孫鼛
孫鼛、字は叔靜、錢塘の人。父の直官、揚州の江都に徙る。鼛十五歳の時、太學に遊學し、蘇洵・滕甫これを称す。父の任により、武平尉に調じ、名ある盗賊数十人を捕獲するも、賞を謝して受けず。再び越州司法参軍に調じ、守の趙抃その材を薦む。偃師県を知り、蒲中の優人が僧服を詭りて民間に隠れ、語らざるをもって衆を惑わし、異法有りと相伝え、その門に奔湊す。鼛姦状を収めて按じ、直ちに辜に伏す。韓縝長安を鎮むるや、府に辟き入る。縝去り、後来の者なおこれを挽きて留まらしめ、五年居り、西川判官を簽書す。或いは朝に薦め、召し対し、提挙広東常平に擢でらる。徽宗初め、両浙に徙る。福建転運判官より召されて屯田員外郎と為る。
鼛微時に蔡京と善くし、常に曰く、「蔡子は貴人なり。然れども才は徳に勝たず、天下に憂を貽すを恐る」と。ここに至り、京朝に還り、諸塗に遇う。既に見え、京逆に謂ひて曰く、「我若し天子に用いられば、我を助けんことを願ふ」と。鼛曰く、「公誠に能く祖宗の法を謹守し、正論を以て人主を輔け、節儉を示して百吏に先んじ、而して兵を言ふことを口を絶てば、天下幸甚なり。鼛何を為さん」と。京黙然たり。既に相と為り、出でて提点江東刑獄と為る。
未だ幾ばくもせず、入りて少府少監・戸部郎中と為る。縣官用度藝無く、鼛尚書曾孝廣・侍郎許幾と謀りて曰く、「日一日を増し、歳一歳を増す、天下の財豈に給せんや」と。共に疏を上りてこれを論ず。国を当つ者楽しまず、孝廣・幾ここにより罷められ、鼛を開封に徙す。太僕卿・殿中少監に遷る。
鼛行義に篤く、広東に在りし時、蘇軾惠州に謫居す、極意を以て周旋す。二子晁補之・黄庭堅の女を娶る、党事起こり、家人危懼すれども、鼛一も顧みること無し。時人これを称す。
吳時
吳時、字は伸道、邛州の人。初め進士に挙げられ、学究出身を得、再試し、甲科に中る。華州鄭県を知る。転運使州に檄し米五萬を餫して長安に輸せしむ、鄭独り三萬を当つ。時使者に書を貽ひて曰く、「三萬斛の費を会すれば、車を以てすれば則ち千五百乗、卒を以てすれば則ち五萬夫、県民役す可き者は纔かに二百五十八戸のみ。古は師を用ふれば則ち糧を贏して兵を養ひ、事無ければ則ち兵を移して食に就かしむ。誠に能く兵を華に移さば、則ち前の費を免る可し。華・雍相去ること百六十里、一旦用ひんと欲すれば、朝に発して夕に至らん」と。使者其の言に従ふ。
陸師閔秦・蜀の茶馬を幹し、属と為さんと辟く。章楶御史を以て薦めんと欲す、力めてこれを辞す。徽宗言を求め、遠臣章を上るも、封識多く式の如くする能はず、有司悉くこれを却く。時建言し、乃ち達するを得。睦親宅教授と為り、永興軍路学事を提挙す。華州諸生に忌諱に触るる者有り、教授上らんと欲し、曰く、「是の間の言語は、皆臣子の忍びて聞かざる所なり」と。時即ち其の書を火し、曰く、「臣子忍びて聞かずして、而して君父をして聞かしむるか」と。
召されて工部員外郎と為り、礼部に改め、辟雍司業を兼ぬ。大観中算學興り、議して黄帝を以て先師と為さんとす。時言ふ、「今聖祖を祠祀し、祝板に臣名を書す。而るに孔子を釈奠するは、但だ中祀に列す。数学は六藝の一なる耳、何の礼を以てこれを事とすべきか」と。乃ち止む。太僕少卿に遷る。
張商英相を罷めらる、言者時を指して党と為す、出でて耀州を知り、又降りて鼎州を通判す。未だ赴かず、河東常平を提挙す。歳饑え、公粟を発して民を振ふ。童貫北方を経略し、毎に辺事を以て訪ふれども、輒ち答へず。還りて大晟典樂と為り、中書舍人・給事中に擢でらる。内侍何欣衡州酒を監するに謫せられ、猶ほ節度使を領す。時奏してこれを奪ふ。
又進対に因りて燕を取る事に及び、曰く、「祖宗の盟血未だ乾かず、これを渝すれば必ず乱を速にせん」と。蔡攸これを聞き、以て王黼に告ぐ。黼怒り、腐儒と為して斥く。時去らんことを求め、徽猷閣待制を以て侍読を兼ね、俄に上請太平宮を提挙す。西に帰り、其の里人趙雍に遇ひ、為に言ふ、「燕を取れば必ず禍を召さん。吾老いり、其の変に遭はざるを得んは、幸ひなり」と。累歳にして卒す、年七十八。
時文を為すに敏にして、未だ稿を属せず、落筆已に就く。両学之を目して曰く、「立地書厨」と。
李昭玘
李昭玘、字は成季、済南の人。若くして晁補之と並び称せられ、蘇軾に知られた。進士に及第し、徐州教授となった。太守孫覚は深く礼遇し、常にゆったりと講学し、及び古人の己れを行い処世する要諦を論じ、互いに意気投合して甚だ歓んだ。李清臣の推薦により、秘書省正字・校書郎となり、加えて秘閣校理を兼ねた。
潞州通判となった。潞州の民は死んでも多く葬らず、昭玘は官地を割き、墓域を区画し、棺と衾を備え、文を作って諭し、風俗は一変した。召されて秘書丞・開封府推官となり、間もなく永興・京西・京東路刑獄提点に任じられたが、元符の党籍に連座して官を奪われた。
徽宗が即位すると、召されて右司員外郎となり、太常少卿に転じた。韓忠彥が起居舍人に用いようとしたが、曾布がこれを抑え、曾布が山陵使となった時に命が下った。陳次升に論劾され、滄州知州として出された。崇寧初年、詔により昭玘がかつて先烈(神宗・王安石の新法)を動揺させ、常に元豊の勅条を改め、寛大を旨とする邪説を唱えたとして、鴻慶宮主管を罷免され、ついに党籍に入れられた。閑居すること十五年、自ら「楽静先生」と号した。法書・図画に趣を寄せ、十の囊に収め、「燕遊十友」と名付け、その序を為し、「今の人と友と為れば、趨附して禍に陥ることもある。寧ろこの十者と友と為り、久しくして益々味わい深し」と記した。
初め、昭玘が高密で校試した時、侯蒙を得た。侯蒙が執政となって旧恩を思い、人を遣わして己の意を伝えると、昭玘はただ秘閣法帖を求めるのみであった。陝西に使した時、延安の小将車吉という者が盗賊の誣告を受けたが、昭玘は察して他に罪なきことを知った。車吉は後に戦功を立て、皇城使に至り、京師で昭玘に遇い、前に拝して曰く、「公の生存の恩に感じ、名馬を献じたい」と言ったが、笑ってこれを退けた。
晚年、歙州知州に任じられたが、辞して行かなかった。靖康初年、再び起居舍人として召されたが、既に卒去していた。紹興初年、直徽猷閣を追復された。
呉師礼
呉師礼、字は安仲、杭州銭塘の人。太学上舎より賜第され、涇県主簿に調じ、天長県知県となった。召されて太学博士・秘書省正字となったが、鄒浩の餞別に預かり、免官された。徽宗の初め、開封府推官となった。蔡王趙似の宮吏に不順の言葉があり、府に下されたので、師礼がこれを主管した。獄が成ると、一言も王に及ぼさず、吏に死者があっても、指斥の罪を負わせなかった。右司諫に抜擢され、右司員外郎に改めた。
師礼は翰墨に巧みで、帝が字学について尋ねると、対して曰く、「陛下が御極の初め、大なることを志すべきであり、臣は末技をもって対することは敢えてしません」と答えた。聞いた者はその得體を褒めた。直秘閣として宿州知州となり、卒去した。
師礼が太学に遊学した時、兄の師仁が正(学官)であり、『春秋』学を守っていた。他の学官にこれを憎む者がおり、疑問を条列して諸生に問うたが、師礼は悉く兄の説をもって答えた。学官は怒り、鼓を鳴らして堂上に坐し、衆人をして質させたが、師礼は『三伝』を引拠し、意気自若であった。江公望がその時傍らにいて、心ひそかに喜んだ。後に泌陽で相遇い、公望が曰く、「子、異日志を得たら、どうするか」と問うと、曰く、「ただ人のために豊年を作るのみです」と答えた。そこで交わりを定めた。
師仁、字は坦求。篤学して志を励まし、科挙に事としなかった。親に喪に服し、墓の下に廬し、日ごとに傍らの寺の僧に頼んで飯一鉢を造らせて飢えを充たし、再び庖爨を設けたり僮僕を蓄えたりしなかった。郡守の陳襄・鄧潤甫・蒲宗孟はいずれも遺逸として朝廷に推薦した。元祐初年、召されて太学正となり、博士に遷ったが、十年間他の除目がなかった。後に潁川・呉王宮教授となり、卒去した。
王漢之
王漢之、字は彦昭、衢州常山の人。父の介は制科に挙げられ、直諫をもって聞こえ、秘閣校理に至った。漢之は進士甲科に及第し、秀州司戸参軍に調じ、金華・澠池二県の知県を歴任し、鴻臚丞となり、真州知州となった。時に詔して諸道に財用を経画して朝廷に上奏させたが、漢之は言上した、「所在に都籍(総合台帳)が無いため、周知してその増減を較べ、用に備えることができません。願わくは郡県に先ず籍を置き、諸道でこれを総括させれば、天下のことは掌を指すが如くになります」と。これに従った。召されて開封府推官となり、工部・吏部・礼部の三員外郎、太常少卿を歴任した。
蔡京が講議司を置いた。漢之はその客であり、参詳官に引き抜かれた。礼部侍郎に抜擢され、戸部侍郎に転じ、顕謨閣待制として瀛州知州となった。上言して曰く、「何承矩が塘濼の地を規画して屯田して以来、東は海に達しています。その後また保塞五州を堤道とし、植えるに適した木を備えて三百万本に至りました。これは中国の万世の利です。今その道を失いつつあります。願わくはこれを講究施行してください」と。雄州の帰信・容城が災害に遭い、両輸戸(両税を納める戸)が免税を請うたが、吏は聞き入れなかった。漢之は言上した、「雄州は小利を図り、大體を失っています。万一契丹がこれを免じれば、朝廷の恥となります」と。
江寧府・河南府に転任したが、赴任せず、蘇州・潭州・洪州の三州知州となった。召されて兵部侍郎に任じられ、再び顕謨閣直学士として成都知府となったが、また赴任せず、連続して五州に転任し、召されて工部侍郎となった。契丹に使いし、帰朝して、その主(皇帝)が民政を恤まず、搾取に励み荒淫であるから、滅亡は待つべくして来ると言上した。徽宗は喜び、定州知州に任じた。久しくして、江寧府に転じた。
方臘の乱に際し、奏報を記録して防禦・捕獲の功績を認められ、龍圖閣直學士を加えられ、さらに延康殿學士に進んだ。卒す。享年七十。弟に渙之あり。
弟 渙之
渙之、字は彥舟。弱冠に満たずして上第に擢でられ、有司は年齢が銓格に及ばぬと疑ったが、特旨により武勝軍節度推官に補せられた。学官が新たに設置された折、杭州教授とされ、潁上縣を治めた。元祐年間、太學博士となり、黃本秘書を校對した。衛州を通判し、召されて『兩朝魯衛信錄』を編修した。
徽宗が即位し、日食に因んで直言を求めた。渙之は大臣の交わっての推薦により召し出されて対し、言上して曰く、「直言を求むるは難しからず、之を聴くが難し。聴くは難しからず、察して之を用うるが難し。今、国家はしばしば直言を求むる詔を下すが、下の上に報ずるは、あるいはかくの如くならず、闕失を指陳するを以て上を誹るとなし、阿諛佞諂を以て君を尊ぶとし、議論の時勢に趨くを以て国是とし、可否相い済ますを以て邪説とす。志士仁人は言うこと益なきを知り、復た言うことなく、而して小人は詭譎にして驚くべき論を肆にし、苟も容れられんとし、ひたすら迎合す。願わくは陛下、虚心に公に聴き、言に逆順なく、唯是に従い、事に今昔なく、唯当たるを貴び、人に同異なく、唯正しきを用いられん。然らば人心は悦び、治道は成り、天意を得ん」と。帝は欣然として受け入れ、諫官・御史に任ぜんとした。辞して曰く、「臣は大臣の推薦による。是の官に居るべからず」と。乃ち吏部員外郎を拝し、左司員外郎・起居舍人に遷り、中書舍人に擢でられた。省に趨いた日、詞頭三十三あり、下筆して即ち成した。
崇寧初め、給事中・吏部侍郎に進み、宝文閣待制として広州を治めた。言事者が論じて、渙之は元祐の末に当たり、陳瓘・龔𡙇・張庭堅と交遊し、既に紹聖の時に棄てられたが、今また之を復するは、初政に害ありと。職を解かれて舒州を治め、党籍に入れられた。尋いで福州を治め、未だ至らざるに、復た広州に徙せられた。蕃客が奴隷を殺すと、市舶使は旧例に拠り、只その長に送って杖笞するのみとしたが、渙之は不可とし、法の如く論じた。
召されて闕に詣でるに、言事者が復た故語を拾って之を阻み、罷められて洪州となった。滁州に改め、潭・杭・揚の三州を歴任した。張商英が宰相となると、給事中・吏部侍郎となった。商英が去ると、亦た出て守となった。八年を越え、中山府を治め、宝文閣直學士を加えられた。朝廷が北伐を議するに、渙之は疾を以て明道宮を提挙した。また四年にして卒す。享年四十五。
渙之の性は淡泊にして、仕進に恬として、常に云う、「車に乗るには常に顛墜する処とし、舟に乗るには常に覆溺する処とし、仕宦には常に遇わざる処とすれば、則ち事無し」と。その帰趣かくの如し。
黃廉
黃廉、字は夷仲、洪州分寧の人。進士に及第し、州縣を歴任した。熙寧初め、或る人が王安石に推薦した。安石が之と語り、免役の事を問うと、廉は旧法に拠り対え、甚だ詳しかった。安石曰く、「是れ必ず新法を弁ずる能わん」と。神宗に白上し、召して時務を訪ねると、対えて曰く、「陛下の意は民を便にするに在り、法は不良に非ざるも、而して吏は其の人に非ず。朝廷の法を立つるの意は則ち一なり、而して四方の推奉は紛然として同じからず、以て法行われて民病む所以なり、陛下尽く察せざるなり。河朔は水に被り、河南・齊・晉は旱し、淮・浙は飛蝗し、江南は疫癘す、陛下尽く知らざるなり」と。帝は即ち廉に命じて東道を体量振済せしめ、司農丞を除した。還って報ずるに旨に合い、利州路轉運判官に擢でられ、復た司農丞となった。
監察御史裏行となり、建言して曰く、「天下の務を成すは、人才より急なるは莫し。願わくは両制の近臣及び轉運使に各々士を挙げしめよ」と。詔して各一人を薦めしむ。継いて言う、「寒遠の下僚は、既に名を上に聞こえたる上は、願わくは中書に其の能を審らかにして表用せしめよ。然らば急才の詔、虚しく天下に行われざらん」と。又言う、「比年水旱あり、民は支貸倚閣の恩を蒙る。今幸いに歳豊かなり、有司は悉く当に挙催すべし。久饑にして初めて稔るに、累給並びに償わしむるは、是れ民をして豊年に遇いて欠歳を思わしむるなり。請う、諸道をして以て漸く之を督取せしめよ」と。
俞充が王中正に結びついて宰属を得たことを論じ、併せて中正の任使が太重きを言上した。帝曰く、「人才は蓋し類無し、顧みるに之を駕御する如何に在るかのみ」と。対えて曰く、「然りと雖も、臣は漸く長ずべからざるを慮る」と。
河が曹村に決し、田三十万頃、民の廬舎三十八万家を壊した。詔を受けて京東を安撫し、倉を開いて饑を振い、遠くして至り難き者は、吏を分遣して移給し、高地を択びて舎を作り以て民を居らしめ、流民の過ぐる所には征算せず、転行する者には糧を賦し、私牛を質して之に銭を与え、道に棄てられた男女を養い、丁壮は則ち其の力を役し、凡そ活かす所二十五万。
相州の獄が起こり、鄧溫伯・上官均が其の冤を論じて、譴責を受けて去り、詔して廉に詰問せしめたが、竟に正す能わず。未幾にして獄成り、始めて之を悔いた。集質校理を加えられ、河東刑獄を提点した。
遼人が代北の地を求めると、廉言う、「分水して境を画せば、中国の険固を失い、豺狼の心を啓く」と。其の後、契丹は果たして両不耕地を包取し、雁門に臨むに至り、父老は以て恨みと為した。王中正が西兵を発し、一を用うるに二を調し、轉運使が又之に附益す。廉曰く、「民は剝ぎて骨に至り、斟酌して興に乏しからざれば、足れり。何ぞ忍びて自ら根本を竭くさんや」と。即ち奏して云く、「師は必ず功無からん。何ぞ以て其の後に善くせざるや」と。既に大軍潰えて帰り、中正は罪を轉餉に嫁した。廉は上黨に詣でて対理し、坐して秩を貶せられた。
翌年、左司郎中に進み、起居郎・集賢殿修撰・樞密都承旨に遷る。上官均が、彼が以前蔡確に附いて獄事を行ったことを論じたため、陝西都轉運使に改められる。給事中に拝され、卒す。享年五十九。
朱服
朱服、字は行中、湖州烏程の人。熙寧年間の進士甲科に及第し、淮南節度推官を以て修撰・經義局檢討を充て、國子直講・秘閣校理を歴任す。元豐年中、監察御史裏行に擢でられる。參知政事章惇が親しい袁默・周之道を遣わして朱服に会わせ、道は推薦引き立ての意を示して恩を売ろうとしたが、服はこれを挙劾した。惇は郡に補せられ、默・之道は官を免ぜられる。
詔を受けて朱明の獄を治める。故事によれば、制獄は上殿を許され、本章に云わざる所は皆旨を取る。服はその非を論じて、これを罷めしむ。まもなく諫院を知り、國子司業・起居舍人に遷り、直龍圖閣を以て潤州を知り、泉・婺・寧・廬・壽の五州に徙る。廬州の人饑え、便宜を守りて振恤し、全活すること十余萬口。翌年大疫あり、また醫に課して善藥を持たせ分かちてこれを拯い、頼りて安んずる者甚だ衆し。
元祐の時、未だ嘗て一日も朝廷に在らず、少なからざる望み無き能わず。紹聖の初政に値い、表を奉じて賀するに因り、乃ち力めて法度を變亂したる故を詆毀す。召されて中書舍人と為る。遼に使いし、未だ返らざるに母死す。詔して其の家貧しきを以て、帛二百を賜う。喪除けて、禮部侍郎を拝す。湖州守馬城、其の居喪の際几筵を疎かにして獨り他の室に處るを言い、萊州知州に謫せらる。
徽宗即位し、集賢殿修撰を加えられ、再び廬州に任ぜらる。兩月を越え、廣州に徙る。哲宗既に祥を過ぎ、服が賦した詩に「孤臣正に泣く龍髯草」の語あり、部使者の上言するところとなり、袁州知州に黜せらる。また蘇軾と交遊したるに坐し、海州團練副使に貶せられ、蘄州に安置せらる。興國軍に改められ、卒す。
張舜民
張舜民、字は芸叟、邠州の人。進士第に中り、襄樂令と為る。王安石新法を倡えしとき、舜民上書して言う、「民を便にするは民を窮する所以なり、内を強くするは内を弱くする所以なり、國を闢くは國を蹙める所以なり。堂堂たる天下を以て、小民と利を爭うは、恥ずべきなり」と。時人其の壯挙を壯とす。元豐中、朝廷西夏を討ち、陳留縣五路より出兵す。環慶帥高遵裕、機密文字を掌ることを辟く。王師功無く、舜民の靈武に在りて作れる詩に「白骨沙の如く沙雪の如し」及び官軍の「受降城の柳を斫りて薪と為す」の句あり、坐して邕州鹽米倉監に謫せらる。また追い赴かせられて鄜延の詔獄に付せられ、郴州酒稅監に改めらる。
赦に會い北還す。司馬光其の才氣秀異、剛直敢言なるを薦め、館閣校勘を以て監察御史と為す。上疏して西夏の強臣權を爭うを論じ、爵命を加うべからず、師を興して罪を問うべしとし、因りて文彥博に及び、左遷されて監登聞鼓院と為る。臺諫交章して職に還すを乞うも、聽かれず。虢州通判、秦鳳刑獄提點と為る。召されて殿中侍御史を拝せられしも固く辭し、金部員外郎に改めらる。秘書少監に進み、遼に使いし、直秘閣・陝西轉運使を加えられ、陝・潭・青の三州を知る。元符中、職を罷められて東銓に付せられ、坊州・鳳翔と為すも、皆赴かず。
徽宗立ち、右諫議大夫に擢でられ、職に居ること纔か七日、上せし事既に六十章。陝西の弊を陳べて曰く、「庸將を以て老師を御し、饑民を役して曠土を爭う」と。河朔の困窮を極論し、言多く剴峭なり。吏部侍郎に徙り、俄かに龍圖閣待制を以て定州を知り、同州に改む。元祐黨に坐し、楚州團練副使に謫せられ、商州に安置せらる。復た集賢殿修撰と為り、卒す。
舜民慷慨として事を論ずるを喜び、文を善くし、自ら「浮休居士」と號す。其の遼に使えるや、其の太孫禧の音樂・美姝・名茶・古畫を好むを見て、他日必ず唐の張義潮の十三州を挈きて來歸するが如き者有らんと以為い、四十年を經ずして當に見るべしと。後其の言の如し。紹興中、寶文閣直學士を追贈せらる。
盛陶
盛陶、字は仲叔、鄭州の人。進士第に及ぶ。熙寧中、監察御史と為る。神宗河北の事を問う。對えて曰く、「朝廷民を便にし役を省くを以て、郡縣を廢するを議す。誠に便なり。然れども沿邊の地相屬き、北平より海に至るまで五百里に過ぎず、其の間に城十五を列ねるは、祖宗の意固より在る所あり。願わくは舊貫に仍らん」と。慶州李復圭敵を輕んじて國を敗り、程昉河を開きて功無く、水政を籍して州縣を擾わす。皆其の過を疏す。二人實に王安石の主とするところなりしも、陶少も屈せず、簽書隨州判官に出さる。
久しくして、入りて太常博士・考功員外郎・工部右司郎中と為り、侍御史に至る。官冗の敝を陳べ、恩澤舉人は嘉祐・治平の制を取り、選人の官を改むるは熙寧・元豐の法に準ずべしと謂う。諫官劉安世等、蔡確を攻めて謗詩と為す。陶曰く、「確は弟碩の罪有るを以て、只だ職を罷むるに坐するのみ。恨みを懷くべからず。詩語を注釋するは、捃摭に近く、告訐の風を長ずべからず」と。安世上疏して言う、「陶風憲の地に居り、君親に禮無き人を目擊しながら、附會觀望す。紀綱何に賴らん」と。汝州知州に出され、晉州に徙り、召されて太常少卿と為る。
天地を合祭するを議し、先帝の北郊の旨に從うを請う。既にして合祭す。陶即ち奉行し、亦復た辨執せず。權禮部侍郎・中書舍人に進み、龍圖閣待制を以て應天府・順昌府・瀛州を知る。元符中、例に坐して職を奪われ、卒す。享年六十七。
論ずるに曰く、王氏、章氏、蔡氏が国政を執るに当たり、士大夫は彼らに逆らえば必ず斥けられ、附けば必ず進められることを知っていた。しかし孫鼛は蔡京に正論を述べ、その助力を肯んじず。呉時は童貫を退け、王黼に逆らい、罷免されて帰ることを幸いとした。昭玘は侯蒙の招聘を辞退し、朱服は章惇の推薦を明らかにし、舜民は新法を誹謗した。また盛陶は王安石に屈せず、その大節は皆取るべきものがある。ただ漢之が蔡京の客となり、黄廉が蔡確の獄に附したのは、孫鼛らに比べて愧ずかしいことが多い。『易経』に曰く、『石に介りて、終日せず、貞にして吉』と。故に君子は幾を知ることを貴ぶ。
章衡
熙寧初年、還って太常寺判事となった。建議して、「唐の開元以来礼書を編纂するに当たり、『国恤』の一章を凶事に備えるものとして、削除してしまった。故に不幸にも事が起こると、散逸した残簡を拾い集めるも、全く拠り所がない。今『厚陵集礼』を作り、万世に伝えるべきである」と述べた。これに従った。
鄭州知州として出向し、原武監を廃止するよう上奏し、牧地四千二百頃を弛めて民に与えた。再び太常寺判事となり、審官西院を管轄した。遼に使いし、燕射で連発して的を破り、遼は文武兼備と認め、他の使者とは異なる待遇をした。帰国して復命し、遼の国境に備えがないので、この時に山後八州を回復できると述べた。聞き入れられなかった。
章衡は学者が古今を知らないことを憂い、歴代の帝系を編纂し、『編年通載』と名付けた。神宗はこれを見て善しとし、諸史の冠とすべきであると言い、かつて多くの士人に先んじながら、進用が遅れたことを思い、面と向かって三品の服を賜った。吏部流内銓の判事となり、かつて員欠があり、既に擬注したのに、三班院が勝手にそれを使い、逆に吏部を訴えた。宰相はその説を支持したが、章衡は連続して上疏してこれと論争した。ある者は宰相の勢威は深く争うべきではないと言ったが、章衡は止めず、ついに御前で訴えた。神宗は内侍を伴わせて中書省に行かせ、宰相はこれを見て怒ったが、章衡は「私は朝廷の法のためです」と言った。状を上って請い、それを見せると、宰相は悟って言った、「もしそうなら、吏部が正しい」。そこで三班院を罪した。
間もなく、通進銀臺司知事・直舎人院となり、宝文閣待制・澶州知州に任じられた。神宗は言った、「卿は仁宗朝の魁甲(状元)である。宝文閣は御集を蔵する所で、未だ人を除したことがない。今これを卿に与える」。章衡は拝謝した。郡に着くと、役人が法を立てて民の塩の販売を禁じようとしたので、章衡は言った、「民は塩によって生きており、生きる道がある所では、法を犯しても顧みない。空しく獄が日に日に煩雑になるだけである。従前のままの方がよいと請う」。成徳軍知州に転じ、事に坐して免官された。
元祐年間、秀州・襄州・河陽・曹州・蘇州を歴任し、集賢院学士を加えられ、再び待制として揚州・廬州・宣州・潁州知州となり、卒去。七十五歳。
顔復
元祐初年、召されて太常博士となった。建議して、「士民の礼制が確立せず、下に矜式(模範)がない。礼官に命じて古今の典範を会萃し、五礼の書を作らせるべきである。また祀典を考正し、すべて讖緯の曲学・汚れた条項や陋製・道流の醮謝・術家の厭勝の法を、一切削除すべきである。大小の群祀をことごとく聖人の経に合わせ、後世の法とすべきである」と述べた。礼部員外郎に遷った。孔宗翰が孔子祠を尊奉するよう請うたので、顔復はこれに因んで五つの議を上奏し、その祠饗を専らにし、その田祿を優遇し、その廟幹(廟の雑役)を免除し、その法則を司り、その子孫を訓育しようとした。朝廷は多くこれに従った。
崇政殿説書を兼ね、起居舎人兼侍講に進み、起居郎に転じた。経行に優れた儒者を選び、諸県の教官を補うこと、またすべて学者はその志業を考課し、教官の推薦なくしては、貢挙に与り、太学に昇ることができないことを請うた。中書舎人兼国子監祭酒に任じられ、言上して、「太学の諸生には誘進の法があるが、教官だけは未だ旌別(表彰・区別)したことがない。厳師が士を勧める道には似ていない」と述べた。一年も経たないうちに、病のため天章閣待制に改められたが、拝命せずに卒去。五十七歳。王岩叟らが顔復の学行が超特であるので、優れた賻(贈り物)を加えるべきと上言し、詔して銭五十万を賜うた。子の岐は、建炎年間に門下侍郎となった。
孫升
孫升、字は君孚、高郵の人。進士に及第し、泰州判官に簽書した。哲宗が即位すると、監察御史となった。朝廷が法度を改め、姦邪を追放するにあたり、孫升は多くの建明をした。かつて上疏して言った、「二聖(宣仁太后と哲宗)が臨御して以来、正人を登用し、天下のいわゆる忠信端良の士、豪傑俊偉の材を、俱に収め並びに用い、近世の賢を得た盛んなことは、今日ほどないことはない。君子は日に進み小人は日に退き、正道は日に長じ邪慝は日に消え、朝廷に濟濟として成周の風がある。これは言路を初めて開いた効果である。耳目の臣(諫官・御史)において、論議の際に、党附の疑いを置き、小人の隙を杜ぐことを願う。疑間がひとたび開かれると、言者はその職に安んじられなくなる。言者がその職に安んじられなくなると、循黙の風が熾になり、壅蔽の患いが生じ、朝廷の福ではない」。殿中侍御史に遷った。
梁燾が張問を責めたので、孫升はこれに従ってこれを撃った。執政はこれを附和と指摘し、済州知州として出向させた。一年余りして、京西刑獄提点となり、召されて金部員外郎となり、再び殿中侍御史に任じられ、侍御史に進んだ。時に翰林承旨の鄧温伯が台臣に攻撃されたので、孫升と賈易は特に力を込めてこれを論じ、蔡確の制を起草するに当たり、その定策の功を漢の周勃に比したのは、天を欺き国に負うもので、どうして密命を親しく承ることができようか、と述べた。返答がなかった。起居郎から中書舎人に抜擢され、直学士院となり、天章閣待制・応天府知事となった。董敦逸・黄廷基が孫升の過失を摘発したので、集賢院学士に改められた。
紹聖の初め、翟思・張商英がまた彼を弾劾し、職を削り、房州・帰州の知州に任じた。水部員外郎に貶し、分司させた。また果州団練副使に貶し、汀州に安置した。卒す。年六十二。
孫升は元祐の初めに、嘗て言った。「王安石は名世の学を擅にし、一代の文宗たり。大位に進み居るに及んで、その私智を出だし、以て天下の聰明を蓋い、遂に大害と為る。今、蘇軾の文章学問は、中外の服する所なり。然れども徳業器識、足らざる所あり。翰林学士と為りて、已にその任を極む。若し経綸を輔佐せしめんには、願わくは安石を以て戒めとせん。」世、その失言を譏る。
韓川
韓川、字は元伯、陝の人なり。進士上第に及第し、開封府推官を歴任す。元祐初め、劉摯の推薦により、監察御史と為る。市易の害を極論し、以て「物価を平均すと雖曰うも、その実は貨を交えて利を取るを免れず。就仮に獲ること有るとも、尚為すべからず。況んや獲る所、亡ぶる所に如かざるをや、果たして何事ぞ。願わくは官吏を量り留め、之と期し、使いてこの法を罷めしめよ」と為す。之に従う。
殿中侍御史に遷る。疏を上して言う。「朝廷、人材に於いて、常に至公を推し以て博く採らんと欲す。その弊に及べば、則ち権勢に利して孤寒を抑うるに幾し。常に勤績を収め以て用に赴かしめんと欲す。その終りを要すれば、則ち虚名を収めて実効を廃するに莫し。近制、太中大夫以上は歳に守臣を挙ぐ。大州の闕に遇えば、則ち諸の表する所より選ぶ。他の考課上等と雖も、皆預かるを得ず。旨意を推原すれば、固より人を得んと欲す。然れども所謂太中大夫以上は、率ね京師に在り。諸の馳騖請求する者、之を得ること易し。郡県に淹歴し治状法に応ずる者に至っては、顧みてその下に出ず。則ち是れ身を謹み修潔なる人は、一章を営求する速やかなる化に若かざるなり。」ここに於いて詔して吏部に更に法を立たしむ。
張舜民が西夏の事を論じ、封冊を停むるを乞う。朝廷、辺隙を開くと為し、その御史を罷む。梁燾等、舜民の為に之を争う。韓川は呂陶・上官均と、舜民の言は実に行うべからずと謂う。燾等去り、川もまた太常少卿に改めらる。拝せず、集賢校理を加えられ、潁州知州と為る。還りて侍御史・枢密都承旨と為り、進んで中書舎人・吏部・礼部二侍郎に至り、龍図閣待制を以て復た潁を守り、虢州に徙る。孫升と同責を受け、坊州・郢州より屯田員外郎に貶し、分司させ、岷州団練副使、道州安置と為る。徽宗立ち、故官を得、青州・襄州二州の知州と為り、卒す。
龔鼎臣
徂徠の石介死す。讒する者、介の遼に北走せしと謂う。詔して兗州に状を劾せしむ。郡守杜衍会問す。掾属対うる者莫し。鼎臣独り曰く。「介寧く是れ有らんや。願わくは闔門を以てその死を証せん。」衍、懐を探りて奏稿を出だし之を示し、曰く。「吾既に介を保せり。君年少にして義を見るかくの如し、未だ量るべからず。」挙げられて秘書省著作佐郎・萊蕪県知県と為る。大臣館職に試すを薦む。石介と善しと坐し、召されず。濛陽県知県に徙り、秘書丞に転ず。母憂に服し、服除け、安丘県知県と為る。賢良方正を以て秘閣に召し試され、太常博士に転じ、五品服を賜い、渠州知州と為る。渠は故より僻陋にして学者無し。鼎臣朝に請うて、廟学を建て、邑子を選びて生と為し、日々講説し、課肄の法を立て、人大いに勧み、始めて登科する者有る。郡人像を繪し之に事う。
召し入れられて史館書籍を編校し、都官に転じ、起居舎人・同知諫院に擢でらる。歳冬旱す。将に春宴を錫わんとす。鼎臣曰く。「旱甾甚だ太し。君臣同楽の時に非ず。願わくは宴を罷め以て天戒に答えよ。」日当に食らうべきに、陰雲見えず。鼎臣曰く。「陽精既に虧けば、四方必ず見ゆ。異と為ること益大なり。願わくは精思力行し、賢を進め佞を遠ざけ、以て皇極に応ぜよ。」又内侍都知鄧保信の罪状を論じ、禁中に出入すべからずとす。蘇安静年未だ五十ならず、超えて押班と為すべからず。妃嬪三代を贈るは、后礼を僭す。董淑妃に諡を賜うは是に非ず。凡そ大礼赦は、願わくは太平興国の詔書に準じ、前期に禁約を下し、後に犯す者は原せず、以て赦を指して姦を為す者を杜せん。宜しく令として著すべし。開封三司法外に獄を断つ。朝廷多く曲くその請に徇う。願わくは先ず中書に付し審画せしめよ。仁宗悉く之に従う。
尋いで兼ねて管勾国子監と為り、登聞検院を判じ、民力を寛恤する奏議を詳定す。淮南災す。鼎臣を以て体量安撫と為し、逋を蠲し振貸し、全活すること甚だ衆し。遼正旦使と為らんとす。鼎臣奏す。「景德中、遼淄・青を犯す。臣の祖母・兄・姊皆略見せらる。義を以て往くに忍びず。」之を許し、仍詔して後子孫並に行くを免ぜしむ。
俄に戸部員外郎兼侍御史知雑事を拝し、三品服を賜う。吏部・礼部二郎中に転ず。宗室は宜しく歳に試し補外官すべしと論じ、濫官冗兵を汰し、財用を蕃え、奢靡を禁ずるを請う。連ねて薛向の姦暴を劾し、塩を鬻ぎ馬を市すること皆上を罔すとす。英宗位に登る。屡び臣下を延訪し、親しく国事を決するを乞う。上疏して皇太后の早く政を還すを勧む。及び簾を巻きて御璽未だ復せざるに、又極論す。昭陵は宜しく儉葬すべく、景霊神御殿は増侈すべからずと謂い、以て先帝の恭徳を彰す。鼎臣言路に累歳在り、細故を闊略し、大事に至っては、顧み憚ること無し。然れどもその言優遊和平にして、峻激と為さず、人主の聴き易からしめ、退いても未だ嘗て人に語さず。故にその事多く施行さる。
集賢殿修撰に改め、応天府知事と為り、江寧に徙る。召し還され、太常寺を判じ兼ねて礼儀事を掌る。神宗即位し、吏部流内銓・太常寺を判ず。選人官を得、班を待ち謝辞するに、率ね皆留滞す。鼎臣門謝辞に易うるを奏す。之に甚だ便し。明堂議して帝に侑せんとす。或いは真宗を以てすと云い、或いは仁宗を以てすと云う。鼎臣曰く。「厳父は天に配するに大なるは莫し。未だ祖を以てすと聞かず。」乃ち英宗を奉じて配す。王安石侍講す。座を賜わんと欲す。事礼官に下る。鼎臣不可と言う。安石悦ばず。外補を求め、兗州知州と為る。
是の時、諸道方田使者功賞を希い、概ね税の虚額及び嘗て蠲せし所を取し、旧籍に加えて以て民を病ます。鼎臣独り籍に按じて差次し十等と為し、一も増す所無し。兗人之を徳とす。吏部に改め、西京崇福宮を提挙す。復た太常寺を判じ、南京を留守す。陛辞す。神宗顧みて語ること移晷、喜びて曰く。「人卿の老いて事に任ずるに堪えずと言う。精明なること乃ち爾り。行く且つ卿を用いん。」
鄭穆
鄭穆、字は閎中、福州侯官の人。性質は醇厚謹厳にして学を好み、書を読むこと櫛沐を忘るるに至り、進退容止は必ず礼に依った。門人は千数に及び、陳襄・陳烈・周希孟と友となり、「四先生」と号された。進士に挙げられ、四度郷書の首となり、遂に及第し、寿安主簿となった。召されて国子監直講となり、編校集賢院書籍を除された。年満ちて、館閣校勘となり、積官して太常博士となった。一秩を納めて、先んじて南郊の礼に追封考妣を請うことを乞い、従われた。集賢校理に改め、外補を求め、汾州通判となった。
六年、老を請い、洞霄宮を提挙した。勅が門下を過ぐるに、給事中范祖禹が言う、「穆は年七十を出づと雖も、精力尚お強し。古より大夫七十にして致仕す、謝すべからざる有れば、則ち之に几杖を賜う。祭酒は師資の地に居り、正に老成を処するに宜しく、願わくは軽々にその去るを聴くことなかれ。」報いず。太学の士数千人、状を以て司業に詣り、又宰相に詣りて留まることを請う、亦従わず。ここにおいて公卿大夫各詩を為してその行を贈る。学は空しく出で汴東門外に祖し、都人の観る者堵の如く、未だ嘗て見ざるを歎いた。明年卒す、年七十五。子璆、軍事推官。
席旦
席旦、字は晉仲、河南の人。七歳にして詩を能くし、嘗て沈黎嶺に登り、句を得て警抜、観る者驚異す。元豊中、進士に挙げられ、礼部は名を奏せず。時に方に辺功を求め、旦は闕に詣り上書して言う、「戦勝は易く、守勝は難し、以て之を得る所以を知れば、必ず以て之を守る所以を知らん。」神宗嘉納し、廷試に賜第せしむ。歴て斉州司法参軍・鄭州河陽教授・勅令所刪定官。
徽宗召対し、右正言に擢げ、右司諫に遷る。御史中丞錢遹が同列を率いて元祐皇后を廃し劉氏を冊して太后と為すことを請う、旦は面質して不可と為す。遹は旦が陰に元祐の政を佐くを劾し、吏部員外郎に左転す。太常少卿に改め、中書舎人・給事中に遷る。新たに殿中省を建て、監を命ぜられ、俄かに御史中丞兼侍講を拝す。
内侍郝随驕横、旦はこれを劾して罷め、都人はその直を誦す。帝はその章に「媚惑先帝」の語有るを以て、指斥を嫌い、旋って吏部侍郎に改め、顕謨閣待制として宣州を知らしむ。召されて戸部侍郎となり、吏部に還る。郝随復た入侍し、乃ち顕謨閣直学士として成都府を知らしむ。
趙諗が狂謀を以て誅せられし後より、蜀は数え妖言有り、議者は遂に蜀土の乱を習うを言う。或いは旦を導きて峻猛を以て治めしむ、旦の政は和平、鄭州に徙す。入見し、言う、「蜀人の性は善柔、古より兵を称して背叛するは、皆その土俗に非ず、願わくは慮ることを為すなかれ。」遂に言う、「蜀は鉄錢を用い、その転移に艱しきを以て、故に権りに楮券を以てす、而して有司は贏羨を冀い、之を為すこと益々多く、民をして敢えて信ぜしめず。」帝曰く、「朕卿が為に数百万の虚券を損じ、而して別に緡錢を給して本業と為さば、可か。」対えて曰く、「陛下幸いに遠民に恵を加え、重費を愛しまずして以て敝法を救わんとす、此れ古の聖王の用心なり。」是より錢引稍々故に仍る。
進対淹留に坐し、滁州知州に貶ぜらる。久しくして、帝その蜀を治むる功を思い、復た成都を知らしむ。朝廷西南夷を開く、黎州守が幕府に詣り事を白し、雲南大理国の朝献を求むるを言う、旦は唐の南詔が蜀の患いと為りしを引き、拒んで却く。已にして威州守焦才叔言う、保・霸二州を誘いて内附せしめんと欲すと。旦は章を上て才叔が姦利を為し諸蕃を斂困する状を劾す、宰相悦ばず、龐恭孫を以て代え、而して旦を永興に徙す。恭孫俄かに罪去り、旦に述古殿直学士を加え、復た成都を知らしむ。時に郅永壽・湯延俊が土を納む、枢密院用いて以て旦を訹く、旦曰く、「吾は朝廷疆を開くの禍を悔いむと為す、今猶お自ら若きか。」力辞す。長安に卒す、年六十二、太中大夫を贈られる。
旦は朝に立ちて附徇する所無く、第に中丞たりし時、蔡王似方に疑を以て第に就く、旦はその私に府を出づるを糾し、官吏を推治することを請う、議者はこれを哂う。子益、字は大光、紹興初め、参知政事。
喬執中
喬執中、字は希聖、高郵の人。太学に入り、《五経》講書を補し、五年告げず。王安石が群牧判官たりし時、見て之を器とし、子弟をして之と遊ばしむ。進士に擢げられ、須城主簿に調う。時に河役大いに興り、部役者は人を得ず。一夕、噪いて潰え、因って大獄を致す。執中往きて代わり、終に帖然たり。富民は吏に賂し、将に橋をその居る所に創りて以て市利を罔せんとす、執中はその害を疏し、使者は吏の言に入りて之を成さしめんとす、執中曰く、「官は去るべし、橋は創るべからず。」卒に奪う能わず。
王安石が政を執ると、執中を引き立てて『熙寧條例』を編修させ、湖南常平の提挙に選んだ。章惇が五溪を討つに当たり、執中に檄を飛ばして大田・離子の二峒を取らせた。峒の路は険絶し、期限は迫っていたが、執中はただ一校を走らせてその酋に諭させると、たちまち相率いて帰順した。功を録して昇進すべきであったが、父母に及ぼすことを理由に辞退した。
転じて転運判官に移り、召されて司農丞・開封県鎮提点となった。諸県の牧地は、民が耕作すること久しく、議者がこれを取り上げようとし、丘墓を平らげ、桑柘を伐らんとしたため、万戸が集まって泣いた。執中が朝廷に請うと、神宗は詔して再び民に与えた。京西北路刑獄提点に改めた。時に河が広武で決壊し、堤防の埽が極めて危うく、集まった者も敢えて登ろうとしなかった。執中は顧みず、その上に立ち、衆は蟻が付くようにこれに従い、幾日もせずして埽は完成した。
元祐初め、吏部郎中となり、選人で県令・録事参軍を経て致仕する者は、朝籍に昇らせ、その親を封じることを得るよう請うた。兼ねて徐王府侍講・翊善となり、起居舍人・起居郎に遷り、権給事中を務めた。有司が天下の讞獄で出入の誤りがあった者を同罪に坐せようとしたが、執中はこれを駁して言うには、「先王は入罪を重くし出罪を軽くする、刑を恤しむ至りである。今一旦これを均しくすれば、恐らくこれより法吏は再び生を比することを肯んじず、生を好み民を治めるの意に非ざらん」と。中書舍人に進んだ。邢恕が赦に遇い甄復されようとしたが、執中は言うには、「恕は深く蔡確と結び、鼓唱扇搖した。今その官を復すれば、中外の疑いを生ずるを懼れる」と。給事中・刑部侍郎に遷った。
紹聖初め、上官均が執中が呂大防に用いられたことを摘発し、宝文閣待制として鄆州知州となった。執中は寛厚にして仁心あり、屡々刑獄を典とし、雪冤して生かすこと百数を数えた。明年、神人が騎都尉を授ける夢を見、翌朝客にこれを語り、少焉、談笑して逝去した。享年六十三。
論じて曰く、宋の人才は、祖宗の涵養よりして、中葉に至り、盛んである。顏復・鄭穆は醇乎たる儒者にして、師表に居るに宜しい。龔鼎臣・喬執中は終始その守りを渝えず、豈に易く得んや。章衡は山後八州を復せんと欲し、国のために釁を啓き;孫升は蘇軾を以て王安石の為人に比し;韓川は張舜民の言の行うべからざるを詆し;席旦は蔡王の疑いを見るを以て、これに因りてこれを擠す。然れども瑕は瑜を掩うこと能わず、他の善も蓋し称すべき者有り。古に「才難し、其れ然らざるや」と称するは、其れ斯れを謂うか。