運無已;事之不可失者幾,而幾之藏無形。惟無已也,故來遲而難遇;惟無形也,故動微而難見。陛下與金人講和,上返梓宮,次迎太母,又其次則憐赤子之無辜,此皆知時知幾之明驗。然時運而往,或難固執;幾動有變,宜鑑未兆。盟可守,而詭詐之心宜嘿以待之;兵可息,而銷弭之術宜詳以講之。金人以黷武為至德,以苟安為太平,虐民而不恤民,廣地而不廣德,此皆天助中興之勢。若時與幾,陛下既知於始,願圖厥終。」帝納其言,賜金帛甚厚。弁又以金國所得六朝御容及宣和御書畫為獻。秦檜惡其言敵情,奏以初補官易宣教郎、直秘閣。有司校其考十七年,應遷數官。檜沮之,僅轉奉議郎。十四年,卒。

弁文を為すに陸宣公を慕い、援拠精博にして、事理を曲く尽くす。詩は李義山に学び、詞気雍容として、其の険怪奇澀の弊を蹈まず。金国の名王貴人多く子弟を遣わし就学せしむ。弁文字を因り往来し、和好の利を以てこれを説く。及び帰り、北方に見聞せる忠臣義士朱昭・史抗・張忠輔・高景平・孫益・孫谷・傅偉文・李舟・五台僧宝真・婦人丁氏・晏氏・小校閻進・朱勣等の死節の事状を述べ、褒録を加えて以て来者を勧めんことを請う。『聘遊集』四十二巻・『書解』十巻・『曲洧旧聞』三巻・『続骫骳説』一巻・『雑書』一巻・『風月堂詩話』三巻・『新鄭旧詩』一巻・『南帰詩文』一巻有り。

原文弁為文慕陸宣公,援據精博,曲盡事理。詩學李義山,詞氣雍容,不蹈其險怪奇澀之弊。金國名王貴人多遣子弟就學,弁因文字往來說以和好之利。及歸,述北方所見聞忠臣義士朱昭、史抗、張忠輔、高景平、孫益、孫谷、傅偉文、李舟、五臺僧寶真、婦人丁氏、晏氏、小校閻進、朱勣等死節事狀,請加褒錄以勸來者。有《聘遊集》四十二卷、《書解》十卷、《曲洧舊聞》三卷、《續骫骳說》一卷,《雜書》一卷、《風月堂詩話》三卷、《新鄭舊詩》一卷、《南歸詩文》一卷。

鄭望之

原文鄭望之

鄭望之、字は顧道、彭城の人、顕謨閣直学士僅の子なり。望之少にして文名有り、山東皆推重す。崇寧五年進士第に登り、陳留簿より累遷して枢密院編修官に至り、開封府儀・工・戸曹を歴任し、治辦を以て称さる。事に臨み勁正にして、請託を受けず。宦寺に民田を強占する者有れば、奏してこれを帰す。蔡京の子人妾を奪わんと欲し、人をして意を諭さしむ。望之拒み受けず。駕部員外郎兼金部を除す。

原文鄭望之,字顧道,彭城人,顯謨閣直學士僅之子也。望之少有文名,山東皆推重。登崇寧五年進士第,自陳留簿累遷樞密院編修官,歷開封府儀、工、戶曹,以治辦稱。臨事勁正,不受請託。宦寺有強佔民田者,奏歸之。蔡京子欲奪人妾,使人諭意,望之拒不受。除駕部員外郎兼金部。

靖康元年、金人汴京を攻む。尚書工部侍郎を仮し、俾くして軍前計議使と為らしむ。既に還り、金人呉孝民を遣わし望之と同に入見せしむ。望之言う、金人の意は金幣に在り、且つ大臣を要して同議すと。乃ち同知枢密院事李棁と望之をして再び使わしむ。斡離不朝廷の帰朝官を受くる及び平州張覚に手詔を賜うを以て辞と為し、蕭三宝奴を遣わし棁等と偕に還らしめ、書を以て三鎮の割を求め、宰相交地を得、親王大軍を送りて河を過らんことを欲す。

原文靖康元年,金人攻汴京,假尚書工部侍郎,俾為軍前計議使。既還,金人遣吳孝民與望之同入見。望之言金人意在金幣,且要大臣同議,乃命同知樞密院事李棁與望之再使,斡離不以朝廷受歸朝官及賜平州張覺手詔為辭,遣蕭三寶奴偕棁等還,以書求割三鎮,欲得宰相交地,親王送大軍過河。

時に高宗康邸に在り慷慨して行かんことを請う。遂に張邦昌と筏に乗り濠を渡り、午より夜分に至り、始めて金砦に達す。又た望之を戸部侍郎に除し、棁と同に再び金営に至り、仍た珠玉を以て金人に遺す。金人望之を拘留すること旬を逾ゆ。会に姚平仲夜砦を劫うも克たず。斡離不用兵を以て諸使者を詰責す。邦昌恐懼涕泣す。王動かず。金人遂に王を留めんと欲せず、更に粛王を請う。乃ち兵を以て望之を国王砦に詣らしめ詰問せしむ。会に再び宇文虚中を遣わし割地の詔を持して至る。望之還るを得。因り盛んに敵勢強大、我が兵削弱、和せざる可からざるを言う。既にして金兵退く。朝廷議和の策に非ざるを以て、望之を罷めて亳州明道宮を提挙せしむ。

原文時高宗在康邸慷慨請行,遂與張邦昌乘筏渡濠,自午至夜分,始達金砦。又除望之戶部侍郎,同棁再至金營,仍以珠玉遺金人。金人拘留望之逾旬。會姚平仲夜劫砦不克,斡離不以用兵詰責諸使者,邦昌恐懼涕泣,王不為​​動。金人遂不欲留王,更請肅王,乃以兵送望之詣國王砦詰問。會再遣宇文虛中持割地詔至,望之得還,因盛言敵勢強大,我兵削弱,不可不和。既而金兵退,朝廷以議和非策,罷望之提舉亳州明道宮。

建炎初年、李綱は望之が敵勢を誇張し、国威を損ねて禍敗を招いたとして、海州団練副使に責められ、連州に居住した。李綱が罷免されると、詔により望之を戸部侍郎とし、まもなく吏部侍郎に転じた。王雲の冤罪を論じ、帝は感動し、王雲の元の官職を回復させ、七人の子に恩沢を与えた。まもなく御営司参賛軍事を兼ねて主管した。航海の不便を論じて旨に逆らい、集英殿修撰として再び亳州明道宮を領した。宣州知州として起用されたが、一年余りで上奏文により罷免された。

原文建炎初,李綱以望之張皇敵勢,沮損國威,以致禍敗,責海州團練副使,連州居住。綱罷,詔望之為戶部侍郎,尋轉吏部侍郎。論王雲之冤,帝為感動,復雲元官,與七子恩澤。尋兼主管御營司參贊軍事。論航海不便,忤旨,以集英殿修撰再領亳州明道宮。起知宣州,逾年,以言章罷。

紹興二年、赦令に遇い、徽猷閣待制として致仕した。七年、致仕を解かれ、行在に召された。望之は老衰を理由に辞退したが、帝は大臣に「望之は朕の故人である」と言った。そこで徽猷閣直学士に昇進し、再び致仕した。三十一年、卒去、八十四歳。中大夫を追贈された。

原文紹興二年,會赦,復徽猷閣待制致仕。七年,落致仕,召赴行在。望之以衰老辭,帝謂大臣曰:「望之,朕故人也。」於是升徽猷閣直學士,復致仕。三十一年,卒,年八十四。贈中大夫。

張邵

原文張邵

張邵、字は才彦、烏江の人。宣和三年の上舎第に及第した。建炎元年、衢州司刑曹事となった。詔により直言を求めた際、張邵は上疏して言った、「中原の形勢があり、東南の形勢がある。今たとえ中原を急に争えなくとも、金陵に進都し、江・淮・蜀しょく・漢・閩・広の資力を用いて恢復を図るべきであり、自ら退いて弱体化すべきではない」。

原文張邵,字才彥,烏江人。登宣和三年上舍第。建炎元年,為衢州司刑曹事。會詔求直言,邵上疏曰:「有中原之形勢,有東南之形勢。今縱未能遽爭中原,宜進都金陵,因江、淮、蜀、漢、閩、廣之資,以圖恢復,不應退自削弱。」

三年、金人が南侵し、軍前に赴ける者を求める詔が出ると、張邵は慨然として行くことを請い、五官に転じ、直龍図閣、礼部尚書を仮とし、通問使を充て、武官の楊憲が副使となり、即日出発した。濰州に至ると、接伴使が酒宴を設け音楽を奏したが、張邵は言った、「二帝が北遷された、臣子として聞くに忍びない、音楽を止めてほしい」。三、四度繰り返し、聞く者は涙を流した。翌日、左監軍の撻攬に会い、拝礼を命じられたが、張邵は言った、「監軍と私は南北朝の従臣であり、互いに拝礼する礼はない」。また書状を送って言った、「兵は強弱にあるのではなく、曲直にある。宣和以来、我が方に兵がなかったわけではないが、帥臣がまず辺境に隙を開き、謀臣がさらに兵端を開いたため、大国が勝つことができた。その後、偽楚が僭立し、群盗が蜂起したが、幾ばくもなく電掃のごとく一掃された、これは天意人心が未だ宋の徳を厭わなかったからである。今、大国が再び地を裂いて劉豫を封じ、兵を窮めず、曲はこちらにある」。撻攬は怒り、国書を取り上げ、張邵を捕らえて密州に送り、祚山砦に囚禁した。

原文三年,金人南侵,詔求可至軍前者,邵慨然請行,轉五官,直龍圖閣,假禮部尚書,充通問使,武官楊憲副之,即日就道。至濰州,接伴使置酒張樂,邵曰:「二帝北遷,邵為臣子,所不忍聽,請止樂。」至於三四,聞者泣下。翌日,見左監軍撻攬,命邵拜,邵曰:「監軍與邵為南北朝從臣,無相拜禮。」且以書抵之曰:「兵不在強弱,在曲直。宣和以來,我非無兵也,帥臣初開邊隙,謀臣復啟兵端,是以大國能勝之。厥後偽楚僭立,群盜蠭起,曾幾何時,電掃無餘,是天意人心未厭宋德也。今大國復裂地以封劉豫,窮兵不已,曲有在矣。」撻攬怒,取國書去,執邵送密州,囚於祚山砦。

翌年、また張邵を劉豫のもとに送り、彼を用いさせようとした。張邵は劉豫に会い、長揖しただけで、また「殿院」と呼び、君臣の大義を責めて、言葉も態度も厳しかった。劉豫は怒り、枷をはめて獄に置き、楊憲はついに降伏した。劉豫は張邵が屈しないと知り、しばらくして再び金に送り、燕山の僧寺に拘禁した。従者は皆、行方がわからなかった。後にまた書状を作り、金に対して「劉豫は大国の勢いを頼み、日夜南侵し、勝たなければ首鼠両端となり、勝てば鷹を養うがごとく、満腹すれば飛び去り、結局は大国の利益にならない」と言った。看守が密かに告げ、金はその書状を取り上げ、さらに北の会寧府に移した。燕から三千里である。金はかつて大赦を行い、宋の使者が自由に郷里に帰ることを許したが、人々は多く淮北に籍を置き、少しでも南に近づくことを願った。ただ張邵と洪皓、朱弁だけが家は江南にあると言った。

原文明年,又送邵於劉豫,使用之。邵見劉豫,長揖而已,又呼為「殿院」,責以君臣大義,詞氣俱厲,豫怒,械置於獄,楊憲遂降。豫知邵不屈,久之,復送於金,拘之燕山僧寺,從者皆莫知所之。後又作書,為金言:「劉豫挾大國之勢,日夜南侵,不勝則首鼠兩端,勝則如養鷹,飽則颺去,終非大國之利」,守者密以告,金取其書去,益北徙之會寧府,距燕三千里。金嘗大赦,許宋使者自便還鄉,人人多佔籍淮北,冀幸稍南。惟邵與洪皓、朱弁言家在江南。

十三年、和議が成立し、洪皓、朱弁とともに南帰した。八月、入朝し、前後の使者である陳過庭、司馬朴、滕茂実、崔縦、魏行可らが異域で没し、まだ褒贈されていないことを奏上し、早く恤典を頒布するよう請願した。張邵は崔縦の柩を携えてその家に帰した。秘閣修撰に昇進し、佑神観を主管した。左司諫の詹大方がその奉使が成果を上げなかったと論じ、台州崇道観に改めた。時の宰相に書を送り、欽宗と諸王后妃を迎え請うよう勧めた。十九年、敷文閣待制として江州太平興国宮を提挙した。池州知州となり、再び祠官となって卒去、六十一歳。累贈して少師となった。

原文十三年,和議成,及皓、弁南歸。八月,入見,奏前後使者如陳過庭、司馬朴、滕茂實、崔縱、魏行可皆歿異域未褒贈者,乞早頒卹典。邵並攜崔縱柩歸其家。升秘閣修撰,主管佑神觀。左司諫詹大方論其奉使無成,改台州崇道觀。移書時相,勸其迎請欽宗與諸王后妃。十九年,以敷文閣待制提舉江州太平興國宮。知池州,再奉祠卒,年六十一。累贈少師。

張邵は気概に富み、事に遇えば慷慨とし、常に功名を自ら期し、出使して囚われ流徙し、幾度も死に瀕した。会寧にいた時、金人の多くが彼に学んだ。仏書を誦するのを好み、異域でも廃さなかった。初め、金に使した時、濰州で秦檜に会った。帰国後、上書して秦檜の忠節を言ったため、論者はこれを軽んじた。後に弟の張祁が大理獄に下され、張邵に連座しようとしたが、秦檜が死んだため免れた。文集十巻がある。

原文邵負氣,遇事慷慨,常以功名自許,出使囚徙,屢瀕於死。其在會寧,金人多從之學。喜誦佛書,雖異域不廢。初,使金時,遇秦檜於濰州。及歸,上書言檜忠節,議者以是少之。後弟祁下大理獄,將株連邵,會檜死得免。有文集十卷。

子:孝覧、孝曾、孝忠。孝曾も後に出使して金で没し、金人は張邵の子と知り、なお哀れんだ。

原文子:孝覽、孝曾、孝忠。孝曾後亦以出使歿於金,金人知為邵子,尚憐之。

洪皓

原文洪皓

洪皓、字は光弼、番昜の人。若い時から奇節があり、慷慨として四方を経略する志があった。政和五年の進士第に及第した。王黼、朱勔ともに婚姻を望んだが、力辞した。宣和中、秀州司録となった。大水が起こり、民多くが失業したため、洪皓は郡守に願い出て救荒を自ら担当し、倉を開いて価格を下げて売った。民が殺到したため、洪皓は混乱を恐れ、別に青白の旗を立て、手に墨を塗って識別させ、規律は厳しく恩恵は広く行き渡った。浙東の綱米が城下を通り過ぎた時、洪皓は郡守に願い出てこれを留めさせようとしたが、郡守は許さなかった。洪皓は言った、「一身をもって十万の人命に代えたい」。人々は骨身に沁みて感激し、「洪仏子」と号した。その後、秀州の軍が反乱し、郡民を掠奪したが、一人も逃れられなかった。ただ洪皓の門前を通り過ぎる時、「これは洪仏子の家だ」と言って、犯そうとしなかった。

原文洪皓,字光弼,番昜人。少有奇節,慷慨有經略四方志。登政和五年進士第。王黼、朱勔皆欲婚之,力辭。宣和中,為秀州司錄。大水,民多失業,皓白郡守以拯荒自任,發廩損直以糶。民坌集,皓恐其紛競,乃別以青白幟,涅其手以識之,令嚴而惠遍。浙東綱米過城下,皓白守邀留之,守不可,皓曰:「願以一身易十萬人命。」人感之切骨,號「洪佛子」。其後秀軍叛,縱掠郡民,無一得脫,惟過皓門曰:「此洪佛子家也。」不敢犯。

建炎三年五月、帝が金陵に行こうとした時、洪皓は上書して言った、「内患はようやく治まったが、外敵はまさに盛んである。軽々しく建康に至れば、金人が虚に乗じて侵軛する恐れがある。まず近臣を派遣して経営させ、準備が整ったと報告があれば、回鑾しても遅くはない」。当時、朝議はすでに決まっており、従わなかったが、後に後悔した。ある日、帝が宰輔に近ごろ移蹕を諫めた者は誰かと問うと、張浚が洪皓と答えた。当時、金国への使者を派遣する議論があり、張浚はまた呂頤浩に洪皓を推薦し、召して語らせると、大いに喜んだ。洪皓はちょうど父の喪に服していたが、呂頤浩は衣巾を解き、墨衰絰に着替えて入対させた。帝は国歩の艱難、両宮の遠播を憂えた。洪皓は極言して言った、「天道は還るを好む、金人がどうして長く中夏を陵し続けられようか!これはまさに春秋の邲・郢の役であり、天があるいは晋を戒め楚を訓えているのである」。帝は喜び、洪皓を五官に遷し、徽猷閣待制に抜擢し、礼部尚書を仮とし、大金通問使とし、龔璹が副使となった。執政と国書を議するよう命じられたが、洪皓は変更したいところがあったため、呂頤浩は快く思わず、遷官の命令を抑えた。

原文建炎三年五月,帝將如金陵,皓上書言:「內患甫平,外敵方熾,若輕至建康,恐金人乘虛侵軼。宜先遣近臣往經營,俟告辦,回鑾未晚。」時朝議已定,不從,既而悔之。他日,帝問宰輔近諫移蹕者謂誰,張浚以皓對。時議遣使金國,浚又薦皓於呂頤浩,召與語,大悅。皓方居父喪,頤浩解衣巾,俾易墨衰絰入對。帝以國步艱難、兩宮遠播為憂。皓極言:「天道好還,金人安能久陵中夏!此正春秋邲、郢之役,天其或者警晉訓楚也。」帝悅,遷皓五官,擢徽猷閣待制,假禮部尚書,為大金通問使,龔璹副之。令與執政議國書,皓欲有所易,頤浩不樂,遂抑遷官之命。

当時、淮南で盗賊が相次いで起こり、李成がようやく招撫されたばかりであったため、泗州知州に命じて羈縻させた。そこで洪皓を淮南、京東等路撫諭使を兼ねさせ、李成に命じて配下の兵で洪皓を護衛して南京まで送らせた。淮南を通り過ぎる頃、李成はちょうど耿堅とともに楚州を包囲し、権州事の賈敦詩が敵に降ったと責めていたが、実は叛心を抱いていた。洪皓はまず書状を李成に送ったが、李成は汴が涸れ、虹に紅巾賊がおり、軍糧が尽きたので行けないと言った。洪皓は耿堅が義兵を起こしたと聞き、義をもって動かせると考え、人を密かに派遣して諭した、「君は数千里を馳せて国家の急に赴いた、山陽(楚州)にたとえ罪があっても、朝廷に命を請うべきである。今、勝手に攻囲するのは、名は勤王であるが、実は賊をなすものである」。耿堅の心が動き、李成を強いて兵を収めさせた。

原文時淮南盜賊踵起,李成甫就招,即命知泗州羈縻之。乃命皓兼淮南、京東等路撫諭使,俾成以所部衛皓至南京。比過淮南,成方與耿堅共圍楚州,責權州事賈敦詩以降敵,實持叛心。皓先以書抵成,成以汴涸,虹有紅巾賊,軍食絕,不可往。皓聞堅起義兵,可撼以義,遣人密諭之曰:「君數千里赴國家急,山陽縱有罪,當禀命於朝;今擅攻圍,名勤王,實作​​賊爾。」堅意動,遂強成斂兵。

洪皓が泗州の境に至ると、迎えの騎兵が甲冑を着けて来たので、龔璹が「虎口に入るべからず」と言った。洪皓はそこで引き返し、上疏して言うには、「酈瓊は朝廷の糧秣供給が続かないことを理由に、『衆を率いて建康に赴く』という言葉がある。今、靳賽は揚州を占拠し、薛慶は高郵を占拠している。万一この三者の叛徒が連合したら、どう対処するのか。これは恥辱を忍ぶ時であり、人を遣わして意を伝え、官位を優遇して進め、京口の綱運(物資輸送)を彼に委ねるべきである。晋の明帝が王敦を扱ったようにすればよい」と。上疏が奏上されると、帝は直ちに使者を遣わして酈瓊を慰撫し、米五万石を与えた。呂頤浩は、彼が(自分を通さず)直接上奏したことを憎み、洪皓が事を託して滞在したと奏上し、二階級降格させた。洪皓はそこで滁陽路から出ることを請い、寿春を経て東京へ向かって行った。順昌に至り、群盗の李閻羅・小張俊なる者が潁上の道を塞いでいると聞いた。洪皓はその一味と出会い、譬えて諭して言った、「古より白頭の賊はいない」。その一味は悔悟し、洪皓は書簡を持たせて賊の巣窟に至らせると、二人の首領は命を聞き入れ、兵を率いて宿衛に入った。

原文皓至泗境,迎騎介而來,龔璹曰:「虎口不可入。」皓遂還,上疏言:「成以朝廷饋餉不繼,有『引眾建康』之語。今靳賽據揚州,薛慶據高郵,萬一三叛連衡,何以待之?此含垢之時,宜使人諭意,優進官秩,畀之以京口綱運,如晉明帝待王敦可也。」疏奏,帝即遣使撫成,給米伍萬石。頤浩惡其直達而不先白堂,奏皓託事稽留,貶二秩。皓遂請出滁陽路,自壽春由東京以行。至順昌,聞群盜李閻羅、小張俊者梗潁上道。皓與其黨遇,譬曉之曰:「自古無白頭賊。」其黨悔悟,皓使持書至賊巢,二渠魁聽命,領兵入宿衛。

洪皓が太原に至ると、ほぼ一年留め置かれ、金の使者に対する礼遇は日増しに薄くなった。雲中に至ると、粘罕(ニェンハン)が二人の使者に劉豫に仕えるよう迫った。洪皓は言った、「万里の命を奉じて来たのに、両宮(徽宗・欽宗)を奉じて南帰することができず、逆賊の劉豫を磔にする力がないことを恨む。どうして彼に仕えることができようか。留められても死、直ちに劉豫に仕えなくても死である。鼠や狗の間で生き長らえることを願わず、鼎鑊(刑罰)に就いても悔いはない」。粘罕は怒り、彼を殺そうとした。傍らにいた一人の酋長が唶然として言った、「これは真の忠臣である」。目で剣士を制止し、跪いて請うたので、(洪皓は)流罪として冷山に送られることになった。流遞とは、編竄(辺境に流すこと)のようなものである。ただ龔璹のみが汴京に至り、劉豫の官職を受けた。

原文皓至太原,留幾一年,金遇使人禮日薄。及至雲中,粘罕迫二使仕劉豫,皓曰:「萬里銜命,不得奉兩宮南歸,恨力不能磔逆豫,忍事之邪!留亦死,不即豫亦死,不願偷生鼠狗間,願就鼎鑊無悔。」粘罕怒,將殺之。旁一酋唶曰:「此真忠臣也。」目止劍士,為之跪請,得流遞冷山。流遞,猶編竄也。惟璹至汴受豫官。

雲中から冷山まで六十日かけて行き、金主の居城からわずか百里の地で、その地は寒さが厳しく、四月に草が生え、八月には既に雪が降り、穴居の家が百軒あり、陳王悟室(ウシ)の集落であった。悟室は洪皓を敬い、自分の八人の子を教えさせた。時には二年も食糧を与えず、真夏に粗布の衣を着け、嘗て大雪で薪が尽き、馬糞を燃やして火とし、麺を煨って食べた。ある者が蜀を取る策を献上すると、悟室はそれを持って洪皓に問うたので、洪皓は力強くそれを論破した。悟室は南侵を鋭く望み、言った、「誰が海は大きいと言うか、我が力で干上がらせることができる。ただ天地を打ち合わせさせることはできないだけだ」。洪皓は言った、「兵は火のようなもので、止めなければ自らを焼く。古より四十年も兵を用いて止まないことはない」。また幾度も、自分が来た理由は両国のためであること、既に使節として受け入れられず、深く入って小児を教えさせられるのは、古来の使者を待遇する礼ではないことを説いた。悟室は時には答え、時には黙っていたが、突然怒りを発して言った、「汝は和事の官でありながら、口がこれほどまでに硬い。我が汝を殺せぬとでも思うのか」。洪皓は言った、「死ぬべき身とは分かっている。ただ大国が行人(使者)を殺す名を受けないことを顧みる。水に投げ込んで、淵に落ちたと名付けるのがよいだろう」。悟室は彼の義を感じて止めた。

原文雲中至冷山行六十日,距金主所都僅百里,地苦寒,四月草生,八月已雪,穴居百家,陳王悟室聚落也。悟室敬皓,使教其八子。或二年不給食,盛夏衣粗布,嘗大雪薪盡,以馬矢然火煨麵食之。或獻取蜀策,悟室持問皓,皓力折之。悟室銳欲南侵,曰:「孰謂海大,我力可乾,但不能使天地相拍爾。」皓曰:「兵猶火也,弗戢將自焚,自古無四十年用兵不止者。」又數為言所以來為兩國事,既不受使,乃令深入教小兒,非古者待使之禮也。悟室或答或默,忽發怒曰:「汝作和事官,而口硬如許,謂我不能殺汝耶?」皓曰:「自分當死,顧大國無受殺行人之名,願投之水,以墜淵為名可也。」悟室義之而止。

和議が成らんとしていた時、悟室が協議中の十事について問うと、洪皓は条理を極めて詳しく分析した。大略、封冊は虚名であり、年号は本朝に既にあるもの、金三千両は景德の時にはなかった、東南は蚕に適さず、絹は増やすべきではない、淮北の人々を取ることについては、景德の時の誓書をまだ見直すことができる、と述べた。悟室は言った、「投降帰附した者を誅するのはどうしてできないのか」。洪皓は言った、「昔、魏の侯景が梁に帰順した時、梁の武帝が魏にいる自分の甥の蕭明と交換しようとしたので、侯景は叛き、臺城を陥落させた。中国は決してその轍を踏むまい」。悟室は悟って言った、「汝の性質は直で、私を欺かない。我は汝と共に燕に行き、汝を帰らせて議させよう」。そこで出発した。ちょうど莫将が北から来て、議が合わず、事はまた中止された。燕に留まること一月ばかりで、兀术(ウジュ)が悟室を殺し、その党類で連座した者は数千人に及んだが、ただ洪皓だけは異論を唱えてほとんど死にかけ、故に免れることができた。

原文和議將成,悟室問所議十事,皓條析甚至。大略謂封冊乃虛名,年號本朝自有;金三千兩景德所無,東南不宜蠶,絹不可增也;至於取淮北人,景德載書猶可覆視。悟室曰:「誅投附人何為不可?」皓曰:「昔魏侯景歸梁,梁武帝欲以易其侄蕭明於魏,景遂叛,陷臺城,中國決不蹈其覆轍。」悟室悟曰:「汝性直不誑我,吾與汝如燕,遣汝歸議。」遂行。會莫將北來,議不合,事復中止。留燕甫一月,兀术殺悟室,黨類株連者數千人,獨皓與異論幾死,故得免。

ちょうど二帝が五国城に遷居された時、洪皓は雲中で密かに人を遣わして奏書を送り、桃・梨・栗・麺を献上したので、二帝は初めて帝(高宗)が即位したことを知った。洪皓は祐陵(徽宗)の訃報を聞くと、北に向かって血の涙を流し、朝夕に臨み、忌日には文を操って祭り、その文辞は激烈で、旧臣がこれを読むと皆涙を揮った。紹興十年(1140年)、諜者趙德によって、機密の事を数万言に書いて、古い綿の中に隠し、帰って帝に届けさせた。言うには、「順昌の役で、金人は震懼して魂を奪われ、燕山の珍宝を全て北に移し、燕以南を捨てようと考えている。王師が急ぎ戻ったので、自ら機会を失った。今再挙すれば尚お可能である」と。十一年、また太后の書簡を求め得て、李微に持たせて帰らせた。帝は大いに喜んで言った、「朕は太后の安否を知らずにほぼ二十年になる。使者を百人遣わしても、この一書に及ばない」。この冬、また密奏して言った、「金は既に兵を厭い、その勢いは長く続かず、以前は婦女を軍に随行させたが、今は敢えてしない。もし和議が決しないなら、勢いに乗じて進撃するに如かず、再び天下を取るのは反掌の如しである」。また言った、「胡銓の封事(諫言の上奏文)はこれがあるかもしれない。金人は中国に人材がいることを知り、ますます懼れる。張丞相(張浚)の名声は異域に響き、惜しむらくは散地(閑職)に置かれていること」。また李綱・趙鼎の安否を問い、六朝の御容(皇帝の肖像)と徽宗の御書を献上した。その後、梓宮(皇帝の棺)と太后の帰還の報は、洪皓が皆先に報告した。

原文方二帝遷居五國城,皓在雲中密遣人奏書,以桃、梨、粟、麪獻,二帝始知帝即位。皓聞祐陵訃,北嚮泣血,旦夕臨,諱日操文以祭,其辭激烈,舊臣讀之皆揮涕。紹興十年(1140年),因諜者趙德,書機事數萬言,藏故絮中,歸達於帝。言:「順昌之役,金人震懼奪魄,燕山珍寶盡徙以北,意欲捐燕以南棄之。王師亟還,自失機會,今再舉尚可。」十一年,又求得太后書,遣李微持歸,帝大喜曰:「朕不知太后寧否幾二十年,雖遣使百輩,不如此一書。」是冬,又密奏書曰:「金已厭兵,勢不能久,異時以婦女隨軍,今不敢也。若和議未決,不若乘勢進擊,再造反掌爾。」又言:「胡銓封事此或有之,金人知中國有人,益懼。張丞相名動異域,惜置之散地。」又問李綱、趙鼎安否,獻六朝御容、徽宗御書。其後梓宮及太后歸音,皓皆先報。

初め、洪皓が燕に至った時、宇文虚中は既に金の官職を受けており、洪皓を推薦した。金主はその名を聞き、翰林直学士にしようとしたが、洪皓は力強く辞退した。洪皓には逃げ帰る意向があり、そこで参政の韓昉に請い、真定か大名で自ら養うことを乞うた。韓昉は怒り、初めて洪皓の官職を中京副留守に改め、さらに留司判官に降格させた。幾度も出発を促したが、洪皓は就職しないことを乞い、韓昉は結局彼を屈服させられなかった。金の法では、官職を改めなくても一度使者を務めた者は、永久に帰国できないことになっていた。韓昉はそこで洪皓に雲中の進士試験の校閲を命じたが、これは計略で洪皓を陥れようとしたのである。洪皓はまた病気を理由に辞退した。間もなく、金主が子を産んだので大赦を行い、使者の帰郷を許した。洪皓と張邵・朱弁の三人がその中に含まれた。金人は彼らが禍患となると懼れ、なお人を遣わして追わせた。七騎が淮河に及んだ時、洪皓は既に舟に乗っていた。

原文初,皓至燕,宇文虛中已受金官,因薦皓。金主聞其名,欲以為翰林直學士,力辭之。皓有逃歸意,乃請於參政韓昉,乞於真定或大名以自養。昉怒,始易皓官為中京副留守,再降為留司判官。趣行屢矣,皓乞不就職,昉竟不能屈。金法,雖未易官而曾經任使者,永不可歸,昉遂令皓校雲中進士試,蓋欲以計墮皓也。皓復以疾辭。未幾,金主以生子大赦,許使人還鄉,皓與張邵、朱弁三人在遣中。金人懼為患,猶遣人追之,七騎及淮,而皓已登舟。

十二年七月、内殿で謁見し、郡守を求めて母を養いたいと強く請うた。帝は言った、「卿の忠誠は日月を貫き、志は君を忘れず、蘇武でさえ及ばない。どうして朕を捨て去ることができようか」。慈寧宮で太后に拝謁を請うと、宮人が簾を設けたが、太后は言った、「私は尚書(洪皓)を以前から知っている」。命じてそれを撤けさせた。洪皓は建炎己酉年(1129年)に出使してから、ここに至って帰還し、北地に留まること凡そ十五年であった。同時の使者十三人のうち、ただ洪皓・張邵・朱弁のみが生きて帰還でき、忠義の名声を天下に聞こえさせたのは、洪皓のみであった。洪皓が対面を終え、退いて秦檜に会うと、言葉が連日止まらず、言った、「張和公(張浚)は金人の懼れるところであるのに、用いられない。錢塘に仮の居を構えながら、景霊宮や太廟を極めて土木の華美にしているのは、中原を取る意思がないことを示すものではないか」。秦檜は快く思わず、洪皓の子の洪适に言った、「尊公は確かに忠節があり、上の眷顧を得ている。しかし官職は読書のようなもので、速ければ終わりやすく味わいがない。黄鐘・大呂(重厚な音律)の如くでなければならない」。八月、徽猷閣直学士・提挙万寿観兼権直学士院に任じた。

原文十二年七月,見於內殿,力求郡養母。帝曰:「卿忠貫日月,志不忘君,雖蘇武不能過,豈可舍朕去邪!」請見慈寧宮,帟人設簾,太后曰:「吾故識尚書。」命撤之。皓自建炎己酉出使,至是還,留北中凡十五年。同時使者十三人,惟皓、邵、弁得生還,而忠義之聲聞於天下者,獨皓而已。皓既對,退見秦檜,語連日不止,曰:「張和公金人所憚,乃不得用。錢塘暫居,而景靈宮、太廟皆極土木之華,豈非示無中原意乎?」檜不懌,謂皓子适曰:「尊公信有忠節,得上眷。但官職如讀書,速則易終而無味,須如黃鐘、大呂乃可。」八月,除徽猷閣直學士、提舉萬壽觀兼權直學士院。

金人が趙彬ら三十人の家族を引き取りに来たので、詔して帰すこととした。洪皓は言った、「昔、韓起が鄭に環(玉器)を求めた時、鄭は小国であったが、義を引いて与えなかった。金は既に淮河を境界とし、官属は皆呉の人である。留めて帰さないのがよい。その虚実を知られることを慮るからである。彼らは今モンゴルに苦しめられており、姑く強さを示して中国を試そうとしている。もし急いで従えば、秦に人なしと言われ、ますます我々を軽んじるだろう」。秦檜は顔色を変えて言った、「公、秦に人なしと言うな」。既にしてまた上疏して言った、「与えないことを理由に、盟約を破ることに至ることを恐れる。『淵聖(欽宗)及び皇族が帰ったら、その時遣わす』と告げるのがよい」。また言った、「王倫・郭元邁は身を以て国に殉じたのに、彼らを捨てて取らないなら、緩急の際にどうして人を使うことができようか」。秦檜は大いに怒り、また室撚(シラニエン)が声を寄せたことについて言ったので、秦檜の怒りはますます甚だしくなり、その言葉は『檜伝』にある。翌日、侍御史の李文会が洪皓が母を省みないと弾劾し、饒州知州に出された。

原文金人來取趙彬等三十人家屬,詔歸之。皓曰:「昔韓起謁環於鄭,鄭,小國也,能引義不與。金既限淮,官屬皆吳人,宜留不遣,蓋慮知其虛實也。彼方困於蒙兀,姑示強以嘗中國,若遽從之,謂秦無人,益輕我矣。」檜變色曰:「公無謂秦無人。」既而復上疏曰:「恐以不與之故,或致渝盟,宜告之曰:『俟淵聖及皇族歸,乃遣。』」又言:「王倫、郭元邁以身徇國,棄之不取,緩急何以使人?」檜大怒,又因言室撚寄聲,檜怒益甚,語在《檜傳》。翌日,侍御史李文會劾皓不省母,出知饒州。

翌年、洪水が起こり、宦官の白鍔が言い放った、「政治が乱れているのに、洪尚書(洪皓)の名声は天下に知られている。何故用いないのか」と。秦檜はこれを聞いてますます怒り、白鍔を大理寺の獄に繋ぎ、まもなく嶺南に流した。諫官の詹大方はそこで洪皓と白鍔が刎頸の交わりを結び、互いに称賛し合っていると論じ、洪皓を提挙江州太平観に罷免した。白鍔は初め洪皓を知らず、ただ太后に従って北から帰還し、金国で日頃から洪皓の名を知っていただけである。

原文明年,大水,中官白鍔宣言:「燮理乖盭,洪尚書名聞天下,胡不用?」檜聞之愈怒,繫鍔大理獄,尋流嶺表。諫官詹大方遂論皓與鍔為刎頸交,更相稱譽,罷皓提舉江州太平觀。鍔初不識皓,特以從太后北歸,在金國素知皓名爾。

まもなく母の喪に服し、他の言論者はなおも洪皓が宰相の地位を窺っていると言った。喪が明けると、饒州通判に任じられた。李勤がさらに秦檜に附いて洪皓が世を欺く流言飛語を作ったと誣告し、濠州団練副使に左遷し、英州に安置した。九年間居住した後、ようやく朝奉郎に復し、袁州に移され、南雄州に至って卒去した。享年六十八。死後一日にして、秦檜も死んだ。帝は洪皓の死を聞き、嘆き惜しみ、敷文閣直学士を復し、四官を追贈した。久しくして、徽猷閣直学士を復し、諡を「忠宣」とした。

原文尋居母喪,他言者猶謂皓睥睨鈞衡。終喪,除饒州通判。李勤又附檜誣皓作欺世飛語,責濠州團練副使,安置英州。居九年,始復朝奉郎,徙袁州,至南雄州卒,年六十八。死後一日,檜亦死。帝聞皓卒,嗟惜之,復敷文閣直學士,贈四官。久之,復徽猷閣直學士,諡「忠宣」。

洪皓は長く北方の朝廷(金国)に在ったが、その苦しみに耐え、しかも金人に敬われ、著した詩文は、争って書き写し誦し、出版を求めた。帰国後、使者が来るたびに、必ず洪皓が何官で、どこに住んでいるかと尋ねた。性急で義に篤く、艱難危険の中にあっても少しも変わらなかった。懿節皇后の親戚の趙伯璘が悟室(完顔希尹)の配下に隷属し、甚だ貧しかったので、洪皓はこれを救済した。范鎮の孫の祖平が傭奴となっていたのを、洪皓が金人に言って釈放させた。劉光世の庶女が人の豚を飼う者となっていたのを、贖い出して嫁がせた。その他の貴族で流落して賤しい身分に落ちた者は、皆力を尽くして救い出した。ただ秦檜に嫉まれたため、敵国で死なず、かえって讒慝の徒によって死んだのである。

原文皓雖久在北廷,不堪其苦,然為金人所敬,所著詩文,爭鈔誦求鋟梓。既歸,後使者至,必問皓為何官、居何地。性急義,當艱危中不少變。懿節后之戚趙伯璘隸悟室戲下,貧甚,皓賙之。范鎮之孫祖平為傭奴,皓言於金人而釋之。劉光世庶女為人豢豕,贖而嫁之。他貴族流落賤微者,皆力拔以出。惟為檜所嫉,不死於敵國,乃死於讒慝。

洪皓は博学で記憶力が強く、文集五十巻及び『帝王勇要』、『姓氏指南』、『松漠紀聞』、『金国文具録』等の書があった。子に洪适、洪遵、洪邁がいる。

原文皓博學強記,有文集五十卷及《帝王勇要》、《姓氏指南》、《松漠紀聞》、《金國文具錄》等書。子适、遵、邁。

子 洪适

原文子 适

洪适、字は景伯、洪皓の長子である。幼少より聡明で悟りが早く、日に三千言を誦した。洪皓が朔方(金国)に使した時、洪适は年わずか十三歳で、家事を任せることができた。洪皓の出使の恩により、修職郎に補された。紹興十二年(1142年)、弟の洪遵とともに博学宏詞科に合格した。高宗は言った、「父は遠方にあり、子は自立できる。これは忠義の報いである。昇進させるのがよい」と。そこで敕令所刪定官に任じた。後三年、弟の洪邁もこの選に合格し、これによって三洪の文名は天下に満ちた。秘書省正字に改めた。

原文适,字景伯,皓長子也。幼敏悟,日誦三千言。皓使朔方,适年甫十三,能任家事。以皓出使恩,補修職郎。紹興十二年(1142年),與弟遵同中博學宏詞科。高宗曰:「父在遠方,子能自立,此忠義報也,宜升擢。」遂除敕令所刪定官。後三年,弟邁亦中是選,由是三洪文名滿天下。改秘書省正字。

数か月もしないうちに、洪皓が帰国し、秦檜に逆らい、饒州知州として出され、洪适もまた台州通判として出された。任期が満ちようとする時、洪皓が英州に貶謫され、洪适もまた弾劾されて免職となり、嶺南に往き来して父に仕えて看病すること九年に及んだ。秦檜が死に洪皓が還る途中で卒去し、喪が明けると、荊門軍知軍に起用された。詔に応じて寛大な恤みに関する四事を上奏した:茶の額銭を軽くすること、他の州が代わって貢ぎ物を納めること、試験場を開いて旧額を復すること、官田で耕作しない者に租税を納めさせる令を免除すること。徽州知州に改め、まもなく江東路常平茶塩提挙となり、まず役法の不均等の弊害を言上した。

原文甫數月,皓歸,忤秦檜,出知饒州,适亦出為台州通判。垂滿,皓謫英州,适復論罷,往來嶺南省侍者九載。檜死皓還,道卒,服闋,起知荊門軍。應詔上寬卹四事:輕茶額錢、它州代貢禮物、辟試闈以復舊額、蠲官田令不種者輸租。改知徽州,尋提舉江東路常平茶鹽,首言役法不均之弊。

ちょうど完顔亮が侵攻して来た時、上(孝宗)が親征し、洪适は金陵で拝謁し、言った、「当路は旱魃で、百姓は淮で食を求めており、さらに金兵に遭った。今はそれぞれ帰郷を願っているが、田産は官によって売り払われている。その評価による買い戻しを許すよう請う」と。また亮が死ぬと、洪适は上疏して言った、「大定(金世宗の年号)は僭号であり、諸国は必ずしも服従しないであろう。多く密詔を遣わして中原の義士に伝え諭し、それぞれ州県を取らせ、それによって彼らに与えるべきである。王師はただ淮・泗に留まって屯し、兵を募り粟を蓄え、声援とすべきである。蜀・漢・山東の兵が数道ともに集まるのを待ち、機会を見て進めば、兵力が疲弊せず、万全を期することができよう」と。尚書戸部郎中に昇進し、淮東軍馬銭糧総領を兼ねた。孝宗が即位し、海州の包囲が解け、符離で兵を用い、糧秣の供給が繁雑多額となったが、洪适は心を尽くして調度し、供給は欠けることがなかった。司農少卿に遷った。

原文會完顏亮來侵,上親征,适覲金陵,言:「本路旱,百姓逐食於淮,復遭金兵,今各懷歸而田產為官鬻,請聽其估贖之。」及亮斃,适上疏曰:「大定僭號,諸國未必服從,宜多遣密詔傳諭中原義士,各取州縣,因以畀之。王師但留屯淮、泗,募兵積粟,以為聲援。俟蜀、漢、山東之兵數道皆集,見可而進,庶幾兵力不頓,可以萬全。」升尚書戶部郎中,總領淮東軍馬錢糧。孝宗即位,海州解圍,符離用兵,饋餉繁夥,适究心調度,供億無闕。遷司農少卿。

隆興二年二月、太常少卿を兼ねて召され、学士院を権直した。上は諸将に環衛官を授けようとし、その制度について議論するよう詔した。洪适は唐及び本朝の沿革十一箇条を備えて上奏し、かつ言った、「太祖・太宗の朝には、常に諸将及び降王の君臣を処遇するために用い、その後は多く皇族がこれを行ったので、国史は官は存するが事は廃れるとしている。陛下が軍備を整えられるには、遠く唐の制度を取る必要はなく、祖宗の故事こそ模範とすべきである。今すぐに換授を行うと、俸給が減る憂いがある。閣職が節度使を兼帯し、刺史が上将軍を帯び、横行遙郡が大将軍を帯び、正使が将軍を帯び、副使が中郎将を帯び、さらに以下は左右郎将を帯びるようにし、その官府の人吏については、役所に相度させて報告させるよう請う」と。中書舎人に任じられた。時に金人が再び淮を侵犯し、羽檄が次々と至り、詔書が山積し、諮問への応答は概ね上意に適った。これ以来、大用の意図があった。金がまもなく和議を結ぶと、まず賀生辰使となった。金は同簽書枢密院事高嗣先を接伴使として遣わし、彼は自らその父の司空しくう(高慶裔か)が洪皓に恩徳があったと言い、互いに甚だ歓談し、その要点を得て帰国した。

原文隆興二年二月,召貳太常兼權直學士院。上欲除諸將環衛官,詔討論其制。适具唐及本朝沿革十一條上之,且言:「太祖、太宗朝,常以處諸將及降王之君臣,自後多以皇族為之,故國史以為官存而事廢。陛下修飭戎備,不必遠取唐制,祖宗故事蓋可法則。今徑行換授,恐有減奉之患,乞如閣職兼帶節度,至刺史帶上將軍,橫行遙郡帶大將軍,正使帶將軍,副使帶中郎將,又以下則帶左右郎將,其官府人吏,令有司相度以聞。」除中書舍人。時金人再犯淮,羽檄沓至,書詔填委,咨訪酬答率稱上旨,自此有大用意。金既尋盟,首為賀生辰使。金遣同簽書樞密院事高嗣先接伴,自言其父司空有德於皓,相與甚歡,得其要領以歸。

乾道元年五月、翰林学士に遷り、なおも中書舎人を兼ねた。秦塤は長く廃されていたが、突然宮観官を与えられようとした。洪适は上奏して言った、「李林甫の死後、その諸子は皆嶺南に流配された。秦檜は悪を積んで自滅し、不肖の孫の官職が以前のままであるのは、幸運と言えよう。宮観官は小さな職ではあるが、塤が得れば、人々は任用の始まりと見なし、秦檜の党与が牽連して進むことを恐れる」と。その命令はそこで止んだ。時に巫伋が再び召され、莫汲が枢密院編修官に抜擢され、余堯弼が龍図閣学士に復されようとしたが、洪适は彼らは皆秦檜の党与であるとして、命令に従いその辞令を返上した。

原文乾道元年五月,遷翰林學士,仍兼中書舍人。秦塤久廢,忽予祠,适奏曰:「李林甫死後,諸子皆流配嶺南。秦檜稔惡自斃,不肖之孫官職仍舊,可謂幸矣。宮觀雖小,塤得之,則人以除用之漸,恐檜黨牽連而進。」其命遂寢。時巫伋復召,莫汲擢樞密院編修官,余堯弼復龍圖閣學士,适謂其皆檜黨也,隨命繳之。

六月、端明殿学士・簽書枢密院事に任じられた。上は参知政事の銭端礼・虞允文に諭して言った、「三省の事は洪适と相談せよ」と。東西府(中書と枢密院)が始めて同班で奏事するようになった。八月、参知政事に拝された。諫議大夫の林安宅は銅銭が多く北境に入ることを理由に、その禁止を請い、蜀中から鉄銭を取って淮上で行わせた。事が既に行われた後、洪适はそれができないと述べた。上が問うと、洪适は言った、「今、各州で千緡も得られず、一州を一万戸として計算すれば、各家でわずか数百銭を得るに過ぎず、民間で貿易する手段がないことを恐れます。また、客商には戻りの貨物がなく、塩場には重大な利害があります」と。上はこれを然りとし、前の命令を止め、ただ蜀中から十五万緡を取り、廬州・和州の二州だけで行うこととした。

原文六月,除端明殿學士、簽書樞密院事。上諭參政錢端禮、虞允文曰:「三省事與洪适商量。」東西府始同班奏事。八月,拜參知政事。諫議大夫林安宅以銅錢多入北境,請禁之,即蜀中取鐵錢行之淮上。事既行,适言其不可。上問之,适曰:「今每州不得千緡,一州以萬戶計之,每家才得數百,恐民間無以貿易。且客旅無回貨,鹽場有大利害。」上以為然,乃寢前命,但於蜀中取十五萬緡,行之廬、和二州而已。

十二月、尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使に拝された。まもなく、春の長雨があり、洪适は咎を引いて退任を請うた。林安宅が厳しい上疏で洪适を論じ、その後、台臣がまた合わせて上奏した。三月、観文殿学士・提挙江州太平興国宮に任じられた。まもなく紹興府知府・浙東安撫使に起用された。再び宮観官を奉じた。淳熙十一年に薨去。享年六十八。諡は「文恵」。

原文十二月,拜尚書右僕射、同中書門下平章事兼樞密使。未幾,春霖,适引咎乞退,林安宅抗疏論适,既而臺臣復合奏。三月,除觀文殿學士、提舉江州太平興國宮。尋起知紹興府、浙東安撫使。再奉祠。淳熙十一年薨,年六十八,諡「文惠」。

洪适は文学と声望をもって知られ、時に遭い主君に遇い、両制(中書舎人・翰林学士)から一月で政府(枢密院)に入り、さらに四か月で宰相の位に居り、さらに三か月で政務を罷めたが、その学問を究めるほどの大きな建明はなかった。家に居ること十六年、兄弟は鼎立し、子孫は森然として、著述と吟詠をもって自ら楽しみ、近世でこのような福の備わった者は少なかった。ある者は洪适が湯思退に与したと言い、またある者は洪适が淮東から来て、張浚が妄りに費やしたと言い、張浚がこれによって宰相を罷められたと言った。子は九人:槻、柲、槢、𣘀、樌、桴、楹、槺、梠。

原文适以文學聞望,遭時遇主,自兩制一月入政府,又四閱月居相位,又三月罷政,然無大建明以究其學。家居十有六年,兄弟鼎立,子孫森然,以著述吟詠自樂,近世備福鮮有及之。或謂适黨湯思退,又謂适來自淮東,言張浚妄費,浚以此罷相,子九人:槻、柲、槢、𣘀、樌、桴、楹、槺、梠。

子 洪遵

原文子 遵

洪遵は字を景厳といい、洪皓の次子である。幼少の頃より端重にして成人の如く、師に従い学業に励み、時節の寒暑を以て怠ることはなかった。父は沙漠に留め置かれ、母は亡くなると、洪遵は孺慕の情に駆られて攀号した。葬儀が済むと、兄弟は僧舎に寄って詞業を修め、夜は枕に衣を解かずに過ごした。父の蔭により承務郎に補され、兄の洪适と共に博学宏詞科を受験し、魁選に及第して進士出身を賜った。高宗は洪皓が遠く使節として出たことを以て、秘書省正字に抜擢した。中興以来、詞科に中選して即座に館職に入るのは、洪遵より始まる。宰相秦檜の子秦熺が官長となると、その咳払い一つが人の軽重を決めたが、洪遵は恬然として附麗しなかった。二年間遷官されなかった。

原文遵,字景嚴,皓仲子也。自兒時端重如成人,從師業文,不以歲時寒暑輟。父留沙漠,母亡,遵孺慕攀號。既葬,兄弟即僧舍肄詞業,夜枕不解衣。以父蔭補承務郎,與兄适同試博學宏詞科,中魁選,賜進士出身。高宗以皓遠使,擢為秘書省正字。中興以來,詞科中選即入館,自遵始。宰相秦檜子熺為官長,謦欬為人輕重,遵恬然不附麗。二年弗遷。

洪皓が南方に帰還すると、朝廷の議論と意見が合わず、出て守令となった。洪遵は遂に外任を請い、常州・婺州・越州の三州を通判した。紹興二十五年(1155年)、湯思退がこれを推薦し、再び入朝して正字となった。八月、兼権直学士院を拝命した。湯鵬挙が御史台の次官となると、密かに推薦して御史にしようとした。ちょうど対面を賜わろうとした時に父の訃報が届いた。二十八年、喪が明けると、召されて対面し、父の冤罪を極力陳述して言うには、「先臣は龔璹と共に国境を出ましたが、龔璹は劉豫に仕え、妄りに兵官を殺したため劉豫に誅殺されました。しかし秦檜は彼に節旄を贈り、その子を抜擢して用いました。先臣は金人の命を拒み、十五年留め置かれてようやく帰国できましたが、顧みれば嶺外に南竄し、臣兄弟は外に屏跡しています。秦檜は忠逆をこのように区別しませんでした」と。高宗はすべて誹謗の言葉の起こりを説明し、かつ「卿は再び三館に登り、かつて書命を掌った。今は修注の職をもって卿を処遇しよう」と言った。遂に起居舎人を拝した。

原文皓南還,與朝論異,出守。遵遂乞外,通判常、婺、越三州。紹興二十五年(1155年),湯思退薦之,復入為正字。八月,兼權直學士院。湯鵬舉副臺端,密薦為御史。方賜對而父訃聞。二十八年,免喪,召對,極陳父冤,曰:「先臣與龔璹同出疆,璹仕於劉豫,以妄殺兵官為豫所誅,而秦檜贈以節旄,擢用其子。先臣拒金人之命,留十五歲乃得歸,顧南竄嶺外,臣兄弟屏跡在外。檜不分忠逆如此。」高宗悉為道謗語所起,且曰:「卿再登三館,嘗典書命,今以修注處卿。」遂拜起居舍人。

奏上して、経筵官の除罷及び封章進対・宴会賜与・講読問答等の事を、一書に集めて『邇英記注』と名付けることを請うた。その後乾道年間にまた『祥曦殿記注』があったが、実に洪遵に始まる。また対面に因り、銭鋳造の利害を論じ、帝は嘉納した。起居郎に遷り、兼権枢密院都承旨となった。旧制では、修注官・経筵官は留身して奏事することを許されていたが、近例では無かった。洪遵は旧制を復するよう奏請し、かつ起居注が十五年も修されていないことを言い、現在修している月分を進めるほか、毎月分を帯びて修することを請うた。いずれも従われた。

原文奏乞以經筵官除罷及封章進對、宴會錫予、講讀問答等事,萃為一書,名之曰《邇英記注》。其後乾道間又有《祥曦殿記注》,實自遵始。又因面對,論鑄錢利害,帝嘉納之。遷起居郎兼權樞密院都承旨。舊制,修注官、經筵官許留身奏事,而近例無有。遵奏請復舊制,且言起居注未修者十五年,請除見修月進外,每月帶修,皆從之。

二十九年、中書舎人を拝した。殿前裨将の輔逵が防禦使に転じ、王綱が団練使に転じようとした時、洪遵は言う、「近制では管軍官は十年にして初めて一遷する。今両人は一年に満たない。どうしてそうできようか」と。当時勲臣の子孫が多く台省に躐等して居たため、洪遵は極力言上して明らかに止め所を設けるよう請うた。高宗は言う、「正に立法しようとしている。今より功臣の子孫は序遷して侍従に至り、皆に久任して在京宮観とさせよう」と。洪遵は言う、「侍従は朝廷の高選であり、磨勘の階官の如くではない。どうして遷序の制があろうか」と。退いて上奏し言う、「今内外の将家は慮るに二十人ほどおります。もし序遷すれば、十年を出ずして、西清次対の職に皆座して至ることができます。太祖の開国功臣の子孫は諸司を過ぎず、ただ曹彬の子曹琮・曹瑋が功名を自ら奮い立ち、遂に節度使となりましたが、初めから侍従に遞遷する例は聞きません。今の旨一出で、穆清の地が皆将種の類となれば、天下に示すところではありません。前詔を収め還されることを望みます」と。また言う、「瑞昌・興国の間で茶商が失業し、盗賊となって集まっています。榜を掲げて開諭し、その自新を許し、軍に充たんとする者は填刺し、農とならんとする者は放還することを望みます」と。上は皆その奏を許可した。

原文二十九年,拜中書舍人。殿前裨將輔逵轉防禦使,王綱轉團練使,遵言:「近制管軍官十年始一遷,今兩人不滿歲,安得爾?」時勳臣子孫多躐居臺省,遵極言乞明有所止。高宗曰:「正立法,自今功臣子孫序遷至侍從,並令久任在京宮觀。」遵曰:「侍從,朝廷高選,非如磨勘階官,安有遷序之制?」退而上奏言:「今內外將家無慮二十人,若以序遷,不出十年,西清次對皆可坐致。太祖開國功臣子孫不過諸司,惟曹彬之子琮、瑋以功名自奮,遂為節度,初不聞有遞遷侍從之例。今旨一出,使穆清之地類皆將種,非所以示天下。望收還前詔。」又言:「瑞昌、興國之間茶商失業,聚為盜賊。望揭榜開諭,許其自新,願充軍者填刺,願為農者放還。」上皆可其奏。

論者が鄱陽の永平・永豊両監の鼓鋳を復活させようとし、詔して給事中・中書舎人に議わせた。洪遵は言う、「唐には鼓鋳使があり、国朝では或いは漕臣に兼領させ、或いは分道して使を置き、三司に分けました。中興以来、都大提点を置き、官属が多すぎて、動もすれば州県の害となりました。近来急いで廃罷しましたが、また一定の論がなく、初めは運使に委ね、また提刑に委ね、また郡守・通判に委ね、号令が一でなく、鼓鋳は益々少なくなりました。私見では復置するのが便利です」と。

原文論者欲復鄱陽永平、永豐兩監鼓鑄,詔給、舍議,遵曰:「唐有鼓鑄使,國朝或以漕臣兼領,或分道置使,釐為三司。自中興來,置都大提點,官屬太多,動為州縣之害。間者亟行廢罷,又無一定之論,初委運使,又委提刑,又委郡守、貳,號令不一,鼓鑄益少。竊以為復置便。」

三十年正月、吏部侍郎を試みた。以前は選人が曹司に詣でて改秩を求める時、吏がこれを頼みとして市利とし、毫毛ほどでも節に中らなければ、必ず巧みに沮閡を生じ、賄賂が満足するまで欲してやっと止めた。洪遵は明らかに約束し、もし大體に害がなければ、先に行って後から審査し、推薦員数には定限があるのに、挙薦する者が周遮重復し、或いは同時に一章でありながら巧みに両牘とし、或いは五員を推薦すべきところで辄に十数員を踰え、或いは職官を挙げるべきところで詭って京状とし、或いは身は常調に係りながら妄りに職司と称し、或いは東西分曹して交錯搀補し、或いは既に与えてまた奪いながら事故と指し、件々に析いて枚数し、凡そこのような者は通して劾することができるよう請うた。旧制では、致仕任子は、所在に随って審敕牒を経て即座に行うことを請うた。この時、議者の請いに従い、必ず元の州で判奏するよう命じた。洪遵は言う、「士大夫が或いは粤・蜀に游宦し、数千里の外で、不幸にして死ぬことがあります。臨終に職事を謝し、その家が故里に帰るを得るのは已に至難です。今またこれによって齟齬し、反復稽延するのは、明らかに悪吏に地を与えるものです」と。乃ち止めて旧貫に仍らせた。

原文三十年正月,試吏部侍郎。異時選人詣曹改秩,吏倚為市,毫毛不中節,必巧生沮閡,須賂餉滿欲乃止。遵明與約,苟於大體無害,先行後審,薦員有定限,而舉者周遮重復,或同時一章而巧為兩牘,或當薦五員而輒踰十數,或當舉職官而詭為京狀,或身係常調而妄稱職司,或東西分曹而交錯攙補,或已予復奪而指云事故,件析枚數,請凡如是者得通劾之。舊制,致仕任子,隨所在審敕牒即請行。是時,從議者請,必令於元州判奏。遵言:「士大夫或游宦粵、蜀,數千里外,不幸以死。臨終謝事,其家獲歸故里已為至難,今復因此齟齬,反復稽延,是明與惡吏為地也。」乃止仍舊貫。

平江・湖・秀の三州が水害に遭い、秋苗を輸納することができず、有司が抑えて麦を輸納させようとした。洪遵は言う、「麦価は決して米の下に在らず、民はこのように困窮している。どうして夏を指して秋とし、一を衍して二とし、溝壑に擠せしめようとするのか。半量を取るにとどめ、水害に遭った者は悉く免ずることを願います」と。金人が絳陽の郭小的・安化の劉孝恭の二百家を要求してきた。洪遵は蜀の李特のことを戒めとすべきとして、根集が未だ足りないことを以て解き、日月を淹引してこれに報いることを願った。翰林学士兼吏部尚書に遷った。汪澈が湯思退の罷相を論じ、洪遵が制を行ったが、貶す言葉が無かったため、汪澈がこれを言上した。遂に去ることを請い、徽猷閣直学士として太平興国宮を提挙した。

原文平江、湖、秀三州水,無以輸秋苗,有司抑令輸麥。遵言:「麥價殊不在米下,民困如是,奈何指夏以為秋,衍一以為二,使擠溝壑乎?願量取其半,而被水害者悉免之。」金人來索絳陽郭小的、安化劉孝恭二百家,遵以蜀之李特可為至戒,願以根集未足為解,淹引日月報之。遷翰林學士兼吏部尚書。汪澈論湯思退罷相,遵行制,無貶詞,澈以為言。遂丐去,以徽猷閣直學士提舉太平興國宮。

三十一年、金主完顔亮がその尚書蘇保衡に命じて海道より二浙を窺わせた。朝廷は浙西副総管李宝をもってこれを防がせた。李宝は平江に兵を駐め、守臣の朱翌は平素より李宝と意見が合わなかった。朝議は洪遵がかつて李宝を推薦したことを以て、乃ち洪遵に平江を知らしめた。李宝が舟師をもって膠西を擣つに及んで、凡そ資糧・器械・舟楫は皆洪遵が供億し、李宝が成功して帰還したのは、洪遵の助力が多かった。車駕が金陵に幸すると、禁衛士が無藝に丐索し、他の郡はこれに随って与えても飽き足らなかった。呉に至ると、乃ち相告げて言う、「内翰がここにおられる。汝ら再び然るなかれ」と。先に、朝廷は商舶が賊に得られることを慮り、悉く官に拘入したが、既にして返さず、沿海の県は巨艦を団萃し、及び水手・民兵を募ったが、皆縶留されて去ることができなかった。洪遵は対面に因ってこれを論じ、船を商人に還し、水手の自便を聴かせたので、呉人はその徳を称えた。

原文三十一年,金主完顏亮命其尚書蘇保衡由海道窺二浙,朝廷以浙西副總管李寶御之。寶駐兵平江,守臣朱翌素與寶異,朝議以遵嘗薦寶,乃命遵知平江。及寶以舟師擣膠西,凡資糧、器械、舟楫皆遵供億,寶成功而歸,遵之助為多。車駕幸金陵,禁衛士丐索無藝,它郡隨與不饜。至吳,乃相告曰:「內翰在此,汝毋復然。」先是,朝廷慮商舶為賊得,悉拘入官,既而不返,並海縣團萃巨艦及募水手、民兵,皆縶留未得去。遵因對論之,以船還商,而聽水手自便,吳人德之。

孝宗が即位すると、翰林学士承旨兼侍読を拝した。詔して宰執・侍従・台諫に問うて言う、「敵人が旧礼を要求してくる。従えば忍びず屈するが、従わねば辺患が未だ已まない。中原の帰正人が源源として絶えず、これを納めれば東南の力は給することができず、さもなければ向化の心を絶つ。宜しく指陳して定論を以て聞かせるべし」と。洪遵は給事中金安節・中書舎人唐文若・起居郎周必大と共に一つの議を為し、その略は、「直情径行すべきではなく、また急にこれに屈すべきでもない。謂わく、宜しく以前日の数と同じく金繒を遺し、或いは海・泗の類の如き侵地を稍々帰することを許せば、彼もまた藉口して来たり議うことができるであろう」と。

原文孝宗即位,拜翰林學士承旨兼侍讀。詔問宰執、侍從、臺諫曰:「敵人來索舊禮,從之則不忍屈,不從則邊患未已。中原歸正人源源不絕,納之則東南力不能給,否則絕向化之心。宜指陳定論以聞。」遵與給事中金安節、中書舍人唐文若、起居郎周必大共為一議,其略謂:「不宜直情徑行,亦未可遽為之屈,謂宜遺金繒如前日之數,或許稍歸侵地如海、泗之類,則彼亦可藉口而來議矣。」

隆興元年の貢挙を管掌し、同知樞密院事に任ぜられた。寿康殿に金芝十二本が生じた時、同僚らが上表して賀することを議したが、洪遵は李文靖が災異を奏した故事を引き合いに出して、これを止めさせた。眉山の李燾・永嘉の鄭伯熊及び林光朝を推薦したが、用いられる前に、湯思退が左相となり、次相の張浚が罷免されると、御史の周璪は洪遵が超擢されると予測し、上章して弾劾した。上は急いで洪遵を他官に転任させた。洪遵はその地位に安んじることができず、連章して免職を乞い、ついに御史とともに去った。この年七月、端明殿学士として太平興国宮の提挙となった。

原文知隆興元年貢舉,拜同知樞密院事。壽康殿產金芝十二,同列議表賀,遵引李文靖奏災異故事風止之。薦眉山李燾、永嘉鄭伯熊及林光朝,未及用,會湯思退為左相,而次相張浚罷,御史周璪策遵且超遷,上章致劾,上亟徙置他官。遵不能安位,連章乞免,訖與御史俱去。是年七月,以端明殿學士提舉太平興國宮。

乾道六年、信州知州として起用された。太平州知州に転じた。前任の知州周璪はかつて洪遵を論劾したことがあったため、洪遵が来ると聞き、符節の合致を待たずに馳せ去った。洪遵は十里まで追って餞別し、平素のように労をねぎらい、「君は官職に従って行動したまでであり、私に何の恨みがあろうか」と言った。聞いた者はこれを盛徳と認めた。圩田が壊れ、民は生業を失っていた。洪遵は民を集めて圩を築かせ、総数およそ一万に及んだ。冬の厳寒のさなか、洪遵は自ら現場に赴き、酒食を載せて自ら慰労し、恩情を尽くしたので、人々はその労苦を忘れた。運使の張松はその功績を妬み、圩は決壊したことがなく、民も転居したことはないと虚偽を奏上し、必ず圩戸に自ら修築させ、かつ募工の銭米を半減すべきと主張した。洪遵は連続して上疏して争い、ついには朝臣を派遣して再調査を乞うた。そこで将作少監の馬希言・監察御史の陳挙善が相次いで到着し、張松の言を退けたので、圩は完成し、合わせて四百五十五箇所となった。張松は憤りを晴らす術がなく、別に溧水の永豊圩を修治し、丁・米・木を徴発し、その数は甚だ多かった。洪遵は言った、「郡は凶年に当たり、流民を救済し、富者に分与を勧め、穀物を乞い求めている最中である。それは自らの腿肉を切り取って喉を満たすようなもので、自ら食う暇もなく、ましてや他人の腹を満たすことができようか」と。固執して従わなかった。

原文乾道六年,起知信州。徙知太平州。前守周璪以嘗論遵,聞遵來,不俟合符馳去。遵追餞至十里,勞苦如平時,曰:「君當官而行,我何怨?」聞者以為盛德。圩田壞,民失業,遵鳩民築圩凡萬數。方冬盛寒,遵躬履其間,載酒食親餉饁,恩意傾盡,人忘其勞。運使張松忌功,妄奏圩未嘗決,民未嘗轉徙,必責圩戶自閼築,且裁省募工錢米之半。遵連疏爭,至乞遣朝臣覆按。於是將作少監馬希言、監察御史陳舉善狎至,黜松言,圩遂成,合四百五十有五。松無所洩其忿,則別治溧水永豐圩,來調丁、米、木,數甚廣。遵曰:「郡當歲儉,方振卹流移,勸分乞糴,如自刲其股以充喉,不暇食,況能飽他人腹哉。」執不從。

楚の地が旱魃に見舞われた時、隣県の救済は早くなく、措置の前後を誤り、ある者は米を得ても炊く術がなく、ある者は一家全員が餓死してしまっても官倉の米が届かなかった。洪遵は賓佐を選び、遠近・壮老に応じて差等を付けて支給し、租税を十九分まで免除し、さらに江西に穀物を買い求め、生き延びた者は万を下らなかった。戍兵が時機に乗じて利を盗み、兵士が野で掠奪したが、ことごとく捕らえてその軍に帰属させた。それゆえ、大疫病が流行しても村落は平穏であった。建康府知事・江東安撫使兼行宮留守に転じた。孝宗は制誥を担当する舎人の范成大に、その治績を褒め、かつ入朝を許す旨を諭した。

原文楚地旱,旁縣振贍者慮不早,施置失後先,或得米而亡以炊,或闔戶莩藉而廩不至。遵簡賓佐,隨遠近壯老以差賦給,蠲租至十九,又告糴於江西,得活者不啻萬計。戍兵乘時盜利,曹伍剽於野,盡執拘以歸其軍。故當大札瘥而邑落晏然。徙知建​​康府、江東安撫使兼行宮留守。孝宗諭當制舍人范成大,褒其治績,且許入覲。

当時、虞允文が国政を執り、北征の志を持っていた。まず侍衛馬軍を出して駐屯させ、その建康府にいる五軍については、妻子をすべて送り届け、営寨を築く計画で、竈の数はおよそ一万に及んだ。張松はこれを止めることができず、特に洪遵に命じて宰執とともに選徳殿に赴き奏事させた。洪遵は外臣が二府の後に続くことはできないと奏上し、班が退いてから別に引見されることを願ったが、上は許さなかった。資政殿学士に進めて赴任させた。到着すると榜を掲げ、民の苗米は正税のみを納め耗米は納めず、民に自ら斛槩を持参することを許し、倉吏が手加減することができないようにした。郊野をくまなく巡って寨地を占い、民居を妨げず、塚墓を平らげない場所を求め、一年を過ぎてようやく得た。営卒が酔って妄言を吐き衆を動揺させたので、これを斬り、市中で磔にした。三軍に敢えて騒ぐ者はいなかった。昼間に旗亭に入り刃物を振るって酒壚を壊した者がいたので、枷をはめて獄に付し、駅伝で上奏したが返答がないうちに、統帥が譴責を受けることを恐れ、自らこれを処置することを請うた。孝宗は怒り、統帥を罷免し、洪遵もまた二階降格の処分を受けた。間もなく五営が完成し、元の官に復し、引き続き資政殿学士に任ぜられた。淳熙元年、洞霄宮の提挙となった。十一月、薨去。享年五十五。諡は「文安」。

原文時虞允文當國,有北征志。先調侍衛馬軍出屯,其在府者五軍,悉送其孥,謀築營砦,無慮萬灶。張松用不能罷,特敕遵同宰執赴選德殿奏事。遵奏外臣不敢尾二府後,願需班退別引,上弗許。進資政殿學士以行。至則揭榜,民苗米唯輸正不輸耗,聽民自持斛槩,庾人不能輕重其手。遍行郊野卜砦地,求不妨民居、不夷塚墓者,逾年始得之。營卒醉,妄言搖眾,斬之,磔於市,三軍無敢譁。有晝入旗亭挺刃椎壚者,械付獄,驛上奏未下,統帥懼得譴,請自治之。孝宗怒,罷統帥,遵亦坐貶兩秩。未幾,五營成,復元官,仍拜資政殿學士。淳熙元年,提舉洞霄宮。十一月,薨,年五十有五。諡「文安」。

子に洪邁がいる。

原文子 邁

洪邁、字は景盧、洪皓の末子である。幼少より一日に数千言を読み、一度目を通せば忘れず、典籍に極めて博く、稗官虞初の説、仏教・道教の傍流に至るまで、渉猟しなかったものはなかった。二人の兄とともに博学宏詞科を受験したが、洪邁のみが落第した。紹興十五年(1145年)に初めて及第し、両浙転運司幹辦公事に任ぜられ、入朝して敕令所刪定官となった。洪皓が秦檜に逆らい閑職に投じられると、檜の恨みはやまず、御史の汪勃が洪邁がその父の不穏な謀議を知っていたと論じたため、ついに福州教授添差として出された。累遷して吏部郎兼礼部となった。

原文邁,字景盧,皓季子也。幼讀書日數千言,一過目輒不忘,博極載籍,雖稗官虞初,釋老傍行,靡不涉獵。從二兄試博學宏詞科,邁獨被黜。紹興十五年(1145年)始中第,授兩浙轉運司幹辦公事,入為敕令所刪定官。皓忤秦檜投閒,檜憾未已,御史汪勃論邁知其父不靖之謀,遂出添差教授福州。累遷吏部郎兼禮部。

上(高宗)が顕仁皇后の喪に服していた時、孟饗(宗廟の祭)に当たり、礼官はどうすべきか知らなかった。洪邁は宰相を派遣して分祭させることを請い、奏上は認められた。枢密検詳文字に任ぜられた。民に粟を納めさせて罪を贖わせ、国用を緩和することを建議し、また法駕出入の儀礼を厳格にすることを請うた。

原文上居顯仁皇后喪,當孟饗,禮官未知所從,邁請遣宰相分祭,奏可。除樞密檢詳文字。建議令民入粟贖罪,以紓國用,又請嚴法駕出入之儀。

三十一年、欽宗の諡号を議した時、洪邁は言った、「淵聖(欽宗)は北狩して帰らず、臣民は悲痛に思っている。楚人が懐王を立てた故事のように、『懐宗』と号し、復讐の心を繋ぐべきである」と。用いられなかった。呉璘が病篤くなると、朝議は呉拱を代わりに派遣しようとした。洪邁は言った、「呉氏は功績によって蜀の兵権を三十年握っている。民衆の耳目を新たにする措置があり、尾大不掉とならぬようにすべきである」と。知枢密院事の葉義問が師を視察するために出向くことになり、洪邁を参議軍事とするよう奏上した。鎮江に至ると、瓜洲の官軍が金人と対峙していると聞き、慌てふためいて失措した。ちょうど建康から駅伝で急報が来ると、葉義問は急いで帰還しようとした。洪邁は強くこれを止めて言った、「今、軍を退けても京口の勝敗には何の益もなく、金陵が軍旗を返すと聞けば人心が動揺し、それはならない」と。左司員外郎に遷った。

原文三十一年,議欽宗諡,邁曰:「淵聖北狩不返,臣民悲痛,當如楚人立懷王之義,號『懷宗』,以係復讐之意。」不用。吳璘病篤,朝論欲徙吳拱代之。邁曰:「吳氏以功握蜀兵三十年,宜有以新民觀聽,毋使尾大不掉。」知樞密院事葉義問出視師,奏以邁參議軍事,至鎮江,聞瓜洲官軍與金人相持,遑遽失措。會建康走驛告急,義問遽欲還,邁力止之曰:「今退師,無益京口勝敗之數,而金陵聞返旆,人心動搖,不可。」遷左司員外郎。

三十二年(1162年)春、金主(世宗)完顔雍が左監軍の高忠建を派遣して即位を告げさせ、かつ和議を議した。洪邁が接伴使となり、知閤門の張掄が副使となった。上(孝宗)は執政に言った、「かつて講和したのは、梓宮(徽宗の棺)と太后のためであり、たとえ己を屈し言葉を卑しくしても厭わなかった。今、両国の盟約は既に絶えている。名称を何を正統とし、疆土を何を基準とし、朝見の儀礼、歳幣の数は、まず定めるべきである」と。洪邁と張掄が辞去する際に、上はまた言った、「朕はこの事は結局和に帰すると考えている。まず名分を議し、土地はその次としたい」と。洪邁はそこで接伴の礼数について十四箇条の変更を奏上した。渡江以来、己を屈し忍んで礼を過ごすことが多かったが、今回一切これを廃し、敵国としての礼を用い、遠迎や引接の金銀などはすべて廃止した。やがて高忠建が臣下の礼を要求し、新たに回復した州郡を返還するよう議した。洪邁はこれを報告し、かつ奏上して言った、「土地の実利は与えるべからず、礼儀上の虚名は惜しむに足らず」と。礼部侍郎の黄中はこれを聞き、急ぎ奏上して言った、「名が定まれば実が従う。百世変わらず、虚とは言えない。土地の得失は、彼にありこちらにあり、実とは言えない」と。兵部侍郎の陳俊卿もまた言った、「まず名分を正すべきである。名分が正しければ国威は張り、歳幣もまた減らすことができる」と。

原文三十二年(1162年)春,金主褒遣左監軍高忠建來告登位,且議和,邁為接伴使,知閤門張掄副之。上謂執政曰:「向日講和,本為梓宮、太后,雖屈己卑辭,有所不憚。今兩國之盟已絕,名稱以何為正,疆土以何為準,朝見之儀,歲幣之數,所宜先定。」及邁、掄入辭,上又曰:「朕料此事終歸於和,欲首議名分,而土地次之。」邁於是奏更接伴禮數,凡十有四事。自渡江以來,屈己含忍多過禮,至是一切殺之,用敵國體,凡遠迎及引接金銀等皆罷。既而高忠建有責臣禮及取新復州郡之議,邁以聞,且奏言:「土疆實利不可與,禮際虛名不足惜。」禮部侍郎黃中聞之,亟奏曰:「名定實隨,百世不易,不可謂虛。土疆得失,一彼一此,不可謂實。」兵部侍郎陳俊卿亦謂:「先正名分,名分正則國威張,而歲幣亦可損矣。」

起居舎人に進んだ。当時、使節を派遣して金国に報聘することが議され、三月丁巳、詔して侍従・台諫にそれぞれ使命に適う者一人を推薦させた。かつて洪邁が接伴使であった時、既に旧礼を以て金使を屈服させていたので、この時、慨然として行くことを請うた。そこで翰林学士を仮とし、賀登位使を充て、金に兄弟敵国と称させて河南の地を返還させようとした。夏四月戊子、洪邁が辞去するに当たり、国書は敵国の礼を用いた。高宗は親筆で洪邁らに賜って言った、「祖宗の陵寢が三十年も隔絶し、時に応じて掃除祭祀することができないのは、心実に痛む。もし彼らが河南の地を返還してくれるならば、たとえ尊大な態度を従来通りに保たせ、再び己を屈することになっても、何を惜しむことがあろうか」と。洪邁は奏上して言った、「山東の兵が解かれなければ、両国の友好は成り立たない」と。燕に至ると、金の閤門が国書を見て、「様式に合わない」と呼び、使者に表中の「陪臣」の二字を改めるよう強制し、朝見の儀礼は必ず旧礼を用いようとした。洪邁は初め固執して承諾しなかったが、やがて金が使館を封鎖し、朝から暮れまで水さえ通さず、三日してようやく謁見できた。金人の言葉は極めて不遜で、大都督ととくの完顔彜(懷忠)は人質として留め置くことを議したが、左丞相の張浩が反対し、ついに帰還させた。七月、洪邁が朝廷に戻ると、孝宗は既に即位していた。殿中侍御史の張震が洪邁が金に使いして使命を辱めたと論じ、罷免させた。翌年、泉州知事として起用された。

原文進起居舍人。時議遣使報金國聘,三月丁巳,詔侍從、臺諫各舉可備使命者一人。初,邁之接伴也,既持舊禮折伏金使,至是,慨然請行。於是假翰林學士,充賀登位使,欲令金稱兄弟敵國而歸河南地。夏四月戊子,邁辭行,書用敵國禮,高宗親札賜邁等曰:「祖宗陵寢,隔闊三十年,不得以時灑掃祭祀,心實痛之。若彼能以河南地見歸,必欲居尊如故,正復屈己,亦何所惜。」邁奏言:「山東之兵未解,則兩國之好不成。」至燕,金閤門見國書,呼曰:「不如式。」抑令使人於表中改陪臣二字,朝見之儀必欲用舊禮。邁初執不可,既而金鎖使館,自旦及暮水漿不通,三日乃得見。金人語極不遜,大都督懷忠議欲質留,左丞相張浩持不可,乃遣還。七月,邁回朝,則孝宗已即位矣。殿中侍御史張震以邁使金辱命,論罷之。明年,起知泉州。

乾道二年(1166年)、再び吉州の知事となる。入朝して応対し、起居舍人に任ぜられ、直ちに上言す、「起居注は皆諸処の関報に拠り、始めて修纂を加うるも、日暦・時政記有りと雖も、亦書くを得ず。景祐の故事に、『邇英延義二閣注記』有り、凡そ経筵の侍臣の出処・封章進対・宴会賜予は、皆用て存記す。十年間稍く廃れて続かず、陛下の言動は皆聞知する所無し、恐らくは侍臣を命ずる本意に非ざるべし。乞うらくは講読官をして自今各日々に得たる聖語を以て修注官に関送せしめ、講筵所に牒報せしめ、謹んで之を録せしめ、因りて今御す所の殿の名を以て『祥曦記注』と曰わしむべし」と。制して可とす。

原文乾道二年(1166年),復知吉州。入對,遂除起居舍人,直前言:「起居注皆據諸處關報,始加修纂,雖有日曆、時政記,亦莫得書。景祐故事,有《邇英延義二閣注記》,凡經筵侍臣出處、封章進對、宴會賜予,皆用存記。十年間稍廢不續,陛下言動皆罔聞知,恐非命侍本意。乞令講讀官自今各以日得聖語關送修注官,令講筵所牒報,使謹錄之,因今所御殿名曰《祥曦記注》。」制可。

三年(1167年)、起居郎に遷り、中書舎人兼侍読・直学士院を拝し、仍って史事に参ず。父忠宣・兄适・遵皆此の三職を歴任し、邁又之に踵ぐ。邁奏す、「三省の事は巨細無く、必ず先ず中書に経て書黄し、宰執書押し、当制の舎人書行し、然る後に門下を過ぎ、給事中書読す。もし給・舎に建明有らば、則ち封黄して具奏し、以て上旨を聴く。惟だ枢密院は既に旨を得れば、即ち書黄して門下を過ぐるも、例として中書に送らず、之を『密白』と謂う。則ち封駁の職は似たる偏り有り、況んや今宰相枢密を兼ぬるに因りて、釈正するも嫌有るに為さず。望むらくは詔して枢密院に、凡そ已に制勅を被るものは、並びに左右省に関し、三省の書黄に依らしめ、以て出命を重んずるの意を示すべし」と。報えて可とす。

原文三年(1167年),遷起居郎,拜中書舍人兼侍讀、直學士院,仍參史事。父忠宣、兄适、遵皆歷此三職,邁又踵之。邁奏:「三省事無鉅細,必先經中書書黃,宰執書押,當制舍人書行,然後過門下,給事中書讀,如給、舍有所建明,則封黃具奏,以聽上旨。惟樞密院既得旨,即書黃過門下,例不送中書,謂之『密白』,則封駁之職似有所偏,況今宰相兼樞密,因而釐正,不為有嫌。望詔樞密院。凡已被制敕,並關左右省依三省書黃,以示重出命之意。」報可。

六年(1170年)、贛州知事を除せられ、学宮を起こし、浮梁を造り、士民之に安んず。郡兵素より驕り、小に欲する如くならざれば則ち跋扈し、郡は歳ごとに千人を遣わして九江に戍らしむ。是の歳、或いは至れば則ち留まりて復た返らずと怵かす有り、衆遂に戈を反す。民訛言して相驚き、百姓恟懼す。邁動かず、但だ一校を遣わして婉に之を説き、俾くは営に帰らしむ。衆皆聴き、橐を垂れて入り、徐かに什五長の両人を詰め、械して潯陽に送り、市に斬る。辛卯歳饑饉有り、贛は適中熟す。邁粟を移して隣郡を済す。僚属に諫めて止むる者有り、邁笑いて曰く、「秦・越の瘠肥、臣子の義や」と。尋いで建寧府を知る。富民に睚眥して人を殺し、衷刃して獄を篡むる者有り、久しく捕を拒む。邁其の罪を正し、黥げいして嶺外に流す。

原文六年(1170年),除知贛州,起學宮,造浮梁,士民安之。郡兵素驕,小不如欲則跋扈,郡歲遣千人戍九江,是歲,或怵以至則留不復返,眾遂反戈。民訛言相驚,百姓恟懼。邁不為動,但遣一校婉說之,俾歸營,眾皆聽,垂橐而入,徐詰什五長兩人,械送潯陽,斬於市。辛卯歲饑,贛適中熟,邁移粟濟鄰郡。僚屬有諫止者,邁笑曰:「秦、越瘠肥,臣子義耶?」尋知建寧府。富民有睚眥殺人衷刃篡獄者,久拒捕,邁正其罪,黥流嶺外。

十一年(1175年)、婺州を知る。奏す、「金華の田は多く沙にて、勢水を受くべからず、五日雨無ければ則ち旱す。故に境内の陂湖は最も繕治すべし。耕者をして力を出ださしめ、田主穀を出ださしめ、凡そ公私の塘堰及び湖と為すもの、総べて八百三十七所と為す」と。婺軍は素より律無く、春に衣を与うるに、緡を以て帛に易えんと欲す。吏不可とすれば、則ち群呼嘯聚して郡将の治する所に於いてす。郡将惴恐し、姑息して其の欲する如くにす。邁至るや、衆前事に狃い、飛語を以て譙門に榜するに至る。邁計を以て四十有八人を逮捕し、之を理に置く。党衆相嗾き、哄いて邁の轎を擁す。邁曰く、「彼は罪人なり、汝等何ぞ預かる」と。衆逡巡して散去す。邁首悪の二人を戮し、之を市に梟す。余は黥撻有差し、敢えて譁する者無し。事聞こえ、上輔臣に語りて曰く、「書生の能く事に臨み権に達するを謂わざりき」と。特に関文閣待制に遷す。

原文十一年(1175年),知婺州,奏:「金華田多沙,勢不受水,五日不雨則旱,故境內陂湖最當繕治。命耕者出力,田主出穀,凡為公私塘堰及湖,總之為八百三十七所。」婺軍素無律,春給衣,欲以緡易帛,吏不可,則群呼嘯聚於郡將之治,郡將惴恐,姑息如其欲。邁至,眾狃前事,至以飛語榜譙門。邁以計逮捕四十有八人,置之理,黨眾相嗾,哄擁邁轎,邁曰:「彼罪人也,汝等何預?」眾逡巡散去。邁戮首惡二人,梟之市,餘黥撻有差,莫敢譁者。事聞,上語輔臣曰:「不謂書生能臨事達權。」特遷敷文閣待制。

明年、召して対せしむ。首に淮東の辺備六要地を論ず。曰く海陵、曰く喻洳、曰く塩城、曰く宝応、曰く清口、曰く盱眙。謂うらくは宜しく城池を修め、屯兵を厳にし、遊樁を立て、戍卒を益すべしと。又言す、「許浦は宜しく河を三十六里開くべく、梅里鎮は宜しく二大堰を築き、斗門を作り、行師に遇えば則ち防を決して船を送るべし」と。又言す、「馮湛多槳船を創す。底平にして檣浮かぶ、尺水と雖も運ぶ可し。今十五六年、修葺数少なく、用に足らず」と。謂うらくは宜しく瀕海の富商を募りて船に入れ爵を予い、善く舟を操る者を招きて以て水軍を補うべしと。上之を嘉す。提挙佑神観兼侍講・同修国史を以てす。

原文明年,召對,首論淮東邊備六要地:曰海陵,曰喻洳,曰鹽城,曰寶應,曰清口,曰盱眙。謂宜修城池,嚴屯兵,立遊樁,益戍卒。又言:「許浦宜開河三十六里,梅里鎮宜築二大堰,作斗門,遇行師,則決防送船。」又言:「馮湛創多槳船,底平檣浮,雖尺水可運。今十五六年,修葺數少,不足用。」謂宜募瀕海富商入船予爵,招善操舟者以補水軍,上嘉之。以提舉佑神觀兼侍講、同修國史。

邁初めて史館に入り、『四朝帝紀』の修纂に預かる。敷文閣直学士・直学士院に進む。講読官宿直す。上時に召し入れて、夜分に至るまで談論す。十三年九月、翰林学士を拝し、遂に『四朝史』を上る。一祖八宗百七十八年を一書と為す。

原文邁初入史館,預修《四朝帝紀》,進敷文閣直學士、直學士院。講讀官宿直,上時召入,談論至夜分。十三年九月,拜翰林學士,遂上《四朝史》,一祖八宗百七十八年為一書。

紹熙改元(1190年)、煥章閣学士に進み、紹興府を知る。闕を過ぎて奏事し、新政は宜しく十漸を以て戒とすべしと言う。上曰く、「浙東の民は和市に困す。卿往きて、朕が為に之を正せ」と。邁再拝して曰く、「力を尽くすを誓う」と。邁郡に至り、詭戸四万八千三百有奇を核実し、減ずる所の絹匹を以て計るもの、略其の数の如し。提挙玉隆万寿宮。明年、再び章を上って老を告げ、龍図閣学士に進む。尋いで端明殿学士を以て致仕し、是の歳卒す。年八十。光禄大夫を贈り、諡して「文敏」と曰う。

原文紹熙改元(1190年),進煥章閣學士、知紹興府。過闕奏事,言新政宜以十漸為戒。上曰:「浙東民困於和市,卿往,為朕正之。」邁再拜曰:「誓盡力。」邁至郡,核實詭戶四萬八千三百有奇,所減絹以匹計者,略如其數。提舉玉隆萬壽宮。明年,再上章告老,進龍圖閣學士。尋以端明殿學士致仕,是歲卒,年八十。贈光祿大夫,諡「文敏」。

邁兄弟は皆文章を以て盛名を取り、貴顕に躋る。邁は尤も博洽を以て孝宗に知られ、其の文は衆体を備えたりと謂う。邁は典故を考閲し、経史を漁猟し、極めて鬼神事物の変に及び、手ずから『資治通鑑』を書くこと凡そ三たびす。『容斎五筆』・『夷堅志』有りて世に行わる。其の他の著述尤も多し。修むる所の『欽宗紀』は多く孫覿に本づき、耿南仲に附き、李綱を悪み、紀する所多く実を失う。故に朱熹王允の論を挙げ、佞臣は筆を執らしむべからずと言い、以て覿の紀する所を取るべからずと為す云う。

原文邁兄弟皆以文章取盛名,躋貴顯,邁尤以博洽受知孝宗,謂其文備眾體。邁考閱典故,漁獵經史,極鬼神事物之變,手書《資治通鑑》凡三。有《容齋五筆》、《夷堅志》行於世,其他著述尤多。所修《欽宗紀》多本之孫覿,附耿南仲,惡李綱,所紀多失實,故朱熹舉王允之論,言佞臣不可使執筆,以為不當取覿所紀云。

論じて曰く、孔子云う、「四方に使いして、君命を辱しめざるは、士と謂うべし」と。建炎・紹興の際に当たり、凡そ金に使する者は、虎口を探るが如し。能く節を全うして帰るは、朱弁・張邵・洪皓其れ庶幾からんか。望之は議うるに足らず。皓は北に留まること十五年、忠節尤も著し。高宗蘇武も過ぐる能わずと謂う、誠に哉。然るに竟に秦檜に忤いて謫死す、悲しいかな。其の子适・遵・邁相継いで詞科に登り、文名天下に満つ。适は位極めて台輔に至り、而して邁は文学尤も高く、朝に立ちて議論最も多し。所謂る忠議の報い、詎ぞ信ぜざらんや。

原文論曰:孔子云:「使於四方,不辱君命,可謂士矣。」當建炎、紹興之際,凡使金者,如探虎口,能全節而歸,若朱弁、張邵、洪皓其庶幾乎,望之不足議也。皓留北十五年,忠節尤著,高宗謂蘇武不能過,誠哉。然竟以忤秦檜謫死,悲夫!其子适、遵、邁相繼登詞科,文名滿天下,适位極臺輔,而邁文學尤高,立朝議論最多,所謂忠議之報,詎不信夫。