宋史

列傳第一百二十 張浚

張浚

張浚、字は德遠、漢州綿竹の人、唐の宰相九齢の弟九皋の後裔なり。父の咸は、進士・賢良の両科に挙げらる。浚四歳にして孤となり、行ひ直く視端し、誑ふる言無く、識者大器たるを知る。太学に入り、進士第に中る。靖康初、太常簿と為る。張邦昌僭立す、逃れて太学中に入る。高宗の即位を聞き、馳せて南京に赴き、枢密院編修官を除せられ、虞部郎に改め、殿中侍御史に擢てらる。駕幸東南、後軍統制韓世忠の部する所、諫臣を逼逐して水に墜ち死せしむ、浚奏して世忠の観察使を奪ひ、上下始めて国法有るを知る。侍御史に遷る。

時に乗輿揚州に在り、浚言す、「中原は天下の根本なり、願くは詔を下して東京・関陝・襄鄧を葺ひ、巡幸を待たしめよ」と。宰相の意に咈ひ、集英殿修撰・知興元府を除せらる。未だ行かず、礼部侍郎に擢てられ、高宗召して諭して曰く、「卿は知りて言はざる無く、言ひて尽さざる無し、朕将に為す有らんとす、正に一飛して天を衝かんと欲して羽翼無きが如し、卿勉めて留まり朕を輔けよ」と。禦営使司参賛軍事を除す。浚度るに金人必ず来たりて攻めんとし、而るに廟堂晏然として、殊に備へを為さず、力を宰相に言ふ、黄潛善・汪伯彦皆其の計に過ぐるを笑ふ。

建炎三年春、金人南侵し、車駕錢塘に幸す、朱勝非を呉門に留めて捍禦せしめ、浚を以て軍馬を同節制せしむ、已にして勝非召さる、浚独り留まる。時に潰兵数万、至る所剽掠し、浚招集し甫めて定まる。会に苗傅・劉正彥乱を作し、元を改め赦書平江に至る、浚命じて守臣湯東野に秘して宣べしめず。未だ幾もせず、傅等檄を以て来たり、浚慟哭し、東野及び提点刑獄趙哲を召して兵を起し賊を討たんと謀る。

時に傅等承宣使張俊を以て秦鳳路総管と為し、俊万人を将ひて還り、将に兵を卸して西せんとす。浚上の俊に遇ふこと厚く、而して俊純実にして大事を謀る可きを知り、急ぎ俊を邀へ、手を握りて故を語り、相ひ持して泣き、因りて将に兵を起し罪を問はんとするを告ぐ。時に呂頤浩建業を節制し、劉光世兵を領して鎮江に鎮す、浚人を遣はして蠟書を齎し、頤浩・光世を約して兵を以て来たり会はしめ、而して俊を命じて兵を分かち呉江を扼せしむ。上疏して復辟を請ふ。傅等謀りて浚の礼部尚書を除し、命じて将に部する所を行在に詣らしめんとす、浚大兵未だ集まらず、未だ賊を討つことを誦言せんと欲せず、乃ち張俊驟に回るを托し、人情震讋し、少しく留まりて其の軍を撫する可からざる無しと云ふ。

会に韓世忠の舟師常熟に抵る、張俊曰く、「世忠来る、事済れり」と。浚に白して書を以て之を招かしむ。世忠至り、浚に対ひて慟器して曰く、「世忠と俊と身を以て之を任せんことを請ふ」と。浚因りて大いに俊・世忠の将士を犒ひ、諸将校を呼びて前に至らしめ、声を抗ひて問ひて曰く、「今日の挙、孰れか順にして孰れか逆なる」と。衆皆曰く、「賊は逆にして我は順なり」と。浚曰く、「賊重賞を以て吾が首を購ふと聞く、若し浚此の挙天に違ひ人に悖らば、汝等浚が頭を取りて去る可し、然らずんば、一たび退縮有らば、悉く軍法を以て事に従ふ」と。衆感憾憤す。ここに於て、世忠を令して兵を以て闕に赴かしめ、而して其の急に秀州に趨り、糧道を拠りて大軍の至るを俟たしむ。世忠秀に至り、即ち大いに戦具を治む。

会に傅等書を以て浚を招く、浚報じて云く、「古より言不順に渉るを、之を指斥乗輿と謂ひ、事不遜に渉るを、之を震驚宮闕と謂ひ、廃立の事を、之を大逆不道と謂ひ、大逆不道なる者は族す。今建炎皇帝失徳を聞かず、一旦遜位す、豈に宜しく聞く所ならんや」と。傅等書を得て恐れ、乃ち重兵を遣はして臨平を扼せしめ、亟に俊・世忠の節度使を除し、而して浚社稷を危うせんと欲すを誣ひ、柳州安置を責む。俊・世忠拒みて受けず。会に呂頤浩・劉光世の兵踵きて至る、浚乃ち傅・正彥の罪を声し、檄を中外に伝へ、諸軍を率ひて継ぎて進む。

初め、浚客馮轓を遣はして計策を以て往きて傅等を説かしむ、会に大軍将に至らんとし、傅・正彥憂恐して出づる所を知らず。轓其の動かす可きを知り、即ち大義を以て宰相朱勝非に白し、百官を率ひて復辟を請はしむ。高宗御筆を以て浚を知枢密院事と除す。浚進みて臨平に次ぐ、賊兵拒みて前を得ず、世忠等搏戦し、大いに之を破り、傅・正彥脱して遁る。浚頤浩等と入り見え、地に伏して涕泣し罪を待つ、高宗問労再三し、曰く、「曩に睿聖に在り、両宮隔絶す。一日羹を啜るに、小黄門忽ち太母の命を伝ふ、已むを得ず卿を貶して郴州とす。朕覚えず羹手に覆る、卿の謫せらるるを念ひ、此の事誰か任せん」と。浚を留め、内殿に引入れて曰く、「皇太后卿の忠義を知り、卿が面を識らんと欲す、適た簾を垂れ、卿の庭を過ぐるを見たり」と。服する所の玉帯を解きて以て賜ふ。高宗浚を相せんと欲す、浚晚進を以て、敢へて当たらず。傅・正彦閩中に走る、浚世忠を命じて追ひ縛りて以て献ぜしめ、其の党と皆伏誅す。

初め、浚秀州に次ぎ、嘗て夜坐す、警備甚だ厳なり、忽ち客有り前に至り、一紙を懐中に出して曰く、「此れ苗傅・劉正彦の公を賊し賞格を募るなり」と。浚問ふ「何をか為さんと欲す」と、客曰く、「僕河北の人、粗く書を読み、逆順を知る、豈に身を以て賊に用ひられんや、特に備へ厳しからざるを見、後来の者有らんことを恐るるのみ」と。浚下りて其の手を執り、姓名を問ふ、告げずして去る。浚翌日死囚を斬りて衆に徇し、曰く、「此れ苗・劉の刺客なり」と。私に其の状貌を識りて物色す、終に遇はず。

巨盗薛慶淮甸に嘯聚し、数万人に至る。浚其の滋蔓するを恐れ、径ちに高郵に至り、慶の壘に入り、朝廷の恩意を以て諭す。慶感服して下拝し、浚留まりて其の衆を撫す。或は伝ふるに浚賊に執へらるると、呂頤浩等遽かに浚の枢筦を罷む。浚帰る、高宗驚歎し、即日職に就くを趣す。

浚謂ふ中興は当に関陝より始まるべく、慮るに金人或は先づ陝に入りしょくを取らば、則ち東南保つ可からずと、遂に慷慨して行くを請ふ。詔して浚を以て川・陝宣撫処置使と為し、便宜黜陟を得しむ。将に行かんとす、禦営平寇将軍范瓊、衆を擁して章より行在に至る。先づ是に、靖康城破れ、金人君・后・太子・宗室を逼脅して北行せしむ、多く瓊の謀なり、又勢に乗じて剽掠し、左右張邦昌し、之が為に従衛す。是に至りて朝に入り、悖傲礼無く、且つ逆党傅・正彦等の死罪を貸さんことを乞ふ。浚瓊の大逆不道を奏し、典憲を伸ぶることを乞ふ。翌日、瓊を召して都堂に至らしめ、其の罪を数へ切責し、棘寺に送りて死を論ず。其の軍を分かち神武軍に隷し、然る後行く。沿江襄・漢の守臣と議し儲蓄し、以て臨幸を待つ。

高宗浚に大計を問ふ、浚身を任して陝・蜀の事を請ひ、幕府を秦川に置き、別に大臣を遣はして韓世忠と淮東に鎮せしめ、呂頤浩を令して蹕を扈ひて武昌に来たらしめ、復た張俊・劉光世を以て秦川と相首尾せしむ。議既に定まり、浚行く、未だ武昌に及ばずして、頤浩初めの議を変ず。浚既に興元に抵る、金人已に鄜延を取り、ぎょう将婁宿孛堇大兵を引きて渭を渡り、永興を攻む、諸将相援くるを肯ぜず。浚至りて、即ち出でて関陝を行き、風俗を訪問し、奸贓を罷斥し、以て豪傑を搜攬するを先務と為し、諸将惕息して命を聴く。

間者が金人が東南を攻めんとすとの報を伝えるや、張浚は諸将に命じて軍を整え敵に向かわしめた。やがて金人が大いに江・淮を攻め、浚は直ちに軍を治めて入衛した。房州に至り、金人が北帰したことを知り、再び関陝に還った。時に金の帥兀術はなお淮西に在り、浚は其の再び東南を擾わすを懼れ、牽制を謀り、遂に策を決して兵を治め、五路の師を合わせて永興を復さんとした。金人大いに恐れ、急ぎ兀術等を調して京西より入援せしめ、富平にて大戦す。涇原の帥劉錡は身を以て将士を率いて敵陣に迫り、殺獲頗る衆し。時に環慶の帥趙哲が勝手に其の部を離るるに会い、哲の軍の将校は塵の上がるを見て驚き遁れ、諸軍皆潰えた。浚は哲を斬って衆に示し、興州に退きて保つ。呉玠に命じて兵を聚め、鳳翔の和尚原・大散関に険を扼せしめて敵の来路を断たしめ、関師古等に熙河の兵を岷州の大潭に聚めしめ、孫渥・賈世方等に涇原・鳳翔の兵を階・成・鳳の三州に聚めしめて、蜀口を固めしむ。浚は上書して罪を待ち、帝は手詔を以て慰勉した。

紹興元年、金の将烏魯が和尚原を攻むるや、呉玠は険に乗じて之を撃ち、金人大いに敗れて走る。兀術また兵を合わせて至るや、玠及び其の弟璘また邀撃して、大いに之を破り、兀術は僅かに身を以て免れ、急ぎ其の鬚髯を剃りて遁れ帰る。初め、粘罕病篤く、諸将に語りて曰く、「吾の中国に入りてより、未だ嘗て敢えて吾が鋒に攖う者有らず、独り張枢密のみ我と抗す。我在りても、猶蜀を取る能わず。我死なば、爾曹宜しく意を絶ち、但だ自保を務むるのみ。」兀術怒りて曰く、「是れ我が能わざるを謂うか。」粘罕死し、竟に攻め入り、果たして敗る。浚を検校少保・定国軍節度使に拝す。

浚、関陝に在ること三年、新たに集めたる兵を訓え、方に張らんとする敵に当たり、劉子羽を上賓と為し、趙開を都転運使に任じ、呉玠を大将に擢て鳳翔を守らしむ。子羽は慷慨として才略有り、開は善く財を理め、而して玠は戦う毎に輒ち勝つ。西北の遺民、帰附日増しに衆し。故に関陝は失うれども、全蜀は按堵し、且つ形勢を以て東南を牽制し、江・淮も亦た之に頼りて安んず。

将軍曲端と云う者は、建炎中、嘗て帥臣王庶を迫逐して其の印を奪う。呉玠、彭原に敗れ、端が師を整えざるを訴う。富平の役、端の議合わず、其の腹心張忠彦等敵に降る。浚初め端を超用し、中に坐して廃せられ、猶再び之を用いんと欲す。後ついに端を下獄して死を論ず。会に浚が趙哲・曲端を殺すは無辜にして、而して子羽・開・玠を任ずるは是れ非なりと云う言有り、朝廷之を疑う。三年、王似を遣わして浚を副わす。会に金の将撒離曷及び劉豫の叛党、兵を聚めて入攻し、金州を破る。子羽は興元の帥と為り、呉玠と約して三泉を同守す。金人金牛に至るや、宋師掩撃して之を斬り、馘及び溪谷に墮ちて死する者、数千を以て計う。浚、王似の来るを聞き、兵柄を解かんことを求め、且つ似の任ずべからざるを奏す。宰相呂頤浩悦ばず、而して朱勝非は宿憾を以て日増しに浚を毀謗し、詔して浚を行在に赴かしむ。

四年の初め、辛炳、潭州を知り、浚は陝に在りて、檄を以て兵を発すれども、炳は遣わさず、浚奏して之を劾す。是に至り、炳は御史中丞と為り、同列を率いて浚を劾し、本官を以て洞霄宮を提挙せしめ、福州に居らしむ。浚既に国を去り、金人が川・陝の兵を釈かば、必ず力を併せて東南を窺わんことを慮り、而して朝廷已に講解を議す。乃ち上疏して極言其の状を言う。未だ幾ばず、劉豫の子麟、果たして金人を引きて入攻す。高宗、浚の前言を思い、朱勝非を策免す。而して参知政事趙鼎は平江に幸するを請う。乃ち浚を召して資政殿学士・万寿観提挙兼侍読と為す。入見するや、高宗手詔を以て浚の前の誣を弁じ、枢密院事を知るを除す。

浚既に命を受け、即日江上に赴きて師を視る。時に兀術、兵十万を擁して揚州に在り、日を約して江を渡り決戦せんとす。浚は長駆して江に臨み、韓世忠・張俊・劉光世を召して事を議す。将士浚を見るや、勇気十倍す。浚既に諸将を部分し、身は鎮江に留まりて之を節度す。世忠、麾下の王愈を遣わして兀術に詣り戦を約し、且つ張枢密は已に鎮江に在りと言わしむ。兀術曰く、「張枢密は嶺南に貶せられたり、何ぞ乃ち此に在るを得ん。」愈、浚の下したる文書を出して之を示す。兀術色変じ、夕べに遁る。

五年、尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密院事知を除し、諸路軍馬を都督ととくし、趙鼎は左僕射を除す。浚と鼎は同志として治を輔け、務めて幸門を塞ぎ、近習を抑う。時に巨寇楊麼、洞庭に拠り、屡攻して克たず。浚は建康は東南の都会にして、而して洞庭は上流に拠るを以て、蔓延して害を為さんことを恐れ、盛夏に因り其の怠に乗じて之を討たんことを請い、具に奏して行くを請う。醴陵に至り、邑の囚数百を釈く。皆楊麼の諜者なり。文書を与え、俾く諸砦を招諭せしむ。囚歓呼して往く。潭に至れば、賊衆二十余万相継ぎ来降し、湖寇尽く平ぐ。上、浚に書を賜い、謂う、「上流既に定まれば、則ち川陝・荊襄の形勢接連し、事力倍増す。天其れ中興の功を卿に付すか。」浚遂に奏して岳飛を遣わし荊・襄に屯せしめて中原を図らしめ、乃ち自ら鄂・嶽より淮東に転じ、諸将を大会し、防秋の宜を議す。高宗、使を遣わし詔を賜いて帰るを趣け、労問して曰く、「卿暑行甚だ労す。湖湘の群寇既に招撫に就き、朕が殺さざるの仁を成すは、卿の功なり。」便殿に召対し、《中興備覧》四十一篇を進む。高宗嘉歎し、之を坐隅に置く。

浚は敵勢未だ衰えず、而して叛臣劉豫また中原に拠るを以て、六年、諸将を江上に会して事を議し、榜を掲げて豫の僭逆の罪を明らかにす。韓世忠に命じて承・楚に拠りて淮陽を図らしめ、劉光世に命じて合肥に屯して北軍を招かしめ、張俊に命じて建康に兵を練り、進んで盱眙に屯せしめ、楊沂中に命じて精兵を領して後翼と為り俊を佐けしめ、岳飛に命じて進んで襄陽に屯し中原を窺わしむ。浚は江を渡り、遍く淮上の諸戍を撫す。時に張俊の軍は進んで盱眙に屯し、岳飛は兵を遣わして蔡州に入らしむ。浚は入覲し、力めて建康に幸するを請う。車駕進発し、浚は先ず江上に往く。間者が劉豫が甥の猊と金人を挟みて入攻すと報ずるや、浚奏す、「金人は敢えて衆を悉くして来たらず、此れ必ず豫の兵なり。」辺報一ならず、俊・光世皆敵勢を張大す。浚謂う、「賊豫は逆を以て順を犯す。剿除せずんば何を以て国と為さん。今日の事、進む有りて退く無し。」且つ楊沂中に命じて往きて濠州に屯せしむ。劉麟、合肥に逼る。張俊は益兵を請い、劉光世は師を退かんと欲し、趙鼎及び簽書折彥質は岳飛の兵を召して東下せしめんと欲す。御書を付して浚に、俊・光世・沂中等をして還り江を保たしむ。浚奏す、「俊等が江を渡らば、則ち淮南無く、而して長江の険は敵と共にす。且つ岳飛一動かば、襄・漢に警有らん、復た何をか恃む所と為さん。」詔書之に従う。沂中の兵、濠州に抵る。光世は廬州を捨てて南し、淮西洶動す。浚聞き、疾駆して採石に至り、其の衆に令して曰く、「一人江を渡る者有らば斬らん。」光世復た軍を駐め、沂中と接す。劉猊、沂中を攻むるや、沂中大いに之を破り、猊・麟皆柵を抜きて遁る。高宗手書を以て嘉奨し、浚を召し還し、之を労う。

時に趙鼎らが臨安への還蹕を議し、浚は奏上して言う、「天下の事は、率先しなければ起こらず、三年の間に、陛下は再び江に臨み、士気は百倍す。今、六飛一たび還れば、人心は解體す」と。高宗は幡然として浚の計に従う。趙鼎は出でて紹興府の知事となる。浚は親民の官が治道の急務であるとして、郡守・監司・省郎・館閣の出入迭補の法を條具し、また災異を以て賢良方正科の復活を奏上す。

七年、浚の敵を退けた功績により、制を以て特進を除す。未だ幾ばくもなく、金紫光祿大夫を加う。問安使何蘚の帰還報告により徽宗皇帝・甯德皇后が相次いで崩御したと知り、上は慟哭し擗踴して、哀しみに勝えず。浚は奏上して言う、「天子の孝は、士庶と同じからず、必ず宗廟社稷に奉ずる所以を思うべし。今、梓宮未だ返らず、天下塗炭す。願わくは陛下、涕を揮って立ち、髪を斂めて趨り、一怒して以て天下の民を安んぜよ」と。上は乃ち浚に詔を草して中外に告諭せしむ。その文辞は甚だ哀切なり。浚はまた諸大将に命じて三軍に発哀成服せしむることを請う。中外感動す。浚は退いて上疏して曰く、「陛下は両宮を思慕し、百姓を憂労す。臣の至愚、任用に遭う。臣は毎に感慨自期し、誓って敵仇を殲滅せんとす。十年の間、親養闕然たり、爰に妻孥に及ぶも、これを私顧せず。その意も亦た陛下の孝養の心を遂げ、生民を塗炭より拯わんと欲するなり。昊天弔わず、禍變忽ち生じ、陛下をして無窮の痛みを抱かしむ。罪将に誰にか執らん。昔の陝・蜀の行を念うに、陛下臣に命じて曰く、『我れ北に大隙有り、この至恥を刷するは、惟だ爾が是に属す』と。而るに臣終に成功を隳し、敵をして憚ること無からしむ。今日の禍、端より臣より致る。罷黜を賜わるを乞う」と。上は詔して浚を起して視事せしむ。浚は再び上疏して待罪す。許されず、乃ち乗輿を請うて平江より発し、建康に至る。

浚は中外の政を総べ、幾事叢委するも、一身を以てこれを任ず。毎に奏対するに必ず仇恥の大なることを言い、反復再三す。上未だ嘗て容を改め涕を流さざることなし。時に天子方に精を厲し己を克ち、宮庭内侍を戒飭し、敢えて度を越える者無く、事の巨細を問わず必ず浚に諮り、諸将に賜う詔は、往々浚にこれを草せしむ。

劉光世は淮西に在りて、軍に紀律無し。浚は奏して光世を罷め、その兵を督府に属せしめ、参謀兵部尚書呂祉を命じて廬州に往きて節制せしむ。而して枢密院は督府の兵を握ることを嫌い、武帥を置くことを乞う。乃ち王德を都統制と為し、即ち軍中に酈瓊を取ってその副とす。浚はその不当を奏す。瓊も亦た徳と宿怨有り、状を列ねて御史台に訴う。乃ち張俊を宣撫使と為し、楊沂中・劉錡を制置判官と為して以てこれを撫せしむ。未だ至らざるに、瓊ら挙軍して叛き、呂祉を執りて劉豫に帰す。祉は行かず、瓊らを詈り、歯を碎き首を折りて死す。浚は咎を引きて去位を求む。高宗、代わるべき者を問い、且つ曰く、「秦檜は如何」と。浚曰く、「近く共に事とし、方にその暗きを知る」と。高宗曰く、「然らば則ち趙鼎を用いよ」と。檜、ここに由りて浚を憾む。浚は観文殿大学士を以て江州太平興国宮を提挙す。是に先立ち、浚は人を遣わして手榜を持ち偽地に入り劉豫を間し、及び酈瓊の叛き去るに及び、復た間を遣わして蠟書を持ち瓊に遺わす。金人は果たして豫を疑い、尋いでこれを廃す。台諫交々に詆り、浚は落職し、秘書少監を以て西京に分司し、永州に居る。九年、赦を以て官を復す。臨安府洞霄宮を提挙す。未だ幾ばくもなく、資政殿大学士・福州知事兼福建安撫大使を除す。

金は使を遣わし来たり、詔諭を以て名と為す。浚は五たび上疏してこれを争う。十年、金は盟に敗り、復た河南を取る。浚は奏して、権に因りて變を制すれば、則ち大勲集まる可きを願い、因りて大いに海舟千艘を治め、山東を直指するの計と為す。十一年、検校少傅・崇信軍節度使を除し、萬壽觀使を充て、奉朝請を免ず。十二年、和国公に封ず。

十六年、彗星西方に出づ。浚将に時事を極論せんとし、母の憂いを貽すを恐る。母その瘠せたるを訝り、故を問う。浚は実を以て対す。母その父の对策の語を誦して曰く、「臣は甯ろ言いて斧鉞に死すとも、忍びて言わずして以て陛下に負くこと能わず」と。浚の意乃ち決す。上疏して謂う、「当今の事勢は、譬えば大疽を頭目心腹の間に養い成すが如く、決せざれば止まざるなり。惟だ陛下、心にこれを謀り、情偽を謹み察し、我に在りて犯すべからざるの勢い有らしめ、庶幾くは社稷安全ならん。然らずんば、後将に臍をぜいわん」と。事は三省に下る。秦檜大いに怒り、台諫に令して浚を論ぜしめ、特進を以て江州太平興国宮を提挙せしめ、連州に居らしむ。二十年、永州に徙す。浚、国を去ること幾く二十年、天下の士、賢不肖を問わず、傾心して之を慕わざる莫し。武夫健将、浚を言う者は必ず咨嗟太息し、児童婦女に至るまで、亦た張都督の有るを知る。金人は浚を憚り、毎に使至るごとに必ず浚の安在を問い、惟だ其の復用を恐る。

当是の時、秦檜は寵を怙り位を固め、浚が正論を以て己を害するを懼れ、台臣に令して弾劾する所有らしめ、論ずるに必ず浚に及び、反って浚を国賊と謂い、必ず之を殺さんと欲す。張柄をして潭州を知らしめ、汪召錫を湖南に使わし、浚を図らしむ。張常先を江西に使わし、張宗元の獄を治め、株連して浚に及び、趙鼎の子汾を捕えて大理に下し、自ら誣りて浚と大逆を謀るを令す。会に檜死すに及びて乃ち免る。

二十五年、観文殿大学士・洪州判官を復す。浚は時に母喪を以て将に帰葬せんとす。天下の事二十年を檜に壊されたるを念い、邊備蕩馳す。又た金の亮の篡立を聞き、必ず兵を挙げんとす。自ら大臣を以て、義は休戚を同じくすとし、敢えて居喪を以て嫌とせず、具に奏してこれを論ず。会に星變有りて直言を求む。浚は謂う、金人は数年の間、勢い決して釁を求め兵を用いんとし、而して国家は宴安に溺れ、蕩然として備え無しと。乃ち上疏して極言す。而して大臣沈該・萬俟禼・湯思退らこれを見て、敵初め釁無しと謂い、浚を狂と為して笑う。台諫湯鵬舉・淩哲、浚の蜀に帰るを論じ、遠方を搖動するを恐る。詔して復た永州に居らしむ。服除きて落職し、本官を以て祠を奉ず。

三十一年春、旨有りて自便す。浚、潭に至り、欽宗の崩ずるを聞き、號慟して食わず、上疏して早く守戦の策を定むるを請う。未だ幾ばくもなく、亮の兵大いに侵入し、中外震動す。浚の観文殿大学士・潭州判官を復す。

時に金騎充斥し、王権の兵潰え、劉錡は退きて鎮江に帰る。遂に命を改めて浚を建康府判官兼行宮留守とす。浚、岳陽に至り、舟を買い風雪を冒して行く。東より来る者に遇いて云く、「敵兵方に採石を焚き、煙炎天に漲る。慎んで軽く進むこと無かれ」と。浚曰く、「吾れは君父の急に赴き、直ちに前に進みて乗輿の所在を求むるのみを知る」と。時に長江に一舟敢えて北岸を行く者無し。浚は小舟に乗りて徑く進み、池陽を過ぐ。亮の死するを聞く。余眾猶お二萬和州に屯す。李顯忠の兵は沙上に在り。浚往きてこれを犒う。一軍浚を見て、天より下るが如しと為す。浚、建康に至り、即ち牒して通判劉子昂に行宮の儀物を辦せしめ、乗輿の亟に臨幸するを請う。

三十二年、車駕建康に幸す。浚は道左に迎え拝す。衛士浚を見るに、手を以て額に加えざる者無し。時に浚は廃より起ち復用せられ、風采隱然たり。軍民皆な倚りて以て重しと為す。車駕将に臨安に還らんとし、浚を労って曰く、「卿此に在り、朕に北顧の憂い無し」と。建康・鎮江府・江州・池州・江陰軍の軍馬を兼ねて節制す。

金兵十万が海州を包囲したので、張浚は鎮江都統の張子蓋を救援に派遣し、これを大破した。張浚は忠義の士を招集し、また淮楚の壮勇を募り、陳敏を統制に任じた。かつ敵は騎兵に長け、我が軍は歩兵に長けるとし、歩兵を守るには弩に如くはなく、弩を守るには車に如くはないとして、陳敏に弩を専制させ車を整備させた。

孝宗が即位すると、張浚を召し入れて謁見し、顔色を改めて言った、「公の名はかねてより承っている。今、朝廷が恃むところは公のみである」。座を賜り下問を受けると、張浚は従容として言った、「人主の学問は、心を根本とする。一心が天に合すれば、何事か成らざらん。いわゆる天とは、天下の公理に過ぎない。必ずや兢兢業業として自らを保ち、清明をに在らしめれば、賞罰挙措、当らざるはなく、人心自ずから帰し、敵仇自ずから服する」。孝宗は悚然として言った、「公の言を忘れぬよう心がけよう」。少傅・江淮東西路宣撫使に任じ、魏国公に進封された。翰林学士の史浩が瓜州と採石に城を築くことを議した。張浚は、両淮を守らずして江岸を守るのは、敵に弱体を示し、戦守の気を怠らせるものであり、先ず泗州に城を築くに如かぬと述べた。やがて史浩が参知政事になると、張浚の計画するものは、史浩が必ず阻んだ。張浚は陳俊卿を宣撫判官に推薦し、孝宗は陳俊卿と張浚の子の張栻を行在所に召し出した。張浚は付奏して、上(皇帝)が建康に臨幸され、中原の人心を動かし、淮の沿岸で兵を用い、山東に舟を進めて、呉璘の声援とすべきことを請うた。孝宗は陳俊卿らに会い、張浚の動静・飲食・顔色を問い、「朕は魏公を長城の如くに倚りており、浮言に動かされて奪われることは許さぬ」と言った。金人が十万の兵を河南に駐屯させ、両淮を窺うと声言し、文書を送って海州・泗州・唐州・鄧州・商州及び歳幣を要求した。張浚は、北敵は詭詐であり、それに動かされるべきでなく、大兵を盱眙・濠州・廬州に駐屯させて備えるべきだと述べ、結局何事もなかった。

隆興元年、枢密使に任じられ、建康・鎮江府・江州・池州・江陰軍の軍馬を都督した。時に金将の蒲察徒穆及び泗州知州の大周仁が虹県に駐屯し、都統の蕭琦が霊壁に駐屯し、糧を積み城を修築して、南攻の計を為さんとしていた。張浚はその未発に攻撃を加えようとした。折しも主管殿前司の李顕忠と建康都統の邵宏淵もまた二邑を衝く策を献じたので、張浚はこれを詳らかに上聞した。上は許可を報じ、張浚を行在所に召し出し、先ず両城を図るよう命じた。そこで李顕忠を濠州から出撃させて霊壁に向かわせ、邵宏淵を泗州から出撃させて虹県に向かわせ、張浚自らは前線に臨んだ。李顕忠は霊壁に至り蕭琦を破り、邵宏淵は虹県を包囲して蒲察徒穆・大周仁を降伏させ、勝に乗じて宿州を進撃・攻略し、中原は震動した。孝宗は自ら書を下して労い、「近日の辺報は、中外を鼓舞させ、十年来このような克捷はなかった」と言った。

張浚は盛夏で兵士が疲弊していることを理由に、急ぎ李顕忠らを召還して軍を返させた。折しも金帥の紇石烈志寧が兵を率いて宿州に至り、李顕忠と戦った。連日南軍は小不利となり、突然の諜報で敵兵が大挙して来ると聞き、李顕忠は夜間に引き揚げた。張浚は上疏して罪を待ったところ、詔により特進に降授され、改めて江・淮宣撫使となった。

宿州の軍が帰還すると、和議を主とする士大夫は皆張浚の非を議した。孝宗は再び張浚に書を賜り、「今日の辺事は卿を重しとして倚る。卿は人言を畏れて猶豫を懐くべからず。先日の挙事の初め、朕は卿とこれを任じ、今日もまた卿とこれを終えねばならぬ」と言った。張浚はそこで魏勝に海州を守らせ、陳敏に泗州を守らせ、戚方に濠州を守らせ、郭振に六合を守らせた。高郵・巣県の両城を大勢として整備し、滁州の関山を修築して敵の衝要を扼し、水軍を淮陰に、馬軍を寿春に集め、両淮の守備を大いに整えた。

孝宗は再び張栻を召して奏事させた。張浚は付奏して、「古来、有為の君は、腹心の臣と相与に協謀同志して、治功を成す。今、臣は孤蹤を以てし、動くごとに掣肘される。陛下はどうしてこれを用いられようか」と言い、そこで骸骨を乞うた。孝宗は奏を覧て、張栻に言った、「朕は魏公を厚く遇している。浮議に惑わされることはない」。帝の張浚に対する眷遇はなお極めて厚く、近臣に対し言う時は必ず魏公と言い、その名を斥けたことはなかった。使者を遣わすごとに、必ず張浚の飲食の多寡、肥瘠の様子を視察させた。まもなく詔して張浚の都督の号を復した。

金帥の僕散忠義が三省・枢密院に書を送り、四郡及び歳幣を要求し、さもなければ農隙に兵を治めると言った。張浚は、「金が強ければ来り、弱ければ止む。和議の有無によるのではない」と述べた。時に湯思退が右相であった。思退は秦檜の党であり、急いで和を求めようとした。そこで盧仲賢を使者として書を持たせて金に報じさせた。張浚は、盧仲賢は小人で妄りが多いので、委任信頼すべきでないと述べた。やがて盧仲賢は果たして四郡を許すという辱命を果たした。朝廷は再び王之望を通問使とし、龍大淵をその副使としたが、張浚は争っても得られなかった。まもなく張浚を召し入れて謁見させ、再び和議の失を力陳した。孝宗は誓書を止め、王之望・龍大淵を留めて待命させ、通書官の胡昉・楊由義を往かせ、金に四郡は割譲できないことを諭し、もし金人が必ず四郡を得ようとするなら、使人を追還して和議を罷めるべきであると伝えさせた。張浚を尚書右僕射・同中書門下平章事兼枢密使に拝し、都督は元の如くとした。湯思退は左僕射となった。

胡昉らが宿州に至ると、金人は彼らを械で縛り脅迫したが、胡昉らは屈せず、金人は改めて礼を尽くして帰した。孝宗は張浚に諭して、「和議の成らざるは、天なり。この事より後は当に一に帰すべし」と言った。二年、建康への行幸を議し、王之望らを還すよう詔した。湯思退はこれを聞いて大いに驚き、陽には祠官を乞う状を為し、陰にはその党と謀って張浚を陥れる計略を練った。

まもなく詔して張浚に江・淮を巡視させた。時に張浚が招き集めた山東・淮北の忠義の士は、建康・鎮江の両軍を充実させるため、凡そ一万二千余人であり、万弩営が招いた淮南の壮士及び江西の群盗はまた一万余人で、陳敏がこれを統率して泗州を守った。要害の地には皆城堡を築き、水を険と為し得る所には皆水を貯めて匱(ため池)とし、江・淮の戦艦を増置し、諸軍の弓矢器械を悉く備えた。時に金人は河南に重兵を駐屯させ、虚声を以て和を脅し、期日を決して戦うとの言葉があった。張浚の来るを聞くと、急いで兵を撤収して帰った。淮北より来帰する者は日々絶えず、山東の豪傑は悉く節度を受けることを願った。張浚は蕭琦が契丹の望族で、沈勇にして謀略有りとみて、契丹の降衆を尽く領させようとし、かつ檄を以て契丹を諭し、応援を約束しようとしたので、金人はますます懼れた。湯思退はそこで王之望に命じて守備を盛んに毀謗させ、恃むべからざるものとし、尹穡に命じて督府参議官の馮方を論じて罷免させ、また張浚が国費を費やすこと莫大であると論じ、張深が泗州を守り趙廓の代任を受け入れなかったことを奏して拒命と論じた。張浚もまた督府の解任を請うたので、詔してその請いに従った。左司諫の陳良翰と侍御史の周操は、張浚は忠勤にして人望の帰する所であり、国を去らせるべきでないと上言した。張浚は平江に留まり、凡そ八度上章して致仕を乞い、少師・保信軍節度使・判福州に任じられた。張浚は辞し、醴泉観使に改められた。朝廷は遂に地を棄て和を求める議を決した。

張浚は既に去った後も、なお上疏して尹穡の奸邪を論じ、必ず国事を誤らせるとし、かつ上に務めて学び賢に親しむことを勧めた。或る者が張浚に時事を再び言わぬよう勧めたが、張浚は言った、「君臣の義は、天地の間に逃れる所なし。吾は両朝の厚恩を荷い、久しく重任にしてきた。今は国を去るといえども、なお日々上心の感悟を望む。もし見る所あれば、安んじて言わざるを得ようか。上もし再び張浚を用いようとされるなら、張浚は即日に就道し、老病を以て辞することは敢えてせぬ。もし汝らの言う如くなら、これは誠に何の心ぞや」。聞く者は聳然とした。行く途次、餘幹に至り病を得、手書を二子に付して言った、「吾は嘗て国を相したが、中原を恢復し、祖宗の恥を雪ぐことができなかった。即ち死すとも、先人の墓の左に葬るべからず、衡山の麓に葬るに足る」。訃報を聞き、孝宗は震悼し、視朝を輟み、太保を贈り、後に太師を加贈し、諡して忠献とした。

張浚は幼少より大志を抱き、熙河幕官となってからは、辺境の堡塁を遍く巡行し、山川の形勢を観覧し、時に旧来の戍守の将と握手して酒を飲み、祖宗以来の辺境守備の旧法及び軍陣方略の適宜を問うた。故に一旦疎遠の身から起用され、枢管の任に当たると、悉く辺事の本末を通達することができた。京城において、二帝の北行を親しく見、皇族が虜に連れ去られ、生民が塗炭の苦しみを味わうのを目にし、誓って敵と共に存せず、故に終生和議を主張しなかった。都を定める大計を論ずる毎に、東南の形勢は建康に如くはなく、人主がここに居れば、北に中原を望み、常に憤りと戒めを懐くことができるとし、至って銭塘は一隅に僻遠し、安逸に流れやすく、北方を号令するには足りないと論じた。趙鼎と共に政務を執り、多く人材を引擢し、従臣朝列は皆一時の声望ある者であり、人々は「小元祐」と称した。薦めた虞允文・汪応辰・王十朋・劉珙らは名臣となり、行伍の中から呉玠・呉璘を抜擢し、韓世忠は忠勇にして大事を託すに足ると謂い、劉錡に一度会ってその非凡さを認め、事任を付与し、遂に皆名将となり成功を収めたので、一時張浚は人を知ると称された。張浚は母に仕えて孝行で称され、学は『易』に深く、『易解』及び『雑説』十巻があり、『書』・『詩』・『礼』・『春秋』・『中庸』にもそれぞれ解釈を著し、文集十巻、奏議二十巻がある。子は二人、張栻・張枃。張栻は別に伝がある。

子 張枃

張枃は字を定叟といい、父の恩蔭により承奉郎を授かり、広西経略司機宜・厳州通判を歴任した。若年ながら既に有能の称があり、浙西使者が管下の官吏を推薦したが張枃を含めなかったので、孝宗は特に再推薦を命じた。召されて対し、袁州知州に差し遣わされ、豪強を鎮め、盗賊を平定した。尉が盗賊を捕らえて州に上申したが、張枃はその冤罪を察知して釈放したので、誰もが怪しんだが、間もなく真の盗賊を捕らえた。衢州知州に改めた。

兄張栻が喪に服し、壮年の子がなかったので、祠官を請うて葬事を営み、玉局観主管となり、湖北提挙常平に遷った。奏事すると、帝は大いに喜び、輔臣に諭して「張浚にこのような子がいる」と言った。浙西に改め、荒政を督理し、蘇・湖二州は共に守が欠員していたので、兼ねて摂行するよう命じられた。ある執政の姻党が穀物を閉ざして売らなかったので、張枃はまずこれを処断し、帝はその強権を恐れぬことを賞して、両浙転運判官に遷した。

間もなく、直徽猷閣を以て副使に昇進し、臨安府知事に改めた。未納の負債四万緡、米八百斛を免除するよう奏上し、直龍図閣に進んだ。都城は繁雑で、奸盗が悪事を企み、張枃は地域を区分して警戒捕縛に当たらせ、夜も戸を閉ざさなかった。張師尹が娘を後宮に納めて供給使とし、これを恃んで恣横に振る舞ったので、張枃は事に因って厳しくこれを糾弾し、その一家を信州に移住させ、同類の者は平伏した。南郊の礼が成ると、五品の服を賜り、権兵部侍郎となり、引き続き臨安府知事を兼ね、三品の服を加賜された。三つの閘門を修築し、六つの井戸を復旧した。府庁舎が火災に遭い、民家に延焼したので、上疏して自らを劾し、詔により官位二階を削られた。張枃は再び上疏して罷免を乞い、鎮江府知事に移った。間もなく明州知事に改められたが辞退し、引き続き鎮江府知事となった。召されて戸部侍郎となり、面会して事を言上したが、時の宰相の意に逆らった。高宗が崩御すると、集英殿修撰を以て紹興府知事となり、山陵の事を監督した。召還されて吏部侍郎となった。

光宗が即位すると、権刑部侍郎となり、再び臨安府知事を兼ねた。紹熙元年、刑部侍郎となり、引き続き府尹を務めた。内侍の毛伯益が西湖の茭地を侵して亭を建て、外戚にその僕を殺した者がおり、判決が確定したが、縁故を頼んで宣諭を求め赦免を請うたが、張枃は皆法に従って処断するよう執奏した。孝宗が湖を観覧した時、張枃は警護のため道端に伏して謁し、孝宗は輦を止めて労い、酒と炙肉を賜った。

京西路の帥を選ぶに当たり、煥章閣学士・襄陽府知事に進み、金二百両を賜り、別に金百両、白金はその倍を賜った。間もなく、徽猷閣学士・建康府知事に進み、続いて再び襄陽に戻るよう命じられた。寧宗が嗣位すると、帰正人の陳応祥・忠義人の党琪らが均州を襲撃しようと謀り、副都統の馮湛が間道を疾駆して報告した。張枃は動じず、徐々に手配して包囲捕縛し、判決が確定すると、首謀者二人を斬り、一味は全て釈放したので、不安定な者も安堵した。

宝文閣学士・平江府知事に昇進したが、赴任せず、建康府知事に改めた。龍図閣学士・隆興府知事兼江西安撫使に昇進した。奉新県には旧来営田があり、民を募って耕作させ、一畝につき米五升、銭六十を賦していたが、後に議臣がこれを売却するよう請うた。当初は両税と和買を徴収し、さらに折変を加えたので、民は重く困窮し、張枃は全て免除するよう奏上した。端明殿学士に進み、再び建康府知事となった。病を理由に祠官を乞い、卒した。

張枃は天分が高く爽やかで、吏材は敏捷に事を処理し、事に遇って凝滞せず、多く臨機応変に通じ、赴任先では治績明察で称された。再渡以来、京尹を論ずるに、張枃を以て首とする。子の張忠純・張忠恕は別に伝がある。

論じて曰く、儒者が国家に対して、その正直の気を養うことができれば、以て君心を正し、衆志を一にし、凶逆を攘い、憂患に処するに足り、蓋し往くところとして自得せざるはない。張浚の如きは、その気を善く養った者と言えよう。その初めに張邦昌の議を逃れ、苗・劉の乱を平定したのを見れば、その才識は固より苟且な懦弱者の敢えて望むところではない。及びて強敵を攘斥し、大盗を招降し、将帥をして命令に従わせ、向かうところ志の如くならしめることができた。遠人はその用捨を窺って進退し、天下はその出処を占って安危とした。豈に卓然として所謂人豪たる者ではなかったか。群言沸騰し、屡たび奮い屡たび躓いたが、辞気は慨然としていた。嘗て「上もし浚を再用せんと欲せば、即日に就道し、老病を以て辞せざるべし」と言った。その言この如くであれば、その君を愛し国を憂うる心は、如何なるものであったか。時の論は張浚の忠は大いに漢の諸葛亮の類いであるとするが、然るに諸葛亮は魏延・楊儀をして終生異同を為さしめることができたが、張浚は呉玠の故に遂に曲端を殺し、諸葛亮は法孝直を容れることができたが、張浚は李綱・趙鼎を容れることができず、さらにこれを誹謗した。これ以て及ばざるところか。至って富平の師の潰敗、淮西の兵変に至っては、則ち成敗利鈍は、諸葛亮と雖も逆に睹ることはできなかったのである。