宋史

列傳第一百十八 李綱下

列傳第一百十八 李綱下

紹興二年(1132年)、観文殿学士・湖広宣撫使兼知潭州に任ぜられた。この時、荊湖・江・湘の間では、流民や敗残兵が群れをなして盗賊となり、数え切れないほどで、多いものは数万人に至ったが、李綱はこれをすべて平定した。上奏して言うには、「荊湖は国家の上流にあり、その地は数千里に及び、諸葛亮が用武の国と称したところである。今、朝廷は東南を保有し、西北を制御している。加えて鼎州・澧州・岳州・鄂州や荊南一帯は、いずれも重兵を駐屯させ、形勢として頼るべき地であり、四川の号令を通じさせ、襄陽・漢陽の声援を受けられるようにしてこそ、中原を回復する端緒があるのである。」議論が実行に移る前に、諫官の徐俯・劉斐が李綱を弾劾し、提挙西京崇福宮に左遷された。

原文紹興二年,除觀文殿學士、湖廣宣撫使兼知潭州。是時,荊湖江、湘之間,流民潰卒群聚為盜賊,不可勝計,多者至數萬人,綱悉蕩平之。上言:「荊湖、國之上流,其地數千里,諸葛亮謂之用武之國。今朝廷保有東南,控馭西北。加鼎、澧、岳、鄂若荊南一帶,皆當屯宿重兵,倚為形勢,使四川之號令可通,而襄、漢之聲援可接,乃有恢復中原之漸。」議未及行,而諫官徐俯、劉斐劾綱,罷為提舉西京崇福宮。

四年(1134年)冬、金人と偽斉が攻めてきた。李綱は防禦の三策を具申し、次のように述べた。「偽斉が全軍を南下させれば、その国内は必ず手薄になる。もし不意を突き、電光石火の勢いで潁昌を攻め落とし、畿甸に迫れば、彼らは必ず震え上がって救援に戻り、王師が追撃すれば、必勝の道理である。これが上策である。もし車駕が江上に駐蹕し、上流の兵を召集して順流下りさせ、声勢を助け、金鼓と旌旗を千里に相望ませれば、敵は数が多くても南渡を敢えてしないであろう。それから重兵を要害の地に進めて駐屯させ、奇計を用いて邀撃し、その糧道を断ち、敵が遁走して帰るのを待って、徐々に攻討を議する。これが中策である。万一、親征の名を借りて、順動の計略とし、兵卒を潰散させ、要衝の制圧を失い、敵が隙に乗じて深く侵入し、州県が風の便りに奔り潰れるようなことがあれば、その禍患は測り知れないものがあろう。往年、金人の利は侵掠にあり、また時は暑さの盛りであったから、勢いとして軍を返すはずであり、朝廷はそれによって安定し、民を集めることができた。今、偽斉が導いて来たのであり、勢いとしてむやみに帰還するわけはなく、必ず割拠を謀るであろう。奸民や敗残兵がこれに従って付き従い、声勢が鴟張する。もし退避などすれば、善後の策の施しようがなくなる。昔、苻堅が百万の軍勢で晋を侵したが、謝安が一部の軍でこれを破った。朝廷の措置が適切で、将士が命令に従うならば、どうして北方の敵が我がために首を差し出さないと言えようか。ただ、一時の機会にどう対応するかによるのである。臣の上奏文を下して、二・三の大臣と熟議されることを望む。」詔して言うには、「李綱の陳述したことは、今日の急務である。三省・樞密院に付して施行せよ。」この時、韓世忠が淮・楚の間でたびたび金人を破り、劉光世・張浚に命じて軍を統率させて河を渡らせ、車駕を進発させて江上に至り、軍を労う旨の命令があった。

原文四年冬,金人及偽齊來攻,綱具防禦三策,謂:「偽齊悉兵南下,境內必虛。儻出其不意,電發霆擊,搗潁昌以臨畿甸,彼必震懼還救,王師追躡,必勝之理,此上策也。若駐蹕江上,號召上流之兵,順流而下,以助聲勢,金鼓旌旗,千里相望,則敵人雖眾,不敢南渡。然後以重師進屯要害之地,設奇邀擊,絕其糧道,俟彼遁歸,徐議攻討,此中策也。萬一借親征之名,為順動之計,使卒伍潰散,控扼失守,敵得乘間深入,州縣望風奔潰,則其患有不可測矣。往歲,金人利在侵掠,又方時暑,勢必還師,朝廷因得以還定安集。今偽齊導之而來,勢不徒還,必謀割據。奸民潰卒從而附之,聲勢鴟張,苟或退避,則無以為善後之策。昔苻堅以百萬眾侵晉,而謝安以偏師破之。使朝廷措置得宜,將士用命,安知北敵不授首於我?顧一時機會所以應之者如何耳。望降臣章與二三大臣熟議之。」詔:綱所陳,今日之急務,付三省、樞密院施行。時韓世忠屢敗金人于淮、楚間,有旨督劉光世、張浚統兵渡河,車駕進發至江上勞軍。

五年(1135年)、詔を下して攻戦・守備・措置・綏懐の方策を問うた。李綱は上奏した。

原文五年,詔問攻戰、守備、措置、綏懷之方,綱奏:

「願わくは陛下、敵が退いたことを喜ぶべきこととなさらず、仇敵に未だ雪辱できていないことを憤るべきこととなさってください。東南の地を安泰であるとなさらず、強虜が未だ滅んでいないことを憂慮すべきこととなさってください。江南に余力があるとなさらず、中原が未だ回復されていないことを痛惜すべきこととなさってください。今、強虜は少し挫折したとはいえ、金梁・新開の諸砦は未だ去っておらず、契丹に牽制の兆しがあるとはいえ、北伐の軍は未だ挙がっておりません。よろしく政事を修めて強敵に備え、小康に安んじて遠大な計略を挫くことのないようにしてください」と。

原文願陛下勿以敵退為可喜,而以仇敵未報為可憤;勿以東南為可安,而以中原未復、赤縣神州陷於敵國為可恥;勿以諸將屢捷為可賀,而以軍政未修、士氣未振而強敵猶得以潛逃為可虞。則中興之期,可指日而俟。議者或謂敵馬既退,當遂用兵為大舉之計,臣竊以為不然。生理未固,而欲浪戰以僥倖,非制勝之術也。高祖先保關中,故能東向與項籍爭。光武先保河內,故能降赤眉、銅馬之屬。肅宗先保靈武,故能破安、史而復兩京。今朝廷以東南為根本,將士暴露之久,財用調度之煩,民力科取之困,苟不大修守備,痛自料理,先為自固之計,何以能萬全而制敵?議者又謂敵人既退,當且保據一隅,以苟目前之安,臣又以為不然。秦師三伐晉,以報殽之師;諸葛亮佐蜀,連年出師以圖中原,不如是,不足以立國。高祖在漢中,謂蕭何曰:'吾亦欲東。'光武破隗囂,既平隴,復望蜀。此皆以天下為度,不如是,不足以混一區宇,戡定禍亂。況祖宗境土,豈可坐視淪陷,不務恢復乎?今歲不征,明年不戰,使敵勢益張,而吾之所糾合精銳士馬,日以損耗,何以圖敵?謂宜於防守既固、軍政既修之後,即議攻討,乃為得計。此二者,守備、攻戰之序也。至於守備之宜,則當科理淮南、荊襄,以為東南遮罩。夫六朝之所以能保有江左者,以強兵巨鎮,盡在淮南、荊襄間。故以魏武之雄,苻堅、石勒之眾,宇文、拓拔之盛,卒不能窺江表。後唐李氏有淮南,則可以都金陵,其後淮南為周世宗所取,遂以削弱。近年以來,大將擁重兵于江南,官吏守空城於江北,雖有天險而無戰艦水軍之制,故敵人得以侵擾窺伺。今當於淮之東西及荊襄置三大帥,屯重兵以臨之,分遣偏師,進守支郡,加以戰艦水軍,上運下接,自為防守。敵馬雖多,不敢輕犯,則藩籬之勢盛而無窮之利也。有守備矣,然後議攻戰之利,分責諸路,因利乘便,收復京畿,以及故都。斷以必為之志而勿失機會,則以弱為強,取威定亂於一勝之間,逆臣可誅,強敵可滅,攻戰之利,莫大於是。若夫萬乘所居,必擇形勝以為駐蹕之所,然後能制服中外,以圖事業。建康自昔號帝王之宅,江山雄壯,地勢寬博,六朝更都之。臣昔舉天下形勢而言,謂關中為上,今以東南形勢而言,則當以建康為便。今者,鑾輿未復舊都,莫若且于建康權宜駐蹕。願詔守臣治城池,修宮闕,立官府,創營壁,使粗成規模,以待巡幸。蓋有城池然後人心不恐,有官府然後政事可修,有營壘然後士卒可用,此措置之所當先也。至於西北之民,皆陛下赤子,荷祖宗涵養之深,其心未嘗一日忘宋。特製於強敵,陷於塗炭,而不能以自歸。天威震驚,必有結納來歸、願為內應者。宜給之土田,予以爵賞,優加撫循,許其自新,使陷溺之民知所依怙,莫不感悅,益堅戴宋之心,此綏懷之所當先也。臣竊觀陛下有聰明睿智之姿,有英武敢為之志,然自臨禦,迨今九年,國不辟而日蹙,事不立而日壞,將驕而難禦,卒惰而未練,國用匱而無贏餘之蓄,民力困而無休息之期。使陛下憂勤雖至,而中興之效,邈乎無聞,則群臣誤陛下之故也。陛下觀近年以來所用之臣,慨然敢以天下之重自任者幾人?平居無事,小廉曲謹,似可無過,忽有擾攘,則錯愕無所措手足,不過奉身以退,天下憂危之重,委之陛下而已。有臣如此,不知何補于國,而陛下亦安取此?夫用人如用醫,必先知其術業可以已病,乃可使之進藥而責成功。今不詳審其術業而姑試之,則雖日易一醫,無補於病,徒加疾而已。大概近年,閒暇則以和議為得計,而以治兵為失策,倉卒則以退避為愛君,而以進禦為誤國。上下偷安,不為長久之計。天步艱難,國勢益弱,職此之由。今天啟宸衷,悟前日和議退避之失,親臨大敵。天威所臨,使北軍數十萬之眾,震怖不敢南渡,潛師宵奔。則和議之與治兵,退避之與進禦,其效概可睹矣。然敵兵雖退,未大懲創,安知其秋高馬肥,不再來擾我疆埸,使疲於奔命哉?臣夙夜為陛下思所以為善後之策,惟自昔創業、中興之主,必躬冒矢石,履行陣而不避。故高祖既得天下,擊韓王信、陳豨、黥布,未嘗不親行。光武自即位至平公孫述,十三年間,無一歲不親征。本朝太祖、太宗,定維揚,平澤、潞,下河東,皆躬禦戎輅;真宗亦有澶淵之行,措天下于大安。此所謂始憂勤而終逸樂也。若夫退避之策,可暫而不可常,可一而不可再,退一步則失一步,退一尺則失一尺。往時自南都退而至維揚,則關陝、河北、河東失矣;自維揚退而至江、浙,則京東、西失矣。萬有一敵騎南牧,復將退避。不知何所適而可乎?航海之策,萬乘冒風濤不測之險,此又不可之尤者也。惟當于國家閒暇之時,明政刑,治軍旅,選將帥,修車馬,備器械,峙糗糧,積金帛。敵來則禦,俟時而奮,以光復祖宗之大業,此最上策也。臣願陛下自今以往,勿復為退避之計,可乎?臣又觀古者敵國善鄰,則有和親,仇讎之邦,鮮復遣使。豈不以釁隙既深,終無講好修睦之理故耶?東晉渡江,石勒遣使于晉,元帝命焚其幣而卻其使。彼遣使來,且猶卻之,此何可往?假道僭偽之國,其自取辱,無補於事,祗傷國體。金人造釁之深,知我必報,其措意為何如?而我方且卑辭厚幣,屈體以求之,其不推誠以見信,決矣。器幣禮物,所費不貲,使軺往來,坐索士氣,而又邀我以必不可從之事,制我以必不敢為之謀,是和卒不成,而徒為此擾擾也。非特如此,于吾自治自強之計,動輒相妨,實有所害。金人二十餘年,以此策破契丹、困中國,而終莫之悟。夫辨是非利害者,人心所同,豈真不悟哉?聊復用此以僥倖萬一,曾不知為吾害者甚大,此古人所謂幾何僥倖而不喪人之國者也。臣願自今以往,勿復遣和議之使,可乎?二說既定,擇所當為者,一切以至誠為之。俟吾之政事修,倉廩實,府庫充,器用備,士氣振,力可有為,乃議大舉,則兵雖未交,而勝負之勢已決矣。抑臣聞朝廷者根本也,藩方者枝葉也,根本固則枝葉蕃,朝廷者腹心也,將士者爪牙也,腹心壯則爪牙奮。今遠而強敵,近而偽臣,國家所仰以為捍蔽者在藩方,所資以致攻討者在將士,然根本腹心則在朝廷。惟陛下正心以正朝廷百官,使君子小人各得其分,則是非明,賞罰當,自然藩方協力,將士用命,雖強敵不足畏,逆臣不足憂,此特在陛下方寸之間耳。臣昧死上條六事:一曰信任輔弼,二曰公選人材,三曰變革士風,四曰愛惜日力,五曰務盡人事,六曰寅畏天威。何謂信任輔弼?夫興衰撥亂之主,必有同心同德之臣相與有為,如元首股肱之于一身,父子兄弟之于一家,乃能協濟。今陛下選于眾以圖任,遂能捍禦大敵,可謂得人矣。然臣願陛下待以至誠,無事形跡,久任以責成功,勿使小人得以間之,則君臣之美,垂於無窮矣。何謂公選人才?夫治天下者,必資于人才,而創業、中興之主,所資尤多。何則?繼體守文,率由舊章,得中庸之才,亦足以共治;至於艱難之際,非得卓犖瑰偉之才,則未易有濟。是以大有為之主,必有不世出之才,參贊翊佐,以成大業。然自昔抱不群之才者,多為小人之所忌嫉,或中之以黯暗,或指之為黨與,或誣之以大惡,或擿之以細故。而以道事君者,不可則止,難於自進,恥於自明,雖負重謗、遭深譴,安於義命,不復自辨。苟非至明之主,深察人之情偽,安能辨其非辜哉?陛下臨禦以來,用人多矣,世之所許以為端人正士者,往往閑廢於無用之地;而陛下寤寐側席,有乏材之歎,盍少留意而致察焉!何謂變革士風?夫用兵之與士風,似不相及,而實相為表裏。士風厚則議正而是非明,朝廷賞罰當功罪而人心服,考之本朝嘉祐、治平以前可知已。數十年來,奔競日進,論議徇私,邪說利口,足以惑人主之聽。元祐大臣,持正論如司馬光之流,皆社稷之臣也,而群枉嫉之,指為奸黨,顛倒是非,政事大壞,馴致靖康之變,非偶然也。竊觀近年士風尤薄,隨時好惡,以取世資,潝訿成風,豈朝廷之福哉?大抵朝廷設耳目及獻納論思之官,固許之以風聞,至於大故,必須核實而後言。使其無實,則誣人之罪,服讒搜慝,得以中害善良,皆非所以修政也。何謂愛惜日力?夫創業、中興,如建大廈,堂室奧序,其規模可一日而成,鳩工聚材,則積累非一日所致。陛下臨禦,九年於茲,境土未復,僭逆未誅,仇敵未報,尚稽中興之業者,誠以始不為之規模,而後不為之積累故也。邊事粗定之時,朝廷所推行者,不過簿書期會不切之細務,至於攻討防守之策,國之大計,皆未嘗留意。夫天下無不可為之事,亦無不可為之時。惟失其時,則事之小者日益大,事之易者日益難矣。何謂務盡人事?夫天人之道,其實一致,人之所為,即天之所為也。人事盡於前,則天理應於後,此自然之符也。故創業、中興之主,盡其在我而已,其成功歸之於天。今未嘗盡人事,敵至而先自退屈,而欲責功於天,其可乎?臣願陛下詔二三大臣,協心同力,盡人事以聽天命,則恢復土宇,剪屠鯨鯢,迎還兩宮,必有日矣。何謂寅畏天威?夫天之于王者,猶父母之于子,愛之至,則所以為之戒者亦至。故人主之于天戒,必恐懼修省,以致其寅畏之誠。比年以來,熒惑失次,太白晝見,地震水溢,或久陰不雨,或久雨不霽,或當暑而寒,乃正月之朔,日有食之。此皆天意眷佑陛下,丁甯反覆,以致告戒。惟陛下推至誠之意,正厥事以應之,則變災而為祥矣。凡此六者,皆中興之業所關,而陛下所當先務者。今朝廷人才不乏,將士足用,財用有餘,足為中興之資。陛下春秋鼎盛,欲大有為,何施不可?要在改前日之轍,斷而行之耳。昔唐太宗謂魏征為敢言,征謝曰:「陛下導臣使言,不然,其敢批逆鱗哉。」今臣無魏征之敢言,然展盡底蘊,亦思慮之極也。惟陛下赦其愚直,而取其拳拳之忠。

上疏が奏上されると、上は詔を賜って褒め諭した。江西安撫制置大使兼洪州知事に任じられた。聖旨があり、行在に赴き奏事を終えてから任地に赴くこととなった。六年、李綱が到着し、内殿で引見された。朝廷はちょうど大挙して進撃する意気込みが盛んであったが、李綱は辞去の際に拝謁し、今日の用兵における失策四点、措置が未だ十分に善くない点五つ、予め備えるべきこと三つ、善後策を講ずべきこと二つを述べた。

原文疏奏,上為賜詔褒諭。除江西安撫制置大使兼知洪州。有旨,赴行在奏事畢之官。六年,綱至,引對內殿。朝廷方銳意大舉,綱陛辭,言今日用兵之失者四,措置未盡善者五,宜預備者三,當善後者二。

当時、宋軍と金軍・偽斉軍は淮河・泗水の地で半年にわたり対峙していた。李綱が上奏した。「両軍が対峙する場合、奇策を用いなければ勝つことはできない。どうか速やかに勇将を派遣し、淮南から岳飛と連絡して犄角の勢いとし、挟撃すれば、大功を成すことができましょう。」やがて宋軍はたびたび勝利し、劉光世・張俊・楊沂中らが淮河・肥水のほとりで偽斉軍を大破した。

原文時宋師與金人、偽齊相持於淮、泗者半年,綱奏:「兩兵相持,非出奇不足以取勝。願速遣驍將,自淮南約岳飛為掎角,夾擊之,大功可成。」已而宋師屢捷,劉光世、張俊、楊沂中大破偽齊兵於淮、肥之上。

車駕は進発して建康に行幸された。李綱は戦守の具をさらに整え、淮河沿いの城砦を修築するよう上奏し、かつ言上した。「願わくは陛下には、去冬の急な勝利によって自ら怠ることなく、目前の粗い安定によって自ら安んずることなく、中興の治をもたらすことができることはすべて行い、中興の業を害するものはすべて取り除かれますように。要は政事を修め、賞罰を信実にし、是非を明らかにし、邪正を区別し、人材を招き寄せ、士気を鼓舞し、民力を愛惜し、衆心を順導することを先とすべきです。これら数件が備われば、将帥は和合し、士卒は戦いを喜び、用兵して勝たないことがありましょうか。」

原文車駕進發幸建康。綱奏乞益飭戰守之具,修築沿淮城壘,且言:「願陛下勿以去冬驟勝而自怠,勿以目前粗定而自安,凡可以致中興之治者無不為,凡可以害中興之業者無不去。要以修政事,信賞罰,明是非,別邪正,招徠人材,鼓作士氣,愛惜民力,順導眾心為先。數者既備,則將帥輯睦,士卒樂戰,用兵其有不勝者哉?」

淮西の酈瓊が全軍を率いて劉豫に叛き帰順した。李綱は朝廷に措置失当な点、深く痛惜すべき点、および前の過失を戒めとして将来を図るべき点、合わせて十五事を指摘し、上奏した。張浚は咎を引いて宰相の地位を去り、言事官らは漢の武帝が王恢を誅したことを引き合いに出した。李綱が上奏して言った。「臣がひそかに見るに、張浚が罷相され、言事官らが武帝の王恢誅殺の故事を引き合いに出しております。臣は恐れます。智謀の士は舌を巻いて兵を語らず、忠義の士は手首を扼して発憤する所なく、将士は解体して命令に従わず、州郡は風の便りに望んで堅城なく、陛下は誰と共に国を立てられましょうか。張浚の措置失当は、確かに罪があります。しかしながら、その区区たる国に殉ずる心には、哀れむべきところがあります。どうか少し寛大に扱い、将来の効果を責めるように願います。」

原文淮西酈瓊以全軍叛歸劉豫,綱指陳朝廷有措置失當者、深可痛惜者及當監前失以圖方來者凡十有五事,奏之。張浚引咎去相位,言者引漢武誅王恢為比。綱奏曰:「臣竊見張浚罷相,言者引武帝誅王恢事以為比。臣恐智謀之士捲舌而不談兵,忠義之士扼腕而無所發憤,將士解體而不用命,州郡望風而無堅城,陛下將誰與立國哉?張浚措置失當,誠為有罪,然其區區徇國之心,有可矜者。願少寬假,以責來效。」

当時、車駕は平江に行幸されようとしていた。李綱は、平江は建康から遠くなく、退避の名ばかりで、軽々しく動くべきではないと考えた。再び詳細に上奏して言った。

原文時車駕將幸平江,綱以為平江去建康不遠,徒有退避之名,不宜輕動。復具奏曰:

臣が聞くところによれば、昔より用兵によって大業を成した者は、必ずまず人心を固め、士気を奮い起こし、地利を占めて先に退くことを肯んぜず、人事を尽くして先に屈することを肯んじなかった。それゆえ、楚と漢が滎陽・成皋の間で対峙した時、高祖はたびたび敗れても、寸土も退かなかった。鴻溝を割いてから、項羽が東へ引き上げると、たちまち垓下の滅亡を招いた。曹操と袁紹が官渡で戦った時、曹操は兵弱く糧乏しかったが、荀彧が退避を止めた。袁紹の輜重を焼いてから、袁紹が引き上げ帰ると、たちまち河北を失った。これによって見れば、今日の事態は、どうして一叛将の故に、風の便りに敵を恐れ、急いで自ら退き屈することができようか。もしこの謀が本当に出たならば、天子の車駕が回ってのち、人情は動揺し、固い志を持つ者はなく、士気は萎縮し、戦う心を持つ者はないであろう。我が退き彼が進み、敵の馬をして南渡させ、一邑を得れば一邑を守り、一州を得れば一州を守り、一路を得れば一路を守るであろう。乱臣賊子、狡猾な官吏や奸悪な民衆がこれに従って付き従い、虎のように踞り、鵄のように威張り、前日のごとく車駕を返し轅を回らせ、荊棘瓦礫の中に朝廷を再建することは、もはや得られないであろう。仮に敵騎が突撃し、已むを得ず一時しのぎに避けたとしても、まだ言い分はあろう。今、辺境には警急の報もなく、兵将には初めから不利な失策もない。朝廷は正しく往事を戒め、軍政を修め、号令を審らかにし、賞刑を明らかにし、固守に努めるべきである。しかるに急いでこのような騒擾を起こし、前功を棄て、後患を挑み、自ら禍敗に向かうことは、まことに惜しむべきことではないか。

原文臣聞自昔用兵以成大業者,必先固人心,作士氣,據地利而不肯先退,盡人事而不肯先屈。是以楚、漢相距于滎陽、成皋間,高祖雖屢敗,不退尺寸之地;既割鴻溝,羽引而東,遂有垓下之亡。曹操、袁紹戰於官渡,操雖兵弱糧乏,荀彧止其退避;既焚紹輜重,紹引而歸,遂喪河北。由是觀之,今日之事,豈可因一叛將之故,望風怯敵,遽自退屈?果出此謀,六飛回馭之後,人情動搖,莫有固志,士氣銷縮,莫有鬥心。我退彼進,使敵馬南渡,得一邑則守一邑,得一州則守一州,得一路則守一路;亂臣賊子,黠吏奸氓,從而附之,虎踞鴟張,雖欲如前日返駕還轅,復立朝廷於荊棘瓦礫之中,不可得也。借使敵騎衝突,不得已而權宜避之,猶為有說。今疆埸未有警急之報,兵將初無不利之失,朝廷正可懲往事,修軍政,審號令,明賞刑,益務固守。而遽為此擾擾,棄前功,挑後患,以自趨於禍敗,豈不重可惜哉!

八年、王倫が北使から帰還した。李綱はこれを聞き、上疏して言った。

原文八年,王倫使北還,綱聞之,上疏曰:

臣がひそかに見るに、朝廷は王倫を金国に派遣し、梓宮を奉迎させた。今、王倫が帰り、金使を伴って来たが、「江南を詔諭する」と名乗り、国号を掲げずに「江南」と言い、「通問」と言わずに「詔諭」と言う。これは何たる礼儀か。臣は試みに陛下のために申し上げたい。金人は宗社を毀ち、二聖を逼迫した。そして陛下は天に応じ人に順い、旧業を光復された。我から彼を見れば、仇敵である。彼から我を見れば、腹心の病である。どうして再び和すべき理があろうか。しかしながら、朝廷が使者を遣わして通問し、冠蓋が道に相望み、卑辞と厚い幣帛を惜しみなく用いるのは、二聖がその域中におられ、親のために己を屈し、已むを得ずそうしているのであり、まだ言い分はあろう。去年の春に至り、両宮の凶報が既に届き、使者を遣わして梓宮を迎えようとしたが、急ぎ往き急ぎ返り、初めから要領を得なかった。今、王倫の使事は、初め梓宮奉迎を旨としたが、金使の来訪は、江南詔諭を名目とする。名に循って実を責めれば、既に乖戾しており、朝廷を欺き後患を生ずる所以は、詰問を待たずして知ることができる。臣は遠方にあり、その曲折を知るには足りないが、愚かな考えで推し量れば、金がこの名目で使者を遣わすのは、その要求の大略は五つある。必ず詔書を降し、陛下に屈体降礼してこれを受け聴かせようとすること、これが第一。必ず赦文があり、朝廷に宣布させ、郡県に班示させようとすること、これが第二。必ず約束を立て、陛下に藩臣として奉じ称臣し、その号令を稟かせようとすること、これが第三。必ず歳賂を求め、その数を広げ、我をして坐して困窮させようとすること、これが第四。必ず割地を求め、江を境界とし、淮南・荊襄・四川をことごとく得ようとすること、これが第五。この五つを、朝廷が一つでも従えば、大事は去る。金人の変詐は測りがたく、貪婪にして飽くことを知らない。たとえその詔令を聴き、藩臣として奉じ称臣しても、その志はまだ已まないであろう。必ず引き続き号令があり、あるいは親しく梓宮を迎えさせ、あるいは単車で入覲させ、あるいは将相を移易させ、あるいは政事を改革させ、あるいは租賦を搾り取り、あるいは土宇を削り取るであろう。これに従えば際限がなく、一つでも従わなければ前功は尽く廃れ、かえって兵端となる。一時の便宜として、その要求を聴けば後悔がないと思い込むのは、愚かであるか、欺くものである。国家の勢いが単弱で、果たして自ら振るうに足らず、已むを得ずこれを行うのであれば、固よりなお不可である。ましてや土宇の広さはなお天下の半ばを占め、臣民の心は宋を戴いて忘れず、識者とこれを謀れば、なお有為であることができる。どうして祖宗の大業、生霊の属望を忘れ、慮らず図らず、急いで自ら屈服し、旦暮の命を延ばすことを望むことができようか。臣は願わくは陛下には特に聖意を留め、軽々しく許さず、深く群臣に詔して、利害と長久の策を講明させ、その善きものを選んでこれに従われますように。

原文臣竊見朝廷遣王倫使金國,奉迎梓宮。今倫之歸,與金使偕來,乃以「詔諭江南」為名,不著國號而曰「江南」,不雲「通問」而曰「詔諭」,此何禮也?臣請試為陛下言之。金人毀宗社,逼二聖,而陛下應天順人,光復舊業。自我視彼,則仇讎也;自彼視我,則腹心之疾也,豈復有可和之理?然而朝廷遣使通問,冠蓋相望於道,卑辭厚幣,無所愛惜者,以二聖在其域中,為親屈己,不得已而然,猶有說也。至去年春,兩宮凶問既至,遣使以迎梓宮,亟往遄返,初不得其要領。今倫使事,初以奉迎梓宮為指,而金使之來,乃以詔諭江南為名。循名責實,已自乖戾,則其所以罔朝廷而生後患者,不待詰而可知。臣在遠方,雖不足以知其曲折,然以愚意料之,金以此名遣使,其邀求大略有五:必降詔書,欲陛下屈體降禮以聽受,一也。必有赦文,欲朝廷宣佈,班示郡縣,二也。必立約束,欲陛下奉藩稱臣,稟其號令,三也。必求歲賂,廣其數目,使我坐困,四也。必求割地,以江為界,淮南、荊襄、四川,盡欲得之,五也。此五者,朝廷從其一,則大事去矣。金人變詐不測,貪婪無厭,縱使聽其詔令,奉藩稱臣,其志猶未已也。必繼有號令,或使親迎梓宮,或使單車入覲,或使移易將相,或改革政事,或竭取租賦,或朘削土宇。從之則無有紀極,一不從則前功盡廢,反為兵端。以為權時之宜,聽其邀求,可以無後悔者,非愚則誣也。使國家之勢單弱,果不足以自振,不得已而為此,固猶不可,況土宇之廣猶半天下,臣民之心戴宋不忘,與有識者謀之,尚足以有為,豈可忘祖宗之大業,生靈之屬望,弗慮弗圖,遽自屈服,冀延旦暮之命哉?臣願陛下特留聖意,且勿輕許,深詔群臣,講明利害、可以久長之策,擇其善而從之。

上疏が奏上されると、衆論とは合わなかったが、上は忤意とせず、言われた。「大臣はこのようであるべきだ。」

原文疏奏,雖與眾論不合,不上以為忤,曰:「大臣當如此矣。」

九年、潭州知事・荊湖南路安撫大使に任じられた。李綱は詳細に上奏して力辞し、言った。「臣は迂闊で身を全うする術がなく、動けば煩言を招きます。今、江西から罷免されて日も浅く、また蒙を洗い祓われ、帥権を与えられました。昔、漢の文帝が季布の賢を聞き、召し寄せたが、やがて罷めて帰した。季布は言った、『陛下は一人の称賛によって臣を召し、一人の誹謗によって臣を去らせる。臣は天下が陛下の浅深を窺うことを恐れます。』顧みるに臣の区区たる進退は、何をか少なからず多からずと言わん。しかしながら数年之間に、急に奮い急に躓き、上は陛下の知人任使の明を累わし、実に国体に関わるものがあります。」詔して、李綱の累次の上奏により、重ねて違えることを欲せず、ついにその請いを允した。翌年に薨去した。享年五十八。訃報が聞こえると、上は軫悼され、使者を遣わして賻贈し、その家を撫問し、喪葬の費用を給した。少師を追贈し、その親族十人に官職を与えた。

原文九年,除知潭州、荊湖南路安撫大使,綱具奏力辭,曰:「臣迂疏無周身之術,動致煩言。今者罷自江西,為日未久,又蒙湔祓,畀以帥權。昔漢文帝聞季布賢,召之,既而罷歸,布曰:'陛下以一人之譽召臣,一人之毀去臣,臣恐天下有以窺陛下之淺深。'顧臣區區進退,何足少多。然數年之間,亟奮亟躓,上累陛下知人任使之明,實有系於國體。」詔以綱累奏,不欲重違,遂允其請。次年薨,年五十八。訃聞,上為軫悼,遣使賻贈,撫問其家,給喪葬之費。贈少師,官其親族十人。

李綱は天下の期待を一身に背負い、己の用捨が社稷と生民の安危を決するものとした。身が用いられずとも、用いられても久しくなかったが、その忠誠義気は凛然として遠近を動かした。宋の使者が燕山に至るたび、必ず李綱・趙鼎の安否を問うたという。遠方の人々に畏服されること、かくの如しであった。綱の著書に『易伝』内篇十巻・外篇十二巻、『論語詳説』十巻、文章・歌詩・奏議百余巻があり、また『靖康伝信録』『奉迎録』『建炎時政記』『建炎進退志』『建炎制詔表劄集』『宣撫荊広記』『制置江右録』がある。

原文綱負天下之望,以一身用舍為社稷生民安危。雖身或不用,用有不久,而其忠誠義氣,凜然動乎遠邇。每宋使至燕山,必問李綱、趙鼎安否,其為遠人所畏服如此。綱有著《易傳》內篇十卷、外篇十二卷,《論語詳說》十卷,文章、歌詩、奏議百餘卷,又有《靖康傳信錄》、《奉迎錄》、《建炎時政記》、《建炎進退志》、《建炎制詔表劄集》、《宣撫荊廣記》、《制置江右錄》。

論じて曰く、李綱の賢をもってすれば、靖康・建炎の間に力を尽くし慮りを竭くさせ、誰もこれを撓ることがなければ、二帝が北行に至ることもなく、宋がまして南渡の偏安に至ることはなかったであろう。君子を用いれば安泰となり、小人を用いれば危うくなるのは、不易の理である。人情、安きを喜び危きを悪まない者はない。然るに綱が相位に居たのは僅かに七十日、その謀はしばしば用いられず、ただ黄潜善・汪伯彦・秦檜の言を信じて任じ、常に及ばざるが如くであった。何ぞ高宗の見るところ、人と殊なることか。綱はたとえ屡々斥けられても、忠誠は少しも貶まず、用捨によって語黙を決せず、赤子が母を慕うが如く、怒って呵しても尚噭々としてその裳裾を引き従おうとした。嗚呼、中興の功業が振るわなかったことは、君子は固より天に帰するが、綱の心は、諸葛孔明の用心に非ずと謂えようか。

原文論曰:以李綱之賢,使得畢力殫慮于靖康、建炎間,莫或撓之,二帝何至於北行,而宋豈至為南渡之偏安哉?夫用君子則安,用小人則危,不易之理也。人情莫不喜安而惡危。然綱居相位僅七十日,其謀數不見用,獨于黃潛善、汪伯彥、秦檜之言,信而任之,恒若不及,何高宗之見,與人殊哉?綱雖屢斥,忠誠不少貶,不以用舍為語默,若赤子之慕其母,怒呵猶噭々焉挽其裳裾而從之。嗚呼,中興功業之不振,君子固歸之天,若綱之心,其可謂非諸葛孔明之用心歟?