宋史

列傳第一百〇九 苗授 王君萬 張守約 王文郁 周永淸 劉紹能 王光祖 李浩 和斌 劉仲武 曲珍 劉闃 郭成 賈嵓 張整 張蘊 王恩 楊應詢 趙隆

苗授

苗授、字は授之、潞州の人である。父の苗京は、慶曆年間に、死を以て麟州を守り元昊に抗した者である。若くして胡翼之に師事し、国子生に補せられ、蔭により供備庫副使に至った。

王韶が鎮洮を取るに当たり、苗授は先鋒となり、香子城を破り、河府を抜いた。羌は敗れたとはいえ、気勢なお鋭く、直ちに香子を包囲して帰還する軍を迎え撃った。王韶は将の田瓊を遣わしてこれを救わせたが、田瓊は戦死した。そこで騎兵五百を選抜して苗授に属させると、苗授は奮撃してこれを破った。兵士を二日休ませると、羌はまた架麻平で邀撃し、雨のように矢を注いだ。兵衆は恐れたが、苗授は令して曰く、「ただ進め、恐れるな。氈牌数百がやがて至る」と。先を行く者が伝呼すると、羌は驚いて乱れた。数十度力戦し、四千級を斬首した。また牛精穀においてこれを破り、珂諾城を取り、河湟の地をことごとく得た。

徳順軍の知軍となり、三度遷って西上閣門使となった。鬼章が河州を寇すと、詔して苗授を往かせた。一戦にして撒宗を克ち、功績を論じて第一とされ、ついに州事を知った。四方館使・栄州刺史を加えられた。燕達に従って銀川を取り、木征を降し、これを京師に献じた。引進使・果州団練使・涇原都鈐轄を加えられた。

契丹に使いするよう召されると、神宗は労って曰く、「かつての香子の役は、汝が寡をもって衆を撃たなければ、我が事を危うくするところであった」と。秦鳳副総管と為し、熙河に移り、また河州を知った。李憲に副って露骨山において生羌を討ち、万級を斬首し、その大酋の泠雞樸を獲た。羌族十万七千帳が内附し、威は洮西に震った。昌州団練使・龍神衛四廂都指揮使に拝され、雄州・熙州の知州に移った。

元豊の西討に際し、苗授は古渭より出て定西を取り、禹臧花麻の諸族を掃蕩し、五万戸を降した。蘭州を城すると、女遮谷において賊数万に遇い、山に登って逆襲し、敗れて塁中に伏し、半夜遁走した。苗授は天都山を越え、南牟を焼き、没煙に屯した。およそ師行すること百日、転闘千里にして、ようやく塞に入った。

苗授は事に遇い意見を持して苟も迎合しなかった。初め徳順に在った時、或る者が篯南に城を築くことを議したが、苗授は曰く、「地は大河に阻まれ、糧道通ぜず、万全の計ではない」と。役は即座に止んだ。師が霊武を征するに当たり、詔して高遵裕を援けよと命じると、即ち進退の利害を条上して甚だ切実であった。歴任して歩軍副都指揮使・威武軍節度観察留後となった。元祐三年、武泰軍節度使・殿前副都指揮使に遷った。一年余りして、保康節度使として潞州を知り、上清太平宮を提挙し、また殿前使となり、薨じた。年六十七。開府儀同三司を贈られ、諡して莊敏といった。子に苗履あり。

子 苗履

苗履は束髮して戎に従った。苗授が木征を降した時、苗履はこれを護送して京に至り、閣門祗候を得た。熙・延・渭・秦の四路鈐轄を歴任し、鎮戎軍を知った。その父の在世時、すでに四方館使・吉州防禦使の官にあったが、事に坐して房州に流され、起用されて西上閣門副使・熙河都監となった。また責められて右清道率府率と為り、峽州の酒税を監った。元符初年、その官を悉く還され、熙河蘭会都鈐轄として蘭州を知った。

詔して王贍とともに青唐を取らせ、姚雄と合兵して峗羌の篯羅結を討った。王贍の将の李忠が戦いに敗れると、篯羅結は大いに衆を集め、青唐を囲まんと欲すと宣言した。苗履・姚雄が将に至ると、羌は陣を列ねて待ち受け、勢い甚だ盛んであった。苗履は軍士を叱して弓を鞬に納め、刀を抜いて突入した。羌は巣穴を恃んで殊死に闘い、梟将の陳迪・王亨の輩は皆反走したが、苗履のみは馬を駐めて動かなかった。ある酋長が青袍白馬で突き進み、手に剣を以て苗履を撃ったが、帳下の王拱が弓でこれを防ぎ、辛うじて免れた。また苗履の背後に回り出て、軍を二つに断たんとした。別将の高永年が率いる所部が数十合力戦し、羌は退いた。乗勝して蘭宗堡を囲んだが、抜くことができなかった。日暮れに兵を収めて営に入ると、羌は夜中に潰走した。明日、兵を放って四方を掠め、その族帳を焼いて還った。

やがて阿章が叛くと、詔して苗履と种樸に河を渡って討ち掃蕩させたが、兵少なしと辞したため、种樸は遂に陥った。苗履の前功を録し、龍神衛四廂都指揮使・成州団練使に抜擢し、慶州を知らせ、渭州に移し、捧日・天武都指揮使に進めた。これ以後の事績は史に伝を失う。子の苗傅は、『叛臣傳』にある。

王君萬

王君萬は、秦州寧遠の人である。殿侍として秦鳳指揮使となった。王韶が辺境を開拓するに当たり、青唐の大酋である俞龍珂が帰国したが、ただ別の羌である新羅結のみが従わなかった。経略使の韓縝は諸将に一月の期日を与えてこれを取らせた。王君萬は狩人を装い、鳥獣を追ってその居所に至り、次第に親しくなり、ともに狩りをし、隙をみてこれを打ち、馬から墜ちさせ、首を斬って馳せ帰り献じた。ちょうど一月に及ばず、功を積んで閣門祗候を得た。

王師が武勝を平定すると、首領の薬廝逋が于闐の貢物を邀撃し劫掠したため、帥師として討伐した。君萬は南山より出撃し、険地を踏破して地を略取す。羌は山谷間に潜伏し、忽ち一騎が躍り出て、矛を横たえて将に及ばんとす。君萬は急ぎ側身してこれを避け、首を回して奮撃し、斬って徇しむ。その衆は驚き号し、相率いて命令を聴く。斬りし者は即ち薬廝逋なり。また北関・南市を破り、功最も多し。熙河路鈐轄に擢げられ、英州刺史・達州団練使を進領し、絹五百を賜わる。

洮西の羌叛き、河州を囲む。君萬、王韶に請うて曰く、南撒宗城は小にして堅く、強勇の集まる所なり。若し兵を併せてこれを破らば、囲み自ずから解くべしと。韶その計を用い、囲み果たして解く。累官して客省使となり、副総管と為る。結糴銭数万緡を貸したるに坐し、転運使孫迥に糾弾せられ、秩一等を貶せらる。西山・鉄城を討ち功あり、故の官職を復す。君萬、孫迥を怨み、番官の木丹をしてこれを訟えしめ、秦・隴にて鞫す。また鳳翔鈐轄に貶せられ、家財を籍没して逋負を償わしむ。遂に憤りて卒す。子に贍あり。

子 贍

贍は初め李憲に因りて進む。戦功を立て、積官して皇城使に至り、開州団練使を領す。元符中、河州を知る。熙帥の鐘傅、白草原の賞を冒したるを以て、秦にて獄治す。詔して転運使張詢に諸将に自首を得しむべく諭さしむ。贍、詐りて首級を増やしたるを具に伏し、因りて詢に説きて云く、青唐人に瞎征を叛くの意あり、取るべしと。詢これを信じ、即ち具に奏して已に贍に結約して起兵せしむと令せりと言う。哲宗と輔臣、その狂妄専輒を罪し、急ぎ詢を罷め、孫迥に実を究めしむ。獄上り、贍の十一官を奪うも、猶州を領せしむ。

贍、功を以て過を贖わんと欲し、乃ち密かに青唐を取るの策を画し、客を遣わして章惇に状を言わしむ。惇その事を孫路に下す。路、取るべしと為す。贍遂に兵を引きて邈川に趣く。路、贍の狡獪にして制し難きを知り、総管の王湣に軍を統せしめ、贍を以て副と為す。贍は前鋒として河を渡り、先ず隴朱黒城を下す。湣がその功を分かつを忌み、これを紿いて曰く、晨に食を畢えて乃ち発すべしと。湣これを信ず。夜半、贍忽ち発を伝う。平明、邈川に入り、府庫を拠り、径ちに捷書を上す。軍府に白せず。湣は過午に至り、事を路に訴う。路もまた怒り、専らに兵柄を湣に付し、贍を留めて邈川に屯せしむ。

宗哥の酋長舍欽腳、内附を求む。贍、裨将の王詠に五千騎を享してこれに赴かしむ。既に入りて諸羌変ず。詠馳書して急を告ぐ。王厚、高永年をしてこれを救わしめ、乃ち免る。贍と湣互いに訟え、また路の指画相違するを訴う。惇は贍を主とし路を直とせず、曰く、首謀する者は贍なり。路その功を掩わんと欲し、故に贍を抑うと。乃ち路を河南に徙し、湣の統制を罷め、胡宗回を帥と為す。

時に瞎征は已に来降す。青唐の戍将は惟だ心牟欽氈父子百余人在るのみ。贍即時に取らず、二羌遂に溪巴温の子隴拶を迎えて入守せしむ。初め、孫路は先ず邈川及び河南北の諸城を全うし、然る後に師を進むべしと乞う。贍路を怨み、因りて言う、青唐は大兵を煩わさずして下すべく、路は逗遛して機会を失うと。宗回の至るに及び、乃ち云う、夏人邈川を攻めんと謀り、守備を為すべく、青唐は未だ取るべからずと。宗回その反覆を責め、日夜出師を督し、使を遣わして軍法を以て威し、且つ声言して王湣をして将に代わらしめんと欲すとす。贍懼れ、急ぎ進攻して隴拶及び心牟等をし、皆出降せしむ。贍入りてその城を拠る。詔して鄯州と建て、贍を四方館使・栄州防禦使・知州事に進む。黄履、賞薄しと謂い、乃ち維州団練使を拝し、路鈐轄と為す。

贍、その部を縦して剽敚せしむ。羌衆携貳し、心牟等諸族帳を結びて青唐を復せんと謀る。その山南に在る者先ず発つ。贍、将の李賓に二千騎を領して心牟以下を掩襲せしめ、自らは西城を守りて羌と闘う。賓は南山を逾え保敦穀に入り討蕩す。羌戦いに敗れて奔北し、四山皆空し。贍、心牟等九人を戮し、悉く城中の羌を捕斬し、積級山の如し。

初め、贍は諸酋に勝兵なる者を籍しその臂に涅するを諷す。応ずる者無し。篯羅結、帰りて本路を帥いて唱えんことを請う。贍これを聴き去らしむ。遂に嘯集して外叛し、数千人を以て邈川を囲む。夏衆十万これに助く。城中甚だ危し。苗履・姚雄来援し、囲み始めて解く。已にして王吉・魏釗・种樏相継いで敗没し、将士気を奪わる。書聞こえ、帝震駭す。ここに於いて転運使李譓・秦希甫、贍が二城の財物を盗取り、此に因りて変を致すを劾す。また心牟欽氈を殺して以て口を滅す。曾布言う、贍は事端を創造して以て辺害を生じ、万死も責を塞ぐに足らずと。詔して右千牛将軍に貶し、房州に安置す。言者これを論じて已まず。熙河また奏す、青唐の諸族、贍を怨むこと骨髓に入り、日図りて報復すと。枢密院、贍を斬りて以て一方に謝すべしと乞う。詔して昌化軍に配す。行きて穣県に至りて縊る。

崇寧初め、蔡京相に入り、錢遹、贍の功を訟う。及び王厚、鄯・廓を平らぐ。ここに於いて保平軍節度観察留後を追贈し、その子玨を通事舎人と除す。

張守約

張守約、字は希參、濮州の人。蔭により原州截原砦を主り、羌酋の水令逋等十七族一万一千帳を招く。広南走馬承受公事と為り、儂寇の後に当たり、二年に四たび闕に詣り、南方の利害を陳ぶ。皆見納用せらる。欧陽修、その智略あり、辺事を知ると薦し、融州知事に擢ぐ。峒将の呉儂、険に恃み辺患と為る。捕え誅す。修また守約の将帥に任ずべく薦し、定州路駐泊都監と為り、秦鳳に徙す。職に居ること六年、生羌の隠土千頃を括して射手を募り、硤石堡・甘穀城を築く。功第最も多し。

夏人万騎来寇す。守約適辺を巡り、これと遇う。鞍を解かず、兵五百を簡びて逆戦す。衆寡侔わず、勢い小しく却く。夏人両翼を張りて来る。守約身を挺して陣前に立ち、自ら金鼓を節し、強弩を発してその酋を殪す。敵遂に退く。

神宗、熙河を開拓せんとし、召して問うて曰く、王韶能く事を辦すやと。対えて曰く、天威を以てこれに臨まば、当に済わざる無かるべし。但だ董氈は忠勤にして順を効す。侵逼すべからざるを恐るると。因りて古渭を名づけて軍と為し、以て隴右の根本と為さんことを請う。帝これに従い、通遠軍と建つ。通事舎人・熙河鈐轄を加え、仍び秦鳳の羌兵を統べて通遠に駐す。

河州の羌、衆三万を率いて敦波に屯し、旧地を復せんと欲す。守約、洮水を度りてこれを撃破し、窖粟を取って軍に食わす。羌の老弱畜産は南山に走る。左右邀えんと欲し、万万を得べしと云う。守約曰く、彼は敢えて迎戦するに非ず、死を逃るるのみ。輒ち出づる者は斬らんと。鬼章、岷州を囲む。守約、敢死の士を提げて鼓を鳴らし幟を山上に張る。賊驚き顧みて遁る。遂に岷州を知り、その首領千七百人を降す。西上閣門使に遷り鎮戎軍を知り、環州に徙す。

慕家族の頡は剛愎で制し難く、種族を動揺させたので、兵を率いて討ちこれを擒らえ、残党は夏国に遁走した。守約は境上に軍を駐め、檄を発して引き渡しを求めてやまず、数日を経て、械を付けて来たので、市中で斬った。

霊武に従征し、清遠軍に至り、高遵裕に言うには、「ここから霊州までは三百里に満たず、先鋒隊を先に出して直ちにその城を衝くべきである。今、夏人は一方の力で五路の軍に応じ、横山には人おらず、霊州城中には僧侶道士が数百いるのみである。もし十日分の糧食を携え、三日急行すれば到達でき、軍は事なきを得るであろう」と。また高遵裕に勧めて士卒に糧秣を護送させ、略奪を防がせようとしたが、聞き入れられず、果たして敗れて帰還した。守約には海南咸平を守った功績があったが、これも記録されなかった。

環慶都鈐轄・邠州知州に進み、涇原・鄜延・秦鳳副総管に転じ、康州刺史を領した。夏人十万が南牟に屯したが、その名を畏れて引き去った。涇州知州となり、涇水はよく城を暴き、毎年春には必ず堤防を増築修繕し、費用は莫大であった。ちょうど凶年に当たり、その役事を中止した。ある者が「水害はどうするのか」と言うと、守約は「凶年に民を労するのは、河の害よりも甚だしい。私は暫くゆっくりと図ろう」と言った。河神祠はもと南岸にあったが、祈ってこれを北に遷し、河の怒りを和らげようとした。一夜の雷雨の後、翌日、河は南に移り、その北は遂に砂礫地となった。龍・神衛四廂都指揮使として召還されたが、途中で卒去した。七十五歳。

守約は七州を治め、いずれも記録すべき恵みと慈愛があった。神宗がかつて武臣で任用できる者を尋ねた際、燕達・劉昌祚・姚麟・王崇極・劉舜卿らを挙げて答えたが、その後いずれも名将となり、時に人を知る者と称された。

王文郁

王文郁、字は周卿、麟州新秦の人。供奉官として府州巡検となった。韓琦がその才能を推薦し、閣門祗候・麟府駐泊都監を加えられた。

熙寧年間に夏国を討った時、文郁は吐渾河でこれを破った。その将の香崖が夜間に使者を遣わし剣を信物として、衆を挙げて降伏したいと申し出たので、これを許した。明け方に到着し、共に行ったが、衆の気持ちが突然変わり、騒ぎながら出てきた。文郁はこれを撃ち、二十里追撃した。険阻な地を占めて大戦し、矢が雨のように降ったが、文郁はゆっくりと引き、河を渡り、官吏士卒に言った、「前には強敵を追い、後ろには天険を背負っている。韓信かんしんでさえ市井の人を駆って趙を破ったのだ。ましてやお前たちは皆、百戦錬磨の勇猛な者ではないか」と。士卒は感激奮起して進撃し、夏人は大いに潰え、その衆二千を降した。通事舎人に遷った。夏人が屈野河を越え、塞上を掠奪したので、文郁は長城阪まで追撃し、掠奪したものを全て奪回して帰還した。

神宗が召見し、問うて言った、「以前、香崖を招き入れようとした時、群議が一致しなかったが、朕のためにそのことを話せ」と。答えて言った、「これは敵を招き寄せる上策であり、恨むらくは多く行えなかったことです。辺境に接する生羌は駆け突くことに長け、道案内を知っています。もしもこれを慰撫できれば、いわゆる外夷をもって外夷を攻めることになります」と。帝はそこで招き入れを決意し、多くその用を獲た。文郁が左射を善くすることを知り、その子弟をも招いて殿庭で閲兵し、文郁は九発八中し、詔してその二人の子を官とした。

鎮戎軍・徳順軍の知軍となり、洮州・河州の平定に参与し、左騏驥副使・麟州知州に遷った。夏の衆が農作物を踏み荒らしたので、襲撃してこれを破ったが、部の使者が生事と弾劾し、郡の印を奪われた。

間もなく、熙河の将となった。李憲が霊武を討つ時、文郁は羌戸万余りを得て、路鈐轄に遷った。夏人が蘭州を包囲し、既に二つの関門を奪ったが、文郁は死士を募り夜間に縋り下り、短兵を持って賊を突き、たちまちその陣営を掃討して去った。東上閣門使・蘭州知州に抜擢された。諜者が夏人が大挙して侵入しようとしていることを知り、清野して待った。果たして国を挙げて皋蘭に向かい、文郁は城に乗ってこれを防ぎ、殺傷は積み重なるほど多く、包囲は九日で解けた。その屍を収めて京観とし、栄州団練使を加えられ、捧日・天武都指揮使として副都総管となり、殿前都虞候として河州知州となった。安西城・金城関を築き、秦州防禦使・冀州観察使に進んだ。卒去、六十六歳。

周永清

周永清、字は肅之。代々霊州に住んだが、州が陥落したので、祖父の美は京師に帰った。永清は蔭官により仕官し、宰相の寵籍がその忠勇を言上し、閣門祗候を加えられた。時服を賜るため夏国に赴き、宥州に至ると、夏人は賜物を受けても跪かなかったので、詰問すると、恐れて跪いた。通事舎人・渭州鈐轄に遷った。渭州の兵は強健だが陣法に通じていなかったので、永清は李靖の法で訓練した。帥の蔡挺はその整然さを賞賛し、図上してこれを報告し、詔により諸道に推し広められた。

徳順軍知軍となり、夏の衆が侵入したので、撃ってその酋長の呂效忠を擒らえた。また勇士を募り百里を夜駆けして賊の巣窟を衝き、三百級を斬首し、数千人を捕虜とし、駱駝・甲冑馬匹を万単位で獲た。城中で知る者はなかった。砦の禁地三百里では、密かに耕作するのを禁じられなかったが、永清は数千頃を開拓して登録し、射士二千を置き、その名声は敵国にまで聞こえた。降伏者は帳下に引き入れ、疑わずに待遇した。多くその死力を得た。

秦鳳鈐轄・河北沿辺安撫副使・代州知州に転じた。契丹が名目なくして土地を求めたので、朝廷は韓縝に境界画定を命じ、永清はその副使となったが、入朝して対し言った、「国境は軽々しく人に与えるべきではありません。臣の職は土地を守ることであり、行きたくありません」と。強いて派遣したが、また上章して利害を陳べ、結局母の病気を理由に辞退した。高陽関・定州・涇原路鈐轄を歴任し、涇州・保州の知州となり、また定州路副総管となり、終の官は東上閣門使であった。

劉紹能

劉紹能は字を及之といい、保安軍の人である。代々諸族の巡検を務め、父の懐忠は内殿崇班・閣門祗候に任じられた。元昊が叛くと、厚く金幣と王爵をもって招いたが、懐忠は印を毀ち使者を斬り、敵が侵入すると力戦して死んだ。紹能を右班殿直に任用し、名を賜り、軍北巡検とした。順寧において夏の右枢密院党移賞糧の数万の衆を撃破した。夏人が大順城を包囲したとき、紹能は軍の先鋒となり、その柵を破壊し、奈王川に至り、長城嶺で邀撃した。熙寧年間には、また破囉川において夏人を破り、いずれも功績第一と評された。累遷して洛苑使・英州刺史・鄜延兵馬都監となった。旧制では、内属の者は漢官と同列に扱われなかったが、この時よりすべて同様とし、なおその子に故職を襲わせた。

元豊の西討に際し、闕下に召され、神宗が計略を訪ねると、対して言うには、「師旅が遠征するとき、儲偫が続かないことが大患です。もし西成を待って、糧を因りて深入りすれば、志を得ることができます」と。帝はこれを然りとし、両軍を統率して進討するよう命じた。紹能は代々辺将であり、敵に忌まれるところとなり、しばしば疑いを設けて離間しようとした。帝はただそのようなことはないと明らかにし、手詔して云うには、「紹能の戦功は最も多く、忠勇は第一である。これは必ずや夏人の畏忌するところで、間害の計を為すものであろう」と。紹能は詔を捧げて感泣した。嘗て讒言に坐して対決を迫られたが、按験して終に実証なく、辺境を守ること四十七年、大小五十戦に及び、皇城使・簡州団練使のまま卒した。

王光祖

王光祖は字を君俞といい、開封の人である。父の珪は涇原の勇将で、「王鉄鞭」と号し、好水川で戦死した。光祖を供奉官・閣門祗候に任用した。

熙寧年間、同提点河北刑獄となり、沿辺安撫都監に改め、副使に進んだ。界河巡検の趙用が北辺を擾したとき、契丹は兵数万をもって国境を圧し、浮橋を造り、渡ろうとする様子を見せた。光祖は舟中におり、その衆に対して戸牖をことごとく撤去した。ある者が言うには、「契丹は方陣をなしているのに、単舟をもって臨むのは、不測の事態があればどうするか」と。光祖は言うには、「彼らの顧みるところは信誓であり、その来たるは趙用を得たいだけである。避ければ勢いが張る。我が死をもって責めを塞ぐに足りぬ」と。やがて契丹は互いに話し合いたいと言い、光祖は即ち子の襄を遣わした。兵刃が四方から迫ったが、話はただ趙用についてであり、襄は機に応じてこれを折衝した。その将の蕭禧は急いで兵を揮って去り、かつ襄を招いて食事をし、自ら戴いていた青羅泥金の笠を与えて信とし、即ちこれを上進した。時に既に光祖を罷免する詔があった。呉充が言うには、「向もして光祖が身をもって対塁せず、また子をして白刃を冒して従約を取らせなければ、事の成否は知れなかった。賞すべきところを罷黜するのは、どうして懲罰と勧奨を示せようか」と。乃ち真定鈐轄に除した。

梓夔に移った。渝の獠が叛き、詔して熊本に安撫させ、内蔵庫使の楊万・成都鈐轄の賈昌言・梓夔都監の王宣と光祖に同しく討伐に当たらせ、皆熊本の節度を受けた。熊本は光祖が用いられぬことを疑い、三道に分かれて進軍し、光祖に後軍を将いて黄沙坎より出させた。出発する頃には日は既に暮れ、兵士は杖で道を探り、互いに引き合いながら進み、夜半に絶頂に着いた。夜明けに、獠はこれを見て大いに驚き、一鼓して潰走した。楊万らは松谿に困窮し、また急ぎ救援に向かった。石門より出で、その険を奪い、黔兵を促して先に登り賊を襲わせると、賊は去った。光祖は夜に松嶺上に泊し、朝になってようやく楊万らと遇い、ともに還った。熊本は慚愧して謝し、その功を第一として上奏した。

吐蕃が茂州を包囲したとき、光祖は兵三千を率い、王中正と会して鶏宗関を破り、賊は石鼓村に拠り、その半道を扼した。中正は諸将を召して計を問うと、光祖のみが行くことを請うた。石鼓に着くと、鋭兵を選んで分かれて吐蕃の背を襲い、その不意に出で、皆驚いて遁走し、遂に中正と茂で会した。

瀘夷の乞弟が王宣を殺したので、詔して韓存宝に従ってこれを討ち、梅嶺に軍した。夷の数万の衆が出て落個棧に駐屯し、我が師を老いさせようとした。霖雨が止まず、光祖は存宝に早く決戦するよう勧めたが、聞き入れられなかった。林広が至ると、また従って征し、その巣窟を蕩平した。積功して四方館使・知瀘州となった。瀘南安撫使を置き、兼領させ、辺事は専決を聴した。客省使・嘉州刺史に遷った。涇原・河東・定州路副総管を歴任し、卒した。

李浩

李浩は字を直夫といい、家は本来綏州にあり、西河に移った。浩は学に務め、兵法に通じ、父の定の蔭により、軍に従って儂智高を破った。韓絳が囉兀に城を築くとき、兵を率いて賞堡嶺川で戦い、大首領の訛革多移を殺し、千三百余級を斬首した。積官して供備庫副使・広西都監となった。

西北の疆事を集めて『安辺策』を著し、王安石に謁した。安石が神宗に言上し、召されて対し、管幹麟府兵馬に改めた。未だ行かず、また章惇に従って南江に至り、兵を率いて三路より鎮江に屯し、遂州に入り、舒光貴を討ち、盈口柵を破り、天府を下し、洽州で会し、懿州に入った。蛮酋の田元猛・元哲が合して狤狑を率いて官軍に拒んだが、浩は兵を分けてこれを撃ち、狤狑を殺し、元猛・元哲を降し、遂に懿州に城を築いた。黔江蛮を進討し、また黔江に城を築いた。惇はその功を上奏し、他の将と比べるべからずとし、引進副使・熙河鈐轄に擢げた。

李憲が山后羌を討つとき、浩は右軍を将いて合龍嶺に至り会戦し、降羌の乞嘊を遣わして軽騎で敵の帳を突き、その酋の冷鶏朴・李密撒を俘え、三千を馘った。東上閣門使に遷り、副総管・知河州・安撫洮西となった。五路大挙のとき、浩は前軍を将いて、蘭州を回復した。引進使・隴州防禦使・知蘭州兼熙河・涇原安撫副使に遷った。西関の失守及び上奏の不実に坐し、再び秩を貶された。旋って吃囉・瓦井で戦い連続して功を立て、元に復した。

哲宗即位のとき、忠州防禦使・捧日天武都指揮使・馬軍都虞候に拝し、黔州観察使に進み、鄜延・太原・永興・環慶路副都総管を歴任し、再び知蘭州となった。卒し、安化軍留後を贈られた。

和斌

和斌は字を勝之といい、濮州鄄城の人である。散直に選ばれて隷し、徳順軍指揮使となり、凡そ五年、数度敵を防ぎ、重傷を十余り受けた。知軍事の劉兼済は兄の平が敗没したため、捕らえられて京師に送られ、併せてその家も逮われた。斌は慰安し調護し、金帛を他所に寓し、密かに兼済に家を憂いとるなと告げた。平の冤が既に伸び、兼済は免れ、家は斌によって全うされた。定川の役に、将の曹偀が乗馬を失うと、斌は騎を譲って与え、且つ戦い且つ行き、ともに免れた。

狄青が南征するに当たり、部騎兵を先鋒とした。青は賓州に十日間駐屯して敵を油断させ、その後は倍の速度で行軍した。斌は兵が険路で疲弊していることから、速戦が有利と考え、即日に関を越えた。帰仁驛で賊と激戦し、孫節は戦死したが、斌は騎兵を率いて血戦し、賊の背後に回り込んで遂にこれを破った。軍が帰還すると、賊陣を破った様子を殿廷に図示して奏上し、仁宗はその労をねぎらって文思副使・権広西鈐轄に抜擢した。秦鳳路に転任となったが、広西路が蛮事を理由に留任を要請し、秦州もまたこれを請うたため、詔により広西路に留まった。

数年後、涇原路に移る。召されて対し、議者らが交州は攻略可能と論ずる中、斌は害あって益なしと強く主張し、辺境の臣に妄動なからしめんことを願った。神宗は嘆じて言った、「卿がかくも質直であることを知り、両路が卿を争ったのは虚偽ではなかったと分かった」と。帯禦器械に進む。渭州部内が飢饉となり、帥の王広淵が役人に救済を命じたが、斌は言った、「救う術なくしてこれを行うは、これを殺すに等しい」と。広淵はこれを斌に委ね、斌は適地を選んで住居を営み、養護の法を整え、生き延びさせた者は数万に及んだ。

安南が侵入すると、再び広西路に移る。累進して皇城使・昭州刺史となる。撫水蛮の羅世念が宜州を侵犯し、守将が戦死した。斌は歩騎三千を率いて進討し、盛夏の折、昼夜兼行で進軍し、懐遠寨に至って言った、「ここは要害の地、これを得れば生き延びられる」と。ある者が「どうして龍江に背を向けるのか」と言うと、笑って「それゆえに生きられるのだ」と答えた。弱さを見せて敵を驕らせると、蛮軍は果たして大挙して到来し、斌は将を選んで迎え撃たせ、敵に遭遇すれば直ちに退却するよう戒め、平坦な坂に誘い出し、八陣を布いて待ち受けた。左右の山上に疑兵を張ると、蛮兵が嶺に登って見て、初めて大いに驚いた。斌は騎兵を分けて両翼に配置し、自ら甲冑を着て歩み出て、兵士の先頭に立ち、決死の戦いをした。蛮軍は大敗し、世念は酋長ら四千八百人を率いて帰順した。これにより栄州団練使として宜州知州となり、西上閣門使・邕州知州に転じ、老齢を理由に帰還を請うて、高陽関副総管に任じられ、永興軍路を歴任した。召されて龍・神衛四廂都指揮使に任じられ、歩軍都虞候に至り、卒去、享年八十。寧州防禦使を追贈された。

斌は老練な将軍として、恩信をもって辺境の人心を得、嶺南の珍貨は一つも蓄えなかった。辺境の官吏が功を求めて事を起こそうとする者も、皆憚って敢えて発動せず、あるいは巧みに諜報を捏造して紛争を誘おうとする者も、必ずその奸謀を挫いた。故に赴任先では何事もなく、士大夫に称えられた。

子に詵あり。

子の詵は、蔭官により河北副将となり、累官して右武大夫・威州刺史・雄州知州に至った。制勝強遠弓の様式を上奏し、三百歩の外から堅固なものを破ることができ、辺境の人々は「鳳凰弓」と号した。相州観察使に進む。雄州に十年在任し、よく敵情を探ることができた。童貫が燕を攻めるに当たり、詵を召し出して計議し、彼を気に入った。麾下の兵を分けて副統制とし、种師道の軍に従って白溝に駐屯したが、十二日で退却した。追撃の兵が至り、北風が吹き大雨雹が降り、軍は視界を失った。契丹は盟約違反を責め、日暮れになってようやく帰還できた。ここにおいて貫は契丹がなお盛んで攻略すべからずとし、詵が敵情を探らず虚報したと弾劾し、濠州団練副使に貶し、筠州に安置した。

詵は最初に燕攻略の謀を興したが、事態が次第に変わるのを見て、またもはや取るべからずと考えるようになった。故に燕平定の大赦があっても、ただ彼だけは帰還を許されなかった。後に復官し、卒去した。

劉仲武

劉仲武、字は子文、秦州成紀の人。熙寧年間、殿庭で試射して異等の成績を収め、官に補せられた。数度従軍し、累転して礼賓使となり、涇原の将となる。夏人が天聖砦を犯さんと謀り、渭州の帥が諸将に会兵を檄し、約して「ある日を過ぎて賊が至らなければ、即ち去れ」と言った。仲武は正確な期日を探り出し、分屯を遅らせるよう請うた。帥は喜ばなかったが、ただ一将と仲武の軍を留め置き、期日通りに敵が到来し、力戦してこれを退けた。皇城使・熙河都監に遷る。湟州を回復し、東上閣門使・河州知州に進む。

吐蕃の趙懷德・狼阿章が数万の衆を率いて叛命した。仲武は数日間対峙し、密かに二将に千騎を率いてその営を叩かせ、戒めて「彼らが出てきても戦うな、急いで戻り、道の左に伏兵せよ」と言った。二将が戻ると、羌兵は果たしてこれを追い、伏兵に遭遇して大敗し、三千級を斬首し、西寧州を回復した。間もなく、懷德・阿章は降伏した。累進して客省使・栄州防禦使となる。

高永年の西征を副将として補佐した。仲武は慎重に陣を固めようとしたが、永年は賊を軽んじて軽率に戦い、遂に大敗した。仲武は咎を引き受け自らを弾劾し、嶺南流罪に処せられた。命令が下る前に、夏人と戦って足を負傷した。朝廷はこれを哀れみ、その罰を赦し、西寧都護とした。

童貫が羌王子の臧征僕哥を招誘し、積石軍を収めようと、仲武を招いて計議した。仲武は言った、「王師が入れば、羌は必ず降伏するだろう。あるいは退いて巣窟に潜伏するなら、その機に乗ずることができる。ただ河橋の工事は大規模で、短期間では完成せず、緊急時に備えて予め準備すべきである。もし上命を待って報告を待てば、事機を失う恐れがある」。貫は便宜を許した。僕哥は果たして降伏を約したが、一人の子を人質に求めた。仲武は即ち子の錫を遣わし、河橋もまた完成した。仲武は師を率いて河を渡り、彼を連れて帰還した。貫はその功績を隠し、仲武もまた自ら言わなかった。徽宗が使者に金銭を持たせて辺境に遣わし、王者を捕らえた者に賜った。仲武のことを訪れ出し、召して対面させると、帝は労って言った、「高永年は卿の言を用いなかったため軍律を失い、僕哥の降伏と河南の平定は、卿の力である」。子が何人いるかと問うと、「九人」と答えた。皆に官を命じ、錫は閣門祗候とした。

仲武は西寧州知州となり、渭州に移り、召されて龍・神衛都指揮使となり、再び熙州・秦州に出向し、歩軍副都指揮使に遷る。熙州帥の劉法が死ぬと、また熙・渭都統制を兼ねた。歴任して徐州観察使・保静軍承宣使・瀘川軍節度使に至る。老齢のため明道宮提挙となり、再び起用されて熙州知州となった。任地で卒去、享年七十三。検校少保を追贈され、諡して威肅といった。子の錡は別に伝がある。

曲珍

曲珍、字は君玉、隴幹の人、代々豪族として知られた。宝元・康定年間、夏人が数度侵入したが、珍の諸父が族党を糾合してこれを防ぎ、敵は敢えて侵犯できなかった。ここにおいて曲氏は武勇をもって辺関に長く雄飛した。

珍は馬を馳せ剣を試すことを好み、嘗て叔父と共に塞外に出て遊猟したところ、突然夏人に遭遇し、その包囲に陥った。馳せ撃ち大呼し、衆は披靡し、脱出することができたが、顧みて叔父が至らないので、再び短兵を持って還り決闘し、遂に共に脱した。秦鳳都鈐轄の劉溫潤はその材能を奇とし、一日、宝剣を出して令して曰く、「百歩外に一銭を射ることができる者には、これを与える」と。諸少年は百発しても中たらず、珍が後から至り、一矢でこれを破った。溫潤に従って古渭を城し、羌と戦い、先登して陣を陥れた。綏徳城監押となり、孤軍を提げて寇を拒ぎ、その大酋を斬り、閣門祗候を加えられた。洮西で功があり、内殿崇班に遷った。

郭逵・趙禼の南征に従い、第一将となった。右江より進み、広源三州十二県を撫接し、偽守以下百六十人を降し、老稚三万六千口を得た。この行において、諸将の中で功最も多く、西染院使に遷った。疾を得て、輿に乗って京師に還ると、神宗は使者を遣わして臨問し、少しく間を置いて、入対を命じた。珍は二帥が和睦せず、上問必ずこれに及ぶであろうと思い、これを言えば必ず曲直が現れるであろうから、どうしてこれに対しようかと考え、余疾未だ平らかならずと以て解いた。帝は再び使をしてこれを奨労せしめ、弓剣・鞍勒を賜い、有司に命じてその郷の徭斌を蠲免せしめ、鄜延鈐轄に擢で、副総管に進めた。

种諤に従って金湯・永平川を攻め、二千級を斬った。累遷して客省使となり、懐州防禦使・龍神衛四廂都指揮使を拝した。徐禧が永楽を城するに、珍は兵を率いて従った。版築まさに興らんとする時、羌の数十騎が無定河を渡り役事を覘う。珍はこれを追殺せんとしたが、禧は許さなかった。諜言に夏人が兵を聚めること甚だ急であるとあり、珍は禧に米脂に還り自ら守居することを請うた。明日果たして至り、禧もまた来た。珍曰く、「敵兵衆甚だ多く、公は内柵に退処し、諸将に檄して戦いを促すべきである」と。禧笑って曰く、「曲侯は老将なり、何ぞ怯むことあらんや」と。夏兵まさに渡らんとし、珍はその未だ集まらざるに乗じてこれを撃たんとしたが、またも許されなかった。及び城攻め急なると、また禧に勧めて曰く、「城中の井は深く泉は嗇しく、士卒は渇すること甚だしく、恐らく支えることができまい。兵気未だ衰えざるに乗じて、囲みを潰して出で、人をして自ら生を求ましむべきである」と。禧曰く、「この城は要地を拠る、奈何ぞこれを棄てん。かつ将として奔らば、衆心動揺す」と。珍曰く、「敢えて自らを愛するにあらず、ただ敕使・謀臣同じくここに没するを懼れ、国を辱しむるを恐れるのみ」と。数日して城陥ち、珍は縋って免れ、子弟の死者六人。また坐して皇城使に貶せられた。帝はその無罪を察し、自ら安養して以て後効を図るよう諭した。

元祐初め、環慶副総管となった。夏人が涇原に寇し、四十万と号した。珍は虚を搗き三百里を馳せ、これを曲律山に破り、千八百人を俘斬し、その囲みを解いた。東上閤門使・忠州防禦使に進んだ。卒す、年五十九。珍は士卒を撫するに善く、その死力を得た。書を知らざるも、忠朴にして義を好み、天性に本づく。

劉闃

劉闃は、字を静叔といい、青州北海の人である。拳力を以て軍校となり、延州軍に従って塞外に出て敵に遇い、矢は左耳を貫いたが、戦いを顧みず、衆はその勇を服した。文彦博に従って貝州を討ち、城下に次ぐ。壘を攀じて登らんとし、賊は曲戟を以てその甲を鉤す。闃はこれを裂いて墜ちた。議者は地道を穿って入らんと欲した。闃曰く、「地を穴して土を積めば、賊まさにこれを知らん。城は河に瀕す。もし昼は土を囊し夜は諸河に投ずれば、知る者なかるべし」と。彦博は然りとす。穴成り、闃は短兵を持って先に入り、衆始めて従い、遂に陴に登り、縄を引いて上り、遅明、師畢く入る。貝州平らぎ、功第一、虎翼指揮使に擢でられた。累遷して宣武神衛都指揮使・昭州刺史・辰州団練使となった。

韓絳が陝西を宣撫するに、詔して闃に河東より犄角たらしむ。鉄冶溝に至り、夏人大いに集まる。衆懼る。闃は自ら殿后し、鋭ぎょうを率いて搏戦し、飛矢体を蔽うも却かず、敵解き去る。

冀州駐泊総管となった。河水漲り、堤防墊急なり。闃は郡守に青楊道口を開き以て水怒を殺すことを請うたが、敢えてその責を任ずる者なし。闃躬から往きて浚決し、水退き、冀人はこれを頼んだ。左金吾大将軍を以て致仕した。卒す、年八十五。

郭成

郭成は、字を信之といい、徳順中安堡の人である。軍に従い、供奉官を得た。王師霊武に趨るに、成は涇原兵を将いて夏人を漫𠼪隘に撃ち破った。城下に至り、羌の白馬に乗って陣前を馳突する者あり。大将劉昌祚曰く、「此れを取る者は誰ぞ」と。成は馬を躍らせてその首を梟し以て献じ、秩四等を進めた。

朝廷平夏城を築き、将を置いてこれを戍らせ、また五砦を以て環らした。渭帥章楶が諸将に可守の者を問うと、皆曰く、「郭成に非ざれば不可」と。遂に往きて守らしむ。夏人は地を失うを恚り、国を空しくして入り争い、謀りて曰く、「平夏は諸壘を視て最大、郭成は最も兵を知る」と。遂に没煙峡より連営百里、飛石火を激し、昼夜息まず。成は折可適と議し、勝に乗じて深入し、万騎を以て異道より並び進み、遂に阿埋・都逋の二大酋を俘えた。捷聞こえ、雄州防禦使・涇原鈐轄に進んだ。徽宗は諸軍に詔して並力して綏戎・懐戎の二堡を築かしむ。成は独り合流の役を当たり、雪中に暴露し、疾を感じて卒した。帝これを悼むこと甚だしく、金帛を以て賻し、その子婿に官した。

成は財を軽んじ施すを好み、名は西鄙に震う。既に没し、廉訪使者王孝謁が朝廷に白す。帝手書を以て報じて曰く、「郭成は忠を尽くして国に報い、民に功あり。宜しく祀典に載すべし」と。その廟に榜して「仁勇」と曰う。子の浩は、紹興中に西辺の大将となり、節度使に至った。

賈岩

賈岩は、字を民瞻といい、開封の人である。少時、騎射に善く、喟然として歎じて曰く、「大丈夫世に生るるは、要は自ら奮い、名を揚げ親を顕わすべし」と。遂に家を起して戎に従う。神宗は材武を選び、内殿承制・慶州荔原堡都監となす。

林広が瀘夷を討つに、将として前鋒を辟く。また河東将となり、西夏兵を明堂川に敗る。累功して転じて庄宅副使となる。路監に遷る。紹聖中、夏兵数万、麟州神堂砦を囲むこと甚だ急なり。岩は数百騎を以て往きて援け、その下に令して曰く、「国家事無き時は、厚禄を惜しまず汝輩を養うは、正に一旦の用に待つためなり。今力は敵せざるも、吾は誓って死を以て報ぜん」と。衆感厲し、即ち屈野河に循いて行くこと且つ五里、北攔坡嶺上に拠り、一矢にしてその酋を殪し、衆駭きて潰る。哲宗嘉歎し、袍帯を以て賜う。皇城使・威州刺史を知り、路鈐轄に遷った。

王岩は軍中に二十年、智略に長け、士卒を慰撫統御し、向かうところ必ず勝った。時に良将として召し出され、留任して龍神衛四廂都指揮使に抜擢され、歩軍都虞候・濠州団練使に遷った。卒す。享年五十二。雄州防禦使を追贈された。

張整

張整は字を成伯といい、亳州贊阝陽の人である。初め皇城司の御龍籍に属し、供奉官に補され、利州・文州都巡検使となった。辺境の夷族が毎年省地を掠奪するが、役人は慣れてこれを咎めず、かえって物を贈って去るのを待っていた。整はその貪暴が止まないのを憎み、密かに死士を募り、その来襲の時を狙って襲撃し、ほとんど全滅させた。有司が事を生じさせたと弾劾したが、神宗はこれを壮とし、問わなかった。

荊湖の将領に転じ、溪蛮の地を開拓して九城を築き、兵を督して鎮守した。また大田で蛮を破り、一年のうちに三度昇進した。犬吉狑が万の衆を率いて舟に乗り托口に屯し、黔江城に迫った。当時守兵はわずか五百、人心は大いに恐れた。整はその半数を托口の傍らに伏せ、戒めて言った、「我が朝に金斗崖を渡り、幟を挙げたならば、喚き立てて前進せよ」。夜明けに及んで、残りの半数を率い、艨艟を縛り、旗鼓を建て、流れを遡って急ぎ進んだ。賊はこれを見て大笑した。幟が挙がると伏兵が発し、前後から合撃し、人々は必死に戦い、蛮は踏みつけられて江中に投げ込まれ、殺戮捕獲は数えきれなかった。広西鈐轄となったが、降伏した徭を殺した罪に坐し、江州酒税監に責め降とされた。また涇原・真定・京東・環慶の鈐轄となった。

整は軍を厳明に統率し、哲宗が輔臣にそのことを訪ね、召し出して対面させ、龍神衛四廂都指揮使・管幹馬軍司に抜擢した。卒す。官は威州刺史に至った。

張蘊

張蘊は字を積之といい、開封の将家の子である。従軍して小校となり、劉昌祚に属した。霊州に至り、敵に遭遇して矢に当たったが、鏃を抜いて再び戦い、功により金帯を賜った。安南征伐に従い、富良江に駐屯した時、諸将は躊躇して進まず、蘊は裳をからげて先に渡り、衆はそれに従った。蛮は逃げ走り、巫をして髪を振り乱して崖に登り厭勝を行わせたが、蘊がこれを射ると、弦に応じて斃れ、一軍は歓声をあげた。

京西・涇原の将を歴任し、綏徳・懐寧・順寧軍など六城の知事となり、蓄積した粟は三十万斛に至った。兵を率いて宥州を攻め取り、大呉神流堆で夏人を破った。宥州監軍が鉄騎数千を率いて松林堡に向かうと、蘊は間諜でこれを知り、兵を長城嶺に留めて待ち、諸部に戒めて言った、「賊は遠く来たり気勢が盛んであるが、少し休めば必ず疲弊する。疲弊したところを撃てば、必ず勝つ」。果たして勝利して帰還した。夏人が順寧を寇すと、蘊は狭間に伏兵を置き、呼び声を聞いたら起つと約束し、数百十人を俘斬し、馬・兵器を多く獲た。累遷して皇城使・栄州刺史・成州団練使・通州防禦使となり、開徳・河陽馬歩軍副総管となった。

顕粛皇后の母が鄭氏から再嫁して蘊に嫁いだため、徽宗はたびたび恩をもってその官を進めようとしたが、つねに力辞して受けようとせず、人はこれを賢とした。卒す。享年七十三。感徳軍節度使を追贈され、諡して栄毅といった。

王恩

王恩は字を澤之といい、開封の人である。善射をもって羽林に入り、神宗が衛士を閲した時、強弓を引き的中させ、かつその容貌が魁偉であったので、供備庫副使に補された。河州巡検となり、夏の羌が蘭州を寇すと、恩は城下で奮戦し、二矢を受けたが、抜き去って再び戦い、意気はますます奮った。涇原の将に遷った。かつて軍を整えて万恵嶺から出た。兵士は飢えて食を欲し、恩は倍道兼行したので、衆は騒然とした。やがて敵数万に遇い、兵を率いて先に壁壘に入ると、井戸や竈がすべて備わっており、諸将はようやく服した。羌が壁を叩いて面会を願うと、恩は単騎でまっすぐに出て、遠くからこれと語り、一夜のうちに、羌は引き去った。

哲宗が召し出して見ると、左右に語って言った、「先帝の時の宿衛の人々は、皆このように傑出していたのだ」。留めて龍神衛都指揮使とし、馬軍都虞候に遷った。契丹の使者が来朝し、詔により陪射を命じられると、使者が問うて言った、「涇原に王という騎将がいると聞くが、これではないか」。答えて言った、「その通りである」。三発射てすべて命中し、使者以下は互いに見て皆歎息した。

出て涇原副都総管となり、併せて秦・渭・延・熙の四路の兵を護り、西安を城し、臨羌・天都など十余りの堡塁を築いた。羌が平夏を包囲すると、諸校は出戦しようとしたが、恩は言った、「賊は国を傾けて遠く寇してくるので、鋒を争うのは難しい。全をもってその疲弊を制すべきである。彼らは野に掠奪するものなく、必ず離散する。離散して伏兵に遇えば、必ず敗れる」。そこで先に万人を進めて伏兵を設け、羌がすでに退師すると、果たして大いに獲るところがあった。

徽宗が即位すると、衛州防禦使として熙河に転じ、渭州知事に改めた。隠田二万三千頃を検出し、弓箭士に分けて耕屯させ、三十一部とし、糧秣の輸送を省いた。辺境の臣が車戦の議を献上すると、帝は恩にこれを訪ねた。恩は言った、「古にはあった。偏箱・鹿角である。今は相去ることますます遠く、人は習熟せず、危急の際には用い難いであろう。習熟せざる器を操り、敵と周旋することは、まず自ら敗れるのみである」。帝はその答えを善とした。馬歩軍都指揮使・殿前都指揮使・武信軍節度使に遷った。

かつて禁卒数十人を淘汰した時、枢密院が都承旨に命じて再検視させようと請うた。恩は言った、「朝廷が三帥を選び、軍政を付託したのに、今数十人の冗卒を去ることで信じられないならば、その他のことは為し得ない」。帝は直ちにこれを罷めた。眷顧甚だ寵厚で、居宅を賜り、また城西の地を賜って園囿とした。病に罹り、検校司徒しとをもって致仕した。薨去。享年六十二。開府儀同三司を追贈された。

楊應詢

楊應詢、字は仲謀、章恵皇后の族孫なり。信安保定軍・州を歴知す。塘濼の間の地は沮洳にして、水潦集まり易く、居人は板を浮かべて以て渡る。應詢は堤防を増して長衢と為し、其の旁を浚いて以て流れを泄らし、民之に利頼す。河北沿邊安撫使と為る。徽宗、帰信・容城両県の弓手を以て契丹の憚る所と為すを以て、千人に増やさんと欲し、或いは事を生ずるを恐る。應詢曰く、「吾は他盗に備えんと欲するのみ、彼安んぞ能く我を禁ぜんや」と。遂に之を増す。

雄州を知る。朝廷多く西夏の地を取り、契丹は姻婭を以て言と為し、使を遣わして之を還すを乞う。得ずして兵を擁して塞に並び、中外恫疑す。應詢曰く、「是れ特に虚声を為して我を嚇すのみ。願わくは兵を治め粟を積み備え有るを示し、彼将に聞風して自ら戢まん」と。明年、果たして兵を還す。復た其の相臣蕭保先・牛温舒を遣わして来請し、詔して應詢に境に逆わせる。既に至り、帝遣わして以て来る所以を問わしむ。應詢対えて曰く、「願わくは前議を固守せん」と。尋いで高陽関路鈐轄を兼ぬ。

辺人北盗呂懺児を捕え得たり。契丹は略して平民を執えたりと謂い、詔有りて使わしめて縦ち釈さしむ。應詢言す、「吾は盗を執うるを知るのみ、其の求むるに因りて遂に之を与うるは、是れ怯を示すなり」と。与えず。遂に我が民を質し、固く之を索む。應詢は詔に違うを以て秩を貶せられ、再び遷りて洋州観察使と為る。入りて万寿観を提挙す。契丹使を館す。柑を賜うべくして貢未だ至らず、有司他の物を以て代う。使受けず、慶詢言を以て之を折す。乃ち下拝す。復た定州・真定・大名副都総管と為る。卒す。年六十三。昭化軍節度使を贈られ、諡して康理と曰う。

趙隆

趙隆、字は子漸、秦州成紀の人なり。勇敢を以て募に応じ、王韶に従い熙河を取る。大将姚麟出戦し、重創を被り、謂いて曰く、「吾渇きて死せんと欲す、水を得れば尚ほ活くべし」と。時既に暮れ、泉有りて賊営に近し。隆独り身を潜めて往き、衣を泉に漬く。賊覚ゆ。隆且に闘い且に行き、帰りを得、衣を持ち水を裂きて以て麟に飲ます。麟乃ち蘇る。又た李憲に従い西市を破る。師鬼章を討つ。外河諸羌皆兵を以て之に応ず。隆衆を率いて先ず至り、其の橋を斧ち、鬼章援を失い、乃ち擒と成る。

涇原の将と為り、平夏川に戦い、功最も多し。崇寧中、熙河兵を鈐轄し、前軍を将いて邈川より出で、鄯・廓を復するに預かる。夏人涇原を寇す。詔して熙河に深入して其の兵を分たしむ、専ら東方に向かわしむる無からしむ。師鉄山に至る。隆先ず登り、士皆殊死に戦う。夏人解き去る。召して闕に詣らしむ。徽宗之を慰労して曰く、「鉄山の戦、卿の力なり」と。

童貫と燕雲の事を論ず。隆極言して不可とす。貫曰く、「君能く此れを共にせば、当に殊拜有るべし」と。隆曰く、「隆武夫なり、豈に賞を干いて以て祖宗二百年の好を敗らんや。異時に釁を起さば、万死も責に謝するに足らず」と。貫奪うべからざるを知り、白して以て西寧州を知らしめ、隴右都護を充てしむ。羌豪信服し、十二種戸三万六千、内地に屯せんことを願う。

帥劉法西討す。隆奇兵を以て羌を襲い、羌潰え、震武を城す。遷りて温州防禦使、龍神衛・捧日天武都指揮使と為り、仍って本道馬歩副都総管と為る。卒す。鎮潼軍節度使を贈られ、詞臣に命じて碑を制せしめ、帝額に篆して「旌忠」と曰う。

論じて曰く、国家有る者は武備を忘るべからず。故に高祖こうそは馬上に天下を得て、猶ほ「安くにか猛士を得て四方を守らん」の歎有り。然れども将領と為るを貴ぶ所以は、其の武勇を取るのみに非ざるなり。必ず忠を以て主と為し、智を以て本と為し、勇を以て用と為す。其の成功に及びては、小大の殊有るも、倶に以て主を尊び民を庇うに足るなり。苗授は篯南の城すべからざるを策し、履は阿章を討たんことを肯せず、永清は地を以て敵に与せず、文鬱は香崖を撫納し、紹能の忠勇、珍の忠樸好義、光祖・應詢の敵を料るに明らかなる、守約及び整の衆を禦するに厳明なる、斌・浩の善く戦う、岩・恩の善く射る、闃の出ずれば則ち先登し、入れば則ち殿后す。其の材は殊なるも、其の以て奔走禦侮の責を四境に任するに一なり。皆辺陲を捍衛し、勤めに服して死に致し、明詔褒飭し、廟食一方するは、宜なるかな。君萬は誣を挟みて怨に報い、贍は狡譎にして功を喜ぶ。国に常罰有り、父子謫死すも亦た宜なり。詵は首めて燕を取り、終に其の説を変え、既に黜せられて旋ち復すは、刑を失うなり。至りて若し仲武は敗れば則ち咎を引きて己を責め、勝てば則ち自ら功を言わず、隆は釁を啓き賞を干かず、蘊は甘んじて分にし栄を辞す。士君子の行有り。尤も武士の難く能くする所なり。