宗澤
宗澤。字は汝霖、婺州義烏の人。母の劉は、天に大雷電があり、光がその身を照らす夢を見、翌日に澤が生まれた。澤は幼少より豪爽にして大志あり、元祐六年の進士第に登第す。廷対において時弊を極言し、考官はその率直を憎み、末甲に置く。
大名館陶の尉に調ず。呂惠卿が鄜延を帥とし、澤に檄を飛ばして邑令と共に河埽を視察させた。檄が届いた時、澤は丁度長男の喪に服していたが、檄を受け取ると直ちに出発した。惠卿はこれを聞き、「国に尽くして家を忘るる者と言えよう」と言った。丁度朝廷が御河の大規模な開削を行おうとしており、時は厳冬、役夫が道に凍え倒れ、中使が急ぎ督励していた。澤は河の浚渫は些事であると考え、その帥に上書して言うには、「時は今まさに寒気凝結する折、民を苦しめるばかりで功は容易に成り難い。少し待ち、初春になれば民を煩わすことなく成し遂げられよう」。結局、その言葉が上聞に達し、従われた。惠卿は澤を属官に辟召しようとしたが、澤は辞した。
衢州龍游の令に調ず。民は未だ学問を知らず、澤は学校を建て、師儒を設け、経術を講論し、風俗は一変し、これより科挙に及第する者が相継いだ。晉州趙城の令に調ず。着任すると、県を軍に昇格するよう請うたが、上聞した書状は、その請いの通りにはならなかった。澤は言う、「平時にあっては確かに心配ないが、他日に警報あらば、わが言の正しさを知るであろう」。萊州掖県の知事となる。部の使者が牛黄を買い上げる旨を得たので、澤は報告して言う、「今まさに疫癘流行の時、牛がその毒を飲めば黄を結ぶ。今は和気が横溢し、牛がどうして黄を得ようか」。使者は怒り、邑の官を弾劾しようとした。澤は言う、「これは澤の考えである」。ただ一人その旨を上申した。登州の通判となる。境内に官田数百頃あり、皆不毛の地で、毎年一万余緡を納めさせ、概ね民から横取りしていた。澤はこれを免除するよう上奏した。
時に太原は失陥し、両河の官に任ぜられた者は大抵理由を設けて赴任しなかった。澤は言う、「禄を食みながら難を避けるは、不可なり」。即日、単騎で道に就き、疲れた兵卒十余人を従えた。磁州は敵騎の蹂躙を受けた後で、人民は逃散し、倉庫は空っぽであった。澤が到着すると、城壁を修繕し、濠池を浚い、器械を整え、義勇兵を募り、固守して動かざる計を始めた。上言して言う、「邢・洺・磁・趙・相の五州がそれぞれ精兵二万人を蓄え、敵が一郡を攻めれば四郡皆応じ、これにより一郡の兵は常に十万人あることになる」。上はこれを嘉し、河北義兵都総管に除す。金人が真定を破り、兵を率いて南進し慶源を奪い、李固渡から黄河を渡った。澤の軍が背後を襲うのを恐れ、数千騎を派遣して直ちに磁州城を叩かせた。澤は甲冑を着て城に登り、壮士に神臂弓を用いて射退けさせ、城門を開いて追撃し、数百級を斬首した。獲た羊馬金帛は、全て軍士に賞与した。
康王が再び金に使わされ、磁州に至った時、澤は迎えて謁し言う、「肅王は一度行って帰らず、今また敵は詭弁をもって大王を招き寄せようとしています。どうか行かれませぬよう」。王はそこで相州に引き返した。詔があり、澤を副元帥とし、王に従って兵を起こし入援するよう命じた。澤は言う、急ぎ李固渡で兵を会合させ、敵の帰路を断つべきだと。衆は従わず、澤は自ら兵を率いて渡河点へ向かった。道中で北兵に遭遇し、秦光弼・張徳に挟撃させ、大いにこれを破った。金人は既に敗れた後、兵を留めて分屯させた。澤は壮士を派遣して夜襲をかけ、三十余りの砦を破った。
時に康王は大元帥府を開き、兵を檄して大名に会合させた。澤は氷を渡って黄河を渡り王に会い、京城が包囲されて日が久しく、入援は緩めてはならぬと説いた。丁度、簽書樞密院事の曹輔が蠟封された欽宗の親筆詔書を携え、京師から到着し、和議は成り得ると言った。澤は言う、「金人は狡猾で、これは我が軍を手なずけようとしているだけだ。君父の入援を望む思いは、飢渇にも等しい。急ぎ軍を率いて直ちに澶淵に向かい、順次に進んで陣を築き、京城の包囲を解くべきだ。万一敵に異謀あらば、我が兵は既に城下に在る」。汪伯彦らはこれに難色を示し、王を勧めて澤を先に行かせた。これより澤は府中の謀議に参与できなくなった。
澤の軍は衛南に進み、将が孤で兵が寡であることを考慮し、深く進まなければ成功できないと考えた。先鋒が前方に敵営があると報告すると、澤は衆を指揮して直ちに前進し戦い、これを破った。転戦して東へ向かうと、敵はさらに生力軍を増派し、王孝忠は戦死し、前後共に敵の砦であった。澤は下令して言う、「今日進むも退くも死は同じ、死中より生を求めるべからず」。士卒は必死と知り、一もって百に当たる者なく、数千級を斬首した。金人は大敗し、数十余里退却した。澤は敵の衆が我の十倍であると計算し、今一戦で退いた以上、勢い必ず再び来襲し、その鉄騎を悉くして夜襲をかけてくれば我が軍は危ういと考えた。そこで日暮れにその軍を移動させた。金人が夜に到着し、空営を得て大いに驚き、これより澤を畏れ、再び出兵しようとしなかった。澤はその不意を衝き、兵を派遣して大河を渡り襲撃し、これを破った。王が承制により澤を徽猷閣待制とした。
時に金人が二帝を北行に追い立てた。澤はこれを聞くや、直ちに軍を提げて滑へ向かい、黎陽を走り、大名に至り、直ちに黄河を渡り、金人の帰路を占めて二帝を奪還しようとしたが、勤王の兵は遂に一人も来なかった。また張邦昌が僭位したと聞き、先ずこれを誅討しようとした。丁度大元帥府からの書状を得て、軍を近都に移し、甲を按じて変を観よと約した。澤は王に返書して言う、「人臣に赭袍を服し、紅蓋を張り、正殿に御する者があろうか。古より奸臣は皆、外は恭順を装いながら中に禍心を蔵し、宝位を窃据し、元号を改め、肆赦を行い、悪状が昭著なること邦昌の如き者はない。今、二聖・諸王は悉く黄河を渡って北に去り、ただ大王のみが済におられる。天意は知るべし。急ぎ天討を行い、社稷を興復すべきである」。かつ言う、「邦昌の偽りの赦令は、或いは奸雄の意を啓く恐れあり、諸路に使者を分遣して諭し、民心を安定させることを望む」。また上書して言う、「今天下の属望する所は大王にあり、大王がこれを行うに道を得れば、もって天下の心を慰めることができよう。いわゆる道とは、剛正に近づき柔邪を遠ざけ、諫諍を納れ諛佞を拒み、恭儉を尚び驕侈を抑え、憂勤を体し逸楽を忘れ、公実を進め私偽を退けることである」。これにより累次上表して即位を勧めた。王は南京で帝位に即いた。澤が入見すると、涕泗が頤に交じり、興復の大計を陳べた。時に李綱と共に入対し、相見て国事を論じ、慷慨涙を流し、綱は彼を奇異に思った。上は澤を留めようとしたが、潜善らがこれを沮んだ。龍圖閣學士・襄陽府知事に除す。
時に金人に割地の議あり、澤上疏して曰く、「天下は太祖・太宗の天下なり、陛下は兢兢業業として、萬世に傳ふるを思ふべし、奈何ぞ遽に河の東・西を割るを議し、又陝の蒲・解を割るを議するや。金人の再び至るより、朝廷未だ嘗て一將を命じ、一師を出すことなく、但だ姦邪の臣、朝に一言を進めて和を告げ、暮に一說を入れて盟を乞ふを聞くのみ、終に二聖の北遷を致し、宗社恥辱を蒙る。臣意ふらくは、陛下赫然震怒し、大明に黜陟を行ひ、以て王室を再造すべしと。今即位四十日なり、未だ大號令あるを聞かず、但だ刑部指揮に『赦文を河の東・西、陝の蒲・解に謄播することを得ず』と云ふを見るは、是れ天下忠義の氣を褫ひ、而して自ら其の民を絶つなり。臣雖だ駑怯なりと雖も、當に躬矢石を冒して諸將に先んじ、軀を捐げて國恩に報ずるを得ば足れりと。」上其の言を覽めて之を壯とす。青州を知るに改む、時に年六十九なり。
開封尹闕く、李綱言ふ、舊都を綏復するは、澤に非ざれば不可なりと。尋ひて開封府を知るに徙す。時に敵騎河上に留屯し、金鼓の聲、日夕相聞ゆ、而して京城樓櫓盡く廢し、兵民雜居し、盜賊縱橫し、人情忷忷たり。澤威望素より著しく、既に至り、首に賊を舍てる者數人を捕へ誅す。下令して曰く、「盜を爲す者は、贓輕重無く、並びに軍法に從ふ。」是れに由りて盜賊屏息し、民安きを賴む。
王善なる者は、河東の巨寇なり。衆七十萬、車萬乘を擁し、京城を據らんと欲す。澤單騎馳せて善の營に至り、泣きて之に謂ひて曰く、「朝廷危難の時に當たりて、公が一・二輩の如き有るあらしむれば、豈に復た敵患有らんや。今日は乃ち汝が立功の秋なり、失ふべからず。」善感泣して曰く、「敢へて效力せざらんや。」遂に甲を解きて降る。時に楊進「沒角牛」と號し、兵三十萬、王再興・李貴・王大郎等各衆數萬を擁し、京西・淮南・河南・北を往來し、侵掠して患ひを爲す。澤人を遣はし禍福を諭し以て、悉く之を招降す。上疏して上の京に還るを請ふ。俄に詔有りて荊・襄・江・淮悉く巡幸を備ふ。澤上疏して言ふ、「開封物價市肆、漸く平時に同じ。將士・農民・商旅・士大夫の忠義を懷ふ者、陛下の亟に京師に歸り、以て人心を慰むるを願はざる莫し。其れ異議を唱ふる者は、陛下の爲に忠謀するに非ず、張邦昌の輩の如く、陰に金人と地を爲すのみ。」延康殿學士・京城留守・兼開封尹を除く。
時に金人使いを遣はして偽楚を使ふを名とし、開封府に至る、澤曰く、「此れ名は使と爲すも、而して實は我を覘ふなり。」其の人を拘へ、之を斬るを乞ふ。詔有りて拘ふる所の金使を別館に延置す、澤曰く、「國家二百年承平し、兵革を識らず、敵國の誕謾を以て憑信すべきと爲し、恬として疑ふことを爲さず。惟だ攻討の計を嚴にせざるのみならず、其れ實に勇を賈ひて敵の愾む所を思ふ人あれば、士大夫之を狂と爲さずんば、則ち妄と爲し、以て前日の禍を致せり。張邦昌・耿南仲の輩の爲す所、陛下の親しく見る所なり。今金人偽楚を使ふを假り、來りて虛實を覘ふ、臣愚乞ふらくは之を斬り、以て其の姦を破らんと。而して陛下人言に惑はされ、別館に遷置し、優に待遇を加ふるを令す、臣愚詔を奉ぜず、以て國の弱きを彰かす。」上乃ち親劄して澤を諭し、竟に之を縱遣す。言者潛善の意に附し、皆澤の金使を拘留するを非と爲す。尚書左丞許景衡疏を抗へて力辨し、且つ謂ふ、「澤の尹と爲る、威名政績、卓然として人に過ぎ、今の縉紳、未だ其の比を見ず。厚く任使を加へ、以て禦敵治民の功を成さしむるを乞ふ。」と。
真定・懷・衛の間、敵兵甚だ盛んにして、方に密かに戰具を修め入攻の計と爲し、而して將相恬として慮ひと爲さず、武備を修めず、澤以て憂ひと爲す。乃ち河を渡り諸將に約し共に事宜を議し、以て收復を圖り、而して京城四壁に於て、各使を置き以て招集の兵を領せしむ。又形勢に據り堅壁二十四所を城外に立て、河に沿ひ鱗次して連珠砦と爲し、河東・河北の山水砦忠義民兵を連結す、是に於て陝西・京東西諸路の人馬咸く澤の節制を聽かんと願ふ。詔有りて淮甸の如くせよと。澤表を上りて諫め、報へず。
秉義郎岳飛法を犯し將に刑せられんとす、澤一見して之を奇とし、曰く、「此れ將材なり。」會ふに金人汜水を攻む、澤五百騎を以て飛に授け、功を立て罪を贖はしむ。飛大いに金人を敗りて還る、遂に飛を統制に升す、飛是に由りて知名と爲る。
澤河北に師を視て還り、上疏して言ふ、「陛下尚ほ南都に留まり、道路籍籍として、咸く以爲らく、陛下宗廟朝廷を舍て、社稷依る所無くし、生靈仰戴する所を失はしむと。陛下宜しく亟に汴京に回り、以て元元の心を慰むべし。」報へず。復た疏を抗へて言ふ、「國家金人と好を結び、以て民を息まんと欲す、卒に劫掠侵欺、至らざる所無く、是れ和議を守る果たして以て民を息ますに足らざるなり。當時固より意に阿ひ旨に順ひ以て富貴を叨る者あり、亦詭隨せず以て罪戾を獲る者あり。陛下之を觀よ、昔富貴を爲す者は是か、罪戾を獲る者は是か。今遷幸を言ふ者は、猶ほ前の和議を行ふ可きを言ふ者の如し、今遷す可からずを言ふ者は、猶ほ前日の和議行ふ可からずを言ふ者の如し。惟だ陛下熟思し審かに之を用ひよ。且つ京師二百年積累の基業、陛下奈何ぞ輕く棄てて敵國に遺はんや。」
詔して官を遣はし六宮を迎へ奉り金陵に往かしむ、澤上疏して曰く、「京師は天下の腹心なり。兩河未だ敉寧せざるも、特だ一手臂の信ぜざるのみ。今遽に之を去らんと欲するは、唯一臂の瘳えざるのみならず、且つ腹心と並びに棄つるなり。昔景德の間、契丹澶淵を寇す。王欽若は江南の人、即ち金陵に幸するを勸め、陳堯叟は蜀の人、即ち成都に幸するを勸む。惟だ寇準毅然として親征を請ひ、卒に用ひて成功す。臣何ぞ寇準を望まん、然れども章聖を以て陛下を望まざるを得ず。」又五事を條上す、其の一に黃潛善・汪伯彥の南幸を贊する非を言ふ。澤前後建議し、三省・樞密院を經從するに、輒ち潛善等の爲に抑へられ、澤の奏疏を見る每に、皆笑ひて狂と爲す。
金将の黏罕が西京を占拠し、宗澤と対峙した。宗澤は部将の李景良・閻中立・郭俊民に兵を率いて鄭州へ急行させたが、敵と遭遇して大戦となり、閻中立は戦死し、郭俊民は降伏し、李景良は逃亡した。宗澤は李景良を捕らえ、「戦に勝たぬ罪は許せるが、私的に逃げるのは主将をないがしろにすることである」と言い、その首を斬って示し衆にした。やがて郭俊民が金将の史某および燕人の何仲祖らとともに書状を持って宗澤を招降しに来た。宗澤は郭俊民を責めて言った、「お前が戦いに敗れて死ねば、なお忠義の鬼となれたものを、今反って金人のために書状を持って我を誘おうとは、何の面目あって我に会うのか」と斬った。史某には言った、「我はこの土地を受け持ち、死ぬるのみである。汝は人の将として、死をもって我に敵することができず、かえって小児女の言葉で我を誘おうとするのか」と、これも斬った。何仲祖は脅されて従ったものとして、罪を許した。劉衍が帰還すると、金人は再び滑州に入った。部将の張捴が救援を請うたので、宗澤は兵五千を選んで与え、軽々しく戦わずに援軍を待つよう戒めた。張捴が滑州に到着して迎え撃つと、敵騎は十倍であり、諸将は少しその鋒を避けるよう請うたが、張捴は言った、「避けて生き長らえるなど、何の面目あって宗公にお目にかかれようか」と力戦して戦死した。宗澤は張捴の危急を聞き、王宣に騎兵五千を率いて救援させた。張捴の死後二日して王宣がようやく到着し、金人と大戦してこれを撃破し退けた。宗澤は張捴の遺骸を迎えて帰り、その家族を恤い、王宣に滑州の権知州事を代行させた。金人はこれ以降、再び東京を侵犯しなかった。
山東で賊が起こり、執政はその多くが義師を名乗っているとして、勤王を止めるよう命令を下すことを請うた。宗澤は上疏して言った、「敵が京城を包囲して以来、忠義の士は憤懣して争って奮い立ち、広南東路・広南西路、荊湖南路・荊湖北路、福建路、淮南路・江南路に至るまで、数千里を越えて先を争って勤王した。当時の大臣に遠識大略がなく、これを慰撫して用いることができず、彼らを飢餓困窮に陥らせ、弱い者は溝壑に埋もれ、強い者は盗賊となった。これは勤王者の罪ではなく、一時の措置が誤っていたことによるのである。今、河東路・河北西路で敵国に従わずに山砦を保っている者は、その数を知らず、各地の節義の士で、自ら顔に入れ墨をして先を争って御駕を救おうとする者も、またその数を知らない。この詔勅が出れば、臣は草沢の士が一朝にして離散し、急変が起こった時に、誰が再び忠を尽くし義に効そうとする心を持つだろうかと恐れる」。
王策という者は、もと遼の酋長で、金の将となり、黄河のほとりを往来していた。宗澤はこれを捕らえ、その縄を解いて堂上に座らせ、言った、「契丹はもと宋の兄弟の国である。今、女真が我が主君を辱め、また汝の国を滅ぼした。義として共に謀って恥を雪ぐべきである」。王策は感動して泣き、死力を尽くすことを願った。宗澤はそこで敵国の虚実を問い、その詳細をことごとく得た。そこで大挙して出撃する計略を決し、諸将を召して言った、「汝らに忠義の心があるならば、共に謀って敵を剿滅し、二聖(徽宗・欽宗)を還し、大功を立てることを期せよ」。言い終わって涙を流すと、諸将も皆泣いて命令を聞いた。金人は戦いに利あらず、兵をことごとく引き去った。
宗澤は上疏して南幸を諫め、言った、「臣が陛下のために京城を保護してより、昨年の秋冬から今春に至るまで、また三か月になる。陛下が早く京城に戻られなければ、天下の民は何をよりどころとし仰ぎ戴くことができようか」。資政殿学士に任ぜられた。また子の宗穎を行在に遣わして上疏させて言った、「天下の事は、機を見て為し、時を待って動けば、事成らざるはない。今、伊州・洛州を回復し、金の酋長は黄河を渡り、滑台を捍蔽して敵国はしばしば敗れ、河東・河北の山砦の義民は首を伸ばし踵を挙げて、日々官兵の到着を望んでいる。機と時とを以て言えば、中興の兆しが見え、金人の滅亡の期日は必ず来る。それは陛下が機を見て時を乗ずるかどうかにある」。また言った、「昔、楚人が郢に城を築いたとき、史氏はこれを卑しんだ。今、儀真で水戦を教習する旨を聞くが、これは小さくまとまって偏覇の謀をなすもので、最も卑しむべきことではないか。四方に伝聞されれば、必ずや中原を守れず、遂に江寧を控扼する計略を立てたと言うであろう」。
先に、宗澤が磁州を去るとき、州の事を兵馬鈐轄の李侃に託したが、統制の趙世隆がこれを殺した。この時、趙世隆は弟の趙世興とともに兵三万を率いて帰順してきた。人々はその変を恐れたが、宗澤は言った、「趙世隆はもと我が一校尉に過ぎぬ。何ができようか」。趙世隆が到着すると、責めて言った、「河北が陥没したからといって、我が宋の法令と上下の分もまた陥没したのか」。斬ることを命じた。その時、趙世興は佩刀を帯びて側に侍り、多くの兵が刃を露わにして庭下にいた。宗澤はゆるりと趙世興に言った、「汝の兄は誅された。汝が志を奮い立たせて功を立て、恥を雪ぐに足りる」。趙世興は感動して泣いた。金人が滑州を攻めると、宗澤は趙世興に救援に向かわせた。趙世興が到着し、その不意を襲ってこれを破った。
宗澤の威声は日に日に著しく、北方ではその名を聞き、常に尊び畏れた。南人に対して言うときは、必ず「宗爺爺」と言った。
宗澤は上疏して言った、「丁進の数十万の衆は京城を守護することを願い、李成は行従して還御することを願い、直ちに黄河を渡って敵を剿滅しようとし、楊進らの兵百万もまた黄河を渡り、共に死力を尽くすことを願っている。臣は聞く、『多助の至りは、天下これに順う』と。陛下がこの時に還京されれば、衆心は一致し、何ぞ敵国を憂うるに足らん」。また上奏して言った、「聖人はその親を愛して人の親に及ぼす。これをもって人に孝を教える。その兄を敬して人の兄に及ぼす。これをもって人に悌を教える。陛下は忠臣義士と謀を合わせて大いに討伐し、二聖を迎え復すべきである。今、上皇の御座所である龍徳宮は厳然として旧の如くであるが、ただ淵聖皇帝(欽宗)には宮室がない。宝籙宮を改修して迎奉の場所とし、天下に父に孝し兄に悌することを知らしめよ。これをもって身をもって教えるのである」。上(高宗)はそこで詔を下し、日を選んで還京することを命じた。
宗澤は前後二十余回にわたり上(高宗)の還京を請うたが、毎度黄潛善らに抑えられ、憂憤のあまり病となり、背中に癰ができた。諸将が病床を訪ねると、宗澤は驚いて言った、「我は二帝が蒙塵されたことに、積もる憤りがここに至った。汝らが敵を殲滅できれば、我が死んでも恨みはない」。衆は皆涙を流して言った、「敢えて力を尽くさざらんや」。諸将が出て行くと、宗澤は嘆いて言った、「『出師未だ捷せずして身先ず死す、長く英雄をして襟を涙に満たさしむ』」。翌日、風雨が吹き荒れ、昼なお暗かった。宗澤は一言も家事に言及せず、ただ「河を渡れ」と三度連呼して薨じた。都人は号哭した。遺表にはなお上(高宗)の還京を勧めていた。観文殿学士・通議大夫を追贈され、諡は「忠簡」とされた。
宗澤は質朴で正直、義を好み、親戚故旧の貧しい者は多く頼って生活していたが、自らの生活は甚だ質素であった。常に言った、「君父が身を側め胆を嘗めているのに、臣子が安らかに住み美食をとるなどあろうか」。初め、宗澤は詔を受けて群盗を集め、兵を聚め糧を儲け、諸路の義兵と結び、燕・趙の豪傑と連絡し、自ら黄河を渡って克復するのは指日を期して待つことができると思った。志は成らず、識者はこれを恨んだ。
子の宗穎は軍幕にあり、平素より士心を得ていた。宗澤が薨じて数日後、将士の去る者は十の五に及び、都人は宗穎が父の任を継ぐことを請うた。時に朝廷は既に杜充を留守に任命していたので、宗穎を判官とした。杜充は宗澤の行ったことに反し、人心をかなり失った。宗穎はしばしばこれを諫めたが、聞き入れられず、喪に服するため帰ることを請うた。これより豪傑は用いられず、城下に群聚していた者もまた去って盗賊となり、中原は守られなくなった。宗穎の官は終に兵部郎中に至った。
趙鼎
趙鼎、字は元鎮、解州聞喜県の人。四歳で孤児となり、母の樊氏が教え、経史百家の書に通じた。崇寧五年の進士に及第し、策問に対し、章惇が国を誤ったことを斥けた。累官して河南府洛陽県令となり、宰相の呉敏がその才能を知り、開封府士曹に抜擢した。
金人が太原を陥落させると、朝廷は三鎮の地を割譲することを議した。趙鼎は言った、「祖宗の地を人に与えるべからず。何ぞ議する必要があろうか」。やがて京師は失守し、二帝は北行された。金人が張邦昌を立てることを議すると、趙鼎は胡寅・張浚とともに太学に逃れ、議状に署名しなかった。
高宗が即位すると、権戸部員外郎に任ぜられた。知樞密院の張浚がこれを推薦し、司勳郎官に任ぜられた。上(皇帝)が建康に行幸されたとき、詔を下して防秋の事柄を条陳させた。趙鼎は言った、「六宮の留まる所を行宮とし、車駕の留まる所を行在所とすべきです。精兵を選んで儀衛に備え、残りの兵将は江・淮に分かち配置し、敵に巡幸の定所を測らせぬようにすべきです。」上はこれを採用した。
長雨が続いたため、詔を下して政治の欠点を求めた。趙鼎は言った、「熙寧年間に王安石が権力を握り、祖宗の法を変えて以来、民は初めて苦しみ始めました。国土開拓の謀略を口実に、辺境の患いを生み出し、理財の政策を興して民力を窮乏させ、虚無の学問を設けて人材を敗りました。崇寧の初めに至って、蔡京は紹述(神宗の政治を継承すること)の名を託し、王安石の政治をことごとく踏襲しました。今日の患いはすべて王安石に始まり、蔡京によって完成されたのです。今、王安石はなお廟廷に配享されており、蔡京の徒党は除かれていません。時政の欠点はこれより大きなものはありません。」上はこれにより王安石の配享を廃止した。趙鼎は右司諫に抜擢され、まもなく殿中侍御史に転じた。
劉光世の部将である王徳が韓世忠の将を勝手に殺害し、一方で韓世忠もまた配下の兵を率いて建康の守府の官舎を奪取した。趙鼎は言った、「王徳は外で兵を統率し、専断で殺害をほしいままにし、畏れるところがありません。これを罰しなければ、何ができないというのでしょうか。」命じて趙鼎に王徳を審問させた。趙鼎はまた詔を下して韓世忠を厳しく責め、その将吏を取り調べて役所に付して罪を治めるよう請うた。諸将は粛然とした。上は言った、「粛宗が霊武で興ったとき、李勉一人を得て、朝廷は初めて尊ばれた。今、朕は卿を得た。昔の人に恥じることはない。」中丞の范宗尹が、先例として司諫から殿中侍御史に転じた者はないと言うと、上は言った、「趙鼎は言路にあって極めて職務を果たしており、上奏した四十件の事柄のうち、既に三十六件が施行されている。」そこで侍御史に転じた。
北方の兵が長江のほとりに至ると、上は会稽に行幸され、台諫を召して去就を議させた。趙鼎は戦・守・避の三策を陳べ、御史中丞に任ぜられた。王𤫉に宣州へ進軍を督させ、周望に軍を分けて広徳から出撃させ、劉光世に長江を渡って蘄州・黄州に駐屯させ、邀撃の計略を立てるよう請うた。また言った、「中原を経営するには関中から始めるべきであり、関中を経営するには蜀から始めるべきであり、蜀に行幸しようとするなら荊州・襄陽から始めるべきです。呉・越は片隅に位置し、中原を進取する地ではありません。荊州・襄陽は左に川・陝を顧み、右に湖湘を制し、下に京・洛を見下ろします。三国時代に必ず争われた地であり、公安を行在所とし、重兵を襄陽に駐屯させ、江・浙の穀物を運んで川・陝の兵を支給し、大業を経営するには、この計略に勝るものはありません。」
韓世忠が黄天蕩で金人を破った。宰相の呂頤浩は上に浙西行幸を請い、詔を下して親征しようとしたが、趙鼎は軽挙すべきでないと考えた。呂頤浩は彼が自分と意見を異にするのを憎み、趙鼎を翰林学士に改任したが、趙鼎は受けず、吏部尚書に改任されたが、またも受けず、言った、「陛下には諫言を受け入れる誠意があるのに、宰相は諫言を拒む説を陳べ、陛下には台臣を厚遇するお考えがあるのに、宰相は言官を挫き沮む威を振るっています。」と。堅く臥して出仕せず、呂頤浩の過失についておよそ千言に及ぶ上疏をした。上は呂頤浩を罷免し、趙鼎を再び中丞とする詔を下し、趙鼎に言った、「朕はしばしば前朝の忠諫の臣について聞き、その人に会えなかったことを恨んでいたが、今、卿においてそれを見た。」端明殿学士・簽書樞密院事に任ぜられた。
金人が楚州を攻撃した。趙鼎は張俊を派遣して救援に向かわせるよう上奏した。張俊は行かず、山陽はついに陥落した。金人は淮河のほとりに留まった。范宗尹は敵が再び渡河することはないだろうと奏上したが、趙鼎は言った、「敵が来ないことを恃むのではなく、我々に備えがあることを恃むべきです。三省は常に敵が退いたことを以て陛下のために人材を援け政事を修め、密院は常に敵が来ることを憂えて陛下のために軍律を正し甲兵を治めれば、両方とも得ることになります。」上は言った、「卿らがこのようにしてくれれば、朕はまた何を憂えようか。」趙鼎は楚州の失陥の責任をとり、上章して辞任を願い出た。ちょうど辛企宗が節度使に任ぜられようとしたとき、趙鼎は企宗に軍功がないと述べて、旨に逆らい、祠官に出され、平江府知府に任ぜられ、まもなく建康知府に改められ、さらに洪州知州に移された。
京西招撫使の李横が兵を用いて東京を回復しようとした。趙鼎は言った、「李横の軍は烏合の衆であり、敵に当たることができず、恐らくそのまま襄陽を失うでしょう。」やがて李横は戦いに利あらず敗走し、襄陽はついに陥落した。召されて参知政事に任ぜられた。宰相の朱勝非が言った、「襄陽は国の上流であり、急いで奪回しなければなりません。」上が問うた、「岳飛を使うことができるか。」趙鼎は言った、「上流の利害を知る者は岳飛に及ぶ者はいません。」簽書樞密院事の徐俯はそうは思わなかった。岳飛が出師してついに襄陽を回復した。
趙鼎は韓世忠に泗州のほとりに駐屯させ、劉光世に陳州・蔡州方面に出撃させるよう請うた。劉光世が入朝して奏上することを請うと、徐俯は許そうとしたが、趙鼎は認めなかった。偽斉の宿遷県令が帰順してきた。徐俯は斬って劉豫に送り返そうとしたが、趙鼎はまたも争った。徐俯は積もる憤りを抑えられず、ついに辞任を求めた。朱勝非が知樞密院事を兼ねた。言事官らが国政を執る者は軍事を知らないとし、参知政事に通報させるよう請うた。これにより朱勝非に忌まれることとなった。趙鼎は知樞密院事・川陝宣撫使に任ぜられたが、趙鼎は非才を理由に辞退した。上は言った、「四川は全盛時には天下の半分の地であり、すべて卿に任せる。昇進・降格は専断してよい。」当時、呉玠が宣撫副使であった。趙鼎は上奏して言った、「臣が呉玠とともに事に当たる場合、あるいは臣が彼を節制するのでしょうか。」上はそこで趙鼎を都督川・陝諸軍事に改任した。
趙鼎が条陳した事柄は、朱勝非が多く阻み抑えた。趙鼎は上疏して言った、「かつて張浚が川・陝に出使したとき、国勢は今より百倍も強かった。張浚には補天浴日の功績があり、陛下には礪山帯河の誓いがあり、君臣互いに信じ合い、古今に二つとない関係でしたが、結局は世間の非難を招き、流罪に処せられました。今、臣には張浚のような功績がないのにその任に当たり、朝廷から遠く離れていて、やはり非難を免れることができましょうか。」また言った、「臣が請うた兵は数千に満たず、半分は老弱者であり、携行する金帛は極めて僅かです。推薦した人物の任命が下ったかと思うと、弾劾の墨痕がすでに走っています。臣が日々宸衷(皇帝のそば)に侍していても、上陳することはすでに困難なのに、まして万里の外にあってどうでしょうか。」当時の人々は皆その去ることを惜しみ、台諫には留任を求める者もいた。ちょうど辺境からの急報が相次いで届き、趙鼎はしばしば用兵の大計を陳べた。朝辞の際、上は言った、「卿は遠くへ去るべきではない。すぐに卿を宰相にしよう。」九月、尚書右僕射・同中書門下平章事・兼知樞密院事に任ぜられた。任命の詔が下ると、朝士は互いに慶賀した。
当時、劉豫の子の麟が金人と合兵して大挙侵入し、朝廷全体が震え恐れた。趙鼎が戦守の計略を論じると、諸将はそれぞれ異なる意見を持ったが、ただ張俊だけが進討すべきだとし、趙鼎はその意見を是とした。上に他の地へ行幸するよう勧める者もいたが、趙鼎は言った、「戦って勝たなければ、その時去っても遅くはありません。」上もまた言った、「朕みずから六師を総べ、長江に臨んで決戦しよう。」趙鼎は喜んで言った、「長年退却と怯懦を続け、敵の志はますます驕っています。今、聖断をもって親征されれば、成功は必ずしも約束されます。」そこで詔を下して張俊に配下の兵を率いて韓世忠を援けさせ、劉光世に軍を移して建康に駐屯させ、さらに世忠に進兵を促した。世忠が揚州に至り、大儀鎮で金人を大破した。ちょうど警報が飛び交う中、劉光世は人をやって趙鼎にほのめかして言わせた、「相公は蜀に入られて以来、何事を他人のために患いを引き受けられましょうか。」世忠もまた人に言った、「趙丞相は本当に敢為な方だ。」趙鼎はこれを聞き、上のお考えが途中で変わることを恐れ、隙を見て言った、「陛下が十年にわたり兵を養われたのは、まさに今日これを用いるためです。もし少しでも退却や沮喪があれば、たちまち人心は離散し、長江の険しさを再び恃むことはできなくなります。」捷報が日々届くにつれ、車駕は平江に至り、詔を下して逆賊劉豫の罪を声討し、みずから将兵を率いて長江を渡り決戦しようとした。趙鼎は言った、「敵は遠くから来ており、速戦を利としています。急いで鋒を争うのは良策ではありません。かつ劉豫はなおその子を遣わしたに過ぎず、どうして至尊(皇帝)の煩わされるべきことがありましょうか。」帝はこれにより行かずに留まった。まもなく、簽書樞密院事の胡松年が長江のほとりから戻り、北方の兵が大いに集結していると報告した。そして初めて趙鼎に先見の明があったことを知ったのである。
張浚が久しく廃されていたが、趙鼎は張浚が大任に堪えると述べ、そこで召して知樞密院事に任じ、張浚を江上に派遣して軍を視察させた。当時、敵兵は久しく淮南に駐屯し、南方の軍に備えがあることを知って、次第に北帰を謀っていた。趙鼎は言った、「金人は為す能わざるなり」。諸将に命じて淮水で邀撃させ、連敗させたので、金人は遁走した。上(高宗)は趙鼎に言った、「近頃、将士は勇を致して先を争い、諸路の守臣もまた翕然として自ら効を致す。これは朕が卿を用いた力である」。趙鼎は謝して言った、「皆、聖断より出でたるもの、臣に何の力かこれ有らん」。或る者が趙鼎に問うて言った、「金人が国を傾けて来攻し、衆皆忷懼す。公のみ言う、畏るるに足らずと。何ぞや」。趙鼎は言った、「敵衆は盛んなりと雖も、然れども劉豫に邀えられて来たるもの、その本心にあらず。戦えば必ず力を尽くさず。これをもって畏るるに足らざるを知るなり」。上は嘗て張浚に語って言った、「趙鼎は真の宰相なり。天が朕の中興を輔けしむる者、宗社の幸いと謂うべし」。趙鼎は奏上して、金人が遁走して帰った今こそ、特に広く群言を採り、善後の計りを為すべきであるとした。そこで詔して呂頤浩らに攻戦・備禦・措置・綏懐の方策を議させた。
紹興五年、上は臨安に還り、制を以て趙鼎を左僕射・知樞密院事とし、張浚を右僕射・知樞密院事・都督諸路軍馬とした。趙鼎は政事の前後および召用すべき人材を条記して座右に置き、次第に奏上して実行した。制を以て貴州防禦使趙瑗を保慶軍節度使とし、建国公に封じ、行宮の門外に資善堂を建てた。趙鼎は范沖を翊善に、朱震を賛読に推薦し、朝論は二人は天下の選に極まるという。
建炎の初め、嘗て詔を下して姦臣が宣仁太后の保佑の功を誣衊したことを以て、史院に刊修を命じたが、未だ行われるに及ばなかった。朱勝非が宰相となった時、上は彼に諭して言った、「神宗・哲宗両朝の史事は多く実を失う。後世に信を伝える所以にあらず。宜しく范沖を召して刊定すべし」。勝非は言った、「『神宗史』は王安石の『日録』を増やし、『哲宗史』は蔡京・蔡卞の手を経て、議論多く正しからず。官を命じて刪修すれば、誠に二帝の盛美を顕わすに足る」。会に勝非が去位し、趙鼎が宰相として二史の監修を務め、是非各々その正を得た。上は親しく「忠正徳文」の四字を書いて趙鼎に賜い、また御書の『尚書』一帙を賜って言った、「『書』に載せる君臣相戒飭の言、卿に賜う所以は、共にこの道に由らんと欲するなり」。趙鼎は上疏して謝した。
劉豫が子の麟・猊を遣わして分路して入寇した。当時、張俊は盱眙に屯し、楊沂中は泗州に屯し、韓世忠は楚州に屯し、岳飛は鄂州に駐し、劉光世は廬州に駐した。長江沿岸の上下には兵が無く、上と趙鼎はこれを憂いた。趙鼎は張浚に書を移し、張俊と楊沂中に合兵して敵を剿滅させようとした。劉光世は廬州を捨てて太平に還り、また采石に退いて守ることを乞うた。趙鼎は奏上して言った、「劉豫は逆賊なり。官軍が劉豫と戦って勝てず、或いは更に退守せば、何を以て国を立つるや。今、賊は既に淮を渡る。当に急ぎ張俊を遣わし、劉光世の軍と合わせて淮南の寇を尽く掃蕩し、然る後に去留を議すべし」。上はその策を善しとし、詔して二将に進兵させた。張俊の軍は藕塘に至り劉猊と戦い、大いにこれを破った。趙鼎は楊沂中に命じて合肥に向かわせ劉光世と会わせようとしたが、劉光世は既に廬州を棄てて江北に回っていた。張浚が書を以て趙鼎に告げると、趙鼎は上に白して張浚に詔を下させた、「命を用いざる者有らば、軍法を以て事に従うを聴せよ」。劉光世は大いに駭き、再び進んで肥河に至り劉麟と戦い、これを破った。劉麟・劉猊は柵を抜いて遁走した。
張浚が江上にいた時、嘗てその属官呂祉を遣わして入奏させたが、その言うところは誇大で、趙鼎は毎度これを抑えた。上は趙鼎に言った、「他日、張浚が卿と不和となるは、必ず呂祉によるなり」。後に張浚が事を論ずるに当たり、語意が微かに趙鼎を侵した。趙鼎は言った、「臣は初め張浚と兄弟の如く、呂祉の離間によりて、遂にこのように睽異す。今、張浚は成功せり。当にその底蘊を展べ尽くさしむべし。張浚は留まるべく、臣は去るべし」。上は言った、「張浚の帰るを俟って議せん」。張浚は嘗て建康に幸することを奏請したが、趙鼎と折彥質は臨安に回蹕することを請うた。張浚が帰還すると、勝に乗じて河南を攻め、且つ劉光世の軍政を罷めることを乞うた。趙鼎は言った、「劉豫を擒にするは固より易し。然れども河南を得て、金人の内侵せざるを保し能わんや。劉光世は累世将たり。故無くしてこれを罷むれば、恐らく人心安からざるべし」。張浚はますます悦ばず。趙鼎は観文殿大学士・知紹興府となった。
紹興七年、上は建康に幸し、劉光世を罷め、王徳を都統制とし、酈瓊をその副とし、共に参謀・兵部尚書呂祉の節制を聴かせた。酈瓊は王徳と宿怨があり、呂祉に訴えたが、理を得ず、呂祉を執って全軍を率いて偽斉に降った。張浚は咎を引いて去位し、そこで万寿観使兼侍読として趙鼎を召し、入対させ、尚書左僕射・同中書門下平章事兼枢密使に拝し、四官を進めた。上は言った、「淮西の報が初めて至った時、執政の奏事は皆失措せり。惟だ朕のみ動かざりき」。趙鼎は言った、「今、諸将に接するには、特に静かに以てこれを持するを須う。然らずんば、益々その驕蹇の心を増す」。台諫が交々に論じて淮西に備え無しとすると、趙鼎は言った、「行朝に兵十万を擁す。敵騎直ちに来たらば、自ら抗するに足る。設い他の虞有らば、趙鼎身を以てその責を任ず」。淮西は終に驚くこと無し。
趙鼎は嘗て詔を降して淮西を安撫することを乞うた。上は言った、「張浚を行遣するを俟ち、朕当に罪己の詔を下すべし」。趙鼎は言った、「張浚は既に落職せり」。上は言った、「張浚の罪は遠く竄ずるに当たる」。趙鼎は奏上して、「張浚の母は老いており、且つ勤王の功有り」。上は言った、「功過は自ら相掩わず」。已にして内批が出て、張浚は嶺南に謫置されることとなったが、趙鼎は留めて下さず。詰朝、同列の捄解を経て、上怒殊に未だ解けず、趙鼎は力を尽くして懇願して言った、「張浚の罪は失策に過ぎず。凡そ人の計慮、豈に万全を欲せざらんや。儻い一失に因りて、便ちこれを死地に置かば、後に奇謀秘計有らんとすれども、誰か復た敢えて言わんとする者あらんや。この事は自ら朝廷に関わり、独り張浚を私するに非ず」。上意乃ち解け、遂に散官を以て分司とし、永州に居らしめた。
趙鼎が再び宰相となると、或る者がその施設無きを議した。趙鼎はこれを聞いて言った、「今日の事は人の羸を患うるが如し。当に静かに以てこれを養うべし。若し復た攻砭を加うれば、必ず元気を傷らん」。金人が劉豫を廃すると、趙鼎は間者を遣わして河南の守将を招き、寿州・亳州・陳州・蔡州の間では、往々にして城を挙げ、或いは部曲を率いて来帰し、精兵一万余、馬数千を得た。知廬州劉錡もまた奏言して、「淮北の帰正者絶えず、推し量るに今年にて四五万を得べし」。上は喜んで言った、「朕は常に江州・池州の数百里の備禦空虛を慮う。今、この軍を得れば患無かるべし」。
金人が使者を遣わして和を議した。朝論は信ずべからずと為したので、上は怒った。趙鼎は言った、「陛下は金人に対して不倶戴天の讐有り。今、己を屈して和を請い、これを為すを憚らざるは、梓宮及び母后の故なり。群臣の憤懣の辞は、君を愛するより出でたるもの、罪と為すべからず。陛下宜しくこれを諭して曰わく、『講和は吾が意に非ず。親の故に、已むを得ずこれを為す。但だ梓宮及び母后の還るを得ば、敵たとえ盟を渝つとも、吾憾み有ること無からん』と」。上はその言に従い、群議は遂に止んだ。
潘良貴は向子諲が奏事を長引かせたとして、叱って退けた。上(高宗)は良貴を罪に処そうとし、常同が弁護したため、常同も共に追放しようとした。趙鼎が奏上して、「子諲に罪はないが、常同と良貴を追放すべきではない」と言った。二人は結局出された。給事中張致遠は、一人の子諲のために二人の佳士を失うべきではないとし、黄勅を書留めなかった。上は怒り、趙鼎を顧みて言った、「致遠が必ず繳駁するとは分かっていた」と。鼎が「どうしてか」と問うと、上は「彼は諸人と親しいからだ」と言った。既に先入の言があったのであり、これによって鼎を快く思わなくなった。秦檜が続いて留身して奏事し、退出した後、鼎が「帝は何と言われたか」と問うと、檜は「上は別に何も、ただ丞相が不愉快ではないかと心配されただけです」と言った。御筆で和州防禦使趙璩に節鉞を授け、國公に封じた。鼎が奏上して、「建国(皇太子)は未だ正名されていないが、天下は陛下に子があることを知っており、社稷の大計である。今の礼数は異ならざるを得ないが、それは人心を繋ぎ、二心を抱かせて惑わさないためである」と言った。上は「暫くゆっくりとしよう」と言った。檜が後に留身したが、何を言ったかは分からない。
趙鼎はかつて和議に反対し、秦檜の意に合わなかった。そして鼎が趙璩の封國の事を争って上意に逆らうと、檜は隙に乗じて鼎を排斥し、また蕭振を侍御史に推薦した。振はもともと鼎が推挙した者であったが、御史台に入ると、参知政事劉大中を弾劾して罷免させた。鼎は「振の意は大中にはない」と言った。振もまた人に言った、「趙丞相は論じるまでもなく、自ら去就を決めるだろう」と。時に殿中侍御史張戒が給事中勾濤を論劾すると、濤は言った、「戒が臣を撃つのは、趙鼎の意である」と。そこで鼎が台諫や諸将と結託していると誹謗した。上は聞いてますます疑い、鼎は病を理由に免職を求めた。言うには、「大中は正論を堅持し、章惇・蔡京の党に憎まれた。臣の議論と出処は大中と同じであり、大中が去れば、臣どうして留まれようか」と。そこで忠武節度使として紹興府の知事に出され、まもなく検校少傅を加えられ、奉國軍節度使に改められた。檜は執政を率いてその送別に赴いたが、鼎は礼をせず、一揖して去ったので、檜はますます恨んだ。
趙鼎が去った後、王庶が入対した。上は庶に言った、「趙鼎は二度宰相となり、国に大功があった。再び親征を補佐して皆勝利を決し、また建康を鎮撫し、回鑾に患いがなかった。他人の及ぶところではない」。先に、王倫が金に使いし、趙鼎から使指を受けた。礼数について問えば、君臣の分は既に定まったと答え、地界について問えば、大河を境とすると答えた。この二つは事を行う上で重要なことで、従わなければそれまでである。倫は命を受けて行った。この時、倫は金使と共に来て、江南を撫諭することを名目とした。上は嘆息して庶に言った、「五日早くこの報せを得ていたならば、趙鼎を去らせたであろうか」。
初め、車駕が臨安に還った時、内侍が竹の苗を宮中に移し入れようとした。趙鼎はこれを見て責めて言った、「艮岳の花石の擾乱は、皆汝らから出た。今また前轍を踏もうとするのか」と。そこでその事を奏上すると、上は顔色を改めて謝った。戸部の官で宮中に銭を進めた者がいた。鼎はその者を相府に召し出して厳しく責めた。翌日、上に問うて言った、「某が銭を献上したのですか」と。上は「朕が求めたのだ」と言った。鼎は奏上して、「某は献上すべきでなく、陛下も求めるべきではありません」と言い、遂にその者を郡守に出した。
趙鼎はかつて胡寅・魏矼・晏敦復・潘良貴・呂本中・張致遠など数十人を推薦して朝列に分布させた。再び宰相となった時、奏上して言った、「今、清議が与する所の者、劉大中・胡寅・呂本中・常同・林季仲の流れを、陛下は用いることがおできでしょうか。賢を妬み悪を長ずる者、趙霈・胡世将・周秘・陳公輔の徒を、陛下は去ることがおできでしょうか」。上は世将を転任させ、公輔らはまもなく外補された。上はかつて中批で二人を廟堂に付して昇擢させようとした。鼎が奏上して、「疏遠な小臣を、陛下はどうしてその姓名をお知りになったのですか」と言うと、上は「常同が実に称えたのだ」と言った。鼎は「同がその賢を知るなら、どうして露章して推薦しないのですか」と言った。
初め、張浚は秦檜を推薦して共に大事を為すことができると言い、趙鼎が再び宰相となった時もそのように言った。しかし檜は機阱が深く険しく、外は和して内は異なっていた。浚が初めて去職を求めた時、旨があって鼎を召した。鼎が越に至って祠官を乞うと、檜はその自分を脅かすことを憎み、泉州知事に転じさせ、また謝祖信にそそのかして、鼎がかつて張邦昌の偽命を受けたと論じさせ、遂に節度使の位を奪った。御史中丞王次翁が、鼎が郡を治めて廃弛していると論じ、提挙洞霄宮を命じた。鼎は泉州から帰り、再び上書して時政を論じた。檜はその再任用を忌み、次翁にそそのかしてまた偽命を受けたこと、及び都督府の銭十七万緡を乾没したと論じさせ、官を貶して興化軍に居住させた。論者はなおやまず、漳州に移し、また清遠軍節度副使に責め、潮州に安置した。
潮州で五年、門を閉めて客を謝し、時事を口にせず、問う者があっても、ただ己の過ちを引くだけであった。中丞詹大方がその収賄を誣告し、潮州守に属して編置人を吉陽軍に移させた。鼎の謝表に曰く、「白首何くに帰せん、余生の幾ばくもなきを悵み、丹心未だ泯みず、九死を誓いて移らず」。檜はこれを見て言った、「この老い、倔強なること猶昔のごとし」。
趙鼎の文章は渾然として天成であり、凡そ高宗が軍國の機事を処分される時、多くはその草稿を見た。擬奏表疏・雑詩文二百余篇があり、『得全集』と号して世に行われる。中興の賢相を論ずるに、鼎を以て首と称すという。
論じて曰く、国を謀り兵を用うるの道には、時に乗じ鋭気を以て功を立て得るものあり、威を養い重きを持して後に為す有るものあり。二者の施設は同じからずと雖も、其の忠たるは一なるのみ。金人が二帝を逼って北行せしめ、宗社主を失いし時、宗澤一呼すれば、河北の義旅数十万の衆は響の声に赴くが如く、実に澤の忠忱義気の風動する有るに由る。抑も斯の民、君父の塗淖に陷るを目撃して、孰れか憤激の心なからんや。其の時に当たりて澤が勇往直前にして、或いは齟齬牽制するもの無くんば、則ち二帝を反し旧都を復するは、ただ一指顧の間のみ。黄潛善・汪伯彦は能を嫉み功を惎みて、澤をして其の志を信ぜしめず、憤りを発して薨ぜしむ、豈に悲しまざらんや。
趙鼎が宰相となるに及んで、則ち南北の勢いは成った。両敵の相持するに、灼然たる乗ずべき釁無くんば、則ち吾が力を養いて時を俟つ。然らずんば、徒らに危困の辱を取りしむるのみ。故に鼎の国を為すや、専ら本を固むるを先とし、根本固くして後に敵を図り讎を復すべし、これ鼎の心なり。惜しいかな、一たび秦檜に忌まれるを見、斥逐遠徙せられ、卒に其の志を齎して亡ぶ、君子の尤も痛心とする所なり。
私がかつて宗澤・李鼎の終わりを論じて、なお感慨を深くしたことがある。宗澤が病床で息を引き取る際には、なお三度「河を渡れ」と叫び続けた。一方、李鼎は自らその銘旌に題して、「気は山河となりて本朝を壮んず」との語があった。何とこの二臣の君を愛し国を憂うる心は、死生禍変の際に処するに至っても、なおこのように変わらなかったことか。しかるに高宗は邪悪な者の言葉に惑わされ、彼らを任用したり罷免したりした。いわゆる「善を善としながら用いることができず」ということであり、千年の後、忠臣義士がなおこの書を手にして嘆息し、腕を扼するのも当然である。国の振るわざる所以があろう。