孫覚
孫覚、字は莘老、高郵の人。弱冠にして、胡瑗に師事して学を受く。瑗の弟子は数千人、その老成なる者を別けて経社と為す。覚は年最も少なく、儼然としてその間に居り、衆皆推服す。進士第に登り、合肥主簿に調ず。歳旱にして、州は民に課して蝗を捕え官に輸せしむ。覚言う、「民方に食に艱しむ。威を以て督くるは難し。若し米を以て之に易えば、必ず力を尽くさん。是れ害を除きて利を享くるなり」と。守悦びて其の説を推し、之を他県に下す。嘉祐中、名士を択びて昭文書籍を編校せしむ。覚首めて選に預かり、館閣校勘に進む。神宗即位し、直集賢院と為り、昌王記室と為る。王終身の戒めを問う。諸侯の孝を陳べて、《富貴二箴》を作る。右正言に擢ばる。
神宗将に積弊を大いに革めんとす。覚言う、「弊政は固より革めざるべからず。革めて当たれば、其の悔い乃ち亡し」と。神宗其の理を知るを称す。嘗て従容として人の知り難きに語及びしに、覚曰く、「堯は人を知るを難しと為し、終に其の易きを享く。蓋し人を知るの要は、言を知るに在り。人主の臣を用うるの道は、賢を任じ能を使うるのみ。賢能の分既に殊なり、任使の方亦異なり。知る所限り有り、能くする所彼此有るに至りては、是れ功用の士なり。外に処することを得べくして内に処することを得ず、事を責むることを得べくして言を責むることを得ず。陛下太平の治を興さんと欲し、而して擢ぶ所数十人なる者、多く口才有りて実行無し。臣恐らくは日浸み月長じて、彙り征み牆み進み、朝廷の上に充滿せば、則ち賢人日々に遠ざかり、其の患禍を為す、尚ほ一二を以て之を言うべけんや?願わくは《詩》《書》の任使する所を観、小利近功に速やかならざらしめば、則ち王道成る可し」と。
王安石早くより覚と善し、驟に之を引用し、将に援けて以て助けと為さんとす。時に呂惠卿事を用う。神宗覚に詢る。対えて曰く、「惠卿は即ち辯にして才有り、人を過ぐること数等、特利の故を以て、身を安石に屈す。安石悟らず。臣窃に憂いと為す」と。神宗曰く、「朕も亦之を疑う」と。其の後王・呂果たして交わり悪む。
青苗法行わる。首に議する者謂う、「《周官》泉府、民の貸する者、息を輸するに至りて二十にして五と為す。国事の財用取具う焉に」と。覚奏して条に其の妄なるをす。曰く、
「成周の賒貸は、特民の緩急を備うるを以てす。徒に与うるべからず。故に国服を以て之が息と為す。然れども国服の息は、説者明らかならず。鄭康成経を釈し、乃ち王莽の贏を計りて息を受くる、歳什一を過ぎざるを引きて据と為す。応に周公の息を取る、莽の時に重きべからず。況んや載師の任ずる所の地、漆林の征特に重きは、末作を抑える所以なり。今農民の乏絶を以て、将に耕を補い斂めを助けんとす。顧みて末作に比べて之を征す、可ならんや?国事取具うとは、蓋し泉府の領する所を謂う。若し市の售れざる、貨の民用に滞る、買う有り予う有り、並びに賒貸の法を挙げて之を行う。儻し専ら泉府に取具うれば、則ち塚宰九賦将に安くにか用いん?聖世宜しく先王の法を講求すべく、疑文虚説を取って以て治を図るべからず。今老臣疏外にして聴かれず、輔臣遷延して職に就かず、門下執正して行わず、諫官罪を請いて去らんと求む。臣誠に恐る、奸邪の人、党を結び伍を連ね、衆情の洶洶たるに乗じ、朝廷を動揺せしめ、直きを釣り誉を干め、国家の福に非ざるを」と。
安石之を覧て怒る。覚適事を以て中書に詣る。安石語を以て之を動かし曰く、「意わざりき学士も亦此くの如きとは」と。始めて覚を逐わんとする意有り。曾公亮畿県常平銭を散ずるに、追呼抑配の擾有りと言うに会う。安石因りて覚を遣わし行き視て虚实せしむるを請う。覚既に命を受け、復た奏疏して行くを辞し、且つ言う、「陳留一県の如き、前後曉示し、情願して銭を請うも、卒に一人至る者無し。故に陳留は一銭をも散ぜず。此を以て民実に官中と相交わるを願わざるを見る。所有の体量、望むらくは賜いて寢罷せしめよ」と。遂に覚を以て反覆と為し、広徳軍知軍に出し、湖州に徙す。
松江堤没し、水民の患いと為る。覚石に易え、高さ丈余、長さ百里、堤下良田と化す。廬州に徙し、右司諫に改む。祖母の喪を以て官を解くを求め、太常に下して議せしむ。不可。詔して潤州知州と為す。覚既に喪に持る。服除し、蘇州知州と為り、福州に徙す。閩の俗婚喪に厚く、其の費藝無し。覚中法に裁し、資装百千を過ぐるを得ざらしむ。令下りて、嫁娶百数を以てし、葬埋の費亦率ね什伍を減ず。連ねて亳・揚・徐州に徙す。徐多く盗有り。人を殺す者五を得て捕う。其の一僅かに衣に勝えり。疑いて之を訊う。曰く、「我野に耕し、甲と遇う。強いて梃を以て我に与え、半夜我を挟みて東し、我をして諸を門に候わしむ。其の他を知らず」と。吏に問う、「法何如」と。曰く、「死」と。覚其の首を誅するに止め、後遂に例と為る。
応天府知府と為り、入りて太常少卿と為り、秘書少監に易う。哲宗即位し、侍講を兼ね、右諫議大夫に遷る。時に諫官・御史事を論ずるに限り有り、職を越ゆるを得ず。覚《唐六典》及び天禧詔書を申べんことを請う。凡そ令を発し事を造るの未だ便ならざるは、皆奏陳するを得しむ。宰相蔡確・韓縝の徳を以て進まずを論ず。確自ら功有りて罪無しを訟う。覚随いて言う所に之を折く。確竟に去る。縝覚を給事中に遷すを白す。辞して曰く、「間、執政人の己を議するを畏れ、則ち官を遷して以て之に餌す。願わくは縝と俱に罷まん」と。月を逾えて、縝去る。
覚徳量有り、王安石に逐わる。安石退きて鍾山に居す。覚枉駕して旧を道べ、従容として累夕に及ぶ。其の死に迨り、又文を以て誄す。談者之を称す。紹聖中、覚を以て元祐党と為し、職を奪い両官を追う。徽宗即位し、官職を復す。文集・奏議六十巻、《春秋伝》十五巻有り。弟覧。
弟 覧
李覽、字は傅師。進士に及第し、尉氏県知事となる。ある屯将が部下を虐待し、士卒が大閲の機に乗じてこれを殺し叛こうと謀った。李覽はこれを聞き、馳せ往ぬると、士卒らはなお群がり語り合って顧みない。李覽は呼びかけて諭して言うには、「将軍は確かに無状であるが、然しながら天子が何をお前たちに負うところがあろうか、どうして一族滅亡を招こうとするのか」と。皆感謝して列に就いた。屯将が遅れて到着すると、李覽は役人に命じて急ぎ上奏文を整えさせ、衆人の心はようやく安んじた。神宗はその才幹を壮とし、司農主簿とした。舒亶が司農寺を判じ、かつ諫院を兼ね、李覽を引き立てて自らを助けさせようとしたが、李覽は拒絶して答えなかった。舒亶は怒り、帳簿の違反事をもってこれを弾劾した。出向して利州・湖南常平提挙となり、京西転運判官に改められ、入朝して右司員外郎となる。荊湖の開拓に際し、命を受けてその便宜を視察した。李覽は言うには、「沅州が招いた溪洞百三十ヶ所は、本郡に従って事に応じて統制すべきであり、官を建て戍を置いて民を困らせるべきではない。誠州から融江口に至るまで、西広の塩を通すことができ、北道の糧秣輸送を省くことができる」と。すべて従われた。
使節より還り、河東・河北転運副使となり、直龍図閣を加えられ、河中府・応天府知事、江淮発運使を歴任した。宝文閣待制に進み、桂州から広州に移り、また渭州に改められた。夏人が辺境に侵入すると、大将苗履に檄を飛ばしてこれを防がせたが、苗履は病と称して告げを移した。李覽はただちにその罪を糾明し、房陵に流罪とし、軍門は粛然とした。開封府知事に召され、到着すると戸部侍郎を拝命した。蔡京と役法について議論が合わず、龍図閣直学士として太原府知事となる。夏人が横山を占拠し、河に沿って寨を築き、秦・晋の通路をすべて塞いだ。李覽は葭蘆戍を奪回しようと謀ったが、険阻に阻まれて前進できなかった。夏人数万が境上に屯した。李覧は命令を下して「我が兵は少ない、五万に満たなければならない」と言った。西夏人がこれを聞いて増援を送ると、李覧は動じず、相持することますます久しくなった。突然、乾糧を整え、兵械を厳しくするよう命じ、「敵が来る」と言った。数日後、果たして大挙して侵入した。李覧は奮撃してこれを破り、ついに葭蘆に城を築いて還った。功績を評定され、枢密直学士を加えられた。
李覧は辺功を立てたが、議論はしばしば執政に触れ、たびたび左遷・削減され、河南府・永興軍知事を歴任し、成都府に移された。辞退して赴任せず、宝文閣待制に降格された。卒す。享年五十九。
李常
李常、字は公擇、南康軍建昌県の人。若くして廬山の白石僧舎で読書した。進士に及第した後、自ら書き写した書九千巻をそこに残し、その舎を「李氏山房」と名付けた。江州判官・宣州観察推官に任じられた。発運使楊佐が推薦して官位を改めようとしたが、李常はその友劉琦を推した。楊佐は「世にこのような風は久しくない」と言い、二人を併せて推薦した。
熙寧初年、秘閣校理となる。王安石は彼と親しくし、三司条例検詳官とし、右正言・知諫院に改めた。王安石が新法を立てると、李常はこれに参与して議論したが、青苗法で利息を取ることを望まなかった。この時、上疏して言うには、「条例司が設立された当初から、すでに朝廷内外の議論を招いている。均輸法・青苗法に至っては、物資を集散して利息を取ることを、経書の義に附会するのは、人々は大いに驚くであろう。王莽が『周官』の片言隻句を無理に分析して、天下に毒を流したのと何が異なろうか」と。王安石はこれを見て、親しい者を遣わして意を諭させたが、李常は止めなかった。また言うには、「州県が常平銭を貸し付けるが、実際には元本を出さず、民に利息を出させることを強制している」と。神宗が王安石を詰問すると、王安石は李常に担当官吏の名を具体的に挙げるよう命じることを請うた。李常はそれは諫官の体ではないとして、校理を落とされ、滑州通判となった。一年余りして復職し、鄂州知事となり、湖州・斉州知事に移った。斉州には盗賊が多く、判決の報告が一日も空くことがなかった。李常は狡猾な盗賊を捕らえ、兵士として刺青を入れ、自らの麾下に置いた。彼らは盗賊の巣窟をすべて知り尽くしていたので、家屋を壊し柱を破り、その根拠を抜き、半年の間に七百人を誅し、奸悪な者が隠れるところがなくなった。淮南西路提点刑獄に移る。元豊六年、召されて太常少卿となり、礼部侍郎に昇進した。
哲宗が即位すると、吏部に改められ、戸部尚書に進んだ。ある者は彼に幹才・器量が乏しいのではと疑い、重任に耐えられないと考え、司馬光に質した。光は言う、「李常を邦計(財政)の主管に用いれば、人々は朝廷が利益の徴収を急いでおらず、収奪が少し止むことを知るであろう」と。李常が転対(順番に皇帝に対面して意見を述べること)し、七事を上奏した。すなわち、廉恥を崇めること、郷挙を存すること、守宰を区別すること、貪贓を廃すること、疑獄を審査すること、儒師を選ぶこと、役法を修正することである。当時、役法の差役・免役二科が未だ定まっていなかった。李常は言う、「法に新旧はなく、民に便なものが良い。議論に彼我はなく、長く続けられるものが確かである。今、民に皆出資させれば貧者は難しく、皆労力させれば富者は耐え難い。それぞれその願いに従えば、長く続けられるであろう」と。そこで折衷して条項を上奏した。赦恩により、市易法による未納二百貫未満の負債を免除することとなったが、李常は利息がその数を超えても取らないよう請うた。
御史中丞を拝命し、侍読を兼ね、龍図閣直学士を加えられた。士人登用について論じ、詩賦・経義を二科に分けて、それぞれの長所を尽くすよう請うた。初め、黄河が小呉で決壊し、議者は孫村口から水を導いて旧河道に戻そうとした。この工事が始まると、李常は言う、「京東路・河北路は飢饉で困窮しており、河を導くべきではない」と。詔によって工事は中止された。諫官劉安世が、呉処厚が蔡確の詩を提出して誹謗であるとしたことを根拠に、力を込めて蔡確を攻撃した。李常は上疏して、詩をもって蔡確を罪とするのは、風俗を厚くする道ではないと論じた。劉安世は李常をも弾劾し、李常は兵部尚書に移されたが、拝命を辞退し、鄧州知事として出向した。成都府に移され、赴任途中の陝州で急死した。享年六十四。文集・奏議六十巻、『詩伝』十巻、『元祐会計録』三十巻がある。
李常は孫覚より一歳年長で、初め孫覚と並び称され、ともに呂公著に知遇を得た。その議論と進退の志は、大略多く同じであり、最後に至った官職も同じであった。その死は、前後一晩の違いであったという。
孔文仲
熙寧初年、翰林学士范鎮が制挙で推薦し、対策文九千余言を献じ、王安石の立てた理財・訓兵の法が誤りであると力論した。宋敏求はこれを異等と評定した。王安石は怒り、神宗に奏上し、御批をもって元の官に戻すよう命じた。斉恢・孫固が御批を封還し、韓維・陳薦・孫永も皆、孔文仲を罷免すべきでないと力説し、五度上章したが、聞き入れられなかった。范鎮もまた言う、「孔文仲は在野の遠方の者で、忌諱を識らない。しかも直言を求めておきながら、またこれを罪するのは、聖明の累となる恐れがある」と。これも聞き入れられなかった。蘇頌は嘆いて言う、「朝廷が賢を求めること飢渇の如き折、このような人がいても登用されないのは、その論があまりに高くて合い難いからか。言があまりに激しくて怨みを取るからか」と。
呉充が宰相となり、彼を館閣に置こうとしたが、またこれを忌む者がおり、わずかに国子直講を得たに過ぎなかった。学者は王安石の経義を用いて進取しようとしていたが、孔文仲はその書に習熟せず、三班主簿に換えられ、保徳軍通判として出向した。当時、西夏を征討し、数十万の兵衆が皆その境上を通り、長く解散せず、辺境の民は苦しみに厭きていた。孔文仲は三つの不便を陳べた。すなわち、「大兵が未だ出動しないのに、丁夫が予め集められること。河東で夫を雇うことは、民を労して費用を損なうこと。諸路が出兵するが、首尾相応じないこと。虞・夏・商・周の盛世にも、外侮がなかったわけではない。しかし、懐柔し制御する要は、彼(外敵)にあらずして此(内政)にあるのである」と。
元祐の初め、哲宗は彼を召して秘書省校書郎とし、礼部員外郎に進めた。ある者が言うには、「皇族は楊・荊の二王のみが皇叔と称すべきであり、その他は各々その祖に系すべきである、唐人に諸王の孫を称するのと同様に」と。文仲は言った、「上は新たに即位され、広く敦睦の義を広めるべきであり、骨肉を疎遠に隔てるべきではない」と。議論は遂に止んだ。起居舍人に遷り、左諫議大夫に抜擢された。七月朔に日食があり、上疏して五事を条陳した、曰く、「邪説が正道を乱し、小人が君子に乗じ、遠服が中国を侮り、斜封が公論を奪い、人臣が国命を軽んずる、これらを察して厭兆の祥を消すべきである」と。青苗法・免役法を論じ、天下をまず困窮させ、保甲・保馬・茶塩の法は、毒を遺し蠹を留めるとした。中書舎人に改めた。
初め、文仲は弟の武仲・平仲と共に文名によって江西に起こり、時に「三孔」と号された。後に追貶されて梅州別駕となった。元符の末、その官を復した。文集五十巻あり。
弟 武仲
武仲、字は常父。幼くして力学し、進士に挙げられ、甲科に及第した。穀城主簿に調され、選ばれて斉州教授となり、国子直講となった。二親に喪に服し、毀瘠ことのほか甚だしく、右肱が挙がらなくなった。元祐の初め、秘書省正字・校書、集賢校理、著作郎、国子司業を歴任した。嘗て科挙の弊を論じ、王氏の学を詆し、詩賦を復して士を取るよう請うた。また大義を罷め、諸経の策を益し、御試には仍って三題を用いるよう欲した。起居郎兼侍講邇英殿に進み、起居舎人を除かれ、数ヶ月後、中書舎人に拝され、直学士院となった。
初め、侍従の転対を罷め、専ら論思を責めとした。武仲は言った、「もし法を持ってせずんば、則ち言うと言わざると、将に各々その意に従わん。願わくは二人を輪番して次対せしめよ」と。時に北郊の祠を議し、久しく決しなかった。武仲は純陰の月を用いて親祠することを建言し、神州地祇の如くせよとした。給事中に擢げられ、礼部侍郎に遷り、宝文閣待制を以て洪州知州となった。従臣が州を為す者は、杖以下の公坐は官属を劾するに止め、獄が成るを俟ち、大理に法を約せしめよと請うた、これにより刑が貴近に逮ばず、また朝廷の体貌の意を全うせんとした。遂に令として著された。
宣州に徙せられ、元祐の党に坐して職を奪われ、池州に居した。卒す、年五十七。元符の末、これを追復した。著す所の『詩書論語説』、『金華講義』、内外制、雑文合わせて百余巻。
弟 平仲
平仲、字は義甫。進士第に登り、また制科に応じた。呂公著の推薦により、秘書丞・集賢校理となった。文仲が卒すると、南康に帰葬した。詔して平仲を江東転運判官として葬事を護らせ、江浙鑄錢・京西刑獄を提点した。紹聖の中、言者が元祐の時に当路に附会し、先烈を譏毀したと詆し、校理を削り、衡州知州となった。提挙の董必が常平法を推行せず、官米の直六十万を陷失したと劾した。獄を潭州に置いた。平仲は疏を上って言った、「米は倉に五年半貯め、陳腐して食に堪えず、もし民の食闕に乗じ、宜しきに随ってこれを泄さずんば、将に棄物とならん。もし非と為すならば、臣は罪を逃れず」と。乃ち韶州に徙せられた。また前に上書した故に坐し、惠州別駕を責められ、英州に安置された。
徽宗が立つと、朝散大夫に復し、召されて戸部・金部郎中となり、出て永興路刑獄を提挙し、鄜延・環慶を帥いた。党論が再び起こり、罷められ、袞州景霊官を主管し、卒した。平仲は史学に長け、文詞に工であり、著す所の『続世説』、『繹解稗』、『詩戯』諸書が世に伝わる。
李周
李周、字は純之、馮翊の人。進士第に登り、長安尉に調された。歳饑饉に、官は粥を為して餓者に食わせたが、民が坌集して禁じ得ず、県は周に属した。周は梐枑を設け、老少男女を間引き、一人として乱れる者無かった。都巡検の趙瑜が南山で盗を詰め、諸尉は皆これに属した。瑜は悍急で、多く無礼を行ったが、独り周に対しては敢えて肆ばしなかった。
洪洞令に転じた。民に世絶して官がその産を録する者がおり、その族が遅れて遺券を得た。周は取ってこれを還した。郡吏が周を咎めたが、周は言った、「民を利するは、国を利する所以なり」と。県の南に澗があり、支流が湓入し、歳賦として菑楗を調え、徒を調えてこれを遏した。周は始めて新堤を築き、民は病を告げなかった。雲安県知県に改め、塩井の征を蠲免すること百万に及んだ。施州通判となった。州は群獠に介在し、牛を用いる利に習わず、数千畝の田を辟き、謫戍して田を知る者を選び、牛を市して耕させ、軍食はこれに頼って足りた。
司馬光が御史に推薦せんとし、来て会わせようとしたが、周は言った、「司馬公の賢は、吾固より願って見る所なり、但だ薦を聞いて往くは、所謂『身を呈する御史』なり」と。遂に往かず。神宗が近臣に士を挙げるよう詔し、孫固が周を以て聞こえた。神宗が召して対し、謂って言った、「卿が権門に遊ばざるを知る、今の執政を識るか」と。対して言った、「識りませぬ」と。「司馬光を識るか」と。曰く、「識りませぬ」と。禦辺の術を訪ねると、曰く、「四辺は手足の如し。もし中国を疲らして遠略に勤め、百姓を窮困に致し、聚まって盗賊と為らば、腹心の憂いを成すを懼る」と。神宗はこれを頷き、翌日、固に語って言った、「李周は樸忠の士なり。朕将に御史と為さんとす」と。執政はその己に異なるを意とし、事を以て試すよう請うた。提点京西刑獄を除かれた。
時に水利を興そうとしており、或る者が湍河を釃して六渠とし、以て鉗廬陂の水を益さんことを請うた。用工八十万を度った。周は言った、「湍河は原高く委下り、堤を以て捍ぐも、猶決溢を患う、若し又これを導かば、必ず害を致さん」と。乃ち疏を上って言った、「渠の成るは必ずしも可ならず、而して費は已に貲し難し。何ぞ姑くその一を鑿ってこれを試みずんや、儻し以て用を足すべくんば、これを行わん」と。渠は遂に功無かった。明年、河が溢れ、鄧城は幾くも没せんとし、始めてその議を思った。竟に直道を以て罷められ、西京国子監を判した。慈聖后が復土するに当たり、陵下で職を庀った。中貴人の至る者旁午し、次舎の帟幕は競って華靡を為した。周は言った、「臣子として喪に執り、苫を寝とし塊を枕することができず、奈何ぞ又従って侈にするや」と。役を訖え、山陵使が功載を第するに、人は皆自ら言ったが、周独り言わなかった。
哲宗が即位すると、召されて職方郎中となった。朝廷が西夏と和議を論じ、侵した土地を与えようとし、ついには蘭州を放棄しようとした。鮮于侁は言った、「隴右の地はもと唃氏の所有であり、常に我が藩籬(防壁)であった。今、唃氏は破滅したが、もしこれを棄てれば、必ず夏人に帰するであろう。彼らはわずかな河南の地をもって、百年にわたり敵対してきた。もし河湟の地をも加えれば、これは吐蕃の地をことごとく得ることになり、秦・蜀の利益ではない。」 結局、放棄は実現しなかった。太常少卿・秘書少監に遷り、直龍図閣を以て陝西転運使となり、再び入朝して太常少卿となり、権工部侍郎に進み、まもなく集賢院学士を以て邠州の知州となり、恩礼は待制の如くであった。鳳翔府・河中府・陝州に移り、崇福宮を提挙し、集賢殿修撰に改めた。卒年八十。紹聖年間に、賀州別駕に追貶されたが、後に旧職に復した。
鮮于侁は小官であった時から、沈黙して自らを隠し、未だに私的に執政を謁見したことはなく、公事があれば、公に中書省に赴いてこれを申し述べた。薛向が三司使であった時、彼を属官に辟召しようとしたが、相見えて、ついに言い出すことができず、退いて嘆いて言った、「この人物は容易に屈しない。」 このために世に遇わなかった。
鮮于侁
鮮于侁、字は子駿、閬州の人である。唐の剣南節度使鮮于叔明の裔孫である。性質は荘重で、学問に力を入れた。進士に挙げられ、江陵右司理参軍となった。慶暦年間、天下が旱魃に見舞われ、詔して直言を求めた。侁は災変の起こる由を推究し、また当世の失を四つ条に分けて述べ、その言葉は切実であった。唐介は同郷であり、その名を上官に称揚し、相次いで上奏して推薦した。侁は左参軍李景陽・枝江県令高汝士の美点を大いに称え、自分に代えて彼らを任用するよう乞うたので、介はますます彼を賢者と思った。黟県令に転じ、婺源県の事務を代行した。奸民の汪氏は富んでいて残忍で、郷里で横暴をふるい、事に坐して法に当たった。群吏が羅列して拝礼して言った、「汪一族は前任の県令を多く陥れてきました。今、これを赦さなければ、後に禍いを残すでしょう。」 侁は怒り、直ちに杖刑に処し、悪党は跡を潜めた。
綿州の通判となった。綿州は蜀の東部に位置し、官吏は貪婪が慣習となり、ついには兵卒に薪炭・秣豆を供出させ、果物や野菜を売って多く利潤を得るまでになっていた。侁は一切これを取らず、郡守以下がこれに倣った。趙抃が蜀を巡察した時、朝廷に推薦したが、用いられる前に終わった。何郯に従って辟召され、永興軍判官を簽書した。万年県令が職務を果たさず、囚人が百人も累積していたので、府が彼を派遣してこれを治めさせたところ、数日で獄を空にした。神宗が詔して直言を求めると、侁は蔡河撥発の職にあり、詔に応じて十六事を陳べ、神宗はその文章を愛した。詔して近臣に知る者を挙げさせると、范鎮が侁を応選させ、利州路転運判官に任じた。
初め、王安石が金陵に居た時、重い名声があり、士大夫は宰相となることを期待していた。侁は彼が虚勢を張って君心を求めることを嫌い、人に語って言った、「この人物を用いれば、必ず天下を壊乱させるであろう。」 この時になって、時政を論じる上書をし、言った、「憂患とすべきことが一つ、嘆息すべきことが二つあり、その他、治体に逆らい民怨を招くことは、一概に挙げられない。」 その意は専ら王安石を指していた。安石は怒り、彼を誹謗中傷した。神宗は言った、「侁には文学があり、用いることができる。」 安石は言った、「陛下はどうしてご存知ですか。」 神宗は言った、「章奏がある。」 安石はついに敢えて言わなかった。初め、助役法が施行され、詔して諸路にそれぞれ役銭の額を定めさせた。利州転運使の李瑜は四十万と定めた。侁はこれと争って言った、「利州は民が貧しく地が痩せている、この半分で足りる。」 瑜は従わず、それぞれその事を上聞した。当時、諸路の役法に関する文書は皆未完成で、神宗は侁の議論を是とし、司農の曾布に諭してこれを式として頒布させた。そこで瑜を罷免し、侁を副使に昇進させ、引き続き常平を提挙させた。管下の民が青苗銭を請けなかったので、安石は官吏を派遣して調査させ、かつ侁に散給しない理由を詰問させた。侁は言った、「青苗の法は、願って取る者に与えるのであり、民が自ら望まないなら、どうして強制できましょうか。」
左蔵庫使の周永懿が利州を守っていたが、貪婪で虐げ、法に従わず、前任の使者はその凶暴を恐れて、敢えて問う者がいなかった。侁は彼を捕らえて獄に械し、衡湘に流罪とし、これにより文臣を以て守とすることへの変更を請い、併せて班行(武官階)の者が県事を領することを改めさせた。管下に居ること凡そ九年、治所は閬中に近く、姻戚が縦横に往来したが、彼らを遇するに私心なく、各々その歓心を得た。蘇軾は、侁が上は法を害せず、中は親を廃せず、下は民を傷つけないと称え、「三難」であるとした。二税の絹綿の納入について、侁は奏上して、民に端数の価値を納めさせることを聴許させた。その後、李元輔という者がいたが、すぐにこれを変えて多く取り立てたので、父老は涙を流して言った、「老運使の法を、どうして改められようか。」 これは侁の甥の師中もこの職に居たので、「老」と称して区別したのである。
京東西路に移った。黄河が澶淵で決壊し、塞がないことを議した。侁は言った、「東州で水が集まるのは二つの濼(沼沢)のみである。夏秋に雨が多ければ、なお溢れて害をなす。もし大河を放任してこれに注がせれば、民は魚となるであろう。」 『議河書』を作ってこれを上奏すると、神宗は嘉納した。後に両路が一つに合併され、侁を転運使とした。
哲宗が即位すると、東国が役に困っていることを思い、呉居厚が搾取して虐害したので、これを流罪とし、再び侁を京東路に派遣した。司馬光が朝廷で言った、「侁の賢さをもってすれば、外任させるべきではない。しかし斉魯の地は、疲弊が甚だしいので、侁を派遣してこれを救わねばならない。どうして侁のような者を百人も得て、天下に布列できようか。」 士民は彼が再び臨むと聞き、慈父母を見るようであった。召されて太常少卿となった。侍従が神宗廟の配享を議論し、王安石・呉充を用いようとする者がいた。侁は言った、「先朝の宰相の賢さにおいて、誰が富弼の右に出ましょうか。」 そこで弼を用いた。左諫議大夫に拝された。
侁は哲宗が幼少であるのを見て、まず君子と小人の消長の理を甚だ詳しく述べた。また言った、「制挙は、誠に士を取る要であり、国朝は特に人材を得た。王安石が権力を握ると、新政を誹謗するのを忌み、遂にその科を廃した。今、俊賢を搜羅し、言路を広く通じさせようとしている。六科の旧制を復すべきである。」 また、大理獄を廃することを乞い、両省・諫官の相互往来を許すこと、特奏名挙人を減らすこと、出官の法を厳しくすること、京東の塩を通商させること、三路の義勇を復して保甲を緩めること、戎州・瀘州の保甲を廃して民力を緩めることなどを上奏し、多く施行された。職に在ること三月、病気を理由に去ることを求めた。集賢殿修撰・陳州知州に任じられた。詔して満一年で待制に進めることとした。居ること暫くして、卒去した。享年六十九。
侁は経術に心を砕き、『詩伝』・『易断』を著し、范鎮・孫甫に推賞された。孫復が『春秋』について論じると、今の学者は彼のようにはできないと言った。詩を作るに平淡で淵く粹であり、特に『楚辞』に長じ、蘇軾が『九誦』を読んで、屈原・宋玉に近いと言い、自ら及ばないとした。
顧臨
顧臨は、字を子敦といい、會稽の人である。経学に通じ、訓詁に長じていた。皇祐年間、説書科に挙げられ、國子監直講となり、館閣校勘・同知禮院に遷った。熙寧初年、神宗は顧臨が兵を論ずることを好むと聞き、詔して『武経要略』を編纂させた。初めは都副承旨に命じて提挙させたが、神宗は顧臨が館職にあることを考慮し、提挙を館幹と改めた。そして顧臨を召して兵事を問うと、顧臨は対えて言った、「兵は仁義を本とし、動静の機は安危の係るところ、軽んずべからざるものであります」と。そこで十事を条陳して献上した。出て権湖南轉運判官、提挙常平となる。議事が執政の意に背いたため、罷免されて帰った。同判武學に改められ、集賢校理・開封府推官に進み、潁州知州を請うた。入朝して吏部郎中・秘書少監となり、直龍圖閣を以て河東轉運使となった。
紹聖初年、龍圖閣學士を以て定州知州となり、應天府・河南府に移った。宦官梁惟簡がかつて宣仁太后に仕えたことで罪に坐り、洛陽を過ぎた時、轉運使郭茂恂が時の宰相の意に従い、顧臨が彼と宴集したことを弾劾し、職を奪って歙州知州とし、さらに黨人に附会したとして、饒州居住に貶斥した。卒去、七十二歳。徽宗が立つと、追復した。
李之純
李之純は、字を端伯といい、滄州無棣の人である。進士に及第した。熙寧年間、度支判官・江西轉運副使となった。御史周尹が廣西提點刑獄許彥先が邕州の吏の金を受け取ったと弾劾し、之純に命じてその端緒を究めさせたところ、それは出婢の口から出たものであった。之純はこれを蕪雑で鄙俗な言葉として、取り調べず、彥先は免れることができた。
成都路轉運使に移った。成都では毎年官米六千石を出し、値段を下げて民に与えていたが、言事者が「民を恵むことは上を損なう」と言い、詔してその議論を下した。之純は言った、「蜀郡の人はこれを頼りに百年生きてきた、どうして一朝にこれを奪えようか」と。事はそこで止んだ。任期が満ちても再び留任され、数歳を経て、ようやく朝に還った。神宗は労って言った、「遠方の地には大吏を頻繁に替えたくない、剣外を安靖にし、年穀を屡々豊かにして、朝廷の遠方を安んずる意を彰わすためである、汝はこれを知っているか」と。右司郎中とし、太僕卿に轉じた。
元祐初年、直龍圖閣を加えられ滄州知州となり、召されて戸部侍郎となった。未だ到着せず、集賢殿修撰・河北都轉運使に改められ、寶文閣待制に進み瀛州知州となった。まもなく直學士を以て成都府知府となり、還って戸部に任じられ、三遷して御史中丞となった。建言して言った、「朝廷の事が六部に下ると、ただ省吏がその前後の批を視て、以て緩急の序を制するのは、これ胥吏が命令を専断する処分である。もし大臣が省みる暇がなければ、列曹の長官・次官にその承るところに随い、当に行うべくんば即ち行い、当に止むべくんば即ち止め、必ず稟して後に決し、文書に拘泥せざるべし。そうすれば吏は権を舞わすことができず、下情が通達するであろう」と。また言った、「衆賢が朝に和すれば、則ち萬物は野に和す。陰陽を調和することは、輔相の職である。近頃、國論が稍々雍睦を欠き、言葉が播伝され、動もすれば観望に関わる、謹しまざるべからず」と。
董敦逸・黃慶基が蘇軾が詞命を託して先帝を毀ったと論じ、蘇轍が名器を私して親しい者に与えたと論じ、いずれも臨司を罷免されたが、之純はその誣罔を疏して、かえって彼らを更に貶黜させた。病のため、工部尚書に改めた。紹聖年間、劉拯が之純が蘇轍に阿附したと弾劾し、出して単州知州とした。卒去、七十五歳。從弟に之儀がいる。
從弟 之儀
之儀は、字を端叔という。及第してからほぼ三十年を経て、ようやく蘇軾に従って定州幕府に入った。樞密院編修官を歴任し、原州通判となった。元符年間、内香薬庫を監った。御史石豫が之儀がかつて蘇軾の辟召に従ったことがあると言い、京官に任ずるべからずとし、詔して勒停させた。徽宗初年、河東常平を提挙した。范純仁の遺表を作り、行状を書いたことで坐し、太平に編管され、遂に姑熟に居住し、久しくして唐州に移り、終に朝請大夫に至った。
之儀は文を作ることができ、特に尺牘に巧みで、蘇軾は「刀筆の三昧に入る」と評した。
王覿
王覿は、字を明叟といい、泰州如皋の人である。進士に及第した。熙寧年間、編修三司令式刪定官となった。久しく職に居ることを好まず、潤州推官を求めた。両浙が旱魃に遭い、郡が吏を遣わして苗の損傷を視察させたが、監司の意向を承けて、多く税を免除しようとしなかった。王覿は檄を受けて覆按し、歎いて言った、「旱勢この如く、民の食は既に絶え、倉を倒して贍わしても、なお克く済わざるを懼れるに、尚お賦を責むべけんや」と。数日行って、全て免除した。監司は怒り、あらゆる口実を探し出した。ちょうど朝廷が使者を遣わして救済貸付を行ったので、王覿は面会を請い、民間の利病を言上した。使者は喜び、帰って王覿を推薦し、司農寺主簿に除し、丞に轉じた。司農寺は当時要職であり、進用される者は多くこの選から出た。王覿は任命を受けて一日で、即ち外任を求め、韓絳はその節義を高く評価し、留めて檢詳三司會計とした。韓絳が潁昌に出ると、辟して簽書判官とした。潤州での公闕(欠勤)の罪で免官となり、累年屏居したが、起用されて太僕丞となり、太常に移った。
哲宗が立つと、呂公著・范純仁が王覿を大任に堪えると推薦し、右正言に抜擢され、司諫に進んだ。上疏して言った、「國家の安危治亂は、大臣に係る。今、執政八人にして、奸邪が半ばを占める、一二の元老をして、どうしてその志を行わしめようか」と。そこで蔡確・章惇・韓縝・張璪が朋党をなして邪し正を害することを極論した。奏章数十回を上り、彼らは相次いで斥け去られた。また呂惠卿を弾劾して流竄させた。朝論は大奸既に黜けられたことを以て、人情の不安を慮り、詔を下して慰撫し解釈し、かつ言事者を止めさせようとした。王覿は言った、「誠にこれが出るならば、恐らく海内の有識の士が、以て朝廷を軽んじて議するを得るであろう。舜は四凶を罪して天下服し、孔子は少正卯を誅して魯國治まる。当の時、人情不安を聞かず、またその黨を悦ばすために命令を下すとも聞かない。そもそも人君の下を御する所以のものは、黜陟の二柄のみである。一の善を陟れば天下の善を為す者勧み、一の悪を黜れば天下の悪を為す者懼れる。どうして悪を為す者の懼れるを以て朝廷も亦之がために懼れんや。誠に陛下の為にこれを惜しむ」と。王覿の言は切直であったが、然しこれを止めることはできなかった。
夏の主君が新たに立ち、中国を軽んずる心あり。覿曰く、「小羌、我が兵を厭うを窺い、故に桀驁此の如し。然れども憂うべき所は、今秋に在らずして異日に在り、謹むべき所は、辺備に在らずして廟謨に在り。翕張取予の権は、必ず持重にして後に可なり」と。洮東にて鬼章を擒え、檻車にて闕下に至る。覿曰く、「老羌、就擒すと雖も、其の子統衆すること旧の如し、疆土種落前より減ぜず、安んぞ遽かに戮して怨を買わんや。宜しく之を洮・岷・秦・雍の間に処し、以て含容好生の徳を示し、其の石交を離れ其の死党を壊すべし」と。又言う、「今民力凋瘵し、辺費極まり無し、深く之が為に計らざるべからず」と。ここに将帥其の人に非ざる者を疏して之を易うるを請い、茶塩の民を害する者を革するを請い、逋債・振贍・賦斂・科須に至るまで、皆其の故を指陳す。
差役法復行さる。覿以爲へらく、「朝廷の意は民を便にするに在るも、議者遂に免役法は一事も用ふる可き無しと謂ふ。夫れ法に新旧無く、惟だ善に従ふのみ」と。因りて数十事を采掇し、差法に助け有りて通行す可き者を上る。遂に青苗の害を論じ、新令を尽く罷め、而して常平旧法を復するを乞ひ、曰く、「聚斂の臣は、惟だ利を罔り自ら媒するを知り、後害を顧みず。国家の尊を以て、而して民と錐刀の利を争はば、何を以て天下に示さん」と。又言ふ、「刑罰は世軽く世重し。熙寧の大臣は、刑罰重からざれば、則ち人憚る所無しと謂ふ。今法令已に行はる、軽きに適するの時なり、願はくは質厚通練の士を択び、載せて芟正を加へよ」と。ここに局を置き編彙し、覿をして預からしむ。大抵皆中典を用ふ、『元祐敕』是れなり。
神宗、唐の制を復し、諫官をして両省に分列せしむ。是に至り、大臣議りて之を外門に徙し、而して其の直舎を制敕院と為す。名は漏泄を防ぐと雖も、実は与に給舎を通ぜしめんと欲せざるなり。覿之を争ひて曰く、「制敕院は、吏舎なり。諫省を奪ひて以て吏舎を広め、胥吏を信じ而して諍臣を疑はば、何の不広を示さんや」と。乃ち果たして徙さず。
覿、言路に在りて、朋党の説を深く破らんと欲す。朱光庭、蘇軾の館職策問を訐り、呂陶其の然らざるを辯す。遂に洛・蜀二党の説を起す。覿言ふ、「軾の辞は、軽重の体を失ふに過ぎず。若し同異を悉く考へ、嫌疑を深く究めば、則ち両岐遂に分かれ、党論滋く熾んず。学士命詞指を失ふは、其の事尚ほ小なり、士大夫に朋党の名有らしむるは、大患なり」と。帝深く之を然りとし、置きて問はず。
尋いで右司員外郎に改め、未だ幾ばくもせず、侍御史・右諫議大夫を拝す。尚書右丞胡宗愈を論ずるに坐し、出でて潤州を知り、直龍図閣を加へられ、蘇州を知る。州に狡吏有り、善く守将の意を刺して以て権を撓ます。前守是を用ひて譏議を得たり。覿其の奸状を窮め、法に置く。一郡肅然たり。民其の政を歌詠し、「吏は水上を行き、人は鏡心に在り」の語有り。江淮発運使に徙り、入りて刑・戸二部侍郎を拝し、豊稷と偕に遼に使し、遼人の礼重せらる。紹聖初め、宝文閣直学士を以て成都府を知る。蜀の地膏腴にして、畝千金、閑田無く以て葬るに、覿侵耕の官地を索め、表して墓田と為す。江水城中を貫きて渠と為す。歳久しく湮塞し、積りて霖潦に苦しみ多く水災有り。覿疏治して故に復し、民之を徳とし、「王公渠」と号す。河陽に徙り、少府少監に貶せられ、分司南京し、又た鼎州団練副使に貶せらる。
徽宗即位し、故職に還り、永興軍を知る。闕を過ぎ、留められて工部侍郎と為り、御史中丞に遷る。改元の詔下る。覿言ふ、「『建中』の名は、『皇極』を取ると雖も、然れども前代の紀号を重ね襲ふは、是れに非ず。宜しく徳宗を以て戒とすべし」と。時に事に任ずる者多く乖異同じからず。覿言ふ、「堯・舜・禹相い授くる一道なり。堯は四凶を去らずして舜之を去り、堯は元凱を挙げずして舜之を挙ぐ。事必ずしも尽く同じからず。文王は豊に邑を作り、武王は鎬を治む。文王は関市征せず、沢梁禁無し。周公は征し而して之を禁ず。其の善く継ぎ善く述ぶるを害せず。神宗は法を前に作り、子孫は後に守るべし。時に異なり事殊なるに至りては、須らく損益すべき者は之を損益し、理に於て固より未だ失有りと為さざるなり」と。国に当たる者其の言を忿り、遂に翰林学士に改む。
日食四月朔に有り。帝詔を下し躬を責む。覿制に当たり、「惟だ徳類に弗く、未だ以て天心に当たるに足らず」の語有り。宰相之を去る。乃ち力めて外を請ふ。龍図閣学士を以て潤州を知り、海州に徙り、太平観を主管するを罷め、遂に臨江軍に安置せらる。
覿は清修簡澹にして、人其の喜慍を見ること莫し。正論を保持して終始し、再び譴逐に罹るも、少も変ぜず。疾無くして卒す。年六十八。紹興初め、龍図閣学士を追復す。從子に俊義有り。
從子 俊義
俊義、字は堯明。京師に遊学し、資用乏し。或ひは之を童貫に薦む。厚く聘せんと欲すも、拒みて答へず。林霊素、宝籙宮に講席を設く。詔して両学に士を選びて道を問はしむ。車駕将に臨視し推恩せんとす。司成俊義及び曹偉を以て詔に応ぜしむ。俊義之を辞す。人曰く、「此れ顕仕の捷逕なり、失ふ可からず」と。俊義曰く、「辞して命を得ず、彼に至りても亦拝せず。倘ひ困辱を見ば、則ち死を以て之に継がん」と。逮ふに講所に至り、御幄に去ること跬歩、内侍姓名を呼ぶこと再に至る。俊義但だ幄を望みて敬礼し、肯て出でず。次に曹偉を呼ぶ。偉首を回す。俊義之を目す。亦出でず。既に罷み、皆之が為に懼る。俊義之を処するに恬然たり。
鄆王先聖を謁す。有司諸生の門迎を議す。俊義曰く、「此れ豈に人臣に施す可けんや。礼は宰相を見るが如くにて足れり」と。乃ち序立して敦化堂の下にす。及び王至るも、猶辞して敢へて当たらず。吏部員外郎に進む。嘗て入対す。帝問ふ、「卿前の親しく擢ける所以を知るや。蓋し主司の意一ならざるを以てなり。是を以て天子自ら文衡を提ぐなり。衛膚敏・呉安国今何れの処にか在る」と。具さに対ふ。即ち召して館職と為し、而して俊義を右司員外郎に遷す。王黼に悪まられ、直秘閣を以て岳州を知る。卒す。年四十七。
俊義は李祁と友善し、首めて正論を宣和の間に建つ。当の是の時、諸公卿稍く善悪邪正を分別するを知るは、両人の力なり。祁、字は肅遠、亦た知名の士なり。官顕れず。
馬默
馬默、字は処厚、単州成武の人。家貧しく、徒歩にて徂徠に詣で石介に従ひ学ぶ。諸生時に以て百数、一旦其の上に出づ。既にして将に帰らんとす。介諸生に語りて曰く、「馬君他日必ず名臣と為らん。宜しく之を山下に送るべし」と。
進士に及第し、臨濮尉に任じられ、須城県知事となった。須城県は鄆州の治所であり、鄆州の役人が法を犯しても捕らえることができなかったが、馬默は府に赴き、役人を客次に連れ出して杖罰を加えたので、府中の者たちは皆驚いた。曹佾が鄆州を守っていたが、内心これを快く思わず、馬默もまた屈服しなかった。後に張方平が知州となったが、彼は元来尊大であり、属官が前に来ても、多くは目を閉じて語らなかった。しかし馬默が事を報告すると、突然目を開いてしばらく熟視し、その言うことをすべて実行し、以後は事を委ねた。治平年間、張方平が翰林に戻ると、馬默を監察御史裏行に推薦し、馬默は事に遇うごとに遠慮なく直言した。張方平は折に触れて親しい者を遣わして戒めて言った、「言うことがあまりに直截すぎる、推薦した者に累を及ぼすことはないか」と。馬默は謝して言った、「知遇の恩が深いことを辱くし、身のための謀りごとを致しません、これが恩に報いる所以です」と。
当時、濮安懿王を尊崇することが議論され、台諫の呂誨らはこれに反対して強く争い、皆外任に補された。馬默は彼らを召し戻すよう請うたが、返答がなかった。そこで上疏して言った、「濮王が陛下をお生みになったことは、誰人知らぬことがありましょう。もし彼を親と称するならば、その義拠はなく、名が正しからざれば、失うところこれより大なるはありません。願わくは宸心より発し、明詔を以てこれを中止され、和気を感召し、七廟の神霊を安んじられませ。これこそ一挙にして衆善これに従うものであります」と。また言った、「治を致す要は、賢を求むるを本とします。仁宗は人を官する権を、すべて輔相に委ねられ、数十年の間、賢にして公なる者は幾ばくもありませんでした。官に進むは、実績によらず、実声によらず、ただ権門に趨れば、必ず顕官を得ました。今、待制以上の者は、祖宗の時の数倍に至り、一の帥臣を謀るに至っては、公議に協う者は十に三四もありません。庶僚の衆は、幾人とも知れず、一たび難事あれば、則ち人を使うべからずと言います。これ才なき者が上にあり、賢と不肖と混淆するに非ずや。願わくは陛下、目を明らかにし聡を達し、務めてその実を究め、歴試してこれを超升し、以て天下を幸せにせられませ」と。
刑部郎中張師顏が諸司庫務を提挙し、不法を糾弾したので、多くの役人は動揺を恐れ、流言飛語を飛ばして彼を陥れた。馬默はその理由を力説し、次のように考えた、「直を悪み正を醜くする者は、実に多く徒党をなしております。今、積年の弊を去り、太平を興さんとすれば、必ず先ず官にその職を挙げさせねばなりません。張師顏を崇め奨励し、忠勤を以て励ますべきです。そうすれば、尸位素餐し口を閉ざす者どもも、勧められることを知るでしょう」と。
西京の会聖宮に仁宗の神御殿を創建しようとした際、馬默は言った、「事が古に師らず、前典の戒めるところであります。漢は諸帝の幸った郡国に廟を立てましたが、礼を知る者はこれを非としました。まして先帝は洛陽に幸せられたことがなく、廟祀を創建するは、実に典則に背きます。願わくは礼を以て節とし、義を以て制とし、急ぎこの役を止め、清静をもって先帝を奉ずる意を顕わされますように」と。ちょうど河東・陝西の郡で地震があり、馬默は陰気が盛んであると考え、辺境の患いとなることを憂慮し、備えるべきだと主張した。数か月後、西夏が果たして侵攻してきた。
神宗が即位すると、欧陽修の件を論じたことで、懐州通判に左遷された。上疏して十事を陳べた、「一には威権を攬む、二には奸佞を察す、三には正人に近づく、四には功罪を明らかにす、五には大費を息む、六には凶年に備う、七には儉素を崇む、八には任使を久しくす、九には守宰を択ぶ、十には辺患を禦ぐ、である。威権を攬めば、則ち天子の勢は重く、大臣安んずる。奸佞を察すれば、則ち忠臣用いられ、小人幸進すること能わず。正人に近づけば、則ち諫諤日々に聞こえ、聖性開明となる。功罪を明らかにすれば、則ち朝廷私なく、天下服す。大費を息めば、則ち公私富み、軍旅積む有り。凶年に備うれば、則ち大恩常に施され、禍乱起こらず。儉素を崇めば、則ち上より下を化し、民樸素となる。任使を久しくすれば、則ち官虚しく授けず、職事挙がる。守宰を択べば、則ち庶績成る有り、民賜を受く。辺患を禦げば、則ち四遠畏服し、中国強し」と。
曹州知事に転じ、召されて三司塩鉄判官となった。馬默が富弼と親しく、かつ新法の不便を論じたため、済州・兗州の二州知事として出された。戻って、三司帳司を提挙した。神宗に用兵の形勢を論じ、河北の山川道里を指画して説明すると、応対は流れるようであった。神宗は喜び、彼を用いようとしたが、大臣たちはますます快く思わず、京東刑獄提点に任じた。
馬默の性格は剛直厳格で悪を憎み、配下の役人には風聞を聞いて辞表を投げて去る者もいた。金郷県令は賄賂で有名であったが、その父がちょうど執政の地位にあったので、手紙を送って言った、「馬公は元来剛直である、汝に過ちあれば、免れぬであろう」と。県令は恐れ、不義の物をすべて取り出して焼き捨てた。広西転運使に改任され、ちょうど安化などの蛮が凶作で内寇したので、馬默は平蛮の方略を上奏し、次のように考えた、「勝負は兵に在らずして将に在る。富良で敵が夜遁したのは、郭逵が怯懦であったから。邕城が陥落したのは、蘇緘が老謬であったから。帰仁鋪で軍が覆ったのは、陳曙が先に走ったから。崑崙関で師を喪ったのは、張守節が戦わなかったから。儂智高が破亡したのは、狄青の智勇による。欧希範が誅滅されたのは、杜杞の方略による。これ足らざるを験す」と。
病気を理由に帰還を求め、徐州知事となった。属城の利国監は呉居厚の虐政に苦しんでいたが、馬默はこれをすべて改めた。召されて司農少卿となった。司馬光が宰相となり、祖宗の法をすべて修復しようとし、郷差衙前法を復活させることについて馬默に問うた。馬默は言った、「不可です。例えば常平法は、漢以来の良法であり、どうしてすべて廃すべきでしょうか。民を害するものを除くべきです」と。その後、役法は一州一県ごとの法として立てられ、常平提挙官は提刑司に統合されたが、これはかなり馬默の発言に由来する。河東転運使に任じられた。当時、葭蘆・呉堡の二砦を放棄することが議論されたが、馬默は険阻を控扼し、敵が攻め難いと上奏し、放棄するは不便であるとした。これにより二砦は放棄されずに済んだ。兗州に移り、石介の子孫を褒め録用するよう請うたので、詔によりその孫に官が与えられた。東州で凶作が続き、流民が大いに集まったが、救済して生かした者は数万に及んだ。召されて衛尉卿に任じられ、権工部侍郎を経て戸部侍郎に転じた。老齢を理由に退官を請い、宝文閣待制として再び徐州知事となり、河北都転運使に改任された。
初め、元豊年間に黄河が小呉で決壊し、その後塞がず、そのまま北流させていた。元祐の議臣は東流が便利であると考え、水官もこれに同意した。馬默は同時の監司とともに上議し、北流が便利であるとした。御史の郭知章が再び東流に従うよう請うたので、東西の馬頭を築き、水を旧道に戻そうと約束し、黄河の北流を塞ぐ長堤を築いたが、労費は甚だ大きかった。翌年、再び決壊して北流し、ついに東流させることはできなかった。
論ずるに、《詩経》に云う、「時に争い無く、王の心載せて寧し」と。王安石が相たりしは、天下の争いを致すと謂え、而して君の心寧からざらしむ。孫覚・李常は力を尽くして新法を諫め、寧ろ故人の意を失うとも、毅然として之を去りて悔い無し、賢なるかな。孔文仲が制科の策を為し、微官を以て慷慨として事を論じ、言は聴かれざるも、而して名は上聴に徹す。安石は既に其人を斥け、又其の科を廃す、何ぞ怒りを遷すこと甚だしきや。鮮于侁は早く安石の事を敗るを識り、呂誨と共に幾先を見る。馬默は張方平の薦めを用いて御史と為り、言を尽くして諱らざるに至り、方平之を止むるも聴かず、是れ知己に負かざるなり。李周の耿介、顧臨の兵を用うる、李之純・王覿の再び黜せられて其の正を改めざるも、亦以て一時の多賢なるを足らしむるなり。