宋史

列傳第一百二十二 李光 許翰 許景衡 張愨 張所 陳禾 蔣猷

列傳第一百二十二 李光 許翰 許景衡 張愨 張所 陳禾 蔣猷

李光

原文李光

李光、字は泰發、越州上虞の人。幼少の頃より遊戯にふけらなかった。父の高は称して言う、「我が子は雲間の鶴、その者は我が家門を興すであろうか」と。親の喪に遭い、哀傷して身を毀すこと成人の如く、弔問の礼を致す者あれば、悉くこれを辞した。葬送に及んで、礼儀ことごとく節度に適う。喪服を除き、太学に遊学し、崇寧五年の進士第に登る。開化県令に任じ、政績の名声あり、都堂審察に召し赴くも、時の宰相これを悦ばず、監当の職に処し、改めて官等を進め、平江府常熟県の知県となる。朱勔の父沖が勢いに倚り暴横なるに、光はその家僮を械で拘えて処断した。沖は怒り、部使者に風説して令を呉江に移させたが、光は屈しなかった。京東西学事司管勾文字に改める。

原文李光,字泰發,越州上虞人。童稚不戲弄。父高稱曰:「吾兒雲間鶴,其興吾門乎!」親喪,哀毀如成人,有致賻者,悉辭之。及葬,禮皆中節。服除,遊太 學,登崇甯五年進士第。調開化令,有政聲,召赴都堂審察,時宰不悅,處以監當,改秩,知平江府常熟縣。朱勔父沖倚勢暴橫,光械治其家僮。沖怒,風部使者移 令吳江,光不為屈。改京東西學事司管勾文字。

劉安世が南京に居た時、光は師礼をもってこれに謁見した。安世は温公(司馬光)より聞いたところを告げて言う、「学は無妄の中より入るべし」と。光は欣然として領会した。太常博士に除され、司封に遷る。まず士大夫の諂諛・佞巧が風習となるを論じ、甚だしきは妄りに荀卿の「聴従有り、諫諍無し」の説を引き、以て言路を杜塞するに至るとし、また怨嗟の気が結びついて妖沴となるを言上した。王黼これを憎み、部に命じて桂州陽朔県に注擬させた。安世は光が事を論じて貶されたと聞き、書を贈ってその偉さを称えた。李綱もまた水災を論じて国を去り、義興に居たが、水驛で光を待ち、自ら出て呼びて曰く、「これ越州の李司封の船にあらずや」と。数日留め、交わりを定めて別れた。司勲員外郎に除され、符宝郎に遷る。

原文劉安世居南京,光以師禮見之。安世告以所聞于溫公者曰:「學當自無妄中入。」光欣然領會。除太常博士,遷司封。首論士大夫諛佞成風,至妄引荀卿「有聽 從,無諫諍」之說,以杜塞言路;又言怨嗟之氣,結為妖沴。王黼惡之,令部注桂州陽朔縣。安世聞光以論事貶,貽書偉之。李綱亦以論水災去國,居義興,伺光于 水驛,自出呼曰:「非越州李司封船乎?」留數日,定交而別。除司勳員外郎,遷符寶郎。

郭薬師が叛くと、光は徽宗に内禅の意思あるを知り、符宝を納めるに因り、知枢密院蔡攸に謂って曰く、「公家のなすところ、皆な衆心に背く。今日の事、皇太子によらざれば国家ともに危うし」と。攸は愕然として、敢えて異を為さず。欽宗、禅を受け、右司諫に抜擢される。上皇東幸し、奸人が両宮の間を離間するに、光は奉迎の典礼を集議するを請う。また奏す、「東南の財用は朱勔に尽き、西北の財用は李彦に困しめられ、天下根本の財は蔡京・王黼に竭く。名は応奉と為し、実は私室に入り、公家には半年の儲えなく、百姓には旬日の積みなし。旧制に依り、三省・枢密院に兵民財計を通知せしめ、戸部とともに一歳の出入を量り、以て国用を制し、吏を選び考核せしめ、利源を一に帰せしむるを乞う」と。

原文郭藥師叛,光知徽宗有內禪意,因納符,謂知樞密院蔡攸曰:「公家所為,皆咈眾心。今日之事,非皇太子則國家俱危。」攸矍然,不敢為異。欽宗受禪,擢右 司諫。上皇東幸,憸人間兩宮,光請集議奉迎典禮。又奏:「東南財用,盡于朱勔,西北財用,困于李彥,天下根本之財,竭于蔡京、王黼。名為應奉,實入私室, 公家無半歲之儲,百姓無旬日之積。乞依舊制,三省、樞密院通知兵民財計,與戶部量一歲之出入,以制國用,選吏考核,使利源歸一。」

金人、太原を囲み、援兵功無し。光言う、「三鎮の地は、祖宗百戦して得たるもの、一朝に挙げて敵に与うれば、何を以て国と為さん。大臣に詔して別に攻守の策を議せしめ、なお間道より使者を遣わし河東・北両路に檄し、強壮を尽く起して策応せしめ、首尾相い掩撃するを望む」と。侍御史に遷る。

原文金人圍太原,援兵無功。光言:「三鎮之地,祖宗百戰得之,一旦舉以與敵,何以為國?望詔大臣別議攻守之策,仍間道遣使檄河東、北兩路,盡起強壯策應,首尾掩擊。」遷侍御史。

時に言事者はなお王安石の学を主とし、詔して廟堂に掲示す。光また言う、「祖宗の規摹は宏遠なり。安石は法度を尽く廃せんと欲し、則ち人主は法を制すべくして法に制せらるべからずと謂い、元老を尽く逐わんと欲し、則ち人主は俗を化すべくして俗に化せらるべからずと謂う。蔡京兄弟はその説を祖述し、五十年の間、毒四海に流る。今また中外に風示し、民の聴を鼓惑す、豈に朝廷の福ならんや」と。

原文時言者猶主王安石之學,詔榜廟堂。光又言:「祖宗規摹宏遠,安石欲盡廢法度,則謂人主制法而不當制於法;欲盡逐元老,則謂人主當化俗而不當化於俗。蔡京兄弟祖述其說,五十年間,毒流四海。今又風示中外,鼓惑民聽,豈朝廷之福?」

蔡攸、扈衛上皇行宮に因縁して都に入らんと欲す。光奏す、「攸もし果たして入らば、則ち百姓必ず生変を致し、万一属車の塵を驚かし犯すことあらば、臣は預め言わざる罪に坐す。早く黜責せんことを望む」と。時に既に擷景園を修繕して寧徳宮と為すも、太上皇后は禁中に入居せんと欲す。光奏す、「禁中は天子の宮なり。仮に陛下温凊の便を欲し、奉迎して内に入れんとすとも、亦た躬から上皇に稟し、下して有司に典礼を討論せしむべし」と。乃ち光の章疏を下し、両宮の臣に奏知せしむ。ここにおいて太上皇后は寧徳宮に居す。

原文蔡攸欲以扈衛上皇行宮因緣入都,光奏:「攸若果入,則百姓必致生變,萬一驚犯屬車之塵,臣坐不預言之罪。望早黜責。」時已葺擷景園為甯德宮,而太上皇 後乃欲入居禁中。光奏:「禁中者,天子之宮。正使陛下欲便溫凊,奉迎入內,亦當躬稟上皇,下有司討論典禮。」乃下光章,使兩宮臣奏知,於是太上皇后居甯德 宮。

金人京城に逼る。士大夫職を委ねて去る者五十二人、罪同じくして罰異なり、士論紛然たり。光は理寺に付して公に行わしむるを請う。太原囲急なり。奏す、「折彦質に就いて委ね、晋・絳・慈・隰・沢・潞・威勝・汾の八州民兵及び本路諸県の弓手を尽く起し、守令をして各自部轄せしむるを乞う。その土豪・士人首領たらんと願う者には、初官を仮し、器甲を応副し、協力して赴援せしむ。女真は親王を劫質し、三鎮を以て言い訳とし、勢い必ず深入す。京城守禦の備えを大いに修め、以て敵人の謀を伐つを請う」と。

原文金人逼京城,士大夫委職而去者五十二人,罪同罰異,士論紛然,光請付理寺公行之。太原圍急,奏:「乞就委折彥質盡起晉、絳、慈、隰、澤、潞、威勝、汾 八州民兵及本路諸縣弓手,俾守令各自部轄。其土豪、士人願為首領者,假以初官、應副器甲,協力赴援。女真劫質親王,以三鎮為辭,勢必深入,請大修京城守禦 之備,以伐敵人之謀。」

また言う、「朱勔は応奉に托けて州県を脅制し、田園第宅は王室に擬す。清強の官を択び司を置き、勔父子及び奉承の監司・守令、胡直孺・盧宗原・陸寘・王促閔・趙霖・宋晦等を追摂し、根拠を勘案し帳簿を検閲し、資産を計って没収し、その強奪した編戸の産業はこれを還すを乞う」と。

原文又言:「朱勔托應奉脅制州縣,田園第宅,富擬王室。乞擇清強官置司,追攝勔父子及奉承監司、守令,如胡直孺、盧宗原、陸寘、王促閔、趙霖、宋晦等,根勘驅磨,計資沒入,其強奪編戶產業者還之。」

李会・李擢また諫官として召される。光奏す、「蔡京が復用された時、会・擢は迭って台官と為り、一言も発するを禁じ、金人城を囲むに、白時中・李邦彦とともに専ら敵を避け地を割くの謀を主とす。時中・邦彦はこれに坐して落職すれども、会・擢は反って召用され、復た諫諍の列に預かる。成命を止めんことを乞う」と。報いず。光は外任を乞うも、また報いず。

原文李會、李擢復以諫官召。光奏:「蔡京復用,時會、擢迭為台官,禁不發一語;金人圍城,與白時中、李邦彥專主避敵割地之謀。時中、邦彥坐是落職,而會、擢反被召用,復預諫諍之列。乞寢成命。」不報。光丐外,亦不報。

彗星寅・艮の間に出づ。耿南仲の輩は皆な外夷に応ずと謂い、憂うるに足らずとす。光奏す、「孔子『春秋』を作るに、祥瑞を書かざるは、人君をして恐懼修省せしめんと欲するが故なり、未だ災異を外夷に帰するを聞かず」と。疏奏し、汀州酒税を監す。

原文彗出寅、艮間,耿南仲輩皆謂應在外夷,不足憂。光奏:「孔子作《春秋》,不書祥瑞者,蓋欲使人君恐懼修省,未聞以災異歸之外夷也。」疏奏,監汀州酒稅。

高宗即位し、秘書少監に抜擢され、江州知州に除される。未だ幾ばくもせず、侍御史に抜擢されるも、皆な道途梗塞のため赴かず。建炎三年、車駕臨安より建康に移蹕す。宣州知州に除す。時に範瓊軍を率いて過らんとす。光先に入りて事を視る。瓊至れば則ち門を開き延いて労い、三日留めて去り、敢えて嘩する者無し。光は宣州が行都に密邇するを以て、乃ち城池を繕い、兵糧を聚め、六邑の民を籍し、保伍相い比し、これを義社と謂う。その健武者を択び、土豪を以て統率し、保甲万余を得、号して「精揀軍」とす。また険要二十三所に柵を設け謹んでこれを戍り、城を厘して十の地分と為し、内外を分巡し、昼は便に任せ、夜は城を守り、警あれば則ち戦う。苗租歳に邑に輸するものは、悉く郡に輸せしむ。初めは不便を言いしも、守城の日に及び、軍を贍い民を養うこと、遂にこれに頼りて済ます。事聞こえ、管内安撫を授け、便宜従事を許し、直龍図閣に進む。

原文高宗即位,擢秘書少監,除知江州;未幾,擢侍御史,皆以道梗不赴。建炎三年,車駕自臨安移蹕建康,除知宣州。時範瓊將過軍,光先入視事,瓊至則開門延 勞,留三日而去,無敢嘩者。光以宣密邇行都,乃繕城池,聚兵糧,籍六邑之民,保伍相比,謂之義社。擇其健武者,統以土豪,得保甲萬餘,號「精揀軍」。又柵 險要二十三所謹戍之,厘城止為十地分,分巡內外,晝則自便,夜則守城,有警則戰。苗租歲輸邑者,悉命輸郡。初歡言不便,及守城之日,贍軍養民,迄賴以濟。 事聞,授管內安撫,許便宜從事,進直龍圖閣。

杜充建康を以て降り、金人馬家渡を奪う。御営統制王曁燮・王曁民は素より相能わず、ここに至り、潰兵を擁して城外に砦し闘いを索む。光親しく営に至り、先ず国家後私讎の義を諭す。皆な感悟し解き去る。時に奔将・散卒至る者、光は悉く厚く資を給し遺す。水軍繁昌に叛し、宣の境に逼る有り。即ち兵を遣わし援撃し、賊の不意に出で、遂に宵遁す。右文殿修撰に進む。光奏す、「金人江・浙に深入すと雖も、然れども天時地利に違う。臣已に劉光世に移文し大兵を領して州に赴き、力を併せて攻討せしむ。速やかに宣撫使周望に委ね、日を約して水陸並びに進むを乞う」と。

原文杜充以建康降,金人奪馬家渡。御營統制王曁燮、王曁民素不相能,至是,擁潰兵砦城外索鬥。光親至營,諭以先國家後私讎之義,皆感悟解去。時奔將、散卒 至者,光悉厚貲給遺。有水軍叛於繁昌,逼宣境,即遣兵援擊,出賊不意,遂宵遁。進右文殿修撰。光奏:「金人雖深入江、浙,然違天時地利,臣已移文劉光世領 大兵赴州,並力攻討。乞速委宣撫使周望,約日水陸並進。」

賊将の邵青は真州より舟数百艘を擁し、当塗・蕪湖の両邑の間を剽掠す。光、これを招諭し、米二千斛を遺す。青喜び、使者に謂ひて曰く、「我は官軍なり。過ぐる所皆盗賊として遇せらる。独り李公のみ我を疑はず。」ここに於て秋毫も犯さず。他日、舟繁昌を過ぐ。或人これを紿して曰く、「宣の境なり。」乃ち北岸を掠めて去る。

原文潰將邵青自真州擁舟數百艘,剽當塗、蕪湖兩邑間,光招諭之,遺米二千斛。青喜,謂使者曰:「我官軍也,所過皆以盜賊見遇,獨李公不疑我。」於是秋毫無犯。他日,舟過繁昌,或紿之曰:「宣境也。」乃掠北岸而去。

劇盗の戚方は寧国県を破り、城下に抵り、兵を分けて四撃す。光、勇敢を募りてこれを劫かす。賊驚擾し、自ら相屠蹂す。朝廷、統制官の巨師古・劉晏を遣はし、兼程して来援せしむ。賊急に朝京門を攻め、竹木を纜として浮梁と為し以て済る。須臾にして、軍城に傅き、炮具を列ね、石を立てて対楼と為す。光、竹を編みて簾の若くし、これを掲げしむ。炮至れば即ち反墜し、傷つくる能はず。桱木を取って撞竿と為し、女牆に倚らしめて以て対楼を禦ぐ。賊却く。劉晏、赤心隊を率ひて直ちに其の砦を搗く。賊陽に退く。晏これを追ふ。伏発して害に遇ふ。師古、中軍を以て大いに賊を破る。賊遁去す。初め、戚方宣を囲むとき、其の副と並馬して城を巡り、攻具を指画す。光、書を矢に傅へて其の副の馬前に射る。言ふ、「戚方は窮寇なり。天誅必ず加はらん。汝は将家の子なり。何ぞ賊に附するに至らんや。」二人相疑ひ、攻め稍く緩む。始めて備へを為すことを得て、而して援師至る。嘗て匕首を枕匣の中に置き、家人と約して曰く、「城必ずしも保つべからず。若し人をして匕首を取らしむれば、我必ず死す。汝輩宜しく自殺すべし。賊の手に落つること無かれ。」徽猷閣待制・知臨安府を除す。

原文劇盜戚方破甯國縣,抵城下,分兵四擊。光募勇敢劫之,賊驚擾,自相屠蹂。朝廷遣統制官巨師古、劉晏兼程來援。賊急攻朝京門,纜竹木為浮梁以濟。須臾, 軍傅城,列炮具,立石對樓。光命編竹若簾揭之,炮至即反墜,不能傷。取桱木為撞竿,倚女牆以禦對樓,賊引卻。劉晏率赤心隊直搗其砦,賊陽退,晏追之,伏發 遇害。師古以中軍大破賊,賊遁去。初,戚方圍宣,與其副並馬巡城,指畫攻具。光以書傅矢射其副馬前,言:「戚方窮寇,天誅必加,汝為將家子,何至附賊。」 二人相疑,攻稍緩,始得為備,而援師至矣。嘗置匕首枕匣中,與家人約曰:「城不可必保,若使人取匕首,我必死。汝輩宜自殺,無落賊手。」除徽猷閣待制、知 臨安府。

紹興元年正月、知洪州を除す。固く辞し、臨安府洞霄宮を提挙す。知婺州を除す。甫く郡に至り、吏部侍郎に擢でらる。光、疏を奏して朋党の害を極論す。「議論の臣、各懐顧避し、肯て危を持し顛を扶くるを以て己が任と為す者莫し。駐蹕会稽、首尾三載。去秋より今に至るまで、敵人の復た南渡の意無きは、淮甸咫尺にして、了て經營せず、長江千里にして、限制を為さず、惴惴焉として日ごとに桴に乗りて海に浮かばんの計を為す。晉の元帝、区区草創するも、猶ほ宗社を立て、宮闕を修め、江・浙を保つ。劉琨・祖逖、逆胡と並・冀・兗・豫よ・司・雍の諸州に於て拒戦し、未だ嘗て陷沒せざるなり。石季龍の重兵已に歴陽に至るも、王導をして中外諸軍を都督ととくせしめて以てこれを禦げしむ。未だ専ら狄を避くるを主とすること今日の如きを聞かざるなり。陛下駐蹕会稽、江・浙を根本の地と為す。進んで以て戦ひ、退きて以て守るに足らしむるは、建康に如くは莫し。建康より姑熟に至る一百八十里、其の隘くして守るべきもの六有り。曰く江寧鎮、曰く鹈岡砂夾、曰く採石、曰く大信、其の上には則ち蕪湖・繁昌有り。皆淮南に対境す。其の餘は皆蘆簖の場、或は鹈奇岸にして水勢湍悍、舟楫を施し難し。諸隘に預め兵を屯し粟を積み、将士をして各管地分せしめ、旁近の郷兵を調発し、協力して守禦せしむるに若かず。乞ふらくは明詔を大臣に下し、参酌して施行せしめよ。」

原文紹興元年正月,除知洪州,固辭,提舉臨安府洞霄宮。除知婺州,甫至郡,擢吏部侍郎。光奏疏極論朋黨之害:「議論之臣,各懷顧避,莫肯以持危扶顛為己 任。駐蹕會稽,首尾三載。自去秋迄今,敵人無復南渡之意,淮甸咫尺,了不經營,長江千里,不為限制,惴惴焉日為乘桴浮海之計。晉元帝區區草創,猶能立宗 社,修宮闕,保江、浙。劉琨、祖逖與逆胡拒戰于並、冀、兗、豫、司、雍諸州,未嘗陷沒也。石季龍重兵已至曆陽,命王導都督中外諸軍以禦之,未聞專主避狄如 今日也。陛下駐蹕會稽,江、浙為根本之地,使進足以戰、退足以守者,莫如建康。建康至姑熟一百八十里,其隘可守者有六:曰江寧鎮,曰鹈岡砂夾,曰採石,曰 大信,其上則有蕪湖、繁昌,皆與淮南對境。其餘皆蘆簖之場,或鹈奇岸水勢湍悍,難施舟楫。莫若預于諸隘屯兵積粟,命將士各管地分,調發旁近鄉兵,協力守 禦。乞明詔大臣,參酌施行。」

時に詔有り、金人の深入するに、諸郡の守臣相度し、或は守り或は避け、自便を得しむと令す。光言ふ、「守臣は人民・社稷の重きを任ず。固く存亡を以てこれに当たるべし。若し預め遷避の門を開かば、是れこれを遁るるに誘ふなり。願はくは前詔を追ひて寢めよ。」上、蹕を臨安に移さんと欲す。旨を被りて臨安府に見屯する諸軍を節制し、戸部侍郎を兼ね、営繕事を督む。光、經營撙節し、擾さずして辦ず。二浙の積負及び九邑の科配を蠲減するを奏し、以て徳を施すは近きより始むるの意を示す。戚方、管軍として節制に属し、甚だ懼れ、庭下に拝す。光、手を握りてこれを起し、曰く、「公昔は盗と為り、某は守と為り、分ちて相直すべし。今俱に臣子と為る。当に共に忠義を勉め力むべし。以前事を以て疑ふこと勿れ。」方謝し且つ泣す。侍読を兼ぬ。因りて奏す、「金人内寇し、百姓失業して盗賊と為るは、本より獲已むを得ざるなり。尚ほ誠を以て感ずべし。李成の北走してより、群盗心を離す。儻ひに斯の時に因りて一二の酋豪を顕用し、以て其の党を風厲せば、必ず更に相效慕ひ、以て次第に就降せん。」吏部尚書に擢でらる。

原文時有詔,金人深入,諸郡守臣相度,或守或避,令得自便。光言:「守臣任人民、社稷之重,固當存亡以之。若預開遷避之門,是誘之遁也,願追寢前詔。」上 欲移蹕臨安,被旨節制臨安府見屯諸軍,兼戶部侍郎、督營繕事。光經營撙節,不擾而辦。奏蠲減二浙積負及九邑科配,以示施德自近之意。戚方以管軍屬節制,甚 懼,拜庭下。光握手起之,曰:「公昔為盜,某為守,分當相直;今俱為臣子,當共勉力忠義,勿以前事為疑。」方謝且泣。兼侍讀,因奏:「金人內寇,百姓失業 為盜賊,本非獲已,尚可誠感。自李成北走,群盜離心,儻因斯時顯用一二酋豪,以風厲其黨,必更相效慕,以次就降。」擢吏部尚書。

大将の韓世清は本より苗傅の余党、久しく宣城に屯し、擅に倉庫を据へ、調発行はれず。光、先づ事を除くことを請ふ。乃ち光に淮西招撫使を授く。光、道を仮りて郡に至る。世清入謁す。縛して闕下に送り伏誅せしむ。初め、光、上の面前に於て成算を稟く。宰相、預り聞かざるを以て、之を怒る。未だ至らざるに、道にて端明殿学士・江東安撫大使・知建康府・寿春滁濠廬和無為宣撫使を除す。時に太平州の卒陸德、守臣を囚へ城に据へて叛く。光、方略を多う設け、尽く其の党を擒る。

原文大將韓世清本苗傅餘黨,久屯宣城,擅據倉庫,調發不行。光請先事除之,乃授光淮西招撫使。光假道至郡,世清入謁,縛送闕下伏誅。初,光於上前面稟成 算,宰相以不預聞,怒之。未至,道除端明殿學士、江東安撫大使、知建康府、壽春滁濠廬和無為宣撫使。時太平州卒陸德囚守臣據城叛,光多設方略,盡擒其黨。

秦檜既に罷まり、呂頤浩・朱勝非並びに相と為る。光の議論素より之と合はず。言者、光を指して檜党と為す。職を落として祠を奉ず。尋ひて宝文閣待制・知湖州を復し、顕謨閣直学士を除し、守を平江に移し、礼部尚書を除す。光言ふ、「古より創業中興するは、必ず因る所有りて起る。漢高は関中に因り、光武は河内に因る。駐蹕東南、両浙は根本の因る所の地に非ずや。冬より春に及び、雨雪已まず、百姓失業す。台諫を選びて実を察し以て聞せしむることを乞ふ。兼ねて比歳福建・湖南に盗作し、範汝為・楊麼相挺して起る。朝廷大兵を発して誅討し、殺戮過当なり。今諸路旱荒し、流丐路に満ち、盗賊出入す。宜しく良吏を選びて招懷撫納せしめ、諸路の監司を責めて貪贓を按じ、流殍を恤はしむべし。」

原文秦檜既罷,呂頤浩、朱勝非並相,光議論素與不合。言者指光為檜黨,落職奉祠。尋復寶文閣待制、知湖州,除顯謨閣直學士,移守平江,除禮部尚書。光言: 「自古創業中興,必有所因而起。漢高因關中,光武因河內,駐蹕東南,兩浙非根本所因之地乎?自冬及春,雨雪不已,百姓失業,乞選台諫察實以聞。兼比歲福 建、湖南盜作,範汝為、楊麼相挺而起,朝廷發大兵誅討,殺戮過當。今諸路旱荒,流丐滿路,盜賊出入。宜選良吏招懷撫納,責諸路監司按貪贓,恤流殍。」

議臣、四川の交子法を江・浙に推行せんと欲す。光言ふ、「銭有れば則ち交子行はるべし。今已に謂ふ、若干の銭を樁辦し、若干の交子を行ふと。此の議者は朝廷をして陛下を欺かしめ、陛下をして異時に免れずして百姓を欺かしめんと欲するなり。若し已に見銭を樁辦せば、則ち目今行ふ所の銭関子、已に通快なり。何ぞ紛紛たるに至らん。其の工部の鑄到する交子務の銅印、臣未だ敢て給降せず。」端明殿学士を除し、台州を守る。俄かに温州に改む。

原文議臣欲推行四川交子法于江、浙,光言:「有錢則交子可行。今已謂樁辦若干錢,行若干交子,此議者欲朝廷欺陛下,使陛下異時不免欺百姓也。若已樁辦見 錢,則目今所行錢關子,已是通快,何至紛紛?其工部鑄到交子務銅印,臣未敢給降。」除端明殿學士,守台州,俄改溫州。

劉光世・張俊連ねて捷を以て聞ゆ。光言ふ、「金人の布置を観るに、必ず主謀有り。今已に東南の形勢を据ふ。敵人の万里遠く来るは、速戦に利あり。宜しく諸将を戒めて持重を以て之を老いしむべし。数箇月を過ぎず、彼食尽きば、則ち勝算我に在り。」江西安撫・知洪州兼制置大使を除し、吏部尚書に擢でらる。月を踰へて、参知政事を除す。

原文劉光世、張俊連以捷聞。光言:「觀金人佈置,必有主謀。今已據東南形勢,敵人萬里遠來,利於速戰,宜戒諸將持重以老之。不過數月,彼食盡,則勝算在我矣。」除江西安撫、知洪州兼制置大使,擢吏部尚書,逾月,除參知政事。

時に秦檜が初めて和議を定め、榜文を掲げようとして、李光の名を籍に加えて人心を鎮圧せんとした。上意は李光を用いようとしなかったが、秦檜は言う、「李光は人望あり、もし共に榜文に押署すれば、浮議は自ずから止むでしょう」と。遂にこれを用いた。同郡の楊煒が李光に上書し、時相に附いて尊官を取り、狡猾な虜の奸計に陥り、平時の大節を堕すことを責めた。李光の本意は、ただ和議に因って自治の計を為すべきであると謂うにあった。既にして秦檜が淮南の守備を撤き、諸将の兵権を奪わんと議すると、李光は極言して戎狄は狼子野心、和は恃むべからず、備えは撤くべからずと論じた。秦檜はこれを憎んだ。秦檜が親党の鄭億年を資政殿学士にしようとした時、李光は御前の榻上で面と向かってこれを挫き、また秦檜と帝の前で語を難じて、因って曰く、「秦檜の意を観るに、是れ陛下の耳目を壅蔽し、国権を盗み弄び、奸を懐いて国を誤らんとするものなり、察せざるべからず」と。秦檜は大いに怒り、翌日、李光は去らんことを乞うた。高宗曰く、「卿は昨、面と向かって秦檜を叱責し、挙措古人の如し。朕退きて歎息し、方に卿に腹心を寄せんとす、何ぞ乃ち去らんとするか」と。李光曰く、「臣が宰相と争論するは、留まるべからざるなり」と。章を九度上奏し、乃ち資政殿学士・知紹興府を除し、改めて提挙臨安府洞霄宮と為した。

原文時秦檜初定和議,將揭榜,欲籍光名鎮壓。上意不欲用光,檜言:「光有人望,若同押榜,浮議自息。」遂用之。同郡楊煒上光書,責以附時相取尊官,墮黠虜 奸計,隳平時大節。光本意謂但可因和而為自治之計。既而檜議徹淮南守備,奪諸將兵權,光極言戎狄狼子野心,和不可恃,備不可徹。檜惡之。檜以親黨鄭億年為 資政殿學士,光于榻前面折之,又與檜語難上前,因曰:「觀檜之意,是欲壅蔽陛下耳目,盜弄國權,懷奸誤國,不可不察。」檜大怒,明日,光丐去。高宗曰: 「卿昨面叱秦檜,舉措如古人。朕退而歎息,方寄卿以腹心,何乃引去?」光曰:「臣與宰相爭論,不可留。」章九上,乃除資政殿學士、知紹興府,改提舉臨安府 洞霄宮。

十一年の冬、中丞万俟禼が李光が陰に怨望を懐くを論じ、建寧軍節度副使に責授し、藤州に安置した。四年を越えて、瓊州に移す。瓊州に居すること八年、次子の孟堅が陸升之の誣告に坐し、私に国史を撰すとされ、獄が成る。呂願中がまた李光と胡銓が詩賦を倡和し、朝政を譏訕したと告げ、昌化軍に移す。文を論じ史を考へ、怡然として自ら適う。年八十を逾え、筆力精健なり。また三年を経て、始めて郊祀の恩赦により、左朝奉大夫に復し、便に居住するを任す。江州に至って卒す。孝宗即位し、資政殿学士に復し、諡を賜うて莊簡と曰う。

原文十一年冬,中丞万俟禼論光陰懷怨望,責授建寧軍節度副使,藤州安置。越四年,移瓊州。居瓊州八年,仲子孟堅坐陸升之誣以私撰國史,獄成;呂願中又告光 與胡銓詩賦倡和,譏訕朝政,移昌化軍。論文考史,怡然自適。年逾八十,筆力精健。又三年,始以郊恩,復左朝奉大夫,任便居住。至江州而卒。孝宗即位,復資 政殿學士,賜諡莊簡。

孟傳、字は文授、李光の幼子なり。李光が南遷した日、才六歳。李光の遺表の恩により、累官して太府丞に至る。韓侂冑が会いたがったが、孟傳曰く、「行年六十、去るの計已に決す、敢えて聞かざるなり」と。これにより出でて江州を知る。朝請大夫・直寶謨閣を以て致仕す。卒す、年八十。『磐溪詩』二十巻、『文稿』三十巻、『宏辭類稿』十巻、『左氏説』十巻、『讀史』十巻、『雜志』十巻有り。博学多聞、身を厳しく持し、時に其の家をよく世継ぐを推す。

原文孟傳字文授,光幼子也。光南遷之日,才六歲。以光遺表恩,累官至太府丞。韓侂胄願見之,孟傳曰:「行年六十,去計已決,不敢聞也。」由是出知江州。以 朝請大夫、直寶謨閣致仕。卒,年八十。有《磐溪詩》二十卷,《文稿》三十卷,《宏辭類稿》十卷,《左氏說》十卷,《讀史》十卷,《雜志》十卷。博學多聞, 持身甚嚴,時推能世其家。

許翰

原文許翰

許翰、字は崧老、拱州襄邑の人。元祐三年の進士第に中る。宣和七年、召されて給事中と為る。時に宰相に書を致し、百姓困弊し、盗賊と為り起こり、天下に危亡の憂い有りと謂う。雲中の師を罷め、辺を修め境を保ち、民と休息せんことを願う。高麗が入貢するに当たり、民を調発して運河を開かせ、民間騒然たり。中書舎人孫傅が高麗は国に功無く、大役を興すべからずと論じ、孫傅は坐して罷免される。許翰は孫傅が黜けられるべきでないと謂い、時相怒り、職を落とし、提挙江州太平観と為す。

原文許翰,字崧老,拱州襄邑人。中元祐三年進士第。宣和七年,召為給事中。為書抵時相,謂百姓困弊,起為盜賊,天下有危亡之憂。願罷雲中之師,修邊保境, 與民休息。高麗入貢,調民開運河,民間騷然。中書舍人孫傅論高麗于國無功,不宜興大役,傅坐罷。翰謂傅不當黜,時相怒,落職,提舉江州太平觀。

靖康初め、復た給事中として召される。時に金人が京師を攻めて退いたばかり、許翰は闕に造り、即日に賜対し、翰林学士を除し、尋いで御史中丞に改む。上疏して辺事を言い、因って決勝の策を陳ぶ。陳邦昌が太宰と為るに、許翰上疏して力を争う。種師道が罷められ中太一宮使と為るに、許翰言う、「師道は名将、沈毅にして謀有り、山西の士卒、人々信服す、兵柄を解かしむべからず」と。欽宗其の老いて用い難しと謂うと、許翰曰く、「秦始皇は王翦を老いとし李信を用い、兵は楚に辱しめらる。漢宣帝は趙充国を老いとすれど、卒いに能く金城の功を成す。呂望以来、老将を用いて功を収むる者、一二数うるも難し。古を以て今を揆うれば、師道は老いと雖も、用いるべし」と。且つ謂う、「金人の此行は、存亡の係る所、一大創を与え、利を失わせ去らしめば、則ち中原は保たれ、四夷は服すべし。然らずんば、将来再挙すれば、必ず救い難き憂い有らん。宜しく師道を起して邀撃せしむべし」と。上用いる能わず。中大夫・同知枢密院に擢でられ、論議益々合わず、病を以て去り、延康殿学士・知亳州を除す。言者に坐して職を落とし、提挙南京鴻慶宮と為す。

原文靖康初,復以給事中召。時金人攻京師甫退,翰造闕,即日賜對,除翰林學士,尋改御史中丞。上疏言邊事,因陳決勝之策。陳邦昌為太宰,翰上疏力爭之。種 師道罷為中太一宮使,翰言:「師道名將,沉毅有謀,山西士卒,人人信服,不可使解兵柄。」欽宗謂其老難用,翰曰:「秦始皇老王翦而用李信,兵辱于楚;漢宣 帝老趙充國,而卒能成金城之功。自呂望以來,用老將收功者,難一二數。以古揆今,師道雖老,可用也。」且謂:「金人此行,存亡所系,令一大創,使失利去, 則中原可保,四夷可服。不然,將來再舉,必有不救之憂。宜起師道邀擊之。」上不能用。擢中大夫、同知樞密院,論益不合,以病去,除延康殿學士、知亳州。坐 言者落職,提舉南京鴻慶宮。

高宗即位し、李綱の推薦を用い、召して延康殿学士に復す。既に至り、尚書右丞兼権門下侍郎を拝す。時に建炎の大変の後、河北山東の大盗李成・孔彦舟等、衆を聚めて各数十万、皆勤王を名とし、張所を帥と得んことを願う。張所は御史たり、嘗て黄潜善が奸邪にして用いるべからずと論じ、これにより罪を得たり。李綱が相と為り、乃ち張所を河北等路招撫使と為し、李成等の衆を率いて河を渡り、諸路を号召し、興復の計を為さしむ。黄潜善力くこれを沮む。宗沢が車駕の南幸すべからず、宜しく京師に還るべしと論じ、且つ黄潜善等を詆る。黄潜善等は宗沢を罷めんことを請う、許翰極論して以て不可と為す。李綱罷免され、許翰言う、「李綱は忠義英発、これを捨てては中興を佐くる無し。今李綱を罷むれば、臣留まるも益無し」と。力を求めて去らんとし、高宗未だ許さず。時に黄潜善が陳東を誅せんと奏す、許翰親しい者に謂う、「吾と陳東は、皆李綱を争う者なり。陳東が東市に戮せらるるに、吾が廟堂に在るは可ならんや」と。去らんことを求めること益々力く、章八度上り、資政殿大学士を以て提挙洞霄宮と為す。復た言者により職を落とす。

原文高宗即位,用李綱薦,召復延康殿學士。既至,拜尚書右丞兼權門下侍郎。時建炎大變之後,河北山東大盜李成、孔彥舟等,聚眾各數十萬,皆以勤王為名,願 得張所為帥。所為御史,嘗論黃潛善奸邪不可用,由此得罪。李綱為相,乃以所為河北等路招撫使,率成等眾渡河,號召諸路,為興復計。潛善力沮之。宗澤論車駕 不宜南幸,宜還京師,且詆潛善等。潛善等請罷澤,翰極論以為不可。李綱罷,翰言:「綱忠義英發,舍之無以佐中興,今罷綱,臣留無益。」力求去,高宗未許。 時潛善奏誅陳東,翰謂所親曰:「吾與東,皆爭李綱者。東戮東市,吾在廟堂可乎?」求去益力,章八上,以資政殿大學士提舉洞霄宮。復以言者落職。

紹興元年、召して端明殿学士・提挙万寿観に復すも、辞して至らず。二月、資政殿学士に復す。三年五月、卒す。光禄大夫を贈る。

原文紹興元年,召復端明殿學士、提舉萬壽觀,辭不至。二月,復資政殿學士。三年五月,卒,贈光祿大夫。

許翰は経術に通じ、正直にして撓まず、三朝に歴事し、政府に致位すれども、徒に王黼・蔡攸・黄潜善輩の薰蕕異味により、横に口語に遭い、志遂に展ばず。李綱は力を以て引きと雖も、踵を旋らせずして去り、許翰も亦斥逐されて死す。著する書に『論語解』・『春秋伝』有り。

原文翰通經術,正直不撓,曆事三朝,致位政府,徒以黼、攸、潛善輩薰蕕異味,橫遭口語,志卒不展。綱雖力引之,不旋踵去,翰亦斥逐而死。所著書有《論語解》、《春秋傳》。

許景衡

原文許景衡

許景衡、字は少伊、温州瑞安の人。元祐九年の進士第に登る。宣和六年、召されて監察御史と為り、殿中侍御史に遷る。是の時、王黼・蔡攸が事を用う。許景衡言う、「尚書省は比来長官を闕き、同知枢密院も亦久しく闕く。三公は三省を通治すと雖も、然れども文昌は政事の本、枢密は兵を総べるの地、各攸属有り、安んぞ久しく其の位を虚くすべけんや。願わくは公議を博采し、忠賢を遴選して、以て政府の闕を補わしめよ」と。遂に大いに王黼の意に忤う。朝廷童貫を用いて河東・北宣撫使と為し、将に北伐せんとす。許景衡其の貪繆にして用いるべからざることを数十事論ず、報いず。

原文許景衡,字少伊,溫州里安人。登元祐九年進士第。宣和六年,召為監察御史,遷殿中侍御史。是時,王黼、蔡攸用事,景衡言:「尚書省比闕長官,而同知樞 密院亦久闕。雖三公通治三省,然文昌政事之本,樞密總兵之地,各有攸屬,安可久虛其位?願博采公議,遴選忠賢,以補政府之闕。」遂大忤黼意。朝廷用童貫為 河東、北宣撫使,將北伐,景衡論其貪繆不可用者數十事,不報。

睦州の賊寇平らぎ、江・浙の郡県残毀すれども、茶塩の比較の法は旧の如し。許景衡奏す、「茶塩の法は、食するの衆寡を以て歳額の高下と為すべし。今収復の後、戸版半ば耗し、民力蕭然たり。而るに茶塩の比較は昔に減ぜず。民困無からんことを欲するも得べけんや」と。奏上り、詔して両浙・江東路に権りて茶塩の比較を免じ、賊平の日仍って旧に依らしむ。

原文睦寇平,江、浙郡縣殘毀,而茶鹽比較之法如故。景衡奏:「茶鹽之法,當以食之眾寡為歲額之高下。今收復之後,戶版半耗,民力蕭然,而茶鹽比較不減於昔。民欲無困得乎?」奏上,詔兩浙、江東路權免茶鹽比較,賊平日仍舊。

朝廷が燕雲の師を興すや、調度は継がず、誅求は益々急なり。景衡奏す、「財力の匱乏は節用に在り、民力の困弊は恤民に在り。今不急の務、若し営繕諸役、花石綱運、其の名一ならず。吏員猥多、軍額冗濫。又無名の功賞、非常の賜予、皆夤縁僥倖し、幹請厭きること無し、宜しく祖宗の制を以て節し之を省去すべし」と。且つ和買・和糴・塩法の害を極論す、報いず。会に洋州知州呉岩夫が私書を以て執政の子に抵り、景衡の賢を道う。従子の婿符宝郎周離亨を因りて以て達す、離亨誤って其の書を王黼に致すを繆り、黼是を用いて景衡を中り、之を逐う。

原文朝廷既興燕雲之師,調度不繼,誅求益急。景衡奏:「財力匱乏在節用,民力困弊在恤民。今不急之務。若營繕諸役,花石綱運,其名不一。吏員猥多,軍額冗 濫。又無名功賞,非常賜予,皆夤緣僥倖,幹請無厭,宜節以祖宗之制而省去之。」且極論和買、和糴、鹽法之害,不報。會知洋州吳岩夫以私書抵執政子,道景衡 之賢。因從子婿符寶郎周離亨以達,離亨繆以其書誤致王黼,黼用是中景衡,逐之。

欽宗即位し、左正言を以て召す、旋って太常少卿兼太子諭徳に改め、中書舎人に遷す。侍御史李光・正言程瑀が鯁亮にして執政に忤い斥けらる、景衡之が為に弁白し、職を落とし祠を予うに坐す。

原文欽宗即位,以左正言召,旋改太常少卿兼太子諭德,遷中書舍人。侍御史李光、正言程瑀以鯁亮忤執政斥,景衡為辨白,坐落職予祠。

高宗即位し、給事中を以て召す、既に至り、御史中丞を除く。宗沢が東京留守たり、言者黄潜善等に附き、多く其の短を攻め、之を逐い去らんと欲す。景衡奏して曰く、「臣浙より淮を渡り、以て行在に至る。沢の尹と為るや、威名政事、卓然として人に過ぐ、其の人を識らざるも、窃に歎慕を用う。臣以為う、去冬京城内に、赤心国に為りて沢等数輩の如き有らば、其の禍変未だ是の如き酷に至らざらんと。今若し其の小短を較へ、忠を尽くし国に徇うの節を顧みざれば、則ち已に甚だしきを恕さざるなり。且つ開封は宗廟社稷の在る所、苟くも沢を罷めんと欲し、別に留守を遣わさば、搢紳中威名政事沢に加わる者有るかを識らざるか」と。疏入り、上大いに悟り、封じて以て沢に示す、沢乃ち安んず。

原文高宗即位,以給事中召,既至,除御史中丞。宗澤為東京留守,言者附黃潛善等,多攻其短,欲逐去之。景衡奏曰:「臣自浙渡淮,以至行在。聞澤之為尹,威 名政事,卓然過人,雖不識其人,竊用歎慕。臣以為去冬京城內,有赤心為國如澤等數輩,其禍變未至如是之酷。今若較其小短,不顧盡忠徇國之節,則不恕已甚。 且開封宗廟社稷所在,苟欲罷澤,別遣留守,不識搢紳中威名政事有加於澤者乎?」疏入,上大悟,封以示澤,澤乃安。

杭州の叛卒陳通乱を作す、権浙西提刑趙叔近之を招降し、官を以て授くるを請う。景衡曰く、「官吏は罪無くして誅せられ、叛卒は罪有りて賞を蒙る、賞罰倒置、此れより甚だしきは莫し」と。卒う之を奏して罷む。尚書右丞を除く。大政事有れば、必ず間を請ひて極論す。潜善・伯彦は景衡が己に異なるを以て、共に排沮す。或いは言う、正・二月の交は、乃ち太一の正遷の日なり、宜しく禁中に壇を設け望拝すべしと。高宗以て景衡に問う、曰く、「徳を修め民を愛すれば、天自ら福を降す、何ぞ太一を迎拝するの有らんや」と。

原文杭州叛卒陳通作亂,權浙西提刑趙叔近招降之,請授以官。景衡曰:「官吏無罪而受誅。叛卒有罪而蒙賞,賞罰倒置,莫此為甚。」卒奏罷之。除尚書右丞。有 大政事,必請間極論。潛善、伯彥以景衡異己,共排沮之。或言正、二月之交,乃太一正遷之日,宜於禁中設壇望拜。高宗以問景衡,曰:「修德愛民,天自降福, 何迎拜太一之有?」

初め、李綱都を建つるを議し、関中を以て上と為し、南陽之に次ぎ、建康を下と為す。綱既に相たり、遂に南陽の議を主とす。景衡中丞たり、奏す、「南陽は険阻無く、且つ密邇に盗賊し、漕運継がず、建康の天険に拠るべきに若かず、請う計を定めて巡幸せん」と。潜善等綱を傾けて去らしめ、南陽の議遂に格る。是に至り、諜報す金人河陽・汜水を攻むと、景衡又た南幸して建康に幸せんことを奏請す。已にして詔有り京に還る、景衡を罷めて資政殿大学士・提挙杭州洞霄宮と為す。瓜洲に至り、暍疾を得、京口に及び卒す、年五十七、諡して忠簡と曰う。

原文初,李綱議建都,以關中為上,南陽次之,建康為下。綱既相,遂主南陽之議。景衡為中丞,奏:「南陽無險阻,且密邇盜賊,漕運不繼,不若建康天險可據, 請定計巡幸。」潛善等傾綱使去,南陽之議遂格。至是,諜報金人攻河陽、汜水,景衡又奏請南幸建康。已而有詔還京,罷景衡為資政殿大學士、提舉杭州洞霄宮。 至瓜洲,得暍疾,及京口卒,年五十七,諡忠簡。

景衡は程頤の学を得、志慮忠純にして、議論時に与に俯仰せず。建炎初、李綱南陽に幸せんことを議し、宗沢は京に還るを請う、景衡乃ち建康に幸せんことを請う。黄潜善等素より其の己に異なるを悪み、車駕揚州に駐まるに及び、伝聞に怵て、已むを得ず還京の詔を下し、遂に渡江の議を借りて之を罪し、斥逐して死せしむ。既に没し、高宗之を思いて曰く、「朕即位以来、執政忠直にして、事に遇い敢えて言うは、惟だ許景衡のみ」と。詔して景衡の家に温州官舎一区を賜う。

原文景衡得程頤之學,志慮忠純,議論不與時俯仰。建炎初,李綱議幸南陽,宗澤請還京,景衡乃請幸建康。黃潛善等素惡其異己,暨車駕駐揚州,怵于傳聞,不得 已下還京之詔,遂借渡江之議罪之,斥逐而死。既沒,高宗思之曰:「朕自即位以來,執政忠直,遇事敢言,惟許景衡。」詔賜景衡家溫州官舍一區。

張愨

原文張愨

張愨、字は誠伯、河間楽寿の人。元祐六年の進士第に登る。累遷して龍図閣学士・計度都転運使。高宗兵馬大元帥と為り、諸道の兵を募りて王に勤めしむ、愨飛輓道に踵き、建議して即ち元帥府の印を以て塩鈔を給し、以て商旅に便ならしむ。旬を閲ず、緡銭五十万を得て以て軍を佐く。高宗之を器重し、命じて便宜を以て権大名尹兼北京留守・馬歩軍都総管と為す。愨初め二帝北行を聞き、率いて副総管顔岐等三たび箋を上りて進を勧む。最後に、愨上書し、極論す中原一日も君無きべからざるを、高宗之が為に感悟す。

原文張愨,字誠伯,河間樂壽人。登元祐六年進士第。累遷龍圖閣學士、計度都轉運使。高宗為兵馬大元帥,募諸道兵勤王,愨飛輓踵道,建議即元帥府印給鹽鈔, 以便商旅。不閱旬,得緡錢五十萬以佐軍。高宗器重之,命以便宜權大名尹兼北京留守、馬步軍都總管。愨初聞二帝北行,率副總管顏岐等三上箋勸進。最後,愨上 書,極論中原不可一日無君,高宗為之感悟。

建炎と改元し、戸部尚書と為り、同知枢密院事・措置戸部財用兼御営副使を除く。建言す、「三河の民、敵を怨みて骨髓に深入り、其の類を殲殄せざるを恨み、以て国家の仇を報ぜんとす。請う唐人沢潞歩兵・雄辺子弟の遺意に依り、民を募りて什伍を以て聯ね、而して兵を農に寓し、力を合せて敵に抗せしめ、之を巡社と謂わん」と。法と為すこと精詳にして、此に前に民兵を論ずる者及ばず。詔して集めて書と為し之を行わしむ。尚書左丞に遷り、官は中書侍郎に至る。

原文建炎改元,為戶部尚書,除同知樞密院事、措置戶部財用兼御營副使。建言:「三河之民。怨敵深入骨髓,恨不殲殄其類,以報國家之仇。請依唐人澤潞步兵、 雄邊子弟遺意,募民聯以什伍,而寓兵于農,使合力抗敵,謂之巡社。」為法精詳,前此論民兵者莫及也。詔集為書行之。遷尚書左丞,官至中書侍郎。

愨は理財に善く、銭穀の利害を論ずれば、猶お諸掌を指すが如し。朝に在りて諤諤として大臣の節有り、然れども議論の可否は、辞色に形せず、未だ嘗て同列の歓を失わず。卒す、諡して忠穆と曰う。上毎に之を念い、愨の国に謀りて忠を尽くし、事に遇い敢えて諫む、古の遺直なりと謂う。

原文愨善理財,論錢穀利害,猶指諸掌。在朝諤諤有大臣節,然論議可否,不形辭色,未嘗失同列之歡。卒,諡忠穆。上每念之,謂愨謀國盡忠,遇事敢諫,古之遺直也。

張所

原文張所

張所、青州の人。進士第に登り、歴官して監察御史と為る。高宗即位し、所を遣わして陵寢を按視せしむ、還り、上疏して言う、「河東・河北は、天下の根本なり。昨者奸臣の謀を用うるを誤り、始め三鎮を割き、継いで両河を割く、其の民怨みて骨髓に入り、今に至るも扼腕せざるは無し。若し因りて之を用いば、則ち以て守るに藉すべく、不しかば両河の兵民、系望する所無く、陛下の事去らん」と。且つ京師に還るに五利有るを論じ、国の安危は、兵の強弱・将相の賢不肖に在りて、都の遷不遷に在らずと謂う。又た条上して両河の利害を上す。上其の事を以て所に付せんと欲す、会に所の言う黄潜善奸邪用うべからず、新政を害せんことを恐る。乃ち所の御史を罷め、兵部郎中に改む。尋うて所を責めて鳳州団練副使と為し、江州に安置す。

原文張所,青州人。登進士第,曆官為監察御史。高宗即位,遣所按視陵寢,還,上疏言:「河東、河北,天下之根本。昨者誤用奸臣之謀,始割三鎮,繼割兩河, 其民怨入骨髓,至今無不扼腕。若因而用之,則可藉以守;不則兩河兵民,無所系望,陛下之事去矣。」且論還京師有五利,謂國之安危,在乎兵之強弱、將相之賢 不肖,不在乎都之遷不遷。又條上兩河利害。上欲以其事付所,會所言黃潛善奸邪不可用,恐害新政。乃罷所御史,改兵部郎中。尋責所鳳州團練副使,江州安置。

後李綱相に入り、所を薦めて両河を経略せしめんと欲す、其の嘗て潜善を言える故を以て、之を難しむ。一日、潜善と従容に言いて曰く、「今河北未だ人無し、独り一張所の用うべく、又以て狂言を以て罪に抵る。已むを得ず抆拭して之を用い、招撫と為し、死を冒して功を立て以て過を贖わしむるは、亦た善からずや」と。潜善諾す、乃ち所に直龍図閣を借り、河北招撫使を充す。内府の銭百万緡を賜い、空名の告千余道を給す、京西の卒三千を以て衛と為し、将佐官属は、自ら辟置するを許し、一切便宜を以て事に従わしむ。所入見し、条上して利害を上す。上五品の服を賜い遣わし、直秘閣王圭を命じて宣撫司参謀官と為し之を佐けしむ。

原文後李綱入相,欲薦所經略兩河,以其嘗言潛善故,難之。一日,與潛善從容言曰:「今河北未有人,獨一張所可用,又以狂言抵罪。不得已抆拭用之,使為招 撫,冒死立功以贖過,不亦善乎?」潛善許諾,乃借所直龍圖閣,充河北招撫使。賜內府錢百萬緡,給空名告千餘道;以京西卒三千為衛,將佐官屬,許自辟置,一 切以便宜從事。所入見,條上利害。上賜五品服遣行,命直秘閣王圭為宣撫司參謀官佐之。

河北轉運副使張益謙は黄潛善の意に附し、司を北京に置くは非なりと奏上し、且つ招撫司を置いてより河北の盗賊愈々熾盛なり、之を罷めて専ら其の事を帥司に付すべしと云へり。李綱言ふ、「張所今京師に留まり将佐を招集し、未だ行くに及ばず、益謙何を以て其の擾るを知るや。朝廷河北の民帰する所無く、聚まつて盗賊と為るを以て、故に司を置きて招撫し、其の力を因りて之を用ふるなり、豈に司を置くに由りて乃ち盗賊有らんや。今京東・西群盗公に行はれ、郡県を攻掠す、亦た豈に招撫司の過ちならんや。時に方に艱危なるに、朝廷経理せんと欲する所有り、益謙小臣にして、乃ち非理を以て沮抑す、此れ必ず之を為さしむる者有らん」と。上乃ち益謙に分析を命じ、命を下して枢密院に付す、汪伯彦猶ほ其の奏を用ひて招撫司を詰責す。李綱伯彦と上前に争ふ、伯彦語塞ぐ。

原文河北轉運副使張益謙附黃潛善意,奏所置司北京非是;且言自置招撫,河北盜賊愈熾,不若罷之,專以其事付帥司。李綱言:「張所今留京師,招集將佐,尚未 及行,益謙何以知其擾?朝廷以河北民無所歸,聚而為盜,故置司招撫,因其力而用之,豈由置司乃有盜賊乎?今京東、西群盜公行,攻掠郡縣,亦豈招撫司過耶? 時方艱危,朝廷欲有所經理,益謙小臣,乃以非理沮抑,此必有使之者。」上乃命益謙分析,命下樞密院,汪伯彥猶用其奏詰責招撫司。李綱與伯彥爭于上前,伯彥 語塞。

張所方に豪傑を招来し、王彦を都統制と為し、岳飛を準備将と為すに、而して李綱已に相を罷めらる。朝廷王圭を以て之に代へ、張所直龍図閣を落とし、嶺南に安置す。貶所に卒す。子宗本、岳飛の奏に以て官に補はる。

原文所方招來豪傑,以王彥為都統制,岳飛為準備將,而李綱已罷相。朝廷以王圭代之,所落直龍圖閣,嶺南安置。卒於貶所。子宗本,以岳飛奏補官。

陳禾

原文陳禾

陳禾、字は秀實、明州鄞県の人なり。元符三年の進士に挙げらる。累遷して辟雍博士に至る。時に方に伝注記問を以て学と為すに、禾始めて義理を崇尚し、浮華を黜抑す。入対して旨に契ひ、監察御史・殿中侍御史に擢でらる。

原文陳禾,字秀實,明州鄞縣人。舉元符三年進士。累遷辟雍博士。時方以傳注記問為學,禾始崇尚義理,黜抑浮華。入對契旨,擢監察御史、殿中侍御史。

蔡京酷使李孝壽を遣はし章綖鑄錢の獄を窮治せしむ、士大夫に連及びて甚だ衆し、禾奏して孝壽を免ぜしむ。京の子壝太常少卿と為り、何執中の婿蔡芝将作監と為る、皆其の罪を疏し、之を罷む。天下久しく平らかにして、武備寬弛し、東南尤甚し。禾戍を増し、城壁を繕ひ、以て不虞を戒むべしと請ふ。或は之を生事と指し、格して下さず。其の後盗賊起こり、人其の先見に服す。左正言に遷り、俄に給事中を除く。

原文蔡京遣酷使李孝壽窮治章綖鑄錢獄,連及士大夫甚眾,禾奏免孝壽。京子壝為太常少卿,何執中婿蔡芝為將作監,皆疏其罪,罷之。天下久平,武備寬弛,東南尤甚。禾請增戍、繕城壁,以戒不虞。或指為生事,格不下。其後盜起,人服其先見。遷左正言,俄除給事中。

時に童貫権益々張り、黄経臣と胥に事を用ひ、御史中丞盧航表裏して奸を為し、搢紳側目す。禾曰く、「此れ国家安危の本なり。吾言責の位に在り、此れに言はざれば、一たび給舍に遷らば、則ち其の職に非ざるなり」と。未だ命を拝せず、首めて抗疏して貫を劾す。復た経臣を劾す、「寵を怙り権を弄び、朝列に誇炫す。毎に云ふ詔令皆其の手より出づと、上将に某人を用ひ、某事を挙げんとすと、已にして詔下り、悉く其の言の如し。夫れ号令を発し令を施すは、国の重事なり、幽を黜し明を陟るは、天子の大権なり、奈何ぞ宦寺をして得て与からしむる。臣の憂ふる所、経臣のみに非ず、此の塗一たび開かば、類進する者衆く、国家の禍、遏ふべからざる有らん、願くは亟に之を遠方に竄せよ」と。

原文時童貫權益張,與黃經臣胥用事,御史中丞盧航表裏為奸,搢紳側目。禾曰:「此國家安危之本也。吾位言責,此而不言,一遷給舍,則非其職矣。」未拜命, 首抗疏劾貫。復劾經臣:「怙寵弄權,誇炫朝列。每云詔令皆出其手,言上將用某人,舉某事,已而詔下,悉如其言。夫發號施令,國之重事,黜幽陟明,天子大 權,奈何使宦寺得與?臣之所憂,不獨經臣,此塗一開,類進者眾,國家之禍,有不可遏,願亟竄之遠方。」

論奏未だ終はらざるに、上衣を拂ひて起つ。禾上衣を引き、請ふ其の説を畢へんことを。衣の裾落つ、上曰く、「正言朕が衣を碎けり」と。禾言ふ、「陛下衣を碎くを惜しまず、臣豈に首を碎きて以て陛下に報ぜんことを惜しまんや。此の曹今日富貴の利を受け、陛下他日危亡の禍を受く」と。言愈々切なり、上色を変じて曰く、「卿能く此くの如くす、朕復た何をか憂へん」と。内侍上に衣を易ふるを請ふ、上之を卻けて曰く、「留めて以て直臣を旌せん」と。翌日、貫等相率ひ前進みて訴へ、国家極めて治まるに、安くんぞ此の不詳の語を得んと謂ふ。盧航禾の狂妄なるを奏し、信州酒を監するに謫す。赦に遇ひ、自便を得て里に還る。

原文論奏未終,上拂衣起。禾引上衣,請畢其說。衣裾落,上曰:「正言碎朕衣矣。」禾言:「陛下不惜碎衣,臣豈惜碎首以報陛下?此曹今日受富貴之利,陛下他 日受危亡之禍。」言愈切,上變色曰:「卿能如此,朕復何憂?」內侍請上易衣,上卻之曰:「留以旌直臣。」翌日,貫等相率前訴,謂國家極治,安得此不詳語。 盧航奏禾狂妄,謫監信州酒。遇赦,得自便還里。

初め、陳瓘嶺外より帰り、鄞に居り、禾と相好み、其の子正匯を遣はして従学せしむ。後正匯京の罪を告げ、執へて闕に詣り、瓘亦就逮す。経臣其の獄を蒞む、檄を禾に取りて證せしむ、禾答へて事之れ有りとし、罪敢へて逃れず。或は其の対を失へりと謂ふ、禾曰く、「禍福死生は命なり、豈に死を以て不義を易ふべけんや。願くは賢者の罪を分かたん」と。遂に瓘の党に坐して官を停む。

原文初,陳瓘歸自嶺外,居於鄞,與禾相好,遣其子正匯從學。後正匯告京罪,執詣闕,瓘亦就逮。經臣蒞其獄,檄禾取證,禾答以事有之,罪不敢逃。或謂其失對,禾曰:「禍福死生,命也,豈可以死易不義耶?願得分賢者罪。」遂坐瓘黨停官。

赦に遇ひ、復た起きて広徳軍を知り、和州を知るに移る。尋ち内艱に遭ひ、服除け、秀州を知る。王黼新に政を得、禾曰く、「安くんぞ黼の門下に出でんや」と。力辞し、汝州に改む。辞益々堅く、曰く、「寧ろ餓死せん」と。黼聞きて之を銜む。禾の兄秉時に寿春府教授と為り、禾兄の官に侍りて居る。適た童貫兵を領ひて府下に道り、謁して入るを得ず、之に饋るも受けず。貫怒り、帰りて之を譖す、上曰く、「此人素より此くの如し、汝容るる能はざるか」と。久しくして舒州を知る、命下りて而して卒す。中大夫を贈られ、文介と諡す。

原文遇赦,復起知廣德軍,移知和州。尋遭內艱,服除,知秀州。王黼新得政,禾曰:「安能出黼門下?」力辭,改汝州。辭益堅,曰:「寧餓死。」黼聞而銜之。 禾兄秉時為壽春府教授,禾侍兄官居。適童貫領兵道府下,謁不得入,饋之不受。貫怒,歸而譖之,上曰:「此人素如此,汝不能容邪?」久之,知舒州,命下而 卒,贈中大夫,諡文介。

禾の性苟も合はざる無く、朝に立ちて挺挺として風操有り。『易伝』九巻、『春秋伝』十二巻、『論語』『孟子解』各十巻有り。

原文禾性不苟合,立朝挺挺有風操。有《易傳》九卷,《春秋傳》十二卷,《論語》、《孟子解》各十卷。

蔣猷

原文蔣猷

蔣猷、字は仲遠、潤州金壇県の人なり。進士に挙げらる。政和四年、御史中丞兼侍読を拝し、直声有り。嘗て士風浮薄なるを論じ、廷臣人の主意を伺ひ、宰執の風旨に承りて向背し、以て特立して回らざる者を愚と為し、共に嗤笑す、此の風長ずべからずと;輔臣殿上に事を奏し、雷同唱和し、略んど可否する所無く、論道献替の礼に非ずと;内侍省台察に隷せず、元豊の官制を紊ると;楊戩節度使を除くに当らずと;趙良嗣禁中に出入すべからずと。上皆嘉納し、至りて其の章を内侍省に掲げ、且つ詔して自今より節鉞を規図すること無からしむ。又た孟昌齢・徐鑄等の奸状を疏す。兵部尚書兼礼制局詳議官に遷る。七年、貢挙を知り、工部・吏部尚書に改む。

原文蔣猷,字仲遠,潤州金壇縣人。舉進士。政和四年,拜御史中丞兼侍讀,有直聲。嘗論士風浮薄,廷臣伺人主意,承宰執風旨向背,以特立不回者為愚,共嗤笑 之,此風不可長;輔臣奏事殿上,雷同唱和,略無所可否,非論道獻替之禮;內侍省不隸台察,紊元豐官制;楊戩不當除節度使;趙良嗣不宜出入禁中。上皆嘉納, 至揭其章內侍省,且詔自今無得規圖節鉞。又疏孟昌齡、徐鑄等奸狀。遷兵部尚書兼禮制局詳議官。七年,知貢舉,改工部、吏部尚書。

徽猷閣直学士を以て婺州を知る。明年、祠を請ひて帰る。宣和末、召されて刑部尚書兼資善堂翊善と為る。靖康初、表を奉りて太上皇帝に淮陰に起居し、且つ特詔して童貫を貶す。猷奏す貫天下に罪を得たり、願くは之を黜遠せよと。太上然りと為し、亟に宣詔を令し、貫をして貶所に赴かしむ。遂に太上を奉りて京に還り、兵部尚書に移り、累官して正議大夫に至る。疾を引き、徽猷閣直学士・嵩山崇福宮提挙を授かる。卒す。特進を贈らる。

原文以徽猷閣直學士知婺州。明年,請祠歸。宣和末,召為刑部尚書兼資善堂翊善。靖康初,奉上表起居太上皇帝于淮陰,且特詔貶童貫。猷奏貫得罪天下,願黜遠 之。太上以為然,亟令宣詔,趣貫赴貶所。遂奉太上還京,移兵部尚書,累官正議大夫。引疾,授徽猷閣直學士、提舉嵩山崇福宮。卒。贈特進。

論じて曰く、夫れ溺を拯ひ焚を救ふの際は、必ず人を任ずるを急務と為す。靖康・建炎の禍変も、亦た焚溺に甚だし。当時に人才乏しきに非ざるなり、然れども国恥卒に雪ぐ能はざるは、豈に之を任ずるの道未だ至らざる所有るに非ずや。夫れ李光の才識高明、至る所声有り;許翰・許景衡の論議剴切;張愨の財を理むるに善く;張所の河北の利害を知るに習ふ:皆一時の雋なり。是の数臣者、其の言を聴き従はしめ、讒邪に抑へられず、以て直に其の志を行はしむれば、其の效待つべきなり。然るに或は斥遠されて死し、或は之を用ふるも其の才を竟へず、世の治乱安危は、人力の為す所に非ざる雖も、君子此に於ては、則ち時君の政を失ふに咎無き能はざるなり。蔣猷五朝に歴仕し、建炎の初に当たり、地を避けて終はる、則ち称すべき無し。陳禾裾を引き言を尽くし、古き諫臣の風有り、其の行事宣和の前に在り、孝宗以後乃ち褒諡を加ふ。

原文論曰:夫拯溺救焚之際,必以任人為急。靖康、建炎之禍變,亦甚於焚溺矣。當時非乏人才也,然而國恥卒不能雪者,豈非任之之道有所未至歟?夫以李光之才 識高明,所至有聲;許翰、許景衡之論議剴切;張愨之善理財;張所之習知河北利害:皆一時之雋也。是數臣者,使其言聽計從,不為讒邪所抑,得以直行其志,其 效宜可待也。然或斥遠以死,或用之不竟其才,世之治亂安危,雖非人力所為,君子于此,則不能無咎于時君之失政焉。蔣猷曆仕五朝,當建炎初,避地而終,則無 足稱也。陳禾引裾盡言,有古諫臣之風,其行事在宣和之前,孝宗以後乃加褒諡云。