宋史

列傳第一百十八 李綱下

紹興二年(1132年)、観文殿学士・湖広宣撫使兼知潭州に任ぜられた。この時、荊湖・江・湘の間では、流民や敗残兵が群れをなして盗賊となり、数え切れないほどで、多いものは数万人に至ったが、李綱はこれをすべて平定した。上奏して言うには、「荊湖は国家の上流にあり、その地は数千里に及び、諸葛亮が用武の国と称したところである。今、朝廷は東南を保有し、西北を制御している。加えて鼎州・澧州・岳州・鄂州や荊南一帯は、いずれも重兵を駐屯させ、形勢として頼るべき地であり、四川の号令を通じさせ、襄陽・漢陽の声援を受けられるようにしてこそ、中原を回復する端緒があるのである。」議論が実行に移る前に、諫官の徐俯・劉斐が李綱を弾劾し、提挙西京崇福宮に左遷された。

四年(1134年)冬、金人と偽斉が攻めてきた。李綱は防禦の三策を具申し、次のように述べた。「偽斉が全軍を南下させれば、その国内は必ず手薄になる。もし不意を突き、電光石火の勢いで潁昌を攻め落とし、畿甸に迫れば、彼らは必ず震え上がって救援に戻り、王師が追撃すれば、必勝の道理である。これが上策である。もし車駕が江上に駐蹕し、上流の兵を召集して順流下りさせ、声勢を助け、金鼓と旌旗を千里に相望ませれば、敵は数が多くても南渡を敢えてしないであろう。それから重兵を要害の地に進めて駐屯させ、奇計を用いて邀撃し、その糧道を断ち、敵が遁走して帰るのを待って、徐々に攻討を議する。これが中策である。万一、親征の名を借りて、順動の計略とし、兵卒を潰散させ、要衝の制圧を失い、敵が隙に乗じて深く侵入し、州県が風の便りに奔り潰れるようなことがあれば、その禍患は測り知れないものがあろう。往年、金人の利は侵掠にあり、また時は暑さの盛りであったから、勢いとして軍を返すはずであり、朝廷はそれによって安定し、民を集めることができた。今、偽斉が導いて来たのであり、勢いとしてむやみに帰還するわけはなく、必ず割拠を謀るであろう。奸民や敗残兵がこれに従って付き従い、声勢が鴟張する。もし退避などすれば、善後の策の施しようがなくなる。昔、苻堅が百万の軍勢で晋を侵したが、謝安が一部の軍でこれを破った。朝廷の措置が適切で、将士が命令に従うならば、どうして北方の敵が我がために首を差し出さないと言えようか。ただ、一時の機会にどう対応するかによるのである。臣の上奏文を下して、二・三の大臣と熟議されることを望む。」詔して言うには、「李綱の陳述したことは、今日の急務である。三省・樞密院に付して施行せよ。」この時、韓世忠が淮・楚の間でたびたび金人を破り、劉光世・張浚に命じて軍を統率させて河を渡らせ、車駕を進発させて江上に至り、軍を労う旨の命令があった。

五年(1135年)、詔を下して攻戦・守備・措置・綏懐の方策を問うた。李綱は上奏した。

上疏が奏上されると、上は詔を賜って褒め諭した。江西安撫制置大使兼洪州知事に任じられた。聖旨があり、行在に赴き奏事を終えてから任地に赴くこととなった。六年、李綱が到着し、内殿で引見された。朝廷はちょうど大挙して進撃する意気込みが盛んであったが、李綱は辞去の際に拝謁し、今日の用兵における失策四点、措置が未だ十分に善くない点五つ、予め備えるべきこと三つ、善後策を講ずべきこと二つを述べた。

当時、宋軍と金軍・偽斉軍は淮河・泗水の地で半年にわたり対峙していた。李綱が上奏した。「両軍が対峙する場合、奇策を用いなければ勝つことはできない。どうか速やかに勇将を派遣し、淮南から岳飛と連絡して犄角の勢いとし、挟撃すれば、大功を成すことができましょう。」やがて宋軍はたびたび勝利し、劉光世・張俊・楊沂中らが淮河・肥水のほとりで偽斉軍を大破した。

車駕は進発して建康に行幸された。李綱は戦守の具をさらに整え、淮河沿いの城砦を修築するよう上奏し、かつ言上した。「願わくは陛下には、去冬の急な勝利によって自ら怠ることなく、目前の粗い安定によって自ら安んずることなく、中興の治をもたらすことができることはすべて行い、中興の業を害するものはすべて取り除かれますように。要は政事を修め、賞罰を信実にし、是非を明らかにし、邪正を区別し、人材を招き寄せ、士気を鼓舞し、民力を愛惜し、衆心を順導することを先とすべきです。これら数件が備われば、将帥は和合し、士卒は戦いを喜び、用兵して勝たないことがありましょうか。」

淮西の酈瓊が全軍を率いて劉に叛き帰順した。李綱は朝廷に措置失当な点、深く痛惜すべき点、および前の過失を戒めとして将来を図るべき点、合わせて十五事を指摘し、上奏した。張浚は咎を引いて宰相の地位を去り、言事官らは漢の武帝が王恢を誅したことを引き合いに出した。李綱が上奏して言った。「臣がひそかに見るに、張浚が罷相され、言事官らが武帝の王恢誅殺の故事を引き合いに出しております。臣は恐れます。智謀の士は舌を巻いて兵を語らず、忠義の士は手首を扼して発憤する所なく、将士は解体して命令に従わず、州郡は風の便りに望んで堅城なく、陛下は誰と共に国を立てられましょうか。張浚の措置失当は、確かに罪があります。しかしながら、その区区たる国に殉ずる心には、哀れむべきところがあります。どうか少し寛大に扱い、将来の効果を責めるように願います。」

当時、車駕は平江に行幸されようとしていた。李綱は、平江は建康から遠くなく、退避の名ばかりで、軽々しく動くべきではないと考えた。再び詳細に上奏して言った。

臣が聞くところによれば、昔より用兵によって大業を成した者は、必ずまず人心を固め、士気を奮い起こし、地利を占めて先に退くことを肯んぜず、人事を尽くして先に屈することを肯んじなかった。それゆえ、楚と漢が滎陽けいよう・成皋の間で対峙した時、高祖こうそはたびたび敗れても、寸土も退かなかった。鴻溝を割いてから、項羽こううが東へ引き上げると、たちまち垓下の滅亡を招いた。曹操と袁紹が官渡で戦った時、曹操は兵弱く糧乏しかったが、荀彧が退避を止めた。袁紹の輜重を焼いてから、袁紹が引き上げ帰ると、たちまち河北を失った。これによって見れば、今日の事態は、どうして一叛将の故に、風の便りに敵を恐れ、急いで自ら退き屈することができようか。もしこの謀が本当に出たならば、天子の車駕が回ってのち、人情は動揺し、固い志を持つ者はなく、士気は萎縮し、戦う心を持つ者はないであろう。我が退き彼が進み、敵の馬をして南渡させ、一邑を得れば一邑を守り、一州を得れば一州を守り、一路を得れば一路を守るであろう。乱臣賊子、狡猾な官吏や奸悪な民衆がこれに従って付き従い、虎のように踞り、鵄のように威張り、前日のごとく車駕を返し轅を回らせ、荊棘瓦礫の中に朝廷を再建することは、もはや得られないであろう。仮に敵騎が突撃し、已むを得ず一時しのぎに避けたとしても、まだ言い分はあろう。今、辺境には警急の報もなく、兵将には初めから不利な失策もない。朝廷は正しく往事を戒め、軍政を修め、号令を審らかにし、賞刑を明らかにし、固守に努めるべきである。しかるに急いでこのような騒擾を起こし、前功を棄て、後患を挑み、自ら禍敗に向かうことは、まことに惜しむべきことではないか。

八年、王倫が北使から帰還した。李綱はこれを聞き、上疏して言った。

臣がひそかに見るに、朝廷は王倫を金国に派遣し、梓宮を奉迎させた。今、王倫が帰り、金使を伴って来たが、「江南を詔諭する」と名乗り、国号を掲げずに「江南」と言い、「通問」と言わずに「詔諭」と言う。これは何たる礼儀か。臣は試みに陛下のために申し上げたい。金人は宗社を毀ち、二聖を逼迫した。そして陛下は天に応じ人に順い、旧業を光復された。我から彼を見れば、仇敵である。彼から我を見れば、腹心の病である。どうして再び和すべき理があろうか。しかしながら、朝廷が使者を遣わして通問し、冠蓋が道に相望み、卑辞と厚い幣帛を惜しみなく用いるのは、二聖がその域中におられ、親のために己を屈し、已むを得ずそうしているのであり、まだ言い分はあろう。去年の春に至り、両宮の凶報が既に届き、使者を遣わして梓宮を迎えようとしたが、急ぎ往き急ぎ返り、初めから要領を得なかった。今、王倫の使事は、初め梓宮奉迎を旨としたが、金使の来訪は、江南詔諭を名目とする。名に循って実を責めれば、既に乖戾しており、朝廷を欺き後患を生ずる所以は、詰問を待たずして知ることができる。臣は遠方にあり、その曲折を知るには足りないが、愚かな考えで推し量れば、金がこの名目で使者を遣わすのは、その要求の大略は五つある。必ず詔書を降し、陛下に屈体降礼してこれを受け聴かせようとすること、これが第一。必ず赦文があり、朝廷に宣布させ、郡県に班示させようとすること、これが第二。必ず約束を立て、陛下に藩臣として奉じ称臣し、その号令を稟かせようとすること、これが第三。必ず歳賂を求め、その数を広げ、我をして坐して困窮させようとすること、これが第四。必ず割地を求め、江を境界とし、淮南・荊襄・四川をことごとく得ようとすること、これが第五。この五つを、朝廷が一つでも従えば、大事は去る。金人の変詐は測りがたく、貪婪にして飽くことを知らない。たとえその詔令を聴き、藩臣として奉じ称臣しても、その志はまだ已まないであろう。必ず引き続き号令があり、あるいは親しく梓宮を迎えさせ、あるいは単車で入覲させ、あるいは将相を移易させ、あるいは政事を改革させ、あるいは租賦を搾り取り、あるいは土宇を削り取るであろう。これに従えば際限がなく、一つでも従わなければ前功は尽く廃れ、かえって兵端となる。一時の便宜として、その要求を聴けば後悔がないと思い込むのは、愚かであるか、欺くものである。国家の勢いが単弱で、果たして自ら振るうに足らず、已むを得ずこれを行うのであれば、固よりなお不可である。ましてや土宇の広さはなお天下の半ばを占め、臣民の心は宋を戴いて忘れず、識者とこれを謀れば、なお有為であることができる。どうして祖宗の大業、生霊の属望を忘れ、慮らず図らず、急いで自ら屈服し、旦暮の命を延ばすことを望むことができようか。臣は願わくは陛下には特に聖意を留め、軽々しく許さず、深く群臣に詔して、利害と長久の策を講明させ、その善きものを選んでこれに従われますように。

上疏が奏上されると、衆論とは合わなかったが、上は忤意とせず、言われた。「大臣はこのようであるべきだ。」

九年、潭州知事・荊湖南路安撫大使に任じられた。李綱は詳細に上奏して力辞し、言った。「臣は迂闊で身を全うする術がなく、動けば煩言を招きます。今、江西から罷免されて日も浅く、また蒙を洗い祓われ、帥権を与えられました。昔、漢の文帝が季布の賢を聞き、召し寄せたが、やがて罷めて帰した。季布は言った、『陛下は一人の称賛によって臣を召し、一人の誹謗によって臣を去らせる。臣は天下が陛下の浅深を窺うことを恐れます。』顧みるに臣の区区たる進退は、何をか少なからず多からずと言わん。しかしながら数年之間に、急に奮い急に躓き、上は陛下の知人任使の明を累わし、実に国体に関わるものがあります。」詔して、李綱の累次の上奏により、重ねて違えることを欲せず、ついにその請いを允した。翌年に薨去した。享年五十八。訃報が聞こえると、上は軫悼され、使者を遣わして賻贈し、その家を撫問し、喪葬の費用を給した。少師を追贈し、その親族十人に官職を与えた。

李綱は天下の期待を一身に背負い、己の用捨が社稷と生民の安危を決するものとした。身が用いられずとも、用いられても久しくなかったが、その忠誠義気は凛然として遠近を動かした。宋の使者が燕山に至るたび、必ず李綱・趙鼎の安否を問うたという。遠方の人々に畏服されること、かくの如しであった。綱の著書に『易伝』内篇十巻・外篇十二巻、『論語詳説』十巻、文章・歌詩・奏議百余巻があり、また『靖康伝信録』『奉迎録』『建炎時政記』『建炎進退志』『建炎制詔表劄集』『宣撫荊広記』『制置江右録』がある。

論じて曰く、李綱の賢をもってすれば、靖康・建炎の間に力を尽くし慮りを竭くさせ、誰もこれを撓ることがなければ、二帝が北行に至ることもなく、宋がまして南渡の偏安に至ることはなかったであろう。君子を用いれば安泰となり、小人を用いれば危うくなるのは、不易の理である。人情、安きを喜び危きを悪まない者はない。然るに綱が相位に居たのは僅かに七十日、その謀はしばしば用いられず、ただ黄潜善・汪伯彦・秦檜の言を信じて任じ、常に及ばざるが如くであった。何ぞ高宗の見るところ、人と殊なることか。綱はたとえ屡々斥けられても、忠誠は少しも貶まず、用捨によって語黙を決せず、赤子が母を慕うが如く、怒って呵しても尚噭々としてその裳裾を引き従おうとした。嗚呼、中興の功業が振るわなかったことは、君子は固より天に帰するが、綱の心は、諸葛孔明の用心に非ずと謂えようか。