宋史

列傳第一百三十  白時中 徐處仁 馮澥 王倫 宇文虚中 湯思退

白時中

白時中、字は蒙亨、壽春の人である。進士第に登り、累官して吏部侍郎となった。事に坐し、降格されて鄆州知州となったが、やがて再び召し出されて用いられた。政和六年、尚書右丞・中書門下侍郎に拝された。宣和六年、特進・太宰兼門下に除され、崇国公に封ぜられ、慶国公に進んだ。

初め、時中は春官を務めたことがあり、詔により天下の奏上する祥瑞を編類し、その文字では尽くせないものは図絵して進上するよう命じられた。時中は『政和瑞応記』及び『賛』を進めた。太宰となってからは、翔鶴・霞光などの事を表して賀した。圜丘の礼が成ると、休気が充満して応じたことは前代未聞であると上言し、宣付して秘書省に付するよう乞うた。時に燕山は日々危急を告げていたが、時中は平然として憂慮しなかった。金人が侵入して攻めてくると、京城は守備を修めたが、時中は宇文粹中に言った、「万事は経験を要する。公がかつて守城の事を目撃したことがなければ、我々はどうして首尾を知ることができようか」と。

欽宗が即位すると、大臣を召して京師を守る策を決し、誰が将となり得るかを問うた。李綱が言うには、「朝廷が高爵厚禄をもって大臣を蓄養するのは、まさに有事の日に用いんがためである。時中らは書生ではあるが、将士を撫して敵鋒に抗するは、その職分である」と。時中は勃然として言った、「李綱は兵を将いて出戦することができないのか」と。綱は言った、「陛下もし臣を使わしめば、死をもって報いん」と。ここにおいて綱を右丞とし、守禦使を充てた。時中はまもなく罷められて観文殿学士・太一宮使となった。御史が時中を懦弱で無能であると弾劾し、詔して職を落とされた。間もなく、卒した。

徐処仁

徐処仁、字は択之、応天府穀熟県の人である。進士甲科に及第し、永州東安県令となった。蛮人が叛くと、処仁は峒に入り、恩信を示して開諭すると、蛮人は感泣し、二度と反さぬと誓った。済州金郷県知事となった。推薦者により召し出されて見え、徽宗が京東の年の出来事を問うと、処仁は旱魃と蝗害があったと答えた。問うて、「邑に盗賊はあるか」と。曰く、「これあり」と。上は処仁が欺かないと認め、宗正寺丞・太常博士に除した。

時に算学を初めて設置し、その祖とする所を議したが、ある者は孔子が『易』を賛して数を知ったと唱えた。処仁は言う、「仲尼の道は備わらざる所なく、専門の学に比すべきではない。黄帝が日を迎えて策を推すは、数の始まりである。黄帝を祖とするがよろしい」と。監察御史に抜擢され、殿中・右正言・給事中に遷った。開封府を摂行し、裁決は流れる如く、囚人は常に空であった。戸部尚書に進み、続いて中大夫・尚書右丞に拝された。母の憂に服し、喪が明けると、資政殿学士として青州知事となり、永興軍知事に移った。

童貫が陝西に使いし、物価を平らげようとしたが、処仁の議はこれと合わず、言った、「この令がひとたび伝われば、商賈は行かず、積蔵する者は出さず、平価と名づけて、かえってこれを増すことになる」と。転運使が童貫の意に阿り、その徳音を阻み、異論を唱え、使者を侵辱したと弾劾した。詔して処仁を闕に赴かせた。まもなく河陽知事に改め、落職して蘄州知事となった。久しくして、顕謨閣直学士として潁昌府知事となった。民で宮掖に罪を得た者がおり、赦されても原宥されなかったが、処仁がこれを奏上した。童貫はこれに乗じてこれを排し、職を奪い、鴻慶宮提挙とした。再び延康殿学士・汝州知事となり、再び鴻慶祠を奉じ、徐州知事となり、召されて醴泉観使となった。

徽宗が天下の事を訪ねると、処仁は答えて言った、「天下の大勢は兵と民にあり、今水旱の災いの後、賦役は繁重、公私は凋弊し、兵民ともに困窮しております。今これを謀らずして、後には図り難きことがあろうかと」と。上は言った、「卿でなければこの言を聞くことはなかった」と。明日、侍読に除した。進読が終わり、前の話を論じると、処仁は言った、「昔、周は冢宰をもって国用を制し、歳の末に朝廷の一年の財用の数を会計し、入を量り出を為し、浮費を節し、横斂を罷めておりました。百姓既に足れば、軍儲必ず豊かになります」と。上は善しと称し、詔して裕民局を置き、兵を振い民を裕にする法を討論させた。蔡京は悦ばず、言う者が、「今局を設けて『裕民』と曰うは、豈に平素は民を裕にせざるというのか」と言った。ここにおいて局を罷め、処仁を出して揚州知事とした。間もなく、疾を以て祠を奉じて南都に帰った。

方臘が乱を為すと、処仁は急ぎ留守の薛昂に会い、守戦の策を画いた。そこで昂に語って言った、「睢陽は江・淮を蔽い遮り、乃ち国家の命を受けた地である。もし非常の事あらば、我は君を助けて死守せん」と。この言葉が朝廷に聞こえ、応天尹として起用された。河北に盗賊が起こると、大名尹に移った。前尹の王革は残酷で臆病であり、盗賊は軽重を問わず皆死罪に処し、少しでも警報があれば、直ちに城門を閉じて兵をもって自衛した。処仁が至ると、即座に城門を大きく開き、牙内の甲兵を撤去したので、人情ようやく安んじた。

徽宗は手詔を賜って言った、「金人は和を約すと雖も、然れども狼子野心、変を扇ぎ易し。行うべき事あらば以て聞かせよ」と。処仁は『備辺禦戎』十策を上った。観文殿学士に進み、召されて宝籙宮使となり、特旨をもって大学士に昇った。旧制では、大観文は宰相でなければ除されず、前二府がこれを除かれるのは、処仁より始まった。

欽宗が即位すると、金人が京師を犯した。処仁は糧を儲け備えを列ね、鋭兵一万人を合わせて王事に勤めた。詔を下して親征し、国威を張るよう奏請した。奏が至った時、朝廷は丁度親征の詔書を下し、李綱を行営使とした。即座に綱に文書を移し、備禦の方略を述べた。金人が和を請うて帰ると、処仁は伏兵を浚・滑に置き、その半ば渡るを撃てば、必ず成功するであろうと奏上した。中書侍郎に召された。入見し、欽宗が三鎮を割くことを問うと、処仁は言った、「国は競わざれば亦陵せられる。且つ定武は陛下の潜藩にして、棄つべからず」と。呉敏の議と合致した。敏は処仁を宰相に推挙し、太宰兼門下侍郎に拝された。

童貫が勝捷軍を部して徽宗の東巡を衛したが、貫が既に貶されると、軍士に悪言があった。徽宗が還らんとするに及び、都人は洶洶として懼れ、ある者は備えを為すよう請うた。処仁は言った、「陛下は仁孝にして、晨昏に奉ぜんことを思い、属車西還するは、天下の大慶なり。郊迎して賀を称すべきである。軍士の妄言は、臣が身をもってこれを任せんことを請う」と。ここにおいて処仁を扈駕礼儀使とし、禁旅を統率して郊に出て従い、二聖の宮に還るまで、部伍は粛然とした。

初めに、処仁が右丞であった時、言うには、「六曹の長官・次官は、皆いずれも将来の執政の候補であるのに、部内の事柄について一切可否を決せず、悉く朝廷に命を仰いでいる。人の才力は急に変わるものではない。前に一職の決断もできなかった者が、後に政務を共にできるということがあろうか。願わくは詔を下し、今後尚書・侍郎は軽々しく事を上に委ねず、条があるものは条によって決し、例があるものは例によって決し、条例のないものは情状を斟酌して裁決せよ。決し得ない場合にのみ、尚書省に申し出るように」と。時に処仁が憂服のため去ったので、果たして行われなかったが、国政を執るに及んで、遂に奏上してこれを施行させた。

聶山が戸部尚書兼開封尹であった時、庫に美珠があった。山は密かに寧徳宮の宦官に語り、特旨を用いてこれを取ろうとした。処仁が奏上して言うには、「陛下は近時の禍患を鑑み、事は必ず三省を通すようにされた。今、珠をもって道君太上皇后の寿とすることは、誠に細事であり、かつ美事である。しかしこの端緒を開けば、前日の応奉の徒が再び放縦になるであろう。臣は陛下のためにこれを惜しむ」と。そこで主蔵の吏を罪に問うた。

処仁の言論は、初めは呉敏・李綱と合致していたが、やがて異議も生じた。嘗て敏と事を争い、筆を投げて敏の顔面に当て、鼻と額を黒くした。唐恪・耿南仲・聶山は二人を排斥してその地位に代わろうとし、言事官に論じさせ、処仁は敏と共に罷免され、処仁は観文殿大学士として中太一宮使となった。まもなく東平府の知事となり、崇福宮を提挙した。高宗が即位すると、大名尹・北道都総管として起用され、郡において卒した。

処仁は宣和年間、しばしば民力を寛めて賊を消滅させるよう請うた。大名尹として、剛直で廉潔と称された。首相となってからは、大いに建明するところなく、ただ金人が国境を去り、社稷が再び安泰になったのは、皆聖徳の倹約勤勉によるもので、天人の助けを得たのだと進言した。种師道が諸道の兵を合わせて河陽諸州に駐屯させ、防秋の備えとするよう請うたが、処仁は金人がどうして再び来られようか、先ず自ら騒ぎ立てて弱みを見せるべきではないと言った。南都が包囲された時、処仁は囲まれた城中におり、都人は彼を奸細と指弾し、その長子の王庚を殺した。幼子の王度は、吏部侍郎となった。

馮澥

馮澥、字は長源、普州安岳の人。父の馮山は、熙寧末年に秘書丞・梓州通判となり、鄧綰が台官に推薦したが就かず、二十年間退隠した。范祖禹が朝廷に推薦し、官は祠部郎中で終わった。澥は進士に及第し、官歴を経て朝廷に入ったが、言事によって再び貶謫された。

靖康元年、澥は左諫議大夫であった。金人が太原を包囲すると、朝廷は李綱を両河宣撫使に任命したが、澥はその罷免を奏上した。金人が三鎮の割譲を要求し、高宗が康王邸より使節として出ることになった時、澥は知樞密院事に任じられ副使を充てられたが、果たして行かず、まもなく尚書左丞に任じられた。金人が都を侵犯すると、詔により宗室の郡王が報謝使となり、澥と曹輔が枢密として副使となり、金軍の陣営に三日間留め置かれて帰還した。詔により暫く門下侍郎を権知した。欽宗が金軍の陣営に赴いた時、澥は扈従した。張邦昌が僭位すると、澥とは旧知であったので、彼を連れ帰り、澥が康王邸の旧臣であることから、奉迎使に任命し、総領迎駕儀物使とした。建炎初年、資政殿学士・知潼川府に任じられた。言事官が澥が嘗て偽命に汚されたと論じたため、職を奪われたが、後に復官した。紹興三年、資政殿学士のまま致仕し、卒した。

澥は文章を蘇軾に師事し、西方の事(西夏)についての議論で蔡京と意見が合わなかった。同郡の張庭堅が言事のために象州に斥けられて死に、妻子が流離したので、澥はその家を力強く救済した。諫省に入ると、その子の一人に官職を奏請した。しかしその議論は熙寧・元豊・紹聖の政治を支持し、鄒浩・李綱・楊時を排斥したので、君子は彼を軽んじた。

王倫

王倫、字は正道、莘県の人、文正公王旦の弟である王勖の玄孫である。家は貧しく品行がなく、任侠を好み、京師・洛陽らくようの間を往来し、幾度も法を犯したが、幸いにして免れた。汴京が陥落した時、欽宗が宣徳門に御すると、都人の喧噪が止まなかった。倫は勢いに乗じて直ちに御前に進み出て言うには、「臣がこれを鎮圧できます」と。欽宗は身に付けていた夏国の宝剣を解いて賜ろうとしたが、倫は言うには、「臣には官がありません。どうして鎮圧できましょうか」と。そこで自らその才能を推薦した。欽宗は一片の紙を取って「王倫を兵部侍郎に除すべし」と書いた。倫は楼を下り、悪少年数人を引き連れて旨を伝えて撫定し、都人はようやく静まった。宰相の何㮚は、倫が小人で功績がないのに、任命が過ぎているとして、修職郎に補するよう奏上し、斥けて用いなかった。

建炎元年、専対のできる者を選んで金に使いし、両宮の安否を問わせることとなり、王倫は朝奉郎に昇進し、刑部侍郎を仮に授けられ、大金通問使を充てられ、閤門舎人の朱弁が副使となった。金の左副元帥の宗維(粘罕)に会って事を議したが、金は留め置いて帰さなかった。

商人の陳忠という者がおり、密かに倫に二帝が黄龍府にいると告げた。そこで倫は朱弁及び洪皓と共に金を陳忠に与えて黄龍府に遣わし、密かに意思を通じさせた。これによって両宮は初めて高宗が即位したことを知った。久しくして、粘罕が烏陵思謀を遣わして駅舎で倫に会わせ、契丹時代の事について語った。倫は言うには、「海上の盟において、両国は兄弟と約し、万世変わらぬと誓いました。雲中の役では、我が国は実に軍糧を送り、その功を助けました。上国の臣下で、嘗て兵を挙げて南来しようとした者がいましたが、先帝(金太祖)は盟好を顧みて、許されませんでした。その後、兵を挙げて我が国に禍をもたらしましたが、果たして先帝の御心でしょうか。況や、古来より南北は分かれており、我が主上は恭しく勤勉で、英俊を並び用い、必ずや古に復することを期しております。どうして久遠の謀を考え、我が二帝・太母を帰し、我が土疆を回復し、南北の赤子を塗炭に陥らせないようにして、これをもって先帝の霊を慰められませんか。幸いに執事の方がこれを助けられますように」と。思謀は沈思して言うには、「君の言う通りである。帰ったら必ず全て伝えよう」と。やがて粘罕が来て言うには、「近頃、江南が使節を遣わして来たが、その意向を問うと、多くは答えられなかった。思謀が侍郎(王倫)の言葉を伝えて和議を欲すると言うが、決して江南の実情ではなく、ただ侍郎が自らこの言葉を言っているだけだろう」と。倫は言うには、「使節の任務には指図があります。そうでなければ、何のために来たのでしょう。人定は天に勝ち、天定もまた人に勝つ。元帥にご明察を願います」と。粘罕は答えなかった。この後、宇文虚中・魏行可・洪皓・崔縦・張邵が相次いで使節として入ったが、皆拘束された。

紹興二年、粘罕が突然自ら館中に来て倫と和議を論じ、彼を帰国させて報告させた。この秋、倫は臨安に至り、入対して、金人の内情を甚だ詳しく述べた。帝は手厚く褒め称えた。右文殿修撰に任じ、万寿観を主管させ、その二人の弟と一人の甥に官職を与えた。時に丁度劉を討伐するために兵を用いており、和議は中途で止まった。三年、韓肖冑が金から使いして帰ると、金は李永寿・王詡を続けて遣わした。二人は驕慢で横柄であったので、倫を伴使に充てた。倫が雲中での旧交を語ると、驕慢な態度が少し和らぎ、遂に詔書を拝受した。事が終わると、倫は再び祠官を請うた。劉光世が倫に参議軍事を求めたが、辞した。宰相の趙鼎が倫を召し出して都堂に赴かせて議事を稟議するよう請うたが、倫は進取の策を述べて、合わず、再び祠官を請うた。

七年春、徽宗及び寧徳后の訃報が届くと、再び倫を徽猷閣待制とし、直学士を仮に授け、迎奉梓宮使を充て、朝請郎の高公絵を副使とした。入朝して辞するに際し、帝は倫に金の左副元帥の完顔昌(撻懶)に対して言うように命じた。「河南の地は、上国が既に有さないのであれば、劉豫に付与するより、どうか我が国に帰されたい」と。倫は詔を奉じて行き、合わせて太后・欽宗に黄金各二百両を進上し、また金帛を宇文虚中・朱弁・孫傅・張叔夜の家族で金国にいる者に賜った。

倫が睢陽に至ると、劉豫が彼を館に迎えたが、他の謀略があるのではないかと疑い、公文書を送って国書の提出を求めた。倫は答えて言うには、「国書は金主に会って面と向かって納めなければならない。私が命を受けたのは、梓宮を請い求めることである」と。豫は脅して取り上げようとしたが止まなかった。ちょうど迎えの者が到着し、河を渡って涿州で撻懶に会い、豫が国書を要求した無礼な様子を詳しく述べ、かつ言うには、「豫は本朝を背くことを忍びました。他日、どうして大国を背かないことを保証できましょうか」と。

この年の冬、劉豫は廃された。王倫及び高公繪は帰還し、左副元帥の完顔昌は王倫らを見送って言った、「江南によく報ぜよ、今より道途は塞がれず、和議は平穏に達せられるであろう」。王倫が入朝して応対し、金人が梓宮及び太后を還すことを許し、また河南の地を帰すことを許したと述べ、さらに劉豫を廃する謀略は己が発したものであると言った。帝は大いに喜び、賜与は特に異例であった。

初め、王倫が完顔昌に謁見した後、昌は使者を王倫に同道させて燕京に入り金主の完顔亶に謁見させ、まず劉豫廃立を謝し、次いで使旨を致した。金主は初めて密かに群臣と議を定めて和を許し、そこで王倫を帰還させ、かつ太原少尹の烏陵思謀、太常少卿の石慶を派遣して事を議させた。行在に至り、王倫は館中を往来して事を計った。八年の秋、端明殿学士として再び金国に使いし、知閤門事の藍公佐をその副使とし、諱日を問い質し、梓宮還送の期を約した。王倫は辞し、都堂に引かれ使旨二十余事を授けられた。金国に至ると、金主の完顔亶は三日間宴を設け、簽書宣徽院事の蕭哲、左司郎中の張通古を江南詔諭使として派遣し、王倫とともに来朝させた。

朝廷の議論は金使の傲慢な振る舞いを問題とし、激しい論争が起こり、多くは王倫を罪に帰した。十一月、王倫は行在に至り、病を理由に祠官を請うたが、許されず、内殿に赴き奏事するよう促された。当時、蕭哲らは驕慢で、国書接受の礼儀が未だ定まっていなかった。御史中丞の勾龍如淵が都堂に赴き秦檜と議し、王倫を召し責めて言った、「貴公は両国の友好を通ずる使者として、万事は彼の地で反覆論定すべきであり、どうして同じ使者が至ってから議するなどということがあろうか」。王倫は泣いて言った、「倫は万死一生を冒し、虎口を往来すること数度、今日中丞はかくも倫を責められるのか」。秦檜らは共にこれを解いて言った、「中丞に他意はない、ただ貴公にこの事を成し遂げさせようと激励しているだけである」。王倫は言った、「それならば勉めないわけにはいかない」。王倫は張通古に会い、一二の策をもって彼を動かした。通古は恐れ、遂に秦檜が金使をその館で引見し、国書を受けて帰ることで議を定めた。金は梓宮、太母及び河南の地を帰すことを許した。

九年の春、王倫に同進士出身、端明殿学士、簽書枢密院事を賜い、迎梓宮・奉還両宮・交割地界使を充て、既にしてまた王倫を東京留守兼開封尹とした。王倫が東京に至り、金の右副元帥の兀朮に会い、地界を交割すると、兀朮は燕京に還った。五月、王倫は汴京より金国に赴き事を議した。初め、兀朮が還ると、密かに金主に言った、「河南の地は本来、撻懶と宗磐が主謀して宋に割与したもので、二人は必ずや密かに彼の国と結んでいる。今、使者は既に汴に至っているが、国境を越えさせてはならない」。王倫には雲中の旧吏で兀朮に隷する者がおり、密かに王倫に告げた。王倫は即ち介を遣わして詳しく朝廷に言上し、備えを乞うた。兀朮は遂に中山府に命じて王倫を拘束し、宗磐及び撻懶を殺した。

十月、王倫は始めて御子林において金主に謁見し、使旨を致した。金主は全く何も答えず、その翰林待制の耶律紹文を宣勘官として、王倫に問うた、「撻懶の罪を知っているか」。王倫は答えて、「知らない」。また問うた、「歳幣について一言もなく、反って地を割ることを求めて来た。汝は只元帥の存在を知っているだけで、上国の存在を知らないのか」。王倫は言った、「先に蕭哲が国書を持って来て、梓宮、太母及び河南の地を帰すことを許し、天下は皆、上国が海上の盟を尋ね、民を休養させることを知っています。使人は命を奉じて両国を通好させるだけです」。館に就いた後、金主は再び紹文を遣わし王倫に諭して言った、「卿が雲中に留まった時は既に帰還の期はなかったが、赦して帰したのに、かつて報いる所がなく、反って我が君臣を離間させようとするのか」。そこで藍公佐を先に帰らせ、歳貢、正朔、誓表、冊命等の事を論じさせ、王倫を拘束して返報を待った。既にして彼を河間に移し、遂に再び派遣しなかった。

十年、金は盟に背き、兀朮らが再び河南を奪取した。王倫は河間に六年居住し、十四年に至り、金は王倫を平灤三路都転運使に任じようとした。王倫は言った、「命を奉じて来たのであり、降伏したのではない」。金はますます威嚇して脅し、使者を遣わして催促したが、王倫はますます強く拒絶した。金はその使者を杖打ち、王倫を絞殺させようとした。王倫は使者に厚く賄賂して少し猶予させ、そこで冠帯を整えて南に向かい、再拝して慟哭し言った、「先臣の文正公(王旦)は直道をもって両朝を輔相し、天下の知るところである。臣は今、命を奉じて留められ、偽職をもって汚そうとしている。臣は敢えて一死を惜しんで命を辱しめようか」。遂に就死した。年六十一。この時、河間で地震が起こり、雹が三日間降り止まず、人々は皆これを哀しんだ。詔して通議大夫を追贈し、その家に金千両、帛千匹を賜った。子の王述は従兄の王遵と共に密かに金の境内に入り、河間に至り、王倫の遺骨を得て帰還し、官が葬事を給した。後に諡して「愍節」とした。

宇文虚中

宇文虚中、字は叔通、成都華陽の人である。大観三年に進士に及第し、州県の官を歴任し、入朝して起居舎人、国史編修官、同知貢挙となり、中書舎人に遷った。

宣和年間、太平の日が長く続き、兵将は驕惰となり、蔡攸、童貫が功を貪って辺境を開き、燕雲の役を起こそうとし、女真を引き入れて契丹を挟撃しようとした。宇文虚中を参議官とした。虚中は廟謨が失策であり、主帥が人に非ず、侮りを受け自ら禍を焚くことになると考え、上書して言った、「用兵の策は、必ず先ず強弱を計り、虚実を策し、彼を知り己を知り、万全を図るべきである。今、辺境には応敵の備えがなく、府庫には数ヶ月の蓄えもない。安危存亡はこの一举にかかっている。どうして軽々しく議することができようか。かつ中国と契丹は講和して今や百年を過ぎ、女真の侵削を受けて以来、本朝に慕い向かい、一切恭順している。今、恭順する契丹を捨てて、羈縻し封殖して我が蕃籬とせず、遠く海外を越えて、強悍なる女真を引き入れ隣域としようとしている。女真は百勝の勢いを藉り、虚喝驕矜し、礼義をもって服させることもできず、言説をもって誘うこともできない。卞荘の両闘の計を持ち、兵を率いて国境を越える。百年の怠惰の兵をもって、新鋭で抗し難き敵に当たらせ、寡謀安逸の将をもって、血肉の林に角逐させようとする。臣は恐れる、中国の禍は寧息の期なきに至るであろうと」。王黼は大いに怒り、集英殿修撰に降格し、戦いを督めることをますます急がせた。虚中は十一策を建て、二十議を上奏したが、皆報いられなかった。

斡離不、粘罕が分道して侵入した。童貫はこれを聞き、憂悶して為す所を知らず、即ち虚中及び范訥らと謀り、闕に赴き議を稟することを遁走帰還の計略とし、九月に汴京に至った。この日、粘罕が太原に迫るとの報が入り、帝は虚中を顧みて言った、「王黼が卿の言を用いなかった。今、金人が両路並び進み、事勢この如し、どうしたものか」。虚中は奏上した、「今日はまず詔を降して己を罪し、弊端を改め、人心を悦ばせ、天意を回らすべきです。そうすれば備禦の事は、将帥が任ずることができます」。即ち虚中に詔を起草させ、おおよそ次のように述べた、「言路は壅蔽され、面諛の声が日に聞こえ、恩幸が権を執り、貪饕が志を得る。上天は震怒するのに朕は悟らず、百姓は怨懟するのに朕は知らない」。また宮人を出すこと、応奉を罷めることなどを言上した。帝は詔を覧て言った、「今日は過ちを改めることを吝しまず、直ちに施行せよ」。虚中は再拝して涙を流した。

時に守禦に適任の人を得難く、熙河の帥姚古と秦鳳の帥种師道を召し、本路の兵を以て鄭・洛に会し、外は河陽を援け、内は京城を衛わしめんと欲す。帝顧みて虚中に謂ひて曰く、「卿は姚古・師道と兄弟の如し、宜しく一使の名を以て其の軍を護るべし」と。遂に虚中を以て資政殿大学士・軍前宣諭使と為す。虚中檄を飛ばして姚古・師道の兵馬を促し、直ちに汴京に赴き応援せしむ。金騎城下に至り、兵を放ちて掠奪し鄭州に至るも、馬忠に敗れ、遂に収斂して一と為る。西路稍く通じ、師道・姚古及び他の西兵並びに汴京に達するを得。虚中も亦馳せ帰り、散卒を収合し、東南兵二万余人を得。便宜を以て致仕官李邈を起し、汴河上従門外に駐兵せしむ。

会に姚平仲金営を劫ひて利あらず、西兵俱に潰え、金人復た兵を引きて城下に逼る。虚中縋りて入る。欽宗人を遣はし使を奉らしめ、劫営は朝廷の意に非ず、乃ち姚平仲の擅に兵を興せるを弁ぜんと欲す。大臣皆行くを肯はざるも、虚中命を承けて即ち都亭驛に往き、金使王汭を見、因りて書を持ち和を議す。濠橋を渡り、道に甲騎水の如く、雲梯・鵝洞地を蔽ふに逢ひ、鋒刃を冒して進む。既に敵営に至り、風埃に露坐し、巳より申に至る。金人矢を注ぎ刃を露はし、周匝に圍繞す。久しくして乃ち軍中に於て康王を見るを得。次日、王に侍して金幕に至り、二太子と称する者を見る。語遜らず、礼節倨傲なり。暮に抵り、人を遣はし虚中に随ひて城に入らしめ、越王・李邦彦・吳敏・李綱・曹晟及び金銀・騾馬の類を要し、又た御筆を以て三鎮の界至を書定せしめ、方て軍を退かんとす。

虚中をして再び往かしめ、必ず康王の帰るを請はしむ。虚中再び出づ。明日、康王に従ひて還る。簽書樞密院事を除す。是より又た三たび往く。金人固より三鎮を要す。虚中泣下りて言はず。金帥色を変ず。虚中曰く、「太宗の殿は太原に在り、上皇の祖陵は保州に在り、詎んぞ割棄を忍びんや」と。諸酋曰く、「樞密稍くも空しからずんば、我も亦稍くも空しからず」と。中国人の「脱空」と称するが如し。遂に兵を解きて北去す。言者和議の罪を以て劾す。青州を知るを罷め、尋に職を落として祠を奉ず。建炎元年、韶州に竄す。

二年、詔して絶域に使する者を求む。虚中詔に応じ、復た資政殿大学士と為し、祈請使と為り、楊可輔之に副ふ。尋に又た劉誨を通問使と為し、王貺を副とす。明年の春、金人並びに帰らしむ。虚中曰く、「命を奉じて北来し二帝を祈請す。二帝未だ還らず、虚中帰る可からず」と。是に於て独り留まる。虚中才藝有り、金人官爵を加ふれば即ち之を受け、韓昉の輩と俱に詞命を掌る。明年、洪皓上京に至り、見て甚だ之を鄙む。累官して翰林学士・知制誥兼太常卿に至り、河内郡開国公を封ぜられ、金太祖の『睿德神功碑』を書し、階を進めて金紫光禄大夫と為り、金人「国師」と号す。然れども是に因りて東北の士皆北に陷るを憤恨するを知り、遂に密かに信義を以て結約し、金人覚えず。

金人每に南侵せんと欲すれば、虚中費財人を労し、江南の荒僻を遠征するも、之を得たるも以て国を富ますに足らずとす。王倫帰りて言ふ、「虚中使を奉ずること日久しく、節を守りて屈せず」と。遂に詔して福州に其の家を存恤せしめ、仍て其の子師瑗をして本路転運判官を添差せしむ。檜虚中の和議を沮むを慮り、悉く其の家を金国に遣はして以て之を牽制す。金皇統四年、承旨に転じ、特進を加へ、礼部尚書に遷り、承旨は故の如し。

虚中才を恃みて軽肆にし、譏訕を好み、凡そ女真人を見れば、輒ち「礦鹵」を以て之を目す。貴人達官、往々積もりて不平と為す。虚中嘗て宮殿の牓署を撰す。本皆嘉美の名なるも、之を悪む者其の字を摘みて以て謗訕と為す。是に由りて媒蘖し其の罪を成し、遂に虚中の謀反を告ぐ。鞫治するも状無し。乃ち虚中の家の図書を羅織して反具と為す。虚中曰く、「死は吾が分なり。図籍に至りては、南来の士大夫家々に之あり。高士談の図書は尤も我が家より多し。豈に亦た反せんや」と。有司風旨に承順し、並びに士談を殺す。虚中老幼百口と同日に焚死を受け、天の為に之が為に晝晦す。淳熙の間、開府儀同三司を贈り、諡して「肅愍」と曰ひ、廟を賜ひて「仁勇」とし、且つ後を置く。是を紹節と為す。官簽書樞密院事に至る。開禧の初、加贈して少保と為し、姓を趙氏を賜ふ。文集世に行はる。

湯思退

湯思退、字は進之、処州の人。紹興十五年、右従政郎を以て建州政和県令を授けられ、博学宏詞科を試み、秘書省正字を除す。是より郎曹に登り、中秘を貳し、史筆を秉る。

二十五年、礼部侍郎より端明殿学士・簽書樞密院事を除され、未幾大政に参ず。先づ是れ、秦檜国に当たり、直を悪み正を醜し、必ず和議に異ならず、己が過を摘まざる者にして、始めて久しく用ひらる。時に思退名位日進み、檜病篤く、参知政事董德元及び思退を臥内に招き、後事を属し、各黄金千両を贈る。德元其の我を以て自外と為すを慮り、敢へて辞せず。思退其の我を以て其の死を期すを慮り、敢へて受けず。高宗之を聞き、思退の金を受けざるを以て、檜の党に非ずとし、信を用ふ。二十六年、知樞密院事を除す。明年、尚書右僕射を拝す。又た二年、左僕射に進む。明年、侍御史陳俊卿其の「巧詐の心を挟み、傾邪の術を済し、其の為す所を観れば、多く秦檜に效ふ。蓋し思退の身を致すは、皆檜父子の恩なり」と論ず。遂に罷め、観文殿大学士を以て祠を奉ず。

隆興元年、符離にて師潰ゆ。思退を召して復た相と為す。諫議大夫王大宝上章して之を論ず。報へず。金帥紇石烈志寧三省・樞密院に書を遺し、海・泗・唐・鄧の四郡を索む。思退和せんと欲し、淮西安撫司幹弁公事盧仲賢を遣はし、樞密院計議・編修官を加へ、報書を持たしめて往かしむ。既に行くに及び、上四郡を許す勿れと戒む。仲賢宿州に至り、僕散忠義威を以て之を懼しむ。仲賢皇恐し、帰りて当に命を稟すべしと言ふ。遂に忠義の為す三省・樞密院の書を持ち来る。上猶ほ海・泗を割くを止めんと欲す。思退遽かに奏して吏部侍郎王之望を通問使と為し、知閤門事龍大淵之に副し、将に四州を割棄せんとす。張浚揚州に在りて之を聞き、其の子栻を遣はし入奏して仲賢の国を辱しむる状無きを言ふ。上怒る。会に侍御周操仲賢の擅に四郡を許すべからざるを論ず。大理に下して究問せしめ、浚を行在に赴かしむ。十二月、思退に左僕射を拝し、浚に右僕射を拝す。

二年、浚金未だ和す可からずとし、上建康に幸するを請ひ、進兵を図る。上手批して王之望等並びに一行の禮物を回す。詔して荊・襄・川・陝に辺備を厳にし、仲賢を郴州に竄す。思退懼れ、宗社の大計を以て奏し、上皇に稟して而る後に事に従ふことを奏請す。上三省に批示して曰く、「金礼無きこと此の如し。卿猶ほ和を言はんと欲す。今日の敵勢、秦檜の時に比ぶるに非ず。卿の議論秦檜に若かず」と。思退大いに駭き、陰に浚を去らんと謀り、遂に之望・大淵をして驛疏して兵少なく糧乏しく、樓櫓・器械未だ備はらず、人言四万の衆を委ねて以て泗州を守るは、計に非ずとせしむ。上頗る之に惑ひ、乃ち浚に行辺せしめ、兵を還して招納を罷む。浚力めて政を罷むるを乞ふ。之を許す。上思退に命じ書を作らしめ、金に四郡を許す。

やがて金が専ら殺戮を事とするに及び、上意は内心悔い、思退はまた密かに孫造をして敵に重兵を以て脅し和を講ぜしむ。上、敵兵あるを聞き、建康都統王彦等をしてこれを防がしめ、なお思退に江・淮の軍を督せしむるも、辞して行かず。僕散忠義、清河口より淮を渡り、言者は極力思退の急に和を講じ備えを撤くの罪を論じ、ついに相を罷め、まもなく永州に責居す。ここにおいて太学生張観等七十二人上書し、思退・王之望・尹穡等の姦邪にして国を誤り、敵を招致するを論じ、これを斬らんことを請う。思退、憂悸して死す。

思退は終始張浚と合わず、浚は雪恥復仇を志とし、思退は毎に保境息民を口実とし、勝ち負けを繰り返すうち、思退の計はついに行われ、しかもついに免れず。敵はすでに海・泗・唐・鄧を得、また商・秦を求めしは、皆思退の力なり。

論じて曰く、白時中の孱佞、徐処仁の姦細、馮澥の邪枉、湯思退の巧詐を以てして、楊時を排し、李綱を誤り、張浚を異にす、その識趣見るべし、小善あれども何ぞ算するに足らんや。王倫は無行を以て使に応ずるといえども、虎口を往来し、しばしば拘留せられ、及び金人官を以てこれを脅すも、ついに受けず、迫せられて死す、悲しいかな。虚中がすなわちその命を受け、これがために官制を定め、赦文を草し、富貴を享くるに較べれば、大いに間あり、ついに軽肆譏諷を以て、その家族を覆し、真に義命を知らざる者かな。冤死と云うも、また自ら取れるなり。豫譲の言を以て律すれば、益々愧ずべきかな。