王存
王存、字は正仲、潤州丹陽の人。幼くして読書を善くし、十二歳の時、親に別れて師に従い江西に赴き、五年にして初めて帰郷した。当時の学者は彫篆を尚ぶ風潮にあったが、彼は独り古文数十篇を作り、郷里の老先生はこれを見て、自ら及ばざるものと認めた。
慶暦六年、進士に及第し、嘉興主簿に任じられ、上虞令に抜擢された。豪族が人を殺害し、長らく敢えて問う者もなかったが、存が着任すると、州の役人が賄賂を受け取ったことを理由に取り調べた。豪族は他の役人を買収して事件を改変させたため、存は逆に罷免されて去った。久しくして、密州推官に任じられ、品行を修め自らを重んじ、欧陽修・呂公著・趙槩に知られた。治平年間、国子監直講として入朝し、秘書省著作佐郎に遷り、館閣校勘・集賢校理・史館検討・知太常礼院を歴任した。存は以前より王安石と親しく、安石が政権を執ると、しばしば彼を引き入れて事を論じたが、意見が合わないと、すぐに辞して赴かなかった。存は三館に歴年勤めたが、少しも節を貶めて進用を求めなかった。かつて便殿に召し出され、累次上書して時政を陳述し、それに大臣に及んだが、付和雷同することなく、皆当時の人々が言い難いことであった。
翌年、右正言・知制誥・同修国史兼判太常寺となった。圜丘において天地を合祭することは古制に非ず、『周礼』の如く北郊を親祠すべきであると論じた。官制が施行されると、神宗は人材登用に切迫し、存は熙寧以来、論事により罪を得た群臣、あるいは過失により斥けられたが、その実情は忠を納れて大過のない者たちを、その才能に応じて召し抜擢し、官使を備えるよう請うた。この言葉は神宗の意に合い、収め抜擢された者は甚だ多かった。また言上した。「赦令は上からの恩恵であるが、近年、法を議し獄を治める者は、多く赦令によって原状に戻し減刑しないよう請う。官司の謁見禁止は、本来請託を防ぐためであるが、死者を弔い病を問うことまで一切絶つのは、いずれも便宜ではない。」執政はこれを快く思わなかった。
畿内の保甲の教練を廃止する建議があった。存は言った。「今、京師の兵籍は益々削がれ、さらに保甲を廃して教練しなければ、国家の根本的な長久の計ではない。かつ先帝は艱難を憚らずに行い、既に緒に就いたものを、理由なく廃することはできない。」門下侍郎韓維が罷免されると、存は言った。「一人の正人を去らせれば、天下は失望し、忠讜の士は気を沮喪させ、讒邪の人は争って進むであろう。」また杜純が侍御史を罷められるのは不当であり、王覿が諫官を罷められるのは不当であると論じた。
四方から大辟の罪の奏讞が上がると、刑部は先例を援用して貸すよう請うたが、都省はたびたび矜恕すべき点なしとして退けた。存は言った。「これは祖宗の制度である。役所が生かそうとしているのに、朝廷が例を破って殺すことがあろうか。」また言った。「近ごろ進士の専経一科を廃し、詩賦を参じたのは、先帝が詞律を退け経術を崇めた意に失する。」黄河が北に決壊してからほぼ十年、水官は故道に戻すことを議したが、存は争って言った。「故道は既に高くなり、水性は下を趨く。徒らに財力を費やすだけで、成功は恐らくない。」ついにその工事は中止された。蔡確が詩をもって怨み誹謗したため、存と范純仁はその罪を軽くしようとしたが、確は再び新州に貶謗され、存もまた罷免され、端明殿学士として蔡州知州となった。初め、存が兵部に移ったのは、確の力によるものであった。ここに至り、確のために罷免されたが、士大夫はその怨みを減ずる能くあることを善しとした。一年余り後、資政殿学士を加えられ、揚州知州となった。揚州と潤州は一水を隔てるのみであり、故宰相の例により、歳時に家を過ぎて墓参りすることができ、賜わった銭を出して隣里に与え、また酒食を具えて父老を召し会い、親しく酬酢した。郷党はこれを美談として伝えた。
吏部尚書として召された。当時、朝廷における朋党の論が次第に盛んになり、存は哲宗に言った。「人臣の朋党は、確かに長ずるべからざるものですが、もしも察しなければ、善人にまで濫り及ぶことになります。慶暦年中、或る者は韓琦・富弼・范仲淹・欧陽修を党と指しましたが、仁宗の聖明に頼り、惑わされませんでした。今日、果たしてこの説を進める者があれば、願わくは陛下これを察せられますように。」これにより再び政事を任ずる者と反目し、大名府知府に任じられ、杭州知州に改められた。
存の性質は寛厚で、平素は恭順として、詭激な行いをせず、その守るところに至っては、確固として奪うべからざるものがあった。司馬光はかつて言った。「万馬並び馳せる中に足を駐め得る者は、その王存であろうか。」
孫固
孫固、字は和父、鄭州管城の人。幼くして志を立てた。九歳で『論語』を読み、「我れ能くこれを行う」と言った。徂徠の石介は一度会っただけで、公輔となることを期待した。進士に及第し、磁州司戸参軍に任じられた。貝州平定に従軍し、文彦博に脅従して罪を問わない道理を説き、彦博の意と合致したため、ただ首悪を誅するのみで、その余には及ばなかった。霍邑令に転じ、秘書丞に遷り、審刑詳議官となった。宰相韓琦はその賢を知り、来て会うよう諭したが、固は肯んじなかった。琦はますます彼を器重し、編修中書諸房文字に引き抜いた。
治平年間、神宗が潁王であった時、孫固は侍講を務め、皇太子となるとまた侍読となった。即位に至り、工部郎中・天章閣待制に抜擢され、通進銀臺司を管轄した。種諤が綏州を取ると、孫固は神宗が西夏を経略しようとする志を知り、事前に戒めようと上言した。「遠人を扱うには信を示すべきである。今、名もなく兵を挙げるのは得策ではない。漢の韓安国・魏相、唐の魏徴の兵論の要略を参酌し同異を校べば、是非は明らかとなろう。兵は兇器であり、妄りに動かすべからず、妄動すれば悔いあらん」。大臣らはその説を嫌い、澶州知州として出された。
還って審刑院知事となり、再び銀臺封駁を兼ね侍読を領し、少府監を判った。神宗が問うた。「王安石を宰相とすることは可否か」。答えて曰く。「安石の文行は甚だ高く、侍従献納の職に処するは可なり。宰相は自らその器量あり。安石は狷介で狭量にして容れるところ少なし。必ず賢相を求むるならば、呂公著・司馬光・韓維こそその人なり」。凡そ四度問われ、皆このように答えた。安石が国政を執り法度を改めると、孫固は数度議論して合わず、青苗法が出ると、またその不便を極言した。韓琦の上疏が至り神宗が心動かされ、孫固に謂う。「朕は熟慮したが、誠に不便である」。孫固は出て執政に語った。「上にその意あるに及びては、急ぎこれを図るべし、以て天下に福あらしむるためなり」。既にして竟に安石に従った。孫固は再び銀臺司を領した。
孔文仲が制策に対し時政に逆らい、罷免を報じられた。孫固が言う。「陛下は名を以て士を求め、士は実を以て応ず。今、反ってこれを過つは何ぞや。今、文仲の言は天下を惑わすと謂う。臣は恐らくは天下は文仲の言に惑わされず、文仲の罷免を以て惑うことを」。胡宗愈は言事に坐して追放され、蘇頌・陳薦は李定を論じて罷免された。孫固は皆、義を引いて争った。
時に僖祖を始祖と尊ぶ議があり、孫固は議して曰く。「漢の高祖は天下を得ること商・周と異なる故に、太上皇は始封と為し得ず。光武は中興し、敢えて舂陵を祖とせずして高帝を祖とす。宋が天下を持ち、万世に伝わるは太祖の功なり。その祀を替うべからず。請う、太祖を以て始祖と為し、僖祖には別に廟を立てん。禘祫の日、その祧主を奉じて東向せしめ、その尊を伸べ、いわゆる祖は孫を以て尊ばれ、孫は祖を以て屈するの意に合わしむ」。韓琦はこれを見て歎じ、「孫公のこの議は、以て不朽に足る」と言った。龍圖閣直学士を加えられ、真定府知事となった。遼人が解子平の地を盗み耕し、年久しく、吏は争って還す能わず。孫固は微かにその要領を得、折伏して愧じさせ、正しく疆地二百里を定めた。熙寧末、枢密直学士を以て開封府知事となった。元豊初、同知枢密院事となった。時に安南を征し順州を建てたが、その地は瘴癘に堪えず守れない。孫固はこれを棄てることを請い、内徙する者二万戸。
諜者が夏人がその主を幽閉したと告げると、神宗は西討しようとし、孫固は数度、挙兵は易く禍を解くは難しと述べた。神宗曰く。「夏に隙あれば取らざれば、則ち遼人の有する所と為り、失うべからず」。孫固曰く。「必ず已むを得ずば、その罪を声して薄くこれを伐ち、その地を分裂せしめ、その酋長をして自ら守らしめよ」。神宗笑って曰く。「これは真に酈生の説なり」。時に執政に、便ち直ちに河を渡るべし、留まって行くべからずと言う者あり。孫固曰く。「然らば孰か陛下のためにこれを任ずる者あらんや」。神宗曰く。「朕は既に李憲に属せり」。孫固曰く。「国を伐つは大事なり。豈に宦官をしてこれを為さしむべけんや。今、陛下李憲を任用せば、則ち士大夫孰か肯て用いられんとする者あらんや」。神宗悦ばず。他日、孫固また曰く。「今、五路より師を進むるも大帥無し。就使え成功すとも、兵必ず乱を為さん」。神宗曰く。「大帥は誠にその人を得難し」。呂公著曰く。「既にその人無ければ、曷ぞ已むに若かざる」。孫固曰く。「公著の言是なり」。初め五路より入討し、霊州に会するを議す。李憲は熙河より入り、輒ち霊州に赴かず、乃ち自ら蘭・会を開き、以て責を弭がんと欲す。孫固曰く。「兵法、期して後至する者は斬る。今、諸路皆進むるに、憲独り行かず。蘭・会を得ると雖も、罪赦すべからず」。神宗聴かず。その後、師果たして功無し。神宗曰く。「朕始め孫固の言を迂遠と為せしも、今悔ゆるも及ばず」。
趙瞻
趙瞻、字は大観。その先祖は亳州永城の人。父の剛は太子賓客となり、鳳翔の盩厔に徙った。趙瞻は進士に挙げられ、孟州司戸参軍に調され、万泉令に移った。圭田を捐てて学宮を修め、士は遠方より至った。夏県知事に改め、八監堂を作り、古の賢令長の治迹を書いて自ら監と為した。また秘書丞を以て永昌県知事となり、六堰を築いて田を灌漑し、歳毎の科斂数十万を省き、水訟皆息み、民はこれを召・杜に比した。太常博士に昇り、威州知事となった。趙瞻は威・茂が群獠と雑居し、険阻で守り難きを以て、これを合して汶川に郡を建つるに若かずとし、条分ちしてその詳を著し、『西山別録』と為した。後、熙寧中、朝廷が西南を経理するに及び、趙瞻に就いてその書を取りて考証した。
尚書屯田員外郎に遷った。英宗治平初、都官員外郎より侍御史に除された。上疏して曰く。「英断独化は、人主の至権なり。至権を審らかにする者は、当に天下の大公を以て主とし、天下の正論を以て揆うべし。是くして後に権は一と為し得るなり。若し積久の弊に至っては、陛下其れこれを思わんか。刑賞施設の失は、革むべくば則ち革むべし。号令言動の過は、止むべくば則ち止むべし。輔相はその用を頼む、宜しくその効を責むべし。台諫はその才を知る、宜しくその説を信ずべし。兵柄は宜しく諸の宦官を削ぐべく、辺議は宜しく諸の宿将に付すべし。蓋し権は矯めて為すべからず、以て天下の望に従うのみ」。英宗、善しと称した。
久しくして、詔して内侍の王昭明ら四人を陝西諸路鈐轄と為し、諸部を招撫せしむ。瞻は唐が宦者を用いて観軍容使・宣慰使等と為し、後世これを至戒と為すを以て、内侍を追還し、守臣に責成すべきなりとし、章を三たび上り、言甚だ激切なり。時に文彦博・孫沔が西夏を経略し、別に馮京を遣わして諸路を安撫す。瞻はまた京の使を罷め、専ら宿将に委ねんことを請う。夏人王官に侵入し、慶帥の孫長卿禦ぐ能わず、長卿に集賢院学士を加う。瞻言う、長卿は黜くべきにして賞すべからず、賞罰倒置すと。京東盗賊数起き、瞻は曹・濮の守臣の不才なる者を易置せんことを請う。報い未だあらず。乃ち退を求め、力めて昭明等を追還せんことを言う。英宗顔色を改め、其の言を納る。
初め、元豊中、河小呉に決し、北に注ぎて界河と為り、東に海に入る。神宗詔す、東流の故道淤高し、理回る可からず、其れ復た塞ぐこと勿れと。乃ち大呉を開きて以て北都を護る。是に至り、都水の王令図河を故道に還さんことを請う。執政に下して議す。瞻曰く、「河決して已に八年、未だ定論無し。今遽かに大役を興し、役夫三十万、木二千万を用う。臣窃かに憂う。朝廷方に使を遣わして相視す。若し東流未だ便ならずと為さば、宜しく亟に之に従うべし。若し回る可しと為さば、宜しく数歳の計と為し、以て民力を緩むべし」と。議者又た謂う、河界河に入りて北せば、則ち中国の険を失う。昔澶淵の役、河を限りと為さずんば、則ち北兵止まずと。瞻曰く、「王者は徳を恃みて険を恃まず。昔堯・舜蒲・冀に都し、周・漢咸・鎬に都し、皆年数百を歴る。河を以て外国を障ぐを聞かず。澶淵の役は、蓋し廟社の霊、章聖の徳、将相の智勇なり。故に敵帥首を授く。豈に独り河の力のみならんや」と。後使者東流便ならずと為す。水官復た請う北流を塞がんとす。瞻固く之を争う。卒に詔して役を罷む。瞻の議う所の如し。
洮・河諸族、青唐の首領の寖弱にして制す可きを以て、中国の兵威に倚りて以て之を廃せんと欲す。辺臣亟に師を興さんことを請う。瞻曰く、「不可なり。外国を御するには大信を本と為す。且つ既に爵命す。彼れ衆心を失うと雖も、王略を犯すの罪無し。何の辞を以て之を伐たん。若し其れ克たずんば、則ち兵端此より復た起こらん」と。乃ち止む。瞻又た奏して渠陽軍を廃し、以て荊湖の力を紓う。乞う西夏に詔諭して永楽の遺民を帰せしめんとす。夏人命を聴く。
五年、卒す。年七十二。太皇太后輔臣に語りて曰く、「惜しいかな、忠厚の君子なり」と。車駕親臨し、視朝を二日輟む。銀青光禄大夫を贈り、諡して「懿簡」と曰う。紹聖中、言者元祐の諸臣に傅会するを以て、贈官を追奪し、党籍に列す。
瞻著す『春秋論』二十巻、『史記牴牾論』五巻、『唐春秋』五十巻、『奏議』十巻、『文集』二十巻、『西山別録』一巻。
四子:孝諶は瀛州録事参軍、献誠は唐城令、某は蚤卒す、彦詒は太康主簿。
傅堯俞
傅堯俞、字は欽之。本は鄆州須城の人、孟州済源に徙る。十歳にして文を為す能く、及第に登るも、未だ冠せず。石介毎に之を過ぐるに、堯俞未だ嘗て在らずといふこと無し。介曰く、「君少年にして決科す。遊戯を以て娛と為さず。何ぞや」と。堯俞曰く、「性囂雑を喜ばず。他無きのみ」と。介歎息して之を奇とす。嘗て西京税院事を監す。留守の晏殊・夏竦皆曰く、「子清識雅度有り、文約にして理尽くす。卿相の才なり」と。
新息県の知県となり、累進して太常博士となった。嘉祐の末、監察御史に任ぜられた。袞国公主が李瑋に降嫁したが、家監の梁懐吉・張承照に間隙を入れられ、夫婦仲がうまくいかなくなった。仁宗は二人を外に斥けたが、間もなく再び公主の家に戻し、李瑋を衛州知州として出させた。堯俞は言った、「公主は寵愛を恃んで夫を軽んじ、陛下は李瑋を追い出して臣下を帰らせた。これは甚だ礼に悖り、四方の笑いものとなり、後世どのように諸女を教え導くことができましょうか」。
皇城の邏卒である呉清が富民が人を殺したと誣奏したが、訊問しても罪状がなく、役所は呉清の弁明を求めたが、内侍の主管者は遣わさなかった。堯俞は言った、「陛下は呉清を惜しんで、再び外の事を聞かなくなるのを恐れているのです。臣は外に付して、その是非を明らかにし賞罰を行えば、上聞に達する事柄は皆実となり、これこそ視聴を広める道です。放って問わなければ、讒言する者がほしいままに行い、民は手足を置く所がなくなり、なお治めようとしても、できるでしょうか」。内侍の李允恭・朱晦は法を曲げてその子を任用し、趙継寵は越次して天章閣を管当し、蔡世寧は内蔵を掌ったが、珠を内人に私的に示した。堯俞は、寵愛を受けた者の恩幸の過失は、漸進のうちに防ぐべきであると考え、ことごとく弾劾した。
当時国用が乏しく、利を言う者が争って富国の計を献じた。堯俞は上奏して言った、「今度支の歳用が足りないのは、確かに軽視できません。しかしその弊を救うには、陛下が自ら倹約を厳しくし、天下に率先し、農時を奪わず、商旅を害さないことです。そうすればよいのです。そうでなければ、ただ紛更を欲するだけで、行っても益なく、聚斂の徒が用いられれば、天下は危うくなります」。
仁宗は年齢が高く、皇嗣がまだ立てられていなかった。堯俞は宗室の賢者を立てて、天下の望みを慰めるよう請うた。英宗が皇子となった時、役所が供饋を欠いたが、仁宗は知らなかった。堯俞は言った、「陛下は既に宗社の重きをもって皇嗣を立てられたのですから、家人の礼をもって、皇子が朝夕左右で侍膳し、慈孝の誠を通わせるべきです。今礼遇に欠けているのは、親親を隆くし国本を重んじる道ではありません」。そこで詔して役所に供具を甚だ厚くさせた。
英宗が即位すると、殿中侍御史に転じ、起居舎人に遷った。皇太后と英宗がともに聴政した。英宗が病気になり、平癒した後、堯俞は皇太后に上書して、政務を返還するよう請うた。しばらくして、内侍の任守忠に讒間の言葉があると聞き、堯俞は皇太后に諫めて言った、「外間の物論は紛惑し、両宮の情は通じていません。臣が思うに、天下で信じうるものは、天下を人に与えることより大きくはなく、また公をもって天下を受けることより大きくはありません。まして皇帝は明睿の資質で古今に通じ、人の天下を受けられたのです。もし讒人を誅竄すれば、慈孝の声はともに隆盛となるでしょう」。そこで皇太后は政務を返還し、任守忠を追放した。堯俞は英宗に言った、「皇太后に給事した左右の人々は、その勤労を少し記録し、少し恩恵を加え、上は母后を慰め、下は反側の者を安んずべきです。かつ任守忠は既に去り、その余は問わなくてもよいでしょう」。
右司諫・同知諫院に遷った。英宗は堯俞を厚遇し、かつて雪の中で対賜し、堯俞が東廡から昇ると、英宗は身を傾けて東に向かって待ち、奏事が終わって退くたびに、多くは目で送った。かつて問うて言った、「多くの士が朝廷に満ちているが、誰が忠で誰が邪か」。堯俞は言った、「大忠と大佞は、固より動かしがたい。中人の性は、上に化せられることに懸かっています」。英宗はその言葉を納れた。
当時英宗は初めて庶政を躬行し、なお謙譲して大臣に任せていた。堯俞は言った、「大臣の言うことが正しければ、陛下がたまたま然りと思って行えばよい。その非を審らかにしたなら、それに従って曲げるならば、人主の柄はどこにあるのでしょう。願わくは君臣の間で、是は是、非は非として、面従し合わないでください。衆議を総覧し、偏ることなく、そうすれば威柄は陛下に帰します」。かつて事を論じた際、英宗は言った、「卿はどうして蔡襄のことを言わないのか」。答えて言った、「もし蔡襄に罪があれば、どうして自ら正典刑に処さず、臣の言を用いる必要がありましょうか」。英宗は言った、「台諫に言わせて、公議によって出すことを欲するのだ」。答えて言った、「もし公議に付すならば、臣は蔡襄が山陵の事を弁じて功があったのを見るだけで、その罪を見ません。臣は諫官の身であり、臣に旨を受けて事を言わせるのは、臣は敢えてできません」。
陝西から、近辺の熟戸がかなり逃散したと報告があった。詔して内侍の李若愚らを陝西四路鈐轄とし、専ら招納に当たらせ、年に一度奏事させることにした。堯俞は言った、「これは安撫使・経略使の職務です。かつ李若愚らについて、陛下がその言を信じなければ用いないのと同じであり、言えば必ず従われるならば、辺帥の権は四人に移ってしまいます」。まもなくこれを罷めた。
大臣が建言して、濮安懿王は皇考と称すべきであるとした。堯俞は言った、「これは人情・礼文のいずれにおいても、甚だ謬戾である」。侍御史の呂誨とともに十余の疏を上し、その言葉は極めて力があった。主議者は恟恟として止められないと知り、遂に「考」を「親」に改めた。堯俞はまた言った、「『親』とは、父母でなくて何でしょうか。これもまた不可です。恩義は存亡において一つであり、先帝が既に陛下を子とされた時、仮に濮王がまだ無恙であったとして、陛下は父と呼ぶことができたでしょうか」。また水害に因って言った、「宗廟を簡略にすれば、水は潤下しません。今濮王を皇考とすることは、仁宗の廟に対して、これより甚だしい簡略はありません」。
まもなく堯俞に趙瞻とともに契丹に使することを命じた。帰還する頃には、呂誨・呂大防・范純仁が皆濮議を諫めて罷免され、再び堯俞を侍御史知雑事に除した。堯俞は疏を拝して必ず罷去を求め、英宗は面と向かって留めた。堯俞は言った、「呂誨らは既に逐われ、臣の義として留まるべきではありません」。そこで再拝して辞し、英宗は愕然として言った、「これは果たして留めることができない」。遂に和州知州として出した。通判の楊洙が隙を窺って問うた、「公は直言によってここに斥けられたのに、どうして御史の時の事を一言も言及しないのか」。堯俞は言った、「前日は言職であったから、已むを得なかったのです。今日は郡守として、朝廷の美意を宣べるべきであり、かえって呫呫として前日の闕政を追言するのは、誹謗と何が異なるでしょうか」。
哲宗が即位すると、明州知事から召されて秘書少監兼侍講となり、給事中・吏部侍郎・御史中丞に抜擢された。上奏して言うには、「人材には能あるものと能なきものがあり、もし臣に闕を補い遺を拾って盛徳を輔け、善を明らかにし失を正して庶政を平らかにし、直を挙げ枉を措いて大臣を正すことをさせれば、臣は不才ながらも敢えて力を尽くさないことはありません。もし人を窺って陰私を探り、人の細故を抉ることをさせるならば、それは臣の能くするところではなく、また臣の志すところでもありません」。御史張舜民が言事により罷免されると、詔して堯俞に御史を更に挙げるよう命じたが、堯俞は詔書を封還し、舜民を留めるよう請うた。聞き入れられず、直ちに堯俞を吏部侍郎としたが、堯俞は受けず、遂に龍圖閣待制として陳州知州となった。間もなく、再び吏部侍郎・御史中丞となった。
前宰相蔡確が詩による誹謗の罪に坐し、新州に貶謫されると、宰執・侍従以下、罷免される者七、八人、御史府はこれにより空となった。堯俞は言う、「蔡確の党のうち、特に甚だしい者は固より逐うべきであるが、その他は一切これを措いておくべきである」。かつ言う、「陛下の盛徳をもってして、かえってこのことにおいて平らかでいられないのか。願わくはこれを蚊虻の耳を過ぐるが如く聞き流し、些細な忤いがあって太和の気を害することのないようにされたい。事が至れば、無心をもってこれに応ずる、これ聖人が至誠を養い遐福を御する所以である」。
水官李偉が大河を孫村から導いて故道に還すことができると議した。堯俞は言う、「河の事は雖も推し量るべからざるものあり、然れども先に使者を遣わしてこれを按じたところ、皆不便であると言った。而して李偉は又謬悠として肯えて責を任じようとしない。どうして急に大役を興すことができようか」。朝廷は遂に李偉の議を置いた。吏部尚書兼侍読に進んだ。元祐四年、中書侍郎を拝した。六年、卒す。年六十八。哲宗と太皇太后が哭臨し、太皇太后は輔臣に語って言う、「傅侍郎は清直の一節、終始変わらず、金玉の君子である。まさに相として倚ろうとしたのに、急にこのようになってしまったのか」。銀青光禄大夫を贈り、諡して「献簡」と曰う。紹聖中、元祐の党人として、贈諡を奪われ、名を党籍に著された。後に党錮が解けると、詔を下して褒贈し、その子を録した。
堯俞は重厚で言葉少なく、人に遇うに城府を設けず、人は自ら欺くに忍びなかった。君前で事を論ずるに、少しも回隠するところなく、退いて人と言うに、復た矜異の色がなかった。初め、諫官から郡に補せられた時、人々は法令に未だ安からざるものがあれば、必ず従わぬところがあるだろうと疑ったが、堯俞は一切これに遵い、「君子は其の位に素して行う。諫官には言責があるが、郡を為すには法を守ることを知るのみである」と言った。前任の徐守が公銭を侵用していたが、堯俞が至り、これを償ったが、未だ足らずして去った。後任の守が移文して堯俞に償い入れさせようとしたが、考実して堯俞の用いたものではないと判明し、終に弁明しなかった。司馬光は嘗て河南の邵雍に謂って言う、「清・直・勇の徳は、人の兼ね難きところであるが、私は欽之(傅堯俞の字)にこれを見た」。雍は言う、「欽之は清にして耀たず、直にして激せず、勇にして能く温なり、これが難きところである」。從孫:傅察、『忠義傳』に見ゆ。
論ずるに、孫存・呉固・喬瞻・傅堯俞は、初め皆王安石と善くしていたが、その政を執るに及び、嘗てその誘餌を受けず、新法を論じて終に詭随しなかった。元祐に至り正邪を区別するに、その蔡確の詩謗の罪を論ずるや已に甚だしきを恐れ、朋党の禍を啓かんとしたのは、豈に先知の明ではなかったか。他の更張する所あれば、事に随い諫めて止め、少しも循黙することがなかった。然れども矯枉過中の失いがなく、故に能く亟からず徐からず、進退道あり、元祐の諸臣の中にあって、身名ともに全うしたことは、亦た難きことであるかな。