宋史

列傳第一百二十三 韓世忠

列傳第一百二十三 韓世忠

韓世忠、字は良臣、延安の人なり。風骨偉岸、目瞬くこと電の如し。早年より鷙勇人に絶し、生馬駒に騎すことを能くす。家貧しく産業無く、酒を嗜み気を尚び、以て縄檢すべからず。日者言う、三公に當に作すべしと。世忠其の己を侮るを怒り、之を毆る。年十八、敢勇を以て郷州に應募し、赤籍に隷し、強を挽き馳せて射、勇三軍に冠す。

原文韓世忠字良臣,延安人。風骨偉岸,目瞬如電。早年鷙勇絕人,能騎生馬駒。家貧無產業,嗜酒尚氣,不可繩檢。日者言當作三公,世忠怒其侮己,毆之。年十八,以敢勇應募鄉州,隸赤籍,挽強馳射,勇冠三軍。

崇寧四年、西夏騷動し、郡兵を調して捍禦す。世忠遣中に在り。銀州に至る。夏人城を嬰して自ら固くす。世忠關を斬り敵將を殺し、首を擲ちて陴外にす。諸軍之に乘ず。夏人大敗す。既にして重兵を以て蒿平嶺に次ぐ。世忠精銳を率いて鏖戰し、解きて去る。俄にして復た間道より出づ。世忠獨り敢死士を部して殊死に鬥ふ。敵少しく却く。顧みるに一騎士甚だ銳し。俘者に問ふ。曰く「監軍駙馬兀𠼪なり」と。馬を躍らせて之を斬る。敵眾大潰す。經略司其の功を上る。童貫邊事を董ず。増飾有るを疑ひ、止むこと一資を補ふ。眾平らかならず。

原文崇寧四年,西夏騷動,郡調兵捍禦,世忠在遣中。至銀州,夏人嬰城自固,世忠斬關殺敵將,擲首陴外,諸軍乘之,夏人大敗。既而以重兵次蒿平嶺,世忠率精銳鏖戰,解去。俄復出間道,世忠獨部敢死士殊死鬥,敵少却,顧一騎士銳甚,問俘者,曰:「監軍駙馬兀𠼪也。」躍馬斬之,敵眾大潰。經略司上其功,童貫董邊事,疑有所增飾,止補一資,眾弗平。

劉延慶に從ひ天降山砦を築く。敵に據らる。世忠夜城に登り二級を斬り、護城の氈を割きて以て獻ず。繼ひで敵に佛口砦に遇ひ、又數級を斬り、始めて進義副尉を補す。藏底河に至り、三級を斬り、進勇副尉に轉ず。

原文從劉延慶築天降山砦,為敵所據,世忠夜登城斬二級,割護城氈以獻。繼遇敵佛口砦,又斬數級,始補進義副尉。至藏底河,斬三級,轉進勇副尉。

宣和二年、方臘反す。江・浙震動し、兵を四方に調す。世忠偏將を以て王淵に從ひ之を討つ。杭州に次ぐ。賊奄かに至り、勢甚だ張り。大將惶怖して策無し。世忠兵二千を以て北關堰に伏せしむ。賊過ぐるに、伏發し、眾蹂亂す。世忠追擊し、賊敗れて遁ぐ。淵嘆じて曰く「真に萬人敵なり」と。盡く隨ふ所の白金器を以て之を賞し、且つ交はりを定む。時に詔有り、能く臘の首を得る者は、兩鎮の節鉞を授く。世忠窮追して睦州清溪峒に至る。賊深く巖屋に據りて三窟と爲す。諸將繼ぎて至るも、入る所を知らず。世忠潜かに溪谷を行き、野婦に問ひて徑を得、即ち身を挺して戈を仗し直ちに前に進み、險を渡ること數里、其の穴を擣ち、格殺すること數十人、臘を禽えて出づ。辛興宗兵を領して峒口を截つ。其の俘を掠めて己が功と爲す。故に賞世忠に及ばず。別帥楊惟忠闕に還り、直ちに其の事をす。承節郎に轉ず。

原文宣和二年,方臘反,江、浙震動,調兵四方,世忠以偏將從王淵討之。次杭州,賊奄至,勢張甚,大將惶怖無策。世忠以兵二千伏北關堰,賊過,伏發,眾蹂亂,世忠追擊,賊敗而遁。淵嘆曰:「真萬人敵也。」盡以所隨白金器賞之,且與定交。時有詔能得臘首者,授兩鎮節鉞。世忠窮追至睦州清溪峒,賊深據巖屋為三窟,諸將繼至,莫知所入。世忠潛行溪谷,問野婦得徑,即挺身仗戈直前,渡險數里,擣其穴,格殺數十人,禽臘以出。辛興宗領兵截峒口,掠其俘為己功,故賞不及世忠。別帥楊惟忠還闕,直其事,轉承節郎。

三年、燕山を復たすを議し、諸軍を調す。至れば皆潰く。世忠往きて劉延慶に見え、蘇格等五十騎と俱に滹沱河に抵る。金兵二千餘騎に逢ふ。格措く所を失ふ。世忠從容として格等をして高岡に列ならしめ、動かざるを戒む。燕山の潰卒舟を集むるに屬し、即ち命じて河岸に艤し、鼓譟して聲勢を助くるを約す。世忠馬を躍らせて敵に薄き、迴旋すること飛ぶが如し。敵二隊を分ち高阜に據る。世忠其の意に出でず、二の旗を執る者を突き、因りて奮擊し、格等之を夾攻す。舟卒鼓譟す。敵大亂し、追斬すること甚だ衆し。時に山東・河北盜賊蠭起す。世忠王淵・梁方平に從ひ討捕し、禽戮すること殆んど盡き、功を積みて武節郎に轉ず。

原文三年,議復燕山,調諸軍,至則皆潰。世忠往見劉延慶,與蘇格等五十騎俱抵滹沱河。逢金兵二千餘騎,格失措,世忠從容令格等列高岡,戒勿動。屬燕山潰卒舟集,即命艤河岸,約鼓譟助聲勢。世忠躍馬薄敵,迴旋如飛。敵分二隊據高阜,世忠出其不意,突二執旗者,因奮擊,格等夾攻之,舟卒鼓譟,敵大亂,追斬甚眾。時山東、河北盜賊蠭起,世忠從王淵、梁方平討捕,禽戮殆盡,積功轉武節郎。

欽宗即位す。梁方平に從ひ濬州に屯す。金人境に壓す。方平備へ嚴ならず。金人迫りて遁ぐ。王師數萬皆潰く。世忠重圍の中に陷り、戈を揮ひ力戰し、圍を突きて出で、橋を焚きて還る。欽宗聞き、便殿に召して對へしめ、方平の律を失へる狀を詢ねる。條奏甚だ悉し。武節大夫に轉ず。諸路の勤王兵に詔し、領する所の部をして入り衞えいらしむ。會ひて金人退く。河北總管司鋒軍統制を辟選す。

原文欽宗即位,從梁方平屯濬州。金人壓境,方平備不嚴,金人迫而遁,王師數萬皆潰。世忠陷重圍中,揮戈力戰,突圍出,焚橋而還。欽宗聞,召對便殿,詢方平失律狀,條奏甚悉。轉武節大夫。詔諸路勤王兵領所部入衞,會金人退,河北總管司辟選鋒軍統制。

時に勝捷軍の張師正敗る。宣撫副使李彌大之を斬る。大校李復衆を鼓して以て亂る。淄・青の附する者數萬人を合し、山東復た擾ふ。彌大檄して世忠をして將と爲し所部を將ひ追擊せしむ。臨淄河に至る。兵千に滿たず。四隊に分ち、鐵蒺藜を布き自ら歸路を塞ぎ、令して曰く「進めば則ち勝ち、退けば則ち死し、走る者は後隊を命じて剿殺せしむ」と。是に於て敢へて返顧する者無く、皆死戰し、大いに之を破り、復を斬る。餘黨奔潰す。勝に乘じて北を逐ひ、追ひて宿遷に至る。賊尚ほ萬人、方に子女を擁し牛を椎き酒を縱す。世忠單騎夜其の營に造り、呼びて曰く「大軍至れり。亟に戈を束ね甲を卷け。吾能く汝を保全し、功名を共にせん」と。賊駭慄して命を請ふ。因りて跪きて牛酒を進む。世忠馬を下り鞍を解き、之を飲啖すること盡くす。是に於て衆悉く就きて降る。黎明、世忠の軍未だ至らざるを見て、始めて大いに悔ひ色を失ふ。功を以て左武大夫・果州團練使に遷す。

原文時勝捷軍張師正敗,宣撫副使李彌大斬之,大校李復鼓眾以亂,淄、青之附者合數萬人,山東復擾。彌大檄世忠將所部追擊,至臨淄河,兵不滿千,分為四隊,布鐵蒺藜自塞歸路,令曰:「進則勝,退則死,走者命後隊剿殺。」於是莫敢返顧,皆死戰,大破之,斬復,餘黨奔潰。乘勝逐北,追至宿遷,賊尚萬人,方擁子女椎牛縱酒。世忠單騎夜造其營,呼曰:「大軍至矣,亟束戈卷甲,吾能保全汝,共功名。」賊駭慄請命,因跪進牛酒。世忠下馬解鞍,飲啖之盡,於是眾悉就降。黎明,見世忠軍未至,始大悔失色。以功遷左武大夫、果州團練使。

詔して朝に入る。正任單州團練使を授け、滹沱河に屯す。時に真定守を失ふ。世忠王淵の趙を守るを知り、遂に亟に往く。金人至る。世忠在るを聞き、攻むること益々急なり。糧盡き援絕ゆ。人多く其の圍を潰して去るを勉むるも、聽かず。會ひて大雪、夜半、死士三百を以て敵營を擣つ。敵驚き亂れ、自ら相擊刺し、旦に及んで盡く遁ぐ。後に金國より來る者有りて、始めて知る大酋是の日に創を受け死す。故に衆支ふることを能はざるを。嘉州防禦使に遷す。

原文詔入朝,授正任單州團練使,屯滹沱河。時真定失守,世忠知王淵守趙,遂亟往。金人至,聞世忠在,攻益急,糧盡援絕,人多勉其潰圍去,弗聽。會大雪,夜半,以死士三百擣敵營。敵驚亂,自相擊刺,及旦盡遁。後有自金國來者,始知大酋是日被創死,故眾不能支。遷嘉州防禦使。

大名に還る。趙野前軍統制と爲すを辟す。時に康王濟州に如く。世忠領する所の部を勸進す。金人兵を縱して城に逼る。人心恟懼す。世忠西王臺に據り力戰す。金人少しく却く。翌日、酋帥衆數萬を率ひて至る。時に世忠の戲下僅かに千人、單騎突入し、其の酋長を斬る。遂に大潰す。

原文還大名,趙野辟為前軍統制。時康王如濟州,世忠領所部勸進。金人縱兵逼城,人心恟懼,世忠據西王臺力戰,金人少卻。翌日,酋帥率眾數萬至,時世忠戲下僅千人,單騎突入,斬其酋長,遂大潰。

康王即ち皇帝位に即く。光州觀察使・帶御器械を授く。世忠都を長安ちょうあんに移し、兵を下して兩河を收むるを請ふ。時論從はず。初めて御營を建つ。左軍統制と爲る。是歲、王淵・張俊を命じて陳州の叛兵を討たしめ、劉光世をして黎驛の叛兵を討たしめ、喬仲福をして京東の賊李昱を討たしめ、世忠をして單州の賊魚臺を討たしむ。世忠既に魚臺を破り、又黎驛の叛兵を擊ちて之を敗る。皆斬りて以て獻ず。是に於て羣盜悉く平ぎ、入りて宿衞を備ふ。而して河北の賊丁順・楊進等皆招撫司に赴く。宗澤收めて之を用ふ。

原文康王即皇帝位,授光州觀察使、帶御器械。世忠請移都長安,下兵收兩河,時論不從。初建御營,為左軍統制。是歲,命王淵、張俊討陳州叛兵,劉光世討黎驛叛兵,喬仲福討京東賊李昱,世忠討單州賊魚臺。世忠已破魚臺,又擊黎驛叛兵敗之,皆斬以獻。於是羣盜悉平,入備宿衞。而河北賊丁順、楊進等皆赴招撫司,宗澤收而用之。

建炎二年、定國軍承宣使に升る。帝揚州に如く。世忠所部を以て從ふ。時に張遇金山より來降す。城下に抵り、甲を解かず。人心危懼す。世忠獨り其の壘に入り、逆順を以て曉す。衆悉く命を聽く。李民衆十萬も亦降る。比し至るに、反覆の狀有り。王淵世忠を遣はし旨を諭す。世忠其の黨劉彥の異議するを知り、即ち先づ彥を斬り、李民を毆り出だし、小校二十九人を縛し、淵に送りて之を斬らしむ。事定まり、京西等路捉殺內外盜賊を授く。

原文建炎二年,升定國軍承宣使。帝如揚州,世忠以所部從。時張遇自金山來降,抵城下,不解甲,人心危懼,世忠獨入其壘,曉以逆順,眾悉聽命。李民眾十萬亦降,比至,有反覆狀。王淵遣世忠諭旨,世忠知其黨劉彥異議,即先斬彥,毆李民出,縛小校二十九人,送淵斬之。事定,授京西等路捉殺內外盜賊。

金人再び河南を攻む。翟進世忠の兵を合し夜悟室の營を襲ふ。克たず、反つて敗るる所と爲る。會ひて丁進期を失ひ、陳思恭先づ遁ぐ。世忠矢を受くること棘の如し。力戰して免る。汴に還り、一軍の先づ退く者を詰めて皆斬る。左右懼る。進是より世忠と隙有り。尋いで叛を以て誅せらる。

原文金人再攻河南,翟進合世忠兵夜襲悟室營,不克,反為所敗。會丁進失期,陳思恭先遁,世忠被矢如棘,力戰得免。還汴,詰一軍之先退者皆斬,左右懼。進由是與世忠有隙,尋以叛誅。

世忠を召して還す。鄜延路副總管を授け、平寇左將軍を加へ、淮陽に屯し、會ひて山東の兵を以て敵を拒がしむ。粘罕世忠の淮陽を扼するを聞き、乃ち兵萬人を分かち揚州に趨らしめ、自ら大軍を以て世忠を迎へて戰ふ。世忠敵せず、夜引きて歸る。敵之に躡ふ。軍沭陽に潰る。閤門宣贊舍人張遇之に死す。

原文召世忠還,授鄜延路副總管,加平寇左將軍,屯淮陽,會山東兵拒敵。粘罕聞世忠扼淮陽,乃分兵萬人趨揚州,自以大軍迎世忠戰。世忠不敵,夜引歸,敵躡之,軍潰于沭陽,閤門宣贊舍人張遇死之。

建炎三年、帝は諸将を召して行在所の移動を議し、張俊・辛企宗は湖南へ赴くことを請うたが、世忠は言う、「淮・浙は富饒にして、今や根本の地である。どうしてこれを捨てて他へ行くことができようか。人心は疑念を抱き、ひとたび退避すれば、不逞の輩は乱を思う。重湖・閩嶺の遥か遠き地、どうして道路に変事なきを保せようか。淮・江には兵を留めて守りとし、車駕は兵を分けて護衛とすべきである。およそ十万人を約し、半分を江・淮の上下に扈従させれば、残るは五万に過ぎず、どうして防守に憂いなきを保せようか」と。陽城において散亡の兵を収合し、数千人を得、帝が銭塘に行幸されたと聞くや、直ちに海路を経て行在所へ赴いた。

原文三年,帝召諸將議移蹕,張俊、辛企宗請往湖南,世忠曰:「淮、浙富饒,今根本地,詎可舍而之他?人心懷疑,一有退避,則不逞者思亂,重湖、閩嶺之遙,安保道路無變乎?淮、江當留兵為守,車駕當分兵為衞,約十萬人,分半扈江、淮上下,止餘五萬,可保防守無患乎?」在陽城收合散亡,得數千人,聞帝如錢塘,即繇海道赴行在。

苗傅・劉正彥が反逆し、張浚らが平江において乱の討伐を議していたところ、世忠の到着を知り、互いに慶び慰め合い、張俊は喜躍して自らを抑えられなかった。世忠は張俊の書状を得て、大いに慟哭し、酒を捧げて神に誓って言う、「誓ってこの賊と天を同じくせず」と。士卒は皆奮い立った。張浚に会って言う、「今日の大事は、世忠が張俊とともに身をもって引き受けます。公は憂うるなかれ」と。直ちに進兵しようとした。張浚は言う、「鼠に投げるに器を忌む。事は急ぐべからず。急げば恐らく不測の事態があろう。既に馮轓を遣わし、甘言をもって賊を誘っている」と。

原文苗傅、劉正彥反,張浚等在平江議討亂,知世忠至,更相慶慰,張俊喜躍不自持。世忠得俊書,大慟,舉酒酹神曰:「誓不與此賊共戴天!」士卒皆奮。見浚曰:「今日大事,世忠願與張俊身任之,公無憂。」欲即進兵。浚曰:「投鼠忌器,事不可急,急則恐有不測,已遣馮轓甘言誘賊矣。」

三月戊戌、配下の兵を率いて平江を発つ。張俊は世忠の兵が少ないことを慮り、劉宝の兵二千を貸し与えた。舟行して甲士を載せ、連綿三十里に及んだ。秀州に至り、病と称して進まず、雲梯を造り、器械を整えると、苗傅らは初めて恐れをなした。初め、苗傅・劉正彥は世忠が来ると聞き、檄を飛ばしてその兵を江陰に駐屯させようとした。世忠は穏やかな言葉で返答し、かつ配下の兵は残零であるから、行在所へ赴きたいと述べた。苗傅らは大いに喜び、彼の到着を許し、詔を偽って世忠及び張俊を節度使に任じたが、二人とも受けなかった。

原文三月戊戌,以所部發平江。張俊慮世忠兵少,以劉寶兵二千借之。舟行載甲士,綿亙三十里。至秀州,稱病不行,造雲梯,治器械,傅等始懼。初,傅、正彥聞世忠來,檄以其兵屯江陰。世忠以好語報之,且言所部殘零,欲赴行在。傅等大喜,許之至,矯制除世忠及張俊為節度使,皆不受。

当時、世忠の妻梁氏及び子の韓亮が苗傅に人質とされ、厳重に監視されていた。朱勝非が苗傅を欺いて言う、「今、太后に申し上げ、二人を遣わして世忠を慰撫させれば、平江の諸人もますます安心するでしょう」と。そこで梁氏を召し入れて安国夫人に封じ、世忠を迎えさせ、その勤王を促させた。梁氏は疾駆して城を出、一日一夜で秀州において世忠と会った。

原文時世忠妻梁氏及子亮為傅所質,防守嚴密。朱勝非紿傅曰:「今白太后,遣二人慰撫世忠,則平江諸人益安矣。」於是召梁氏入,封安國夫人,俾迓世忠,速其勤王。梁氏疾驅出城,一日夜會世忠於秀州。

間もなく、明受の詔書が届いたが、世忠は言う、「我は建炎を知るのみで、明受は知らぬ」と。その使者を斬り、詔書を取って焼き捨て、進兵をますます急がせた。苗傅らは大いに恐れた。臨平に至ると、賊将の曲翊・馬柔吉が山を背に河を阻んで陣を敷き、中流に鹿角を立て、舟の航行を妨げた。世忠は舟を捨てて力戦し、張俊がこれに続き、劉光世がまた続いた。軍が少し退くと、世忠はまた馬を捨てて戈を執って前進し、将士に命じて言う、「今日は死をもって国に報いよ。顔に数本の矢を受けぬ者は皆斬る」と。ここにおいて士卒は皆命を捧げた。賊は神臂弩を並べて満を持して待ち構えたが、世忠は目を瞋って大呼し、刃を挺して突進すると、賊は退き、矢を放つ暇もなく、遂に敗れた。苗傅・劉正彥は精兵二千を擁し、湧金門を開いて遁走した。

原文未幾,明受詔至,世忠曰:「吾知有建炎,不知有明受。」斬其使,取詔焚之,進兵益急。傅等大懼。次臨平,賊將曲翊、馬柔吉負山阻河為陣,中流植鹿角,梗行舟。世忠舍舟力戰,張俊繼之,劉光世又繼之。軍少卻,世忠復舍馬操戈而前,令將士曰:「今日當以死報國,面不被數矢者皆斬。」於是士皆用命。賊列神臂弩持滿以待,世忠瞋目大呼,挺刃突前,賊辟易,矢不及發,遂敗。傅、正彥擁精兵二千,開湧金門以遁。

世忠は駆け入り、帝は歩いて宮門まで出て、世忠の手を握り慟哭して言う、「中軍の呉湛が叛逆を助けたことが最も甚だしい。なお朕の肘腋に留まっている。先に誅することができるか」と。世忠は直ちに呉湛に謁し、手を握って語らい、その中指を折り、市中で斬った。また賊の謀主たる王世修を捕らえて官吏に引き渡した。詔して武勝軍節度使・御営左軍都統制に任じた。帝に請うて言う、「賊は精兵を擁し、甌・閩に甚だ近い。もし巣窟を成せば、遂には滅ぼし難かろう。臣にこれを討たせてください」と。ここにおいて江・浙制置使とし、衢・信より追撃し、漁梁駅に至り、賊と遭遇した。世忠は歩いて走り戈を挺して前進すると、賊はこれを見て、舌を鳴らして言う、「これは韓将軍だ」と。皆驚いて潰走した。劉正彥及び苗傅の弟の苗翊を捕らえて行在所に送り、苗傅は建陽に逃亡したが、追捕してこれを擒にし、皆誅殺された。世忠が初めて陛下に別れを告げた時、上奏して言う、「臣は誓って賊を生け捕りし、社稷の恥を雪ぎます。殿前の二虎賁に捕虜を護衛して献上させてください」と。この時、ついにその言葉の通りとなった。帝は手ずから「忠勇」の二字を書し、旗に掲げて賜うた。検校少保・武勝昭慶軍節度使に任じた。

原文世忠馳入,帝步至宮門,握世忠手慟哭曰:「中軍吳湛佐逆為最,尚留朕肘腋,能先誅乎?」世忠即謁湛,握手與語,折其中指,戮于市;又執賊謀主王世修以屬吏。詔授武勝軍節度使、御營左軍都統制。請于帝曰:「賊擁精兵,距甌、閩甚邇,儻成巢窟,卒未可滅,臣請討之。」於是以為江、浙制置使,自衢、信追擊,至漁梁驛,與賊遇。世忠步走挺戈而前,賊望見,咋曰:「此韓將軍也!」皆驚潰。擒正彥及傅弟翊送行在,傅亡建陽,追禽之,皆伏誅。世忠初陛辭,奏曰:「臣誓生獲賊,為社稷刷恥,乞殿前二虎賁護俘來獻。」至是,卒如其言。帝手書「忠勇」二字,揭旗以賜。授檢校少保、武勝昭慶軍節度使。

兀朮が侵攻せんとし、帝は諸将を召して行在所の地を問うた。張俊・辛企宗は鄂・岳より長沙へ行幸するよう勧めたが、世忠は言う、「国家は既に河北・山東を失った。もしまた江・淮を棄てれば、さらに何の地があろうか」と。ここにおいて世忠を浙西制置使とし、鎮江を守らせた。やがて兀朮が分かれて道を渡江し、諸屯は皆敗れ、世忠もまた鎮江より退いて江陰を守った。杜充が建康を以て敵に降り、兀朮は広徳より臨安を破り、帝は浙東に行幸された。世忠は前軍を青龍鎮に、中軍を江湾に、後軍を海口に駐め、敵の帰還を待ち邀撃しようとした。帝が行在所に召すと、上奏して言う、「今まさに江上に留まり、金人の帰還する軍を遮断し、死を尽くして一戦します」と。帝は輔臣に謂う、「先に呂頤浩が会稽におり、嘗てこの策を建てたが、世忠は謀らずして同じくした」と。親筆の書札を賜い、その留まることを聴許した。

原文兀朮將入侵,帝召諸將問移蹕之地,張俊、辛企宗勸自鄂、岳幸長沙,世忠曰:「國家已失河北、山東,若又棄江、淮,更有何地?」於是以世忠為浙西制置使,守鎮江。既而兀朮分道渡江,諸屯皆敗,世忠亦自鎮江退保江陰。杜充以建康降敵,兀朮自廣德破臨安,帝如浙東。世忠以前軍駐青龍鎮,中軍駐江灣,後軍駐海口,俟敵歸邀擊之。帝召至行在,奏:「方留江上截金人歸師,盡死一戰。」帝謂輔臣曰:「比呂頤浩在會稽,嘗建此策,世忠不謀而同。」賜親札,聽其留。

ちょうど上元節に当たり、秀州において灯りを掲げて盛会を催していたが、突然兵を率いて鎮江へ向かった。金兵が到着した時には、既に世忠の軍は先んじて焦山寺に駐屯していた。金将の李選が降伏し、これを受け入れた。兀朮が使者を遣わして通問し、日を約して大戦することを求めたので、これを許した。戦いは十合に及ぼうとした時、梁夫人自ら桴鼓を執り、金兵は終に渡ることができなかった。掠めたものを全て返還して仮道を請うたが、聴かなかった。名馬を献上すると請うたが、また聴かなかった。撻辣が濰州におり、孛堇太一を遣わして淮東へ向かわせ兀朮を援けさせた。世忠は二酋と黄天蕩において四十八日間相持した。太一孛堇の軍は江北に、兀朮の軍は江南にあり、世忠は海艦を進めて金山の下に泊め、あらかじめ鉄の綆に大鈎を通し、驍ぎょう健な者に授けた。翌朝、敵舟が騒ぎながら前進すると、世忠は海舟を二道に分けてその背後に出し、一つの綆を縋り下ろすごとに、一つの舟を曳き沈めた。兀朮は窮迫し、会談を求め、哀願すること甚だ哀れであった。世忠は言う、「我が両宮を還し、我が疆土を回復すれば、相全うすることができよう」と。兀朮は言葉に詰まった。

原文會上元節,就秀州張燈高會,忽引兵趨鎮江。及金兵至,則世忠軍已先屯焦山寺。金將李選降,受之。兀朮遣使通問,約日大戰,許之。戰將十合,梁夫人親執桴鼓,金兵終不得渡。盡歸所掠假道,不聽;請以名馬獻,又不聽。撻辣在濰州,遣孛堇太一趨淮東以援兀朮,世忠與二酋相持黃天蕩者四十八日。太一孛堇軍江北,兀朮軍江南,世忠以海艦進泊金山下,預以鐵綆貫大鈎授驍健者。明旦,敵舟譟而前,世忠分海舟為兩道出其背,每縋一綆,則曳一舟沉之。兀朮窮蹙,求會語,祈請甚哀。世忠曰:「還我兩宮,復我疆土,則可以相全。」兀朮語塞。

また数日後、再会を求めたが、言葉が不遜であったので、世忠は弓を引いて射ようとすると、兀朮は急いで馬を走らせ去り、諸将に謂う、「南軍は船を使うこと馬を使うが如し。どうしたものか」と。人を募って海舟を破る策を献じさせた。閩人の王某なる者が、その舟に土を載せ、平板を敷き、船板に穴を開けて櫂槳とし、風が止めば江に出、風があれば出ないようにすることを教えた。海舟は風がなければ動くことができないからである。また献策する者がいて言う、「大渠を穿ち江口に接続すれば、世忠の上流に位置することになる」と。兀朮は一夜のうちに密かに渠を三十里穿ち、かつ方士の計を用い、白馬を殺し、婦人の心臓を抉り、自らその額を割いて天を祭った。翌日風が止むと、我が軍の帆は弱く動かず、金人は小舟をもって火を放ち、矢は雨の如く降り注いだ。孫世詢・厳允は皆戦死し、敵は江を渡り去ることができた。世忠は残軍を収めて鎮江に還った。

原文又數日求再會,言不遜,世忠引弓欲射之,亟馳去,謂諸將曰:「南軍使船如使馬,奈何?」募人獻破海舟策。閩人王某者,教其舟中載土,平版鋪之,穴船版以櫂槳,風息則出江,有風則勿出。海舟無風,不可動也。又有獻謀者曰:「鑿大渠接江口,則在世忠上流。」兀朮一夕潛鑿渠三十里,且用方士計,刑白馬,剔婦人心,自割其額祭天。次日風止,我軍帆弱不能運,金人以小舟縱火,矢下如雨。孫世詢、嚴允皆戰死,敵得絕江遁去。世忠收餘軍還鎮江。

初め、世忠は敵が来れば必ず金山廟に登り、我が虚実を観ると考えた。そこで兵百人を廟中に、百人を岸辺に伏せさせ、鼓の音を聞いたら、岸の兵が先に入り、廟の兵が合撃することを約束した。金人は果たして五騎が闖入し、廟の兵は喜び、先に鼓を鳴らして出たが、わずかに二人を得たのみであった。三人は逃れ、その中に絳袍玉帯で、一度落馬しながらまた駆け去った者がいた。詰問すると、これが兀朮であった。この役において、兀朮の兵は十万と号し、世忠は僅か八千余人であった。帝は合わせて六度書札を賜い、褒賞すること甚だ寵遇であった。検校少師・武成感徳軍節度使・神武左軍都統制に任じた。

原文初,世忠謂敵至必登金山廟,觀我虛實。迺遣兵百人伏廟中,百人伏岸滸,約聞鼓聲,岸兵先入,廟兵合擊之。金人果五騎闖入,廟兵喜,先鼓而出,僅得二人。逸其三,中有絳袍玉帶、既墜而復馳者,詰之,乃兀朮也。是役也,兀朮兵號十萬,世忠僅八千餘人。帝凡六賜札,褒奬甚寵。拜檢校少師、武成感德軍節度使、神武左軍都統制。

建安の范汝為が反乱を起こし、辛企宗らが討伐捕縛したが未だ制圧できず、賊の勢いはますます盛んとなった。世忠を福建・江西・荊湖宣撫副使と為す。世忠曰く、「建州は閩嶺の上流にあり、賊が流れに沿って下れば、七郡皆血肉と化すであろう」と。急ぎ歩卒三万を率い、水陸併せて進む。剣潭に駐屯す。賊は橋を焼く。世忠は策馬して先ず渡り、軍は遂に渡河す。賊は要路を全て塞ぎて王師を拒ぐ。世忠は諸軍に命じて旗を伏せ鼓を倒し、真っ直ぐに鳳凰山に至り、城邑を見下ろし、雲梯と火楼を設け、昼夜を分かたず併せて攻撃す。賊は震え恐れて測り難し。五日にして城は陥ち、汝為は身を潜めて自ら焼死す。その弟の岳・吉を斬りて示衆にし、その謀主謝嚮・施逵及び裨将陸必強ら五百余人を擒らう。

原文建安范汝為反,辛企宗等討捕未克,賊勢愈熾。以世忠為福建、江西、荊湖宣撫副使,世忠曰:「建居閩嶺上流,賊沿流而下,七郡皆血肉矣。」亟領步卒三萬,水陸並進。次劍潭,賊焚橋,世忠策馬先渡,師遂濟。賊盡塞要路拒王師,世忠命諸軍偃旗仆鼓,徑抵鳳凰山,頫瞰城邑,設雲梯火樓,連日夜併攻,賊震怖叵測。五日城破,汝為竄身自焚,斬其弟岳、吉以徇,禽其謀主謝嚮、施逵及裨將陸必強等五百餘人。

世忠は初め建州の民を皆殺しにせんと欲す。李綱が福州より馳せて世忠に会い、「建民は多く無辜なり」と言う。世忠は軍士に命じて城上を馳せて下るなからしめ、民が自ら互いに別れるに任せ、農民には牛と穀物を与え、商人には徴税と禁令を緩め、脅従した者は選別して遣わし、ただ賊に附いた者のみを取って誅す。民は更生を感じ、家ごとに祠を立てる。捷報が聞こえ、帝曰く、「古の名将と雖も何を以てか加えん」と。黄金の器皿を賜う。

原文世忠初欲盡誅建民,李綱自福州馳見世忠曰:「建民多無辜。」世忠令軍士馳城上毋下,聽民自相別,農給牛穀,商賈弛征禁,脅從者汰遣,獨取附賊者誅之。民感更生,家為立祠。捷聞,帝曰:「雖古名將何以加。」賜黃金器皿。

世忠は因みに奏上す、江西・湖南の寇賊なお多しと。乗勝して討平することを請う。広西の賊曹成が余衆を擁して郴州・邵州に在り。世忠は閩寇を平らげし後、直ちに軍を返して永嘉に至り、将に休息に就かんとするが如し。忽ち処州・信州より径ちに豫よ章に至り、江濱に連営すること数十里。群賊はその至るを予期せず、大いに驚く。世忠は人を遣わしてこれを招く。成はその衆を率いて降る。戦士八万を得て、行在所に遣わす。

原文世忠因奏江西、湖南寇賊尚多,乞乘勝討平。廣西賊曹成擁餘眾在郴、邵。世忠既平閩寇,旋師永嘉,若將就休息者。忽由處、信徑至豫章,連營江濱數十里,羣賊不虞其至,大驚。世忠遣人招之,成以其眾降,得戰士八萬,遣詣行在。

遂に師を移して長沙に至る。時に劉忠は数万の衆を有し、白面山に拠り、営柵相望む。世忠の至りし初め、急撃せんと欲す。宣撫使孟庾は不可とす。世忠曰く、「兵家の利害は、策を之に審らかにす。参政の知る所に非ず。半月を期して捷効を請う」と。遂に賊と対峙し、囲碁を打ち酒宴を張り、堅く壁を守って動かず。衆は測り難し。一夜、蘇格と連れだって騎馬にて賊営を穿ち、斥候が詰問す。世忠は先に賊の軍号を得ており、声に随って応じ、一周して出で、喜んで曰く、「此れ天の賜いなり」と。夜に精兵二千を白面山に伏せ、諸将と共に営を抜いて進む。賊兵が迎え撃たんとする時、遣わした兵は既に中軍に馳せ入り、望楼を奪い、旗と蓋を立て、伝呼すること雷の如し。賊は顧みて驚き潰走す。将士を指揮して挟撃し、大いにこれを破り、忠の首を斬る。湖南は遂に平らぐ。太尉を授け、帯・笏を賜い、仍て枢密に勅して功を以て内外の諸将に頒示せしむ。師は建康に還り、背嵬軍を置く。皆勇猛にして比類なき者なり。九月、江南東・西路宣撫使と為り、司を建康に置く。

原文遂移師長沙。時劉忠有眾數萬,據白面山,營柵相望。世忠始至,欲急擊,宣撫使孟庾不可,世忠曰:「兵家利害,策之審矣,非參政所知,請期半月效捷。」遂與賊對壘,弈棋張飲,堅壁不動,眾莫測。一夕,與蘇格聯騎穿賊營,候者呵問,世忠先得賊軍號,隨聲應之,周覽以出,喜曰:「此天錫也。」夜伏精兵二千於白面山,與諸將拔營而進。賊兵方迎戰,所遣兵已馳入中軍,奪望樓,植旗蓋,傳呼如雷,賊回顧驚潰,麾將士夾擊,大破之,斬忠首,湖南遂平。授太尉,賜帶、笏,仍勑樞密以功頒示內外諸將。師還建康,置背嵬軍,皆勇鷙絕倫者。九月,為江南東、西路宣撫使,置司建康。

三年三月、開府儀同三司に進み、淮南東・西路宣撫使を充て、司を泗州に置く。時に李横が師を進めて偽斉を討つと聞き、大将を遣わすことを議す。世忠の忠勇を以て、故に之を遣わす。仍て広馬七綱、甲千副、銀二万両、帛二万匹を賜う。又、銭百万緡、米二十八万斛を出し、半年の用と為す。戸部侍郎姚舜明をして泗州に詣らしめ、銭糧を総領せしむ。倉部郎官孫逸をして平江府・常秀饒州に如からしめ、軍食を督発せしむ。李横の兵は敗れて鎮に還り、世忠は果たして淮を渡らず。

原文三年三月,進開府儀同三司,充淮南東、西路宣撫使,置司泗州。時聞李橫進師討偽齊,議遣大將,以世忠忠勇,故遣之。仍賜廣馬七綱,甲千副,銀二萬兩,帛二萬匹;又出錢百萬緡,米二十八萬斛,為半歲之用。命戶部侍郎姚舜明詣泗州,總領錢糧;倉部郎官孫逸如平江府、常秀饒州,督發軍食。李橫兵敗還鎮,世忠不果渡淮。

四年、建康・鎮江・淮東宣撫使を以て鎮江に駐屯す。是の歳、金人と劉豫が兵を合わし、分道して侵入す。帝、手札を以て世忠に命じ、守備を整え、進取を図らしむ。辞旨懇切なり。世忠、詔を受けて感泣し曰く、「主上憂い如此くす、臣子何を以てか生くべき」と。遂に鎮江より師を渡し、統制解元をして高郵を守らしめ、金の歩卒を待たしむ。自ら騎兵を提げて大儀に駐まり、敵騎に当たり、木を伐って柵と為し、自ら帰路を断つ。

原文四年,以建康、鎮江、淮東宣撫使駐鎮江。是歲,金人與劉豫合兵,分道入侵。帝手札命世忠飭守備,圖進取,辭旨懇切。世忠受詔,感泣曰:「主憂如此,臣子何以生為!」遂自鎮江濟師,俾統制解元守高郵,候金步卒;親提騎兵駐大儀,當敵騎,伐木為柵,自斷歸路。

時に魏良臣を金に使わす。世忠は炊事の竈を撤き、良臣に詔ありて屯を移し江を守ると偽る。良臣は疾く馳せ去る。世忠、良臣の已に国境を出でたるを推し量り、即ち馬に上り軍中に令して曰く、「吾が鞭の向かう所を視よ」と。是に於いて軍を率いて大儀に駐まり、五つの陣を布き、二十余所に伏兵を設け、鼓を聞けば即ち起ちて撃つことを約す。良臣、金軍中に至る。金人、王師の動静を問う。具に所見を以て対う。聶児孛堇、世忠の退くを聞き、喜び甚だしく、兵を引いて江口に至る。大儀より五里。別将撻孛也、鉄騎を擁して五陣の東を過ぐ。世忠、小麾を伝えて鼓を鳴らす。伏兵四より起つ。旗色は金人の旗と雑り出で、金軍乱る。我が軍は次々に進む。背嵬軍は各々長斧を持ち、上は人の胸を突き、下は馬の足を斬る。敵は甲を着て泥濘に陥る。世忠は勁騎を指揮して四面より蹂躙し、人馬ともに斃る。遂に撻孛也ら二百余人を擒らう。

原文會遣魏良臣使金,世忠撤炊爨,紿良臣有詔移屯守江,良臣疾馳去。世忠度良臣已出境,即上馬令軍中曰:「眡吾鞭所嚮。」於是引軍次大儀,勒五陣,設伏二十餘所,約聞鼓即起擊。良臣至金軍中,金人問王師動息,具以所見對。聶兒孛堇聞世忠退,喜甚,引兵至江口,距大儀五里;別將撻孛也擁鐵騎過五陣東。世忠傳小麾鳴鼓,伏兵四起,旗色與金人旗雜出,金軍亂,我軍迭進。背嵬軍各持長斧,上揕人胸,下斫馬足。敵被甲陷泥淖,世忠麾勁騎四面蹂躪,人馬俱斃,遂擒撻孛也等二百餘人。

遣わした董旼も亦た天長県の鵶口に於いて金人を撃ち、女真四十余人を擒らう。解元は高郵に至り、敵に遇う。水軍を設けて河を挟み陣し、一日に十三度合戦し、相拒んで未だ決せず。世忠は成閔を遣わして騎士を将い往きて援けしむ。復た大戦し、生女真及び千戸らを俘虜とす。世忠は復た自ら追って淮に至る。金人は驚き潰走し、互いに蹈み藉り、溺死する者甚だ衆し。

原文所遣董旼亦擊金人於天長縣之鵶口,擒女真四十餘人。解元至高郵,遇敵,設水軍夾河陣,日合戰十三,相拒未決。世忠遣成閔將騎士往援,復大戰,俘生女真及千戶等。世忠復親追至淮,金人驚潰,相蹈藉,溺死甚眾。

捷報聞こえ、群臣入朝して賀す。帝曰く、「世忠忠勇、朕其の必ず能く成功するを知る」と。沈与求曰く、「建炎以来、将士未だ嘗て金人と迎え撃ち一戦する有らず。今世忠連捷して其の鋒を挫く。厥の功小さからず」と。帝曰く、「第に優に之を賞せよ」と。是に於いて部将董旼・陳桷・解元・呼延通ら皆峻擢有差。論者此の挙を以て中興武功の第一と為す。

原文捷聞,羣臣入賀,帝曰:「世忠忠勇,朕知其必能成功。」沈與求曰:「自建炎以來,將士未嘗與金人迎敵一戰,今世忠連捷以挫其鋒,厥功不細。」帝曰:「第優賞之。」於是部將董旼、陳桷、解元、呼延通等皆峻擢有差。論者以此舉為中興武功第一。

時に撻辣は泗州に屯し、兀朮は竹塾鎮に屯す。世忠に扼せられ、書幣を以て戦を約す。世忠之を許し、且つ両名の伶人をして橘と茗を以て報聘せしむ。時に雨雪有り。金の糧道通ぜず、野に掠むる所無く、馬を殺して食らう。蕃漢軍皆怨む。兀朮、夜に軍を引いて還る。劉麟・劉猊は輜重を棄てて遁る。

原文時撻辣屯泗州,兀朮屯竹塾鎮,為世忠所扼,以書幣約戰,世忠許之,且使兩伶人以橘、茗報聘。會雨雪,金饋道不通,野無所掠,殺馬而食,蕃漢軍皆怨。兀朮夜引軍還,劉麟、劉猊棄輜重遁。

五年、少保に進む。六年、武寧安化軍節度使・京東淮東路宣撫処置使を授かり、司を楚州に置く。世忠は草萊を披き、軍府を立て、士卒と力を同じくして労役す。夫人梁氏自ら薄を織りて屋と為す。将士に怯戦する者有れば、世忠は巾幗を遺し、楽を設け大宴し、婦人の粧いをさせて以て之を恥じしむ。故に人人奮い励む。流散を撫で集め、商を通じ工を恵む。山陽は遂に重鎮と為る。劉豫の兵数度入寇すれども、輒ち世忠に敗れしめらる。

原文五年,進少保。六年,授武寧安化軍節度使、京東淮東路宣撫處置使,置司楚州。世忠披草萊,立軍府,與士同力役。夫人梁親織薄為屋。將士有怯戰者,世忠遺以巾幗,設樂大宴,俾婦人粧以恥之,故人人奮厲。撫集流散,通商惠工,山陽遂為重鎮。劉豫兵數入寇,輒為世忠所敗。

時に張浚は右相として師を視察し、世忠に命じて承州・楚州より淮陽を図らしむ。劉豫方に兵を淮陽に聚む。世忠は即ち軍を率いて淮を渡り、符離の傍らを北し、其の城下に至る。賊に囲まれるや、奮って戈を揮い一躍し、囲みを潰して出で、一鏃も遺さず。呼延通は金将牙合孛堇と搏ち戦い、其の吭を扼して之を擒らう。鋭気に乗じて掩撃し、金人は敗れて去る。既にして淮陽を囲む。賊は堅く守りて下らず。約して曰く、「囲まれること一日なれば、則ち一烽を挙げよ」と。是に至り、六烽具に挙がる。兀朮と劉猊皆至る。世忠は張俊に援けを求む。俊は世忠に己を吞まんとする意有りとし、従わず。世忠は陣を勒えて敵に向かい、人を遣わして之に語らしめて曰く、「錦衣驄馬陣前に立つ者は、韓相公なり」と。或いは之を危ぶむ。世忠曰く、「是の如くせざれば、以て敵を致すに足らず」と。敵果たして至る。其の導戦する者二人を殺し、遂に引き去る。尋で詔有りて班師す。復た楚州に帰る。淮陽の民、従いて帰る者万を以て計う。

原文時張浚以右相視師,命世忠自承、楚圖淮陽。劉豫方聚兵淮陽,世忠即引軍渡淮,旁符離而北,至其城下。為賊所圍,奮戈一躍,潰圍而出,不遺一鏃。呼延通與金將牙合孛堇搏戰,扼其吭而禽之,乘銳掩擊,金人敗去。既而圍淮陽,賊堅守不下,約曰:「受圍一日,則舉一烽。」至是,六烽具舉,兀朮與劉猊皆至。世忠求援於張俊,俊以世忠有見吞意,不從。世忠勒陣向敵,遣人語之曰:「錦衣驄馬立陣前者,韓相公也。」或危之,世忠曰:「不如是,不足以致敵。」敵果至,殺其導戰二人,遂引去。尋詔班師,復歸楚州,淮陽之民,從而歸者以萬計。

三月、京東・淮東宣撫処置使兼ねて鎮江府を節制するを除かれ、仍て楚州に司を置く。四月、「揚武翊運功臣」の号を賜う。横海・武寧・安化三鎮の節度使を加う。九月、帝は平江に在り。世忠は楚州より来朝す。

原文三月,除京東、淮東宣撫處置使兼節制鎮江府,仍楚州置司。四月,賜號「揚武翊運功臣」,加橫海、武寧、安化三鎮節度使。九月,帝在平江,世忠自楚州來朝。

十月、辺境の急報あり、劉光世は廬州を棄てて太平に還らんとし、張俊もまた兵の増援を請う。都督ととく張浚曰く、「今日の事、進撃あるも、退保なし」と。ここにおいて世忠は兵を率いて淮を渡り、金将訛里也と力戦す。劉猊、淮東を寇せんとすれども、世忠の兵に扼せられて進むことを得ず。七年、高郵城を築き、民ますます之に安んず。

原文十月,邊報急,劉光世欲棄廬州還太平,張俊亦請益兵。都督張浚曰:「今日之事,有進擊,無退保。」於是世忠引兵渡淮,與金將訛里也力戰。劉猊將寇淮東,為世忠兵扼,不得進。七年,築高郵城,民益安之。

初め、世忠は山陽に移屯し、間者を遣わして山東の豪傑を結び、緩急を約して応ずることを以てし、宿州の馬秦及び太行の群盗、多く約束を奉ぜんと欲する者あり。金人劉豫を廃し、中原震動す、世忠は機失うべからずと謂い、全師を挙げて北討し、帰附を招納し、恢復の計と為さんことを請う。会に秦檜和議を主とし、世忠に命じて鎮江に徙屯せしむ。世忠言う、「金人詭詐にして、計を以て我が師を緩ませんことを恐る、乞うらくは此の軍を留めて江・淮を蔽遮せしめよ」と。また和議の非を力陳し、願わくは死節を効し、率先して敵を迎えんとす;若し勝たずんば、之に従うも未だ晩しからずと。また王倫・藍公佐の河南の地界を交わすに当たり、乞うらくは明らかに反覆なき文状を具して後証と為さしめよと。章十数上す、皆慷慨激切にして、且つ単騎にて闕に詣り面奏せんことを請い、帝は優詔を率いて褒答す。後に金果たして盟を渝え、皆其の言の如し。

原文初,世忠移屯山陽,遣間結山東豪傑,約以緩急為應,宿州馬秦及太行羣盜,多願奉約束者。金人廢劉豫,中原震動,世忠謂機不可失,請全師北討,招納歸附,為恢復計。會秦檜主和議,命世忠徙屯鎮江。世忠言:「金人詭詐,恐以計緩我師,乞留此軍蔽遮江、淮。」又力陳和議之非,願効死節,率先迎敵;若不勝,從之未晚。又言王倫、藍公佐交河南地界,乞令明具無反覆文狀為後證。章十數上,皆慷慨激切,且請單騎詣闕面奏,帝率優詔褒答。後金果渝盟,咸如其言。

金使蕭哲の来るや、詔諭を以て名と為す、世忠之を聞き、凡そ四上疏して言う、「許すべからず、願わくは兵を挙げて決戦し、兵勢最も重き処は、臣請うらくは之に当たらん」と。また言う、「金人は劉豫を以て相待せんと欲し、挙国の士大夫尽く陪臣と為さんとす、人心の離散し、士気の凋沮するを恐る」と。且つ馳驛して面奏せんことを請うも、許されず。既にして洪沢鎮に兵を伏せ、将に金使を殺せんとすれども、克たず。

原文金使蕭哲之來,以詔諭為名,世忠聞之,凡四上疏言:「不可許,願舉兵決戰,兵勢最重處,臣請當之。」又言:「金人欲以劉豫相待,舉國士大夫盡為陪臣,恐人心離散,士氣凋沮。」且請馳驛面奏,不許。既而伏兵洪澤鎮,將殺金使,不克。

九年、少師を授かる。十年、金人盟を敗り、兀朮は撒離曷・李成等を率いて三京を破り、分道して深入す。八月、世忠は淮陽を囲み、金人来りて救う、世忠は泇口鎮に迎撃して之を敗る。また解元を遣わして金人を潭城に撃ち、劉宝をして千秋湖に撃たしむ、皆捷す。親随将成閔、統制許世安に従い淮陽門を奪いて入り、門内に大戦す。世安は四矢に中り、閔は三十余創を被るも、復た門を奪いて出づ。世忠其の功を奏し、武徳大夫に擢で、閔は是より知名となる。世忠は太保に進み、英国公に封ぜられ、兼ねて河南・北諸路招討使と為る。

原文九年,授少師。十年,金人敗盟,兀朮率撒離曷、李成等破三京,分道深入。八月,世忠圍淮陽,金人來救,世忠迎擊於泇口鎮,敗之。又遣解元擊金人於潭城,劉寶擊於千秋湖,皆捷。親隨將成閔從統制許世安奪淮陽門而入,大戰門內。世安中四矢,閔被三十餘創,復奪門出。世忠奏其功,擢武德大夫,閔由是知名。世忠進太保,封英國公,兼河南、北諸路招討使。

十一年、兀朮は順昌の敗を恥じ、復た謀りて再び入らんとし、詔して大いに兵を淮西に合して以て待たしむ。既にして金は柘皋に敗れ、復た濠州を囲む。世忠は詔を受けて濠を救い、舟師を以て招信県に至り、夜に騎兵を以て金人を聞賢驛に撃ちて之を敗る。金人濠州を攻め、五日にして破る。破ること三日、世忠至り、楊沂中の軍は既に南奔せり。世忠は金人と淮岸に戦い、夜に劉宝を遣わして流を泝り将に之を劫せんとす、金人は木を伐り赤龍洲を塞ぎ、其の帰路を扼す、世忠之を知り、全師して還る。金人は渦口より淮を渡り北去し、是より後復た侵さず。世忠は楚州に十余年在り、兵僅かに三万なるも、而して金人敢えて犯さず。

原文十一年,兀朮恥順昌之敗,復謀再入,詔大合兵於淮西以待。既而金敗於柘皋,復圍濠州。世忠受詔救濠,以舟師至招信縣,夜以騎兵擊金人於聞賢驛,敗之。金人攻濠州,五日而破。破三日,世忠至,楊沂中軍已南奔。世忠與金人戰于淮岸,夜遣劉寶泝流將劫之,金人伐木塞赤龍洲,扼其歸路,世忠知之,全師而還。金人自渦口渡淮北去,自是不復入侵。世忠在楚州十餘年,兵僅三萬,而金人不敢犯。

秦檜は三大将の権を収め、四月、枢密使に拝し、遂に積む所の軍儲銭百万貫、米九十万石、酒庫十五を国に帰す。世忠は既に和議を然らずと為し、檜に抑えらる。魏良臣の金に使するに及び、世忠また力言す、「此より人情消弱し、国勢委靡し、誰か復た之を振わん。北使の来るに、乞うらくは面議せしめよ」と。許されず、遂に抗疏して檜の国を誤るを言う。檜は言者を諷して之を論ぜしむ、帝其の奏を格して下さず。世忠は連疏して枢密の柄を解かんことを乞い、継いて表を上して骸を乞う。十月、醴泉観使・奉朝請に罷められ、福国公に進封せられ、節鉞は故の如し。此より門を杜ぎ客を謝し、口を絶って兵を言わず、時に驢に跨り酒を携え、一二の奚童に従い、縦に西湖に游びて以て自ら楽しみ、平時の将佐も稀に其の面を見ることを得ず。

原文秦檜收三大將權,四月,拜樞密使,遂以所積軍儲錢百萬貫,米九十萬石,酒庫十五歸於國。世忠既不以和議為然,為檜所抑。及魏良臣使金,世忠又力言:「自此人情消弱,國勢委靡,誰復振之?北使之來,乞與面議。」不許,遂抗疏言檜誤國。檜諷言者論之,帝格其奏不下。世忠連疏乞解樞密柄,繼上表乞骸。十月,罷為醴泉觀使、奉朝請,進封福國公,節鉞如故。自此杜門謝客,絕口不言兵,時跨驢攜酒,從一二奚童,縱游西湖以自樂,平時將佐罕得見其面。

十二年、潭国公に改む。顕仁皇后の金より還るに、世忠は臨平に詣り朝謁す。后は北方に其の名を聞き、慰問すること良久し。十三年、咸安郡王に封ぜらる。十七年、鎮南・武安・寧国節度使に改む。二十一年八月薨じ、太師に進拝せられ、通義郡王を追封さる。孝宗の朝、蘄王を追封せられ、忠武と諡し、高宗廟庭に配饗す。

原文十二年,改潭國公。顯仁皇后自金還,世忠詣臨平朝謁。后在北方聞其名,慰問者良久。十三年,封咸安郡王。十七年,改鎮南、武安、寧國節度使。二十一年八月薨,進拜太師,追封通義郡王。孝宗朝,追封蘄王,謚忠武,配饗高宗廟庭。

世忠初めて疾を得しとき、勅して尚医をして視療せしめ、将吏臥内に詣りて疾を問う、世忠曰く、「吾は布衣にて百戦し、王公の位に致る、天の霊に頼り、首領を保ちて家に没す、諸君尚お其の死を哀しまんや」と。及び死す、朝服・貂蟬冠・水銀・龍脳を賜いて以て斂らしむ。

原文世忠初得疾,勑尚醫視療,將吏臥內問疾,世忠曰:「吾以布衣百戰,致位王公,賴天之靈,保首領沒於家,諸君尚哀其死邪?」及死,賜朝服、貂蟬冠、水銀、龍腦以斂。

世忠嘗て家人を戒めて曰く、「吾が名は世忠、汝曹『忠』の字を諱むることなかれ、諱みて言わざれば、是れ忠を忘るるなり」と。性戇直にして、勇敢忠義、事廟社に関すれば、必ず涕を流して極言す。岳飛の冤獄、挙朝敢えて一語を出す者無し、世忠独り檜の怒りに攖る、語は檜伝に在り。また和議を抵排し、檜に触ること尤も多し、或いは之を止めんと勧むるも、世忠曰く、「今禍を畏れて苟くも同ぜば、他日瞑目するとき、豈に太祖殿下にて鉄杖を受くべけんや」と。時に一二の大将、多く曲く檜に狥い苟くも全からんとす、世忠は檜と政地に同じくするも、一揖の外嘗て与に談ぜず。

原文世忠嘗戒家人曰:「吾名世忠,汝曹毋諱『忠』字,諱而不言,是忘忠也。」性戇直,勇敢忠義,事關廟社,必流涕極言。岳飛冤獄,舉朝無敢出一語,世忠獨攖檜怒,語在檜傳。又抵排和議,觸檜尤多,或勸止之,世忠曰:「今畏禍苟同,他日瞑目,豈可受鐵杖於太祖殿下?」時一二大將,多曲狥檜苟全,世忠與檜同在政地,一揖外未嘗與談。

義を嗜み財を軽んじ、錫賚は悉く将士に分ち、賜わる所の田は租を輸すること編戸と等し。軍を厳重に持ち、士卒と甘苦を同じくし、器仗の規画は、精絶して人に過ぐ、今の克敵弓・連鎖甲・狻猊鍪、及び澗を跳ねて以て騎を習い、洞貫して以て射を習うは、皆其の遺法なり。嘗て毒矢に中り骨に入る、彊弩を以て括りて之を取る、十指僅かに四つ全きのみ、動くこと能わず、刀痕箭瘢は刻畫の如し。然れども人を知り善く奬用し、成閔・解元・王勝・王権・劉宝・岳超は行伍より起り、将旄を秉るも、皆其の部曲なりと云う。兵を解き政を罷め、家に臥すること凡そ十年、澹然として自ら如し、未だ嘗て権位有る者に若からず。晩年は釈・老を喜び、自ら清涼居士と号す。

原文嗜義輕財,錫賚悉分將士,所賜田輸租與編戶等。持軍嚴重,與士卒同甘苦,器仗規畫,精絕過人,今克敵弓、連鎖甲、狻猊鍪,及跳澗以習騎,洞貫以習射,皆其遺法也。嘗中毒矢入骨,以彊弩括取之,十指僅全四,不能動,刀痕箭瘢如刻畫。然知人善奬用,成閔、解元、王勝、王權、劉寶、岳超起行伍,秉將旄,皆其部曲云。解兵罷政,臥家凡十年,澹然自如,若未嘗有權位者。晚喜釋、老,自號清涼居士。

子に彦直・彦質・彦古あり、皆才を以て見用せらる。彦古は戸部尚書。

原文子彥直、彥質、彥古,皆以才見用。彥古戶部尚書。

子 彦直

原文子 彥直

彦直、字は子温。生まれて期年、父の任に因り右承奉郎を補し、尋いで直秘閣と為る。六歳、世忠に従い入りて高宗に見え、命じて大字を作らしむるに、即ち命に拝し跪きて「皇帝萬歳」の四字を書す。帝之を喜び、其の背を拊して曰く、「他日、令器なり」と。親しく孝宗の丱角の繻を解きて其の首に傅え、金器・筆研・監書・鞍馬を賜う。年十二、三品の服を賜う。

原文彥直,字子溫。生期年,以父任補右承奉郎,尋直祕閣。六歲,從世忠入見高宗,命作大字,即拜命跪書「皇帝萬歲」四字。帝喜之,拊其背曰:「他日,令器也。」親解孝宗丱角之繻傅其首,賜金器、筆研、監書、鞍馬。年十二,賜三品服。

紹興十七年、両浙転運司の試に中る。明年、進士第に登り、太社令に調す。二十一年、世忠薨じ、服除く、秦檜は素より世忠の和議に附和せざるを銜み、彦直を出して浙東安撫司主管機宜文字と為す。檜死し、光禄寺丞に拝す。二十九年、屯田員外郎に遷り兼ねて右曹郎官・工部侍郎を権む。張浚は江・淮の軍馬を都督し、檄して権りて計議軍事を為さしむ。督府罷み、祠を奉ず。

原文紹興十七年,中兩浙轉運司試。明年,登進士第,調太社令。二十一年,世忠薨,服除,秦檜素銜世忠不附和議,出彥直為浙東安撫司主管機宜文字。檜死,拜光祿寺丞。二十九年,遷屯田員外郎兼權右曹郎官、工部侍郎。張浚都督江、淮軍馬,檄權計議軍事。督府罷,奉祠。

乾道二年、戸部郎官に遷り左曹を主管し、淮東軍馬銭糧を総領す。会に大軍倉糧を給するに、径に小輿に乗り往きて之を察す、米を給するも数に如かず、吏を捕えて理に寘く。初め、代者は乏興を以て罷めらる、交承するに、緡銭僅かに二十万なるも、明年奏計するに乃ち四倍し、且つ其の贏を以て諸朝に献ず。帝之を嘉す。司農少卿に拝し、直龍図閣に進み、江西転運を兼ねて権りて江州を知る。

原文乾道二年,遷戶部郎官、主管左曹,總領淮東軍馬錢糧。會大軍倉給糧,徑乘小輿往察之,給米不如數,捕吏寘于理。初,代者以乏興罷,交承,為緡錢僅二十萬,明年奏計乃四倍,且以其贏獻諸朝。帝嘉之。拜司農少卿,進直龍圖閣、江西轉運兼權知江州。

時に朝廷は岳飛の家財産を還付したが、多くは九江にあり、歳月を経てその所有は数度も主を変え、役人がこれに縁って姦弊を為していた。彦直は隠匿を捜索剔抉し、ことごとく岳氏に還付した。また司農少卿となり、湖北・京西の軍馬・銭糧を総領し、まもなく発運副使を兼ねた。時に宰相の意に合わず、密かに武官への転換を啓上され、利州観察使・知襄陽府を授かり、京西南路安撫使を充てられた。

原文時朝廷還岳飛家貲產多在九江,歲久業數易主,吏緣為姦。彥直搜剔隱匿,盡還岳氏。復為司農少卿,總領湖北、京西軍馬錢糧,尋兼發運副使。會時相不樂,密啟換武,授利州觀察使、知襄陽府,充京西南路安撫使。

七年、鄂州駐劄御前諸軍都統制を授かる。軍中の六事を条奏し、器械を備え、戦馬を増やし、濫賞を革め、奇功を励まし、勇略を選び、親随を充実することを乞うた。朝廷は多くこれに従った。先に、軍中の騎兵は多く歩戦ができなかったが、彦直は騎士に甲冑を着けて徒歩行軍させ、日に六十里とし、統制官といえどもみずから率先するよう命じた。人々は労苦に慣れ、馳騁すること飛ぶが如しとなった。事が聞こえ、詔して三衙・江上の諸軍にこれを模倣させた。

原文七年,授鄂州駐劄御前諸軍都統制。條奏軍中六事,乞備器械、增戰馬、革濫賞、厲奇功、選勇略、充親隨等,朝廷多從之。先是,軍中騎兵多不能步戰,彥直命騎士被甲徒行,日六十里,雖統制官亦令以身帥之,人人習於勞苦,馳騁如飛。事聞,詔令三衙、江上諸軍倣行之。

八年、文班への復帰を乞い、左中奉大夫を授かり、敷文閣待制・知台州を充てられた。祠官を乞いて親を養い、佑神観提挙・奉朝請となった。進対して言うには、「近ごろ岳飛が帥となって以来、身は鄂渚に居ながら遙かに荊襄を領し、田師中がこれを継ぎ、初めて鄂渚を二軍に分けた。旧に復することを乞う」と。また京西・湖北の転運を一司に併せ、官を分かち司を襄陽に置き、事体を一にすべきことを乞うた。帝はこれを善しとし、刑部侍郎に遷った。

原文八年,丐歸文班,乃授左中奉大夫,充敷文閣待制、知台州。丐祠養親,提舉佑神觀、奉朝請。進對言:「頃自岳飛為帥,身居鄂渚,遙領荊襄,田師中繼之,始分鄂渚為二軍,乞復舊。」又乞併京西、湖北轉運為一司,分官置司襄陽,可一事體,帝善之。遷刑部侍郎。

明年、工部侍郎を兼ねる。同列が議するに、大辟の罪で三度審問しても自白しない者は、衆証によって刑に就かせるべきであり、これを令として修立しようとした。彦直はこれに反対し、丞相梁克家に白状して言うには、「もしそうすれば、善類が誣えられ、必ず冤獄が多くなるであろう。かつ笞杖の刑でさえ、なお自白を引き出してから決するのに、まして人命は至って重いではないか」と。議はついに止んだ。呉名世の改正過名を奪う議論が不当であるとして、両官を降格された。

原文明年,兼工部侍郎,同列議:大辟三鞫之弗承,宜令以眾證就刑,欲修立為令。彥直持不可,白丞相梁克家曰:「若是,則善類被誣,必多冤獄。且笞杖之刑,猶引伏方決,況人命至重乎?」議卒格。以議奪吳名世改正過名不當,降兩官。

時に金への使者を遣わすこととなり、朝廷に在る者は互いに顧みて誰も先を肯わず、帝みずから選んで行かせた。命を聞き慨然として道に就く。まさに国境に入らんとする時、金の使者蒲察が国書の受け取りについて問い、論難が数十回往復したが、蒲察は理屈に窮し、笑って言うには、「尚書はよく力を尽くして主君のために務めている」と。既に到着してから、幾度か禍に陥りかけたが、節を守って屈せず、金はついに礼をもってこれを送り返した。帝は嘉賞して嘆息し、吏部侍郎に遷り、まもなく工部尚書を権め、また中大夫となり、工部尚書兼知臨安府に改めた。まさに辞退しようとした時、言事によって罷免され、太平興国宮提挙となり、まもなく佑神観提挙・奉朝請となった。

原文會當遣使于金,在廷相顧莫肯先,帝親擇以往,聞命慨然就道。方入境,金使蒲察問接國書事,論難往復數十,蒲察理屈,因笑曰:「尚書能力為主。」既至,幾罹禍者數,守節不屈,金卒禮遣之,帝嘉歎。遷吏部侍郎,尋權工部尚書,復中大夫,改工部尚書兼知臨安府。方控辭,以言罷,提舉太平興國宮,尋提舉佑神觀、奉朝請。

まもなく温州の知事となり、まず大猾の王永年を捕えて徹底的に糾明し、杖罰の上他州に移した。民間の積年の未納分を免除するよう奏上し、郡の余財をもって代納した。しかし累欠する内帑の坊場銭を発給しなかったため、一官を削られた。海賊が大洋に出没して掠奪し、その勢いは甚だ盛んであったが、彦直は将領・土豪らに方略を授け、十日と経たずに賊の首領を生け捕りにし、海路は清まった。枢密院が功績を奏上し、敷文閣学士に進み、弟の彦質が両浙転運判官となったため、嫌疑を避けて泉府に移った。祠官を乞いて親に仕え、佑神観提挙を差し遣わされ、なお奉朝請となり、特に魚袋を佩用することを許され、異例の待遇を示された。

原文尋知濕州,首捕巨猾王永年窮治之,杖徙他州。奏免民間積逋,以郡餘財代輸之,然以累欠內帑坊場錢不發,鐫一官。海寇出沒大洋劫掠,勢甚張,彥直授將領土豪等方略,不旬日,生禽賊首,海道為清。樞密奏功,進敷文閣學士,以弟彥質為兩浙轉運判官,引嫌易泉府。丐祠奉親,差提舉佑神觀,仍奉朝請,特令佩魚,示異數也。

入朝して対し、靖康以来の死節の士を捜索訪問して忠義を勧めることを乞うた。また上奏して、薦挙により選ばれた者で既に関升し、実に六考を経て、贓私の罪のない者に対し、経術と法律を交えて試験し、その員額を限り、その高下を定め、孤寒の者にも自ら上達する道を開き、改官の制度として定めることを乞うた。また州郡の守臣が任期満了の日に、本州の実在する財賦の数目を開示し、公文書をもって交代者に交付し、併せて台省に達するよう命じることを乞い、これによって実情を検核し、姦弊を止められるとした。帝はことごとく嘉納した。

原文入對,乞搜訪靖康以來死節之士,以勸忠義。又上薦舉乞選人已經關升、實歷六考、無贓私罪犯者,雜試以經術法律,限其員額,定其高下,俾孤寒者得以自達,定為改官之制。又乞令州郡守臣任滿日,開具本州實在財賦數目,具公移與交代者,并達臺省,庶可覈實,以戢姦弊,帝悉嘉納。

淳熙十年夏、旱魃があり、詔に応じて言上し、近ごろの濫刑が旱魃の原因であるとした。明年、入朝して対し、三衙はいずれも宸居を拱衛するものであるのに、その司馬が遠く数百里外にあるのは不当であると論じ、帰司させるよう乞うた。久しくして、再び戸部尚書となった。時に旱魃の年となり、広く買い入れて備えとすることを先とするよう乞うた。またかつて岳飛を誣陷した部曲を追貶して忠魂を慰めるよう乞うた。言事によって敷文閣学士に降格された。帝は世忠の元勲を追憶し、使者を遣わして彦直に諭し、かつ彦直には才力があり、言事者はこれを誣えていると述べた。彦直は感激して泣き、奏上して謝した。まもなく万寿観提挙となり、病を得ると、帝は薬を賜った。顕謨閣学士・万寿観提挙に進んだ。

原文淳熙十年夏旱,應詔言,邇者濫刑,為致旱之由。明年,入對,論三衙皆所以拱扈宸居,而司馬乃遠在數百里外,乞令歸司。久之,再為戶部尚書。會歲旱,乞廣糴為先備。又乞追貶部曲曾誣陷岳飛者,以慰忠魂。以言降充敷文閣學士。帝追感世忠元勛,遣使諭彥直,且謂彥直有才力,言者誣之。彥直感泣奏謝。尋提舉萬壽觀,有疾,帝賜之藥。進顯謨閣學士、提舉萬壽觀。

かつて宋朝の事跡を採り集め、類目に分け、『水心鏡』と名付け、百六十七巻の書とした。礼部尚書尤袤が国史を修めるに当たり、朝廷に白状し、この書を取り下げて進上させた。光宗はこれを覧て、善しと称した。龍図閣学士・万寿観提挙に進み、光禄大夫に転じて致仕した。卒すと、特旨をもって開府儀同三司を贈られ、銀絹九百を賜り、爵は蘄春郡公に至った。

原文嘗摭宋朝事,分為類目,名水心鏡,為書百六十七卷。禮部尚書尤袤修國史,白于朝,下取是書以進,光宗覽之,稱善。進龍圖閣學士、提舉萬壽觀,轉光祿大夫致仕。卒,特贈開府儀同三司,賜銀絹九百,爵至蘄春郡公。

論じて曰く、古人に言う、「天下安んずれば相に注意し、天下危うければ将に注意す」と。宋の靖康・建炎の際は、天下の安危の機である。勇略忠義なること韓世忠の如き者が将となるは、これ天が宋の興復を資する所以である。兀朮が江を渡った時、ただ世忠のみがこれと対陣し、閑暇を示した。劉豫が廃され、中原の人心が動揺するに及んで、世忠は時に乗じて進兵することを請うた。この機会をどうして失うことができようか。高宗はただ姦臣秦檜の言を聴き、世忠にその才を尽くして展べさせず、和議が成って宋の大事は去った。暮年、行都に退居し、兵を口にせず、部曲の旧将とも相見えず、蓋し岳飛の事を戒めたのである。昔、漢文帝は前代の廉頗・李牧を思い、宋には世忠があってながらよく用いなかった。惜しいかな。

原文論曰:古人有言:「天下安,注意相;天下危,注意將。」宋靖康、建炎之際,天下安危之機也,勇略忠義如韓世忠而為將,是天以資宋之興復也。方兀朮渡江,惟世忠與之對陣,以閒暇示之。及劉豫廢,中原人心動搖,世忠請乘時進兵,此機何可失也?高宗惟姦檜之言是聽,使世忠不得盡展其才,和議成而宋事去矣。暮年退居行都,口不言兵,部曲舊將,不與相見,蓋懲岳飛之事也。昔漢文帝思頗、牧於前代,宋有世忠而不善用,惜哉!