宋史

列傳第一百二十三 韓世忠

韓世忠、字は良臣、延安の人なり。風骨偉岸、目瞬くこと電の如し。早年より鷙勇人に絶し、生馬駒に騎すことを能くす。家貧しく産業無く、酒を嗜み気を尚び、以て縄檢すべからず。日者言う、三公に當に作すべしと。世忠其の己を侮るを怒り、之を毆る。年十八、敢勇を以て郷州に應募し、赤籍に隷し、強を挽き馳せて射、勇三軍に冠す。

崇寧四年、西夏騷動し、郡兵を調して捍禦す。世忠遣中に在り。銀州に至る。夏人城を嬰して自ら固くす。世忠關を斬り敵將を殺し、首を擲ちて陴外にす。諸軍之に乘ず。夏人大敗す。既にして重兵を以て蒿平嶺に次ぐ。世忠精銳を率いて鏖戰し、解きて去る。俄にして復た間道より出づ。世忠獨り敢死士を部して殊死に鬥ふ。敵少しく却く。顧みるに一騎士甚だ銳し。俘者に問ふ。曰く「監軍駙馬兀𠼪なり」と。馬を躍らせて之を斬る。敵眾大潰す。經略司其の功を上る。童貫邊事を董ず。増飾有るを疑ひ、止むこと一資を補ふ。眾平らかならず。

劉延慶に從ひ天降山砦を築く。敵に據らる。世忠夜城に登り二級を斬り、護城の氈を割きて以て獻ず。繼ひで敵に佛口砦に遇ひ、又數級を斬り、始めて進義副尉を補す。藏底河に至り、三級を斬り、進勇副尉に轉ず。

宣和二年、方臘反す。江・浙震動し、兵を四方に調す。世忠偏將を以て王淵に從ひ之を討つ。杭州に次ぐ。賊奄かに至り、勢甚だ張り。大將惶怖して策無し。世忠兵二千を以て北關堰に伏せしむ。賊過ぐるに、伏發し、眾蹂亂す。世忠追擊し、賊敗れて遁ぐ。淵嘆じて曰く「真に萬人敵なり」と。盡く隨ふ所の白金器を以て之を賞し、且つ交はりを定む。時に詔有り、能く臘の首を得る者は、兩鎮の節鉞を授く。世忠窮追して睦州清溪峒に至る。賊深く巖屋に據りて三窟と爲す。諸將繼ぎて至るも、入る所を知らず。世忠潜かに溪谷を行き、野婦に問ひて徑を得、即ち身を挺して戈を仗し直ちに前に進み、險を渡ること數里、其の穴を擣ち、格殺すること數十人、臘を禽えて出づ。辛興宗兵を領して峒口を截つ。其の俘を掠めて己が功と爲す。故に賞世忠に及ばず。別帥楊惟忠闕に還り、直ちに其の事をす。承節郎に轉ず。

三年、燕山を復たすを議し、諸軍を調す。至れば皆潰く。世忠往きて劉延慶に見え、蘇格等五十騎と俱に滹沱河に抵る。金兵二千餘騎に逢ふ。格措く所を失ふ。世忠從容として格等をして高岡に列ならしめ、動かざるを戒む。燕山の潰卒舟を集むるに屬し、即ち命じて河岸に艤し、鼓譟して聲勢を助くるを約す。世忠馬を躍らせて敵に薄き、迴旋すること飛ぶが如し。敵二隊を分ち高阜に據る。世忠其の意に出でず、二の旗を執る者を突き、因りて奮擊し、格等之を夾攻す。舟卒鼓譟す。敵大亂し、追斬すること甚だ衆し。時に山東・河北盜賊蠭起す。世忠王淵・梁方平に從ひ討捕し、禽戮すること殆んど盡き、功を積みて武節郎に轉ず。

欽宗即位す。梁方平に從ひ濬州に屯す。金人境に壓す。方平備へ嚴ならず。金人迫りて遁ぐ。王師數萬皆潰く。世忠重圍の中に陷り、戈を揮ひ力戰し、圍を突きて出で、橋を焚きて還る。欽宗聞き、便殿に召して對へしめ、方平の律を失へる狀を詢ねる。條奏甚だ悉し。武節大夫に轉ず。諸路の勤王兵に詔し、領する所の部をして入りえいらしむ。會ひて金人退く。河北總管司鋒軍統制を辟選す。

時に勝捷軍の張師正敗る。宣撫副使李彌大之を斬る。大校李復衆を鼓して以て亂る。淄・青の附する者數萬人を合し、山東復た擾ふ。彌大檄して世忠をして將と爲し所部を將ひ追擊せしむ。臨淄河に至る。兵千に滿たず。四隊に分ち、鐵蒺藜を布き自ら歸路を塞ぎ、令して曰く「進めば則ち勝ち、退けば則ち死し、走る者は後隊を命じて剿殺せしむ」と。是に於て敢へて返顧する者無く、皆死戰し、大いに之を破り、復を斬る。餘黨奔潰す。勝に乘じて北を逐ひ、追ひて宿遷に至る。賊尚ほ萬人、方に子女を擁し牛を椎き酒を縱す。世忠單騎夜其の營に造り、呼びて曰く「大軍至れり。亟に戈を束ね甲を卷け。吾能く汝を保全し、功名を共にせん」と。賊駭慄して命を請ふ。因りて跪きて牛酒を進む。世忠馬を下り鞍を解き、之を飲啖すること盡くす。是に於て衆悉く就きて降る。黎明、世忠の軍未だ至らざるを見て、始めて大いに悔ひ色を失ふ。功を以て左武大夫・果州團練使に遷す。

詔して朝に入る。正任單州團練使を授け、滹沱河に屯す。時に真定守を失ふ。世忠王淵の趙を守るを知り、遂に亟に往く。金人至る。世忠在るを聞き、攻むること益々急なり。糧盡き援絕ゆ。人多く其の圍を潰して去るを勉むるも、聽かず。會ひて大雪、夜半、死士三百を以て敵營を擣つ。敵驚き亂れ、自ら相擊刺し、旦に及んで盡く遁ぐ。後に金國より來る者有りて、始めて知る大酋是の日に創を受け死す。故に衆支ふることを能はざるを。嘉州防禦使に遷す。

大名に還る。趙野前軍統制と爲すを辟す。時に康王濟州に如く。世忠領する所の部を勸進す。金人兵を縱して城に逼る。人心恟懼す。世忠西王臺に據り力戰す。金人少しく却く。翌日、酋帥衆數萬を率ひて至る。時に世忠の戲下僅かに千人、單騎突入し、其の酋長を斬る。遂に大潰す。

康王即ち皇帝位に即く。光州觀察使・帶御器械を授く。世忠都を長安ちょうあんに移し、兵を下して兩河を收むるを請ふ。時論從はず。初めて御營を建つ。左軍統制と爲る。是歲、王淵・張俊を命じて陳州の叛兵を討たしめ、劉光世をして黎驛の叛兵を討たしめ、喬仲福をして京東の賊李昱を討たしめ、世忠をして單州の賊魚臺を討たしむ。世忠既に魚臺を破り、又黎驛の叛兵を擊ちて之を敗る。皆斬りて以て獻ず。是に於て羣盜悉く平ぎ、入りて宿衞を備ふ。而して河北の賊丁順・楊進等皆招撫司に赴く。宗澤收めて之を用ふ。

建炎二年、定國軍承宣使に升る。帝揚州に如く。世忠所部を以て從ふ。時に張遇金山より來降す。城下に抵り、甲を解かず。人心危懼す。世忠獨り其の壘に入り、逆順を以て曉す。衆悉く命を聽く。李民衆十萬も亦降る。比し至るに、反覆の狀有り。王淵世忠を遣はし旨を諭す。世忠其の黨劉彥の異議するを知り、即ち先づ彥を斬り、李民を毆り出だし、小校二十九人を縛し、淵に送りて之を斬らしむ。事定まり、京西等路捉殺內外盜賊を授く。

金人再び河南を攻む。翟進世忠の兵を合し夜悟室の營を襲ふ。克たず、反つて敗るる所と爲る。會ひて丁進期を失ひ、陳思恭先づ遁ぐ。世忠矢を受くること棘の如し。力戰して免る。汴に還り、一軍の先づ退く者を詰めて皆斬る。左右懼る。進是より世忠と隙有り。尋いで叛を以て誅せらる。

世忠を召して還す。鄜延路副總管を授け、平寇左將軍を加へ、淮陽に屯し、會ひて山東の兵を以て敵を拒がしむ。粘罕世忠の淮陽を扼するを聞き、乃ち兵萬人を分かち揚州に趨らしめ、自ら大軍を以て世忠を迎へて戰ふ。世忠敵せず、夜引きて歸る。敵之に躡ふ。軍沭陽に潰る。閤門宣贊舍人張遇之に死す。

建炎三年、帝は諸将を召して行在所の移動を議し、張俊・辛企宗は湖南へ赴くことを請うたが、世忠は言う、「淮・浙は富饒にして、今や根本の地である。どうしてこれを捨てて他へ行くことができようか。人心は疑念を抱き、ひとたび退避すれば、不逞の輩は乱を思う。重湖・閩嶺の遥か遠き地、どうして道路に変事なきを保せようか。淮・江には兵を留めて守りとし、車駕は兵を分けて護衛とすべきである。およそ十万人を約し、半分を江・淮の上下に扈従させれば、残るは五万に過ぎず、どうして防守に憂いなきを保せようか」と。陽城において散亡の兵を収合し、数千人を得、帝が銭塘に行幸されたと聞くや、直ちに海路を経て行在所へ赴いた。

苗傅・劉正彥が反逆し、張浚らが平江において乱の討伐を議していたところ、世忠の到着を知り、互いに慶び慰め合い、張俊は喜躍して自らを抑えられなかった。世忠は張俊の書状を得て、大いに慟哭し、酒を捧げて神に誓って言う、「誓ってこの賊と天を同じくせず」と。士卒は皆奮い立った。張浚に会って言う、「今日の大事は、世忠が張俊とともに身をもって引き受けます。公は憂うるなかれ」と。直ちに進兵しようとした。張浚は言う、「鼠に投げるに器を忌む。事は急ぐべからず。急げば恐らく不測の事態があろう。既に馮轓を遣わし、甘言をもって賊を誘っている」と。

三月戊戌、配下の兵を率いて平江を発つ。張俊は世忠の兵が少ないことを慮り、劉宝の兵二千を貸し与えた。舟行して甲士を載せ、連綿三十里に及んだ。秀州に至り、病と称して進まず、雲梯を造り、器械を整えると、苗傅らは初めて恐れをなした。初め、苗傅・劉正彥は世忠が来ると聞き、檄を飛ばしてその兵を江陰に駐屯させようとした。世忠は穏やかな言葉で返答し、かつ配下の兵は残零であるから、行在所へ赴きたいと述べた。苗傅らは大いに喜び、彼の到着を許し、詔を偽って世忠及び張俊を節度使に任じたが、二人とも受けなかった。

当時、世忠の妻梁氏及び子の韓亮が苗傅に人質とされ、厳重に監視されていた。朱勝非が苗傅を欺いて言う、「今、太后に申し上げ、二人を遣わして世忠を慰撫させれば、平江の諸人もますます安心するでしょう」と。そこで梁氏を召し入れて安国夫人に封じ、世忠を迎えさせ、その勤王を促させた。梁氏は疾駆して城を出、一日一夜で秀州において世忠と会った。

間もなく、明受の詔書が届いたが、世忠は言う、「我は建炎を知るのみで、明受は知らぬ」と。その使者を斬り、詔書を取って焼き捨て、進兵をますます急がせた。苗傅らは大いに恐れた。臨平に至ると、賊将の曲翊・馬柔吉が山を背に河を阻んで陣を敷き、中流に鹿角を立て、舟の航行を妨げた。世忠は舟を捨てて力戦し、張俊がこれに続き、劉光世がまた続いた。軍が少し退くと、世忠はまた馬を捨てて戈を執って前進し、将士に命じて言う、「今日は死をもって国に報いよ。顔に数本の矢を受けぬ者は皆斬る」と。ここにおいて士卒は皆命を捧げた。賊は神臂弩を並べて満を持して待ち構えたが、世忠は目を瞋って大呼し、刃を挺して突進すると、賊は退き、矢を放つ暇もなく、遂に敗れた。苗傅・劉正彥は精兵二千を擁し、湧金門を開いて遁走した。

世忠は駆け入り、帝は歩いて宮門まで出て、世忠の手を握り慟哭して言う、「中軍の呉湛が叛逆を助けたことが最も甚だしい。なお朕の肘腋に留まっている。先に誅することができるか」と。世忠は直ちに呉湛に謁し、手を握って語らい、その中指を折り、市中で斬った。また賊の謀主たる王世修を捕らえて官吏に引き渡した。詔して武勝軍節度使・御営左軍都統制に任じた。帝に請うて言う、「賊は精兵を擁し、甌・閩に甚だ近い。もし巣窟を成せば、遂には滅ぼし難かろう。臣にこれを討たせてください」と。ここにおいて江・浙制置使とし、衢・信より追撃し、漁梁駅に至り、賊と遭遇した。世忠は歩いて走り戈を挺して前進すると、賊はこれを見て、舌を鳴らして言う、「これは韓将軍だ」と。皆驚いて潰走した。劉正彥及び苗傅の弟の苗翊を捕らえて行在所に送り、苗傅は建陽に逃亡したが、追捕してこれを擒にし、皆誅殺された。世忠が初めて陛下に別れを告げた時、上奏して言う、「臣は誓って賊を生け捕りし、社稷の恥を雪ぎます。殿前の二虎賁に捕虜を護衛して献上させてください」と。この時、ついにその言葉の通りとなった。帝は手ずから「忠勇」の二字を書し、旗に掲げて賜うた。検校少保・武勝昭慶軍節度使に任じた。

兀朮が侵攻せんとし、帝は諸将を召して行在所の地を問うた。張俊・辛企宗は鄂・岳より長沙へ行幸するよう勧めたが、世忠は言う、「国家は既に河北・山東を失った。もしまた江・淮を棄てれば、さらに何の地があろうか」と。ここにおいて世忠を浙西制置使とし、鎮江を守らせた。やがて兀朮が分かれて道を渡江し、諸屯は皆敗れ、世忠もまた鎮江より退いて江陰を守った。杜充が建康を以て敵に降り、兀朮は広徳より臨安を破り、帝は浙東に行幸された。世忠は前軍を青龍鎮に、中軍を江湾に、後軍を海口に駐め、敵の帰還を待ち邀撃しようとした。帝が行在所に召すと、上奏して言う、「今まさに江上に留まり、金人の帰還する軍を遮断し、死を尽くして一戦します」と。帝は輔臣に謂う、「先に呂頤浩が会稽におり、嘗てこの策を建てたが、世忠は謀らずして同じくした」と。親筆の書札を賜い、その留まることを聴許した。

ちょうど上元節に当たり、秀州において灯りを掲げて盛会を催していたが、突然兵を率いて鎮江へ向かった。金兵が到着した時には、既に世忠の軍は先んじて焦山寺に駐屯していた。金将の李選が降伏し、これを受け入れた。兀朮が使者を遣わして通問し、日を約して大戦することを求めたので、これを許した。戦いは十合に及ぼうとした時、梁夫人自ら桴鼓を執り、金兵は終に渡ることができなかった。掠めたものを全て返還して仮道を請うたが、聴かなかった。名馬を献上すると請うたが、また聴かなかった。撻辣が濰州におり、孛堇太一を遣わして淮東へ向かわせ兀朮を援けさせた。世忠は二酋と黄天蕩において四十八日間相持した。太一孛堇の軍は江北に、兀朮の軍は江南にあり、世忠は海艦を進めて金山の下に泊め、あらかじめ鉄の綆に大鈎を通し、ぎょう健な者に授けた。翌朝、敵舟が騒ぎながら前進すると、世忠は海舟を二道に分けてその背後に出し、一つの綆を縋り下ろすごとに、一つの舟を曳き沈めた。兀朮は窮迫し、会談を求め、哀願すること甚だ哀れであった。世忠は言う、「我が両宮を還し、我が疆土を回復すれば、相全うすることができよう」と。兀朮は言葉に詰まった。

また数日後、再会を求めたが、言葉が不遜であったので、世忠は弓を引いて射ようとすると、兀朮は急いで馬を走らせ去り、諸将に謂う、「南軍は船を使うこと馬を使うが如し。どうしたものか」と。人を募って海舟を破る策を献じさせた。閩人の王某なる者が、その舟に土を載せ、平板を敷き、船板に穴を開けて櫂槳とし、風が止めば江に出、風があれば出ないようにすることを教えた。海舟は風がなければ動くことができないからである。また献策する者がいて言う、「大渠を穿ち江口に接続すれば、世忠の上流に位置することになる」と。兀朮は一夜のうちに密かに渠を三十里穿ち、かつ方士の計を用い、白馬を殺し、婦人の心臓を抉り、自らその額を割いて天を祭った。翌日風が止むと、我が軍の帆は弱く動かず、金人は小舟をもって火を放ち、矢は雨の如く降り注いだ。孫世詢・厳允は皆戦死し、敵は江を渡り去ることができた。世忠は残軍を収めて鎮江に還った。

初め、世忠は敵が来れば必ず金山廟に登り、我が虚実を観ると考えた。そこで兵百人を廟中に、百人を岸辺に伏せさせ、鼓の音を聞いたら、岸の兵が先に入り、廟の兵が合撃することを約束した。金人は果たして五騎が闖入し、廟の兵は喜び、先に鼓を鳴らして出たが、わずかに二人を得たのみであった。三人は逃れ、その中に絳袍玉帯で、一度落馬しながらまた駆け去った者がいた。詰問すると、これが兀朮であった。この役において、兀朮の兵は十万と号し、世忠は僅か八千余人であった。帝は合わせて六度書札を賜い、褒賞すること甚だ寵遇であった。検校少師・武成感徳軍節度使・神武左軍都統制に任じた。

建安の范汝為が反乱を起こし、辛企宗らが討伐捕縛したが未だ制圧できず、賊の勢いはますます盛んとなった。世忠を福建・江西・荊湖宣撫副使と為す。世忠曰く、「建州は閩嶺の上流にあり、賊が流れに沿って下れば、七郡皆血肉と化すであろう」と。急ぎ歩卒三万を率い、水陸併せて進む。剣潭に駐屯す。賊は橋を焼く。世忠は策馬して先ず渡り、軍は遂に渡河す。賊は要路を全て塞ぎて王師を拒ぐ。世忠は諸軍に命じて旗を伏せ鼓を倒し、真っ直ぐに鳳凰山に至り、城邑を見下ろし、雲梯と火楼を設け、昼夜を分かたず併せて攻撃す。賊は震え恐れて測り難し。五日にして城は陥ち、汝為は身を潜めて自ら焼死す。その弟の岳・吉を斬りて示衆にし、その謀主謝嚮・施逵及び裨将陸必強ら五百余人を擒らう。

世忠は初め建州の民を皆殺しにせんと欲す。李綱が福州より馳せて世忠に会い、「建民は多く無辜なり」と言う。世忠は軍士に命じて城上を馳せて下るなからしめ、民が自ら互いに別れるに任せ、農民には牛と穀物を与え、商人には徴税と禁令を緩め、脅従した者は選別して遣わし、ただ賊に附いた者のみを取って誅す。民は更生を感じ、家ごとに祠を立てる。捷報が聞こえ、帝曰く、「古の名将と雖も何を以てか加えん」と。黄金の器皿を賜う。

世忠は因みに奏上す、江西・湖南の寇賊なお多しと。乗勝して討平することを請う。広西の賊曹成が余衆を擁して郴州・邵州に在り。世忠は閩寇を平らげし後、直ちに軍を返して永嘉に至り、将に休息に就かんとするが如し。忽ち処州・信州より径ちに章に至り、江濱に連営すること数十里。群賊はその至るを予期せず、大いに驚く。世忠は人を遣わしてこれを招く。成はその衆を率いて降る。戦士八万を得て、行在所に遣わす。

遂に師を移して長沙に至る。時に劉忠は数万の衆を有し、白面山に拠り、営柵相望む。世忠の至りし初め、急撃せんと欲す。宣撫使孟庾は不可とす。世忠曰く、「兵家の利害は、策を之に審らかにす。参政の知る所に非ず。半月を期して捷効を請う」と。遂に賊と対峙し、囲碁を打ち酒宴を張り、堅く壁を守って動かず。衆は測り難し。一夜、蘇格と連れだって騎馬にて賊営を穿ち、斥候が詰問す。世忠は先に賊の軍号を得ており、声に随って応じ、一周して出で、喜んで曰く、「此れ天の賜いなり」と。夜に精兵二千を白面山に伏せ、諸将と共に営を抜いて進む。賊兵が迎え撃たんとする時、遣わした兵は既に中軍に馳せ入り、望楼を奪い、旗と蓋を立て、伝呼すること雷の如し。賊は顧みて驚き潰走す。将士を指揮して挟撃し、大いにこれを破り、忠の首を斬る。湖南は遂に平らぐ。太尉を授け、帯・笏を賜い、仍て枢密に勅して功を以て内外の諸将に頒示せしむ。師は建康に還り、背嵬軍を置く。皆勇猛にして比類なき者なり。九月、江南東・西路宣撫使と為り、司を建康に置く。

三年三月、開府儀同三司に進み、淮南東・西路宣撫使を充て、司を泗州に置く。時に李横が師を進めて偽斉を討つと聞き、大将を遣わすことを議す。世忠の忠勇を以て、故に之を遣わす。仍て広馬七綱、甲千副、銀二万両、帛二万匹を賜う。又、銭百万緡、米二十八万斛を出し、半年の用と為す。戸部侍郎姚舜明をして泗州に詣らしめ、銭糧を総領せしむ。倉部郎官孫逸をして平江府・常秀饒州に如からしめ、軍食を督発せしむ。李横の兵は敗れて鎮に還り、世忠は果たして淮を渡らず。

四年、建康・鎮江・淮東宣撫使を以て鎮江に駐屯す。是の歳、金人と劉豫が兵を合わし、分道して侵入す。帝、手札を以て世忠に命じ、守備を整え、進取を図らしむ。辞旨懇切なり。世忠、詔を受けて感泣し曰く、「主上憂い如此くす、臣子何を以てか生くべき」と。遂に鎮江より師を渡し、統制解元をして高郵を守らしめ、金の歩卒を待たしむ。自ら騎兵を提げて大儀に駐まり、敵騎に当たり、木を伐って柵と為し、自ら帰路を断つ。

時に魏良臣を金に使わす。世忠は炊事の竈を撤き、良臣に詔ありて屯を移し江を守ると偽る。良臣は疾く馳せ去る。世忠、良臣の已に国境を出でたるを推し量り、即ち馬に上り軍中に令して曰く、「吾が鞭の向かう所を視よ」と。是に於いて軍を率いて大儀に駐まり、五つの陣を布き、二十余所に伏兵を設け、鼓を聞けば即ち起ちて撃つことを約す。良臣、金軍中に至る。金人、王師の動静を問う。具に所見を以て対う。聶児孛堇、世忠の退くを聞き、喜び甚だしく、兵を引いて江口に至る。大儀より五里。別将撻孛也、鉄騎を擁して五陣の東を過ぐ。世忠、小麾を伝えて鼓を鳴らす。伏兵四より起つ。旗色は金人の旗と雑り出で、金軍乱る。我が軍は次々に進む。背嵬軍は各々長斧を持ち、上は人の胸を突き、下は馬の足を斬る。敵は甲を着て泥濘に陥る。世忠は勁騎を指揮して四面より蹂躙し、人馬ともに斃る。遂に撻孛也ら二百余人を擒らう。

遣わした董旼も亦た天長県の鵶口に於いて金人を撃ち、女真四十余人を擒らう。解元は高郵に至り、敵に遇う。水軍を設けて河を挟み陣し、一日に十三度合戦し、相拒んで未だ決せず。世忠は成閔を遣わして騎士を将い往きて援けしむ。復た大戦し、生女真及び千戸らを俘虜とす。世忠は復た自ら追って淮に至る。金人は驚き潰走し、互いに蹈み藉り、溺死する者甚だ衆し。

捷報聞こえ、群臣入朝して賀す。帝曰く、「世忠忠勇、朕其の必ず能く成功するを知る」と。沈与求曰く、「建炎以来、将士未だ嘗て金人と迎え撃ち一戦する有らず。今世忠連捷して其の鋒を挫く。厥の功小さからず」と。帝曰く、「第に優に之を賞せよ」と。是に於いて部将董旼・陳桷・解元・呼延通ら皆峻擢有差。論者此の挙を以て中興武功の第一と為す。

時に撻辣は泗州に屯し、兀朮は竹塾鎮に屯す。世忠に扼せられ、書幣を以て戦を約す。世忠之を許し、且つ両名の伶人をして橘と茗を以て報聘せしむ。時に雨雪有り。金の糧道通ぜず、野に掠むる所無く、馬を殺して食らう。蕃漢軍皆怨む。兀朮、夜に軍を引いて還る。劉麟・劉猊は輜重を棄てて遁る。

五年、少保に進む。六年、武寧安化軍節度使・京東淮東路宣撫処置使を授かり、司を楚州に置く。世忠は草萊を披き、軍府を立て、士卒と力を同じくして労役す。夫人梁氏自ら薄を織りて屋と為す。将士に怯戦する者有れば、世忠は巾幗を遺し、楽を設け大宴し、婦人の粧いをさせて以て之を恥じしむ。故に人人奮い励む。流散を撫で集め、商を通じ工を恵む。山陽は遂に重鎮と為る。劉豫の兵数度入寇すれども、輒ち世忠に敗れしめらる。

時に張浚は右相として師を視察し、世忠に命じて承州・楚州より淮陽を図らしむ。劉豫方に兵を淮陽に聚む。世忠は即ち軍を率いて淮を渡り、符離の傍らを北し、其の城下に至る。賊に囲まれるや、奮って戈を揮い一躍し、囲みを潰して出で、一鏃も遺さず。呼延通は金将牙合孛堇と搏ち戦い、其の吭を扼して之を擒らう。鋭気に乗じて掩撃し、金人は敗れて去る。既にして淮陽を囲む。賊は堅く守りて下らず。約して曰く、「囲まれること一日なれば、則ち一烽を挙げよ」と。是に至り、六烽具に挙がる。兀朮と劉猊皆至る。世忠は張俊に援けを求む。俊は世忠に己を吞まんとする意有りとし、従わず。世忠は陣を勒えて敵に向かい、人を遣わして之に語らしめて曰く、「錦衣驄馬陣前に立つ者は、韓相公なり」と。或いは之を危ぶむ。世忠曰く、「是の如くせざれば、以て敵を致すに足らず」と。敵果たして至る。其の導戦する者二人を殺し、遂に引き去る。尋で詔有りて班師す。復た楚州に帰る。淮陽の民、従いて帰る者万を以て計う。

三月、京東・淮東宣撫処置使兼ねて鎮江府を節制するを除かれ、仍て楚州に司を置く。四月、「揚武翊運功臣」の号を賜う。横海・武寧・安化三鎮の節度使を加う。九月、帝は平江に在り。世忠は楚州より来朝す。

十月、辺境の急報あり、劉光世は廬州を棄てて太平に還らんとし、張俊もまた兵の増援を請う。都督ととく張浚曰く、「今日の事、進撃あるも、退保なし」と。ここにおいて世忠は兵を率いて淮を渡り、金将訛里也と力戦す。劉猊、淮東を寇せんとすれども、世忠の兵に扼せられて進むことを得ず。七年、高郵城を築き、民ますます之に安んず。

初め、世忠は山陽に移屯し、間者を遣わして山東の豪傑を結び、緩急を約して応ずることを以てし、宿州の馬秦及び太行の群盗、多く約束を奉ぜんと欲する者あり。金人劉豫を廃し、中原震動す、世忠は機失うべからずと謂い、全師を挙げて北討し、帰附を招納し、恢復の計と為さんことを請う。会に秦檜和議を主とし、世忠に命じて鎮江に徙屯せしむ。世忠言う、「金人詭詐にして、計を以て我が師を緩ませんことを恐る、乞うらくは此の軍を留めて江・淮を蔽遮せしめよ」と。また和議の非を力陳し、願わくは死節を効し、率先して敵を迎えんとす;若し勝たずんば、之に従うも未だ晩しからずと。また王倫・藍公佐の河南の地界を交わすに当たり、乞うらくは明らかに反覆なき文状を具して後証と為さしめよと。章十数上す、皆慷慨激切にして、且つ単騎にて闕に詣り面奏せんことを請い、帝は優詔を率いて褒答す。後に金果たして盟を渝え、皆其の言の如し。

金使蕭哲の来るや、詔諭を以て名と為す、世忠之を聞き、凡そ四上疏して言う、「許すべからず、願わくは兵を挙げて決戦し、兵勢最も重き処は、臣請うらくは之に当たらん」と。また言う、「金人は劉豫を以て相待せんと欲し、挙国の士大夫尽く陪臣と為さんとす、人心の離散し、士気の凋沮するを恐る」と。且つ馳驛して面奏せんことを請うも、許されず。既にして洪沢鎮に兵を伏せ、将に金使を殺せんとすれども、克たず。

九年、少師を授かる。十年、金人盟を敗り、兀朮は撒離曷・李成等を率いて三京を破り、分道して深入す。八月、世忠は淮陽を囲み、金人来りて救う、世忠は泇口鎮に迎撃して之を敗る。また解元を遣わして金人を潭城に撃ち、劉宝をして千秋湖に撃たしむ、皆捷す。親随将成閔、統制許世安に従い淮陽門を奪いて入り、門内に大戦す。世安は四矢に中り、閔は三十余創を被るも、復た門を奪いて出づ。世忠其の功を奏し、武徳大夫に擢で、閔は是より知名となる。世忠は太保に進み、英国公に封ぜられ、兼ねて河南・北諸路招討使と為る。

十一年、兀朮は順昌の敗を恥じ、復た謀りて再び入らんとし、詔して大いに兵を淮西に合して以て待たしむ。既にして金は柘皋に敗れ、復た濠州を囲む。世忠は詔を受けて濠を救い、舟師を以て招信県に至り、夜に騎兵を以て金人を聞賢驛に撃ちて之を敗る。金人濠州を攻め、五日にして破る。破ること三日、世忠至り、楊沂中の軍は既に南奔せり。世忠は金人と淮岸に戦い、夜に劉宝を遣わして流を泝り将に之を劫せんとす、金人は木を伐り赤龍洲を塞ぎ、其の帰路を扼す、世忠之を知り、全師して還る。金人は渦口より淮を渡り北去し、是より後復た侵さず。世忠は楚州に十余年在り、兵僅かに三万なるも、而して金人敢えて犯さず。

秦檜は三大将の権を収め、四月、枢密使に拝し、遂に積む所の軍儲銭百万貫、米九十万石、酒庫十五を国に帰す。世忠は既に和議を然らずと為し、檜に抑えらる。魏良臣の金に使するに及び、世忠また力言す、「此より人情消弱し、国勢委靡し、誰か復た之を振わん。北使の来るに、乞うらくは面議せしめよ」と。許されず、遂に抗疏して檜の国を誤るを言う。檜は言者を諷して之を論ぜしむ、帝其の奏を格して下さず。世忠は連疏して枢密の柄を解かんことを乞い、継いて表を上して骸を乞う。十月、醴泉観使・奉朝請に罷められ、福国公に進封せられ、節鉞は故の如し。此より門を杜ぎ客を謝し、口を絶って兵を言わず、時に驢に跨り酒を携え、一二の奚童に従い、縦に西湖に游びて以て自ら楽しみ、平時の将佐も稀に其の面を見ることを得ず。

十二年、潭国公に改む。顕仁皇后の金より還るに、世忠は臨平に詣り朝謁す。后は北方に其の名を聞き、慰問すること良久し。十三年、咸安郡王に封ぜらる。十七年、鎮南・武安・寧国節度使に改む。二十一年八月薨じ、太師に進拝せられ、通義郡王を追封さる。孝宗の朝、蘄王を追封せられ、忠武と諡し、高宗廟庭に配饗す。

世忠初めて疾を得しとき、勅して尚医をして視療せしめ、将吏臥内に詣りて疾を問う、世忠曰く、「吾は布衣にて百戦し、王公の位に致る、天の霊に頼り、首領を保ちて家に没す、諸君尚お其の死を哀しまんや」と。及び死す、朝服・貂蟬冠・水銀・龍脳を賜いて以て斂らしむ。

世忠嘗て家人を戒めて曰く、「吾が名は世忠、汝曹『忠』の字を諱むることなかれ、諱みて言わざれば、是れ忠を忘るるなり」と。性戇直にして、勇敢忠義、事廟社に関すれば、必ず涕を流して極言す。岳飛の冤獄、挙朝敢えて一語を出す者無し、世忠独り檜の怒りに攖る、語は檜伝に在り。また和議を抵排し、檜に触ること尤も多し、或いは之を止めんと勧むるも、世忠曰く、「今禍を畏れて苟くも同ぜば、他日瞑目するとき、豈に太祖殿下にて鉄杖を受くべけんや」と。時に一二の大将、多く曲く檜に狥い苟くも全からんとす、世忠は檜と政地に同じくするも、一揖の外嘗て与に談ぜず。

義を嗜み財を軽んじ、錫賚は悉く将士に分ち、賜わる所の田は租を輸すること編戸と等し。軍を厳重に持ち、士卒と甘苦を同じくし、器仗の規画は、精絶して人に過ぐ、今の克敵弓・連鎖甲・狻猊鍪、及び澗を跳ねて以て騎を習い、洞貫して以て射を習うは、皆其の遺法なり。嘗て毒矢に中り骨に入る、彊弩を以て括りて之を取る、十指僅かに四つ全きのみ、動くこと能わず、刀痕箭瘢は刻畫の如し。然れども人を知り善く奬用し、成閔・解元・王勝・王権・劉宝・岳超は行伍より起り、将旄を秉るも、皆其の部曲なりと云う。兵を解き政を罷め、家に臥すること凡そ十年、澹然として自ら如し、未だ嘗て権位有る者に若からず。晩年は釈・老を喜び、自ら清涼居士と号す。

子に彦直・彦質・彦古あり、皆才を以て見用せらる。彦古は戸部尚書。

子 彦直

彦直、字は子温。生まれて期年、父の任に因り右承奉郎を補し、尋いで直秘閣と為る。六歳、世忠に従い入りて高宗に見え、命じて大字を作らしむるに、即ち命に拝し跪きて「皇帝萬歳」の四字を書す。帝之を喜び、其の背を拊して曰く、「他日、令器なり」と。親しく孝宗の丱角の繻を解きて其の首に傅え、金器・筆研・監書・鞍馬を賜う。年十二、三品の服を賜う。

紹興十七年、両浙転運司の試に中る。明年、進士第に登り、太社令に調す。二十一年、世忠薨じ、服除く、秦檜は素より世忠の和議に附和せざるを銜み、彦直を出して浙東安撫司主管機宜文字と為す。檜死し、光禄寺丞に拝す。二十九年、屯田員外郎に遷り兼ねて右曹郎官・工部侍郎を権む。張浚は江・淮の軍馬を都督し、檄して権りて計議軍事を為さしむ。督府罷み、祠を奉ず。

乾道二年、戸部郎官に遷り左曹を主管し、淮東軍馬銭糧を総領す。会に大軍倉糧を給するに、径に小輿に乗り往きて之を察す、米を給するも数に如かず、吏を捕えて理に寘く。初め、代者は乏興を以て罷めらる、交承するに、緡銭僅かに二十万なるも、明年奏計するに乃ち四倍し、且つ其の贏を以て諸朝に献ず。帝之を嘉す。司農少卿に拝し、直龍図閣に進み、江西転運を兼ねて権りて江州を知る。

時に朝廷は岳飛の家財産を還付したが、多くは九江にあり、歳月を経てその所有は数度も主を変え、役人がこれに縁って姦弊を為していた。彦直は隠匿を捜索剔抉し、ことごとく岳氏に還付した。また司農少卿となり、湖北・京西の軍馬・銭糧を総領し、まもなく発運副使を兼ねた。時に宰相の意に合わず、密かに武官への転換を啓上され、利州観察使・知襄陽府を授かり、京西南路安撫使を充てられた。

七年、鄂州駐劄御前諸軍都統制を授かる。軍中の六事を条奏し、器械を備え、戦馬を増やし、濫賞を革め、奇功を励まし、勇略を選び、親随を充実することを乞うた。朝廷は多くこれに従った。先に、軍中の騎兵は多く歩戦ができなかったが、彦直は騎士に甲冑を着けて徒歩行軍させ、日に六十里とし、統制官といえどもみずから率先するよう命じた。人々は労苦に慣れ、馳騁すること飛ぶが如しとなった。事が聞こえ、詔して三衙・江上の諸軍にこれを模倣させた。

八年、文班への復帰を乞い、左中奉大夫を授かり、敷文閣待制・知台州を充てられた。祠官を乞いて親を養い、佑神観提挙・奉朝請となった。進対して言うには、「近ごろ岳飛が帥となって以来、身は鄂渚に居ながら遙かに荊襄を領し、田師中がこれを継ぎ、初めて鄂渚を二軍に分けた。旧に復することを乞う」と。また京西・湖北の転運を一司に併せ、官を分かち司を襄陽に置き、事体を一にすべきことを乞うた。帝はこれを善しとし、刑部侍郎に遷った。

明年、工部侍郎を兼ねる。同列が議するに、大辟の罪で三度審問しても自白しない者は、衆証によって刑に就かせるべきであり、これを令として修立しようとした。彦直はこれに反対し、丞相梁克家に白状して言うには、「もしそうすれば、善類が誣えられ、必ず冤獄が多くなるであろう。かつ笞杖の刑でさえ、なお自白を引き出してから決するのに、まして人命は至って重いではないか」と。議はついに止んだ。呉名世の改正過名を奪う議論が不当であるとして、両官を降格された。

時に金への使者を遣わすこととなり、朝廷に在る者は互いに顧みて誰も先を肯わず、帝みずから選んで行かせた。命を聞き慨然として道に就く。まさに国境に入らんとする時、金の使者蒲察が国書の受け取りについて問い、論難が数十回往復したが、蒲察は理屈に窮し、笑って言うには、「尚書はよく力を尽くして主君のために務めている」と。既に到着してから、幾度か禍に陥りかけたが、節を守って屈せず、金はついに礼をもってこれを送り返した。帝は嘉賞して嘆息し、吏部侍郎に遷り、まもなく工部尚書を権め、また中大夫となり、工部尚書兼知臨安府に改めた。まさに辞退しようとした時、言事によって罷免され、太平興国宮提挙となり、まもなく佑神観提挙・奉朝請となった。

まもなく温州の知事となり、まず大猾の王永年を捕えて徹底的に糾明し、杖罰の上他州に移した。民間の積年の未納分を免除するよう奏上し、郡の余財をもって代納した。しかし累欠する内帑の坊場銭を発給しなかったため、一官を削られた。海賊が大洋に出没して掠奪し、その勢いは甚だ盛んであったが、彦直は将領・土豪らに方略を授け、十日と経たずに賊の首領を生け捕りにし、海路は清まった。枢密院が功績を奏上し、敷文閣学士に進み、弟の彦質が両浙転運判官となったため、嫌疑を避けて泉府に移った。祠官を乞いて親に仕え、佑神観提挙を差し遣わされ、なお奉朝請となり、特に魚袋を佩用することを許され、異例の待遇を示された。

入朝して対し、靖康以来の死節の士を捜索訪問して忠義を勧めることを乞うた。また上奏して、薦挙により選ばれた者で既に関升し、実に六考を経て、贓私の罪のない者に対し、経術と法律を交えて試験し、その員額を限り、その高下を定め、孤寒の者にも自ら上達する道を開き、改官の制度として定めることを乞うた。また州郡の守臣が任期満了の日に、本州の実在する財賦の数目を開示し、公文書をもって交代者に交付し、併せて台省に達するよう命じることを乞い、これによって実情を検核し、姦弊を止められるとした。帝はことごとく嘉納した。

淳熙十年夏、旱魃があり、詔に応じて言上し、近ごろの濫刑が旱魃の原因であるとした。明年、入朝して対し、三衙はいずれも宸居を拱衛するものであるのに、その司馬が遠く数百里外にあるのは不当であると論じ、帰司させるよう乞うた。久しくして、再び戸部尚書となった。時に旱魃の年となり、広く買い入れて備えとすることを先とするよう乞うた。またかつて岳飛を誣陷した部曲を追貶して忠魂を慰めるよう乞うた。言事によって敷文閣学士に降格された。帝は世忠の元勲を追憶し、使者を遣わして彦直に諭し、かつ彦直には才力があり、言事者はこれを誣えていると述べた。彦直は感激して泣き、奏上して謝した。まもなく万寿観提挙となり、病を得ると、帝は薬を賜った。顕謨閣学士・万寿観提挙に進んだ。

かつて宋朝の事跡を採り集め、類目に分け、『水心鏡』と名付け、百六十七巻の書とした。礼部尚書尤袤が国史を修めるに当たり、朝廷に白状し、この書を取り下げて進上させた。光宗はこれを覧て、善しと称した。龍図閣学士・万寿観提挙に進み、光禄大夫に転じて致仕した。卒すと、特旨をもって開府儀同三司を贈られ、銀絹九百を賜り、爵は蘄春郡公に至った。

論じて曰く、古人に言う、「天下安んずれば相に注意し、天下危うければ将に注意す」と。宋の靖康・建炎の際は、天下の安危の機である。勇略忠義なること韓世忠の如き者が将となるは、これ天が宋の興復を資する所以である。兀朮が江を渡った時、ただ世忠のみがこれと対陣し、閑暇を示した。劉豫が廃され、中原の人心が動揺するに及んで、世忠は時に乗じて進兵することを請うた。この機会をどうして失うことができようか。高宗はただ姦臣秦檜の言を聴き、世忠にその才を尽くして展べさせず、和議が成って宋の大事は去った。暮年、行都に退居し、兵を口にせず、部曲の旧将とも相見えず、蓋し岳飛の事を戒めたのである。昔、漢文帝は前代の廉頗・李牧を思い、宋には世忠があってながらよく用いなかった。惜しいかな。