宋史

列傳第一百二十五 劉錡 呉玠 呉璘

劉錡

劉錡、字は信叔、徳順軍の人、瀘川軍節度使劉仲武の第九子なり。容姿美しく、射術に長じ、声は洪鐘の如し。嘗て仲武に従い征討に赴き、牙門の水斛満たるや、箭を以て之を射、箭を抜けば水注ぎ出で、随いて一矢を以て之を塞ぐ。人その精妙に服す。宣和年間、高俅の推薦により、特旨を以て閤門祗候を授かる。

高宗即位し、仲武の後を録す。錡召見を得、帝之を奇とし、特旨を以て閤門宣賛舎人を授け、差して岷州知州と為し、隴右都護に任ず。夏人と戦い屡々勝つ。夏人の児啼けば、輒ち之を怖して曰く「劉都護来たる!」と。張浚陝西を宣撫す。一見して其の才を奇とし、以て涇原経略使兼渭州知州と為す。浚五路の師を合して富平に潰え、慕洧慶陽に叛き、環州を攻む。浚錡に命じて之を救わしめ、別将を留めて渭を守らしめ、自ら将いて環を救う。未だ幾ばくもせず、金渭を攻む。錡李彦琪を留めて洧を捍がしめ、親しく精鋭を率いて還り渭を救う。已に及ばず、進退すべからず、乃ち徳順軍に走る。彦琪遁れて渭に帰り、金に降る。錡秩を貶じられ、綿州知州兼沿辺安撫を命ぜらる。

紹興三年官を復し、宣撫司統制と為る。金人和尚原を攻め抜く。乃ち陝・しょくの地を分守す。時に使者蜀より帰り、錡の名を以て聞ゆ。召還され、帯御器械を除され、尋いで江東路副総管と為る。六年、権提挙宿衛親軍。帝平江に駐蹕す。解潜・王彦両軍交闘し、俱に罷めらる。錡に命じて兼ねて之を将わしむ。錡因りて請う、以前護副軍及び馬軍を以て、通じて前・後・左・右・中軍と游奕と為し、凡そ六軍、毎軍千人、十二将と為さんと。前護副軍は、即ち王彦の八字軍なり。ここに於て錡始めて軍を成し、扈従して金陵に赴く。七年、合肥を帥す。八年、京口を戍す。九年、果州団練使・龍神衛四廂都指揮使に擢げられ、侍衛馬軍司を主管す。

十年、金人三京を帰す。東京副留守に充てられ、軍馬を節制す。所部の八字軍僅か三万七千人。将に発せんとし、殿司の三千人を益し、皆其の妻子を携え、将に汴に駐らんとし、家は順昌に留む。錡臨安より江を溯り淮を絶ち、凡そ二千二百里。渦口に至り、方に食らわんとす。暴風坐帳を抜く。錡曰く「此れ賊の兆なり、暴兵を主る」と。即ち令を下し兼程して進む。未だ至らざるに、五月、順昌に三百里に抵る。金人果たして盟を敗り来たり侵す。

錡将佐と舟を捨て陸行し、先ず城中に趨る。庚寅、諜報す、金人東京に入る。知府事陳規錡に見えて計を問う。錡曰く「城中糧有らば、則ち能く君と共に守らん」と。規曰く「米数万斛有り」と。錡曰く「可なり」と。時に所部の選鋒・游奕両軍及び老幼輜重、相去ること尚遠し。騎を遣わして之を趣らしむ。四鼓に至りて乃ち至る。旦に報を得るに及び、金騎已に陳に入る。

錡規と議し兵を斂めて城に入り、守禦の計と為す。人心乃ち安んず。諸将を召して事を計る。皆曰く「金兵敵すべからず。精鋭を以て殿と為し、歩騎老小を遮り順流して江南に還らんことを請う」と。錡曰く「吾本より官に赴き留司せんとす。今東京は失うと雖も、幸いに全軍此に至り、守るべき城有り。奈何ぞ之を棄てんや。吾が意已に決す。敢えて去ると言う者斬らん」と。惟だ部将許清「夜叉」と号する者奮い曰く「太尉は命を奉じ汴京を副守せんとす。軍士老幼を扶携して来る。今避けて走らば、易きのみ。然れども父母妻子を棄てんと欲すれば則ち忍びず。之と偕に行かんと欲すれば、則ち敵翼して攻め、何くにか之を逃れん。相与に努力して一戦し、死中に生を求むるに如かず」と。議錡と合す。錡大いに喜び、舟を鑿ちて之を沈め、去るの意無きを示す。家を寺中に置き、薪を門に積み、守者に戒めて曰く「脱し不利有らば、即ち吾が家を焚き、辱めを敵手に受くる毋かれ」と。諸将を分命して諸門を守らしめ、斥候を明らかにし、土人を募り間探と為す。ここに於て軍士皆奮い、男子は戦守を備え、婦人は刀剣を礪ぎ、争い呼び躍りて曰く「平時人は我が八字軍を欺く、今日当に国家の為に賊を破り功を立てん」と。

時に守備一として恃むべき無し。錡城上に躬自ら督厲し、偽斉の造りし癡車を取り、輪轅を以て城上に埋め、又民戸の扉を撤し、周匝に之を蔽う。城外に民居数千家有り、悉く之を焚く。凡そ六日にして粗く畢り、而して遊騎已に潁河に渉り城下に至る。壬寅、金人順昌を囲む。錡予め城下に伏を設け、千戸阿黒等二人を擒え、之を詰む。云く「韓将軍白沙渦に営し、城を距ること三十里」と。錡夜千余人を遣わして之を撃ち、連戦し、殺虜頗る衆し。既にして三路都統葛王褎兵三万を以て、龍虎大王と合兵し城に薄る。錡諸門を開かしむ。金人疑いて敢えて近づかず。

初め、錡城に傅きて羊馬垣を築き、垣に穴を為して門とす。是に至り、清等と垣を蔽いて陣と為す。金人矢を縦つも、皆垣の端より軼れて城に著き、或いは止だ垣上に中るのみ。錡破敵弓を用い、神臂・強弩を以て翼と為し、城上より或いは垣門より敵を射るに、中らざる無し。敵稍く卻る。復た歩兵を以て邀撃し、河に溺れ死する者算うべからず。其の鉄騎数千を破る。特旨を以て鼎州観察使・枢密副都承旨・沿淮制置使を授く。

時に順昌囲まれること已に四日、金兵益々盛ん。乃ち砦を東村に移し、城を距ること二十里。錡ぎょう将閻充に命じ壮士五百人を募り、夜其の営を斫らしむ。是の夕、天雨せんと欲し、電光四起す。辮髪する者を見れば輒ち之を殲す。金兵十五里退く。錡復た百人を募りて往かしむ。或いは枚を銜むるを請う。錡笑いて曰く「枚を用うる無かれ」と。竹を折りて嘂と為すを命ず。市井の児の以て戯れと為すが如く、人各一を把り以て号と為し、直ちに金営を犯す。電の燭する所は則ち皆奮撃し、電止めば則ち匿れて動かず。敵衆大いに乱る。百人の者吹声を聞けば即ち聚まる。金人益々測る能わず、終夜自ら戦い、積屍野に盈ち、老婆湾に退軍す。

兀朮汴に在りて之を聞き、即ち靴を索めて馬に上り、淮寧を過ぎ一宿を留まり、戦具を治め、糗糧を備え、七日を経ずして順昌に至る。錡兀朮の至るを聞き、諸将を会して城上に策を問う。或いは謂う、今已に屡捷す、此の勢に乗じ、舟を具え全軍して帰るべしと。錡曰く「朝廷兵を養うこと十五年、正に緩急の用の為なり。況んや已に賊鋒を挫き、軍声稍く振う。衆寡相侔わざると雖も、然れども進有りて退無し。且つ敵営甚だ邇く、而して兀朮又来る。吾が軍一たび動けば、彼其の後に躡えば、則ち前功俱に廃せん。敵をして両淮を侵軼せしめ、江・浙を震驚せしめば、則ち平生報国の志、反って誤国の罪と成らん」と。衆皆感動し奮わんと思い、曰く「惟だ太尉の命に従う」と。

錡曹成等二人を得て募り、之に諭して曰く「汝を遣わして間と作さしむ。事捷てば重賞す。第に我が言の如くせば、敵必ず汝を殺さじ。今汝を綽路騎中に置かん。汝敵に遇えば則ち佯って馬に墜ち、敵の得る所と為れ。敵帥我が何如なる人ぞと問わば、則ち曰く『太平の辺帥の子、声伎を喜ぶ。朝廷両国講好を以て、東京を守らしめて逸楽を図らしむるのみ』と」と。已にして二人果たして敵に遇い捕えらる。兀朮之を問う。前に如く対す。兀朮喜びて曰く「此の城破り易し」と。即ち鵝車砲具を置きて用いず。翌日、錡城に登り、二人遠くより来るを見る。縋りて之を上す。乃ち敵曹成等を械して帰し、文書一卷を械に繫ぐ。錡軍心を惑わすを懼れ、立って之を焚く。

兀朮が城下に至り、諸将の敗戦を責めると、衆は皆言うには、「南朝の用兵は、昔に比ぶるべからず、元帥自ら城に臨めば見えましょう」と。劉錡は耿訓を遣わし書を以て戦を約す。兀朮怒りて曰く、「劉錡何ぞ敢えて我と戦わんとする。我が力をもって爾が城を破るには、直に靴の先で蹴り倒すのみ」と。訓曰く、「太尉はただ太子と戦わんことを請うのみならず、且つ太子必ずや河を渡ることを敢えざるべしと謂い、願わくは浮橋五所を献じ、渡りて大戦せん」と。兀朮曰く、「諾」と。乃ち令を下して明日府治に会食せしむ。夜明け近く、劉錡果たして潁河の上に五つの浮橋を為す。敵これに由りて渡る。

劉錡は人を遣わし潁水の上流及び草の中に毒を入れ、軍士に戒めて曰く、たとえ渇死すとも、河の水を飲むことなかれ、飲めばその族を夷すべしと。敵は長勝軍を用いて厳陣を布き、諸酋各々一部に居る。衆は先ず韓将軍を撃たんことを請う。劉錡曰く、「韓を撃てば退くとも、兀朮の精兵は尚お当たるべからず。法は先ず兀朮を撃つべし。兀朮一たび動けば、則ち余は為す能わざるなり」と。

時に天は大いに暑く、敵は遠来して疲弊し、劉錡の士気は閑暇なり。敵は昼夜甲を解かず、劉錡の軍は皆番休して羊馬垣の下にて食を更む。敵の人馬は飢渇し、水草を食う者はすなわち病み、往々にして困乏す。方に晨気清涼なるに、劉錡は兵を按じて動かず、未・申の間に及んで、敵は力疲れ気索く。忽ち数百人を遣わし西門より出でて戦を接す。俄かに数千人を以て南門より出づ。令を戒めて喊えざるべく、ただ鋭斧を以て之を犯すべしと。統制官趙撙・韓直は身に数矢を中つるも、戦いて肯えて已まず、士卒は殊死に闘い、その陣に入り、刀斧乱れ下り、敵は大いに敗る。この夕大雨、平地水深さ尺余。乙卯、兀朮は営を抜き北へ去る。劉錡は兵を遣わし之を追わしむ。死者万数。

方に大戦せし時、兀朮は白袍を被り、甲馬に乗り、牙兵三千を以て戦を督う。兵は皆重鎧甲を着し、「鉄浮図」と号す。鉄の兜牟を戴き、周匝に長簷を綴る。三人を一伍と為し、韋索を以て貫く。一歩進むごとに、即ち拒馬を用いて之を擁す。人一歩進めば、拒馬も亦進み、退いて却くべからず。官軍は槍を以てその兜牟を標げ去り、大斧を以てその臂を断ち、その首を砕く。敵は又鉄騎を以て左右の翼を分かち、「拐子馬」と号す。皆女真の者を以て之を為し、「長勝軍」と号し、専ら堅きを攻むるに用い、戦酣にして然る後に之を用う。兵を用うる以来、向かうところ前なるもの無し。是に至り、亦た劉錡の軍に殺さる。戦いは辰より申に至り、敵敗れ、遽かに拒馬木を以て之を障ぎ、少しく休む。城上の鼓声絶えず、乃ち飯羹を出だし、坐して戦士に餉すること平時の如し。敵は披靡して敢えて近づかず。食すこと已り、拒馬木を撤し、深く入りて敵を斬り、又大いに之を破る。屍を棄て馬を斃し、血肉枕藉し、車旗器甲、積みて山阜の如し。

初め、河北の軍ありて官軍に告げて曰く、「我ら輩は元は左護軍なり、本より闘志無く、殺すべき者は両翼の拐子馬のみ」と。故に劉錡は力を以て之を撃つ。兀朮が平素恃みて強しと為すところの者、十の内七八を損ず。陳州に至り、諸将の罪を数え、韓常以下皆之を鞭ち、乃ち自ら衆を擁して汴に還る。捷報聞こえ、帝は甚だ喜び、劉錡を武泰軍節度使・侍衛馬軍都虞候・知順昌府・沿淮制置使に授く。

この役、劉錡の兵は二万に満たず、出戦する者は僅かに五千人。金兵数十万西北に営し、十五里に亘る。毎夕、鼓声山谷を震わすも、然れども営中讙譊し、終夜声有り。金は人を遣わし城に近づき窃かに聴くも、城中は肅然として、鶏犬の声無し。兀朮の帳前には甲兵環列し、燭を把りて夜を照らし、その衆は分番して馬上に仮寐す。劉錡は逸を以て労を待ち、以て故に輒ち勝つ。時に洪皓燕に在りて密かに奏す、「順昌の捷は、金人震恐喪魄し、燕の重宝珍器、悉く徙して北に運び、意は燕以南を捐てて棄てんと欲す」と。故に議者謂う、この時諸将心を協せ、路を分かち追討せば、則ち兀朮は擒にすべく、汴京は復すべし。而るに王師亟に還り、自ら機会を失う、まことに惜しむべしと。

七月、命ぜられて淮北宣撫判官と為り、楊沂中を副え、太康県にて敵兵を破る。未だ幾ばくもせず、秦檜は請うて沂中をして師を還らしめ鎮江に鎮ましめ、劉錡は太平州に還らしめ、岳飛は兵を以て行在に赴かしむ。出師の謀はここに寝す。

十一年、兀朮は復た両河の兵を簽し、謀りて再び挙らんとす。帝も亦た敵情を測知し、必ず一挫にて遂に已まざるべしと、乃ち詔して大いに兵を淮西に合して之を待たしむ。金人は廬・和の二州を攻む。劉錡は太平より江を渡り、廬州に抵り、張俊・楊沂中と会す。而して敵は已に大いに侵入す。劉錡は東関の険に拠りてその衝を遏ぎ、兵を引きて清溪に出で、両戦皆勝つ。行きて柘皐に至り、金人と石梁河を夾みて陣す。河は巢湖に通じ、広さ二丈、劉錡は命じて薪を曳き橋を壘み、須臾にして成る。甲士数隊を遣わし橋を路みて槍を臥せて坐す。会すに沂中・王德・田師中・張子蓋の軍俱に至る。

翌日、兀朮は鉄騎十万を以て両隅に分かち、道を夾みて陣す。王德その右隅に迫り、弓を引きて一酋を射て之を斃し、因りて大呼して馳せ撃ち、諸軍鼓譟す。金人は拐子馬を以て両翼より進む。王徳は衆を率いて鏖戦し、沂中は万兵を以て各々長斧を把り奮い撃つ。敵は大いに敗る。劉錡は王徳等と之を追い、又東山にて敗る。敵望み見て曰く、「これ順昌の旗幟なり」と。即ち退き走る。

劉錡は和州に駐まり、旨を得て、乃ち兵を引きて江を渡り太平州に帰る。時に並びに三帥を命ずるも、相い節制せず。諸軍の進退は多く張俊より出づ。而して劉錡は順昌の捷に因りて驟に貴し。諸将多く之を嫉む。張俊は沂中と腹心を為し、而して劉錡と隙有り。故に柘皐の賞、劉錡の軍独り与からず。

数日居りて、班師を議す。而して濠州急を告ぐ。張俊は沂中・劉錡とともに黄連埠に趨りて之を援う。濠より六十里なるに、南城已に陥つ。沂中は進み戦わんと欲す。劉錡は張俊に謂いて曰く、「本は濠を救わんとす。今濠已に失う。師を退きて険に拠り、徐かに後図を為すに如かず」と。諸将曰く、「善し」と。三帥鼎足して営す。或いは言う、敵兵已に去れりと。劉錡又謂いて曰く、「敵城を得て遽かに退くは、必ず謀有り。宜しく厳に之を備うべし」と。張俊従わず、沂中と王徳に命じて神勇の歩騎六万人を将い、直ちに濠州に趨らしむ。果たして伏に遇い敗れて還る。

夜明け近く、劉錡の軍は藕塘に至る。則ち沂中の軍は已に滁州に入り、張俊の軍は已に宣化に入る。劉錡の軍方に食せんとするに、張俊至りて曰く、「敵兵已に近し、奈何」と。劉錡曰く、「楊宣撫の兵は安在ぞ」と。張俊曰く、「已に利を失いて還れり」と。劉錡は張俊に語りて曰く、「恐るる無かれ。劉錡請う歩卒を以て敵を禦わん。宣撫試みに之を観よ」と。劉錡の麾下皆曰く、「両大帥の軍は已に渡る。我が軍何ぞ苦しんで独り戦わん」と。劉錡曰く、「順昌は孤城にして、旁らに赤子の助け無し。吾が兵を提くること二万に満たざるも、猶お勝を取るに足る。況んや今地利を得、又鋭兵有るをや」と。遂に三覆を設けて之を待つ。俄かに張俊至りて曰く、「諜者妄りなり。乃ち戚方の殿後の軍のみ」と。劉錡と張俊は益々相い下らざる。

ある夜、張俊の軍士が放火して劉錡の軍を掠奪したので、劉錡は十六人を捕らえ、首を斬って槍の先に掲げた。残りは皆逃げ去った。劉錡が張俊に会うと、張俊は怒って劉錡に言った、「我は宣撫使である。お前は判官に過ぎぬ。どうして我が軍を斬ることができようか」。劉錡は言った、「宣撫使の軍とは知りませんでした。ただ砦を掠奪した賊を斬っただけです」。張俊は言った、「帰還した兵卒が言うには、砦を掠奪したことはないという」。一人を呼び出して対質させた。劉錡は厳しい表情で言った、「劉錡は国家の将帥である。罪があるなら、宣撫使は朝廷に上奏すべきであり、どうして兵卒と対質などできましょうか」。深く揖して馬に乗り去った。やがて、皆軍を返した。張俊と楊沂中は朝廷に帰還し、しばしば岳飛が援軍に赴かなかったこと、そして劉錡が奮戦しなかったことを言上した。秦檜がこの説を支持し、遂に劉錡の宣撫判官を罷免し、荊南府の知事に任じるよう命じた。岳飛が劉錡を留めて兵を掌握させるよう上奏したが、許されず、詔により武泰軍節度使の官をもって江州太平観の提挙とした。

劉錡が荊南を鎮守すること凡そ六年、軍民は安堵した。魏良臣が劉錡は名将であるから、長く閑職にあるべきではないと上言した。そこで潭州知事に任じ、太尉を加え、再び荊南府の帥(長官)とした。江陵県の東に黄潭があった。建炎年間、役人が賊を防ぐために水を江に決壊させたため、これにより夏秋の増水時に溢れ、荊州・衡州の間は皆水害を受けた。劉錡は初めてこれを塞ぐことを命じ、数千畝の肥沃な田を開拓し、流民が自ら占拠した者は数千戸に及んだ。詔により劉錡は大礼の際に文官の任用を上奏することを許され、またその甥の劉汜を江東路兵馬副都監とした。

三十一年、金主完顔亮は軍六十万を動員し、自ら将として南来し、見渡す限り数十里、銀の壁のように連なり、朝廷内外は大いに震駭した。当時、古参の将は一人もいなかったので、劉錡を江淮・浙西制置使とし、各路の軍馬を統轄させた。八月、劉錡は兵を率いて揚州に駐屯し、大将の旗鼓を立て、軍容は甚だ厳粛で、見る者は嘆息した。兵を清河口に駐めさせると、金人は氈で船を包んで糧食を運んできたので、劉錡は水泳の巧みな者に命じてその船を沈めた。劉錡は楚州から召伯鎮に退軍した。金人が真州を攻撃すると、劉錡は兵を率いて揚州に戻った。帥の劉澤は城を守れないとして、瓜洲に退軍するよう請うた。金の万戸高景山が揚州を攻撃すると、劉錡は員琦を遣わして皂角林で防がせ、包囲に陥り奮戦し、林の中から伏兵が現れ、大いにこれを破り、高景山を斬り、数百人を捕虜とした。捷報が奏上されると、金五百両、銀七万両を賜って軍を犒労した。

先に、金人は精兵を淮東に留めて劉錡を防ぎ、重兵をもって淮西に入ることを議した。大将の王権は劉錡の統轄に従わず、戦わずして潰走し、清河口から軍を退いて揚州に至り、船で真州・揚州の民を江の南に渡し、兵を留めて瓜洲に駐屯させた。劉錡は病を得て、兵権の解除を求め、その甥の劉汜に千五百人を率いさせて瓜洲の渡しを塞がせ、また李横に八千人を率いさせて堅固に守らせた。詔により劉錡に専ら江の防備を命じ、劉錡は遂に鎮江に帰還した。

十一月、金人が瓜洲を攻撃すると、劉汜は克敵弓で射てこれを退けた。時に知枢密院事の葉義問が江淮の軍を督師し、鎮江に至り、劉錡の病が重いのを見て、李横に劉錡の軍を代行させた。葉義問は鎮江の兵を督いて江を渡ろうとしたが、衆は皆不可とし、葉義問は強行した。劉汜は固く出戦を請うたが、劉錡は従わず、劉汜は家廟に拝礼して出発した。金人は重兵をもって瓜洲に迫り、兵を分けて東の江岸に出て、逆に瓜洲に向かった。劉汜は先に退き、李横は孤軍で当たることができず、やはり退却し、その都統制の印を失い、左軍統制の魏友、後軍統制の王方が戦死し、李横と劉汜は僅かに身一つで免れた。

諸軍が江を渡って北に向かった時、劉錡は人に黄と白の旗を持たせて高山に登らせて見張らせ、戒めて言った、「賊が来たら白旗を挙げよ。合戦したら二旗を挙げよ。勝ったら黄旗を挙げよ」。この日、二旗が挙がったが、時を過ぎて、劉錡は言った、「黄旗が久しく挙がらない。我が軍は危うい」。劉錡は憤懣し、病はますます重くなった。都督ととく府参賛軍事の虞允文が采石から来て、舟師を督いて金人と戦った。虞允文が鎮江を通り過ぎ、劉錡を訪ねて病を問うた。劉錡は虞允文の手を取って言った、「病など問うには及びません。朝廷が三十年兵を養い、一つの技も施さず、大功はかえって一儒生から出るとは、我々は恥ずかしくて死にたいほどです」。

朝廷に召し出され、万寿観の提挙となった。劉錡は都亭駅を借りて住んだ。金の聘使が来ようとした時、留守の湯思退は館を整えて待ち、黄衣の者を遣わして劉錡に別試院に移るよう告げさせた。劉錡は劉汜が自分に累を及ぼしたのではないかと疑い、常に後の命令を恐れた。三十二年閏二月、劉錡は怒りを発し、数升の血を吐いて卒した。開府儀同三司を追贈し、その家に銀三百両、帛三百匹を賜った。後に「武穆」と諡された。

劉錡は慷慨として深沈剛毅、儒将の風があった。金主完顔亮の南征に際し、敢えて劉錡の姓名を言う者は赦さないと下令した。南朝の諸将を列挙し、その部下に誰が敢えて当たる者があるかと問うと、皆その姓名に応じて即座に答えたが、劉錡に至っては、応える者はいなかった。金主は言った、「我が自ら当たろう」。しかし劉錡はついに病のため成功できなかった。世に伝わるには、劉錡は陰陽家に通じ、行軍の際に避けるべきことと就くべきことを知っていたという。劉錡が揚州にいた時、城外の家屋を全て焼き払い、石灰で城壁を真っ白に塗り、書して「完顔亮ここに死す」と記した。金主は忌み嫌うことが多く、これを見て嫌悪し、遂に亀山に居を構えたが、人が多く収容できず、これが変事の原因となったという。

呉玠

呉玠、字は晉卿、徳順軍隴干の人である。父が水洛城に葬られたため、そこに移り住んだ。若い頃から沈毅で志節があり、兵事に通じ騎射に優れ、書を読んで大義を通じることができた。冠礼前、良家の子として涇原軍に属した。政和年間、夏人が辺境を侵犯した時、功により進義副尉に補され、次第に隊将に抜擢された。方臘討伐に従い、これを破った。また河北の群盗を撃ち、功を重ねて権涇原第十将となった。靖康初年、夏人が懐徳軍を攻撃すると、呉玠は百余騎で追撃し、百四十級を斬首し、第二副将に抜擢された。

建炎二年春、金人が黄河を渡り、大慶関から出て、秦雍を略奪し、涇原に向かおうと謀った。都統制の曲端が麻務鎮を守り、呉玠を前鋒と命じ、青溪嶺を占拠して進み、逆襲して大いにこれを破り、三十里にわたって追撃し、金人は初めて畏怖の念を抱いた。権涇原路兵馬都監兼知懐徳軍となった。金人が延安府を攻撃すると、経略使の王庶が曲端に進軍を召したが、曲端は邠州に駐屯して赴かず、かつ言った、「その巣穴を掃蕩し、必ず救おうとする所を攻撃する方が良い」。曲端は遂に蒲城を攻撃し、呉玠に命じて華州を攻撃させ、これを陥落させた。

三年冬、大賊の史斌が漢中を寇掠したが、陥せず、兵を率いて長安ちょうあんを取ろうとした。曲端は呉玠に命じてこれを撃ち斬らせ、忠州刺史に遷った。宣撫処置使の張浚が関陝を巡視し、参議軍事の劉子羽が呉玠兄弟の才勇を称えた。張浚が呉玠と語り、大いに喜び、即座に統制に任じ、弟の呉璘に帳前親兵を掌握させた。

四年春、涇原路馬歩軍副総管に昇進した。金の帥の婁宿と撒離喝が長駆して関中に入った。曲端は呉玠を彭原店に派遣して防がせ、自らは兵を擁して邠州にいて援護とした。金兵が攻めて来ると、呉玠はこれを撃破し、撒離喝は恐れて泣き、金軍中では「啼哭郎君」とあだ名された。金人が軍を整えて再戦すると、呉玠の軍は敗北した。曲端は涇原に退いて駐屯し、呉玠が節度に違反したと弾劾し、武顕大夫に降格し、総管を罷免し、再び懐徳軍知事とした。張浚は呉玠の才能を惜しみ、まもなく秦鳳副総管兼知鳳翔府とした。当時は兵火の余りであったが、呉玠は労来安集し、民はこれにより生き延びた。忠州防禦使に転じた。

九月、張浚は五路の兵を合わせ、金人と決戦せんと欲したが、呉玠は要害を各々守り、その疲弊を待って乗ずべきであると述べた。富平に至り、都統制がまた諸将を集めて戦を議うと、呉玠は言った、「兵は利によって動く。今、地勢が利ならず、可なりとするを見ず。高き阜を選んでこれを拠り、勝ち得ざらしむべきである」。諸将は皆言った、「我は衆にして彼は寡く、また前に葦沢に阻まれ、敵は騎兵を用いることができぬ。どうして他に移る必要があろうか」。やがて敵が急に至り、柴を輿にし土を嚢にし、泥濘を踏みならして進み、呉玠の営を攻め寄せた。軍はついに大いに潰え、五路とも陥落し、巴蜀はしょくは大いに震動した。

呉玠は散卒を収めて散関の東、和尚原を守り、粟を積み兵を繕い、柵を列ねて死守の計を立てた。ある者は呉玠に漢中に退いて守り、蜀口を扼して人心を安んずべきであると言った。呉玠は言った、「我ここを保てば、敵は決して我を越えて進むことは敢えてせず、堅壁を臨めば、彼は我がその後に躡うことを懼れる。これこそ蜀を保つ所以である」。呉玠が原上にいると、鳳翔の民はその遺した恩恵に感じ、共に夜に芻粟を輸送してこれを助けた。呉玠は銀帛をもって償い、民はますます喜び、輸送する者はますます多くなった。金人は怒り、伏兵を渭河に置いてこれを邀撃し殺害し、かつ保伍に連坐を命じたが、民は禁を冒して従前の如く、数年してやむ。

紹興元年、金の将没立は鳳翔より、別将烏魯折合は階・成より出て散関を経て、期日を約して和尚原で会合せんとした。烏魯折合が先に期より早く到着し、北山に陣を布いて戦を求めた。呉玠は諸将に堅陣を命じてこれを待ち、戦いを交代し休みを繰り返させた。山谷の路は狭く石多く、馬は行くことができず、金人は馬を捨てて歩戦したが、大敗し、砦を黄牛に移した。ちょうど大風雨雹があり、ついに遁走した。没立が箭筈関を攻撃しているところに、呉玠はまた将を遣わしてこれを撃退し、両軍はついに合流することができなかった。

初め、金人の侵入にあたり、呉玠と呉璘は散卒数千を率いて原上に駐屯し、朝廷との連絡は絶え、人々に固き志がなかった。呉玠兄弟を劫いて北へ去らんと謀る者があったが、呉玠はこれを知り、諸将を召して歃血して盟い、忠義をもって励ました。将士は皆感激して泣き、用いられんことを願った。張浚はその功を記録し、承制により明州観察使に任じた。母の喪に服していたが、起復し、兼ねて陝西諸路都統制となった。

金人は海角より起こって以来、常勝に慣れ、呉玠と戦うやつねに敗北したため、憤り甚だしく、必ず呉玠を取らんと謀った。婁宿が死ぬと、兀朮は諸道の兵十余万を集め、浮梁を造って渭水を跨ぎ、宝雞より連珠営を結び、石を積んで城とし、澗を挟んで官軍と対峙した。十月、和尚原を攻撃した。呉玠は諸将に勁弓強弩を選ばせ、番を分けて繰り返し射させ、「駐隊矢」と号し、連発して絶えず、雨の如く注いだ。敵が少し退くと、奇兵をもって傍らから撃ち、その糧道を絶った。その困窮してかつ走らんとするを推し量り、伏兵を神坌に設けて待った。金兵が至ると、伏兵が発し、衆は大いに乱れた。兵を放って夜襲し、これを大いに破った。兀朮は流れ矢に中り、僅かに身をもって免れた。張浚は承制により呉玠を鎮西軍節度使とし、呉璘を涇原路馬歩軍副総管とした。兀朮は既に敗れたので、ついに河東より燕山に帰った。また撒離喝を陝西経略使とし、鳳翔に屯して呉玠と相持した。

二年、呉玠を兼ねて宣撫処置使司都統制とし、興・文・龍の三州を節制させた。金は久しく蜀を窺い、呉璘が和尚原に兵を駐めてその衝を扼するため、思い通りにならず、奇計をもってこれを取らんとした。時に呉玠は河池におり、金人は叛将李彦琪を用いて秦州に駐屯させ、仙人関を睨んで呉玠を引きつけさせた。また游騎を出して熙河に至らせ関師古を引きつけさせ、撒離喝は商於より直ちに上津を擣った。三年正月、金州を取った。二月、長駆して洋・漢に趨き、興元守臣劉子羽は急ぎ田晟に命じて饒風関を守らせ、駅伝の書をもって呉玠を招き入援させた。

呉玠は河池より日夜三百里を馳せ、黄柑を敵に贈って言った、「大軍遠く来たり、聊か渇きを止むるに用いよ」。撒離喝は大いに驚き、杖をもって地を撃って言った、「なんじ来ること何ぞ速やかなるや」。ついに饒風嶺で大戦した。金人は重鎧を着け、山を登り仰ぎ攻めた。一人先に登れば二人が後に擁し、先の者既に死すれば後の者が代わって攻めた。呉玠軍は弓弩を乱発し、大石を摧き圧し、このようにすること六昼夜、死者は山のように積もったが敵は退かなかった。敢死の士を募り、人ごとに銀千を与え、五千の士を得て、挟み撃ちにせんとした。ちょうど呉玠の小校で罪を得て金に奔った者がおり、祖渓の間道を導き、関の背後に出て、高きに乗じて饒風を闞した。諸軍は支えきれず、ついに潰え、呉玠は西県に退いて守った。敵は興元に入り、劉子羽は三泉に退いて守り、潭毒山に築いて自らを固め、呉玠は三泉に走ってこれと会した。

間もなく、金人は北に帰らんとした。呉玠は急ぎ兵を遣わして武休関で邀撃し、その後軍を掩撃した。澗に堕ちて死する者千を数え、輜重を尽く棄てて去った。金人の当初の謀りごとは、もとより呉玠が西辺にいると考え、故に険しい道を東より来たり、呉玠の馳せ至ることを予期しなかったのである。三郡に入ったとはいえ、失うものは得るに償わず。呉玠を進めて検校少保とし、利州路・階成鳳州制置使を充てた。

四年二月、敵はまた大いに侵入し、仙人関を攻めた。先だって、呉璘は和尚原におり、糧餉の補給が続かなかった。呉玠はまたその地が蜀から遠いと考え、呉璘に命じてこれを棄てさせ、仙人関の右、殺金平を経営し、一つの堡塁を創築して、原の兵を移してこれを守らせた。この時、兀朮・撒離喝および劉夔が十万騎を率いて侵入し、鉄山より崖を鑿ち道を開き、嶺に循って東下した。呉玠は一万をもってその衝に当たった。呉璘は軽兵を率いて七方関より倍道して至り、金兵と転戦すること七昼夜、ようやく呉玠と合流することができた。

敵はまず呉玠の営を攻めたが、呉玠はこれを撃退した。また雲梯をもって堡塁を攻めると、楊政は撞竿をもってその梯を砕き、長矛をもってこれを刺した。呉璘は刀を抜いて地を画し、諸将に言った、「死するはここに死せよ。退く者は斬る」。金は軍を二つに分け、兀朮は東に陣し、韓常は西に陣した。呉璘は鋭卒を率いてその間に介在し、左に縈り右に繞き、機に随って発した。戦い久しく、呉璘軍は少し疲弊し、急ぎ第二の隘に屯した。金の生力軍が踵を接して至り、人は重鎧を着け、鉄鉤で相連なり、魚貫として登った。呉璘は駐隊矢をもって繰り返し射かけ、矢は雨の如く降り、死者は層のように積もり、敵はこれを踏みつけて登った。撒離喝は馬を駐めて四方を視て言った、「我これを得たり」。翌日、西北楼を攻撃することを命じた。姚仲は楼に登って酣戦し、楼が傾くと、帛をもって繩とし、これを引き戻して復た正した。金人は火をもって楼を攻め、酒缶をもってこれを撲滅した。呉玠は急ぎ統領田晟を遣わして長刀大斧をもって左右より撃たせ、明炬を四山に掲げ、鼓を震わして地を動かした。明日、大いに出兵した。統領王喜・王武は鋭士を率い、紫・白の旗に分かれて金の営に入り、金の陣は乱れた。奮撃し、韓常を射て左目に中てた。金人はようやく夜に遁走した。呉玠は統制官張彦を遣わして横山砦を劫い、王俊に河池に伏せて帰路を扼させ、またこれを破った。郭震が戦い力まずとして、これを斬った。この役において、金は元帥以下、皆妻子を携えて来た。劉夔は劉の腹心である。もとより蜀を図るべしと考えたが、既に思い通りにならず、呉玠は終に犯し難いと推し量り、則ち還って鳳翔に拠り、甲士に田を授け、久留の計とし、これより後は妄りに動かなくなった。

捷報が聞こえ、呉玠を川陝宣撫副使に任じた。四月、鳳・秦・隴の三州を回復した。七月、仙人関の功を記録し、検校少師・奉寧保定軍節度使に拝し、呉璘は防御使より定国軍承宣使に昇進し、楊政以下は遷秩差等があった。六年、兼ねて営田大使とし、保平・静難の節を易えた。七年、裨将馬希仲を遣わして熙州を攻撃させたが、敗績し、また鞏州を失った。呉玠はこれを斬った。

玠は敵と対峙することおよそ十年、常に遠方からの糧秣輸送が民を苦しめることを憂い、たびたび冗員を淘汰し、無駄な出費を節減し、ますます屯田を整備し、年間収穫は十万斛に達した。また戍兵を動員し、梁州・洋州の守将に命じて褒城の廃れた堰を修復させると、民は灌漑が頼りになると知り、帰農を願う者が数万家に及んだ。九年、金人が和議を請うた。帝は玠の功績が高いとして、特進・開府儀同三司を授け、四川宣撫使に遷任し、陝西の階州・成州などの州はすべてその指揮下に置かれた。内侍を遣わして親筆の書簡を賜ったが、到着した時には、すでに玠の病状は甚だ重く、支えられながら命を拝聴した。帝はこれを聞いて憂慮し、守臣に命じて蜀に赴き良医を求めさせ、さらに宮廷の医師を急行させて診察させたが、到着する前に、玠は仙人関で卒去した。享年四十七。少師を追贈され、銭三十万を賜った。

玠は史書を読むことを得意とし、師とすべき往事はすべて書き留めて座右に置き、積もり積もって、壁や窓は格言で埋め尽くされた。用兵は孫子・呉子を本とし、遠大な方略に務め、小さな近利を求めなかったので、必勝を保つことができた。部下を統御するには厳格でありながら恩恵をもってし、虚心に諮問して受け入れ、自らが大将であっても、兵卒に至るまで下情を上達させることができたので、士卒は喜んで彼のために死んだ。将佐を選抜任用するには、功労と能力を見て順位の高低・前後を決め、親族や旧知、権貴によってそれを曲げることはなかった。

玠が死ぬと、胡世将が玠の勝利の要因を尋ねたところ、璘は言った。「璘が先兄に従って西夏と戦った時は、毎戦、一進一退のわずかな間に勝負が決した。しかし金人に対しては、互いに進み退きを繰り返し、忍耐強く堅固で持久し、命令は厳酷で部下は必死であり、毎戦数日を経なければ決着せず、勝っても急いで追撃せず、敗れても乱れることはない。これは昔からの用兵で未だ見たことのないもので、彼らと長く争ううちに、ようやくその実情を得た。金人の弓矢は、中国のものほど強力鋭利ではない。中国の士卒は、金人の堅忍強靭さには及ばない。我々は常に優れた技術で数百歩の外から重甲を貫き、そうすれば彼らの突撃は到底及ばない。そこで地形の便利なところを選んで占拠し、精鋭の兵を繰り出して絶え間なく撹乱し、彼らと際限なく戦い、休む暇を与えず、その堅忍の勢いを挫くのである。両陣の間で機を決する段階となれば、璘にも言葉では言い表せないものがある。」

晩年はかなり多くの嗜欲があり、人を成都に遣わして女色を漁らせ、丹石を服用するのを好んだので、喀血の病を得て死んだ。かつて富平の敗戦の時、秦鳳の地はすべて陥落し、金人は一意に蜀を狙い、東南の情勢も切迫していたが、玠がその衝に身を挺して当たらなければ、蜀はとっくに失われていたであろう。故に西の人々は今に至るまで彼を偲んでいる。諡は「武安」、仙人関に廟が建てられ、「思烈」と号された。淳熙年間、涪王に追封された。子は五人:拱、扶、撝、拡、摠。拱もまた兵権を握ったという。

吳璘

吳璘、字は唐卿、玠の弟である。若い頃から騎射を好み、玠に従って攻戦し、功を積んで閤門宣贊舍人に至った。紹興元年、箭筈関の戦いで、沒立と烏魯折合の軍を遮断して合流させず、金人が敗走したが、璘の功績が多かったため、統制和尚原軍馬に超遷され、この時玠は河池に軍を駐屯させ、璘は専ら和尚原を守備した。及んで兀朮が大挙侵入すると、玠兄弟は死守した。敵陣は分合すること三十余り、璘は機に応じて対応し、神坌で伏兵が発動するに至り、金兵は大敗し、兀朮は流れ矢に当たって敗走した。張浚が承制により璘を涇原路馬歩軍副都総管とし、康州団練使に昇進させた。

三年、栄州防禦使・知秦州に遷り、階州・文州を管轄した。この年、玠が祖溪嶺で敗れたが、この時璘はまだ和尚原におり、玠は璘に命じて和尚原を放棄し別に仙人関に営を構え、金人の深く侵入するのを防がせた。四年、兀朮・撒離喝が果たして大兵十万を率いて関下に至ると、璘は武州・階州の路から入って救援した。先ず書簡を玠に送り、殺金平は地勢が広く遠く、前陣が散漫であるから、後陣が険阻な地形で防ぎ、そうしてこそ必勝できると述べた。玠はこれに従い、急いで第二の隘路を修築した。璘は包囲を突破して転戦し、仙人関で合流した。敵は果たして全力で第二の隘路を攻撃し、諸将の中には別に形勝の地を選んで守ることを請う者もいたが、璘は奮って言った。「戦いが始まったばかりで退くのは、戦わずして逃げるようなものだ。我はこの敵が去るのも間もないと見ている。諸君はただ耐えるがよい。」と。鼓を鳴らし旗幟を変え、連日血戦した。金兵は大敗し、二人の酋長はこれ以後数年、蜀を窺うことができなかった。

露布を奉って勝利を報じ、定国軍承宣使・熙河蘭廓路経略安撫使・知熙州に遷った。六年、新たに行営両護軍が設置され、璘は左護軍統制となった。九年、都統制に昇進し、まもなく秦鳳路経略安撫使・知秦州を拝命した。玠が卒去すると、璘に龍神衛四廂都指揮使を授けた。

当時、金人が劉豫を廃し、河南・陝西の地を返還した。楼炤が陝西に使節として赴き、便宜により三帥に命じて陝西を分けて守らせようとし、郭浩に鄜延を統率させ、楊政に熙河を統率させ、璘に秦鳳を統率させ、川口の諸軍をすべて陝西に移そうとした。璘は言った。「金人は反覆して信じ難く、他の変事を恐れる。今我々が軍を陝右に移せば、蜀口は空虚となり、敵もし南山から我が陝右軍を遮断し、直ちに蜀口を衝けば、我々は戦わずして屈服するであろう。しばらくは山に依って屯し、要害を押さえ、敵の実情が現れ力が疲れるのを待ち、漸次に進んで占拠することを図るべきである。」炤はこれに従い、璘と楊政の両軍に命じて内陸に屯して蜀を守らせ、郭浩の一軍に延安に屯して陝を守らせた。

まもなく胡世将が四川制置として宣撫司事を代行し、河池に到着すると、璘はこれに会って言った。「金の大軍は河中府に屯しており、大慶橋一つを隔てているだけである。騎兵が疾駆すれば、五日と経たずして川口に到達する。我が軍は遠く陝西におり、緊急時には追い集めることができず、関隘は修復されず、糧食の輸送は断絶する。これぞ存亡の秋である。璘の家族など顧みるに足りないが、国事はいかがなものか。」当時、朝廷は和議を頼みとして戦備を忘れ、仙人関を廃そうとしていた。そこで世将は強く上奏して言った。「外には和好を固め、内には守備を修めるべきである。今日の分兵は、陝と蜀が相接するようにすべきである。近く兵士の賀仔が探り知ったところでは、撒離喝が密かに謀って言うには、『蜀に入るのは難しくない。陝西を顧みず放棄すれば、三、五年のうちに南兵(宋軍)が必ず来てこれを支配するであろう。道路は我々がすでに熟知している。一挙に蜀を取ることは必定である。』と。敵情がこのようである以上、万一その通りになれば、我々は謀略を挫く備えをなすべきであり、仙人関を軽々しく廃すべきではなく、魚関倉にもまた糧食を蓄積すべきである。」そこで璘はわずかに牙校三隊を率いて秦州に赴き、大軍を留めて階州・成州の山砦を守らせ、諸将に備えを撤去してはならないと戒めた。世将はまもなく正式に宣撫に任じられ、役所を河池に置いた。

十年、金人が盟約を破った。詔により璘は陝西諸路軍馬を管轄することとなった。撒離喝が黄河を渡って長安に入り、鳳翔に向かうと、陝右の諸軍は敵の背後に隔てられ、遠近震恐した。この時、楊政は鞏におり、郭浩は鄜延におり、ただ璘のみが世将に従って河池にいた。世将は急いで諸将を召して議したが、ただ涇原の帥田晟のみが楊政とともに到着し、参謀官孫渥は河池は守れないとして、仙人原に退いて守ることを主張した。璘は声を厲してこれを論破し言った。「臆病な言葉で軍を沮喪させる者は斬るに値する。璘は一族を挙げて敵を撃破することを保証する。」世将はこれを壮とし、自分の住む帳を指して言った。「世将はここで死ぬことを誓う。」そこで孫渥を涇原に遣わし、田晟に三千人を率いて敵を迎え撃たせた。璘はまた姚仲を遣わして石壁砦で防がせ、これを撃破した。詔により、陝西諸路軍馬を共同で管轄することとなった。

璘は書簡を金将に送って戦いを約し、金の鶻眼郎君が三千騎で璘の軍を衝いたが、璘は李師顔に命じて驍騎でこれを撃退した。鶻眼は扶風に入ったが、再びこれを攻め落とし、三将及び女真百十七人を捕虜とした。撒離喝は大いに怒り、自ら百通坊で戦い、陣を二十里にわたって布いた。璘は姚仲を遣わして力戦してこれを破らせ、鎮西軍節度使を授けられ、侍衛歩軍都虞候に昇進した。十一年、金の統軍胡盞と剡家湾で戦い、これを破り、秦州及び陝右の諸郡を回復した。

初めに、胡盞と習不祝が軍を合わせて五万を率い劉家圈に駐屯したので、呉璘はこれを討つことを請うた。世将(胡世将)が策を問うと、璘は言う、「新たに立てた『疊陣』の法があります。戦いのたびに、長槍を前に置き、座ったまま起つことを許さず、次に最強の弓、次に強弩を置き、跪いて待機させ、次に神臂弓を置きます。賊が相搏つまで百歩以内に至れば、神臂弓をまず発し、七十歩で強弓を一斉に発し、次の陣もこれに倣います。凡そ陣を布くには、拒馬を限界とし、鉄鉤で互いに連ね、傷ついた者があれば代えさせます。交代に遇えば鼓を以て節とします。騎兵は両翼を以て前に蔽い、陣が成れば騎兵は退き、これを『疊陣』と謂います」と。諸将は初め密かに議論して言う、「我が軍はここで殲滅されるのではないか」と。璘は言う、「これは古の束伍の令であり、軍法にこれがあるが、諸君は識らないだけである。車戦の余意を得て、これに優るものはなく、戦士の心が定まれば則ち能く満を持し、敵たとえ鋭くとも、当たることはできぬ」と。

二酋(胡盞・習不祝)は兵事に老練で、険阻に拠り自ら固め、前は峻嶺に臨み、後は臘家城を控え、我が軍が必ずや軽々しく犯すことは敢えぬだろうと考えた。前日、呉璘は諸将を集めて攻撃の方法を問うと、姚仲が言う、「山上で戦えば勝ち、山下で戦えば敗れる」と。璘はこれを然りとし、敵に戦いを請うことを告げたが、敵はこれを笑った。璘は夜半に姚仲及び王彦を遣わし枚を銜ませて坡を遮断させ、二将が嶺に上ってから火を挙げることを約した。二将が嶺に至ると、寂として人声なく、軍は既に列を畢え、万の炬火が一斉に発せられた。敵は驚愕して言う、「我が事は敗れた」と。習不祝は謀略に長け、胡盞は戦闘に長け、二酋は意見を異にした。璘は先ず兵を以て挑発すると、胡盞は果たして出て来て激戦した。璘は疊陣法を以て休みながら代わる代わる戦い、軽裘を着て馬に駐まり急ぎ麾すと、兵士は必死に戦い、金軍は大敗した。降伏する者は万人に及び、胡盞は逃れて臘家城を守り、璘はこれを包囲して攻撃した。城は陥ちんとした時、朝廷より駅伝の書をもって璘に班師を詔し、世将はただ浩歎するのみであった。翌年、ついに和尚原を割いて敵に与えた。守備を撤き地を割くこと、皆秦檜がこれを主導したのである。

十二年(紹興十二年)、入朝し、検校少師・階成岷鳳四州経略使に拝され、漢中の田五十頃を賜う。十四年、朝議により利州路を東西の二路に分け、璘を西路安撫使とし、治所を興州とし、階・成・西和・鳳・文・龍・興の七州をこれに隷属させた。当時和議は固く、璘は軍を治め武を経営し、常に敵が至るが如くであった。十七年、奉国軍節度使に移り、行営右護軍を御前諸軍都統制に改め、安撫使は元の如し。二十一年、辺境を守って安静であることを以て、少保に拝される。二十六年、興州駐紮御前諸軍都統制の職事を領し、判興州に改める。江を渡って以来、使相が都統制となる者はなく、当時璘は既に開府儀同三司であったので、故にこれを改めて命じたのである。

三十一年(紹興三十一年)、金主亮が盟に叛き、四川宣撫使に拝される。秋、亮が淮を渡り、合喜を西元帥として遣わし、兵を以て大散関を扼させ、遊騎をもって黄牛堡を攻撃させた。璘は即座に肩輿に乗って殺金平に上り、軍を青野原に駐め、内郡の兵を益々調発して分道して進ませ、方略を授けた。制置使王剛中が来て璘と計事を合わせ、璘は間もなく檄文を契丹・西夏及び山東・河北に移し、金人の罪を声して討伐を致す。間もなく、陝西・河東招討使を兼ねる。璘は病を以て興州に還り、総領の王之望が馳せて書を執政に告げ、璘は病多く、急な事態があれば、蜀の形勢必ず危うからんと謂う。璘の甥で京襄の帥たる呉拱を蜀に帰らせ、西師を助けしむることを請うた。凡そ五度書したが返答がなかった。璘は既に病を押して、再び仙人関に上った。

三十二年(紹興三十二年)、呉璘は姚仲を遣わして鞏を取らせ、王彦を商・虢・陝・華に駐屯させ、惠逢を遣わして熙河を取らせた。或いは久しく攻めて下さず、或いは既に得てまた失い、ついに成功しなかった。金軍は大散関を占拠すること六十余日、相持して破ることができなかった。姚仲は鞏を捨てて徳順を攻めること既に四十日を過ぎ、璘は夔州知州の李師顔を以てこれに代え、子の呉挺を遣わして軍馬を節制させた。挺は敵と瓦亭で戦い、これを破った。璘自ら将として城下に至ると、城壁を守る者が「相公来たる」と聞き、観望してため息をつき、矢を発するに忍びなかった。璘は諸屯を巡行し、予め黄河の戦地を整え、命令に従わぬ者を斬り、先ず数百騎を以て敵を試した。敵が一たび鼓を鳴らすと、鋭士が空いた壁から躍り出て璘の軍を突いた。璘の軍は先に地を整えていたので、一もって十に当たる者無からず。暮れに至り、璘は忽ち「某将戦ふこと力まず」と伝呼すると、人々は益々奮って搏ち、敵は大敗し、壁中に遁走した。黎明、軍を再び出すと、敵は壁を堅くして動かず。会うこと天大風雷、金人は営を抜いて去り、凡そ八日でこれを陥落させた。璘が城に入ると、市は肆を改めず、父老が馬を擁して迎え拝すること絶えなかった。璘は間もなく河池に還った。

四月、原州が包囲を受け、呉璘は姚仲に命じて徳順の兵を以て往き救援させ、璘自ら鳳翔に赴いて師を視た。諸将は力戦したが、敵の攻撃は益々急で、増兵して七万に至った。五月、姚仲が敵と原州の北嶺で戦い、仲は敗績した。初め、姚仲は徳順より原に至り、九龍泉より北嶺に上り、諸軍に満を持して行を引かせた。盧士敏の兵を前陣とし、統べる所の軍六千を四陣とし、姚仲の兵を後拒とした。地に随い便利に従って列し、敵と激戦し、開合数十度。会うこと輜重隊が陣に随い乱れて行くと、敵兵がこれを衝き、軍は遂に大潰し、将を三十余人失った。初め、璘が出師するに当たり、王之望が嘗て言う、「この行の士卒の鋭気は、前時に及ばず、姚仲は年来数奇にして、要地に委すべからず」と。仲が原に至った時、璘もまた仲に書を送り、原の包囲は即座には解けぬであろうから、暫く徳順に還れと謂った。書が届かぬうちに仲は敗れ、璘もまた功無く還った。間もなく仲の兵を奪い、これを斬らんとしたが、或る者の勧めで止め、械を以て河池の獄に繋いだ。

孝宗が禅を受け、璘に劄子を賜い、陝西・河東路宣撫招討使を兼ねることを命じた。璘は金人が必ずや再び徳順を争うと策し、急ぎ馳せて城下に赴くと、完顔悉烈等の兵十余万が果たして来攻した。万戸の豁豁がまた精兵を率いて鳳翔より継いで至った。璘は東山に堡を築いて守ると、敵は極力これを争い、殺傷過半に及んだが、終にこれを陥とすことができなかった。当時議者は、兵が外に宿り、川口から遠く、敵の襲撃を恐れ、三路(秦・隴・鞏)を棄てんとす。遂に詔して璘に退師せしむ。敵はその後を乗じ、璘の将士で死亡する者甚だ多く、三路は再び敵の有するところとなった。少傅に拝される。隆興二年冬、金人が岷州を侵すと、璘は兵を提げて祁山に至り、金人はこれを聞き、師を退き、使を遣わして来告して言う、「両国は既に和を講じた」と。会うこと詔が至り、共に解いて去った。

沈介が四川安撫・制置使となり、璘と議が合わず、兵部侍郎の胡銓が上書し、言葉が璘に頗る及んだ。璘は抗章して朝請し、上(孝宗)自ら劄子を以て報可した。半道に至らぬうちに、宣撫使の罷免及び致仕を請うたが、皆允されなかった。乾道元年、闕下に詣で、中使を遣わして労問し、便殿に召対し、徳寿宮に朝することを許された。高宗が璘を見て歎いて言う、「朕と卿とは、老いた君臣である、数え入見すべし」と。璘は頓首して謝した。両宮の存労の使は相踵ぎ、また皇子に入謁せしむることを命じた。太傅に拝され、新安郡王に封ぜられる。数日を過ぎて、詔して仍って宣撫使を領し、判興元府に改める。鎮に還るに及び、両宮の宴餞は甚だ寵であった。璘が徳寿宮に入辞すると、涙を下した。高宗もまたこれがために悵然とし、佩いていた刀を解いてこれを賜い、言う、「異時に朕を思わば、これを見るべし」と。

璘は漢中に至り、褒城の古堰を修復し、数千頃の田を灌漑し、民は大いに便益を得た。三年、卒す。享年六十六。太師を贈られ、信王を追封された。上は震悼し、視朝を二日間輟め、賻贈を加等した。高宗はさらに銀千両を賜う。初め、璘が病篤く、幕客を呼んで遺表を草せしめ、直ちにその事を書くよう命じて曰く、「願わくは陛下、四川を棄てることなかれ、軽々しく出兵することなかれ」と。家事には及ばず、人はその忠を称えた。

璘は剛勇にして、大節を喜び、苛細を略し、史を読んで大義を曉った。兄に代わって将となり、蜀を守ること二十余年、隠然として方面の重鎮となり、威名は玠に次いだ。高宗嘗て勝敵の術を問うと、璘曰く、「弱者を出して戦わせ、強者を以て之に継がしむ」と。高宗曰く、「これ孫臏の三駟の法なり、一敗して二勝す」と。

嘗て『兵法』二篇を著し、大略に謂う、「金人に四長あり、我に四短あり、まさに我が短を反し、彼の長を制すべし。四長とは騎兵、堅忍、重甲、弓矢なり。吾れ蕃漢の長を集め、兼ね収めて並び用い、分隊を以て其の騎兵を制し;番休迭戦を以て其の堅忍を制し;其の重甲を制するには、則ち勁弓強弩を以てし;其の弓矢を制するには、則ち遠を以て近を克ち、強を以て弱を制す。陣を布くの法は、則ち歩軍を以て陣心・左右翼と為し、馬軍を以て左右脇と為し、拒馬を両脇の間に布く;帖撥を至りて増損の同じからざるは、則ち臨機に係る」と。兵を知る者は之を取る。

王剛中嘗て劉錡の美を談ずると、璘曰く、「信叔は雅量有れども英概無し、天下雷同して之を誉む、恐らく逆亮に当たる能わざるべし、璘窃かに之を憂う」と。剛中然りとせず、錡果たして功無く、憂憤を以て卒す。璘は諸将を選ぶに率ね功を以てす。才を薦むる者有り、璘曰く、「兵官は嘗試せざれば、其の才を知り難し。小善を以て之を進むれば、則ち僥倖の者志を得、而して辺人の宿将の心怠る」と。子に挺あり。

子 挺

挺、字は仲烈、門功を以て官に補わる。璘に従い中郎将と為り、西兵を部して行在に詣る。高宗、西辺の形勢・兵力と戦守の宜しきを問うと、挺、占対して旨に称し、超えて右武郎・浙西都監兼御前祗候を授けられ、金帯を賜う。尋いで利路鈐轄を差し、利州東路前軍同統制に改め、継いで西路に改む。

紹興三十一年、金人盟に渝る。璘、宣撫使として三路の兵を総べ之を禦ぐ。挺、自ら軍前に力を尽くさんことを願い、璘は中軍統制と為す。王師既に秦州を復すや、金将合喜孛堇、叛将張中彦を介して兵を率い来たり争う。挺、其の治平砦を破る。已にして南市城の賊も亦た掎角と為り援け、転戦竟日。挺、前軍統制梅彦に命じ衆を麾いて直ちに城門を拠らしむ。衆、諭せず、彦も亦た力敵せざるを懼る。挺之を督す。彦、兵を出して殊死に戦う。挺、背嵬騎を率い、尽く黄旗に易え、敵の後ろに出で、高きに憑りて之を突く。敵譁いて曰く、「黄旗児至れり」と。遂に驚き敗る。挺、自ら功と為さず、彦を第一と状す。士頗る之を多しとす。璘も亦た嫌を引き、並びに其の功を匿す。栄州刺史に擢げられ、尋いで熙河経略・安撫使を拝す。

明年、挺、檄を受けて都統制姚仲と東西路の兵を率い徳順を攻む。金左都監、平涼の衆を空しくして合喜を援け、又た精兵数万を鳳翔より遣わし来たり会す。仲は軍を六盤に駐め、挺独り瓦亭に趨り、身を矢石に冒し、衆之に従う。金人、騎を捨て短兵を操り奮闘す。挺、別将を遣わし其の馬を尽く奪わしむ。金衆遂に潰る。挺、兵を勒して之を追い、千戸耶律九斤・孛堇等百三十七人を禽す。

金人、前の衄に懲り、悉く兵を徳順に趨らす。璘、秦州より来たり師を督し、先ず険に壁し、且つ夾河の戦地を治む。金人果たして大いに至る。挺之を誘致し、治むる所の戦地に至らしめ、盛兵を以て之を蹙め、敵支える能わず、一夕にして遁去す。鞏州久しく下らず。挺、選鋒を以て城下に至る。諸将咸に曰く、「西北の坡陀の地は攻め易し。若し兵を分ち各々一面に当たらば、利を得る宜し」と。挺曰く、「西北は卑しと雖も土堅く、東南は河に並び沙礫多く善く圮つ。且つ兵分かれば則ち少なく、少を以て堅城に当たらば、下すことを得べけんや」と。乃ち命じて衆を悉くして東南の隅を撃たしむ。二日とせず、楼櫓俱に尽きる。夜半、其の将雷千戸、降を約す。黎明、城破る。功を以て団練使を授けられ、又た瓦亭の功を以て郢州防禦使を授けらる。

孝宗即位し、璘に陝西・河東路招討宣撫使を兼ね加う。璘、敵必ず再び徳順を争わんことを慮り、河池より至る。金人果たして兵十余万を合し柵を列ねて以て拒ぐ。大酋有りて騎数千を引き東山を睨む。璘、挺に命じ騎を領いて迎撃せしめ、之を却く。遂に東山を拠り、堡を築きて守る。敵争う能わず、乃ち益々攻具を修め、大車を為りて戦士を其の中に匿し、将に隍を填めて進まんとす。挺、命じて大木を掄り中道に植えしむ。車至りて前進を得ず。武昌軍承宣使を拝し、尋いで龍神衛四廂都指揮使・熙河路経略安撫使中軍統制を加えらる。時に年二十五。会す朝廷和議を主とし、詔して西師に厳を解かしむ。父子遂に軍を旋す。

乾道元年、本軍都統制に升る。三年、父の命を以て入奏し、侍衛親歩軍指揮使を拝し、興州軍馬を節制す。璘卒す。起復して金州都統・金房開達安撫使と為り、利州東路総管に改む。挺、力を尽くして終喪を求め、服除け、召されて左衛上将軍と為る。朝廷方に神武中軍五千人を置きて以て御前に属せしめんと議し、挺を都統制と命ず。挺、力陳して祖宗の法を軽く変うべからざるを論じ、事遂に寝す。主管侍衛歩軍司公事を拝す。

挺、毎に燕見するに従容として、嘗て両淮の形勢曠漫なるを論じ、備え多きは力を分かち、宜しく勝地を択び重兵を以て扼し、敵仰ぎ攻むれば則ち克たず、西南を越えんとすれば又た敢えず、我れ全力を以て其の弊に乗ずれば、済まざる蔑しと。帝頗る嘉納す。淳熙元年、興州都統に改め、定江軍節度使を拝す。初め、軍中自ら宕昌に互市を置き、以て羌馬を来たし、西路の騎兵遂に天下に雄たり。張松榷牧を典としてより、奏して軍中の互市を絶ち、自ら馬を以て之に給し、得る所多く下駟なり。挺至り、首に利害を陳べて以て聞こえ、歳に五百匹を市うことを乞う。詔して七百匹を許す。

初め、武興の所部、諸郡に就き餉うも、漫として相属せず。挺奏して十軍を以て名と為し、北辺より武興に至り五軍を列ね、曰く踏白・摧鋒・選鋒・策選鋒・游奕;武興より西、綿に至りて左・右・後の三軍;而して武興に駐まる者は前軍・中軍。営部是に於いて始めて井井然たり。四年、入覲し、知興州・利州西路安撫使を除く。密かに皂郊堡を修し、二堡を増し、戎器を繕い、両庫に儲う。敵終に覚えず。

十年冬、特に検校少保を加う。成州・西和歳大いに祲う。挺、力を振恤に尽くし、総賦者に諭して軍儲を分かち以て之を佐けしむ。全活すること殆ど数千万。蜀、諸軍の宿師より以来、凡そ廩賜は、官率ね糴三の一を以てし、価の高下を視て之に給し、名づけて「折估」と曰い、屯する所の地に随い相い乗除を為す。歳久しく他に徙り屯すも、廩賜旧に易えず、至るには同部伍にして廩相い倍蓰する者有り。挺、之を裒めて中制と為し上る。

光宗即位の際、御筆を以て褒賞労い給う。然るに西和・階・成・鳳・文・龍の六州の器械は整備されず、挺は冗費を節し、工徒を屯し、悉くこれを創り為す。軍を統御すること厳なりと雖も、能くその緩急を時に合わせ、士卒は以て困窮せず。郡の東北に二谷水有り、挺は二堤を築きてこれを防ぐ。紹熙二年、水暴発して城に入る。挺は既に水害を受けた者を救済し、復た長堤を増築し、民はこれに頼りて安んず。詔して辺備の急務を問うや、即ち儲蓄を増やす策を建て、これにより糧秣欠乏せず。四年春、疾を以て致仕を乞う。詔して太尉を加う。卒す。年五十六。少師・開府儀同三司を贈られる。

挺は少より勲閥に起り、その貴きに居らず、賢を礼し士を下し、小官賤吏に遇うも敢えて怠忽せず。将士を撫循し、人々に恩有り。璘の故部曲が庭下に拝すれば、輒ち降りてこれに答え、即ち律を失すれば、誅治すること少しも貸さず。璘嘗て孝宗に対し言う、諸子の中に惟だ挺のみ任に堪うべしと。孝宗も亦曰く、「挺は朕が千百人中より選びし者なり」と。歳時を問い労うこと絶えず、遇されること尤も深厚なり。光宗は内府の珍奇を賜い、以て殊礼を示す。子五人、曦は其の次なり。曦は仕えて太尉・昭信軍節度使に至り、叛を以て誅せらる。別伝に見ゆ。

論じて曰く、劉錡は神機武略、奇を出して勝を制し、順昌の捷は威敵国に震い、韓信かんしんの泜上の軍と雖も、以てこれに過ぐるは無し。或いは其の英概は足らず、雅量は余り有りと謂う。豈に其れ然らんや。呉玠は弟璘と智勇忠実、力を戮め心を協し、険に拠りて敵に抗し、卒に蜀を保全し、功名を以て終わる。盛んなるかな。挺は累ね征討に従い、功效甚だ著しく、父の風有り。然れども玠は晩年頗る荒淫に流れ、璘は多く喪敗す。豈に常勝に狃れ、驕心侈るか。抑も三世将を為し、逆曦の変を醸成し、其の宗祀を覆す。蓋し由る所有らん。