王德
王德、字は子華、通遠軍熟羊砦の人。武勇をもって募に応じ、熙帥姚古に隷属した。折りしも金人が侵入し、古の軍は懐州・沢州の間にあり、徳をして諜報させたところ、一酋長を斬って帰還した。進武校尉に補せられる。古が言うには、「再び往くことができるか」。徳は十六騎を従えて直ちに隆徳府の治所に入り、偽守の姚太師を捕らえた。左右の者は驚き騒ぎ、徳は手ずから数十百人を殺し、衆は愕然として見つめるばかりで前に進む者はいなかった。古は姚を檻車に載せて朝廷に献上した。欽宗が様子を問うと、姚は言った、「臣が縛られた時、ただ一夜叉を見たのみです」。当時、人々は徳を「王夜叉」と呼んだ。
光世はまさに苗傅・劉正彦の逆を討ち、建康に迎えようと謀り、徳に言った、「江都の擾乱に際し、諸軍は逃げなければ盗賊となった。公は義を仗って夜に大江を渡り、国難に殉ずべきである」。遂に軍を率いて光世に属した。折りしも苗・劉が閩中に逃走したので、詔して徳に追撃させ、韓世忠に隷属させた。徳は自ら功名を立てんとしたが、世忠は必ず徳を使役せんとし、親将陳彦章を遣わして信州で徳を迎えさせた。彦章は佩刀を抜いて徳を撃ったので、徳は彦章を殺し、その屍を市に晒した。徳が浦城に至ると、苗瑀を斬り、馬柔吉を捕らえて行在所に送った。世忠はその擅殺を訴え、徳は御史台の獄に下された。侍御史趙鼎が審理して徳は死に当たるとしたが、帝は命じて特にこれを赦し、郴州に編管した。
この時、光世は九江に駐屯し、楊惟忠の失った空名の黄勅を得て、即座に便宜により徳を前軍統制に復職させ、信州の妖賊王念経を平定させた。饒州に至った時、折りしも賊の劉文舜が城を包囲していたので、徳は兵を率いて赴いた。文舜は降伏を請うた。徳はこれを受け入れてから誅殺し、その他は一人も殺さなかった。諸校に言った、「念経は我が逗留を聞けば、必ず備えをなさないであろう」。倍道して急行し、一鼓の下にこれを擒らえ、俘虜を朝廷に献上した。詔して旧の官秩に戻し、武顯大夫・栄州刺史を加えられた。
四年、光世が京口を鎮守し、徳を都統制とした。金兵が再び南侵すると、光世は退いて丹陽を守らんとしたが、徳は死をもって江を防ぐことを請うた。諸将はこれに頼って自ら奮い立った。軍を分けて険要を扼し、江を渡って金人を襲撃し、真州・揚州など数郡を回復した。その後また揚州の北で敵に遭遇した。重鎧を着けて陣を突く者がいたので、徳は馳せてこれを叱った。重鎧の者はまっすぐ前に進んで徳を刺したが、徳は刀を揮ってこれを迎え撃ち、即座に馬から落とした。衆は驚き恐れ、そこで騎兵を指揮してこれに乗じ、殺した者は万を数えた。
翌年春、蘭州知州となり、池陽及び当塗に移駐し、行営左護軍前軍統制となった。金兵が江北を掠め、滁州を破った。徳は江を越えてこれを襲撃し奪回し、桑根まで追撃し、女真の万戸盧孛一人、千戸十余人を擒らえた。五年、環慶副総管に改める。
六年冬、劉豫が麟(劉麟)・猊(劉猊)を遣わし郷兵三十万を駆り、東西の道に分かれて侵入した。朝廷内外は甚だ恐れ、江を守る計らいを議した。殿帥楊沂中・統制張宗顔・田師中及び徳らが分兵してこれを防ぎ、藕塘で猊の兵を大破した。猊は身一つで逃走した。麟は順昌でこれを聞き、また砦を抜いて遁走した。徳は寿春まで追撃したが、及ばず、その糧舟四百艘を獲た。功績を評定し、武康軍承宣使を除し、真に相州観察使を拝した。
七年、熙河蘭廓路副総管・行営左護軍都統制に改め、合肥に軍を駐屯させた。折りしも光世が宣撫を罷免され、詔して徳にその衆を全て統率させ、酈瓊をその副とした。瓊と徳はもと同等の者であり、その下に屈することを恥じ、衆を率いて叛き劉豫に従った。八年、命じて張俊に隷属させ、その軍を「鋭勝」と名付けた。
十一年、金人が合肥より侵攻し、遊騎が江に及んだ。張俊は軍を分けて南岸を守ることを議したが、王徳は言う、「淮は江の蔽いなり。淮を棄てて守らざるは、唇亡びて歯寒しというなり。敵は数千里を遠くより来たり、糧道は必ず継がず、その未だ渡らざるに急ぎ撃てば、気を奪うべし。もしこれを遅らせて、少し安んぜしめば、則ち淮は我が有に非ざるなり」と。張俊は躊躇して未だ許さず。王徳の請いは益々堅く、「願わくは父子先ず江を越え、和州の下るを俟ち、然る後に宣撫(張俊)北渡せん」と言う。張俊は乃ち許し、王徳は即ち采石を渡り、張俊は軍を督してこれに継いだ。江中に宿し、王徳は言う、「明朝、歴陽にて会食すべし」と。已にして夜に和州を抜き、朝に張俊を迎えて入らしむ。敵は退いて昭関を保ち、またこれを撃ち走らせ、柘皐に追い至り、金人と河を挟んで軍す。
諸将帥皆集まるも、惟だ張俊後る。統制田師中これを持たんと欲す。王徳怒りて曰く、「事は機会に当たる、また何をか待たん!」と。径ちに馬に上る。兀朮、鉄騎十余万を以て道を挟んで陣す。王徳曰く、「賊の右陣堅し、我まさに先ずこれを撃つべし」と。軍を麾して橋を渡り、首めてその鋒を犯す。一酋、甲を被り馬を躍らせて始めて出づるに、王徳弓を引き一発にして斃す。勝に乗じて大呼し、万兵に長斧を持たしめ、牆の如くにして進む。敵大いに敗れ、退きて紫金山に屯す。王徳復た尾いてこれを撃つ。劉錡、王徳に謂いて曰く、「昔より公の威略神の如きを聞く、今果たしてこれを見る。請う、兄の礼を以て事えん」と。召して清遠軍節度使・建康府駐劄御前諸軍都統制に拝し、浙東福建総管・荊南副都統制を歴任す。二十五年、卒す。検校少保を贈られ、再び少傅を贈らる。二子、琪・順、亦た驍勇を以て聞こゆ。
王彥
王彥、字は子才、上党の人。性質豪放縦逸、韜略を読むを喜ぶ。父これを奇とし、京師に詣らしめ、弓馬子弟所に隷す。徽宗、軒に臨みて閲試し、下班祗応を補し、清河尉と為る。涇原路経略使种師道に従い二たび夏国に入り、戦功有り。
金人、汴京を攻む。王彥慨然として家を棄て闕に赴き、自ら試みて賊を討たんことを求む。時に張所、河北招撫使と為り、その才を異とし、都統制に擢ぐ。裨将張翼・白安民・岳飛等十一将を率い、七千人を部して河を渡り、金人と戦わしむ。これを敗り、衛州新郷県を復し、檄を諸郡に伝う。
金人は大軍至れりと以為い、数万の衆を率いて王彥の塁に迫り、これを数匝に囲む。王彥、衆寡敵せずと以て、囲を潰して出づ。諸将散りて帰るも、王彥独り共城西山を保ち、腹心を遣わして両河の豪傑を結び、再挙を図る。金人、王彥を購求すること急なり。王彥、変を慮り、夜寝屡々遷る。その部曲これに覚り、相率いて面を刺し、「赤心報国、誓殺金賊」の八字を作り、以て他意なきを示す。王彥益々感勵し、士卒を撫愛し、同じく甘苦をともにす。未だ幾ばくもせず、両河応じ、忠義民兵の首領傅選・孟德・劉澤・焦文通等皆これに附き、衆十余万、綿亘数百里、皆王彥の約束を受く。金人これを患い、その首領を召し、大兵を以て王彥の塁を破らしめんとす。首領跪きて泣いて曰く、「王都統の砦は鉄石の如く堅く、未だ図り易からず」と。金人は乃ち間を遣わして勁騎を以て王彥の糧道を撓し、王彥兵を勒してこれを待ち、斬獲甚だ衆し。益々兵を治め、日を刻して大挙し、期を東京留守宗澤に告ぐ。
宗澤、王彥を召して会議す。乃ち兵万余を将いて河を渡る。金人重兵を以てその後を襲うも敢えて撃たず。既に汴京に至り、宗澤大いに喜び、王彥に兵を近甸に宿し、以て根本を衛わしむ。王彥は即ち所属の兵馬を留守司に付し、親兵を量り帯びて行在に趨る。時に已に宇文虚中を遣わして祈請使と為し和を議す。王彥、黄潛善・汪伯彦に見え、力めて両河の忠義が頸を延べて王師を望むを陳べ、願わくは人心に因り、大挙して北伐せんことを請う。言辞憤激、大いに時相の意に忤い、遂に旨を降して対を免じ、王彥を武翼郎・閤門宣贊舎人と為し、差して御営平寇統領を充てしむ。時に范瓊、平寇前将軍と為る。王彥、范瓊に逆節有るを知り、疾を称して就かず、致仕を乞う。許さる。
知枢密院事張浚、川・陝を宣撫し、王彥を前軍統制と為すを奏す。張浚、金酋婁宿と富平に相持し、大挙せんと欲す。初めて漢中に至り、諸将を会して議す。王彥独り以て不可と為し、曰く、「陝西の兵将、上下の情、皆未だ相通ぜず。若し少しく利あらざれば、則ち五路倶に失わん。若し且く利・閬・興・洋に屯し、以て根本を固うし、敵境に入れば、則ち五路の兵に檄して来援せしむるに若かず。万一捷たずとも、未だ大いに失わざるなり」と。張浚の幕府その言を然らず。王彥は即ち利路鈐轄たることを請い、俄かに金均房州安撫使・知金州に改む。
時に中原盗賊蜂起し、饑饉を加うるに、資食する所無し。惟だ蜀は富饒なり。巨盗往々窺覬す。桑仲既に淮安・襄陽を陥し、勢いに乗じて西に向かい、均・房は守を失い、直ちに金州白土関を擣く。衆号三十万。桑仲は王彥の旧部曲なり。申櫝を以て王彥に請いて曰く、「仲は公に於いて敢えて犯すこと無し。願わくは道を仮りて蜀に入り食に就かんのみ」と。王彥は乃ち統領官門立を遣わして先鋒と為しこれを撃たしむ。賊鋭甚だしく、門立戦死す。将士色を失い、或いはこれを避くるを請う。王彥叱して曰く、「枢相張公方に関陝に事有り。若し桑仲、金を越えて梁・洋に至らば、則ち腹背敵を受け、大事去らん。敢えて避くると言う者は斬らん」と。即ち兵を勒して長沙平に趨り、水を阻み山に拠り、伏を設けて以て待つ。賊、官軍少なるを見て、蟻附して搏戦す。王彥幟を執り一たび麾す。士殊死に闘い、賊敗走す。王彥士を休めて進撃し、奔を追いて白磧に至り、房州を復す。
初め、桑仲既に敗れて襄陽に還り、乃ち散亡を鳩集して鄧州を陥し、兇焰復た熾んず。南は徳安を攻め、西は均陽を拠り、衆を三道に分つ。一は住口関を攻め、一は馬郎嶺より出で、一は洵陽を擣く。前軍、金州を去ること三十里に満たず。王彥曰く、「桑仲は我寡く彼衆きを以て、故に三道に分ちて以て吾が勢いを離さんとす。法はまさにその堅きを先ず破るべし。則ち脆き者は自ら走らん」と。副将焦文通を遣わして住口を禦ぎ、自ら親兵を以て馬郎に営す。相持すること一月、大戦六日、賊大いに敗れ、桑仲その下の者に為りて殺さる。又た王闢・董貴・祁守中、兵を阻みて蜀を窺う。勢いは桑仲に及ばざるも、然れども小なる者猶数万を減ぜず。王彥悉くこれを討平す。
この冬、偽斉の秦鳳経略使郭振、数千騎を以て白石鎮を掠む。王彥、関師古と併兵してこれを禦ぐ。賊大いに敗れ、郭振を獲、秦州を復す。張浚、制を承けて王彥に商・虢・陝・華州の軍馬を節制せしむ。
五年四月、差知荊南府に任じられ、帰州・峡州・荊門・公安軍安撫使を兼ねた。王彦は荊南の広い土地を利用して屯田を措置し、蜀より牛千七百頭を買い、官兵に授けて耕作させ、営田八百五十頃を開き、将士に差等を設けて分け与えた。六年二月、知襄陽府・京西南路安撫使に任じられたが、王彦は岳飛との嫌疑を理由に辞退した。張浚は王彦を行営前護副軍都統制・督府参謀軍事に奏した。
六月、八字軍一万人を率いて行在所へ赴いた。鎮江に至り、母の喪に服すことを聞き、上疏して官職の解除を乞うたが、許されなかった。詔により喪服を免じ、入対を促され、浙西・淮東沿海制置副使とされ、配下の兵を以て通州の料角に駐屯させた。七年正月、王彦が将を遣わして解潛の軍中で逃亡者を捕らえさせたところ、軍士が市中で乱闘し、言事者がその軍政の不粛清を論じたため、位階を二等貶された。王彦は自ら安んじず、残りの喪期を終えることを乞うた。二月、洪州観察使・知邵州に復した。王彦が入朝して辞すと、帝は大いに慰労し、「卿が民を治める能きを以て、故に便郡を卿に付す。行けば即ち召すであろう」と言った。九年、官にて卒した。享年五十。
王彦は名将と称され、建炎の初め、屡々大敵を破り、威声は河朔に震うた。時に和議に撓み、急に彼を召還し、またその兵権を奪って郡を治めさせたため、士人の議論は惜しんだ。王彦は親に事えて孝であり、官に居て廉であり、子弟に戦功があっても推賞を与えなかった。死に臨み、弟と甥を召し、家財を均しく分け与えた。
魏勝
魏勝、字は彦威、淮陽軍宿遷県の人。智勇多く、騎射に長じ、応募して弓箭手となり、山陽に移り住んだ。紹興三十一年、金人が南侵せんとし、芻糧を集め、器械を造り、諸路の民を兵として籍した。魏勝は躍り上がって言った、「これその時なり」。義士三百を集め、北へ淮を渡り、漣水軍を取った。朝廷の徳意を宣布し、一人も殺さず、漣水の民はこぞってこれに従った。
遂に海州を取った。郡守渤海の高文富は魏勝の挙兵を聞き、兵を遣わして魏勝を捕らえさせた。海州の南八十里の大伊に至り、金兵と遭遇し、魏勝は迎え撃ってこれを走らせ、城下まで追撃した。衆は水陸ともに悉く兵有りと驚き伝え、城中は大いに恐れ、文富は門を閉じて守り、民を駆り立てて城上で防がせた。魏勝は城外に多く旗幟を張り、煙火を挙げて疑兵とし、また諸城門に向かって人を遣わし、金人が信を棄て盟に背き、名もなく師を興すこと、本朝の寛大にして民を愛する意を諭した。城上の民はこれを聞き、即ち門を開き、魏勝は勇鋭なる者を城楼に登らせ、余りは門より入り、防ぐ者無かった。ただ文富とその子安仁が牙兵を率いて拒守したので、魏勝は軍を整えて安仁父子と譙門内で戦い、安仁及び州兵千余人を殺し、文富を生け捕りにし、民は皆安堵した。
魏勝は権知州事となり、人を遣わして朐山・懐仁・沐陽・東海の諸県を諭し、皆平定した。乃ち租税を免じ、罪囚を釈放し、倉庫を開いて戦士を犒い、忠義士を五軍に分けた。紀律は明粛で、部署は宿将の如し。魏勝は自ら都統制を兼ね、益々忠義を募って回復を図った。遠近これ聞き応じ、旬日の内に兵数千を得た。即ちその事を境上の帥守に報じ、軍装と器甲の支給を冀った。時に帥守は金人が盟を破らんとするを知りながら、その端を発する者無く、敢えて上聞する者無かった。
左軍統制董成は西北より沂州を取らんと謀り、魏勝は先に間者を返し、金兵数万が沂に至り、我が軍の器甲未だ備わらざるを知り、成に動かぬよう戒めた。成は魏勝に従わず、配下の千余人を率いて直ちに沂州に入り巷戦し、その守及び軍士三千余を殺し、衆は悉く降り、器甲数万を得た。金人の生兵が再び集まり、競って屋上に登り瓦を投げてこれを撃ち、成の軍は殆ど敗れんとした。魏勝は成を斬らんとしたが、その驍勇を以て釈放した。
金人は同知海州事蒙恬鎮国に兵万余を以て海州を取らせ、州北二十里の新橋に抵った。魏勝は兵を率いて出迎え、隘路に伏兵を設け、陣を布いて待った。衆は殊死に戦い、伏兵発動し、賊は大敗し、鎮国を殺し、千人を馘り、三百人を降し、軍声益々振るった。山東の民は皆来附せんと欲し、魏勝は檄を伝えて招諭し、結集して王師の至るを待った。
沂の民で蒼山に砦を築く者数十万、金人はこれを囲み、久しく下さず、砦首の滕𱢃が魏勝に急を告げた。魏勝は兵を提げて往き救い、山下に陣した。金人は多く伏兵を置き、魏勝の兵は伏兵に遇い、皆砦に赴いた。金人はこれを襲い、魏勝は単騎で殿し、大刀を奮って撃った。金人は魏勝を見て、これが将であると知り、五百騎を以てこれを数重に囲んだ。魏勝は馳せ突き四囲を撃ち、金の陣は開いてはまた閉じた。戦い時を移し、身に数十の槍傷を受け、刃を冒して囲みを出た。金兵がこれを追うと、馬が矢に中って倒れ、歩いて砦に入り、敢えて当たる者無かった。金人は又急攻し、その水を絶ち、砦中は乾飯を食い、牛馬を殺して血を飲んだが、魏勝が黙祷すると雨が驟然として降った。
金人の攻撃益々急なり、山を周って営を為す。魏勝はその必ずまた海州を攻めんと度り、間道より砦を出て城中に赴いた。金人は果たして蒼山の囲みを解き、新橋より城下に抵り、魏勝は出戦して皆勝利した。金人は兵を分けて四面よりこれを攻め、魏勝は士を募って城に登らせて防がせた。矢石雨の如く七日間、金兵は死傷多く、遁走した。魏勝は嘗て出戦し、矢が鼻を中て歯を貫き、食うことができなかったが、なお親しく戦闘を指揮した。
魏勝の義兵起こること久し、朝廷は未だ知らなかった。沿海制置使李宝がその子公佐を海道より遣わして敵を覘かせ、州に至り、始めて忠義将朱震・褚道を行在所に詣らせ、魏勝の姓名を執政に白状し、始めて魏勝の功績を知った。
金主亮が兵を挙げて淮を渡り、魏勝がその背後を窺うを慮り、軍数万を分けて来攻した。時に李宝が舟師を帥いて膠西へ往き、金人の舟艦を破った。魏勝は人を遣わしてこれを邀え、新橋において金人を同撃し、これを大破した。金兵未だ退かず、李宝は金舟の将に遁れんとするを知り、また兵を以て舟に登らせ海道を備えた。金主は初め海艦を造らせ、軍を分けて蘇州・杭州に入らせんと欲し、悉く中原の民に舟楫を操らせた。民家で衣裘を送る者が相告げて言うには、王師の至るを俟って即ち背かんと。李宝の舟が島中に入ると、丁度北風強く、舟は進まず。しばらくして風が反し、金人は舟を岸に艤した。操舟者は李宝の舟を見て、謬って「これ金国の兵なり」と言い、皆を舟中に入れさせた。舟が忽ち至り、金人は知らず、李宝は火を放ってその舟を焚いた。舟は赤油絹を帆とし、風順いで火は熾んじ、操舟者は皆岸に登って走った。舟中の金兵は、坐して縛られるを待ち、檻車に載せられ、その舟を悉く獲た。
魏勝が既に勝利を収めると、勝もまた州に戻り防禦の策を講じた。金兵が到着し、城北の砂巷に陣営を構え、陣を列ねて関門を攻めんとし、先ず人を遣わして勝を説き降伏させようとした。勝は門を開いて出てこれを諭して曰く、「汝が主は盟約に背き信を失い、故なく兵を起こす。我が朝は仁義の師を以て、旧疆を回復せんと来たり、汝が主は淮を渡れば必ず敗れん。爾等は早く来たり帰順すべく、必ず爵賞を得ん」と。時に金兵は既に関に迫り、勝は関門に登り音楽を奏で酒を飲み、軍士を犒労し、固守して出戦せぬよう命じた。金兵がこれを攻めること一時間余り、乃ち少し兵士を遣わし、険阻な要害に拠ってこれを撃たしめた。金人は攻め難きを知り、軍を率いて転じて河を渡り、関の背後を襲わんとした。勝は兵を収めて城に入り、金兵が追撃して将に及ばんとするや、勝は独り馬に乗ってこれを逐い、叱咤して曰く、「魏勝ここに在り!」と。これを聞く者皆辟易し、士卒の後に入る者は再び敢えて追わず。
勝の軍は既に城に入り、金兵は直ちに城東に向かい、砂堰を過ぎて城を囲み陣営を為さんと欲した。勝は先んじて既に堰を占拠しこれを備えており、金軍は過ぎることができず、終日拒戦して、終に近づくことができなかった。新たに募集した河を守る兵士は、兵事を知らず、金兵が急に河を渡ると、勝は河の路を絶たれることを恐れ、急いで軍を収めて城に入った。金兵は東門外の黄土阪まで追い至り、勝は単騎でこれを逐い、大声で叱咤すると、金兵五百は皆風を見て退いた。勝はまた十数里を追い、兵士は城に入ることができた。入ることができなかった者は、城南より西門に入った。金兵はまた西南より来襲し、勝は後よりこれを叱咤すると、金兵は驚き散り、手ずから数人を殺した。功績を奏上して閤門祗候を授けられ、海州知州兼山東路忠義軍都統を差知された。その子の昌を峒峿山の首領張栄と共に遣わし、旗榜を持たせて山東の忠義を結びつけに行かせた。
金兵は新橋、関子門、砂堰での敗戦により、殺傷される者が多かった。ある日の黎明、昏霧に乗じて、四面より城に迫り急攻した。勝は士卒を激勵し、力を尽くして防禦し、矢石が交えて降り注いだ。城上では金液を熔かし、火牛を投げた。金兵は前に進むことができず、多く死傷し、乃ち砦を抜いて退いた。海州から距離を置いて長垣を築き、州城をその中に包囲し、出られなくさせた。及んで亮が死ぬと、乃ち解いて去った。
勝は大刀を用いることに長け、左右射ができ、旗には「山東魏勝」と掲げ、金人はこれを見るや即ち退走した。勝は旗を十数本作り、その姓名を書き、密かに諸将に預け、激戦に遇えば即ちこれを掲げると、金兵は悉く避けて逃げた。初め、勝が義兵を起こした時、州郡の糧餉の供給はなく、府庫倉廩の蓄えもなかった。勝は市易を経画し、酒税と塩の専売を課し、豪族に売り出しを勧めた。海州を巡って敵兵の攻め取る所を視察し、城を築き堀を浚い、関隘を塞ぎ、軍中にあって、一日も懈怠緩むことなく、常に寇の来るが如くであった。遠近を糾合し、士卒を犒労し、期日を約していたところ、会に金主亮が弑され、金兵は北に帰り、王師もまた南に還ったのである。
初め、亮は勝が海州にいることを聞き、攻め取れぬと知って曰く、「少し待て、他時にこれを取るは易きことなり」と。亮が既に斃れると、勝は益々軍旅を自治するを得、人皆精鋭であった。金の間諜を捕らえると、酒食で犒労し、厚く賄賂を贈って帰した。北方より来帰する者があれば、これと同臥起し、飲食を共にし、疑わぬことを示し、その貧窮を周済して、感激させた。これより山東、河北より帰附する者が多く、金人の虚実を得て、悉く上聞した。また忠義の士の功績能力を等級付けし、官資を仮授し、李宝を通じて朝廷に伝達し、悉くその請う所の如くであった。
金人は山東路都統、総管を遣わし、兵十万を以て海州を攻めた。時に宝は海舟を率い水陸並進し、城北の砂巷に抵ると、勝は衆を率いて宝の軍と合しこれを大破し、斬首は数え切れず、堰の水はこれが為に流れず、残りは悉く奔り潰走した。勝は独り兵を率いて北に二十里を追い、新橋に至り、またこれを破り、その鞍馬器甲を尽く獲た。宝もまた海州に駐屯し、進取の計を為した。
金人はまた五斤太師を遣わし諸路の兵二十余万を発して海州を攻め来たり、先ず一軍を州の西南より遣わして勝の軍の糧道を断たせた。勝は驛の勇悍なる士三千余騎を以て、石闥堰にてこれを拒ぎ、金軍は進むことができなかった。夜に及んで始めて還り、千人を留めて険隘を備えさせた。金兵十万が奪わんと来ると、勝は衆を率いて激戦し、数千人を殺し、残りは皆遁走し、険を守り追わぬよう命じた。宝に報じると、宝は海道を防ぐため、舟に登り、再び兵を発さなかった。金兵が盛んに集まると、勝は力を尽くしてこれを拒ぎ、旦より暮れに至るまで、金兵は奪うことができなかった。勝は歩卒に隊を整えて前進させ、自らは殿となった。
時に百姓は宝が既に舟に登ったため、金兵が大挙して来ることを懼れ、皆城に入らんと欲したが、統制の郭蔚は城門を閉じて受け入れなかった。人民の牛馬は野を蔽い、呼号は地を動かし、城中もまた懼れた。勝が城に入り、賊の勢いが退き怯んでいる様子を諭し、固守すれば必ず憂い無きを保てるとし、乃ち門を開いてこれを尽く受け入れた。居ること暫くして、金兵は城を環り数重に囲み、勝と郭蔚は分かれて兵を備え防禦し、旗を偃げ鼓を仆し、寂として人の無きが如くであった。金軍は驚き疑い、数日間攻めることを敢えず、已にして乃ち雲梯を植え、砲石を置き、四面より合囲し、土を負って壕を埋めた。勝はその城に近づくのを待ち、鼓を鳴らし旗を掲げ、矢石を俱に発し、続いて火牛、金液を以てし、凡そ三昼夜、金兵は終に近づくことができなかった。ここに於いて攻撃を止め、営塁を修め、河道を絶ち、固守の謀を為した。勝はその不備を俟って掩撃し、或いは独り出てこれを擾乱し、休息を得させなかった。また間を置いて夜に兵を発しその営を劫き、或いはその攻具を焼いた。
既にして金人は力を併せて急攻し、勝は李宝に急を告げた。宝はこれを聞き、還って城中に報じ、既に張子蓋に命じて兵を率い囲みを解かせに来させた。金人もまた子蓋の軍が将に至らんとすることを知り、既に退く意向があった。間もなく、子蓋が先に騎兵を率いて至ると、勝は出て子蓋と戦事を議し、且つその歩卒を促した。勝は軍を出して城北の砂巷に至り、金軍と大戦し、斬首は数え切れず、数十里を追い、残兵は皆遁走した。勝は子蓋と進討を議したが、子蓋は曰く、「詔を受けて囲みを解くのみ、他のことは知らぬ」と。遂に軍を率いて還った。城中は疑懼し、王師に随って出ようとしたが、勝は親しく道に邀えてこれを諭し、漣水軍に至り、共に還った。
時に都督の張浚は建康におり、勝を招き、軍務を以てこれを諮問した。閤門宣贊舍人に転じ、山東路忠義軍都統制兼鎮江府駐劄御前前軍統制を差充し、仍って海州知州とした。勝は還った。
勝は既に海州に還り、一方を鎮撫し、民はその政に安んじた。忠州刺史に改めた。海州城の西南は孤山に枕し、敵が至れば、山に登って城中を瞰下し、虚実が直ちに見える故、西南は敵を受けること最も甚しかった。勝は重城を築き、山を内に囲み、寇が至れば則ち先ずこれを占拠し、害することができなかった。
魏勝はかつて自ら如意戦車数百両、砲車数十両を創製した。車上には獣面の木牌を設け、大槍数十本を備え、氈幕と軟牌を垂らし、各車は二人で轂を推して用い、五十人を蔽うことができた。行軍時には輜重や器甲を載せ、駐屯時には営となり、掛け搭ねて城塁の如くし、人馬近づくことができず、敵に遇えばまた箭簇を防ぐことができた。陣を列ねる時は如意車を外側に置き、旗で蔽い障いとし、弩車を陣門に当て、その上に床子弩を置いた。矢は鑿の如く大きく、一矢で数人を射貫き、三矢を発すれば数百歩に及んだ。砲車は陣中に置き、火石砲を施し、これも二百歩であった。両陣が近づけば、陣間より弓弩箭砲を発し、陣門に近づけば刀斧槍手が突出し、陣が交われば騎兵を出して両翼より掩撃し、勝利を得れば陣を抜けて追襲し、少し退けば陣間に入って稍々憩った。士卒は疲れず、進退ともに利があった。便を伺って出撃し、拒遏されることを慮り、予め解脱の計を為し、夜間に習練して人に見せなかった。その制式を朝廷に上奏すると、詔して諸軍にその式に従って造らしめた。
事聞こえ、保寧軍節度使を贈られ、諡して「忠壮」と曰う。時に淮南未だ平らかならず、詔して鎮江府江口鎮に廟を立て、号を「褒忠」と賜い、仍って事定まり次第戦没の処に更に祠ることを俟つ。且つ有司に令して木を刻んで以て斂め、鎮江に葬らしむ。その二子を官す:郊は武功大夫・忠州刺史、昌は承信郎。銀千両、絹千匹、宅一区、田百頃を賜う。その後、使者淮東を過ぎ、始めてその詳らかなるを得、還って朝に言上す。劉宝の救兵を出さざるを以て、両鎮の節鉞を削り、家資を没収し、瓊州に貶して死せしむ。勝の糾集したる忠義の士に、賈和仲に誘われて別屯に隷属せしめられ、及び戍を撤されて隔絶せられたる者、尚五千余人あり、京口に入り屯駐前軍と為る。
郊は、添差揚州兵馬鈐轄となる。淳熙十五年、孝宗枢臣に語りて曰く、「魏勝の子は、優異を与うべし」と。又曰く、「人材は用いて後見るべし、魏勝をして辺釁に因らしめざれば、何を以てその才を見んや」と。詔して郊を添差両浙西路馬歩軍副総管とす。
張憲
張憲は、岳飛の愛将なり。飛が曹成を破りし時、憲は徐慶・王貴と共にその党二万を招降す。郝政と云う者、衆を率いて沅州に走り、首に白布を被り、成の為に讐を報い、「白巾賊」と号す。憲は一鼓にしてこれを擒にす。
飛、憲を遣わして随州を復せしむ。敵将王嵩、戦わずして遁る。進兵して鄧州に至り、城を距つこと三十里、賊兵数万に出会い迎戦す。王万・董先と各々騎を出して突撃し、賊衆大いに潰え、遂に鄧州を復す。
十年、金人盟を渝えて入侵す。憲、潁昌に戦い、陳州に戦い、皆大捷し、その城を復す。兀朮、兵十二万を臨潁県に頓す。楊再興これと戦い、之に死す。憲継いて至り、その潰兵八千を破り、兀朮夜遁す。憲の将徐慶・李山、また臨潁の東北に捷し、その衆六千を破り、馬百匹を獲、奔るを追うこと十五里、中原大いに震う。
時に秦檜和を主とし、飛に班師を命ず。憲もまた還る。未だ幾ばくもせず、檜と張俊、飛を謀殺せんと謀り、密かに飛の部曲を誘い、能く飛の事を告ぐる者には優賞を以て寵せんとす。卒いに人応ずるなし。飛嘗て王貴を斬らんと欲し、又これを杖ちしことを聞き、貴を誘いて飛を告げしむ。貴肯わず、曰く、「大将と為る者は寧ろ賞罰を以て人を用うることを免れんや、苟も以て怨みと為さば、将にその怨みに勝えざらん」と。檜・俊、貴を屈せしむること能わず。俊、私事を以て貴を劫い、貴懼れて従う。時にまた王俊と云う者あり、告訐を善くし、「雕児」と号し、姦貪を以て屡々憲に裁かれたり。檜人をしてこれを諭せしむると、俊すなわち従う。
檜・俊、憲・貴・俊皆飛の将なるを以て謀り、その徒をして自ら相攻発せしめ、因って飛父子に及ぼさんとし、庶くは主上疑わざらんことを図る。俊自ら状を為して王俊に付し、妄りに憲が飛の兵を還さんと謀ることを言い、王貴に告げしめ、貴をして憲を執らしめんとす。憲未だ至らざるに、俊予め獄を為してこれを待つ。属吏王応求、張俊に白して、密院に推勘の法なしと為す。俊聴かず、親しく行って鞫煉し、憲をして自ら誣らしめ、岳雲の書を得て、憲に兵を還す計を営ましめたると謂わしむ。憲掠せられて全き膚無く、竟に伏せず。俊手ずから具獄を成し、檜に告げて憲を械し行在に至らしめ、大理寺に下す。
楊再興
飛襄陽に屯して中原を図り、再興を遣わして西京長水県の業陽に至らしめ、孫都統及び統制満在を殺し、五百余人を斬り、将吏百人を俘え、余党奔潰す。明日、再び孫洪澗に戦い、その衆二千を破り、長水を復し、糧二万石を得て以て軍民に給し、西京の険要を尽く復す。又た偽斉の留めし馬万匹、芻粟数十万を得る。中原応ず。復た蔡州に至り、賊の糧を焚く。
飛金人を郾城に敗る。兀朮怒り、龍虎大王・蓋天大王及び韓常の兵を合して之を逼る。飛子雲を遣わして敵に当たらしめ、鏖戦数十合、敵支えず。再興単騎を以てその軍に入り、兀朮を擒にせんとすれど獲ず、手ずから数百人を殺して還る。兀朮甚だ憤り、力を併せて復た来たり、兵十二万を臨潁に頓す。再興三百騎を以て小商橋にて敵に遇い、驟ちにこれと戦い、二千余人及び万戸撒八孛堇・千戸百人を殺す。再興戦死す。後その屍を獲て焚くに、箭鏃二升を得たり。
牛皐
牛皐、字は伯遠、汝州魯山の人。初め射士となり、金人が侵入すると、皐は衆を集めて戦い、しばしば勝利し、西道総管の翟興が上表して保義郎に補任した。杜充が東京留守となると、皐は魯山において劇賊の楊進を討ち、三度戦い三度勝利し、賊党は奔り潰えた。累遷して栄州刺史・中軍統領となった。金人が再び京西を攻めると、皐は十余戦して皆勝利した。果州団練使を加えられた。京城留守の上官悟が辟して同統制兼京西南路提点刑獄とした。江西を攻めた金人が荊門より北帰する際、皐は宝豊の宋村に軍を潜めてこれを撃破した。和州防禦使に転じ、五軍都統制を充てた。また孛堇と魯山の鄧家橋で戦い、これを破った。西道招撫使に転じた。偽斉が金に師を乞いて侵入すると、皐は要地に伏兵を設け、自らは丹霞に駐屯して待機した。敵兵が衆を挙げて来ると、伏兵が発動し、その酋豪の鄭務児を捕虜とした。安州観察使に遷り、まもなく蔡唐州信陽軍鎮撫使・蔡州知事を除された。敵に遭遇すれば戦って必ず勝ち、親衛大夫を加えられた。
岳飛が江西・湖北を制置し、襄・漢より中原を規制しようとした時、皐を飛の軍に隷属させた。飛は大いに喜び、直ちに辟して唐鄧襄郢州安撫使とし、まもなく神武後軍中部統領に改めた。偽斉が李成を使わして金人と合流して侵入し、襄陽六郡を破った。敵将の王嵩が随州にいたので、飛は皐を行かせ、三日分の糧を携帯させた。糧が尽きないうちに城は既に陥ち、嵩を捕らえて斬り、兵卒五千を得て、遂に随州を回復した。李成が襄陽にいたので、飛は皐に騎兵を率いてこれを撃破させ、襄陽を回復した。
金人が淮西を攻めると、飛は皐に江を渡らせ、自ら兵を提げて皐と会合した。時に偽斉が甲騎五千を駆って廬州に迫ると、皐は遠く金将に向かって言った、「牛皐ここにあり、汝ら輩は何ゆえ侵犯するか」。衆は皆愕然とし、戦わずして潰走した。飛は皐に言った、「必ずこれを追え、去ってまた来れば益なし」。皐は三十余里を追撃し、金人は互いに踏み合い殺し合う者が半ばとなり、その副都統及び千戸五人、百戸数十人を斬り、軍声は大いに振るった。
廬州が平定され、中侍大夫に進んだ。楊么の平定に従い、これを破った。么は術尽き、鍾子儀を挙げて水中に投じ、続いて自ら倒れた。皐は水中に投じて么を擒にし、飛はその首を斬り函に入れて都督行府に送った。武泰軍承宣使を除され、行営護聖中軍統制に改め、まもなく湖北・京西宣撫司左軍統制を充て、龍・神衛四廂都指揮使を加えられた。
金人が盟約を破ると、飛は皐に出師させて汴・許の間で戦わせ、功績最も優れたため、捧日天武四廂都指揮使・成徳軍承宣使を除し、枢密行府は皐に提挙一行事務を兼ねさせた。宣撫司が廃止されると、鄂州駐劄御前左軍統制に改め、真定府路馬歩軍副統総管に昇進し、寧国軍承宣使・荊湖南路馬歩軍副総管に転じた。
紹興十七年の上巳の日、都統制の田師中が諸将を大会し、皐は毒に遇い、急ぎ帰宅し、親しい者に語って言った、「皐は年六十一、官は侍従に至り、幸い足るに過ぎず。恨むらくは南北が和し、馬革に屍を裹まず、ただ窓下に死するのみ」。翌日卒去した。或いは秦檜が師中に皐を毒殺させたという。
初め、檜が和議を主導したが、まもなく金が盟約を破って侵入したので、帝は手札を賜い飛に便宜を措置させた。飛は乃ち皐及び王貴・董先・楊再興・孟邦傑・李宝等に命じて東西京・汝・鄭・潁・陳・曹・光・蔡の諸郡を経略させ、また梁興に河を渡らせ、忠義社を糾合して河東北の州県を取らせた。まもなく、李宝は曹州において、宛亭において、渤海廟において勝利し、董先・姚政は潁昌において勝利し、劉政は中牟において勝利した。張憲は潁昌・淮寧府を回復し、王貴の将の楊成は鄭州を回復し、張応・韓清は西京を回復した。皐及び傅選は京西において、黄河上において勝利した。孟邦傑は永安軍を回復し、その将の楊遇は南城軍を回復し、また劉政と西京において勝利した。梁興は太行の忠義及び両河の豪傑の趙雲・李進・董栄・牛顕・張峪等と会し、垣曲において金人を破り、また沁水において勝利し、孟州の邵原まで追撃し、金の張太保・成太保等がその部を率いて降伏し、また済源において金の高太尉の兵を破った。喬握堅等は趙州を回復し、李興は河南府において、永安軍において勝利し、梁興は河北において懐・衛の二州を取り、兀朮の軍を大破し、山東・河北の金帛馬綱の路を断ち、金人は大いに擾乱した。まもなく、岳飛は朝に還り、獄に下されて死し、世の人はこれを恨みとしたという。
胡閎休
胡閎休、字は良㢸、開封の人。宣和初年、太学に入る。時に兵を諱む風潮があり、閎休は『兵書』二巻を著した。靖康初年、知兵科が創設され、閎休が応試し、優等に中り、承信郎に補された。
金人が城を囲むと、閎休は地を分けて守った。二帝が金の営に赴くと、閎休は義士を結んでこれを奪回しようとしたが、何㮚がこれを禁止した。二帝が北遷されると、范瓊が勤王師を解散させたので、閎休は言った、「勤王師は進むべくして退くべからず」。檄文に靖康の年号がなく随軍を命じるのを得て、閎休は涙を流し、檄文を懐いて走り、辛道宗に従って勤王した。南渡し、忠義により二官を進んだ。湖湘に盗賊が起こると、或いは招撫が適当と言い、或いは討伐が適当と言い、閎休は『致寇』・『禦寇』の二篇を作り、天地の気は春が先で秋が後であり、招撫して服従しなければ討伐すべきと論じた。ここにおいて岳飛を招討使とし、飛は閎休を辟して主管機宜文字とした。鍾子儀を誅した功績により、成忠郎に進んだ。
飛が誣告されて死ぬと、閎休は憤慨して門を閉ざし、十年間病を装い、卒去した。『勤王忠義集』を家に蔵した。孫:照、徳安太守。
論じて曰く、王徳は平素より威略あり、早く劉光世に隷属し、その恃むべからざるを審らかにし、晩年に張俊に従い、遂に功名を顕わした。その選択を知るかな。王彦は家を棄てて国に赴き、累ねて堅敵を破り、威は河朔に振るったが、晩年に兵権を奪われ、郡を治めさせられた。その材を用いるに違えり、惜しむべし。魏勝は崛起し、甲兵糧餉の資なく、数千の烏合の衆を提げ、金人数十万の師に抗し、遂に一州を全うし、名は当時に震う。壮なるかな。然れども諸将に忌まれ、援なくして戦死す。また惜しむべし。張憲等の五人はいずれも岳飛の部将にして、敵に畏れられ、また一時の傑なり。然れども或いは戦没し、或いは憤死し、憲は飛の獄を証せずして冤死す。悲しいかな。