宋史

列傳第一百二十二 李光 許翰 許景衡 張愨 張所 陳禾 蔣猷

李光

李光、字は泰發、越州上虞の人。幼少の頃より遊戯にふけらなかった。父の高は称して言う、「我が子は雲間の鶴、その者は我が家門を興すであろうか」と。親の喪に遭い、哀傷して身を毀すこと成人の如く、弔問の礼を致す者あれば、悉くこれを辞した。葬送に及んで、礼儀ことごとく節度に適う。喪服を除き、太学に遊学し、崇寧五年の進士第に登る。開化県令に任じ、政績の名声あり、都堂審察に召し赴くも、時の宰相これを悦ばず、監当の職に処し、改めて官等を進め、平江府常熟県の知県となる。朱勔の父沖が勢いに倚り暴横なるに、光はその家僮を械で拘えて処断した。沖は怒り、部使者に風説して令を呉江に移させたが、光は屈しなかった。京東西学事司管勾文字に改める。

劉安世が南京に居た時、光は師礼をもってこれに謁見した。安世は温公(司馬光)より聞いたところを告げて言う、「学は無妄の中より入るべし」と。光は欣然として領会した。太常博士に除され、司封に遷る。まず士大夫の諂諛・佞巧が風習となるを論じ、甚だしきは妄りに荀卿の「聴従有り、諫諍無し」の説を引き、以て言路を杜塞するに至るとし、また怨嗟の気が結びついて妖沴となるを言上した。王黼これを憎み、部に命じて桂州陽朔県に注擬させた。安世は光が事を論じて貶されたと聞き、書を贈ってその偉さを称えた。李綱もまた水災を論じて国を去り、義興に居たが、水驛で光を待ち、自ら出て呼びて曰く、「これ越州の李司封の船にあらずや」と。数日留め、交わりを定めて別れた。司勲員外郎に除され、符宝郎に遷る。

郭薬師が叛くと、光は徽宗に内禅の意思あるを知り、符宝を納めるに因り、知枢密院蔡攸に謂って曰く、「公家のなすところ、皆な衆心に背く。今日の事、皇太子によらざれば国家ともに危うし」と。攸は愕然として、敢えて異を為さず。欽宗、禅を受け、右司諫に抜擢される。上皇東幸し、奸人が両宮の間を離間するに、光は奉迎の典礼を集議するを請う。また奏す、「東南の財用は朱勔に尽き、西北の財用は李彦に困しめられ、天下根本の財は蔡京・王黼に竭く。名は応奉と為し、実は私室に入り、公家には半年の儲えなく、百姓には旬日の積みなし。旧制に依り、三省・枢密院に兵民財計を通知せしめ、戸部とともに一歳の出入を量り、以て国用を制し、吏を選び考核せしめ、利源を一に帰せしむるを乞う」と。

金人、太原を囲み、援兵功無し。光言う、「三鎮の地は、祖宗百戦して得たるもの、一朝に挙げて敵に与うれば、何を以て国と為さん。大臣に詔して別に攻守の策を議せしめ、なお間道より使者を遣わし河東・北両路に檄し、強壮を尽く起して策応せしめ、首尾相い掩撃するを望む」と。侍御史に遷る。

時に言事者はなお王安石の学を主とし、詔して廟堂に掲示す。光また言う、「祖宗の規摹は宏遠なり。安石は法度を尽く廃せんと欲し、則ち人主は法を制すべくして法に制せらるべからずと謂い、元老を尽く逐わんと欲し、則ち人主は俗を化すべくして俗に化せらるべからずと謂う。蔡京兄弟はその説を祖述し、五十年の間、毒四海に流る。今また中外に風示し、民の聴を鼓惑す、豈に朝廷の福ならんや」と。

蔡攸、扈衛上皇行宮に因縁して都に入らんと欲す。光奏す、「攸もし果たして入らば、則ち百姓必ず生変を致し、万一属車の塵を驚かし犯すことあらば、臣は預め言わざる罪に坐す。早く黜責せんことを望む」と。時に既に擷景園を修繕して寧徳宮と為すも、太上皇后は禁中に入居せんと欲す。光奏す、「禁中は天子の宮なり。仮に陛下温凊の便を欲し、奉迎して内に入れんとすとも、亦た躬から上皇に稟し、下して有司に典礼を討論せしむべし」と。乃ち光の章疏を下し、両宮の臣に奏知せしむ。ここにおいて太上皇后は寧徳宮に居す。

金人京城に逼る。士大夫職を委ねて去る者五十二人、罪同じくして罰異なり、士論紛然たり。光は理寺に付して公に行わしむるを請う。太原囲急なり。奏す、「折彦質に就いて委ね、晋・絳・慈・隰・沢・潞・威勝・汾の八州民兵及び本路諸県の弓手を尽く起し、守令をして各自部轄せしむるを乞う。その土豪・士人首領たらんと願う者には、初官を仮し、器甲を応副し、協力して赴援せしむ。女真は親王を劫質し、三鎮を以て言い訳とし、勢い必ず深入す。京城守禦の備えを大いに修め、以て敵人の謀を伐つを請う」と。

また言う、「朱勔は応奉に托けて州県を脅制し、田園第宅は王室に擬す。清強の官を択び司を置き、勔父子及び奉承の監司・守令、胡直孺・盧宗原・陸寘・王促閔・趙霖・宋晦等を追摂し、根拠を勘案し帳簿を検閲し、資産を計って没収し、その強奪した編戸の産業はこれを還すを乞う」と。

李会・李擢また諫官として召される。光奏す、「蔡京が復用された時、会・擢は迭って台官と為り、一言も発するを禁じ、金人城を囲むに、白時中・李邦彦とともに専ら敵を避け地を割くの謀を主とす。時中・邦彦はこれに坐して落職すれども、会・擢は反って召用され、復た諫諍の列に預かる。成命を止めんことを乞う」と。報いず。光は外任を乞うも、また報いず。

彗星寅・艮の間に出づ。耿南仲の輩は皆な外夷に応ずと謂い、憂うるに足らずとす。光奏す、「孔子『春秋』を作るに、祥瑞を書かざるは、人君をして恐懼修省せしめんと欲するが故なり、未だ災異を外夷に帰するを聞かず」と。疏奏し、汀州酒税を監す。

高宗即位し、秘書少監に抜擢され、江州知州に除される。未だ幾ばくもせず、侍御史に抜擢されるも、皆な道途梗塞のため赴かず。建炎三年、車駕臨安より建康に移蹕す。宣州知州に除す。時に範瓊軍を率いて過らんとす。光先に入りて事を視る。瓊至れば則ち門を開き延いて労い、三日留めて去り、敢えて嘩する者無し。光は宣州が行都に密邇するを以て、乃ち城池を繕い、兵糧を聚め、六邑の民を籍し、保伍相い比し、これを義社と謂う。その健武者を択び、土豪を以て統率し、保甲万余を得、号して「精揀軍」とす。また険要二十三所に柵を設け謹んでこれを戍り、城を厘して十の地分と為し、内外を分巡し、昼は便に任せ、夜は城を守り、警あれば則ち戦う。苗租歳に邑に輸するものは、悉く郡に輸せしむ。初めは不便を言いしも、守城の日に及び、軍を贍い民を養うこと、遂にこれに頼りて済ます。事聞こえ、管内安撫を授け、便宜従事を許し、直龍図閣に進む。

杜充建康を以て降り、金人馬家渡を奪う。御営統制王曁燮・王曁民は素より相能わず、ここに至り、潰兵を擁して城外に砦し闘いを索む。光親しく営に至り、先ず国家後私讎の義を諭す。皆な感悟し解き去る。時に奔将・散卒至る者、光は悉く厚く資を給し遺す。水軍繁昌に叛し、宣の境に逼る有り。即ち兵を遣わし援撃し、賊の不意に出で、遂に宵遁す。右文殿修撰に進む。光奏す、「金人江・浙に深入すと雖も、然れども天時地利に違う。臣已に劉光世に移文し大兵を領して州に赴き、力を併せて攻討せしむ。速やかに宣撫使周望に委ね、日を約して水陸並びに進むを乞う」と。

賊将の邵青は真州より舟数百艘を擁し、当塗・蕪湖の両邑の間を剽掠す。光、これを招諭し、米二千斛を遺す。青喜び、使者に謂ひて曰く、「我は官軍なり。過ぐる所皆盗賊として遇せらる。独り李公のみ我を疑はず。」ここに於て秋毫も犯さず。他日、舟繁昌を過ぐ。或人これを紿して曰く、「宣の境なり。」乃ち北岸を掠めて去る。

劇盗の戚方は寧国県を破り、城下に抵り、兵を分けて四撃す。光、勇敢を募りてこれを劫かす。賊驚擾し、自ら相屠蹂す。朝廷、統制官の巨師古・劉晏を遣はし、兼程して来援せしむ。賊急に朝京門を攻め、竹木を纜として浮梁と為し以て済る。須臾にして、軍城に傅き、炮具を列ね、石を立てて対楼と為す。光、竹を編みて簾の若くし、これを掲げしむ。炮至れば即ち反墜し、傷つくる能はず。桱木を取って撞竿と為し、女牆に倚らしめて以て対楼を禦ぐ。賊却く。劉晏、赤心隊を率ひて直ちに其の砦を搗く。賊陽に退く。晏これを追ふ。伏発して害に遇ふ。師古、中軍を以て大いに賊を破る。賊遁去す。初め、戚方宣を囲むとき、其の副と並馬して城を巡り、攻具を指画す。光、書を矢に傅へて其の副の馬前に射る。言ふ、「戚方は窮寇なり。天誅必ず加はらん。汝は将家の子なり。何ぞ賊に附するに至らんや。」二人相疑ひ、攻め稍く緩む。始めて備へを為すことを得て、而して援師至る。嘗て匕首を枕匣の中に置き、家人と約して曰く、「城必ずしも保つべからず。若し人をして匕首を取らしむれば、我必ず死す。汝輩宜しく自殺すべし。賊の手に落つること無かれ。」徽猷閣待制・知臨安府を除す。

紹興元年正月、知洪州を除す。固く辞し、臨安府洞霄宮を提挙す。知婺州を除す。甫く郡に至り、吏部侍郎に擢でらる。光、疏を奏して朋党の害を極論す。「議論の臣、各懐顧避し、肯て危を持し顛を扶くるを以て己が任と為す者莫し。駐蹕会稽、首尾三載。去秋より今に至るまで、敵人の復た南渡の意無きは、淮甸咫尺にして、了て經營せず、長江千里にして、限制を為さず、惴惴焉として日ごとに桴に乗りて海に浮かばんの計を為す。晉の元帝、区区草創するも、猶ほ宗社を立て、宮闕を修め、江・浙を保つ。劉琨・祖逖、逆胡と並・冀・兗・・司・雍の諸州に於て拒戦し、未だ嘗て陷沒せざるなり。石季龍の重兵已に歴陽に至るも、王導をして中外諸軍を都督ととくせしめて以てこれを禦げしむ。未だ専ら狄を避くるを主とすること今日の如きを聞かざるなり。陛下駐蹕会稽、江・浙を根本の地と為す。進んで以て戦ひ、退きて以て守るに足らしむるは、建康に如くは莫し。建康より姑熟に至る一百八十里、其の隘くして守るべきもの六有り。曰く江寧鎮、曰く鹈岡砂夾、曰く採石、曰く大信、其の上には則ち蕪湖・繁昌有り。皆淮南に対境す。其の餘は皆蘆簖の場、或は鹈奇岸にして水勢湍悍、舟楫を施し難し。諸隘に預め兵を屯し粟を積み、将士をして各管地分せしめ、旁近の郷兵を調発し、協力して守禦せしむるに若かず。乞ふらくは明詔を大臣に下し、参酌して施行せしめよ。」

時に詔有り、金人の深入するに、諸郡の守臣相度し、或は守り或は避け、自便を得しむと令す。光言ふ、「守臣は人民・社稷の重きを任ず。固く存亡を以てこれに当たるべし。若し預め遷避の門を開かば、是れこれを遁るるに誘ふなり。願はくは前詔を追ひて寢めよ。」上、蹕を臨安に移さんと欲す。旨を被りて臨安府に見屯する諸軍を節制し、戸部侍郎を兼ね、営繕事を督む。光、經營撙節し、擾さずして辦ず。二浙の積負及び九邑の科配を蠲減するを奏し、以て徳を施すは近きより始むるの意を示す。戚方、管軍として節制に属し、甚だ懼れ、庭下に拝す。光、手を握りてこれを起し、曰く、「公昔は盗と為り、某は守と為り、分ちて相直すべし。今俱に臣子と為る。当に共に忠義を勉め力むべし。以前事を以て疑ふこと勿れ。」方謝し且つ泣す。侍読を兼ぬ。因りて奏す、「金人内寇し、百姓失業して盗賊と為るは、本より獲已むを得ざるなり。尚ほ誠を以て感ずべし。李成の北走してより、群盗心を離す。儻ひに斯の時に因りて一二の酋豪を顕用し、以て其の党を風厲せば、必ず更に相效慕ひ、以て次第に就降せん。」吏部尚書に擢でらる。

大将の韓世清は本より苗傅の余党、久しく宣城に屯し、擅に倉庫を据へ、調発行はれず。光、先づ事を除くことを請ふ。乃ち光に淮西招撫使を授く。光、道を仮りて郡に至る。世清入謁す。縛して闕下に送り伏誅せしむ。初め、光、上の面前に於て成算を稟く。宰相、預り聞かざるを以て、之を怒る。未だ至らざるに、道にて端明殿学士・江東安撫大使・知建康府・寿春滁濠廬和無為宣撫使を除す。時に太平州の卒陸德、守臣を囚へ城に据へて叛く。光、方略を多う設け、尽く其の党を擒る。

秦檜既に罷まり、呂頤浩・朱勝非並びに相と為る。光の議論素より之と合はず。言者、光を指して檜党と為す。職を落として祠を奉ず。尋ひて宝文閣待制・知湖州を復し、顕謨閣直学士を除し、守を平江に移し、礼部尚書を除す。光言ふ、「古より創業中興するは、必ず因る所有りて起る。漢高は関中に因り、光武は河内に因る。駐蹕東南、両浙は根本の因る所の地に非ずや。冬より春に及び、雨雪已まず、百姓失業す。台諫を選びて実を察し以て聞せしむることを乞ふ。兼ねて比歳福建・湖南に盗作し、範汝為・楊麼相挺して起る。朝廷大兵を発して誅討し、殺戮過当なり。今諸路旱荒し、流丐路に満ち、盗賊出入す。宜しく良吏を選びて招懷撫納せしめ、諸路の監司を責めて貪贓を按じ、流殍を恤はしむべし。」

議臣、四川の交子法を江・浙に推行せんと欲す。光言ふ、「銭有れば則ち交子行はるべし。今已に謂ふ、若干の銭を樁辦し、若干の交子を行ふと。此の議者は朝廷をして陛下を欺かしめ、陛下をして異時に免れずして百姓を欺かしめんと欲するなり。若し已に見銭を樁辦せば、則ち目今行ふ所の銭関子、已に通快なり。何ぞ紛紛たるに至らん。其の工部の鑄到する交子務の銅印、臣未だ敢て給降せず。」端明殿学士を除し、台州を守る。俄かに温州に改む。

劉光世・張俊連ねて捷を以て聞ゆ。光言ふ、「金人の布置を観るに、必ず主謀有り。今已に東南の形勢を据ふ。敵人の万里遠く来るは、速戦に利あり。宜しく諸将を戒めて持重を以て之を老いしむべし。数箇月を過ぎず、彼食尽きば、則ち勝算我に在り。」江西安撫・知洪州兼制置大使を除し、吏部尚書に擢でらる。月を踰へて、参知政事を除す。

時に秦檜が初めて和議を定め、榜文を掲げようとして、李光の名を籍に加えて人心を鎮圧せんとした。上意は李光を用いようとしなかったが、秦檜は言う、「李光は人望あり、もし共に榜文に押署すれば、浮議は自ずから止むでしょう」と。遂にこれを用いた。同郡の楊煒が李光に上書し、時相に附いて尊官を取り、狡猾な虜の奸計に陥り、平時の大節を堕すことを責めた。李光の本意は、ただ和議に因って自治の計を為すべきであると謂うにあった。既にして秦檜が淮南の守備を撤き、諸将の兵権を奪わんと議すると、李光は極言して戎狄は狼子野心、和は恃むべからず、備えは撤くべからずと論じた。秦檜はこれを憎んだ。秦檜が親党の鄭億年を資政殿学士にしようとした時、李光は御前の榻上で面と向かってこれを挫き、また秦檜と帝の前で語を難じて、因って曰く、「秦檜の意を観るに、是れ陛下の耳目を壅蔽し、国権を盗み弄び、奸を懐いて国を誤らんとするものなり、察せざるべからず」と。秦檜は大いに怒り、翌日、李光は去らんことを乞うた。高宗曰く、「卿は昨、面と向かって秦檜を叱責し、挙措古人の如し。朕退きて歎息し、方に卿に腹心を寄せんとす、何ぞ乃ち去らんとするか」と。李光曰く、「臣が宰相と争論するは、留まるべからざるなり」と。章を九度上奏し、乃ち資政殿学士・知紹興府を除し、改めて提挙臨安府洞霄宮と為した。

十一年の冬、中丞万俟禼が李光が陰に怨望を懐くを論じ、建寧軍節度副使に責授し、藤州に安置した。四年を越えて、瓊州に移す。瓊州に居すること八年、次子の孟堅が陸升之の誣告に坐し、私に国史を撰すとされ、獄が成る。呂願中がまた李光と胡銓が詩賦を倡和し、朝政を譏訕したと告げ、昌化軍に移す。文を論じ史を考へ、怡然として自ら適う。年八十を逾え、筆力精健なり。また三年を経て、始めて郊祀の恩赦により、左朝奉大夫に復し、便に居住するを任す。江州に至って卒す。孝宗即位し、資政殿学士に復し、諡を賜うて莊簡と曰う。

孟傳、字は文授、李光の幼子なり。李光が南遷した日、才六歳。李光の遺表の恩により、累官して太府丞に至る。韓侂冑が会いたがったが、孟傳曰く、「行年六十、去るの計已に決す、敢えて聞かざるなり」と。これにより出でて江州を知る。朝請大夫・直寶謨閣を以て致仕す。卒す、年八十。『磐溪詩』二十巻、『文稿』三十巻、『宏辭類稿』十巻、『左氏説』十巻、『讀史』十巻、『雜志』十巻有り。博学多聞、身を厳しく持し、時に其の家をよく世継ぐを推す。

許翰

許翰、字は崧老、拱州襄邑の人。元祐三年の進士第に中る。宣和七年、召されて給事中と為る。時に宰相に書を致し、百姓困弊し、盗賊と為り起こり、天下に危亡の憂い有りと謂う。雲中の師を罷め、辺を修め境を保ち、民と休息せんことを願う。高麗が入貢するに当たり、民を調発して運河を開かせ、民間騒然たり。中書舎人孫傅が高麗は国に功無く、大役を興すべからずと論じ、孫傅は坐して罷免される。許翰は孫傅が黜けられるべきでないと謂い、時相怒り、職を落とし、提挙江州太平観と為す。

靖康初め、復た給事中として召される。時に金人が京師を攻めて退いたばかり、許翰は闕に造り、即日に賜対し、翰林学士を除し、尋いで御史中丞に改む。上疏して辺事を言い、因って決勝の策を陳ぶ。陳邦昌が太宰と為るに、許翰上疏して力を争う。種師道が罷められ中太一宮使と為るに、許翰言う、「師道は名将、沈毅にして謀有り、山西の士卒、人々信服す、兵柄を解かしむべからず」と。欽宗其の老いて用い難しと謂うと、許翰曰く、「秦始皇は王翦を老いとし李信を用い、兵は楚に辱しめらる。漢宣帝は趙充国を老いとすれど、卒いに能く金城の功を成す。呂望以来、老将を用いて功を収むる者、一二数うるも難し。古を以て今を揆うれば、師道は老いと雖も、用いるべし」と。且つ謂う、「金人の此行は、存亡の係る所、一大創を与え、利を失わせ去らしめば、則ち中原は保たれ、四夷は服すべし。然らずんば、将来再挙すれば、必ず救い難き憂い有らん。宜しく師道を起して邀撃せしむべし」と。上用いる能わず。中大夫・同知枢密院に擢でられ、論議益々合わず、病を以て去り、延康殿学士・知亳州を除す。言者に坐して職を落とし、提挙南京鴻慶宮と為す。

高宗即位し、李綱の推薦を用い、召して延康殿学士に復す。既に至り、尚書右丞兼権門下侍郎を拝す。時に建炎の大変の後、河北山東の大盗李成・孔彦舟等、衆を聚めて各数十万、皆勤王を名とし、張所を帥と得んことを願う。張所は御史たり、嘗て黄潜善が奸邪にして用いるべからずと論じ、これにより罪を得たり。李綱が相と為り、乃ち張所を河北等路招撫使と為し、李成等の衆を率いて河を渡り、諸路を号召し、興復の計を為さしむ。黄潜善力くこれを沮む。宗沢が車駕の南幸すべからず、宜しく京師に還るべしと論じ、且つ黄潜善等を詆る。黄潜善等は宗沢を罷めんことを請う、許翰極論して以て不可と為す。李綱罷免され、許翰言う、「李綱は忠義英発、これを捨てては中興を佐くる無し。今李綱を罷むれば、臣留まるも益無し」と。力を求めて去らんとし、高宗未だ許さず。時に黄潜善が陳東を誅せんと奏す、許翰親しい者に謂う、「吾と陳東は、皆李綱を争う者なり。陳東が東市に戮せらるるに、吾が廟堂に在るは可ならんや」と。去らんことを求めること益々力く、章八度上り、資政殿大学士を以て提挙洞霄宮と為す。復た言者により職を落とす。

紹興元年、召して端明殿学士・提挙万寿観に復すも、辞して至らず。二月、資政殿学士に復す。三年五月、卒す。光禄大夫を贈る。

許翰は経術に通じ、正直にして撓まず、三朝に歴事し、政府に致位すれども、徒に王黼・蔡攸・黄潜善輩の薰蕕異味により、横に口語に遭い、志遂に展ばず。李綱は力を以て引きと雖も、踵を旋らせずして去り、許翰も亦斥逐されて死す。著する書に『論語解』・『春秋伝』有り。

許景衡

許景衡、字は少伊、温州瑞安の人。元祐九年の進士第に登る。宣和六年、召されて監察御史と為り、殿中侍御史に遷る。是の時、王黼・蔡攸が事を用う。許景衡言う、「尚書省は比来長官を闕き、同知枢密院も亦久しく闕く。三公は三省を通治すと雖も、然れども文昌は政事の本、枢密は兵を総べるの地、各攸属有り、安んぞ久しく其の位を虚くすべけんや。願わくは公議を博采し、忠賢を遴選して、以て政府の闕を補わしめよ」と。遂に大いに王黼の意に忤う。朝廷童貫を用いて河東・北宣撫使と為し、将に北伐せんとす。許景衡其の貪繆にして用いるべからざることを数十事論ず、報いず。

睦州の賊寇平らぎ、江・浙の郡県残毀すれども、茶塩の比較の法は旧の如し。許景衡奏す、「茶塩の法は、食するの衆寡を以て歳額の高下と為すべし。今収復の後、戸版半ば耗し、民力蕭然たり。而るに茶塩の比較は昔に減ぜず。民困無からんことを欲するも得べけんや」と。奏上り、詔して両浙・江東路に権りて茶塩の比較を免じ、賊平の日仍って旧に依らしむ。

朝廷が燕雲の師を興すや、調度は継がず、誅求は益々急なり。景衡奏す、「財力の匱乏は節用に在り、民力の困弊は恤民に在り。今不急の務、若し営繕諸役、花石綱運、其の名一ならず。吏員猥多、軍額冗濫。又無名の功賞、非常の賜予、皆夤縁僥倖し、幹請厭きること無し、宜しく祖宗の制を以て節し之を省去すべし」と。且つ和買・和糴・塩法の害を極論す、報いず。会に洋州知州呉岩夫が私書を以て執政の子に抵り、景衡の賢を道う。従子の婿符宝郎周離亨を因りて以て達す、離亨誤って其の書を王黼に致すを繆り、黼是を用いて景衡を中り、之を逐う。

欽宗即位し、左正言を以て召す、旋って太常少卿兼太子諭徳に改め、中書舎人に遷す。侍御史李光・正言程瑀が鯁亮にして執政に忤い斥けらる、景衡之が為に弁白し、職を落とし祠を予うに坐す。

高宗即位し、給事中を以て召す、既に至り、御史中丞を除く。宗沢が東京留守たり、言者黄潜善等に附き、多く其の短を攻め、之を逐い去らんと欲す。景衡奏して曰く、「臣浙より淮を渡り、以て行在に至る。沢の尹と為るや、威名政事、卓然として人に過ぐ、其の人を識らざるも、窃に歎慕を用う。臣以為う、去冬京城内に、赤心国に為りて沢等数輩の如き有らば、其の禍変未だ是の如き酷に至らざらんと。今若し其の小短を較へ、忠を尽くし国に徇うの節を顧みざれば、則ち已に甚だしきを恕さざるなり。且つ開封は宗廟社稷の在る所、苟くも沢を罷めんと欲し、別に留守を遣わさば、搢紳中威名政事沢に加わる者有るかを識らざるか」と。疏入り、上大いに悟り、封じて以て沢に示す、沢乃ち安んず。

杭州の叛卒陳通乱を作す、権浙西提刑趙叔近之を招降し、官を以て授くるを請う。景衡曰く、「官吏は罪無くして誅せられ、叛卒は罪有りて賞を蒙る、賞罰倒置、此れより甚だしきは莫し」と。卒う之を奏して罷む。尚書右丞を除く。大政事有れば、必ず間を請ひて極論す。潜善・伯彦は景衡が己に異なるを以て、共に排沮す。或いは言う、正・二月の交は、乃ち太一の正遷の日なり、宜しく禁中に壇を設け望拝すべしと。高宗以て景衡に問う、曰く、「徳を修め民を愛すれば、天自ら福を降す、何ぞ太一を迎拝するの有らんや」と。

初め、李綱都を建つるを議し、関中を以て上と為し、南陽之に次ぎ、建康を下と為す。綱既に相たり、遂に南陽の議を主とす。景衡中丞たり、奏す、「南陽は険阻無く、且つ密邇に盗賊し、漕運継がず、建康の天険に拠るべきに若かず、請う計を定めて巡幸せん」と。潜善等綱を傾けて去らしめ、南陽の議遂に格る。是に至り、諜報す金人河陽・汜水を攻むと、景衡又た南幸して建康に幸せんことを奏請す。已にして詔有り京に還る、景衡を罷めて資政殿大学士・提挙杭州洞霄宮と為す。瓜洲に至り、暍疾を得、京口に及び卒す、年五十七、諡して忠簡と曰う。

景衡は程頤の学を得、志慮忠純にして、議論時に与に俯仰せず。建炎初、李綱南陽に幸せんことを議し、宗沢は京に還るを請う、景衡乃ち建康に幸せんことを請う。黄潜善等素より其の己に異なるを悪み、車駕揚州に駐まるに及び、伝聞に怵て、已むを得ず還京の詔を下し、遂に渡江の議を借りて之を罪し、斥逐して死せしむ。既に没し、高宗之を思いて曰く、「朕即位以来、執政忠直にして、事に遇い敢えて言うは、惟だ許景衡のみ」と。詔して景衡の家に温州官舎一区を賜う。

張愨

張愨、字は誠伯、河間楽寿の人。元祐六年の進士第に登る。累遷して龍図閣学士・計度都転運使。高宗兵馬大元帥と為り、諸道の兵を募りて王に勤めしむ、愨飛輓道に踵き、建議して即ち元帥府の印を以て塩鈔を給し、以て商旅に便ならしむ。旬を閲ず、緡銭五十万を得て以て軍を佐く。高宗之を器重し、命じて便宜を以て権大名尹兼北京留守・馬歩軍都総管と為す。愨初め二帝北行を聞き、率いて副総管顔岐等三たび箋を上りて進を勧む。最後に、愨上書し、極論す中原一日も君無きべからざるを、高宗之が為に感悟す。

建炎と改元し、戸部尚書と為り、同知枢密院事・措置戸部財用兼御営副使を除く。建言す、「三河の民、敵を怨みて骨髓に深入り、其の類を殲殄せざるを恨み、以て国家の仇を報ぜんとす。請う唐人沢潞歩兵・雄辺子弟の遺意に依り、民を募りて什伍を以て聯ね、而して兵を農に寓し、力を合せて敵に抗せしめ、之を巡社と謂わん」と。法と為すこと精詳にして、此に前に民兵を論ずる者及ばず。詔して集めて書と為し之を行わしむ。尚書左丞に遷り、官は中書侍郎に至る。

愨は理財に善く、銭穀の利害を論ずれば、猶お諸掌を指すが如し。朝に在りて諤諤として大臣の節有り、然れども議論の可否は、辞色に形せず、未だ嘗て同列の歓を失わず。卒す、諡して忠穆と曰う。上毎に之を念い、愨の国に謀りて忠を尽くし、事に遇い敢えて諫む、古の遺直なりと謂う。

張所

張所、青州の人。進士第に登り、歴官して監察御史と為る。高宗即位し、所を遣わして陵寢を按視せしむ、還り、上疏して言う、「河東・河北は、天下の根本なり。昨者奸臣の謀を用うるを誤り、始め三鎮を割き、継いで両河を割く、其の民怨みて骨髓に入り、今に至るも扼腕せざるは無し。若し因りて之を用いば、則ち以て守るに藉すべく、不しかば両河の兵民、系望する所無く、陛下の事去らん」と。且つ京師に還るに五利有るを論じ、国の安危は、兵の強弱・将相の賢不肖に在りて、都の遷不遷に在らずと謂う。又た条上して両河の利害を上す。上其の事を以て所に付せんと欲す、会に所の言う黄潜善奸邪用うべからず、新政を害せんことを恐る。乃ち所の御史を罷め、兵部郎中に改む。尋うて所を責めて鳳州団練副使と為し、江州に安置す。

後李綱相に入り、所を薦めて両河を経略せしめんと欲す、其の嘗て潜善を言える故を以て、之を難しむ。一日、潜善と従容に言いて曰く、「今河北未だ人無し、独り一張所の用うべく、又以て狂言を以て罪に抵る。已むを得ず抆拭して之を用い、招撫と為し、死を冒して功を立て以て過を贖わしむるは、亦た善からずや」と。潜善諾す、乃ち所に直龍図閣を借り、河北招撫使を充す。内府の銭百万緡を賜い、空名の告千余道を給す、京西の卒三千を以て衛と為し、将佐官属は、自ら辟置するを許し、一切便宜を以て事に従わしむ。所入見し、条上して利害を上す。上五品の服を賜い遣わし、直秘閣王圭を命じて宣撫司参謀官と為し之を佐けしむ。

河北轉運副使張益謙は黄潛善の意に附し、司を北京に置くは非なりと奏上し、且つ招撫司を置いてより河北の盗賊愈々熾盛なり、之を罷めて専ら其の事を帥司に付すべしと云へり。李綱言ふ、「張所今京師に留まり将佐を招集し、未だ行くに及ばず、益謙何を以て其の擾るを知るや。朝廷河北の民帰する所無く、聚まつて盗賊と為るを以て、故に司を置きて招撫し、其の力を因りて之を用ふるなり、豈に司を置くに由りて乃ち盗賊有らんや。今京東・西群盗公に行はれ、郡県を攻掠す、亦た豈に招撫司の過ちならんや。時に方に艱危なるに、朝廷経理せんと欲する所有り、益謙小臣にして、乃ち非理を以て沮抑す、此れ必ず之を為さしむる者有らん」と。上乃ち益謙に分析を命じ、命を下して枢密院に付す、汪伯彦猶ほ其の奏を用ひて招撫司を詰責す。李綱伯彦と上前に争ふ、伯彦語塞ぐ。

張所方に豪傑を招来し、王彦を都統制と為し、岳飛を準備将と為すに、而して李綱已に相を罷めらる。朝廷王圭を以て之に代へ、張所直龍図閣を落とし、嶺南に安置す。貶所に卒す。子宗本、岳飛の奏に以て官に補はる。

陳禾

陳禾、字は秀實、明州鄞県の人なり。元符三年の進士に挙げらる。累遷して辟雍博士に至る。時に方に伝注記問を以て学と為すに、禾始めて義理を崇尚し、浮華を黜抑す。入対して旨に契ひ、監察御史・殿中侍御史に擢でらる。

蔡京酷使李孝壽を遣はし章綖鑄錢の獄を窮治せしむ、士大夫に連及びて甚だ衆し、禾奏して孝壽を免ぜしむ。京の子壝太常少卿と為り、何執中の婿蔡芝将作監と為る、皆其の罪を疏し、之を罷む。天下久しく平らかにして、武備寬弛し、東南尤甚し。禾戍を増し、城壁を繕ひ、以て不虞を戒むべしと請ふ。或は之を生事と指し、格して下さず。其の後盗賊起こり、人其の先見に服す。左正言に遷り、俄に給事中を除く。

時に童貫権益々張り、黄経臣と胥に事を用ひ、御史中丞盧航表裏して奸を為し、搢紳側目す。禾曰く、「此れ国家安危の本なり。吾言責の位に在り、此れに言はざれば、一たび給舍に遷らば、則ち其の職に非ざるなり」と。未だ命を拝せず、首めて抗疏して貫を劾す。復た経臣を劾す、「寵を怙り権を弄び、朝列に誇炫す。毎に云ふ詔令皆其の手より出づと、上将に某人を用ひ、某事を挙げんとすと、已にして詔下り、悉く其の言の如し。夫れ号令を発し令を施すは、国の重事なり、幽を黜し明を陟るは、天子の大権なり、奈何ぞ宦寺をして得て与からしむる。臣の憂ふる所、経臣のみに非ず、此の塗一たび開かば、類進する者衆く、国家の禍、遏ふべからざる有らん、願くは亟に之を遠方に竄せよ」と。

論奏未だ終はらざるに、上衣を拂ひて起つ。禾上衣を引き、請ふ其の説を畢へんことを。衣の裾落つ、上曰く、「正言朕が衣を碎けり」と。禾言ふ、「陛下衣を碎くを惜しまず、臣豈に首を碎きて以て陛下に報ぜんことを惜しまんや。此の曹今日富貴の利を受け、陛下他日危亡の禍を受く」と。言愈々切なり、上色を変じて曰く、「卿能く此くの如くす、朕復た何をか憂へん」と。内侍上に衣を易ふるを請ふ、上之を卻けて曰く、「留めて以て直臣を旌せん」と。翌日、貫等相率ひ前進みて訴へ、国家極めて治まるに、安くんぞ此の不詳の語を得んと謂ふ。盧航禾の狂妄なるを奏し、信州酒を監するに謫す。赦に遇ひ、自便を得て里に還る。

初め、陳瓘嶺外より帰り、鄞に居り、禾と相好み、其の子正匯を遣はして従学せしむ。後正匯京の罪を告げ、執へて闕に詣り、瓘亦就逮す。経臣其の獄を蒞む、檄を禾に取りて證せしむ、禾答へて事之れ有りとし、罪敢へて逃れず。或は其の対を失へりと謂ふ、禾曰く、「禍福死生は命なり、豈に死を以て不義を易ふべけんや。願くは賢者の罪を分かたん」と。遂に瓘の党に坐して官を停む。

赦に遇ひ、復た起きて広徳軍を知り、和州を知るに移る。尋ち内艱に遭ひ、服除け、秀州を知る。王黼新に政を得、禾曰く、「安くんぞ黼の門下に出でんや」と。力辞し、汝州に改む。辞益々堅く、曰く、「寧ろ餓死せん」と。黼聞きて之を銜む。禾の兄秉時に寿春府教授と為り、禾兄の官に侍りて居る。適た童貫兵を領ひて府下に道り、謁して入るを得ず、之に饋るも受けず。貫怒り、帰りて之を譖す、上曰く、「此人素より此くの如し、汝容るる能はざるか」と。久しくして舒州を知る、命下りて而して卒す。中大夫を贈られ、文介と諡す。

禾の性苟も合はざる無く、朝に立ちて挺挺として風操有り。『易伝』九巻、『春秋伝』十二巻、『論語』『孟子解』各十巻有り。

蔣猷

蔣猷、字は仲遠、潤州金壇県の人なり。進士に挙げらる。政和四年、御史中丞兼侍読を拝し、直声有り。嘗て士風浮薄なるを論じ、廷臣人の主意を伺ひ、宰執の風旨に承りて向背し、以て特立して回らざる者を愚と為し、共に嗤笑す、此の風長ずべからずと;輔臣殿上に事を奏し、雷同唱和し、略んど可否する所無く、論道献替の礼に非ずと;内侍省台察に隷せず、元豊の官制を紊ると;楊戩節度使を除くに当らずと;趙良嗣禁中に出入すべからずと。上皆嘉納し、至りて其の章を内侍省に掲げ、且つ詔して自今より節鉞を規図すること無からしむ。又た孟昌齢・徐鑄等の奸状を疏す。兵部尚書兼礼制局詳議官に遷る。七年、貢挙を知り、工部・吏部尚書に改む。

徽猷閣直学士を以て婺州を知る。明年、祠を請ひて帰る。宣和末、召されて刑部尚書兼資善堂翊善と為る。靖康初、表を奉りて太上皇帝に淮陰に起居し、且つ特詔して童貫を貶す。猷奏す貫天下に罪を得たり、願くは之を黜遠せよと。太上然りと為し、亟に宣詔を令し、貫をして貶所に赴かしむ。遂に太上を奉りて京に還り、兵部尚書に移り、累官して正議大夫に至る。疾を引き、徽猷閣直学士・嵩山崇福宮提挙を授かる。卒す。特進を贈らる。

論じて曰く、夫れ溺を拯ひ焚を救ふの際は、必ず人を任ずるを急務と為す。靖康・建炎の禍変も、亦た焚溺に甚だし。当時に人才乏しきに非ざるなり、然れども国恥卒に雪ぐ能はざるは、豈に之を任ずるの道未だ至らざる所有るに非ずや。夫れ李光の才識高明、至る所声有り;許翰・許景衡の論議剴切;張愨の財を理むるに善く;張所の河北の利害を知るに習ふ:皆一時の雋なり。是の数臣者、其の言を聴き従はしめ、讒邪に抑へられず、以て直に其の志を行はしむれば、其の效待つべきなり。然るに或は斥遠されて死し、或は之を用ふるも其の才を竟へず、世の治乱安危は、人力の為す所に非ざる雖も、君子此に於ては、則ち時君の政を失ふに咎無き能はざるなり。蔣猷五朝に歴仕し、建炎の初に当たり、地を避けて終はる、則ち称すべき無し。陳禾裾を引き言を尽くし、古き諫臣の風有り、其の行事宣和の前に在り、孝宗以後乃ち褒諡を加ふ。