宋史

列傳第一百二十四 岳飛

岳飛、字は鵬挙、相州湯陰の人。代々農業に従事。父の和は、食を節して飢えた者を救うことができた。耕作してその地を侵す者があれば、割いて与え、財を借りた者には償いを責めなかった。飛の生まれる時、大きな禽鳥が鵠の如く、飛び鳴いて屋上にいたので、これによって名とした。満月に至らぬうち、河が内黄で決壊し、水が急に至った。母の姚が飛を抱いて甕の中に坐し、波濤を衝いて岸に及び免れたので、人はこれを異とした。

少より気節を負い、沈厚にして寡言、家貧しくして力学し、特に左氏春秋・孫呉の兵法を好んだ。生まれながら神力あり、冠せざるに、弓三百斤を引き、弩八石。周同に射を学び、その術を尽くし、左右射することができた。同が死ぬと、朔望にその冢に祭を設けた。父はこれを義として、「汝は時に用いられ、国に殉じ義に死するであろうか」と言った。

宣和四年、真定宣撫劉韐が敢戦士を募ると、飛は応募した。相に劇賊陶俊・賈進和がおり、飛は百騎を請うてこれを滅ぼした。卒を遣わし商人と偽って賊の境内に入らせると、賊は掠って部伍に充てた。飛は百人を山下に伏せさせ、自ら数十騎を率いて賊の塁に迫った。賊が出て戦うと、飛は偽って敗走し、賊が追って来ると、伏兵が起こり、先に遣わした卒が俊及び進和を擒らえて帰った。

康王が相に至ると、飛は劉浩を通じて謁見し、賊の吉倩を招くことを命じられ、倩は衆三百八十人を率いて降った。承信郎に補す。鉄騎三百を以て李固渡に赴き敵を嘗め、これを破った。浩に従って東京の囲みを解き、敵と滑南で相持し、百騎を率いて河上で兵を習わせた。敵が突然至ると、飛はその徒を指揮して言った、「敵は衆しといえども、我が虚実を知らず、その未だ定まらざるに及んでこれを撃つべし」。乃ち独り馳せて敵を迎え撃った。梟将が刀を舞わして前に進むと、飛はこれを斬り、敵は大敗した。秉義郎に遷り、留守宗沢に隷属した。開徳・曹州で戦い、いずれも功あり、沢は大いにこれを奇として言った、「爾の勇智才芸は、古の良将も過ぎることはできない。しかし野戦を好み、万全の計ではない」。因って陣図を授けた。飛は言った、「陣して後に戦うは、兵法の常なり。運用の妙は、一心に存す」。沢はその言を是とした。

康王が即位すると、飛は数千言の上書をし、大略に、「陛下は既に大宝に登り、社稷に主あり、既に敵を伐つ謀は足り、勤王の師は日に集まる。彼は我が平素弱しと謂う。その怠りに乗じてこれを撃つべし。黄潜善・汪伯彦の輩は聖意を承けて恢復せず、車駕を奉じて日に南に進み、恐らくは中原の望を繫ぐに足らず。臣は願わくは陛下が敵の穴未だ固からざるに乗じ、親しく六軍を率いて北渡されんことを。然らば則ち将士気を作し、中原復すべし」。書が聞こえ、越職を以て官を奪われ帰った。

河北招討使張所に詣でると、所は国士をもって待遇し、修武郎を借補し、中軍統領に充てた。所が問うて言った、「汝は幾何に敵することができるか」。飛は言った、「勇は恃むに足らず、用兵は先ず謀を定むるにあり。欒枝が柴を曳いて荊を敗り、莫敖が樵を采って絞を致すは、皆謀定まりたるなり」。所は矍然として言った、「君は殆ど行伍の中の人に非ざるか」。飛は因ってこれを説いて言った、「国家は汴に都し、河北を恃んで以て固しと為す。苟も要衝に馮拠し、重鎮を峙列せば、一城囲まれれば則ち諸城或いは撓ぎ或いは救い、金人は河南を窺うこと能わず、而して京師根本の地固し。招撫誠に兵を提げて境を圧せば、飛は唯命に従う」。所は大いに喜び、武経郎を借補した。

王彦に従って河を渡ることを命じられ、新郷に至ると、金兵盛んで、彦は進むことを敢えなかった。飛は独り所部を引いて鏖戦し、その纛を奪って舞い、諸軍争って奮い、遂に新郷を抜いた。翌日、侯兆川で戦い、身に十余の創を受け、士皆死戦し、またこれを破った。夜、石門山下に屯す。或いは金兵復た至ると伝え、一軍皆驚いたが、飛は堅く臥して動かず、金兵遂に来ず。食尽き、彦の壁に走りて糧を乞うと、彦は許さず。飛は兵を引いて益々北に進み、太行山で戦い、金将拓跋耶烏を擒らえた。数日居て、復た敵に遇う。飛は単騎で丈八の鉄槍を持ち、黒風大王を刺殺し、敵衆敗走した。飛は自ら彦と隙あるを知り、復た宗沢に帰り、留守司統制となった。沢が卒すと、杜充がこれに代わり、飛は故職に居た。

二年、胙城で戦い、また黒龍潭で戦い、いずれも大捷した。閭勍に従って陵寢を保護し、汜水関で大戦し、金将を射て斃し、その衆を大破した。竹蘆渡に軍を駐め、敵と相持し、精鋭三百を選び前山下に伏せ、各々薪芻を以て交えて両束を縛らせ、夜半、四端を爇してこれを挙げさせた。金人は援兵至るかと疑い、驚いて潰走した。

三年、賊の王善・曹成・孔彦舟等が衆五十万を合わせ、南薰門に迫った。飛の所部は僅か八百、衆は敵せぬことを懼れたが、飛は言った、「吾が諸君の為にこれを破らん」。左に弓を挟み、右に矛を運び、横にその陣を衝くと、賊乱れ、大いにこれを破った。また賊の杜叔五・孫海を東明で擒らえた。英州刺史を借補した。王善が陳州を囲むと、飛は清河で戦い、その将孫勝・孫清を擒らえ、真の刺史を授かった。

杜充が建康に還らんとすると、飛は言った、「中原の地は尺寸たりとも棄つべからず。今一たび足を挙ぐれば、この地は我が有に非ず、他日これを復た取らんと欲すれば、数十万の衆なければ不可なり」。充は聴かず、遂にこれと俱に帰った。師は鉄路歩に次ぐ。賊の張用に遇い、六合に至って李成に遇い、戦って皆これを破った。成が軽騎を遣わして憲臣の犒軍の銀帛を劫うと、飛は兵を進めて掩撃し、成は江西に奔った。時に充を命じて建康を守らしめ、金人が成と合して烏江を寇すと、充は門を閉じて出でず。飛は泣いて諫め師を視ることを請うたが、充は遂に出でず。金人は遂に馬家渡より江を渡り、充は飛等を遣わして迎え戦わしめた。王𤫉は先に遁れ、諸将皆潰えたが、独り飛力戦した。

会に充が既に金に降り、諸将多く剽掠を行う中、惟だ飛の軍は秋毫も犯すところ無し。兀朮が杭州に向かうと、飛は要撃して広徳境中に至り、六戦皆捷し、その将王権を擒らえ、簽軍の首領四十余を俘虜とした。その用いるべき者を察し、恩を結んで遣わし還し、夜営を斫いて火を放たせ、飛は乱に乗じて縱撃し、大いにこれを破った。鍾村に軍を駐め、軍に見るべき糧無く、将士飢えを忍び、敢えて民を擾さず。金の籍した兵は互いに言って、「これは岳爺爺の軍なり」と言い、争って来たり降附した。

四年、兀朮が常州を攻めると、宜興令が飛を迎えて移屯させた。盗賊の郭吉は飛の来るを聞き、湖に遁入した。飛は王貴・傅慶を遣わして追い破り、また弁士の馬皋・林聚を遣わしてその衆を尽く降した。張威武者という者が従わないと、飛は単騎でその営に入り、これを斬った。避地する者はこれに頼って免れ、飛の像を図って祠った。

金人が再び常州を攻めると、飛は四戦皆捷した。鎮江東で尾襲し、また捷ち、清水亭で戦い、また大捷し、横屍十五里に及んだ。兀朮が建康に向かうと、飛は牛頭山に伏兵を設けてこれを待った。夜、百人に黑衣を着せ金営に混じらせてこれを擾らせると、金兵驚き、自ら相撃ちした。兀朮が龍湾に次ぐと、飛は騎三百・歩兵二千を以て馳せ至り新城で、大いにこれを破った。兀朮は淮西に奔り、遂に建康を回復した。飛は奏上して、「建康は要害の地、兵を選んで固く守るべく、仍って兵を益して淮を守り、腹心を拱護すべし」と言った。帝は嘉して納れた。兀朮が帰ると、飛は静安で邀撃し、これを破った。

詔して戚方を討たしむ、飛は三千人を以て苦嶺に営す。方遁走す、俄に兵を益して来たり、飛自ら兵千人を領し、数十合戦ひ、皆捷す。会に張俊の兵至り、方遂に降る。范宗尹、張俊の浙西より来たり、盛んに飛の用ふ可きを称すと言ふ、通泰鎮撫使兼泰州知事に遷す。飛辞し、淮南東路の一重難なる任使を乞ひ、本路の州郡を収復し、機に乗じて漸く進み、山東、河北、河東、京畿等の路を次第に復せしめんことを請ふ。

会に金楚を攻めて急なり、詔して張俊にこれを援けしむ。俊辞す、乃ち飛を行かしめ、劉光世に命じて兵を出だして飛を援けしむ。飛三墪に屯して楚の援と為り、尋いで承州に抵り、三戦三捷し、高太保を殺し、酋長七十余人を俘虜す。光世等皆敢へて前進せず、飛師孤く力寡く、楚遂に陥つ。詔して飛をして通泰を還り守らしめ、旨有りて守る可ければ即ち守り、如し不可ならば、但だ沙洲に於いて百姓を保護し、便に乗じて掩撃せしむ。飛泰州に険恃む可き無しと以て、退きて柴墟を保ち、南橋に戦ひ、金大いに敗る。百姓を沙上に渡し、飛精騎二百を以て殿し、金兵敢へて近づかず。飛泰州の失守を以て罪を待つ。

紹興元年、張俊飛に同しく李成を討たんことを請ふ。時に成の将馬進洪州を犯し、西山に連営す。飛曰く「賊貪にして後を慮はず、若し騎兵を以て上流より生米渡を絶ち、其の不意に出でば、これを破る必ずや」と。飛自ら先鋒たらんことを請ふ、俊大いに喜ぶ。飛重鎧を着け馬を躍らせ、潜かに賊の右に出で、其の陣を突き、所部之に従ふ。進大いに敗れ、筠州に走る。飛城東に抵る、賊城を出で、陣を十五里に布く、飛伏兵を設け、紅羅を以て幟と為し、上に「岳」の字を刺し、騎二百を選び幟に随ひて前に進む。賊其の少なきを易くし、之を薄む、伏発し、賊敗走す。飛人をして呼ばしめて曰く「賊に従はざる者は坐せ、吾汝を殺さず」と。坐して降る者八万余人。進余卒を以て南康に成を奔る。飛夜兵を引き朱家山に至り、又其の将趙万を斬る。成進の敗れたるを聞き、自ら兵十余万を引いて来たる。飛之と楼子庄に遇ひ、成軍を大破し、進を追斬す。成蘄州に走り、偽斉に降る。

張用江西を寇す、用も亦相の人なり、飛書を以て之を諭して曰く「吾汝と同里、南薰門、鉄路歩の戦、皆汝の悉くする所なり。今吾此に在り、戦はんと欲すれば則ち出で、戦はざれば則ち降れ」と。用書を得て曰く「果たして吾が父なり」と。遂に降る。

江淮平らぐ、俊飛の功第一なるを奏し、神武右軍副統制を加へ、洪州に留まり、盗賊を弾圧し、親衛大夫、建州観察使を授く。建の寇范汝為邵武を陥す、江西安撫李回飛に檄して兵を分かち建昌軍及び撫州を保たしむ、飛人を遣はして「岳」の字の幟を城門に植しむ、賊之を見て、相戒めて犯す勿れとす。賊党姚達、饒青藏昌に逼る、飛王万、徐慶を遣はして之を討ち擒る。神武副軍都統制に昇る。

二年、賊曹成衆十余万を擁し、江西より湖湘を歴て、道賀二州を据ふ。命して飛に権めに潭州を知らしめ、兼ねて権めに荊湖東路安撫都総管と為し、金字牌、黄旗を付して成を招かしむ。成飛将に至らんとするを聞き、驚きて曰く「岳家軍来る」と。即ち道を分かちて遁ぐ。飛茶陵に至り、詔を奉じて之を招く、成従はず。飛奏す「比年多く招安を命ず、故に盗力強ければ則ち暴を肆ひ、力屈すれば則ち招に就く、苟も略か剿除を加へずんば、蠭起の衆未だ遽かに殄す可からず」と。之を許す。

飛賀州の境に入り、成の諜者を得、之を帳下に縛す。飛帳を出で兵食を調ふ、吏曰く「糧尽きぬ、奈何」と。飛陽かに曰く「姑く茶陵に反らん」と。已にして諜を顧みて失意の状の若くし、頓足して入り、陰に之を逸せしむ。諜帰り成に告ぐ、成大いに喜び、翌日の来追するを期す。飛士に命じて蓐食し、潜かに遶嶺に趨り、未だ明けざるに、已に太平場に至り、其の砦を破る。成険に据りて飛を拒ぐ、飛兵を麾して掩撃し、賊大いに潰る。成走りて北蔵嶺、上梧関を据へ、将を遣はして迎戦せしむ、飛陣せずして鼓し、士奮ひ争ひ、二隘を奪ひて之に据ふ。成又桂嶺より砦を置きて北蔵嶺に至り、連ねて隘道を控へ、親しく衆十余万を以て蓬頭嶺を守る。飛の部纔かに八千、一鼓して嶺に登り、其の衆を破り、成連州に奔る。飛張憲等に謂ひて曰く「成の党散去り、追ひて之を殺せば、則ち脅従の者憫む可く、之を縦すれば則ち復聚りて盗と為らん。今若等を遣はして其の酋を誅し其の衆を撫せしめん、慎んで妄りに殺す勿れ、主上の民を保つ仁を累すことなかれ」と。ここに於いて憲賀連より、徐慶邵道より、王貴郴桂より、招降する者二万、飛と連州に会す。進兵して成を追ひ、成宣撫司に走りて降る。時に盛夏を以て瘴地に行師し、撫循方有り、士一人として死癘する者無し、嶺表平らぐ。武安軍承宣使を授け、江州に屯す。甫く境に入るや、安撫李回飛に檄して劇賊馬友、郝通、劉忠、李通、李宗亮、張式を捕へしむ、皆之を平ぐ。

三年春、行在に赴くを召す。江西宣諭劉大中奏す「飛の兵紀律有り、人之に恃りて安んず、今行在に赴かば、恐らくは盗復た起こらん」と。果たして行かず。時に虔吉の盗兵を連ねて循、梅、広、恵、英、韶、南雄、南安、建昌、汀、邵武諸郡を寇掠す、帝乃ち専ら飛に命じて之を平げしむ。飛虔州に至り、固石洞の賊彭友衆を悉くして雩都に至り迎戦し、馬を躍らせ馳突す、飛兵を麾して即ち馬上に之を擒る、余の酋退きて固石洞を保つ。洞高峻にして水を環らし、只一径の入る可きのみ。飛騎を山下に列し、皆満を持せしめ、黎明、死士を遣はして疾く馳せて登山せしむ、賊衆乱れ、山を棄てて下り、騎兵之を囲む。賊命を丐ふを呼ぶ、飛殺す勿れと令し、其の降を受く。徐慶等に方略を授け、諸郡の余賊を捕へしむ、皆破り降す。初め、隆祐震驚の故を以て、密旨して飛に虔城を屠らしむ。飛首悪を誅し脅従を赦さんことを請ふ、許さず、請ふこと三四に至り、帝乃ち曲めて赦す。人其の徳を感し、像を繪して之を祠る。余寇高聚、張成袁州を犯す、飛王貴を遣はして之を平ぐ。

秋、入見す、帝手づから「精忠岳飛」の字を書き、旗を製して之を賜ふ。鎮南軍承宣使、江南西路沿江制置使を授け、又神武後軍都統制に改め、仍制置使と為し、李山、呉全、呉錫、李横、牛皋皆之に隷す。

偽斉李成を遣はして金人を挟みて入侵し、襄陽、唐、鄧、随、郢諸州及び信陽軍を破り、湖寇楊么亦偽斉と通じ、順流して下らんと欲し、李成又江西より陸行し、両浙に趨りて么と会せんと欲す。帝飛に命じて之が備へを為さしむ。

四年、兼荊南・鄂岳州制置使を除かれる。飛、奏上す。「襄陽等六郡は中原を恢復する基本なり。今まさに先ず六郡を取るべし、以て心膂の病を除く。李成遠く遁れし後、然る後に湖湘に兵を加え、以て群盗を殄滅すべし。」帝、趙鼎にこれを諭す。鼎曰く、「上流の利害を知るは、飛に如くはなし。」ここにおいて黄復州・漢陽軍・徳安府制置使を授く。飛、江を渡る中流にて、幕属を顧みて曰く、「飛、賊を擒えずんば、この江に渉らず。」郢州城下に抵る。偽将京超、「万人敵」と号し、城に乗じて飛を拒ぐ。飛、衆を鼓して登る。超、崖に投じて死す。郢州を復し、張憲・徐慶を遣わして随州を復せしむ。飛、襄陽に趣く。李成、迎え戦う。左は襄江に臨む。飛笑いて曰く、「歩兵は険阻に利あり、騎兵は平曠に利あり。成、左に騎を江岸に列ね、右に歩を平地に列ぬ。衆十万といえども何を為すことあらん。」鞭を挙げて王貴を指して曰く、「爾、長槍歩卒を以て其の騎兵を撃て。」牛皋を指して曰く、「爾、騎兵を以て其の歩卒を撃て。」合戦す。馬、槍に応じて斃れ、後騎皆擁して江に入る。歩卒の死者数を知らず。成、夜遁す。襄陽を復す。劉、成に兵を益し新野に屯す。飛、王万とこれを挟撃し、連ねて其の衆を破る。

飛、奏上す。「金賊の愛するは惟だ子女金帛のみ。志すでに驕惰なり。劉豫、僭偽す。人心終に宋を忘れず。もし精兵二十万を以て、直ちに中原を擣ち、故疆を恢復せば、誠に力を為し易し。襄陽・随・郢の地は皆膏腴なり。苟くも営田を行わば、其の利厚し。臣、糧足るを俟ち、即ち江を過ぎ北にて敵兵を剿戮せん。」時に方に深入の挙を重んず。而して営田の議は是より興る。

兵を進めて鄧州に至る。成、金将劉合孛堇と砦を列ねて飛を拒ぐ。飛、王貴・張憲を遣わして掩撃せしむ。賊衆大いに潰る。劉合孛堇、僅かに身をもって免る。賊党高仲、退き鄧城を保つ。飛、兵を引き一鼓にしてこれを抜く。高仲を擒え、鄧州を復す。帝これを聞き、喜びて曰く、「朕、素より岳飛行軍紀律有るを聞くも、未だ能く敵を破ること此の如きを知らず。」また唐州・信陽軍を復す。

襄漢平らぐ。飛、制置使を辞し、重臣を委ねて荊襄を経画せしむるを乞う。許さず。趙鼎奏す。「湖北鄂・岳は最も上流の要害なり。飛をして鄂・岳に屯せしむるを乞う。惟だ江西其の声勢を藉るのみならず、湖・広・江・浙も亦安妥を得ん。」ここにおいて随・郢・唐・鄧・信陽を併せて襄陽府路と為し飛に隷せしむ。飛、鄂に移り屯す。清遠軍節度使・湖北路・荊・襄・潭州制置使を授けられ、武昌県開国子に封ぜらる。

兀朮・劉豫、兵を合して廬州を囲む。帝、手札を以て飛に囲みを解かしむるを命ず。兵を提げて廬に趨く。偽斉すでに甲騎五千を駆りて城に逼る。飛、「岳」字旗と「精忠」旗を張る。金兵一戦にして潰る。廬州平らぐ。飛、奏上す。「襄陽等六郡の人戸、牛・糧を闕く。官錢を量り給し、官私の逋負を免じ、州県官をして招集流亡を以て殿最と為さしむるを乞う。」

五年、入覲す。母を国夫人に封ず。飛に鎮寧・崇信軍節度使、湖北路・荊襄潭州制置使を授け、武昌郡開国侯に進封す。また荊湖南北・襄陽路制置使、神武後軍都統制を除かれ、楊么を招捕するを命ぜらる。飛の所部は皆西北の人、水戦に習わず。飛曰く、「兵何ぞ常ならん、之を用いる如何なるかを顧みるのみ。」先ず使を遣わしてこれを招諭す。賊党黄佐曰く、「岳節使の号令山の如し。若しこれと敵せば、万に生くる理無し。往きて降るに如かず。節使誠信、必ず善く我を遇わん。」ここにおいて降る。飛、表して佐に武義大夫を授け、単騎にて其の部を按ず。佐の背を拊して曰く、「子は逆順を知る者なり。果たして能く功を立てば、封侯豈に道い足らんや。復た子を湖中に遣わし、其の乗ずべき者を視てこれを擒え、勧むべき者を招かんと欲す。如何。」佐感泣し、死を以て報ぜんことを誓う。

時に張浚、都督ととく軍事として潭に至る。参政席益、浚と語り、飛の寇を玩ぶを疑い、以て聞かんと欲す。浚曰く、「岳侯は忠孝の人なり。兵に深機有り。何ぞ易く言うべけんや。」益慙じて止む。黄佐、周倫の砦を襲い、倫を殺し、其の統制陳貴等を擒う。飛、其の功を上る。武功大夫に遷す。統制任士安、王𤫉の令を稟せず。軍ここに功無し。飛、士安を鞭ちて賊を餌らしめ、曰く、「三日にして賊平らざれば、汝を斬らん。」士安、宣言す。「岳太尉の兵二十万至れり。」賊、止むところの士安の軍を見、力を併せてこれを攻む。飛、伏を設く。士安戦い急なり。伏四より起こりて賊を撃つ。賊走る。

会に浚を召し還して秋を防がしむ。飛、袖中の小図を出して浚に示す。浚、来年を俟ちてこれを議せんと欲す。飛曰く、「すでに定画有り。都督少しく留まる能わば、八日を過ぎずして賊を破るべし。」浚曰く、「何ぞ言うことの易きや。」飛曰く、「王四廂は王師を以て水寇を攻むれば則ち難し。飛は水寇を以て水寇を攻むれば則ち易し。水戦は我短く彼長し。短き所を以て長き所を攻むるは、難き所以なり。若し敵将に因り敵兵を用い、其の手足の助を奪い、其の腹心の託を離れ、孤立せしめ、然る後に王師を以てこれに乗ずれば、八日の内に、当に諸酋を俘うべし。」浚これを許す。

飛、ここにおいて鼎州に至る。黄佐、楊欽を招き来たり降らしむ。飛喜びて曰く、「楊欽ぎょう悍、既に降る。賊の腹心潰る。」表して欽に武義大夫を授け、礼遇甚だ厚し。乃ち復た帰湖せしむ。両日にして、欽、余端・劉詵等を説きて降らしむ。飛、詭りて欽を罵りて曰く、「賊尽く降らず、何ぞ来たるや。」これを杖ち、復た湖に入らしむ。是の夜、賊営を掩い、其の衆数万を降す。么、固に負いて服さず。方に舟を湖中に浮かべ、輪を以て水を激し、其の行くこと飛ぶが如し。旁らに撞竿を置く。官舟これを迎うれば輒ち砕く。飛、君山の木を伐りて巨筏と為し、諸港汊を塞ぐ。また腐木乱草を以て上流に浮かべて下らしむ。水浅き処を択び、善く罵る者を遣わしてこれを挑す。且つ行き且つ罵る。賊怒り来たり追う。則ち草木壅積し、舟輪礙まれて行かず。飛、亟に兵を遣わしてこれを撃つ。賊、港中に奔る。筏に拒まれる。官軍、筏に乗じ、牛革を張りて以て矢石を蔽い、巨木を挙げて其の舟を撞つ。尽く壊る。么、水に投ず。牛皋、これを擒え斬る。飛、賊壘に入る。余酋驚きて曰く、「何ぞ神なるや。」俱に降る。飛、親しく諸砦を行きこれを慰撫し、老弱を縦ちて田に帰し、少壮を籍して軍と為す。果たして八日にして賊平らぐ。浚嘆じて曰く、「岳侯の神算なり。」初め、賊其の険を恃みて曰く、「我を犯さんと欲せば、飛来るを除くべし。」ここに至り、人其の言を以て讖と為す。賊舟千余を獲る。鄂渚の水軍、沿江の冠と為る。詔して蘄・黄制置使を兼ねしむ。飛、目疾を以て軍事を辞するを乞う。許さず。検校少保を加えられ、公に進封す。軍を還して鄂州に至る。荊湖南北・襄陽路招討使を除かる。

六年、太行山忠義社の梁興等百余り、飛の義を慕い衆を率いて来帰す。飛、入覲し、面陳す。「襄陽は収復後より監司を置かず。州県按察する所無し。」帝これに従う。李若虚を以て京西南路提挙兼転運・提刑と為し、また湖北・襄陽府路の知州・通判以下の賢否を、飛に自ら黜陟するを得しむるを令す。

張浚が江上に至り諸大帥と会し、ただ岳飛と韓世忠のみが大事を託せる者と称し、飛に襄陽に屯して中原を窺うことを命じ、曰く「これ卿の素志なり」と。飛は軍を京西に移し、武勝・定国軍節度使に改め、宣撫副使を除され、司を襄陽に置く。武昌に往きて軍を調べることを命ぜられる。母の憂いに服すに及び、制を降して起復を命ぜられたが、飛は棺を扶けて廬山に還り、連表して喪に終わることを乞うたが、許されず、累詔して起つを促され、ついに軍に就く。また河東を宣撫し、河北路を節制することを命ぜられる。まず王貴らを遣わして虢州を攻め、これを下し、糧十五万石を獲、その衆数万を降す。張浚曰く「飛の措画は甚だ大きく、今や伊・洛に至れば、則ち太行一帯の山砦、必ず応ずる者あらん」と。飛は楊再興を遣わし兵を進めて長水県に至らしめ、再戦ともに捷し、中原響応す。また人を遣わして蔡州の糧を焼く。

九月、劉豫が子の麟・甥の猊を遣わし分道して淮西を寇す。劉光世は廬州を捨てんとし、張俊は盱眙を棄てんとし、ともに飛を召して兵を東下せしむるを奏し、飛にその鋒を当たらしめ、己は退きて保たんと欲す。張浚曰く「岳飛一たび動けば、則ち襄漢を何をもって制せん」と、その議を力めて沮む。帝は俊・光世の任に足らざるを慮り、飛に東下を命ず。飛は曹成を破り楊么を平らげてより、凡そ六年、皆盛夏に行師し、目疾を致し、この時に至りて甚だし。詔を聞くや即日啓行す。未だ至らざるに、麟敗る。飛の奏至るに、帝趙鼎に語りて曰く「劉麟の敗北は喜ぶに足らず、諸将の朝廷を尊ぶを知るこそ喜ぶべきなり」と。ここに札を賜い、言う「敵兵すでに淮を去れり、卿は進発するを須いず、もし襄・鄧・陳・蔡に機乗ずべきあらば、長きを従えて措置せよ」と。飛はすなわち軍を還す。時に偽斉は兵を屯し唐州を窺う。飛は王貴・董先らを遣わしてこれを攻め破り、その営を焼く。蔡を図りて中原を取らんことを奏す。許されず。飛は貴らを召して還す。

七年、入見す。帝従容として問うて曰く「卿良馬を得たりや」と。飛曰く「臣に二馬あり、日に芻豆数斗を啖い、泉一斛を飲む。然れども精潔ならざれば則ち受けず。介して馳せば、初めは甚だ疾からず、百里を行くに比して始めて奮迅し、午より酉に至るも、なお二百里を可とす。鞍甲を褫れども息まず汗せず、事なきが若し。これその大なるを受けながら苟も取らず、力裕ふれども逞わんことを求めず、遠きを致すの材なり。不幸相継いで死す。今乗ずる所の者は、日に数升を過ぎず、而して秣は粟を択ばず、飲は泉を択ばず、轡を攬れて未だ安からざるに、踊踴として疾駆し、甫かに百里にして、力竭き汗喘ぎ、殆ど斃れんとす。これその取ること寡なくして易く盈ち、逞わんことを好みて易く窮す、駑鈍の材なり」と。帝善しと称し、曰く「卿今の議論極めて進めり」と。太尉を拝し、継いて宣撫使兼営田大使を除す。建康に幸するに従い、王徳・酈瓊の兵を飛に隷せしめ、詔して徳らに諭して曰く「飛の号令を聴け、朕の親しく行くが如くせよ」と。

飛しばしば帝に見え、恢復の略を論ず。また手疏を上りて言う「金人の劉豫を河南に立てし所以は、蓋し中原を荼毒せんと欲し、以て中国をもって中国を攻めしめ、粘罕因って兵を休め釁を観んとす。臣は陛下に臣に月日を仮せられ、便あれば則ち兵を提げて京・洛に趨り、河陽・陝府・潼関を拠り、以て五路の叛将を号召せんことを欲す。叛将既に還らば、王師を遣わして前進せしめば、彼必ず汴を棄てて河北に走らん。京畿・陝右は尽く復すべし。然る後に兵を濬・滑に分かち、両河を経略せば、此くの如くすれば則ち劉豫成擒となり、金人滅すべく、社稷長久の計、実に此の挙に在り」と。帝答えて曰く「臣此くの如き有らば、復た何をか憂えん、進止の機は、朕中に制せず」と。また寝閤に召し至りて命じて曰く「中興の事、一に卿に委ぬ」と。光州を節制することを命ず。

飛まさに大挙を図らんとす。会に秦檜が和を主とす。ここにおいて徳・瓊の兵を飛に隷せしめず。詔して都督府に詣り張浚と事を議せしむ。浚飛に謂いて曰く「王徳は淮西軍の服する所、浚これをもって都統と為さんと欲し、而して呂祉に督府参謀をもってこれを領せしめんとす、如何」と。飛曰く「徳と瓊は素より相下らず、一旦これを上に揠げば、則ち必ず争わん。呂尚書は軍旅に習わず、衆を服するに足らざるを恐る」と。浚曰く「張宣撫は如何」と。飛曰く「暴にして謀寡なく、特に瓊の服せざる所なり」と。浚曰く「然らば則ち楊沂中か」と。飛曰く「沂中は徳らを見るのみ、豈に此の軍を馭せんや」と。浚艴然として曰く「浚固より太尉に非ざれば不可なるを知る」と。飛曰く「都督正しきを以て飛に問う、敢えて其の愚を尽くさざるべからず、豈に兵を得るを念うや」と。即日上章して兵柄を解き、終に喪服し、張憲に軍事を摂せしめ、歩いて帰り、母の墓の側に廬す。浚怒り、張宗元を宣撫判官と為し、其の軍を監せしむるを奏す。

帝累詔して飛の職に還るを促す。飛力めて辞す。詔して幕属に廬を造り死を以て請わしむ。凡そ六日、飛朝に趨りて罪を待つ。帝これを慰め遣わす。宗元還りて言う「将和ぎ士鋭く、人忠孝を懐き、皆飛の訓養する所致なり」と。帝大いに悦ぶ。飛奏す「比者の寝閤の命、咸く聖断已に堅しと謂う、何ぞ今に至るまで未だ決せざるや。臣は兵を提げて進討し、天道に順い、人心に因り、曲直を以て老壮と為し、逆順を以て強弱と為し、万全の効必ずしも可ならんことを願う」と。また奏す「銭塘は海隅に僻し、用武の地に非ず。願わくは陛下上流に都を建て、漢光武の故事を用い、親しく六軍を率い、往来督戦せられん。将士聖意の向かう所を知り、人々用命することを庶幾う」と。未だ報いざるに酈瓊叛く。浚始めて悔ゆ。飛また奏す「願わくは淮甸に進屯し、便に乗じて瓊を撃ち、破滅するを期せん」と。許されず。詔して師を江州に駐め淮・浙の援と為す。

飛は劉豫が粘罕と結び、而して兀朮が劉豫を悪むを知り、間をもって動かすべしとす。会に軍中に兀朮の諜者を得たり。飛陽らかにこれを責めて曰く「汝は吾が軍中の人の張斌に非ずや。吾向に汝を斉に遣わし、四太子を誘い致すを約せしに、汝往きて復た来らず。吾継いて人を遣わして問わしむるに、斉は已に我に許し、今冬に会合して江を寇するを名とし、四太子を清河に致すと。汝の持する所の書竟に至らず、何ぞ我に背くや」と。諜者は死を緩めんことを冀い、即ち詭りて服す。ここにおいて蠟書を作り、劉豫とともに兀朮を誅する謀ある事を言い、因って諜者に謂いて曰く「吾今汝を貸す」と。また斉に遣わし、挙兵の期を問わしめ、股を刲りて書を納め、泄らすなからんことを戒む。諜者帰り、書を以て兀朮に示す。兀朮大いに驚き、馳せて其の主に白し、ここにおいて豫を廃す。飛奏す「宜しく豫を廃するの際に乗じ、其の備えなきを擣ち、長駆して以て中原を取るべし」と。報いず。

八年、軍を鄂州に還す。王庶が江・淮を視師す。飛庶に書を遺す「今歳若し兵を挙げずんば、当に節を納めて閑を請わん」と。庶甚だこれを壮とす。秋、行在に召し赴かしむ。資善堂に詣り皇太子に見ゆることを命ず。飛退きて喜びて曰く「社稷人を得たり、中興の基業、其れ是に在らんか」と。会に金使いを遣わし将に河南の地を帰さんとす。飛言う「金人は信ずべからず、和好は恃むべからず、相臣国を謀るも臧からず、後世の譏りを貽すを恐る」と。檜これを銜む。

九年、河南を回復したことを以て大赦を行ふ。飛表を奉りて謝し、和議の不便なる意を寓せしめ、「燕雲を唾手にし、復讐報国す」との語あり。開府儀同三司を授く。飛力辞し、「今日の事は、危うくして安んずべからず、憂ふべくして賀すべからず、兵を訓へ士を飭し、謹んで不虞に備ふべくして、功を論じ賞を行ひ、敵人の笑を取るべからず」と謂ふ。三たび詔すれども受けず、帝温言を以て奬諭す、乃ち受く。時に士㒟を遣はして諸陵を謁せしむるに会ひ、飛軽騎を以て従ひ洒掃せんことを請ふ、実には釁を観て謀を伐たんと欲するなり。又奏す、「金人事無くして和を請ふ、此れ必ず肘腋の虞有り、名を以て地を我に帰すと雖も、実に之を寄するなり」と。檜帝に白して其の行を止む。

十年、金人拱・亳を攻む。劉錡急を告ぐ、飛に馳援せしむ。飛張憲・姚政を遣はして之に赴かしむ。帝札を賜ひて曰く、「施設の方、一に卿に委ぬ、朕遥かに度らず」と。飛乃ち王貴・牛皋・董先・楊再興・孟邦傑・李宝等を遣はし、西京・汝・鄭・潁昌・陳・曹・光・蔡諸郡を分布経略せしむ。又梁興に命じて河を渡り、忠義社を糾合し、河東・河北の州県を取らしむ。又兵を遣はし東は劉錡を援け、西は郭浩を援け、自ら其の軍を以て長駆して中原を闞かんとす。将に発たんとし、密奏して言ふ、「先づ国本を正して人心を安んじ、然る後に厥の居を常とせず、以て復讐の意を忘れざるを示せ」と。帝奏を得て、大いに其の忠を褒め、少保、河南府路・陝西・河東北路招討使を授く。尋いで河南・北諸路招討使と改む。未だ幾もせず、遣はしし諸将相継いで捷を奏す。大軍潁昌に在り、諸将分道出でて戦ふ。飛自ら軽騎を以て郾城に駐し、兵勢甚だ鋭し。

兀朮大いに懼れ、龍虎大王と会して議し、諸帥は与え易く、独り飛は当たるべからずと為し、其の師を誘致し、力を併せて一戦せんと欲す。中外之を聞き、大いに懼る。詔して飛に審処自固せしむ。飛曰く、「金人の伎窮まれり」と。乃ち日を出だして挑戦し、且つ之を罵る。兀朮怒り、龍虎大王・蓋天大王及び韓常の兵を合して郾城に逼る。飛子雲に騎兵を領せしめて直ちに其の陣を貫かしめ、之を戒めて曰く、「勝たざれば、先づ汝を斬らん」と。数十合鏖戦し、賊屍野に布く。

初め、兀朮勁軍有り、皆重鎧を着け、韋索を以て貫き、三人を聯ねて号して「拐子馬」と曰ふ。官軍当たること能はず。是の役、一万五千騎を以て来たり。飛歩卒に麻札刀を以て陣に入り、仰ぎ視ること勿れ、第に馬足を斫れと戒む。拐子馬相連なり、一馬仆すれば、二馬行くこと能はず。官軍奮撃し、遂に之を大いに破る。兀朮大いに慟哭して曰く、「海上より兵を起こすより以来、皆此を以て勝つ、今已に矣」と。兀朮兵を益して来たり、部将王剛五十騎を以て敵を覘ひ、之に遇ひ、奮ひて其の将を斬る。飛時に出でて戦地を視る。黄塵天を蔽ふを望見し、自ら四十騎を以て突戦し、之を敗る。

方に郾城再捷せし時、飛雲に謂ひて曰く、「賊屡敗し、必ず還りて潁昌を攻めん、汝宜しく速かに王貴を援ぐべし」と。既にして兀朮果たして至る。貴遊奕を将ひ、雲背嵬を将ひて城西に戦ふ。雲騎兵八百を以て挺前して決戦し、歩軍左右の翼を張りて之に継ぐ。兀朮の婿夏金吾・副統軍粘罕索孛堇を殺し、兀朮遁去す。

梁興太行の忠義及び両河の豪傑等と会し、累戦皆捷す。中原大いに震ふ。飛奏す、「興等河を過ぐれば、人心朝廷に帰せんと願ふ。金兵累敗し、兀朮等皆老幼をして北去せしむ、正に中興の機なり」と。飛軍を進めて朱仙鎮に至る。汴京より四十五里、兀朮と対壘して陣し、驍将に背嵬騎五百を以て奮撃せしめ、之を大破す。兀朮遁れて汴京に還る。飛檄を陵臺令に下し、諸陵を行視し、之を葺治せしむ。

是に先立ち、紹興五年、飛梁興等を遣はして徳意を布き、両河の豪傑を招結せしむ。山砦の韋銓・孫謀等兵を歛めて堡を固め、以て王師を待つ。李通・胡清・李宝・李興・張恩・孫琪等衆を挙げて来帰す。金人の動息、山川の険要、一時に皆其の実を得たり。磁・相・開徳・澤・潞・晋・絳・汾・隰の境を尽くし、皆期日を約して兵を興し、官軍と会はんとす。其の掲ぐる旗は「岳」を以て号と為す。父老百姓争ひて車を挽き牛を牽き、糗糧を載せて義軍に餽り、盆を頂き香を焚きて迎候する者、道路に充滿す。燕より以南、金の号令行はれず。兀朮軍を簽して以て飛に抗せんと欲すれども、河北一人も従ふ者無し。乃ち嘆じて曰く、「我北方より起るより以来、未だ今日の挫衂の如き有らざるなり」と。金帥烏陵思謀素より桀黠と号せらるるも、亦其の下を制すること能はず、但だ之を諭して曰く、「軽く動くこと毋れ、岳家軍の来るを俟て即ち降れ」と。金統制王鎮・統領崔慶・将官李覬崔虎華旺等皆率ひて其の部を降す。以て禁えい龍虎大王の下の忔查千戸高勇の属に至るまで、皆密かに飛の旗牓を受け、北方より来降す。金将軍韓常五万の衆を以て内附せんと欲す。飛大いに喜び、其の下に語りて曰く、「直ちに黄龍府に抵り、諸君と痛飲せんのみ」と。

方に日を指して河を渡らんとす、而して檜淮以北を画して之を棄てんと欲し、台臣に風して班師を請はしむ。飛奏す、「金人鋭気沮喪し、尽く輜重を棄て、疾く走りて河を渡り、豪傑風に向ひ、士卒命を用ふ。時再び来たらず、機軽く失ふべからず」と。檜飛の志鋭くして回らしむべからざるを知り、乃ち先づ張俊・楊沂中等の帰るを請ひ、而して後に飛孤軍久しく留むべからずと言ひ、令して班師せしむることを乞ふ。一日に十二の金字牌を奉ず。飛憤惋の涙を下し、東に向ひ再拝して曰く、「十年の力、一旦に廃す」と。飛班師す。民馬を遮り慟哭し、訴へて曰く、「我等香盆を戴き糧草を運びて官軍を迎ふることを、金人悉く之を知る。相公去らば、我輩噍類無からん」と。飛亦悲泣し、詔を取って之に示し曰く、「吾擅に留まることを得ず」と。哭声野に震ふ。飛五日を留まって其の徙るを待ち、従ひて南する者市の如し。亟に奏して漢上六郡の閒田を以て之を処せしむ。

方に兀朮汴を棄て去らんとする時、書生有りて馬を叩きて曰く、「太子走ること毋れ、岳少保将に退かんとす」と。兀朮曰く、「岳少保五百騎を以て我が十万を破る、京城日夜其の来るを望む、何を以て守るべしと謂ふや」と。生曰く、「古より未だ権臣内に在りて、大将外に功を立て能はざる者無し。岳少保将に免れんとす、況んや功を成さんと欲するをや」と。兀朮悟り、遂に留まる。飛既に帰りし後、得たる州県、旋にして復た之を失ふ。飛力を請ひて兵柄を解かんとす、許さず。廬より入観す。帝之を問ふ、飛拝謝するのみ。

十一年、諜報により金が分道して淮を渡ると知り、飛は諸帥の兵を合わせて敵を破ることを請うた。兀朮・韓常と龍虎大王が疾駆して廬州に至ると、帝は飛に応援を促し、合わせて十七通の御札を下した。飛は金人が挙国南来すれば、その巣穴は必ず虚になると策し、もし京・洛を長駆してこれを擣けば、彼らは必ず奔命に疲れ、坐して敝せしめ得ると考えた。時に飛は寒嗽に苦しんでいたが、病を押して進軍した。また帝が急いで敵を退けようとするのを恐れ、乃ち奏上して言うには、「臣がもし虚を擣てば、勢い利を得るに違いない。もし敵が目前に在り、遠図に暇あらざるとお考えならば、親しく蘄・黄に至り、攻守を議することを乞いたい」と。帝は奏を得て大いに喜び、御札を賜って言うには、「卿は寒疾に苦しみながら、朕のために行く。国を思い身を忘れる、誰か卿の如き者あらんや」と。師は廬州に至り、金兵は風を望んで遁走した。飛は兵を舒に還して命を俟ち、帝はまた御札を賜い、飛が小心恭謹にして進退を専にせざることを以て得たりとされた。兀朮が濠州を破ると、張俊は黄連鎮に軍を駐め、進もうとせず、楊沂中は伏兵に遇って敗れた。帝は飛にこれを救うことを命じた。金人は飛の来るを聞き、また遁走した。

時に和議は既に決し、檜は飛が己と異なることを患い、密かに三大将を召して功を論じ賞を行うよう奏上した。韓世忠・張俊は既に至ったが、飛のみ後れた。檜はまた参政王次翁の計を用い、六七日これを待った。既に至ると、枢密副使を授け、位は参知政事の上とした。飛は固く兵権を還すことを請うた。五月、詔して俊とともに楚州に往き辺防を措置し、韓世忠の軍を総べて鎮江に還り駐屯させることとなった。

初め、飛は諸将の中で年最も少なく、列校より抜擢され、累ねて顕功を立てたので、世忠と俊は平らかでなく、飛は己を屈して彼らに下り、幕中の軽鋭の者は飛に苦しんで降意するなかれと教えた。金人が淮西を攻めた時、それは俊の分地であったが、俊は初め敢えて行かず、師は遂に功無かった。飛は命を聞くや即ち行き、遂に廬州の囲みを解いた。帝は飛に両鎮の節を与え、俊はますます恥じた。楊么が平定されると、飛は俊と世忠に楼船各一隻を献じ、兵械は全て備わり、世忠は大いに悦んだが、俊は反ってこれを忌んだ。淮西の役に、俊は前途糧乏を以て飛を訹したが、飛は止まらず、帝は御札を賜って褒諭し、「転餉艱阻なり、卿は復た顧みず」とあるものがあった。俊は飛が漏言したと疑い、朝に還ると、反って飛が逗遛して進まず、糧乏を口実にしたと唱え言った。世忠の軍を視察するに至り、俊は世忠が檜に忤うことを知り、飛とともにその背嵬軍を分けんとしたが、飛は義を以て肯わず、俊は大いに悦ばなかった。及びともに楚州城を行く時、俊は城を修めて備えとせんとしたが、飛は言うには、「戮力して恢復を図るべきであり、豈に退保の計を為すべけんや」と。俊は色を変えた。

時に世忠の軍吏景著が総領胡紡に言うには、「二枢密(張俊・岳飛)もし世忠の軍を分かたんとすれば、恐らく事を生ずるに至らん」と。紡はこれを朝廷に上すと、檜は著を捕えて大理寺に下し、世忠を扇動誣告せんとした。飛は馳せて書を送り檜の意を告げたので、世忠は帝に謁して自ら明らかにした。俊はここにおいて大いに飛を憾み、遂に飛が山陽を棄つるを議すと唱え言い、且つ密かに飛が世忠に事を報ぜしめしを檜に告げたので、檜は大怒した。

初め、檜が趙鼎を逐うと、飛は毎度客に対し嘆息し、また恢復を己が任と為し、和議に附和するを肯わなかった。檜の奏を読み、「徳に常師無く、善を主と為すを師と為す」の語に至り、その欺罔を悪み、恚って言うには、「君臣の大倫は、天性に根ざす。大臣にして忍びて面して其の主を謾うや」と。兀朮が檜に書を遺わして言うには、「汝は朝夕に和を請うておるが、岳飛は方に河北を図れり。必ず飛を殺さねば、和すべし」と。檜もまた飛が死なざれば、終に和議を梗げ、己必ず禍に及ぶと考え、故に力を謀ってこれを殺さんとした。諫議大夫万俟禼が飛と怨み有るを以て、禼に飛を劾せしめ、また中丞何鑄・侍御史羅汝楫に風して交章して弾論せしめ、大率謂うには、「今春金人が淮西を攻めし時、飛は舒・蘄に略至りて進まず、俊とともに兵を淮上に按ずるに及び、また山陽を棄てて守らざらんと欲す」と。飛は累章して枢柄を罷むるを請い、尋いで両鎮の節を還し、万寿観使・奉朝請を充てられた。檜の志は未だ伸びず、また張俊に諭して王貴を劫わし、王俊を誘いて張憲が飛の兵を還さんと謀るを誣告せしめしめた。

檜は使者を遣わして飛父子を捕え張憲の事を証せしめんとした。使者至ると、飛は笑って言うには、「皇天后土、この心を表すべし」と。初め何鑄にこれを鞠させた。飛は裳を裂き背を以て鑄に示すと、「尽忠報国」の四大字あり、膚理に深く入っていた。既にして実を閲するに左証無く、鑄はその無辜を明らかにした。万俟禼に命を改む。禼は誣いて言うには、飛が憲に与えし書に、虚しく探報を申して朝廷を動かすべく命じ、また雲が憲に与えし書に、措置して飛を軍に還らしむべく命じ、且つその書は既に焚けたと。

飛は坐して二ヶ月繫がれ、証するに足るもの無し。或る者が禼に台章の指す所の淮西の事を以て言うべしと教えると、禼は喜んで檜に白し、飛の家を簿録し、当時の御札を取って蔵し以て跡を滅ぼした。また孫革らを逼って飛が詔を受けて逗遛せしを証せしめ、評事元龜年に命じて行軍の時日を取って雑に定めしめ、その獄に傅会した。歳暮れ、獄成らず、檜は小紙に手書して獄に付すと、即ち飛の死を報じた。時に年三十九。雲は棄市に処せられた。家財を籍没し、家族を嶺南に徙した。幕属の于鵬ら坐に従う者六人。

初め、飛が獄に在りし時、大理寺丞李若樸・何彥猷、大理卿薛仁輔並びに飛に罪無しと言い、禼は俱にこれを劾して去らしめた。宗正卿士㒟は百口を以て飛を保たんことを請うたが、禼もまたこれを劾し、建州に竄して死せしめた。布衣劉允升は上書して飛の冤を訟うたが、棘寺に下して死せしめた。凡そその獄を傅成する者は、皆遷転差有り。

獄が将に上らんとする時、韓世忠は平らかでなく、檜に詣でてその実を詰ると、檜は言うには、「飛の子雲と張憲の書は雖も明らかならず、その事体は莫須有なり」と。世忠は言うには、「『莫須有』の三字、以て何ぞ天下を服せしめん」と。時に洪皓は金国中に在り、蠟書を馳せて奏し、金人の畏服する者は飛のみと為し、至って父を以てこれを呼び、諸酋その死を聞き、酒を酌んで相賀したと。

飛は至孝にして、母は河北に留まりしを、人を遣わして求訪し、迎え帰した。母は痼疾有り、薬餌は必ず親しくした。母卒すと、水漿を口にせざること三日。家に姬侍無し。呉玠は素より飛を服し、交驩せんことを願い、名姝を飾ってこれを遺わした。飛は言うには、「主上は宵旰す、豈に大将の安楽する時ならんや」と。却けて受けず、玠はますます敬服した。少より豪飲す。帝これを戒めて言うには、「卿は異時に河朔に到りて、乃ち飲むべし」と。遂に絶えて飲まず。帝初めて飛のために第を営まんとすると、飛は辞して言うには、「敵未だ滅せず、何を以て家と為さん」と。或る者天下何時太平ならんと問うと、飛は言うには、「文臣は錢を愛せず、武臣は死を惜しまずんば、天下太平なり」と。

師は毎に休舍するごと、将士に注坡・跳壕を課し、皆重鎧を以てこれを習わしめた。子雲嘗て注坡を習わんとして、馬躓くと、怒ってこれを鞭った。卒に民の麻一縷を取って芻を束ぬる者有れば、立ちどころに斬って以て徇しめた。卒が夜宿する時、民が門を開き納れんと願えども、敢えて入る者無し。軍の号は「凍死すとも屋を拆かず、餓死すとも鹵掠せず」と。卒に疾あれば、躬ら薬を調え、諸将が遠く戍れば、妻を遣わしてその家を問労し、死事する者はこれを哭してその孤を育くみ、或いは子を以てその女に婚せしめた。凡そ頒犒有れば、均しく軍吏に給し、秋毫も私せず。

少を以て衆を撃つに善くし、挙げんと欲する所あれば、諸統制を尽く召して謀り、謀定まって後に戦う。故に勝ち有りて敗れ無し。猝かに敵に遇うも動かず。故に敵これが為に語りて曰く、「山を撼がすは易く、岳家軍を撼がすは難し」と。張俊嘗て用兵の術を問うと、曰く、「仁・智・信・勇・嚴、一つを闕くべからず」と。軍食を調うる時は、必ず額を蹙めて曰く、「東南の民力、耗敝極まれり」と。荊湖平定の後、民を募って営田し、また屯田を為し、歳に漕運の半を省く。帝は手書して曹操・諸葛亮・羊祜の三事を賜う。飛はその後に跋し、独り操を指して姦賊と為しこれを鄙しみ、特に檜の悪む所となった。

張所が死ぬと、飛は旧恩を感じ、その子宗本を養育し、官に挙げるよう奏上した。李寶が楚より来帰したが、韓世忠がこれを留め置いた。寶は痛哭して飛に帰属することを願い、世忠は書を以て飛に諮った。飛は復た曰く、「共に国家の為なり、何ぞ彼此を分かたんや」と。世忠は嘆服した。襄陽の役、詔して光世を援軍と為す。六郡既に復され、光世が漸く到着した。飛は先ず光世の軍を賞するよう奏上した。賢を好み士を礼し、経史を覧み、雅歌投壺を事とし、恂恂として書生の如し。官を辞する毎に必ず曰く、「将士が力を効す、飛何の功か之有らん」と。然れども忠憤激烈にして、議論は正を堅持し、人に挫けず、卒に此れを以て禍を得た。

檜死し、飛の官を復するを議す。万俟禼は金が和を願う方なり、一旦故将を録すれば、天下の心を疑わしむるなりと謂い、不可とす。紹興の末に及び、金益々猖獗す。太学生程宏図上書して飛の冤を訟う。詔して飛の家を自便せしむ。初め、檜は岳州が飛と姓を同じくするを憎み、純州と改む。是に至り仍って旧に復す。中丞汪澈、荊・襄を宣撫す。故部曲辞を合わせて之を訟い、哭声雷の震うが如し。孝宗、詔して飛の官を復し、礼を以て改葬し、銭百万を賜い、其の後を求めて悉く之を官す。鄂に廟を建て、号して忠烈と曰う。淳熙六年、武穆と謚す。嘉定四年、鄂王を追封す。

五子:雲、雷、霖、震、霆。

子 雲

雲は飛の養子なり。年十二、張憲に従い戦い、多く其の力を得、軍中「贏官人」と呼ぶ。飛征伐するも、未だ嘗て与からざるは無し。数たび奇功を立てるも、飛は輒ち之を隠す。戦う毎に、手を以て両鉄椎(重さ八十斤)を握り、諸軍に先んじて城に登る。随州を攻め下し、又鄧州を攻め破り、襄漢平らぐ。功は第一に在りしも、飛は言わず。年を踰え、銓曹之を弁じ、始めて武翼郎に遷る。楊么平らぐ。功亦た第一なりしも、又上せず。張浚実を廉得し、曰く、「岳侯寵栄を避く、廉なることは則ち廉なれど、未だ公と為すを得ず」と。奏して異数を推すことを乞う。飛力めて辞して受けず。嘗て特旨を以て三資を遷さんとす。飛辞して曰く、「士卒矢石を冒して奇功を立て、始めて一級を霑う。男雲遽かに崇資をむ、何を以て衆を服せしめんや」と。累表して受けず。潁昌の大戦、慮る無く十数度、行陣に出入りし、体百余創を被り、甲裳赤と為る。功を以て忠州防禦使に遷らんとす。飛又辞す。命じて御器械を帯せしむ。飛又力めて之を辞す。終に左武大夫・提挙醴泉観に至る。死年二十三。孝宗の初め、飛と同しく元の官を復し、礼を以て祔葬し、安遠軍承宣使を贈る。

雷は忠訓郎・閤門祗候、武略郎を贈らる。霖は朝散大夫・敷文閣待制、太中大夫を贈らる。初め、飛獄に下り、檜親党の王会に命じて其の家を捜索せしむ。御札数篋を得、之を左蔵南庫に束ね置く。霖孝宗に請い、之を還す。霖の子珂、淮西十五御札を以て弁験彙次し、凡そ出師応援の先後皆考うる可し。嘉定の間、籲天辯誣集五巻・天定録二巻を為し、之を上る。震は朝奉大夫・提挙江南東路茶塩公事。霆は修武郎・閤門祗候。

論じて曰く、西漢以下、韓・彭・絳・灌の将たるが如きは、代々人に乏しからず。其の文武全器、仁智へい施する、宋の岳飛の如きを求むれば、一代豈に多く見るべき哉。史は関雲長の春秋左氏学に通ずるを称す、然れども未だ嘗て其の文章を見ず。飛北伐し、軍汴梁の朱仙鎮に至り、詔有りて班師す。飛自ら表を為して詔に答え、忠義の言、肺腑より流出し、真に諸葛孔明の風有り。而して卒に秦檜の手に死す。蓋し飛と檜は勢両立せず。飛をして志を得しめば、則ち金の讎は復す可く、宋の恥は雪ぐ可し。檜志を得れば、則ち飛は死有るのみ。昔、劉宋檀道済を殺す。道済獄に下り、目を嗔らして曰く、「自ら汝が万里の長城を壊す」と。高宗、自ら其の中原を棄つるを忍び、故に飛を殺すを忍ぶ。嗚呼冤なるかな、嗚呼冤なるかな。