宋史

列傳第一百三十一 朱倬 王綸 尹穡 王之望 徐俯 沈與求 翟汝文 王庶 辛炳

朱倬

朱倬、字は漢章、唐の宰相朱敬則の後裔なり。七世の祖、閩中に避地し、閩県の人となる。代々『易』を学び、太学に入る。宣和五年、進士に登第し、常州宜興の主簿に調せらる。金の将、辺境を犯さんとす。居民、避地を求む。倬、舟を具へ食を給し、衆、これに頼りて渡る。未幾、民、郡に澇を告ぐ。郡、倬に檄して実を考せしむ。乃ち田租の什九を除く。守、怒るも、奪ふこと能はず。張浚、倬を薦す。召して対せしめ、福建・広東西財用所の属官を除す。宣諭使明橐、再び朝に薦す。時に方に劉を以て憂ひと為す。倬、賜対に因り、其の必ず敗るるを策す。高宗大いに喜び、詔して合入官を改めしむ。丞相秦檜に忤り、出でて越州の教授と為る。張守の薦を用ひ、諸王府教授を除す。檜、兵を言ふを悪む。倬、掩骼の事を論じ、又これに忤る。

梁汝嘉、浙東を制置し、表して参謀を摂せしむ。群寇擒へらるる有り。倬に属して鞫問せしむ。独り二人を竄し、余は釈して問はず。曰く、「吾が大父、崇安の尉たりし日、寇二百を獲、坐して死する者七十余人。大父、これ饑民の食を剽するのみと謂ひ、何ぞ尽く法を以て縛すべけんや、悉く其の罪を除き、賞を徼めず。吾其れ大父に愧ぢんや」と。南劍を通判す。建の寇阿魏、衆数千。劍は建に隣り、兵愞にして用ふべからず。倬、重賞を以て卒を募り擒へ獲せしめ、境内遂に平ぐ。

惠州を知るを除す。陛辞し、因りて嘗て劉豫の必ず敗るるを策せしことを言ふ。高宗其の言を記し、問ふ、「卿久しく何の所に淹るるや」と。倬曰く、「檜に厄せらる」と。上愀然として慰諭し、目を送る。旬日の間に、国子監丞を除し、尋いで浙西提挙を除し、且つ命ず、今より内に在りて提挙官を除するは、今朝辞して上殿せしむ、蓋し倬の為に設くるなり。既に対し、上曰く、「卿を朕親しく擢ちて部使者に出だし、咸に内外の任均しきを知らしむ」と。又曰く、「人卿を知らず、朕独り卿を知る」と。右正言を除し、累遷して中丞と為る。嘗て言ふ、「人主、耳目を以て任ずるは、怨を報ひ気に任するの地に非ず、必ず上天の心に合すべし」と。毎に上疏すれば輒ち夙興して露告し、上帝の鑒臨するが若し。奏疏凡そ数十、倉廩を発し、米価を蠲め、私塩を減じ、軍食を覈するが如き、率ね稿を焚りて伝へず。貢挙を知り、参知政事に遷る。

紹興三十一年、尚書右僕射を拝す。金兵江を犯す。倬、戦・備・応の三策を陳べ、且つ兵応ずる者は勝つと謂ふ。上深く然りとす。又敵の三事を策す。上なる者は耕築の計を為し、中なる者は守備し、下なる者は妄りに江を絶たんと意ふ、金必ず下策を出ださん、と。果たして所料の如し。史浩・虞允文・王淮・陳俊卿・劉珙の進用は、皆倬の薦むる所なり。

高宗、建康より回鑾し、内禅の意有り。倬密に奏して曰く、「靖康の事正に位を伝ふる太だ遽きを以てす、何ぞ姑くこれを徐にせざる」と。心自ら安からず、屡へて去らんことを求む。詔して観文殿学士を以て江州太平興国宮を提挙せしむ。孝宗即位し、諫臣以て言と為す。資政殿学士に降す。明年致仕し、卒す。元の職を復し、恤典宰相の如くし、特進を贈る。

孫:朱著、淳熙十四年登第し、吏部尚書に仕へ至る。

王綸

王綸、字は德言、建康の人。幼くして穎悟、十歳にして文を属する能ふ。紹興五年進士に登第し、平江府崑山県主簿を授かり、鎮江府・婺州・臨安府の教授を歴任し、権国子正と為る。

時に初めて太学を建つ。旧規亡く、吏の省記に憑る。吏、縁りて姦を為す。綸これを釐正し、其の弊稍く革まる。敕令所刪定官・諸王宮大小学教授兼権兵部郎官に遷る。言ふ、「孔門の弟子と後世の諸儒に斯の文に功有る者は、皆従祀して先聖すを得たり。今庠序を闢き礼楽を修む。宜しく其の式を以て諸郡県に頒つべし」と。

二十四年、御史中丞魏師遜の薦に以て、監察御史と為り、秦檜と事を論じ、其の意に忤る。師遜遂に綸を劾し、且つ言ふ、「智識浅昧にして、能く綸を知ること能はず」と。これに由り罷めて去る。踰年、興国軍を知る。檜死し、召されて起居舍人兼崇政殿説書と為り、尋いで兼権礼部侍郎。

二十六年、中書舍人を試みる。高宗躬より政事に親しみ、威柄を収攬し、諸賢を散地より召す。詔命填委し、多く綸の草する所なり。綸、守臣の裕民の事を奏し、五条に拘ること毋からんことを乞ふ。従はる。侍講を兼ぬ。上『春秋左氏伝』を読むを喜ぶ。綸進講し、上意に合す。嘗て講読官と同しく興化軍鄭樵の学行を薦め、召して対せしめ官を命じ、且つ筆札を給し、其の著する史を録せしむ。直学士院を兼ね、工部侍郎に遷り、仍ひ直院を兼ぬ。呉玠の神道碑を撰し、上旨に称し、宸翰を賜ひ褒寵す。

二十八年、同知樞密院事を除す。金将盟を渝えんとす。辺報遝至す。宰相沈該未だ敢へて以て聞せず。綸、参知政事陳康伯・同知樞密院事陳誠之を率ひて共に其の事を白し、備禦を乞ふ。已にして綸、肺暍に病み、祠を請ひて告ぐ。上御医を遣はし診視せしめ、且つ白金五百両を賜ふ。

二十九年六月、朝廷の議論において大臣を遣わして汎使と為し敵情を窺い、且つ盟好を堅くせんと欲す。綸は行くことを請い、乃ち之を以て称謝使と為し、曹勳之に副う。金に至るや、館礼甚だ隆し。一日、急ぎ使を召し入るるに、金主便殿に御し、唯一の執政在り、数問を連発す。綸条に対し、金主屈する能わず。九月、朝に還り入見し、言う「隣国恭順和好なるは、皆陛下の威徳の致す所なり」と。宰臣湯思退等皆賀す。然れども当時金は既に江を犯さんと謀り、特だ善意を以て綸を紿かすのみ。

綸旧疾発作し、力を尽くして外任を乞う。資政殿大学士を除し福州を守らしめ、上解せし所御の犀帯を之に賜う。明年、建康府を守り兼ね行宮留守と為る。敵江を犯すや、綸は毎に守禦の利害を駅伝にて聞かしめ、上多く之に従う。三十一年八月、卒す。左光禄大夫を贈り、諡して「章敏」と曰う。子無く、兄綽の子を以て後と為す。

尹穡

尹穡、字は少稷。建炎中興の際、北より南に帰る。紹興三十二年、陸游と同く枢密院編修官と為る。権知院史浩・同知王祖舜其の博学文有るを薦め、召対して旨に称し、二人並びに進士出身を賜う。孝宗西北の士を奨用し、隆興元年、穡を除して監察御史と為し、尋いで右正言を除す。二年五月、殿中侍御史を除す。歴遷して諫議大夫に至り、未だ幾ばくもあらずして罷む。

初め、符離の師潰え、湯思退復た相と為り、金帥書を移して地を索む。詔して侍従台諫をして集議せしむ。穡時に監察御史たり、国家の事力未だ備わらず、宜しく敵と和すべく、唯だ歳幣を増し、四州を棄てず、陵寢を請わざれば、則ち和議成る可しと為す。既にして盧仲賢使いに出で、金に脅かされ、又将に王之望を遣わんとす。張浚極言して其の不可なるを言う。穡右正言たり、和議就かざるを懼れ、因りて浚の跋扈を劾し、未だ幾ばくもあらずして政を罷む。後四郡を割かんとし、再び国書を易え、歳幣索むる所の数の如くす。而して敵兵を分ち入寇す。上意中に悔ゆ。穡侍御史たり、獄を置き、備えを撤せず及び地を棄つる者を取って其の罪を劾せんことを乞う。牽引すること凡そ二十余人。

時に方に和を以て急と為し、穡を擢て諫議大夫と為す。敵勢浸く張り、遠近震動す。都督ととく・同都督相継いで行を辞す。上書する者和議の失を攻め、且つ言う「穡専ら大臣に附き鷹犬と為り、張浚の忠誠国に為るは天下共に知る所なり。穡公議を顧みず、妄りに詆誹を肆にす。凡そ大臣悦ばざる者は皆之を逐い、相与に表裏し、以て姦謀を成す。皆斬る可し」と。上言者を怒るも、而して一時主議の臣と穡は皆相継いで廃黜せらる。是に先立ち、胡銓力言して主和の是に非ざるを言い、大臣悦ばず。命じて銓と穡を分かち往かしめ浙東西に海道を措置せしむ。二人家を挈いて以て行く。言者に劾せられ、遂に皆罷む。語は『陳康伯伝』に在り。

王之望

王之望、字は瞻叔、襄陽穀城の人、後に台州に寓居す。父綱、元符進士第に登り、徽州通判に至りて卒す。之望初め蔭を以て補せられ、紹興八年、進士第に登る。処州教授、入りて太学録と為り、博士に遷る。久しくして出でて荊門軍を守り、湖南茶塩を提挙し、潼川府路転運判官に改め、尋いで成都府路計度転運副使・四川茶馬提挙と為る。

朝臣其の才を薦め、行在に召し赴かしめ、太府少卿を除し、四川財賦を総領せしむ。金人盟を渝え、軍書旁午し、調度百出す。之望区画して遺事無し。第に民の質剤未だ税せざる者を括り、隠匿を搜抉し、得る所の銭緡四百六十八万、衆咸く之を怨む。後太府卿に升る。

孝宗即位し、戸部侍郎を除し、川陝宣諭使を充てる。是に先立ち、敵帥合喜鳳州の黄牛堡を寇し、呉璘之を撃ち走らせ、遂に秦州を取り、連ねて商・陝・原・環等十七郡を復す。敵璘の精兵皆徳順に在るを以て、力を尽くして之を攻む。時に陳康伯政を秉り、方に徳順の戍を罷めんと議し、虞允文宣諭使たり、力争して従わず。上手札を以て璘に命じて師を退かしむ。之望既に允文に代わり宣諭使と為り、璘を賛して諸将に命じ徳順を棄てしめ、倉卒に引退せしむ。敵其の後を乗じ、正兵三万、還る者僅かに七千人、将校存する所無きに幾く。連営慟哭し、声原野に震う。上聞きて之を悔ゆ。

隆興初め、右諫議大夫王大宝之望の罪を疏し、集英殿修撰・江州太平興国宮提挙を除す。未だ幾ばくもあらず、権戸部侍郎・江淮都督府参賛軍事と為る。之望雅より戦わんと欲せず、朝請し、因りて奏す「人主兵を論ずるは臣下と異なり、唯だ天意を奉承するのみ。窃かに天意を観るに、南北の形既に成り、未だ易く相兼ね難し。我の淮を絶ちて北せざるは、猶お敵の江を越えて南せざるが如し。攻戦の力を移して以て自守し、自守既に固くして、然る後に機に随い制を変え、利を択びて之に応ず」と。旨有りて中に留む。俄かに直学士院を兼ぬ。

湯思退力を主として兵を息めんとし、奏して之望を除して吏部侍郎・通問使と為す。尋いで先ず小使を遣わし敵を覘わしめんと議し、之望を召し還す。之望首に守備足恃むに足らざるを以て告げ、上亟に都督府を罷め、之望を以て淮西宣諭使と為す。甫かに命を拝し、又擢て右諫議大夫と為す。之望因りて上章し極言して廷臣の偏見を執り身謀を為すを論じ、明詔を庭に在らしめ、其の心を平らかにするを議論の際に乞う。時に思退は和議を主とし、浚は恢復を主とす。之望の言善に似て、実は陰に思退の地を為すなり。

既にして師を江上に視る。金復た辺を犯し、遂に和・戦の二策を上り、且つ措置守禦の備を言う。疏奏未だ達せずして、参知政事を拝す。既に入り、俄かに同知枢密院事を兼ぬ。敵兵交至し、濠・楚の守将或いは城を棄てて遁る。上湯思退に命じて江・淮の師を督せしむ。未だ行かず、復た之望に命じて督視せしめ、同都督に改む。力を辞して行かず。会に太学諸生上書す。上怒り、罪を加えんと欲す。之望之を救解す。遂に参知政事を以て師を労い江・淮に至る。

之望先に嘗て敵帥に書を貽えり。是に至り、王抃敵軍に使いし、並びに商・秦の地を割き、俘虜を帰すことを許す。唯だ叛亡者は預からず。世に叔侄の国と為る。敵皆聴許し、講解して罷む。上敵師退くを聞き、督府に命じて利を択び之を撃たしむ。之望諸将に令して妄りに進むべからざるを下す。朝廷行を趣す。之望言う「王抃既に還る、小利を冒し大計を害すべからず」と。言者論じて罷め、端明殿学士・江州太平興国宮提挙と為し、天台に居る。乾道元年、起きて福州を守り福建路安撫使と為る。海賊王大老を捕え、捷聞し、資政殿大学士を加え、温州を守るに移し、尋いで復た罷む。六年冬、卒す。

之望文芸幹略有り。秦檜の時に当たり、落落として合わず、或いは其の守り有りと謂う。紹興末年、力を附けて和議を和し、思退と相表裏し、専ら地を割き敵を啖らすを以て得計と為す。地割けて敵勢益々張る。之望遂に此を以て廃せらる。

徐俯

徐俯、字は師川、洪州分寧の人。父の禧が国事に殉じたことにより、通直郎を授けられ、累進して司門郎に至る。靖康年中、張邦昌が僭位すると、俯は致仕した。時に工部侍郎の何昌言とその弟の昌辰は邦昌を避け、皆改名した。俯は婢を買い、昌奴と名付け、客が来るたびに、即ち呼び出して前に侍らせ使役した。建炎初め、致仕を取り消され、祠禄を奉じた。

内侍の鄭諶が江西で俯を見出し、その詩を重んじ、高宗に推薦した。胡直孺が経筵にあり、汪藻が翰苑にあり、相次いでこれを推薦し、遂に俯を右諫議大夫とした。中書舎人の程俱が言うには、「俯は以前の省郎の任から急に諫議に除され、元豊の制を改めて以来未だかつてなかったことである。古今を考証するに、陽城・种放でなければ、未だ嘗て順序を踏んで進まなかったことはなく、願わくは暫く応じ得る者をもってこれを命じられたい。昔、元稹が長慶年間に、知制誥に抜擢されたのは、真に忝くないものであった。縁由は、彼が荊南判司であった時、命が中から出て、省郎に召され、便り知制誥となり、遂に朝論を喧しくしたのであり、時に謂う、荊南監軍の崔潭峻が実にこれを引き立てたと。近くもまた、俯が宦官と詩歌の唱和をし、その警策を称えたと伝えられ、恐らくは或る者が陛下が俯を得た由縁を知らないのであろう。」返答なく、俱は遂に罷免された。

紹興二年、進士出身を賜り、侍読を兼ねる。三年、翰林学士に遷り、俄かに端明殿学士・簽書枢密院事に抜擢される。四年、権参知政事を兼ねる。宰相の朱勝非が言う、「襄陽は上流にあり、先ず取るべきである。」帝曰く、「何ぞ就くに岳飛に委ねざる?」参政の趙鼎曰く、「上流の利害を知るは、飛に如く者はない。」俯のみはこれに反対し、帝は聴かなかった。時に劉光世が入奏を乞うたので、鼎が言う、「方に出師を議するに、大将は軍を離れるべからず。」俯はこれを許そうとしたが、鼎が固く争い、俯は乃ち去ることを求め、洞霄宮の提挙となった。

九年、信州知州となる。中丞の王次翁がその郡事を治めないことを論じ、祠禄を与えられた。明年、卒す。俯は才俊であり、曾幾・呂本中と交遊し、詩集六巻がある。

沈与求

沈与求、字は必先、湖州徳清の人。政和五年の進士第に登り、累遷して明州通判に至る。御史の張守の推薦により、召されて対し、監察御史に除される。上疏して執政を論じ、兵部員外郎に遷るが、自ら劾して、言がもし当たらなければ、遷官すべきでないとす。上は乃ちその言を行い、殿中侍御史に除した。

上(高宗)が会稽におられた時、或る者が饒州・信州に幸するよう勧め、急があれば則ち閩に入ろうとした。与求は、今日の根本は正に江・浙にあり、進んで建康に都すべきで、恢復を図るべしと考える。范宗尹が年少で宰相となったことを論じ、国事を誤る恐れがあるとした。上は悦ばず、直龍図閣として台州知州とした。宗尹が罷免されると、召還され、再び侍御史に除された。

時に軍の蓄えが窮乏し、諸鎮の屯田を措置するに当たり、与求は古今の屯田の利害を取り上げ、『集議』二巻を撰して上進し、詔して戸部に付して検討させた。江西安撫・江州知州の朱勝非が未だ到着せず、馬進が江州を寇してこれを陥落させたので、与求は九江の陥落は、勝非の赴任が余りに緩慢であったためと論じ、勝非は罷免されて去った。時に方に多事であり、百官の事務が滞り違失するので、与求は元豊の旧制を援用し、台諫官に弾奏を許すよう請い、上はこれに従った。与求が再び言路に居ると、或る者は、凡そ范宗尹が引用した者を、悉く論じて出そうとするのではないかと疑った。与求曰く、「近世は朋党の風が成り、人材の賢否を問わず、皆宰相の出処を以て進退の基準とする。今は人材の邪正を別けてこれを言うべきであり、豈に一時に用いられた者が皆不賢であると言えようか。」人々はその言に服した。

呂頤浩が再び宰相となると、御営統制の辛永宗・枢密の富直柔・右司諫の韓璜が屡々その短所を言った。与求は直柔が永宗兄弟に附会し、身を致す資としていることを劾した。上は遂に永宗を出し、而して璜・直柔も相継いで罷黜された。

御史中丞に遷る。時に禁衛が寡弱で、諸将が各々重兵を擁していたので、与求は言う、「漢には南北軍があり、唐は府兵を用い、互いに相維れ、偏重の勢い無からしめた。今、兵権は朝廷に在らず、枢密院及び三省兵房・尚書兵部と雖も、只文書を行うのみである。願わくは大臣に詔して益々兵政を修めさせ、中興の勢いを助成せられたい。」浙西安撫の劉光世が来朝し、繒帛・方物を献上した。上は既に六宮に分け与えようとしたが、与求が奏上して「今は何の時ぞや、而してかくの如きものがある。」時に既に日暮れであり、疏が入ると、上は命じて追い取って斥け返させた。内侍の馮益が別に御馬院を設置し、自らその事を領し、又擅かに皇城の便門を穿った。与求は益の専恣を劾し、その罪を治めるよう請うた。

諜報により劉豫が淮陽で舟を造っていると知り、議者は多く明州の向頭に設備を設けようとした。与求は言う、「賊舟をして此処に至らしめれば、則ち吾が腹心の地に入るのである。臣は聞く、海舟が京東より浙に入るには、必ず泰州の石港・通州の料角崇明鎮等の処を経由し、次に平江の南北洋に至り、次に秀州の金山に至り、次に向頭に至ると。又聞く、料角の水勢は湍急で険しく、必ず沙上の水手を得て始めて転運できると。宜しく石港・料角等の処に於いて水手を拘収し、優に銭糧を与えて存養し、以て緩急に備えるべし。」

両浙転運副使の徐康国が温州より発進させた宣和年間に製した間金・銷金の屏障什物を進上したので、与求は奏上して曰く、「陛下の倹約は大禹に等しく、今康国は微物を以て盛徳を累わそうとしている。乞う、斥けてこれを焚き、仍って康国を顕かに黜せられんことを。」従われた。与求は御史三院を歴任し、知ることを言わざるなく、前後幾らく四百の奏上をなし、その言は切直で、敵己以下の者に堪え得ざる者あり。上は時に訓敕を下す毎に、常に曰く、「汝は沈中丞を知らざるか?」吏部尚書に移り、権翰林学士・侍読を兼ね、遂に出て荊湖南路安撫使・潭州知州となる。疾を引いて祠禄を乞い、許された。

四年、出て鎮江府知府兼両浙西路安撫使となる。復た吏部尚書として召され、参知政事に除される。金人が将に入寇せんとし、上は輔臣に諭して曰く、「朕は親しく六軍を総べるべし。」与求はこれを賛して曰く、「今日の親征は、皆聖断による。」上は親征を決意し、『車攻』の詩を書いて賜う。上曰く、「朕は二聖(徽宗・欽宗)が遠方に在るを以て、己を屈して通和した。今、豫(劉豫)が逆乱すること此の如し、安んぞ復た忍ぶべけんや。」与求曰く、「和親は乃ち金人の屡々試みる策であり、信ずるに足らず。」因って奏上して、「諸将は江岸に分屯し、而して敵人は淮甸を往来している。当に岳飛を遣わし、上流より間道を取って虚に乗じてこれを撃たしむべく、彼は必ず反顧の憂い有らん。」上曰く、「当に此の如く措置すべし。」

五年、権知枢密院事を兼ねる。時に張浚が江上で師を視察し、行府を名乗り、泰州知州の邵彪及び営田の利害の事を具して言上し、尚書省に送るよう乞うた。旨有ってこれに従う。与求は平らかでなく、曰く、「三省・枢密院は乃ち行府の文書を奉行するものか?」六年、張浚が復た出て師を視察せんと欲し、同列に告げなかった。及んで旨を得て、乃ち退いて歎じて曰く、「此れ大事なり、吾れ与り聞かず、何を以て位に居らん。」遂に祠禄を乞い、罷免され、出て明州知州となる。

七年、上(高宗)が平江に在りし時、召見され、同知樞密院事を除せらる。建康に従駕し、知樞密院事に遷る。薨じ、左銀青光祿大夫を贈られ、諡して「忠敏」と曰う。

翟汝文

翟汝文、字は公巽、潤州丹陽の人なり。進士第に登り、親老の故に十年間調せられず。議禮局編修官に擢でられ、召對あり、徽宗之を嘉し、秘書郎を除す。三館の士が東封を建議す。汝文曰く、「治道は清淨を貴ぶ。今、上に三代の禮樂を述べて啓せずして、秦・漢の侈心に師うは、願う所に非ず」と。宿州稅監を責めらる。久しくして、召されて著作郎を除し、起居郎に遷る。

皇太子が傅に就くに当たり、汝文に命じて勸講せしめ、中書舍人を除す。言者、汝文が蘇軾・黃庭堅と游ぶを以て、贊書の任に当たるべからずと謂う。出でて襄州を知り、移りて濟州を知り、復た唐州を知り、謝章を以て自ら辨し罷む。未だ幾ばくもあらず、起きて陳州を知る。召されて中書舍人に拜し、外制典雅にして、一時之を稱す。命ぜられて『哲宗國史』を同修し、給事中に遷る。高麗使入貢す。詔して侍從の上に班せしむ。汝文言う、「『春秋』の法、王人は微なりと雖も、諸侯の上に序す。近列を卑しめて陪臣を尊ぶべからず」と。上遂に旧制の如くせしむ。内侍梁師成、強いて百姓の墓田を市い、其の園圃を廣む。汝文、上に言う。師成、宰相を諷して汝文を黜し、出でて宣州を守らしむ。

召されて吏部侍郎と為り、出でて廬州を知り、徙りて密州を知る。密は海に負い鹽を産す。蔡京屡鹽法を變え、盜販する者衆し。有司黨與を窮治す。汝文曰く、「祖宗の法度、私商を獲れば所由を詰めず、民を靖めんと欲するなり。今繫えて之を虐ぐれば、将に厲と為らんとす」と。悉く之を縱つ。密は歳に牛黄を貢す。汝文曰く、「牛黄を失えば輒ち死す、農を恵む所以に非ず。宜しく財を輸して之を市い、則ち其の害密に私せざるべし」と。上之に從う。欽宗即位し、召されて翰林學士と為り、改めて顯謨閣學士・知越州兼浙東安撫使と為る。

建炎と改元し、上疏して言う、「陛下即位の赦書に、上供の常數、後に獻利の臣の増す所と為る者は、当に裁損を議すべし。浙東の和預買絹歳九十七萬六千匹の如き、而るに越州は乃ち二十萬五百匹なり。一路を以て之を計れば、十の三に当たるべし。杭州の歳に起すの額は蓋し越州と等しきが如き、杭州は去年已に十二萬匹を減ぜり。独り越州未だ旧の如し。今、戸等第を視て減罷せんことを乞う」と。楊應誠、高麗に使して二帝を迎えんことを圖らんと請う。汝文奏す、「應誠君父を欺罔す。若し高麗、大國假道を以て燕雲に至ると辭し、金人却って問津して以て吳越を窺わば、将に何の辭を以てか之に対せん」と。後、高麗果たして汝文の言う如し。上将に武昌に幸せんとす。汝文疏を上りて荊南に幸せんことを請う。従わず。

紹興元年、召されて翰林學士兼侍講と為り、參知政事・同提舉修政局を除す。時に秦檜相たり。四方の奏請填委して未だ決せず、吏縁りて姦を為す。汝文檜に語り、宜しく都司に責めて吏牘を程考せしめ、稽違する者を懲うべしと。汝文嘗て辭牘を受け、字を書し印を用い、直ちに省部に送る。入對し、堂吏賄を受くる者を治めんことを乞う。檜怒り、面して汝文の專擅を劾す。右司諫方孟卿、因りて奏す、汝文長官と立異す、豈に能く共に國事を濟さんやと。罷めて去り、以て卒す。

是に先立ち、汝文密に在りし時、檜郡文學と為り、汝文其の才を薦む。故に檜之を引用す。然れども汝文性剛にして檜に屈せず、案を対して相詬い、至りて檜を目して「濁氣」と為す。汝文風度ぎょう楚、古を好み博雅、篆籀に精し、文集世に行わる。

王庶

王庶、字は子尚、慶陽の人なり。崇寧五年、進士第に挙げられ、秩を改め、涇州保定縣を知る。种師道の薦めにより、通判懷德軍と為る。契丹金人に破られ、燕雲の地を挙げて援を求め、詔して師道降を受く。庶師道に謂う、「國家と遼人百年の好、今其の敗亡するを坐視して救う能わず、乃ち其の土地を利するは、無乃女直の禍を基とすべきか」と。聴かず。宣和七年、金果たして入寇す。太宰李邦彥夜に庶を召して計を問う。庶曰く、「宿将种師道に如くは無く、且つ夷虜畏服す。宜しく西兵を付し、之をして入援せしむべし」と。邦彥以て蔡攸に語る。攸然らず。庶を以て陝西運判兼制置解鹽事と為す。疆事益々棘し。欽宗襄・鄧に幸せんと欲し、先ず席益を命じて京西安撫使と為す。益庶の自ら副うことを求む。高宗即位し、直龍圖閣・鄜延經略使兼知延安府を除す。累ねて戰功を立て、集英殿修撰に進み、龍圖閣待制に升り、陝西六路軍馬を節制す。

是に先立ち、河東經制使王燮既に遁歸す。東京留守宗澤制を承けて庶を以て權陝西制置使と為す。会に宣諭使謝亮關に入る。庶書を移して曰く、「夏人の患は小さくして緩やかなり、金人の患は大にして迫る。秋高く必ず大挙す。盍ぞ節を杖い兵を率い義を挙げ、駆逐して河を渡らしめ、徐ろに恢復を圖らん」と。亮従う能わず。金人大いに入る。庶兵を調えて沿河より馮翊に至り、險に拠りて守る。金人は先に已に冰を乗じて河を渡り晉寧を犯し、丹州を侵し、又清水河を渡り、潼關を破り、秦・隴皆震う。庶檄を諸路に傳え、期を会して賊を討たんとす。涇原統制曲端雅より庶に属するを欲せず、未だ命を受けざるを以て辭す。数日居りて、告身至る。又辭す。金人端と庶協わざるを知り、兵を併せて鄜延を寇す。庶坊州に在りて之を聞き、夜に鄜延に趨りて其の衝を遏んとす。金人詭道を以て丹州を陷す。州は鄜・延の間に界す。庶乃ち自ら延安路に当たる。時に端盡く涇原の勁兵を統ぶ。庶屡其の進むを督う。端訖に行わず。遂に延安を陷す。語は『端傳』に在り。

初め、庶圍急なるを聞き、自ら散亡を収めて往き援ぜんとす。觀察使王燮亦将に其の部を率いて興元より發せんとす。庶甘泉に至りて而して延安已に守らず。既に帰する所無く、遂に軍を燮に付し、而して自ら百騎を将いて馳せて襄樂に至り軍を勞う。尚ほ端を倚りて助けと為す。庶至る。端令して毎門従騎の半を減ぜしむ。比べて帳下に至るに、僅かに数騎なり。端聲を厲くして庶に延安失守の状を問い、且つ曰く、「節制固より身を愛するを知る、天子の為に城を愛するを知らざるか」と。庶曰く、「吾数え令して従わず、誰か其れ身を愛する者あらん」と。端怒り、即ち軍中に庶を誅して其の兵を奪わんと謀り、乃ち夜に寧州に走り、謝亮に見えて曰く、「延安は五路の襟喉、今既に失えり。『春秋』大夫出疆の義以て之を專にするを得。請う誅せん」と。亮曰く、「使事指有り。今人臣を以て外に擅に誅するは、是れ跋扈なり。公則ち自ら之を為せ」と。端沮みて歸り、乃ち庶の節制使の印を奪い、又其の官属を拘縻す。会に詔して庶に京兆を守らしむ。庶先に失律を以て自ら劾し罷まるを得たり。丁內艱す。

時に張浚富平より敗歸し、始めて庶及び端の言を用うべく思う。乃ち並びに之を召す。庶地近く先ず至り、力めて秦を撫ししょくを保つの策を陳べ、浚を勸めて熙河・秦鳳の兵を収め、關・隴を扼して以て後圖と為さんことを勸む。浚納れず。終制を求め、許さず。乃ち版を授けて參議官と為す。浚端と庶必ず相容れざるを念い、端未だ至らず、但だ其の官を復し、恭州に移す。庶因りて浚に謂う、「端に反心有り」と。浚亦端の士を得るを畏れ、始めて端を殺すの意有り。語は『端傳』に在り。

紹興五年、喪中を起復して興元府知事・利夔路制置使に任ぜられた。庶は士卒が寡少なるを以て、興州・洋州諸邑及び三泉県の強壮なる者を籍し、二丁の家より一丁を取、三丁の家より二丁を取り、「義士」と号し、日に県にて閲し、月に州にて閲し、厚く犒賞す。半年ならずして、数万の兵を得たり。張浚これを朝廷に言上し、徽猷閣直学士に昇進す。浚に讒言する者あり、庶を移して成都知事とし、嘉州に改む。明年、浚、庶を弾劾し軽率にして傾險なりとし、落職して祠禄を奉ぜしむ。尋いで起復して遂寧知事と為るも、固く避けて請うを得たり。

六年、湖北安撫使・鄂州知事を除す。闕に趨き、上、燕見に因りて、庶言す、「陛下江南を保たんと欲せば、事とすべきなし。若し大業を紹復せんと曰わば、荊州に都するを得べし。荊州は左に呉、右に蜀、利は南海に尽き、前に江・漢に臨み、三川を出で、大河に渉り、以て中原を図るは、曹操が関羽を畏れたる所以なり」と。上大いにこれを異とす。復た顕謨閣待制・荊南府知府・湖北経略安撫使と為り、又直学士を復す。

七年十月、兵部侍郎を以て召す。明年春、入対す。上曰く、「卿を召したる日、張浚は既に去り、趙鼎は未だ来たらず。此れ朕の親しく擢む所にして、左右の助け有るに非ず」と。庶頓首して謝し、因りて奏す、「恢復の功十年にして未だ立たず。其の失は偏聴に在り、欲速に在り、爵賞を軽んずるに在り、是非邪正混淆す。誠に能く功を賞し罪を罰せば、其れ誰か服せざらん。昔、漢の光武は兵を以て天下を取れども、不急を以て其の費を奪わず。兵を知らざる者は兵を言わしむべからず」と。又、口に陳し手に画きて秦・蜀の利害を述ぶ。上大いに喜び、即日本部尚書に遷す。月を閲し、枢密副使を拝す。

議者、重臣を遣わして辺を行わしむるを乞う。遂に命じて庶に江・淮の辺防を措置せしむ。京・湖宣撫使岳飛、庶の辺を行くを聞き、書を遺して曰く、「今歳若し出師せずんば、当に節を納めて閑を請わん」と。庶これを壮とす。庶朝に還り、金人の変詐を論じ、海上の盟を渝えたるより、因りて飛の節を納むるの語に及ぶ。是の時に当たり、秦檜再び相と為り、和戎を事とす。金使烏陵思謀至る。詔して庶を還らしむるを趣す。庶力めて和議を詆し、金使を誅するを乞う。其の言甚だ切なり。金又た張通古を遣わして来たり、地を割き、梓宮を還し、太后を帰すことを許す。庶曰く、「和議の事は、臣の知らざる所なり」と。凡そ七疏を上し官を免ぜんことを乞う。乃ち資政殿学士を以て潭州知事と為る。

御史中丞勾龍如淵、庶を弾劾し、本より趙鼎の薦むる所にして、君を欺き上を罔すとす。庶罷められて帰る。九江に至り、命を被り職を奪われ、家を移して居らしむ。十三年、御史胡汝明、庶を論じ朝政を譏訕すとす。責めて嚮徳軍節度副使と為し、道州に安置す。貶所に至りて卒す。孝宗、庶の言を思い、其の官を追復し、諡して「敏節」と曰う。子六人、之奇、乾道中、枢密院事を知る。

辛炳

辛炳、字は如晦、福州候官県の人。元符三年の進士第に登り、累官して監察御史兼権殿中侍御史に至る。先ず是に、蔡京、発運司の転般倉を廃して直達綱と為す。舟入するや、率ね侵盗し、舟を沈めて遁る。戸部虚数を受く。人京を畏れて敢えて言う者なし。炳極めて其の弊を疏し、且つ変法後両歳の所得の数を以て、常歳の欠損一百三十二万に較べ、支益広くして入微に寝む。乞うに下して有司に計度せしむ。徽宗以て京に問う。京怒り、炳を以て沮撓と為し、責めて南剣州新豊場を監せしめ、尋いで洞霄宮を提挙し、起復して袁州知事と為り、無為軍に移す。靖康初、召されて兵部員外郎と為る。

高宗即位し、左司員外郎を除す。辞す。未だ幾ばくもあらず、直龍図閣を起復し、潭州知事と為る。明年、張浚、兵を潭州に調し、炳を以て懦怯にして能わずとし、之を罷む。尋いで起居舎人を以て召す。辞す。紹興二年、復た侍御史を以て召す。首めて言う、今日公道壅塞し、風俗頽薄なりと。連疏して三省の行う所の乖失数十事を論じ、大臣に諭して都堂公見の礼を廃せざらんことを請う。時に福建八州の添差百八十余員に至る。炳言す、「艱危多事の時、冗食の官益なし。当に罷むべし」と。之に従う。

蘇州・湖州地震す。詔を下して言を求む。炳言す、「大臣天を畏るるの心無くんば、何事か為すべからざらん」と。其の言甚だ峻なり。是れより宰執呂頤浩、家に居して罪を待つ。炳、頤浩を劾して罷む。枢密院事知事張浚、行在に召し赴かしむ。炳、其の事を敗り国を誤るを論じ、浚、落職に坐す。

御史中丞を除す。時に方に使を遣わして和を議す。炳方に言す、「金人信無く、和議恃むべからず。宜しく守禦攻戦の策を講求すべし」と。疾を以て外を請い、顕謨閣直学士・漳州知事を除す。未だ赴かずして卒す。詔す、炳中執法に任じ、操行清修なり。今其れ云亡し、貧しくして以て葬る無し。銀帛を賜い其の家を賻い、通議大夫を贈る。

論じて曰く、秦檜、晩年に士を薦めて以て人望を収む。然れども一時知名の士も、亦た豈に尽く籠絡すべき者ならんや。朱倬、事を論ずるや輒ち合わず。王綸、代言して辞体要に合う。若し尹穡・王之望、人品同じからざれども、其の和議に附和するは則ち一なり。徐俯、末に趙鼎と争弁し、岳飛を沮抑す。異なるかな。沈与求、和親の議を止む。翟汝文、事を料るに善くし、而して檜以て己に異なりと為す。王庶、荊州に都するを論ず。当時の諸臣の慮皆此に及ばず。祈寛の事を考うるに、庶蓋し忠義の人なり。辛炳、雅志清修、又た豈に多く見るべき者ならんや。