宋史

列傳第一百三十二 朱弁 鄭望之 張邵 洪皓

朱弁

朱弁、字は少章、徽州婺源の人なり。幼くして聡明にして悟るところ多く、読書一日数千言に及ぶ。冠に既にし、太学に入り、晁説之その詩を見て、これを奇とし、共に新鄭に帰り、兄の女を以て妻とす。新鄭は汴・洛の間に介在し、故家遺俗多し、弁其の中に遊び、聞見日を追って広し。靖康の乱に、家は賊に破られ、弁南に帰る。

建炎初め、使を遣わして両宮を問安するを議し、弁身を奮って自ら献じ、詔して修武郎を補し、吉州団練使を借り、通問副使と為る。雲中に至り、粘罕を見、邀えて説くこと甚だ切なり。粘罕聴かず、館に就かしめ、兵を以てこれを守る。弁復た書を与え、用兵講和の利害を言うこと甚だ悉し。

紹興二年、金人忽ち宇文虚中を遣わし来たり、和議成る可しと言い、当に一人を遣わして元帥府に詣り書を受け還るべしとす。虚中は弁と正使王倫に策を探り去留を決せんと欲す。弁曰く、「吾来るや、固より自ら必ず死すと分かつ。豈に今日倖いに先んじて帰るを覬うべきや。願わくは正使書を受け帰り天子に報じ、両国の好を成し、早く四海の養を両宮に申さしめよ。然らば吾たとえ骨を外国に暴かすとも、猶お生ける年なり」と。倫将に帰らんとす。弁請うて曰く、「古の使者には節を以て信と為す。今節無くして印有り。印も亦た信なり。願わくは印を留め、弁を得て抱き以て死なしめよ。死して腐らざらん」と。倫解きて以て弁に授く。弁受けこれを懐し、臥起これと俱にす。

金人弁を迫り劉に仕えしめ、且つこれを訹して曰く、「これ南帰の漸なり」と。弁曰く、「豫は乃ち国賊なり。吾嘗て其の肉を食わざるを恨む。又た忍びて北面してこれに臣すべきや。吾死有るのみ」と。金人怒り、其の餼遺を絶ちて以てこれを困む。弁固より駅門を拒み、飢えを忍びて尽くるを待ち、誓って屈せず。金人も亦た感動し、礼を致すこと初めの如し。久しくして、復た其の官を易えんと欲す。弁曰く、「古より兵交わるより、使其の間に在り。言従う可きはこれに従い、従う可からざれば則ちこれを囚え、これを殺す。何ぞ必ずしも其の官を易えん。吾が官は本朝に受けしもの、死有るのみ。誓って易えて吾が君を辱しめじ」と。且つ書を移して耶律紹文等に曰く、「上国の威命朝に至れば則ち使人をして夕に死なしめ、夕に至れば則ち朝に死なしむ」と。又た書を以て後使洪皓に訣して曰く、「行人を殺するは細事に非ず。吾曹これに遭うは命なり。要は当に生を捨てて義を全うすべし爾」と。乃ち酒食を具え、掠められたる士夫を召し飲ます。半ば酣にして、これに語りて曰く、「吾已に近郊某寺の地を得たり。一旦命を畢えて国に報ぜん。諸公幸いに我を其の処に瘞せ。其上に題して『有宋通問副使朱公之墓』と曰え。我に於いて幸いなり」と。衆皆涙下り、仰ぎ視ること能わず。弁談笑自若たり、曰く、「此れ臣子の常なり。諸君何ぞ悲しむや」と。金人其の終に屈せざる可きを知り、遂に復た強ゆること無し。

王倫朝に還り、弁の節を守りて屈せざるを言う。帝其の子林に官を為し、其の家に銀帛を賜う。会に粘罕等相継いで死滅す。弁密かに其の事及び金国の虚実を疏し、曰く、「此れ失う可からざるの時なり」と。李発等を遣わし間行して帰報せしむ。其の後、倫復た帰る。又た弁の奉送せる徽宗大行の文を以て献ぜしむ。其の辞に曰く有り、「馬角の未だ生ぜざるを歎き、魂は雪窖に消え;龍髯に攀じて未だ逮ばざるに、涙は氷天に灑ぐ」と。帝読みて感泣し、其の親属五人に官を為し、呉興の田五頃を賜う。帝丞相張浚に謂いて曰く、「帰日の、当に禁林を以てこれを処せん」と。八年、金使烏陵思謀・石慶充至り、弁の忠節を称す。詔して黄金三十両を附して以て賜う。

十三年、和議成り、弁帰るを得。便殿に入り見ゆ。弁謝し且つ曰く、「人の得難き者は時なり。而して時の運は已む無し。事の失う可からざる者は幾なり。而して幾の蔵は形無し。惟だ已む無きが故に、来たりて遅くして遇い難く;惟だ形無きが故に、動き微にして見難し。陛下金人と講和し、上は梓宮を返し、次には太母を迎え、又其の次には赤子の辜無きを憐れむ。此れ皆時を知り幾を知るの明験なり。然れども時は運び往きて、或いは固執し難く;幾は動きて変有り、未だ兆さざるを鑑みる宜し。盟は守る可く、而して詭詐の心は宜しく嘿してこれを待つべし。兵は息む可く、而して銷弭の術は詳しく以てこれを講ずべし。金人は黷武を以て至徳と為し、苟安を以て太平と為し、民を虐げて民を恤わず、地を広くして徳を広くせず。此れ皆天の中興の勢を助くるなり。若し時と幾と、陛下既に始めに知る。願わくは其の終わりを図らん」と。帝其の言を納れ、金帛を賜うこと厚し。弁又た金国に得たる六朝の御容及び宣和の御書画を以て献ず。秦檜其の敵情を言うを悪み、奏して初補の官を以て宣教郎・直秘閣に易えしむ。有司其の考を校するに十七年、応に数官を遷すべし。檜これを沮み、僅かに奉議郎に転ず。十四年、卒す。

弁文を為すに陸宣公を慕い、援拠精博にして、事理を曲く尽くす。詩は李義山に学び、詞気雍容として、其の険怪奇澀の弊を蹈まず。金国の名王貴人多く子弟を遣わし就学せしむ。弁文字を因り往来し、和好の利を以てこれを説く。及び帰り、北方に見聞せる忠臣義士朱昭・史抗・張忠輔・高景平・孫益・孫谷・傅偉文・李舟・五台僧宝真・婦人丁氏・晏氏・小校閻進・朱勣等の死節の事状を述べ、褒録を加えて以て来者を勧めんことを請う。『聘遊集』四十二巻・『書解』十巻・『曲洧旧聞』三巻・『続骫骳説』一巻・『雑書』一巻・『風月堂詩話』三巻・『新鄭旧詩』一巻・『南帰詩文』一巻有り。

鄭望之

鄭望之、字は顧道、彭城の人、顕謨閣直学士僅の子なり。望之少にして文名有り、山東皆推重す。崇寧五年進士第に登り、陳留簿より累遷して枢密院編修官に至り、開封府儀・工・戸曹を歴任し、治辦を以て称さる。事に臨み勁正にして、請託を受けず。宦寺に民田を強占する者有れば、奏してこれを帰す。蔡京の子人妾を奪わんと欲し、人をして意を諭さしむ。望之拒み受けず。駕部員外郎兼金部を除す。

靖康元年、金人汴京を攻む。尚書工部侍郎を仮し、俾くして軍前計議使と為らしむ。既に還り、金人呉孝民を遣わし望之と同に入見せしむ。望之言う、金人の意は金幣に在り、且つ大臣を要して同議すと。乃ち同知枢密院事李棁と望之をして再び使わしむ。斡離不朝廷の帰朝官を受くる及び平州張覚に手詔を賜うを以て辞と為し、蕭三宝奴を遣わし棁等と偕に還らしめ、書を以て三鎮の割を求め、宰相交地を得、親王大軍を送りて河を過らんことを欲す。

時に高宗康邸に在り慷慨して行かんことを請う。遂に張邦昌と筏に乗り濠を渡り、午より夜分に至り、始めて金砦に達す。又た望之を戸部侍郎に除し、棁と同に再び金営に至り、仍た珠玉を以て金人に遺す。金人望之を拘留すること旬を逾ゆ。会に姚平仲夜砦を劫うも克たず。斡離不用兵を以て諸使者を詰責す。邦昌恐懼涕泣す。王動かず。金人遂に王を留めんと欲せず、更に粛王を請う。乃ち兵を以て望之を国王砦に詣らしめ詰問せしむ。会に再び宇文虚中を遣わし割地の詔を持して至る。望之還るを得。因り盛んに敵勢強大、我が兵削弱、和せざる可からざるを言う。既にして金兵退く。朝廷議和の策に非ざるを以て、望之を罷めて亳州明道宮を提挙せしむ。

建炎初年、李綱は望之が敵勢を誇張し、国威を損ねて禍敗を招いたとして、海州団練副使に責められ、連州に居住した。李綱が罷免されると、詔により望之を戸部侍郎とし、まもなく吏部侍郎に転じた。王雲の冤罪を論じ、帝は感動し、王雲の元の官職を回復させ、七人の子に恩沢を与えた。まもなく御営司参賛軍事を兼ねて主管した。航海の不便を論じて旨に逆らい、集英殿修撰として再び亳州明道宮を領した。宣州知州として起用されたが、一年余りで上奏文により罷免された。

紹興二年、赦令に遇い、徽猷閣待制として致仕した。七年、致仕を解かれ、行在に召された。望之は老衰を理由に辞退したが、帝は大臣に「望之は朕の故人である」と言った。そこで徽猷閣直学士に昇進し、再び致仕した。三十一年、卒去、八十四歳。中大夫を追贈された。

張邵

張邵、字は才彦、烏江の人。宣和三年の上舎第に及第した。建炎元年、衢州司刑曹事となった。詔により直言を求めた際、張邵は上疏して言った、「中原の形勢があり、東南の形勢がある。今たとえ中原を急に争えなくとも、金陵に進都し、江・淮・しょく・漢・閩・広の資力を用いて恢復を図るべきであり、自ら退いて弱体化すべきではない」。

三年、金人が南侵し、軍前に赴ける者を求める詔が出ると、張邵は慨然として行くことを請い、五官に転じ、直龍図閣、礼部尚書を仮とし、通問使を充て、武官の楊憲が副使となり、即日出発した。濰州に至ると、接伴使が酒宴を設け音楽を奏したが、張邵は言った、「二帝が北遷された、臣子として聞くに忍びない、音楽を止めてほしい」。三、四度繰り返し、聞く者は涙を流した。翌日、左監軍の撻攬に会い、拝礼を命じられたが、張邵は言った、「監軍と私は南北朝の従臣であり、互いに拝礼する礼はない」。また書状を送って言った、「兵は強弱にあるのではなく、曲直にある。宣和以来、我が方に兵がなかったわけではないが、帥臣がまず辺境に隙を開き、謀臣がさらに兵端を開いたため、大国が勝つことができた。その後、偽楚が僭立し、群盗が蜂起したが、幾ばくもなく電掃のごとく一掃された、これは天意人心が未だ宋の徳を厭わなかったからである。今、大国が再び地を裂いて劉豫を封じ、兵を窮めず、曲はこちらにある」。撻攬は怒り、国書を取り上げ、張邵を捕らえて密州に送り、祚山砦に囚禁した。

翌年、また張邵を劉豫のもとに送り、彼を用いさせようとした。張邵は劉豫に会い、長揖しただけで、また「殿院」と呼び、君臣の大義を責めて、言葉も態度も厳しかった。劉豫は怒り、枷をはめて獄に置き、楊憲はついに降伏した。劉豫は張邵が屈しないと知り、しばらくして再び金に送り、燕山の僧寺に拘禁した。従者は皆、行方がわからなかった。後にまた書状を作り、金に対して「劉豫は大国の勢いを頼み、日夜南侵し、勝たなければ首鼠両端となり、勝てば鷹を養うがごとく、満腹すれば飛び去り、結局は大国の利益にならない」と言った。看守が密かに告げ、金はその書状を取り上げ、さらに北の会寧府に移した。燕から三千里である。金はかつて大赦を行い、宋の使者が自由に郷里に帰ることを許したが、人々は多く淮北に籍を置き、少しでも南に近づくことを願った。ただ張邵と洪皓、朱弁だけが家は江南にあると言った。

十三年、和議が成立し、洪皓、朱弁とともに南帰した。八月、入朝し、前後の使者である陳過庭、司馬朴、滕茂実、崔縦、魏行可らが異域で没し、まだ褒贈されていないことを奏上し、早く恤典を頒布するよう請願した。張邵は崔縦の柩を携えてその家に帰した。秘閣修撰に昇進し、佑神観を主管した。左司諫の詹大方がその奉使が成果を上げなかったと論じ、台州崇道観に改めた。時の宰相に書を送り、欽宗と諸王后妃を迎え請うよう勧めた。十九年、敷文閣待制として江州太平興国宮を提挙した。池州知州となり、再び祠官となって卒去、六十一歳。累贈して少師となった。

張邵は気概に富み、事に遇えば慷慨とし、常に功名を自ら期し、出使して囚われ流徙し、幾度も死に瀕した。会寧にいた時、金人の多くが彼に学んだ。仏書を誦するのを好み、異域でも廃さなかった。初め、金に使した時、濰州で秦檜に会った。帰国後、上書して秦檜の忠節を言ったため、論者はこれを軽んじた。後に弟の張祁が大理獄に下され、張邵に連座しようとしたが、秦檜が死んだため免れた。文集十巻がある。

子:孝覧、孝曾、孝忠。孝曾も後に出使して金で没し、金人は張邵の子と知り、なお哀れんだ。

洪皓

洪皓、字は光弼、番昜の人。若い時から奇節があり、慷慨として四方を経略する志があった。政和五年の進士第に及第した。王黼、朱勔ともに婚姻を望んだが、力辞した。宣和中、秀州司録となった。大水が起こり、民多くが失業したため、洪皓は郡守に願い出て救荒を自ら担当し、倉を開いて価格を下げて売った。民が殺到したため、洪皓は混乱を恐れ、別に青白の旗を立て、手に墨を塗って識別させ、規律は厳しく恩恵は広く行き渡った。浙東の綱米が城下を通り過ぎた時、洪皓は郡守に願い出てこれを留めさせようとしたが、郡守は許さなかった。洪皓は言った、「一身をもって十万の人命に代えたい」。人々は骨身に沁みて感激し、「洪仏子」と号した。その後、秀州の軍が反乱し、郡民を掠奪したが、一人も逃れられなかった。ただ洪皓の門前を通り過ぎる時、「これは洪仏子の家だ」と言って、犯そうとしなかった。

建炎三年五月、帝が金陵に行こうとした時、洪皓は上書して言った、「内患はようやく治まったが、外敵はまさに盛んである。軽々しく建康に至れば、金人が虚に乗じて侵軛する恐れがある。まず近臣を派遣して経営させ、準備が整ったと報告があれば、回鑾しても遅くはない」。当時、朝議はすでに決まっており、従わなかったが、後に後悔した。ある日、帝が宰輔に近ごろ移蹕を諫めた者は誰かと問うと、張浚が洪皓と答えた。当時、金国への使者を派遣する議論があり、張浚はまた呂頤浩に洪皓を推薦し、召して語らせると、大いに喜んだ。洪皓はちょうど父の喪に服していたが、呂頤浩は衣巾を解き、墨衰絰に着替えて入対させた。帝は国歩の艱難、両宮の遠播を憂えた。洪皓は極言して言った、「天道は還るを好む、金人がどうして長く中夏を陵し続けられようか!これはまさに春秋の邲・郢の役であり、天があるいは晋を戒め楚を訓えているのである」。帝は喜び、洪皓を五官に遷し、徽猷閣待制に抜擢し、礼部尚書を仮とし、大金通問使とし、龔璹が副使となった。執政と国書を議するよう命じられたが、洪皓は変更したいところがあったため、呂頤浩は快く思わず、遷官の命令を抑えた。

当時、淮南で盗賊が相次いで起こり、李成がようやく招撫されたばかりであったため、泗州知州に命じて羈縻させた。そこで洪皓を淮南、京東等路撫諭使を兼ねさせ、李成に命じて配下の兵で洪皓を護衛して南京まで送らせた。淮南を通り過ぎる頃、李成はちょうど耿堅とともに楚州を包囲し、権州事の賈敦詩が敵に降ったと責めていたが、実は叛心を抱いていた。洪皓はまず書状を李成に送ったが、李成は汴が涸れ、虹に紅巾賊がおり、軍糧が尽きたので行けないと言った。洪皓は耿堅が義兵を起こしたと聞き、義をもって動かせると考え、人を密かに派遣して諭した、「君は数千里を馳せて国家の急に赴いた、山陽(楚州)にたとえ罪があっても、朝廷に命を請うべきである。今、勝手に攻囲するのは、名は勤王であるが、実は賊をなすものである」。耿堅の心が動き、李成を強いて兵を収めさせた。

洪皓が泗州の境に至ると、迎えの騎兵が甲冑を着けて来たので、龔璹が「虎口に入るべからず」と言った。洪皓はそこで引き返し、上疏して言うには、「酈瓊は朝廷の糧秣供給が続かないことを理由に、『衆を率いて建康に赴く』という言葉がある。今、靳賽は揚州を占拠し、薛慶は高郵を占拠している。万一この三者の叛徒が連合したら、どう対処するのか。これは恥辱を忍ぶ時であり、人を遣わして意を伝え、官位を優遇して進め、京口の綱運(物資輸送)を彼に委ねるべきである。晋の明帝が王敦を扱ったようにすればよい」と。上疏が奏上されると、帝は直ちに使者を遣わして酈瓊を慰撫し、米五万石を与えた。呂頤浩は、彼が(自分を通さず)直接上奏したことを憎み、洪皓が事を託して滞在したと奏上し、二階級降格させた。洪皓はそこで滁陽路から出ることを請い、寿春を経て東京へ向かって行った。順昌に至り、群盗の李閻羅・小張俊なる者が潁上の道を塞いでいると聞いた。洪皓はその一味と出会い、譬えて諭して言った、「古より白頭の賊はいない」。その一味は悔悟し、洪皓は書簡を持たせて賊の巣窟に至らせると、二人の首領は命を聞き入れ、兵を率いて宿衛に入った。

洪皓が太原に至ると、ほぼ一年留め置かれ、金の使者に対する礼遇は日増しに薄くなった。雲中に至ると、粘罕(ニェンハン)が二人の使者に劉豫に仕えるよう迫った。洪皓は言った、「万里の命を奉じて来たのに、両宮(徽宗・欽宗)を奉じて南帰することができず、逆賊の劉豫を磔にする力がないことを恨む。どうして彼に仕えることができようか。留められても死、直ちに劉豫に仕えなくても死である。鼠や狗の間で生き長らえることを願わず、鼎鑊(刑罰)に就いても悔いはない」。粘罕は怒り、彼を殺そうとした。傍らにいた一人の酋長が唶然として言った、「これは真の忠臣である」。目で剣士を制止し、跪いて請うたので、(洪皓は)流罪として冷山に送られることになった。流遞とは、編竄(辺境に流すこと)のようなものである。ただ龔璹のみが汴京に至り、劉豫の官職を受けた。

雲中から冷山まで六十日かけて行き、金主の居城からわずか百里の地で、その地は寒さが厳しく、四月に草が生え、八月には既に雪が降り、穴居の家が百軒あり、陳王悟室(ウシ)の集落であった。悟室は洪皓を敬い、自分の八人の子を教えさせた。時には二年も食糧を与えず、真夏に粗布の衣を着け、嘗て大雪で薪が尽き、馬糞を燃やして火とし、麺を煨って食べた。ある者が蜀を取る策を献上すると、悟室はそれを持って洪皓に問うたので、洪皓は力強くそれを論破した。悟室は南侵を鋭く望み、言った、「誰が海は大きいと言うか、我が力で干上がらせることができる。ただ天地を打ち合わせさせることはできないだけだ」。洪皓は言った、「兵は火のようなもので、止めなければ自らを焼く。古より四十年も兵を用いて止まないことはない」。また幾度も、自分が来た理由は両国のためであること、既に使節として受け入れられず、深く入って小児を教えさせられるのは、古来の使者を待遇する礼ではないことを説いた。悟室は時には答え、時には黙っていたが、突然怒りを発して言った、「汝は和事の官でありながら、口がこれほどまでに硬い。我が汝を殺せぬとでも思うのか」。洪皓は言った、「死ぬべき身とは分かっている。ただ大国が行人(使者)を殺す名を受けないことを顧みる。水に投げ込んで、淵に落ちたと名付けるのがよいだろう」。悟室は彼の義を感じて止めた。

和議が成らんとしていた時、悟室が協議中の十事について問うと、洪皓は条理を極めて詳しく分析した。大略、封冊は虚名であり、年号は本朝に既にあるもの、金三千両は景德の時にはなかった、東南は蚕に適さず、絹は増やすべきではない、淮北の人々を取ることについては、景德の時の誓書をまだ見直すことができる、と述べた。悟室は言った、「投降帰附した者を誅するのはどうしてできないのか」。洪皓は言った、「昔、魏の侯景が梁に帰順した時、梁の武帝が魏にいる自分の甥の蕭明と交換しようとしたので、侯景は叛き、臺城を陥落させた。中国は決してその轍を踏むまい」。悟室は悟って言った、「汝の性質は直で、私を欺かない。我は汝と共に燕に行き、汝を帰らせて議させよう」。そこで出発した。ちょうど莫将が北から来て、議が合わず、事はまた中止された。燕に留まること一月ばかりで、兀术(ウジュ)が悟室を殺し、その党類で連座した者は数千人に及んだが、ただ洪皓だけは異論を唱えてほとんど死にかけ、故に免れることができた。

ちょうど二帝が五国城に遷居された時、洪皓は雲中で密かに人を遣わして奏書を送り、桃・梨・栗・麺を献上したので、二帝は初めて帝(高宗)が即位したことを知った。洪皓は祐陵(徽宗)の訃報を聞くと、北に向かって血の涙を流し、朝夕に臨み、忌日には文を操って祭り、その文辞は激烈で、旧臣がこれを読むと皆涙を揮った。紹興十年(1140年)、諜者趙德によって、機密の事を数万言に書いて、古い綿の中に隠し、帰って帝に届けさせた。言うには、「順昌の役で、金人は震懼して魂を奪われ、燕山の珍宝を全て北に移し、燕以南を捨てようと考えている。王師が急ぎ戻ったので、自ら機会を失った。今再挙すれば尚お可能である」と。十一年、また太后の書簡を求め得て、李微に持たせて帰らせた。帝は大いに喜んで言った、「朕は太后の安否を知らずにほぼ二十年になる。使者を百人遣わしても、この一書に及ばない」。この冬、また密奏して言った、「金は既に兵を厭い、その勢いは長く続かず、以前は婦女を軍に随行させたが、今は敢えてしない。もし和議が決しないなら、勢いに乗じて進撃するに如かず、再び天下を取るのは反掌の如しである」。また言った、「胡銓の封事(諫言の上奏文)はこれがあるかもしれない。金人は中国に人材がいることを知り、ますます懼れる。張丞相(張浚)の名声は異域に響き、惜しむらくは散地(閑職)に置かれていること」。また李綱・趙鼎の安否を問い、六朝の御容(皇帝の肖像)と徽宗の御書を献上した。その後、梓宮(皇帝の棺)と太后の帰還の報は、洪皓が皆先に報告した。

初め、洪皓が燕に至った時、宇文虚中は既に金の官職を受けており、洪皓を推薦した。金主はその名を聞き、翰林直学士にしようとしたが、洪皓は力強く辞退した。洪皓には逃げ帰る意向があり、そこで参政の韓昉に請い、真定か大名で自ら養うことを乞うた。韓昉は怒り、初めて洪皓の官職を中京副留守に改め、さらに留司判官に降格させた。幾度も出発を促したが、洪皓は就職しないことを乞い、韓昉は結局彼を屈服させられなかった。金の法では、官職を改めなくても一度使者を務めた者は、永久に帰国できないことになっていた。韓昉はそこで洪皓に雲中の進士試験の校閲を命じたが、これは計略で洪皓を陥れようとしたのである。洪皓はまた病気を理由に辞退した。間もなく、金主が子を産んだので大赦を行い、使者の帰郷を許した。洪皓と張邵・朱弁の三人がその中に含まれた。金人は彼らが禍患となると懼れ、なお人を遣わして追わせた。七騎が淮河に及んだ時、洪皓は既に舟に乗っていた。

十二年七月、内殿で謁見し、郡守を求めて母を養いたいと強く請うた。帝は言った、「卿の忠誠は日月を貫き、志は君を忘れず、蘇武でさえ及ばない。どうして朕を捨て去ることができようか」。慈寧宮で太后に拝謁を請うと、宮人が簾を設けたが、太后は言った、「私は尚書(洪皓)を以前から知っている」。命じてそれを撤けさせた。洪皓は建炎己酉年(1129年)に出使してから、ここに至って帰還し、北地に留まること凡そ十五年であった。同時の使者十三人のうち、ただ洪皓・張邵・朱弁のみが生きて帰還でき、忠義の名声を天下に聞こえさせたのは、洪皓のみであった。洪皓が対面を終え、退いて秦檜に会うと、言葉が連日止まらず、言った、「張和公(張浚)は金人の懼れるところであるのに、用いられない。錢塘に仮の居を構えながら、景霊宮や太廟を極めて土木の華美にしているのは、中原を取る意思がないことを示すものではないか」。秦檜は快く思わず、洪皓の子の洪适に言った、「尊公は確かに忠節があり、上の眷顧を得ている。しかし官職は読書のようなもので、速ければ終わりやすく味わいがない。黄鐘・大呂(重厚な音律)の如くでなければならない」。八月、徽猷閣直学士・提挙万寿観兼権直学士院に任じた。

金人が趙彬ら三十人の家族を引き取りに来たので、詔して帰すこととした。洪皓は言った、「昔、韓起が鄭に環(玉器)を求めた時、鄭は小国であったが、義を引いて与えなかった。金は既に淮河を境界とし、官属は皆呉の人である。留めて帰さないのがよい。その虚実を知られることを慮るからである。彼らは今モンゴルに苦しめられており、姑く強さを示して中国を試そうとしている。もし急いで従えば、秦に人なしと言われ、ますます我々を軽んじるだろう」。秦檜は顔色を変えて言った、「公、秦に人なしと言うな」。既にしてまた上疏して言った、「与えないことを理由に、盟約を破ることに至ることを恐れる。『淵聖(欽宗)及び皇族が帰ったら、その時遣わす』と告げるのがよい」。また言った、「王倫・郭元邁は身を以て国に殉じたのに、彼らを捨てて取らないなら、緩急の際にどうして人を使うことができようか」。秦檜は大いに怒り、また室撚(シラニエン)が声を寄せたことについて言ったので、秦檜の怒りはますます甚だしくなり、その言葉は『檜伝』にある。翌日、侍御史の李文会が洪皓が母を省みないと弾劾し、饒州知州に出された。

翌年、洪水が起こり、宦官の白鍔が言い放った、「政治が乱れているのに、洪尚書(洪皓)の名声は天下に知られている。何故用いないのか」と。秦檜はこれを聞いてますます怒り、白鍔を大理寺の獄に繋ぎ、まもなく嶺南に流した。諫官の詹大方はそこで洪皓と白鍔が刎頸の交わりを結び、互いに称賛し合っていると論じ、洪皓を提挙江州太平観に罷免した。白鍔は初め洪皓を知らず、ただ太后に従って北から帰還し、金国で日頃から洪皓の名を知っていただけである。

まもなく母の喪に服し、他の言論者はなおも洪皓が宰相の地位を窺っていると言った。喪が明けると、饒州通判に任じられた。李勤がさらに秦檜に附いて洪皓が世を欺く流言飛語を作ったと誣告し、濠州団練副使に左遷し、英州に安置した。九年間居住した後、ようやく朝奉郎に復し、袁州に移され、南雄州に至って卒去した。享年六十八。死後一日にして、秦檜も死んだ。帝は洪皓の死を聞き、嘆き惜しみ、敷文閣直学士を復し、四官を追贈した。久しくして、徽猷閣直学士を復し、諡を「忠宣」とした。

洪皓は長く北方の朝廷(金国)に在ったが、その苦しみに耐え、しかも金人に敬われ、著した詩文は、争って書き写し誦し、出版を求めた。帰国後、使者が来るたびに、必ず洪皓が何官で、どこに住んでいるかと尋ねた。性急で義に篤く、艱難危険の中にあっても少しも変わらなかった。懿節皇后の親戚の趙伯璘が悟室(完顔希尹)の配下に隷属し、甚だ貧しかったので、洪皓はこれを救済した。范鎮の孫の祖平が傭奴となっていたのを、洪皓が金人に言って釈放させた。劉光世の庶女が人の豚を飼う者となっていたのを、贖い出して嫁がせた。その他の貴族で流落して賤しい身分に落ちた者は、皆力を尽くして救い出した。ただ秦檜に嫉まれたため、敵国で死なず、かえって讒慝の徒によって死んだのである。

洪皓は博学で記憶力が強く、文集五十巻及び『帝王勇要』、『姓氏指南』、『松漠紀聞』、『金国文具録』等の書があった。子に洪适、洪遵、洪邁がいる。

子 洪适

洪适、字は景伯、洪皓の長子である。幼少より聡明で悟りが早く、日に三千言を誦した。洪皓が朔方(金国)に使した時、洪适は年わずか十三歳で、家事を任せることができた。洪皓の出使の恩により、修職郎に補された。紹興十二年(1142年)、弟の洪遵とともに博学宏詞科に合格した。高宗は言った、「父は遠方にあり、子は自立できる。これは忠義の報いである。昇進させるのがよい」と。そこで敕令所刪定官に任じた。後三年、弟の洪邁もこの選に合格し、これによって三洪の文名は天下に満ちた。秘書省正字に改めた。

数か月もしないうちに、洪皓が帰国し、秦檜に逆らい、饒州知州として出され、洪适もまた台州通判として出された。任期が満ちようとする時、洪皓が英州に貶謫され、洪适もまた弾劾されて免職となり、嶺南に往き来して父に仕えて看病すること九年に及んだ。秦檜が死に洪皓が還る途中で卒去し、喪が明けると、荊門軍知軍に起用された。詔に応じて寛大な恤みに関する四事を上奏した:茶の額銭を軽くすること、他の州が代わって貢ぎ物を納めること、試験場を開いて旧額を復すること、官田で耕作しない者に租税を納めさせる令を免除すること。徽州知州に改め、まもなく江東路常平茶塩提挙となり、まず役法の不均等の弊害を言上した。

ちょうど完顔亮が侵攻して来た時、上(孝宗)が親征し、洪适は金陵で拝謁し、言った、「当路は旱魃で、百姓は淮で食を求めており、さらに金兵に遭った。今はそれぞれ帰郷を願っているが、田産は官によって売り払われている。その評価による買い戻しを許すよう請う」と。また亮が死ぬと、洪适は上疏して言った、「大定(金世宗の年号)は僭号であり、諸国は必ずしも服従しないであろう。多く密詔を遣わして中原の義士に伝え諭し、それぞれ州県を取らせ、それによって彼らに与えるべきである。王師はただ淮・泗に留まって屯し、兵を募り粟を蓄え、声援とすべきである。蜀・漢・山東の兵が数道ともに集まるのを待ち、機会を見て進めば、兵力が疲弊せず、万全を期することができよう」と。尚書戸部郎中に昇進し、淮東軍馬銭糧総領を兼ねた。孝宗が即位し、海州の包囲が解け、符離で兵を用い、糧秣の供給が繁雑多額となったが、洪适は心を尽くして調度し、供給は欠けることがなかった。司農少卿に遷った。

隆興二年二月、太常少卿を兼ねて召され、学士院を権直した。上は諸将に環衛官を授けようとし、その制度について議論するよう詔した。洪适は唐及び本朝の沿革十一箇条を備えて上奏し、かつ言った、「太祖・太宗の朝には、常に諸将及び降王の君臣を処遇するために用い、その後は多く皇族がこれを行ったので、国史は官は存するが事は廃れるとしている。陛下が軍備を整えられるには、遠く唐の制度を取る必要はなく、祖宗の故事こそ模範とすべきである。今すぐに換授を行うと、俸給が減る憂いがある。閣職が節度使を兼帯し、刺史が上将軍を帯び、横行遙郡が大将軍を帯び、正使が将軍を帯び、副使が中郎将を帯び、さらに以下は左右郎将を帯びるようにし、その官府の人吏については、役所に相度させて報告させるよう請う」と。中書舎人に任じられた。時に金人が再び淮を侵犯し、羽檄が次々と至り、詔書が山積し、諮問への応答は概ね上意に適った。これ以来、大用の意図があった。金がまもなく和議を結ぶと、まず賀生辰使となった。金は同簽書枢密院事高嗣先を接伴使として遣わし、彼は自らその父の司空しくう(高慶裔か)が洪皓に恩徳があったと言い、互いに甚だ歓談し、その要点を得て帰国した。

乾道元年五月、翰林学士に遷り、なおも中書舎人を兼ねた。秦塤は長く廃されていたが、突然宮観官を与えられようとした。洪适は上奏して言った、「李林甫の死後、その諸子は皆嶺南に流配された。秦檜は悪を積んで自滅し、不肖の孫の官職が以前のままであるのは、幸運と言えよう。宮観官は小さな職ではあるが、塤が得れば、人々は任用の始まりと見なし、秦檜の党与が牽連して進むことを恐れる」と。その命令はそこで止んだ。時に巫伋が再び召され、莫汲が枢密院編修官に抜擢され、余堯弼が龍図閣学士に復されようとしたが、洪适は彼らは皆秦檜の党与であるとして、命令に従いその辞令を返上した。

六月、端明殿学士・簽書枢密院事に任じられた。上は参知政事の銭端礼・虞允文に諭して言った、「三省の事は洪适と相談せよ」と。東西府(中書と枢密院)が始めて同班で奏事するようになった。八月、参知政事に拝された。諫議大夫の林安宅は銅銭が多く北境に入ることを理由に、その禁止を請い、蜀中から鉄銭を取って淮上で行わせた。事が既に行われた後、洪适はそれができないと述べた。上が問うと、洪适は言った、「今、各州で千緡も得られず、一州を一万戸として計算すれば、各家でわずか数百銭を得るに過ぎず、民間で貿易する手段がないことを恐れます。また、客商には戻りの貨物がなく、塩場には重大な利害があります」と。上はこれを然りとし、前の命令を止め、ただ蜀中から十五万緡を取り、廬州・和州の二州だけで行うこととした。

十二月、尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使に拝された。まもなく、春の長雨があり、洪适は咎を引いて退任を請うた。林安宅が厳しい上疏で洪适を論じ、その後、台臣がまた合わせて上奏した。三月、観文殿学士・提挙江州太平興国宮に任じられた。まもなく紹興府知府・浙東安撫使に起用された。再び宮観官を奉じた。淳熙十一年に薨去。享年六十八。諡は「文恵」。

洪适は文学と声望をもって知られ、時に遭い主君に遇い、両制(中書舎人・翰林学士)から一月で政府(枢密院)に入り、さらに四か月で宰相の位に居り、さらに三か月で政務を罷めたが、その学問を究めるほどの大きな建明はなかった。家に居ること十六年、兄弟は鼎立し、子孫は森然として、著述と吟詠をもって自ら楽しみ、近世でこのような福の備わった者は少なかった。ある者は洪适が湯思退に与したと言い、またある者は洪适が淮東から来て、張浚が妄りに費やしたと言い、張浚がこれによって宰相を罷められたと言った。子は九人:槻、柲、槢、𣘀、樌、桴、楹、槺、梠。

子 洪遵

洪遵は字を景厳といい、洪皓の次子である。幼少の頃より端重にして成人の如く、師に従い学業に励み、時節の寒暑を以て怠ることはなかった。父は沙漠に留め置かれ、母は亡くなると、洪遵は孺慕の情に駆られて攀号した。葬儀が済むと、兄弟は僧舎に寄って詞業を修め、夜は枕に衣を解かずに過ごした。父の蔭により承務郎に補され、兄の洪适と共に博学宏詞科を受験し、魁選に及第して進士出身を賜った。高宗は洪皓が遠く使節として出たことを以て、秘書省正字に抜擢した。中興以来、詞科に中選して即座に館職に入るのは、洪遵より始まる。宰相秦檜の子秦熺が官長となると、その咳払い一つが人の軽重を決めたが、洪遵は恬然として附麗しなかった。二年間遷官されなかった。

洪皓が南方に帰還すると、朝廷の議論と意見が合わず、出て守令となった。洪遵は遂に外任を請い、常州・婺州・越州の三州を通判した。紹興二十五年(1155年)、湯思退がこれを推薦し、再び入朝して正字となった。八月、兼権直学士院を拝命した。湯鵬挙が御史台の次官となると、密かに推薦して御史にしようとした。ちょうど対面を賜わろうとした時に父の訃報が届いた。二十八年、喪が明けると、召されて対面し、父の冤罪を極力陳述して言うには、「先臣は龔璹と共に国境を出ましたが、龔璹は劉豫に仕え、妄りに兵官を殺したため劉豫に誅殺されました。しかし秦檜は彼に節旄を贈り、その子を抜擢して用いました。先臣は金人の命を拒み、十五年留め置かれてようやく帰国できましたが、顧みれば嶺外に南竄し、臣兄弟は外に屏跡しています。秦檜は忠逆をこのように区別しませんでした」と。高宗はすべて誹謗の言葉の起こりを説明し、かつ「卿は再び三館に登り、かつて書命を掌った。今は修注の職をもって卿を処遇しよう」と言った。遂に起居舎人を拝した。

奏上して、経筵官の除罷及び封章進対・宴会賜与・講読問答等の事を、一書に集めて『邇英記注』と名付けることを請うた。その後乾道年間にまた『祥曦殿記注』があったが、実に洪遵に始まる。また対面に因り、銭鋳造の利害を論じ、帝は嘉納した。起居郎に遷り、兼権枢密院都承旨となった。旧制では、修注官・経筵官は留身して奏事することを許されていたが、近例では無かった。洪遵は旧制を復するよう奏請し、かつ起居注が十五年も修されていないことを言い、現在修している月分を進めるほか、毎月分を帯びて修することを請うた。いずれも従われた。

二十九年、中書舎人を拝した。殿前裨将の輔逵が防禦使に転じ、王綱が団練使に転じようとした時、洪遵は言う、「近制では管軍官は十年にして初めて一遷する。今両人は一年に満たない。どうしてそうできようか」と。当時勲臣の子孫が多く台省に躐等して居たため、洪遵は極力言上して明らかに止め所を設けるよう請うた。高宗は言う、「正に立法しようとしている。今より功臣の子孫は序遷して侍従に至り、皆に久任して在京宮観とさせよう」と。洪遵は言う、「侍従は朝廷の高選であり、磨勘の階官の如くではない。どうして遷序の制があろうか」と。退いて上奏し言う、「今内外の将家は慮るに二十人ほどおります。もし序遷すれば、十年を出ずして、西清次対の職に皆座して至ることができます。太祖の開国功臣の子孫は諸司を過ぎず、ただ曹彬の子曹琮・曹瑋が功名を自ら奮い立ち、遂に節度使となりましたが、初めから侍従に遞遷する例は聞きません。今の旨一出で、穆清の地が皆将種の類となれば、天下に示すところではありません。前詔を収め還されることを望みます」と。また言う、「瑞昌・興国の間で茶商が失業し、盗賊となって集まっています。榜を掲げて開諭し、その自新を許し、軍に充たんとする者は填刺し、農とならんとする者は放還することを望みます」と。上は皆その奏を許可した。

論者が鄱陽の永平・永豊両監の鼓鋳を復活させようとし、詔して給事中・中書舎人に議わせた。洪遵は言う、「唐には鼓鋳使があり、国朝では或いは漕臣に兼領させ、或いは分道して使を置き、三司に分けました。中興以来、都大提点を置き、官属が多すぎて、動もすれば州県の害となりました。近来急いで廃罷しましたが、また一定の論がなく、初めは運使に委ね、また提刑に委ね、また郡守・通判に委ね、号令が一でなく、鼓鋳は益々少なくなりました。私見では復置するのが便利です」と。

三十年正月、吏部侍郎を試みた。以前は選人が曹司に詣でて改秩を求める時、吏がこれを頼みとして市利とし、毫毛ほどでも節に中らなければ、必ず巧みに沮閡を生じ、賄賂が満足するまで欲してやっと止めた。洪遵は明らかに約束し、もし大體に害がなければ、先に行って後から審査し、推薦員数には定限があるのに、挙薦する者が周遮重復し、或いは同時に一章でありながら巧みに両牘とし、或いは五員を推薦すべきところで辄に十数員を踰え、或いは職官を挙げるべきところで詭って京状とし、或いは身は常調に係りながら妄りに職司と称し、或いは東西分曹して交錯搀補し、或いは既に与えてまた奪いながら事故と指し、件々に析いて枚数し、凡そこのような者は通して劾することができるよう請うた。旧制では、致仕任子は、所在に随って審敕牒を経て即座に行うことを請うた。この時、議者の請いに従い、必ず元の州で判奏するよう命じた。洪遵は言う、「士大夫が或いは粤・蜀に游宦し、数千里の外で、不幸にして死ぬことがあります。臨終に職事を謝し、その家が故里に帰るを得るのは已に至難です。今またこれによって齟齬し、反復稽延するのは、明らかに悪吏に地を与えるものです」と。乃ち止めて旧貫に仍らせた。

平江・湖・秀の三州が水害に遭い、秋苗を輸納することができず、有司が抑えて麦を輸納させようとした。洪遵は言う、「麦価は決して米の下に在らず、民はこのように困窮している。どうして夏を指して秋とし、一を衍して二とし、溝壑に擠せしめようとするのか。半量を取るにとどめ、水害に遭った者は悉く免ずることを願います」と。金人が絳陽の郭小的・安化の劉孝恭の二百家を要求してきた。洪遵は蜀の李特のことを戒めとすべきとして、根集が未だ足りないことを以て解き、日月を淹引してこれに報いることを願った。翰林学士兼吏部尚書に遷った。汪澈が湯思退の罷相を論じ、洪遵が制を行ったが、貶す言葉が無かったため、汪澈がこれを言上した。遂に去ることを請い、徽猷閣直学士として太平興国宮を提挙した。

三十一年、金主完顔亮がその尚書蘇保衡に命じて海道より二浙を窺わせた。朝廷は浙西副総管李宝をもってこれを防がせた。李宝は平江に兵を駐め、守臣の朱翌は平素より李宝と意見が合わなかった。朝議は洪遵がかつて李宝を推薦したことを以て、乃ち洪遵に平江を知らしめた。李宝が舟師をもって膠西を擣つに及んで、凡そ資糧・器械・舟楫は皆洪遵が供億し、李宝が成功して帰還したのは、洪遵の助力が多かった。車駕が金陵に幸すると、禁衛士が無藝に丐索し、他の郡はこれに随って与えても飽き足らなかった。呉に至ると、乃ち相告げて言う、「内翰がここにおられる。汝ら再び然るなかれ」と。先に、朝廷は商舶が賊に得られることを慮り、悉く官に拘入したが、既にして返さず、沿海の県は巨艦を団萃し、及び水手・民兵を募ったが、皆縶留されて去ることができなかった。洪遵は対面に因ってこれを論じ、船を商人に還し、水手の自便を聴かせたので、呉人はその徳を称えた。

孝宗が即位すると、翰林学士承旨兼侍読を拝した。詔して宰執・侍従・台諫に問うて言う、「敵人が旧礼を要求してくる。従えば忍びず屈するが、従わねば辺患が未だ已まない。中原の帰正人が源源として絶えず、これを納めれば東南の力は給することができず、さもなければ向化の心を絶つ。宜しく指陳して定論を以て聞かせるべし」と。洪遵は給事中金安節・中書舎人唐文若・起居郎周必大と共に一つの議を為し、その略は、「直情径行すべきではなく、また急にこれに屈すべきでもない。謂わく、宜しく以前日の数と同じく金繒を遺し、或いは海・泗の類の如き侵地を稍々帰することを許せば、彼もまた藉口して来たり議うことができるであろう」と。

隆興元年の貢挙を管掌し、同知樞密院事に任ぜられた。寿康殿に金芝十二本が生じた時、同僚らが上表して賀することを議したが、洪遵は李文靖が災異を奏した故事を引き合いに出して、これを止めさせた。眉山の李燾・永嘉の鄭伯熊及び林光朝を推薦したが、用いられる前に、湯思退が左相となり、次相の張浚が罷免されると、御史の周璪は洪遵が超擢されると予測し、上章して弾劾した。上は急いで洪遵を他官に転任させた。洪遵はその地位に安んじることができず、連章して免職を乞い、ついに御史とともに去った。この年七月、端明殿学士として太平興国宮の提挙となった。

乾道六年、信州知州として起用された。太平州知州に転じた。前任の知州周璪はかつて洪遵を論劾したことがあったため、洪遵が来ると聞き、符節の合致を待たずに馳せ去った。洪遵は十里まで追って餞別し、平素のように労をねぎらい、「君は官職に従って行動したまでであり、私に何の恨みがあろうか」と言った。聞いた者はこれを盛徳と認めた。圩田が壊れ、民は生業を失っていた。洪遵は民を集めて圩を築かせ、総数およそ一万に及んだ。冬の厳寒のさなか、洪遵は自ら現場に赴き、酒食を載せて自ら慰労し、恩情を尽くしたので、人々はその労苦を忘れた。運使の張松はその功績を妬み、圩は決壊したことがなく、民も転居したことはないと虚偽を奏上し、必ず圩戸に自ら修築させ、かつ募工の銭米を半減すべきと主張した。洪遵は連続して上疏して争い、ついには朝臣を派遣して再調査を乞うた。そこで将作少監の馬希言・監察御史の陳挙善が相次いで到着し、張松の言を退けたので、圩は完成し、合わせて四百五十五箇所となった。張松は憤りを晴らす術がなく、別に溧水の永豊圩を修治し、丁・米・木を徴発し、その数は甚だ多かった。洪遵は言った、「郡は凶年に当たり、流民を救済し、富者に分与を勧め、穀物を乞い求めている最中である。それは自らの腿肉を切り取って喉を満たすようなもので、自ら食う暇もなく、ましてや他人の腹を満たすことができようか」と。固執して従わなかった。

楚の地が旱魃に見舞われた時、隣県の救済は早くなく、措置の前後を誤り、ある者は米を得ても炊く術がなく、ある者は一家全員が餓死してしまっても官倉の米が届かなかった。洪遵は賓佐を選び、遠近・壮老に応じて差等を付けて支給し、租税を十九分まで免除し、さらに江西に穀物を買い求め、生き延びた者は万を下らなかった。戍兵が時機に乗じて利を盗み、兵士が野で掠奪したが、ことごとく捕らえてその軍に帰属させた。それゆえ、大疫病が流行しても村落は平穏であった。建康府知事・江東安撫使兼行宮留守に転じた。孝宗は制誥を担当する舎人の范成大に、その治績を褒め、かつ入朝を許す旨を諭した。

当時、虞允文が国政を執り、北征の志を持っていた。まず侍衛馬軍を出して駐屯させ、その建康府にいる五軍については、妻子をすべて送り届け、営寨を築く計画で、竈の数はおよそ一万に及んだ。張松はこれを止めることができず、特に洪遵に命じて宰執とともに選徳殿に赴き奏事させた。洪遵は外臣が二府の後に続くことはできないと奏上し、班が退いてから別に引見されることを願ったが、上は許さなかった。資政殿学士に進めて赴任させた。到着すると榜を掲げ、民の苗米は正税のみを納め耗米は納めず、民に自ら斛槩を持参することを許し、倉吏が手加減することができないようにした。郊野をくまなく巡って寨地を占い、民居を妨げず、塚墓を平らげない場所を求め、一年を過ぎてようやく得た。営卒が酔って妄言を吐き衆を動揺させたので、これを斬り、市中で磔にした。三軍に敢えて騒ぐ者はいなかった。昼間に旗亭に入り刃物を振るって酒壚を壊した者がいたので、枷をはめて獄に付し、駅伝で上奏したが返答がないうちに、統帥が譴責を受けることを恐れ、自らこれを処置することを請うた。孝宗は怒り、統帥を罷免し、洪遵もまた二階降格の処分を受けた。間もなく五営が完成し、元の官に復し、引き続き資政殿学士に任ぜられた。淳熙元年、洞霄宮の提挙となった。十一月、薨去。享年五十五。諡は「文安」。

子に洪邁がいる。

洪邁、字は景盧、洪皓の末子である。幼少より一日に数千言を読み、一度目を通せば忘れず、典籍に極めて博く、稗官虞初の説、仏教・道教の傍流に至るまで、渉猟しなかったものはなかった。二人の兄とともに博学宏詞科を受験したが、洪邁のみが落第した。紹興十五年(1145年)に初めて及第し、両浙転運司幹辦公事に任ぜられ、入朝して敕令所刪定官となった。洪皓が秦檜に逆らい閑職に投じられると、檜の恨みはやまず、御史の汪勃が洪邁がその父の不穏な謀議を知っていたと論じたため、ついに福州教授添差として出された。累遷して吏部郎兼礼部となった。

上(高宗)が顕仁皇后の喪に服していた時、孟饗(宗廟の祭)に当たり、礼官はどうすべきか知らなかった。洪邁は宰相を派遣して分祭させることを請い、奏上は認められた。枢密検詳文字に任ぜられた。民に粟を納めさせて罪を贖わせ、国用を緩和することを建議し、また法駕出入の儀礼を厳格にすることを請うた。

三十一年、欽宗の諡号を議した時、洪邁は言った、「淵聖(欽宗)は北狩して帰らず、臣民は悲痛に思っている。楚人が懐王を立てた故事のように、『懐宗』と号し、復讐の心を繋ぐべきである」と。用いられなかった。呉璘が病篤くなると、朝議は呉拱を代わりに派遣しようとした。洪邁は言った、「呉氏は功績によって蜀の兵権を三十年握っている。民衆の耳目を新たにする措置があり、尾大不掉とならぬようにすべきである」と。知枢密院事の葉義問が師を視察するために出向くことになり、洪邁を参議軍事とするよう奏上した。鎮江に至ると、瓜洲の官軍が金人と対峙していると聞き、慌てふためいて失措した。ちょうど建康から駅伝で急報が来ると、葉義問は急いで帰還しようとした。洪邁は強くこれを止めて言った、「今、軍を退けても京口の勝敗には何の益もなく、金陵が軍旗を返すと聞けば人心が動揺し、それはならない」と。左司員外郎に遷った。

三十二年(1162年)春、金主(世宗)完顔雍が左監軍の高忠建を派遣して即位を告げさせ、かつ和議を議した。洪邁が接伴使となり、知閤門の張掄が副使となった。上(孝宗)は執政に言った、「かつて講和したのは、梓宮(徽宗の棺)と太后のためであり、たとえ己を屈し言葉を卑しくしても厭わなかった。今、両国の盟約は既に絶えている。名称を何を正統とし、疆土を何を基準とし、朝見の儀礼、歳幣の数は、まず定めるべきである」と。洪邁と張掄が辞去する際に、上はまた言った、「朕はこの事は結局和に帰すると考えている。まず名分を議し、土地はその次としたい」と。洪邁はそこで接伴の礼数について十四箇条の変更を奏上した。渡江以来、己を屈し忍んで礼を過ごすことが多かったが、今回一切これを廃し、敵国としての礼を用い、遠迎や引接の金銀などはすべて廃止した。やがて高忠建が臣下の礼を要求し、新たに回復した州郡を返還するよう議した。洪邁はこれを報告し、かつ奏上して言った、「土地の実利は与えるべからず、礼儀上の虚名は惜しむに足らず」と。礼部侍郎の黄中はこれを聞き、急ぎ奏上して言った、「名が定まれば実が従う。百世変わらず、虚とは言えない。土地の得失は、彼にありこちらにあり、実とは言えない」と。兵部侍郎の陳俊卿もまた言った、「まず名分を正すべきである。名分が正しければ国威は張り、歳幣もまた減らすことができる」と。

起居舎人に進んだ。当時、使節を派遣して金国に報聘することが議され、三月丁巳、詔して侍従・台諫にそれぞれ使命に適う者一人を推薦させた。かつて洪邁が接伴使であった時、既に旧礼を以て金使を屈服させていたので、この時、慨然として行くことを請うた。そこで翰林学士を仮とし、賀登位使を充て、金に兄弟敵国と称させて河南の地を返還させようとした。夏四月戊子、洪邁が辞去するに当たり、国書は敵国の礼を用いた。高宗は親筆で洪邁らに賜って言った、「祖宗の陵寢が三十年も隔絶し、時に応じて掃除祭祀することができないのは、心実に痛む。もし彼らが河南の地を返還してくれるならば、たとえ尊大な態度を従来通りに保たせ、再び己を屈することになっても、何を惜しむことがあろうか」と。洪邁は奏上して言った、「山東の兵が解かれなければ、両国の友好は成り立たない」と。燕に至ると、金の閤門が国書を見て、「様式に合わない」と呼び、使者に表中の「陪臣」の二字を改めるよう強制し、朝見の儀礼は必ず旧礼を用いようとした。洪邁は初め固執して承諾しなかったが、やがて金が使館を封鎖し、朝から暮れまで水さえ通さず、三日してようやく謁見できた。金人の言葉は極めて不遜で、大都督ととくの完顔彜(懷忠)は人質として留め置くことを議したが、左丞相の張浩が反対し、ついに帰還させた。七月、洪邁が朝廷に戻ると、孝宗は既に即位していた。殿中侍御史の張震が洪邁が金に使いして使命を辱めたと論じ、罷免させた。翌年、泉州知事として起用された。

乾道二年(1166年)、再び吉州の知事となる。入朝して応対し、起居舍人に任ぜられ、直ちに上言す、「起居注は皆諸処の関報に拠り、始めて修纂を加うるも、日暦・時政記有りと雖も、亦書くを得ず。景祐の故事に、『邇英延義二閣注記』有り、凡そ経筵の侍臣の出処・封章進対・宴会賜予は、皆用て存記す。十年間稍く廃れて続かず、陛下の言動は皆聞知する所無し、恐らくは侍臣を命ずる本意に非ざるべし。乞うらくは講読官をして自今各日々に得たる聖語を以て修注官に関送せしめ、講筵所に牒報せしめ、謹んで之を録せしめ、因りて今御す所の殿の名を以て『祥曦記注』と曰わしむべし」と。制して可とす。

三年(1167年)、起居郎に遷り、中書舎人兼侍読・直学士院を拝し、仍って史事に参ず。父忠宣・兄适・遵皆此の三職を歴任し、邁又之に踵ぐ。邁奏す、「三省の事は巨細無く、必ず先ず中書に経て書黄し、宰執書押し、当制の舎人書行し、然る後に門下を過ぎ、給事中書読す。もし給・舎に建明有らば、則ち封黄して具奏し、以て上旨を聴く。惟だ枢密院は既に旨を得れば、即ち書黄して門下を過ぐるも、例として中書に送らず、之を『密白』と謂う。則ち封駁の職は似たる偏り有り、況んや今宰相枢密を兼ぬるに因りて、釈正するも嫌有るに為さず。望むらくは詔して枢密院に、凡そ已に制勅を被るものは、並びに左右省に関し、三省の書黄に依らしめ、以て出命を重んずるの意を示すべし」と。報えて可とす。

六年(1170年)、贛州知事を除せられ、学宮を起こし、浮梁を造り、士民之に安んず。郡兵素より驕り、小に欲する如くならざれば則ち跋扈し、郡は歳ごとに千人を遣わして九江に戍らしむ。是の歳、或いは至れば則ち留まりて復た返らずと怵かす有り、衆遂に戈を反す。民訛言して相驚き、百姓恟懼す。邁動かず、但だ一校を遣わして婉に之を説き、俾くは営に帰らしむ。衆皆聴き、橐を垂れて入り、徐かに什五長の両人を詰め、械して潯陽に送り、市に斬る。辛卯歳饑饉有り、贛は適中熟す。邁粟を移して隣郡を済す。僚属に諫めて止むる者有り、邁笑いて曰く、「秦・越の瘠肥、臣子の義や」と。尋いで建寧府を知る。富民に睚眥して人を殺し、衷刃して獄を篡むる者有り、久しく捕を拒む。邁其の罪を正し、げいして嶺外に流す。

十一年(1175年)、婺州を知る。奏す、「金華の田は多く沙にて、勢水を受くべからず、五日雨無ければ則ち旱す。故に境内の陂湖は最も繕治すべし。耕者をして力を出ださしめ、田主穀を出ださしめ、凡そ公私の塘堰及び湖と為すもの、総べて八百三十七所と為す」と。婺軍は素より律無く、春に衣を与うるに、緡を以て帛に易えんと欲す。吏不可とすれば、則ち群呼嘯聚して郡将の治する所に於いてす。郡将惴恐し、姑息して其の欲する如くにす。邁至るや、衆前事に狃い、飛語を以て譙門に榜するに至る。邁計を以て四十有八人を逮捕し、之を理に置く。党衆相嗾き、哄いて邁の轎を擁す。邁曰く、「彼は罪人なり、汝等何ぞ預かる」と。衆逡巡して散去す。邁首悪の二人を戮し、之を市に梟す。余は黥撻有差し、敢えて譁する者無し。事聞こえ、上輔臣に語りて曰く、「書生の能く事に臨み権に達するを謂わざりき」と。特に関文閣待制に遷す。

明年、召して対せしむ。首に淮東の辺備六要地を論ず。曰く海陵、曰く喻洳、曰く塩城、曰く宝応、曰く清口、曰く盱眙。謂うらくは宜しく城池を修め、屯兵を厳にし、遊樁を立て、戍卒を益すべしと。又言す、「許浦は宜しく河を三十六里開くべく、梅里鎮は宜しく二大堰を築き、斗門を作り、行師に遇えば則ち防を決して船を送るべし」と。又言す、「馮湛多槳船を創す。底平にして檣浮かぶ、尺水と雖も運ぶ可し。今十五六年、修葺数少なく、用に足らず」と。謂うらくは宜しく瀕海の富商を募りて船に入れ爵を予い、善く舟を操る者を招きて以て水軍を補うべしと。上之を嘉す。提挙佑神観兼侍講・同修国史を以てす。

邁初めて史館に入り、『四朝帝紀』の修纂に預かる。敷文閣直学士・直学士院に進む。講読官宿直す。上時に召し入れて、夜分に至るまで談論す。十三年九月、翰林学士を拝し、遂に『四朝史』を上る。一祖八宗百七十八年を一書と為す。

紹熙改元(1190年)、煥章閣学士に進み、紹興府を知る。闕を過ぎて奏事し、新政は宜しく十漸を以て戒とすべしと言う。上曰く、「浙東の民は和市に困す。卿往きて、朕が為に之を正せ」と。邁再拝して曰く、「力を尽くすを誓う」と。邁郡に至り、詭戸四万八千三百有奇を核実し、減ずる所の絹匹を以て計るもの、略其の数の如し。提挙玉隆万寿宮。明年、再び章を上って老を告げ、龍図閣学士に進む。尋いで端明殿学士を以て致仕し、是の歳卒す。年八十。光禄大夫を贈り、諡して「文敏」と曰う。

邁兄弟は皆文章を以て盛名を取り、貴顕に躋る。邁は尤も博洽を以て孝宗に知られ、其の文は衆体を備えたりと謂う。邁は典故を考閲し、経史を漁猟し、極めて鬼神事物の変に及び、手ずから『資治通鑑』を書くこと凡そ三たびす。『容斎五筆』・『夷堅志』有りて世に行わる。其の他の著述尤も多し。修むる所の『欽宗紀』は多く孫覿に本づき、耿南仲に附き、李綱を悪み、紀する所多く実を失う。故に朱熹王允の論を挙げ、佞臣は筆を執らしむべからずと言い、以て覿の紀する所を取るべからずと為す云う。

論じて曰く、孔子云う、「四方に使いして、君命を辱しめざるは、士と謂うべし」と。建炎・紹興の際に当たり、凡そ金に使する者は、虎口を探るが如し。能く節を全うして帰るは、朱弁・張邵・洪皓其れ庶幾からんか。望之は議うるに足らず。皓は北に留まること十五年、忠節尤も著し。高宗蘇武も過ぐる能わずと謂う、誠に哉。然るに竟に秦檜に忤いて謫死す、悲しいかな。其の子适・遵・邁相継いで詞科に登り、文名天下に満つ。适は位極めて台輔に至り、而して邁は文学尤も高く、朝に立ちて議論最も多し。所謂る忠議の報い、詎ぞ信ぜざらんや。