宋史

列傳第一百二十六 李顯忠 楊存中 郭浩 楊政

列傳第一百二十六 李顯忠 楊存中 郭浩 楊政

李顯忠

原文李顯忠

李顯忠は、綏徳軍青澗の人である。初めの名は世輔といい、南に帰順した後、賜わって顯忠と名乗った。唐代以来、代々蘇尾九族巡検を世襲していた。初め、その母が産気づいた時、数日たっても分娩が進まなかった。ある僧が門前を通りかかり言うには、「孕んでいるのは奇男子である。剣と矢を母の傍らに置けば、すぐに生まれるであろう。」果たして顯忠が生まれ、蓐の上に立ったので、皆これを異とした。

原文李顯忠,綏德軍青澗人也。初名世輔,南歸,賜名顯忠。由唐以來,世襲蘇尾九族巡檢。初,其母當產,數日不能免,有僧過門曰:「所孕乃奇男子,當以劍、矢置母旁,即生。」已而果生顯忠,立於蓐,咸異之。

十七歳の時、效用に投じ、父の永奇に従って行陣に出入りした。金人が鄜延を侵犯した時、経略使王庶は永奇に間者を募るよう命じ、張琦を得た。もう一人を求めると、顯忠が行くことを請うた。永奇は言った、「お前は経験が浅い。行けば必ず張琦の累いとなるであろう。」顯忠は言った、「顯忠は年こそ若いが、胆気は小さくはありません。必ずや張琦の累いとはならず、張琦とともに任務を果たします。」敵兵が夜、陶穴に宿営していた時、顯忠は穴の中に縋り下り、十七人を得て皆これを殺し、首級二つ、馬二匹を取った。残りの馬は悉くその足を折った。王庶は大いにこれを奇とし、承信郎に補し、隊将に充てた。これによって初めて名を知られるようになった。武翼郎に転じ、副将に充てられた。

原文年十七,投效用,隨父永奇出入行陣。金人犯鄜延,經略王庶命永奇募間者,得張琦;更求一人,顯忠請行。永奇曰:「汝未涉歷,行必累琦。」顯忠曰:「顯忠年小,膽氣不小,必不累琦,當與琦俱。」有敵人夜宿陶穴,顯忠縋穴中,得十七人,皆殺之,取首二級,馬二匹,餘馬悉折其足。庶大奇之,補承信郎,充隊將,由是始知名。轉武翼郎,充副將。

金人が延安を陥落させると、顯忠父子に官職を授けた。永奇は涙を流して言った、「我は宋の臣である。代々国恩を受けてきた。どうして彼らに用いられようか。」ちょうど劉豫よが顯忠に馬軍を率いて東京に赴くよう命じたので、永奇は密かにこれを戒めて言った、「もし機会を得ることがあれば、すぐに本朝に帰れ。私のことを理由に志を二つにするな。事が成れば、私も不朽の名を残すことになろう。」顯忠が東京に至ると、劉麟はこれを喜び、南路鈐轄を授けた。そこで密かにその客の雷燦を遣わし、蠟書をもって行在に赴かせた。やがて劉豫が廃されると、兀朮が一万騎を率いて淮上を馳せ狩猟し、顯忠とただ二人で馬を立てて囲場の中にいた。顯忠は呉俊に命じて淮水の馬で渡れる場所を探させ、兀朮を捕らえて朝廷に帰そうとした。呉俊が戻り、顯忠が馬を馳せてこれを尋ねたが、竹の刺で馬が傷ついたため止めた。兀朮は顯忠に承宣使・同州知州を授けた。

原文金人陷延安,授顯忠父子官。永奇聚泣曰:「我宋臣也,世襲國恩,乃為彼用邪!」會劉豫令顯忠帥馬軍赴東京,永奇密戒之曰:「汝若得乘機,即歸本朝,無以我故貳其志。事成,我亦不朽矣。」顯忠至東京,劉麟喜之,授南路鈐轄,乃密遣其客雷燦以蠟書赴行在。已而豫廢,兀朮以萬騎馳獵淮上,與顯忠獨立馬圍場間。顯忠戒吳俊往探淮水可度馬處,欲執兀朮歸朝。俊還,顯忠馳問之,為竹刺傷馬而止。兀朮授顯忠承宣使、知同州。

顯忠が鄜州に帰省して侍ると、永奇は顯忠に教えて言った、「同州から南山に入れば、それは金人の往来する駅路である。お前はここでその酋長を捕らえ、洛水・渭水を渡り、商州・虢州を経由して朝廷に帰れ。ただちに私に知らせよ。私は兵を挙げて延安を取って帰ろう。」顯忠が同州に赴くと、すぐに黄士成らを遣わし、書を持たせて蜀しょくから呉へ至らせ、朝廷に帰順することを報じた。元帥の撒里曷が同州に来た時、顯忠は計略をもってこれを捕らえ、城を馳せ出た。洛河に至ったが、舟船が遅れて渡ることができず、追撃の騎兵と屡々戦い、皆勝利した。顯忠が高原で休息していると、追撃の騎兵がますます多くなるのを望見した。そこで撒里曷と折った矢を誓いとし、同州の人を殺さず、我が骨肉を害さないことを約束させ、皆これを許した。そこで彼を崖下に推し落としたが、追兵が争って救い、免れた。顯忠は老幼を携えて長駆北進し、鄜城県に至り、急いで人を遣わして永奇に告げた。永奇はすぐに家族を連れて城を出たが、馬趐谷口で金人に追いつかれ、家族二百人が皆害に遇った。この日、天は昏く大雪が降り、延安の人々はこれを聞いて皆涙を流した。

原文顯忠至鄜省侍,永奇教顯忠曰:「同州入南山,乃金人往來驛路,汝可於此擒其酋,渡洛、渭,由商、虢歸朝。第報我知,我當以兵取延安而歸。」顯忠赴同州,即遣黃士成等持書由蜀至吳,報歸朝事。元帥撒里曷來同州,顯忠以計執之,馳出城。至洛河,舟船後期不得渡,與追騎屢戰,皆勝。顯忠憩高原,望追騎益多,乃與撒里曷折箭為誓,不得殺同州人,不得害我骨肉,皆許之,遂推之下山崖,追兵爭救得免。顯忠攜老幼長驅而北,至鄜城縣,急遣人告永奇。永奇即挈家出城,至馬趐谷口,為金人所及,家屬二百口皆遇害。是日,天昏大雪,延安人聞之皆泣下。

顯忠はわずか二十六人で夏国に奔った。夏人が理由を問うと、顯忠は泣き、父母妻子が亡くなったことを詳しく述べ、歯ぎしりして頭を痛め、すぐにでも死にたいと恨み、二十万の兵を得て撒里曷を生け捕りにし、陝西五路を取って夏に帰属させ、顯忠もまた不倶戴天の仇を報いたいと願った。夏主は言った、「そちが功を立てることができるなら、兵を惜しんで貸さぬことはない。」時に「青面夜叉」と号する酋豪がおり、長らく夏国の患いとなっていた。そこで顯忠にこれを図るよう命じた。三千騎を請い、昼夜疾駆し、その陣営に急襲して、これを捕らえて帰った。夏主は大いに喜び、すぐに二十万騎を出し、文臣の王枢、武臣の𠼪訛を陝西招撫使とし、顯忠を延安招撫使とした。時は紹興九年二月十四日であった。

原文顯忠僅以二十六人奔夏國。夏人問故。顯忠泣,具言父母妻子之亡,切齒疾首,恨不即死,願得二十萬人生擒撒里曷,取陝西五路歸於夏,顯忠亦得報不共戴天之仇。夏主曰:「爾能為立功,則不靳借兵。」時有酋豪號「青面夜叉」者,久為夏國患,乃令顯忠圖之。請三千騎,晝夜疾馳,奄至其帳,擒之以歸。夏主大悅,即出二十萬騎,以文臣王樞、武臣𠼪訛為陝西招撫使,顯忠為延安招撫使,時紹興九年二月十四日也。

顯忠が兵を率いて延安に至ると、総管の趙惟清が大声で呼んで言った、「鄜延路は今また宋に帰した。既に赦書がある。」顯忠は官吏とともに赦書を観て列んで拝礼し、顯忠は大声で泣き、衆も皆泣き、百姓の哭声は絶えなかった。そこで旧部の八百余騎を率いて王枢と𠼪訛に会いに行き、これを諭して言った、「顯忠は既に延安府を得た。講和の赦書を見た。招撫使は本部の軍を率いて帰国すべきである。」𠼪訛は従わず、言った、「初め、経略使は兵を乞うて陝西を取るために来た。今ここに至ったのに、我に帰れと言うのか。」顯忠は勢いが叶わないと知り、刀を抜いて𠼪訛を斬りつけたが、及ばず、王枢を捕らえて縛った。夏人が鉄鷂子軍を以て来襲した。顯忠は配下の兵をもってこれを防ぎ、双刀を振るって馳せ、向かうところ敵なく、夏兵は大いに潰え、殺し踏みにじることおよそ一万人、馬四万匹を獲た。顯忠は榜を掲げて兵を募り、「紹興九年」を文書とした。一人を得るごとに馬一匹を与え、十日ほどの間に一万人を得た。皆驍ぎょう勇で若く壮健であった。また、その父母弟侄を害した者を捕らえ、皆東城の内で斬った。鄜州に行き至った時には、既に馬歩軍四万余りを有していた。撒里曷は耀州におり、顯忠が来ると聞いて、一夜のうちに遁走した。

原文顯忠引兵至延安,總管趙惟清大呼曰:「鄜延路今復歸宋矣,已有赦書。」顯忠與官吏觀赦書列拜,顯忠大哭,眾皆哭,百姓哭聲不絕。乃以舊部八百餘騎往見王樞、𠼪訛,諭之曰:「顯忠已得延安府,見講和赦書,招撫可以本部軍歸國。」𠼪訛不從,曰:「初,經略乞兵來取陝西。今既到此,乃令我歸耶?」顯忠知勢不可,乃出刀斫𠼪訛,不及,擒王樞縛之。夏人以鐵鷂子軍來。顯忠以所部拒之,馳揮雙刀,所向披靡,夏兵大潰,殺死蹂踐無慮萬人,獲馬四萬匹。顯忠揭榜招兵,以「紹興九年」為文書。每得一人,予馬一匹,旬日間得萬人,皆驍勇少壯。又擒害其父母弟侄者,皆斬於東城之內。行至鄜州,已有馬步軍四萬餘。撒里曷在耀州,聞顯忠來,一夕遁去。

四川宣撫使の呉玠が張振を遣わして撫諭に来て言うには、「両国は今和好を議している。事を起こしてはならぬ。兵力を考えて行在に赴くがよい。」そこで河池県に至って呉玠に会った。呉玠はこれを慰撫して言った、「忠義をもって朝廷に帰順した者は、君が第一である。」従行の使臣崔臯ら六百余人が庭下に列んで拝礼すると、呉玠はまたこれを慰撫し、銀絹を以て犒賞し、行府に詣でて告身・金帯を受け、指揮使・承宣使に除された。行在に至ると、高宗は再三慰労し、名を賜い加えて賞を与え、また鎮江に田を賜い、崔臯らを将佐に充てた。

原文四川宣撫吳玠遣張振來撫諭云:「兩國見議和好,不可生事,可量引軍赴行在。」遂至河池縣見玠,玠撫之曰:「忠義歸朝,惟君第一。」從行使臣崔臯等六百餘人列拜庭下,玠又撫之,犒以銀絹,詣行府受告敕、金帶,除指揮使、承宣使。至行在,高宗撫勞再三,賜名加賚,又賜田鎮江,以崔臯輩充將佐。

兀朮が河南を侵犯した時、顯忠を招撫司前軍都統制に命じ、李貴とともに霊壁県を破った。兀朮が合肥を侵犯した時、手詔をもって軍を率いて張俊と会するよう命じた。顯忠が孔城鎮に至り、敵と戦ってこれを破った。兀朮は韓常に言った、「李世輔(顯忠)が宋に帰ったが、まだ功を立てていない。この者は敢勇である。しばらく避けるがよい。」そこで廬江を焼いて逃走した。顯忠はこれを追って死戦しようとしたが、張俊は奉旨をもって監護しており、顯忠を失うことを慮り、遂にそれぞれ軍を率いて還った。

原文兀朮犯河南,命顯忠為招撫司前軍都統制,與李貴同破靈壁縣。兀朮犯合肥,手詔以軍與張俊會。顯忠至孔城鎮,與敵戰,敗之。兀朮謂韓常曰:「李世輔歸宋,不曾立功,此人敢勇,宜且避之。」乃焚廬江而走。顯忠欲追之與死戰,俊以奉旨監護,慮失顯忠,遂各以軍還。

太后が臨安に至ると、顯忠は入朝し、保信軍節度使・浙東副総管を加えられた。顯忠は西辺の山川の険易に詳しく、そこで恢復の策を上奏したが、秦檜の意に逆らった。金使が顯忠が密かに人を遣わして境界を越えさせたと言ったため、遂に官を降格させて祠禄を与え、台州居住を命じられた。後に寧国軍節度使に復し、都統制に昇った。

原文太后至臨安,顯忠入覲,加保信軍節度使、浙東副總管。顯忠熟西邊山川險易,因上恢復策,忤秦檜意。金使言顯忠私遣人過界,遂降官奉祠,台州居住。復寧國軍節度使,升都統制。

二十九年、金が盟約を破ったため、詔により顯忠は本部を率いて防禦に当たった。統制官の韋永寿らを遣わし、二百騎を以て安豊軍に至らせ、金将の小韓将軍の兵五千人と大人洲で戦い、これを破った。やがてまた万余りの兵を増やして来襲した。顯忠は騎軍を率いて出撃し、朝から昼まで、気勢は百倍し、大刀を以て敵陣を斬り、敵は支えることができず、殺し捕ること甚だ多く、淮水に追い落とされた者は数えきれなかった。

原文二十九年,金渝盟,詔顯忠以本部捍禦。遣統制官韋永壽等以二百騎至安豐軍,與金將小韓將軍兵五千人戰于大人洲,敗之。俄又增兵萬餘來,顯忠率騎軍出,自旦至午,氣百倍,以大刀斫敵陣,敵不能支,殺獲甚眾,掩入淮者不可計。

金主亮が淮西を侵すと、朝廷は王権に合肥で防がせた。権は和州に退いて守り、さらに軍を棄てて江を渡り、和州は陥落した。金主自ら細軍を率いて和州の雞籠山に駐屯し、采石を渡ろうとした。朝廷は詔を下して顯忠に権の代わりを命じ、虞允文に顯忠への軍の引継ぎを急がせた。軍中は大いに喜び、ここに采石の勝利を得た。詳細は『允文傳』にある。顯忠は軍を沙上に退かせ、楊存中の報せ「車駕が平江に至った。速やかに進軍すべし」を得た。顯忠は精鋭の兵士一万人を選んで江を渡らせ、淮西の州郡をことごとく回復した。軍が横山澗に至ると、金の射雕軍と戦い、統制頓遇は重傷を負い、韋永壽は戦死したが、敵兵は敗走した。金主亮は諸将が命令に従わぬことを厳しく責め、諸将は彼を弑しいして帰還した。この戦役で、顯忠が率いた一万九千八百六人には差等を付けて賞が与えられ、張振の功績が最も優れた。詔して顯忠の五人の子に金帯を賜う。顯忠を淮西制置使・京畿等処招討使に任じ、太尉・寧国軍節度使・主管侍衛馬軍司公事に抜擢し、行在に赴かせた。

原文金主亮犯淮西,朝廷命王權拒於合肥。權退保和州,又棄軍渡江,和州失守。金主親統細軍駐和之雞籠山,將濟采石。朝廷詔以顯忠代權,命虞允文趣顯忠交軍,軍中大喜,於是有采石之捷,語在《允文傳》。顯忠退軍沙上,得楊存中報:「車駕至平江,可速進兵。」顯忠選銳士萬人渡江,盡復淮西州郡。軍至橫山澗,與金射雕軍戰,統制頓遇重傷,韋永壽死之,敵兵敗走。金主亮切責諸將不用命,諸將弑之而還。是役也,顯忠所將一萬九千八百六人行賞有差,張振功為最。詔賜顯忠五子金帶。授顯忠淮西制置使、京畿等處招討使,擢太尉、寧國軍節度使、主管侍衛馬軍司公事,赴行在。

孝宗が即位すると、田百頃を賜い、兼ねて権池州駐劄御前諸軍都統制とし、軍馬を節制させた。隆興元年、淮西招撫使を兼ねた。時に金主褒が新たに立ち、山東・河北の豪傑が蜂起し、耶律諸種の兵数十万が数郡の地を占拠し、太行山の忠義耿京・王世隆らは皆、地を携えて朝廷に帰そうとした。金は恐れ、急ぎ和を請うた。顯忠は密かに金の統軍蕭琦を結んで内応とし、宿・亳から汴に向かって出師し、汴京より関陝を通じることを請うた。関陝が既に通じれば、鄜延一路は顯忠の威名を熟知しているから、必ず皆応じ、かつての旧部曲を起こせば、数万人を得て、以て河東を取ることができると。

原文孝宗即位,賜田百頃,兼權池州駐劄御前諸軍都統制,節制軍馬。隆興元年,兼淮西招撫使。時金主褒新立,山東、河北豪傑蠭起,耶律諸種兵數十萬據數郡之地,太行山忠義耿京、王世隆輩皆欲挈地還於朝。金懼,亟請和。顯忠陰結金統軍蕭琦為內應,請出師自宿、亳趨汴,由汴京以通關陝;關陝既通,則鄜延一路熟知顯忠威名,必皆回應,且欲起其舊部曲,可得數萬人,以取河東。

時に張浚が都督ととく府を開き、四月、顯忠に江を渡って戦を督することを命じた。乃ち濠梁より淮を渡り、陡溝に至ると、琦は約を破り、拐子馬を用いて防ぎ、これと戦って敗った。琦はまた城を背にして陣を列ねたが、顯忠自ら将士を率いて激戦し、琦は敗走した。遂に霊壁を回復し、城に入り、徳意を宣布して一人も殺さず、中原より帰附する者が踵を接した。時に邵宏淵が虹県を囲んで未だ下さず、顯忠は霊壁の降卒を遣わして禍福を説き聞かせると、金の貴戚大周仁及び蒲察徙穆は皆出降した。宏淵は功が己から出ざるを恥じ、また降った千戸が宏淵の卒がその佩刀を奪ったと訴えたので、顯忠は直ちにこれを斬った。ここより二将はますます相容れなくなった。

原文時張浚開都督府,四月,命顯忠渡江督戰。乃自濠梁渡淮,至陡溝,琦背約,用拐子馬來拒,與戰,敗之。琦復背城列陣,顯忠躬率將士鏖戰,琦敗走,遂復靈壁,入城,宣佈德意,不戮一人,中原歸附者踵接。時邵宏淵圍虹縣未下,顯忠遣靈壁降卒開諭禍福,金貴戚大周仁及蒲察徙穆皆出降。宏淵恥功不自己出;又有降千戶訴宏淵之卒奪其佩刀,顯忠立斬之,由是二將益不相能。

六月、兵は宿州城に迫り、金人が防ぎに来たが、顯忠はこれを破り、その左翼都統及び首虜数千人を斬り、二十余里を追撃した。宏淵が至り、顯忠に言うには「招撫は真に関西の将軍なり」。顯忠は営を閉じて士卒を休め、城攻めの計を為そうとしたが、宏淵らは従わなかった。顯忠は麾下の楊椿を率いて城に上り、北門を開き、時を過ぎずしてその城を抜いた。宏淵らは殿軍となり、急がせて、ようやく濠を渡り城に登った。城中で巷戦し、また首虜数千人を斬り、八十余人を擒え、遂に宿州を回復した。寄居官劉時に州事を摂らせた。捷報が聞こえると、顯忠を開府儀同三司・殿前都指揮使に任じ、妻周氏を国夫人に封じた。宏淵は倉庫を開いて士卒を犒労しようとしたが、顯忠は許さず、軍を城外に移し、現銭のみで士卒を労ったので、士卒は皆喜ばなかった。

原文六月,兵傅宿州城,金人來拒,顯忠敗之,斬其左翼都統及首虜數千人,追奔二十餘里。宏淵至,謂顯忠曰:「招撫真關西將軍也。」顯忠閉營休士,為攻城計,宏淵等不從。顯忠引麾下楊椿上城,開北門,不逾時拔其城。宏淵等殿后,趣之,乃始渡濠登城。城中巷戰,又斬首虜數千人,擒八十餘人,遂復宿州。舉寄居官劉時攝州事。捷聞,授顯忠開府儀同三司、殿前都指揮使,妻周氏封國夫人。宏淵欲發倉庫犒士卒,顯忠不可,移軍出城,止以見錢犒士,士皆不悅。

金の帥孛撒が南京より歩騎十万を率いて来り、朝、城に迫り、大陣を列ねた。顯忠自ら軍を率いて城南でこれに遭遇し、数十合戦って、孛撒は大敗し、遂に退走した。統制李福・統領李保は各々その部を率いて退避したので、皆これを斬って示しにした。翌日、敵はさらに兵を増して至った。顯忠は宏淵に併力して挟撃するよう言ったが、宏淵は兵を押さえて動かず、顯忠は独りその部を率いて百余合力戦し、左翼都統及び千戸・万戸を殺し、首虜五千余人を斬った。やがて増兵がまた来て城に迫ると、顯忠は克敵弓を用いて射て退けた。

原文金帥孛撒自南京率步騎十萬來,晨薄城,列大陣。顯忠親帥軍遇于城南,戰數十合,孛撒大敗,遂退走。統制李福、統領李保各以所部退避,皆斬以徇。翼日,敵益兵至。顯忠謂宏淵並力夾擊,宏淵按兵不動,顯忠獨與所部力戰百餘合,殺左翼都統及千戶、萬戶,斬首虜五千餘人。俄增兵復來逼城,顯忠用克敵弓射卻之。

宏淵は衆を顧みて言うには「この盛夏に当たり、清涼の地で扇を揺らすさえ堪え難いのに、まして烈日の中、甲冑を着て苦戦するはどうであろうか」。人心は遂に動揺し、闘志がなくなった。夜になると、中軍統制周宏が鼓を鳴らして大いに騒ぎ、敵兵が来たと偽り、邵世雍・劉侁と各々その部の兵を率いて遁走した。続いて統制左士淵・統領李彦孚も遁走した。顯忠は軍を移して城に入り、殿司前軍統制張訓通・馬司統制張師顔・池州統制荔澤・建康統制張淵は各々遁走して去った。

原文宏淵顧眾曰:「當此盛夏,搖扇於清涼猶不堪,況烈日中被甲苦戰乎?」人心遂搖,無鬥志。至夜,中軍統制周宏鳴鼓大譟,陽謂敵兵至,與邵世雍、劉侁各以所部兵遁;繼而統制左士淵、統領李彥孚亦遁。顯忠移軍入城,殿司前軍統制張訓通、馬司統制張師顏、池州統制荔澤、建康統制張淵各遁去。

金人は虚に乗じてまた来て城を攻めたが、顯忠は力を尽くして防ぎ守り、首虜二千余人を斬り、積み重なった屍は羊馬牆と同じ高さになった。城の東北角の敵兵二十余人が既に百余歩に上ったので、顯忠は軍の持つ斧を取ってこれを斬り、敵はようやく退却した。顯忠は言う「もし諸軍が相与に犄角の勢いをなし、城外より掩撃すれば、敵兵は尽くすことができ、金の帥は擒えることができ、河南の地は指日にして回復できたであろうに」。宏淵はまた言う「金は生兵二十万を増して来る。もし我が軍が返らねば、測り難き変が生ずる恐れあり」。顯忠は宏淵に固い志のないことを知り、勢い孤立できぬと悟り、嘆息して言う「天は未だ中原を平らげようとせざるか。何ぞかくも沮撓するや」。この挙兵で、喪った軍資器械はことごとく尽き、幸いにして金は再び南侵しなかった。顯忠は軍を率いて還り、浚に会い、印を納めて罪を待った。責めて果州団練副使に任じ、潭州に安置された。後に朝廷はその事情を知り、撫州に移した。

原文金人乘虛復來攻城,顯忠竭力捍禦,斬首虜二千餘人,積屍與羊馬牆平。城東北角敵兵二十餘人已上百餘步,顯忠取軍所執斧斫之,敵始退卻。顯忠曰:「若使諸軍相與掎角,自城外掩擊,則敵兵可盡,金帥可擒,河南之地指日可復矣。」宏淵又言:「金添生兵二十萬來,儻我軍不返,恐不測生變。」顯忠知宏淵無固志,勢不可孤立,歎咤曰:「天未欲平中原耶?何沮撓若此!」是舉,所喪軍資器械殆盡,幸而金不復南。顯忠以軍還,見浚,納印待罪。責授果州團練副使,潭州安置。後朝廷知其故,移撫州。

乾道に改元すると、乃ち会稽に還り、防禦使、観察使・浙東副総管を復し、銀三万両、絹三万匹、綿一万両を賜う。台州崇道観を提挙す。召して威武軍節度使・左金吾衛上将軍に除し、京師に邸宅を賜う。上はその状貌魁傑なるを奇とし、閣下に画像を描かせることを命じた。太尉を復す。祠を乞い、興国宮を提挙し、紹興府に居住し、歳ごとに米二千石を賜う。

原文乾道改元,乃還會稽,復防禦使,觀察使、浙東副總管,賜銀三萬兩,絹三萬匹,綿一萬兩。提舉台州崇道觀。召除威武軍節度使、左金吾衛上將軍,賜第京師。上奇其狀貌魁傑,命繪像閣下。復太尉。乞祠,提舉興國宮,紹興府居住,歲賜米二千石。

淳熙四年、行在に召し赴き、万寿観を提挙し、奉朝請す。入見し、真の俸給を与え、内庫の金を賜い、前に賜った邸宅を再び修繕して賜う。七月に卒す。年六十九。開府儀同三司を贈られ、諡して「忠襄」と曰う。

原文淳熙四年,召赴行在,提舉萬壽觀,奉朝請。入見,給真奉,賜內庫金,再葺前所賜第賜之,七月卒,年六十九。贈開府儀同三司,諡「忠襄」。

楊存中

原文楊存中

楊存中、本名は沂中、字は正甫、紹興年間に名を存中と賜う。代州崞県の人。祖宗閔は永興軍路総管で、唐重とともに永興を守り、金人が城を陥落させると、迎え戦って死す。父震は麟州建寧砦を知り、金人が攻めて来ると、また難に死す。

原文楊存中,本名沂中,字正甫,紹興間賜名存中,代州崞縣人。祖宗閔,永興軍路總管,與唐重同守永興,金人陷城,迎戰死之。父震,知麟州建甯砦,金人來攻,亦死於難。

存中は魁梧で沈毅勇猛、少時より機敏で、書を数百言誦し、力は人を絶するものがあった。慨然として人に語るには「大丈夫たるもの武功をもって富貴を取るべし。何ぞ俯首して腐儒たらんや」。ここにおいて孫呉の法を学び、射騎に長じた。宣和末、山東・河北に群盗四方に起こり、存中は募りに応じて賊を撃ち、功を積んで忠翊郎に至る。

原文存中魁梧沈鷙,少警敏,誦書數百言,力能絕人。慨然語人曰:「大丈夫當以武功取富貴,焉用俯首為腐儒哉!」於是學孫吳法,善射騎。宣和末,山東、河北群盜四起,存中應募擊賊,積功至忠翊郎。

靖康元年、金人が再び汴京を囲むと、諸道の兵が王事に勤め、存中は張俊・田師中とともに信徳府守臣梁揚祖に従って一万の兵を率いて入援し、後に張俊の部曲に属した。上将を俊に問うと、俊は存中を以て答えた。召し見て、袍帯を賜う。時に元帥府は草創で、存中は昼夜寝所を扈衛し、片時も側を離れなかった。帝はその忠謹なるを知り、親しくこれを信じた。劇賊李昱が任城を占拠し、久しく陥とせず、存中は数騎で入り、数百人を撃殺した。帝は高みに乗って望み見ると、甲冄ことごとく赤く、重傷を負ったかと思った。召して視させると、皆賊の血に汚れており、これを壮とし、酒を飲ませて言うには「この血漢に酌め」。存中は再び往かんことを請うたが、帝はこれを止めた。存中は言う「この賊は胆が碎けた。即ち成擒とすべし」。遂にこれを大破し、任城を回復し、閤門祗候に遷る。

原文靖康元年,金人再圍汴京,諸道兵勤王,存中與張俊、田師中從信德府守臣梁揚祖以萬兵入援,後隸張俊部曲。上問將於俊,俊以存中對。召見,賜袍帶。時元帥府草創,存中晝夜扈衛寢幄,不頃刻去側。帝知其忠謹,親信之。劇賊李昱據任城,久不克,存中以數騎入,擊殺數百人。帝乘高望見,介胄盡赤,意其被重創。召視之,皆汙賊血,壯之,飲以酒,曰:「酌此血漢。」存中請復往,帝止之。存中曰:「此賊膽碎,即成擒矣。」遂大破之,復任城,遷閤門祗候。

建炎二年、嘉興にて賊徐明を討ち、先鋒として登城す。主帥城を屠らんとすれど、存中力諫して止め、渠魁を戮するのみにて、郡これによりて全うす。栄州刺史に遷る。高宗南渡し、勝捷軍を以て張俊に従い呉門を守る。苗傅・劉正彦の変、また俊に従い難に赴く。貴州団練使に遷り、尋いで御前右軍統領と為る。金人明州を攻むるも、また俊に従い田師中・趙密と共に殊死戦し、これを破る。奇功により文州防禦使・御前中軍統制に遷る。

原文建炎二年,討賊徐明於嘉興,先登。主帥將屠城,存中力諫止之,戮其渠魁而已,郡賴以全。遷榮州刺史。高宗南渡,以勝捷軍從張俊守吳門;苗、劉之變,又從俊赴難。遷貴州團練使,尋為御前右軍統領。金人攻明州,又從俊與田師中、趙密殊死戰,破之。以奇功遷文州防禦使、御前中軍統制。

紹興元年、俊に従い李成を討つ。諸将議するに、多くは分道して進まんと欲す。存中曰く「賊勢かくの如し。兵分かれば則ち力弱し。又諸将位均しく勢敵す。招討これを督せざれば、必ず相用いられじ」と。俊然りとす。軍を整えて豫章に至り、存中兵数千を率い、首に賊を玉隆観に破り、筠州に追う。賊の驍将、衆十万を以て来援し、河を夾みて営す。存中俊に謂ひて曰く「彼衆我寡なり。之を撃つには奇を用うべし。騎兵を以て属せんことを願ふ。公は歩兵を以て前に居れ」と。俊これに従ふ。存中夜に枚を銜みて筠河を渡り、西山より出で、馳せ下りて賊を撃つ。俊歩兵を以て夾攻し、八千人を俘ふ。諸将夜に存中に見えて曰く「戦未だ休まず、降卒多し。忽ち変有らば奈何せん。尽く殲さざるべからず」と。存中曰く「降を殺すは吾忍びず」と。諸将転じて俊に告ぐ。竟夜に之を坑す。勝に乗じて九江に追ひ至り、成遂に遁去す。宣州観察使に遷る。

原文紹興元年,從俊討李成。諸將議,多欲分道進,存中曰:「賊勢如此,兵分則力弱,又諸將位均勢敵,非招討督之,必不相為用。」俊然之。整軍至豫章,存中率兵數千,首破賊於玉隆觀,追至筠州。賊驍將以眾十萬來援,夾河而營。存中謂俊曰:「彼眾我寡,擊之當用奇,願以騎見屬,公以步兵居前。」俊從之。存中夜銜枚渡筠河,出西山,馳下擊賊,俊以步兵夾攻,俘八千人。諸將夜見存中曰:「戰未休,降卒多,忽有變,奈何?非盡殲之不可。」存中曰:「殺降吾不忍。」諸將轉告俊,竟夜坑之。乘勝追至九江,成遂遁去。遷宣州觀察使。

二年春、神武中軍統制に進む。宰相呂頤浩、袖中に敕を懐きて存中に授く。俊、存中を軍中に留めんと奏す。上曰く「宿衛帥を欠く。朕の選ぶ所、易ふべからざるなり」と。存中亦固く辞し、且つ謂ひて曰く「神武諸帥、韓世忠・張俊の如きは、皆貴く旄鉞を擁し、名望至って重し。臣が如き么麼、一旦位を以て之と抗せば、実に自ら安からず」と。許さず、中使を遣わし宣押し、乃ち視事す。兼ねて宿衛親兵を提挙す。時に中軍の卒五千に満たず、疲癃の者半ばを居む。存中、神武の卒にて外に借り出だされたる者を拘へ軍中に帰せんことを請ふ。是によりて軍政漸く修まる。

原文二年春,進神武中軍統制,宰相呂頤浩袖敕以授存中。俊奏留存中軍中,上曰:「宿衛乏帥,朕所選,為不可易也。」存中亦固辭,且謂:「神武諸帥如韓世忠、張俊,皆貴擁旄鉞,名望至重,如臣么麼,一旦位與之抗,實不自安。」不許,遣中使宣押,乃視事。兼提舉宿衛親兵。時中軍卒不滿五千,疲癃者居半。存中請拘神武卒借出於外者歸軍中,由是軍政浸修。

三年、厳州の妖賊繆羅、白馬源に拠り、王官を殺す。存中これを討ち平らぐ。帯御器械を除し、保信軍承宣使を加へ、権発遣鄜延路馬歩軍副総管と為す。

原文三年,嚴州妖賊繆羅據白馬源,殺王官,存中討平之。除帶御器械,加保信軍承宣使、權發遣鄜延路馬步軍副總管。

六年、龍神衛四廂都指揮使・密州観察使と為る。是に先立ち、張浚師を視、淮を渡り以て劉豫を図らんと謀り、韓世忠を用いるに倚る。世忠淮陽を囲み、浚に従ひ張俊の将趙密を助けと乞ふ。俊これを拒む。趙鼎浚に語りて曰く「世忠の欲する所は趙密のみ。存中武勇、密に減ぜず。何ぞ存中をして之を助けしめざる」と。浚朝に請ふ。故に是の命有り。ここに於て存中、八隊万人を以て、督府に趨り世忠を助く。

原文六年,為龍神衛四廂都指揮使、密州觀察使。先是,張浚視師,謀渡淮以圖劉豫,倚韓世忠為用。世忠圍淮陽,從浚乞張俊將趙密為助,俊拒之。趙鼎語浚曰:「世忠所欲者趙密爾,存中武勇,不減於密,盍令存中助之。」浚請於朝,故有是命。於是存中以八隊萬人,趨督府助世忠。

十月、存中劉猊と藕塘に戦ひ、大いにこれを破る。猊の初め入るや、淮西宣撫使劉光世廬州を棄て、太平に退き保たんと欲す。賊衆十万已に濠州・寿州の間に次ぐ。浚張俊をして之を拒がしめ、存中をして泗州に往き俊と合せしむ。泗に至るに及びては、則ち光世已に廬州を捨て去れり。浚人を遣わし之を諭して曰く「一人江を渡らば、即ち斬り以て徇せん」と。光世已むを得ず廬州に還り兵を駐め、存中と相応ず。賊先づ定遠県を犯す。存中兵二千を以て越家坊に襲ひ破る。既にして猊の兵と藕塘に遇ふ。賊山に拠り陣を列ね、矢雨の如く下る。存中急ぎ之を撃ち、且つ統制呉錫をして勁騎五千を以て其の陣を突かしむ。陣乱る。存中大軍を鼓して之に乗じ、自ら精騎を以て其の脅を衝き、大呼して曰く「賊破れり」と。賊錯愕して視るに駭く。前軍統制張宗顔泗より来たり、背に乗じて之を撃つ。賊大いに敗る。猊首を以て謀主李愕に抵りて曰く「適に髯将軍を見る。鋭く当たるべからず。果たして楊殿前なり」と。即ち数騎を以て遁去す。余党万人僵立して措く所を知らず。存中馬を躍らせて之を叱す。皆怖れて降る。麟順昌に在り、孔彦舟方に光州を囲む。之を聞き皆砦を抜き遁去す。北方大いに恐る。得る所の賊舟数百艘、車数千両。

原文十月,存中與劉猊戰於藕塘,大破之。猊之初入也,淮西宣撫使劉光世欲棄廬州,退保太平。賊眾十萬已次濠、壽間,浚命張俊拒之,使存中往泗州與俊合。及至泗,則光世已舍廬去。浚遣人諭之曰:「一人渡江,即斬以狥。」光世不得已還廬駐兵,與存中相應。賊先犯定遠縣,存中以兵二千襲敗於越家坊。既而與猊兵遇藕塘,賊據山列陣,矢下如雨。存中急擊之,且使統制吳錫以勁騎五千突其陣。陣亂,存中鼓大軍乘之,自以精騎衝其脅,大呼曰:「破賊矣!」賊錯愕駭視。前軍統制張宗顏自泗來,乘背擊之,賊大敗。猊以首抵謀主李愕曰:「適見髯將軍,銳不可當,果楊殿前也。」即以數騎遁去。餘黨萬人僵立失措,存中躍馬叱之,皆怖而降。麟在順昌,孔彥舟方圍光州,聞之皆拔砦遁去,北方大恐。所得賊舟數百艘,車數千兩。

捷報聞こゆ。帝中使を遣わし労ひ賜ふ。宰執に謂ひて曰く「卿輩始めて朕の人を得たるを知るなり」と。保成軍節度使・殿前都虞候を除し、尋いで馬歩帥を兼領す。存中奏す「祖宗三衙を置き、鼎の如く列り相い制す。今臣をして独り総べしめんは、故事に非ざるなり」と。允さず。七年、淮南西路制置使と為り、将に酈瓊諸軍を撫定せんとすれど、果たして行はれず。語は『王德伝』に在り。九年、殿前副都指揮使に遷る。

原文捷聞,帝遣中使勞賜,謂宰執曰:「卿輩始知朕得人也。」除保成軍節度使、殿前都虞候尋兼領馬步帥。存中奏:「祖宗置三衙,鼎列相制,今令臣獨總,非故事也。」不允。七年,為淮南西路制置使,將以撫定酈瓊諸軍,不果行,語在《王德傳》。九年,遷殿前副都指揮使。

十年、金人盟に叛き河南を取る。存中を淮北宣撫副使と為し、兵を率ゐて宿州に至らしむ。歩軍を以て泗に退き屯す。金人詭令を以て来り告げて、敵騎数百柳子鎮に屯すと。存中即ち之を撃たんと欲す。或いは以て不可と為すも、存中聴かず。王滋・蕭保に千騎を留めて宿を守らしめ、自ら五百騎を将ひて夜柳子鎮を襲ふ。黎明、敵を見ずして還る。金人精兵を以て帰路に伏せしむ。存中之を知り、遂に横に奔りて潰ゆ。参議官曹勳、存中の存亡を知らず、以て聞こゆ。朝廷震恐し、ここに於て権宜退保の命有り。既にして存中寿春より淮を渡り泗に帰る。人心始めて安んず。冬、兵を率ゐて行在に還る。

原文十年,金人叛盟取河南,命存中為淮北宣撫副使,引兵至宿州,以步軍退屯於泗。金人詭令來告敵騎數百屯柳子鎮。存中欲即擊之,或以為不可,存中不聽。留王滋、蕭保以千騎守宿,自將五百騎夜襲柳子鎮,黎明,不見敵而還。金人以精兵伏歸路,存中知之,遂橫奔而潰。參議官曹勳不知存中存亡,以聞,朝廷震恐,於是有權宜退保之命。既而存中自壽春渡淮歸泗,人心始安。冬,引兵還行在。

十一年、兀朮順昌の敗を恥じ、復た来侵を謀る。詔して大いに兵を淮西に合し以て之を待たしむ。ここに於て存中殿司の兵三万を以て卒に淮に戍り、金人と柘皐に戦ひ、之を敗る。時に張俊宣撫使と為り、存中副使と為り、劉錡判官と為り、王徳都統制と為り、田師中・張子蓋統制官と為る。金人拐子馬を以て翼を進む。存中曰く「敵弓矢を恃む。吾之を屈する有り」と。万人をして長斧を操らしめ、牆の如くして進ましむ。諸軍鼓噪して奮撃す。金人大いに敗れ、紫金山に退き屯す。是の役、将士九百人を失ひ、金人の死者万を以て計ふ。而して濠州の囲猶未だ解けず。

原文十一年,兀朮恥順昌之敗,復謀來侵。詔大合兵於淮西以待之。於是存中以殿司兵三萬卒戍淮,與金人戰於柘皐,敗之。時張俊為宣撫使,存中為副使,劉錡為判官,王德為都統制,田師中、張子蓋為統制官。金人以拐子馬翼進,存中曰:「敵恃弓矢,吾有以屈之。」使萬人操長斧,如牆而進,諸軍鼓噪奮擊,金人大敗,退屯紫金山。是役也,失將士九百人,金人死者以萬計,而濠圍猶未解。

張俊と楊存中、劉錡は先に退却を議す。時に濠州の路が既に通じたとの報あり、張俊は劉錡に謂ひて曰く、「吾は楊太尉と淮上に兵を耀かし、濠梁の民を安撫し、宣化を取つて金陵に帰り、楊太尉は則ち瓜洲を渡り臨安に還らんと欲す」と。翌日、二帥を行かしむ。諜報に金が濠を攻むること甚だ急なりとあり、倉皇として復た戻り、劉錡を邀へて黄連埠に会す。濠より六十里、城陥落せしを聞き、楊存中、劉錡を召して之を謀る。劉錡、楊存中に謂ひて曰く、「何を以て此を処せん」と。楊存中曰く、「戦ふのみ。相公と太尉は後に在り、存中は当に前に居らん」と。劉錡曰く、「本来濠を救はんとす。濠既に已に失せり。進むに依る所無く、人帰心を懐き、勝気已に索む。此れ危き道なり。師を退けて険に拠り、其の去るを俟ち、後図と為すに若かず」と。諸将皆曰く、「善し」と。鼎足の如くにして営し、人を遣はして敵を俟つ。曰く、「既に去れり」と。張俊自ら功と為し、劉錡に往く毋かれと謂ひ、楊存中に命じて王徳と偕に濠に至らしむ。陣を列する未だ定まらず、煙城中に起こり、金人の伏騎万余両翼を分ちて出づ。楊存中、王徳を顧みて曰く、「如何」と。王徳曰く、「徳は小将、焉んぞ敢へて事に預からん」と。楊存中、策を以て軍を麾して曰く、「那回(戻れ)!」と。諸軍、其の走らしむるを令と為すと以為ひ、遂に散乱して南に奔り、復た紀律無し。金人追ひ殺すこと甚だ衆し。後一日、韓世忠の大軍至るも、已に及ぶこと無し。楊存中乃ち宣化より江を渡り行在に帰る。検校少保、開府儀同三司を加へ、兼ねて殿前都指揮使を領す。蓋し柘皐の功を録し、濠梁の敗を掩ふなり。

原文俊與存中、錡先議班師。會有云濠路已通者,俊謂錡曰:「吾欲與楊太尉耀兵淮上,安撫濠梁之民,取宣化歸金陵,楊太尉則渡瓜洲還臨安。」明日,命二帥行。諜報金攻濠甚急,倉皇復回,邀錡會於黃連埠,距濠六十里,聞城陷矣,召存中、錡謀之。錡謂存中:「何以處此?」存中曰:「戰爾,相公與太尉在後,存中當居前。」錡曰:「本來救濠,濠既已失,進無所依,人懷歸心,勝氣已索,此危道也。不若退師據險,俟其去,為後圖。」諸將皆曰:「善。」鼎足而營,遣人俟敵,曰:「已去矣。」俊自以為功,謂錡毋往,命存中與德偕至濠。列陣未定,煙起城中,金人伏騎萬餘分兩翼出。存中顧德曰:「何如?」德曰:「德小將,焉敢預事?」存中以策麾軍曰:「那回!」諸軍以為令其走也,遂散亂南奔,無復紀律,金人追殺甚眾。後一日,韓世忠大軍至,已無及矣。存中乃自宣化渡江歸行在。加檢校少保、開府儀同三司兼領殿前都指揮使,蓋錄柘皐之功而掩濠梁之敗也。

十二年、徽宗の梓宮を永固陵に攢す。楊存中に命じて都護と為す。事竣りて、少傅を拝す。保傅を以て管軍と為すは楊存中より始まる。十四年、楊存中太学に詣で先聖を謁せんことを請ふ。帝曰く、「学校既に興り、武人も亦た崇尚を知る。漢の羽林士の皆『孝経』に通ぜしが如く、況んや其の他の者をや」と。二十年、恭国公に封ず。二十八年、少師を拝し、恩数枢密使に視す。楊存中、凡そ重地には皆統制官有るも、独り荊・襄に之無きを以て、朝に請ふ。是に於て荊南・襄陽初めて諸統制を置く。

原文十二年,徽宗梓宮攢永固陵,命存中都護。竣事,拜少傅,以保傅為管軍自存中始。十四年,存中請詣太學謁先聖,帝曰:「學校既興,武人亦知崇尚,如漢羽林士皆通《孝經》,況其他乎?」二十年,封恭國公。二十八年,拜少師,恩數視樞密使。存中以凡重地皆有統制官,獨荊、襄無之,請於朝,於是荊南、襄陽初置諸統制。

楊存中殿巖に在ること凡そ二十五載、権寵日盛なり。太常寺主簿李浩、敕令所刪定官陸游、司封員外郎王十朋、殿中侍御史陳俊卿相継ぎて以て言ふ。三十一年、罷めて太傅・醴泉観使と為し、同安郡王に進封し、玉帯を賜ひ、朔望に朝す。

原文存中在殿巖凡二十五載,權寵日盛,太常寺主簿李浩、敕令所刪定官陸游、司封員外郎王十朋、殿中侍御史陳俊卿相繼以為言。三十一年,罷為太傅、醴泉觀使,進封同安郡王,賜玉帶,朝朔望。

時に金主亮に南侵の意有り。楊存中備敵十策を上る。歩帥趙密、楊存中の権を奪はんと謀り、因りて喜功生事と指す。楊存中之を聞き、上章して免ぜんことを乞ふ。趙密竟に之に代る。未だ幾もなく、辺声日急なり。九月、詔して楊存中を御営宿衛使と為す。劉汜瓜洲に於て戦敗す。楊存中に命じて京口に往き、江を守るの計と為す。虞允文采石より来会す。楊存中之と協力して敵を拒ぐ。敵渡ること能はず。金主亮死す。虞允文と軽舟にて江を渡り以て敵を伺ふ。金人の和を請ふに及び、楊存中其の新主の命を得るを俟ち、遽に之を許す毋かれと奏す。

原文時金主亮有南侵意,存中上備敵十策。步帥趙密謀奪存中權,因指為喜功生事。存中聞之,上章乞免,密竟代之。未幾,邊聲日急,九月,詔存中為御營宿衛使。劉汜戰敗於瓜洲,命存中往京口,為守江計。虞允文自采石來會,存中與之協力拒敵。敵不能濟。金主亮死,與允文輕舟渡江以伺敵。及金人請和,存中奏俟彼得新主之命,無遽許之。

帝建康に如く。詔して楊存中に扈蹕せしむ。因りて宰相に語りて曰く、「楊存中は唯命に東西し、忠二つ無し。朕が郭子儀なり」と。金使復た和を請ふ。楊存中江口に之を拘へ、書を移して審問し、若し能く我が族属を帰し、旧壤を還し、歳幣を損じ、白溝の界を復して以て兄弟の好を通ぜば、是くの如く則ち和議従ふ可し。然らずんば、請ふ其の使を斬り、亟に恢復を図らんと。会に駕還る。楊存中を以て江・淮・荊・襄路宣撫使と為す。給・舍黄を書かず。命遂に寝す。未だ幾もなく、仍ひ奉祠す。

原文帝如建康,詔存中扈蹕,因語宰相曰:「楊存中唯命東西,忠無與二,朕之郭子儀也。」金使復請和,存中請拘之江口,移書審問,若能歸我族屬,還舊壤,損歲幣,復白溝之界,以通兄弟之好,如是則和議可從;不然,請斬其使,亟圖恢復。會駕還,以存中為江、淮、荊、襄路宣撫使,給、舍不書黃,命遂寢。未幾,仍奉祠。

隆興元年、王師符離に於て潰ゆ。復た楊存中を起して御営使と為す。二年、金人再び関に入る。蜀の和尚原を割きて以て之に畀へんと議す。楊存中入対して曰く、「和尚原は隴右の藩要なり。敵之を得ば、則ち以て漢川を睥睨す可し。我之を得ば、則ち以て秦雍に兵を下す可し。曩に金人に予ふを議し、呉璘力争して従はざりき。今璘遠くに在り、知るに及ばず。臣若し言はざれば、特だ陛下に負ふのみに非ず、亦た璘に愧づ有り。近者、王師尽く鋭を尽くして後に得たり。願くは棄つること毋かれ」と。

原文隆興元年,王師潰于符離,復起存中為御營使。二年,金人再入關,議割蜀之和尚原以畀之。存中入對,曰:「和尚原,隴右之藩要也。敵得之,則可以睥睨漢川;我得之,則可以下兵秦雍。曩議予金人,吳璘力爭不從。今璘在遠,不及知。臣若不言,非特負陛下,亦有愧於璘。近者,王師盡銳而後得,願毋棄。」

未だ幾もなく、金人復た淮甸を攻む。詔して楊存中に都督江・淮事を同ぜしむ。湯思退罷む。都督に昇じ、陛辞に賜坐し、玉鞍勒を賜ふ。時に諸軍各分地を守り、相統ーせず。楊存中諸将を集めて之を調護す。是に於て始めて更相援け合ふ。帝親しく劄を賜ひて曰く、「諸帥協和し、互いに策応す。卿が力なり」と。会に金兵已に深く入る。朝議淮を捨て江を保たんと欲す。楊存中不可を堅持し、乃ち已む。金兵揚州に在り。或ひは楊存中を勧めて之を撃たしむ。楊存中渡ることを敢へず、独り江に臨み壘を固くして以て之を老いさせむ。

原文未幾,金人復攻淮甸,詔存中同都督江、淮事。湯思退罷,升都督,陛辭,賜坐,賜玉鞍勒。時諸軍各守分地,不相統一,存中集諸將調護之。於是始更相為援。帝親劄賜之曰:「諸帥協和,互相策應,卿之力也。」會金兵已深入,朝議欲舍淮保江,存中持不可,乃已。金兵在揚州,或勸存中擊之。存中不敢渡,獨臨江固壘以老之。

金人尋いで盟を請ふ。乾道元年師を班し、昭慶軍節度使を加へ、復た奉祠す。時に屯田を興す。楊存中楚州に在る私田三万九千畝を献ず。二年、卒す。年六十五。太師を以て致仕し、和王を追封し、諡して「武恭」と曰ふ。高宗旧臣を追念し、之が為に涕を出だし、賻銭十万。高宗諸将を仮借すれども、楊存中を眷すること尤だ深し。嘗て曰く、「朕、存中に於て、之を撫綏すること子弟に過ぎたり」と。濠・廬の役、親筆して之を戒めて曰く、「若し進むに便せずんば、当に行軍法せん」と。趙密殿帥を代領するに、則ち唐の崔祐甫の王駕鶴の兵権を奪ひし事を挙げ、豫め大臣を戒む。事竣るに及び、又た曰く、「楊存中の罷むるや、朕安んじて寝ること三夕有ること無し」と。

原文金人尋請盟。乾道元年班師,加昭慶軍節度使,復奉祠。時興屯田,存中獻私田在楚州者三萬九千畝。二年,卒,年六十五。以太師致仕,追封和王,諡「武恭」。高宗追念舊臣,為之出涕,賻錢十萬。高宗假借諸將,眷存中尤深,嘗曰:「朕於存中,撫綏之過於子弟。」濠、廬之役,親筆戒之曰:「若不便進,當行軍法。」趙密代領殿帥,則舉唐崔祐甫奪王駕鶴兵權事,豫戒大臣。及竣事,又曰:「楊存中之罷,朕不安寢者三夕。」

楊存中天資忠孝敢勇、大小二百余戦、身に五十余創を被る。宿衛出入四十年、最も過寡し。孝宗旧臣と為すを以て、尤も礼異し、常に郡王と呼びて名を呼ばず。父・祖及び母皆死難す。楊存中既に顕はれ、朝に請ふ。宗閔に諡して「忠介」、震に諡して「忠毅」とし、廟を賜ひて「顕忠」「報忠」と曰ふ。又た家廟・祭器を以て請ふ。遂に五世を祭るを許す。前に無き所なり。祖母劉蜀・隴に流落す。楊存中日夜祠に祷り訪問し、間関数千里、卒ひに迎へて以て帰る。軍を御するに寛にして紀有り。用ふる将士は、専ら才勇を以て選び、部曲の旧を私せず。李顕忠罪を以て斥けらる。楊存中統制官と為すを奏す。後名将と為る。嘗て克敵弓は雖も勁なりと雖も蹶張難しと、遂に意を以て馬皇弩を創る。思巧製工、発し易く中ること遠し。人其の精を服す。嘗て鳳山に居を営む。十年にして就る。山川の勝を極む。後朝廷に献じ、更に室を築かしむ。又た湖山の間に園亭を葺く。高宗為に「水月」の二字を書す。居る所閣を建て以て御書を蔵す。孝宗題して「風雲慶会之閣」と曰ふ。

原文存中天資忠孝敢勇,大小二百餘戰,身被五十餘創。宿衛出入四十年,最寡過。孝宗以為舊臣,尤禮異之,常呼郡王而不名。父、祖及母皆死難,存中既顯,請于朝,宗閔諡「忠介」,震諡「忠毅」,賜廟曰「顯忠」、曰「報忠」。又以家廟、祭器為請,遂許祭五世,前所無也。祖母劉流落蜀、隴,存中日夜禱祠訪問,間關數千里,卒迎以歸。御軍寬而有紀,所用將士,專以才勇選,不私部曲之舊。李顯忠以罪斥,存中奏為統制官,後為名將。嘗以克敵弓雖勁而蹶張難,遂以意創馬皇弩,思巧製工,發易中遠,人服其精。嘗營居鳳山,十年而就,極山川之勝,後獻於朝廷,更築室焉。又葺園亭於湖山之間,高宗為書「水月」二字。所居建閣以藏御書,孝宗題曰「風雲慶會之閣」。

子:偰、工部侍郎。倓、簽書枢密院事・昭慶軍節度使。

原文子:偰,工部侍郎;倓,簽書樞密院事、昭慶軍節度使。

郭浩

原文郭浩

郭浩、字は充道、徳順軍隴干の人。父は三班奉職に任ず。徽宗の時、環慶路第五将部将を充つ。嘗て百騎を率ひ霊州城下に抵る。夏人千騎を以て之を追ふ。郭浩手ずから二騎を斬り、首を以て還る。渭州兵馬都監を充つ。种師道に従ひ葺平砦を進築す。敵塞きて水源を据へ、以て我が師を渇かしむ。郭浩精騎数百を率ひて之を奪ふ。敵石尖山を攻む。郭浩陣を冒して前に進み、流矢左脇に中る。怒りて抜かず、奮力大呼し、賊を得て乃ち已む。諸軍之に従ふ。敵遁去す。是に由りて名を知らる。累遷して中州刺史と為る。

原文郭浩,字充道,德順軍隴千人。父任三班奉職。徽宗時,充環慶路第五將部將,嘗率百騎抵靈州城下,夏人以千騎追之,浩手斬二騎,以首還。充渭州兵馬都監。從种師道進築葺平砦,敵據塞水源,以渴我師,浩率精騎數百奪之。敵攻石尖山,浩冒陣而前,流矢中左脅,怒不拔,奮力大呼,得賊乃已;諸軍從之,敵遁去,由是知名。累遷中州刺史。

欽宗即位すると、安州團練使に進んだ。种師道の推薦により召されて対し、奏上して言うには、「金人は野営の苦しみに、日が経ち帰国を思う。軽兵を与えて間道より滑臺に馳せ、その半ば渡る時を狙い、撃つべし。」会に和戦の議論が分かれ、用いられず。帝が西方の情勢を問うと、郭浩は言う、「臣が任にあった時すでに警報を聞き、夏人が必ず隙に乗じて辺境を侵すと慮り、将を選び備えを設けることを願う。」已にして果たして涇原路を攻め、西安州・懐徳軍を取る。紹聖年間に開拓した土地は、再び尽く失われた。种師中が河東を制置し、自らに随うよう辟召した。

原文欽宗即位,進安州團練使。以种師道薦,召對,奏言:「金人暴露,日久思歸。乞給輕兵間道馳滑臺,時其半度,可擊也。」會和戰異議,不能用。帝問西事,浩曰:「臣在任已聞警,慮夏人必乘間盜邊,願選將設備。」已而果攻涇原路,取西安州、懷德軍。紹聖開拓之地,復盡失之。种師中制置河東,辟以自隨。

建炎元年、原州知州となる。二年、金人が長安ちょうあんを取ると、涇州守臣夏大節は城を棄てて遁走し、郡人もまた降った。郭浩は丁度夜半に郡に至り、率いる兵は僅か二百人であったが、金人を捕えて殺さず、これを還して言う、「汝の将に語れ、我は郭浩なり、戦わんと欲すれば即ち来て決戦せよ、と。」金人は遂に引き去った。本路兵馬鈐轄・涇州知州・権主管鄜延路経略安撫に昇進した。

原文建炎元年,知原州。二年,金人取長安,涇州守臣夏大節棄城遁,郡人亦降。浩適夜半至郡,所將才二百人,得金人不殺,使之還,曰:「為語汝將曰,我郭浩也,欲戰即來決戰。」金人遂引去。升本路兵馬鈐轄、知涇州、權主管鄜延路經略安撫。

時に二敵(金・夏)交々に侵し、鄜延の東は皆金人、西北は即ち夏の境であり、朝廷に属するは惟だ保安一軍・徳静一砦のみであった。郭浩は間道より徳静に至り、司を置いて散亡の兵を招收し、敵と対塁すること一年、敵は犯すことができなかった。再び涇原路兵馬鈐轄・涇州知州を拝命した。郭浩が去ると、夏人がまた来寇し、権帥耿友諒は僅かに身一つで免れ、一路尽く陥落した。

原文時二敵交侵,鄜延之東皆金人,西北即夏境,其屬朝廷者惟保安一軍、德靜一砦。浩間道之德靜,置司招收散亡,與敵對壘一年,敵不能犯。再除涇原路兵馬鈐轄、知涇州。浩去,夏人復來,權帥耿友諒僅以身免,一路盡陷。

張浚が宣撫処置使となると、郭浩を秦鳳路提点刑獄・権経略使・秦州知州とした。時に張浚は陝西を経略し、敵を討つべしと言う者があり、張浚の意向はそれに傾いた。諸帥は武を好まぬことを恥じ、敢えて言い出す者なし。張浚は五路の帥に檄を飛ばし、悉く配下の兵を率いて富平に会するよう命じたが、郭浩のみは敵鋒まさに鋭し、且つ当にその地を分守し、犄角として相援け、隙を俟って動くべしと言った。張浚は聞かず、軍を出して果たして敗れ、五路ともに陥ち、帥府は皆他所に移置された。張浚はまた郭浩を旧官のまま鳳翔府知州に移し、宝鶏県に仮の治所を置き、また退いて和尚原を保った。金人が原の下に抵ると、郭浩は呉玠と共に方に随って捍禦し、蜀は以て安全であった。功を次第に挙げ、正任防禦使に遷った。

原文張浚為宣撫處置使,以浩為秦鳳路提點刑獄、權經略使、知秦州。時浚經略陝西,有言敵可討者,浚意向之。諸帥恥于不武,莫敢出言。浚檄五路帥悉所部兵會于富平,浩獨謂敵鋒方銳,且當分守其地,掎角相援,俟釁而動。浚不聽,師出果敗,五路俱陷,帥府皆徙置他所。浚復以浩舊官移知鳳翔府,寓治寶雞縣,又退保和尚原。金人抵原下,浩與吳玠隨方捍禦,蜀以安全。第功,遷正任防禦使。

紹興元年、金人が饒風嶺を破り、梁・洋を掠め、鳳州に入り、和尚原を攻めた。郭浩は呉璘と共に往きて援け、斬獲は万を数えた。邠州観察使に遷り、興元府知州に移った。飢民が米倉山に相聚いて乱を為すと、郭浩は討ってこれを平定した。利州知州に移る。金人が歩騎十余万をもって和尚原を破り、進んで川口を窺い、殺金平に抵ると、郭浩は呉玠と共にこれを大破した。彰武軍承宣使に遷る。呉玠が本路提点刑獄宋万年が密かに敵境と通ずると按じたが、郭浩の取り調べたところは同じからず、ここにおいて呉玠と意を合わせず、朝廷は乃ち郭浩を金州知州兼永興軍路経略使に移した。

原文紹興元年,金人破饒風嶺,盜梁、洋,入鳳州,攻和尚原。浩與吳璘往援,斬獲萬計。遷邠州觀察使,徙知興元府。饑民相聚米倉山為亂,浩討平之。徙知利州。金人以步騎十餘萬破和尚原,進窺川口,抵殺金平,浩與吳玠大破之。遷彰武軍承宣使。玠按本路提點刑獄宋萬年陰與敵境通,利所鞫不同,由是與浩意不協,朝廷乃徙浩知金州兼永興軍路經略使。

金州は特に疲弊甚だしく、戸口僅少であったが、郭浩は流亡の民を招集し、営田を開き、その規制を諸路に頒示した。他軍は窮乏急迫して朝廷に仰ぎ給する中、郭浩のみは余剰の銭十万緡を積み立てて戸部を助け、朝廷はこれを嘉し、凡そ奏請あるも、以て直達するを得た。九年、金・洋・房州節制に改める。

原文金州殘弊特甚,戶口無幾,浩招輯流亡,開營田,以其規置頒示諸路。他軍以匱急仰給朝廷,浩獨積贏錢十萬緡以助戶部,朝廷嘉之,凡有奏請,得以直達。九年,改金、洋、房州節制。

金人が河南の地を還すと、郭浩を龍・神衛四廂都指揮使とし、陝西宣諭使・金州知州を充てた。楼炤が関中を行くと、郭浩を枢密院都統制・節制陝西軍馬に辟召した。十年、奉国軍節度使を拝す。五路陥落後、夔州知州に移るが、未だ行かず、金州知州に移り、仍って永興路経略安撫使・節制陝西河東兼措置河東路忠義軍馬を帯びた。十一年、金人が内侵すると、宣撫使胡世将が郭浩及び呉璘・楊政を仙人原に召して会し、攻取の策を授けた。郭浩は裨将を遣わし伏兵を設けてこれを破った。

原文金人還河南地,以浩為龍、神衛四廂都指揮使,充陝西宣諭使、知金州。樓炤行關中,辟浩樞密院都統制、節制陝西軍馬。十年,拜奉國軍節度使。五路陷,徙知夔州,未行,移知金州,仍永興路經略安撫使、節制陝西河東兼措置河東路忠義軍馬。十一年,金人內侵,宣撫使胡世將召浩及吳璘、楊政會仙人原,授以攻取之策。浩遣裨將設伏破之。

十四年、召されて見え、検校少保を拝し、還って鎮し、御府の金器・繍鞍を賜り、仍って一子に文資の官を与え、田五十頃を賜う。郭浩は辞して言う、「臣父子は行陣より身を起こし、本を忘れず、文資を還すことを願う。」帝はその志を嘉し、別に一子に閣職を与えた。この年、利州を東西両路に分け、郭浩を金房開達州経略安撫使兼金州知州・枢密院都統制とし、金州に屯し、仍って帥府を建てた。十五年、卒す。享年五十九。検校少帥を贈られ、諡して「恭毅」という。淳熙元年、金州に廟を立てることを賜う。

原文十四年,召見,拜檢校少保,還鎮,賜以御府金器、繡鞍,仍官一子文資,賜田五十頃。浩辭曰:「臣父子起身行陣,不敢忘本,願還文資。」帝嘉其意,別與一子閣職。是歲,分利州為東西兩路,以浩為金房開達州經略安撫使兼知金州、樞密院都統制,屯金州,仍建帥府。十五年,卒,年五十九。贈檢校少帥,諡「恭毅」。淳熙元年,賜立廟金州。

楊政

原文楊政

楊政、字は直夫、原州臨涇の人。崇寧三年、夏人が挙国大いに侵入し、父の楊忠は戦死し、楊政は甫はじめて七歳、哀号すること成人の如し。その母はこれを奇とし、言う、「親に孝なる者は必ず君に忠なり、この児は我が門を大いにするならんか。」宣和末、応募して弓箭手となる。靖康初、夏人を拒ぐに因り、稍々知名となる。建炎年間、呉玠に従い金人を撃ち、九戦九勝。功を累ねて武顕郎に至る。

原文楊政,字直夫,原州臨涇人。崇寧三年,夏人舉國大入,父忠戰歿,政甫七歲,哀號如成人。其母奇之,曰:「孝於親者必忠於君,此兒其大吾門乎?」宣和末,應募為弓箭手。靖康初,因拒夏人,稍知名。建炎間,從吳玠擊金人,九戰九捷。累功至武顯郎。

紹興元年春、金人が和尚原に向かい、また箭筈関を攻めると、楊政は兵を率いてこれを大破し、千戸一人・酋長二人を斬った。右武大夫に遷る。十月、金兵大いに集まり、号十万、宝鶏より柵を列ねて原の下に至る。呉玠と相持すること累日、楊政に将兵を統領させて敵を迎え撃たせ、日に数十合、士卒一も百に当たらざるはなし。また奇兵を出してその糧道を断ち、敵稍々退くや、遮ってこれを撃ち、万戸及び首領三百余人・甲士八百六十人を獲た。恭州刺史を拝す。時に楊政を嫉む者あり、母と妻が尚北境に留まるを以て、兵権を属すべからずと言うも、呉玠は聞かず、楊政は益々感奮した。

原文紹興元年春,金人趨和尚原,又攻箭筈關,政引兵大破之,斬千戶一、酋長二。遷右武大夫。十月,金兵大集,號十萬,自寶雞列柵至原下。吳玠與相持累日,以政統領將兵迎敵,日數十合,士卒無不一當百。復出奇兵斷其糧道,敵少卻,遮擊之,獲萬戶及首領三百餘人、甲士八百六十人。拜恭州刺史。時有嫉政者,以母妻尚留北境,不宜屬以兵權,玠不聽,政益感奮。

二年、金が歩騎数千を合わせて魚龍川口に柵を築くと、楊政は精兵を帥いて劫撃しこれを破った。隴州団練使に昇進し、方山原知原に移り、軍の儲えた芻穀はその中にあった。三月、金の大軍来りて攻め、城将に下らんとするを、楊政は撃ちてこれを敗った。鳳州知州に選ばれる。三年、金が饒風関を攻めると、楊政は呉玠に従い関下に戦い、凡そ六日。明州観察使に改める。

原文二年,金合步騎數千柵魚龍川口,政帥精兵劫破之。升隴州團練使,移知方山原,軍儲芻穀在其中。三月,金大軍來攻,城且下,政擊敗之。選知鳳州。三年,金攻饒風關,政從玠戰關下,凡六日。改明州觀察使。

四年、撒離喝が精兵十万を裒め、仙人関より蜀に入らんと欲し、上奢田に至る。呉玠は関外に塁を築き、楊政は言う、「この地は蜀の厄塞たり、当に堅守し、時に奇を出してこれを撃つべし。」呉玠はその言を用いた。金人は変態多端、楊政は機に随いこれに応じ、連日百余戦。敵帥は督戦益々急なり、楊政は卒に命じて神臂弓を以てこれを射させた。また甲士千余を選び山谷より出で、その兵を断ち、進退するを得ざらしめた。また敵の不意に出で、夜その営を斫った。敵は遂に遁走し、河池まで追撃して還った。龍神衛四廂都指揮使・環慶路経略安撫使を授かる。

原文四年,撒離喝裒精兵十萬,欲道仙人關入蜀,至上奢田。玠築壘於關外,政曰:「此地為蜀厄塞,當堅守,時出奇擊之。」玠用其言。金人變態多端,政隨機應之,連日百餘戰。敵帥督戰益急,政命卒以神臂弓射之;又選甲士千餘出山谷,斷其兵,使不得進退;又出敵不意,夜斫其營。敵遂遁去,追至河池而還。授龍神衛四廂都指揮使、環慶路經略安撫使。

五年、金人が淮を攻めると、呉玠は楊政に命じて師を帥い機に乗じて牽制させ、秦州に至り、一戦にしてこれを抜き、居民を撫定し、秋毫も犯さず。経略安撫涇原兼帥環慶・利路に改める。三鎮の事叢集するも、剖決滞ることなし。母は敵境に留まるも、間を遣わしてこれを省視させると、母は惟だ忠義を以て勉むるのみ。九年春、和議成り、始めて母及び兄弟を迎えて帰る。祠官を乞うて以て養いを便にせんとすれど、許されず。詔してその母を感義郡夫人に封じ、楊政を熙河蘭鞏路経略安撫使・熙州知州とし、武康軍承宣使に進める。

原文五年,金人攻淮,玠命政帥師乘機牽制,至秦州,一戰而拔,撫定居民,秋毫無犯。改經略安撫涇原兼帥環慶、利路。三鎮事叢集,剖決無滯。母留敵境,間遣人省視之,母惟勉以忠義。九年春,和議成,始得迎母及兄弟歸。乞祠以便養,不許。詔封其母感義郡夫人,以政為熙河蘭鞏路經略安撫使、知熙州,進武康軍承宣使。

十年、利州に移り、また興元に移る。会に金人が盟に背くと、楊政は迎敵の策を建て、川陝宣撫副使司都統制を兼ねる。楊政は統制楊従義とともに鳳翔府城南の砦において金人を劫撃し、これを敗り、戦馬数百を獲た。母卒す、起復し、遂に師を帥いて宝鶏渭水の上に趣き、以て敵の衝を拒ぎ、凡そ大戦七たび、斬獲甚だ多し。川陝宣撫副使胡世将が奏す、「鳳翔の捷は、楊政が身を顧みず奮闘し、功效顕著なり。」武当軍節度使を拝す。

原文十年,徙利州,又徙興元。會金人渝盟,政建迎敵之策,兼川陝宣撫副使司都統制。政偕統制楊從義劫金人於鳳翔府城南砦,敗之,獲戰馬數百。母卒,起復,遂帥師趣寶雞渭水上,以拒敵衝,凡大戰七,斬獲甚多。川陝宣撫副使胡世將奏:「鳳翔之捷,政奮不顧身,功效顯著。」拜武當軍節度使。

十一年の秋、金の将胡盞・習不祝が軍五万を合わせて攻めて来たので、楊政は呉璘・郭浩と仙人原で会した。胡世将は攻取の策を授け、楊政は和尚原より出で、郭浩は商州より出でて援けと為し、呉璘は秦州に駐屯した。楊政は兵を率いて夜に隴州の界に入り、遂に呉山に向かい、金人と対塁し、また金の万戸通検を宝鶏にて破った。時に通検は渭北に居り、楊政は其の城を攻め抜かんと欲し、通検は精甲一万の衆を率いて出で、楊政は勇士を帥いて鏖戦し、裨将を遣わして陣の後より突出せしめ、山に登りて幟を執らしめた。金軍之を見て、大呼して曰く「伏兵発せり」と。乃ち驚き潰れた。楊政は勝に乗じて掩殺し、通検は城門に走り至るも橋は既に絶たれており、遂に之を擒にした。

原文十一年秋,金將胡盞、習不祝合軍五萬來攻,政與吳璘、郭浩會于仙人原。世將授以攻取之策,政出和尚原,浩出商州以為援,璘駐秦州。政引兵夜入隴州界,遂趨吳山,與金人對壘,又敗金萬戶通檢於寶雞。時通檢居渭北,政欲攻拔其城,通檢將精甲萬眾出,政帥勇士鏖戰,遣裨將突出陣後,登山執幟。金軍見之,大呼曰:「伏發矣!」乃驚潰。政乘勝掩殺,通檢走至城門而橋已絕,遂擒之。

和議成り、帝は楊政を召し還し、軍民は部使者に詣でて留め借らんとす。及び入見し、条奏詳明にして、帝之を善しとした。十三年、鎮に還り、検校少保を加えられ、田五十頃を賜う。十四年、利州を分かち東西両路と為し、楊政は興元府に屯す。久しくして、太尉を拝す。二十七年、卒す。年六十。開府儀同三司を贈られ、諡して「襄毅」と曰う。

原文和議成,帝召政還,軍民詣部使者借留。及入見,條奏詳明,帝善之。十三年,還鎮,加檢校少保,賜田五十頃。十四年,分利州為東西兩路,政屯興元府。久之,拜太尉。二十七年,卒,年六十。贈開府儀同三司,諡「襄毅」。

楊政は漢中を守ること十八年、六堰久しく壊れ、灌漑の利を失うを、楊政は修復す。漢江水決して害を為すを、楊政は長堤を築きて之を捍ぐ。凡そ民に利する者は敢えて軍旅を以て廃せず。兵を休むること十余年、未だ嘗て将士を升遷せず、上下之に安んず。楊政は故に呉璘の裨将たりしが、及び璘と分道して帥を建つるに及び、門下の礼を執ること益々恭しく、世頗る之を賢しとす。

原文政守漢中十八年,六堰久壞,失灌溉之利,政為修復。漢江水決為害,政築長堤捍之。凡利於民者不敢以軍旅廢。休兵十餘年,未嘗升遷將士,上下安之。政故為吳璘裨將,及與璘分道建帥,執門下之禮益恭,世頗賢之。

論じて曰く、李顕忠は生まれながらにして神奇、異域に功を立て、父子家を破り国に狥い、志中原を復せんとす。中に讒構に罹り、屡々廃黜に遭う。傷しいかな。楊存中は淮甸に出入し、大なる勝負無く、兵を典ること最も久しく、貴寵独り隆し。然れども頗る能く幾を知り、禍敗に阽せず。其れ亦た天幸有る者か。郭浩・楊政は左右の玠・璘兄弟に克く、川蜀を保全す。数君子は皆人の属倚して以て成功せんとする者なり。奈何ぞ和議に撓み、頻りに事機を失い、人心沮喪し、吉甫・方叔の如く、祉を受け旅を振るい以て中興の業を成すを得ざるや。惜しいかな。

原文論曰:李顯忠生而神奇,立功異域,父子破家狥國,志復中原,中罹讒構,屢遭廢黜,傷哉!楊存中出入淮甸,無大勝負,典兵最久,貴寵獨隆,然頗能知幾,不阽禍敗,其亦有天幸者歟?郭浩、楊政克左右玠、璘兄弟,保全川蜀。數君子皆人所屬倚以成功者,奈何撓於和議,頻失事機,人心沮喪,不得如吉甫、方叔,受祉振旅以成中興之業,惜哉!