宋史

列傳第一百〇四 劉安世 鄒浩 田晝 王回 曾誕 陳瓘 任伯雨

劉安世

劉安世、字は器之、魏の人なり。

父の航は進士に及第し、歴任して虞城・犀浦の県知事となる。虞城には姦猾多く、寇盗を好み、犀浦の民は弱くて馴順なり。航が政を為すに、寛猛急緩同じからず、両県ともに治まる。宿州知事となり、夏の使者を押伴す。使者多く要請を為し、礼を執ること遜らず、且つ毬文の金帯を服して入見せんと欲す。航は皆これを折正す。群牧判官を以て河南監牧使となる。節を持ちて夏主秉常を冊封す。凡例の遺す所の宝帯・名馬を、却けて受けず。還りて『禦戎書』を上る。その大略に云く、「弁士は喜ぶべきの説を好み、武夫は計り知れざる寵を冀い徼す。或いはこれに誤らるるあり、戒めざるべからず」と。河北西路転運使となる。熙寧の大旱に言を求め、航は新政の便ならざる者五を論じ、又上書して言う、「人主は軽々しく天下の心を失うべからず。時に乗じて改為する所有るべし。然らば則ち人心悦びて天意得べし」と。報いず。乃ち崇福宮の提挙を請い、起用されて涇・相二州の知事となる。王師西征するに、陝府知事に転ず。時に倉卒として軍興し、餽餽切急なり。県令・県佐に至りては校を荷い民を督し、民多く田廬を棄て、或いは自尽に至る。航独り期会すること平素の如く、事更に以て弁ず。太僕卿に終わる。

安世少時にして持論既に識有り。航が監牧を使う時、文彦博枢府に在り。聞く所有れば、毎度安世を呼びてこれに告ぐ。安世従容として言う、「王介甫去らんことを求め、外議公の且つその任に代わらんと謂う」と。彦博曰く、「安石天下を壊すこと此くの如し、後の人何をか為すべけん」と。安世拱手して曰く、「安世晩進と雖も、窃に未だ然らずと以為う。今日の新政、果たして人の欲する所に順いで人の利を為すか。若し然らずんば、公まさに害する所を去り、利する所を興すべし。反掌の間なるのみ」と。彦博黙して応ぜず。他日航に見え、その堅正を歎賞す。

進士第に登り、選に就かず。司馬光に従学し、心を尽くし己を行うの要を諮る。光これを誠を以て教え、且つ妄語せざるより始めしむ。洺州司法参軍に調ず。司戸は貪を以て聞こゆ。転運使呉守礼将にこれを按ぜんとし、安世に問う。安世云く、「これ無し」と。守礼為に止む。然れども安世心常に自ら安からず、曰く、「司戸実に貪なり。而るに吾誠を以て対せず。吾れ其れ司馬公の教えに違わんか」と。後に揚雄の『法言』「君子は礙を避けて則ち諸の理に通ず」を読み、意乃ち釈る。

光相に入り、秘書省正字に薦む。光薨ず。宣仁太后、台諫に為すべき者を呂公著に問う。公著安世を以て対す。右正言に擢でらる。時に執政頗る親戚に官を与う。安世言う、「祖宗以来、大臣の子弟は内外の華要の職を受くるを敢えてせず。王安石政を秉るより、私意を快くするを務め、累聖の制、掃地として存せず。今廟堂の上、猶お故態を習う」と。因りて文彦博以下七人を歴疏し、皆耆徳魁旧なるも、少も仮借せず。

章惇、昆山の民田を強市して罰金せらる。安世言う、「惇は蔡確・黄履・邢恕と素より相交結し、自ら社稷の臣と謂い、天の功を貪り、異日を僥倖す。天下の人これを指して『四凶』と為す。今惇の父尚在すに、別籍異財し、義理を絶滅す。薄罰に止まるのみでは、何を以て懲しめを示さん」と。時に呉処厚、確の『安州詩』を解釈して進む。安世その乗輿を指斥するを謂い、大不敬に犯すとし、梁燾等と極めてこれを論じ、新州に竄す。宰相范純仁より御史十人に至るまで、皆これに縁りて去る。

起居舍人兼左司諫に遷り、左諫議大夫に進む。旨有りて講筵を暫く罷む。民間、宮中乳婢を求むると驩伝す。安世上疏して諫めて曰く、「陛下春秋に富み、后を納れずして女色に親しまる。願わくは太皇太后聖躬を保祐し、宗廟社稷の大計の為、清閑の燕に頻りに経帷に御し、仍て近臣を引いて前古治乱の要を論ぜしめ、以て聖学を益し、愛する所に溺れて其の戒むべきを忘れざらしめよ」と。哲宗首を俯して語らず。后曰く、「此の事無し。卿誤りて聴くのみ」と。明日、后呂大防を留めて故を告ぐ。大防退き、給事中范祖禹を召して旨を達せしむ。祖禹固より嘗て諫めたり。ここに於て両人合辞してこれを申言すること甚だ切なり。

鄧温伯、翰林承旨と為る。安世その「王・呂の党中に出入りし、始終反覆す。今の進用は、実に君子小人消長の機に係る。免黜を行わんことを乞う」と言う。報いず。遂に外任を請い、中書舎人に改む。辞して就かず。集賢殿修撰を以て崇福宮を提挙す。才む六月、宝文閣待制・枢密都承旨に召さる。

范純仁復た相と為る。呂大防后に白して安世をして少しく避けしめんと欲す。后曰く、「今既に言職に居らず、自ら嫌う所無し」と。又韓忠彦に語りて曰く、「此の如き正人は、宜しく且く朝廷に留むべし」と。乃ち止む。呂恵卿光禄卿に復し、分司す。安世争いて以て不可と為す。聴かず。成徳軍知事として出づ。章惇用事し、特にこれを忌み悪む。初め南安軍知事に貶黜し、再び少府少監に貶し、三たび新州別駕に貶し、英州に安置す。

同文館の獄起こる。蔡京、安世等の家を誅滅せんことを乞う。讒行われずと雖も、猶お梅州に徙す。惇と蔡卞必ずこれを死に置かんと将い、使者をして海島に入り陳衍を誅せしむるに因り、使者に諷して安世の過ぐるをして、脅して自裁せしめんとす。又た一土豪を擢でて転運判官と為し、してこれを殺さしむ。判官疾駆して将に梅に至らんとす。梅の守客を遣わして来たり安世に自ら計らわしむるを勧む。安世色動かず、客に対し飲酒談笑し、徐かに数紙を書して其の僕に付して曰く、「我即ち死すとも、此れに依りてこれを行え」と。客を顧みて曰く、「死は難しからず」と。客密かに僕の所に従いて視るに、皆同じく貶せられ当に死すべき者の家事を経紀すること甚だ悉し。判官未だ二十里に至らざるに、血を嘔いて斃る。危くして免る。

昭懐后中宮に正位す。惇・卞前に乳婢の事を諫めしを発し、以て后の為に設くると為す。時に鄒浩既に貶せらる。詔して応天少尹孫鼛に檻車を以て二人を収め京師に赴かしむ。数駅を行くに而して徽宗即位の赦至る。鼛乃ち還る。凡そ荒に投ずること七年、甲令の載する所の遠悪の地、歴らざる無し。衡及び鼎に移り、然る後に集賢殿修撰を以て鄆州・真定府の知事と為る。曾布又これを忌み、朝に入らしめず。蔡京既に相と為り、連ねて七たび貶謫せられて峽州の羈管に至る。稍々承議郎に復し、宋都に卜居す。宣和六年、待制に復す。中書舎人沈思封を還す。明年卒す。年七十八。

安世儀状魁碩、音吐鐘の如し。初め諫官を除せられ、未だ命を拝せず、入りて母に白して曰く、「朝廷安世の不肖を以てせず、言路に在らしむ。倘その官に居らば、須らく明目張胆、身を以て責を任じ、脱ひ触忤有らば、禍譴立ち至らん。主上方に孝を以て天下を治めんとす。若し老母を以て辞せば、当に免るべし」と。母曰く、「然らず。吾聞く、諫官は天子の諍臣たりと。汝が父平生これを為さんと欲して得ず。汝幸いに此の地に居る。当に身を捐げて国恩に報ずべし。正に罪を得て流放せらるるとも、遠近を問わず、吾当に汝の之く所に従わん」と。ここに於て命を受く。職に在ること累歳、正色して朝に立ち、公道を扶持す。その面折廷争、或いは帝盛怒すれば、則ち簡を執りて却き立ち、怒りの稍々解くるを伺い、復た前に進みて辞を抗す。旁に侍する者遠く観て、蓄縮悚汗し、これを目して「殿上の虎」と曰う。一時敬憚せざる無し。

家に居て未だ嘗て惰慢の容なく、久しく坐して身傾かず、字を書くに草書せず、声色貨利を好まざりき。其の忠孝正直は、皆司馬光に則り象る。年既に老い、群賢凋喪略盡し、巋然として独り存し、而して名望益重し。梁師成用事し、能く人を生死し、心其の賢に服し、嘗て趨走前後せし小吏吳默を得て、使ひて書を持ち来らしめ、即ち大用を以て啖わす。默因りて子孫の為に計らんことを勧む。安世笑ひて謝して曰く、「吾若し子孫の為に計らば、是に至らず。吾元祐の全人たらんと欲し、地下に司馬光を見ん。」と。其の書を還して答へず。死して祥符縣に葬る。後二年、金人其の塚を發し、貌生けるが如し。相驚きて語りて曰く、「異人なり!」と。為に之が蓋棺して乃ち去る。

鄒浩

鄒浩、字は志完、常州晉陵の人なり。進士に第し、揚州・潁昌府教授に調ず。呂公著・范純仁守たり、皆礼遇す。純仁属に樂語を撰せしむ。浩辭す。純仁曰く、「翰林學士も亦之を為す。」と。浩曰く、「翰林學士は則ち可なり、祭酒・司業は則ち不可なり。」と。純仁敬謝す。

元祐中、上疏して事を論ず。其の略に曰く、「人材振はざれば、以て天下の務を成すこと無し。陛下今日の人材を視るに、果たして餘有りや?果たして足らざるや?足らざると為せば、則ち中外の百執事未だ嘗て備はらざる無し。餘有りと為せば、則ち自ら天下の重きを任ずる者幾人か?正色昌言して風旨を承望せざる者幾人か?刺舉の權を持ちて以て所部を肅清する者幾人か?流れを承け化を宣べて民をして田里に安からしむる者幾人か?民貧は富むべき所なれども、則ち曰く水旱之を如何と。官冗は澄むべき所なれども、則ち曰く民情擾す可からずと。人物は求むべき所なれども、則ち曰く古より材乏しからずと。風俗は厚くすべき所なれども、則ち曰く時變に切せずと。是皆義理の明らかならざる過ちなり。」と。

蘇頌用て太常博士と為す。來之邵論じて之を罷む。後累歲、哲宗親しく擢て右正言と為す。王安石の『三經義』を以て發題し舉人を試むるを請ふ者有り。浩其の不可を論じて止む。陝西邊功を奏す。中外皆賀す。浩言ふ、「先帝の志にして陛下之を成す、善し。然れども兵家の事は、未だ戰はざれば則ち決勝を以て難しと為し、既に勝てば則ち勝を保つを以て難しと為す。惟其の時のみ。苟も然らずんば、将に前功を棄て後患を招かん。願く將帥に申敕し、屢勝に狃ること毋く、惟厥の終を圖らんことを。」と。

京東大水す。浩言ふ、「頻年水異繼作す。盈虛の數逃る可からざる所と雖も、消復の方尤も謹みを致す宜し。『書』に曰く、『惟れ先ず王を格して厥の事を正す。』と。數の當然と為さざるは、此れ消復の實なり。」と。

蹇序辰元祐章奏を看詳し、公に詆欺を肆にし、輕重平らかならず。浩言ふ、「初旨は但だ兩等を分つ。『先帝に語及す』並びに『語言過差』のみと謂ふ。而るに今施行する所は、混然として辨ふる莫し。其の近似難分の跡を以て、而して典刑輕重上に隨ひて上下す。是れ乃ち陛下の威福操柄近臣に下移す。願く省察を加へ、以て来事の監と為さん。」と。

章惇獨り相として用事し、威虐震赫す。浩の言ふ所每に惇の忌に觸る。仍ち上章して露に劾し、其の不忠上を侵すの罪を數ふ。未だ報ぜず。而して賢妃劉氏立つ。浩言ふ、

「后を立てて以て天子に配するは、安んぞ審にせざる可けんや。今天下の為に母を擇び、而して立つ所乃ち賢妃なり。一時の公議、疑惑せざる莫し。誠に國家自ら仁祖の故事有るを以て、遵用せざる可からざるのみ。蓋し郭后と尚美人寵を爭ひ、仁祖既に后を廢し、並びに美人を斥く。以て公を示す所なり。及び后を立つるに、則ち妃嬪に選ばずして貴族に卜す。以て嫌を遠ざけ、以て天下萬世の法と為す所なり。陛下の孟氏を廢するは、郭后と以て異なる無し。果たして賢妃と寵を爭ひて罪を致すか?抑も其れ然らずや?二者必ず一に此れに居らん。孟氏罪廢の初め、天下孰れか賢妃を立て后と為すを疑はざらん。及び詔書を讀み、『別に賢族を選ぶ』の語有り。又陛下の臨朝慨歎するを聞き、國家の不幸と為し、宗景妾を立てるに至り、怒りて之を罪す。於是に天下始めて釋然として疑はず。今竟に之を立つ。豈に聖德を上累せざらんや?

臣白麻の言ふ所を觀るに、其の子有るを稱し、及び永平・祥符の事を引いて證と為すに過ぎず。臣請ふ其の然る所以を論ぜん。若し曰く子有れば以て后と為す可しと為せば、則ち永平の貴人未だ嘗て子有ること無し。立つ所以は、德後宮に冠するを以ての故なり。祥符の德妃も亦未だ嘗て子有ること無し。立つ所以は、英甲族に鍾るを以ての故なり。又況んや貴人は實に馬援の女、德妃は廢后の嫌無し。迴りて今日の事體と相同からず。頃年冬、妃景靈宮に從享す。是の日雷變甚だ異なり。今宣制の後、霖雨飛雹す。天地宗廟に奏告する以來、陰淫止まず。上天の意、豈に昭然たらざらんや!人事に考ふれば既に彼の如く、天意を求めれば又此の如し。願く一時の改命を以て難しと為さずして、萬世の公議を以て畏る可しと為し、冊禮を追停し、初詔の如く之を行はんことを。」と。

帝謂ふ、「此れ亦祖宗の故事なり。豈に朕獨りならんや?」と。對へて曰く、「祖宗の大德法とす可き者多し。陛下之を取らずして、其の小疵を效ふ。臣恐らくは後世の人を責むる已む無き者紛紛たらんことを。」と。帝色變ふ。猶怒らず。其の章を把りて躊躇四顧し、凝然として思ふ所有るが如し。外に付す。明日、章惇其の狂妄を詆す。乃ち官を削り、新州に羈管す。蔡卞・安惇・左膚繼いて其の祖送する者王回等を治むるを請ふ。語他傳に在り。

徽宗立ち、亟に召し還し、復た右正言と為し、左司諫に遷す。上疏して謂ふ、「孟子曰く、『左右諸大夫皆賢と曰へども、未だ可ならず。國人皆賢と曰ひ、然る後に之を察し、賢なるを見て、然る後に之を用ふ。左右諸大夫皆不可と曰へども、聽く勿れ。國人皆不可と曰ひ、然る後に之を察し、不可なるを見て、然る後に之を去る。』と。是に於て公議恤ふ可からざるを知り、獨斷謹む可からざるを知る。蓋し左右は親からざるに非ざるも、然れども交結の私無き能はず。諸大夫は貴からざるに非ざるも、然れども恩仇の異無き能はず。國人皆賢と曰ひ、皆不可と曰ふに至りては、則ち所謂公議なり。公議の在る所、概ね已に之を察し、必ず賢なるを見て然る後に用ひ、不可なるを見て然る後に去らば、則ち所謂獨斷なり。惟れ公議を獨斷未だ形はざる前に恤ひ、獨斷を公議已に聞けたる後に謹めば、則ち人君の治を致す所以、又安んぞ善からざる有らんや?伏して朝廷の事を見るに、頗る即位の初めに異なり。相去ること半年、遽に是の如し。今より以往、将に之を如何せん。願く陛下深く之を思はんことを。」と。

起居舍人に改め、中書舍人に進む。又言ふ、「陛下善く神宗の志を繼ぎ、善く神宗の事を述ぶ。孝德至れり。尚ほ五朝聖政盛德有り。願く稽考して之を繼述し、以て七廟の光を揚げ、福を萬世に貽さん。」と。兵部・吏部二侍郎に遷り、寶文閣待制を以て江寧府を知り、杭・越州に徙る。

初めに、鄒浩が朝廷に還った時、帝はまず后冊立を諫めた事に言及し、再三賞賛して、諫草が何処にあるかを尋ねた。対えて曰く、「焼いてしまいました」と。退いて陳瓘に告げると、瓘は曰く、「禍は此に在るか。異時に姦人が妄りに一通の書を出せば、弁別することができぬであろう」と。蔡京が権力を握り、平素より鄒浩を忌んでいたので、乃ち其の党をして偽の上疏を作らせ、劉后が卓氏を殺して其の子を奪ったと述べさせた。遂に再び衡州別駕に責められ、語は『献湣太子伝』に在り。尋いで昭州に流され、五年にして始めて帰還を得た。

初めに、鄒浩が諫官に任ぜられた時、親に憂いを遺すことを恐れ、固く辞そうとした。母の張氏が曰く、「児が国に報いることができ、公論に愧じなければ、私は何を憂えようか」と。鄒浩が二度嶺表に貶謫された時も、母は初めの志を変えなかった。稍々復して直龍図閣となった。瘴疾が発し、危篤に甚だしかった。楊時が常州を過ぎ、往って見舞った。疲弊して僅かに息を存するのみであったが、猶も眷々として国事を問い、私事には言及しなかった。卒す。年五十二。高宗即位し、詔して曰く、「鄒浩は元符の間に在り、諫争を任じ、危言讜論を以て、朝野より推仰された」と。其の待制を復し、又た宝文閣直学士を贈り、諡して「忠」と賜う。

鄒浩が交遊した田晝・王回・曾誕は、皆良士である。

田晝

田晝、字は承君、陽翟の人。枢密使田況の従子、任子の恩蔭を以て校書郎となる。磁州録事参軍に調じ、西河県を知り、善政有り、民甚だ其の徳を慕う。議論慨慷、前輩の風有り。

鄒浩と気節を以て互いに激励した。元符の中、鄒浩が諫官となると、田晝は京城門を監し、往って鄒浩に会い曰く、「平生君と相許した所は如何なるものか、今君は何の官か」と。鄒浩曰く、「上は群臣に対し、未だ嘗て辞色を仮さず、独り浩に対しては差し若し喜ぶが如し。天下の事は固より言い尽くせぬが、深く信じられるのを待って後に発言し、益有ることを貴びたい」と。田晝は之を然りとした。既にして病を以て許に帰ると、邸状が后冊立を報じ、田晝は人に謂いて曰く、「志完(鄒浩)が言わなければ、絶交すべきである」と。鄒浩が罪を得ると、田晝は途上で出迎えた。鄒浩が涙を出したので、田晝は正色して責めて曰く、「志完が黙して京師に官し、寒疾に遇って汗せず、五日にして死んだならばどうか。豈に独り嶺海の外のみが人を死なせ得ようか。願わくは君、此の挙を以て自ら満足すること無かれ。士の為すべき所は、未だ此れに止まらぬ」と。鄒浩は茫然自失し、歎謝して曰く、「君の贈る所、厚し」と。

建中靖国初め、入って大宗正丞となる。曾布が数度招致したが、屈せず、提挙常平官を与えようとしたも、亦辞した。淮陽軍を知事を請い、歳大疫に罹り、日々医を挟んで病者を問い薬を与え、疾に遇って卒す。淮陽の人、祀って土神と為すという。

王回

王回、字は景深、仙遊の人。進士に第し、松滋令に調ず。荊・沔の俗、人を用いて鬼を祭る。王回は捕らえて厳しく治め、其の風遂に革まる。鹿邑県を知り、入って宗正寺簿となる。元符の中、葉祖洽が推薦して睦親宅講書と為す。鄒浩と友善なり、皇后劉氏が立つに当たり、鄒浩が之を論じようとし、密かに王回に告げると、回は曰く、「此れより大なる事があろうか。子には親有りと雖も、然れども孝を移して忠と為すは、亦た太夫人の素志なり」と。

鄒浩が南遷すると、人敢えて顧みる者無し。王回は交遊の金を集めて装いを整え、往来して経理し、且つ其の母を慰安した。邏者が之を聞き、詔獄に逮え詰められると、衆之が為に懼れたが、王回は之に居り晏然たり。御史が詰問すると、対えて曰く、「実に嘗て議に預かった。敢えて欺かぬ」と。因りて鄒浩の上した章を誦し、凡そ二千言に及ぶ。獄が上奏され、除名停廃となる。即ち徒步して都門を出で、数千里を行く。其の子が追い及び、家事を問うも、答えず。葉祖洽も亦た坐して罷免される。

徽宗即位し、旧官に召還され、監察御史に擢でられる。数日にして卒す。年五十三。岑象求・王覿・賈易が上章し、其の子を録用し、其の家を恤れ、以て忠義を奨励すべく乞う。詔して子の渙老を郊社斎郎に除す。蔡京が相と為り、之を奪い、仍って党籍に名を列ねる。

曾誕 附

曾誕、曾公亮の従孫なり。孟后の廃せられた時、曾誕は三度鄒浩に書を送り、力を請いて后を復すよう勧めたが、鄒浩は報いず。鄒浩が言事を以て南遷すると、曾誕は『玉山主人対客問』を著して之を譏り、其の要約は次の如し。「客問う、『鄒浩は有道の士と為し得るか』と。主人曰く、『鄒浩どうして道を知り得よう。然れども、予が此時に鄒浩を議するは、是れ天下に全き人無きなり。之を言うは尚お来世の戒めと為し得る。『易』に曰く、「幾を知るは其れ神か」と。又た曰く、「進退存亡を知りて其の正を失わざる者は、其れ惟れ聖人か」と。方や孟后の廃せられた時、人劉氏の将に立たんとするを知らざるは無し。四年を経たる後にして冊命未だ行わざるは、是れ天子清議の畏るべきを知るなり。当時に当たり、鄒浩が力を以て后の復位を言い、能く天子を感悟させば、則ち今日の劉氏の事無く、朝廷に過挙を遺さず。再三言いて聴かれざれば、則ち義亦た当たりたり。当時に罪を得たならば、必ずや是の如く酷くして老母の憂いを遺さざりしであろう。嗚呼、鄒浩の如き者は、幾を知るの士と為し得ずと雖も、然れども百世の下、頑夫廉く、懦夫立志有り、尚お聖人の清を失わざるなり」と」。其の書既に出で、識者或いは韓愈の『諫臣論』に比す。曾誕の仕官も亦た顕れず。

陳瓘

陳瓘、字は瑩中、南剣州沙県の人。少くより書を読むを好み、進取の学を為すを喜ばず。父母が門戸の事を以て勉め、乃ち挙に応じ、一出して甲科に中る。湖州掌書記に調じ、簽書越州判官となる。太守の蔡卞其の賢を察し、毎事礼を加うるも、陳瓘は其の心術を測知し、常に之を遠ざけんと欲し、屢疾を引いて帰還を求め、章上るを得ず。檄を以て通判明州を摂す。蔡卞は平素より道人張懷素を敬い、世間の人に非ずと謂い、時将に越に来らんとす。蔡卞は陳瓘を留めて稍々之を待たんとしたが、陳瓘は肯じて止まらず、曰く、「子は怪力乱神を語らず。此れ怪に近し。州牧既に信重すれば、民将に風に従いて靡かん。之を知らざるは、未だ不幸と為さず」と。後二十年にして張懷素誅せらる。明州の職田の収入厚しと雖も、陳瓘は取らず、尽く官に棄てて帰る。

章惇が宰相となると、陳瓘は衆に従って道中で謁見した。惇はその名を聞き、特に招いて同車に乗せ、当世の要務を尋ねた。瓘は言った、「どうか乗っている船を例えとさせてください。偏重していて進めるでしょうか。左のものを右に移せば、その偏りは同じです。これを理解すれば、進めるでしょう。天子は公に政を任せておられます。敢えてお尋ねしますが、まず何をなさいますか。」惇は言った、「司馬光は姦邪である。まずこれを弁明すべきで、これより急ぐことはない。」瓘は言った、「公は誤っています。これはちょうど船の傾きを平らにしようとして左のものを右に移すようなもので、もしそうなされば、天下の期待を失うでしょう。」惇は声を荒げて言った、「光は先人の業績を継承せず、大いに既成の法を改め、このように国を誤った。これが姦邪でなくて何であろうか。」瓘は言った、「その心を察せずにその行跡を疑うのは、罪がないとは言えない。もし姦邪と指摘し、また改作するならば、国を誤ることは一層甚だしくなります。今の計らいとしては、ただ朋党を消し、中道を保つことによって、ようやく弊害を救うことができるでしょう。」その意見は惇に逆らうものであったが、惇もまた驚き、兼ねて収用するような言葉を述べた。都に至り、太学博士に任用された。時に蔡卞が惇と志を合わせ、正論は遂に退けられた。卞の党の薛昂と林自が学省の官となり、『資治通鑑』を毀損することを議した。瓘は策士の題として神宗の御製の序文を引用して問うたので、昂と自は意気阻喪した。

秘書省校書郎に遷った。紹述の説が盛んになると、瓘は哲宗に奏上して言った、「堯・舜・禹はいずれも『若稽古』を訓戒とされました。『若』とは、これに従って行うこと。『稽』とは、その当否を考へ、必ず民情に合はせることで、これによって帝王の治を成すのです。天子の孝と士大夫の孝とは同じではありません。」帝は繰り返し尋ね究め、心に感じ喜び、瓘に再び入見することを約した。執政はこれを聞いて恨み、通判滄州として出し、衛州知州とした。徽宗が即位すると、右正言に召され、左司諫に遷った。瓘の論議は公平で、大綱を存することを務め、細事を口実とせず、人の曖昧な過失に及んだことはなかった。嘗て言った、「人主は言事の者を耳目として託す。誠に浅近な見聞をもって、その聡明を惑わすべきではない。」ただ蔡卞・章惇・安惇・邢恕の罪を極論したのみであった。

御史の龔夬が蔡京を弾劾すると、朝廷は夬を追放しようとした。瓘は言った、「紹聖以来、七年の間に五度も言事の者を追放した。常安民・孫諤・董敦逸・陳次升・鄒浩の五人はいずれも京と異議があって去った。今また夬を罷めれば、公道をどうするというのか。」遂に疏を草して京を論じたが、まだ上奏しないうちに、時に皇太后は既に政を帰していた。瓘は外戚の向宗良兄弟が侍従の寵を求める士と交際し、世間の議論が喧しいのは、皇太后が今なお政事に関与していると謂っているからだと述べた。これによって監揚州糧料院に罷められた。瓘が都門を出ると、四つの奏章を封じて上し、併せて宣仁太后(英宗后)に対する誣謗の事を明らかにした。帝は密かに使者を遣わして黄金百両を賜い、后もまた急いで去らぬよう命じ、十の僧牒を与えて行装とし、無為軍知軍に改めた。

翌年、還って著作郎となり、右司員外郎兼権給事中に遷った。宰相の曾布が客を使わして、まさに真除けする旨を告げさせた。瓘は子の正彙に言った、「私は丞相と議事が多く合わない。今このようであるのは、官爵をもって私を餌にしようとするのだ。もしその推薦を受けて進み、また意見が異なるならば、公議と私恩の両方に愧じることになる。私は彼の過失を論じた一書がある。これを投じて去就を決しようと思う。汝がこれを書け。ただ郊祀が遠くない。彼が私を容れなければ、恩沢は汝に及ばない。心に介さずにいられるか。」正彙はその書を得たいと願った。朝に持って省に入ると、布は数人をして邀え出て相見えさせた。席に就くや、瓘は直ちに書を出した。布は大いに怒り、しばらく争論し、ついには足を投げ出して罵るに至った。瓘の顔色は動じず、徐かに起きて言った、「先ほど論じたのは国事です。是非には公議があります。公は士を待つ礼を失うべきではありません。」布は驚いて容色を改めた。二晩の後、泰州知州として出された。崇寧年間、除名されて袁州・廉州に流され、郴州に移され、やや宣徳郎に復した。

正彙が杭州におり、蔡京に東宮(皇太子)を動揺させる形跡があると告発した。杭州守の蔡薿が捕らえて京師に送り、先に飛書を以て京に告げて計らいをさせた。事は開封府の制獄に下り、瓘もまた逮捕された。府尹の李孝称は彼を脅してその虚妄を証させようとした。瓘は言った、「正彙は京が社稷に不利をなさんとするのを聞き、それが道路に伝わっています。瓘がどうして予め知ることができましょうか。知らないことを以て、父子の恩を忘れてそれを虚妄と指摘するのは、情に忍びない。私情を挟んでその説に符合させるのは、また義としてなすべきことではありません。京の姦邪は必ず国の禍となるでしょう。瓘はかつて諫省でこれを論じたことがあり、今日の言葉を待つまでもありません。」内侍の黄経臣が審理に臨み、その言葉を聞いて声をあげて嘆息し、言った、「主上は正に実情を得ようとしておられる。ただ言葉の通りに対すればよい。」獄が決すると、正彙はなお告発が事実に合わないとして海上に流され、瓘もまた通州に安置された。

瓘は嘗て『尊堯集』を著し、紹聖の史官が専ら王安石の『日録』に拠って『神宗史』を改修し、是非を変乱し、伝えて信じるに足らないこと、深くその誣妄を明らかにして君臣の義を正すべきことを述べた。張商英が宰相となってその書を取ったが、既に上奏した後、商英は罷免され、瓘はまた台州に移された。宰相は遍く過ぎる州に命じて兵甲を出して護送させた。台州に至ると、十日ごとに移転を告げさせ、且つ凶人石悈に州事を知らせ、庭に引き出し、大いに獄具を並べて、死をもって脅そうとした。瓘はその意を推し量り、大声で呼んで言った、「今日の事は、まさか制旨によるものではないでしょう。」悈はあわてふためき、始めて告げて言った、「朝廷が『尊堯集』を取るよう命じただけです。」瓘は言った、「それなら何もそのようなことをする必要はない。使君は『尊堯』という名が立てられた所以を知っていますか。神考(神宗)を堯とし、主上(徽宗)を舜として、舜が堯を尊ぶのを助けることです。どうして罪となりましょうか。時の宰相は学術が浅短で、人に愚弄されています。君はどれほど得るというのか、それでもまた公議を畏れず、名分を犯すのですか。」悈は慚じて、揖して退かせた。あらゆる手段で困窮侮辱したが、終いに害することはできなかった。宰相はなお悈を臆病として罷免した。

台州に五年いて、ようやく自由の身となった。ようやく承事郎に復したが、帝は進目の案を批して、その擬議は当たらないとし、再び一官を叙し、なお差遣を与えるよう命じたが、執政がこれを留めて行わなかった。江州に居を卜したが、またこれを讒する者がおり、ついには勝手に城を出ることも許されなかった。間もなく南康に居住するよう命じられたが、着いたばかりで、また楚州に移された。瓘は平生、蔡京・蔡卞を論じるに、皆その心の内を抉り出し、その邪悪な真情を露わにしたので、最も忌み恨まれ、故に禍を受けること最も酷く、一日も少しの安らぎも与えられなかった。宣和六年に卒した。六十五歳。

瓘は謙和で物と競わず、閑居しては矜持を保ち、言葉を軽々しく発しなかった。『易』に通じ、しばしば国家の大事を言い、後多く験があった。靖康初年、詔して諫議大夫を追贈し、正彙を召して官とした。紹興二十六年、高宗は輔臣に謂って言った、「陳瓘は昔諫官として、甚だ正しい議論があった。近頃その著した『尊堯集』を覧ると、君臣の大分を明らかにし、『易』の天尊地卑及び『春秋』の尊王の法に合致する。王安石は経術に通じたと号するが、その言は『道隆く徳駿なる者は、天子北面して問うべし』と謂い、経に背き理に悖ること甚だしい。瓘には特に諡を賜ってこれを顕彰すべきである。」諡して「忠肅」といった。

任伯雨

任伯雨、字は徳翁、眉州眉山の人。父の孜、字は遵聖、学問と気節をもって郷里で推重され、その名は蘇洵と並び称され、官は光禄寺丞に至った。その弟の伋、字は師中、また知名で、嘗て黄州通判を務め、後に滬州知州となった。当時「大任」「小任」と称された。

伯雨は幼少より、既に傑出して群を抜き、経術に深く通じ、文章の力は雄健であった。進士に及第し、施州清江の主簿に任ぜられた。郡守が檄を飛ばして公庫の管理を命じたが、笑って言うには、「里の名が勝母であれば、曾子は入らなかった。この職務がどうして我が身に至ろうか」と。受け入れずに拒絶した。雍丘県の知事となり、吏を統御するには湿ったものを束ねるが如く厳しく、民を撫でるには傷をいやすが如く優しくした。県は汴河の流れに臨み、漕運が絶えず、従来より盗賊が多いことで苦しんでいたが、未だ捕らえた者はいなかった。人々はその理由を知らなかった。伯雨は命令を下し、綱を引く船は境内に宿泊することを許さず、初めは従わなかったが、東下する者にはその纜を斧で断ち切り、京師に向かう者には護衛して送り出させた。これより外戸を閉ざさずに済んだ。

使者がその状況を上奏すると、召されて大宗正丞となり、到着したばかりで、左正言に抜擢された。時に徽宗は政務を始めたばかりで、正論を採用していた。伯雨はまず章惇を弾劾し、言うには、「惇は長らく朝政の権柄を窃み、国を迷わせ君を欺き、その毒は搢紳にまで流れた。先帝の変故に乗じ、慌ただしい中で、ただちに異心を逞しくし、万乗の君を睥睨して、もはや臣下としての恭しさがなかった。向こうの計略が行われていたならば、陛下と皇太后をいずこに置かれたであろうか。もしこれを許して誅さなければ、天下の大義は明らかにならず、大法は立ちません。臣は北使の言葉を聞きましたが、去年、遼主が食事中に、中国が惇を罷免したと聞き、箸を置いて立ち上がり、二度も「甚だ善し」と称え、南朝はこの者を用いるのを誤ったと言ったと。北使はまた、なぜこのような処分だけなのかと尋ねた。これを見れば、孟子のいわゆる「国人皆曰く殺すべし」というだけでなく、蛮貊の国であっても、殺すべきとしない者はありません」と。八度上奏し、惇は雷州に貶謫された。続いて蔡卞の六大罪を論じ、その言葉は『卞傳』にある。

建中靖国と改元された時、国政を執る者は元祐と紹聖の両派の人々を調和させようとし、故に「中」を名とした。伯雨は言う、「人材は固より党派に分けるべきではないが、しかし古来より君子と小人が雑然と並び進用されて治世を成し得たことはない。君子は退きやすく、小人は退き難い。両者を併用すれば、結局は君子がことごとく去り、小人だけが残る。唐の徳宗はこれによって播遷の禍を招き、『建中』はその時の年号である。これを戒めとせねばならない」。

時に議する者は西北の郡を治めるのを専ら武臣に用いようとした。伯雨は言う、「李林甫が安禄山の乱を招いたのは、これである」と。また、鍾傅と王贍が湟州・鄯州の辺境問題を起こし、同盟国の心を失わせたことを論じ、その地を棄てて辺境を安定させ民を休ませるべきこと、張耒・黄庭堅・晁補之・歐陽棐・劉唐老らを朝廷に召し還すべきことを主張した。皇太后に上書し、蔡京の悪を暴き、陳瓘を召還して、定策の勲功を全うするよう乞うた。

時に正月朔旦に赤気の異変があったため、火星観に行ってこれを禳おうとした。伯雨は上疏して言う、「嘗て徳を修めて災いを消すと聞くが、禳い祈って変異を消した例はない。『洪範』は五事を五行に配し、解釈する者は、視ることが明らかでなければ、赤い災いや祥(凶兆)があるという。権綱を掌握して賞罰を信実にし、威福を専らにして功罪を区別し、皇威を赫々とさせ、事が至れば必ず断行し、ならば乖離した気や異なる象も、吉祥に転じるでしょう」と。また言う、「近ごろ内降(宮中からの直接命令)が次第に多くなっている。あるいは偽って制命を伝える恐れがある。漢の鴻都門での爵位売買、唐の墨敕・斜封の官、これらは近き鑑である」。

王覿が御史中丞に任ぜられ、依然として史官を兼ねた。伯雨は言う、「史院は宰相が監修する。今、中丞がその属官となるのは、風憲を重んじ嫌疑を遠ざけることにはならない」。やがて王覿が翰林学士に任ぜられると、伯雨はまた論じて言う、「学士の爵秩と位序は、皆、中丞の上にある。今、覿がこれに任ぜられるのは、諫官が事を論じても、ただ朝廷が行われないだけでなく、かえって人を昇進させるだけである」。

伯雨が諫官の職にあった半年の間に上奏した疏は百八通に及んだ。大臣はその多言を恐れ、権給事中に任じて、密かに黙っていれば正官にすると諭した。伯雨は聞き入れず、抗論はますます力強くなり、かつ曾布を弾劾しようとした。布はこれを察し、度支員外郎に転じさせ、まもなく虢州知事とした。崇寧年間に党争事件が起こると、官籍を削られ通州に編管された。蔡卞に陥れられ、陳瓘・龔夬・張庭堅ら十三人と共に皆、南方に遷されたが、伯雨だけは昌化に移された。奸人たちはなお甘心せず、匿名の書状を用いて再びその次男の申先を捕らえて獄に赴かせた。妻が丁度淮で死に、訃報が同時に届いた。伯雨はこれを平常の如く受け止め、言うには、「死者は已に去った。生きている者が朝廷に負い目があれば、これより訣別すべきである。もしそうでなければ、天が無辜を殺すことがあろうか」と。申先は獄中で、鍛錬(罪状を捏造すること)されたが、根拠とするものがなく、ようやく釈放された。海上に三年住んで帰った。宣和初年に卒去。七十三歳。

長男の象先は、世科(科挙の一種)に合格し、また詞学兼茂科に及第した。有司が封を開けて見ると、党人の子であることを知り、名を奏上せず、秦州戸曹掾に任ぜられた。父が貶謫されたと聞き、官を棄てて帰り養った。王安中が燕山宣撫使の幕僚に辟召したが、仕方なく応じ、途中で病気を理由に帰還し、終身再び仕えなかった。申先は布衣の身から特別に起用されて中書舍人に至った。

紹興初年、高宗は詔を下して伯雨に直龍図閣を追贈し、さらに諫議大夫を加贈した。その諫章を採用し、章惇・蔡卞・邢恕・黄履を追貶し、宣仁太后を誣いた事柄を明らかにして天下に告げた。淳熙年間、諡を「忠敏」と賜った。

論じて言う。劉安世が文彥博の言葉を復唱した時、年はまだ若かったが、その言葉は即ち元祐の初政であり、司馬光の用心であった。鄒浩が劉后の立后を諫めたことは、反復曲折し、人の言い難きことを極めた。二人が言官に任ぜられた時、共に母の許へ入って告げた。母は共に忠を尽くして国に報いよと励まし、少しも後患を顧みる気持ちはなかった。ああ、賢しいことよ。陳瓘と任伯雨は疎遠の地にあって抗する跡を立て、朝廷に立っても援助は少なかったが、力強く章惇・曾布・蔡京・蔡卞ら群奸の罪を発し、少しも畏れ憚ることがなかった。古のいわゆる剛正で撓まざる者であろうか。