宋史

列傳第一百〇五 陳次升 陳師錫 彭汝礪弟:汝霖 汝方 呂陶 張庭堅 龔𡙇 孫諤 陳軒 江公望 陳祐 常安民

陳次升

陳次升、字は當時、興化軍仙遊県の人。太学に入り、時に学官が王安石の『字説』を得て、諸生を招き訓義した。次升は立ち上がって言う、「丞相は秦の学か。商鞅が仁政を行えたと称え、李斯の事を弁解するのは、秦の学でなくて何であろうか」と。坐して排斥された。既に進士に及第し、安丘県知事となる。転運使の呉居厚は聚斂をもって進用され、尉に檄を飛ばして遠郊で税を徴し、農家の古い綿を手に入れ、捕らえて県に送った。次升はこれを釈放して帰した。居厚は怒り、法をもって処罰しようとしたが、御史中丞の黄履が推薦したので、監察御史となった。

哲宗が立つと、江・湖の察訪を命じられた。先に、蹇周輔父子が江右の塩法を経画し、民に害をなしたので、次升はこれを挙劾した。還って言う、「額外上供の数が除かれず、他日必ず非法の徴斂があるであろう。熙寧以来創行の封椿名銭を悉く豁免されることを願う。また役法が未だ定まらず、人情が惑わされている。速やかに差雇及び均数の等を定め、先ず節度を作り審らかに行うことを乞う」と。淮南・河東刑獄を提点した。

紹聖年間、再び御史となり、殿中侍御史に転じた。章惇・蔡卞が党を植えて奸をなすことを論じ、威福の柄を収還することを乞うた。禁中に火災があり、西方に彗星が出た。次升は徳を修め言を求めて、天変を消すことを請うた。掖庭で厭魅の獄を審理した。次升は言う、「事は中宮に関わる、外に付して参治すべきである。今、閹寺の手に属せしめれば、万一冤濫があれば、後世の譏りを遺す」と。済陽郡王の宗景が妾を妻とすることを請うた。その宗藩として礼を廃することを論じ、聖朝の累となる、と。

初め、惇・卞は次升が元祐年間に外遷されたので、怨望がないとは思わず、卞はまた同郷であったので、憲府に延いて置き、力を出して助けさせ、衆賢を擠排させようとしたが、次升は少しも附かず。時に元祐の章疏を編纂し、毒は縉紳に流れた。次升は言う、「陛下が初め即位され、まず詔令を下し、人を導いて諫めさせられた。親政以来、また敕榜を掲げ、その自新を許された。今、一つの言の失を考課して譴累に致すならば、前の詔令は正に天下を誤らせるものとなり、後の敕榜は正に天下を誑かすものとなり、大信を示すものではない」と。また卞の客の周穜が貪鄙であり、鄭居中が憸佞であることを論じた。これにより惇・卞は共に彼を憎み、親しい太府少卿の林顏に己の意を伝えさせ、嘗て美官をもって誘った。次升は言う、「私はただ官を守るのみを知る。君は天子の卿士でありながら、宰相のために風旨を伝えるのか」と。惇・卞はますます快からず、隙を乗じて河北転運使にしようと白上した。帝は言う、「漕臣は得易い。次升は敢言であり、去るべきではない」と。更に左司諫に進めた。

宣仁太后に追廃の議があった。次升は密かに言う、「先の太后は聖躬を保佑され、始終間隙がなかった。小人の銷骨の謗を聴かぬことを願う」と。帝は言う、「卿はどこで聞いたか」と。対えて言う、「臣の職は風聞を許されている。陛下はその由来を詰められぬがよい」と。呂升卿が広南を察訪しようとした。次升は言う、「陛下には流人を殺す意はないが、升卿を出使させる。升卿は資性惨刻で、人の過ちを求めることを好む。今、志を逞しくし憾みを晴らさせれば、何所に至らぬことがあろうか」と。乃ち派遣を止めた。

次升は累章して章惇を劾したが、皆留中された。帝は嘗て言う、「章惇の文字は絶やさぬように」と。次升は退いて王鞏に告げた。鞏は言う、「君は何故『諫臣は耳目なり、帝王は心なり。心の知らざる所は、則ち耳目之を傅達す。既に知りては、何を以て耳目と為さんや』と言わぬのか」と。数日を経て、再び入見した。帝が前の旨を申されたので、乃ち鞏の言葉を以て対えた。帝は言う、「然り。但し代わる者がないのみ」と。遂に去らしめることはできなかった。京師の富家の乳婢がその主を怨み、児を上に坐らせて嵩呼を三度したので、邏卒が獄に繋いだ。次升は有司に観望せぬよう戒めることを乞うた。帝が大臣に何を謂うかと問うと、蔡卞は言う、「正に陛下を観望することを謂う」と。その先烈を毀ることを誣い、全州酒税監に謫することを擬した。帝は遠すぎるとし、南安軍に改めた。

徽宗が立つと、侍御史に召された。惇・卞・曾布・蔡京の悪を極論し、惇を雷州に竄え、卞を池州に居らせ、京を江寧に出した。右諫議大夫に遷った。體道・稽古・修身・仁民・崇儉・節用の六事を献じ、言多く規切であった。崇寧初年、宝文閣待制として潁昌府知府となり、集賢殿修撰に降格し、続いて修撰を落とし、除名して建昌に徙し、循州に編管された。皆、京・卞を論じた故である。政和年間、赦恩を用いて旧職に復した。卒す。年七十六。

次升は三たび言責の職に居り、建議は苟くも迎合せず、劉安世はその元祐の人に功有りと称し、呂升卿の行を遏えたことを謂う。その他の言った曾肇・王覿・張庭堅・賈易・李昭玘・呂希哲・范純禮・蘇軾等については、公議は或いは然りと謂わなかった。

陳師錫

陳師錫、字は伯修、建州建陽県の人。熙寧年間、太学に遊学し、俊声があった。神宗はその材を知り、廷試の時、奏名は甲乙の間にあった。帝は偶々その文を閲し、屡読み屡歎賞し、侍臣を顧みて言う、「これは必ず陳師錫である」と。封を啓けば果たしてそうであり、第三に擢げられた。昭慶軍掌書記に調され、郡守の蘇軾はこれを器として、政を倚り頼んだ。軾が罪を得て、臺獄に捕らえ詣でると、親朋多く畏避して相見ず、師錫独り出でて之を餞し、又その家を安輯した。

臨安県知事となり、監察御史となった。上言して言う、「宋興り、国を享け長久に太平と称せられるは、仁宗に如くはない。切に治を致すの本を考うれば、直言を延べ、群下を御し、善を進め邪を退くるに過ぎない。明道年間、親しく万幾を覧られ、政事の多きに辟き、輔佐の職を失するを見て、呂夷簡・張耆・夏竦・陳堯佐・范雍・晏殊等を、一日にして罷去された。宝元初年、冬雷地震があり、諫官韓琦の言を用い、王隨・陳堯佐・韓億・石中立を同時に見黜した。その後、次を俟たず杜衍・范仲淹・富弼・韓琦を擢用し、以て慶曆・嘉祐の治を成した。皇祖の納諫・御臣の意を稽え、以て治功を興すことを願う」と。帝はその言を善しとした。

時に詔して進士に律を習わせようとした。師錫は言う、「陛下は方に大いに学校を闡き、経術を以て士類を訓迪せんとされる。刑名の学を以て之を乱すべきではない。夫れ道德は本なり、刑名は末なり。本を以て之を教うれば、人猶お末に趨く。況んや末を以て之を教うればや。其の制を追って寢め、悉く本業に意を致すを得させんことを望む」と。用事の者は詖説を倡えると謂い、宿遷県知事に出した。

元祐の初め、蘇軾が三度上疏し、その学術が淵源に遡り、己の行いは潔白で質素、議論は剛直公正、器量と識見は静かで深く、道徳品行は古人に追従し、文章は当世に冠絶することを推薦した。そこで召されて秘書省校書郎となり、工部員外郎に遷り、秘閣校理を加えられ、開封県鎮を提点した。建議して言う、「選法において、選人は推薦者を用いて昇進するが、毎年定額がある。今、請託する者は数が濫り、寒門の俊秀には不足の憂いがある。限りを設け約束することを請う」と。畿内の将官が苛酷で残忍であり、兵士の心を失い、ちょうど大閲兵を行う際、兵卒らが騒ぎ立て、将吏はどうしてよいかわからなかった。師錫は馳せ至って軍中に至り、首謀の悪者を推し出して法に処し、閲兵を初めの通りに行い、その将を弾劾して罷免した。県人は感歎して服した。枢密院はなお事を先に報告しなかったことを罪として、解州知州に左遷された。考功員外郎を歴任し、宣州・蘇州の知州となった。

徽宗が即位すると、召されて殿中侍御史に任じられた。上疏して言う、「元豊の末、朝廷内外は騒然としていた。宣仁聖后が天下を再び安んじ、国政を委ねて治めたのは、司馬光・呂公著のみである。章惇が彼らが禍心を包蔵していると誣告し、追貶に至った。天が陛下を助け、潜邸より統を継がれたが、惇はなお高位に据わり、光らの贈諡は未だ還されず、墓碑も復されていない。願わくは早く宸慮を開き、中外の望みを慰められたい」と。

蔡京が翰林学士となると、師錫は言う、「京と弟の卞はともに悪をなし、国を迷わせ朝を誤る。しかるに京は大を好み功を喜び、改作に鋭く、日夜内侍や外戚と交結し、大用を覗っている。もし果たして用いれば、天下の治乱はここから分かれ、祖宗の基業はここから崩れるであろう。京は死党を引き立てて数百人に及び、鄧洵武は内行が汚悪で、搢紳の歯牙にかけられず、どうして史筆を穢すことができようか。向宗回・宗良もまた陰に京を助けている。これらは皆、国の深患であり、陛下のため、宗廟のため、賢人君子のために憂うべきことである。もし外に出すならば、社稷の福である」と。帝は言った、「これは東朝に差し障りがある。卿が朕のために処置せよ」と。答えて言う、「もしそうであれば、臣は詳しく太后に申し上げるべきです」と。そこで封事を上奏して言う、「昔より母后が朝政に臨み、天下を危うく乱したことは、史冊に載せられ、考証して知ることができる。手書をもって政権を返上したことについては、聖母のようにはいない。退いて謙遜を抑えることは、真に万世の法とすべきである。しかるに蔡京は陰に二向(向宗回・宗良)と通じ、妄りに宮禁が政事に預かると言って、聖徳を誣いる。察しないわけにはいかない」と。

詔して秘閣の図画を求めると、師錫は言う、「『六経』は道を載せ、諸子は理を言い、歴代の史籍、祖宗の図画には、天人の蘊奥、性命の妙理、治乱安危の機微、善悪邪正の跡がある。ここに留意され、唐の山水図をもって『無逸』の代わりとされ、戒めとされたい」と。

まもなく考功郎中に改められると、師錫は抗章して言う、「臣が職に在ること数ヶ月、言うところは皆当今の急務である。もし非とするならば、陛下は開き受け入れ褒め奨励されるべきであり、もし是とするならば、言職を急に解くべきではない。蔡京の刑罰が正されていないように、願わくは流貶を受けたい」と。ここにおいて潁州・廬州・滑州の三州の知州として出された。党論に坐し、衡州の酒税監に貶せられ、また官を削られて郴州に置かれた。卒す。享年六十九。師錫は初め陳瓘とともに京・卞を論じ、時に「二陳」と号された。紹興年中、直龍図閣を追贈された。

彭汝礪

彭汝礪、字は器資、饒州鄱陽の人。治平二年、進士第一に挙げられた。保信軍推官・武安軍掌書記・潭州軍事推官を歴任した。王安石がその『詩義』を見て、国子直講に補し、大理寺丞に改め、太子中允に抜擢したが、やがて彼を憎むようになった。

御史中丞鄧綰が彼を御史に推挙しようとし、召しても行かず、上章した後、また推挙を誤ったことを自ら列挙した。神宗は怒り、綰を追放し、汝礪を監察御史裏行に用いた。まず十事を陳述した。一に己を正す、二に人を用いる、三に守令、四に財を理める、五に民を養う、六に救済を振るう、七に事を興す、八に法を変える、九に青苗法、十に塩事である。利害を指摘摘発し、多くは人の言い難いことであった。また呂嘉問が市易法で非法に聚斂することを論じ、罷免すべきであるとし、俞充が中人王中正に諂い、ついに妻をして拝礼させたことを論じ、中書五房事を検正するに当たらないとした。神宗は充を罷免し、その言葉の出所を詰問した。汝礪は言う、「このようにすることは、聡明を広めることにはなりません」と。ついに詔に奉じなかった。中正と李憲が西方の軍事を主管すると、汝礪は兵を中人に付すべきでないと言い、ついで漢・唐の禍乱の事に及んだ。神宗は快く思わず、言葉で折伏した。汝礪は拱手して立ち動かず、隙をうかがってまた言上し、神宗は顔色を改めた。朝廷に在る者は皆感歎して服した。宗室が娘を民間に売って婚姻させたので、有司が奏上してこれを止めさせた。汝礪は言う、「これらは疎遠な族ではあっても、皆天家の子孫である。閭閻の賤しい者が金で買い取ることを許すべきではない。願わくは婚姻法を改めて定められたい」と。

元豊の初め、館閣校勘として江西転運判官となり、陛辞の際、また言う、「今、将順の臣がないことを患えず、諫諍の臣がないことを患える。敢為の臣がないことを患えず、敢言の臣がないことを患える」と。神宗はその忠藎を嘉した。代わって還り、京西刑獄を提点した。

元祐二年、召されて起居舎人となった。時の宰相が新法旧法の政について問うと、答えて言う、「政に彼此はなく、ただ是に一にするのみである。今改めることの大きいものは、取士法と差役法であり、施行して士民ともに苦しみ、その可なるを見ない」と。一年余りして、中書舎人に遷り、金紫を賜った。詞命は雅正で、古人の風があった。その詩体四韻の事を論じることに特に力を入れ、大臣に公平を保つ者がおり、かなり支持した。一時の進取の者はこれを憎み、その類を排撃しようとしたが、発する口実がなかった。

ちょうど漢陽軍知軍呉処厚が蔡確の安州での詩を得て上奏し、傅会解釈して、怨謗であるとした。諫官が相次いで上章してこれを処罰するよう請い、また危言を造作して、宣仁后を激怒させ、法に置こうとした。汝礪はこれは羅織の始まりであると言い、たびたび執政に申し出たが救えず、遂に上疏して論列したが、聞き入れられなかった。ちょうど家に居て罪を待っていた時、確の貶謫命令の除目草詞を得て、言った、「私が出なければ、誰がその責を負うのか」と。すぐに省中に入り、除目を封還し、弁論はますます切実であった。諫官が汝礪を朋党と指弾すると、宣仁后は言った、「汝礪はどうして確の党であろうか、朝廷のために事を論じているだけである」と。確が新州に貶せられる時、また汝礪に草詞を必要とし、遂に落職して徐州知州となった。初め、汝礪が御史台にいた時、呂嘉問の事を論じて、確と趣を異にし、外任十年、確が力を尽くした。後に嘉問の他の獄を治めるに当たり、執政に阿らなかったため、坐して二官を奪われた。この時、また確のために罪を得た。人はこれによってますます彼を賢とした。

集賢殿修撰を加えられ、入朝して権兵部・刑部二侍郎を兼ねた。ある獄事で寛恕すべきところ、執政が特旨をもってこれを殺そうとした。汝礪は押し留めて下さなかった。執政は怒り、その属官を罰した。汝礪は言う、「制書に不都合があれば、奏上して論ずることを許されている。汝礪の属官に何の罪があろうか」と。そこで自ら弾劾して去ることを請い、上章四度。詔して属官の罰を免じ、汝礪を礼部に移し、真に吏部侍郎に拝した。

哲宗が自ら聴断し、熙寧・元豊の政事を修復すると、人は皆争って聞くところを献じたが、汝礪だけは建白がなかった。ある者が問うと、答えて言う、「前日においては敢えて言う者がなく、今においては人人が言うことができるからである」と。権吏部尚書に進んだ。言事の者がかつて劉摯に附会したと言い、宝文閣直学士として成都府知府となった。行かないうちに、上章数度、また待制に降格され、江州知州となった。将に行かんとする時、哲宗が言いたいことを問うと、答えて言う、「陛下が今復されるものは、その政に是非なく、その人に賢否がないわけにはいきません。政はただその是であれば、不善はなく、人はただその賢であれば、得られないことはありません」と。

郡に至って数ヶ月にして病み去る。その遺表は略して云う、「土地は既に余り有り、願わくは仁を以て撫でよ。財用は饒ならざるに非ず、願わくは礼を以て節せよ。佞人は初め若し悦ぶべく、而してその患は後に在り。忠言は初め若し悪むべく、而してその利は甚だ博し」と。河北の流移を恤れみ、江南の水旱を察するに至るまで、凡そ数百言。朝廷方に樞密都承旨を以て之を命ぜんとし而して已に卒す。乃ち告を以て其の家に賜う。年五十四。

汝礪は書を読み文を為し、大なる者に志し、言動取捨は必ず義に合い、人と交わるには必ず誠敬を尽くす。兄に子無く、為に後を立て、之を官す。少時、桐廬の倪天隱に師事し、既に死す、並びに其の母妻を葬り、且つ其の女を衣食す。同年の生宋渙死す、其の後を經理し、子の如くに啻ならず。著す所の『易義』、『詩義』、『詩文』凡そ五十巻。弟:汝霖、汝方。

弟 汝霖

汝霖、字は岩老。進士に第し、曾布の薦に以て、秘書丞と為り、擢て殿中侍御史に至り、是に由りて布に附く。時、紹述の論復興し、都水丞李夷行詩賦を復すを乞う。汝霖之を劾す。韓忠彥権合祭を議す。汝霖其の礼に非ざるを言う。侍御史に遷る。門下侍郎李清臣布と異なり、布先ず江公望を諷し之を撃たしめ、将に諫議大夫を以て処せんとす。公望聴かず。汝霖竟に清臣を逐い、果たして諫議を得る。

趙諗の反獄を鞫し、其の党与を窮む。元祐の禍再び興り、呉材、王能甫排斥已まず。汝霖言う、「諸人の罪状は、既に紹聖に出削し、案籍具に在り、但だ之を据えて行うべく、必ずしも指名を俟ちて弾撃せず」と。是に於いて司馬光以下復た貶せらる。布位を失い、汝霖罷められ泰州を知り、又た濮州団練副使に謫せらる。後、顕謨閣待制を以て卒す。

弟 汝方

汝方、字は宜老。汝礪の蔭に以て滎陽けいよう尉、臨城主簿と為る。汝礪卒す、官を棄て帰り葬る。豊稷南京を留守し、司録を辟く。宣和初、衢州を通判し、使者其の治状を疏し、擢て州事を知る。

方臘睦の青溪に起り、衢と境を接す。寇至り、兵無くして禦ぐべく、衆風望み奔潰す。汝方独り其の僚段約と介し孤城を守り、三日にして陷る。賊を罵り以て死す。年六十六。徽宗之を褒歎し、超贈して龍図閣直学士、通議大夫と為し、諡して「忠毅」と曰い、其の家七人を官す。

呂陶

呂陶、字は元鈞、成都の人。蔣堂しょくを守り、多士を延いて学に入れ、親しく其の文を程し、嘗て陶の論を得、諸生を集めて之を誦し、曰く、「此れ賈誼の文なり」と。陶時年十三、一坐皆驚く。是に由りて諸賓筵に礼す。一日、同しく僧舎に遊び、共に寺碑を読み、酒闌け、堂筆を索うて碑を十紙に書き、行断句闕け、以て陶に示し曰く、「老夫能く尽く憶えず、子我が為に之を足せ」と。陶書して献す、一字も繆らざりき。

進士第に中り、銅梁令に調う。民龐氏の姊妹三人幼弟の田を冒隠し、弟壮に及び、官に訴えて直を得ず、貧しくして人に庸奴するに至る。是に及び又た訴う。陶一問し、三人服罪し、弟泣き拝し、願わくは田の半を以て仏事を作し以て報いんとす。陶之に曉し曰く、「三姊は皆汝と同気なり、方に汝幼き時、適に汝が為に之を主せしのみ。然らずんば、亦た他人の欺かん所と為らん。其の半を捐てて仏に供するに与るは、曷ぞ姊に遺わし、復た兄弟と為り、顧みて美ならざらんや」と。弟又た拝して命を聴く。

太原寿陽県を知る。府帥唐介簽書判官を辟き、暇日膝を促して晤語し、以て朝に立ち君に事うるの大節を告げ、曰く、「君は廊廟の人なり」と。介の薦に以て、熙寧の制科に応ず。時、王安石政に従い、新法を改む。陶対策し枚数す其の過ちを、大略謂う、「賢良の旨は、犯すを貴び隠すを貴ばず。臣愚、敢えて斯の義を忘れんや。陛下初め即位し、願わくは理財の説に惑わされず、老成の謀を間わず、疆埸の事を興さざらん。陛下意を措き法を立つるに、自ら堯・舜に庶幾すと謂う。然れども陛下の心此くの如く、天下の論彼の如し。独り反って之を思わざるか」と。及び第を奏す。神宗顧みて安石に巻を取らしめ読みしむ。読み未だ半ばならず、神色頗る沮む。神宗之を覚り、馮京をして竟に読ましめ、其の言理有りと謂う。司馬光、范鎮陶に見え、皆曰く、「安石の事を用うるより、吾輩の言復た效あらず。意わざらんや君此に及ぶを。平生の聞望、茲の一挙に在り」と。

安石既に孔文仲を怒り、科亦た随いて罷む。陶等に入るも、才た蜀州を通判す。張商英御史と為り、永康軍を廃せんことを請い、旁郡に下り議す。陶以て不可と為す。及び彭州を知るに及び、威・茂の夷寇に入る。陶大姓を召し潜かに守備を具え、城門の啓閉平時の如く、因りて永康の前議を以て朝に上る。軍遂に廃せず。

王中正将と為り、蜀道畏れて之に事うること甚だ謹み、而して其の施す所悉く謬戾なり。陶奏して之を召還す。李杞、蒲宗閔来たり茶を榷す。西州騒動す。陶言う、「川蜀茶を産す、東南を視ること十に一に及ばず。諸路既に皆商を通ず。両川独り禁榷を蒙る。茶園本は是れ税地、均しく賦租を出し、自來敷売して以て衣食を供す。蓋し解塩・晉礬と同じからず。今法を立つること太く厳しく、息を取ること太重く、遂に良民を枉げて刑辟に陷らしむ。是れ陛下の民に仁しみ物を愛するの意に非ざるなり」と。宗閔怒り、其の新法を沮敗するを劾し、責めて懷安商税を監ましむ。或人往きて之を弔う。陶曰く、「吾外郡の虚名を仮り、蜀民百万の実禍を救わんと欲す。幸いにして言行はれ、済う所多し。敢えて栄辱進退の念有らんや」と。起きて広安軍を知り、召されて司門郎中と為る。

元祐初、擢て殿中侍御史に至り、首めて邪正の辨を献じて曰く、「君子小人の分辨すれば、則ち王道成るべく、雑処して朝に在れば、則ち政体純ならず。今、蔡確、韓縝、張璪、章惇、先朝に在りては、則ち小人と表裏し、賊民害物の政を為し、人主の徳沢をして下流せしむる能わず。今日に在りては、則ち観望反覆し、異時の子孫の計を為す。安燾、李清臣又た其の間に依阿し、以て勢の在る所を伺い而して之に帰す。昔は先帝に負い、今日は陛下に負う。願わくは亟に斥逐を加え、以て朝廷を清くせん」と。是に於いて数人相継ぎ罷め去る。

当時、差役法施行の議論があり、陶は言うには、「郡県の風俗は制度が異なり、民の貧富は均しくない。この法改正の際に、もし予め防禁を設けなければ、民間は納銭の労が無いにもかかわらず、却って偏頗の害を被るであろう。新旧二法を以て、その中を裁量するに如くはない。」折しも陶が謁告して帰郷したので、詔して本道において議を定めさせた。陶は考究が精密で、民は便利と為した。朝廷に戻り、遂に両路転運使李琮・蒲宗閔の罪を正した。また十事を奏上し、皆蜀に関して利害の切なるものであった。

蘇軾が館職の策試を行い、朱光庭に論難され、軾もまた郡守への補任を乞い、争弁止まなかった。陶は言うには、「台諫は至公に従うべきで、事権を仮借して私怨を報いるべからず。議者は皆、軾が嘗て程頤を戯れに軽薄にしたので、光庭はその門人であるから、怨みを報いたのだと言う。軾に罪を加えようとすれば、何でもできよう。必ずその策問を指して譏謗と為すのは、恐らく朋党の弊がここから起こるであろう。」ここにおいて両者を共に置いた。

陶が同列と張舜民の事を論じて合わず、傅堯俞・王岩叟がこれを攻めたが、太皇太后は容れず、陶を左諫議大夫に遷し、続いて出して梓州・淮西・成都路転運副使とした。入朝して右司郎中・起居舍人を拝した。大臣が上殿する際、左右及び史官をしりぞけることを乞う者があった。陶は言う、「左右を屏けるのは既に不可である。況や史官をや。大臣が奏事するのに史官が聞くことを得なければ、これは言うことが私である。」詔して令と定めた。中書舎人に遷る。契丹に使いして帰り、辺備を修めることを乞うた。哲宗は喜んで言う、「臣僚が辺事を言うのは、ただ陝西に及び、河北に及ばない。深く知らず、河北に警あれば、則ち十倍陝西である。卿の言は甚だ善い。」給事中に進む。

哲宗が始めて親政されると、陶は言う、「太皇太后が九年間保佑なされたことは、陛下の深く知るところで、尊び報いるには、惟だ尽くさざるを恐れるのみである。然れども臣はなお、疑うべき無きを疑い、言うべからざるを言う。万一、姦邪不正の謀ありて、上って淵聴を惑わし、某人は復用すべし、某事は復行すべしと言わば、これ乃ち治乱安危の機であり、察せざるべからざるなり。」俄かに集賢院学士を以て陳州知州となり、河陽・潞州に移る。例に依りて職を奪われ、再び庫部員外郎に貶され、分司となる。徽宗が立つと、復た集賢殿修撰・梓州知州となり、致仕する。卒す。年七十七。

張庭堅

張庭堅、字は才叔、広安軍の人。進士高第に及第し、成都観察推官に調じ、太学『春秋』博士となる。紹聖年間に経廃され、漢州通判となる。入朝して枢密院編修文学となり、鄒浩に別れの手紙を送ったことで坐し免官となる。徽宗が召して対問し、著作佐郎を除し、右正言に擢でる。帝は正に治を図るに鋭意であり、忠鯁を進延したので、庭堅は鄒浩・龔𡙇・江公望・常安民・任伯雨と皆諫列に在り、一時翕然として人を得たと称された。

庭堅は職に在ること一月余り、数えて封事を上す。その大要は言う、

「世の孝を論ずるは、必ず神考(神宗)を紹復することを言い、然る後に孝と謂う。前後は宜しきを異にし、法も亦た変に随う。而して繊悉必ず復せんと欲すれば、然らば則ち一偏に敝れ、久しければ必ず民に不便で怨を招く者あらん。かくの如くにして孝と謂うは、可ならんや。司馬光は時に因りて変革し、以て百姓に便ならしめ、人心の帰する所となり、国家に補無きに非ざるなり。陳瓘は義を執りて論諍し、将に以て小人を去らんとし、士論の推する所となり、宮禁に益無きに非ざるなり。光の贈典を尽く復して以て人心を悦ばしめ、瓘を召還して言職に就かせて以て士論を慰めんことを乞う。又、士大夫多くは継志述事を以て陛下を勧むる者あり。臣は恐らく必ずや営私の人ありて、其の言を主とし以て自らをらんと欲し、紹先烈を復するは其の徒に非ざれば不可と謂い、将に名を継述に仮りて、実は自らほしいままにせんとす。今、遠略の内に耗するものは、棄てて以て守りと為さず、則ち兵は息むべし。特旨の法に重きものは、刪して以て例と為さず、則ち刑は省くべし。近く青唐の反叛に因り、鄯州を棄てて湟州を守る。既に鄯州を棄つべしと為せば、則ち区区たる湟州も亦た安んぞ守るに足らん。臣は謂う、並びに湟州を棄つる便なりと。」

庭堅の言論は深切で、退くや稿を焚いた。

是の時、議者は往々にして元祐の旧臣が朝廷に在る者太多きを指す。庭堅は帝に司馬光・呂公著の賢を言い、且つ曰く、「陛下践祚以来、人心に合う事甚だ衆し。惟だ邪正の差別甚だ未だせざるなり。光・公著の甄叙は、但だ赦恩を用いるのみで、初め嘗て其の無罪を別ちしに非ず。」又、蘇軾・蘇轍の可用を薦め、頗る旨に忤う。曾布は因りて其の論の常ならざるを称し、帝は命じて郎に徙せしめ、俄かに出して京東転運判官と為す。任伯雨は庭堅の立身に本末あり、言職を罷むべからずと言う。庭堅も亦た新命を辞し、汝州知州に改め、又吏部に送る。伯雨復た之を争い、庭堅の章を外に付し、其の言う所を考へ、言者をして三省に脅かされざらしめんことを乞う。李清臣是に従いて之をし、陳州通判に改む。

初め、蔡京が蜀を守る時、庭堅は幕府に在って相好んだ。京が朝に還ると、将に以て己れに用いんと欲し、先ず郷人に意を諭させたが、庭堅は往くことを肯わず。京大いに恨み、後遂に諸党籍に列す。又、嘗て瑤華(后)のとが無き事を談じたことに坐し、虢州に編管され、再び鼎州・象州に徙る。久しくして、故官に復す。卒す。年五十七。紹興初年、詔して直徽猷閣を贈る。

龔𡙇

龔𡙇、字は彦和、瀛州の人。清介自ら守り、重名有り。進士第三位、河陽判官に簽書す。曾布に従って瀛州に在る。紹聖初年、監察御史に擢でられ、親老を以て、相州通判を求め、洺州知州となる。

徽宗が立つと、召して殿中侍御史を拝す。始めて上殿するや、即ち抗疏して忠邪を弁ぜんことを請い、曰く、「好悪未だ明らかならざれば、則ち人は向かう所に迷う。忠邪未だ判ぜざれば、則ち衆必ず疑う。今、聖政日々新たに、遠近忻悦し、人材を進退するは、皆睿断より出ず。此れ甚だ盛んなる挙なり。然れども姦党既に破れたれば、必ずや早夜熟計し、広く身の謀りを為さん。或いはにわかに面を革めて以て自らをかざらんと求め、或いは邪説を申して以て正論を拒み、或いは禍福を詭称して以て朝廷を動かし、或いは祖宗に託言して以て人主を脅かさん。巧みに貴戚に事え、陰に左右に結び、是非を変乱し、姦計百出し、其の既に敗れて復用せられ、已に去りて復留まることを幸いとす。君子直道を行えば、則ち必ず其の術中に堕つ。然らば則ち天下の治忽は、未だ知るべからざるなり。故に宜しく忠邪を洞察し、之を行うに決を以てすべし。若し小を忍ばざれば、則ち大政を害す。臣願わくは陛下明らかに好悪を示して之にせられ、遠近に賢を進め姦を退くるの意を知らしめられば、太平の治は、致すに難からざるなり。」又言う、「朝廷累ねて赦令を下し、元祐の愆負被坐の人を洗滌す。官職資蔭に至っては、多く未だ給還せず。願わくは詔を有司に申し、亟に施行せしめ、以て先帝の寛仁の意を伸べしめん。」

時に章惇・蔡卞が事を用い、𡙇は首に其の悪を論じ、大略以て為すに、

昔、丁謂が国政を執った時、恣睢ししと号されたが、ただ一人の寇準を陥れたに過ぎなかった。ところが章惇に至っては、故老・元輔・侍従・台省の臣、およそ天下のいわゆる賢者と称される者を、一日のうちに嶺南・海南に充満させた。これは有宋以来、聞いたことのないことである。当時、惇の威勢は海内に震動した。これは陛下がご覧になった通りである。彼が根拠のない言葉を作り上げ、悖逆の罪を文飾して仕立て上げたため、人々は皆危惧し、自らを保つことができず、朽ちた骨は地下で冤罪を抱え、子孫は炎熱の辺境に禁錮され、忠臣義士は憤悶して敢えて言わず、海内の人々は先帝に怨みを帰するに至った。その罪はこのようなものである。まだ何を待って典刑を正さないのか。蔡卞は上に仕えて忠ならず、奸を懐いて深く理を曲げ、凡そ惇の行ったことは、皆卞が発案したもので、力を尽くすことが多かった。至公の心で採り上げ、譴責と罷免を明示されることを望む。

また論じて言う、「蔡京が文及甫の獄を治めたのは、本来私怨に報いるためであり、初めは宣仁太后を誣い、終わりには先帝に帰咎し、必ずや無辜の者を族滅して、その欲望を逞しくしようとした。臣は推測するに、当時必ずや案牘や章疏があり、その鍛錬と附会の様子を見ることができるであろう。方天若のような凶邪の者を、京は門下に収め置き、その傾險に頼って腹心とし、たちまち獄を起こし、多くの善士を排斥した。天下がこれを冤んだのは、皆京と天若が為したことである。実状を考証して、奸臣の罪を正されることを願う。」ここにおいて三人は皆去った。

また上疏して元祐皇后の冊位号を正し、及び元符皇后が並び立つべきでないことを乞うた。書状は聞き届けられたと報じられた。やがて元祐皇后の冊が再び廃され、言事者が陳瓘が首尾一貫して建言したと論じたため、詔により官籍を削除され、房州に編管された。続いて象州に移され、また化州に移された。徒歩で配所に赴き、扇を持って銭を乞い自らを養った。赦令に逢って帰還を許され、政和元年に卒去、五十五歳。紹興元年、直龍図閣を追贈された。六年、再び右諫議大夫を追贈し、その子孫二人に官職を与えた。

弟の大壮は、若くして重い名声があり、清介で自立していた。従兄の官に従って河陽にいた時、曾布が会いたがったが、得ることができず、そこで陳瓘を訪ねて出迎えを求め、終日ゆったりと過ごし、壁間に詩を題して「両龔(龔勝・龔舎)に会うを得たり」という語があった。陳瓘が御史となった時、大壮は早く去るよう勧めたので、陳瓘は畏友とした。不幸にも早世した。

孫諤

孫諤、字は元忠、睢陽の人。父の文用は、信厚をもって郷里に称され、死後慈静居士と諡された。諤は幼少より挺特で群を抜き、張方平に器重された。進士に及第し、哲信主簿に調任され、選ばれて国子直講となった。虞蕃の獄に陥り、免官された。

元祐初年、起用されて太常博士となり、丞に遷った。哲宗が皇后を卜する時、太史が陰陽の拘忌の説に惑わされたので、諤は太皇太后に上疏して言う、「家人や陋巷の言葉は、大計を定めるに足りません。聖慮より断ぜられることを願います。」利梓路転運判官として出され、召されて礼部員外郎・左正言に任じられた。

紹聖年間に元祐の党を治めた時、諤は言う、「漢・唐の朋党の禍は、その鑑遠からず。」蹇序辰が章疏を編類した時、諤はまた言う、「朝廷は信を示して天下を静安すべきです。以前の詔書のように、一切問わないことを請います。」かつて侍対し、星文の変異と災いを論じ、修省して消復を願い、西池への行幸と内降による除授を止めるよう請うた。帝はしばしば台諫の人材不足を憂えたが、諤は言う、「士は世に乏しいわけではありません、ただ陛下が知らないだけです。」すぐに任用可能な者二十二人を上疏した。章惇はその己に逆らうことを憎み、広徳軍知軍として出し、唐州に移し、湖南刑獄提点とした。

徽宗が即位すると、再び右司諫となり、まず大臣の邪正、政事の廃置因革すべきことを論じ、帝はその鯁直を称えた。議者が群臣の封事を外に付して詳定しようとした時、諤は言う、「君密ならざれば則ち臣を失う。これは忠臣の禍を速めることになります。宣洩すべきではありません。」そこで止んだ。左司諫に遷り、まもなく病気で卒去した。

諤は彭汝礪と気節をもって互いに重んじ合い、汝礪が亡くなった時、諤は知己に語って言う、「吾が言責の地位にあり、器資(彭汝礪の字)に地下で愧じない。」再び諫省に入ったが、一旬も満たず、当時の論者はこれを惜しんだ。

陳軒

陳軒、字は元輿、建州建陽の人。進士第二となり、平江軍節度推官を授かった。元祐年間、礼部郎中・徐王翊善となり、再び中書舎人に遷った。上疏して言う、「祖宗の旧制では、諸道の帥守・使者が辞見の日には、皆便殿に召して対し、ただ利害を周知できるだけでなく、人材を観閲することもできた。今は朝に数刻臨んで退き、ただ執政大臣のみが帝の側にいることができ、あるいは旬を経月を閲して台諫官がようやく覲見でき、その他は皆因由なくして前に出ることはない。これはいわゆる広く覧て兼ねて聴くの道に非ざるに近い。有司に詔して、故事のようにさせることを願う。」また言う、「所在の巡検は、惰游の悪少を招いて土軍に隷属させ、暴横を習わせて田野の患いとなっている。廂卒をもって代えさせることを請う。」皆従われた。高麗が入貢した時、軒は客を館したが、その使節が歴代史と『策府元亀』の購入を求め、鄭・衛の曲譜を写すことを求めたので、皆上聞した。礼部尚書蘇軾がその体を失することを弾劾し、龍図閣待制として廬州知州とし、杭州・江寧潁昌府に移した。

徽宗が即位すると、兵部侍郎兼侍読となった。監司・守臣の数易の弊を論じ、例えば江淮発運使は十五年間に三十二人も更迭したことを挙げ、少し任期を長くすることを願った。また言う、「近頃役法を更定し、民力を寛げようとしたが、有司が事を生じ、急ぎ苟もに贏羨を営んでいる。青苗銭を散じて兼併を抑え、難困を拯わんとするのは、散多を以て賞を与えるべきではない。」経帷に入って侍し、毎に帝に治は清浄を貴ぶことを勧め、文・景の恭倹に法ることを願い、帝はかなり聴いて行った。龍図閣直学士を加えられ、成都府知府となったが赴任せず、杭州・福州に改めた。卒去、八十四歳。

江公望

江公望、字は民表、睦州の人。進士に挙げられた。建中靖国元年、太常博士より左司諫に任じられた。当時、御史中丞趙挺之と戸部尚書王古が赦恩を用いて逋欠を整理し、古は多くを蠲免・釈放したので、挺之は古が天下の財を傾けて私恵としていると弾劾した。公望は、天子が登極して大赦し、天下と更始しようとしているので、一切を民に与えるのであり、どうして古がその間に私恵を行い得ようかと考え、上疏して言う、「人君が時政の利病、人臣の忠邪を知るには、諫官・御史ほど信頼できるものはない。もし情を飾り誣いを肆にして、私憤を快くして上聴を罔するならば、察しないわけにはいかない。臣は聞く、挺之と古は事を論ずる毎に合わず、辞気に屡々現れ、不平の心を懐き、機会を待って発していると。俚語に『私事官仇』というものがある。これは小人の為さざるところであるのに、挺之は安んじてこれを為す。これで忠臣と言えようか。」

また上疏して曰く、

「哲宗に紹述の意ありしより、輔政の人に非ざる者、己に媚びるを以て同と為し、君に忠なるを以て異と為す。一語時学に合わざれば、必ず流俗と目し、一談時事を俟たざれば、必ず横議と指す。威柄を借りて私隙を快くせんとし、必ず君臣父子の名分を乱すを以て人主を感動せしめ、天下を騒然たらしめ、泰陵(哲宗)は尽く継述の美を尽くすことを得ず。元祐の人才は、皆熙寧・元豊培養の余より出で、紹聖の竄逐に遭いての後、存する者幾何も無し。神考(神宗)と元祐の臣とは、其の先射鉤斬祛の隙有るに非ず、先帝仇人を信じて之を黜く。陛下若し元祐を立てて名と為さば、必ず元豊・紹聖之に対為す有り、対有れば則ち争興り、争興れば則ち党復た立つ。陛下改元の詔旨にも、亦た皇極を建てんと思ふと称し、嘗て好悪を端にして人に示し、中和を本として政を立つ、皇天后土、実に斯の言を聞く。今若し之を渝えんと欲せば、皇天后土を奈何せん」と。

内苑稍々珍禽奇獣を蓄ふるに、公望力めて言ふ、初政の宜しくすべきに非ざるなりと。他日入対す、帝曰く「已に之を縱遣せり、唯一の白鷳畜ふること久しく、終に去らんと肯せず」と。是に先立ち、帝柱杖を以て鷳を逐ふ、鷳去らず、乃ち公望の姓名を杖頭に刻み、以て其の諫を識す。蔡王似の府史、言語疑似を以て獄を成す、公望極言して論救し、出でて淮陽軍を知る。未幾、召されて左司員外郎と為り、直龍圖閣を以て寿州を知る。蔡京政を為すに及び、南安軍に編管せらる。赦に遇ひ家に還り、卒す。建炎中、陳瓘と同しく右諫議大夫を贈らる。

陳祐

陳祐、字は純益、仙井の人。進士に第す。元符末、吏部員外郎を以て右正言に拝す。徽宗に上疏して曰く、「旨有りて臣に令し任伯雨と韓忠彥の元祐臣僚を援引せし事を論ぜしむ。按ずるに賈易・岑象求・豊稷・張耒・黄庭堅・龔原・晁補之・劉唐老・李昭玘の人才均しく用ふ可く、特だ跡嫌疑に近きのみ。今若し党類を分別せば、天下の人、必ず且つ妄りに意ふ、陛下元祐の臣を逐ひ去り、復た紹聖の政事を興すと。今紹聖の人才朝に比肩す、一切問はず、元祐の人数十、輒ち攻撃已まず、是れ朝廷の上公然と党を立つるなり」と。

右司諫に遷る。言ふ、「林希紹聖初め書命を掌り、呂大防・劉摯・蘇轍・梁燾等の制を草し、皆務めて章惇の意に合はんことを求む。陛下頃に臣の言を用ひて其の職を褫ひ、大名より揚州に移す、而るに希謝表に具言して皆先朝より出づとす。大抵姦人善類を詆毀し、事成れば則ち己の憤りを攄ひ、事敗れば則ち過ちを君に帰す。至りて過失未だ形を成さずして訓辞先づ具はるが如き、安んぞ人を責むるの実たるを得んや。歴りて詆誣を辨して上聖烈を侵す、安んぞ臣子の誼たるを得んや。一二年ならずして枢近に致位す、而るに希尚ほ敢へて忿躁して平らかならず、謝章上を慢にして敬せず。此れ而も忍ぶ可くんば、孰か忍ぶ可からざらんや」と。希再び降りて舒州を知る。又た章惇・蔡京・蔡卞・郝隨・鄧洵武を論じ、旨に忤ひ、滁州通判と為る。卞伯雨等を貶せんことを乞ふ、祐数の中に在り、澧州に編管せられ、帰州に徙る。復た承議郎と為り、卒す。

常安民

常安民、字は希古、邛州の人。年十四、太学に入り、俊名有り。熙寧経を以て士を取る、学者翕然として王氏を宗とす、安民独り変ぜず。春試、考第一、主司封を啓き、其の年少なるを見て、之を下さんと欲す。判監常秩不可とし、曰く「糊名藝を較ぶるに、豈に輒ち易ふるを容さんや」と。具に以て王安石に白す。安石其の文を称し、学者に命じて以て準と為さしむ、是より名益々盛ん。安石之を見んと欲す、肯へて往かず。六年進士挙に登り、神宗其の策を愛し、将に多士を魁せしめんとす。執政其の経学に熟せずと謂ひ、之を第十に列す。

応天府軍巡判官を授かり、選ばれて成都府教授と為る。安惇と同僚と為り、惇深刻にして姦詐、嘗て偕ひて府帥に謁し、輒ち素より厚く善くする者を毀る。安民退きて惇に謂ひて曰く「若人は君に厚からざるか、何ぞ之を詆するの深きや」と。惇曰く「吾心実に之を悪む、姑く面交と為すのみ」と。安民曰く「君の所謂怨みを匿して其の人を友とす、乃ち李林甫なり」と。惇笑ひて曰く「直道君に還し、富貴我に輸す」と。安民之に応へて曰く「厚き貴きに処り、天下の事知る可し、我当に山林に帰らん、豈に復た君と是非を校せんや、第た陰徳を累すを恐るるのみ」と。後惇貴く、遂に安民を陥れ、而して惇の子法に坐して誅死す、安民の言ふが如し。秩満ちて京師に寓す。妻孫氏と蔡確の妻とは兄弟なり。確時に相と為り、安民其の人を悪み、絶えて相聞かず。確の夫人其の妻を招かしむるも、亦た往かず。長洲県を知るに調し、主信を以て治めと為し、人忍びて欺かず。県故より盗多し、安民嘗て犯有る者を籍し、其の衣に書し、其の門に掲げ、能く他の盗を得ば乃ち除くを約し、盗之が為に息む。追科吏に下さず、民をして自ら輸せしめ、他の邑に先だちて以て辦ず。転運使許懋・孫昌齢境に入る、邑民其の政を頌し、皆古の良吏と称す。元祐初、李常・孫覚・范百祿・蘇軾・鮮于侁連章して論薦し、擢て大理・鴻臚丞と為す。

是の時、元豊用事の臣、朝廷を去れりと雖も、然れども其の党中外に分佈し、私説を起して時政を搖がす。安民窃かに之を憂ひ、書を呂公著に貽して曰く、

「善く天下の勢を観るは、猶ほ良医の疾を視るが如し、方に安寧無事の時、人に語りて曰く『其の後必ず将に大憂有らん』とせば、則ち衆必ず駭笑す。惟だ微を識り幾を見るの士、然る後に能く其の漸を逆知す。故に憂ふ可きに於て憂へずして、之を憂ふるに足らざるに於て憂ふるは、至憂なり。

今日天下の勢、大憂と為す可し。忠良を登進すと雖も、而して能く海内の英才を搜致し、使ひ皆朝に萃ましめて、以て小人に勝たずんば、恐らくは端人正士、未だ枕を安じて臥することを得ざらん。故に小人を去るは難しと為さず、而して小人に勝つは難しと為す。陳蕃・竇武心を協へ力を同くし、名賢を選用し、天下太平を想望す、然れども卒に曹節の手に死し、遂に党錮の禍を成す。張柬之五王唐室を中興し、以て慶萬世に流るべしと謂ふ、武三思一たび志を得るに及び、竄移淪没に至る。凡そ此の者皆前世已に然るの禍なり。今賢を用ふること孤棟に倚るが如く、士を抜くこと巨石を轉すが如し、奇特瓌卓の才あると雖も、其の志を行ふことを得ず、甚だ歎ず可し。猛虎嵎に負ふて、之を敢へて攖ふる者莫し、而して卒に人の勝つ所と為るは、人衆くして虎寡きなり。故に十人を以て一虎を制すれば則ち人勝ち、一人を以て十虎を制すれば則ち虎勝つ、奈何ぞ数十人を以て千虎を制せんや。今怨忿已に積る、一たび発すれば其の害必ず大なり、大憂と謂ふ可からずや」と。

及び章惇相と作るに及び、其の言遂に験はる。

太常博士を歴任し、丞に転じた。少卿朱光庭と議論が合わず、出されて江西転運判官となったが、赴任せず、宗正丞に改められた。蘇轍が御史に推薦したが、宰相が喜ばず、開封府推官に任じられた。紹聖初年、召されて対し、哲宗に言うには、「今日の患は、士が恥を知らぬことより大なるはありません。願わくは陛下、廉潔にして操守ある士を奨励し進用し、以て風俗を励まされますように。元祐の進言者は、熙寧・元豊を非とし、今の進言者はこれに反し、皆偏った論です。願わくは公平に聴き広く観て、その中を択び当に帰せられますように。」監察御史に拝された。章惇が国を専らにし党を植えることを論じ、主権を収めその権を抑えることを乞い、反復曲折し、言うことを置かなかった。惇は親信を遣わして語らせた、「君は本来文学をもって時に聞こえたのに、どうして言葉を以て自ら任じ、人と怨みを為すのか。少し静かにせよ、左右の相に処すべし。」安民は正色してこれを斥けて言う、「お前は時の宰相のために遊説するのか。」惇はますます怒った。

中官裴彦臣が慈雲院を建て、戸部尚書蔡京が深くこれと結び、強いて人の居室を毀ち、朝廷に訴え、詔して御史に劾治させた。安民は言う、「事に情重くして法軽きものあり、中官の豪横、侍従官と相交わり結び、ともに欺罔を為す、この奸状は、恐らくは法の能く尽くすところではありますまい。願わくは重く降責し、以て百官を粛しますように。」獄が決し、惇がこれを主として甚だ力め、罰金に止めた。安民は因って蔡京を論じた、「奸は衆を惑わすに足り、弁は非を飾るに足り、巧みさは人主の視聴を移奪するに足り、力は天下の是非を顛倒するに足る。内に中官と結び、外に朝士と連なり、一たび己に附かざれば、則ち党を元祐にありと誣う。先帝の法に非ざれば、必ずこれを擠して後に已む。今朝に在るの臣、京の党過半、陛下は早く覚悟してこれを逐い去らざるべからず。他日羽翼成就すれば、悔ゆるも及ばざるなり。」この時、京の奸は始めて萌芽し、人多く未だ測らず、独り安民がこれを首めて発した。

また言う、「今大臣が紹述の説を為すは、皆この名を借りて私怨を報復し、朋附の流れ、遂に従いてこれに和す。張商英は元祐の時に呂公著に詩を上りて進を求め、諛佞にして恥ずるところなく、近ごろ司馬光及び公著の神道碑を毀つことを乞う。周秩は博士たりし時、親しく光の諡を『文正』と定めしに、近ごろ乃ち棺を斫ち屍を鞭つことを乞う。陛下、この輩の言を察せられよ、果たして公論より出でたるか。」章疏前後数十百上に至り、度るに終に回らざるべしと遂に外任を乞うたが、帝は慰勉するのみであった。

大饗明堂に、劉賢妃が侍して齋宮に従った。安民は万衆の観瞻たるに、聖徳を虧損すと以為い、語頗る切直であり、帝は微かに怒った。曾布は初め安民が数たび章惇を憾むを以て、その己に附くを意とし、屡々これを朝に称した。その後並びに論じ、曾布もまた恨み、ここにおいて惇と比してこれを排し、乃ちその呂公著に貽せる書を取って帝に白した。他日、帝、安民に謂う、「卿の上ぐる宰相に上ぐる書、朕を漢の霊帝に比するは、何ぞや。」安民曰く、「奸臣、臣の言を指擿し、その世を推して以て臣を文致するのみ。これを弁ずるも、何の益かあらん。」

董敦逸が再び御史となり、蘇軾兄弟を劾せんと欲した。安民は二蘇は天下の文章重望を負う、恐らく当に爾るべからずと謂う。ここに至り、敦逸がこれを奏し、詔して知軍とし、惇は径に監滁州酒税に擬した。滁に至り、日々細務に親しんだ。郡守曾肇は山林の遊を約し、「謫官は例として事を治めず」と言う。安民は謝して曰く、「食みて而してその事を怠るは、不可なり。」満三歳、通判温州となった。

徽宗立つや、朝論諫官として起用せんと欲したが、曾布がこれを沮み、提点永興軍路刑獄とした。蔡京が事を用い、党籍に入り、流落すること二十年。政和末、卒す。年七十。建炎四年、右諫議大夫を贈られた。子の同は御史中丞となり、自ら伝あり。

論ずるに、次升は従容たる一言にて、呂升卿の嶺南に使わしむるを止め、元祐の諸臣に対して大いに功あり。師錫は蔡京を用いば天下の治乱ここより分かると謂い、惜しむらくはその言当時に行われずして、徒らにその後に験あるのみ。汝礪は蔡確を辨捄し、直を以て怨に報いた。陶は榷茶が西南の害と為るを言い、毅然として蒲、李の鋒に触れた。庭堅は紹復未だ孝道を尽くすに足らざるを論じた。諤は世に士乏しきに非ず、患は上知らざるに在りと言い、乃ち用いるべき者二十二人を薦め、鯁直と称され、裨益尤も多し。軒は青苗の害を貽すを力陳し、願わくは清浄を以て治と為さんとした。祐は林希を撃ち、且つ惇、京、卞の輩を論じ、斥死しても悔いず。公望は神宗は元祐の諸臣に対して射鉤斬祛の隙あるに非ずと謂い、而して終に奸邪の先入の言を移す能わず。𡙇は章惇、蔡京、蔡卞を外に撃逐し、亦た足らく以て四海臣民の憤を少しく泄らすも、然れども京、卞は既に仆れて即ち起ち、已に去りて復来たり、阽危に在りて悟らず。庸暗の主、与に言うべけんや。安民の人虎多少の譬えは、惴惴として小人に勝つに足らざるを懼れ、不幸にして群奸相継いで用事し、廷に在る忠直の臣、事に因りて斥去し、馴致して靖康の禍に至る。その由来る所、遠し。小人の政を得るは畏るべし夫。