劉拯
劉拯、字は彦修、宣州南陵の人である。進士に及第した。常熟県知事となり、善政があり、県人はこれを称えた。元豊年間、監察御史となり、江東淮西転運判官・提点広西刑獄を歴任した。
紹聖初め、再び御史となり、言うには「元祐の時、先帝の『実録』を修するに、司馬光・蘇軾の門人である范祖禹・黄庭堅・秦観らを以てこれに当たらせ、竄易増減し、先烈を誣毀した。願わくは国典を明らかに正されたし」と。また言うには「蘇軾は貪鄙狂悖にして、君に事える義なく、かつて罪を議して死に抵するも、先帝これを赦した。敢えて怨忿を詔誥に形し、醜詆厚誣する。館職の策試に至っては、王莽・曹操の事に及び、異意の臣が方に要路を分拠する中、軾がこれを問うたことは、四方に伝わり、忠義の士は寒心扼腕した。願わくはその罪を正し、以て天下に示されたし」と。時に祖禹らは既に貶せられ、軾は英州に謫せられたが、拯はなお鷙視して満足しなかった。右正言に進み、累進して給事中に至った。
徽宗が立つと、欽聖后が朝に臨んだが、欽慈后が葬られるに当たり、大臣は妃の礼を用いようとした。拯は言う「母は子を以て貴しと為す。子が天子たるならば、母は后である。園陵を山陵に改めるべきである」と。また言う「門下侍郎韓忠彦は、徳選によるとはいえ、貴戚の政に預かる漸を啓くべからず」と。帝はその阿私観望を疑い、濠州知州に貶した。広州に改め、宝文閣待制を加え、吏部侍郎として召還された。帝はその欽慈の事を議したことを称え、二階を褒進し、戸部尚書に遷した。
蔡京が元祐姦党を編次すると、拯は言う「漢・唐の失政は、皆朋党を分かつによる。今日前人を党と指すも、安んぞ後人が今人を以て党と為さざるを知らんや。三等に定め、某の事を上と為し、某の事を中と為し、某の事を下と為し、その名氏を斥けざるに如かず」と。京は喜ばず。また戸部の月賦入が支出を償わざるを言う。京は益々怒り、兵部に転じた。まもなく蘄州知州を罷め、潤州に移った。
張商英が宰相に入ると、吏部尚書として召された。拯は既に昏憒しており、吏がこれに乗じて姦を行い、また左転して工部となり、枢密直学士として同州知州となった。時に商英は去位し、侍御史洪彦昇が併せてこれを劾し、職を削られ、鴻慶宮提挙となり、卒した。
錢遹
錢遹、字は徳循、婺州浦江の人である。進士甲科により洪州推官に調され、累進して越州通判となった。校書郎に至る。徽宗が立つと、殿中侍御史に抜擢された。中丞豊稷がその回邪にして風憲に任ずべからざるを論じたが、報いられず。稷はまた言う「必ず遹を用いるならば、願わくは臣を罷められよ」と。乃ち湖北常平提挙となった。
崇寧初め、都官員外郎・殿中侍御史として召された。曾布が元祐姦党を援け、紹聖の忠賢を擠したことを劾し、布は去った。侍御史に遷り、両月を閲て、中丞に進んだ。元符末に大臣が嘗て孟后の復位を乞い劉后を廃した事を治めるよう請う。韓忠彦・曾布・李清臣・黄履及び議者曾肇・豊稷・陳瓘・龔夬は皆坐して貶せられた。遂に殿中侍御史石豫・左膚と共に言う「元祐皇后は先朝に罪を得、宗廟に昭告し、天下知らざるはない。哲宗崩御し、太母聴政す。国を当たる大臣は尽く紹聖の事を変乱し、以て私欲を逞うせんと欲し、一布衣何大正の狂言に因り、廃后の位号を復還した。当時の物議固より已に洶洶たり。乃至疏逖の小臣、闕に詣でて上書し、忠議激切なるに至っては、則ち天下の公議従って知るべし。今朝廷既に忠彦等を貶削し、及び大正の誤恩を追褫するならば、則ち元祐皇后は義に安んぜざる所なり。孔子曰く『必ずや名を正さんか、名正しからざれば則ち言順わず』と。夫れ先朝に在りては則ち后と曰い、今日に於いては則ちこれを元祐皇后と謂うは、名に於いて正しからず。先朝廃して陛下復すは、事に於いて順わず。典礼を考うれば、則ち古昔に無し。本朝を稽うれば、則ち故実未だ有らず。師言に詢うれば、則ち大いに以て然らずと為す。況んや既に先朝に廃せられたれば、則ち宗廟の祭告、歳時の薦饗、人事に嫌疑の跡有り、神靈厭斁の心を萌し、万世の後、配祔将に安くにか施さん。宜しく早くその事を正し、大義を断じ、流俗の非正の論に牽かれ、以て聖朝を累すことなかれ」と。
遹の章に言う所の小臣上書する者は、昌州推官馮澥である。その書に謂う「先帝既に終われば、則ち后単立の義無し。これを逆順に稽うれば、陛下立嫂の礼無し。これを終始に要うれば、皇太后も亦た慈婦の恩を伸ぶるを得ず。既に遂げたる事と雖も、復し難き失いなりと雖も、然りと雖も感悟追正、何ぞ不可あらん」と。澥はこれを用いて召対を得、鴻臚主簿に除された。
蔡京が青唐を取らんと謀ると、遹はその議を助成した。会に元祐党を籍するに及び、遹は多く漏略有りと為し、給事中劉逵がこれを駁し、左転して戸部侍郎となり、俄かに工部尚書兼侍読に遷った。一年を逾え、枢密直学士として潁昌府知府となった。言者がその罪を疏し、滁州に黜せられ、稍々復た顕謨閣待制・直学士となり、宣州に移った。復た工部尚書となり、馮澥を挙げて自らに代え、謂う「澥は趣操端勁にして、古人と稽え、嘗て典礼を建明し、忠義凛凛たり。搢紳歎服す」と。言者またその罪を疏し、待制として秀州知州となった。中書舎人侯綬がこれを封還し、また待制を奪われた。久しくして、故職に還り、述古殿直学士に改めた。屏居すること十五年、方臘が婺を陥すと、遹は蘭渓に逃奔し、賊に殺され、年七十二。
石豫 附
左膚 附
膚は廬州の人で、やはり安惇の推薦により御史となり、履歴の大略は石豫と同じである。侍御史に昇進し、累進して刑部・兵部・戸部の三尚書となり、枢密直学士として河南府知事となり、永興軍に改められ、死去した。
許敦仁
呉執中
呉執中は、字を子権といい、建州松渓の人である。嘉祐年間に進士に及第し、州県の官を歴任した。同門の婿である呂恵卿がちょうど栄達していたが、これに附いて進取することを肯んじなかった。凡そ三十余年を経て、ようやく河南常平提挙に任じられ、連続して河東・淮南・江東転運判官に転じ、広東刑獄提点となり、入朝して庫部・吏部・右司郎中となった。
初め、蔡京は張康国を忌み、故に執中を言路に引き立てた。執中は先に劉炳兄弟・宋喬年父子を弾劾したが、いずれも蔡京の客分であった。帝はかつて執政に語り、そのへつらわないことを賞賛した。康国は、「これはかえって臣を追い出す地歩を作るものです」と言った。やがて弾劾の上奏文が果たして届いた。帝は怒り、滁州知州に左遷した。まもなく越州に転じた。石公弼は、執中が反覆して罪を得た者であり、大府(開封府)の長官とするのは適さないと考えた。洞霄宮提挙に改め、集賢殿修撰として揚州知事となり、顕謨閣待制を加えられて河南府知事となった。都を通過する際、再び中丞に任じられた。
帝は星変のため蔡京を追放し、言事者が止まなかったが、執中は大臣の進退は体面を全うすべきであるとし、そこで蔡京のために詔を下させ、京は重い貶謫を免れた。龐恭孫・趙遹がちょうど梓州・夔州の諸夷州を開拓した際、執中はその罪を正すよう請うた。また言上して、「八行科の選挙で得た者は皆、郷里の凡庸な人々であり、士とすべきでない。太学に下して、その道芸を試験し進退すべきである」とした。論じたことは多く施行された。礼部尚書に昇進した。
張商英が罷免されると、御史の張克公が、執中と商英はいずれも郭天信によって進用されたと上言し、枢密直学士・越州知事に任じられた。まもなく待制に降格され、さらに職を奪われた。家で死去した。
呉材
呉材は、字を聖取といい、処州竜泉の人である。進士に及第し、青渓主簿・咸平尉・江都県知事を歴任した。入朝して太学博士となり、趙挺之の推薦により、右正言に抜擢され、左司諫に昇進した。党論が再燃すると、材は先頭に立って范純礼が朋党に附いていると論じ、以前の大臣が神考(神宗)の法度を変えたため、これを執政に引き立てたのであり、その職に復すべきでないとした。程之元は蘇軾の腹心であり、九卿の次位にあるべきでないとした。張舜民は当初政権にあった時、猖狂として顧みることがなく、郷里の州郡に従官として処すべきでないとした。その後、曾布の指図を受け、王能甫とともに上疏して、「元符の末、神考の美政を変え、神考の人材を追放した者は、韓忠彦がその首魁である」とした。忠彦はそこで罷免された。
材は残忍で、善類を敵視し、排斥追放した者が最も多かった。起居郎に進み、憂服のため去官した。蔡京が用いて給事中・吏部侍郎とし、陛見して何か陳述したが、京は悦ばなかった。天章閣待制として光州知事となった。挺之が宰相となると、召されて工部侍郎に任じられ、死去した。
論じて曰く、紹述の説が行われ、権臣が専らこれを仮借して元祐の正士を攻撃した。網は既に尽くしたが、さらにこれを仮借して異己を攻撃した。鷹犬は外で搏ち、鬼蜮は内で狙い、小人が志を得て朝廷を空しくするのも当然である。故に劉拯は実録を摘んで誹謗をほしいままにし、銭遹は孟后を排斥して広く刺し、石豫は絵像を指して諸賢を削り、呉材は党論を摘んで善類を刈り取った。許敦仁の五日一朝の請い、呉執中の体貌大臣の言は、いずれも蔡京の腹心の計略である。讒言が善行を滅ぼすことは、虞舜帝が忌み嫌ったところである。似て非なるものは、孔聖人が佞を憎んだ。国家を有する者は、これを鑑みずしてよいであろうか。
劉昺
劉昺、字は子蒙、開封府東明県の人、初名は炳、後に今の名を賜る。元符の末、進士甲科に及第し、太学博士より起家し、秘書省正字・校書郎に遷る。
兄の煒は楽律に通じていた。煒の死後、蔡京は昺を大司楽に抜擢し、楽正の任を委ねた。そこで蜀人の魏漢津を引いて九鼎を鋳造させ、『大晟楽』を作らせた。昺は『鼎書』・『新楽書』を撰したが、いずれも漢津が妄りに己の意見を出し、それに縁飾を加えたもので、その語は『楽志』にある。累遷して給事中となる。蔡京が局を置いて礼制を議すると、昺はまたこれを統領した。翰林学士となり、工部尚書に改める。『紀元暦』を提挙し、加減を施したが、呉執中に論難され、顕謨閣直学士として陳州知州となる。
昺と弟の煥はいずれも侍従の身であったが、親の喪を葬らず、職を奪われ郡を罷め、さらに事有って官を免ぜられる。蔡京が再び政を輔けると、召されて戸部尚書となる。昺はかつて蔡京のために策を画き、鄭居中を排斥したので、蔡京は力を尽くして昺を援け、廃黜の中より旧班に還した。御史中丞の俞㮚がその姦利の事を発すると、蔡京は㮚を他官に転じさせた。
徽宗の収蔵する三代の彝器について、詔して昺に討定させ、凡そ尊爵・俎豆・盤匜の類は、悉く古に従って改め、その製した器を祀儀に載せ、太学の諸生に雅楽を習熟させしめた。閲試の日、昺と大司成の劉嗣明が奏上すると、鶴が宮架の上に翔る有り様であった。再び翰林学士となり、東宮が建てられると太子賓客となり、また戸部に還る。
大理寺が戸絶法を議し、もし祖父に子ありて未だ娶らずして亡びた場合は、孫を養って嗣とすることはできないとした。昺は言う、「一年の諸路の戸絶を計っても、万緡の銭を得るに過ぎない。歳に万緡を失うともって天下に絶戸無からしむるは、豈に不可ならんや」と。詔してその議に従う。宣和殿学士を加えられ、河南府知府となり、積官して金紫光禄大夫となる。王寀と交わり通じ、事敗れると、開封尹の盛章は死をもって議し、刑部尚書の范致虚が請うたので、長流して瓊州に配された。死す、年五十七。
宋喬年
宋喬年、字は仙民、宰相の宋庠の孫なり。
父の充国は、学問に意を用い、郷書をもって礼部に試みられたが、既に自ら宰相の子と称し、挙を輒ち罷めた。仁宗これを知り、学士院に召し試み、進士出身を賜い、簽書河南判官、判登聞鼓院、太常礼院知事となる。英宗が廟に祔せられるに当たり、議者は僖祖を祧して夾室に蔵めんとしたが、充国は感生帝に配して宋の始祖と為すことを請い、これに従った。東西府が建てられると、二箴を上して大臣を戒めたが、大臣は快く思わなかった。廟饗の宿斎に際し、その妻が二妾を寺に遣わしたため、充国自ら劾し、礼院を罷め、遂に致仕した。充国は性質剛介、親に奉ずるに孝で、平居微物を得れば必ず先ず家廟に薦め、乃ち敢えて嘗めた。官は太中大夫に至り、卒す。
子 昪
子の昪、字は景裕。崇寧初め、譙県尉より敕令刪定官となり、数年して殿中少監に至る。時に喬年は京尹であり、父子は蔡氏に依憑し、士大夫を陵轢し、密かに諫官の蔡居厚と交わり、これをして鷹犬たらしめた。徽猷閣待制として陳州知州となる。喬年が貶せられると、昪もまた少府少監に謫せられ、分司して南京に居し、間もなく応天府知府となる。
喬年が卒すると、起復して京西都転運使となり、西宮の修葺及び三山新河の修築に臨み、顕謨閣学士に擢げられる。当時、徽宗が諸陵を謁することを議し、有司は西幸の備えを予め為した。宮城を治め、広袤十六里、廊屋四百四十間を創建し、費用は勝えがたし。時に漆を塗るに当たり、灰人骨を胎とすることに至り、一斤の値は数千銭に及んだ。洛城外二十里の古塚を尽く発き、凡そ衣冠の壟兆は、大抵暴掘に遭った。これにより正議大夫・殿中監に遷り、また命を受けて三陵の泄水坑澗を補治し、役工四百九十万を計上した。間もなく卒す、金紫光禄大夫・延康殿学士を贈られ、諡して「恭敏」という。
強淵明
強淵明、字は隠季、杭州銭塘県の人。父の至は、文学をもって韓琦に知られ、祠部郎中に終わる。淵明は進士第に及第し、海州司法参軍に調じ、済・杭二州の教授を歴任し、蔡州確山県知県、保定軍通判となる。入朝して太府丞・軍器少監・国子司業となる。兄の浚明及び葉夢得とともに蔡京と死交を結び、元祐籍を立て、三等に分けて罪を定めたが、皆三人の建策によるもので、遂に党禍を成し遂げた。淵明はこの故をもって急遽秘書少監・中書舎人・大司成・翰林学士に遷る。
蔡居厚
蔡居厚、字は寬夫、熙寧の御史蔡延禧の子である。延禧はかつて呂惠卿兄弟を弾劾し、直臣の名があった。居厚は進士に及第し、累進して吏部員外郎となった。大観初年、右正言に任ぜられ、上疏して言う、「神宗は法度を創設され、曠古絶儗のものであった。たとえ符・祐の党が力を合わせて相軋しても、ついに揺るがすことができなかったのは、人々の心に理義が存するからである。陛下は志を継ぎ声を広め、政事をことごとく挙行されている。願わくは明詔のごとく、有司に勅して成書に勒し、一代の制度を明らかにせられたい」。起居郎に遷り、右諫議大夫に進んだ。東南の兵政における七つの弊害を論じ、また学官・書局はいずれも要路であるから、公選により実学多聞の士を選び、庸常の徒をして幸進させぬようすべきだと述べた。
河北・河東で群盗が起こり、太原・真定の守臣はいずれも捕縛できぬ罪で罷免された。居厚は言う、「将帥の才は平時に儲養しないので、緩急の際に用いるに足る者がいない。観察使以上の者に、各々知る者を挙げさせるべきである」。また言う、「近来朝廷に仕える者は、皆胥吏を姑息し、吏強官弱の風が次第に成っている。輦轂の下では、吏は狡獪に習熟しているので、怯懦な者はこれを畏れ、ついには耳目とし、嚮導として倚り、色辞を仮借し、過ぎた卑辱に至り、その風は侍従にまで浸淫している。今廟堂の上においても、少しはこれを行っている。願わくは重ねてこれを制せられたい」。戸部侍郎に改めた。言事者が、彼が諫省にいた時、宋喬年父子に用いられたと論じたため、集賢殿修撰として秦州知事となった。州内にいた降羌が京師に逃げ込み訴事したため、失察の罪に坐し、官職を削られ罷免された。
蔡京が再び宰相となると、起用されて滄州・陳州・齊州の三州の知事となり、徽猷閣待制を加えられ、応天府尹・河南府尹となった。初めて神霄宮を建立した際、土地が低湿であったため、道士らが交互に訴え、汝州に転任した。久しくして、東平府知府となった。再び戸部侍郎として召されたが、着任せず、また青州知事に任ぜられた。病のため赴任できず、まもなく卒去した。
劉嗣明
劉嗣明、開封祥符の人である。太学に入り、試藝を積み重ね、諸生の右に出る名声を得た。崇寧年中、車駕が学に幸すると、解褐して承事郎に補され、校書郎から給事中に至った。
張商英が相位にあった時、彼が己に附かないのを憎んだ。当時鄭居中は嫌疑により枢密を去ったが、陰に党与を殖やし、窺伺を固くしていた。嗣明はこれと結び、商英を傾けようと謀った。門下省の吏張天忱が官位を貶せられた時、嗣明はこれを却下し、商英が争った。詔して御史臺に曲直を断じさせ、商英はこれにより罷免された。嗣明はついに商英が李士観・尹天民を政典局に引き入れ、敕語を矯り、共に姦謀を造ったと論じ、三人ともに罪に坐して責められた。
嗣明は大司成に遷った。士子が雅楽を肄習して恩恵を受けると、嗣明もまた班を升って学士と等しくなった。やがて言事者が、彼が権貴に取り入り、国子生を妄りに升格させて舎法に預からせ、寒士を抑圧したと論じ、潁州知事に貶黜された。まもなく、召されて工部侍郎・翰林学士・工部尚書となった。卒去し、資政殿学士・太中大夫を追贈された。
蔣靜
蔣靜、字は叔明、常州宜興の人である。進士に及第し、安仁県令に調任された。俗は巫を好み、疫癘が流行すると、病者は寧ろ死しても薬を服さず、靜はことごとく巫の罪を論じ、彼らが祀る淫像を集め、三百躯を得て、これを毀ちて江に投じた。陳留県知事となったが、屯将と協わず、罷免されて去った。
徽宗が初めて即位し、言を求めた。靜は上言し、多く元祐年間の事を誹謗したため、蔡京がこれを正等と評し、職方員外郎に擢げた。中書舎人呉伯挙がこれを封還したので、京は怒り、伯挙を貶黜した。翌年、國子司業に遷った。帝が太学に幸し、『書経・無逸篇』の講義を命じ、金紫の服を賜り、祭酒に進み、中書舎人となった。顯謨閣待制として壽州知事となり、江寧府に転任した。
茅山の道士劉混康が技芸で進み、「先生」の号を賜った。その徒党はこれに倚って姦利をなし、民の葦場を奪い、強いて廬舎を買い、詞訟が府に至っても、吏は観望して敢えて治めなかったが、靜はことごとく法に照らして処断した。睦州に転任し、病を理由に辞し、洞霄宮提挙となった。九年を経て、召されて大司成となり、出て洪州知事となった。再び帰省を請い、直学士を加えられた。七十一歳で卒去し、通議大夫を追贈された。
賈偉節
賈偉節、開封の人である。進士に及第し、累進して両浙転運判官に擢げられた。民間の利病を条上し、直秘閣を加えられ、江淮発運副使となった。蔡京が東南の転般法を廃して直達綱とすると、偉節は率先してこれに奉承し、毎年上供物を直ちに都下に運ばせ、諸道の逋負を籍催し、巨船二千四百艘を造り、供奉物でないものを運載した者は、違制の罪に論ずるよう請うた。花石・海錯の徴発が急を要するようになったのは、ここに始まる。功を論じて官位を進められ、ついに戸部侍郎に任ぜられ、刑部に改めた。一年余りして、顯謨閣直学士として醴泉観を提挙し、卒去した。
論ずるに、欧陽修の朋党に関する議論は誠に善い。その言うところは、「君子は同道を以て真の朋と為し、小人は同利を以て偽の朋と為す。同道なれば則ち同心相い益し、共に済わんとし、小人は利を見れば則ち争って先んじ、利尽きれば則ち疎んじて相い賊害す」と。蘇軾は修の説を継ぎ、「君子は志を得ざれば則ち身を奉じて退き、道を楽しみて仕えず。小人は志を得ざれば則ち僥倖して復用せられんことを求め、ただ怨みを報いるのみ。これ勝たざる所以なり」と謂う。秦観もまた言う、「君子小人、党有ることを免れず。人主邪正を弁ぜざれば、必ず両廃に至る。或いは両存を言うも、則ち小人ついに志を得、君子終に害を受く」と。その説は明らかである。徽宗はこれを察せず、ただ紹述の説に蔽われ、姦を崇め正を貶し、党論ますます起こる。ここにおいて紹聖は元祐を指して党と為し、崇寧は元符を指して党と為し、鄭居中・張商英・蔡京・王黼ら諸人互いに指して党と為し、もはや弁ずる能わず。始めは党を以て人を敗り、終には党を以て国を敗る。衣冠塗炭、三十年を垂れる。その禍は東都・白馬に汰ぎ、ここに至って三子の言効あり。彼の劉昺・強淵明・宋喬年・劉嗣明は直に斗筲の耳、またして攘臂恣睢せしめ、撼撞して忌憚なし。小人の術、蹙れること甚だし。嗚呼、朋党の説、真に能く人の国を空しくすること、かくの如きかな。
崔鶠
崔鶠、字は徳符、雍丘の人。父は毗、潁州に徙居し、遂に陽翟の人と為る。進士第に登り、鳳州司戸参軍・筠州推官に調う。徽宗初めて立ち、日食を以て言を求めしに、鶠上書して曰く、
「臣聞く、諫争の道は、激切ならざれば以て人主の意を起こすに足らず、激切なれば則ち訕謗に近し。人臣として訕謗の名有るは、これ讒邪の論の以て乗じ易く、世主の以て悟らず、天下の以て舌を巻き声を吞み、言を以て戒と為す所以なり。臣嘗て史を読み、漢の劉陶・曹鸞、唐の李少良の事を見るに、未だ嘗て巻を掩いて嗟き興さず、矯然として山林に反らざるの意有りしことなし。比来国家日食の異を以て、直言を詢求すと聞く。詔書を伏して読み、『言の失中するも、朕罪を加えず』と所謂るに至りては、蓋し陛下至情を披き、聖度を廓うし、以て天下の言を来たすこと此の如し。而して私に聞く所を秘し、一吐するを敢えざるは、是れ臣子の陛下に負うところなり。
方今政令煩苛にして、民擾に堪えず。風俗険薄にして、法勝つ能わず。一二陳ずるの暇あらず、而して特に左右の忠邪を判ずるを本と為す。臣草萊に生れ、朝廷の士を識らず。特に左右の人を怪しむ。元祐の臣を指して姦党と為す者有れば、必ず邪人なり。漢の党錮、唐の牛李の禍を、将に復た今日に見んとす。甚だ駭くべし。
夫れ毀誉は、朝廷の公議なり。故に責授朱崖軍司戸司馬光、左右は以て姦と為すも、天下皆曰く忠と。今の宰相章惇、左右は以て忠と為すも、天下皆曰く姦と。此れ何の理ぞ。臣請う略に姦人の跡を言わん。夫れ時に乗じ巇に抵りて富貴を盗み、微を探り端を揣って権寵を固むるを、姦と謂う可し。包苴門に満ち、私謁路に踵き、陰に不逞と交わり、密に禁廷を結ぶを、姦と謂う可し。奇伎淫巧を以て上心を蕩し、倡優女色を以て君徳を敗り、独り賞刑を操り、自ら恩怨を報ずるを、姦と謂う可し。主聴を蔽遮し、正人を排斥し、微言する者を坐して刺譏と為し、直諫する者を陷して指斥と為し、以て天下の言を杜ぎ、滔天の罪を掩うを、姦と謂う可し。凡そ此の数者、光之れ有るか。惇之れ有るか。
夫れ其の実有る者は名之れに随う。其の実無くして其の名有るは、誰か肯て之を信ぜん。『伝』に曰く、『狐を謂いて狸と為すは、非独り狐を知らず、又狸を知らざるなり』と。是の故に佞を以て忠と為せば、必ず忠を以て佞と為す。ここにおいて繆賞濫罰有り。賞繆り罰濫り、佞人徜徉す。此くの如くして国乱れざるは、未だ之有らざるなり。
光は忠信直諒、華夷に聞こえ、古の名臣と雖も、遠く過ぐる能わず。而して之を姦と謂うは、是れ天下を欺くなり。惇に至りては、狙詐凶険、天下の士大夫呼んで「惇賊」と曰う。貴きこと宰相に極まり、人の具瞻する所、名を以て之を呼び、又賊と指す。豈に其の主恩を孤負し、国柄を玩竊し、忠臣痛憤し、義士服せざるを以ての故に、賊として之を名づけ、其の実を指して以て賊と号するに非ずや。京師の語に曰く、『大惇小惇、殃子孫に及ぶ』と。惇と御史中丞安惇とを謂うなり。小人を譬えば蝮蠍の如し。其の凶忍人を害すること、天性に根ざし、遇うに随いて必ず発す。天下事無きは、忠良を賊陷し、善類を破砕するに過ぎず。緩急危疑の際に至りては、必ず反覆売国・跋扈不臣の心有らん。
比年以来、諫官得失を論ぜず、御史姦邪を劾せず、門下詔令を駁さず、共に喑黙を保持し、以て計を得たりと為す。昔李林甫相位を窃むること十有九年、海内怨痛すれども、人主知らず。頃に鄒浩言事を以て罪を得しに、大臣拱して之を観、同列一語する者無く、又従いて之を擠す。夫れ股肱耳目、治乱安危の係る所、而して一切此の若くする。陛下堯舜の聰明有ると雖も、将に誰をして言わしめ、誰をして行わしめんとするか。
夫れ日は陽なり。之を食む者は陰なり。四月は正陽の月、陽極めて盛ん、陰極めて衰えるの時。而して陰陽を干す。故に其の変大なり。惟うらくは陛下天威を畏れ、明命を聴き、大いに乾剛を運らし、邪正を明らかにし、経義に違わず、民心を鬱せず。然らば則ち天意解けん。若し夫れ鼓を伐ち幣を用い、素服楽を徹して、徳を修め政を善くするの実無くんば、天に応ずる所以に非ざるなり。」
帝覧めて之を善しとし、相州教授と為す。
後蔡京上書人を条籍し、鶠を以て邪等と為し、居官を免ず。久しくして、績渓令に調う。病を移して帰り、始めて郟城に居り、地数畝を治め、婆娑園と為す。屏処すること十余年、人貴賤長少無く、悉く師と尊ぶ。
宣和六年、起ちて寧化軍通判と為り、召されて殿中侍御史と為る。既に至りて欽宗即位し、右正言を授く。上疏して曰く、
「六月一日の詔書、諫臣に得失を直論せしめ、以て実是を求むと詔す。陛下の治を求むるの切なるを見る有り。数十年来、王公卿相、皆蔡京より出づ。要するに一門生を用いれば則ち一門生死し、一故吏を以て逐えば則ち一故吏来たる。更に政柄を持ち、一人異を立つる無く、一人己を害する者無し。此れ京の本謀なり。安んぞ実是の言をして陛下に聞こえしめんや。
諫議大夫馮澥近く上章して曰く、『上異論無きは、太学の盛んなり』と。澥尚お敢えて此の姦言を為さんや。王安石異己の人を除き、『三経』の説を著して以て士を取る。天下靡然として雷同し、陵夷して大乱に至る。此れ異論無きの効なり。京又学校の法を以て士人を馭し、軍法の卒伍を馭するが如く、一たび異論有れば、累学官に及ぶ。蘇軾・黄庭堅の文、范鎮・沈括の雑説の若きは、悉く厳刑重賞を以て、其の收藏を禁ず。其の士を苛錮すること、亦已に密なり。而して澥猶お以て太学の盛んなりと為す。欺罔已に甚だしからずや。京と澥の罪を原うれば、乃ち天地の否泰の係る所、国家の治乱、之を以て分かる。忽にす可からざるなり。
仁宗・英宗は、篤実で敢言の士を選んで子孫に遺したが、安石はこれを流俗と見做し、悉く追放した。司馬光が再び起用されてこれを用いると、元祐の治世において天下は泰山の如く安泰であった。及んで章惇・蔡京が紹述の論を唱えて人主を欺くに至った。紹述して一つの道徳を立てれば、天下は諂佞に一せしめられ、紹述して風俗を同じくすれば、天下は欺瞞に同じくし、紹述して財を理めれば公私共に枯渇し、紹述して士を造れば人材衰え、紹述して辺境を開けば塞塵闕を犯すに至った。元符年間に詔に応じて上書した者は数千人に及んだが、蔡京は腹心を遣わしてこれを考定させ、己に同ずる者を正とし、己に異なる者を邪とし、澥は蔡京と同調する者であったから、正に列せられたのである。蔡京の術策は天下を破壊し、ここに極まれり、なおその余蠹をして再び破壊せしむるを忍ぶべきか。蔡京の姦邪の計略は王莽に大いに類し、しかるに朋党の衆はまたこれを過ぐ、願わくはこれを斬って以て天下に謝せしめよ。」
累次上章して極論し、当時の議論は彼を重んじた。
忽ち攣疾を得て、歩行することができなくなった。三度辞任を求めたが、帝はこれを惜しんで許さなかった。呂好問・徐秉哲が言上したので、龍図閣直學士として嵩山崇福宮を主管させ、命が下ったがそのまま卒去した。鶠は平生文章を極めて多く作ったが、常に人に取られてしまい、篋の中に留まるものはなかった。特に詩に長じ、清峭雄深にして法度を備えていた。子がなく、婿の衛昂がその遺文を集めて三十巻とし、世に伝えた。
張根
張根、字は知常、饒州徳興の人である。少くして太学に入り、冠すやいなや進士に及第した。臨江司理参軍・遂昌令に任ぜられた。京官の官等に改めるべき時であったが、四親が堂に在るを以て、父母の恩典を以て祖父母を封じ、且つ妻の封を母に及ぼさんことを冀い、遂に致仕して通直郎を得、その志の如くになった。時に年三十一。郷里の賢者彭汝礪がその事を序して、自ら及ばざる所と為した。
十年間隠棲した後、曾布・曾肇・鄒浩及び本道の使者がその行義を上奏したので、徽宗は闕に召し出した。帝に対して言上して曰く、「人主は一日に万機を処理されるが、恃む所はただ心のみである。一旦物に累せられれば、聡明の智慮もまた消耗し、賢不肖混淆し、綱紀振わざるに至ります。願わくは陛下清心省欲して、禍乱の源を塞がれますように。」遂に銭塘製造局の廃止を請うた。帝は顔色を改めて嘉美し、親賢宅教授に任じた。
間もなく、杭州通判に転じ、江西常平を提挙した。内侍の走馬承受が一路を挙劾して、軍衣の給与を半銭で行うは非なりとし、転運使・郡守以下皆罷免された。張根は言上した、「東南の軍法は西北と異なり、この事は百五十年行われてきました。帥守・監司は朝廷の憂いを分かつ者で、仮に罪有るとも猶審らかに処すべきであり、豈に小奄の尺紙を以て十郡の吏を空しくすべきでしょうか。」詔して皆復職させた。また言上した、「本道は去歳租税四十万を蠲免したが、戸部は当初の如く償還を責めています。祖宗は発運上供の額を立て、且つ数百万緡の本銭を与えて広く糴して用に備えさせました。近頃恩寵を希う者がこれを羨余として献上するので、歳計足らず、無名の徴斂に至るのです。」詔して蠲免した租税を貸し付け、糴本銭を六路に還付させた。洪州で官錫を失い、兵吏千計を拘束して取り調べた。張根は言った、「これは有司が幾察を失った過ちである。今無罪の人を網羅して、得べからざる物を責め立てては、どうして和気を召すことができようか。」乃ちその獄を罷めた。
大観年間、入朝して対し言った、「陛下は煩苛を洗い清め、朋党を打破されましたが、士大夫は議論一せず、観望苟且として、自ら尽くす者ありません。陛下は石刻を毀ち、党籍を除き、天下と更始されましたが、有司は大臣の仇怨を以て、依然として廃錮しています。治の害はこれより大なるは莫く、願わくはこれを励まし誡める所以を思し召されますように。」即時に転運副使に任じ、淮南転運使に改め、直龍図閣を加えられた。上書して請うた、「常平はただ利息の納入を聴くのみとし、兼併を塞ぎ、下戸均しく役銭を出させ、姦偽を絶ち、市易はただ浄利を取るのみとして、商賈を役せしめます。名は正しからざるが如くとも、和買がその価の十分の一を償わず、しかも倍額の輸納と額外無名無数の徴斂をさせしめるよりは、隔たりがあります。」また請うた、「挙官を三科に分けます。一は県令、二は学官、三は県丞曹。州郡もまた三等に分けます。明らかにその人某の材は某州・某官・某県令に堪え充つと宣言し、吏部はこれに拠って注擬すれば、県令の選は稍々清らかになり、平配や硬差よりは遥かに優れます。」詔して吏部・戸部に相度して奏上させた。張根はまた水災が多いを以て、租賦の蠲免、活口米・常平青苗米の散給、流民への振貸を乞うた。詔してこれを褒諭した。
両浙に転任させられたが、辞して行かず、乃ち疏を具して駅逓に付して奏上した。大略に謂う、「今州郡には兼月の儲えなく、太倉には終歳の積みなく、軍需は匱乏し、辺備は欠然たり。東南には水旱・盗賊間作し、西・北の二国は窺伺すること日久しく、安んぞ豫めその計を為さざるべけんや。」因って茶塩・常平等の利病の数を条列し、遂に言う、「今の計たる、その大なるものを節すべきであり、而して土木の功より大なるは莫し。今群臣に一第を賜うに、或いは百万を費やす。臣の管轄する二十州、一年の上供財は三十万緡に過ぎず、曾て一第の用を給するに足らず。元勲盛徳を寵するに、猶称わざるを慮るに、況んや閭閻より干沢する者をや。趙普・韓琦の如き佐命定策の臣にすら未だ有らざる所なり。願わくは陛下これを吝しまれますように。次に田園・邸店の如きは、賜第の多きに若かざるも、亦日を削ぎ月を損ずるを願います。金帛好賜の類も、また節せざるべからざるなり。また次に錫帯の如きは、その価数百緡と雖も、必ず数百家より斂めて後足るものであり、今乃ち下僕隷にまで及ぼし、公卿の間に混淆せしめ、賢不肖弁別なし。もしその左右趨走するを以て、墨綬を欲せざれば、別に制度を為して、等威を示すべきです。」書が奏上されると、権幸側目し、中傷する策を謀り、言上相次いだが、帝は張根の誠実を察し、罪としなかった。
間もなく花石綱が漕舟を拘占し、官が一本の竹を買うに五十緡を費やすに至り、多くは諸臣の家に入った。因ってその弊を力陳し、益々権幸に忤い、乃ち張根の書いた奏牘の注切が粗略なのを摘発し、傲慢不恭として、信州酒監を責められた。既にして又張根が常平の法を誹毀して、紹述の政を揺るがすと上言され、再び濠州団練副使に貶謫され、郴州に安置された。尋いで淮賊討伐の功により、自便を得た。朝散大夫のまま家で卒去し、年六十。
張根は性至孝にして、父が蠱病で塩を戒めたので、張根は淡食を為した。母は河豚及び蟹を嗜んだが、母が終えると、張根は再び食さなかった。母が病んでいた時、毎に鶏鳴に至れば稍々蘇ったので、後には鶏の声を聞くに忍びなかった。子の燾は別に伝有り。弟に樸がいる。
弟 樸
樸、字は見素。進士に及第した。耀・淄・宿の三州教授・太学録・博士に昇進、礼部員外郎に改めた。高麗が子弟を遣わして入学肄業させたので、また博士を兼ね、光祿・太常少卿に遷り、侍御史に抜擢された。
鄭居中が去位すると、張樸は言上した、「朋党分攻するは朝廷の福ならず、若しその尤も甚だしい者を剪除せざれば、久しければ図り難し。」ここにおいて宇文黄中・賈安宅等六人皆罷免され、凡そ蔡京の悪む者は、亦鄭居中党と指弾して逐われた。時に郎官の員数冗濫し、五十五人に至った。徽宗は張樸に論列せしめ、乃ちその庸繆なる者十六人を摘発し、疏して諸外に斥けた。
徐処仁が裕民局の設置を議し、京に提挙を任せようとしたが、京は喜ばず、樸が言うには、「国家の法令は明らかに備わっており、何ぞ民を裕福にせざるや。今局を置くは正しからず」と、ついにこれを廃止させた。起復して、修製大楽局管勾官田となり、大晟府典楽に任ぜられたが、樸はこれを貪濫不法と論じ、世論もこれを軽蔑し、かつ典楽は太常少卿の上に位するのに、修製の冗官が超えて越えるのは不当であるとし、ついに楽令に降格された。間もなく、前の任命が復活したが、樸が争いを止めず、秘書少監に改められた。蔡攸が彼を道史検討官に引き立て、召されて中書舎人を試みたが、ついに卒した。
任諒
任諒、字は子諒、眉山の人で、汝陽に移住した。九歳で孤児となり、舅が母の志を奪おうとしたが、諒は衣を引き泣いて言った、「どうして人の子としてその親を養えないことがあろうか」と。母は感動して思いとどまった。諒は学問に励み自ら奮起し、十四歳で郷書に合格した。高第に登り、河南戸曹に任ぜられた。兵書を携えて枢密曾布に謁見し、布は人をやって朝廷に招かせたが、会ってみると合わないと感じ、まっすぐに去った。布が宰相となっても、なお彼を用いようとした。諒は書を送り、李徳裕の故事をもって諫めたので、布は初めて怒った。蒋之奇と章楶が枢府にいて、編修官に推薦したが、布はその奏を留めて下さず、懐州教授となった。徽宗が彼の作った『新学碑』を見て、「文士なり」と言い、提挙夔路学事に抜擢し、京西・河北・京東を歴任し、転運判官に改めた。『河北根本籍』を著し、戸口の増減、官吏の増減、および一年の出納の剰余不足の数が、籍を開けば見えるようにし、朝廷に上った。張商英がその書を見て、天下の部使者の中で最も優れていると言った。
提点京東刑獄となった。梁山濼の漁民は盗賊となる習いがあり、戸籍もなく放縦であったが、諒はその家を五家単位に編成し、船に刻印を施し、これでなければみだりに入れさせなかった。他の県の地がその間に錯綜している所には、石に刻んで標識とした。盗賊が発生すると、官吏に名指しで捕らえるよう督励し、誰も尽力しない者はなく、跡を隠す場所がなくなった。直秘閣を加えられ、陝西転運副使に転じた。降人李訛哆は辺境の食糧が続かないことを知り、密かに地中に窖を掘って穀物を貯え、西夏の統軍に書を送り、定辺は手を唾するだけで取れると称した。諒はその謀略を探知し、急いで穀物を定辺および諸城堡に輸送し、かつ人を募って窖を発掘させ、数十万石を得た。訛哆が果たして侵入したが、貯蔵した穀物を失い、七日で退却した。後日、また観化堡を包囲したが、辺境の備蓄はすでに十分で、訛哆はついに解囲して去った。
徽猷閣待制・江淮発運使を加えられた。蔡京が東南の転般漕運法を破って直達綱とし、応募する者は大抵無頼の徒で、物資を横領し、あいまいで検証できず、誰も敢えて言う者がなかった。諒が入朝して応対し、まずこれを論じたので、京は怒った。ちょうど汴・泗が大水となり、泗州城は二板を残して沈まなかった。諒は自ら兵卒を率いて堤防を築き、民を高い所に移し、米粟で救済した。水が引き、人々は全員助かったが、京は千人が溺死したと誣告し、官籍を削られて郷里に帰った。執政の中には、「水害は守臣の職責であり、発運使に何の罪があろうか」と言う者もいた。帝もその冤罪を知り、右文殿修撰・陝西都転運使に復帰させた。まもなく徽猷閣待制を復し、直学士に進んだ。童貫が銭法を改め、必ず鉄銭と銅銭を等価にしようとしたので、物価はおおよそ九割減となった。詔により諒が貫と協議し、諒は六路の害となると言い、その策を止めさせた。龍図閣直学士を加えられ、京兆府知府となり、渭州に転じた。母の喪で離職した。
宣和七年、提挙上清宝籙宮・修国史となった。初め、朝廷が燕に出兵しようとした時、諒は言った、「中国に憂いが生じるであろう」と。そこで書を宰相に送り、「今契丹の勢いは、その滅亡が明らかである。これを取るには漸進すべきで、師を出すに名分なくしてはならない。別に耶律氏の宗族を立て、彼らを君長として分散させれば、我には存亡継絶の義があり、彼には瓜分輻裂の弱さがあり、隣国に勃興する金国と比べて、勢いは万倍も違う」と言った。この時、また郭薬師が必ず反逆すると言った。帝は聞き入れず、大臣は狂気と見なして、提挙嵩山崇福宮に出された。この冬、金人が兵を挙げて燕山を侵犯し、薬師が叛いて降伏したが、すべて諒の言う通りであった。そこでまた諒を京兆に起用したが、間もなく卒去した。享年五十八。
周常
周常、字は仲修、建州の人である。進士に及第した。著した『礼・檀弓義』をもって王安石と呂恵卿に見せると、二人はこれを称賛し、国子直講・太常博士に補された。親を養うため、揚州教授を求めた。五十歳に満たずして致仕した。
久しくして、御史中丞黄履がその恬退を推薦し、太常博士として起用されたが、辞退した。元符初年、再び前の任命がなされ、崇政殿説書を兼ね、著作佐郎に遷った。上疏して言った、「祖宗の諸陵の器物は塗金のみを用い、服飾にも珠玉はなく、質素に務め、訓戒を示されたのである。裕陵から宣仁后の寝宮に至って、金珠を施すようになった。願わくはこれを景霊殿に収蔵し、遺訓に従いたい」と。詔して奉宸庫に置かせた。起居舎人に抜擢された。鄒浩が罪を得た時、常は講席で救いを論じ、郴州酒監に貶された。徽宗が即位すると、国子祭酒・起居郎に召され、穏やかに言った、「古来より治を求める君主は、志を尚ぶことを先としなかった者はない。しかし富貴逸楽に溺れ、諂諛順適に蔽われると、志はそれに従って喪われ、戒めなければならない。元祐の法度は互いに得失があり、人材はそれぞれ長所がある。偏って棄ててはならない」と。
当時、暑さのため、記注官に卯の刻(午前六時)に漏刻が正しくなったら奏事をしないよう命じ、さらにこれを令として定めようとした。常は言った、「本朝の記注官は多く諫官を兼ねるため、あらゆる言動について、見聞したことをもって可否を論じることができた。神宗皇帝の時、修注官は諫職を兼ねなくても、崇政殿や延和殿で史事について直接陳述することが許された。陛下が炎暑の恐るべき時に、一時的に進対を停めるのは、人情の常である。もしこれを定令とすれば、必ず日録に記され、史筆に伝わり、後世の人が見て、聴き入れることに倦み、先帝の美意を忘れたと思われるであろう」と。事はついに中止された。中書舎人・礼部侍郎に進んだ。蔡京が権力を握り、彼を容れることができず、宝文閣待制として出向し湖州知州となった。まもなくまた職を奪われ、婺州に居住した。再び集賢殿修撰となった。卒去、享年六十七。
論じて言う。徽宗は政治に荒み、寵幸が朝廷を塞ぎ、権柄は奸臣に移り、直言しない者が進用され、軟弱な慣習となった。鶠・根・諒・常は気節が剛直で、時弊を指摘し、直言を尽くして憚らなかった。ついに讒言に勝てず、根と常は外で死に、鶠と諒は用いられ始めて病に奪われた。悲しいことである。金兵が既に挙兵し、郭薬師はすでに叛いたのに、朝廷はまだ知らず、ましてや禍の兆しを先見できようか。狂人諒の言葉を怪しむなというわけでもあるまい。