宋史

列傳第一百十一 唐恪 李邦彦 余深 薛昂 呉敏 王安中 王襄 趙野 曹輔 耿南仲 王㝢

唐恪

唐恪、字は欽叟、杭州錢塘の人。四歳にして孤となり、人のその父のことを言うを聞けば、輒ち悲泣す。蔭によりて第に登り、郴の尉に調ず。県民に被害を受けしも屍を得ざる者あり、吏はその隣人を執り、抑えて自ら誣らしめ、令は以て信ずと為す。恪之を争ふ、令曰く「否ならば将に君の累と為らん」と。恪曰く「吾尉たりして盗を捕ふること能はず、更に亡辜をして死なしめんや」と。躬づから出でて訪ひ求め、夕べ、若し告ぐる者有らば、旦にして屍を得、遂に盗を獲たり。榆次を知る、県の豪子郷に雄たり、逋を萃め姦を庇ひ、公賦を輸せず、前後敢へて詰ふる者莫し。恪理を以て善く之を曉し、悟りて自ら悔ひ、節を折りて長者と為る。最聞に及び、提挙河東常平・江東轉運判官に擢でらる。

大觀中、牂牁内附し、召されて屯田員外郎と為り、節を持ちて夷人を招納す。夷始め恫疑し、衷甲して以て逆ふ、恪兵衛を尽く去き、数十の卒に従ひ単行す。夷望見して懽呼し、兵を投げて命を聴く。奉使して職に称ふるを以て、右司員外郎・起居舍人に遷る。遼使を迎へて還り、河北の辺備弛廃するを言ひ、宜しく今事無きに及び、時に之を治むべしと。徽宗之を壮とし、曰く「卿に非ざれば誰か為すに宜しき者か」と。都轉運使と為るを命じ、集賢殿修撰を加ふ。中貴人詔を称して市すること有り、恪答えず、憤して帰り、中に他事を以てし、直龍圖閣に降じ、梓州を知る。

歴ること五年、滄州に徙る。河決し、水城下を犯す、恪城に乗じて救理す。都水の孟昌齡檄を移して船と兵を索む、恪報じて水勢方に悪し、船は以て緩急に備ふべしと;滄は極辺たり、兵は旨有るに非ざれば敢へて遣はさずと。昌齡怒り、之を劾す、恪動かず、益々水を治む。水去り、城全きを得、詔書嘉獎す。乃ち上疏して暫く保甲・保馬の呈閲を免じ、及び諸県の租を復し、等第に振貸し、以て水に被れる民を寬ぐるを請ふ。未だ報ぜざるに、悉く便宜に罷め行ひ、民大いに悦ぶ。

龍圖閣待制に進み、揚州を知り、召されて戸部侍郎を拝す。京師暴水至り、汴且に溢れんとす、恪に付して之を治めしむ。或いは南隄を決して以て宮城の患を紡がんことを請ふ、恪曰く「水漲き隄壞る、此れ亡くす可き奈何、今決して之を浸さば、是れ吾が民を魚鱉と為すなり」と。亟に小舟に乗り、水の源委を相し、以て之を利導する所以を求め、乃ち金隄を決して河に注がしむ。浹旬にして水準み、入りて対す、帝之を労して曰く「宗廟社稷安んずることを獲るは、卿の力なり」と。恪再拝し、因りて上疏して言ふ「水は陰の類なり、京闕を犯すに至るは、天其れ或は陰盛の沴を以て陛下に儆告するか。願くは時事に意を垂れ、益々天戒を謹まん」と。

宣和初、尚書に遷り、帝二府を以てすと許す。宰相王黼に陥れられ、罷めて滁州を知る。言者其の第を歴陽に治め、民を擾し制を踰ゆるを論じ、鴻慶宮を提挙す。五年、起きて青州を知る;未だ行かず、召されて吏部尚書と為り、戸部に徙る。復た外を請ひ、延康殿學士を以て潭州を知り、錢塘に往き墓を掃らんことを請ひ、然る後に之に官す、遂に杭州に改む。

靖康初、金兵汴に入る、李邦彦之を薦め、同知樞密院事を拝し、至れば則ち中書侍郎と為る。時に進見する者多く宣和間の事を論ず、恪欽宗に言ふ「弊を革むるは漸を以てすべく、宜しく今日の急とする所を択びて先にすべし。而して言者は大體を顧みず、前事を毛挙するに至り、以て一時の憤を快くす、豈に太上道君の心を傷つけざらんや。京・攸・黼・貫の徒既に竄斥に従ふ、姑く已む可し、他日邊事定まりし後、然る後に道君に白し、一詔を下し、天下と共に之を棄つるを請はば、誰か曰く不可とせん」と。帝曰く「卿の論甚だ善し、朕が為に詔書を作り、此の意を以て在位に佈告せよ」と。因りて東宮の旧書万巻を賜ひ、且つ近比を用ひ、子の璟を直祕閣に除す、力めて之を辞す。

八月、少宰兼中書侍郎に進み拝す、帝礼之を注ぐこと甚だ渥し。然れども恪相と為り、時を濟ふる大略無し。金騎再び来たり、三鎮の割を邀ふ、恪廷臣を集めて議し、以て与ふべしと為す者十九、恪之に従ふ。使者既に行く、ここに於て諸道の勤王兵大いに集まる、輒ち諭して令して前る勿からしめ、皆旆を反して去る。金兵城下に薄るに及び、始めて之を悔ひ、密かに帝に言ふ「唐天宝の後より屡く失ひて復興する者は、天子外に在りて以て四方を號召することを得ればなり。今宜しく景德の故事を挙げ、太子を留めて居守せしめて西に幸ひ洛し、秦・雍を連ね據り、天下を領して親征し、以て興復を圖るべし」と。帝将に其の議に従はんとす、而して開封尹何㮚入見し、蘇軾の論ずる所を引き、周の失計、未だ東遷の如き甚だしきは有らざるを謂ふ。帝幡然として改め、足を以て地を頓ち曰く「今当に死を以て社稷を守るべし」と。㮚を門下侍郎に擢で、恪の計用ひられず。

帝に従ひ城を巡り、都人に遮撃せられ、馬を策して脱するを得、遂に家に臥して去らんことを求む。御史胡舜陟継ぎて其の罪を劾し、「恪の智慮邊事を經畫すること能はず、但だ内侍を交結するに長ず、今國勢日蹙く、誠に以て位を備ふべからず」と謂ふ。乃ち觀文殿大學士・中太一宮使兼侍讀を以て罷め、㮚代はりて相と為る。

京城守られず、車駕金帥の營に至る、恪曰く「計失へり。一たび入らば、将に還ることを得じ」と。既にして宮に還る、恪道左に迎へ拝し、入覲せんことを請ふ、㮚不可とす。二年正月、復た幸す、恪曰く「一たびを謂ふは甚だしと為すも、其れ再びせんや」と。金人百官を逼り張邦昌を立て、吳開・莫儔を令して城に入り推戴狀を取るに及び、恪既に名を書き、薬を仰いで死す。

李邦彦

李邦彦、字は士美、懷州の人。父の浦は銀工なり。邦彦進士と游ぶを喜び、河東の挙人京に入る者は、必ず懷に道りて邦彦を訪ふ。營置すること有れば、浦亦工を罷めて之と為し、且つ復た其の行を資給す、此れに由りて邦彦の聲譽弈弈たり。入りて太學生を補し、大觀二年、上舍及び第し、祕書省校書郎を授けられ、符寶郎を試みらる。

邦彦俊爽、風姿美く、文を為すに敏にして工なり。然れども閭閻に生長し、猥鄙の事を習ひ、應對便捷なり;謳謔を善くし、蹴鞠を能くし、毎に街市の俚語を綴りて詞曲と為し、人争ひて之を傳へ、自ら「李浪子」と號す。言者其の游縦檢無きを劾し、符寶郎を罷め、復た校書郎と為る。俄に吏部員外郎を以て議禮局を領し、出でて河陽を知り、召されて起居郎と為る。邦彦中人に事ふるを善くし、争ひて之を薦譽し、累遷して中書舍人・翰林學士承旨と為る。

宣和三年(1121年)、尚書右丞に任ぜられ、五年(1123年)に左丞に転じた。浦が死ぬと、龍圖閣直學士を追贈され、諡は「宣簡」といった。邦彥は喪中に復職し、王黼と折り合わず、ひそかに蔡攸・梁師成らと結び、王黼を讒言して罷免させた。翌年、少宰に任ぜられたが、特に建樹はなく、ただへつらい従順に振る舞って官位を埋めるだけであった。都の人々は彼を「浪子宰相」と呼んだ。

徽宗が内禅すると、龍德宮使に命ぜられ、太宰に昇進した。衆議が自分に与せず、外患が日に日に迫っていることを知り、上疏して宮祠の任を乞うた。金軍が都城に迫ると、李綱・种師道が罷免され、邦彥は割地の議を強硬に主張した。太学生陳東ら数百人が宣徳門に伏して上書し、邦彥および白時中・張邦昌・趙野・王孝迪・蔡懋・李梲の輩は社稷の賊であるとして、彼らを斥けるよう請願した。邦彥が退朝すると、群衆が指さして大声で罵り、殴ろうとしたので、邦彥は疾走して逃れた。そこで特進・観文殿大学士として太一宮使を充てられた。十日と経たぬうちに、呉敏が彼のために請願し、再び太宰に起用された。人々はみな驚愕し、言事官が相次いで弾劾した。鄧州知州として出され、そこで残りの喪服期間を過ごすことを請い、亳州明道宮提挙となった。建炎初年(1127年)、主和によって国政を誤った罪で、建武軍節度副使に責められ、潯州に安置された。

かつて蔡京・王黼が権勢を振るった時、これに付き従った者の多くが引き立てられて政府に入った。余深・薛昂・呉敏・王安中・趙野などがそれであるが、史書には彼らの事績が逸しているので、ここに附載しておく。

余深 附

余深は福州の人である。元豊五年(1082年)、進士に及第した。崇寧元年(1102年)、太常博士・著作佐郎となり、司封員外郎に改め、監察御史・殿中侍御史に任ぜられ、辟雍司業を試みた。

累進して御史中丞兼侍読となった。張懐素の獄を治めた時、事件は蔡京に連座したが、開封府尹の林攄と共に曲げて隠蔽し、供述に蔡京に言及するものがあれば直ちに焼き捨てた。蔡京はそこで力を尽くして余深と林攄を引き立て、急に執政の地位に至らせた。大観二年(1108年)、吏部尚書として尚書左丞に任ぜられた。三年(1109年)、中書侍郎に転じ、四年(1110年)、門下侍郎に転じた。蔡京が致仕すると、余深は自ら不安を感じ、累次上疏して罷免を請い、資政殿学士として青州知州となった。

政和二年(1112年)、蔡京が再び都堂に赴いて政務を執ると、余深は再び門下侍郎として入朝した。七年(1117年)、少宰に任ぜられた。宣和元年(1119年)、太宰となり、少保に進み、豊国公に封ぜられた。さらに衛国公に封ぜられ、少傅を加えられた。当時福建では花果を徴発して民を煩わせていたので、余深がこれを言上すると、徽宗は不機嫌になった。そこで罷免を請い、鎮江軍節度使・福州知州として出された。靖康初年(1126年)、恩典により特進・観文殿大学士を加えられた。故事では、凡そ僕射・使相・宣徽使は皆州府を判ずるものであったが、余深は少傅・節度使として福州を知っており、これは有司の手落ちであった。

余深は蔡京に諂い付き従い、死党を結んだ。蔡京の奸謀詭計を助けた者のうち、余深が筆頭で、林攄がそれに次いだ。言事官が累章して余深を弾劾したので、余深はますます恐れ、致仕を乞うた。建炎二年(1128年)、中大夫に降格され、臨江軍に居住した。まもなく江を渡った恩赦により、郷里に帰り、そこで死去した。子の日章も、言事官の弾劾により徽猷閣待制を罷免された。

薛昂 附

薛昂は杭州の人で、元豊八年(1085年)の進士に及第した。崇寧初年(1102年)、太学博士・校書郎・著作佐郎を歴任し、殿中侍御史となり、起居郎を試み、中書舎人兼侍講に改め、給事中兼大司成に昇進した。薛昂は学術に乏しく、士子が『史記しき』『漢書かんじょ』の語を用いると、直ちにこれを退けた。哲宗の時、常に史学の廃止を請願し、哲宗から俗佞と斥けられた。翰林学士に任ぜられたが、不適任として刑部尚書に改められ、兵部に転じた。大観三年(1109年)、尚書左丞に任ぜられた。翌年、外補を請い、江寧知府として出され、河南に転じた。久しくして、嵩山崇福宮提挙となった。

政和三年(1113年)、蔡京が再び権勢を振るうと、薛昂は再び尚書右丞から左丞となり、門下侍郎に遷った。まもなく罷免を請い、彰化軍節度使・佑神観使を授けられ、特進に改め、資政殿大学士・応天府知府を充てられた。薛昂は余深・林攄と終始蔡京に附会し、挙げて一家で蔡京の名を諱むほどで、誤って言及する者があれば、鞭打ちの罰を加えた。薛昂自身も誤って言及したことがあり、直ちに自ら口を打った。靖康初年(1126年)、言事官がその罪を糾弾し、詔により金紫光禄大夫で致仕させられた。杭州で軍乱が起こると、薛昂は命令を請わずに州事を領したため、責められて徽州に居住した。薛昂は王氏の学を信奉し、かつて王安石の座で囲碁を打ち詩を賭けたが、局に敗れて詩が作れず、王安石が代作した。当時の人々はこれを笑い話にした。

呉敏 附

呉敏は字を元中といい、真州の人である。大観二年(1108年)、辟雍の私試で首席となった。蔡京はその文章を喜び、娘を娶らせようとしたが、呉敏は辞退した。そこで浙東学事司幹官に抜擢され、秘書省校書郎となり、蔡京が推薦して館職を充てさせた。中書侍郎の劉正夫は、呉敏が省試を経ていないとして認めなかったので、蔡京は御筆による特旨で上殿を召すよう請い、右司郎官に任ぜられた。御筆による任命はこれに始まり、これに違う者は大不敬の罪に論ぜられることとなり、これにより権勢をほしいままにする者が争って御筆を請うようになり、封駁の職責は廃れた。中書舎人・同修国史に昇進し、給事中に改められた。呉敏は蔡京に引き立てられたが、鄭居中が政権を執ると、呉敏はしばしばその過失を言上したので、鄭居中は恨みに思った。盗賊の死刑を駁議した罪に坐し、右文殿修撰・南京鴻慶宮提挙に罷免された。久しくして、再び給事中・権直学士院兼侍講となった。

徽宗が内禅しようとすると、蔡攸は上意を探知し、呉敏を引いて対面させた。宰臣執政が皆いる中、呉敏が前に進み出て奏事し、言うには、「金人が盟約を破り、兵を挙げて逆らっております。陛下はどう対処なさいますか」。帝は顔を曇らせて「どうしようもない」と言った。当時、東幸(開封脱出)の計画は既に決まっており、戸部尚書の李梲を先に金陵守備に出そうとしていた。呉敏は退いて都堂に赴き言った、「朝廷が早くも京師を棄てる計画を立てるとは、どういう道理か。この命令が本当に実行されるなら、私は死んでも詔を奉じない」。宰執がこのことを言上したので、李梲の出発は取りやめとなった。皇太子が開封尹に任ぜられると、帝の退位の意思はますます固くなり、呉敏は奏対の機会を得て請願し、そこで李綱を推薦した。李綱はかつて呉敏に、帝は位を伝えるべきで、唐の天宝の故事のようだと語っていたので、呉敏は李綱を推薦し、帝が何か尋ねるかもしれないと期待したのである。翌日、宰臣が奏事すると、徽宗は李邦彥だけを留め、呉敏の奏対について語った。門下侍郎に任じ、太子を輔佐させるよう命じた。呉敏は驚いて言った、「臣は既に計画を立て、陛下の巡幸にお供すべきです。陛下が位をお伝えになるのに、臣が破格の抜擢を受けるなど、どうしてできましょう」。帝は「卿がこれほどまでに敢言するとは思わなかった」と言い、そこで呉敏に伝位の詔を起草させた。

欽宗が即位すると、上皇は龍德宮に出御され、呉敏は蔡攸と共に龍德宮副使となり、知枢密院事に遷り、少宰に任ぜられた。呉敏は和議を主張し、太宰の徐処仁と意見が合わず、帝の前で紛争した。御史中丞の李回がこれを弾劾し、徐処仁と共に罷免され、観文殿大学士・醴泉観使となった。まもなく、言事官が蔡京父子を庇護したと論じ、揚州知州として出され、さらに崇信軍節度副使に貶められ、涪州に安置された。建炎初年(1127年)、柳州に移された。俄かに范宗尹の推薦により、潭州知州に起用されたが、呉敏は辞退を請い、宮祠を乞うたので、洞霄宮提挙となった。紹興元年(1131年)、再び観文殿大学士となり、広西・湖南宣撫使となり、任地で死去した。

王安中(附伝)

王安中、字は履道、中山陽曲の人。進士に及第し、瀛州司理参軍・大名県主簿に任じられ、秘書省著作郎を歴任した。政和年間、天下が瑞応を言い争い、廷臣はたびたび箋表を奉って祝賀したが、徽宗はその作った文章を観て、奇才と称した。ある日、特に詔書の草稿三題を出して草稿を作らせたところ、すぐに完成した。上は草稿の後に批を加えて「中書舎人に任ずべし」とした。間もなく、秘書少監から中書舎人に任じられ、御史中丞に抜擢された。開封の邏卒が夜に盗賊の跡を追ったが、盗賊は逃げ去り、民が驚いて出て来て邏卒と出会い、縛られて盗賊とされた。民は府に訴えたが、拷問の惨さに耐えかね、ついに誣服した。安中はこれを察知し、調べて冤罪の状を得ると、ただちに民を釈放し、吏を罪に処した。

徐禋という者が、鼓鋳を増広する説をもって蔡京に媚び、蔡京は奏して禋を遣わし東南九路の銅事を措置させ、かつ宝貨を捜索させた。禋は坑冶を図絵し、旧額を数十倍に増やし、かつ洪州厳陽山の坑を開くことを請い、有司に迫って歳額数十両を承諾させた。その烹煉したものは、実際には銖両を得るのみであった。禋の術が窮まり、やむなく妄りに希世の珍異と古の宝器を得たと請い、書芸局に帰することを乞うた。蔡京はその言を支持した。安中ひとり禋が上を欺き下を擾すと論じ、九路の監司に覆勘させるべきとし、禋はついに罪を得た。

時に上は神仙の事を向かわれ、蔡京は方士の王仔昔を引いて妖術をもって見えさせ、朝臣や戚里が縁故を通じて関与した。安中は上疏して、今後山林の道術の士を招延するには、所属に保任を責め、宣召出入には必ずその経由を察視させ、なお臣庶の往来の禁を厳しくすべきことを請い、併せて蔡京が君を欺き上を僭し、国を蠹し民を害する数事を言上した。上は悚然としてこれを納れた。やがて再び蔡京の罪を疏した。上は「卿の章を即行しようと思ったが、近く天寧節があるので、これを過ぎたら卿のために蔡京を罷めよう」と言われた。蔡京がこれを窺い知り、大いに恐れ、その子の攸が日夜禁中に侍し、泣いて拝み懇願した。上は安中を翰林学士に遷し、さらに承旨に遷した。

宣和元年、尚書右丞を拝し、三年、左丞となった。金人が燕を帰還させるに当たり、帥臣を謀った。安中が行くことを請うた。王黼が上に賛し、慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使・知燕山府を授け、遼の降将郭薬師を同知府事とした。薬師は跋扈し、府事をすべて専行し、安中はこれを制することができず、ただ曲意してこれを奉じたので、薬師はますます驕った。まもなく検校少保を加えられ、少師に改めた。時に山後諸州はことごとく陥落し、ただ平州のみが張覚に拠られていた。金人が燕に入り、覚を臨海軍節度使とした。その後、覚は金に叛き、金人がこれを攻め、覚は敗れて燕に奔った。金人が急ぎ索めて来たので、安中はやむなく覚を縊り殺し、その首を函に入れて金に送った。郭薬師が宣言して「金人が覚を欲すれば即ち与える。もし薬師を求めても、また与えるのか」と言った。安中は恐れ、その言を奏し、よって力を尽くして罷免を求めた。薬師はこれより解体し、金人はついにこれを以て釁を開いた。安中は上清宝籙宮使兼侍読として召還され、検校太保・建雄軍節度使・大名府尹兼北京留守司公事を除かれた。

靖康初め、言者がその王黼・童貫と結託し、かつ郭薬師の叛命を幾察しなかったことを論じ、観文殿大学士・提挙嵩山崇福宮に罷められた。さらに朝議大夫・秘書少監・分司南京に責授され、随州に居住した。さらに単州団練副使に貶され、象州に安置された。高宗が即位すると、内徙して道州に移り、まもなく自便を許された。紹興初め、左中大夫に復した。子の辟章が泉州を知り、安中を迎えて往かせたが、まもなく卒した。享年五十九。

安中の文章は豊潤で敏抜、特に四六の製をよくした。徽宗がかつて睿謨殿で宴し、安中に詩百韻を賦してその事を紀させた。詩が成ると、たびたび嘆賞してやまず、殿屏に大書させ、侍臣すべてに副本を賜った。そのように重んぜられた。『初寮集』七十六巻が世に伝わる。

王襄(附伝)

王襄、初めは寧と名乗り、鄧州南陽の人。進士に及第した。崇寧二年、軍器監主簿として事を言上し旨に称し、庫部員外郎に抜擢され、光禄少卿に改め、出て陝西を察訪した。還り、顕謨閣待制・権知開封府となった。府事は浩穰で、訟える者が株蔓千余人に及び、獄に縲繫満ちた。襄は昼夜決遣し、四十日でことごとく尽くした。さらに一月を閲し、獄は再び空となった。龍図閣直学士・吏部侍郎に遷り、出て杭州を知った。未だ至らず、海州に改め、さらに応天府に改め、鄆州に徙った。召されて礼部尚書となり、兵部に移り、出て潁州を知り、永興軍に改めた。蒲城の妖賊王寧がたまたま同姓名であったので、名を宓に改めることを請うた。左司諫石公弼に劾せられ、汝州に徙り、まもなく学士を奪われ、提挙南京鴻慶宮となった。

大観三年、集賢殿修撰として潭州を知り、兵部侍郎に改め、高麗に使した。還って対し旨に称し、詔して名を襄と賜うた。工部・吏部尚書を歴任し、同知枢密院事を拝した。近侍を薦引したことに坐し、延康殿学士として罷められ亳州を知った。さらに郭天信と交通したことに坐し職を落とし、提挙嵩山崇福宮となった。久しくして起用され郢州を知り、学士の秩を復し、まもなく資政殿学士を加えられ、淮寧府に徙って知った。事を言上して王黼に忤い、再び提挙崇福宮となった。

宣和六年、起用されて河南尹となった。金人が再び入寇すると、出て西道都総管となり、張杲がこれを副えた。高宗が大元帥府を開くと、襄は率いる兵を以て虞城県に会した。即位すると、命じて河南府を知らせた。襄は初め趙野と分かれて西北道諸軍を総べたが、金人が京師を囲み、兵を徴して入援させたが、二人はわざと迂回して宿留した。この時、寧遠軍節度副使に降格され、永州に安置され、卒した。

趙野(附伝)

趙野、開封の人。政和二年進士に及第した。監察御史・殿中侍御史を歴任し、試起居舎人兼太子舎人となり、まもなく中書舎人・給事中・大司成に遷り、刑部尚書・翰林学士を拝した。時に蔡京・王黼が政を更に秉り、党を植えて相擠ぎ、一進一退して両全する者なく、野はこれに処して皆その心を得、蔡京・王黼もまたこれを疑わずに待った。宣和七年、尚書右丞を拝し、左丞に昇った。

靖康初め、門下侍郎となった。徽宗が東幸され、詔して野を行宮奉迎使とした。左司諫陳公輔の言により、野の行を罷め、出て北道都総管とし、顔岐がこれを副えた。やがて職を落とし、提挙嵩山崇福宮となった。元帥府が建てられ、命じて范訥と宣撫司とし、東京を守らせ、まもなく師を帥いて宛亭に屯し、王師を待った。王襄が既に責められると、野もまた安遠軍節度副使に降格され、邵州に安置された。

建炎元年、再び起用されて密州を知った。時に盗賊が山東に充満し、車駕が淮南に如かれると、命令は阻絶し、野は城を棄てて去った。軍校の杜彦らが隙に乗じて乱を起こし、野を追って帰らせた。彦は堂上に坐してこれを数えて「汝は知州として家を携えて先に遁れし。この州の人、誰を以て主とせん」と言った。野は応えることができず、遂に殺された。家族はすべて賊に分けられ、ただ子の学老のみが免れた。

曹輔 附

曹輔は字を載德といい、南劍州の人である。進士に及第した。政和二年、通仕郎の身分で詞學兼茂科に中り、秘書省正字を歴任した。

政和年間以後、帝はしばしば微行し、小轎子に乗り、数人の内臣が先導・随従した。行幸局を設置し、局中では帝の外出の日を排當があると称し、翌日になっても帰還しないときは、詔を伝えて瘡痍を称し、朝坐に臨まなかった。初めは民間ではまだ知らなかった。及んで蔡京の謝表に「軽車小輦、七たび臨幸を賜う」とあるに至り、ここに至って邸報が四方に伝わり、臣僚は阿諛順従して、敢えて言う者はいなかった。曹輔が上疏して大略に曰く、

「陛下は法宮に居ることを厭い、時に小輎に乗り、廛陌の中・郊坰の外に出入りし、遊楽を極めて後に還られる。道塗の言説は初めはなお忌憚があったが、今では帝が某日に某路より某所に至り、某時に帰ったと談じ、また輿の装飾が識別できて避けたとも云う。臣は陛下が宗廟社稷の付託の重きに当たり、安きを玩び危きを忽せにし、一たびここに至るとは思わなかった。そもそも君と民とは、本来人をもって合するものであり、合すれば腹心となり、離れば楚・越のようになる。叛服の間は斯須のうちにあり、甚だ畏るべきである。昔、仁祖は民を子の如く視、憫然としてその或いは傷つくことを恐れた。一旦宮闈の禁が厳しくなかったとき、衛士が禁城を踰え、宝瑟に触れんとしたことがあった。天の休を荷い、帝躬は保祐された。俚語に『盗は主人を憎む』とあるが、主人は盗に何を負うたというのか。況んや今、冗員を革め、濫奉を斥け、浮屠を去り、胥吏を誅するに当たり、蚩愚の民が一一引咎して分に安んずることができようか。万一、乗輿が不戒の初めに当たり、一夫が不逞を抱き、禍心を包蔵し、蜂蠆の毒を発し、獣窮の計を奮うことがあれば、神霊が垂護されようとも、また威を損ない重きを傷つけることになろう。また臣子が忍びず言うところのものがある、これを戒めざるべけんや。

臣は願わくは陛下が深く高く居り、拱して淵の如く黙し雷の如く声し、穹昊至高の勢いをもって臨み、日月有常の度をもって行われることを。その出でられるに及んでは、太史が日を択び、有司が道を除き、三衛百官が前後に列するように。もし煩を省ぎ費を約して公私に便ならしめると言うならば、臨時に旨を降し、欠くべからざるものを存し、未だ嘗て用いざるものを損ずるように。祖宗の旧制に非ずとも、微服して跡を晦まし、臣庶と下って同じくし、堂陛が陵夷し、民に姦望を生ずるよりは、なおまさっているのではないか。」

上は疏を得て、宰臣に示し、都堂に赴いて審問させるように命じた。太宰余深が曰く、「曹輔は小官、どうして敢えて大事を論ずるのか。」曹輔が対えて曰く、「大官が言わないので、小官が言うのです。官に大小はあれど、君を愛する心は同じです。」少宰王黼は左丞張邦昌・右丞李邦彥を顧みて曰く、「このような事があったか。」皆、知らないと応じた。曹輔が曰く、「この事は里巷の細民でさえ知らない者はなく、相公が国を当たっておきながら、ただ知らないのか。これすら知らないなら、どうしてあの宰相を用いるのか。」王黼はその己を侵すことを怒り、吏に命じて曹輔から供述を受けさせた。曹輔は筆を執って曰く、「区区の心、一も求むるところなく、ただ君を愛するのみ。」退きて、家に待罪した。王黼が奏上して、曹輔を重く責めなければ浮言を止めることができないとし、ついに郴州に編管した。曹輔が言おうとしたとき、必ず罪を得ることを知り、子の紳を召し寄せ、家事を託し、乃ち戸を閉じて疏を草した。夕方に悪鳥が屋極に鳴き、声は紡輪のようであり、不祥であると心に知りながら、顧みなかった。郴州に六年処し、王黼が国を当たっていたため移ることができず、曹輔もまた怡然として意に介さなかった。

靖康元年、召されて監察御史となり、殿中侍御史を守り、左諫議大夫・御史中丞に除された。十日と経たずして、延康殿学士・簽書枢密院事に拝された。間もなく、簽書を免じられた。金人が汴都を囲み、親王・大臣の出盟を求めると、曹輔は尚書左丞馮澥とともに粘罕の軍に使いした。康王が相州に元帥府を開くと、金人が欽宗に詔してこれを召すことを請うたので、乃ち曹輔を遣わして迎えさせた。曹州に至ったが、会わずして帰還し、ついに二帝に従って金軍中に留まった。張邦昌が曹輔の帰還を請うたが、曹輔は帰り、祠を奉ずることを乞うたが、邦昌は従わなかった。康王が南京に次ぐと、邦昌は曹輔を遣わして来見させた。康王が即位すると、曹輔は旧職のままとした。間もなく卒し、詔してその家を厚く恤した。

耿南仲 附

耿南仲は開封府の人である。余深と同年に登第し、両浙常平提挙を歴任し、河北西路に転じ、転運判官・広南東路及び夔州路刑獄提点・荊湖江西両路転運副使に改められ、入朝して戸部員外郎・辟雍司業となり、事に坐して罷免され衢州知州となった。政和二年、礼部員外郎として太子右庶子となり、定王・嘉王侍読に改められ、間もなく太子詹事・徽猷閣直学士を試みられ、宝文閣直学士に改められた。東宮に十年在った。

欽宗が内禅を辞し、疾を得て、福寧殿に出て臥したとき、宰相百官が班を列ねて候し、日暮れても敢えて退かなかった。李邦彦が曰く、「皇太子は平素耿南仲に親しんでいる、召し入れることができる。」南仲と呉敏が殿中に至って侍疾した。明日、帝が即位し、資政殿大学士・簽書枢密院事に拝された。間もなく、簽書を免じられた。帝は南仲を東宮の旧臣として礼重し、宅一区を賜い、尚書左丞・門下侍郎に昇進させた。

金人が再び挙兵して京師に向かい、三鎮を割いて和を請うたが、議者は多く戦守を主とし、ただ南仲と呉幵のみが堅く地を割くことを欲した。康王が軍前に使いするとき、南仲の同行を請うた。帝はその老齢を以て、その子中書舎人延禧に行かせた。金人が洛陽らくように次ぐと、もはや三鎮を言わず、直ちに河を画して界とすことを請うた。ここにおいて大臣を遣わすことを議し、南仲は老を以て辞し、聶昌は親を以て辞した。上は大いに怒り、即ち南仲をして河東に出で、昌をして河北に出でさせ、地を割くことを議させた。

初め、南仲は自ら帝に東宮で事えたことを以て、まず柄用されるべきであると思っていたが、呉敏・李綱が越次して進み、位が己の上にあったため、平らかでなかった。よって毎事異議を唱え、己に附かざる者を擯斥した。李綱らは和すべからずと謂ったが、南仲は力を尽くしてこれを沮み、ただ和議を主としたので、戦守の備えは皆罷められた。康王が相州にいたとき、南仲は金使王汭とともに衛州に向かった。郷兵が王汭を殺そうとしたが、王汭は脱して去り、南仲はただ一人衛州に趣いたが、衛人は受け入れなかった。相州に走り、上旨を以て康王に諭し、河北の兵を起こして京師に入衛させ、因みに連署して募兵の榜を掲げたので、人情ようやく安んじた。二帝が北行すると、南仲は文武官吏とともに進を勧めた。

高宗が即位すると、南仲の為人を軽んじ、その老を請うに因り、罷めて観文殿大学士・杭州洞霄宮提挙とした。延禧は龍図閣直学士として宣州知州となった。やがて言者がその主和誤国の罪を論じ、詔して学士の秩を鐫じ、延禧もまた職を落として祠を与えられた。まもなく南仲を責めて臨江軍居住とした。御史中丞張澂がまた言うには、「南仲は李綱を促して河東を救わせ、以て師の潰えるに至らしめた。これは国事を恤せず、これをもって仇を報いたのである。」帝曰く、「南仲が淵聖を誤らせたことは天下共に知るところ、朕は嘗て手剣を以てこれを撃たんと欲した。」命じて別駕に降授し、南雄に安置したが、吉州に至る途中で卒した。建炎四年、観文殿大学士に復した。

王㝢 附

王㝢は字を元忠といい、江州の人である。父の易簡は資政殿大学士兼侍講であった。王㝢は校書郎・著作佐郎・度支員外郎兼充編修官・国子司業を歴任し、起居舎人となり、中書舎人兼蕃衍宅直講に改められた。欽宗が立つと、給事中を以て命じられ邇英殿経筵侍講を兼ね、吏部侍郎に転じ、礼部尚書・翰林学士に昇進した。

康王が金に使わされたとき、王㝢を尚書左丞として副使とした。王㝢は行くのを恐れ、夢の兆しを口実に免除を乞い、王易簡もまた上書してこれを請うた。上は激怒し、左丞の任命を追って取り消し、単州団練副使に降格し、新州に安置し、併せて王易簡の宮祠を罷免してこれを退けた。建炎四年、賊の馬進が江州を破ると、王易簡ら三百人皆ともに害された。

論じて曰く、三代の後、天下を有して長久なる者は、漢、唐、宋のみ。漢、唐の末世、朋党互いに争い、小人位に在り、然れども猶ほ君子の扶持遷延あり、漸く微に浸り漸く滅ぶ。未だ純粋に小人を用い、主辱り国播うつるに至る、宋の中葉の烈しきが如きはあらず。蔡京は紹述を以てわなと為し、端官を張り、修士を尽くし、上はめ下はじ、その術巧みなり。徽宗も亦頗る悟り、間に鄭居中、王黼、李邦彦の輩を用い、蔡京の柄権をうばう。不肖を以て不肖にうるは、猶ほ野葛を去って烏喙に代うるが如く、何ぞまさらんや。当の時、王、蔡の二党、蔡京にる者は蔡京をかばい、王黼にむすぶ者は王黼をたすけ、省台に援麗えんれいし、たがいに相指嗾しそうし、功をもとめ患を挑み、汴、洛既に震うれば、則ち恇縮きょうしゅくして策無く、いやしくも生をうて和を乞う。彼の邦彦、安中、深、敏の輩、国を誤るの罪、当にそのりょうを正すべし。而るに欽、高二君徒ただ竄典さんてんに従う、刑を失うことまことなり。呉幵は既に推戴に預かり、状を署して乃ち死す、贖うに足る無し。呉敏は小臣を以て上をけずり、面して大臣をめ、斥けらるるに変ぜず、独り終始朋与無し、その賢なるかな。