宋史

列傳第一百二十九 王友直 李寶 成閔 趙密 劉子羽 呂祉 胡世將 鄭剛中

王友直

王友直、字は聖益、博州高平の人。父の佐は、材武をもって称された。友直十二歳の時、父に従って遊歴し、兵法に通暁した。

紹興三十一年、金人が盟約を破ると、友直は豪傑を結集し、回復を志し、その衆に謂って曰く、「権は事を成すための手段であり、権が正に帰すれば、理に何の害があろうか」と。乃ち詔を偽り、自ら承宣使・河北等路安撫制置使に擬し、その余の官職もそれぞれに擬し、州県に遍く勤王を諭した。未だ幾ばくもせず、数万の衆を得、十三軍に編制し、各軍に都統制・提挙・提点・提轄・訓練を置いて統率した。九月戊子、大名を攻撃し、一鼓にしてこれを克ち、衆庶を撫定し、紹興の年号を以て諭した。乃ち王任・馮穀・張昇・牛汝霖と共に朝廷に列奏し、衆を率いて南帰せんと欲した。時に金人は尚ほ揚州に在り、久しく報せず。

友直は寿春より淮を渡って進まんとし、途中で勅書を拝し、衆を率いて敵の腹心を擣ち、掎角して応援することを勉励された。友直を除して検校少保・天雄軍節度使とし、王任を天平軍節度使とし、馮穀を左通議大夫・徽猷閣直学士とし、張昇を右朝奉大夫・直秘閣とし、牛汝霖を通直郎・直秘閣とし、職任は各々旧に従い、便宜行事を得しめた。時に三十二年正月一日なり。

直ちに敵と遭遇し、淮北で相拒した。敵兵ますます衆く来たり、友直は即ち率いる所の部を率いて淮を渡った。既にして金主亮の既に斃れたるを審らかにし、遭遇したるは帰師なりしを悔い、これを襲撃せざるを悔いた。高宗が江上に師を視るに、金陵において謁見し、金帯・章服を賜い、錫賚は二子に及んだ。友直は前功成らずを恥じ、自ら陳し、復州防禦使に改め、忠義軍統制として鎮江都統司に隷せしめられた。

四月を過ぎ、詔して統制張子蓋と共に海州を援けしむ。戦を接するや、友直は一旗を張り、大書して「宋忠義将河北王九郎」とし、自らを表した。潜かに小径より敵陣の背に至り、その輜重に因り、帰路の橋を扼し、左右水に枕せしむ。張子蓋、友直の既に敵の後ろに乗じたるを知り、軍を麾して進撃せしむると、敵潰走し、尽く溺死し、囲み遂に解けた。宜州観察使に転ず。

孝宗、禅を受けしに、友直は統制宋寧と数たび奇を出して転戦した。張浚が江・淮を都督ととくするに、一見してこれを喜び、建康前軍統制に辟す。隆興二年九月、金人辺境を犯すと、宣諭使王之望は命じて前軍をして昭関を戍らしめんとし、友直は時を逾えずして即ち行った。他軍同戍の者、敵至れば、輒ち和州に退保すれども、友直は孤軍を以て堅守した。金兵黄山に駐し、鼓柝相聞ゆるも、益々整暇自ら持す。

乾道元年、鎮江御前諸軍統制に移り、俄かに歩司左軍統制兼左ぎょう衛上将軍に改む。初め、淮北の戦いに、友直母子相失い、ここに至り、訪れて得たり。乃ちその妻李と共に二女を携え、淮より還り、錫予厚く加わる。又明年、御前諸軍統制を除し、祠を請う。手詔を以て慰労す。四年、京口より入覲し、神・龍衛四廂都指揮使に進み、歩司公事を主管し、侍衛親歩軍都指揮使に遷る。朝廷、馬・歩二司を遣わして重地に移屯せしむるを議す。丞相虞允文、先ず歩司を発せんと欲す。友直、馬司を以て先にせんことを請う。及び馬帥李顯忠金陵に屯するに及び、友直、馬軍の道途転徙し、困斃甚だしきを奏す。旨有りて歩司の移免を免ず。八年、承宣使に転じ、旋ちに殿前副都指揮使を除す。

淳熙元年、奉国軍節度使を授かる。四年、殿歩司を総べて茅灘に大閲し、鎧仗精明、号令閑粛なり。明年、殿前指揮使に進み、中都に第を賜い、平江に田を賜い、燕射咸く預かる。晚節宴安し、軍政稍く律を失い、宜州観察使を授かる。尋いで宮観を罷め、信州に徙居す。郊祀の恩を以て内徙し、三たび祠を奉じ、武寧軍承宣使に復す。卒す。年六十一。追って節度使を復し、検校少保を贈る。

李宝

李宝、河北の人。嘗て金に陷り、身を抜いて海道より来帰す。金主亮盟を渝るるに、淮浙の姦民倪詢・梁簡等、金に舟を造らしめ、且つ郷導と為る。金使蘇保衡潞河に於いて舟を造る。明年、保衡を以て統軍と為し、将に海道より浙江を襲わんとす。諜聞し、高宗宰臣に謂いて曰く、「李宝頃に召対に因り、北事を詢ぬるに、歴歴として数うるが如し。且つ一介の身を以て脱身して朝に還り、陛対に一毫の沮懾無し。是れ必ず能く事を為す者なり」と。乃ち浙西路馬歩軍副総管を授け、平江に駐劄し、守臣と共に海舟を督して捍禦せしむ。高宗問う、「舟幾何ぞ」と。曰く、「堅全にして風濤に渉るべきもの、百二十艘」と。「兵幾何ぞ」と。曰く、「僅かに三千、皆閩・浙の弓弩手、正兵に非ず。旗幟甲仗も亦粗く備わる。事急なり。臣願わくは亟に発せん」と。宝に衣帯・鞍馬・尚方の弓刀・戈甲及び銀絹万数を賜う。

八月、江陰に次ぐ。先ず其の子公佐を遣わし、謂いて曰く、「汝潜かに敵の動静虚実を伺え。誤る毋かれ」と。公佐命を受け、即ち将官辺士寧と偕に往く。宝将に行かんとす。軍士争いて言う、西北風力尚ほ勁く、之を迎うるは利に非ずと。宝下令す、敢えて大計を沮むる者は斬ると。遂に蘇州より発し、大洋を行くこと三日、風甚だ悪しく、舟散じて収むべからず。宝忼慨として左右を顧みて曰く、「天は是を以て李宝を試すか。宝の心は鉄石の如く、変ぜず」と。酒を酹ぎて自ら誓うと、風即ち止む。明日、散じたる舟復た集まる。

士寧密州より回り、敵の耗を甚だ悉く得、且つ公佐既に魏勝を挟みて海州を得たるを言う。宝喜んで曰く、「吾が児乃ち翁に負かず」と。士気百倍し、衆を趣して機に乗じて進む。適た大風復た作し、海濤山の如し。宝神色動かず。風稍く殺ぎ、始めて舟を縦して東海に泊し抵る。敵已に雲合し、海州を囲み、旌麾数千里なり。宝兵を麾して岸に登り、剣を以て地を画し、令して曰く、「此れ復た吾が境に非ず。力戦するか否かは汝等に在り」と。因りて槊を握り前行し、敵に遇い奮撃す。将士勇を賈い、一当十せざる者無し。敵意に出でず、亟に引き去る。勝城を出でて迎う。宝其の忠義を奨め、共に功名を立てんことを勉む。勝感泣す。乃ち舟を維ぎて士を犒い、弁者を遣わし四出して降附を招納し、声山東に振う。豪傑王世修の輩の如きは各々旗を署し、義勇を集め、争って応援し、多きは数万人なり。宝名を列して諸朝に上し、檄を所部に発して密の膠西に会せしめ、命じて公佐に郡事を勝に畀えしめ、与に倶に発せしむ。

膠西の石臼島に至ると、敵船は既に海口を出て、唐島に停泊し、僅かに一山を隔てて相対していた。時に北風が盛んで、李宝は石臼の神に祈った。やがて舵楼の中から風が起こり、鐘鐸の音の如く、兵士は皆奮い立ち、船を進めて刃を握り戦いを待った。敵の船を操る者は皆中原の遺民であり、遥かに李宝の船を見て、敵兵を欺いて船中に入らせ、王師の突然の到来を知らせなかった。風が船を疾走させ、山を過ぎて敵に迫り、鼓声が震え響き、海波が躍り上がった。敵は大いに驚き、碇を引き上げ帆を揚げたが、帆は皆油で染めた絹布であり、数里に亘って連なり、風浪が一隅に巻き寄せ、窮屈に束ねられて再び航行の順序も無かった。

李宝は急いで火箭を環状に射掛けるよう命じ、箭の当たった所から煙炎が旋回して起こり、数百艘に延焼した。火の及ばない者は尚も前進して抵抗しようとしたが、李宝は壮士を叱咤して躍り上がり敵船に登らせ、短兵で撃ち刺し、船中で殪した。残りの所謂簽軍は、尽く中原の旧民であり、皆島の岸に登り、甲冑を脱ぎ帰順を申し出たので、故に殺さなかった。然し慌ただしく、船は岸に着けることが叶わず、溺死する者甚だ多かった。大漢軍三千余人を俘虜とし、その帥完顔鄭家奴等六人を斬り、倪詢等を生け捕りにして朝廷に献上し、その統軍の符印と文書、器甲、糧斛を万単位で獲得した。余りの物で兵士が持ち上げられないものは、悉く焼き払い、火は四昼夜消えなかった。

李宝は勢いに乗じて席捲せんとしたが、公佐が切に諫め、金主亮が方に淮を渡り、通州・泰州が既に陥落したと聞けば、遠きを得て近きを失い、且つ腹背の憂い有らんと為す。乃ち軍を還して東海に駐屯し、緩急を視て表裏の援と為す。曹洋に軽舟を遣わして捷報を伝えさせた。上喜んで曰く、「朕独り李宝を用い、果たして功を立て、天下の倡と為した。」詔して褒め諭し、「忠勇李宝」の四字を書き、其の旗幟に標した。静海軍節度使・沿海制置使に除し、金器・玉帯を賜う。

亮は膠西の敗報を聞き、大いに怒り、諸酋を召して三日を以て江を渡ることを約束した。ここにおいて内変が起こり亮を殺した。向に唐島の捷が無ければ、則ち亮の死は期し難く、銭唐の危険は憂うべきであった。李宝の功も亦大なるものなり。

李宝の戦具は精良鋭利であり、宰臣陳康伯は其の長槍・克敵弓弩を取り、所司に式として之を制させた。卒す。検校少保を贈られる。

成閔

成閔、字は居仁、邢州の人。靖康の初め、劉韐が真定の帥となり、勇士を募りて金兵を防がしめ、閔は其の麾下に在り。高宗即位し、閔は数百騎を率いて揚州に至る。会に上南渡し、韓世忠が苗傅を追い及び兀朮を襲い、范汝為を討つに、閔は皆軍中に在り、又力戦して敵を退け、功を積みて武功大夫・忠州刺史に至る。

世忠に従い入見し、世忠は閔を指して曰く、「臣が南京に在りし時、自ら天下に先んずと謂えり。当時に此の人を見せしめば、亦一頭を避けしものを。」上嘉歎し労い勉ます。旋って海州を取る功により、磁州団練使に擢る。召見し、袍帯・錦帛を賜い、加えて玉束帯を贈る。時に方に金と盟し、世忠兵を罷め、入りて樞密使と為り、詔して閔を棣州防禦使・殿前游奕軍統制に進め、歴遷して保寧軍承宣使と為る。

紹興二十四年、慶遠軍節度使に拝す。尋いで母憂に遭い、詔して起復し、其の母に鄭國夫人を贈る。金主亮将に盟を敗らんとし、詔して閔に禁旅三万を提げて武昌に鎮ましめ、湖北の守・漕に命じて砦屋三万間を創りて之を待たしめ、折帛米銭茶引合わせて百余四十万余緡、義倉和糶米六十三万石を発して軍用に備え、仍て金器・剣甲を賜い臨遣す。閔鄂に至り、未だ幾ばくもせず、進みて応城県に屯す。

八月、湖北・京西制置使を除し、両路の軍馬を節制す。九月、京西・河北招討使を兼ぬ。十一月、詔して回りて淮西を援けしむ。閔は帰還を得て喜び、雨を冒して兼程で建康に趨り、士卒多く道中に死し、朝廷の給する犒師の物は奄に己に帰し、士卒に及ばず。士卒怨言有り、閔之を斬る。未だ幾ばくもせず、淮東制置使を除し、鎮江に駐る。既にして言者諸軍皆鎮江に聚まるを論じ、敵出不意にして上流を搗くを恐る、ここにおいて詔して閔に鄂州の張成・華旺の軍を発して回り鄂に駐ましむ。

亮死す、閔兵を引きて江を渡り揚州に趨る。及び金人盱眙より淮を渡り北去するに及び、閔兵を南岸に列ね、軍士の喏声相聞ゆ。金人之を笑いて曰く、「声を寄す成太尉、勤めて護送有れ。」時に虜気既に奪われ、日々王師の至るを虞い、戈甲・粟米を委棄し山の如く積み、諸軍多く之を仰ぎて給す。惟だ閔の軍は多く浙人、素より粟を食せず、死者甚だ衆し。

閔泗州に至り、已に淮東を克復せりと奏す。尋いで朝に入り、凡そ侍従・卿監・閣門・内侍に、皆賂遺有り。左正言劉度之を劾す、猶超えて太尉に拝し、殿前司公事を主管す。尋いで復た御史の論列に為り、太尉を罷め、婺州に居住し、慶遠の節を奪う。乾道の初め、自便を聴し、湖州に帰る。尋いで詔して節を復し、都統として鎮江の諸軍を鎮む。九年、祠を請い、致仕し、平江に園第を治む。

淳熙元年卒す、年八十一。開府儀同三司を贈られる。子十一人。

趙密

趙密、字は微叔、太原清源の人。政和四年、材武を以て崇政殿に試みられ、河北隊将に授けられ、燕に戍る。高宗大元帥として開府し、檄を以て先鋒を統べ京師を援けしむ。

建炎元年、張俊に従い任城の寇李昱を討つ。俊は軽騎で先行し、伏兵に遇う。密は馳せて射て数人を斃し、乃ち脱す。閤門祗候に擢げらる。俊は靖勝軍を置き、密を以て之を統べしむ。賊の董青・越萬・徐明等を平らげ、累功して武節郎・左軍統領に転ず。金兵揚州を陥とす。士民乗輿に随い江を渡る、衆数万、密は水濱に露立し、舟を麾して之を済す。苗傅の変、赤心軍を臨平に破る。金人明州を犯す。俊は密及び楊沂中を遣わし殊死戦を為さしめ、之を敗る。武功大夫に進み、統制に升る。

紹興元年、李成・馬進江淮を擾す。俊復た密を遣わし大いに之を破る。成・進皆北遁す。金帯を賜い、親衛大夫・康州刺史に転じ、涇原馬歩軍を総管す。張莽蕩を平らぐ。尋いで詔して入衛せしむ。十年、金亳・宿を犯す。俊に従い合肥に営し、西路より出づ。時に水潦暴漲し、六昼夜を渉りて始めて宿に達し、敵に遇い、之を敗る。

明年、敵兵を分かち滁・濠を犯す。密進みて之を撃ち、且つ張守忠に命じ五百騎を以て全椒県より出で、篁竹の間に伏せしむ。敵疑い、宵遁す。密乃ち兵を引き六丈河に出で、其の帰路を断ち、又之を敗る。中衛・協忠大夫に進み、和州団練防禦使と為る。尋いで宣州観察使を拝し、龍・神衛四廂都指揮使と為り、侍衛歩軍を主管す。

海寇朱明暴横なり。密張守忠に方略を授けて曰く、「海は陸と異なり、之を窮すれば則ち日月相持す、策の善きに非ず、要は之を拊定するに在り」と。守忠其の計を用い、明降る。定江軍承宣使・崇信軍節度使に進み、年労を以て太尉に転じ、開府儀同三司を拝す。明年、殿前都指揮使を領す。本軍の酒坊六十六所を献じ、積みし銭十万緡・銀五万両を以て軍用を助く。詔して之を奨む。上疏して老いを告げ、万寿観使を以て朝請に奉ず。

隆興二年、少保に進み致仕す。俄に報ず、金復た淮を犯すと。詔して密再び殿前都指揮使と為す。初め、敵声言して航海すと。朝論従官を選び舟師を視せしめ、禁旅を徹して防守せしむ。密動かず、竟に料る所の如し。和議成り、罷めて醴泉使と為す。

乾道元年九月、致仕す。卒す。年七十一。少傅を贈らる。

劉子羽

劉子羽、字は彦修、建の崇安の人、資政殿学士韐の長子なり。宣和末、韐浙東を帥とす。子羽は主管機宜文字を以て其の父を佐く。睦賊を破り、太府・太僕簿を主とし、衛尉丞に遷る。韐真定を守る。子羽辟かれて従う。会う金人入る。父子相誓い死守す。金人抜く能わずして去る。是に由りて名を知らる。直秘閣を除く。京城守られず、韐之に死す。既に喪を免れ、秘閣修撰・池州知州を除く。

書を宰相に抵し、天下の兵勢を論じ、当に秦・隴を以て根本とすべしとす。集英殿修撰・秦州知州に改む。行かず、行在に召し赴き、枢密院検詳文字を除く。

建炎三年、大将范瓊強兵を江西に擁す。之を召すも来らず、来りて又兵を釈かんと肯わず。知枢密院事張浚、子羽と密謀し之を誅す。一日、張俊に命じ千兵を以て江を渡らしめ、他盗を備うるが若くし、皆甲をして来らしむ。因りて俊・瓊及び劉光世を召し都堂に赴き議事せしめ、飲食を設く。食已り、諸公相顧みて未だ発せず。子羽廡下に坐し、瓊覚ゆるを恐れ、黄紙を取りて前に趨り、挙げて以て瓊を麾して曰く、「下れ、敕有り、将軍は大理に詣り置対すべし」と。瓊愕然として為す所を知らず。子羽左右を顧みて擁し輿の中に置き、俊の兵を以て衛し、獄に送る。光世出でて其の衆を撫し、瓊が囲城中に金人に附き二帝を迫り出狩せしめし状を数う。且つ曰く、「誅する所は唯だ瓊のみ、汝等は固より天子自将の兵なり」と。衆皆刃を投じて曰く、「諾」と。旨有りて分ち御営五軍に隷せしむ。頃刻にして定まる。瓊竟に伏誅す。浚此を以て其の材を奇とす。

浚川・陝を宣撫し、子羽を辟き参議軍事とす。秦州に至り、幕府を立て、五路諸将を節度し、規を以て五年にして後出師せんとす。明年、徽猷閣待制を除く。金人江淮を窺うこと急なり。浚禁衛の寡弱を念い、其の兵勢を分撓する所以の計、遂に五路の兵を合して以て進む。子羽本計に非ずとし、之を争う。浚曰く、「吾れ寧ろ此を知らざらんや。顧みるに今東南の事方に急なり、是を為さざるを得ざるのみ」と。遂に北して富平に至り、金人に遇い、戦利あらず。金人勝に乗じて前に進む。宣撫司興州に退き保つ。人情大いに震う。

官属に治を夔州に徙すの策を建つる者有り。子羽之を叱して曰く、「孺子斬るべし。四川全盛、敵入寇を欲すること久し。直に川口に鉄山・棧道の険有るを以て、未だ敢えて遽かに窺わざるのみ。今堅守せず、縦しめて深く入らしめ、而して吾僻く夔・峽に処り、遂に関中と声援相聞かず、進退計を失い、悔い将に何ぞ及ばん。今幸いに敵方に掠を肆にし、未だ郡に近逼せず。宣司但だ興州に留駐し、外に関中の望を繫ぎ、内に全しょくの心を安んずべし。急に官属を遣わし関を出で、諸将を呼召し、散亡を収集し、険隘に分布し、壁を堅く壘を固くし、釁を観て動く。庶幾猶或は以て前愆を補い後咎を贖うべからん。奈何ぞ乃ち此の言を為さんや」と。浚子羽の言に然り。而して諸参佐敢えて行く者無し。子羽即ち自ら請い奉命して北出し、復た単騎を以て秦州に至り、諸亡将を召す。諸亡将命を聞きて大いに喜び、悉く其の衆を以て来会す。子羽呉玠に命じ和尚原に柵し、大散関を守らしめ、而して兵を分かち悉く諸険塞を守らしむ。金人備え有るを知り、引き去る。

明年、金人復た兵を聚め来り攻む。再び玠の為す所に敗る。浚治を閬州に移す。子羽請う独り河池に留まり、諸将を調護し、以て内外の声援を通ぜんと。浚之を許す。明年、玠秦鳳経略使を以て河池に戍り、王彦金・均・房鎮撫使を以て金州に戍る。二鎮皆饑う。興元帥臣糴を閉ざす。二鎮之を病む。玠・彦皆願う子羽の漢中を守るを得んことを。浚乃ち制を承りて子羽を利州路経略使兼興元府知府に拝す。子羽漢中に至り、商を通じ粟を輸す。二鎮遂に安んず。宝文閣直学士を除く。

是の冬、金人金州を犯す。三年正月、王彦守りを失い、退き石泉に保つ。子羽亟に兵を移し饒風嶺を守り、馳せて告げ玠にす。玠大いに驚き、即ち境を越えて東し、日夜三百里を馳せて饒風に至り、営を列ね拒み守る。金人力を悉くし仰ぎ攻む。死傷山の如く積む。更に死士を募り、間道より祖溪関より入り、繞りて玠の後に出づ。玠遽かに子羽を邀えて去らんとす。子羽不可とし、而して玠を留めて同しく定軍山を守らんとす。玠之を難じ、遂に西す。

子羽は興元を焼き払い、三泉県に退いて守り、従う兵は三百に満たず、士卒と共に草の芽や木の皮を取って食し、玠に訣別の書を遺した。

玠は仙人関に在りし時、その愛将楊政が軍門に大呼して曰く、「節使は劉待制に背くべからず、然らずんば、政らもまた節使を見捨てて去らん」と。

玠は遂に間道を通って子羽と会し、子羽は玠を留めて共に三泉を守らんとした。

玠曰く、「関外は蜀の門戸なり、軽々しく棄つべからず」と。

復た仙人関を守りに往く。

子羽は潭毒山の地形が険しく聳え、その上は広平にして水あるを見て、乃ち堡塁を築き、十六日にして成る。

金人は既に至り、営より十数里の距離にあり。

子羽は胡床に据え、塁口に坐す。

諸将泣いて告げて曰く、「此れは待制の坐す所に非ず」と。

子羽曰く、「子羽今日ここに死せん」と。

敵は尋いでまた引き去った。

金人が梁・洋に入って以来、四蜀は再び大いに震動した。

張浚は潼川に移らんと欲したが、子羽は浚に書を遺し、己が此処に在る以上、金人は必ず南せずと述べ、浚は乃ち止めた。

撒離曷は斜谷より北へ去り、子羽は武休においてこれを遮らんと謀ったが、及ばず。

事態が少し落ち着くと、呂祉は密かに上奏して酈瓊及び統制官の靳賽の兵権を罷免するよう求めた。その書吏が酈瓊に漏らしたため、酈瓊は人をやって呂祉の派遣した駅逓を遮らせ、呂祉の言ったことをことごとく知り、大いに怨み怒った。ちょうど朝廷が張俊を淮西宣撫使とし、役所を盱眙に置き、楊存中を淮西制置使とし、劉錡をその副使とし、役所を廬州に置き、酈瓊を行在に召し寄せようとした。酈瓊は恐れ、ついに叛いた。諸将が朝に呂祉に謁見し、着席すると、酈瓊は袖から文書を取り出し、中軍統制官の張璟に示して言った、「諸兵官に何の罪があろうか、張統制がこのような事を朝廷に聞かせるとは」。呂祉はこれを見て大いに驚き、逃げ帰ろうとしたが、間に合わず、酈瓊に捕らえられた。張璟及び兵馬鈐轄の喬仲福、統制の劉永、衡友はこれに死した。酈瓊はついに全軍四万人を率いて淮を渡り劉に降り、呂祉を擁して三塔に至り、淮から三十里の所にいた。呂祉は馬から下りて言った、「劉豫は逆臣である、私がどうして彼に会えようか」。兵士らは呂祉を脅して馬に乗せようとしたが、呂祉は罵って言った、「死ぬならここで死のう」。またその兵士らに言った、「劉豫は逆臣である、お前たちの軍中に英雄がいないはずがない、どうして酈瓊について行くのか」。兵士らはかなり感動し、およそ千余人が取り囲んで立って動かなかった。酈瓊は兵士らの心が動揺するのを恐れ、急いで馬を駆って先に渡り、呂祉は害された。

当時、呂祉の髪を括った帛が呉中に帰った者がおり、その妻の呉氏はその帛を持って自縊し、殉葬した。聞いた者はこれを哀しんだ。慶元年間、詔して廟を立て額を賜い、その忠を表彰したという。

胡世将

胡世将、字は承公、常州晉陵の人、胡宿の曾孫である。崇寧五年の進士に及第した。范汝為が閩を寇すと、世将を監察御史・福建路撫諭使とした。境に入ると、韓世忠が既に賊を平定していた。尚書右司員外郎に遷り、また起居郎に遷り、中書舎人に遷り、三品の服を賜い、修政局を兼ねた。言事者のために職を落とし祠官となった。間もなく、徽猷閣待制・知鎮江府に除され、入朝して礼部侍郎となり、刑部に改められ、出て知洪州となり、江西安撫制置使を兼ねた。建昌の兵変に属し、守卒を殺し、城を嬰いて叛いたので、世将は便宜により兵を発して討ち平定した。兵部侍郎に除され、また知鎮江となった。

間もなく、給事中兼侍講に召され、直学士院となり、また兵部侍郎に遷った。まもなく枢密直学士として出て四川安撫制置使となり、知成都府を兼ねた。宣撫の呉玠が軍に糧が無いと奏請して次々と届いた。世将は命を受けて境に入ると、呉玠と会議を約した。蜀の糧秣輸送は、嘉陵江を千余里遡り、半年かかってようやく届いた。そこで転般摺運の法を用いるよう奏上し、軍の蓄えがやや充実し、公私ともに便利となった。

紹興九年、呉玠が卒すると、世将を宝文閣学士・川陝宣撫使とした。当時関陝は初めて回復したばかりで、朝廷は軍を分けて熙・秦・鄜延の諸道に移し屯駐させた。翌年の夏、金人が同州を陥とし、長安ちょうあんに入り、諸路は皆震動した。蜀の兵は既に分散しており、援軍の声はほとんど絶えていた。そこで大将の呉璘・田晟を派遣して鳳翔より出撃させ、郭浩を奉天より出撃させ、楊政を赤谷より河池に帰らせた。数日も経たないうちに、呉璘は石壁及び扶風で勝利し、金人は逡巡して隴を越えようとせず、分屯していた軍は全軍で帰還することができた。詔して端明殿学士に除した。

十一年の秋、朝廷は再び兵を用いた。ちょうど母の喪にあったが、起復を命じられた。ついに隴州を回復し、岐下の諸屯を破り、また華州・虢州を取ったので、兵威はやや振るった。間もなく、頭に腫瘍ができた。資政殿学士に除して致仕させ、恩数は簽書枢密院事に準じた。卒す、年五十八、命じて有司に葬事を給させた。

鄭剛中

鄭剛中、字は亨仲、婺州金華の人である。進士の甲科に及第し、累官して監察御史となり、殿中侍御史に遷った。剛中は秦檜に朝廷に推薦され、秦檜は和議を主とし、剛中は敢えて言わなかった。宗正少卿に移り、去ることを請うたが、許されず、秘書少監に改められた。

金が侵した疆土を返還すると、秦檜は剛中を宣諭司参謀官として派遣した。帰還すると、礼部侍郎に除された。また剛中を川陝宣諭使として派遣し、諸将に兵を罷めるよう諭し、まもなく陝西分画地界使を充てた。金使の烏陵贊謨が境に入り、階・成・岷・鳳・秦・商の六州をことごとく取ろうとしたが、剛中は力爭して従わなかった。また商・秦の二州だけを取って大散関に境界を立てようとしたが、剛中はまた堅く従わなかった。続いて川陝宣撫副使に除された。

兀朮が人を遣わして和尚原を強く求めたので、剛中は和好を損なうことを恐れ、和尚原は紹興四年以後は呉玠の管轄地ではないとして、秦・商の半分を割き、和尚原を棄てて金に与えた。朝廷は剛中の官名から「陝」の字を除き、四川宣撫副使とした。剛中は蜀を治め、かなり方略があった。宣撫司は旧く綿・閬の間にあったが、胡世将が呉玠に代わると、河池に居を就け、糧秣の補給が続かなかった。剛中は奏上した、利州は潭毒関の内にあり、興州・洋州の諸関と声援相接しているので、司を利州に移すことを請うた。これにより百万の費用を省いた。剛中が初めて着任すると、すぐに一軍の屯駐地を移そうとしたが、大将の楊政が従わなかった。剛中は楊政を呼んで語って言った、「剛中は書生ではあるが、死を畏れない」。声色ともに厲しく、楊政はすぐに命を聴いた。

都統が毎回入謁する時は、必ず庭参してから着席した。呉璘が検校少師に昇進して来謝した時、門番の吏に語り、対等の礼を行うよう乞うた。剛中は言った、「少師は尊いとはいえ、やはり都統制である。もし常礼を変えるならば、軍容を廃することになる」。従来通りに礼を行った。

四川の雑税を免除するよう奏上し、また成都府路の対糴及び宣撫司の激賞銭を減らすよう請うた。当時、剛中は階・成の二州で営田を行い、秦州の境界に至るまで、凡そ三千余頃で、年収十八万斛であった。先に、川口には十万の兵が屯し、三大将に分属していた。呉璘は興州に屯し、楊政は興元府に屯し、郭浩は金州に屯し、皆帥節を建てていた。また統制官で知成州の王彥、知階州の姚仲、知西和州の程俊、知鳳州の楊従儀も沿辺安撫を領していた。剛中は利州を東路・西路に分けるよう請い、興元府・利閬洋巴剣州・大安軍の七郡を東路とし、治所を興元に置き、楊政を安撫使とし、興・階・成・西和・文・隴・鳳の七州を西路とし、治所を興州に置き、呉璘を安撫使とし、郭浩を金・房・開・達州安撫使とし、諸裨将で安撫を領する者は皆罷免するよう命じた。これに従った。夔路の酒禁を弛め、利州銭監を紹興監に復した。当時、軍は既に罷められ、内郡に移屯していたので、剛中は言った、各路それぞれに漕司があるので、都漕は罷めるべきである。これに従った。

秦檜は剛中が蜀で専擅するのを怒り、侍御史の汪勃に命じて四川財賦総領官を置くよう奏上させ、趙不棄をこれに任じ、宣撫司に隷属させなかった。趙不棄が宣撫司に牒を送ると、剛中は怒り、これにより隙ができた。趙不棄はしきりに剛中の陰事を求めて秦檜に言い、秦檜は陽に趙不棄を帰朝させ、それに因んで剛中を召し寄せた。剛中は人に語って言った、「孤危の跡は、ただ上に知られていることを頼みとするのみ」。秦檜は聞いてますます怒り、ついに罷免し、桂陽軍居住を責め、さらに濠州団練副使を責め、復州安置とし、さらに封州に移し、卒した。

論じて言う、紹興の和議が成立して以来、材武善謀の士は、その力を用いる所がなかった。王友直の矯制起兵、李宝の膠西での立功、成閔・趙密は皆将を斬り旗を搴ぐに足り、劉子羽は転戦して屡々勝ち、呂祉は劉豫に従わず、胡世将・鄭剛中は巴蜀はしょくに威を震う。皆中道にして歿したので、これによって宋が興復を克くしえなかったことを知るのである。