沈銖
沈銖は、字を子平といい、真州揚子の人である。父の季長は、王安石の妹婿であった。銖は若くして安石に学び、進士の高第に及第し、国子直講に至った。季長が監事を領すると、審官主簿に改められたが、虞蕃の事件に連座して免職となり帰郷した。元祐年間に訴理所が置かれると、罪を得た者は争って自ら陳列したが、銖はただ一言も言わなかった。
紹聖初め、起用されて太学博士・秘書省正字・崇政殿説書となり、旨を受けて元祐の臣僚の章疏を編類することを同じくした。進講を以て解と為し、右司諫に拝されたが、辞退し、起居郎・権中書舎人に改められた。呉居厚が戸部尚書に除せられると、銖はその京東使時の聚斂を論じ、詔して実状を具えさせたが、対することができず、罰金に処せられた。『詩経』の「南山有臺」を講じ、「万寿無期」に至り、これを太平の基と為し、立ちて久しく保つべき応であるとし、哲宗はしばしば肯首した。真に中書舎人兼侍講に拝され、俄かに疾を引き、龍図閣待制として宣州知州となり卒した。弟に錫がいる。
弟 錫
錫は、字を子昭といい、王安礼の任により、鄂州司戸参軍となった。崇寧初め、講議司検討となった。蔡京がまさに元符の上書人を銓次し、罪を定めようとしたとき、錫は言った、「遠方の士は、朝廷の好悪を知ることができず、一概に罪とすれば、恐らくは世を敦くし俗を厲ますの道にあらざるべし」。京は従わなかった。衛尉丞に除せられ、祠部員外郎に遷り、江東刑獄を提点し、婺州知州となった。入朝して左司員外郎となり、定・嘉二王の侍講を兼ね、太常少卿に進み、兵部侍郎に拝され、徽猷閣待制として応天府知府となり、江寧に移った。
張懐素が誅せられると、朝廷はその党に脱する者あるかと疑い、江・淮の間では往々にして誣告を以て獄を興した。錫が郡に至ると、告げる者があり、これを按ずると、則ち妄りであった。疏を朝廷に具し、これにより他郡に繋がれた者は皆釈放を得た。歴任して海・泰・汝・宣の四州の知州となり、通議大夫をもって致仕した。卒し、宣奉大夫を贈られた。
路昌衡
路昌衡は、字を持正といい、開封祥符の人である。進士より起り、太常博士に至った。陳世儒の獄を参鞫し、逮治苛峻にして、士大夫及び命婦に至るまで、皆免れなかった。右司員外郎に遷り、歴任して江淮発運・陝西転運副使、広州知州となり、荊南に移り、また潭州に移り、直龍図閣を加えられ、慶州知州となった。
紹聖年間、召されて衛尉・大理卿となり、工部侍郎に遷り、俄かに宝文閣待制として開封府知府となった。李清臣に狂婦人の訴えがあり、昌衡はこれを重辟に致した。出て瀛州知州となり、永興軍に移り、直学士に進み、成都知府となった。
徽宗が立つと、詔に応じて上書して言った、「頻年以來、西方に兵を用い、大役を致して興し、利源は政を害し、佞臣は主を蔽い、四者は皆陰の過盛である。陝以西より、民力は傷殘し、人は聊生せず。災異の変は、天地の不和より生じ、人心の怨望より起る。故に妖星出見し、大河横決し、秋雨霖淫し、諸路饑饉し、殍死道路し、妻子棄捐し、貲儲を破析して星火の令に応ず。勤労憔悴し、多くは生還せず、人心かくの如くにして、その怨なからんことを欲するは、難きかな」。
俄かに清臣の獄事に坐し、司農少卿に責められ、分司し、郢州に居住した。明年、起用されて滁州・定州となり、再び直学士・開封府知府となった。告捕虚妄の法を厳にすることを乞い、以て訐訴を靖めんとした。南京留守に移り、また以前の上書の事に坐して落職し、党籍に入り、卒した。宣和五年、龍図閣学士を贈られた。
謝文瓘
謝文瓘は、字を聖藻といい、陳州の人である。進士甲科に及第し、大名府教授となった。元豊年間、上疏して言った、「臣下が新法を推行するに、多く本意を失い、榜笞禁錮し、民はその虐を受け、掊克聚斂し、多門に勝えず。その不急の征、非理の取は、宜しく罷減すべし」。大臣は朝廷を訕るものと為し、罪に置くことを議した。神宗は言った、「彼が法を奉ずる者はその人に非ずと謂うのみ、訕するに非ざるなり」。
徽宗立つ、起居舍人・給事中に擢る。詔して『神宗宝訓』を修せしむ、文瓘は請う、当時の大政事・大黜陟を択び、其の要旨を節し、而して之が説を為して進む。然れども論ずる所率ね是れ王安石に在り、神宗能く衆多の謗りを察し、之を任じて貳せず、是に於いて朋党消えて威柄立つと謂う、他の皆此に放つ。遼主洪基殂す、使いして往きて之を弔わしむ、従者に令して服を変えて入らしむ、秩を二等貶す。
子の貺、宣和中に、駕部員外郎・汝州知事と為る。欽宗の時、封事十篇を上す、事を論ずること切至なり。金に使いし、還りて、京西北路刑獄を提点す。金人汝州を犯す、貺、襄陽より兵を領して往きて之を援け、戦死す。
陸蘊
陸蘊、字は敦信、福州侯官の人。少にして知名り、進士第に登り、太学『春秋』博士と為る。経費廃員の省に因り、国朝会要所検閲文字に改む。
崇寧中、河北・両浙学事を提挙し、召し出されて対し、言う、「元祐の異意俗学は、既に我が用に為さず、近詔に一路を使わしめずと雖も、而も猶お守令と為るを得、臣愚之が可なるを知らず」と。遂に礼部員外郎を拝し、吏部に転じ、辟雍司業・太常少卿に遷る。原廟を議して合わず、瑞金県知事に黜せらる。還りて太常と為り、国子祭酒・中書舎人に進む。諸州の天慶観を葺い、学事司考課法を立てんことを請う。大司成に遷り、御史中丞に擢る。門下侍郎余深の親嫌を引きて自ら列す、徽宗曰く、「相避の法は、有司の能く尽く公にせざるを防ぐ爾、侍従は吾の信任する所、豈に下って庶僚と同じからんや」と。許さず。
蘊頗る事を論じ、嘗て言う、「御筆一日に数下り、而して前後相違う、是れ命令を重んずる所以に非ず;輔相大臣、宦官戚里、第を賜い築きを営み、民居を縦に撤し、県官材を民に市うも、而して直を与えず;貴遊の子弟以て従官に閑局を領し、朝請を奉じ、員猥多にして、事に益無し;又賜与過制にして、中外の用度賦入より多し;数えて私室を幸いし、尊卑の分に乖き、亦た臣下の福に非ず」と。其の言皆時病に中る。
龍図閣待制を以て福州を知り、建州に改む。時に弟の藻、列曹侍郎より出でて泉州と為り、蘊を過ぎ、楽を合して燕款す、閩人盛事と為す。顕謨閣直学士を加え、疾を引き、鴻慶宮を提挙す。方に二浙兵を用うるに、旁郡皆守備を繕治す、蘊命を聞きて道に就く、使者劾めて事を避くると為し、職を奪う。稍く復た集英殿修撰と為り、卒す。
黄寔
黄寔、字は師是、陳州の人。進士第に登り、歴て司農主簿、積官して京西・淮東常平を提挙す。元豊末、提挙官を罷むるを議し、命未だ布かず、寔の舅章惇、蔡確に属して寔を開封県鎮提点に徙す。提点梓州路・両浙刑獄、京東・河北転運副使に遷る。
哲宗、寔を以て監司久しと為し、召用を議す、曾布陰に之を沮む。林希曰く、「寔の両女皆蘇軾の子に嫁す、為す所正しからず、用うるに宜しからず」と。乃ち陝州知事と為し、江淮発運副使と為す。遼主の登位を賀し、境に及び、迓者牒を移して来り、賀登宝位使と称す。寔、受命に「宝」字無きを以て報い、受けずして拒む。還りて太僕卿を除し、再び宝文閣待制・瀛州知事に擢り、定州に徙す。朝旨民兵を籍し旁郡す、因縁して擾困す、寔檄を懐して下さず、而して利害を画して之を請う、事得て寝む。官に卒し、龍図閣直学士を贈らる。
寔孝友敦睦、世其の内行を称す。蘇轍陳に在りて寔と遊び、因りて昏を結び、其の後又軾と友善なり。紹聖党禍起こる、寔章惇の甥なる故を以て免るるを得、然れど亦た朝列に久しきを得ず。
姚祐
姚祐、字は伯受、湖州長興の人。元豊末、進士に第す。徽宗初、夔州路転運判官を除す。将に行かんとし、会に帝禁苑に幸し弓矢を御す、祐『聖武臨射賦』を奏す、帝大いに悦び、留めて右正言と為す。歴て紹述の説を陳べ、左司諫に遷る。輔郡を置きて以て大畿を拱せんことを建議し、殿中監に進む。六尚局官制成る、凡そ以て上を享え属を率い、稽違を察挙し、勤惰を殿最するの法、皆祐の裁定す。親老を以て郡を請い、顕謨閣待制・江寧府知事を授かる。時に張懷素を召捕す、祐追いて之を獲、復た殿中監と為る。
県に小胥(下級役人)が墳墓を造り、その先祖の墓に迫る者がいたので、祐はこれを己を厭う(呪う)ものと疑い、官を解いて喪服を着ることを請うた。先に、詔によって祐に墓の傍らの地を全て買い取ることを許していたので、併せて他の墳墓も移そうとしたが、小胥が従わなかったため、祐はこれを理由に説いたのである。言事官がこれを仇を抱えて君に要求するものと論じたので、やめた。提挙上清宝籙宮として卒し、特進を追贈され、諡して「文禧」といった。
楼异
楼异、字は試可、明州奉化県の人である。進士の高等に及第し、汾州司理参軍に調任され、永興の虞策の幕府に転じ、在京文繡院を監し、大宗正丞を管知し、度支員外郎に遷った。親を養うために泗州知事を求めて出、再び吏部右司員外郎・左司郎中・太府鴻臚卿となり、直秘閣・秀州知事に任ぜられた。
政和の末、随州知事となり、入朝して辞する際に、明州に高麗一司を設置し、百艘の船を造り、使者の需要に応じ、元豊の旧制に遵うことを請うた。州に広徳湖があり、これを開墾して田とし、その租を収めて用に供することができると述べた。徽宗はその説を容れた。明州知事に改められ、金紫を賜った。内帑の緡銭六万を出して造船の費用とし、湖田七百二十頃を整備し、年に穀三万六千を得た。直龍図閣・秘閣修撰を加えられ、徽猷閣待制に至った。郡は湖水を灌漑に用い、利益が甚だ広かったが、以前は民に包侵(囲い込んで侵奪)されていたので、异はこれを全て放水して田を開墾させた。これより旱魃に苦しみ、郷人はこれを怨んだ。
郡に在ること五年、既に温州の船官を自ら隷属させて役に便ならしめることを請い、また越州・台州の塩を取って費用を補うことを請うた。詔はこれを責めて言うには、「郡に自ら塩策(塩の専売)があって興せず、東は台州から取り、西は越州から取ろうとするのは、これは隣国を壑とするものである」と。睦州の賊が起こると、城戍を善く治めて功績があり、徽猷閣直学士に進み、平江府知事となり、卒した。
沈積中
沈積中、常州の人である。進士出身を賜り、辟雍正・戸部員外郎となり、秘閣修撰・河北転運使に至り、召されて戸部侍郎に拝され、尚書に進み、河間府・真定府知事となった。積中は元来王黼に引き抜かれた者で、黼がちょうど燕地を図ろうとしていたので、辺境の隙を窺わせた。中書舎人程振がこれに語って言うには、「異時に族を覆す禍いを思うべきである」と。積中はその戒めに感じ、任地に至り、書を以て振に謝し、盛んにその不可を言ったので、振は朝廷に宣告した。やがて軍は白溝で敗れ、童貫が帰還すると、積中を提挙上清宝籙宮に罷免した。既に燕山を得ると、また資政殿学士として同知府を命ぜられたが、行かぬうちに卒した。或いは盗賊に殺されたといい、或いは婢に殺されたといい、結局明らかにはできなかった。貫はその昔の言を憎み、官職を追削した。建炎年中、宰相がその書を上奏したので、悉くこれを復した。
李伯宗
李伯宗、字は会之、河陽の人である。進士に及第し、内丘・咸陽・太康県の知事となった。建言して言うには、「朝廷が方田均税法を行い、豊年を以て推行するよう命じている。今、州県の吏で、苟簡で異心を抱く者は熟年を災害と指し、貪進して賞を幸いとする者は災害を覆い隠して熟年とする。その違背を深く察し、罰に処せられることを望む」と。県の壮丁を徴発して兵とし、千人を得て、その名数と按閲の法を上奏した。枢密院知事蔡卞は喜んでこれを推薦し、京畿保甲の提挙とし、その説を行わせて、籍を二万増やした。やがて訴える者があり、陳牒が八百七十に至ったので、左遷して相州通判・提挙白波輦運となり、提点江・淮坑冶鑄錢となり、入朝して将作少監となった。
開封の民に神祠の古い帽子を売り、龍で飾った者がいた。吏はこれを乗輿服御(天子の車や服飾)とみなしたが、伯宗は言うには、「これに他意はなく、不応為(法に規定のない軽い罪)に坐すべきである」と。府尹は従わず、詳しく上請したところ、伯宗の議の通りとなった。大理卿を歴任し、入対して言うには、「今、情重く法軽き者は奏請を許されるが、情軽く法重き者はできない。これは仁聖忠恕の意に非ざるを恐れる」と。徽宗はこれを容れた。刑部侍郎に遷った。王黼と仲が悪く、胥吏の微過を理由に罷免され、提挙崇福宮となった。
翌年、同州知事となり、陝西都転運使に転じた。通奉大夫・顕謨閣待制として卒し、光禄大夫を追贈され、諡して「栄」といった。
汪澥
汪澥、字は仲容、宣州旌徳県の人である。若くして胡瑗に従い『易』を学び、また王安石に学び、『三経義伝』を著したが、澥はその議論に参与し、また真っ先にその説を伝えた。熙寧に太学が成ると、学政を分けて記録した。進士に及第し、鼎州司理参軍・黟県知事に調任され、入朝して太学正となり、累遷して国子祭酒となり、定王・嘉王の二王翊善を兼ね、中書舎人に抜擢され、大司成となった。学制について議して合わず、顕謨閣待制として婺州知事となり、潁昌に改め、また陳州・寿州の二州に改め、応天府に転じた。上章して行くことを辞し、提挙崇福宮となった。卒し、宣奉大夫を追贈された。
澥は布衣の身から天子の学に記録され、正となり、司業・祭酒となり、司成に至るまで、官を儒を以て名とすること三十年、一時の人士に推された。
何常
何常、字は德固、京兆の人。進士に及第し、開封府兵曹となった。紹聖初年、或る者が蘇軾が文柄を執り、宗廟を誹毀する者を取士したと言い、常はその間に預かったので、出て原州通判となった。将作丞・陝西轉運判官・熙河轉運副使を歴任した。議者が民に金帛を貸し、して粟を塞下に入らせようとした。常は言う、「車牛で轉輸すれば、民力は既に疲弊しているが、未だ死亡に至らないのは、粟が官から出て、民に害がないからである。今強いて金帛を持たせ、自ら粟を入れさせれば、貧弱の利ならざるを懼れる」と。熙帥及び監軍がこれを弾劾し、貶秩し、成都路に移された。
中使が御劄を持って至り、戯龍羅二千、繍旗五百を織らせよと命じた。常は奏上して言う、「旗は軍器の飾りであり、敢えて詔を奉じないわけにはいかない。戯龍羅は唯だ御服に供するのみで、一日に衣一匹、歳も三百余りを過ぎない。今や数倍に及べば、益なし」と。詔してその言を褒め、四割の三を減じた。
直龍圖閣を除し、集賢殿修撰を加えられ、使として陝西に移り、顯謨閣待制として秦州を知り、通議大夫に轉じた。諜が夏人が多く堡柵を築くことを告げ、朝議は出兵して牽制しようとした。常は言う、「羌人は生來射獵に長じ、今版築に困り、長所に背き、短所を用いる。拱手してその弊を待つべく、煩わしく有為を要せず」と。これに従った。
秦を鎮めること六年、察訪の方邵がその法を越えて酒を貸し、官より米麴を借りてその歴を毀ったことを弾劾した。獄が決し、昭化軍節度副使を責められた。数ヶ月後、その官を復した。終に右文殿修撰に至り、年七十三。
論じて曰く、西漢の末、士大夫は阿諛して懦弱を銷し、遂に亡に至った。東都の諸賢は風節を以て相尚い、激して黨禍を成した。宋の元祐は東都に類し、崇寧・宣和は西漢末世に類す。蓋し忠鯁が罪を得れば、則ち相習って容悦するのみ。君驕り臣諂う、これ邦の喪う由る所以なり。沈銖ら諸人を観れば、徒らに時に徇って軒輊し、有亡を為す能わず、悪んぞ以て士と謂うに足らんや。
葉祖洽
元祐初年、職方・兵部員外郎を歴任し、集賢校理を加えられ、禮部郎中に進んだ。給事中趙君錫がその対策が宗廟に及んで訕るを論じ、祖洽自ら弁明し、事は從官に下って定議させた。蘇軾・劉攽が言う、「祖洽は祖宗の紀綱法度が因循苟簡であると謂い、願わくは朝廷と大臣が合謀してこれを新たにせんとす。議論乖謬と為すべくも、訕ると謂うは不可」と。ここにおいて但だ提點淮西刑獄に出されたのみ。
紹聖中、入って左司郎中・起居郎・中書舍人・給事中となった。祖洽は性狠愎にして、諛附を喜び、密かに王珪が冊立の時に異論有りと奏した。哲宗は言う、「宣仁聖烈は、婦人の堯・舜なり。その社稷の大計に於いて、聖意素より定まり、朕は已に告命を作らせ、この旨を明述せしめた」と。祖洽また言う、「若し珪を以て跡無しと為すならば、則ち黄履・劉拯相継いでこれを論じたり。願わくは群情を稽合し、独断を以てこれを決せられん」と。珪は遂に追貶された。また言う、「司馬光・呂公著は牖下に終わるを得て、恩禮隆縟なり。蔡確は遺を受けて策を定めながら、嶺外に貶死す。その孤を恤れ」と。その論は率ね此の類なり。林希は祖洽を薦め、その最も正に向かうと謂ったが、帝は大用すべからずと言い、乃ち止んだ。王回を挙げたことに坐して濟州を知り、洪州に移り、利を牟り貨を黷するを以て聞こえた。
祖洽は曾布と厚く、人は「小訓狐」と目した。布が用事すると、吏部侍郎として召そうとしたが、韓忠彥が不可とし、白して寶文閣待制・青州知事とした。未だ赴かず、布は竟に吏部に引いた。布が罷まると、乃ち出て定州を知り、且つ行かんとして、上に対して大言し、至って云う、「当時蔡確稍々事幾を失い、王珪果たして姦謀を遂げば、則ち神宗遂に正統を失い、今日の神器孰れに帰するかを知らず。臣が朝廷宗社の明確の功を為し、珪の罪を正し、千万年に忠邪を勧沮するは、此を以て神宗に報いるに足る」と。徽宗その躁妄を怒り、集賢殿修撰・提舉沖佑観に降し、此より復た用いられず。久しくして洪州を知り、亳州に改め、徽猷閣直學士を加えられた。政和末、卒す。
時彥
時彥、字は邦美、開封の人。進士に挙げられ、簽書潁昌判官となり、入って秘書省正字となり、累ねて集賢校理に至った。紹聖中、右司員外郎に遷った。遼に使いして職を失い、坐して廢され、旋って校理を復し、提點河東刑獄となった。蹇序辰が遼より使い還り、また前に賜を受けて増拜したことを坐し、隱して言わず、復た官を停められた。徽宗立ち、召されて吏部員外郎となり、起居舍人に擢げられ、太常少卿に改め、直龍圖閣を以て河東轉運使となり、集賢殿修撰を加えられ、廣州を知った。未だ行かず、吏部侍郎を拝し、戶部に移り、開封尹となった。異時都城は多く盗に苦しみ、捕え得れば則ち皆逃亡し、卒吏は移問を憚り、往往これを略した。彥始めて一に公憑を以て験と為すことを請い、然らざれば則ち拘繫して以て報を俟ち、坊邑稍々安んじ、獄屡々空し。数ヶ月、工部尚書に遷り、吏部に進み、卒す。
霍端友
俞㮚
蔡京が再び宰相となり、以前用いた士人の多くが己に背いたことを恨んだが、葉夢得が㮚のみはそうでないと述べたので、御史中丞に拝された。士風の六つの弊害を陳べ、また戸部尚書劉炳が挙子の時の陰事を発した。京はちょうど炳を腹心として頼りにしており、その意に逆らったため、㮚を翰林学士に改めた。兵部尚書に遷り、枢密直学士として開徳府知府となった。石公弼が襄州におり、衙前の事を論じて言者を貶したが、㮚が実はこれを主唱したと言い、罷免され、崇禧観提挙となった。ついに紹聖の法度を毀ったことを以て、常州団練副使に貶され、太平州に安置された。赴任せず、また述古殿直学士・江寧府知府となり、卒した。
蔡薿
旋いて給事中に進んだ。一意に蔡京に附き、族属を叙べて叔父と尊んだ。京が攸・修らを出して会わせると、薿は急ぎ云う。「以前は大いに誤りました。公は叔祖であり、これらは諸父の行です。」と。遽かに列んでこれを拝した。八宝の赦恩に際し、両省に元祐党人のうち情状軽き者を選び出籍させる詔があった。薿は書を肯んぜず、言者がその上恩を推し広めて、歳久しく罪を得た人をして洗濯を得させしめられざるを論じた。和州知州として出された。翌年、顯謨閣待制を加えられ、杭州知州となった。
初め、薿が第せざりし時、書を以て陳瓘に謁し、その諫疏は陸贄に似、剛方は狄仁傑に似、道を明らかにすることは韓愈に似ると称した。及んで対策に臨み、持する論が頓に異なり、遂に瓘を害して口を絶たんと欲した。その子正彙が蔡京の不軌を告げたことを因み、執って京師に送らしめた。薿はまた給事中として入り、また宰相何執中と謀り、石悈をして瓘を治めさせ、危うく免れんとした。事は『瓘伝』に具わる。御史毛注が言う。「陛下は善政を修めて天に応じ、大姦を斥けて国を定められんとするに、薿は巧言をもって衆を惑わし、釁端を造る。」疏は入ったが報いられなかった。
范柔中という者、頃に上書して邪等に入り、ここに至って階を進められた。薿が言う。「柔中は嘗て神考(神宗)を毀り、哲宗には共に天を戴かざる讎あり。今春より党人の復官以来、士論は駭愕し、紹述を疑うものあり。その叙遷を削り、好悪を昭示せられんことを乞う。」従われた。張商英が宰相となり、常安民がこれに書を送り、善を為すよう激した。薿の弟萊がその草稿を剽窃して薿に示すと、即座にこれを論じて商英を動揺させた。薿は翰林学士に遷ったが、妄りに政事を議した罪で罷免され、洞霄宮提挙となった。建寧府知府として起用された。
ちょうど神霄宮を建てる時、薿は一路に先んじて奏請してこれを弁じ、詔を下して褒賞され、学士承旨・礼部尚書として召された。嘗て陰に権幸に附き、事が覚ると、徽宗は入対を命じ、面と向かって詰問せんとした。一ヶ月を過ぎても詔に奉じず、帝は怒り、これを黜するよう命じた。御史が言う。「薿は太学に遊べば、詭計を挟んで諸生を鉗し、侍従に居れば、私事を抉って宰輔を脅し、門下に処すれば、国法を借りて私忿を快くし、郡守となれば、妄りに尊大にして監司を蔑ろにする。金陵より召され、偃然として丞轄たるを自ら処し、既に宗伯に昇りては、乃ち満たざるの心を懐く。宜しく諸罰を重ねて置くべし。」遂に単州団練副使に貶され、房州に安置された。
宣和中、また龍図閣直学士に復し、再び杭州知州となった。為政は喜怒情に徇い、刑を用いること甚だ惨酷であった。方臘の乱後、西北の戍卒が交代で帰還し、人は犒絹を得たが、薿は民がこれと市することを禁じ、その価を下げて強取した。卒は怒り、薿が夜客と飲むのに乗じ、火を放って州治を焚き、その出でて救うを待って殺さんとした。薿は事勢の洶洶たるを知り、垣を踰えて走り、僅かに免れた。詔して職を奪い罷帰させた。翌年、徽猷閣待制のまま卒した。