宋史

列傳第一百十六 何灌 李熙靖 王雲 譚世勣 梅執禮 程振 劉延慶

何灌

何灌、字は仲源、開封祥符の人なり。武選に登第し、河東從事となる。経略使韓縝はその才を数度試みたが、常に沮抑して、寛容に扱わず。久しくして乃ち之に語りて曰く、「君は奇士なり、他日必ず吾が坐を拠るべし」と。府州・火山軍巡検となる。盗賊蘇延福は狡猾にして悍し、二辺の患いとなりしが、灌親しく其の首を梟す。賈胡疃に泉あり、遼人は常に境を越えて汲みしが、灌親しく界堠を申し画き、其の来を遏む。敵忿りて兵を挙げて我を犯す。灌高きに迎えて之を射れば、発する毎に中り、或いは崖石に著きて皆鏃を没す。敵驚きて神と為し、逡巡して斂めて去る。後三十年、契丹の蕭太師灌と会し、曩の事を道ひて、何巡検の神射を問う。灌曰く、「即ち灌是なり」と。蕭矍然として起ちて拝す。

河東将となり、夏人と遇う。鉄騎来たりて追うに、灌の射る矢は皆甲を徹し、胸を洞して背より出で、後騎に疊貫す。羌懼れて却く。寧化軍・豊州を知り、熙河都監に徙る。童貫に見えて拝せず、貫憾む。張康国徽宗に薦む。召して対せしめ、西北辺事を問う。笏を以て御榻を画き、坐衣の花紋を指して形勢と為す。帝曰く、「敵吾が目中に在り」と。

河東刑獄を提点し、西上閤門使に遷り、威州刺史を領し、滄州を知る。城鄣を治むる功に因り、引進使に転ず。詔して粟三十万石を並塞の三州に運ばしむ。灌言く、「水浅くして舟に勝えず、陸は当に車八千乗を用うべし。沿辺方に麦を登す。願わくは運費を以て価を増し就きて之を糴せん」と。奏上し、報じて可とす。安撫使之を忌み、劾して云く、板築未だ畢らずして賞を冒すと。遷したる官を奪い、仍て再び秩を貶し、罷めて去らしむ。

未だ幾ばくもあらず、岷州を知る。邈川の水を引きて閒田千頃を溉ぎ、湟人は広利渠と号す。河州に徙り、復た岷を守り、熙河蘭湟弓箭手を提挙す。入りて言く、「漢の金城・湟中に穀斛八銭なり。今の西寧・湟・廓即ち其の地なり。漢・唐の故渠尚お考うべし。若し先ず渠を葺きて水を引き、田をして旱に病ましめざらしめば、則ち人募に応ずるを楽み、而して射士の額足るべし」と。之に従う。甫く半歳、善田二万六千頃を得、士七千四百人を募る。他路の最と為す。童貫西辺に兵を用う。灌古骨龍馬進武軍を取り、吉州防禦使を加えられ、蘭州を知るに改む。又仁多泉城を攻む。砲足を傷つくも顧みず、卒に城を抜き、首五百級を斬る。尋いで廓州防禦使に改む。

宣和初、劉法敵に陷る。震武甚だ危し。熙帥劉仲武灌をして往きて救わしむ。灌衆寡敵せずと為し、但だ虚声を張りて之を駭す。夏人宵遁す。灌其の実を覗わるるを恐れ、遽かに兵を反す。仲武猶お其の逗留を奏し、淮西鈐轄に罷む。方臘を平げるに従い、賊帥呂師囊を獲、同州観察使・浙東都鈐轄に遷り、浙西に改む。

童貫北征し、檄して兵馬を統制せしむ。涿・易平ぐ。以て易州を知り、寧武軍承宣使・燕山路副都総管に遷り、又龍・神衛都指揮使を加う。夔离不景州を取り、薊州を囲む。貫兵事を諉す。即ち景城を復し、薊の囲みを釈く。郭薬師蕃・漢兵を統ぶ。灌白く、「頃年折氏朝に帰す。朝廷別に一司を置き、専ら漢兵を部し、克行に至りて、乃ち同営を許す。今但だ薬師をして常勝軍を主たらしめ、而して漢兵を灌輩に委ぬべし」と。貫聴かず。召し還り、歩軍司を管幹す。

遼使に陪して玉津園に射る。一発的に破り、再発すれば則ち否。客曰く、「太尉能わざるか」と。曰く、「然らず。礼を以て客に譲るのみ」と。弓を整えて復た之を中つ。観者誦歎す。帝親しく酒を賜いて之を労う。歩軍都虞候に遷る。

金師南下す。悉く禁旅を出だして梁方平に付し黎陽を守らしむ。灌宰相白時中に謂ひて曰く、「金人国を傾けて遠く至る。其の鋒当たるべからず。今方平精鋭を掃いて以北す。万一枝梧せずんば、何を以てか吾が後を善くせん。蓋し留めて以て根本を衛わしむべからずや」と。従わず。明日、又灌を行かしむるを命ず。軍戦に堪えずと辞す。之を強うるに、武泰軍節度使・河東河北制置副使を拝す。未だ行かざるに帝内禅す。灌兵を領して入衛す。鄆王楷門に至りて入らんとす。灌曰く、「大事已に定まる。王何の命を受けて来るか」と。導者懼れて退く。灌竟に行く。援兵二万足らず。民を募りて数に充つるを聴く。

靖康元年正月二日、滑州に次ぐ。方平南奔し、灌も亦風を望んで迎え潰る。黄河の南岸一人も敵を禦ぐ者無し。金師遂に直ちに京城を叩く。灌至り、入見を乞う。許さずして、西隅を控守せしむ。城に背きて戦を拒ぐこと凡そ三日、創を受け、陣に没す。年六十二。帳下の韓綜・雷彦興は奇士なり。各々手ずから数人を殺し、従ひて死す。欽宗哀悼し、金帛を賜ひ、官をして護葬せしむ。已にして言者其の河津を守らざるを論じ、官秩を追削す。

長子薊、閤門宣賛舎人に至る。父に従ひて戦い、箭左臂を貫く。之を抜き出だす。創に病みて死す。紹興四年、中子蘚灌の事を以て朝に泣訴す。詔して履正大夫・忠正軍承宣使を復す。

李熙靖

李熙靖、字は子安、常州晉陵の人、唐の衛公徳裕の九世孫なり。祖均・父公弼皆進士第。公弼、崇寧初潞州を通判し、三舍法の不便を議するを以て、使者其の詔令を沮格すと劾し、坐して削黜せられて死す。熙靖第を擢げ、又詞学兼茂に中り、選ばれて辟雍録・太学正となり、博士に升る。父老を以て外を丐う。提挙淮東学事を除し便養せしむ。命下りて、乃ち河東を得。而して淮東と為る者は臧祐之なり。蓋し省吏祐之の賂を取り、輒ち之を易う。或いは使ひて自ら言わしむるを教う。熙靖曰く、「君に事うるに地を択ばず。吾其れ人の私を発し、自便を求むべけんや」と。宰相聞きて之を賢とし、留めて兵部員外郎と為す。父憂に遭ひて去り、還りて右司員外郎と為す。

王黼は太宰として応奉司を統轄し、また燕雲の事業を進めていたため、中書に経撫房を設置してこれを専管し、他の執政は皆関与できなかった。熙靖はこれについて言上して曰く、「応奉の職務は、宰相が預かるべきものではない。尚書・枢密にはいずれも兵房があり、これで十分に辺境の事を治められる。経撫などというものは何のためか」。王黼は次第にこれを快く思わなくなった。同列の五人はいずれも禁従に抜擢されたが、彼だけは四年間滞留した。都水丞が職務を怠り、その過失を熙靖に転嫁したため、二階級降格され、さらに左遷されて国子司業とされようとしたが、執政が交互に不可と主張したため、僅かに太常少卿に転じた。王黼が罷免されてから、ようやく中書舎人に任ぜられたが、蔡攸もまた彼を憎み、拱州知州として出された。

二月を経て、再び元の官職で召還され、入朝して対し言上した、「燕山は平定されましたが、なお一層慎重に、患いを思い予防の戒めを加えるべきです」。徽宗は曰く、「『詩経』にいう『天の未だ陰雨せざるに迨いて、彼の桑土を徹り、牖戸を綢繆す』というのがこれである」。熙靖が進み出て曰く、「孔子は云われました、『この詩を作る者は、其れ道を知れるかな!能く其の国家を治む、誰か敢えて之を侮らん』と。願わくは陛下が無疆の計を為されますように」。帝はこれを賞賛した。

靖康初年、譚世勣と共に龍徳宮に仕え、顕謨閣待制・提挙醴泉観に改めた。道君(徽宗)は彼を非常に厚遇し、常に内禅の事について打ち解けて語り、曰く、「外間では呉敏の功績と思っているが、実はこれは我が自らの意思によるものだと知らないのだ。我がもし望まなければ、人々は族滅されると言うだろう、誰が敢えてするものか。ある者は我が唐の睿宗のように天戒を畏れたから、そうしたのだと言うが、我にはこの心が久しくあったのだ」。熙靖は再拝して賀した。呉敏はこれを聞いて忌み嫌い、進対の時宜を得ないことを理由に処罰させた。

既に張邦昌の命令を拒絶した後、憂憤して食事を廃し、家族が粥や薬を進めて慰め諭したが、終に生気が戻らなかった。旧友が病を見舞うと、互いに抱き合ってすすり泣き、筆を求めて唐の王維の賦した「百官何日か再び天を朝せん」の句を書き、翌日遂に卒去した。享年五十三。世勣と共に端明殿学士を追贈された。

王雲

王雲は、字を子飛といい、沢州の人である。父の献可は、英州刺史・瀘州知事にまで至った。黄庭堅が涪に謫居した時、献可は彼を非常に厚遇し、当時の人々に称えられた。雲は進士に挙げられ、高麗への使者に従い、『鶏林志』を撰して進呈した。秘書省校書郎に抜擢され、簡州知州として出向し、陝西転運副使に遷った。宣和年間、童貫の宣撫幕に従い、兵部員外郎・起居中書舎人として中央に入った。

靖康元年、給事中として幹離不の軍に使いし、三鎮を割譲して和を議した。使いから戻り、幹離不の意向を伝えたところ、粘罕が朝廷から余覩に与えた蠟書を得て、堅く中国は信用できないと言い、和約を破ろうとしているということであった。執政はこれを事実ではないと考え、徽猷閣待制・唐州知州に左遷して罷免した。

金人が太原を陥落させると、召還して刑部尚書に任じ、再び使者として出し、三鎮の租税収入の額を許諾した。雲は真定に至り、従吏の李裕を帰還させて言わせた、「金人はもはや土地を求めず、ただ五輅と上尊号を要求し、かつ康王が来ることを必要とし、そうして和好が成るであろう」。欽宗は全てこれに従い、かつ康王と馮澥を行かせることにした。未だ出発せず、車輅が長垣に到着したが、拒絶され、雲もまた帰還した。馮澥は上奏して雲が虚妄を言って国を誤ると言い、雲は言った、「情勢が中途で変わり、金人は必ず三鎮を得ようとし、そうでなければ進軍して汴都を取るであろう」。朝廷内外は震駭し、詔して百官を集めて議論させた。雲は固く主張した、「康王は以前より幹離不と親交を結んでおります。使命を帯びるべきです」。帝は留め置かれることを憂慮したが、雲は曰く、「和議が既に成立すれば、必ず王を留める道理はありません。臣は百口を以てこれを保証いたします」。王は遂に命を受け、雲は資政殿学士としてその副使となった。

先頃、雲が使者として磁州・相州を通った時、両郡に近城の民家を取り壊し、穀物を運び込んで守備し、清野の計を為すよう勧めたため、民衆は彼を怨んだ。この時、磁州に駐在し、また守臣の宗澤と確執があった。ここにおいて王が嘉応神祠を参拝した時、雲は後方にいた。民衆が道を遮って諫めて曰く、「粛王は既に金人に留め置かれました。王は北に行くべきではありません」。声を荒げて雲を指さして曰く、「清野をさせた者こそ、真の奸賊である」。王が廟を出て行こうとすると、ある者が雲の笥を開け、烏絁の短巾を得た。雲は元来風眩の病があり、寝る時に頭を保護するために用いるものであった。民衆はますます彼が奸賊であると信じ、騒ぎ立ててこれを殺した。王は事態が騒然としているのを見て、南に戻って相州に向かった。この一件で、雲が死ななければ、王は必ず北行していたであろう。議者はこれをもって天命を験したという。建炎初年、観文殿学士を追贈された。

雲の兄の霽は、寧の時、謀議司詳議官となり、上書して蔡京の罪を告発し、げい面の上、海島に隷属させられた。欽宗はその官を復し、种師中に従って戦死した。

譚世勣

譚世勣は、字を彦成といい、潭州長沙の人である。進士に及第し、郴州教授となった。当時、王氏(王安石)の学が盛行していたが、世勣は元来これを好まなかった。ある者がその理由を尋ねると、曰く、「説が多くてしばしば変わり、不易の論がないからだ」。その書を置いて読まなかった。また詞学兼茂科に合格し、秘書省正字に任ぜられた。時の宰相蔡京の子の攸が書局を統轄し、同舎の郎官たちは多くこびへつらって付き従い、貴い官職を得ようとした。世勣は独り直廬に座り、終日書物を繙いていた。梁師成の客が隣人となり、しばしば師成が交わりを願う意を伝えたが、謝絶して答えなかった。

館職に六年間昇進せず、蔡京が罷免されてから、在職期間の長さによって司門員外郎となった。さらに三年を経て、吏部に遷った。蔡京が再び宰相となると、自分に附かないのを嫌い、提点太平宮に左遷して罷免した。久しくして、再び吏部に戻った。倖臣が妄りに恩沢を引き合いに出して任子を求めても、これを与えなかった。吏が某の先例があると告げると、世勣は曰く、「どうして一時の先例で成法を破ることができようか」。後に中旨を取ってこれを実行させた。少府監に進み、中書舎人に抜擢された。謹命令・惜名器・広言路・吝賜与・正上供・省浮費の六事を上に言上し、また当路の者に嫉まれた。徽猷閣待制・婺州知州となったが、赴任せず、再び留め置かれた。

徽宗が禅位して東幸し、まさに帰還しようとした時、彼を李熙靖と共に執政の副使として奉迎させ、遂に共に龍徳宮を主管した。宣仁皇后の国史に対する誹謗を弁正すること、欽聖皇后の遺旨を述べて瑤華を復すること、神祖を大享するに仍って富弼を侑食とすること、釈奠先聖に王安石を配すべきでないことを請うた。後いずれも施行された。

秋七月、彗星が東方に出た。大臣の中にはこれが四夷の衰える兆しであると言う者がいた。世勣は面奏して曰く、「垂象は畏るべきものであり、徳を修めて天に応ずるべきであり、諂諛の説に惑うべきではありません」。給事中兼侍読に進んだ。内侍が殿門で喧嘩争い、詔して贖罪をもって論じようとした。世勣はその不恭を駁し、ついで言った、「童貫の輩も初めは甚だ微賤でした。小悪を懲らさなければ、大患に至るまで馴致するでしょう」。上疏が入ると、同類の者は側目した。何㮚が外郡を四道に分け、都総管を置き、事を専断させることを建議した。世勣は言った、「天下を裂いて四人に付し、王畿の治める所が僅か十六県では、尾大不掉の憂いが無いでしょうか」。何㮚はこれを快く思わなかった。礼部侍郎に改めた。

金の騎兵が駸駸として南下し、世勣は言う。「辺境を守るのが上策である。今、辺境を守ることができず、河を守れば京畿は自ずと固くなる、これが中策である。江・淮に巡幸し、東南の兵を集めて敵を防ぐ、これが下策である。」金人が既に河を渡ると、また大将の秦元に命じてその配下の京畿保甲を率いさせ、国門を分かって護らせ、兵勢を連属させ、首尾相援けさせれば、金人は敢えて近づかないであろうと請うた。孫傅は深くこれを然りとしたが、また何㮚の議論に阻まれた。再び車駕に扈従して金の帥の帳に至り、十の害をもってその用事者を説き、講解の利を言い、詞意は忠誠激切であり、金人は聴いて聳然とした。

張邦昌が国を僭称すると、彼に李熙靖とともに直学士院を命じたが、皆病気と称して臥して起きず、憂いのうちに卒した。享年五十四。建炎初年、その節を守ったことを褒め、端明殿学士を追贈した。

梅執禮

梅執禮、字は和勝、婺州浦江の人。進士に及第し、常山尉に調任されたが赴任せず、推薦により敕令刪定官・武学博士となった。大司成の強淵明はその人を賢しとし、宰相に言ったが、宰相は未だ面識がないことを物足りなく思った。執礼はこれを聞いて言った。「人言によって得たものは、必ず人言によって失う。私は己に在るものを求めるのみである。」ついに往って謁見しなかった。

軍器丞・鴻臚丞を歴任し、比部員外郎となった。比部の職は財貨を勾稽することであり、文書は山の如く積まれ、概ね目を通す暇がなかった。苑吏が茶券を持って来て、銭三百万と称する者がおり、楊戩の旨意を以って甚だ急に迫って取立てた。執礼は一覧してその虚妄を知り、上申しようとしたが、長官・次官は疑って敢えず、そこで独り列挙して上奏したところ、果たして詐りであった。度支・吏部に改められ、国子司業兼資善堂翊善に進み、左司員外郎に遷り、中書舎人・給事中に抜擢された。

林攄が以前の執政として宮闕に赴き宿留し、故職に復することを冀ったが、執礼が論じて去らせた。孟昌齢が鄆で人の家屋を質に入れ、贖う時になっても与えようとせず、中旨を請うてこれを奪おうとし、外郡の卒で中都に留められて役務に就く者が万数に上り、不逞をほしいままにして姦を行い、詔して悉く還すよう命じたが、楊戩が占有して遣わさず、内侍の張佑が太廟の修繕を監督し、分を越えて賞を求めた。これらを皆、駁奏して行われないようにした。礼部侍郎に遷った。

平素より王黼と親善であった。黼はかつてその邸宅に酒宴を設け、園池や妓妾の盛んなことを誇示し、驕りの色があった。執礼は言った。「公は宰相として、天下と憂楽を共にすべきである。今、方臘が呉の地に毒を流し、瘡痍未だ息まず、これが歌舞宴楽の時であろうか。」退いてまた詩をもってこれを戒めた。黼は愧じ怒り、ちょうど孟饗の原廟参拝に後刻したことを理由に、顕謨閣待制として蘄州知州とし、さらに職を奪った。

翌年、滁州に移り、集英殿修撰に復した。当時、塩税が不足しており、滁もまた抑配に苦しんでいた。執礼は言った。「郡は蘇・杭の一邑にも及ばないのに、食塩の額は粟の数倍であり、民はどうして堪えられようか。」朝廷に請うたところ、詔して二十万を減じ、滁人はその徳を慕った。

欽宗が立つと、鎮江府知府に移され、召されて翰林学士となり、途中で吏部尚書に任じられ、間もなく戸部に改められた。ちょうど軍事が起こり、調度が不足していたので、執礼は禁内の銭を有司に隷属させ、凡そ六宮の廩給は皆、度支を経て初めて下されるよう請うた。かつて小黄門が中批を持って部に来て銭を取ろうとしたが、封じた印に璽を用いていなかった。その誤りに気づくと、また取りに来た。執礼が奏上して審議を求めたところ、詔して典宝夫人を責め、黄門を杖刑に処した。

金人が京都を包囲すると、執礼は帝に親征を勧め、また太上帝后・皇后・太子は皆、避難するよう請うたが、用事者がこれを沮んだ。守りを失うに及び、金人は天子を人質とし、金帛を数百千万の数で要求し、言った。「和議は既に定まった。ただ必要な数が満たされれば、天子を闕に奉還する。」執礼と同列の陳知質・程振・安扶は皆、根こそぎ索めることに反対し、四人は民力が既に困窮していることを哀れみ、互いに謀って言った。「金人の欲するところは際限がなく、銅鉄でさえも給しきれない。どうして軍法をもって罪を結び、その要求を塞がないことがあろうか。」ところが宦官が宿怨を抱いて金の帥に語って言った。「城中七百万戸、取ったものは百分の一にも満たない。ただ民に金銀を持って粟麦と交換することを許せば、出てくる者があるであろう。」已にして果たしてその通りであった。酋長は怒り、四人を呼んで責めた。答えて言った。「天子が蒙塵され、臣民は皆、死を願う。肝脳を顧みず、金帛などに何のあろうか。ただ家々が空しく、命に応えるものがないだけです。」酋長が官長はどこにいるかと問うと、振は執礼が罪を得ることを恐れ、遂に進み出て言った。「皆、官長です。」酋長はますます怒り、まずその副官の胡舜陟・胡唐老・姚舜明・王俁を取って、各々百回杖刑に処した。執礼らはなおそのために請うたが、やがて還されることになり、門に及ぼうとした時、呼び止めて下馬させ、打ち殺し、その首を梟した。時は靖康二年二月である。この日、天宇は昼も暗く、士庶は皆、涙を落とし憤り嘆いた。

初め、車駕が再び出た時、執礼は宗室の子昉や諸将の呉革らと謀り、兵を集めて万勝門を奪い、夜に金の帥の帳を襲い、二帝を迎えて帰還しようとした。しかし王時雍・徐秉哲が范瓊にその謀を漏らさせたため、成功しなかった。死んだ時、年四十九。高宗が即位すると、詔して通奉大夫・端明殿学士を追贈した。議者はこれを薄しとし、さらに資政殿学士を加えた。

程振

程振、字は伯起、饒州楽平の人。若い時から軼材があり、太学に入り、一時の名だたる輩多くこれと交遊した。徽宗が学に幸すると、諸生の右職として官を除かれ、辟雍録となり、博士に昇り、太常博士に遷り、京東・西路学事を提挙した。鄒に廟を立てて孟軻を祀り、公孫丑・万章・楽正克らを配食するよう請うた。従われた。

京西常平を提挙し、入朝して膳部員外郎・監察御史・辟雍国子司業・左司員外郎兼太子舎人となった。着任早々、言った。「古より大祭礼で登餕して爵を受けるには、必ず上嗣による。既に『礼経』に載り、また元豊の彝典に具存している。先日、天子が明堂で事を行われたが、殿下は参与されなかった。これは宗廟を尊び、社稷を重んずるものではない。」太子は矍然として言った。「宮僚で初めてこのことに及んだ者はいない。」これにより特に賞賛され異遇を加えられた。

方臘が起こると、振は王黼に対し、この時に乗じて天下の弊事を革新建設し、上は天意に当て、下は人心に順うべきだと説いた。黼は快く思わず、言った。「上は且つて黼が寇を挟むと疑うであろう、どうしようか。」振は黼が自分の言を忌むことを知り、急いで退出した。しかし太子が甚だ力を込めて推薦したため、遂に給事中に抜擢された。黼は振の資歴が浅く、かつ詔命の起草に優れていると言い、中書舎人とするよう請うた。侍郎の馮熙載が亳州知州として出ると、黼は熙載を怨み、振に醜い言葉で誹謗させようとしたが、振は肯わなかった。黼は言官に劾奏させて朋党であるとし、沖佑観提挙に罷免させた。三年居住した後、再び故官に還った。

靖康元年、吏部侍郎に進み、欽宗に言う、「権臣が和せず、議論多く駁雑にして、詔令軽々しく改まり、事機を失う。金人と交兵すること半年、而して今に至るも解けざるは、和戦の説一ならざるが故なり。濫賞を裁抑すること、白黒を分かつが如く易きも、数月の間に、三たび其の議を変ずるは、私心除かず、各其の党を蔽うが故なり。今日一人言いて、是と為して行い、明日一人言いて、非と為して止む。或いは聖断隃度して疇諮に暇あらず、或いは大臣偏見にして遂に播告を形す、所以に動くこと必ずしも善からず、処すること必ずしも宜しからず、乃ち輒ち之に反汗す、其の勢い爾ならざるを得ざるなり」。

時に金兵河北に至る、振諸道の兵を糾合し掎角して之を撃たんことを請い、曰く、「彼猖獗此くの如し、陛下尚ほ和議を守りて、而して之をして少しくも懲艾せしめざるか」。上其の言を嗟味すれども、外廷に牽せられて、用いる能わず。開封尹を拝す。故時に、大辟情矜るべき有れば、多く奏して原貸を取る。崇寧以来、議者輦轂先ず弾圧すべしと謂い、率ね便文して之を殺す。振旧制を復せんことを請う。詔して亡命の卒を捕え、数千人を得、振之を歩軍に隷せしめて其の罪を除かんことを請う。歩軍司法の如く論ぜんと欲す、振曰く、「方に多事の際にして、一日に数千人を殺せば、必ず大いに観聴を駭かす」。乃ち尽く之を釈す。刑部侍郎に改む。

金騎郊に在り、車駕の出城を邀う、振何㮚に言う、「宜しく之を折するの策を思うべし」。㮚従わず。未だ幾ばくもあらずして、難に及び、年五十七。金人去り、従子庭其の首を得て帰り之を葬る。初め、王黼其の客沈積中をして燕を図らしむ、振後禍を以て戒む、積中懼れて不可と言う。既にして振乃ち是を用いて死す、聞く者之を痛む。

初め、宣和道家の説を崇む、振東宮に侍坐し、従容として言う、「孔子《鴟鴞》の詩を以て道を知ると為す、其の詞不過に曰く『天の未だ陰雨せざるに迨い、牖戸を綢繆す』のみ。老子も亦云う『之を為すこと有らざるに於いて、之を治むること未だ乱れざるに於いて』と。今根本を無事の時に固めずして、目前の区区に事うるは、二聖人の意に非ず」。他日、太子徽宗に之を道う。徽宗寤り、頗る健羨を去り、左右の近習を疏んぜんと欲す、而して宦寺楊戩輩方に大いに宮室を興し、肆するを得ざるを懼れ、因りて家令楊馮を讒し、以て将に太子を輔けて非常を幸わんとすと為す。徽宗震怒し、馮を執いて誅し、而して太子の言も亦廃す。振京を尹する時、両宮方に惎間に困す、振極意弥縫し、龍徳梁忻の獄を治め、其の罪を寛くし、して纖介指す可き有らしめず。

高宗即位し、秩七等を進め、仍て其の子及び親属三人に官し、又端明殿学士を贈る。端平初め、曾孫東諡を請う、「剛愍」を賜う。同時に死する者礼部侍郎陳知質、其の伝を失う。給事中安扶、父《安燾伝》に附見す。

劉延慶

劉延慶、保安軍の人。世将家を為し、雄豪勇有り、数たび西伐に従い、戦功を立て、積官して相州観察使・龍神衛都指揮使・鄜延路総管に至る。泰寧軍節度観察留後に遷り、承宣使に改む。夏人の成徳軍を破り、其の酋賞屈を擒え、王子益麻党征を降す。保信軍節度使・馬軍副都指揮使を拝す。童貫に従い方臘を平げ、河陽三城を節度す。又北伐に従い、宣撫都統制を以て兵十万を督し、白溝を渡る。

延慶行軍に紀律無く、郭薬師馬を扣いて諫めて曰く、「今大軍隊を抜きて行きて設備せず、若し敵人伏を置き邀撃せば、首尾相応ぜず、則ち塵を望みて決潰せん」。聴かず。良郷に至り、遼将蕭幹衆を帥いて来たり、延慶之と戦い、敗績し、遂に壘を閉じて出でず。薬師曰く、「幹の兵万人に過ぎず、今悉く力を拒伐に尽くせば、燕山必ず虚し、奇兵五千を得て、倍道して襲い取り、令公の子三将軍師を簡びて後継と為さんことを願う」。延慶之を許し、大将高世宣を遣わして薬師と先に行かしむ、即ち燕城に入る、幹精甲三千を挙げて巷戦す。三将軍とは、光世なり。約に渝りて至らず、薬師援を失い敗走し、世宣之に死す。延慶盧溝の南に営す、幹兵を分かち餉道を断ち、護糧将王淵を擒え、漢軍二人を得、其の目を蔽い、帳中に留め、夜半偽り相語りて曰く、「漢軍十万吾が境を圧すと聞く、吾が師三倍、敵するに余り有り。当に左右翼を分かち、精兵を以て其の中を衝き、左右翼応と為し、之を殲して遺す無からん」。陰に其の一人を逸して帰らしめ報ぜしむ。明旦、延慶火の起るを見て、敵至れりと以為い、営を焼きて奔り、相蹂躙し践みて死する者百余里。熙・豊以来、儲くる所の軍実殆く尽きる。退きて雄州を保ち、燕人賦を作り及び歌を以て之を誚る。朝議延慶師を喪う、法を行わざる可からずと、坐して率府率に貶し、筠州に安置す。契丹中国兵を用いる能わざるを知り、是に由りて宋を軽んず。

未だ幾ばくもあらずして、復た鎮海軍節度使と為る。靖康の難、延慶分部して京城を守る、城陥ち、秦兵万人を引き開遠門を奪いて以て出で、亀児寺に至り、追騎の為めに殺さる。光世自ら伝有り。

論じて曰く、靖康の変、執礼・振都人の塗炭を忍びず、強敵の厭き無き欲を拒み、親しく其の凶に逢う。熙靖・世勣一身を以て二姓に事うるを肯ぜず、悲しみて食わず以て終わる。灌・延慶戦敗れて没す。此の数人者、其の遭う所同じからず、国難に死するに至っては則ち一なるのみ。雲の死、其の取る所有るも、殆ど亦天未だ宋祀を絶たんと欲せざるなり。然らずんば、是の行、康王其れ危きかな。