宋史

列傳第一百一十 趙挺之 張商英 劉正夫 何執中 鄭居中 安堯臣 張康國 朱諤 劉逵 林攄 管師仁 侯蒙

趙挺之

趙挺之、字は正夫、密州諸城の人。進士上第。熙寧年間に学制が建てられ、登州・棣州の二州の教授に選ばれ、德州の通判となった。哲宗即位の際、士卒に緡銭を賜うが、郡守が貪耄で時を過ぎても給せず、士卒は怒り騒ぎ、白梃を手に突入して府に入った。郡守は逃げ隠れ、左右の者は皆走り去った。挺之は堂上に坐し、様子を問い、直ちに庫銭を発し、その首謀者を処断したので、衆は即時に鎮定した。魏の境の黄河が屡々決壊し、議者は宗城県を移転させようとした。転運使が檄を飛ばして挺之に視察を命じたところ、挺之は言う、「県は高原から千年を経ており、水が犯したことはない。今移そうとする所は旧地に及ばず、必ず民の害となろう。」使者は結局移転させたが、わずか二年で、河は果たして新城を破壊し、居民を漂溺してほぼ全滅させた。

召されて館職を試みられ、秘閣校理となり、監察御史に遷った。初め、挺之は德州において、意を迎えて市易法を行った。黄庭堅が徳安鎮を監理し、鎮は小さく民は貧しく、誅求に堪えられないと言った。召されて試験を受ける際、蘇軾は言った、「挺之は聚斂の小人であり、学行に取る所なく、どうしてこの選に堪えられようか。」この時至り、劾奏して蘇軾の草麻に「民亦労止」とあるのを、先帝を誹謗するものとした。既にして蔡確を論じなかったことで坐し、徐州通判となり、間もなく楚州知州となった。

入朝して国子司業となり、太常少卿を歴任し、権吏部侍郎となり、中書舎人・給事中を除された。遼に使いし、遼主が嘗て病み、自ら宴せず、近臣をして館に即かせて賓客を饗応させた。近年の饗応は客省に在り、諸国と同等であったが、挺之が初めてその礼を正すよう争った。

徽宗が立つと、礼部侍郎となった。哲宗を廟に祔するに当たり、宣祖を遷すことを議したが、挺之は言う、「上は哲宗と兄弟、同一世である。宣祖は遷すに当たらない。」これに従った。御史中丞に拝され、欽聖后陵儀仗使となった。曾布が使事を以て職を連ね、禁中の密旨を知り、諭して紹述を建議させた。ここにおいて挺之は元祐の諸人を排撃して余力を遺さず、吏部尚書より右丞に拝され、左丞・中書門下侍郎に進んだ。時に蔡京が独り相となり、帝は右輔を置くことを謀り、京は力を挺之を推薦したので、遂に尚書右僕射に拝された。

既に相となると、京と争って雄を競い、屡々その姦悪を陳べ、且つ去位してこれを避けることを請うた。観文殿大学士・中太一宮使を以て京師に留まった。青州に帰ることを乞い、将に入辞せんとするに、彗星が現れるに会い、帝は黙して咎徴を思い、京の諸蠹法を尽く除き、京を罷め、挺之を召見して言った、「京の為したことは、全て卿の言う通りである。」挺之に特進を加え、仍って右僕射とした。京は崇寧初めに、首めて辺事を興し、用兵して連年止まなかった。帝が臨朝し、大臣に語って言った、「朝廷は四夷と隙を生ずべからず。隙一たび開けば、禍は解けず、兵民は肝脳を地に塗れ、豈に人主の民を愛し物を恤う意ならんや。」挺之は退いて同列に謂って言った、「上の志は兵を息むるに在り、吾曹の将順すべき所である。」已にして京が再び相となり、挺之は仍って大学士を以て佑神観使となった。未幾にして卒す。年六十八。司徒しとを贈られ、諡して「清憲」といった。

張商英

張商英、字は天覚、しょく州新津の人。長身で偉然とし、姿采は玉を峙えるが如し。気を負い俶儻として、一世を豪視した。通川主簿に調された。渝州の蛮が叛き、その酋を説いて降した。辟かれて南川県知県となった。章惇が夔夷を経制するに当たり、郡県の吏を狎侮し、敢えて共に語る者無し。部使者は独り商英のみがこれに抗し得ると考え、檄を以て夔に至らせた。惇が人材を詢ねると、使者は商英を以て告げたので、即ち呼び入れて同食した。商英は道士の服を著け、長揖して坐に就いた。惇は肆意に大言したが、商英は機に随ってこれを折し、落落としてその上に出た。惇は大いに喜び、上客として延いた。帰朝し、王安石に薦められ、因って召対され、検正中書礼房を以て監察御史に擢げられた。

台獄が劫盗を失出した際、枢密検詳官劉奉世がこれを駁し、詔して糾察司に劾治させた。商英は奏して言う、「これは大臣の私忿より出たものであり、願わくは主柄を収還し、耳目の官をして近臣に脅迫されざらしめられよ。」神宗はこれを置いて治めず。商英は遂に奉世が博州の失入囚を庇ったことを言い、因って院吏の徇私十二事を摭い、語は枢臣を侵した。ここにおいて文彦博等は印を上って去らんことを求めた。詔して商英を責めて荊南税監とし、更に十年を経て、乃ち館閣校勘・検正刑房を得た。商英は嘗て舒亶を用いるべしと薦めたが、この時至り、亶は諫院知事となり、商英は婿の王溈之の業を以てこれに示した。亶は繳奏し、事が干請に渉るとし、責めて赤岸塩税監とした。

哲宗の初め、開封府推官となり、屡々執政に詣って進用を求めた。朝廷が民に不便な新法を稍々更新するや、商英は上書して言う、「『三年、父の道を改めざるは、孝と謂うべし。』今先帝の陵土未だ乾かず、即ち変更を議す、孝と為し得んや。」且つ蘇軾に書を移して台に入らんことを求め、その廋詞に「老僧烏寺に住まんと欲し、仏を嗬し祖を罵る」の語有り。呂公著これを聞き、悦ばず。出されて河東刑獄提点となり、連ねて河北・江西・淮南の使を為した。

哲宗親政の際、召されて右正言・左司諫となった。商英は元祐大臣が己を用いざるを積憾し、極力これを攻め、上疏して曰く、「先帝の盛徳大業は、今古を跨ぎ絶するも、司馬光・呂公著・劉摯・呂大防は朋儔を援引し、敢えて譏議を行えり。凡そ詳定局の建明する所、中書の勘当する所、戸部の行遣する所、百官の論列する所、詞臣の作命する所、指擿抉揚し、鄙薄嗤笑せざるは無く、内に於いて陛下の羽翼を翦除し、外に於いて股肱を撃逐し、天下の勢、岌岌として危うきに殆し。今、天青く日明らかなるも、誅賞未だ正しからず。願わくは禁省に下りて前後の章牘を検索し、臣等に付して看詳せしめ、簽掲して上らしめ、陛下大臣と斟酌して可否せられよ。」遂に内侍陳衍を論じて以て宣仁を揺がし、呂后・武后に比するに至り、光・公著の贈諡を追奪し、碑を仆し塚を毀つことを乞い、文彦博が国恩に背負うこと、及び蘇軾・范祖禹・孫升・韓川諸人を言い、皆相継いで譴責を受けた。又言う、「願わくは陛下元祐の時を忘れざれ、章惇汝州の時を忘れざれ、安燾許昌の時を忘れざれ、李清臣・曾布河陽の時を忘れざれ。」その観望捭闔し、険語を以て当世を激怒させること、概ね此の類の如し。

惇と燾が交悪すると、商英は惇を助けんと欲し、燾を傾ける所以を求めた。陽翟の民蓋氏の養子漸は、先に祖母に逐われ、家資を其の女に属せしめ、元豊年間に訴理して直を得ず。商英は其の冤を論じ、漸を導いて執政を遮らせ、及び御史府に詣って燾の姻家と蓋女が道地を為すことを訐らせた。哲宗は商英を直とせず、左司員外郎に徙した。既にして漸と交関した事皆露顕し、責めて江寧酒監とした。起きて洪州知州となり、江淮発運副使となり、入朝して権工部侍郎となり、中書舎人に遷った。謝表に歴として元祐の諸賢を詆り、衆益々其の口を畏れた。徽宗の時、出されて河北都転運使となり、降格されて随州知州となった。

崇寧初め、吏部・刑部侍郎、翰林学士となった。蔡京が相に拝されると、商英は雅に之と善く、恰も制を当てるに当たり、過ぎて褒美した。尋いで尚書右丞に拝され、左丞に転じた。復た京と議政して合わず、数えて京を詆りて「身は輔相と為りながら、志は君に逢うに在り」とし、御史は以て言うべき所に非ずとし、且つ商英の作れる『元祐嘉禾頌』及び司馬光の『祭文』を取り、其の反覆を斥けた。罷めて亳州知州となり、元祐党籍に入れられた。

蔡京が宰相を罷免され、官籍を削られて鄂州知州となった。蔡京が再び宰相となると、散官として帰州・峽州の両州に安置された。大観四年、蔡京が再び追放されると、杭州知州に起用された。宮門を過ぎて対面を賜り、上奏して言うには、「神宗は法度を建て修め、大害を去り大利を興すことに務められました。今もし誠に一つ一つこれを挙行すれば、紹述の美を尽くすことになります。法に弊があれば、変えざるを得ませんが、その意を失わなければ足ります」。留め置かれて資政殿学士・中太一宮使となった。間もなく、中書侍郎に任じられ、ついに尚書右僕射に拝された。蔡京は久しく国柄を盗み、朝廷内外で怨み憎まれたが、張商英が異同を立てられるのを見て、改めて賢人と称され、徽宗は人望に因って彼を宰相とした。当時長く旱魃が続き、彗星が中天にあったが、この夕方、彗星が見えなくなり、翌日、雨が降った。徽宗は喜び、大きく「商霖」の二字を書いてこれを賜った。

商英は政事を行うに公平を旨とし、蔡京は確かに紹述を明らかにしたが、ただそれをもって君主を劫制し、士大夫を禁錮するために借りただけだと言った。ここにおいて大いに弊事を革め、当十銭を改めて泉貨を平らかにし、転般倉を復して直達を罷め、鈔法を行って商旅を通じ、横斂を蠲免して民力を寛げた。徽宗に華侈を節し、土木を止め、僥倖を抑えるよう勧めた。帝はかなり彼を厳しく畏れ、かつて升平楼を修繕した際、主管者に戒めて、張丞相の導騎が至ったら必ず工匠を楼の下に隠し、過ぎ去ったら元のようにせよと命じた。楊戩が節度使に任じられると、商英は言った、「祖宗の法では、内侍は団練使に至ることはない。勲労があって昇進すべきならば、別に昭宣使・宣政使などの諸使を立ててこれを寵するのであって、旄鉞を建てることは聞いたことがない」。結局押し通して下さず、論者はますます彼を称えた。

しかし意は広く才は疎であり、なすべきことすべてを、先ず公座で声を出して誦言したので、不都合な者は予め計略を練ることができた。何執中・鄭居中は日夜その短所を醸し織り、先に言事官にその門下客の唐庚を論じさせ、惠州に竄逐した。郭天信という者がおり、方技をもって太史に隷属し、徽宗が潜邸におられた時、必ず天子の位に就かれると言い、これより次第に眷寵された。商英は僧の徳洪・客の彭几を通じて彼と言語の往来があったが、事が発覚し、開封府で審問された。御史中丞の張克公が上疏してこれを攻撃し、観文殿大学士として河南府知府となり、まもなく崇信軍節度副使に貶され、衡州に安置された。天信もまた斥けられて死んだ。蔡京はついに再び用いられた。

間もなく、太学の諸生が商英の冤罪を誦すると、蔡京は恐れ、自便を許すよう請わせた。続いて故官職に復した。宣和三年に卒去、七十九歳。少保を追贈された。

商英が宰相となったのは、ちょうど蔡京の後に当たり、その政を少し変えたので、譬えば飢えた者には食が易いが如く、故に忠直の名を蒙った。靖康の時に司馬光・范仲淹を褒め顕彰し、商英にも太保を追贈した。紹興年間中、また「文忠」の諡を賜ったが、天下は皆然りとせず。兄:唐英。

兄 唐英

唐英、字は次功。若くして苦しみを攻めて書を読み、一年中肉の味を知らぬほどであった。進士に及第し、翰林学士の孫抃がその『正議』五十篇を得て、馬周・魏元忠も多くはないと思った。賢良方正に試すよう推薦したが、就かなかった。穀城県令に転任。県の園では毎年薑を畑にし、種を民に貸し、古いものを返させ、また配売して利息を取っていたが、銓曹はこれを富県と指した。唐英が着任すると、その園を空け、千株の柳を植え、その中に柳亭を作った。聞く者は諮り羨った。

英宗が帝位を継がれると、唐英は『謹始書』を上奏して言うには、「人の後となる者は子たり、他日に必ず漢の定陶王の故事を引いて宸聴を惑わす者あらんことを懼れ、漸を杜がんことを願う」。既にして濮議が果たして起こった。帝が御不となられ、皇太后が垂簾すると、また上書して潁王を皇太子に立てるよう請うた。神宗が即位し、その人を知り、殿中侍御史に抜擢した。入対し、帝が何故まだ緑の衣を着ているのかと問うと、答えて言うには、「先に確かに得ましたが、回して臣の父に授けました」。帝はその孝を嘉し、五品の服を賜った。

帝はまさに精励して治を図り、人を用いることを急いでいた。唐英は言う、「江寧府知府の王安石は経術道徳に優れ、陛下の左右に在るべきです」。また宗室の禄が多く費用が巨額であることを論じ、服属の差によって減殺すべきであるとし、天下が差役の不均を苦しんでいるので、どうして民力を寛げ民労に代わるものを思わないのかと言った。その後おおよそ施行された。帝はまさに彼を用いようとしたが、父の喪で去り、間もなく卒去した。

唐英は史才があり、かつて『仁宗政要』・『宋名臣伝』・『蜀檮杌』を著し、世に行われた。

劉正夫

劉正夫、字は德初、衢州西安の人。冠に未だ至らぬうちに太学に入り、名声があり、范致虚・呉材・江嶼とともに「四俊」と号された。元豊八年、南省で奏名が優選にあったが、高魯王の諱に犯し、凡そ五人皆罷黜されるべきであった。宣仁后は言う、「外家の私諱が頒布されて未だ久しからず、寒士を妨げるべからず」。末級に置くよう命じた。久しくして太学録・太常博士となった。母の喪が終わり、御史中丞の石豫が推薦し、召されて闕に赴き、途中で左司諫に任じられた。

当時まさに蔡邸の獄を究めていた。正夫が入対し、徽宗がこれについて語ると、徐ろに淮南の「尺布・斗粟」の謡を引いて答えた。帝は感動し、その獄を解散し、蔡王を初めのように遇した。他日、正夫に言う、「兄弟の間は、人の言い難きところである。卿独り能くこれに及ぶ。後必ず公輔とならん」。また言う、「元祐・紹聖の修めた『神宗史』は、互いに得失あり。その説を折中し、万世に信を伝うべきである」。ついに詔して刊定させ、起居舍人を編修官とした。一月も経たず、中書舍人に遷り、給事中・礼部侍郎に進んだ。

蔡京が相位を占めると、正夫はこれに附翼せんと欲し、上奏して言う、「近く命官して紹述の先志及び施行の政事を纂録せしめました。願わくはその間に力を陳せん」。詔してこれに閲詳させた。蔡京が罷免されると、正夫はまた鄭居中とともに密かに蔡京を援けた。蔡京は劉逵を骨髄に次ぐほど恨んだが、劉逵は正夫と親しく、蔡京はその助けに頼りつつも、また彼を憎んだ。章綖の銭鋳造の獄の供述が正夫に及んだため、当時遼から使いして帰還したところ、蔡京は有司に追逮させた。帝はその情を知り、ただ二階級貶した。蔡京はまた彼を成都に出そうとしたが、入辞の際、留めて翰林学士とした。蔡京はますます平らかでなく、事を以て中傷しようと謀った。春宴の楽語を作り、「紫宸朝罷袞衣閑」の句があった。蔡京の党の張康国が密かに帝に白して言う、「袞衣はどうして閑たり得ようか」。ついに龍図閣直学士・河南府知府に改めた。

召されて工部尚書となり、右丞に拝され、中書侍郎に進んだ。太学の諸生が楽を習い成ると、蔡京は彼らに官を与えようとした。正夫は言う、「朝廷は人材を長く育成し、時に用いられることを規とする。しかるに伶官と歯し、これをもって策名するは、士子の羞と為るを得ざらんや」。東封の儀物が既に具わると、正夫は間を請い、力陳して不可とし、帝は皆これらを止めさせ、ますます彼が蔡京と同ぜざることを喜んだ。

政和六年、特進・少宰に抜擢して任じられた。半年ほどで病に罹り、三度上表して老齢を理由に退任を請うたところ、安化軍節度使・開府儀同三司の官を帯びて致仕することとなった。病が少し快方に向かうと、東へ帰ることを願い出た。詔により輿で内殿まで運ばれ、長男の皁民が支えて座らせた。ゆったりと燕雲の地の問題について語り、『臣は書生から身を起こし、軍旅のことは学んでおりません。しかし両朝の信誓は久しく、四海の生民は多い。どうか深く聖慮を留められますよう』と言った。翌日、安静軍の節度使に移り、中太一宮使を充てられ、康国公に封じられた。出発に際しては、詩と硯筆・図画・薬餌・香茶の類を厚く賜った。正夫は詩を献じて謝し、帝もまた和詩を付けてその帰郷を栄えた。盱眙に至り、病が重篤となると、子弟に遺書を作らせ、自ら『留神根本、深戒持盈』の八字を書き、そのまま卒去した。享年五十六。太保を追贈され、諡は「文憲」、さらに太傅を追贈された。

正夫は博士から都に入り、次第に宰相にまで至った。時流に応じて上下し、禄を保ち権勢を養うことができた。性は吝嗇で、財が足りなくなることを恐れた。晩年、杭州の万松嶺に邸宅を築き、御筆を奉る楼閣を建てることを名目として、その傍らの軍営や民家をことごとく取り上げたため、議論する者はこれを非難した。帝の眷顧は衰えず、皁民を兵部侍郎とし、少子の阜民を徽猷閣待制とした。

何執中

何執中、字は伯通、処州龍泉の人である。進士の高等に及第し、台州・亳州の二州の判官に任じられた。亳州は太守が頻繁に交代し、政務が治まらなかった。曾鞏が着任すると、大いにこれを立て直そうとしたが、諸僚を見渡しても信頼できる者がいなかった。執中は一目で気に入り、事の大小を問わず、全て彼に委ねて裁決させた。妖術に関する事件が長く決着せず、連座する者が次第に増えていた。執中が囚人たちを訊問し、彼らが互いに話すのを聞いていると、牛や羊の角のことを皆「股」と言っていた。その理由を問うと、口を閉ざして言おうとせず、互いに顔色を変えて見合わせた。執中は『これは必ずや師の張角の名を避けているのだ』と言い、囚人たちは即座に頭を地に叩きつけて罪を認めた。蔣之奇が淮甸に使者として赴き、強明と号して、官吏たちはその風聞に震え恐れたが、執中を見て喜んで言った。『一州六県、君がいるからこそ頼りになるのだ』。海塩県知事として、政務を行うに当たり後先の見通しがあり、県民はその十の異事を記録した。

入朝して太学博士となったが、母の喪に服して官を去り、蘇州に寓居した。隣家が夜半に火事となった時、執中は独り住まいで、慌てふためいて逃げ去ることができず、柩を撫でて慟哭し、共に焼け死ぬことを誓った。見物人はその孝心を悲しみ、その危難を危ぶんだが、しばらくして火が退き、柩は無事であった。紹聖年間、五王が傅役に就くこととなり、記室に選ばれ、侍講に転じた。端王が即位すると、これが徽宗である。宝文閣待制に超擢され、中書舎人・兵部侍郎・工部尚書・吏部尚書兼侍読に遷った。四選(吏部の選任事務)の案籍(記録文書)は、吏人が多く家に蔵して、文書を弄り賄賂を取っていた。執中は庫に架閣を設け、官を命じてこれを管理させるよう請うた。その後、六曹(六部)皆この法を模倣した。

蔡京が上書した者を邪等として名簿に登録した際、当初は朝覲や入都の禁令はなかったが、執中がこれを申し立てて言上し、さらに在京の職禄に任じられている者は皆罷免・追放するよう請うた。辟雍が完成すると、執中は学殿を開放し、都の人士男女に自由に見学させよと請うたが、大いに士論から貶められた。

崇寧四年、尚書右丞に任じられた。大観初年、中書侍郎・門下侍郎に進み、累官して金紫光禄大夫となった。ひたすら蔡京に謹んで仕え、三年にして、遂に代わって尚書左丞となり、特進を加えられた。任命の制書が下ると、太学の諸生陳朝老が宮門に赴き上書して言った。『陛下は蔡京の奸悪を知り、その相印を解かれました。天下の人は鼓舞し、生まれ変わったかのようでした。ところが執中を宰相とされると、朝廷内外は黙然として失望いたしました。執中は蔡京のように国を蝕み民を害する非法を恣に行うことは敢えてしないでしょうが、しかし碌々たる凡庸の質で、初めから人に勝る点はありません。天下がここまでに敗壊しておりますのは、人の一身に譬えれば、臓腑が病毒を受けて既に深く、どうして凡庸な医者で起こすことができましょうか。執中は縁故にすがり攀じ登って、二府の地位に至ったことも、既に大いに幸運なことです。急に彼に経国体・元化を補佐させようとされるのは、蚊に山を背負わせるようなもので、その任に堪えぬことが多いでしょう』。上疏は奏上されたが省みられず、かえって眷顧の情はますます異例のものとなった。初め、信陵坊に邸宅を賜ったが、狭小であるとして、さらに金順坊の甲第に移された。嘉会成功閣を建てると、帝は自ら巨大な扁額を書いて寵愛を示した。

執中は蔡京と共に宰相となり、あらゆる営みや施策に参与して議論したが、少しも建白するところがなかった。張商英が政事を執ると、執中は彼が己の上に出るのを憎み、鄭居中と結託して彼を排斥した。陳瓘が台州にいた時、執中は左遷された者である石悈を州知事に起用し、彼に『尊堯集』を脅し取らせ、必ずや瓘を死に至らしめようと謀った。瓘は死なず、執中は怒って悈を罷免した。

政和二年、大長公主が喪に服したため、上元節の端門での灯り見物が取り止めとなった。執中が言上した。『長公主の故をもって衆情を塞ぐのは宜しくありません。特に日にちをずらすことを願い、民と楽しみを共にする旨を明らかにされますよう』。帝はその請いを重んじて逆らうことをためらい、五日間延期することを命じた。『哲宗史紀』編修の提挙を務めた恩賞により、少保を加えられた。太清楼の宴に参じ、白玉の帯を賜った。折しも宰相の官名を正すこととなり、少傅に転じ、太宰となった。さらに少師に遷り、栄国公に封じられた。

執中は一紀(十二年)にわたり政務を補佐し、年齢はますます高くなった。五年、病臥して重篤となると、休暇を賜った。ある日、朝廷に出仕すると、六参(月六回の参内)と起居(日常の参内)のみに赴くことを命じられ、退出して省中の事務を執った。翌年、太傅の官をもって邸宅に退くことを許され、朔望(月二回)の朝参を許され、儀仗や物資・俸給は一切、在位中と同様であった。入見すると、帝は言った。『宰相の位から臣下として致仕するのは、数十年このかたなかったことだ』。答えて言った。『昔、張士遜もまた旧学の縁で際遇し、太傅をもって致仕いたしました。臣とちょうど同じでございます』。帝は言った。『当時の恩礼は、恐らくかくの如くではなかったであろう』。執中は頓首して謝した。政府にあっては、辺境の吏民に事を起こさぬよう戒め、改作を重んじ、人材を惜しみ、民力を寛げた。富貴に居ながらも、貧賤の時を忘れたことはなかった。銭一万緡を投じて義荘を設け、宗族を養った。性質はまた謹み畏れるところがあり、君主の意向を迎え順い、太平を賛美し飾る点では、終始一貫しており、自らこれを制することができなかった。

卒去した。享年七十四。帝は直ちにその家に行幸し、その病を見舞えなかったことを悔やみ、三日間朝政を停めた。太師を追贈し、清源郡王に追封し、諡を「正献」といった。

鄭居中

鄭居中、字は達夫、開封の人である。進士に及第した。崇寧年間、都官礼部員外郎、起居舎人となり、中書舎人・直学士院に至った。初め、居中は自ら貴妃の従兄弟であると称した。貴妃は藩邸(皇子の邸宅)から後宮に入り、家柄は微賤であったため、また居中を頼みとして重んじ、これによって次々と抜擢された。折しも貴妃の父鄭紳の客である祝安中が、上書して誹謗の言葉に及んだため、言事の者は居中にも言及し、和州知州に左遷され、潁州に移された。翌年、元の官に復帰し、給事中・翰林学士に遷った。大観元年、同知枢密院事となった。当時、貴妃の寵愛は後宮で第一であったが、居中には頼るところがなく、宦官黄経臣の策を用いて、外戚が政務を執ることを理由に辞任を願い出た。資政殿学士・中太一宮使兼侍読に改められた。

蔡京は星象の変異により免官となり、趙挺之が宰相となり、劉逵と謀って蔡京の行った政務をことごとく改めようとした。間もなく、徽宗は急激な改革を大いに後悔したが、外には知る者はいなかった。居中は鄭紳の元を往来し、このことを知ると、直ちに入見して言上した。『陛下が学校を建て、礼楽を興して太平を飾り、居養院・安済院を設けて窮困を救済されたことが、どうして天に逆らい、威譴を招くことがありましょうか』。帝は大いに悟った。居中は退出して礼部侍郎劉正夫にこのことを語ると、正夫も続いて対面を請い、同じことを言上した。帝の意向は再び蔡京に向かった。蔡京が再び政権を得たのは、この二人の助力が多かったのである。

鄭居中は厚く報いを求め、蔡京は枢密は本兵の地であり、三省とは異なり、親族を用いることに嫌疑はないと述べた。呉居厚は権勢を恃み、強く前説に抗したため、蔡京の言は効を奏さなかった。居中は蔡京が己を援けぬと疑い、怨み始め、張康国と結んで蔡京を離間した。都水使者の趙霖が黄河で二つの頭を持つ亀を得て、瑞祥として献上した。蔡京は「これは斉の小白(桓公)の謂う『象罔』であり、これを見て覇者となるものである」と言った。居中は「頭はどうして二つあるべきか。人皆驚き怪しむのに、蔡京のみがこれを主張するのは、測り難いものがある」と言った。帝は亀を金明池に棄てるよう命じ、「居中は我を愛している」と言い、遂に前命を申し立て、知院事に進めた。四年、蔡京はまた罷免された。居中は自ら必ず宰相を得ると期したが、帝はこれを察知して用いなかった。妃が中宮に正位すると、また嫌疑により、観文殿学士に罷められた。

政和年間、再び枢密院を知り、官は累進して特進に至った。時に蔡京は三省を総治し、益々法度を変乱させた。居中は毎度帝に言上し、帝もまた蔡京の専横を憎み、まもなく居中を少保・太宰に拝し、これを伺察させた。居中は紀綱を存し、格令を守り、僥倖を抑え、淹滞を振るい、士論は一致して治を望んだ。母の憂に服し、直ちに詔により起復した。一年余りして、少傅を加えられ、終喪の請いを得た。喪服を除くと、威武軍節度使として佑神観使となった。還って枢密院を領し、少師を加えられた。連続して崇国公・宿国公・燕国公の三国公に封ぜられた。

朝廷は使者を遣わし金と契丹を挟撃し、燕雲を回復することを約し、蔡京・童貫がこれを主導した。居中は強く不可を陳べ、蔡京に言った「貴公は大臣として国の元老でありながら、両国の盟約を守らず、軽々しく事端を造るのは、誠に妙算ではない」。蔡京は「上は歳幣五十万を厭うゆえ、このようにするのだ」と言った。居中は「貴公は漢代の和戎と用兵の費を思わぬのか。百万の生霊を肝脳塗地にさせれば、貴公が実にそれを行うのである」と言った。これにより議論はやや止んだ。その後、金人がしばしば攻撃し、契丹は日に日に逼迫し、王黼・童貫が再び挙兵を議した。居中はまた「災いに乗じて動くべからず、その自ら斃れるを待つべし」と言ったが、聞き入れられなかった。燕山が平定されると、太保に進位されたが、自ら無功を陳べて拝命しなかった。

入朝し、急に病に遇って邸に帰り、数日後に卒した。六十五歳。太師・華原郡王を追贈され、諡は「文正」であった。帝は自らその隧道に「政和寅亮醇儒宰臣文正鄭居中之墓」と表した。

居中が初めて仕えた時、蔡京は即座に彼に廊廟の器有りと推薦した。既に合わず、遂に蔡渭がその父蔡確の功状を理めることに因り、王珪を追及した。居中は王珪の婿であったので、故にこれを借りて彼を揺るがそうとしたが、結局害することはできなかった。

子の修年・億年は共に侍従に至った。億年は靖康の難に遭い、金に没入された。後に劉豫に仕え、晩年に南帰を得た。秦檜は妻方の親族として彼を資政殿大学士に抜擢し、その位は執政に準じた。秦檜が死ぬと、彼もまた撫州に流されて死んだ。

時にまた安堯臣という者がおり、やはり燕雲の事について上書して論じた。その言は次のようであった。

「宦官が専命し、大謀を唱え、燕雲の役が興れば、辺境の隙間は遂に開かれる。宦官の権力が重ければ、皇綱は振るわない。昔、秦の始皇帝しこうていが長城を築き、漢の武帝が西域を通じ、隋の煬帝が遼左に師を出し、唐の明皇が幽薊の寇を招いた、その失はあのようであった。周の宣王が玁狁を伐ち、漢の文帝が北辺を備え、元帝が賈捐之の議を納れ、光武帝が臧宮・馬武の謀を斥けた、その得はこのようであった。藝祖(太祖)は乱を撥ね反正し、自ら甲冑を擐げ、当時の将相大臣は皆天下を取るに与かった者である。どうして勇略智力をもって幽燕を下せなかったのか。ただ、区区の地は契丹の必ず争うところであり、我が民を重ねて鋒鏑に困らしめるを忍びなかったのである。章聖(真宗)の澶淵の役は、これと戦って勝ちながら、その和を聴き入れたのも、本を固め民を息まんがためであった。

今、童貫は深く蔡京と結び、共に趙良嗣を納れて謀主と為し、故に燕を平らげる議を建てる。臣は恐れる、異時に唇亡びて歯寒し、辺境に乗ずべき隙有り、狼子が鋭気を蓄え、隙を伺ってその欲を逞しくすることを。これが臣の日夜寒心する所以である。伏して願わくは、祖宗の積累の艱難を思い、歴代君臣の得失を鑑み、辺境の隙間を杜塞し、務めて旧好を守り、外夷に間を乗じて中国を窺わせず、上は宗廟を安んじ、下は生霊を慰めんことを」。

徽宗はこれを然りとし、堯臣に官を与えるよう命じたが、後に竟に姦謀によって奪われた。堯臣は嘗て進士に挙げられず、蓋し章惇の族子であった。

論じて曰く、君子と小人は、猶お氷炭の一日も処すべからざる者なり。趙挺之は小官たりし時、薄く才具有り、熙寧新法の行わるるに、迎合して事を用い、元祐の更化には、諸賢に鄙棄さるる宜しきも、紹聖に至りては、首めて紹述の謀を唱え、正人を牴排し、至らざる所無し。その蔡京を論ずるは、権寵を攘奪するの計に過ぎず、所謂「楚固より失と為すも、斉亦未だ得と為さず」なり。徽宗は蔡京の顓任すべからざるを知り、乃ち張商英・鄭居中ら輩の敢えて蔡京と異なる者を参じて用いた。深く知らず、二人の者は、向背離合、利の在る所を視て、亦た公議に何か有らんや。張商英は傾詖の行いを以て、忠直の名を窃み、没歯猶お褒称せらる。その世を欺くこと此の如し。何執中は旧学に夤縁し、両府の位に致り、建明する所無く、惟だ冒嫉に務め、石悈を用いて陳瓘に迫り『尊堯集』を取らせ、因りて以て瓘を殺さんと欲するに至る。何を為す者ぞ。宣和・政和の命相、若し人の如きを得ば、尚お治を望まんや。劉正夫の生平の為す所は、睒申として正邪の間に出没し、商英の徒なり。唐英は清才有りて寡く失徳有らず、独り王安石を推薦したことを咎めらるべきも、然れども安石未だ相たらざる時、正人端士孰れかこれと与からざりし。又何ぞ唐英を責めんや。

張康国

張康国、字は賓老、揚州の人。進士に及第し、雍丘県知事となる。紹聖年間、戸部尚書蔡京が役法を整備するに当たり、利害参詳を以て推薦し、両浙常平を提挙してこれを推行させた。豪猾は風を望んで斂服した。倉を発して荒を救い、江南より食を就ける者数万口を活かした。福建転運判官に転ず。崇寧元年、入朝して吏部・左司員外郎、起居郎となる。二年、中書舎人となる。徽宗はその詞章の能を知り、試みずして命じた。翰林学士に遷る。三年、承旨に進み、尚書左丞を拝し、その兄康伯を代わりに学士とした。まもなく枢密院事を知る。康国は外官より郎となり、三年に満たずして此の地位に至った。

初め蔡京に因って進み、蔡京が元祐党籍を定め、講議司を看詳し、章牘を編彙するに、皆密議に預かった。故に蔡京は汲々として引き援け、帝もまた器重した。志を得るに及び、次第に崖異を為した。帝は蔡京の専愎を憎み、密かにその姦を沮ませようとし、嘗て宰相にすると約した。この時、西北の辺帥は多く部内の好官を自ら辟置し、力を以てし才を以てせず。康国は「塞に並ぶ者は人を択び以て憂顧を紓ぐべし、奈何ぞ善しとする所を私せんと欲するや」と言い、乃ち欠員に随い選用し、格として定めた。

蔡京は御史中丞呉執中に康国を撃たせようとしたが、康国は先んじてこれを知った。朝に奏事し、帝に留白して言った「執中は今日入対し、必ずや蔡京のために臣を論ずるでしょう。臣は位を避けんことを願います」。既にして執中が対し、果たして其事を陳べた。帝はこれを叱り去った。他日、康国は朝退に因り、殿廬に趨ったが、急に疾を得、天を仰いで舌を吐き、待漏院に舁せられて卒した。或いは中毒を疑うという。五十四歳。開府儀同三司を贈られ、諡は「文簡」といった。康伯は吏部尚書に終わった。

朱諤

朱諤、字は聖與、秀州華亭の人、初名は𥿈。進士第二となり、忠正軍推官に任じられる。崇寧初年、太常丞より殿中侍御史に抜擢され、侍御史・給事中に遷る。同黨籍人の姓名と同姓であったため、名を改める。御史中丞に進み、入朝して謝す。徽宗が「今朝廷は肅清し、上下事無し。審重にして以て朕が意に稱すべし」と言うと、對えて曰く「此前の中執法は類く職守を知らず、言事多く妄りに至り、天津橋を過ぎて汴堤の一角が墊陷するを見、修葺を乞う。かくの如き細故、何ぞ論ずるに足らんや」。帝曰く「然り。比の石豫・許敦仁の妄發、皆かくの如し」。諤遂に奏して「願わくは神宗の故事の如く、聽政の餘り、內閣を開き、群臣を延いて、從容として道を論ぜしめん」と。

又言う「陛下の手詔屢下し、惻怛として治まらんことを願う。然れども吏の奉行者は多く苟簡に安んじ、或いは二三を懷き、柅置して行わず、德音善教の下達する由無からしむ。願わくは使者を分命して諸道を刺舉せしめ、令を受けて行わざる者及び令を行いて盡さざる者有らば、古の留令・虧令の罪の如く論じ、則ち令出でて朝廷尊からん。元祐の紛更、凡そ熙寧・元豐に得罪する者は、是非を問わず、輒ち冤訴を陳べ、自ら過無き地に歸し、先朝の刑を失うことを彰わし、姦臣に希合し、規りて進用を求む。門下侍郎許將は頃に御史獄に下り、抗章して云う『絲毫自ら其の無事なるを知るも、父子相係いて囚と為り、屬吏十六人を追い、病者百日を繫がれ、終に坐すべき罪無く、遂に不實の刑を加う』と。夫れ屬吏を追うことかくの如く多く、病者を繫ぐことかくの如く久しくして、卒之に坐すべき無きに至るは、則ち先帝の用いし刑何ぞや。將は哲廟の表に於いては、泛く平詞を為す。宣仁太后の前に至りては、則ち冤を銜み痛みを負う。其の辭かくの如し、陛下の紹述成功に於いて、少なきを損うること無からんや」。詔して將を河南に出だす。

六察官は稽違を彈治す。近年は察事多き者は輒ち賞を推し、僥求の敝有り。諤は賞を罷め、各々職分に安んぜしむるを乞う。從う。俄かに侍讀を兼ね、兵・禮・吏三部尚書に徙る。大觀元年、右丞に拜す。三月居て卒す。年四十。光祿大夫を贈られ、諡して「忠靖」と曰う。

諤は蔡京の門より出で、善く附合し、建白する所有ること能わず。既に死すと、京其の墓に誌す。

劉逵

劉逵、字は公路、隨州隨縣の人。進士高第となり、越州觀察判官に調う。入りて太學・太常博士、禮部・考功員外郎、國子司業と為る。崇寧中、連ねて秘書少監・太常少卿・中書舍人・給事中・戶部侍郎に擢でられ、高麗に使いし、尚書に遷る。兵部より樞密院同知に繇り、中書侍郎に拜す。

逵に他才能無し。初め蔡京に附くを以て故に躐進す。京は彗星現るるを以て相を去る。而して逵は中書に貳し、首めて徽宗に勧めて『元祐黨碑』を碎き、上書邪籍の禁を寬ぐ。凡そ京の行いし悖理虐民の事、稍稍として澄正す。逵は趙挺之と同心なり。然れども挺之は智多く、後患を慮り、每に建白するに、務めて其の端を開き、して逵をして其の説を終わらしむ。逵は自ら以て功と為さんと欲し、情を直くして顧みず。歳未だ滿たざるに、帝は逵の政を擅にするを疑い、而して鄭居中・劉正夫の策售る。

帝意既に移る。是に於いて御史余深・石公弼、逵を論じて「專恣反覆し、間に乘じて巘に抵り、紹述の良法を盡く廢す。丞相を愚視し、同列を陵蔑す。凡そ啟用する所は、多く邪黨學術を為す者及び邪籍中の子弟を取る。其の婦兄章綖を庇い、之をして盜鑄せしむ」と。罷めて亳州知州と為す。

京復た相と為り、再び鎮江節度副使を責め、安州居住とす。京再び星變を以て去り、稍々起きて杭州知州と為り、資政殿學士を加う。醴泉觀使を以て召す。都に及んで卒す。年五十。光祿大夫を贈られる。

林攄

林攄、字は彥振、福州の人、蘇に徙る。父は邵、顯謨閣直學士。攄は蔭を用いて敕令檢討官に至る。蔡京は熙寧・元豐の故事を講明し、引いて以て屬と為し、屯田・右司員外郎に遷す。

時に朝士を遣わして諸道を察せしむ。攄は河北に使う。入りて辭し、言う「大府は帥を擇ぶべく、邊州は守を擇ぶべし。西山の木は采伐すべからず。保甲に藝有る者は宜しく諸朝に貢すべし。驕兵は宜しく更戍せしむべし。錢貨・文書疆外に闌出する者は宜しく遏絕すべし」。徽宗喜びて曰く「卿の陳ぶる所、已に河朔の利害を盡くす。行くに庸い無し」。進士第を賜い、起居舍人に擢で、中書舍人に進む。俄かに學士院を直し、禁林の官乏しからずと雖も、帝特命し、遂に翰林學士と為る。

初め、朝廷數たび西夏の地を取り、夏は遼に援を求む。遼は請命を為す。攄は報聘す。京密かに使いて之を激怒して以て釁を啟かしむ。境に入り、盛氣を以て迓者を待ち、儀に小しく如かざれば、輒ち辨詰す。遼主に見え、始めて跪いて書を授け、即ち抗言して夏人の罪を數え、北朝の能く責を加えずして反って之が為に請うと謂う。禮は意に出ず、遼の君臣答うる所を知らず。辭するに及び、遼は攄をして附奏せしめ、進築せる夏人の城柵を還すを求む。攄の答語復た巽ならず。遼人大いに怒り、客館の水漿を空くし、煙火を絕ち、舍外の積潦に至るまで亦た矢溲を以て汚し、饑渴して得る所無からしむ。是の如く三日にして、乃ち還し遣わす。凡そ饔餼・祖犒皆廢す。歸りて復命す。議者、怒鄰して事を生ずと以為うも、猶お禮部尚書を除く。既にして遼人失禮を以て言う。出でて潁州知州と為る。

尋ねて開封尹に召す。大駔賈錢を負い久しく償わず。一日、盡く當十錢を輦して來る。賈疑いて納れず。駔之を訟う。攄馳せて蔡京に詣り、問うて曰く「錢法變わるや」。京色動きて曰く「方に之を議す。未だ決せず」。攄曰く「令未だ布かずして賈人先ず知る。必ず表裏を為す者有らん」。退きて之を鞫う。省吏の主名を得て、法に置く。

張懷素の妖事が発覚し、林攄は御史中丞余深及び内侍と共に雑治し、民と士の交関した書疏数百通を得たが、攄は悉く焼蕩して反側を安んずることを請い、衆は長者と称した。然るに蔡京は張懷素と最も密に交遊しており、攄は実に蔡京の為に地歩を設けたのである。蔡京は深くその恩を徳とし、獄を鞫するに明允なるを以て、秩二等を加えられた。兵部尚書に改め、同知樞密院・尚書左丞・中書侍郎に進んだ。大観元年春より二年五月に至るまで、朝散大夫より九遷して右光祿大夫に至った。

集英殿において貢士を臚唱するに当たり、攄が姓名を伝える役であった。『甄盎』の字を識らず、帝笑って曰く、「卿誤れるか」と。攄は謝せず、却って同列を詆毀する言葉を発した。御史がその寡学にして倨傲不恭、人臣の礼を失うと論じ、滁州知州に貶黜された。言者が飽きず、罷免され、洞霄宮提挙となった。越州・永興軍に起用されたが、皆親の年高きを以て辞した。端明殿學士を拝し、久しくして揚州知州となり、政は察察として聞こえ、大侠を鋤き、汚吏を縄し、下民敢えて欺かず。行商が逆旅に寓し、朝に出でて帰らず、館人が告げると、攄曰く、「此れ遠からざるべし、或いは其の貨を利して之を殺したるか」と。指蹤して物色するに、溝中に屍を得、果たして城民張の為す所なり。

大名府に転じた。道中闕を過ぎ、帝に言上して曰く、「近頃遼に使いし、其の国中の携貳するを見る。若し兼ねて之を有たば、勢い不可なること無からん」と。攄は蓋し曩の辱め有りし故に、怨みを修めたるなり。其の後の北伐は、蓋し此れに兆す。観文殿學士を加えられ、慶遠軍節度使を拝した。言者復た之を論じて罷免す。姑蘇に還り、瘍が首に生じて卒す。年五十九。帝其の奉使の勤めを念い、開府儀同三司を追贈し、子の偉を直秘閣に録した。数月にして偉死し、嗣遂に絶ゆ。靖康元年、蔡京の死党を以て、節度副使に追貶された。

管師仁

管師仁、字は元善、処州龍泉の人。進士第に及第し、広親・睦親宅教授となった。澧州通判、建昌軍知軍を歴任し、善政有り。右正言・左司諫に抜擢された。蘇軾・蘇轍が熙寧の政を深く毀るを論じ、其の門下の士たる吏部員外郎晁補之の輩は朝廷に在るべからずとし、逐い去った。河北の濱・棣諸州は歳々水害を受け、民流れて未だ復せず、租賦故に在り。師仁は悉く蠲減し、以て之を綏徠することを請い、一方其の賜に頼った。起居郎・中書舍人・給事中・工部侍郎に遷った。選曹の吏多く法を撓して過ちを為す。師仁暫く領するを摂り、其の姦を発し、数人を罪に抵らしめ、士論之を称した。吏部に改め、刑部尚書に進み、樞密直學士を以て鄧州知州となったが、未だ行かず、揚州に改め、又定州に転じた。

時に承平百余年、辺備整わず、而して遼の横使再び至り、西人の為に侵疆を請う。朝廷師仁に設備を詔す。至れば則ち令を下して陴を増し湟を浚い、甲胄を繕葺す。僚吏懼れ、裁する所を知らず。師仁予め計度し、一日にして衆十万を挙げ、転盼の間に成り、外間知る者無し。ここに於いて日々賓客と燕集し、以て閑暇を示し、敵をして疑わしめず。帝手書の詔を以て獎激す。吏部尚書に召され、俄に同知樞密院となる。僅か両月、病む。資政殿學士・佑神觀使を拝す。卒す。年六十五。正奉大夫を贈られた。

侯蒙

侯蒙、字は元功、密州高密の人。未だ冠せずして俊声有り、義に急にして施しを好み、或いは一日に千金を揮う。進士及第し、寶雞尉に調じ、柏鄉県知県となる。民の訟は皆庭に於いて決し、罰を受くる者怨みず。転運使黄湜其の名を聞き、将に之を推轂せんとし、行臺に詣りて事を白すべく召す。蒙は越境を以て肯へて往かず。湜怒り、他日県を行き、文書を閲理し、翻って其の罪を致さんと欲す。既にして一疵も指す可き無く、始めて賓礼を以て見え、曰く、「君真に能吏なり」と。諸使者を率いて合薦す。襄邑県知県に転じ、監察御史に抜擢され、殿中侍御史に進む。

崇寧年間星変有りて言を求めしに、蒙は十事を疏上し、曰く冗官を去り、諫臣を容れ、嫡庶を明らかにし、賢否を別ち、幸冀を絶ち、濫恩を戒め、疲民を寛め、妄費を節し、戚里に事に預からしめず、閹寺に権を仮さず、と。徽宗聴納し、大用の意有り。侍御史に遷る。

西将高永年羌に死す。帝怒り、親しく五路将帥劉仲武等十八人の姓名を書き、蒙に勅して秦州に往きて逮治せしむ。既に行きしに、給事中を拝す。秦に至り、仲武等囚服して命を聴く。蒙之を曉して曰く、「君輩皆侯伯なり、獄吏を以て君を辱しむるに庸い無し。第に実を以て対せよ」と。案未だ上らざるに、又御史中丞を拝す。蒙奏言して曰く、「漢武帝王恢を殺すは、秦繆公の孟明を赦すに如かず。子玉縊れて晉侯喜び、孔明亡びて蜀国軽し。今羌吾が一都護を殺すに、使って十八将之に繇りて死せしむるは、是れ自ら其の支體を艾るなり。身病まざらんと欲して、得んや」と。帝悟り、釈して問わず。

刑部尚書に遷り、戸部に改む。比歳郊祭先期して告辦す。尚書輒ち執政す。是に至り、帝密かに之を諭す。対えて曰く、「財利を以て君に要して進むは、臣の敢えて為す所に非ず」と。母喪に服し、服除け、故官に帰り、遂に同知樞密院となる。尚書左丞・中書侍郎に進む。先だって、御史中丞蔡薿張商英の私事を詆毀すること甚だ力有り。旨有りて廷辨せしむ。蒙曰く、「商英は罪有りと雖も、宰相なり。蔡薿は言官と雖も、従臣なり。之をして廷辨せしむるは、豈に国體を傷つけざらんや」と。帝然りと為す。一日、帝従容として問う、「蔡京は何如なる人ぞ」と。対えて曰く、「京をして其の心術を正しくせしめば、古の賢相と雖も何を以てか加えん」と。帝頷き、且つ密かに京の為す所を伺わしむ。京聞きて之を銜む。

大錢法敝る。朝廷十を三に改めんと議す。主蔵の吏来たり告げて曰く、「諸府悉く大錢を輦して肆に於いて物を市す。皆法当に変ずべしと疑う」と。蒙曰く、「吾が府の積み若干ぞ」と。曰く、「八千緡なり」と。蒙叱して曰く、「安んぞ更革有りて吾知らざらんや」と。明日、制下る。又嘗て幾事か有りて蒙独り旨を受けしに、京知らず。京偵いて之を得、帝に白す。帝曰く、「侯蒙も亦かくの如きか」と。亳州知州に罷む。旋って資政殿學士を加えらる。

宋江京東を寇す。蒙上書して言う、「江三十六人を以て斉・魏に横行し、官軍数万敢えて抗う者無し。其の才必ず人に過ぐ。今青溪の盗起る。江を赦し、方臘を討たしめて以て自ら贖わしむるに若かず」と。帝曰く、「蒙外に居りて君を忘れず、忠臣なり」と。東平府知事を命ず。未だ赴かずして卒す。年六十八。開府儀同三司を贈られ、諡して文穆と曰う。

論じて曰く、崇寧・宣和の間、政は蔡京に在り。罷めて旋踵せずして輒ち起り、姦党日に蕃う。一時の貪得患失の小人、徽宗終に之を去ること能わざるを度り、莫からず其の門に趨走す。若し張康国・朱諤・劉逵・林攄の者は、皆是れなり。康国・逵中は京に異なること有りと雖も、然れども其の材智皆京の敵に非ず、卒に京党の撃つ所と為る。攄は京の姦謀を奉じ、鄰国を激怒せしめ、約を渝えて釁を啓く。罪焉より大なるは莫し。『易』に曰く、「国を開き家を承くるに、小人を用いる勿れ」と。其れ是れを謂うか。管師仁執政僅か両月、疾を引いて去らんことを求めしは、斯れ尚ぶ可きかな。侯蒙五路将帥を逮治し、力を為して申理し、十八人者之に繇りて免る。其れ仁人の利溥なるの言か。