何㮚
徽宗はたびたび諮問し、言責を委ねようとした。ある者が何㮚が蘇軾と同郷であり、その曲学を宗としていると論じたため、遂寧府知事として出された。やがて留められて御史中丞となり、王黼の姦邪専横十五罪を論じた。王黼は既に抗章して去ることを請うたが、なお躊躇して決断しなかった。何㮚は引き続いて七つの上奏文を上り、王黼とその党与の胡松年・胡益らは皆罷免され、何㮚もまた徽猷閣待制として泰州知事となった。
欽宗が即位すると、再び中丞として召された。一月余りして、翰林学士となり、尚書右丞・中書侍郎に進んだ。ちょうど王雲が金の帥たる幹離不の軍中より使いして帰還し、金人が三鎮の割譲が遅いことに怒り、礼幣を退けて受け取らず、二十日以内に使節が来なければ再び兵を挙げると言った。そこで百官はその要求に従うことを議した。何㮚は言った、「三鎮は国の根本である。どうしていったんこれを棄てることができようか。況や金人の変詐は測りがたく、どうして必ず信義を守ると保証できよう。割譲しても来るし、割譲しなくても来る。」宰相は割譲の議を主とし、何㮚は論弁してやまず、言った、「河北の民は皆わが赤子である。地を棄てればその民をも併せて棄てることになり、どうして父母の心と言えようか。」帝はやや悟った。何㮚は四道総管を設置し、これに兵を統率させて入援させ、胡直孺・王襄・趙野・張叔夜にこれを領させよと請うた。兵は既に応答したが、唐恪・耿南仲・聶昌が和議を信じ、互いに謀って言った、「ちょうど友好を継ぎ民を休ませようとしているのに調発が止まず、金人にこれを聞かれたらどうするか。」急ぎ檄を発してこれを止めた。
何㮚は政事を解かれ、まもなく資政殿大学士として開封尹を領した。金兵が長駆して城下に迫ると、帝は唐恪を宰相から罷め、何㮚を尚書右僕射兼中書侍郎に拝した。ここに初めて三省の旧制を復した。時に康王は河北におり、信使は通じていなかった。何㮚は建議して康王を元帥とすることを請い、密かに詔書の草稿を起草して上った。そこで康王を天下兵馬大元帥とし、陳遘を兵馬元帥とし、宗澤・汪伯彦を副元帥とした。京城が陥落すると、金の帥の営に従駕し、遂に留められて帰らなかった。やがて異姓を立てることが議されると、金人は言った、「ただ何㮚・李若水のみは議に預からしめるな。」既に朔庭に陥ると、何㮚は天を仰いで大いに慟哭し、食を絶って死んだ。三十九歳。
建炎初年、詔して観文殿大学士・玉局観使提挙とし、その家に禄を与えた。訃報が聞こえると、開府儀同三司を追贈したが、議者がその誤国を指摘したため、行われなかった。秦檜が北より還り、その死の時の様子を詳しく述べたので、ようやく大学士に改めて追贈し、その家の七人に官を与えた。
孫傅
孫傅、字は伯野、海州の人。進士第に登り、詞学兼茂科に中第し、秘書省正字・校書郎・監察御史・礼部員外郎となった。時に蔡翛が尚書であったが、孫傅は天下の事を説き、早く何か建策するよう勧めたが、そうしなければ必ず敗れると言った。蔡翛は用いなかった。秘書少監に遷り、中書舎人に至った。
金人が都城を包囲すると、孫傅は日夜自ら矢石に当たった。丘浚の『感事詩』を読み、そこに「郭京楊適劉無忌」という語があったので、市人の中から劉無忌を訪ね求め、龍衛兵の中から郭京を得た。好事者が郭京は六甲法を施すことができ、二将を生け捕りにして掃蕩して余すところがないと言い、その法は七千七百七十七人を用いるという。朝廷は深く信じて疑わず、官を命じ、金帛数万を賜い、自ら兵を募ることを許した。技芸の能否は問わず、ただその年命が六甲に合う者を選んだ。得た者は皆市井の遊惰の徒で、十日で足りた。ある武臣が偏裨となろうとしたが、郭京は許さず、言った、「君は材勇あるも、来年正月に死すべきなり、わが累いとなるを恐る。」その誕妄はこのようなものであった。敵の攻撃がますます激しくなると、郭京は談笑自若として言った、「日を選んで三百の兵を出せば、太平を致すことができ、ただちに襲撃して陰山に至って止む。」孫傅と何㮚は特にこれを尊信し、傾心して待った。ある者が上書して孫傅に会い、言った、「古より未だこれをもって成功したと聞かず。仮にこれを聴くとしても、暫く兵を少し信じ、尺寸の功があってから、ようやく少し進めて任用すべきである。今これを委ねること過ぎ、必ずや国家の羞とならんことを懼る。」孫傅は怒って言った、「郭京はまさに時に生まれたる者、敵中の瑣微にして知らざるはない。幸い君は傅に言うた、もし他人に告げば、将に沮師の罪に坐せられん。」揖して出させた。また「六丁力士」「天関大将」「北斗神兵」と称する者がおり、大率皆郭京の所為を真似、識者はこれを危ぶんだ。郭京は言った、「至って危急でなければ、わが師は出でず。」何㮚はたびたびこれを促し、期日を再三移したので、ようやく宣化門を開いて出撃し、城壁を守る者に悉く城を下り、窃かに覗き見することを得ざるよう戒めた。郭京は張叔夜と城楼の上に坐した。金兵は四翼に分かれて喚きながら前進し、郭京の兵は敗退し、護龍河に堕ちて、屍を填めて皆満ち、城門は急ぎ閉じられた。郭京は急いで張叔夜に告げて言った、「自ら下りて法を施す必要あり。」そこで城を下り、余衆を率いて南へ遁走した。この日、金人は遂に城に登った。
陳過庭
欽宗立ち、集英殿修撰を以て起ちて潭州を知らしむ。未だ行かずして、兵部侍郎を以て召され、道中にて中丞に除せらる。初めて入見するに、帝國家多難なるを諭し、每事當に意を悉くして言を盡すべしとす。是に於て節度使范訥環衛に歸らんことを丐ふ。過庭因りて言ふ、「崇寧以來、旄鉞を建つる者は多く勳績に由らず。請ふらくは宗室及び將帥の立功する者を除き、餘は並びに訥の例の如くせん」と。又宣仁后の誣謗を辨ぜんことを乞ふ。姚古兵を擁して太原を援けず。其の斬る可き罪七つを陳べ、嶺表に竄す。禮部尚書に進み、右丞・中書侍郎に擢でらる。大臣を遣はして兩河を金に割かんと議す。耿南仲は老を以て、聶昌は親を以て辭す。過庭曰く、「主憂へば臣辱しむ。願はくは死を效さん」と。帝爲に涕を揮ひて歎息し、固より南仲・昌を遣はす。城陷するに及び、過庭も亦行く。金人之を軍中に拘へ、因りて留めて還るを得しめず。建炎四年、燕山に卒す。年六十。開府儀同三司を贈られ、諡して忠肅と曰ふ。
張叔夜
張叔夜、字は嵇仲、侍中耆の孫なり。少くより兵を言ふを喜び、蔭を以て蘭州錄事參軍と為る。州は本漢の金城郡にして、地最も極邊に在り、河を恃みて固しと為す。每歲河氷合ふに、必ず兵を嚴くして備へ、士甲を釋かざること累月なり。叔夜曰く、「此れ計に非ず。要地を求めて之を守らずして、敵をして河に迫らしむれば、則ち吾既に殆し」と。大都と曰ふ地有り、五路の間に介す。羌人寇に入るに、必ず先づ彼に至りて點集し、然る後に向ふ所を議す。一たび至る毎に則ち五路皆竦む。叔夜其の形勢を按じ、攻取の策を畫き、訖へ之を得て、西安州と建つ。是より蘭に羌患無し。
襄城・陳留縣を知り、蔣之奇之を薦む。禮賓副使・通事舍人・安肅軍知軍に易ふ。言者太優なりと謂ひ、故官に還す。爲す所の文を獻じ、舒・海・泰三州を知る。大觀中、庫部員外郎・開封少尹と為る。復た文を獻じ、召されて製誥を試みられ、進士出身を賜ひ、右司員外郎に遷る。
遼に使いしに、宴射にて首めて的を中つ。遼人歎詫し、引く所の弓を觀んことを求む。故事無きを以て、與へずして拒む。還りて、其の山川・城郭・服器・儀範を圖して五篇と為し、之を上る。從弟克公蔡京を彈ず。京遷怒して叔夜に及び、司存の微過を摭ひ、西安草場監に貶す。久しくして、秘書少監に召され、中書舍人・給事中に擢でらる。時に吏惰りて虔ならず。凡そ命令の門下より出づる者は、銜を預め列ね、事を書名して徐ろに之を填む。之を「空黃」と謂ふ。叔夜極めて其の弊を革せんことを陳ぶ。禮部侍郎に進み、又京に忌まれ、徽猷閣待制を以て再び海州を知る。
宋江河朔に起り、轉た十郡を略し、官軍其の鋒に嬰るを敢へず。聲言將に至らんとす。叔夜間者をして向ふ所を覘はしむ。賊徑ちに海瀕に趨き、钜舟十餘を劫ひ、鹵獲を載す。是に於て死士を募りて千人を得、伏を設けて城に近くし、而して輕兵を出して海に距ち、之を誘ひて戰はしむ。先づ壯卒を海旁に匿し、兵合するを伺ひ、火を舉げて其の舟を焚く。賊之を聞き、皆鬥志無く、伏兵之に乘じ、其の副賊を擒へ、江乃ち降る。直學士を加へられ、濟南府に徙る。山東の群盜猝かに至る。叔夜力敵せずと度り、僚吏に謂ひて曰く、「若し束手して援兵を俟たば、民噍類無からん。當に計を以て之を緩くすべし。三日を延ばさしむれば、吾が事濟まん」と。乃ち舊の賊を赦す文を取り、郵卒を俾りて傳へて郡に至らしむ。盜聞き、果たして小しく懈る。叔夜會飲して譙門に在り、閒暇なるを示し、吏を遣はして恩旨を以て諭す。盜狐疑して相持ち、暮に至るも未だ決せず。叔夜卒五千人を發し、其の惰に乘じて之を擊てば、盜奔潰し、追ひて斬ること數千級。功を以て龍圖閣直學士に進み、青州を知る。
靖康改元、金人南下す。叔夜再び章を上りて騎兵を假り、諸將と力を併せて其の歸路を斷たんことを乞ふ。報へず。鄧州に徙る。四道帥を置く。叔夜南道都總管を領す。金兵再び至る。欽宗手劄を以て趣に入衛せしむ。即ち自ら中軍を將ひ、子伯奮前軍を將ひ、仲熊後軍を將ひ、合すること三萬人、翌日上道す。尉氏に至り、金の遊兵に遇ひ、轉戰して前る。十一月晦、都に至る。帝南薰門に御して之を見るに、軍容甚だ整ふ。入對し、賊鋒方に銳きを言ひ、願はくは唐の明皇の祿山を避くるが如く、暫く襄陽に詣りて以て雍に幸するを圖らんとす。帝之を頷く。延康殿學士を加へらる。閏月、帝城に登る。叔夜兵を陳べて玉津園に在り、鎧甲光明なり。城下に拜舞す。帝益よろこび、資政殿學士に進め、兵を以て城に入らしむ。俄に樞密院を簽書す。四日を連ね、金人と大戰し、其の金環の貴將二人を斬る。帝使を遣はし蠟書を齎し、叔夜を褒寵するの事を以て諸道に檄告す。然れども訖るまで赴く者無し。城陷す。叔夜創せらるるも、猶ほ父子力戰す。車駕再び郊に出づ。叔夜因りて起居し馬に叩きて諫む。帝曰く、「朕生靈の故を爲に、親しく往かざるを得ず」と。叔夜號慟して再拜す。衆皆哭す。帝首を回らして之に字して曰く、「嵇仲努力せよ」と。
金人異姓を立てんと議す。叔夜孫傅に謂ひて曰く、「今日の事、死有るのみ」と。二帥に書を移し、太子を立てて以て民望に從はんことを請ふ。二帥怒り、追ひて軍中に赴かしむ。至れば則ち抗請すること初めの如く、遂に從ひて北す。道中粟を食はず、唯だ時に湯を飲む。既に白溝に次りしに、馭者曰く、「界河を過ぎたり」と。叔夜乃ち矍然として起ち、天を仰ぎて大呼し、遂に復た語らず。明日、卒す。年六十三。訃聞き、開府儀同三司を贈られ、諡して忠文と曰ふ。
聶昌
聶昌、字は幸遠、撫州臨川の人なり。始め太學上舍より釋褐し、相州教授と為る。蔡攸の薦を用ひ、召されて秘書郎に除せられ、右司員外郎に擢でらる。時に三省大吏の階官卿監を視る者は、都司の上に立つ。昌名分未だ正しからずを以て、極めて之を論ず。詔して自今朝請大夫に至るまで止む。直龍圖閣を以て湖南轉運使と為り、還りて太府卿・戶部侍郎となり、開封尹に改め、復た戶部と為る。昌本王黼に厚く、既にして蔡京に從ふ。黼に中けられ、德安府知府に罷めらる。又鄉人の訟を以て、崇信軍節度副使に謫せられ、衡州に安置せらる。
欽宗が即位すると、呉敏が権勢を握り、聶昌の猛々しく直情径行な性格を己の助けとできると考え、閑職から顕謨閣直学士・開徳府知府に抜擢し、赴任途中で兵部侍郎に任じ、さらに戸部尚書に進み、開封府尹を兼ねた。聶昌は事に臨むと奮然として顧みず、敢えて誅殺を行った。呉敏は彼が己に用いられぬと見て、初めて畏れをなし、唐恪・徐処仁を引き入れて共に政務を執らせ、聶昌だけは除外した。
李綱が罷免されると、太学生の陳東および士人庶民十余万人が、鼓を打ち宮門の前に伏して、一日中退かず、内侍に出会うとこれを殺し、府尹の王時雍が手を振って退去を促しても去らなかった。帝は聶昌を見て、出て諭旨を伝えさせると、人々は相率いて命令に従った。王時雍が陳東らを獄に下そうとしたが、聶昌は強く不可を主張し、やめさせた。
聶昌が再び開封府尹となると、悪少年たちが混乱に乗じ、昼間に盗賊となり、官民の家に押し入って金帛を奪い、去ろうとする時は、常に仲間の中から二、三人を縛り上げ、盗賊を捕らえたと声高に言い、武器を持って部下を率いて路地を走り回り、それから縄を解いて奪った物を分け合って去った。人々は安住できなかった。聶昌はことごとく弾劾して法に正したが、博奕(賭博)についてはこれを咎めなかった。ある者が禁令を設けるべきと言うと、聶昌は言った、「彼らの嗜みに任せておき、その謀略を弛ませるのが、まさに彼らの非行を禁ずる所以である」と。聶昌は旧名を山といったが、この時、帝は彼に周昌の節義を抗う気概があるとして、「昌」と名付けるよう命じた。
都が再び戒厳下に入ると、同知枢密院事に任じられた。入朝して謝恩し、すぐに敵を防ぐ策を述べて言った、「三関四鎮は国家の藩籬である。これを敵に与えようとしていると聞くが、一朝にして盟約が破られた時、どうしてこれを制するのか。軽々しく与えず、天下の兵を都の近郊に集め、堅固な城守りでその衝撃を抑え、精鋭の禁軍を選んで出撃に備え、黄河の流れを塞いでその帰路を断つべきである。前には堅城、後ろには大河があり、精兵が四方から至れば、彼らがもし南下すれば、我が網中に堕ちるであろう。臣は勇義の士を奮い立たせて集め、伏兵を設けて関を開き、不意を突いてその陣営を掃討し、報いんことを願う」と。帝はこれを壮とし、守禦を提挙することを命じ、適宜の処置を許した。
ちょうど金人が再び和議を求め、両河の地を割譲し、大臣の報聘を必要とした。詔して耿南仲および聶昌を行かせようとした。聶昌は言った、「両河の人民は忠義勇猛であり、万一従わなければ、必ず彼らに捕らえられ、死んでも瞑目できません。もし和議が成就しなければ、臣は官属を分遣して、勤王の師を促し入衛させます」と。許された。永安に到着した時、金将の粘罕に遭遇した。その従者が閤門舎人と称し、聶昌に傘を撤去させ、名刺を用いて名を唱え引見するよう命じた。聶昌は承諾せず、しばらく争論した後、ついに客礼で会見した。聶昌は河東へ向かい、絳に至ると、絳の人々は城門を閉ざして拒んだ。聶昌は詔書を持って城下に至り、縄で引き上げられて登城した。州鈐轄の趙子清が兵を指揮して聶昌を害し、その目を抉り、肉を切り刻んだ。享年四十九。
建炎四年、初めて観文殿大学士を追贈され、諡を忠湣といった。父の用之は九十歳で、憂いのうちに死んだ。
聶昌の為人は粗放で才気煥発、人の急難を救うことを喜んだが、恩讐があまりに明らかで、些細な恨みも必ず報いた。王黼の死は、実は聶昌が刺客を遣わして刺させ、屍を道端に棄てさせたのである。かくして耿南仲に附いて顕位を取り、その説を左右して国を誤り、ついに禍変に至り、自身もまた免れえなかった。
【評論】(何㮚、孫傅、陳過庭、張叔夜、聶昌)
論じて言う、何㮚・孫傅・聶昌はいずれも疎放で才気ある士人であったが、器量・資質は脆弱であり、艱難の時に重任を担わせたことにより、宋の事態はおよそ推し量ることができよう。欽宗が再び金の陣営に赴いたのは、実に何㮚が誤らせたのであり、一死をもって償うに足りない。孫傅が太子を匿った謀略は甚だ疎漏であり、聶昌の河東への行き方は特に謬っていた。死に効するも当を得ず、ただ勇を傷つけたのみである。陳過庭は方臘の乱に際し、蔡京・王黼・朱勔を誅殺して天下に謝罪するよう求めたことは、ほとんど敢諫の風があったと言えよう。
張閣
張閣、字は台卿、河陽の人。進士に及第した。崇寧初年、衛尉主簿から祠部員外郎に遷ったが、経歴が浅く、詔勅起草の任にある者から議論され、蔡京がこれを主導して、留任させた。まもなく吏部に移り、宗正少卿・起居舎人に遷ったが、病気にかかって朝参できず、顕謨閣待制・崇福宮提挙に改めた。病気が癒えると、給事中・殿中監に任じられ、翰林学士となった。
河北の諸帥が城壁修繕を完工したため、褒賞の詔を下そうとしたところ、宦官が彼らのために地歩を築き、これに続いて策賞を行おうとした。張閣は言った、「これは牧伯(地方長官)の常職であり、もしこれを褒賞すれば、功を邀え事を生じさせる道を開く恐れがあります」と。徽宗は言った、「卿の言う通りである」と。詔を留めて下さなかった。かつて夜、厳寒の中で詔書の草案を草して進呈すると、帝はまだ座っており、その機敏さを賞して詩を賜り、寵遇とした。蔡京が宰相を免じられた時、張閣が詔書を起草し、その過失を歴数したが、言葉は勁健で、人々に多く伝誦された。
蔡京が再び宰相となると、張閣は龍図閣学士として杭州知州となった。浙部で和買絹を行うに当たり、杭州だけが十三を占め、一戸で数百匹に至る家もあった。張閣は他郡に均すよう請うた。杭州は長く知府を欠いていたが、張閣は治理に順序があり、人に害をなす悪少年を除き、州は治まったと報告した。召されて兵部尚書兼侍読に任じられ、再び学士となり、帝は日に特別に勅詔を賜り、かつ大用する意向があったが、まもなく卒去した。享年四十六。張閣が初めて杭州を守るために出た時、寵を固める方法を考え、辞去の日に、自ら花石綱の事務を管轄することを乞い、応奉の事はこれによりますます盛んになったという。
張近
張近、字は幾仲、開封の人。進士に及第し、累進して大理正・発運使となった。呂温卿が不法の噂を聞こえた時、張近は詔を受けて審理した。哲宗は彼に諭して言った、「これは朕の命によるものであり、卿は恵卿(呂恵卿、温卿の兄)を畏れるな」と。答えて言った、「法の所在たるや、陛下といえども臣に軽重させることができません。何ぞ恵卿を畏れましょうか」と。温卿は誣妄を弄して肯んじて対しようとしなかった。張近は言った、「温卿の罪状は明白です。もし彼の蔓衍する言葉を聴けば、株連される者を累わすことを恐れます」と。詔して衆証によってその罪を定めさせた。河北東路常平・西路刑獄を提挙し、入朝して刑部員外郎・大理少卿となり、集賢殿修撰として瀛州知州となった。
遼の使者が夏人のために命乞いをし、また兵を駐屯させて我が国に臨み、近ごろの要請もまた秦の甲兵を北道に派遣して、その謀略を討伐せよとのことであった。辺境の住民呂懺兒が瓦橋に入って盗賊となり、官吏がこれを捕らえると、遼人は宋の民を捕らえて人質とした。呉近は言う、「朝廷はちょうど友好を継ぎ民を安んじようとしているとき、曲(理のなさ)を彼らにあるようにすべきである。一人の盗賊の得失は、軽重をなすに足らず、釈放するのがよい」と。滄州の民が海で漁をすると、遼の兵卒はその豊かさを利して、私的に網を挙げて魚を取った。守備兵がこれと闘い、三十二の首級を斬り、州の将はこれを賞するよう請うた。ある者は、殺したのは平民であると言い、律に照らして論ずべきだとし、議論は決しなかった。呉近は言う、「辺境の民は利を貪り功を喜ぶので、もし賞すれば、国のために怨みを起こすことになろう。しかし彼らは兵を帯びて我が地に踏み込み、これを盗賊でないと言えようか。もし擅興(私的に兵を動かした罪)で罪に問えば、他日に誰を使って敵を防がせようか。願わくは賞と刑の両方を置き、大略を述べて問わないようにせよ」と。これに従った。
鄭僅
鄭僅、字は彦能、徐州彭城の人。進士に及第し、大名府司戸参軍となった。留守の文彦博はこれを才能ある者と認め、部使者が檄を発して他の郡に行かせようとすると、彦博は言う、「鄭参軍をどうしてしばしば出させることができようか」と。奏上して司法に改めさせ、冠氏県令に遷った。黄河が府の西で決壊し、檄が夜に下って急ぎ人夫を調達せよとのこと、鄭僅はちょうど保甲を閲していたが、戸籍を尽くしてすぐに出発し、他の邑より先に到着し、決壊はついに塞がれた。使者は怒ってこれを弾劾したが、留守の王拱辰が朝廷で争って言う、「冠氏がなければ、城の民は魚(水没)となっていたであろう」と。なお罰金に坐した。時に河朔は飢饉で、盗賊が起こったが、冠氏だけはこれがなく、かつ境内に入らなかった。他の邑が盗賊を捕らえ、詰問して取り調べると、盗賊は言う、「鄭冠氏は仁であるから、互いに戒めて犯さないのだ」と。福昌県知県となり、また歳の飢饉に当たり、心を尽くして救済貸付を行い、民は流亡しなかった。賞を次第に与えるべきところ、自ら列挙することを肯んじなかった。
京東常平提挙となり、入朝して戸部員外郎となり、太府卿に至り、直龍図閣を加えられ、陝西都転運使となった。河湟への糧秣輸送の功を論じ、集賢殿修撰・顕謨閣待制に進んだ。鄭僅は閉田(未墾地)を籍に載せて官荘とするよう請うた。この年、鎮戎・徳順で十余万の穀物を収穫した。時に西寧の高永年が熙河で戦死し、帥臣は官荘が属羌の地を奪ったことにより、その怨みと反乱を招いたと帰咎し、詔によってこれを罷めたが、議者は惜しんだ。
慶州知州に改めると、諸軍は多く老弱を殺し、首級を持って賞を求めた。鄭僅は、強壮でなくとも生け捕りにできる者には、賞を半分にすると下令した。内附した羌が賊を追い、老人を得たが、殺すに忍びず、これを捕らえると、なんとその父であった。互いに抱き合って泣き、一軍感動した。時に諸路は争って進討し勝利を奏上したが、鄭僅だけは境を保って事を起こさず、賊もまた侵犯しなかった。
秦州に移り、また都転運使となり、召されて戸部侍郎に拝され、吏部侍郎に改め徐州知州となった。顕謨閣直学士・通議大夫のまま卒す、年六十七、光禄大夫を贈られ、諡して修敏といった。子の望之は、独自に伝がある。
宇文昌齢
宇文昌齢、字は伯修、成都双流の人。進士甲科、栄州推官に調ぜられた。熊本が梓夔を経制するとき、辟かれて幹当公事となった。凡そ攻討招襲し、南平の諸城砦を建てることは、すべてその計画によるものであった。大理丞に遷った。熊本が帰朝し、その功を言上すると、抜擢されて秦鳳路常平提挙となり、両浙に改めた。
神宗は司農寺の図籍が整わないことを憂い、官を選んで整理させた。宇文昌齢が夔路への使者として入朝して辞したとき、留めて寺主簿とし、ついに監察御史に拝した。鄜延の帥が、配下の劉紹能が西羌と通じ、患いとならんとしていると奏上した。帝はその事実でないことを察し、宇文昌齢に命じてただちに鄜州でこれを審問させたところ、果たして虚妄であった。宇文昌齢はこれにより、守臣に対し深く戒めて、事を起こして賞を求めさせず、以て辺境の民の心を安んずるよう請うた。使いから還り、五品の服を賜った。
尚書省が建てられると、比部員外郎となった。時に官曹は新たに改まり、統紀は未だ立たず、宇文昌齢は力を尽くして事に当たり、暮れに及んでもなお吏を督促して止めなかった。立てた綱要を具して、朝廷に請いこれを施行した。三司の旧吏は弛緩に慣れ、多く不便に思い、これを陥れる方法を考えた。邏卒を摘発して、宿直の際に小吏を遣わして衾服を取らせたことを糾弾し、大臣は私役の罪で論じようとしたが、帝は職務がよく整っているとして、釈放して問わなかった。吏部員外郎に改め、京西転運副使として出向し、召されて左司員外郎となった。
遼の使者を送って雄州に至り、宴を設けることとなった。従者が揖(拱手の礼)を待たずに座ったので、宇文昌齢はその使者を誚って言う、「両朝の聘問の好み百年になる。国境に入って宴を設けることは、今日のみならず、揖して後に座る、この礼儀どうして欠くことができようか」と。使者は表面上は服さないようであったが、心ではその非を悟り、ついに礼を成して去った。
太常少卿に遷り、詔によって郊祀の合祭について議するよう命じられ、論者は一致しなかった。宇文昌齢は言う、「天地の数は、高卑によっては位を異にし、礼制によっては宜を異にし、楽舞によっては数を異にする。衣服の章(模様)に至り、器用の具、日至の時(夏至・冬至)に至るまで、皆区別があり乱れない。祀りというものは、有をもって無を感じ、実をもって虚を通じ、必ず類をもって類に応じ、気をもって気に合わなければならない。合して後にこそ得て親しむことができ、その来格を期待することができる。今、地を圜丘で祭るのは、気によっては合わず、類によっては応じず、高厚(天地)の来享を求めるのは、また難しくはないか」と。後に結局その議を用いた。直秘閣に改め梓州知州となり、寿州・河中府・鄧州・鄆州・青州の三州を歴任した。
徽宗が立つと、召されて刑部侍郎となり、戸部侍郎に移った。陝西が辺境に芻糧を送るのは、旧制では内郡に転送させて給することとし、民の苦しみとなっていた。宇文昌齢は、ただその州に輸送するのを止め、道里費を量って取って辺境の買い入れを助けるよう建言し、これに従った。歳に買い入れ価格五百万を省き、公私ともに便利となった。宝文閣待制として開封府知府となり、また戸部侍郎となり、青州・杭州・越州の三州の知州となった。卒す、年六十五、詔によって封傅(護送の役人)を付けて帰郷させ、官がその葬費を給した。子に常がいる。
子 常
常(名は権可)は、政和の末年に黎州の知事となった。大渡河の外に城邑を設置して互市を便利にせよと上書する者がおり、詔により常に諮問した。常は言う、「孟氏が入朝して以来、藝祖(太祖)は蜀の輿地図を取って観覧し、大渡河を境と定め、百五十年を経て西南夷の患いはなかった。今もし河の外に城邑を建てれば、虜の情は離反し、辺境の隙間が次第に開かれ、中国の福とはならぬ」と。まもなく成都路茶馬の提挙となった。熙寧・元豊以来、毎年の馬の収入は蕃族から多く入ったが、崇寧・大観の間に至り、その法は初めて壊れた。提挙官は毎年収入の余剰を進上し、吏はこれに縁って奸を行い、市馬はわずか十の一二に過ぎず、かつその代価を負い、夷人は皆怨んだ。常はその弊をことごとく改め、馬は遂に定額を超えた。直秘閣を加えられ、夔州の知事に改められ、秘閣修撰に進んだ。官は累進して中大夫に至った。卒した。
許幾
許幾は、字を先之といい、信州貴渓の人である。若くして諸生として魏の韓琦に謁し、琦は太学に入るよう勧めた。科挙に及第し、高安・楽平の主簿に任じられ、南陵県の知事となり、僧尼に託して奸を行う民数百人を帰還させた。
京西常平の提挙となり、開封府推官に転じ、将作監に進んだ。吏と工匠が結託して奸欺を行い、凡そ削る・塗る・彩色する工事は順次用いるべきところ、役事の始めに一律にその給与を支給し、費用は法度なく、不均の患いがあった。幾は事前にその工程を定め、費用は省かれ工事は倍増した。再び太僕卿・戸部侍郎に遷り、顕謨閣待制として鄆州の知事となった。
梁山濼には盗賊が多く、皆漁夫の巣窟であった。幾は十人を一保に編籍し、朝に出て夕に帰るようさせ、そうでなければ告げさせ、直ちに徹底的に取り調べ、逃れる者はいなかった。
幾は吏事の才幹があり、財理に長じ、これにより四度戸部に入り尚書に至った。かつて泉布法を動揺させたことで罷免され、また染院の事を治めて事実を誤ったため、婺州の知事となった。枢密直学士・河北都転運使に進み、成徳軍の知事に移り、太原府の知事となった。張商英が吏禄を削減した際、幾はその議に参与し、永州団練副使に貶され、袁州に安置された。恩赦に遇い、中大夫に復し、卒した。
程之邵
程之邵は、字を懿叔といい、眉州眉山の人である。曾祖父の仁霸は、獄を治めて陰徳があった。之邵は父の蔭により新繁の主簿となった。熙寧に募役法が改められると、常平使者は州県の民力を一律にし、余剰で不足を補おうとした。之邵は言う、「この法は成周の均力の遺意であり、各々一邑の力で一邑の役を供すべきで、どうしてこの邑で他邑を助けることがあろうか」と。使者は恥じて服し、之邵を属官に辟し、その為すに任せた。熊本が蜀道を察訪して帰り、朝廷に語って言う、「役法が初めて行われた時、成都路が最も詳しかったのは、之邵の力である」と。詔して召し見られ、成都守の趙抃が留めるよう奏した。入朝して三司磨勘官となり、隠匿数十万緡を得た。副使の蹇周輔に従い江・嶺の塩を計度し、帰還して広東転運判官に任じられた。元祐初め、利・梓路常平を提挙し、周輔が罪を得ると、これも罷められ祥符県の知事となった。まもなく泗州の知事となり、夔路転運判官となった。夔の守は強狠で法を奉ぜず、その罪を弾劾して正した。大寧井の塩は利益が広く、以前の議者はその半分を貯蔵して公上に供し、残りを民に売り、先に銭を納めさせたが、塩が十分に供給されず、民が困窮を訴えた。之邵は貯蔵したものを全て出して与え、商賈が通じると、関税が数倍に増えた。秦・蜀茶馬公事を主管し、黎州の買馬の弊を改め、毎年仲秋を市とし、市は四月で止め、余剰の茶で熙・秦の戦馬を交易し、良馬を多く得た。
鳳翔府の知事となり、民が負債を償えず、自らその家を焼き、火災と偽った。また主蔵吏が四人の婢を殺し、人に知られていなかった。之邵がこれを摘発し、岐人は伝え誦した。鄭州に移った。
元符の中ごろ再び茶馬を主管し、市馬は一万匹に至り、茶課四百万緡を得た。童貫が熙・岷で用兵するに当たり、報告を待たず、茶を運んで穀物を交易し、銭二十万億を発して費用を助けた。連ねて直龍図閣・集賢殿修撰を加えられ、三度官位を進められ、熙河都転運使となった。秦鳳が出師すると、之邵に経制を命じたが、即座に十万騎が三百日食えるだけの準備ができたと述べた。徽宗は喜び、顕謨閣待制に抜擢した。敵が熙河を犯すと、之邵が帥事を代行し、兵を屯して辺境を行き、敵は解いて去った。まもなく疾を得て卒した。功績を録して太中大夫に転じようとしたが、拝命に及ばず、龍図閣直学士を贈られ、官が喪を護って帰った。子の唐は、宝文閣学士に至った。
龔原
龔原は、字を深之といい、処州遂昌の人である。若くして陸佃と共に王安石に師事した。進士の高第に及第し、元豊の中ごろ国子直講となり、虞蕃の訴訟により官を失った。哲宗が即位すると、訴理所に詣でて直しを得、国子丞・太常博士となった。北郊の祭祀を議するに当たり、原は言う、「合祭は理に非ず。天子は天を父とし地を母とし、寒さのため祠を廃さないのに、どうして暑さのため行いを止められようか。これは漢儒の陋説に過ぎぬ。願わくは速やかにこれを正さん」と。秘閣校理を加えられ、徐王府記室を充てられ、出て両浙転運判官となった。
紹聖初め、召されて国子司業に拝され、入対した。帝が問うて言う、「卿は徐邸の官を歴任したが、何故補外となり、大臣の私意ではなかったか」と。対えて言う、「臣が郷部に出使し、民間の事柄を知り得ました。臣は元よりこのように知っており、その原因は知りません」と。まもなく侍講を兼ね、秘書少監・起居舎人に遷り、権工部侍郎となった。曾布に重んじられたが、安惇がその直講時の事を論じ、集賢殿修撰として潤州の知事となった。
初め、王安石が学校法を改めるに当たり、原を引き自助とし、原もまた尽力した。その後、司馬光が召して語り、王氏を譏切すると、原は反覆弁救して少しも衰えなかった。光は歎いて言う、「王氏の習気、なおかくの如きか」と。司業の時、王安石の撰した『字説』・『洪範伝』及び子の雱の『論語』・『孟子義』を刊板して学者に伝えるよう請うた。故に一時学校挙子の文は靡然としてこれに従い、その弊は原より始まった。
崔公度
崔公度、字は伯易、高郵の人。吃りで激しく談話することができなかったが、内には極めて聡敏で、書物は一度見れば忘れなかった。劉沆が茂才異等に推薦したが、病気を理由に辞退して応命しなかった。父の任官により三班差使に補されたが、好むところではなく、ますます戸を閉じて読書に励んだ。欧陽修が彼の作った『感山賦』を得て、韓琦に見せると、琦は英宗に上奏し、すぐに史館に付された。和州防禦推官を授けられ、国子直講となったが、母が老齢のため辞退した。
王安石が国政を執ると、『熙甯稽古一法百利論』を献上した。安石は衣を解き手を握り、招いて語らせた。延和殿で召対され、光祿丞に進み、陽武県知事となった。京官が府尹に謁見するには、故事により庭下で拝謁すべきであったが、公度は府尹が自分を辱めたと疑い、直接安石のもとに赴いて訴えた。安石は鄧綰に命じて御史に推薦させた。間もなく崇文校書となり、三司令式を刪定した。そこで声高に京官が庭で府尹に謁見するのは適切でないと主張し、安石は編敕所に命じてその制度を改めさせた。集賢校理を加えられ、太常禮院知事となった。
公度は布衣から起ち、守るべき節操もなく、ただ安石に媚び付くことを知り、昼夜問い合わせて訪ね、たとえ厠に踞っていても会うことを厭わなかった。かつて後ろから彼の帯の端を掴むと、安石が振り返ったので、公度は笑って言った、「相公の帯に汚れがあります。謹んで袍で拭い去ろうとしたまでです」と。見た者は皆笑ったが、彼も平然として恥じなかった。海州知事を請うた。元祐・紹聖の間、兵部郎中・礼部郎中・国子司業を歴任し、秘書少監・起居郎に任じられたが、いずれも辞退して受けなかった。潁・潤・宣・通の四州の知事となり、直龍圖閣のまま卒した。
蒲卣
蒲卣、字は君錫、閬州の人。母の任氏は学識があり、郷里で「任五経」と号された。卣は幼少より聡明で知られた。進士に及第し、利州司戸参軍・三泉主簿・合江金水県知事を歴任した。文州通判となった時、献策する者が文州から径路を開いて陝西に通じようと提案した。卣は言った、「洮・岷・積石から文州へは非常に近い。文州から江油に出るのは、鄧艾が蜀を取った旧道である。かつて鬼章がここから蜀を窺おうとしたが、険阻で狭隘なために止まった。夏人はこれを狙って久しい。どうして通路を作ることができようか」と。議はそこで止んだ。
睦親宅教授となり、湖北・京西常平を提挙した。崇寧の均田法で、転運使が費用が不足するとして、費用を測って税を定めようとした。卣は言った、「詔旨が民衆を恵もうとしているのであって、初めから賦税を増やすことではない」と。宛・穰の地は広く肥沃で、国初に民を募って墾田させ、世業とすることができ、人に訴えさせないようにしたのは、およそ百年になる。訴訟を好む者が少しずつ易佃法をもって動揺させようとしたので、卣は一切禁止した。権貴に献上して中旨により給賜されたものを持ってくる者がいた。卣は言った、「地は千頃に満ち、戸数も数百に及び、子から孫へ伝わり久しい。一朝にして所属を改めれば、衆は安んじられない。先朝の明詔が具にある。変えることはできない」と。朝廷はその議を是とした。
湖南刑獄提点となり、鼎・遼・隴・寧の四州の知事となり、再び潼川路刑獄提挙となった。瀘・敘の間で酒の専売を行おうとする議論があり、毎年二十万銭を得られると言った。卣は言った、「先朝はこの地が夷漢雑居であることを考慮し、専売の禁を緩めて、辺境の民を恵み安んじさせた。今行おうとすることは、その利益が見えない」と。そこで止んだ。累官して中大夫となり、卒した。七十二歳であった。
【評論】(張閣、張近、鄭僅、宇文昌齡、許幾、程之邵、龔原、崔公度、蒲卣)
論じて曰く、『伝』に曰く、「尺には及ばないところがあり、寸には及ばないところがある」と。二張の郡を治めること、鄭僅の藩を守ること、宇文父子の辺境の糶を便利にし馬政を改革すること、許幾・程之邵の財運を経制すること、蒲卣の税と専売を議することは、いずれも称えるべきところがある。しかし張閣が花石で寵を固めたこと、そして龔原・崔公度が王氏の学を主として安石に諂い事えたことは、則ち搢紳の歯牙にもかけないところである。