宋史

列傳第一百二十一 朱勝非 呂頤浩 范宗尹 范致虚 呂好問

列傳第一百二十一 朱勝非 呂頤浩 范宗尹 范致虚 呂好問

朱勝非

原文朱勝非

朱勝非、字は藏一、蔡州の人である。崇寧二年、上舎に登第した。靖康元年、東道副総管となり、応天府を権知した。金人が城を攻めると、勝非は逃げ去った。ちょうど韓世忠の部将楊進が敵を破ったので、勝非は再び戻って政務を視た。一年余りして、済州に赴いて康王に謁し、南京は藝祖が王業を興した地であるから、そこに行幸して大計を図るよう請うた。王は南京で即位した。

原文朱勝非,字藏一,蔡州人。崇寧二年,上舍登第。靖康元年,為東道副總管,權應天府,金人攻城,勝非逃去。會韓世忠部將楊進破敵,勝非復還視事。逾年,詣濟州謂康王,言南京為藝祖興王之地,請幸之以圖大計。王即位南京。

建炎と改元すると、中書舎人を試み、兼ねて権直学士院となった。当時はちょうど創業の時で、勝非は敗れた鼓を憑りに詔書を草し、その文辞気勢は平素の如く厳重であった。上疏して言うには、「仁義は天下の大柄であり、中国がこれを保持すれば、外夷は服従し諸夏は尊ばれる。もしその柄を失えば、四夷の交侵する患いを免れない。国家は契丹と盟好を結んで百有余年、一旦その乱弱に乗じ、遠く金人と交わって挟攻の計を為したのは、中国がその柄を失い、外侮を招く由となったのである。陛下が即位されれば、正始の道を明らかにし、仁義に合うものはこれを実行し、合わないものはこれを置き去りに思案されれば、四夷を攘卻し、大業を紹復することができるであろう」。上はこれを嘉した。総制使の錢蓋が進職すると、勝非は蓋が陝西制置使として軍を棄て国を誤ったと上言し、貼黄を封還したので、蓋は遂に罷免された。諫官の衛膚敏が元祐太后の兄の子の転官を論じて罪に坐したが、勝非は外戚の故をもって諫臣を去らせるのは、天下に示すべきことではないと上言した。

原文建炎改元,試中書舍人兼權直學士院。時方草創,勝非憑敗鼓草制,辭氣嚴重如平時。上疏言:「仁義者,天下之大柄,中國持之,則外夷服而諸夏尊;苟失其柄,則不免四夷交侵之患。國家與契丹結好,百有餘年,一旦乘其亂弱,遠交金人為夾攻計,是中國失其柄,而外侮所由招也。陛下即位,宜壹明正始之道,思其合于仁義者行之,不合者置之,則可以攘卻四夷,紹復大業矣。」上嘉之。總制使錢蓋進職,勝非言蓋為陝西制置使棄師誤國,封還貼黃,蓋遂罷。諫官衛膚敏坐論元祐太后兄子徙官,勝非言以外戚故去諫臣,非所以示天下。

二年、尚書右丞を除かれた。当時、宰執の蔭補は多く濫っていたので、勝非は上奏して言うには、「旧制では、宰執の子弟は例として堂除せず、ただ銓選に注するのみで、罷政が罪によるものでなければ、その後推恩するのである。趙普の子弟は皆武臣となり、普が再び宰相となった時、長子は莊宅使を授かった。范純仁が再び宰相となった時、子の正平は文行があったが、遂に選調のまま死んだ。章惇の子の援と持は皆高科であったが、共に州県・幕職・監当となった。ただ夏竦の子の安期のみは累ねて辺帥を為し、待制・直学士を授かり、王安石は子の雱を推挙して崇政殿説書とし、待制を除いた。しかし安期にはなお才幹があり、雱にはなお学問があった。蔡京に至っては子六人・孫四人、鄭居中・劉正夫は子各二人、余深・王黼・白時中・蔡卞・鄧洵仁・洵武は子各一人が、並びに従班に列した。宣和の末、諫官の上疏に『なお竹馬の遊びに従うに、すでに荷囊の列を造る』とある。今これを戒めないわけにはいかない」。中書侍郎に遷った。

原文二年,除尚書右丞。時宰執蔭補多濫,勝非奏:「舊制,宰執子弟例不堂除,只就銓注,罷政不以罪,然後推恩。趙普子弟皆作武臣,普再相,長子授莊宅使;范純仁再相,子正平有文行,竟死選調;章惇子援及持皆高科,並為州縣、幕職、監當。惟夏竦子安期累作邊帥,授待制、直學士,王安石薦子雱為崇政殿說書,除待制。然安期猶有才幹,雱猶有學問。至蔡京子六人、孫四人,鄭居中、劉正夫子各二人,余深、王黼、白時中、蔡卞、鄧洵仁、洵武子各一人,並列從班。宣和末,諫官疏謂:『尚從竹馬之遊,已造荷囊之列。』今不可以不戒。」遷中書侍郎。

三年、上は鎮江より南幸し、勝非を留めて経理させた。間もなく、控扼使に命じ、やがて宣奉大夫・尚書右僕射兼御営使を拝した。故事では、宰相を命ずるには三官を進めるが、勝非は特に五官を遷された。ちょうど王淵が簽書枢密院事兼御営司都統制となり、内侍が再び政事を恣にし横暴であったので、諸将は喜ばず、ここに苗傅・劉正彥がその徒の王鈞甫・馬柔吉・王世修と謀り、淵が宦官と結んで謀反したと誣告した。正彥は手ずから淵を斬り、宦官を分捕して皆殺しにし、兵を擁して行宮の門外に至った。勝非は楼上に趨り、専殺の由を詰問した。上は親ら楼に御して撫諭されたが、傅・正彥の言葉は甚だ不遜であったので、勝非は皇太后に従って出て諭旨を伝えた。傅らは高宗に避位を請い、太后が皇子を抱いて聴政するよう求めたが、太后は許さなかった。傅は勝非を顧みて言うには、「今日は正に大臣の果決を要する。相公は何故一言もないのか」。勝非は還って上に告げて言うには、「王鈞甫は傅らの腹心であるが、先ほど臣に語って『二将は忠有余りて学不足なり』と言った。この言葉は後の図るべき端緒とすることができる」。ここにおいて太后は垂簾し、高宗は顕忠寺に退居して、睿聖宮と号した。勝非は因って赦を降して傅らを安んずるよう請うた。また上奏して言うには、「母后が垂簾するには、二臣が同対する必要がある。これは承平の故事である。今日の事機には密奏すべきものがあるので、臣僚の独対を許し、かつ日に傅の徒二人を上殿に引いて、その疑いを消すよう乞う」。太后は上に言うには、「この宰相に頼る。もし汪・黄が在位していたなら、事はすでに狼藉であったであろう」。

原文三年,上自鎮江南幸,留勝非經理。未幾,命為控扼使,已而拜宣奉大夫、尚書右僕射兼御營使。故事:命相進三官,勝非特遷五官。會王淵簽書樞密院事兼御營司都統制,內侍復用事恣橫,諸將不悅,於是苗傅、劉正彥與其徒王鈞甫、馬柔吉、王世修謀,誣淵結宦官謀反。正彥手斬淵,分捕中官,皆殺之,擁兵至行宮門外。勝非趨樓上,詰專殺之由。上親御樓撫諭,傅、正彥語頗不遜,勝非乃從皇太后出諭旨。傅等請高宗避位,太后抱皇子聽政,太后不可。傅顧勝非曰:「今日正須大臣果決,相公何無一言耶?」勝非還告上曰:「王鈞甫乃傅等腹心,適語臣云:『二將忠有餘,而學不足。』此語可為後圖之緒。」於是太后垂簾,高宗退居顯忠寺,號睿聖宮。勝非因請降赦以安傅等。又奏:「母后垂簾,須二臣同對,此承平故事。今日事機有須密奏者,乞許臣僚獨對,而日引傅徒二人上殿,以弭其疑。」太后語上曰:「賴相此人,若汪、黃在位,事已狼籍矣。」

王鈞甫が勝非に会うと、勝非は問うた、「先の言葉に二将は学が足りないと言ったが、どういうことか」。鈞甫は言う、「劉将が手ずから王淵を殺したように、軍中でもこれを非としている」。勝非は因って言葉をもってこれを揺さぶって言うには、「上皇は燕の士を骨肉の如く待遇したのに、どうして一人も効力する者がいないのか。人は燕・趙に奇士が多いと言うが、徒らに虚語であるのみ」。鈞甫は言う、「燕に人無しとは言えない」。勝非は言う、「君と馬参議は皆燕中の名人で、嘗て献策して契丹を滅ぼした者である。今、金人が任用する者は多く契丹の旧人である。もし江を渡れば、禍はまず君に及ぶであろう。どうして早く朝廷に協力しないのか」。鈞甫は唯々とした。王世修が来て会うと、勝非はこれを諭して言うには、「国家艱難の時、そなたらが立功する秋である。誠に奮身して事を立てれば、従官を得ることは難しいことであろうか」。世修は喜び、時に往来して軍中の実情を伝えた。世修を工部侍郎に擢げた。

原文王鈞甫見勝非,勝非問:「前言二將學不足,如何?」鈞甫曰:「如劉將手殺王淵,軍中亦非之。」勝非因以言撼之曰:「上皇待燕士如骨肉,那無一人效力者乎?人言燕、趙多奇士,徒虛語耳。」鈞甫曰:「不可謂燕無人。」勝非曰:「君與馬參議皆燕中名人,嘗獻策滅契丹者。今金人所任,多契丹舊人,若渡江,禍首及君矣。盍早為朝廷協力乎!」鈞甫唯唯。王世修來見,勝非諭之曰:「國家艱難,若等立功之秋也。誠能奮身立事,從官豈難得乎。」世修喜,時往來道軍中情實。擢世修為工部侍郎。

傅・正彥は年号を改め、建康に移蹕するよう請うた。勝非はこれを太后に白上し、因って議して、もしその請いを尽く廃すれば、倉卒に変が生じる恐れがあるので、元号を明受と改め、詔をもって世修に示して言うには、「すでにそなたらの請いを容れた」。傅らは上を挟んで徽・越に行幸させようとしたが、勝非が禍福をもってこれを諭したので止めた。傅は韓世忠が兵を起こしたと聞き、その妻子を取って人質とした。勝非は傅を欺いて言うには、「今、太后に啓して二人を召し慰撫し、平江に報知させれば、諸君は益々安んずるであろう」。傅は承諾した。勝非は喜んで言うには、「二凶は真に為す能わざる者である」。諸将が将に至らんとしたので、傅らは懼れ、勝非は因ってこれに言うには、「勤王の師が進まないのは、ここで自ら反正させるためである。そうでなければ、詔を下して百官六軍を率いて上に還宮を請えば、公らは身を置く所をどうするのか」。即ち学士の李邴・張守を召して百官の章及び太后の手詔を作らせた。

原文傅、正彥乞改年號及移蹕建康,勝非以白太后,因議恐盡廢其請,則倉卒變生,乃改元明受,以詔示世修曰:「已從若請矣。」傅等欲挾上幸徽、越,勝非諭之以禍福而止。傅聞韓世忠起兵,取其妻子為質。勝非紿傅曰:「今當啟太后召二人慰撫,使報知平江,諸君益安。」傅許諾。勝非喜曰:「二凶真無能為也。」諸將將至,傅等懼,勝非因謂之曰:「勤王之師未進者,使是間自反正耳。不然,下詔率百官六軍請上還宮,公等置身何地乎?」即召學士李邴、張守作百官章及太后手詔。

四月の朔、勝非は百官を率いて睿聖宮に詣で、親ら上を掖えて馬に乗せ還宮した。苗傅は王世修を参議とするよう請うたが、勝非は言う、「世修はすでに従官となった。どうして再び軍に従うことができようか」。上が既に復辟すると、勝非は言う、「臣は昔変に遇い、義として即時に死すべきであったが、ここまで生き永らえたのは、今日の事を図るためであった」。乃ち罷政を乞うた。上は誰が代わり得るかと問うと、勝非は言う、「呂頤浩・張浚である」。孰れが優れているかと問うと、言うには、「頤浩は事に練れているが暴であり、浚は事を好むが疎である」。上は言う、「浚は余りに年少である」。勝非は言う、「臣が以前召された時、軍旅・錢穀の事は悉く浚に付した。この挙は実に浚がこれを主としたのである」。御史中丞の張守は勝非が予防できず、賊を猖獗させたと論じて、罷すべきであるとしたが、報いられなかった。観文殿大学士・洪州知州を授け、間もなく江西安撫大使兼江州知州を除かれた。

原文四月朔,勝非率百官詣睿聖宮,親掖上乘馬還宮。苗傅請以王世修為參議,勝非曰:「世修已為從官,豈可復從軍?」上既復辟,勝非曰:「臣昔遇變,義當即死,偷生至此,欲圖今日之事耳。」乃乞罷政。上問誰可代者,勝非曰:「呂頤浩、張浚。」問孰優,曰:「頤浩練事而暴,浚喜事而疏。」上曰:「浚太年少。」勝非曰:「臣向被召,軍旅錢穀悉付浚,此舉浚實主之。」御史中丞張守論勝非不能預防,致賊猖獗,宜罷。不報。授觀文殿大學士、知洪州,尋除江西安撫大使兼知江州。

紹興元年、馬進が江州を陥落させると、侍御史の沈與求は九江の陥落は勝非が鎮に赴くのが余りに緩慢であったためであると論じた。中大夫に降授し、分司南京、江州居住となった。二年、呂頤浩が兼侍読を薦め、また都督ととく江・淮・荊・浙諸軍事を薦めたが、給事中の胡安国・侍御史の江躋が相次いで上章してこれを罷めさせた。頤浩は力を尽くしてその入朝を引き、再び兼侍読を除き、間もなく尚書右僕射・同中書門下平章事を拝した。母の憂に服して去り、起復して右僕射兼知枢密院事となり、『吏部七司敕令格式』一百八十巻を上進した。

原文紹興元年,馬進陷江州,侍御史沈與求論九江之陷,由勝非赴鎮太緩。降授中大夫,分司南京,江州居住。二年,呂頤浩薦兼侍讀,又薦都督江、淮、荊、浙諸軍事,給事中胡安國、侍御史江躋交章論罷之。頤浩力引其入,再除兼侍讀,尋拜尚書右僕射、同中書門下平章事。丁母憂去,起復右僕射兼知樞密院事,上《吏部七司敕令格式》一百八十卷。

時に員外郎江端友が宗廟の営造を請うたが、議者はこれを非とし、国家は恢復を期して居所を定めないとし、勝非はちょうど和議を主としていたので、遂に上に白状して臨安に宗廟を営ませた。徐俯が参知政事を罷免されると、勝非は胡松年を推薦した。侍御史常同が松年は王黼の客であると弾劾したので、勝非は同を左史に転任させた。莫儔が曲江に謫せられた時、その家の蒼頭奴が勝非の疽を治して癒えたので、奴が儔のために請うて、官を復することができた。姻戚の劉式がかつて兵官として盗賊を捕えたと言ったが、勝非は部に付さず、特旨で官を改めた。長雨が続いたので、勝非は累章を上して免職を乞い、また自ら罷免すべき十一事を論じた。魏矼もまたその罪を弾劾し、遂に罷免された。

原文時員外郎江端友請營宗廟,議者非之,以為國家期於恢復,不常厥居,勝非方主和議,遂白上營宗廟于臨安。徐俯罷參政,勝非薦胡松年。侍御史常同劾松年乃王黼客,勝非徙同左史。莫儔謫曲江,其家蒼頭奴為勝非治疽而愈,奴為儔請,得復官。姻家劉式嘗言為兵官獲盜,勝非不以付部用,特旨改官。會久雨,勝非累章乞免,且自論當罷者十一事。魏矼亦劾其罪,遂罷。

五年、詔に応じて戦守の四事を言い、起用されて湖州知州となり、病を理由に帰った。勝非は秦檜と不和があり、檜が政権を得ると、勝非は八年間廃居し、卒し、諡は忠靖。

原文五年,應詔言戰守四事,起知湖州,引疾歸。勝非與秦檜有隙,檜得政,勝非廢居八年,卒,諡忠靖。

勝非は張邦昌の友婿(姻戚)である。初め、邦昌が僭位した時、勝非はその使者を拘束したが、金人が江を渡ると、勝非は邦昌を尊礼し、その子孫を録用して敵に謝するよう請うた。苗傅・劉正彦の変では、聖躬を保護し、功績が多かった。去った後、力を尽くして張浚を推薦した。しかし李綱が罷免された時、勝非は黄潛善の意向を受けて詔書を起草し、極めてその狂妄を言った。再び宰相となると、趙鼎を忌み、鼎が川・陝を宣撫する時、使名を重くして呉玠を制しようとしたが、勝非は「元枢が出使するのに、どうしてこれを論じようか」と言い、事によって鼎を出してその権を軽んじた。人はこれをもって彼を軽んじた。『閑居録』を著すに及んでも、多くはその私説である。

原文勝非,張邦昌友婿也。始,邦昌僭位,勝非嘗械其使,及金人過江,勝非請尊禮邦昌,錄其後以謝敵。苗、劉之變,保護聖躬,功居多。既去,力薦張浚。然李綱罷,勝非受黃潛善風旨草制,極言其狂妄。再相,忌趙鼎,鼎宣撫川、陝,欲重使名以制吳玠,勝非曰:「元樞出使,豈論此耶?」蓋因事出鼎而輕其權。人以此少之。及著《閒居錄》,亦多其私說云。

呂頤浩

原文呂頤浩

呂頤浩、字は元直、その先祖は楽陵の人で、斉州に移った。進士に及第した。父が喪に服し家が貧しく、自ら耕して老幼を養った。後に密州司戸参軍となり、李清臣の推薦により、邠州教授となった。宗子博士に除され、累官して入朝して太府少卿・直龍図閣・河北転運副使となり、待制徽猷閣・都転運使に昇進した。

原文呂頤浩,字元直,其先樂陵人,徙齊州。中進士第。父喪家貧,躬耕以贍老幼。後為密州司戶參軍,以李清臣薦,為邠州教授。除宗子博士,累官入為太府少卿、直龍圖閣、河北轉運副使,升待制徽猷閣、都轉運使。

燕征伐の役で、頤浩は転輸を率いて种師道に従い白溝に至った。燕山を得た後、郭薬師の兵二万、契丹軍一万余はいずれも官の供給に頼り、詔により頤浩を燕山府路転運使とした。頤浩は奏上して「辺境を開くことが極めて遠く、その勢いは守り難く、力を尽くし財を尽くしても、善後策はない」と言い、また燕山・河北の危急五事を奏上し、広く長久の策を議することを願った。徽宗は怒り、職を剥ぎ官を貶すよう命じたが、職務は従前通りとし、まもなく復職した。徽猷閣直学士に進んだ。金人が燕に入ると、郭薬師は頤浩と蔡靖らを脅して降伏させた。敵が退いて帰還でき、再び河北都転運使とされたが、病を理由に辞し、崇福宮提挙となった。

原文伐燕之役,頤浩以轉輸隨种師道至白溝。既得燕山,郭藥師眾二萬,契丹軍萬餘,皆仰給縣官,詔以頤浩為燕山府路轉運使。頤浩奏:「開邊極遠,其勢難守,雖窮力竭財,無以善後。」又奏燕山、河北危急五事,願博議久長之策。徽宗怒,命褫職貶官,而領職如故;尋復焉。進徽猷閣直學士。金人入燕,郭藥師劫頤浩與蔡靖等以降。敵退得歸,復以為河北都轉運使,以病辭,提舉崇福宮。

高宗が即位すると、揚州知州に除された。車駕が南幸すると、頤浩は入朝して謁見し、戸部侍郎兼揚州知州に除され、戸部尚書に進んだ。大賊張遇が数万の兵を率いて金山に屯し、兵を放って焼掠した。頤浩は単騎で韓世忠と共にその陣営に赴き、順逆を説いて諭すと、遇の一味は甲を解いて降伏した。吏部尚書に進んだ。

原文高宗即位,除知揚州。車駕南幸,頤浩入見,除戶部侍郎兼知揚州,進戶部尚書。劇賊張遇眾數萬屯金山,縱兵焚掠。頤浩單騎與韓世忠造其壘,說之以逆順,遇黨釋甲降。進吏部尚書。

建炎二年、金人が揚州に迫り、車駕は南渡して鎮江に至り、従臣を召して去留を問うた。頤浩は叩頭して暫くここに留まり、江北の声援となることを願い、そうでなければ敵が勢いに乗じて江を渡り、事態はますます急になると言った。車駕が銭塘に幸すると、同簽書枢密院事・江淮両浙制置使に任じられ、京口に還って屯した。金人が揚州を去ると、江東安撫制置使兼江寧府知事に改めた。

原文建炎二年,金人逼揚州,車駕南渡鎮江,召從臣問去留。頤浩叩頭願且留此,為江北聲援;不然,敵乘勢渡江,事愈急矣。駕幸錢塘,拜同簽書樞密院事、江淮兩浙制置使,還屯京口。金人去揚州,改江東安撫制置使兼知江寧府。

時に苗傅・劉正彦が逆を為し、高宗に退位を迫った。頤浩は江寧に至り、明受と改元した詔赦を受け、監司と会議したが、皆敢えて答えなかった。頤浩は「これは必ず兵変がある」と言い、その子の抗は「主上は春秋に富み、二帝は沙漠に蒙塵し、日々救済を望んでおられるのに、どうして急に幼沖に位を譲られようか。明らかに兵変であることに疑いない」と言った。頤浩は直ちに人を遣わして張浚に書を送り「時事このようである。我々はただ済ませてよいのか」と言った。浚もまた頤浩に威望があり大事を断じられると言い、書を送って起兵の状を報じた。頤浩はそこで浚及び諸将と約束し、兵を合わせて賊を討とうとした。時に江寧の士民は恐れ騒ぎ、頤浩は楊惟忠に檄を飛ばして留屯させ、人心を安んじた。また苗傅らが計窮まって帝を挟み広徳から江を渡ることを恐れ、惟忠に先んじて要害を押さえる備えをさせた。まもなく旨があり、頤浩を召して枢密院に出仕させた。上奏して「今、金人は戦勝の威に乗じ、群盗は蜂起の勢いがあり、興衰乱を撥ねることは艱難に属する。どうして皇帝が退いて安逸を享けようか。急ぎ明辟(帝位)を復し、恢復を図ることを請う」と言った。そこで兵を発して江寧を出発し、鞭を挙げて衆に誓うと、士卒は皆感激奮励した。

原文時苗傅、劉正彥為逆,逼高宗避位。頤浩至江寧,奉明受改元詔赦,會監司議,皆莫敢對。頤浩曰:「是必有兵變。」其子抗曰:「主上春秋鼎盛,二帝蒙塵沙漠,日望拯救,其肯遽遜位於幼沖乎?灼知兵變無疑也。」頤浩即遣人寓書張浚曰:「時事如此,吾儕可但已乎?」浚亦謂頤浩有威望,能斷大事,書來報起兵狀。頤浩乃與浚及諸將約,會兵討賊。時江寧士民洶懼,頤浩乃檄楊惟忠留屯,以安人心。且恐苗傅等計窮挾帝繇廣德渡江,戒惟忠先為控扼備。俄有旨,召頤浩赴院供職。上言:「今金人乘戰勝之威,羣盜有蠭起之勢,興衰撥亂,事屬艱難,豈容皇帝退享安逸?請亟復明辟,以圖恢復。」遂以兵發江寧,舉鞭誓眾,士皆感厲。

平江に将到する時、張浚が軽舟で迎え、相持って泣き、大計を諮った。頤浩は「頤浩はかつて辺境を開くことを諫めて、宦官の手で死にかけ、漕運の任を承けて、腥膻の域に陥りかけた。今事が成らなければ、ただ族を赤くするのみで、社稷のために死ぬのは、豈に快からずや」と言った。浚はその言葉を壮とした。即座に舟中で檄文を草し、韓世忠を前軍とし、張俊がこれを翼け、劉光世を遊撃とし、頤浩・浚が中軍を総べ、光世が軍を分けて殿後とした。頤浩が平江を発すると、傅の一味は旨を託して頤浩に単騎で入朝するよう請うた。頤浩は統率する将士は忠義に激しており、合わせることはできても離すことはできないと奏上した。傅らは恐懼し、そこで高宗の復辟を請うた。軍が秀州に至ると、頤浩は諸将を励まして「今は反正したが、賊はなお兵を握って内に居る。事が成らなければ、必ず悪名を我らに加えるであろう。翟義・徐敬業の例を鑑とすべきである」と言った。臨平に至ると、苗傅らが防戦した。頤浩は甲を着て水辺に立ち、行陣を出入りし、世忠らを督して賊を破り、傅・正彦は兵を引いて逃れた。頤浩らは勤王の兵を率いて城に入ると、都人は道を挟んで仰ぎ見、手を額に加えた。

原文將至平江,張浚乘輕舟迓之,相持而泣,咨以大計。頤浩曰:「頤浩曩諫開邊,幾死宦臣之手;承乏漕挽,幾陷腥膻之域。今事不諧,不過赤族,為社稷死,豈不快乎?」浚壯其言。即舟中草檄,進韓世忠為前軍,張俊翼之,劉光世為遊擊,頤浩、浚總中軍,光世分軍殿後。頤浩發平江,傅黨託旨請頤浩單騎入朝。頤浩奏所統將士,忠義所激,可合不可離。傅等恐懼,乃請高宗復辟。師次秀州,頤浩勉勵諸將曰:「今雖反正,而賊猶握兵居內。事若不濟,必反以惡名加我,翟義、徐敬業可監也。」次臨平,苗傅等拒戰。頤浩被甲立水次,出入行陣,督世忠等破賊,傅、正彥引兵遁。頤浩等以勤王兵入城,都人夾道聳觀,以手加額。

朱勝非が宰相を罷免されると、頤浩を尚書右僕射・中書侍郎兼御営使とし、同中書門下平章事に改めた。車駕が建康に幸すると、金人が再び入ると聞き、諸将を召して移蹕の地を問うと、頤浩は「金人は陛下の至るところを辺境としようと謀っている。今は戦いながら避け、陛下を万全の地に奉じるべきで、臣は常・潤に留まり死守することを願う」と言った。上は「朕の左右に宰相なくしてはならぬ」と言い、そこで韓世忠に鎮江を守らせ、劉光世に太平を守らせた。車駕が平江に至り、杜充が敗績したと聞くと、上は「事は切迫した。どうすればよいか」と言った。頤浩はそこで航海の策を進言した。

原文朱勝非罷相,以頤浩守尚書右僕射、中書侍郎兼御營使,改同中書門下平章事。車駕幸建康,聞金人復入,召諸將問移蹕之地,頤浩曰:「金人謀以陛下所至為邊面,今當且戰且避,奉陛下于萬全之地,臣願留常、潤死守。」上曰:「朕左右不可以無相。」乃以韓世忠守鎮江,劉光世守太平。駕至平江,聞杜充敗績,上曰:「事迫矣,若何?」頤浩遂進航海之策。

初め、建炎の御営使は本来行幸に際して軍政を総べるものであったが、宰相が兼ねてこれを領したため、遂に兵権を専有し、枢密府はほとんど関与できなかった。頤浩が在位する時は特に専横で、趙鼎がその過ちを論じた。四年、鼎を翰林学士・吏部尚書に移した。鼎は辞し、かつ頤浩を攻撃し、章を十数回上奏したので、頤浩は去職を求めた。鎮南軍節度使・開府儀同三司・醴泉観使に除され、詔により頤浩は義を倡えて勤王したので、優礼をもって処遇された。

原文初,建炎御營使本以行幸總齊軍政,而宰相兼領之,遂專兵柄,樞府幾無所預。頤浩在位尤顓恣,趙鼎論其過。四年,移鼎為翰林學士、吏部尚書。鼎辭,且攻頤浩,章十數上,頤浩求去。除鎮南軍節度、開府儀同三司、醴泉觀使,詔以頤浩倡義勤王,故從優禮焉。

奉化の賊将璉は乱に乗じて変を起こし、頤浩を劫略して軍中に置いたが、高宗は頤浩の故を以て、これを赦し招いた。まもなく江東安撫制置大使を兼ねて池州知州に任ぜられる。頤浩は兵五万を請いて建康等の地に駐屯させ、また王𤫉、巨師古の兵を自らの隷下とすることを請うた。鎮に赴かんとしたところ、李成が将馬進を遣わして江州を包囲した。そこで鄱陽に駐軍し、楊惟忠の兵と会し、ともに南康に向かうことを請い、師古を遣わして江州を救援させた。賊衆と激戦し、頤浩、惟忠は利を得ず、師古は敗れて洪州に奔った。頤浩は援軍を請いて李成を討たんとし、高宗は曰く、「頤浩は身を顧みず奮い立ち、国のために賊を討つ、群臣の及ぶところではない。ただ軽進したことが、その過失である」と。詔して王𤫉に万人を以て速やかに往き策応せしむ。頤浩は左蠡に再び軍を置き、また閤門舍人崔増の衆万余を得て、軍勢再び振るう。𤫉、増に命じて賊を撃たしめ、これを破り、勝に乗じて江州に至ると、馬進は既に城を陥としていた。朝廷は張俊を招討使に命じ、俊が既に至ると、遂に馬進を破った。進は遁走し、成は余衆を率いて劉豫よに降った。

原文奉化賊將璉乘亂為變,劫頤浩置軍中,高宗以頤浩故,赦而招之。尋除江東安撫制置大使兼知池州。頤浩請兵五萬屯建康等處,又請王𤫉、巨師古兵自隸。將之鎮,而李成遣將馬進圍江州。乃駐軍鄱陽,會楊惟忠兵,請與俱趨南康,遣師古救江州。賊眾鏖戰,頤浩、惟忠失利,師古敗奔洪州。頤浩乞濟師討李成,高宗曰:「頤浩奮不顧身,為國討賊,群臣所不及,但輕進,其失也。」詔王𤫉以萬人速往策應。頤浩復軍左蠡,又得閤門舍人崔增之眾萬餘,軍勢復振。命𤫉、增擊賊,敗之,乘勝至江州,則馬進已陷城矣。朝廷命張俊為招討使,俊既至,遂敗馬進。進遁,成以餘眾降劉豫。

詔して淮南の民未だ復業せず、威望ある大臣を以て措置するを要すとし、頤浩に宣撫を兼ねさせ、寿春府、徐廬和州、無為軍を領せしむ。分寧において趙延寿を招降し、その精鋭五千を得て、諸将に分属させた。張琪は徽より饒州を犯し、衆五万を有した。時に頤浩は左蠡より班師し、帳下の兵万人に満たず、郡人は惶駭した。頤浩はその将閻皋、姚端、崔邦弼に命じて陣を列ねて待たしめた。琪は皋の軍を犯し、皋は力戦し、端、邦弼の両軍は挟撃して、これを大破した。少保、尚書左僕射、同中書門下平章事兼知枢密院事に拝せられる。

原文詔以淮南民未復業,須威望大臣措置,以頤浩兼宣撫,領壽春府、徐廬和州、無為軍。招降趙延壽于分寧,得其精銳五千,分隸諸將。張琪自徽犯饒州,有眾五萬。時頤浩自左蠡班師,帳下兵不滿萬人,郡人惶駭。頤浩命其將閻皋、姚端、崔邦弼列陣以待。琪犯皋軍,皋力戰,端、邦弼兩軍夾擊,大破之。拜少保、尚書左僕射、同中書門下平章事兼知樞密院事。

二年、上は越州より臨安に還る。時に桑仲は襄陽に在り、京城を進取せんと欲し、朝廷に兵を挙げて声援と為すを乞うた。頤浩は乃ち大いに出師を議し、みずから軍を督して北に向かわんとした。高宗は頤浩、秦檜に諭して曰く、「頤浩は軍旅を治め、檜は庶務を理む、種・蠡の職を分かつが如く可なり」と。二人同しく政を秉るも、檜は頤浩が公論に与せられざるを知り、多く知名の士を引いて助けと為し、これを傾けて朝権を擅にせんと欲した。高宗は乃ち詔を下して朋党を戒め、頤浩を都督江、淮、荊、浙諸軍事とし、開府して鎮江に鎮せしむ。頤浩は文武士七十余人を辟き、神武後軍及び御前忠銳崔増、趙延寿の二軍を従行せしめ、百官班列して送る。頤浩は常州に次ぐや、延寿の軍叛き、劉光世その衆を殲滅す。また桑仲既に死したと聞き、遂に進まず、疾を引いて罷免を求む。詔して朝に還らしめ、紹興府知事朱勝非を以て諸軍事を同都督せしむ。

原文二年,上自越州還臨安。時桑仲在襄陽,欲進取京城,乞朝廷舉兵為聲援。頤浩乃大議出師,而身自督軍北向。高宗諭頤浩、秦檜曰:「頤浩治軍旅,檜理庶務,如種、蠡分職可也。」二人同秉政,檜知頤浩不為公論所與,多引知名士為助,欲傾之而擅朝權。高宗乃下詔以戒朋黨,除頤浩都督江、淮、荊、浙諸軍事,開府鎮江。頤浩辟文武士七十餘人,以神武後軍及御前忠銳崔增、趙延壽二軍從行,百官班送。頤浩次常州,延壽軍叛,劉光世殲其眾;又聞桑仲已死,遂不進,引疾求罷。詔還朝,以知紹興府朱勝非同都督諸軍事。

頤浩既に還り、秦檜を傾けんと欲し、乃ち勝非を引いて助けと為す。給事中胡安国、勝非は必ず大計を誤らんと論ず。勝非は復た紹興府知事となり、尋いで醴泉観使兼侍読と為る。安国は録黄を保持して下さず、頤浩は命を堅持して諸房文字を検正する黄亀年に書行せしむ。安国は失職を以て去らんと求め、これを罷む。檜は上章して安国を留めんことを乞うも、報いず。侍御史江躋、左司諫呉表臣皆安国を論救して罷められ、程瑀、胡世将、劉一止、張燾、林待聘、楼炤も亦檜の党を論じて斥けられるに坐し、台省一空となり、遂に檜の相を罷む。

原文頤浩既還,欲傾秦檜,乃引勝非為助。給事中胡安國論勝非必誤大計,勝非復知紹興府,尋以醴泉觀使兼侍讀。安國持錄黃不下,頤浩持命檢正諸房文字黃龜年書行。安國以失職求去,罷之。檜上章乞留安國,不報。侍御史江躋、左司諫吳表臣皆以論救安國罷,程瑀、胡世將、劉一止、張燾、林待聘、樓炤亦坐論檜黨斥,臺省一空,遂罷檜相。

頤浩独り政を秉り、屡々師を興して中原を復せんことを請い、謂う、「太祖天下を取るも、兵十万に過ぎず。今兵十六七万有り。然るに金人の南牧より以来、敢えてその鋒に嬰る者莫し。比年韓世忠、張俊、陳思恭、張荣屡々奏す、人に戦心有り、天将に禍を悔い改めんとす。又金人は中原を劉豫に付す、三尺の童子も其の国を立つること能わざるを知る。願わくは睿断早く定め、決策して北に向かわしめよ。今の精鋭は皆中原の人なり、久しくして消磨するを恐れ、他日事を挙ぐるに難からん」と。時に盗賊稍々息み、頤浩は使を遣わして郡国を循行し、獄訟を平らげ、徳意を宣べしむることを請う。李綱湖南を宣撫す。頤浩は綱の暴を縦にして善状無しと言い、諸路の宣撫の名を罷め、綱を止めて安撫使と為すことを請う。時に李光江東に在り、頤浩に与うる書に、綱に大節有り、四夷畏服すと言う。頤浩は光の党を結ぶと称し、言者因って光を論じ、これを罷む。時に方に濫賞を審量す。頤浩時に縦捨有り。右司郎官王岡、持して不可とし、曰く、「公国鈞を秉るも、平らかならざるを何と謂わん」と。

原文頤浩獨秉政,屢請興師復中原,謂:「太祖取天下,兵不過十萬,今有兵十六七萬矣。然自金人南牧,莫敢嬰其鋒。比年韓世忠、張俊、陳思恭、張榮屢奏,人有戰心,天將悔禍。又金人以中原付劉豫,三尺童子知其不能立國。願睿斷早定,決策北向。今之精銳皆中原人,恐久而消磨,他日難以舉事。」時盜賊稍息,頤浩請遣使循行郡國,平獄訟,宣德意。李綱宣撫湖南,頤浩言綱縱暴無善狀,請罷諸路宣撫之名,綱止為安撫使。時李光在江東,與頤浩書,言綱有大節,四夷畏服。頤浩稱光結黨,言者因論光,罷之。時方審量濫賞,頤浩時有縱舍,右司郎官王岡持不可,曰:「公秉國鈞,不平謂何。」

頤浩再び政を秉ること凡そ二年、高宗は水旱、地震を以て、詔を下して己を罪し言を求めしむ。頤浩は連章して罪を待つ。高宗一日大臣に謂いて曰く、「国朝四方の水旱、上聞せざるは無し。近く蘇、湖地震し、泉州大水す。輒ち以て奏せず、何ぞや」と。侍御史辛炳、殿中常同其の罪を論じ、遂に頤浩を罷めて鎮南軍節度使、開府儀同三司、洞霄宮提挙と為し、特進、観文殿大学士に改む。五年、詔して宰執に戦守の方略を問う。頤浩は十事を条して以て献じ、湖南安撫制置大使兼潭州知事に除せられる。時に郴、衡、桂陽に盗起こる。頤浩は人を遣わして悉くこれを平らぐ。帝建康に在り、頤浩を少保、浙西安撫制置大使、臨安府知事、行宮留守に除す。明堂の礼成り、進んで成国公に封ぜられる。

原文頤浩再秉政凡二年,高宗以水旱、地震,下詔罪己求言,頤浩連章待罪。高宗一日謂大臣曰:「國朝四方水旱,無不上聞。近蘇、湖地震,泉州大水,輒不以奏,何也?」侍御史辛炳、殿中常同論其罪,遂罷頤浩為鎮南軍節度使、開府儀同三司、提舉洞霄宮,改特進、觀文殿大學士。五年,詔問宰執以戰守方略,頤浩條十事以獻,除湖南安撫制置大使兼知潭州。時郴、衡、桂陽盜起,頤浩遣人悉平之。帝在建康,除頤浩少保、浙西安撫制置大使、知臨安府、行宮留守。明堂禮成,進封成國公。

八年、上将に臨安に還らんとし、少傅、鎮南定江軍節度使、江東安撫制置大使兼建康府知事、行宮留守に除す。頤浩は疾を引いて去らんことを求め、醴泉観使に除せられる。九年、金人河南の地を帰す。高宗は頤浩を以て陝西に往かしめんと欲し、中使を命中して行在に召し赴かしむ。頤浩は老病を以て辞し、且つ陝西の利害を条し、謂う、金人故無くして地を帰すは、其必ず意有らんと。召して闕に赴くを趣す。既に至るも、疾を以て見る能わず、乃ち帰るを聴す。未幾、卒す。太師を贈られ、秦国公に封ぜられ、諡して忠穆と曰う。

原文八年,上將還臨安,除少傅、鎮南定江軍節度使、江東安撫制置大使兼知建康府、行宮留守。頤浩引疾求去,除醴泉觀使。九年,金人歸河南地,高宗欲以頤浩往陝西,命中使召赴行在。頤浩以老病辭,且條陝西利害,謂金人無故歸地,其必有意。召趣赴闕,既至,以疾不能見,乃聽歸。未幾,卒,贈太師,封秦國公,諡忠穆。

頤浩は胆略有り、鞍馬弓剣を善くし、国歩艱難の際に当たり、人これに倚りて重しと為す。江東より再び相と為りしより、胡安国は書を以て其の韓忠献に法らんことを勧め、至公無我を以て先と為し、恩仇を報復するを戒めと為すも、頤浩用いる能わず。時に軍用足らず、頤浩は朱勝非と江、浙、湖南諸路の大軍月樁銭を創立す。ここに於いて郡邑多く横賦有り、大いに東南の患いと為す云う。

原文頤浩有膽略,善鞍馬弓劍,當國步艱難之際,人倚之為重。自江東再相,胡安國以書勸其法韓忠獻,以至公無我為先,報復恩仇為戒,頤浩不能用。時軍用不足,頤浩與朱勝非創立江、浙、湖南諸路大軍月樁錢,於是郡邑多橫賦,大為東南患云。

范宗尹

原文范宗尹

范宗尹、字は覚民、襄陽鄧城の人。少くして篤く学び、文辞に工なり。宣和三年、上舍登第。累遷して侍御史、右諫議大夫と為る。王雲北に使いして還り、金人は必ず三鎮を得んと欲すと言う。宗尹はこれを棄てて禍を紓らんことを請う。言者これを非とし、宗尹罷められて帰る。張邦昌位を僭す。其の職を復し、路允迪とともに康王に詣でて進まんことを勧む。

原文范宗尹,字覺民,襄陽鄧城人。少篤學,工文辭。宣和三年,上舍登第。累遷侍御史、右諫議大夫。王雲使北還,言金人必欲得三鎮。宗尹請棄之以紓禍,言者非之,宗尹罷歸。張邦昌僭位,復其職,遣同路允迪詣康王勸進。

建炎元年、李綱右僕射に拝せらる。宗尹は其の名実に浮かぶを論じ、主を震わすの威有りとす。報いず、出でて舒州知事と為る。言者宗尹嘗て偽命に汚れたりと論じ、責めて鄂州に置く。既に召されて中書舎人と為り、御史中丞に遷り、参知政事に拝せらる。

原文建炎元年,李綱拜右僕射,宗尹論其名浮於實,有震主之威。不報,出知舒州。言者論宗尹嘗汙偽命,責置鄂州。既召為中書舍人,遷御史中丞,拜參知政事。

呂頤浩が宰相を罷免されると、宗尹がその地位を代行した。当時、諸々の賊徒が州県を占拠しており、朝廷はこれを制圧する力がなかった。宗尹は言上した、「太祖が藩鎮の権力を収められてから、天下は百五十年間事なく過ごせた。これは良法と言えよう。しかし国家が多難に陥り、四方の帥守が単弱で、手を束ねて傍観するのみでは、この法の弊害である。今は少しばかり藩鎮の法を復活させ、河南・江北の数十州の地を分割して、兵権を付与し、王室を藩屏とすべきである。これを地を棄てて夷狄に与えることと較べれば、はるかに勝るのではないか」。上はその言に従った。宗尹を通議大夫・守尚書右僕射・同中書門下平章事兼御営使に任じた。時に三十歳であった。近世の宰相で年少の者は、宗尹の如き者はなかった。

原文呂頤浩罷相,宗尹攝其位。時諸盜據有州縣,朝廷力不能制。宗尹言:「太祖收藩鎮之權,天下無事百五十年,可謂良法。然國家多難,四方帥守單寡,束手環視,此法之弊。今當稍復藩鎮之法,裂河南、江北數十州之地,付以兵權,俾蕃王室。較之棄地夷狄,豈不相遠?」上從其言。授宗尹通議大夫、守尚書右僕射、同中書門下平章事兼御營使,時年三十。近世宰相年少,未有如宗尹者。

宗尹は上奏して、京畿東西・淮南・湖北の地を併せて鎮に分け、諸将に授け、鎮撫使を名乗らせた。軍事が起こった際には、便宜に従って事を行わせた。しかし李成・薛慶・孔彦舟・桑仲の輩は群盗から起こり、翟興・劉位は土豪であり、李彦光・郭仲威は皆敗軍の将であり、多くはその地を守ることができなかった。宗尹は有司に崇寧・大観以来の濫賞を検討させ、修書・営繕・応奉・開河・免夫・獄空の類を、全て厘正するよう請うた。宣和・靖康の際に執政し、開封包囲・明受の偽命を受けた者たちは、かえって赦免により雪冤された。徐秉哲・呉幵・莫儔らは併せて量移され、呉敏・王孝迪・耿南仲・孫覿・蔡懋らは併せて叙復された。侍郎の季陵が宗尹の意を迎え、詔を請うて宰執が罪累の中から真の材能ある者を選び、量を以て事を付与するよう求めた。沈与求が季陵を弾劾し、それに因んで宗尹に及んだため、宗尹は去職を求めた。上は沈与求を罷免し、宗尹はようやく政務に復した。

原文宗尹奏以京畿東西、淮南、湖北地並分為鎮,授諸將,以鎮撫使為名;軍興,聽便宜從事。然李成、薛慶、孔彥舟、桑仲輩起於群盜,翟興、劉位土豪,李彥光、郭仲威皆潰將,多不能守其地。宗尹請有司討論崇、觀以來濫賞,修書、營繕、應奉、開河、免夫、獄空之類,皆釐正之。宣靖執政、圍城、明受偽命之人,反用赦申雪;徐秉哲、吳幵、莫儔等並量移;吳敏、王孝迪、耿南仲、孫覿、蔡懋等並敘復。侍郎季陵希宗尹意,乞詔宰執於罪累中選真材實能,量付以事。沈與求劾陵,因及宗尹,宗尹求去。上為罷與求,宗尹乃復視事。

初め、宗尹が廷対した際、詳定官の李邦彦が特に旨を取って宗尹を乙科に置いた。宗尹はその恩を徳とし、邦彦に観文殿大学士を追贈した。枢密院副都承旨に欠員が生じ、宗尹は邢煥・藍公佐・辛道宗の三人を擬した。煥は戚里、公佐は客省を管し、道宗は兵を知らず、人々はこれをもって宗尹を咎めた。密院計議官の王佾が公佐に取り入り、宗尹は佾を宗正丞に除するよう請うた。侍御史の張延寿がこれを弾劾し、上は王佾を罷免した。

原文初,宗尹廷對,詳定官李邦彥特取旨置宗尹乙科,宗尹德之,贈邦彥觀文殿大學士。樞密院副都承旨闕,宗尹擬邢煥、藍公佐、辛道宗三人,煥戚里,公佐管客省,道宗不知兵,人以此咎宗尹。密院計議官王佾結公佐,宗尹請除佾為宗正丞,侍御史張延壽劾之,上罷佾。

紹興元年二月辛巳、日蝕に黒子が現れた。宗尹は輔政の無状を以て免職を請うたが、上は許さなかった。魏滂が江東通判となったが、諫官がその官銭を貪り盗んだと上言し、滂は遂に罷免された。李弼孺が営田を領したが、諫官がその朱勔に媚び事えたと上言し、弼孺も罷免された。二人は共に宗尹が推薦した者であった。台州守臣の晁公為が儲蓄を豊富に備えたが、論者が民を擾したとし、宗尹は密かにこれを庇った。公為の妻が囚人から金を受け取った事が発覚すると、上は公為を罷免し、宗尹は自ら安んじられなかった。時に明堂の恩赦があり、宗尹は討論の事を行うよう請うた。上は手札に「朕は過ちを君父に帰し、士大夫に怨みを集めようとは思わぬ」と記した。初め、宗尹がこの議を建てた時、秦檜が力を込めて賛成したが、上意の堅いのを見ると、かえって宗尹を排斥した。上もまた彼が辛道宗兄弟と往来するのを嫌い、遂に罷免した。沈与求がその罪状を奏上し、落職させた。間もなく、温州知事に任じる命が下った。退いて天台に居を構え、卒去した。三十七歳であった。

原文紹興元年二月辛巳,日有黑子,宗尹以輔政無狀請免,上不許。魏滂為江東通判,諫官言其貪盜官錢,滂遂罷;李弼孺領營田,諫官言其媚事朱勔,弼孺亦罷:二人皆宗尹所薦。台州守臣晁公為儲峙豐備,論者以為擾民,宗尹陰佑之。會公為妻受囚金事覺,上罷公為,宗尹不自安。時明堂覃恩,宗尹請舉行討論之事,上手劄云:「朕不欲歸過君父,斂怨士大夫。」始,宗尹建此議,秦檜力贊之,及見上意堅,反擠宗尹。上亦惡其與辛道宗兄弟往來,遂罷。沈與求奏其罪狀,落職,未幾,命知溫州。退居天台,卒,年三十七。

宗尹は才智があり、北敵が横行する衝に当たり、毅然として自ら任じ、分鎮を建議し、これによって宰相の位を得た。しかしその置いた帥には多く劇盗を授け、また総率統属がなく、かつ援軍を遣わさず、糧餉を通じさせなかったため、諸鎮守で長く存続できた者は少なかった。また政を行うに多く私心があり、しばしば議者によって誹謗されたという。

原文宗尹有才智,當北敵肆行之衝,毅然自任,建議分鎮,以是得相位。然其置帥多授劇盜,又無總率統屬,且不遣援,不通餉,故諸鎮守鮮能久存者。及為政多私,屢為議者所詆云。

范致虛

原文范致虛

范致虛、字は謙叔、建州建陽の人である。進士に挙げられ、太学博士となった。鄒浩が言事により斥けられた時、致虚は見送ったことで罪に坐し、官を停められた。徽宗が嗣位すると召し出され、左正言に除され、出て郢州通判となった。崇寧初年、右司諫として召されたが、途中で起居舎人に改められ、中書舎人に進んだ。蔡京が講議司を置くことを請うて建策し、致虚を詳定官に引き立てたが、議が合わず、兵部侍郎に改められた。ここより入っては華要の地位に処し、出ては大郡を典すること十五年であった。張商英に附いたことで罪を得て、通州に貶された。政和七年、官を復し、入朝して侍読・修国史となり、間もなく刑部尚書・提挙南京鴻慶宮に除された。

原文范致虛,字謙叔,建州建陽人。舉進士,為太學博士。鄒浩以言事斥,致虛坐祖送獲罪,停官。徽宗嗣位,召見,除左正言,出通判郢州。崇寧初,以右司諫召,道改起居舍人,進中書舍人。蔡京建請置講議司,引致虛為詳定官,議不合,改兵部侍郎。自是入處華要,出典大郡者十五年。以附張商英,貶通州。政和七年,復官,入為侍讀、修國史,尋除刑部尚書、提舉南京鴻慶宮。

初め、致虚が講議司にいた時、延康殿学士の劉昺がかつて蔡京の怒りに乗じて彼を排斥しようとした。後に王寀が妖言の罪で獄に繋がれ、事が劉昺に連座し、死罪と論ぜられたが、致虚がこれを争い、昺は減刑されて流罪となり、士論は彼を賢とした。尚書右丞に遷り、左丞に進んだ。

原文初,致虛在講議司,延康殿學士劉昺嘗乘蔡京怒擠之。後王寀坐妖言繫獄,事連昺,論死,致虛爭之,昺得減竄,士論賢之。遷尚書右丞,進左丞。

母の喪に服し、一年を過ぎて、起用されて東平府知府となり、大名府に改められた。入朝して謁見した時、朝廷が契丹に用兵しようとしていた。致虚は言上した、辺境の隙が開けば、必ず意外の患いがあると。宰相は彼が異心を抱いていると言った。致虚は喪に終わることを乞い、許された。喪が明けて、鄧州知州となり、河南府に改められた。宦官が景華苑を計画し、故相富弼の園宅を奪おうとした。致虚は言った、「弼は和戎に大功があり、朝廷に百年の安泰を享受させた。それなのに数畝の居宅さえ保てぬというのか」。弼の園宅は取られることがなかった。再び鄧州に移り、提挙亳州明道宮となった。帝は老子を好んでいたため、致虚は時の好みに迎合し、道宇を営み飾り、煉真宮の名を賜った。

原文母喪,踰年,起知東平府,改大名府。入見,時朝廷欲用師契丹,致虛言邊隙一開,必有意外之患。宰相謂其懷異。致虛乞終喪,從之。免喪,知鄧州,改河南府。中人規景華苑,欲奪故相富弼園宅,致虛言:「弼和戎有大功,使朝廷享百年之安,乃不保數畝之居邪?」弼園宅得不取。復移鄧州、提舉亳州明道宮。帝方好老氏,致虛希時好,營飭道宇,賜名煉真宮。

靖康元年、朝廷に召し出され、赴く途中で京兆府知府に除された。時に金人が太原を包囲し、その声勢は関中に震動した。致虚は戦守の備えを大いに整えた。朝廷は銭蓋に陝西を節制させ、致虚を陝西宣撫使に除した。金人が分道して再び京師を侵犯すると、詔が下り致虚に兵を合わせて入援させた。銭蓋の兵十万が潁昌に至ったが、京師が破られたと聞いて遁走し、西道総管の王襄は南へ走った。致虚はただ西道副総管の孫昭遠と合兵し、環慶帥臣の王似・熙河帥臣の王倚が兵を率いて来会した。致虚は歩騎合わせて号二十万の兵を集め、右武大夫の馬昌祐にこれを統率させ、杜常に民兵一万を率いて京師へ急行させ、夏俶に一万人を率いて陵寢を守らせた。

原文靖康元年,召赴闕,道除知京兆府。時金人圍太原,聲震關中,致虛修戰守備甚力。朝廷命錢蓋節制陝西,除致虛陝西宣撫使。金人分道再犯京師,詔致虛會兵入援。錢蓋兵十萬至潁昌,聞京師破而遁,西道總管王襄南走。致虛獨與西道副總管孫昭遠合兵,環慶帥臣王似、熙河帥臣王倚以兵來會。致虛合步騎號二十萬,以右武大夫馬昌祐統之,命杜常將民兵萬人趨京師,夏俶將萬人守陵寢。

兵の中に僧の趙宗印という者がおり、兵談を好み、席益がこれを推薦した。致虚は便宜を以て官を仮し、宣撫司参議官兼節制軍馬に充てさせた。致虚は大軍を率いて陸路に従い、宗印は舟師を率いて西京へ向かった。金人が京師を破り、登城せずに降伏する詔を持った者を遣わし、入援の師を止めさせようとしたが、致虚はこれを斬った。初め、金人が潼関を守っていたが、致虚がこれを奪い、長城を築き、潼関から龍門に至ったが、築いたのは肩までの高さに過ぎなかった。宗印はまた僧を一軍とし、「尊勝隊」と号し、童子行を一軍とし、「浄勝隊」と号した。致虚は勇あるも謀なく、己を委ねて宗印の言を聴いた。宗印は大言を弄するだけで、実は兵を知らなかった。ここに至り、宗印の舟師が三門津に至ると、致虚は兵を整えて潼関から出撃させた。金の守臣高世由はその帥の粘罕に言った、「致虚は儒者で兵を知らず、斥候三千を遣わすだけで十分にこれを殺せます」。致虚の軍が武関を出て、鄧州千秋鎮に至ると、金将の婁宿が精騎でこれを衝き、戦わずして潰え、死者は過半に及んだ。杜常・夏俶は先に遁走し、致虚はこれを斬った。孫昭遠・王似・王倚らは陝府に留まり、致虚は余兵を収めて潼関に入った。致虚が鼓行して関を出ようとした時、裨将の李彦仙が言った、「行軍は速さが利点であり、多くの支軍を作れば、宿営地に至っても滞らず、敗れても全滅しない。もし大軍が群れをなして殽・澠から出れば、一たび険地で蹴られれば皆潰えます」。致虚は聞き入れず、遂に敗北に至った。

原文兵有僧趙宗印者,喜談兵,席益薦之。致虛以便宜假官,俾充宣撫司參議官兼節制軍馬。致虛以大軍遵陸,宗印以舟師趨西京。金人破京師,遣人持登城不下之詔,以止入援之師,致虛斬之。初,金人守潼關,致虛奪之,作長城,起潼關迄龍門,所築僅及肩。宗印又以僧為一軍,號「尊勝隊」,童子行為一軍,號「淨勝隊」。致虛勇而無謀,委己以聽宗印。宗印徒大言,實未嘗知兵。至是,宗印舟師至三門津,致虛使整兵出潼關。金守臣高世由謂其帥粘罕曰:「致虛儒者,不知兵,遣斥候三千,自足殺之。」致虛軍出武關,至鄧州千秋鎮,金將婁宿以精騎衝之,不戰而潰,死者過半。杜常、夏俶先遁,致虛斬之。孫昭遠、王似、王倚等留陝府,致虛收餘兵入潼關。方致虛之鼓行出關也,裨將李彥仙曰:「行者利速,多為支軍,則舍不至淹,敗不至覆。若眾群聚而出殽、澠,一蹴於險,則皆潰矣。」致虛不聽,遂底於敗。

高宗が即位すると、言事官が彼の逗留して進軍しないことを論難し、鄧州知州に転任させられた。まもなく観文殿学士を加えられ、再び京兆府知府となったが、致虛は強く辞退し、代わりに席益・李彌大・唐重を推薦した。詔により唐重を京兆府守備とし、致虛は再び鄧州知州となった。翌年、宗印が兵を率いて武関を出て、致虛と合流した。ちょうど金の将軍銀朱が兵を率いて国境を圧迫したため、致虛は逃亡し、宗印の兵は戦わずに敗走し、転運使劉汲は奮戦して死んだ。致虛は官職を剥奪され、安遠軍節度副使に降格され、英州に配流された。高宗が建康に行幸した際、資政殿学士に復職させられ、鼎州知州に任命された。巴陵に至ったところで死去し、銀青光禄大夫を追贈された。

原文高宗即位,言者論其逗撓不進,徙知鄧州。尋加觀文殿學士,復知京兆府;致虛力辭,而薦席益、李彌大、唐重自代。詔以重守京兆,致虛復知鄧州。次年,宗印領兵出武關,與致虛合。會金將銀朱兵壓境,致虛遁,宗印兵不戰走,轉運使劉汲力戰死焉。致虛坐落職,責授安遠軍節度副使,英州安置。高宗幸建康,召復資政殿學士、知鼎州。行至巴陵卒,贈銀青光祿大夫。

呂好問

原文呂好問

呂好問、字は舜徒、侍講希哲の子である。蔭位により官に補せられた。崇寧初年、朋党事件が処断されると、好問は元祐の子弟として連座して免職となった。二度東嶽廟の監を務め、揚州儀曹を管轄した。当時蔡卞が帥としており、善類に取り入ろうとして、好問を特に厚遇した。好問は礼をもって自らを律し、蔡卞は親しくすることができなかった。蔡卞が政権を得ると、当時の属官はほとんど抜擢されたが、ただ好問だけが留め置かれ、蔡卞はそれとなく言った、「君が少しでも私に親しんでくれれば、すぐに高位に登れるのに」。好問は笑って答えなかった。

原文呂好問,字舜徒,侍講希哲子也。以蔭補官。崇寧初,治黨事,好問以元祐子弟坐廢。兩監東嶽廟,司揚州儀曹。時蔡卞為帥,欲扳附善類,待好問特異。好問以禮自持,卞不得親。及卞得政,當時據屬拔擢略盡,獨好問留滯,卞諷之曰:「子少親我,即階顯列矣。」好問笑不答。

靖康元年、推薦により召されて左司諫・諫議大夫となり、御史中丞に抜擢された。欽宗は彼に諭して言った、「卿は元祐の子孫である。朕は特に卿を用い、天下に朕の意向を知らしめよう」。先に、徽宗が内禅しようとした時、党禁を解き、新法を廃止し、祖宗の旧制を全て復活させる詔を下した。しかし蔡京の党与が朝廷内外に根を張り、その事を妨害し、誰も実行しようとしなかった。好問は言った、「時局の利害、政治の欠失については、太上皇の詔旨に詳しい。直言の士が上疏して論じても、これを超えるものはなく、ただ一つ一つ施行するのみです」。また言った、「陛下は宵衣旰食して治世を求めるお志があり、号令を発して治世を求めるお言葉がある。今に至るまで半年、治績は遠く及ばず、これは左右前後の者が徳意を推し広めず、陛下が寛容に過ぎるためです。臣は恐れますが、淳厚な徳が頽靡に変わり、今蔡京・童貫らの所業を徹底的に改めなければ、太平は実現できません」。欽宗はこれを嘉納した。好問は蔡京の過悪を上疏し、海外に流すことを請い、特に朋党に附く者を罷免して残りを戒めさせた。また王安石の王爵を削り、神宗の配饗を正し、江公望・張庭堅・任伯雨・龔𡙇らを表彰し、青苗法の令を廃止し、元符年間に上書して譴責を受けた者を赦免するよう建議し、前後十度上疏した。奏対のたびに、帝は食事中でも、必ず彼に言い終えさせた。

原文靖康元年,以薦召為左司諫、諫議大夫,擢御史中丞。欽宗諭之曰:「卿元祐子孫,朕特用卿,令天下知朕意所向。」先是,徽宗將內禪,詔解黨禁,除新法,盡復祖宗之故。而蔡京黨戚根據中外,害其事,莫肯行。好問言:「時之利害,政之闕失,太上皇詔旨備矣。雖使直言之士抗疏論列,無以過此,願一一施行之而已。」又言:「陛下宵衣旰食,有求治之意;發號施令,有求治之言。逮今半載,治效逾邈,良由左右前後,不能推廣德意,而陛下過於容養。臣恐淳厚之德,變為頹靡,且今不盡革京、貫等所為,太平無由可致。」欽宗鄉納。好問疏蔡京過惡,乞投海外,黜朋附之尤者以厲其餘。又建白削王安石王爵,正神宗配饗,褒表江公望,張庭堅、任伯雨、龔𡙇等,除青苗之令,湔元符上書獲譴者,章前後疏十上。每奏對,帝雖當食,輒使畢其說。

当時、金軍が既に退いたため、大臣は再び顧慮せず、軍備はますます弛緩した。好問は言った、「金人は目的を達し、ますます中国を軽んじ、秋冬には必ず国を挙げて再び来襲するでしょう。敵を防ぐ備えは、速やかに講じるべきです。今、辺境の事態について計画してから十日一月経っても、何ら措置が講じられず、臣僚の奏請も全て下されません。これが臣の深く恐れるところです」。辺境の警報が急を告げると、大臣はどうしてよいかわからず、使者を派遣して講和を求めた。金人は偽って承諾しながらも攻撃略奪をやめず、諸将は和議のため、皆城壁を閉じて出撃しなかった。好問は言った、「彼らは和議を名目とし実は攻撃している。朝廷が進兵し将を派遣することを謀らないのは、どういうわけか。急ぎ滄州・滑州・邢州・相州の守備兵を集めて突進を防ぎ、勤王の軍を畿内の邑に配置して京城を守備すべきです」。上疏したが省みられなかった。

原文時金人既退,大臣不復顧慮,武備益弛。好問言:「金人得志,益輕中國,秋冬必傾國復來,禦敵之備,當速講求。今邊事經畫旬月,不見施設,臣僚奏請皆不行下,此臣所深懼也。」及邊警急,大臣不知所出,遣使講解。金人佯許而攻略自如,諸將以和議故,皆閉壁不出。好問言:「彼名和而實攻,朝廷不謀進兵遣將,何也?請亟集滄、滑、邢、相之戍,以遏奔沖,而列勤王之師於畿邑,以衛京城。」疏上不省。

金軍が真定を陥とし、中山を攻撃すると、上下震駭し、廷臣は狐疑して顔を見合わせ、なおも和議を口実とした。好問は台官を率いて大臣の畏懦と国誤りを弾劾し、好問は袁州知州に左遷された。欽宗はその忠を憐れみ、吏部侍郎に降格した。まもなく金軍が都城に迫ると、欽宗は好問の言葉を思い出し、兵部尚書に進めた。都城が陥落すると、好問を禁中に召し入れ、軍民数万が左掖門を斧で打ち破って天子に面会を求めた。好問は帝に従って楼に臨み、これを諭して帰らせた。衛士長蔣宣が配下数百を率い、乗輿を遮って包囲を突破しようとした。左右の者は逃げ散り、ただ好問と孫傅・梅執礼が侍していた。蔣宣が声を張り上げて言った、「国事がここに至ったのは、皆宰相が奸臣を信任し、直言を用いなかったためである」。孫傅がこれを叱責した。蔣宣が言葉で孫傅を冒すると、好問は諭して言った、「お前たちが家族を忘れ、重囲を冒して上を守り出ようとするのは、誠に忠義である。しかし乗輿が出発するには、必ず甲冑車馬が整ってから動くべきで、どうして軽率にできるだろうか」。蔣宣は屈服して言った、「尚書は真に軍情をご存知だ」。配下を率いて退いた。

原文金人陷真定,攻中山,上下震駭,廷臣狐疑相顧,猶以和議為辭。好問率臺屬劾大臣畏懦誤國,出好問知袁州。欽宗憫其忠,下遷吏部侍郎。既而金人薄都城,欽宗思好問言,進兵部尚書。都城失守,召好問入禁中,軍民數萬斧左掖門求見天子,好問從帝御樓諭遣之。衛士長蔣宣帥其徒數百,欲邀乘輿犯圍而出,左右奔竄,獨好問與孫傅、梅執禮侍,宣抗聲曰:「國事至此,皆宰相信任姦臣,不用直言所致。」傅呵之。宣以語侵傅,好問曉之曰:「若屬忘家族,欲冒重圍衛上以出,誠忠義。然乘輿將駕,必甲乘無闕而後動,詎可輕邪?」宣詘服曰:「尚書真知軍情。」麾其徒退。

帝が再び金の陣営に行幸され、好問はこれに従った。帝が留め置かれると、好問を帰還させ、都城を慰撫させた。やがて金人が張邦昌を立てると、好問を事務官とした。邦昌が都省に入居すると、好問は言った、「相公は真に即位なさるおつもりですか。それとも暫く敵の意を塞ぎ、徐々に図るつもりですか」。邦昌は言った、「これはどういう言葉か」。好問は言った、「相公は中国の人情の向かうところをご存知ですか。ただ女真の兵威を恐れているだけです。女真が去った後、今日のままを保てるでしょうか。大元帥は外におられ、元祐皇太后は内におられます。これはまさに天意であり、どうして急ぎ政権を返還されず、禍を転じて福となされないのですか。また省中は人臣の居るところではなく、直殿廬に寓居し、衛士に階の両側に立たせないようにすべきです。敵が遺した袍帯は、戎人が傍にいない時は脱いで着用すべきではありません。車駕が未だ帰還されていないのに、発する文書を聖旨と称するのは不当です」。好問を門下省代理とした。好問は官職に就いた後も、旧職を執り行った。当時、邦昌は年号を改めなかったが、百官の文書移牒は必ず年号を省いた。ただ好問の行う文書だけが「靖康二年」と称した。吳幵・莫儔が邦昌に紫宸殿・垂拱殿で金使に会うよう請うたが、好問は言った、「宮省の旧吏が突然正衙で皇帝を見れば、必ず憤慨驚愕し、予測できない変事が起こるでしょう。どうなさいますか」。邦昌は愕然として止めた。王時雍が大赦を行うことを議したが、好問は言った、「四壁の外は、皆我々のものではありません。誰を赦すというのですか」。そこでまず城中を赦した。

原文帝再幸金營,好問實從,帝既留,遣好問還,尉拊都城。已而金人立張邦昌,以好問為事務官。邦昌入居都省,好問曰:「相公真欲立邪?抑姑塞敵意而徐為之圖爾?」邦昌曰:「是何言也?」好問曰:「相公知中國人情所向乎?特畏女真兵威耳。女真既去,能保如今日乎?大元帥在外,元祐皇太后在內,此殆天意,盍亟還政,可轉禍為福。且省中非人臣所處,宜寓直殿廬,毋令衛士夾陛。敵所遺袍帶,非戎人在旁,弛勿服。車駕未還,所下文書,不當稱聖旨。」以好問攝門下省。好問既繫銜,仍行舊職。時邦昌雖不改元,而百司文移,必去年號,獨好問所行文書,稱「靖康二年」。吳幵、莫儔請邦昌見金使於紫宸、垂拱殿,好問曰:「宮省故吏驟見御正衙,必將憤駭,變且不測,奈何?」邦昌矍然止。王時雍議肆赦,好問曰:「四壁之外,皆非我有,將誰赦?」乃先赦城中。

初め、金人が五千騎で康王を捕らえようと謀った。好問はこれを聞き、すぐに人を遣わして書を送り王に告げた、「大王の兵は、撃てると見込めば迎撃し、そうでなければ遠く避けるべきです」。また言った、「大王がご自身で立たれなければ、立つべからざる者が立つ恐れがあります」。さらにまた邦昌に言った、「天命人心は皆大元帥に帰しております。相公が先に人を遣わして推戴すれば、その功は相公の右に出る者はいません。もし機会を捉えずに発動しなければ、他の者が大義を唱えて討伐に来れば、後悔しても及ばないでしょう」。そこで邦昌は謝克家を遣わして伝国璽を大元帥府に奉じることを謀り、金軍が退去してから発することにした。金将が帰還しようとした時、兵を留めて邦昌を守衛することを議した。好問は言った、「南北の風土は異なり、北兵が風土に慣れず、必ず不安を生じるでしょう」。金人は言った、「一つの勃堇を留めて統率させればよい」。好問は言った、「勃堇は貴人であり、もし発病などがあれば、罪は一層深くなります」。そこで兵を留め置くことはしなかった。金軍が去ると、好問は急ぎ使者を大元帥府に遣わして即位を勧め、元祐太后の垂簾聴政を請い、邦昌に服を改めて太宰の位に帰るよう求めた。太后は延福宮から入り、聴政した。

原文始,金人謀以五千騎取康王,好問聞,即遣人以書白王,言:「大王之兵,度能擊則邀擊之,不然,即宜遠避。」且言:「大王若不自立,恐有不當立而立者。」既又語邦昌曰:「天命人心,皆歸大元帥,相公先遣人推戴,則功無在相公右者。若撫機不發,他人聲義致討,悔可追邪?」於是邦昌謀遣謝克家奉傳國寶往大元帥府,須金人退乃發。金將將還,議留兵以衛邦昌。好問曰:「南北異宜,恐北兵不習風土,必不相安。」金人曰:「留一勃堇統之可也。」好問曰:「勃堇貴人,有如觸發致疾,則負罪益深。」乃不復留兵。金人既行,好問趣遣使詣大元帥府勸進,請元祐太后垂簾,邦昌易服歸太宰位。太后自延福宮入聽政。

高宗が即位すると、太后は好問を遣わし、親書を奉じて行在所に詣らせた。高宗はこれを労って曰く、「宗廟が全きを得たのは、卿の力である」と。尚書右丞に除す。丞相李綱は、群臣が囲城の中にあって節を執ることができなかったことを以て、悉くその罪を按じようとした。好問曰く、「王業艱難なり、政に垢を含むべきなり。峻法を以てこれを縄すれば、懼るる者衆し」と。侍御史王賓は、好問が嘗て偽命に汚れたことを論じ、新朝に立つべからずとす。高宗曰く、「邦昌が僭号した初め、好問は人を募り白書を齎し、京師内外の事を具に道いた。金人の退くや、又人を遣わして進むを勧む。その心跡を考うれば、他人に比すべからず」と。好問自ら慚じ、力を尽くして去らんことを求め、且つ言う、「邦昌が僭号せし時、臣若し門を閉ざし身を潔くせば、実に難からざりしを。徒に世に国恩を被るを以て、賢者の責を受け、囲みを冒して書を陛下に齎す所以なり」と。疏入り、資政殿学士・知宣州・提挙洞霄宮に除し、恩を以て東萊郡侯に封ぜらる。地を避け、桂州に卒す。

原文高宗即位,太后遣好問奉手書詣行在所,高宗勞之曰:「宗廟獲全,卿之力也。」除尚書右丞。丞相李綱以群臣在圍城中不能執節,欲悉按其罪。好問曰:「王業艱難,政宜含垢,繩以峻法,懼者眾矣。」侍御史王賓論好問嘗汙偽命,不可以立新朝。高宗曰:「邦昌僭號之初,好問募人齎白書,具道京師內外之事。金人甫退,又遣人勸進。考其心跡,非他人比。」好問自慚,力求去,且言:「邦昌僭號之時,臣若閉門潔身,實不為難。徒以世被國恩,所以受賢者之責,冒圍齎書于陛下。」疏入,除資政殿學士、知宣州、提舉洞霄宮,以恩封東萊郡侯。避地,卒于桂州。

子:本中、揆中、弸中、用中、忱中。孫:祖謙、祖儉。本中、祖謙、祖儉は別に伝有り。

原文子:本中、揆中、弸中、用中、忱中。孫祖謙、祖儉。本中、祖謙、祖儉別有傳。

論じて曰く、朱勝非・呂頤浩は苗・劉の変に処し、或いは巽にその智を用い、或いは震い奮ってその威を奮い、その復辟討賊の功に於いて、固より言うべき有り。然れども李綱・趙鼎は当世の所謂賢者なり。而るに勝非・頤浩これを視ること氷炭の若く然り。その中に存する所、果たして何如なるか。范宗尹は張邦昌の偽命に汚るるを忍び、而して李綱を誣いて震主の威有りとす。何ぞ其れ是非に繆れることの甚だしきや。范致虚は佞って権臣に附き、大誼已に失う。その勤王の師を総べるや、軽にして謀寡く、以て敗に底す。宜なるかな。若し呂好問の艱難の際に処するや、その跡は宗尹と同じ。而して己を屈して事に就き、以て興復を規るは、亦た勝非の苗・劉に処するが若し。その心、亮るに足る有りと云う。

原文論曰:朱勝非、呂頤浩處苗、劉之變,或巽用其智,或震奮其威,其於復辟討賊之功,固有可言矣。然李綱、趙鼎當世之所謂賢者,而勝非、頤浩視之若冰炭然,其中之所存,果何如哉。范宗尹忍于汙張邦昌之偽命,而誣李綱以震主之威,何其繆於是非也。范致虛佞附權臣,大誼已失,其總勤王之師,輕而寡謀,以底於敗,宜哉。若呂好問處艱難之際,其跡與宗尹同,而屈己就事,以規興復,亦若勝非之處苗、劉,其心有足亮云。