賈易
賈易、字は明叔、無為の人。七歳にして孤となる。母の彭氏は紡績を以て自らを給し、日に易に十銭を与え、学に従わしむ。易は一銭を使うに忍びず、毎に十日を経て、輒ち復た之を帰す。冠を逾える年、進士甲科に中り、常州司法参軍に調ず。自ら儒者として法令に閑ならずと為し、歳に獄を議するに、唯だ人情に合するを求め、曰く「人情の在る所、法も亦た在り」と。去るに至るまで、郡中平なりと称す。
元祐初め、太常丞・兵部員外郎と為り、左司諫に遷る。呂陶が張舜民の事を争わざるを論じ、陶と交攻し、遂に陶が蘇軾兄弟に党附するを劾し、並びに文彦博・范純仁に及ぶ。宣仁后其の訐を怒り、之を謫せんと欲す。呂公著力めて救い、出でて懐州を知る。御史其の謝表の文過を言い、広徳軍に徙す。明年、江東刑獄を提点し、召されて殿中侍御史に拝す。遂に彦博の至和の儲を建つるの議を疏して然らざるを為す。宣仁后命じて史館に付す。彦博自ら安からず、竟に平章重事を解きて去る。蘇轍中丞と為る。易前嫌を引きて避けんことを求め、度支員外郎に改め、孫升は左遷と為す。又た国子司業に改め、拝せず、淮東刑獄を提点す。復た入り、侍御史と為る。上書して言う。
「天下の大勢、畏るべき者五あり。一には上下相蒙り、毀誉其の真を得ず。故に人主の聰明壅蔽し、下情上達せず。邪正別つこと無く、君子の道日々に消え、小人の党日々に進む。二には政事苟且にして、官人其の責に任ぜず。故に治道成らず、万事隳廃す。悪吏姦を市いて自得し、良民弊を受けて告ぐる無し。愁歎不平の気、宇宙に充溢し、以て陰陽の和を干す。三には経費充たず、財を生むに其の道を得ず。故に公私困弊し、時を及ばずして預備の計無く、衣食の源日々に蹙る。事無きの時尚猶患い有り、不幸倉卒多事なれば、則ち狼狽窮迫して禍敗至る。四には人材廃闕し、教養其の方を以てせず。故に士君子用ふべきの実無く、愚不肖朝に充牣す。汚合苟容の俗滋長し、背上欺君の風益扇がれ、士気浸弱し、将に誰と太平の基を立つるか。五には刑賞中を失い、人心向く所を知らず。故に非を是と為し、黒を白と為し、更相欺惑し、以て其上を罔す。之に爵するに高禄を以てして加うるに勧めず、之を僇するに顕罰を以てして加うるに懼れず。利を徼り苟く免るるの姦、貨を冒し義を犯すの俗、将に何れの所か有らざらん。
今二聖焦労して治を念うも、天下の勢乃ち此の如し。事に任ずる者は憂えざるべからず。是れ猶お積薪の上に寝るが如く、火未だ然らざるも、自ら安しと為す。畏れざるべけんや。
然らば則ち毀誉真偽の情を知らんと欲すれば、則ち明目達聡するに若くは莫く、下に壅蔽の患無からしむ。官人皆其の責に任ぜんと欲すれば、則ち事を詢ね言を考へ、名に循り実を責むるに若くは莫し。財を生むに其の道に逆らわざらんと欲すれば、則ち本業を敦くし末作を抑へ、儉約を崇くし奢僭を戒むるに若くは莫し。教養必ず其の方を以てせんと欲すれば、則ち詳延の路を広くし、廉恥の節を厲し、公卿大臣をして各其の知る所を挙げしめ、召対延問し、以て其の能ふるか否かを観、善なる者は之を用ひ、善ならざる者は之を罷むるに若くは莫し。人心皆向く所を知らんと欲すれば、則ち賞を以て善を勧め、刑を以て悪を懲らしめ、親疏貴賤を以て之が軽重を為さざるに若くは莫し。則ち民志一定し、放僻邪侈為さざるなり。」
其の言頗る切直なれども、然れども皆老生の常談、時に志して時事を抵阨するも、他に奇画無し。
蘇軾杭を守り、浙西の災潦甚だ苦しきを訴う。易其の僚楊畏・安鼎を率いて軾の姑息にして誉を邀え、朝聴を眩惑するを論じ、加うるに考実を乞う。詔下る。給事中范祖禹之を封還し、正に宜しく闊略として問わず、以て百姓を活すべしと謂う。易遂に言う「軾は頃に揚州に在りて詩を題し、先帝の遺詔を奉ずるを『好語を聞く』と為す。呂大防の制を草し云く『民亦た労止む』と。周の厲王の詩を引きて以て熙寧・元豊の政に比す。弟の轍は早く制科の試に応じ、文繆にして格に応ぜず、幸いに濫進し、軾と昔皆先帝を誹怨し、人臣の礼無し」と。李林甫・楊国忠を指して以て喩と為すに至る。議者此れ由りて易を薄し、出でて宣州を知る。京西転運副使を除し、蘇州・徐州に徙し、直秘閣を加う。元符中、累ねて謫せられ保静軍行軍司馬、邵州に安置す。
徽宗立ち、召されて太常少卿と為り、右諫議大夫に進む。陳次升其の曾布の客と為るを論じ、権刑部侍郎に改め、工部・吏部を歴、未だ歳満たずして真と為る。宝文閣待制を以て鄧州を知り、尋いで党籍に入る。卒す。年七十三。
董敦逸
董敦逸、字は夢授、吉州永豊の人。進士第に登り、連州司理参軍・穰県知事に調ず。時に方に水利を興す。提挙官民を調発して馬渡港を鑿ち、二百頃を灌漑し得べしと雲う。敦逸朝に言し、利害を補わずと為す。核実すれば敦逸の言の如し。役夫十六万を免じ、旧田三千六百頃を全うす。弋陽県知事に徙す。宝豊の銅冶の役卒多く誘略に困し、死に致す者有り。敦逸本末を推見し、郷に還る者数百人を縦す。稍く梓州路転運判官に遷る。
元祐六年、召されて監察御史と為り、同じく御史黄慶基と言う「蘇軾昔中書舎人と為り、制誥中先帝の事を指斥す。其の弟の轍相表裏を為し、以て朝政を紊す」と。宰相呂大防奏して曰く「敦逸・慶基軾の撰する所の制詞を言い、以て先帝を謗毀すと為す。臣窃かに先帝の聖意を観るに、本より富国強兵を欲し、不庭を鞭撻せんとし、一時の群臣将順過ぎ、故に事或いは当を失う。太皇太后と皇帝の臨御に及び、民の欲する所に因り、事に随い救い改む。蓋し事理当然なる爾。昔漢武帝兵を用いるを好み、重斂民を傷つく。昭帝位を嗣ぎ、博く衆議を采り、多く行うこと寢罷す。明帝尚お察を尚び、屡え惨獄を興す。章帝之を改めて寛厚を以てす。天下悦服し、未だ先帝を謗毀すと為す者有らず。本朝の如きに至りては、真宗即位し、逋欠を弛放して以て民財を厚くす。仁宗即位し、宮観の修を罷めて以て民力を息む。凡そ此れ皆時に因り宜を施し、以て先朝の闕政を補助す。亦た未だ当時の士大夫の先帝を謗毀すと為す者有るを聞かず。比に惟うに元祐以来、言事官此れを用いて以て士人を中傷し、兼ねて朝廷を動揺せんと欲す。意極めて善ならず」と。轍復た奏して曰く「臣昨日兄軾の撰する所の呂惠卿告を取って之を観る。其の言先帝に及ぶ者に、曰く『始めに帝堯の仁を以て、姑く伯鯀を試み、終に孔子の聖を然らしめ、宰予を信ぜず』と有り。兄軾亦た豈に先帝を謗毀する者ならんや。臣聞く先帝末年、亦た自ら已に行う所の事を深く悔い、但だ未だ改むるに暇あらざるのみ。元祐の改更は、蓋し先帝の美意を追述するのみ」と。宣仁后曰く「先帝往事を追悔し、泣下に至る」と。大防曰く「先帝一時の過挙、其の本意に非ず」と。宣仁后曰く「皇帝宜しく深く知るべし」と。是に於いて敦逸・慶基並びに罷む。敦逸出でて湖北運判と為り、臨江軍知事に改む。
紹聖の初め、軾・轍が失位すると、劉拯が敦逸の無罪を訴えた。哲宗はその人を覚えており、「あの前日の白鬚の御史ではないか」と言い、再び監察御史に任じた。常安民が二蘇の党であると論じ、凡そ議論が元祐を主とする者は、これを斥けて去らせた。工部員外郎に改め、殿中侍御史・左司諫・侍御史に遷り、入朝して謝して言うには、「臣が再び言路を汚すも、ただ擠逐されることを恐れ、久しく弾糾の責を奉ずることができませぬ」。哲宗は言った、「卿は言うことができ、朕の聴くことができぬことを患うるな。卿の言が信ずるに足れば、朕の行うことができぬことを患うるな」。
瑤華の秘獄が成り、詔して掖庭に詣でて録問させた。敦逸は冤状を察知し、筆を握って忍びず書かず、郝隨が傍らから脅すので、敢えて異を唱えられなかった。獄が既に上奏された後、心に終に安からず、ほぼ二旬を経て、竟に上疏した。その略に云う、「瑤華の廃は、事に因る所あり、情に察すべきあり。詔下の日、天これがために陰翳す、是れ天の廃せんと欲せざるなり。人のこれがために流涕す、是れ人の廃せんと欲せざるなり。臣嘗てその獄を録す、天下に罪を得るを恐る」。哲宗これを読んで怒り、蔡卞は重く貶そうとしたが、章惇・曾布は不可とし、「陛下本より皇城の獄は近習より出づるを以て、故に臺端に録問せしめ、中外に信を取らんことを冀う。今敦逸を謫すれば、何を以て天下後世の謗を解かん」と言った。哲宗の意解けて止んだ。明年、他事を以て出して興国軍の知事とし、江州に徙す。
徽宗即位し、直龍図閣を加え、荊南の知事とし、召し入れて左諫議大夫と為し、敦逸は極めて蔡京・蔡卞の過悪を言う。戸部侍郎に遷る。卒す、年六十九。
上官均
哲宗即位し、開封府推官に擢でらる。元祐初、再び監察御史と為る。議者詩賦を兼用して士を取るを請う、宰相遂に経義を廃さんと欲す。均言う、「経術は理を主とし、而して根づく所は本なり、詩賦は文を工とし、而して逐う所は末なり。今本末を計らずして、詩賦の敝を襲わんと欲するは、其の得たりとするを見ざるなり」。熙寧以来、京師の百司に謁禁あり。均言う、「誠を以て人に待てば、則ち人忠を竭くすことを思う。疑を以て物に遇えば、則ち人苟免を思う。願わくは開封・大理を除き、余は皆禁を釈し、以て洞達して疑わざるの意を明らかにせよ」。遂に青苗を論じ、恵民の名有りて恵民の実無く、目前の利有りて終歳の患と為るを以てとし、これを罷めて復た常平糴糶の法と為すを願う。又官冗の弊を言い、粟を以て吏を補うを罷め、任子の員を減じ、特奏名の濫を節し、摂官の挙数を増し、胥吏の幸進を抑え、以て入仕の源を清むるを請う。詔して有司に議せしむ、久しくして省く所あること能わず。復た疏を上して言う、「今会議の臣、世俗の譏評を畏れ、朝廷の利害を計らず、鄙耄の進まざるを閔み、才者の閑滞を思わず、策の善きに非ざるなり」。因りて対を請い、力を陳ぶ。宣仁后曰く、「当に我家より始むべし」。乃ち后の属より下りて大夫に至るまで、悉くその数を裁す。
又言う、「天下を治むるの道二、寛と猛のみ。寛過ぐれば則ち緩にして義を傷い、猛過ぐれば則ち急にして恩を傷う。術は同じからずと雖も、其の政を蠹し民を害するは一なり。間者、監司惨核を務め、郡県風望みて趣に辦じ、暇あらずして民を便とするを意とす。陛下臨御し、務めて寛大に従い、吏と為る者又復た苟簡縱弛す。猛寛の二者胥に失う。願わくは四方に明詔し、之をして寛は悪を縱かず、猛は恵を傷わずして、中和の風を起こさしめよ」。詔して其の章を下す。
西夏は永楽の戦より、勝に怙って気驕り、故地を復せんと欲す。朝廷趙禼の計を用い、四砦を棄つ。是に至り、又蘭州を砦地とせんことを請う。均上疏して曰く、「先王の外国を御するや、威の独立すべからざるを知る、故に恵を仮りて以て威を済す。恵の独行すべからざるを知る、故に威を須いて以て恵を行す。然る後外国且つ懐き且つ畏れ、怨望軽侮の心無し。今西夏の争う所の蘭州砦地は、皆控扼の要路、若し軽く以て之を与えば、恐らくは夏人虚を搗ち、熙河数郡、孤立して守り難からん。若し継いて熙河の故地を請わば、将に何の辞を以て之を拒がん。是れ虎に翼を傅え、寇に兵を借るが如く、惟だ益無きのみならず、祗だ患と為るに足る。兵を治め穀を積み、地を画して守り、夏人に曉然として朝廷の意を知らしむるに如かず」。
時に傅堯俞は中書侍郎、許將は左丞、韓忠彥は同知樞密院となっていた。三人は、事を論ずるに多く同異があり、皆罷免を求めた。均は言う、「大臣の任は国の休戚を同じくし、廟堂の上においては協和を務め、中外の人をして、泯然として同異の跡あるを知らしむべし。若し悻悻然として弁論し、事体を顧みずんば、何を以て百僚を観視せんや。堯俞等は弁論の失あるといえども、然れども事皆公に縁り、顕悪大過なし。就職せしむるを望む」と。詔してこれに従う。御史中丞蘇轍等なお以て言うところあり、均は上疏して曰く、「大臣の進退当たれば、則ち天下は陛下の明に服し、而して大臣は以て其の位を安んずるを得ん。進退当たらずんば、則ち陛下の哲を累し、而して言者は此より以て朋党し、合謀並力し、以て大臣を傾搖す。天下の事は、是非を以て主と為す。論ずる所若し当たれば、異なりと雖も、其の善を為すを害せず。論ずる所若し非ずんば、同じくと雖も、未だ不善を免れず。今堯俞等は但だ協和する能わざるのみ、実に大過なし。蘇轍は乃ち許將が当時に已に議を定め、既にして同列の議に背き、独り上り論奏すと為す。臣以為わく、善なれば則ち之に順い、悪なれば則ち之を正す、豈に毎事唯だ命に従い、非を遂げて改めず、然る後に忠と為さんや。將が同列の議を捨て、上り聖旨を奉ずるは、是れ能く其の美を將順するなり、当に反って以て過悪と為すべからず。若し不忠ならしめんには、同列と協和すと雖も、是れ乃ち姦臣なるのみ、朝廷の利に非ざるなり」と。將が罷免せられんとするに及び、均また言う、「呂大防は堅強自ら任じ、差除有る毎に、同列敢えて異ならず、唯だ許將時に異同有り。轍は素より大防と善くし、力を尽くして將を排し、必勝を期す。臣恐らくは綱紀法令、此より敗壊せんと」と。因りて論ず、「御史は耳目の任、中丞は風憲の長なり。轍は公是公非に当たり、善悪を別白すべく、而して妄言すべからず」と。遂に罷免を乞い、出でて広徳軍を治め、改めて河北東路刑獄を提点す。
紹聖初め、召されて左正言に拝される。時に大防・轍は已に政を罷め、均は大防・轍の六罪を論じ、並びに再び大防を貶し、史禍は此より起こる。又詩賦を廃し、専ら経術を以て士を取るを奏す。宰相章惇は政事を更め、専ら黜陟の柄を握り、陰に異己を去らんと欲し、吏部尚書彭汝礪を出して成都府を治め、朱服を召して中書舎人と為す。均は汝礪は出すべからず、服は用うべからずと言う。惇怒り、均を工部員外郎に遷す。尋いで京東・淮東刑獄を提点し、梓州淮南転運副使・越州知州を歴任す。
徽宗立ち、入りて秘書少監と為り、起居郎に遷り、中書舎人・国史同修撰兼『哲宗実録』修撰に拝され、給事中に遷る。太学生張寅亮は詔に応じて事を論じ、罪を得て屏斥せらる。均言う、「寅亮は忌諱を識らざるといえども、然れども志は邪を懐くに非ず。陛下既に其の来を招き、又其の言を罪す、恐らくは多士の気を沮がん」と。寅亮は免るるを得たり。時に宰相は尽く熙寧・元豊の法度に循い、紹述を以て均を風せんと欲す。均曰く、「法度は是に従うのみ、彼此の弁無し」と。ここより協わず、龍図閣待制を以て永興軍を治め、襄州に徙る。崇寧初め、元祐党籍に与し、職を奪われ、崇禧観を主管す。政和中、復た集賢院修撰・洞霄宮提挙と為る。久しくして、復た龍図閣待制と為り、致仕す。卒す、年七十八。
来 之邵
来之邵、字は祖徳、開封咸平の人。進士に及第し、潞州司理参軍より刑部詳断官と為る。元豊中、大理評事に改め、御史中丞黄履に薦められて監察御史と為る。未だ幾ばくもせず、倡家の女を買いて妾と為す。履其の汚行を劾し、将作丞に左遷す。
哲宗即位し、太府丞・秦鳳常平提挙・利州成都路転運判官と為り、入りて開封府推官と為り、復た監察御史に拝され、殿中侍御史に遷る。之邵は資性姦譎にして、楊畏と合して蘇頌を攻め、頌が賈易の蘇州知州の命を稽留するを論ず。又梁燾が劉摯の親党に縁り、丞弼の位に致るを論ず。又范純仁の復相すべからざるを論じ、章惇・安燾・呂恵卿の進用を乞う。紹聖初め、国事大いに変わり、之邵は時に逆探し、先ず呂大防を劾す。惇既に相と為り、侍御史に擢でる。王安石の神宗に配食するに及び、之邵又美諡を加うるを請う。疏して曰く、「司馬光等は道に畔き理に逆らい、典刑未だ正さず、鬼得て誅す。独り劉摯尚存す、実に天の以て陛下に遺す所なり」と。其の阿恣して忌憚無きこと此の如し。
刑部侍郎に進む。陽翟の民蓋漸は訟えて有司に至る。之邵の二子皆蓋氏に娶ぐ。漸を誣いて蓋氏の子に非ずと為し、以て其の資を規る。諫官張商英之を論ず。直龍図閣を以て出でて蔡州を治む。卒す、年四十八。蔡京相と為り、特に太中大夫を贈る。
葉 濤
葉濤、字は致遠、処州龍泉の人。進士乙科、国子直講と為る。虞蕃の訟起こり、濤は諸生の茶紙を受くるに坐して官を免ぜらる。濤は王氏の婿なり、即ち往きて安石に従う金陵に於いて、文詞を学ぶ。哲宗立ち、章を上りて自ら理め、太学正を得、博士に遷る。紹聖初め、秘書省正字と為り、『神宗史』を編修し、校書郎に進む。曾布に薦められて起居舎人と為り、中書舎人に擢でる。司馬光・呂公著・王岩叟の追貶、呂大防・劉摯・蘇轍・梁燾・范純仁の責官、皆濤が制詞を為し、文極めて醜詆す。安燾が学士に降るに及び、濤は命書を封還し、云く、「燾は元祐の時、嘗て文彦博の熙河を棄つるを詆し、先帝万世の功を全うせり、罪を加うべからず」と。蔡京之を劾して党と為し、罷めて光州を治む。又訴理に過有るを以て、范鏜に論ぜられ、連ねて三たび貶せらる。曾布之を引いて給事中と為す。数ヶ月居りて病み、龍図閣待制を以て崇禧観を提挙し、卒す。
楊 畏
楊畏、字は子安、其の先は遂寧の人、父洛陽に徙る。畏は幼くして孤なり、学を好み、母に事えて孝、科挙に事えず。党友交わりて之を勧む、乃ち進士第に擢でる。成紀主簿に調う、官に之かず、志を経術に刻み、著す所の書を以て王安石・呂恵卿に謁し、鄆州教授と為る。此より安石の学を尊び、以て聖人の意を得たりと為す。西京国子監教授を除き、舒亶に薦められて監察御史裏行と為る。時に御史中丞の郡守に出づる者有り、監司之を薦む。畏言う、「侍従の賢否は、上の素より知る所、監司乃ち敢えて妄に薦む、蓋れ異日の地の為めなり。其の観望を戒むるを乞う」と。舒亶に学士院厨銭を盗むの罪有り、王安礼に白せらる。畏は章を抗して弁論し、以て之を失と謂うべく、未だ故と謂うべからずと為す。亶罷めらる。畏は坐して左転し宗正丞と為り、出でて夔州路刑獄を提点す。
元祐の初め、祠官を請うて洛に帰る。畏は司馬光に罪を得るを恐れ、嘗て曰く、「畏が官を夔峡に歴任せし時、深山の群獠と雖も、司馬光を用ふるを聞き、皆相賀せり、其の盛徳此の如し」と。光の卒するに至り、畏復た曰く、「司馬光若し道を知らば、即ち是れ皋・夔・稷・契なり。道を知らざるを以ての故に、政事に於て未だ尽さざるなり」と。呂大防・劉摯相と為り、俱に畏と善し、畏を用て工部員外郎と為し、監察御史を除し、殿中侍御史に擢ぐ。畏は大防を助けて摯を十事に攻め、並びに梁燾・王岩叟・劉安世・朱光庭皆其の死党なりと言ひ、必ず与に地と為らんとす。既にして燾等果たして摯を救ふも、皆納れられず。摯罷められ、蘇頌相と為る。畏復た頌を攻め、賈易の除書を留むるを以て頌の罪と為す。頌罷められ、畏は意蘇轍の相と為らんことを欲す。宣仁后外より范純仁を召して右僕射と為す。畏又た純仁を攻むるも、報へず。畏本より轍に附き、轍の相たらざるを知り、復た上疏して轍の用ふべからざるを詆る。其の傾危反覆此の如し、百僚側目せざる莫し。
侍御史に遷る。畏、未だ治まらざる事四つ有りと言ふ。曰く辺疆、曰く河事、曰く役法、曰く内外官政なり。時に旨有りて両省官に台官を挙げしむ。畏言ふ、「御史と宰執は、最も相関する地なり。宰執既に自ら差さず、其の属をして之を挙げしむ、可ならんや」と。太常博士朱彦、皇地示の祭を議するに同じからずして、自ら列して罷むるを乞ふ。畏言ふ、「彦は経に拠り理を論ず。若し彦罷め出づれば、恐らく是より人は務めて観望し、敢へて官を守るを義と為さざらん」と。
惇相に入る。畏、親しき者を遣はして陰に之に結びて曰く、「畏前日勢力の軽重を度り、遂に呂大防・蘇轍に因りて以て劉摯・梁燾を逐ふ。将に呂・蘇を逐はんと欲するに方り、二人覚り、畏の言職を罷む。畏の跡は元祐に在り、心は熙寧に在り、首めて相公の為に路を開く者なり」と。惇至り、畏を吏部に徙し、引いて以て自ら助けしむ。中書侍郎李清臣・知樞密院安燾、惇と合はず。畏復た陰に安・李に附く。惇其の情を覚る。又曾布・蔡卞、畏の平日の為す所を惇に言ふ。遂に宝文閣待制を以て出でて真定府を知る。天下是に於て目して「楊三変」と為す。其の元豊に進み、元祐に顕れ、紹聖に遷るを謂ふなり。
尋で職を落として虢州を知り、元祐党に入る。後に郢州を知り、復た集賢殿修撰・襄州を知り、荊南に移り、洞霄宮を提挙し、洛に居る。未だ幾ばくもあらず、鄧州を知り、再び祠を丐ふ。言者の論列を以て職を落とし、崇禧観を主管す。
畏頗る縦横の学を為し、才弁有りて多く捭闔す。邢恕と交はりを締ぐ。其の功名富貴を好むも亦同じし。然れども恕は疏にして多く失ひ、畏は謀ひ必ず中る。其の究め俱に搢紳の禍と為る雲。
論じて曰く、賈易初め剛直を以て名有り。其の再び文彦博・范純仁を劾し、而して蘇軾・蘇轍を斥くこと尤も甚だしきを観れば、何を以て剛直と為さんや。董敦逸は元祐末に黄慶基と与に二蘇を誣ひ、以て紹聖の禍を開く。紹聖に及びて則ち肆に元祐の諸臣を詆り、甚だしきに至りては瑤華の冤も正しく持つこと能はず。終に悔ひて諫ふと雖も、亦何ぞ及ばんや。蔡京・蔡卞の悪を稔らすを見るに及びて、乃ち其の過悪を論じて以て自ら文めす。杯水は以て車薪の火を救ふに足らず。上官均の諫は時事に切中し、紹述の議に従はざるに及びて、其の人と為り観るべしと若し。然れども呂大防・蘇轍を論じ、之を以て再び黜せらる。是亦紹述を助くる者なり。楊畏の傾危反覆、周流窮まらず。儀・秦の縦横と雖も、以て之に尚ぶこと無し。豈徒に三変有るのみならんや。紹述を倡へて以て哲宗の信を取るに至り、又王安石の学に聖人の意有りと謂ふ。小人の忌憚無きと謂ふべけんや。来之邵は時賢を尽く撃ちて章惇・安燾・呂惠卿を進め、又美諡を安石に加へんことを請ふ。其の悪を流す已まず。乃ち人を誣ひて其の子に非ずとし、以て其の資を掩はんと欲す。亦何の至らざる所か有らん。葉濤は太学に在りて、已に汚跡を著す。第に擢げられたる後、安石に諂ひて之に従ひ学ぶ。後に曾布の薦を得、凡そ元祐の名賢貶責の制辞、筆を肆にして醜く詆る。善有ると雖も猶自ら滌ふ能はず。況んや述ぶる可き者無きをや。
崔台符
崔台符、字は平叔、蒲陰の人なり。明法科に中り、大理詳断官と為り、殿帷に校試し、仁宗「尽美」の二字を賜ふ。熙寧中、文彦博薦めて群牧判官と為し、河北監牧使を除し、入りて大理寺を判ず。初め、王安石按問欲挙の法を定む。挙朝以て非なりと為す。台符独り手を挙げて額に加へて曰く、「数百年誤りて刑名を用ふ。今乃ち正しきを得たり」と。安石其の己に附くを喜び、故に之を用ふ。歴て審刑院を知り、少府監を判ず。復た大理獄を置き、右諫議大夫に拝し、大理卿と為る。時に中官石得一、皇城の偵邏を以て獄と為す。台符と少卿楊汲輒ち其の意を迎へ伺ひ、所在に鍛錬笞掠を以て之を成す。都人の惴慄する、偶語するを敢へざるに至る。数年の間、文法に麗する者且つ万人。官制行はれ、刑部侍郎に遷り、官は光禄大夫に至る。元祐初め、御史林旦・上官均其の悪を発す。出でて潞州を知り、又貶秩して相州に徙す。後に監牧使を兼ぬ。卒す。年六十四。
旧制、武臣内殿崇班に至りて、始めて其の族を蔭す。台符言ふ、「文吏の州判司は猶蔭を用ふるを許さる。武臣は五歳に一遷し、借職より四十年にして乃ち朝籍に通ず。軽重相準はず。請ふ、供奉官より即ち蔭を用ひん」と。之に従ふ。嘗て遼に使し、其の朝に至り、久しく帳前に立つ。儐者導くを賛せず。其の故を問ふ。曰く、「太子未だ至らず」と。台符之を誚りて曰く、「安んぞ君父軒に臨みて臣子偃蹇として至らず、久しく使者を立たしむるの礼有らんや」と。儐者懼れ、儀の如く導くを賛す。
楊汲
楊汲、字は潛古、泉州晉江の人なり。進士第に登り、趙州司法参軍に調ず。州民曹潯なる者、兄之を遇するに善からず、兄の子亦侮りを加ふ。潯刀を執りて兄の子を逐ふ。兄之を挟みて走る。潯曰く、「兄避くる勿れ、自ら侄の為なり」と。既に吏に就く。兄の子云く、「叔吾が父を紿はんと欲し、止めて之を殺さんとす」と。吏潯に兄を謀殺せしむと当つ。汲曰く、「潯兄を呼びて使ひ避くる勿れとす。何をか謀と謂はん。若し意を以て獄と為さば、民手足を措く所無からん」と。州其の言を用ひ、讞上す。潯死せずして済む。
開封府界常平を主管し、権都水丞を兼ね、侯叔獻と共に汴水の淤田法を行い、汴流の漲潦を分かち引いて西部を灌漑し、瘠土を悉く良田となす。神宗之を嘉し、淤田千畝を賜う。淮西刑獄を提点し、西路常平を提挙し、古芍陂を修復し、漢泉を引いて田万頃を灌ぐ。召されて都水監を判じ、大理卿となり、刑部・戸部侍郎に遷る。元祐初め、宝文閣待制として廬州を治む。崔台符弾劾を受け、李汲もまた落職して黄州を治む。徐・襄・越州を歴任す。紹聖中、再び戸部侍郎となり、卒す。
呂嘉問
七年、旱魃あり、帝心を憂い惻怛とし、韓維・孫永に語り市人を集めて之を問い、坐賈錢千万を減ず。安石遂に嘉問の条析を把持して奏して曰く「此れ皆百姓の願う所、人言の如くならず」と。嘉問言う「朝廷の民に錢を輸して行を免ぜしむる所以は、蓋し人情業に安んじて楽み、追擾を厭うに在り。若し一切罷去せば、則ち人無くして祗承す。又吏胥の祿廩薄く、勢い民に求めざるを得ず。重法に非ざれば禁ず可からず。薄廩を以て重法を申すは、則ち法時にして行われず。縣官之を給事と為すは、則ち三司経費限り有り。今民に取ること鮮少にして、吏自ら重んずるを知る。此れ臣等の推行する本意なり。議者乃ち除去せんと欲するは、是れ殆ど然らず。民未だ嘗て吏を畏れざる無し。方に其の行役を以て罪に触るるや、錢を出さんと欲すと雖も、亦た得可からず。今吏祿厚しと謂う可し。然れども昔日民に取りて得たる所の半に及ばず。市易の収むる免行錢も亦た未だ倉法の増す所の祿を償うに足らず。此を以て推窮すれば、則ち利害立って見ゆ」と。
初め、市易は三司に隷す。嘉問勢を恃みて薛使を陵ぎ、其の上に出づ。曾布、向に代わり、懐いて平らかならず。会に神宗手劄を出して布に詢う。布、魏継宗に訪う。継宗、嘉問の其の功を掠むるを憤り、其の初議と異なる者を列す。布実を得て、具に上すに嘉問の多く息を収めて賞を干し、官府を挟みて兼並の事を為すと。神宗将に布に委ねて之を考せんとす。安石二人に私忿有りと言う。是に於て詔して布と呂恵卿をして同治せしむ。恵卿故に布を憾み、三司に至り、継宗及び市賈を召して状を問う。其の辞同じ。乃ち継宗を脅して布の語言を増加せしむるを誣らしむ。継宗従わず。布、恵卿と共に事を為す可からずと言う。神宗聴かんと欲すも、安石不可とす。神宗遂に中書に詔して曰く「朝廷市易を設くるは、本平準を為して以て民に便ならしめんとす。『周官』泉府の若き者なり。今顧みるに中人の家をして失業せしむ。宜しく其の制を厘定すべし」と。布神宗に見えて曰く「臣毎に徳音を聞くに、王道を以て天下を治めんと欲す。今為す所駸駸乎として間架・除陌に近し。嘉問又鹽を販り帛を鬻がんと請う。豈に四方の笑いを詒さざらんや」と。神宗之に頷く。事未だ決せず、安石位を去る。嘉問之を把持して泣く。安石之を労して曰く「吾已に恵卿を薦めたり」と。恵卿既に執政と為り、前獄遂に成る。布罪を得、嘉問も亦た出でて常州を治む。
明年、安石復た相と為り、召して中書戸房を検正す。安石罷まり、以て江寧府を治む。歳余り、転運使何琬、嘉問の営繕法を越ゆるを劾す。潤州に徙り、復た坐して免ぜらる。久しくして、入りて吏部郎中・光祿卿と為る。言者交えて市易の患を論ず。天下に被る。本錢慮る無く千二百万緡、率ね二分其の息と為す。十有五年の間、子本数倍に當るべし。今乃ち僅かに本錢に足るのみ。蓋し物を買いて官に入るるも、未だ転售せずして先ず計りて息を取り賞す。物貨苦悪に至りては、上下相蒙み、虧折日多く、空しく虚名有るのみ。是に於て嘉問の三秩を削り、淮陽軍を治めて黜け、悉く前に賞を受けたる者を罪す。
紹聖中、宝文閣待制・戸部侍郎に擢げ、直学士を加え、開封府を治む。専ら章惇・蔡卞に附き、多く不辜を殺し、案牘を焚き去りて以て口を滅す。嘗て鄒浩を薦む。浩南遷し、坐して罷められ懐州を治む。徽宗の時、屡に其の宿悪を暴き、分司南京に至り、光州に居住し、郢州に安置せらる。然れども蔡氏の為に右せられ、其の婿劉逵・蹇序辰・其の死友鄧洵武之を羽翼す。故に久しからずして輒ち起つ。龍図閣学士・太中大夫を以て卒す。年七十七。資政殿学士を贈らる。
初め、嘉問窃かに従祖公弼の新法を論ずる奏稿を盗み、以て王安石に示す。公弼是を以て外に斥けらる。呂氏之を「家賊」と号す。故に呂氏と同伝せず。
李南公
李南公、字は楚老、鄭州の人。進士及第し、浦江令に調ず。郡の猾吏、守を恃みて縣を陵ぎ、負租を輸せず。南公之を捕え繫ぐ。守怒る。通判謝して曰く「能く郡吏を按ずるは、健令なり」と。卒諸法に置く。長沙県を治む。嫠婦児を携えて嫁ぐ有り。七年、児の族児を取りしむ。婦前の子に非ずと謂う。官に訟う。南公児の年を問う。族曰く九歳、婦曰く七歳。其の歯を問うに、曰く「去年毀けたり」と。南公曰く「男八歳にして齔く。尚何ぞ爭わん」と。命じて児を族に帰す。熙寧中、京西常平を提挙し、陝西河北刑獄を提点し、京西転運副使と為り、入りて屯田員外郎と為る。南公女有り皆人に適す。而同産の女弟年三十嫁がず、他妹の家に寄す。御史の論ずる所と為り、罷めて崇福宮を主管す。
河北転運副使と為る。先ず、澶州を治む王令図請うて迎陽埽の旧河を開き、孫村に於て約し水を回らし東に注がしむ。南公と范子奇以て可行と為し、且つ大呉の北に於て鋸牙を進め河勢を約して故道に帰せんと欲す。朝廷使者を命じて行視せしむ。兩人復た前議を以て非と為し、云う「迎陽は京師を下瞰し、孫村の水勢便ならず」と。又御史の論ずる所と為り、詔して金を罰す。
直秘閣を加え、延安府を治む。夏人涇原を犯す。南公師を出して其の虚を搗つ。夏人解けて去る。直龍図閣に進み、宝文閣待制に擢げられ瀛州を治め、戸部吏部侍郎・戸部尚書を拝す。永興軍・成都・真定・河南府・鄭州を歴治し、龍図閣直学士に擢げらる。
初め、哲宗主廟に入る。南公修奉し、執政の指に希い、東夾室に祔せんことを請う。禮官之を爭うも得ず。及び更に廟室を建つるに及び、前議の当たらずに坐し、学士を奪わる。未だ幾ばくもなく、之を復し、遂に致仕す。卒す。年八十三。
南公は吏として六十年を過ごし、才幹と見識は明敏であったが、反覆して詭随し、節操がなく、識者はこれを非とした。子に譓がいる。
子 譓
譓は、字を智甫という。進士に及第した。紹聖年間、章丘県知事となった。陝西で麦が豊作となり、朝廷は官を諸州に派遣し、民に平価で負債を償わせることを議し、譓と余景が選ばれた。対面の賜わる前に、曾布が哲宗に言上して曰く、「豊凶は未だ知れず、譓・景は皆刻薄であり、必ずやこれにより暴斂を行い、民の憂いとなろう。陛下が政に臨まれて以来、人士を引見すること多くはないが、両人の如き者は、大対に辱しめるには足らぬことを恐れる」と。そこで戒飭するよう諭した。使いから戻り、河東転運判官となり、陝西に転じた。京師の築城が進み、工事が完了すると、秘閣校理に任じられた。母の喪により去職した。
ちょうど永泰陵が造営されるとき、京西路に起用された。諫官の任伯雨が言上して曰く、「祖宗の世には、朝廷に大事があり、辺境に兵革があるとき、将相大臣を召して侍従とし、やむを得ず奪情したものである。今、山陵の事は人皆これを為し得るもので、どうして一譓のため事体を損なうことがあろうか」と。命はそこで止んだ。喪が終わり、直龍図閣として熙州知事となった。蔡京が王厚に河湟を回復させようとすると、譓はこれと意見を異にし、召されて光禄卿となった。王厚が功績を奏上すると、譓は罷められて虢州知事となった。招納が便ならずと嘗て言ったことを理由に、官を停められた。
董必
董必は、字を子強といい、宣州南陵の人である。嘗て金陵で王安石に謁見し、諸経の疑義を諮問し、王安石に称賛された。進士に及第した。紹聖年間、湖南常平を提挙した。時の宰相章惇はまさに多くの君子を罪に置こうとしていた。孔平仲が衡州におり、倉の粟が腐敗悪変したため、凶年の機に乗じ、少し価を下げて放出した。董必はすぐに平仲が常平法に背いたことを弾劾し、長沙に審理を設け、惇の意を承けて、無辜の者が多く拘束訊問されて死んだ。平仲は韶州への移転に処せられた。
惇と蔡卞が流人を大いに誅殺しようとし、呂升卿を広東に、董必を広西に遣わして察訪させた。哲宗が既に処罰を止めたが、しかし董必の至るところでは、なおも惨刻をもって脅迫し威を立て、五つの書をまとめて帰奏した。工部員外郎に任じられたが、中書舎人の郭知章がその任命を封還した。詔して趙挺之に付し、権給事中の陳次升がまた封駁して下さなかった。董必はここにおいて知章・次升を元祐の党人であると訴えた。言事者を訴えるは不当であるとして罪に問われ、江州知事として出され、湖南転運判官・提点河北刑獄に改められ、召されて左司員外郎となった。
初め、舒亶が荊南を守り、辺境の事を起こし、一切詐偽誇大で、徭人が帰順したと言ったが、実はそうではなかった。董必はおそらくこれと謀ったのである。この時、舒亶が急死したので、董必に直龍図閣を加えて代わりに赴かせた。そこで通道など六つの砦を築城し、靖州に折博市易を置き、さらに飛山の営戍を移した。公私に煩費し、荊人はこれを苦しめた。集賢殿修撰・顕謨閣待制に進んだ。卒した。年五十六。龍図閣待制を追贈された。
虞策
虞策は、字を経臣といい、杭州銭塘の人である。進士に及第し、台州推官・烏程県知事・蘄州通判に調任された。蒋之奇が江淮発運として上計したとき、神宗が東南の人才を訪ねると、之奇は策をもって答えた。王安礼・李常が相次いでこれを推薦し、利州路常平提挙・湖南転運判官に抜擢された。
元祐五年、召されて監察御史となり、右正言に進んだ。数度上書して事を論じ、人主が諫言を納れることこそ福があるとし、治道は清静を本とすべきと述べた。西夏がまだ命に順わないとき、策は言上して、「今、辺備は弛緩し、戎備は修められていない。古の人で、よく鎮静する者は警備甚だ密であり、重きを保つことを務める者は謀略がその中にある。鹵莽で闊疏でありながら、吾は鎮静なり、吾は持重なりと言う者はない」と。また詔を乞うて、内では省曹・寺監、外では監司・守令に、各々その職分に基づき朝政の欠失・百姓の疾苦を陳述させるよう求めた。星文に変異があると、天に順い民を愛し、万事を警戒し、心を治め身を修める道を思い、宴安を以て楽とせぬよう乞うた。哲宗が皇后を立てるとき、『正始要言』を上った。左司諫に遷った。
曾肇が北郊の事を議して、朝論と合わず、礼部侍郎を免ぜられ、徐州となった。策は時に権給事中であり、その命を返還し、肇は礼官であるから、礼を議して罪を得るべきではないと論じた。聞き入れられなかった。帝が親政すると、先に行うべき五十六事を条陳し、後多く施行された。侍御史・起居郎・給事中に遷り、龍図閣待制として青州知事となり、杭州に改めた。宮闕を過ぎるとき、留まって戸部侍郎となった。刑部尚書・戸部尚書を歴任し、枢密直学士に拝され、永興軍・成都府の知事となった。
入朝して吏部尚書となり、徽宗に奏疏して、財用を均しく節することを請い、曰く、「臣がかつて戸部におりましたとき、中都の経費が歳六百万であり、天下の上供の数とほぼ相当するのを見ました。嘗て祖宗の故実によってこれを考証しますと、皇祐年間の収入は総三千九百万で、費用はその三分の一に過ぎず、治平年間は四千四百万で、費用は五分の一、熙寧年間は五千六十万で、費用はこれを尽くしております。今、諸道は一月の所需に随い、旋回して徴収し、汲々として終日を保つことができません。願わくは深く浮冗を削り、以て用度を寛げられますよう」と。疾に属して外任を祈り、龍図閣学士を加えられ潤州知事となったが、赴任途中で卒した。年六十六。左正議大夫を追贈された。
策は元祐・紹聖の時に、皆言職にあった。人に依って進取することはなかったが、また頗る両端を持していたので、党議の興るとき、己だけが免れることができた。弟に奕がいる。
弟の奕
奕は、字を純臣という。進士に及第した。崇寧年間、河北西路常平を提挙し、洺州・相州が飢饉となると、東路に移った。入朝して対し、徽宗が行きの時期を問うと、対して言うには、「臣は退出すればすぐに出発いたします。流民が時を過ぎて帰らなければ、来年の耕作・養蚕はすべて廃れてしまいます」と。帝は喜んだ。やがて西部で盗賊が起こり、また提点刑獄に移った。当時朝廷は兵を派遣して追捕しようとしていたが、奕は方策を条上し、派遣をやめて用いないよう請い、自ら賊を討伐する計画を立て、一ヶ月も経たずに平定できるとした。転運使の張摶はこれを不可としたが、宰相は摶の策を支持し、数ヶ月効果がなく、ついに奕の議を用いて、すべて降伏させた。監察御史に抜擢された。皇帝が北郊で親祭したとき、燕人の趙良嗣が秘書丞として侍祠したが、奕はその長官に言った、「今、親衛には三路の者を用いないのに、良嗣は外国の降伏者の子でありながら、かえって祠事に預かることができるのでしょうか」と。長官はその言を用い、詳しく請うたが、返答はなかった。
入朝して開封少尹となった。以前は大理寺・開封府が獄を治めるとき、請いを得て実情を罪を覆い隠すことがあったが、その後はおおむね任情に法を棄て、法はますます用いられなくなった。奕は言った、「廷尉は天下の公平を保ち、京師は諸夏の根本である。法さえ行われなければ、どうして万国に示せようか。請う、今後より情と法とが実に相応しないのでなければ、みだりに請うことなきように」と。これに従った。光禄卿・戸部侍郎に遷った。睦州で乱が起こると、龍図閣直学士として鎮江府を治めた。賊が平定され、功労を論じて二階級増やされた。還って戸部となった。内侍が内蔵を総領し、与奪を専断し、戸部を僚属のように見なした。度支郎が滞りの処理を討議していたとき、中旨を奉じ、開封尹と総領者を来させよと命じた。奕は宰相に言った、「計臣が無能ならば、去って能ある者と替えるべきであり、他人にその官を侵させてはなりません」と。すぐに自ら不称職を劾した。詔によって内侍を罷め、奕を工部に移した。
襲慶守の張漴が郡人を使わして闕に詣で登封を請わせたが、東平守の王靚は京東が凶年にあって盗賊が多いことを諫めて、封禅を請うべきではないと言った。政を為す者がこれを喜ばず、靚を罪にしようとしたが、奕は言った、「靚は民を憂え君を愛する者であり、奨励すべきです。どうして罪に用いましょうか」と。靚は免れることができた。まもなく卒し、年六十、龍図閣学士を贈られた。
郭知章
郭知章は、字を明叔といい、吉州龍泉の人である。進士に及第し、劉彝の広西幕府に従い、浮梁県・分寧県を知った。黄履が推薦して御史としたが、憂により拝することができず、海州・濮州を知り、梓州路刑獄を提点した。また鄭雍・顧臨の推薦により、監察御史となった。
哲宗が親政すると、上書して淳化・天禧の詔を用いて諫官を増員するよう請い、言った、「館職は用いるところがなく、朝廷は疑わずに設ける。諫官は最も急務であるのに、常に足りない。これは無用のものに急であり、急ぐべきものを緩めているのである。また近年監司を選授するのに、多くは寺監丞からであり、知県の資序を超えない。外官で部使者より重いものはなく、どうしてこのように軽く用いることができようか。少しばかり節をもって制限すべきである。例えば転運判官には実任の通判を選び、提点刑獄には実任の郡守を選び、それからその治理を考課し、簡抜して用いるべきである」と。また言った、「大河が東・北に分流して以来、生霊が被害を受けた。今、東に向かう水はすでに止めがたく、順らせて導き、北を閉じて東に行かせれば、その利益は百倍である」と。
殿中侍御史に遷った。言った、「先帝は地を開き境を進め、四砦の策を建て、高みに臨んで下を制し、西戎の咽喉を扼した。元祐の用事者がこれを委棄した。願わくはその議を討賾して奏上し、明らかに罷免・処罰を行われたい」と。史院が『神宗実録』の誣罔の事を究明したとき、知章は呂大防らを貶して処罰するよう請うた。紹聖で再び制科を置くと、知章が校試し、言った、「先朝は進士を策試した後、この科を廃した。近年再び置いたが、誠に補うところがない」と。ついに再び廃止された。また元豊の役法を復活させるよう請い、おおむね時の好みに迎合した。
左司員外郎に進み、左司諫に改めた。かつて言った、「爵禄慶賞は、天下の善を勧めるものであり、願わくは大臣に仮借して、私恩を行わせないようにされたい。刑罰誅戮は、天下の悪を懲らしめるものであり、願わくは大臣に仮借して、私憤を快くさせないようにされたい。陛下に忠なる者は、必ず大臣に忌まれる。大臣に与する者は、必ず上に陛下に背く。ただ明主のみがこれを察しうる」と。権工部侍郎となり、中書舎人となった。
遼の使い蕭徳崇が来て夏人のために河西の地を還すよう請うたので、知章を命じて報聘させた。徳崇は言った、「両朝は久しく通好している。小国のわずかな疆土を、還すことができるか」と。知章は言った、「夏人はたびたび辺境を犯し、法によって討伐すべきであるが、北朝が和を勧めるゆえに、努めて優容しているのである。彼らが初めのように恭順すれば、自ずから恩旨があるであろうが、使者の預かり知るところではない」と。帰国する前に至って、かつて河を東流させる議を主導した罪により、集賢殿修撰として和州を知った。
徽宗が立つと、曾布が用いて工部侍郎とし、宝文閣直学士を加え、太原府を知らせた。召されて刑部尚書・開封府知事とし、翰林学士となった。言者がまた河の事を論じたため、鄧州知事に罷められ、やがて党籍に入れられた。数年後、顕謨閣直学士に復した。政和初年、卒した。
論じて言う。神宗の好大事功の資質に、王安石・呂恵卿が出てこれと遇合し、流毒は止めることができなかった。哲宗・徽宗の世になると、一変して蔡確・章惇・曾布となり、また一変して蔡京・蔡卞となり、日々に甚だしくなり、ついに天下は亡んだ。時に乗じて起きこれに附く者は甚だ多く、崔台符・楊汲は獄によって民を殺し、呂嘉問は均輸によって民を困らせ、董必は酷をほしいままにし、流人を害して歓心を買おうとし、李南公は反覆詭随し、虞策は心に両端を持し、郭知章は時の好みに迎合し、かつ実録の誣罔を発した。諸人の学んだところとその政に従うところを見れば、すでに多くは尚ぶべきところがあるのに、どうして楽しんでこの悪を行ったのか。ただ一時の君相の好尚を見て、富貴を取ろうとしたに過ぎない。もし神宗が仁宗の治世のようであり、哲宗・徽宗がこれを承けたならば、必ずや紹述の禍はなく、たとえ安石の輩といえどもまた薫陶を受けて、必ずしもその情をほしいままにしてここまで至ることはなく、ましてやこの諸人であろうか。世道の汚隆、士習の升降は、人主の一念の慮の趣向にかかっている。戒めざるべけんや。懼れざるべけんや。