梁燾
梁燾、字は況之、鄆州須城の人。父は蒨、兵部員外郎・直史館。燾は蒨の任子として太廟齋郎となる。進士に挙げられて及第し、秘閣書籍を編校し、集賢校理に遷り、明州を通判し、枢密五房文字を検詳す。
元豊の時、久しく旱魃あり、上書して時政を論じて曰く、
「陛下、日ごろ雨を閔み、政事の闕を靖惟し、惕然として自ら責む。丁卯に詔を発し、癸酉にして雨降る。是れ上天、陛下の徳言を顧聴し、其の民に及ぼすの意有るを喜びたまうなり。四方、雨を仰ぐこと十月の久しきに当たり、民は新法に刻まれ、嗷嗷として焦がるが如く、而して京師は尤も甚だしく、闤闠の細民、職を失わざるは無く、智愚相視て、日に大変の憂い有り。陛下既に詔旨を以て恵み、又之を行事に施し、刻文を講除し、緡錢等を蠲損す。一日の間、歓声四起す。誕節を距つこと三日にして膏沢降る。是れ天、雨を以て陛下の万年を寿ぎ、聖心を大悟に感ぜしめ、以て其の仁政を還す有らしむるなり。
然れども法令乖戾、民に毒を為す者は、変ずる所纔かに能く万一なり。人心の解かざるを以て、故に天意も亦未だ釈せず、而して雨再び施さず。陛下も亦此を以て戒と為し、夙夜之を慮るか。今陛下の知る所は、市易の事のみ。法の害を為すは、豈に此に特ならんや。曰く青苗錢なり、助役錢なり、方田なり、保甲なり、淤田なり。是れ数者を兼ねて、天下の民其の害を被る。青苗の錢未だ一たび償に及ばずして、免役を責められ、免役の錢未だ暇あって入らずして、重ねて淤田を以てし、淤田方に下りて、復た方田有り、方田未だ息まずして、保甲を以て迫る。是れ徒らに百姓を擾し、聖沢に少しく休むことを得ざらしむ。其の害を為すの実、一たび之を言う者有りと雖も、必ず以て主吏の下に下し、主吏妄りに是れ無しと報じて、則ち従って之を信じ、恬として復た問わず、而して反って言者を坐す。間使を遣わして循行すと雖も、苟且に寵祿を為し、巧みに妄誕を為し、其の事を成就し、遍く其の法を行わんことを請うに至る。上下相隠し、習いて風を成す。
臣謂う、天下の患は、禍乱の去るべからざるを患えず、朋党蔽蒙の俗成り、上聞くべき所を聞くを得ざらしむるを患う。故に政日以て敝れ、而して禍乱卒に至るなり。陛下豈に其の故を深く思わざるべけんや」と。
疏入るも、報いず。
内侍王中正、兵を将いて疆に出で、賞を干るに法を以てせず。燾之を争うも得ず、外を請い、出でて宣州を知る。入りて辞す。神宗曰く、「枢臣云う、卿職を安んぜずと。何ぞや」と。対えて曰く、「臣官に居ること五年、敢えて職を安んぜずとせず。任使に勝えざるを恐るるが故に、去るのみ」と。神宗曰く、「王中正の功賞文書、何ぞ独り不可ならん」と。曰く、「中正罔冒僥覬す。臣法を屈して以て陛下に負うことを敢えず」と。未だ幾ばくもせず、京西刑獄を提点す。哲宗立ち、召されて工部郎中と為り、太常少卿・右諫議大夫に遷る。宣仁后の文徳殿に御し袞冕を服して冊を受くべしと請う者有り。燾同列を率いて諫め、薛奎の章献明肅皇后王服を以て太廟に見ゆべからざるを諫めし事を引き、宣仁后欣んで納る。又市易已に廃せられしを論じ、中下戸の逋負を蠲すを乞い、又青苗を欠く下戸、保人をして備償せしむべからざるを乞う。
文彦博、劉奉世を遣わして夏国に使わすを議す。御史張舜民其の遣わすべからざるを論じ、通判虢州に降す。燾言う、「御史は紀綱を持するの官、以て顔を犯し正論すべきを得。況んや臣下の過失、安んぞ畏忌して言わざるを得んや。今御史敢えて大臣を言うは、天下の公議なり。大臣御史を快とせざるは、一夫の私心なり。天下敢えて言うの公議を罪し、一夫快とせざるの私心を便にすは、公朝の盛事に非ざるなり」と。時に同く論ずる者傅堯俞・王巖叟・朱光庭・王覿・孫升・韓川、凡そ七人、悉く都堂に召し至り、敕諭して「事其の軽重を権うべし。故に惜しまず一新進の御史を以て老臣を慰む」とす。燾又言う、「若し年齢爵祿を論ずれば、則ち老臣重し。若し法度綱紀を論ずれば、則ち老臣軽し。御史は、天子の法官なり。大臣の鞅鞅を以て斥け去るべからず。願わくは舜民を還し、以て国体を正せ」と。章十上るも、聴かず。
燾又面して給事中張問を責め、舜民の制命を駁還する能わざるを以て、失職と為す。同列を詬うに坐し、出でて集賢殿修撰・潞州知事と為る。辞して拝せず、曰く、「臣本より張舜民罷むべからざるを論ず。若し非と為すと以為わば、即ち応に此を用いて斥けらるべし。今乃ち微罪を以て美職を冒し、劇郡を守ることを得。此くの如くんば則ち朝廷の命令、能く曲直を明弁せず、以て好悪を天下に示すなり」と。報いず。潞に至り、歳飢に値う。命を待たずして常平粟を発し民を振う。流人之を聞き、来る者絶えず。燾之を処すること条有り、人病を告げず。
明年、左諫議大夫を以て召さる。甫く道に就くや、民轅に攀じて行くを得ず、太行を逾え、河内に抵りて乃ち已む。既に対し、上書して言う、「帝春秋に富み、未だ宸断に専らせず。太皇聖主を保佑し、政を制すること簾帷、姦人欺蔽を為し易し。願わくは綱紀を正し、法度を明らかにし、忠言を用い、仁術を講求せよ」と。両宮嘉納す。
前宰相蔡確詩を作りて怨謗す。燾と劉安世交わりて之を攻む。燾又言う、「方今確に忠なる者は、朝廷に忠なるの士より多し。敢えて奸言を為す者は、敢えて正論を為すの人より多し。此を以て確の気焰凶赫、根株牽連し、化を賊い政を害し、患を為す滋だ大なるを見る」と。確遂に新州に竄る。燾御史中丞に進む。鄧潤甫吏部尚書を除かる。燾潤甫の柔佞立たず、巧みに進取を為すを論ず。聴かず。権戸部尚書に改めらる。拝せず。龍図閣直学士を以て鄭州を知る。旬日、入りて権礼部尚書と為り、翰林学士と為る。
元祐七年、尚書右丞を拝し、左丞に転ず。蔡京蜀を帥く。燾曰く、「元豊の侍従、用うべき者多し。惟だ京軽険貪愎、用うべからず」と。又同列と夏国の地界を議し、合う能わず、遂に去るを丐う。哲宗近臣を遣わして以て去るの意を問わしめ、且つ令して密に人才を訪わしむ。燾曰く、「信任篤からず、言聴かれず、而して人才を詢問す。臣の敢えて当つ所に非ざるなり」と。使者再び至る。乃ち言う、「人才大任に可き者は、陛下自ら之を知る。但だ須らく邪正を識別し、天下の善悪を公にし、旧人中堅正純厚人望有る者を図任し、左右の好悪の言を牽いて聖意を移すことなからしむ。天下幸甚なり」と。
燾は朝に立つや、一貫して人物を引き上げることを意とした。鄂州で『薦士録』を作り、姓名を詳しく載せた。客がその書を見て言うには、「公が植えた桃李は、時に乗じて発するが、ただ人に向かって開かないだけです」と。燾は笑って言った、「燾は出入りして侍従となり、ついに執政の位に至るまで、八年の間に推薦した者は、用い尽くされず、愧ずかしいことが多い」と。その賢を好み善を楽しむこと、このようであった。
王巖叟
熙寧年中、韓琦が北京留守となり、賢と認めて管勾国子監に辟し、また管勾安撫司機宜文字に辟し、晋州折博・煉塩務を監させた。韓絳が琦に代わると、再び留用しようとした。巖叟は謝して言った、「巖叟は魏公(韓琦)の客であり、他の門を出ることを願いません」と。士君子はこれを称えた。後に定州安喜県知事となる。法吏で罷免されて郷里に居る者がおり、人を導いて訴訟を起こさせた。巖叟はこれを捕らえて市中で鞭打ち、衆は皆竦然とした。定州守の呂公著は歎じて言った、「これは古の良吏である」と。詔して近臣に御史を挙げさせた。挙者は巖叟を意に属したがまだ面識がなく、ある者が一度会いに行くべきだと言った。巖叟は笑って言った、「これぞいわゆる呈身御史というものだ」と。ついに会わなかった。
哲宗が即位し、劉摯の推薦により、監察御史となる。当時六察はまだ言事をしていなかったが、巖叟が御史台に入った翌日、早速上書して社稷の安危の計は、諫言に従い賢者を用いることにあり、小さな利益のために民心を失ってはならないと論じた。そこで役銭の徴収法が重すぎて民力が堪えず、嘉祐の時の如く差法に復することを願うと述べた。また河北の榷塩法がまだ行われており、民がその弊を受け、貧者はもはや食さないとも言った。大名の刻石『仁宗詔書』を書き写して進呈し、また河北は天下の根本であり、祖宗以来、ここに恩恵を推し及ぼしてきたと述べ、旧に復することを願った。
江西の塩が民を害しているため、詔して使者を遣わして視察させた。巖叟は言った、「一方の民が病んでいる。必ず使者の帰還を待ってから改めるのでは、恩沢に浴さずして死ぬ者があるかもしれない。願わくは速やかにこれを罷めよ」と。また時事を極力陳べて、「害の根本を絶たなければ、百姓は楽しく生きる由がない。群邪を退けなければ、太平はついに難い」と論じた。時に詔して民の疾苦を求めると、四方から争ってその実情を訴え出たが、所司は記録を省みるのを憚り、かなり滞った。巖叟は言った、「問わなければそれまでだが、言わせた以上は必ず実行すべきである。そうでなければ、天下の人は必ず陛下が空言で説いたと言い、後の詔令を誰が信じ取るだろうか」と。李定が生母の仇氏の喪服を着けなかったことについて、巖叟はその不孝を論じ、定はついに分司となった。
宰相の蔡確が裕陵(神宗陵)の復土使となり、朝廷に戻って、定策の功を自らに帰した。巖叟は言った、「陛下の即位は、子が父を継ぐものであり、百王の変えざる道である。しかも太皇太后が先に内で定められたのに、確が敢えて天の功を貪って自ら誇る。章惇は讒賊で狼戾であり、上を罔き明を蔽い、不忠の罪は確と等しい。近ごろ簾前で役法を争い、詞気が遜らず、上に事える礼がない。今、聖政は房闥(内廷)より出でず、どうしてこのような大奸がまだ廊廟にいるのを容認できようか」と。そこで二人は相次いで退け斥けられた。
左司諫兼権給事中に遷る。時に執政を並べて任命したが、その中に時望に協わない者がいた。巖叟は直ちに録黄を返上し、上疏して諫めた。やがて命令が門下省を経由せずに出されたので、巖叟は対を請い、ますます切にこれを言った。退出して閣で上疏して言った、「臣は諫官として言うべきであり、給事中を承乏してまた駁すべきである。臣が高論を好み、大臣に逆らうことを喜ぶのではなく、命令が斜めに出ることを恐れ、特に紀綱を損なうからである」と。疏を合わせて八度上し、命令はついに止んだ。また言った、「三省の胥吏は、月に厚い俸を受け、年ごとに優れた官位を積み重ねている。しかし朝廷が一事を挙げるごとに、功を計り賞を論じる。平素の禄賜を、いったい何に用いるのか。姑息が相承し、流弊は極まっている。願わくは大臣を戒め励まし、事に制を為させよ」と。即座に詔して僥倖を裁抑し、十七条に定めた。
侍御史に遷る。両省の正言が久しく欠員であった。巖叟は上疏して言った、「国朝は近古の制に倣い、諫臣はわずか六員に至る。先王に比べれば、すでに最も少ない。今また空位のまま除かず、臣の理解しがたいところである。治道がすでに清く、言うべきことがないと考えるのか。人材が称え難く、その位を空にしておく方が良いのか。いずれも臣が今日に望むところではない。願わくはその欠員を補うことを急ぎ、多く正人を進用して本朝を壮んにせよ。正人が進めば、小人は自ずから消えるであろう」と。
諸路に水害があり、朝廷は賑貸を行ったが、戸部は災傷が七分を超え、民戸が四等以下に降った場合にのみ許すと制限した。巖叟は言った、「中戸以上も、やはり食に苦しんでいる。分数・等級を問わず、皆に貸すことを乞う。そうすれば王沢に隔てなく、至和を招くであろう」と。張舜民の事に連座し、起居舎人に改められるが、拝せず、直集賢院として斉州知事となる。河北で言った塩法を、京東で行うよう請うた。翌年、再び起居舎人として召される。邇英殿の講筵に侍し、『宝訓』を進読した。節費の条に至ると、巖叟は言った、「凡そ節用を言うのは、たまたま一事を節しただけで済むものではない。毎事に節倹を意とすべきであり、そうすれば積もり重なって日を経るうちに、国用は自ずから豊かになる」と。仁宗が人事を知る条を読むと、巖叟は言った、「人主は常に虚心平意で、偏り係わることなく、理をもって事を観るべきである。そうすれば事の是非、人の邪正は、自然に見えるであろう」と。
司馬康が『洪範』を講じ、「乂用三徳」に至ると、哲宗は言った、「ただこの三徳のみか、さらに徳があるのか」と。そもそも哲宗は臨御して以来、深く沈黙して語らず、巌叟はこれを聞いて喜び、風諫をしようと思い、退いて上疏した、「三徳とは、人君の大本であり、これを得れば治まり、これを失えば乱れ、須臾も去るべからざるものである。臣は別にこれを述べたい。朝廷の上で是非を明らかにし、多士の間で忠邪を判じ、己に順うがゆえにその悪を忘れず、己に逆らうがゆえにその善を遺さず、私的な求めは愛する者に従わず、公議は憎む者に移さない。誠を尽くし節を尽くす者は、任用して二心なく、上を欺き寵を盗む者は、棄てて疑わない。紀綱を惜しみ、法度を謹み、典刑を重んじ、姑息を戒める、これが人主の正直である。声色の好みを遠ざけ、盤游の楽しみを絶ち、天下の弊を救うに勇み、天下の疑を断つに果敢で、邪説も移さず、非道も説かず、これが人主の剛徳である。万乗の尊に居ながら驕らず、四海の富を享けながら溢れず、聡明は余るがこれを処するに不足のごとくし、俊傑を並用しながらこれを求めるに及ばざるがごとくし、虚心に道を訪ね、己を屈して諫に従い、淵に臨むがごとく懼れ、薄氷を踏むがごとく怯える、これが人主の柔徳である。この三つは以て天下の要を尽くすに足り、陛下が力行する如何にあるのみである」と。巌叟は侍講に因って奏した、「陛下は退朝して事なく、何を以て日を消すか知らざるなり」と。哲宗は言った、「文字を見る」と。対えて言った、「陛下が読書を楽しみとされるは、天下の幸いである。聖賢の学は、造次に成すべからず、積累に在るべし。積累の要は、専と勤に在り。他の好みを屏絶して、始めて専と謂うべく、久しくして倦まず、始めて勤と謂うべし。願わくは陛下特に聖意を留められんことを」と。哲宗はこれを然とした。
巌叟は遼の賀正旦使耶律寛を館伴し、寛は『元会儀』の観覧を求めたが、巌叟は言った、「これは外国の知るべきに非ず」と。ただ『笏記』を録してこれに与え、寛は敢えて求めなかった。権吏部侍郎・天章閣待制・枢密都承旨に進んだ。湖北の諸蛮が互いに出でて辺境を擾し、寧歳無く、巌叟は専ら疆事を荊南の唐義問に委ねるよう請うた。遂に自ら檄文を草し、朝廷が方や恩信を敦尚し、僥倖の功賞を為す意無きことを義問に諭し、後遂に安輯した。
初め、夏人は使を遣わして入貢し、及び境上の議の為に、故に此れ去り彼れ来たりと為し、牽致して労苦を致し、毎に期日に違う。巌叟は予め辺臣を戒め、夏が期に違え、一たび至らざれば則ち復た応ぜざるよう請うた。自ら後は復た敢えて違わず。質孤・勝如の二堡は、漢の趙充国が留屯した所であり、元祐の講和より、蘭州の界内に在り、夏は形勝膏腴の地と為し、力を争う。二堡もし失えば、則ち蘭州・熙河遂に危うし。延帥は二堡を夏に与えんと欲し、蘇轍はその議を主とした。及び熙河・延安の二捷が同報され、轍は奏した、「近辺の奏稍々頻繁なり、西人の意は二堡を得るに在り。今盛夏にして猶お此の如し、入秋は虞るべし、早く議を定めざるに若かず」と。意はこれを与えるに在り。巌叟は言った、「形勢の地、豈に軽く棄つべけんや、既に与えて、還って更に求めざるか知らず」と。太皇太后は言った、「然り」と。議遂に止む。
夏人数万が定西の東・通遠の北を侵し、七厓巉堡を壊し、居人を掠め、転じて涇原及び河外の鄜・府州を侵し、衆遂に十万に至る。熙帥范育は偵伺して夏の右廂種落が大抵河外に趣くを探り、三たび疏を上して此れに乗じて堡砦を進め、龕谷・勝如・相照・定西を築きて東に隴諾城に径るよう請うた。朝議未だ一ならず、或いは七巉の経毀の地を皆以て夏に与えんと欲す。巌叟は力言して与うべからず、彼の計得て行わば、後患未だ已まずと。因りて官を遣わして熙帥を諭すよう請い、即ち戸部員外郎穆衍を行視せしめ、要害を拠するに定遠を築かしむ。その兵を調べ資費するは、一に便宜に従い、必ずしも中覆せず。定遠遂に城す、皆巌叟の力なり。
中書舎人に拝す。滕甫が太原を帥とし、走馬承受に撼かれて、潁昌に徙る。巌叟は詞頭を封還し、言う、「帥臣を進退するは、理重慎を宜しくす。今小臣の一言を以てこれを易う、後人をして畏憚して自ら保たざらしむ、この風浸長すれば、委任安辺の福に非ず」と。乃ち止む。
復た枢密都承旨・権知開封府と為る。旧く推・判官二人を以て左右庁を分ち、一事を共に治むるも、多く異同を為し、或いは累日竟わず、吏は咨稟に疲る。巌叟は逐官分治の法を創立し、自ら是より令と為す。都城の群偷の聚まる所、「大房」と謂い、毎区数十百人を容れ、淵藪詭僻、勝げて究むべからず。巌叟は掩捕撤毀を令し、軽重に随ってこれを決し、根株一空と為す。供備庫使曹続は産を以て万緡を貿い、市儈逾年その半を負い、続は尽力すれども取るべからず。一日戸を啓けば、則ち負う所皆在り。驚きてその故を叩けば、儈曰く、「王公今日知府と為るなり」と。初め、曹氏の隷韓絢、同じ隷と訟え、事その主に連なり、就逮す。曹氏は、慈聖后の族なり。巌叟言う、「部曲相訟うるは、その主を論ずべからず。今ただ告訐の風を長ずるのみならず、且つ孝治を傷つく。慈聖仙遊未だ遠からず、一旦廝役の過に因り、その子孫をして吏に対せしむ、殆ど聖情に忍びざる所有らん」と。詔して絢を竄し、その獄を絶つ。巌叟常に謂う、「天下の積欠多く名有り、催免一ならず、公私費擾す、等第の多寡に随って催法と為さんことを乞う」と。朝廷乃ち五年十科の令を定む。
元祐六年、枢密直学士・簽書院事に拝す。入謝し、太皇太后曰く、「卿の才望を知り、次を超えて用う」と。巌叟又再拝謝し、進みて曰く、「太后聴政以来、諫を納れ善に従い、務めて人心に合わす、以て朝廷清明、天下安静なる所以なり。願わくはこれを信じて疑わず、これを守って失わざらんことを」と。復た少しく進みて西に、哲宗に奏して曰く、「陛下今日の聖学、当に深く邪正を弁すべし。正人朝に在れば則ち朝廷安んじ、邪人一たび進めば便ち安からざるの象有り。一夫能く然るを謂うに非ず、その類応ずる者衆く、上下蔽蒙し、覚えず禍胎を養成するが故なり」と。又進みて曰く、「或いは君子小人参用の説を以て陛下に告ぐる者有りと聞く、果たしてこれ有るか知らずや?これは深く陛下を誤るなり。古より君子小人、参用の理無し。聖人はただ云う、君子内に在り、小人外に在れば則ち泰なり、小人内に在り、君子外に在れば則ち否なりと。小人既に進めば、君子必ず類を引いて去らん。もし君子と小人競いて進まば、則ち危亡の基なり。この際察せざるべからず」と。両宮深くこれを然とした。
上清儲祥宮成る。太皇太后、輔臣に謂いて曰く、「これと皇帝は皆閣中の物を出してこれを営み、以て先帝の志を成す」と。巌叟曰く、「陛下公を煩わさず、民を労せず、真に盛徳の事なり。然れども願わくは自今より土木を戒めと為さんことを」と。又以って宮成って将に赦を肆わんとす。巌叟曰く、「昔天禧中、祥源成る。治平中、醴泉成る。皆未だ嘗て赦せず。古人に垂死して君に諫めて赦無き者有り、これ赦の聖治に益無きを見るべし」と。
哲宗が后を選ばんとする時、太皇太后は言う、「今狄諮の女を得たり、年齢も似つかわしきようであるが、然れどもこれは庶出の過房(養子縁組)にて、事を評議すべし」と。巌叟進みて曰く、「『礼経・問名篇』に拠れば、女家の答へに『臣が女は、夫婦の生む所なり』及び外氏の官諱を記すとあり、今狄氏は何の辞を以て進まんとするや知らず」と。議は遂に止む。哲宗の后選び定まりて後、太皇太后は言う、「帝賢后を得て、内助の功有り、小事に非ず」と。巌叟対えて曰く、「内助は后の事と雖も、其の家を正すは須らく皇帝に在り。聖人の言に『家を正して天下を得る』と。始めに之を慎むべし」と。太皇太后は是を以て哲宗に語ること再びす。巌叟退きて歴代の后事に法とすべきものを取り、類して『中宮懿範』と為し上る。
宰相劉摯・右丞蘇轍は人言を以て避位を求めし時、巌叟曰く、「元祐の初め、姦邪を排斥し、聖治を緝熙するに、摯と轍の功最も多し。元より讒毀の意を深く察し、腹心の人を重く惜しみ、其の去就を軽んずる無かれ」と。両宮之を然りとす。後に摯竟に御史鄭雍の撃つ所と為り、巌叟連ねて疏を上げ論じて救う。摯位を去り、御史遂に之を党と指し、端明殿学士・鄭州知事に罷む。言者猶未だ厭わず、太皇太后曰く、「巌叟大功有り、今日の命は、出でて已むを得ざるのみ」と。
明年、河陽に移り、数月にして卒す、年五十一。左正議大夫を贈る。紹聖初め、追貶して雷州別駕と為す。司馬光は其の進諫に隠す所無きを以て、之を称して曰く、「吾は寒心栗歯し、憂ひは不測に在り、公は之を処するに自ら如し、再三に至り、或いは十数章を累ね、必ず其の言を行ひて後に已む」と。文を為すに語は省にして理は該はり、深く制誥の体を得たり。『易』・『詩』・『春秋伝』有りて世に行わる。
鄭雍
鄭雍、字は公肅、襄邑の人なり。進士甲科に及第し、兗州推官に調ず。韓琦其の文を上ぐ、召して試みられ秘閣校理・太常礼院知事と為る。英宗の喪に当たり、宗室は嫁娶すべからざるを論じ、時相に忤り、峡州通判・池州知事と為り、復た太常礼院に還り、開封府判官を歴任す。
熙寧・元豊の間、制を更め令を変ふるに、士大夫多くは己を違へて以て合はんと求むるも、雍独り静黙自ら守る。嘉王・岐王府記室参軍に改む。神宗末年、二王既に長ずるも、猶禁中に居るに、雍四箴を献じ規戒し、且つ諷して外邸に出るを求めしむ。凡そ邸に在ること七年、久次を用ひ、以て転運使の秩を留む。宣仁后其の賢を知り、政に臨むに及び、起居郎に擢でられ、中書舎人に進む。
鄧潤甫が翰林承旨を除かるるに、雍制を当つ。制未だ出でざるに、言事者五人交はり章を上げて之を攻む、換へて侍読学士と為す。雍言ふ、「二職皆天下の精選、潤甫の過薄きを以て、前命を革むべからず。以て姦邪と為すを以て、経幄に在るべからず。今中外咸に朝廷姑く是を以て言者を塞ぐと謂ふ、此くの如くせば則ち邪正何に由りてか弁ぜられん、善悪何に由りてか明らかにせられん。若し毎事必ず言を待たば、是れ賞罰の柄、已むを得ずして行ふに非ず、以て天下に信を示すの道に非ず」と。潤甫仍って承旨と為る。周穜乞うて王安石を以て神宗廟に配享せしむるに、雍言ふ、「安石国政を持す、上副属任する能はず、先帝の神明に非ざれば、遠くして用ひざるも、則ち其の敗壊する所、勝げて言はんや。今穜小臣を以て輒く横議を肆はす、願はくは其の罪を正せ」と。之に従ふ。
契丹に使いして還り、右諫議大夫に徙り、言ふ、「朝廷は内を重んじ外を軽んじ、牧伯を選用するに、罕に従班を輟み、閥閲軽浅なる者を以て員を充し、復た来日の慮りを為さず。願はくは今より稍く資望を積み、以て漸く之を試みしめよ」と。呉中大饑し、方に振恤を議するに、民の欺誕に習ふを以て、本部に料検せしめ、家より戸に到るを敕す。雍言ふ、「此の令一たび布かば、吏専ら民を料りて災を救はず、民皆饑に死せん。今四海に富み有り、奈何ぞ圭撮の濫を謹みて、比屋の死を軽んずるや」と。哲宗悟り、追ひて之を止む。
侍御史賈易は沽激自ら喜び、中丞趙彦若は懦くして自ら立たず、雍並びに之を論じ、遂に易を罷め、彦若を左転し、雍を以て中丞と為す。雍辞して曰く、「中丞臣の言を以て去りて身其の乏を承く、以て風俗を厚くする所以に非ず」と。許さず。時に二府の禁謁加ふるに厳しく、雍歎じて曰く、「旁く俊乂を招き、庶位に列ねるは、百揆の職を宅むるなり。彼に足公卿の門に及ばざる者有らば、猶当に物色して之を致すべく、奈何ぞ禁を設くること是の如くせんや。且つ二府皆天子の改容して体貌する所の者なり、乃ち復た其の私を防閒すること此の如くせんや」と。是に於て賈誼の廉恥節行の説を援げて以て諫め、詔して其の禁を弛む。
刑部囚を讞す、宰執之を殺すを論ず、有司は生く可しと為し、詔を奉ぜず、罪を得たり。雍言ふ、「是れ固より罪す可しと雖も、然れども其の用心を究むれば、広く好生の徳に在るのみ。若し遽かに以て罪と為さば、臣恐らくは嗜殺に隣る。今有司殺さんと欲して朝廷之を生かすも、猶恐らくは仁恩徳意天下に白からず、而るに況んや是に反する者をや」と。哲宗嘉納し、囚遂に生くを得たり。
初め、邢恕書を以て宰相劉摯に抵る、摯之に答え、『自愛して休復を俟つ』の語有り、排岸司茹東濟書を録して雍と殿中侍御史楊畏に示す、雍・畏其の語を釈して曰く、「『休復を俟つ』とは、他日太后の復辟を俟つなり」と。遂に並びに此の事を以て摯の威福自ら恣にするを論じ、乞うて之を罷め以て主柄を収めしむ。又王巌叟・朱光庭・梁燾等三十人皆摯の党なるを論じ、以て其の援を閉ざす。及び摯出でて鄆州を知るに及び、光庭方に給事中と為り、摯の麻詞を繳還し、巌叟・燾力を以て之を救ふも、哲宗先入の言を以て、納れず。雍の摯を攻むる、人以為く左相呂大防に附するなりと。又摯の陰事を暴かんと請ふ者有り、雍曰く、「吾国為に宰相を撃つ、摯を仇とせるに非ず。彼の陰事、何ぞ国に有らんや」と。置きて以て聞かしめず。
孫永
河北・陝西都転運使を歴任した。当時、辺境の費用が不足し、解塩・市馬を別に一司とし、外台は関与できなかった。孫永は上奏して言った、「塩・馬は国家の大計であり、主管者にその権柄を専らさせ、統轄するものがなければ、もし非法を行えば、誰がこれを制することができましょうか」と。
龍図閣直学士を加えられ、秦州知州となった。王韶が布衣の身分で幕府に入り、熙河を取る策を建てたが、孫永はこれを論破して言った、「辺境は今まさに安静であり、理由なく騒動を起こせば、不測の変が生ずる恐れがあります」と。ちょうど新たに築いた劉家堡が失敗し、衆人は偏裨を誅戮して責任を塞ごうと請うた。孫永は言った、「敵の必争の地に居り、軍は孤にして援絶えている、これは兵法にいう守るべからざる所である。人を責めて自らを免れようとするのは、我々にとって安んずべきことか」と。結局このことで天章閣待制に降格され、和州知州となり、詳定編敕を以て審官東院知事として召還された。神宗が問うた、「青苗・助役の法は、民に便であるか」と。答えて言った、「法は誠に善いものですが、民に強いて利息を出させ銭を納めて徭役に代えさせるのは、重い徴収の患いが無いとは言えません。もし経費を賄うために用いるならば、臣の知るところではありません」と。当時、倉法は峻密で、庾吏が百銭を受け取れば、黥して兵卒とし、府史も同様であった。神宗がまた問うた、「この法が下った後も、吏はなお奸を行うか」と。答えて言った、「強盗は死罪であるが、犯す者はなお多い、ましてや配流の刑ではどうでしょうか。人をして法を畏れて心を改めさせぬならば、府史であっても、臣は必ず犯さないとは言えません」と。肉刑を復活させる議論があり、事が孫永に下された。孫永は上奏して言った、「人の肌膚を刻むことは、仁政を深く害し、漢の文帝が忍ばれなかったことを、陛下は忍ばれますか」と。神宗は言った、「事は固より未決であり、卿を待って始めて定まるのだ」と。果たして行われなかった。
学士に復し、瀛州知州となった。黄河が決壊し、貝・瀛・冀で特に甚だしく、民租が災害により免除されるべきところ、州県は常平法を懼れ、従来通り徴収・催促した。孫永は連章して論じて止めさせ、神宗はこれに従い、さらに命じて倉粟を発して振恤させた。白溝巡検趙用が遼人が界河で漁をするのを、勝手に兵を率いて北へ渡り、その族帳を掃蕩した。遼はこのことを口実にし、たびたび辺境で暴虐を行った。神宗は使者を遣わして理由を問わせたが、孫永は趙用の罪を正して謝罪するよう請うた。返答がないうちに、遼は兵を屯させ連営互いに四十里に及んだ。孫永はうまく諭して言った、「辺境の吏が禁を冒したことは、既に獄に置きました、今何をしようというのですか」と。敵の意が解け、ただ酒食を求め軍を犒労して去った。
枢密直学士に進み、開封府知事となった。呂嘉問が言うには、吏が都人に列肆させて銭を納めさせて免役銭を免れさせようとしているという。府に下して究明を詢ねたところ、曹椽は便利であると考えた。孫永は書紙の末尾に署名しただけで、詳しく省みる暇がなかった。やがて市易抵当法が施行され、民に銭を貸して期限を設けたが、償えずに死ぬ者もいた。神宗はかなりこれを知り、呂嘉問は妄りにその名を変えて聴かせようとした。神宗は立法が未だ尽くされていないことを慮り、詔して孫永及び韓維に実情を究明させた。孫永は上奏して言った、「市算は錐刀にまで下り、人々の患苦となっています」と。御史張琥が孫永が同を棄てて異に就くことを弾劾し、罷免されて提挙中太一宮となった。
元豊年間、軍器監を判った。有司は皮革の供給が足りないことを憂え、隠匿に対する科条を厳しくし、無頼の輩が恣情をもって告発し、婦人の冠飾りに至るまで免れなかった。孫永は、人が蔵する良質のものを官に売ることを許し、残りは貸し付けることを請うた。告発訴訟が止み、国用も賄われた。太原知州として出向し、まさに出発しようとする時、神宗が時務について訪ねた。孫永は言った、「近ごろ戎器を造ることは平常の倍であり、外間では征討に事があると謂っています。兵は軽々しく用いるものではありません、不戢自焚の戒めを顧みられることを願います」と。神宗は言った、「これは不虞に備えるものであり、もし四方が安平であれば、どうして軽々しく動く道理があろうか。卿の言う通りである」と。忻・代は塩を産したが、苦悪で食用に堪えず、転運使は必ずこれを管理しようとし、盗販・闌越の罪をもって兵吏を罪にしようとした。孫永は言った、「塩は民の食であり、禁ずることはできません。兵は武備であり、欠くことはできません。ただ悪塩をもって防兵を累わせるのは、良策ではありません」と。詔してその禁を弛めた。
孫永は外は柔和で内は勁く、論議は常に公平を保ち、詭異を求めなかった。事が理に悖ることがあれば、たとえ勢いで迫られても屈しなかった。矯亢を色辞に表したことはなく、人と交わり、終身怨仇がなかった。范純仁・蘇頌は皆これを国器と称えた。
論じて曰く、宋の衰える時も、人才は尚多かった。梁燾・王巖叟は忠を尽くして上に事え、過ちある挙動があれば、知ることを言わざるはなく、或いは従い或いは違えども、隠然として虎豹山に在るの勢いがあった。ただ新州の挙(劉摯を新州に貶したこと)をもって、ここにおいて過ちとなった。故に他日紹聖の時に再び口実とされ、元祐の衆賢を皆その禍いに罹らせ、これによって再び変じて宣和・政和の奸臣となり、国は日に危うくなった。鄭雍はその守るところを易え、劉摯を激しく撃ち、波及すること三十人に及び、章惇に結んで容れられようとしたが、しかし終にはまた免れなかった。小人は反覆し、専ら自全を務めるが、竟に何の益があろうか。孫永の為人は、ほぼその中を得ていた。