宋史

列傳第一百〇九 苗授 王君萬 張守約 王文郁 周永淸 劉紹能 王光祖 李浩 和斌 劉仲武 曲珍 劉闃 郭成 賈嵓 張整 張蘊 王恩 楊應詢 趙隆

列傳第一百〇九 苗授 王君萬 張守約 王文郁 周永淸 劉紹能 王光祖 李浩 和斌 劉仲武 曲珍 劉闃 郭成 賈嵓 張整 張蘊 王恩 楊應詢 趙隆

苗授

原文苗授

苗授、字は授之、潞州の人である。父の苗京は、慶曆年間に、死を以て麟州を守り元昊に抗した者である。若くして胡翼之に師事し、国子生に補せられ、蔭により供備庫副使に至った。

原文苗授,字授之,潞州人。父京,慶曆中,以死守麟州抗元昊者也。少從胡翼之學,補國子生,以蔭至供備庫副使。

王韶が鎮洮を取るに当たり、苗授は先鋒となり、香子城を破り、河府を抜いた。羌は敗れたとはいえ、気勢なお鋭く、直ちに香子を包囲して帰還する軍を迎え撃った。王韶は将の田瓊を遣わしてこれを救わせたが、田瓊は戦死した。そこで騎兵五百を選抜して苗授に属させると、苗授は奮撃してこれを破った。兵士を二日休ませると、羌はまた架麻平で邀撃し、雨のように矢を注いだ。兵衆は恐れたが、苗授は令して曰く、「ただ進め、恐れるな。氈牌数百がやがて至る」と。先を行く者が伝呼すると、羌は驚いて乱れた。数十度力戦し、四千級を斬首した。また牛精穀においてこれを破り、珂諾城を取り、河湟の地をことごとく得た。

原文王韶取鎮洮,授為先鋒,破香子城,拔河府。羌雖敗,氣尚銳,輒圍香子以迎歸師。韶遣將田瓊救之,瓊死,乃簡騎五百屬授,授奮擊敗之。休士二日,羌復要于架麻平,注矢如雨,眾懼,授令曰:「第進毋恐!氈牌數百且至。」行前者傳呼,羌驚亂。力戰數十,斬首四千級。又破之于牛精穀,取珂諾城,盡得河湟地。

徳順軍の知軍となり、三度遷って西上閣門使となった。鬼章が河州を寇すと、詔して苗授を往かせた。一戦にして撒宗を克ち、功績を論じて第一とされ、ついに州事を知った。四方館使・栄州刺史を加えられた。燕達に従って銀川を取り、木征を降し、これを京師に献じた。引進使・果州団練使・涇原都鈐轄を加えられた。

原文知德順軍,三遷西上閣門使。鬼章寇河州,詔授往,一戰克撒宗,論功第一,遂知州事。加四方館使、榮州刺史。從燕達取銀川,降木征,獻之京師,加引進使、果州團練使、涇原都鈐轄。

契丹に使いするよう召されると、神宗は労って曰く、「かつての香子の役は、汝が寡をもって衆を撃たなければ、我が事を危うくするところであった」と。秦鳳副総管と為し、熙河に移り、また河州を知った。李憲に副って露骨山において生羌を討ち、万級を斬首し、その大酋の泠雞樸を獲た。羌族十万七千帳が内附し、威は洮西に震った。昌州団練使・龍神衛四廂都指揮使に拝され、雄州・熙州の知州に移った。

原文召使契丹,神宗勞之曰:「曩香子之役,非汝以寡擊眾,幾敗吾事。」以為秦鳳副總管,徙熙河,復知河州。副李憲討生羌於露骨山,斬首萬級,獲其大酋泠雞樸,羌族十萬七千帳內附,威震洮西。拜昌州團練使、龍神衛四廂都指揮使,徙知雄州、熙州。

元豊の西討に際し、苗授は古渭より出て定西を取り、禹臧花麻の諸族を掃蕩し、五万戸を降した。蘭州を城すると、女遮谷において賊数万に遇い、山に登って逆襲し、敗れて塁中に伏し、半夜遁走した。苗授は天都山を越え、南牟を焼き、没煙に屯した。およそ師行すること百日、転闘千里にして、ようやく塞に入った。

原文元豐西討,授出古渭取定西,蕩禹臧花麻諸族,降戶五萬。城蘭州,遇賊數萬于女遮谷,登山逆戰,敗退伏壘中,半夜遁去。授逾天都山,焚南牟,屯沒煙,凡師行百日,轉鬥千里,始入塞。

苗授は事に遇い意見を持して苟も迎合しなかった。初め徳順に在った時、或る者が篯南に城を築くことを議したが、苗授は曰く、「地は大河に阻まれ、糧道通ぜず、万全の計ではない」と。役は即座に止んだ。師が霊武を征するに当たり、詔して高遵裕を援けよと命じると、即ち進退の利害を条上して甚だ切実であった。歴任して歩軍副都指揮使・威武軍節度観察留後となった。元祐三年、武泰軍節度使・殿前副都指揮使に遷った。一年余りして、保康節度使として潞州を知り、上清太平宮を提挙し、また殿前使となり、薨じた。年六十七。開府儀同三司を贈られ、諡して莊敏といった。子に苗履あり。

原文授遇事持議不苟合。初在德順,或議城篯南,授曰:「地阻大河,糧道不濟,非萬全計也。」役即止。師征靈武,詔令援高遵裕,即條上進退利害甚切。曆進步軍副都指揮使、威武軍節度觀察留後。元祐三年,遷武泰軍節度使、殿前副都指揮使。逾歲,以保康節度知潞州,提舉上清太平宮,復使殿前,薨,年六十七,贈開府儀同三司,諡曰莊敏。子履。

子 苗履

原文子 履

苗履は束髮して戎に従った。苗授が木征を降した時、苗履はこれを護送して京に至り、閣門祗候を得た。熙・延・渭・秦の四路鈐轄を歴任し、鎮戎軍を知った。その父の在世時、すでに四方館使・吉州防禦使の官にあったが、事に坐して房州に流され、起用されて西上閣門副使・熙河都監となった。また責められて右清道率府率と為り、峽州の酒税を監った。元符初年、その官を悉く還され、熙河蘭会都鈐轄として蘭州を知った。

原文履束發從戎。授之降木征也,履護送至京,得閣門祗候。曆熙、延、渭、秦四路鈐轄,知鎮戎軍。及其父時,已官四方館使、吉州防禦使矣,以事竄房州,起為西上閣門副使、熙河都監。又責右清道率府率,監峽州酒稅。元符初,悉還其官,以熙河蘭會都鈐轄知蘭州。

詔して王贍とともに青唐を取らせ、姚雄と合兵して峗羌の篯羅結を討った。王贍の将の李忠が戦いに敗れると、篯羅結は大いに衆を集め、青唐を囲まんと欲すと宣言した。苗履・姚雄が将に至ると、羌は陣を列ねて待ち受け、勢い甚だ盛んであった。苗履は軍士を叱して弓を鞬に納め、刀を抜いて突入した。羌は巣穴を恃んで殊死に闘い、梟将の陳迪・王亨の輩は皆反走したが、苗履のみは馬を駐めて動かなかった。ある酋長が青袍白馬で突き進み、手に剣を以て苗履を撃ったが、帳下の王拱が弓でこれを防ぎ、辛うじて免れた。また苗履の背後に回り出て、軍を二つに断たんとした。別将の高永年が率いる所部が数十合力戦し、羌は退いた。乗勝して蘭宗堡を囲んだが、抜くことができなかった。日暮れに兵を収めて営に入ると、羌は夜中に潰走した。明日、兵を放って四方を掠め、その族帳を焼いて還った。

原文詔同王贍取青唐,與姚雄合兵討峗羌篯羅結。贍將李忠戰敗,羅結大集眾,宣言欲圍青唐。履、雄將至,羌列陣以待,勢甚盛。履叱軍士納弓于鞬,拔刀而入。羌怙巢穴殊死鬥,梟將陳迪、王亨輩皆反走,履獨駐馬不動。有酋青袍白馬突而前,手劍擊履,帳下王拱以弓格之,僅免。復繞出履背,欲斷軍為二,別將高永年率所部力戰數十合,羌退,乘勝圍蘭宗堡,弗能拔。日暮,收兵入營,羌宵潰。明日,縱兵四掠,焚其族帳而還。

やがて阿章が叛くと、詔して苗履と种樸に河を渡って討ち掃蕩させたが、兵少なしと辞したため、种樸は遂に陥った。苗履の前功を録し、龍神衛四廂都指揮使・成州団練使に抜擢し、慶州を知らせ、渭州に移し、捧日・天武都指揮使に進めた。これ以後の事績は史に伝を失う。子の苗傅は、『叛臣傳』にある。

原文既而阿章叛,詔履與种樸過河討蕩,辭以兵少,樸遂陷。錄履前功,擢龍神衛四廂都指揮使、成州團練使,知慶州,徙渭州,進捧日、天武都指揮使。是後史失其傳。子傅,在《叛臣傳》。

王君萬

原文王君萬

王君萬は、秦州寧遠の人である。殿侍として秦鳳指揮使となった。王韶が辺境を開拓するに当たり、青唐の大酋である俞龍珂が帰国したが、ただ別の羌である新羅結のみが従わなかった。経略使の韓縝は諸将に一月の期日を与えてこれを取らせた。王君萬は狩人を装い、鳥獣を追ってその居所に至り、次第に親しくなり、ともに狩りをし、隙をみてこれを打ち、馬から墜ちさせ、首を斬って馳せ帰り献じた。ちょうど一月に及ばず、功を積んで閣門祗候を得た。

原文王君萬,秦州寧遠人。以殿侍為秦鳳指揮使。王韶開邊,青唐大酋俞龍珂歸國,獨別羌新羅結不從。經略使韓縝期諸將一月取之。君萬詐為獵者,逐禽至其居,稍相親狎,與同獵,乘間撾之,墜馬,斬首馳歸以獻。甫及一月,積功得閣門祗候。

王師が武勝を平定すると、首領の薬廝逋が于闐の貢物を邀撃し劫掠したため、帥師として討伐した。君萬は南山より出撃し、険地を踏破して地を略取す。羌は山谷間に潜伏し、忽ち一騎が躍り出て、矛を横たえて将に及ばんとす。君萬は急ぎ側身してこれを避け、首を回して奮撃し、斬って徇しむ。その衆は驚き号し、相率いて命令を聴く。斬りし者は即ち薬廝逋なり。また北関・南市を破り、功最も多し。熙河路鈐轄に擢げられ、英州刺史・達州団練使を進領し、絹五百を賜わる。

原文王師定武勝,首領藥廝逋邀劫于闐貢物,帥師討焉。君萬出南山,履險略地。羌潛伏山谷間,忽一騎躍出,橫矛將及,君萬亟側身避之,回首奮擊,斬以徇。其眾驚號,相率聽命,所斬乃藥廝逋也。復破北關、南市,功最多,擢熙河路鈐轄,進領英州刺史、達州團練使,賜絹五百。

洮西の羌叛き、河州を囲む。君萬、王韶に請うて曰く、南撒宗城は小にして堅く、強勇の集まる所なり。若し兵を併せてこれを破らば、囲み自ずから解くべしと。韶その計を用い、囲み果たして解く。累官して客省使となり、副総管と為る。結糴銭数万緡を貸したるに坐し、転運使孫迥に糾弾せられ、秩一等を貶せらる。西山・鉄城を討ち功あり、故の官職を復す。君萬、孫迥を怨み、番官の木丹をしてこれを訟えしめ、秦・隴にて鞫す。また鳳翔鈐轄に貶せられ、家財を籍没して逋負を償わしむ。遂に憤りて卒す。子に贍あり。

原文洮西羌叛,圍河州,君萬請于王韶,以為南撒宗城小而堅,強勇所聚,若並兵破之,圍當自解。韶用其計,圍果解。累官客省使,為副總管。坐貸結糴錢數萬緡,為轉運使孫迥所糾,貶秩一等。討西山、鐵城有功,復故官職。君萬怨孫迥,使番官木丹訟之,鞫于秦、隴,又貶為鳳翔鈐轄,籍家貲償逋,遂以憤卒。子贍。

子 贍

原文子 贍

贍は初め李憲に因りて進む。戦功を立て、積官して皇城使に至り、開州団練使を領す。元符中、河州を知る。熙帥の鐘傅、白草原の賞を冒したるを以て、秦にて獄治す。詔して転運使張詢に諸将に自首を得しむべく諭さしむ。贍、詐りて首級を増やしたるを具に伏し、因りて詢に説きて云く、青唐人に瞎征を叛くの意あり、取るべしと。詢これを信じ、即ち具に奏して已に贍に結約して起兵せしむと令せりと言う。哲宗と輔臣、その狂妄専輒を罪し、急ぎ詢を罷め、孫迥に実を究めしむ。獄上り、贍の十一官を奪うも、猶州を領せしむ。

原文贍始因李憲以進。立戰功,積官至皇城使,領開州團練使。元符中,知河州。熙帥鐘傅以冒白草原賞,獄治于秦,詔轉運使張詢諭諸將得自首。贍具伏詐增首級,因說詢云:「青唐人有叛瞎征意,可取也。」詢信之,即具奏言已令贍結約起兵。誓宗與輔臣罪其狂妄專輒,亟罷詢,而命孫迥究實。獄上,奪贍十一官,猶令領州。

贍、功を以て過を贖わんと欲し、乃ち密かに青唐を取るの策を画し、客を遣わして章惇に状を言わしむ。惇その事を孫路に下す。路、取るべしと為す。贍遂に兵を引きて邈川に趣く。路、贍の狡獪にして制し難きを知り、総管の王湣に軍を統せしめ、贍を以て副と為す。贍は前鋒として河を渡り、先ず隴朱黒城を下す。湣がその功を分かつを忌み、これを紿いて曰く、晨に食を畢えて乃ち発すべしと。湣これを信ず。夜半、贍忽ち発を伝う。平明、邈川に入り、府庫を拠り、径ちに捷書を上す。軍府に白せず。湣は過午に至り、事を路に訴う。路もまた怒り、専らに兵柄を湣に付し、贍を留めて邈川に屯せしむ。

原文贍欲以功贖過,乃密畫取青唐之策,遣客詣章惇言狀。惇下其事于孫路,路以為可取。贍遂引兵趣邈川。路知贍狡獪難制,使總管王湣統軍,而以贍副。贍為前鋒度河,先下隴朱黑城。忌湣分其功,紿之曰:「晨食畢乃發。」湣信之。夜半,贍忽傳發。平明,入邈川,據府庫,徑上捷書,不以白軍府。湣過午始至,以事訴于路,路亦怒,顓以兵柄付湣,而留贍屯邈川。

宗哥の酋長舍欽腳、内附を求む。贍、裨将の王詠に五千騎を享してこれに赴かしむ。既に入りて諸羌変ず。詠馳書して急を告ぐ。王厚、高永年をしてこれを救わしめ、乃ち免る。贍と湣互いに訟え、また路の指画相違するを訴う。惇は贍を主とし路を直とせず、曰く、首謀する者は贍なり。路その功を掩わんと欲し、故に贍を抑うと。乃ち路を河南に徙し、湣の統制を罷め、胡宗回を帥と為す。

原文宗哥酋舍欽腳求內附,贍遣裨將王詠享五千騎赴之。既入,而諸羌變,詠馳書告急,王厚使高永年救之,乃免。贍與湣交訟,又訴路指畫相違。惇主贍而不直路,曰:「首謀者贍也,路欲掩其功,故抑贍。」乃徙路河南,罷湣統制,以胡宗回為帥。

時に瞎征は已に来降す。青唐の戍将は惟だ心牟欽氈父子百余人在るのみ。贍即時に取らず、二羌遂に溪巴温の子隴拶を迎えて入守せしむ。初め、孫路は先ず邈川及び河南北の諸城を全うし、然る後に師を進むべしと乞う。贍路を怨み、因りて言う、青唐は大兵を煩わさずして下すべく、路は逗遛して機会を失うと。宗回の至るに及び、乃ち云う、夏人邈川を攻めんと謀り、守備を為すべく、青唐は未だ取るべからずと。宗回その反覆を責め、日夜出師を督し、使を遣わして軍法を以て威し、且つ声言して王湣をして将に代わらしめんと欲すとす。贍懼れ、急ぎ進攻して隴拶及び心牟等をし、皆出降せしむ。贍入りてその城を拠る。詔して鄯州と建て、贍を四方館使・栄州防禦使・知州事に進む。黄履、賞薄しと謂い、乃ち維州団練使を拝し、路鈐轄と為す。

原文時瞎征已來降,青唐戍將惟心牟欽氈父子百余人在。贍不即取,二羌遂迎溪巴溫之子隴拶入守。始,孫路乞先全邈川及河南北諸城,然後進師。贍怨路,因言青唐不煩大兵可下,而路逗遛失機會。暨宗回至,乃雲夏人謀攻邈川,當為守備,青唐未可取。宗回責其反覆,日夜督出師,遣使威以軍法,且聲言欲使王湣代將。贍懼,急進攻隴拶及心牟等,皆出降。贍入據其城。詔建為鄯州,進贍四方館使、榮州防禦使、知州事。黃履謂賞薄,乃拜維州團練使,為路鈐轄。

贍、その部を縦して剽敚せしむ。羌衆携貳し、心牟等諸族帳を結びて青唐を復せんと謀る。その山南に在る者先ず発つ。贍、将の李賓に二千騎を領して心牟以下を掩襲せしめ、自らは西城を守りて羌と闘う。賓は南山を逾え保敦穀に入り討蕩す。羌戦いに敗れて奔北し、四山皆空し。贍、心牟等九人を戮し、悉く城中の羌を捕斬し、積級山の如し。

原文贍縱所部剽敚,羌眾攜貳,心牟等結諸族帳謀復青唐,其在山南者先發。贍遣將李賓領二千騎掩襲心牟以下,自守西城與羌鬥。賓逾南山入保敦穀討蕩,羌戰敗奔北,四山皆空。贍戮心牟等九人,悉捕斬城中羌,積級如山。

初め、贍は諸酋に勝兵なる者を籍しその臂に涅するを諷す。応ずる者無し。篯羅結、帰りて本路を帥いて唱えんことを請う。贍これを聴き去らしむ。遂に嘯集して外叛し、数千人を以て邈川を囲む。夏衆十万これに助く。城中甚だ危し。苗履・姚雄来援し、囲み始めて解く。已にして王吉・魏釗・种樏相継いで敗没し、将士気を奪わる。書聞こえ、帝震駭す。ここに於いて転運使李譓・秦希甫、贍が二城の財物を盗取り、此に因りて変を致すを劾す。また心牟欽氈を殺して以て口を滅す。曾布言う、贍は事端を創造して以て辺害を生じ、万死も責を塞ぐに足らずと。詔して右千牛将軍に貶し、房州に安置す。言者これを論じて已まず。熙河また奏す、青唐の諸族、贍を怨むこと骨髓に入り、日図りて報復すと。枢密院、贍を斬りて以て一方に謝すべしと乞う。詔して昌化軍に配す。行きて穣県に至りて縊る。

原文初,贍諷諸酋籍勝兵者涅其臂,無應者。篯羅結請歸帥本路為唱,贍聽之去,遂嘯集外叛,以數千人圍邈川,夏眾十萬助之,城中危甚。苗履、姚雄來援,圍始解。已而王吉、魏釗、种樸相繼敗沒,將士奪氣。書聞,帝震駭,於是轉運使李譓、秦希甫劾贍盜取二城財物,因此致變;又殺心牟欽氈以滅口。曾布言贍創造事端以生邊害,萬死不塞責。詔貶右千牛將軍,房州安置。言者論之不已,熙河又奏青唐諸族怨贍入骨髓,日圖報復,樞密院乞斬贍以謝一方。詔配昌化軍,行至穰縣而縊。

崇寧初め、蔡京相に入り、錢遹、贍の功を訟う。及び王厚、鄯・廓を平らぐ。ここに於いて保平軍節度観察留後を追贈し、その子玨を通事舎人と除す。

原文崇甯初,蔡京入相,錢遹訟贍功;及王厚平鄯、廓,於是追贈保平軍節度觀察留後,除其子玨通事舍人。

張守約

原文張守約

張守約、字は希參、濮州の人。蔭により原州截原砦を主り、羌酋の水令逋等十七族一万一千帳を招く。広南走馬承受公事と為り、儂寇の後に当たり、二年に四たび闕に詣り、南方の利害を陳ぶ。皆見納用せらる。欧陽修、その智略あり、辺事を知ると薦し、融州知事に擢ぐ。峒将の呉儂、険に恃み辺患と為る。捕え誅す。修また守約の将帥に任ずべく薦し、定州路駐泊都監と為り、秦鳳に徙す。職に居ること六年、生羌の隠土千頃を括して射手を募り、硤石堡・甘穀城を築く。功第最も多し。

原文張守約,字希參,濮州人。以蔭主原州截原砦,招羌酋水令逋等十七族萬一千帳。為廣南走馬承受公事,當儂寇之後,二年四詣闕,陳南方利害,皆見納用,歐陽修薦其有智略、知邊事,擢知融州。峒將吳儂恃險為邊患,捕誅之。修復薦守約可任將帥,為定州路駐泊都監,徙秦鳳。居職六年,括生羌隱土千頃以募射手,築硤石堡、甘穀城,第功最多。

夏人万騎来寇す。守約適辺を巡り、これと遇う。鞍を解かず、兵五百を簡びて逆戦す。衆寡侔わず、勢い小しく却く。夏人両翼を張りて来る。守約身を挺して陣前に立ち、自ら金鼓を節し、強弩を発してその酋を殪す。敵遂に退く。

原文夏人萬騎來寇,守約適巡邊,與之遇,不解鞍,簡兵五百逆戰,眾寡不侔,勢小卻。夏人張兩翼來,守約挺身立陣前,自節金鼓,發強弩殪其酋,敵遂退。

神宗、熙河を開拓せんとし、召して問うて曰く、王韶能く事を辦すやと。対えて曰く、天威を以てこれに臨まば、当に済わざる無かるべし。但だ董氈は忠勤にして順を効す。侵逼すべからざるを恐るると。因りて古渭を名づけて軍と為し、以て隴右の根本と為さんことを請う。帝これに従い、通遠軍と建つ。通事舎人・熙河鈐轄を加え、仍び秦鳳の羌兵を統べて通遠に駐す。

原文神宗開拓熙河,召問曰:「王韶能辦事否?」對曰:「以天威臨之,當無不濟;但董氈忠勤效順,恐不宜侵逼。」因請名古渭為軍,以根本隴右。帝從之,建為通遠軍。加通事舍人、熙河鈐轄,仍統秦鳳羌兵駐通遠。

河州の羌、衆三万を率いて敦波に屯し、旧地を復せんと欲す。守約、洮水を度りてこれを撃破し、窖粟を取って軍に食わす。羌の老弱畜産は南山に走る。左右邀えんと欲し、万万を得べしと云う。守約曰く、彼は敢えて迎戦するに非ず、死を逃るるのみ。輒ち出づる者は斬らんと。鬼章、岷州を囲む。守約、敢死の士を提げて鼓を鳴らし幟を山上に張る。賊驚き顧みて遁る。遂に岷州を知り、その首領千七百人を降す。西上閣門使に遷り鎮戎軍を知り、環州に徙す。

原文河州羌率眾三萬屯於敦波,欲復舊地,守約度洮水擊破之,取窖粟食軍。羌老弱畜產走南山,左右欲邀之,雲可獲萬萬。守約曰:「彼非敢迎戰,逃死耳,輒出者斬!」鬼章圍岷州,守約提敢死士鳴鼓張幟高山上,賊驚顧而遁,遂知岷州,降其首領千七百人。遷西上閣門使、知鎮戎軍,徙環州。

慕家族の頡は剛愎で制し難く、種族を動揺させたので、兵を率いて討ちこれを擒らえ、残党は夏国に遁走した。守約は境上に軍を駐め、檄を発して引き渡しを求めてやまず、数日を経て、械を付けて来たので、市中で斬った。

原文慕家族頡佷難制,搖動種落,勒兵討擒之,余遁入夏國。守約駐師境上,檄取不置,居數日,械以來,斬於市。

霊武に従征し、清遠軍に至り、高遵裕に言うには、「ここから霊州までは三百里に満たず、先鋒隊を先に出して直ちにその城を衝くべきである。今、夏人は一方の力で五路の軍に応じ、横山には人おらず、霊州城中には僧侶道士が数百いるのみである。もし十日分の糧食を携え、三日急行すれば到達でき、軍は事なきを得るであろう」と。また高遵裕に勧めて士卒に糧秣を護送させ、略奪を防がせようとしたが、聞き入れられず、果たして敗れて帰還した。守約には海南咸平を守った功績があったが、これも記録されなかった。

原文從征靈武,至清遠軍,言于高遵裕曰:「此去靈州不三百里,用以前軍先出,直搗其城。今夏人以一方之力,應五路之師,橫山無人,靈州城中惟僧道數百。若裹十日糧,疾馳三日可至,軍無事矣。」又勸高遵裕令士眾護糧餉,以防抄掠,不聽,果以敗還。守約有捍海南咸平之功,亦不錄。

環慶都鈐轄・邠州知州に進み、涇原・鄜延・秦鳳副総管に転じ、康州刺史を領した。夏人十万が南牟に屯したが、その名を畏れて引き去った。涇州知州となり、涇水はよく城を暴き、毎年春には必ず堤防を増築修繕し、費用は莫大であった。ちょうど凶年に当たり、その役事を中止した。ある者が「水害はどうするのか」と言うと、守約は「凶年に民を労するのは、河の害よりも甚だしい。私は暫くゆっくりと図ろう」と言った。河神祠はもと南岸にあったが、祈ってこれを北に遷し、河の怒りを和らげようとした。一夜の雷雨の後、翌日、河は南に移り、その北は遂に砂礫地となった。龍・神衛四廂都指揮使として召還されたが、途中で卒去した。七十五歳。

原文進為環慶都鈐轄、知邠州,徙涇原、鄜延、秦鳳副總管,領康州刺史。夏人十萬屯南牟,畏其名,引去。知涇州,涇水善暴城,每春必增治堤堰,費不貲。適歲饑,罷其役。或曰:「如水害何?」守約曰:「歉歲勞民,甚於河患,吾且徐圖之。」河神祠故在南壖,禱而遷諸北,以殺河怒。一夕雷雨,明日,河徙而南,其北遂為沙磧。以龍、神衛四廂都指揮使召還,道卒,年七十五。

守約は七州を治め、いずれも記録すべき恵みと慈愛があった。神宗がかつて武臣で任用できる者を尋ねた際、燕達・劉昌祚・姚麟・王崇極・劉舜卿らを挙げて答えたが、その後いずれも名将となり、時に人を知る者と称された。

原文守約典七州,皆有惠愛可紀。神宗嘗謂武臣可任者,以燕達、劉昌祚、姚麟、王崇極、劉舜卿等對,其後皆為名將,時稱知人。

王文郁

原文王文郁

王文郁、字は周卿、麟州新秦の人。供奉官として府州巡検となった。韓琦がその才能を推薦し、閣門祗候・麟府駐泊都監を加えられた。

原文王文郁,字周卿,麟州新秦人。以供奉官為府州巡檢。韓琦薦其材,加閣門祗候、麟府駐泊都監。

熙寧年間に夏国を討った時、文郁は吐渾河でこれを破った。その将の香崖が夜間に使者を遣わし剣を信物として、衆を挙げて降伏したいと申し出たので、これを許した。明け方に到着し、共に行ったが、衆の気持ちが突然変わり、騒ぎながら出てきた。文郁はこれを撃ち、二十里追撃した。険阻な地を占めて大戦し、矢が雨のように降ったが、文郁はゆっくりと引き、河を渡り、官吏士卒に言った、「前には強敵を追い、後ろには天険を背負っている。韓信かんしんでさえ市井の人を駆って趙を破ったのだ。ましてやお前たちは皆、百戦錬磨の勇猛な者ではないか」と。士卒は感激奮起して進撃し、夏人は大いに潰え、その衆二千を降した。通事舎人に遷った。夏人が屈野河を越え、塞上を掠奪したので、文郁は長城阪まで追撃し、掠奪したものを全て奪回して帰還した。

原文熙甯討夏國,文鬱敗之吐渾河。其將香崖夜遣使以劍為信,欲舉眾降,許之。旦而至,與偕行,眾情忽變,噪以出。文鬱擊之,追奔二十里。據險大戰,矢下如雨,文郁徐引度河,謂吏士曰:「前追強敵,後背天險,韓信驅市人且破趙,況爾曹皆百戰驍勇邪?」士感奮進擊,夏人大潰,降其眾二千。遷通事舍人。夏人逾屈野河,掠塞上,文郁追至長城阪,盡奪所掠而還。

神宗が召見し、問うて言った、「以前、香崖を招き入れようとした時、群議が一致しなかったが、朕のためにそのことを話せ」と。答えて言った、「これは敵を招き寄せる上策であり、恨むらくは多く行えなかったことです。辺境に接する生羌は駆け突くことに長け、道案内を知っています。もしもこれを慰撫できれば、いわゆる外夷をもって外夷を攻めることになります」と。帝はそこで招き入れを決意し、多くその用を獲た。文郁が左射を善くすることを知り、その子弟をも招いて殿庭で閲兵し、文郁は九発八中し、詔してその二人の子を官とした。

原文神宗召見,問曰:「向者招納香崖,群議不一,其為朕言之。」對曰:「此乃致敵上策,恨未能,多爾。並邊生羌善馳突,識鄉導,儻能撫柔之,所謂以外夷而攻外夷也。」帝於是決意招納,多獲其用。知文郁善左射,並招其子弟閱肄殿庭,文鬱九發八中,詔官其二子。

鎮戎軍・徳順軍の知軍となり、洮州・河州の平定に参与し、左騏驥副使・麟州知州に遷った。夏の衆が農作物を踏み荒らしたので、襲撃してこれを破ったが、部の使者が生事と弾劾し、郡の印を奪われた。

原文知鎮戎、德順軍,預定洮、河,遷左騏驥副使、知麟州。夏眾踐稼,襲敗之,部使者劾為生事,奪郡印。

間もなく、熙河の将となった。李憲が霊武を討つ時、文郁は羌戸万余りを得て、路鈐轄に遷った。夏人が蘭州を包囲し、既に二つの関門を奪ったが、文郁は死士を募り夜間に縋り下り、短兵を持って賊を突き、たちまちその陣営を掃討して去った。東上閣門使・蘭州知州に抜擢された。諜者が夏人が大挙して侵入しようとしていることを知り、清野して待った。果たして国を挙げて皋蘭に向かい、文郁は城に乗ってこれを防ぎ、殺傷は積み重なるほど多く、包囲は九日で解けた。その屍を収めて京観とし、栄州団練使を加えられ、捧日・天武都指揮使として副都総管となり、殿前都虞候として河州知州となった。安西城・金城関を築き、秦州防禦使・冀州観察使に進んだ。卒去、六十六歳。

原文未幾,為熙河將。李憲討靈武,文鬱得羌戶萬余,遷路鈐轄。夏人圍蘭州,已奪兩關門,文鬱募死士夜縋而下,持短兵突賊,即掃營去。擢東上閣門使、知蘭州。諜知夏人將大入,清野以俟,果舉國趨皋蘭,文鬱乘城禦之,殺傷如積,圍九日而解,收其屍為京觀,加榮州團練使,以捧日、天武都指揮使為副都總管,以殿前都虞候知河州。築安西城、金城關,進秦州防禦、冀州觀察使。卒,年六十六。

周永清

原文周永清

周永清、字は肅之。代々霊州に住んだが、州が陥落したので、祖父の美は京師に帰った。永清は蔭官により仕官し、宰相の寵籍がその忠勇を言上し、閣門祗候を加えられた。時服を賜るため夏国に赴き、宥州に至ると、夏人は賜物を受けても跪かなかったので、詰問すると、恐れて跪いた。通事舎人・渭州鈐轄に遷った。渭州の兵は強健だが陣法に通じていなかったので、永清は李靖の法で訓練した。帥の蔡挺はその整然さを賞賛し、図上してこれを報告し、詔により諸道に推し広められた。

原文周永清字肅之。世家靈州,州陷,祖美歸京師。永清以蔭從仕,宰相寵籍言其忠勇,加閣門祗候。押時服賜夏國,至宥州,夏人受賜不跪,詰之,恐而跪。遷通事舍人、渭州鈐轄。渭兵勁而陳伍不講,永清訓以李靖法。帥蔡挺嘉其整,圖上之,詔推于諸道。

徳順軍知軍となり、夏の衆が侵入したので、撃ってその酋長の呂效忠を擒らえた。また勇士を募り百里を夜駆けして賊の巣窟を衝き、三百級を斬首し、数千人を捕虜とし、駱駝・甲冑馬匹を万単位で獲た。城中で知る者はなかった。砦の禁地三百里では、密かに耕作するのを禁じられなかったが、永清は数千頃を開拓して登録し、射士二千を置き、その名声は敵国にまで聞こえた。降伏者は帳下に引き入れ、疑わずに待遇した。多くその死力を得た。

原文知德順軍,夏眾入寇,擊擒其酋呂效忠。又募勇士夜馳百里,搗賊巢穴,斬首三百級,俘數千人,獲橐駝、甲馬萬計。城中無知者。並砦禁地三百里,盜耕不可禁,永清拓籍數千頃,置射士二千,聲聞敵廷。降者引入帳下,待之不疑。多得其死力。

秦鳳鈐轄・河北沿辺安撫副使・代州知州に転じた。契丹が名目なくして土地を求めたので、朝廷は韓縝に境界画定を命じ、永清はその副使となったが、入朝して対し言った、「国境は軽々しく人に与えるべきではありません。臣の職は土地を守ることであり、行きたくありません」と。強いて派遣したが、また上章して利害を陳べ、結局母の病気を理由に辞退した。高陽関・定州・涇原路鈐轄を歴任し、涇州・保州の知州となり、また定州路副総管となり、終の官は東上閣門使であった。

原文徙秦鳳鈐轄、河北沿邊安撫副使、知代州。契丹無名求地,朝廷命韓縝分畫,永清貳焉,入對言:「疆境不可輕與人,臣職守土,不願行。」固遣之,復上章陳利害,竟以母病辭。曆高陽關、定州、涇原路鈐轄,知涇州、保州,又為定州路副總管,終東上閣門使。

劉紹能

原文劉紹能

劉紹能は字を及之といい、保安軍の人である。代々諸族の巡検を務め、父の懐忠は内殿崇班・閣門祗候に任じられた。元昊が叛くと、厚く金幣と王爵をもって招いたが、懐忠は印を毀ち使者を斬り、敵が侵入すると力戦して死んだ。紹能を右班殿直に任用し、名を賜り、軍北巡検とした。順寧において夏の右枢密院党移賞糧の数万の衆を撃破した。夏人が大順城を包囲したとき、紹能は軍の先鋒となり、その柵を破壊し、奈王川に至り、長城嶺で邀撃した。熙寧年間には、また破囉川において夏人を破り、いずれも功績第一と評された。累遷して洛苑使・英州刺史・鄜延兵馬都監となった。旧制では、内属の者は漢官と同列に扱われなかったが、この時よりすべて同様とし、なおその子に故職を襲わせた。

原文劉紹能字及之,保安軍人。世為諸族巡檢,父懷忠,官內殿崇班、閣門祗候。元昊叛,厚以金幣及王爵招之,懷忠毀印斬使,洎入寇,力戰以死。錄紹能右班殿直,賜以名,為軍北巡檢。擊破夏右樞密院黨移賞糧數萬眾于順寧。夏人圍大順城,紹能為軍鋒,毀其柵,至奈王川,邀擊于長城嶺,熙寧中,又敗夏人於破囉川,皆策功最。累遷洛苑使、英州刺史、鄜延兵馬都監。舊制,內屬者不與漢官齒,至是,悉如之,仍以其子襲故職。

元豊の西討に際し、闕下に召され、神宗が計略を訪ねると、対して言うには、「師旅が遠征するとき、儲偫が続かないことが大患です。もし西成を待って、糧を因りて深入りすれば、志を得ることができます」と。帝はこれを然りとし、両軍を統率して進討するよう命じた。紹能は代々辺将であり、敵に忌まれるところとなり、しばしば疑いを設けて離間しようとした。帝はただそのようなことはないと明らかにし、手詔して云うには、「紹能の戦功は最も多く、忠勇は第一である。これは必ずや夏人の畏忌するところで、間害の計を為すものであろう」と。紹能は詔を捧げて感泣した。嘗て讒言に坐して対決を迫られたが、按験して終に実証なく、辺境を守ること四十七年、大小五十戦に及び、皇城使・簡州団練使のまま卒した。

原文元豐西討,召詣闕,神宗訪以計,對曰:「師旅遠征,儲偫不繼為大患。若俟西成後,因糧深入,乃可以得志。」帝以為然,命統兩軍進討。紹能世世邊將,為敵所忌,每設疑以間之。帝獨明其不然,手詔云:「紹能戰功最多,忠勇第一,此必夏人畏忌,為間害之計耳。」紹能捧詔感泣。嘗坐讒逮對,按驗卒無實。守邊圉四十七年,大小五十戰,以皇城使、簡州團練使卒。

王光祖

原文王光祖

王光祖は字を君俞といい、開封の人である。父の珪は涇原の勇将で、「王鉄鞭」と号し、好水川で戦死した。光祖を供奉官・閣門祗候に任用した。

原文王光祖,字君俞,開封人。父珪,為涇原勇將,號「王鐵鞭」,戰死好水川。錄光祖為供奉官、閣門祗候。

熙寧年間、同提点河北刑獄となり、沿辺安撫都監に改め、副使に進んだ。界河巡検の趙用が北辺を擾したとき、契丹は兵数万をもって国境を圧し、浮橋を造り、渡ろうとする様子を見せた。光祖は舟中におり、その衆に対して戸牖をことごとく撤去した。ある者が言うには、「契丹は方陣をなしているのに、単舟をもって臨むのは、不測の事態があればどうするか」と。光祖は言うには、「彼らの顧みるところは信誓であり、その来たるは趙用を得たいだけである。避ければ勢いが張る。我が死をもって責めを塞ぐに足りぬ」と。やがて契丹は互いに話し合いたいと言い、光祖は即ち子の襄を遣わした。兵刃が四方から迫ったが、話はただ趙用についてであり、襄は機に応じてこれを折衝した。その将の蕭禧は急いで兵を揮って去り、かつ襄を招いて食事をし、自ら戴いていた青羅泥金の笠を与えて信とし、即ちこれを上進した。時に既に光祖を罷免する詔があった。呉充が言うには、「向もして光祖が身をもって対塁せず、また子をして白刃を冒して従約を取らせなければ、事の成否は知れなかった。賞すべきところを罷黜するのは、どうして懲罰と勧奨を示せようか」と。乃ち真定鈐轄に除した。

原文熙寧中,同提點河北刑獄,改沿邊安撫都監,進副使。界河巡檢趙用擾北邊,契丹以兵數萬壓境,造浮橋,如欲度者。光祖在舟中,對其眾盡徹戶牖。或謂:「契丹方陣,而以單舟臨之,如不測何?」光祖曰:「彼所顧者,信誓也;其來,欲得趙用耳。避之則勢張,吾死不足塞責。」已而契丹欲相與言,光祖即命子襄往。兵刃四合,然語唯在用,襄隨機折塞之。其將蕭禧遽揮兵去,且邀襄食,付所戴青羅泥金笠以為信,即上之。時已有詔罷光祖矣。吳充曰:「向非光祖以身對壘,又使子冒白刃取從約,則事未可知。宜賞而黜,何以示懲勸?」乃除真定鈐轄。

梓夔に移った。渝の獠が叛き、詔して熊本に安撫させ、内蔵庫使の楊万・成都鈐轄の賈昌言・梓夔都監の王宣と光祖に同しく討伐に当たらせ、皆熊本の節度を受けた。熊本は光祖が用いられぬことを疑い、三道に分かれて進軍し、光祖に後軍を将いて黄沙坎より出させた。出発する頃には日は既に暮れ、兵士は杖で道を探り、互いに引き合いながら進み、夜半に絶頂に着いた。夜明けに、獠はこれを見て大いに驚き、一鼓して潰走した。楊万らは松谿に困窮し、また急ぎ救援に向かった。石門より出で、その険を奪い、黔兵を促して先に登り賊を襲わせると、賊は去った。光祖は夜に松嶺上に泊し、朝になってようやく楊万らと遇い、ともに還った。熊本は慚愧して謝し、その功を第一として上奏した。

原文徙梓夔。渝獠叛,詔熊本安撫,而命內藏庫使楊萬、成都鈐轄賈昌言、梓夔都監王宣與光祖同致討,皆受本節度。本疑光祖不為用,分三道進師,使光祖將後軍,出黃沙坎。比發,日已暮,士以杖索塗,相挽而前,夜半,抵絕頂。質明,獠望見,大駭,一鼓而潰。萬等困於松谿,又亟往援。出石門,敓其險,促黔兵先登襲賊,賊舍去。光祖夜泊松嶺上,旦始遇萬等,與俱還。本愧謝,上其功第一。

吐蕃が茂州を包囲したとき、光祖は兵三千を率い、王中正と会して鶏宗関を破り、賊は石鼓村に拠り、その半道を扼した。中正は諸将を召して計を問うと、光祖のみが行くことを請うた。石鼓に着くと、鋭兵を選んで分かれて吐蕃の背を襲い、その不意に出で、皆驚いて遁走し、遂に中正と茂で会した。

原文吐蕃圍茂州,光祖領兵三千,會王中正破雞宗關,賊據石鼓村,扼其半道。中正召諸將問計,光祖獨請行。既抵石鼓,擇銳兵分襲吐蕃背,出其不意,皆驚遁,遂會中正於茂。

瀘夷の乞弟が王宣を殺したので、詔して韓存宝に従ってこれを討ち、梅嶺に軍した。夷の数万の衆が出て落個棧に駐屯し、我が師を老いさせようとした。霖雨が止まず、光祖は存宝に早く決戦するよう勧めたが、聞き入れられなかった。林広が至ると、また従って征し、その巣窟を蕩平した。積功して四方館使・知瀘州となった。瀘南安撫使を置き、兼領させ、辺事は専決を聴した。客省使・嘉州刺史に遷った。涇原・河東・定州路副総管を歴任し、卒した。

原文瀘夷乞弟殺王宣,詔從韓存寶討之,軍于梅嶺。夷數萬眾出駐落個棧,欲老我師。霖雨不止,光祖勸存寶早決戰。不聽。林廣至,復從征,蕩其巢窟。積功至四方館使、知瀘州。置瀘南安撫使,俾兼領,邊事聽顓決。遷客省使、嘉州刺史。曆涇原、河東、定州路副總管,卒。

李浩

原文李浩

李浩は字を直夫といい、家は本来綏州にあり、西河に移った。浩は学に務め、兵法に通じ、父の定の蔭により、軍に従って儂智高を破った。韓絳が囉兀に城を築くとき、兵を率いて賞堡嶺川で戦い、大首領の訛革多移を殺し、千三百余級を斬首した。積官して供備庫副使・広西都監となった。

原文李浩,字直夫,家本綏州,徙西河。浩務學,通兵法,以父定蔭,從軍破儂智高。韓絳城囉兀,領兵戰賞堡嶺川,殺大首領訛革多移,斬首千三百餘級。積官供備庫副使、廣西都監。

西北の疆事を集めて『安辺策』を著し、王安石に謁した。安石が神宗に言上し、召されて対し、管幹麟府兵馬に改めた。未だ行かず、また章惇に従って南江に至り、兵を率いて三路より鎮江に屯し、遂州に入り、舒光貴を討ち、盈口柵を破り、天府を下し、洽州で会し、懿州に入った。蛮酋の田元猛・元哲が合して狤狑を率いて官軍に拒んだが、浩は兵を分けてこれを撃ち、狤狑を殺し、元猛・元哲を降し、遂に懿州に城を築いた。黔江蛮を進討し、また黔江に城を築いた。惇はその功を上奏し、他の将と比べるべからずとし、引進副使・熙河鈐轄に擢げた。

原文裒西北疆事著《安邊策》,謁王安石。安石言之神宗,召對,改管幹麟府兵馬。未行,又從章惇于南江,引兵由三路屯鎮江,入遂州,討舒光貴,破盈口柵,下天府,會於洽州,入懿州。蠻酋田元猛、元哲合狤狑拒官軍,浩分兵擊之,殺狤狑,降元猛、元哲,遂城懿州。進討黔江蠻,復城黔江。惇上其功,謂不當與他將比,擢引進副使、熙河鈐轄。

李憲が山后羌を討つとき、浩は右軍を将いて合龍嶺に至り会戦し、降羌の乞嘊を遣わして軽騎で敵の帳を突き、その酋の冷鶏朴・李密撒を俘え、三千を馘った。東上閣門使に遷り、副総管・知河州・安撫洮西となった。五路大挙のとき、浩は前軍を将いて、蘭州を回復した。引進使・隴州防禦使・知蘭州兼熙河・涇原安撫副使に遷った。西関の失守及び上奏の不実に坐し、再び秩を貶された。旋って吃囉・瓦井で戦い連続して功を立て、元に復した。

原文李憲討山后羌,浩將右軍至合龍嶺會戰,遣降羌乞嘊輕騎突敵帳,俘其酋冷雞朴、李密撒,馘三千。遷東上閣門使,為副總管、知河州、安撫洮西。五路大舉,浩將前軍,復蘭州。遷引進使、隴州防禦使、知蘭州兼熙河、涇原安撫副使。坐西關失守及報上不實,再貶秩。旋以戰吃囉、瓦井連立功,復之。

哲宗即位のとき、忠州防禦使・捧日天武都指揮使・馬軍都虞候に拝し、黔州観察使に進み、鄜延・太原・永興・環慶路副都総管を歴任し、再び知蘭州となった。卒し、安化軍留後を贈られた。

原文哲宗即位,拜忠州防禦使、捧日天武都指揮使、馬軍都虞候,進黔州觀察使,曆鄜延、太原、永興、環慶路副都總管,再知蘭州。卒,贈安化軍留後。

和斌

原文和斌

和斌は字を勝之といい、濮州鄄城の人である。散直に選ばれて隷し、徳順軍指揮使となり、凡そ五年、数度敵を防ぎ、重傷を十余り受けた。知軍事の劉兼済は兄の平が敗没したため、捕らえられて京師に送られ、併せてその家も逮われた。斌は慰安し調護し、金帛を他所に寓し、密かに兼済に家を憂いとるなと告げた。平の冤が既に伸び、兼済は免れ、家は斌によって全うされた。定川の役に、将の曹偀が乗馬を失うと、斌は騎を譲って与え、且つ戦い且つ行き、ともに免れた。

原文和斌,字勝之,濮州鄄城人。選隸散直,為德順軍指揮使,凡五年,數捍敵,被重創十餘。知軍事劉兼濟以兄平敗沒,執送京師,並逮其家。斌慰安調護,為寓金帛他所,密告兼濟勿以家為恤。平冤既伸,兼濟獲免,家賴以全。定川之役,將曹偀喪所乘馬,斌輟騎與之,且戰且行,與俱免。

狄青が南征するに当たり、部騎兵を先鋒とした。青は賓州に十日間駐屯して敵を油断させ、その後は倍の速度で行軍した。斌は兵が険路で疲弊していることから、速戦が有利と考え、即日に関を越えた。帰仁驛で賊と激戦し、孫節は戦死したが、斌は騎兵を率いて血戦し、賊の背後に回り込んで遂にこれを破った。軍が帰還すると、賊陣を破った様子を殿廷に図示して奏上し、仁宗はその労をねぎらって文思副使・権広西鈐轄に抜擢した。秦鳳路に転任となったが、広西路が蛮事を理由に留任を要請し、秦州もまたこれを請うたため、詔により広西路に留まった。

原文狄青南征,使部騎兵為前鋒。青駐賓州十日以怠寇,既乃倍道兼行。斌以兵疲於險,利在速戰,即日度關。鏖賊歸仁驛,孫節死,斌引騎血戰,繞出賊後,遂敗之。師還,張破賊陳形於殿廷,仁宗拊勞,擢文思副使、權廣西鈐轄。改秦鳳,廣西以蠻事乞留,秦州亦請之,詔留廣西。

数年後、涇原路に移る。召されて対し、議者らが交州は攻略可能と論ずる中、斌は害あって益なしと強く主張し、辺境の臣に妄動なからしめんことを願った。神宗は嘆じて言った、「卿がかくも質直であることを知り、両路が卿を争ったのは虚偽ではなかったと分かった」と。帯禦器械に進む。渭州部内が飢饉となり、帥の王広淵が役人に救済を命じたが、斌は言った、「救う術なくしてこれを行うは、これを殺すに等しい」と。広淵はこれを斌に委ね、斌は適地を選んで住居を営み、養護の法を整え、生き延びさせた者は数万に及んだ。

原文累歲,徙涇原。召對,議者謂交州可取,斌盛言有害無益,願戒邊臣無妄動。神宗歎曰:「卿質直如此,乃知兩路爭卿,為不誣矣。」進帶禦器械。渭部饑,帥王廣淵命吏賑給,斌曰:「救之無術,是殺之耳。」廣淵以委斌,斌擇地營居,養視有法,所活以萬數。

安南が侵入すると、再び広西路に移る。累進して皇城使・昭州刺史となる。撫水蛮の羅世念が宜州を侵犯し、守将が戦死した。斌は歩騎三千を率いて進討し、盛夏の折、昼夜兼行で進軍し、懐遠寨に至って言った、「ここは要害の地、これを得れば生き延びられる」と。ある者が「どうして龍江に背を向けるのか」と言うと、笑って「それゆえに生きられるのだ」と答えた。弱さを見せて敵を驕らせると、蛮軍は果たして大挙して到来し、斌は将を選んで迎え撃たせ、敵に遭遇すれば直ちに退却するよう戒め、平坦な坂に誘い出し、八陣を布いて待ち受けた。左右の山上に疑兵を張ると、蛮兵が嶺に登って見て、初めて大いに驚いた。斌は騎兵を分けて両翼に配置し、自ら甲冑を着て歩み出て、兵士の先頭に立ち、決死の戦いをした。蛮軍は大敗し、世念は酋長ら四千八百人を率いて帰順した。これにより栄州団練使として宜州知州となり、西上閣門使・邕州知州に転じ、老齢を理由に帰還を請うて、高陽関副総管に任じられ、永興軍路を歴任した。召されて龍・神衛四廂都指揮使に任じられ、歩軍都虞候に至り、卒去、享年八十。寧州防禦使を追贈された。

原文安南入寇,復徙廣西。累遷皇城使、昭州刺史。撫水蠻羅世念犯宜州,守將戰死。斌提步騎三千進討,方暑,晝夜趣兵,至懷遠寨,曰:「此要害之地,得之則生。」或曰:「奈何背龍江邪?」笑曰:「是所以生也。」因示弱驕之,蠻果大至,斌選將迎敵,戒以遇之則走,誘至平阪,列八陣以待之。張疑兵左右山上,蠻登嶺望見,始大驚。斌分騎翼其旁,自被甲步出,為眾士先,殊死戰。蠻大敗,世念率酋黨四千八百內附。遂以榮州團練使知宜州,遷西上閣門使、知邕州,以老請還,除高陽關副總管,曆永興軍路。召拜龍、神衛四廂都指揮,至步軍都虞候,卒,年八十。贈寧州防禦使。

斌は老練な将軍として、恩信をもって辺境の人心を得、嶺南の珍貨は一つも蓄えなかった。辺境の官吏が功を求めて事を起こそうとする者も、皆憚って敢えて発動せず、あるいは巧みに諜報を捏造して紛争を誘おうとする者も、必ずその奸謀を挫いた。故に赴任先では何事もなく、士大夫に称えられた。

原文斌老於為將,以恩信得邊人心,嶺南珍貨,一無所蓄。邊吏欲希功造事,皆憚不敢發;或巧為諜報啟釁,亦必折其奸謀。故所至無事,士大夫稱之。

子に詵あり。

原文子 詵

子の詵は、蔭官により河北副将となり、累官して右武大夫・威州刺史・雄州知州に至った。制勝強遠弓の様式を上奏し、三百歩の外から堅固なものを破ることができ、辺境の人々は「鳳凰弓」と号した。相州観察使に進む。雄州に十年在任し、よく敵情を探ることができた。童貫が燕を攻めるに当たり、詵を召し出して計議し、彼を気に入った。麾下の兵を分けて副統制とし、种師道の軍に従って白溝に駐屯したが、十二日で退却した。追撃の兵が至り、北風が吹き大雨雹が降り、軍は視界を失った。契丹は盟約違反を責め、日暮れになってようやく帰還できた。ここにおいて貫は契丹がなお盛んで攻略すべからずとし、詵が敵情を探らず虚報したと弾劾し、濠州団練副使に貶し、筠州に安置した。

原文子詵,以蔭為河北副將,累官至右武大夫、威州刺史、知雄州。上制勝強遠弓式,能破堅于三百步外,邊人號為「鳳凰弓。」進相州觀察使。在雄十年,頗能偵敵。童貫攻燕,召詵計事,悅之。分麾下兵俾以副統制,從种師道軍于白溝,旬有二日而退。追兵至,北風,大雨雹,師不能視。契丹以背盟譙責,薄暮,始得還。於是貫以契丹尚盛未可圖,劾詵覘候不實,貶濠州團練副使,筠州安置。

詵は最初に燕攻略の謀を興したが、事態が次第に変わるのを見て、またもはや取るべからずと考えるようになった。故に燕平定の大赦があっても、ただ彼だけは帰還を許されなかった。後に復官し、卒去した。

原文詵始興取燕之謀,見事勢浸異,則又以為不宜取,故平燕肆赦,獨不得還。後復官,卒。

劉仲武

原文劉仲武

劉仲武、字は子文、秦州成紀の人。熙寧年間、殿庭で試射して異等の成績を収め、官に補せられた。数度従軍し、累転して礼賓使となり、涇原の将となる。夏人が天聖砦を犯さんと謀り、渭州の帥が諸将に会兵を檄し、約して「ある日を過ぎて賊が至らなければ、即ち去れ」と言った。仲武は正確な期日を探り出し、分屯を遅らせるよう請うた。帥は喜ばなかったが、ただ一将と仲武の軍を留め置き、期日通りに敵が到来し、力戦してこれを退けた。皇城使・熙河都監に遷る。湟州を回復し、東上閣門使・河州知州に進む。

原文劉仲武,字子文,秦州成紀人。熙寧中,試射殿庭異等,補官。數從軍,累轉禮賓使,為涇原將。夏人謀犯天聖砦,渭帥檄諸將會兵,約曰:「過某日賊不至,即去。」仲武諜得的期,乞緩分屯。帥不樂,但留一將及仲武軍,如期而敵至,力戰卻之。遷皇城使、熙河都監。復湟州,進東上閣門使、知河州。

吐蕃の趙懷德・狼阿章が数万の衆を率いて叛命した。仲武は数日間対峙し、密かに二将に千騎を率いてその営を叩かせ、戒めて「彼らが出てきても戦うな、急いで戻り、道の左に伏兵せよ」と言った。二将が戻ると、羌兵は果たしてこれを追い、伏兵に遭遇して大敗し、三千級を斬首し、西寧州を回復した。間もなく、懷德・阿章は降伏した。累進して客省使・栄州防禦使となる。

原文吐蕃趙懷德、狼阿章眾數萬叛命,仲武相持數日,潛遣二將領千騎扣其營,戒曰:「彼出,勿與戰,亟還,伏兵道左。」二將還,羌果追之,遇伏大敗,斬首三千級,復西寧州。未幾,懷德、阿章降。累進客省使、榮州防禦使。

高永年の西征を副将として補佐した。仲武は慎重に陣を固めようとしたが、永年は賊を軽んじて軽率に戦い、遂に大敗した。仲武は咎を引き受け自らを弾劾し、嶺南流罪に処せられた。命令が下る前に、夏人と戦って足を負傷した。朝廷はこれを哀れみ、その罰を赦し、西寧都護とした。

原文副高永年西征。仲武欲持重固壘,永年易賊輕戰,遂大敗。仲武引咎自劾,坐流嶺南。命未下,與夏人戰,傷足。朝廷閔之,貸其罰,以為西寧都護。

童貫が羌王子の臧征僕哥を招誘し、積石軍を収めようと、仲武を招いて計議した。仲武は言った、「王師が入れば、羌は必ず降伏するだろう。あるいは退いて巣窟に潜伏するなら、その機に乗ずることができる。ただ河橋の工事は大規模で、短期間では完成せず、緊急時に備えて予め準備すべきである。もし上命を待って報告を待てば、事機を失う恐れがある」。貫は便宜を許した。僕哥は果たして降伏を約したが、一人の子を人質に求めた。仲武は即ち子の錫を遣わし、河橋もまた完成した。仲武は師を率いて河を渡り、彼を連れて帰還した。貫はその功績を隠し、仲武もまた自ら言わなかった。徽宗が使者に金銭を持たせて辺境に遣わし、王者を捕らえた者に賜った。仲武のことを訪れ出し、召して対面させると、帝は労って言った、「高永年は卿の言を用いなかったため軍律を失い、僕哥の降伏と河南の平定は、卿の力である」。子が何人いるかと問うと、「九人」と答えた。皆に官を命じ、錫は閣門祗候とした。

原文童貫招誘羌王子臧征僕哥,收積石軍,邀仲武計事。仲武曰:「王師入,羌必降;或退伏巢穴,可乘其便。但河橋功力大,非倉卒可成,緩急要預辦耳。若稟命待報,慮失事機。」貫許以便宜。僕哥果約降,而索一子為質。仲武即遣子錫往,河橋亦成。仲武帥師渡河,挈與歸。貫掩其功,仲武亦不自言。徽宗遣使持錢至邊,賜獲王者。訪得仲武,召對,帝勞之曰:「高永年以不用卿言失律,僕哥之降,河南綏定,卿力也。」問幾子,曰:「九人。」悉命以官,錫閣門祗候。

仲武は西寧州知州となり、渭州に移り、召されて龍・神衛都指揮使となり、再び熙州・秦州に出向し、歩軍副都指揮使に遷る。熙州帥の劉法が死ぬと、また熙・渭都統制を兼ねた。歴任して徐州観察使・保静軍承宣使・瀘川軍節度使に至る。老齢のため明道宮提挙となり、再び起用されて熙州知州となった。任地で卒去、享年七十三。検校少保を追贈され、諡して威肅といった。子の錡は別に伝がある。

原文仲武知西寧州,徙渭州,召為龍、神衛都指揮使,復出熙州、秦州,遷步軍副都指揮使。熙帥劉法死,又以熙、渭都統制攝之。曆拜徐州觀察使、保靜軍承宣使、瀘川軍節度使。以老,提舉明道宮,再起為熙州。卒於官,年七三。贈檢校少保,諡曰威肅。子錡,別有傳。

曲珍

原文曲珍

曲珍、字は君玉、隴幹の人、代々豪族として知られた。宝元・康定年間、夏人が数度侵入したが、珍の諸父が族党を糾合してこれを防ぎ、敵は敢えて侵犯できなかった。ここにおいて曲氏は武勇をもって辺関に長く雄飛した。

原文曲珍,字君玉,隴幹人,世為著姓。寶元、康定間,夏人數入寇,珍諸父糾集族党禦之,敵不敢犯。於是曲氏以材武長雄邊關。

珍は馬を馳せ剣を試すことを好み、嘗て叔父と共に塞外に出て遊猟したところ、突然夏人に遭遇し、その包囲に陥った。馳せ撃ち大呼し、衆は披靡し、脱出することができたが、顧みて叔父が至らないので、再び短兵を持って還り決闘し、遂に共に脱した。秦鳳都鈐轄の劉溫潤はその材能を奇とし、一日、宝剣を出して令して曰く、「百歩外に一銭を射ることができる者には、これを与える」と。諸少年は百発しても中たらず、珍が後から至り、一矢でこれを破った。溫潤に従って古渭を城し、羌と戦い、先登して陣を陥れた。綏徳城監押となり、孤軍を提げて寇を拒ぎ、その大酋を斬り、閣門祗候を加えられた。洮西で功があり、内殿崇班に遷った。

原文珍好馳馬試劍,嘗與叔父出塞游獵,猝遇夏人,陷其圍中。馳擊大呼,眾披靡,得出,顧叔不至,復持短兵還決鬥,遂俱脫。秦鳳都鈐轄劉溫潤奇其材,一日,出寶劍令曰:「能射一錢于百步外者,與之。」諸少年百發不能中,珍後至,一矢破之。從溫潤城古渭,與羌戰,先登陷陳。為綏德城監押,提孤軍拒寇,斬其大酋,加閣門祗候。有功洮西,遷內殿崇班。

郭逵・趙禼の南征に従い、第一将となった。右江より進み、広源三州十二県を撫接し、偽守以下百六十人を降し、老稚三万六千口を得た。この行において、諸将の中で功最も多く、西染院使に遷った。疾を得て、輿に乗って京師に還ると、神宗は使者を遣わして臨問し、少しく間を置いて、入対を命じた。珍は二帥が和睦せず、上問必ずこれに及ぶであろうと思い、これを言えば必ず曲直が現れるであろうから、どうしてこれに対しようかと考え、余疾未だ平らかならずと以て解いた。帝は再び使をしてこれを奨労せしめ、弓剣・鞍勒を賜い、有司に命じてその郷の徭斌を蠲免せしめ、鄜延鈐轄に擢で、副総管に進めた。

原文郭逵、趙禼南征,為第一將。進自右江,撫接廣源三州十二縣,降偽守已下百六十人,老稚三萬六千口。是行也,功最諸將,遷西染院使。得疾,輿還京師,神宗遣使臨問,少間,令入對。珍念二帥不和睦,上問必及之,言之必形曲直,將何以對,乃以余疾未平為解。帝復使獎勞,賜之弓劍、鞍勒,命有司蠲其鄉徭斌,擢鄜延鈐轄,進副總管。

种諤に従って金湯・永平川を攻め、二千級を斬った。累遷して客省使となり、懐州防禦使・龍神衛四廂都指揮使を拝した。徐禧が永楽を城するに、珍は兵を率いて従った。版築まさに興らんとする時、羌の数十騎が無定河を渡り役事を覘う。珍はこれを追殺せんとしたが、禧は許さなかった。諜言に夏人が兵を聚めること甚だ急であるとあり、珍は禧に米脂に還り自ら守居することを請うた。明日果たして至り、禧もまた来た。珍曰く、「敵兵衆甚だ多く、公は内柵に退処し、諸将に檄して戦いを促すべきである」と。禧笑って曰く、「曲侯は老将なり、何ぞ怯むことあらんや」と。夏兵まさに渡らんとし、珍はその未だ集まらざるに乗じてこれを撃たんとしたが、またも許されなかった。及び城攻め急なると、また禧に勧めて曰く、「城中の井は深く泉は嗇しく、士卒は渇すること甚だしく、恐らく支えることができまい。兵気未だ衰えざるに乗じて、囲みを潰して出で、人をして自ら生を求ましむべきである」と。禧曰く、「この城は要地を拠る、奈何ぞこれを棄てん。かつ将として奔らば、衆心動揺す」と。珍曰く、「敢えて自らを愛するにあらず、ただ敕使・謀臣同じくここに没するを懼れ、国を辱しむるを恐れるのみ」と。数日して城陥ち、珍は縋って免れ、子弟の死者六人。また坐して皇城使に貶せられた。帝はその無罪を察し、自ら安養して以て後効を図るよう諭した。

原文從种諤攻金湯、永平川,斬二千級。累遷客省使,拜懷州防禦使、龍神衛四廂都指揮使。徐禧城永樂,珍以兵從。版築方興,羌數十騎濟無定河覘役,珍將追殺之,禧不許。諜言夏人聚兵甚急,珍請禧還米脂而自居守。明日果至,禧復來,珍曰:「敵兵眾甚,公宜退處內柵,檄諸將促戰。」禧笑曰:「曲侯老將,何怯邪?」夏兵且濟,珍欲乘其未集擊之,又不許。及攻城急,又勸禧曰:「城中井深泉嗇,士卒渴甚,恐不能支。宜乘兵氣未衰,潰圍而出,使人自求生。」禧曰:「此城據要地,奈何棄之?且為將而奔,眾心搖矣。」珍曰:「非敢自愛,但敕使、謀臣同沒於此,懼辱國耳。」數日城陷,珍縋而免,子弟死者六人。亦坐貶皇城使。帝察其無罪,諭使自安養,以圖後效。

元祐初め、環慶副総管となった。夏人が涇原に寇し、四十万と号した。珍は虚を搗き三百里を馳せ、これを曲律山に破り、千八百人を俘斬し、その囲みを解いた。東上閤門使・忠州防禦使に進んだ。卒す、年五十九。珍は士卒を撫するに善く、その死力を得た。書を知らざるも、忠朴にして義を好み、天性に本づく。

原文元祐初,為環慶副總管。夏人寇涇原,號四十萬,珍搗虛馳三百里,破之曲律山,俘斬千八百人,解其圍。進東上閤門使、忠州防禦使。卒,年五十九。珍善撫士卒,得其死力。雖不知書,而忠樸好義,本於天性。

劉闃

原文劉闃

劉闃は、字を静叔といい、青州北海の人である。拳力を以て軍校となり、延州軍に従って塞外に出て敵に遇い、矢は左耳を貫いたが、戦いを顧みず、衆はその勇を服した。文彦博に従って貝州を討ち、城下に次ぐ。壘を攀じて登らんとし、賊は曲戟を以てその甲を鉤す。闃はこれを裂いて墜ちた。議者は地道を穿って入らんと欲した。闃曰く、「地を穴して土を積めば、賊まさにこれを知らん。城は河に瀕す。もし昼は土を囊し夜は諸河に投ずれば、知る者なかるべし」と。彦博は然りとす。穴成り、闃は短兵を持って先に入り、衆始めて従い、遂に陴に登り、縄を引いて上り、遅明、師畢く入る。貝州平らぎ、功第一、虎翼指揮使に擢でられた。累遷して宣武神衛都指揮使・昭州刺史・辰州団練使となった。

原文劉闃,字靜叔,青州北海人。以拳力為軍校,從延州軍出塞遇敵,矢貫左耳,戰不顧,眾服其勇。從文彥博討貝州,次城下,攀壘欲登,賊以曲戟鉤其甲,闃裂之而墜。議者欲穿地道入,闃曰:「穴地積土,賊且知之。城瀕河,若晝囊土而夜投諸河,宜無知者。」彥博以為然。穴成,闃持短兵先入,眾始從,遂登陴,引繩而上,遲明,師畢入。貝州平,功第一,擢虎翼指揮使。累遷宣武神衛都指揮使、昭州刺史、辰州團練使。

韓絳が陝西を宣撫するに、詔して闃に河東より犄角たらしむ。鉄冶溝に至り、夏人大いに集まる。衆懼る。闃は自ら殿后し、鋭驍ぎょうを率いて搏戦し、飛矢体を蔽うも却かず、敵解き去る。

原文韓絳宣撫陝西,詔闃自河東為犄角。至鐵冶溝,夏人大集。眾懼,闃自殿后,率銳驍搏戰,飛矢蔽體不為卻,敵解去。

冀州駐泊総管となった。河水漲り、堤防墊急なり。闃は郡守に青楊道口を開き以て水怒を殺すことを請うたが、敢えてその責を任ずる者なし。闃躬から往きて浚決し、水退き、冀人はこれを頼んだ。左金吾大将軍を以て致仕した。卒す、年八十五。

原文為冀州駐泊總管。河水漲,堤防墊急,闃請郡守開青楊道口以殺水怒,莫敢任其責。闃躬往浚決,水退,冀人賴之。以左金吾大將軍致仕。卒,年八十五。

郭成

原文郭成

郭成は、字を信之といい、徳順中安堡の人である。軍に従い、供奉官を得た。王師霊武に趨るに、成は涇原兵を将いて夏人を漫𠼪隘に撃ち破った。城下に至り、羌の白馬に乗って陣前を馳突する者あり。大将劉昌祚曰く、「此れを取る者は誰ぞ」と。成は馬を躍らせてその首を梟し以て献じ、秩四等を進めた。

原文郭成,字信之,德順中安堡人也。從軍,得供奉官。王師趨靈武,成將涇原兵擊破夏人於漫𠼪隘。至城下,有羌乘白馬馳突陣前,大將劉昌祚曰:「誰能取此者?」成躍馬梟其首以獻,進秩四等。

朝廷平夏城を築き、将を置いてこれを戍らせ、また五砦を以て環らした。渭帥章楶が諸将に可守の者を問うと、皆曰く、「郭成に非ざれば不可」と。遂に往きて守らしむ。夏人は地を失うを恚り、国を空しくして入り争い、謀りて曰く、「平夏は諸壘を視て最大、郭成は最も兵を知る」と。遂に没煙峡より連営百里、飛石火を激し、昼夜息まず。成は折可適と議し、勝に乗じて深入し、万騎を以て異道より並び進み、遂に阿埋・都逋の二大酋を俘えた。捷聞こえ、雄州防禦使・涇原鈐轄に進んだ。徽宗は諸軍に詔して並力して綏戎・懐戎の二堡を築かしむ。成は独り合流の役を当たり、雪中に暴露し、疾を感じて卒した。帝これを悼むこと甚だしく、金帛を以て賻し、その子婿に官した。

原文朝廷築平夏城,置將戍之,又環以五砦。渭帥章楶問可守者于諸將,皆曰:「非郭成不可。」遂使往守。夏人恚失地,空國入爭,謀曰:「平夏視諸壘最大,郭成最知兵。」遂自沒煙峽連營百里,飛石激火,晝夜不息。成與折可適議乘勝深入,以萬騎異道並進,遂俘阿埋、都逋二大酋。捷聞,進雄州防禦使、涇原鈐轄。徽宗詔諸軍並力築綏戎、懷戎二堡,成獨當合流之役,暴露雪中,感疾卒。帝悼之甚,賻以金帛,官其子婿。

成は財を軽んじ施すを好み、名は西鄙に震う。既に没し、廉訪使者王孝謁が朝廷に白す。帝手書を以て報じて曰く、「郭成は忠を尽くして国に報い、民に功あり。宜しく祀典に載すべし」と。その廟に榜して「仁勇」と曰う。子の浩は、紹興中に西辺の大将となり、節度使に至った。

原文成輕財好施,名震西鄙。既沒,廉訪使者王孝謁白於朝,帝手書報曰:「郭成盡忠報國,有功於民,宜載祀典。」榜其廟曰「仁勇」雲。子浩,紹興中為西邊大將,至節度使。

賈岩

原文賈岩

賈岩は、字を民瞻といい、開封の人である。少時、騎射に善く、喟然として歎じて曰く、「大丈夫世に生るるは、要は自ら奮い、名を揚げ親を顕わすべし」と。遂に家を起して戎に従う。神宗は材武を選び、内殿承制・慶州荔原堡都監となす。

原文賈岩,字民瞻,開封人。少時,善騎射,喟然歎曰:「大丈夫生世,要當自奮,揚名顯親可也。」遂起家從戎。神宗選材武,以為內殿承制、慶州荔原堡都監。

林広が瀘夷を討つに、将として前鋒を辟く。また河東将となり、西夏兵を明堂川に敗る。累功して転じて庄宅副使となる。路監に遷る。紹聖中、夏兵数万、麟州神堂砦を囲むこと甚だ急なり。岩は数百騎を以て往きて援け、その下に令して曰く、「国家事無き時は、厚禄を惜しまず汝輩を養うは、正に一旦の用に待つためなり。今力は敵せざるも、吾は誓って死を以て報ぜん」と。衆感厲し、即ち屈野河に循いて行くこと且つ五里、北攔坡嶺上に拠り、一矢にしてその酋を殪し、衆駭きて潰る。哲宗嘉歎し、袍帯を以て賜う。皇城使・威州刺史を知り、路鈐轄に遷った。

原文林廣討瀘夷,辟將前鋒。又為河東將,敗西夏兵於明堂川。累功轉莊宅副使。遷路監。紹聖中,夏兵數萬圍麟州神堂砦甚急,岩以數百騎往援,令其下曰:「國家無事時,不惜厚祿養汝輩,正以待一旦之用耳。今力雖不敵,吾誓以死報!」眾感厲,即循屈野河行,且五里,據北攔坡嶺上,一矢殪其酋,眾駭潰。哲宗嘉歎,賜以袍帶。知皇城使、威州刺史,遷路鈐轄。

王岩は軍中に二十年、智略に長け、士卒を慰撫統御し、向かうところ必ず勝った。時に良将として召し出され、留任して龍神衛四廂都指揮使に抜擢され、歩軍都虞候・濠州団練使に遷った。卒す。享年五十二。雄州防禦使を追贈された。

原文岩在兵間二十年,在智略,能拊禦士卒,所鄉輒勝。時以良將入對,留擢龍、神衛四廂都指揮使,遷步軍都虞候、濠州團練使。卒,年五十二,贈雄州防禦使。

張整

原文張整

張整は字を成伯といい、亳州贊阝陽の人である。初め皇城司の御龍籍に属し、供奉官に補され、利州・文州都巡検使となった。辺境の夷族が毎年省地を掠奪するが、役人は慣れてこれを咎めず、かえって物を贈って去るのを待っていた。整はその貪暴が止まないのを憎み、密かに死士を募り、その来襲の時を狙って襲撃し、ほとんど全滅させた。有司が事を生じさせたと弾劾したが、神宗はこれを壮とし、問わなかった。

原文張整,字成伯,亳州贊阝陽人。初隸皇城司禦龍籍,補供奉官,為利、文州都巡檢使。邊夷歲鈔省地,吏習不與校,至反遺之物,留久乃去。整惡其貪暴無已,密募死士,時其來,掩擊幾盡。有司劾生事,神宗壯之,不問。

荊湖の将領に転じ、溪蛮の地を開拓して九城を築き、兵を督して鎮守した。また大田で蛮を破り、一年のうちに三度昇進した。犬吉狑が万の衆を率いて舟に乗り托口に屯し、黔江城に迫った。当時守兵はわずか五百、人心は大いに恐れた。整はその半数を托口の傍らに伏せ、戒めて言った、「我が朝に金斗崖を渡り、幟を挙げたならば、喚き立てて前進せよ」。夜明けに及んで、残りの半数を率い、艨艟を縛り、旗鼓を建て、流れを遡って急ぎ進んだ。賊はこれを見て大笑した。幟が挙がると伏兵が発し、前後から合撃し、人々は必死に戦い、蛮は踏みつけられて江中に投げ込まれ、殺戮捕獲は数えきれなかった。広西鈐轄となったが、降伏した徭を殺した罪に坐し、江州酒税監に責め降とされた。また涇原・真定・京東・環慶の鈐轄となった。

原文調荊湖將領,拓溪蠻地,築九城,董兵鎮守。又破蠻於大田,歲中三遷。犬吉狑萬眾乘舟屯托口,迫黔江城,時守兵才五百,人情大恐。整伏其半於托口旁,戒曰:「須吾旦度金鬥崖,舉幟,則噪而前。」及旦,率其半,縛艨艟,建旗鼓,溯流急趨。賊望見大笑。幟舉伏發,前後合擊,人人殊死鬥,蠻騰踐投江中,殺獲不可計。為廣西鈐轄,坐殺降徭,責監江州酒稅。復為涇原、真定、京東、環慶鈐轄。

整は軍を厳明に統率し、哲宗が輔臣にそのことを訪ね、召し出して対面させ、龍神衛四廂都指揮使・管幹馬軍司に抜擢した。卒す。官は威州刺史に至った。

原文整蒞軍嚴明,哲宗嘗訪於輔臣,召之對,擢為龍神衛四廂都指揮使、管幹馬軍司。卒,官至威州刺史。

張蘊

原文張蘊

張蘊は字を積之といい、開封の将家の子である。従軍して小校となり、劉昌祚に属した。霊州に至り、敵に遭遇して矢に当たったが、鏃を抜いて再び戦い、功により金帯を賜った。安南征伐に従い、富良江に駐屯した時、諸将は躊躇して進まず、蘊は裳をからげて先に渡り、衆はそれに従った。蛮は逃げ走り、巫をして髪を振り乱して崖に登り厭勝を行わせたが、蘊がこれを射ると、弦に応じて斃れ、一軍は歓声をあげた。

原文張蘊,字積之,開封將家子也。從軍為小校,隸劉昌祚。至靈州,遇敵中矢,拔鏃復戰,以功賜金帶。從征安南,次富良江,諸將猶豫未進,蘊褰裳先濟,眾隨之。蠻遁走,使巫被發登崖為厭勝,蘊射之,應弦而斃,一軍歡噪。

京西・涇原の将を歴任し、綏徳・懐寧・順寧軍など六城の知事となり、蓄積した粟は三十万斛に至った。兵を率いて宥州を攻め取り、大呉神流堆で夏人を破った。宥州監軍が鉄騎数千を率いて松林堡に向かうと、蘊は間諜でこれを知り、兵を長城嶺に留めて待ち、諸部に戒めて言った、「賊は遠く来たり気勢が盛んであるが、少し休めば必ず疲弊する。疲弊したところを撃てば、必ず勝つ」。果たして勝利して帰還した。夏人が順寧を寇すと、蘊は狭間に伏兵を置き、呼び声を聞いたら起つと約束し、数百十人を俘斬し、馬・兵器を多く獲た。累遷して皇城使・栄州刺史・成州団練使・通州防禦使となり、開徳・河陽馬歩軍副総管となった。

原文曆京西、涇原將,知綏德、懷甯、順寧軍等六城,儲粟至三十萬斛。將兵取宥州,破夏人于大吳神流堆。宥州監軍引鐵騎數千趨松林堡,蘊諜知之,頓兵長城嶺以待,戒諸部曰:「賊遠來氣盛,少休必困,困而擊之,必捷。」果以勝歸。夏人寇順寧,蘊置伏狹中,約聞呼則起,俘斬數百十人,獲馬、械甚眾。累遷皇城使、榮州刺史、成州團練使、通州防禦使,開德、河陽馬步軍副總管。

顕粛皇后の母が鄭氏から再嫁して蘊に嫁いだため、徽宗はたびたび恩をもってその官を進めようとしたが、つねに力辞して受けようとせず、人はこれを賢とした。卒す。享年七十三。感徳軍節度使を追贈され、諡して栄毅といった。

原文顯肅皇后母自鄭氏再適蘊,徽宗屢欲以恩進其官,輒力辭不敢受,人以為賢。卒,年七十三,贈感德軍節度使,諡曰榮毅。

王恩

原文王恩

王恩は字を澤之といい、開封の人である。善射をもって羽林に入り、神宗が衛士を閲した時、強弓を引き的中させ、かつその容貌が魁偉であったので、供備庫副使に補された。河州巡検となり、夏の羌が蘭州を寇すと、恩は城下で奮戦し、二矢を受けたが、抜き去って再び戦い、意気はますます奮った。涇原の将に遷った。かつて軍を整えて万恵嶺から出た。兵士は飢えて食を欲し、恩は倍道兼行したので、衆は騒然とした。やがて敵数万に遇い、兵を率いて先に壁壘に入ると、井戸や竈がすべて備わっており、諸将はようやく服した。羌が壁を叩いて面会を願うと、恩は単騎でまっすぐに出て、遠くからこれと語り、一夜のうちに、羌は引き去った。

原文王恩,字澤之,開封人。以善射入羽林,神宗閱衛士,挽強中的,且偉其貌,補供備庫副使。為河州巡檢,夏羌寇蘭州,恩搏戰城下,中兩矢,拔去復鬥,意氣彌厲。遷涇原將。嘗整軍出萬惠嶺。士饑欲食,恩倍道兼行,眾洶洶。已而遇敵數萬,引兵先入壁,井灶皆具,諸將始服。羌扣壁願見,恩單騎徑出,遙與語,一夕,羌引去。

哲宗が召し出して見ると、左右に語って言った、「先帝の時の宿衛の人々は、皆このように傑出していたのだ」。留めて龍神衛都指揮使とし、馬軍都虞候に遷った。契丹の使者が来朝し、詔により陪射を命じられると、使者が問うて言った、「涇原に王という騎将がいると聞くが、これではないか」。答えて言った、「その通りである」。三発射てすべて命中し、使者以下は互いに見て皆歎息した。

原文哲宗召見,語左右曰:「先帝時宿衛人,皆傑異如此。」留為龍、神衛都指揮使,遷馬軍都虞候。契丹使來,詔陪射,使者問:「聞涇原有王騎將,得無是乎?」應曰:「然。」射三發皆中,使以下相視皆歎息。

出て涇原副都総管となり、併せて秦・渭・延・熙の四路の兵を護り、西安を城し、臨羌・天都など十余りの堡塁を築いた。羌が平夏を包囲すると、諸校は出戦しようとしたが、恩は言った、「賊は国を傾けて遠く寇してくるので、鋒を争うのは難しい。全をもってその疲弊を制すべきである。彼らは野に掠奪するものなく、必ず離散する。離散して伏兵に遇えば、必ず敗れる」。そこで先に万人を進めて伏兵を設け、羌がすでに退師すると、果たして大いに獲るところがあった。

原文出為涇原副都總管,並護秦、渭、延、熙四路兵,城西安,築臨羌、天都十餘壘。羌圍平夏,諸校欲出戰,恩曰:「賊傾國遠寇,難以爭鋒,宜以全制其敝。彼野無所掠,必攜,攜而遇伏,必敗。」乃先行萬人設伏,羌既退師,果大獲。

徽宗が即位すると、衛州防禦使として熙河に転じ、渭州知事に改めた。隠田二万三千頃を検出し、弓箭士に分けて耕屯させ、三十一部とし、糧秣の輸送を省いた。辺境の臣が車戦の議を献上すると、帝は恩にこれを訪ねた。恩は言った、「古にはあった。偏箱・鹿角である。今は相去ることますます遠く、人は習熟せず、危急の際には用い難いであろう。習熟せざる器を操り、敵と周旋することは、まず自ら敗れるのみである」。帝はその答えを善とした。馬歩軍都指揮使・殿前都指揮使・武信軍節度使に遷った。

原文徽宗立,以衛州防禦使徙熙河,改知渭州。括隱地二萬三千頃,分弓箭士耕屯,為三十一部,以省饋餉。邊臣獻車戰議,帝以訪恩,恩曰:「古有之,偏箱、鹿角,今相去益遠,人非所習,恐緩急難用。夫操不習之器,與敵周旋,先自敗耳。」帝善其對。遷馬步軍都指揮使、殿前都指揮使、武信軍節度使。

かつて禁卒数十人を淘汰した時、枢密院が都承旨に命じて再検視させようと請うた。恩は言った、「朝廷が三帥を選び、軍政を付託したのに、今数十人の冗卒を去ることで信じられないならば、その他のことは為し得ない」。帝は直ちにこれを罷めた。眷顧甚だ寵厚で、居宅を賜り、また城西の地を賜って園囿とした。病に罹り、検校司徒しとをもって致仕した。薨去。享年六十二。開府儀同三司を追贈された。

原文嘗汰禁卒數十人,樞密請命都承旨覆視,恩言:「朝廷選三帥,付以軍政,今去數十冗卒而不足信,即其他無可為者。」帝立為罷之。眷顧甚寵,賜居宅,又賜城西地為園囿。屬疾,以檢校司徒致仕。薨,年六十二,贈開府儀同三司。

楊應詢

原文楊應詢

楊應詢、字は仲謀、章恵皇后の族孫なり。信安保定軍・霸は州を歴知す。塘濼の間の地は沮洳にして、水潦集まり易く、居人は板を浮かべて以て渡る。應詢は堤防を増して長衢と為し、其の旁を浚いて以て流れを泄らし、民之に利頼す。河北沿邊安撫使と為る。徽宗、帰信・容城両県の弓手を以て契丹の憚る所と為すを以て、千人に増やさんと欲し、或いは事を生ずるを恐る。應詢曰く、「吾は他盗に備えんと欲するのみ、彼安んぞ能く我を禁ぜんや」と。遂に之を増す。

原文楊應詢。字仲謀,章惠皇后族孫也。曆知信安保定軍、霸州。塘濼之間地沮洳,水潦易集,居人浮板以濟。應詢增堤防為長衢,浚其旁以泄流,民利賴之。為河北沿邊安撫使。徽宗以歸信、容城兩縣弓手為契丹所憚,欲增為千人,或恐生事,應詢曰:「吾欲備他盜,彼安能禁我?」卒增之。

雄州を知る。朝廷多く西夏の地を取り、契丹は姻婭を以て言と為し、使を遣わして之を還すを乞う。得ずして兵を擁して塞に並び、中外恫疑す。應詢曰く、「是れ特に虚声を為して我を嚇すのみ。願わくは兵を治め粟を積み備え有るを示し、彼将に聞風して自ら戢まん」と。明年、果たして兵を還す。復た其の相臣蕭保先・牛温舒を遣わして来請し、詔して應詢に境に逆わせる。既に至り、帝遣わして以て来る所以を問わしむ。應詢対えて曰く、「願わくは前議を固守せん」と。尋いで高陽関路鈐轄を兼ぬ。

原文知雄州,朝廷多取西夏地,契丹以姻婭為言,遣使乞還之,不得,擁兵並塞,中外恫疑。應詢曰:「是特為虛聲嚇我耳。願治兵積粟示有備,彼將聞風自戢。」明年,果還兵。復遣其相臣蕭保先、牛溫舒來請,詔應詢逆於境。既至,帝遣問所以來,應詢對:「願固守前議。」尋兼高陽關路鈐轄。

辺人北盗呂懺児を捕え得たり。契丹は略して平民を執えたりと謂い、詔有りて使わしめて縦ち釈さしむ。應詢言す、「吾は盗を執うるを知るのみ、其の求むるに因りて遂に之を与うるは、是れ怯を示すなり」と。与えず。遂に我が民を質し、固く之を索む。應詢は詔に違うを以て秩を貶せられ、再び遷りて洋州観察使と為る。入りて万寿観を提挙す。契丹使を館す。柑を賜うべくして貢未だ至らず、有司他の物を以て代う。使受けず、慶詢言を以て之を折す。乃ち下拝す。復た定州・真定・大名副都総管と為る。卒す。年六十三。昭化軍節度使を贈られ、諡して康理と曰う。

原文邊人捕得北盜呂懺兒,契丹謂略執平民,有詔使縱釋。應詢言:「吾知執盜耳,因其求而遂與之,是示以怯也。」不與。遂質我民,固索之。應詢以違詔貶秩,再遷洋州觀察使。入提舉萬壽觀。館契丹使,當賜柑而貢未至,有司代以他物,使不受,慶詢以言折之,乃下拜。復為定州、真定、大名副都總管。卒,年六十三,贈昭化軍節度使,諡曰康理。

趙隆

原文趙隆

趙隆、字は子漸、秦州成紀の人なり。勇敢を以て募に応じ、王韶に従い熙河を取る。大将姚麟出戦し、重創を被り、謂いて曰く、「吾渇きて死せんと欲す、水を得れば尚ほ活くべし」と。時既に暮れ、泉有りて賊営に近し。隆独り身を潜めて往き、衣を泉に漬く。賊覚ゆ。隆且に闘い且に行き、帰りを得、衣を持ち水を裂きて以て麟に飲ます。麟乃ち蘇る。又た李憲に従い西市を破る。師鬼章を討つ。外河諸羌皆兵を以て之に応ず。隆衆を率いて先ず至り、其の橋を斧ち、鬼章援を失い、乃ち擒と成る。

原文趙隆,字子漸,秦州成紀人。以勇敢應募,從王韶取熙河。大將姚麟出戰,被重創,謂曰:「吾渴欲死,得水尚可活。」時已暮,有泉近賊營,隆獨身潛往,漬衣泉中。賊覺,隆且鬥且行,得歸,持衣裂水以飲麟,麟乃蘇。又從李憲破西市。師討鬼章,外河諸羌皆以兵應之。隆率眾先至,斧其橋,鬼章失援,乃成擒。

涇原の将と為り、平夏川に戦い、功最も多し。崇寧中、熙河兵を鈐轄し、前軍を将いて邈川より出で、鄯・廓を復するに預かる。夏人涇原を寇す。詔して熙河に深入して其の兵を分たしむ、専ら東方に向かわしむる無からしむ。師鉄山に至る。隆先ず登り、士皆殊死に戦う。夏人解き去る。召して闕に詣らしむ。徽宗之を慰労して曰く、「鉄山の戦、卿の力なり」と。

原文為涇原將,戰平夏川,功最多。崇寧中,鈐轄熙河兵,將前軍出邈川,預復鄯、廓。夏人寇涇原,詔熙河深入分其兵,無令專鄉東方。師至鐵山,隆先登,士皆殊死戰,夏人解去。召詣闕,徽宗慰勞之曰:「鐵山之戰,卿力也。」

童貫と燕雲の事を論ず。隆極言して不可とす。貫曰く、「君能く此れを共にせば、当に殊拜有るべし」と。隆曰く、「隆武夫なり、豈に賞を干いて以て祖宗二百年の好を敗らんや。異時に釁を起さば、万死も責に謝するに足らず」と。貫奪うべからざるを知り、白して以て西寧州を知らしめ、隴右都護を充てしむ。羌豪信服し、十二種戸三万六千、内地に屯せんことを願う。

原文童貫與論燕雲事,隆極言不可。貫曰:「君能共此,當有殊拜。」隆曰:「隆武夫,豈敢幹賞以敗祖宗二百年之好?異時起釁,萬死不足謝責。」貫知不可奪,白以知西寧州,充隴右都護。羌豪信服,十二種戶三萬六千,願屯內地。

帥劉法西討す。隆奇兵を以て羌を襲い、羌潰え、震武を城す。遷りて温州防禦使、龍神衛・捧日天武都指揮使と為り、仍って本道馬歩副都総管と為る。卒す。鎮潼軍節度使を贈られ、詞臣に命じて碑を制せしめ、帝額に篆して「旌忠」と曰う。

原文帥劉法西討,隆以奇兵襲羌,羌潰,城震武。遷溫州防禦使,龍神衛、捧日天武都指揮使,仍為本道馬步副都總管。卒,贈鎮潼軍節度使,命詞臣制碑,帝篆額曰「旌忠」。

論じて曰く、国家有る者は武備を忘るべからず。故に高祖こうそは馬上に天下を得て、猶ほ「安くにか猛士を得て四方を守らん」の歎有り。然れども将領と為るを貴ぶ所以は、其の武勇を取るのみに非ざるなり。必ず忠を以て主と為し、智を以て本と為し、勇を以て用と為す。其の成功に及びては、小大の殊有るも、倶に以て主を尊び民を庇うに足るなり。苗授は篯南の城すべからざるを策し、履は阿章を討たんことを肯せず、永清は地を以て敵に与せず、文鬱は香崖を撫納し、紹能の忠勇、珍の忠樸好義、光祖・應詢の敵を料るに明らかなる、守約及び整の衆を禦するに厳明なる、斌・浩の善く戦う、岩・恩の善く射る、闃の出ずれば則ち先登し、入れば則ち殿后す。其の材は殊なるも、其の以て奔走禦侮の責を四境に任するに一なり。皆辺陲を捍衛し、勤めに服して死に致し、明詔褒飭し、廟食一方するは、宜なるかな。君萬は誣を挟みて怨に報い、贍は狡譎にして功を喜ぶ。国に常罰有り、父子謫死すも亦た宜なり。詵は首めて燕を取り、終に其の説を変え、既に黜せられて旋ち復すは、刑を失うなり。至りて若し仲武は敗れば則ち咎を引きて己を責め、勝てば則ち自ら功を言わず、隆は釁を啓き賞を干かず、蘊は甘んじて分にし栄を辞す。士君子の行有り。尤も武士の難く能くする所なり。

原文論曰:有國家者不可忘武備,故高祖以馬上得天下,而猶有「安得猛士守四方」之歎。然所貴為將領者,非取其武勇而已也,必忠以為主,智以為本,勇以為用,及其成功,雖有小大之殊,俱足以尊主庇民也。苗授策篯南之不可城,履不肯討阿章,永清不以地與敵,文鬱撫納香崖,紹能之忠勇,珍之忠樸好義,光祖、應詢明於料敵,守約及整禦眾嚴明,斌、浩之善戰,岩、恩之善射,闃之出則先登,入則殿后,其材雖殊,其可以任奔走禦侮之責於四境則一也。成以捍衛邊陲,服勤致死,明詔褒飭,廟食一方,宜哉。君萬挾誣報怨,贍狡譎喜功,國有常罰,父子謫死,亦宜也。詵首取燕,終變其說,既黜旋復,為失刑矣。至若仲武敗則引咎責己,勝則不自言功,隆不敢啟釁幹賞,蘊甘分而辭榮,有士君子之行焉,尤武士之所難能也。